2021年11月1日月曜日

不沈艦

およそ人間が作ったもので、空を飛ぶものはいつか落ちますし、海に浮かぶものはいつか沈みます。それが自然の摂理というものです。かつて、幸運にも激戦を生き抜いたいくつかの艦船は”不沈艦”と呼ばれました。帝国海軍駆逐艦「雪風」、英国海軍戦艦「ウォースパイト」などが有名です。ただ、結果、強運ゆえに”不沈艦”と呼ばれた艦船とは異なり、建造時から”不沈艦”と呼ばれた艦船もあります。戦艦「大和」と「武蔵」です。史上最大の戦艦であり、史上最大にして唯一の46cm砲を9門搭載していました。極秘裡に呉海軍工廠で建造され、1941年12月就役、1945年7月、鹿児島県の坊ノ岬沖で沈没しました。

第一次世界大戦が終わると、財政難を抱える列強国は、軍縮へと動きます。1922年のワシントン海軍軍縮条約に始まり、ジュネーブ、ロンドンと軍縮会議は続きますが、次第に足並みは乱れていきます。1930年のロンドン軍縮会議では、英国と対立したフランス・イタリアが離脱、米・英・日三国の協定となります。日本は、やや厳しい内容だったにも関わらず、条約を批准したことで、国際社会からの評価を得ました。また、日本の厳しい財政状況からすれば、軍縮がもたらす支出抑制効果は大きなものがありました。ただ、軍国主義化が進む国内にあって、特に軍部からの批判は大きく、統帥権干犯問題が浮上します。明治憲法では、軍の統帥権は天皇にありました。文民政府が、勝手に軍縮を進めることは、天皇の統帥権を犯すものではないか、とされたわけです。

統帥権干犯問題以降、各種テロ事件が続き、軍の発言力は高まり、満州では関東軍の暴走が始まります。つまり、政党政治は衰退、シビリアン・コントールが崩壊して、軍国主義の時代を迎えたわけです。35年、日本は軍縮会議から離脱します。36年には、ロンドン軍縮条約が失効し、軍縮の時代は完全に終わります。軍拡の時代に突入した帝国海軍は、世界最大級の戦艦の建造へと動きます。しかし、いわゆる巨艦大砲主義は、航空戦力の重要性が増すなか、既に時代遅れになりつつありました。航空戦力時代の到来を認識していた山本五十六元帥等からは、巨艦建造に対して反対意見も出されます。とは言え、1937年、大和の建造が、極秘裡に呉海軍工廠で開始されます。秘密を守るために、造船所は巨大な屋根やシュロの筵で覆われ、乾ドックを見下ろす民間人の家の窓は塞がれます。

1940年8月、大和は進水。全長263m、排水量6万4千トンという、日本の技術の粋を集めた巨艦が誕生します。大和は、ミッドウェイ海戦、ソロモン作戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に投入されています。敵砲弾を跳ね返す装甲の厚さ、敵魚雷が命中してもビクともしないなど、巨艦の優位性を証明する一方、交戦機会は少なく、戦績としては駆逐艦一隻を撃破したくらいです。交戦が少なかった理由は、艦隊司令が乗船する旗艦として後方に控えていたこと、主力戦艦として温存される傾向が強かったこと、そして戦争末期には、燃料が不足気味だったことが挙げられます。45年4月、大和は沖縄へ向けて出撃します。座礁させたうえで、主力砲で米軍を攻撃するという特攻作戦でした。ただ、これは現実性に乏しい作戦であり、参謀たちの暴走とも言われます。航空支援も乏しいなか、大和は、坊ノ岬沖で、400機近い米軍機の猛攻を受け、沈没します。まさに巨艦大砲主義が航空戦力に葬られた瞬間とも言えます。

過日、呉の大和ミュージアムに行ってきました。多くの入場者で混み合っていました。決して、一部マニア、あるいは懐古趣味的な老人だけで賑わっているのではありません。開館から16年、衰えぬ人気に驚きます。大和は、就役時から、実戦での攻撃力よりも、むしろ精神的拠り所と評価する軍人が多かったと聞きます。戦力としては、確かに時代遅れだったのかも知れませんが、その神国日本を象徴する不沈艦としての存在は、兵士や国民に勇気を与えたのでしょう。そして、その魅力は、いまだ衰えていないとも言えます。ちなみに、大和ミュージアムに来場する若い人たちは、宇宙戦艦ヤマトのモデルとして、戦艦大和を知ったということのようです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷