2021年10月31日日曜日

鬼ノ城

岡山県総社市の鬼城山に築かれた鬼ノ城へ行ってきました。鬼ノ城は、7世紀後半に築城された神籠石式山城です。山頂の周囲、約3kmに渡って巡らされた石積み、東西南北の門、6カ所の水門、鍛冶場の跡、そしていくつかの建造物の礎石が残ります。うち西門だけは、再現されています。城跡からは、吉備平野、瀬戸内海、そして四国まで一望できます。特に、四国については、屋島や讃岐富士が、まるで地続きかのように見えます。瀬戸内海、山陽道を守る要塞としては、まさにうってつけの場所にあると思いました。

古事記に記載のある吉備津彦命の吉備平定に関する有名な伝承があります。吉備津彦命は、鬼ノ城を拠点に吉備地方を荒らしていた温羅(うら)という鬼と戦います。おおよそ敵対する豪族や疫病など、王権の思うままにならないものは鬼と呼ばれます。温羅は、製鉄技術をもたらした渡来人だとする説もあります。厳しい戦いの末、吉備津彦命は温羅を討ち取りますが、首だけになっても温羅はうめき続けます。ついには地中深くに埋めますが、その後も13年間うなり声が聞こえたと言います。実際には、平定後も、敵対勢力の残党の抵抗が続いたということなのでしょう。首を埋めた場所には、吉備津神社の釜殿が建てられ、今でも、炊いた釜の発する音で吉凶占いが行われています。吉備津彦命と温羅の戦いは、後に桃太郎伝説になったと言われます。

7世紀初頭、中国を統一した唐は、朝鮮半島三国のうち高句麗を攻め、新羅を冊封体制に組み込みます。高句麗を攻めあぐねた唐は、まずは百済を下し、挟み撃ちをねらいます。百済は、唐と新羅の連合軍に敗れ、滅びます。ただ、百済の残党は、復興を目指して、新羅と戦い続けます。百済と緊密な関係にあったヤマト王権は、援軍要請を受けて、出兵します。663年、白村江で、ヤマト王権が送った4万の兵と800の船は、13万の兵を擁する唐軍と交戦、完膚無きまでに撃破されます。兵力の差も歴然ですが、百済残党内での内紛、あるいはヤマト王権側も、斉明天皇の急逝もあり、リーダー不在だったことが敗因となったようです。

唐は、668年に高句麗を滅ぼします。勢いに乗った唐の来襲を恐れたヤマト王権は、戦後交渉に始まる外交努力を重ねるとともに、築城、烽火の整備、防人の増強など、国内の防御を固めていきます。唐が、朝鮮半島から瀬戸内海を通って、畿内へ攻め込むことを想定し、対馬、太宰府、長門、屋島、そして鬼城山に、百済難民の技術を用いた城が構築されます。また、都も飛鳥から、さらに内陸の近江大津へと遷都されます。さらに、挙国一致体制を作るために、律令制による中央集権化が進められます。国名も倭国から日本へと変えています。日本という国は、外圧によって、国家としての体を成していったとも言えるのでしょう。

ただ、唐の来襲はありませんでした。後に中国で唯一の女性皇帝となった武則天の暴政、チベットの吐蕃の反乱、そして、高句麗を滅ぼしたことで、かえって東北部が不安定になったこともあり、唐は朝鮮半島から兵を引きました。唐の脅威が薄れていくなか、鬼ノ城も忘れられ、山岳信仰の修行場となっていきました。戦国の世になり、武将たちが、鬼城山に城郭を構えなかったはことは不思議な気がします。もっとも城郭建築は、1576年の安土桃山城に始まります。当時、備中に勢力を持っていた三村氏は、現在の高梁市にある備中松山城を拠点としていました。御家人から地頭になった三村氏の領地でした。そして、三村氏は、1575年、城郭建築ブームが始まる前に、毛利氏に滅ぼされています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷