2023年3月31日金曜日

数珠

星月菩提樹数珠
インドのサルナートへ行った際、星月菩提樹の数珠を買いました。サルナートは、ヴァラーナシー(ベナレス)の北に位置し、悟りをひらいた釈迦が初めて説法した初転法輪の地とされます。漢訳仏典では、鹿野苑とも呼ばれます。巨大なダメーク・ストゥーバをはじめ、4~6世紀に建てられた僧院跡が残ります。これまでまともな数珠を持ったことがありませんでした。これからは使う機会も増えるだろうと思い、仏教の聖地を訪れた記念に買ったわけです。釈迦は菩提樹の木の下で悟りを開いたとされます。その菩提樹は、挿し木で生き延び、現在、ブッダガヤの大菩提寺に植えられているようです。もちろん、その菩提樹から作ったわけではありませんが、星月菩提樹の数珠は功徳が高いとされます。

数珠の起源は諸説あるようですが、3500年以上前のバラモン教の聖典に「連珠」という記載があるようです。ヒンドゥー教では、祈りの回数を数えるために使われていたとも言われます。仏教における数珠は、いくつかの経典に記載があるようですが、なかでも「木槵子経」がよく知られています。釈迦が波瑠璃王に対して、木槵子(ムクロジ)の実108個で数珠を作り、仏・法・僧を称える毎に珠を繰り、それを百万遍繰り返せば、煩悩を滅し、涅槃に到ると説いたとされます。仏教においても、数珠は祈りの回数を数えるという性格を持っていたわけです。カソリックにおけるロザリオも、同様にカウンターとしての性格を持つようです。カウンターは、次第に読経の代替効果も持つようになっていきます。

日本には、6世紀、仏教が伝わると同時に数珠も持ち込まれたようです。当初、仏教は、鎮護国家を目的とする宗教だったため、数珠は、貴族と僧侶だけが持つ特殊な法具でした。貴重なものでもあったようで、現に、正倉院にもいくつかの数珠が御物として納められています。平安末期から鎌倉期、宗教改革の時代を迎えると、いわゆる鎌倉新仏教が民衆の間に広がり、信徒たちも数珠を使うようになります。江戸期になり、幕府が社会管理体制に寺院を組み込むと、仏教の地位は上がりますが、一方で形式化も進みます。数珠も一般化し、形式的な仏具になっていきます。それまで売買の対象ではなかった数珠は、元禄期に至り、一般的に販売されるようになったようです。

形式的になったとは言え、仏事における数珠は読経の代替であることに変わりありません。我々の年代は、仏事と言えば、数珠を持っていきますが、若い人たちは気にもしていません。廃れていく文化の一つなのだろうと思っていました。ところが、20年くらい前から、数珠を手首に巻いている若い人が目につき始めました。後輩の一人が、数珠を付けていたので、思い切って、それは何かの宗教なのか、と聞いてみました。これは、数珠ではなく、パワー・ストーンですとの回答。パワー・ストーンは、大ブームとなり、二重三重に手首に巻いている人も多く見かけました。水晶はじめ石には不思議な力があると信じる人々は、古くから存在していたわけですが、手首に巻くというところが新しかったのでしょう。

宗派によっても異なりますが、僧侶が読経の際、数珠を摺り合わせて鳴らすことがあります。これには祈願の意味があるようです。より強く願うことを直接的に表わしているのでしょう。室町期に成立した能・狂言では、悪霊調伏のために、山伏が数珠を摺って鳴らすシーンが出てきます。これも、悪霊を退治してください、と仏に願っているということなのでしょう。数珠を鳴らすことは、密教由来とされます。数珠の姿は、宗派によっても異なりますが、天台宗では平玉の数珠を使います。平玉は、摺り合わせた際、より大きな音が出ると聞きます。能で山伏が悪霊調伏する際に使うのは刺高数珠と呼ばれる平玉の数珠です。修験道と密教の関係の深さを感じさせます。(写真出典:yasuda-nenju.jp)

2023年3月30日木曜日

ガールズ・グループ

BLACKPINK
TV朝日の「関ジャム・完全燃SHOW」は、結構、面白いTV番組です。プロのミュージシャンや作曲家等が、かなり専門的な視点からポップのミュージシャンや曲を分析します。専門的に過ぎて、たまについて行けないこともありますが、おおむね素人にも分かりやすくテクニカルな解説をしています。あまり国内のポップ音楽を聴かない私でも、テクニカルな解説は楽しめます。過日、「韓国発ガールズ・グループ特集」が放送され、その分析が興味をひきました。その進化の歴史が語られ、その強さの背景として、4大事務所による厳しいレッスン、コライトによる多彩な楽曲制作、ファンの組織化、徹底的なネット活用、オーディション番組の活用、チャート重視の姿勢などが挙げられていました。

ガールズ・グループの歴史は、かなり古く、1920年代から存在したようです。当初は色物的扱いだったようですが、ほどなくヒット・チャートの常連になっていきます。ガールズ・グループを一つのジャンルにまで押し上げたのは、1961年に"Will You Love Me Tomorrow"を大ヒットさせたシュレルズだとされます。ちなみに、この曲は、ジェリー・ゴフィンとキャロル・キング夫妻の作品です。以降、ガールズ・グループが乱立しますが、時代を大きく変えたのがスプリームスです。いまだ破られることのない多くの記録をうち立てたダイアナ・ロスとスプリームスは、モータウンの女王でした。ただ、売上では、90年代に登場するスパイス・ガールズとTLCが記録を塗り替えています。

日本のガールズ・グループの歴史は、ザ・ピーナッツを別格とすれば、ピンク・レディーやキャンディーズに始まるのでしょう。そして、ゲーム・チェンジャーとなったのがおニャン子クラブやモーニング娘だったと思われます。ここでアイドルの形が変わり、オーディンションから始まる流れ、あるいはマスゲーム・ダンスが生まれます。そしてAKB48から、ファンの組織化という新たな動きが加わります。ただ、恐らくSPEEDの存在を忘れるべきではないのでしょう。鎖国状態を続ける日本のポップ音楽界にあって、ガールズ・グループは、多少なりともアジア各国に影響を与えました。なかでも、ダンスを重視したSPEEDの成功は、後の韓国ガールズ・グループのロール・モデルになったのではないでしょうか。

日本の音楽界をはるかに超える韓国ガールズ・グループの成功ポイントは、”完全燃SHOW”でプロが指摘したとおりなのでしょうが、その背景には2つの大きな要因があると思われます。一つは、コンテンツ輸出の国家プロジェクト化と規制緩和、そして、それに基づく徹底的なマーケティングの展開と裾野の広い産業化です。1997年、アジア通貨危機の際、介入したIMFは、韓国政府にコンテンツ輸出政策を求めます。映画「パラサイト」がアカデミー作品賞を獲得し、BTSやBLACKPINKが世界市場を席巻するに至った起点はここにあります。マーケティングに関しては、ネット活用はじめ様々な手法が見事ですが、何よりもターゲットを世界、特にアメリカに定めた点が成功の鍵だったと思います。それによって、音楽は、楽曲に留まらない巨大なビジネスとして成立することになります。

例えて言えば、韓国の音楽界は国際的に活動する巨大メーカーであり、日本のそれは家内手工業といった風情です。当然、巨大メーカーは、数年先のビジネスを企画し、その準備に余念がありません。音楽は不確実性の高いビジネスです。時代や聴衆の変化に左右されるからです。日本の音楽界は、ミュージシャン個人の感性に負うところが大きいわけですが、韓国では、ビジネスとしてのメカニズムが、時代の先を読み、あるいは時代を仕掛けていくことになります。恐らく、韓国では、成功したビジネス・モデルとしてのガールズ・グループの次の形が準備されており、さらにはガールズ・グループの先のビジネスが仕込段階に入っているものと考えられます。もちろん、産業化された音楽がすべてだとはまったく思いません。音楽は多様なものであるべきです。ただし、ビジネスとしての韓国音楽界の成功は、賞賛に値すると思います。(写真出典:iflyer.tv)

2023年3月26日日曜日

いけず石

バルセロナは、碁盤の目のように区画された町並みで有名です。各ブロックは、同じ広さの正方形になっており、同じ高さの建物が道路沿いの四方に並び、中央部は開けた空間になっています。日当たりと風通しを考慮した設計になっているわけです。バルセロナは古い街ですが、大きな街ではありませんでした。産業革命とともに、木綿の製造が盛んになり、大量の労働者が流入します。そこで、19世紀中葉、労働者の住宅確保のために大拡張計画が実行され、現在の町並みが出来あがっています。正確に言えば、各ブロックは、正方形ではなく、角が削られた八角形になっています。何故、そうなっているのか聞くと、馬車が四つ角を曲がりやすくしたからなのだそうです。 その話は、京都の”いけず石”を思い出させました。

京都も、碁盤の目に区画整理された計画都市ですが、住宅街の四つ角に大きな石が置かれているのを見ることがあります。はじめは、鬼門除けなのかと思いました。京都の古い建物の塀は、鬼門除けとして北東の角が凹ませてあります。ただ、石は、必ずしも鬼門に置かれているばかりではありませんでした。聞けば、この石は車除けだと言うのです。つまり京都の狭い路地では、車が角を曲がる際に、家屋や塀にぶつかることがままあり、その対策として置かれているというのです。車を運転する側から言えば、気になる邪魔な石です。ということは、運転も慎重になりますから、衝突対策としての効果はあるのでしょう。邪魔になることから、意地悪な石、つまり”いけず石”と呼ばれているのだそうです。

京都の人は、いけずだと言われます。訪問先で「ぶぶ漬け、どうどす?」と聞かれたら、「早く帰れ」という意味だとされます。落語には、「えらいすんまへんなあ」と言って、本当にぶぶ漬けを食べた大阪人が、思いっきり嫌がられるという噺もあります。また、早く帰って欲しい時には、客の手が届かないところにお茶を置く、という話も有名です。京都人に言わせると、これらは、相手を気遣って、直接的な表現を避ける京の文化なのだそうです。ただ、その気遣いは、京都以外の人には分かりにくく、いけずな人たちと思われるわけです。もちろん、京都人以外を田舎者と見下すプライドの高さも含まれていると思われます。いけず石にも、京都風の理屈があります。

車が家にぶつかれば、お互いに嫌な思いもするし、出費もかさむので、それを気遣っていけず石を置くというわけです。身勝手な防御だけではないと言いたいのでしょう。また、一方では、世間体を気にする京都人という見方もあります。車が家にぶつかると、警察は来るわ、工事も行われるわ、その費用負担でもめるわ、と大騒ぎになります。それは間違いなく、ご近所に、はしたなく大騒ぎした家という評判が立つことになります。京都人は、何よりもそれを嫌がると言われます。客に大声で「早く帰れ」と言うのもはしたない行為です。要するに、京都特有の相手を気遣う婉曲的表現なるものの背景には、はしたないと噂されることを恐れる心情があるとも言えるのでしょう。

いけず石は、明治期から広まった風習だと言われますが、その起源は古く、平安時代には、牛車や荷車の衝突対策として存在していたようです。碁盤の目状の街区では、車が、四つ角の建屋へ衝突する事故は避けがたいリスクです。ただ、交通量の多少が、平安京とバルセロナの対策の違いに現れているのでしょう。いわばガードレールであるいけず石は、平安京の人々の見事な発明だと思います。ただ、それは石である必要があるのか、という疑問もあります。確実に車が壊れる石よりも、警告的に板や杭を建てるだけでも良かったのではないかと思います。このあたり、どうも京都人のいけずさがにじんでいるようにも思います。いけず石に関する最大の発明は、それを互いを気遣う気持ちの現れだと言い切る京都人の理屈だったようにも思います。(写真出典:samuraitax.com)

2023年3月24日金曜日

白村江

その後の歴史を大きく変えた戦いというものがあります。いわば歴史の分水嶺です。日本では、太平洋戦争、戊辰戦争、関ヶ原の戦い、応仁の乱、源平合戦等があげられると思います。なかでも応仁の乱は、まさに歴史の分水嶺でした。戦前、京大の華とまで言われた東洋学の内藤湖南は、応仁の乱以前の歴史は学ぶ必要がない、応仁の乱以降の歴史は、我々の身体骨肉に直接触れた歴史である、とまで言っています。実は、白村江の戦いも、日本国を誕生させたという意味において、応仁の乱と同じくらい大きな分水嶺だったと思います。朝鮮半島の白村江で、唐・新羅に大敗した倭国は、唐の本土来襲を恐れます。部族社会だった倭国は、防衛強化のために中央集権化を図り、律令、都、防衛拠点等を整備、国名も日本と定めます。

4~7世紀の朝鮮半島は、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していました。7世紀前半、国内を統一した唐は、高句麗を攻めますが、難航します。一方、高句麗・百済は、連携して新羅に圧力をかけます。新羅は唐に援軍を求めます。高句麗を手に入れたい唐は、新羅と組んで、まずは百済を攻めます。結果、百済は滅亡し、高句麗は唐の支配下に、半島は新羅によって統一されます。百済滅亡時、百済の太子・豊璋は、人質として日本にいました。百済の残党を率いる将軍・鬼室福信は、ヤマト王権に、太子の返還と援軍を求めます。斉明天皇と中大兄皇子は、要請を受け入れ、半島への派兵を決めます。順調に戦いを進めた百済・倭軍でしたが、663年の白村江の戦いで、唐・新羅軍に大敗し、百済再興は成りませんでした。

百済・倭軍の敗因については、いくつかの要因が挙げられています。まずは、百済王となった豊璋が、意見の相違から鬼室福信を処刑したことで、軍が統制を失ったことが挙げられます。また、それによって百済・倭軍の進軍に遅れが生じ、倭の水軍800隻が百済の入り口・白村江に到着した際、既に唐の水軍170隻が待ち受けていました。船数に勝る倭の水軍でしたが、五月雨式に突撃を繰り返した結果、400隻を失う大敗を喫します。この戦術的無策も敗因とされます。仮に白村江の戦いを制したとしても、新羅・唐軍18万人に対して、倭の軍勢は42,000人であり、百済再興は難しかったと思われます。とすれば、白村江の戦いにおける最大の謎は、なぜヤマト王権は派兵したのかという点になると思われます。

紀元前から交流のあったとされる日本と朝鮮半島ですが、4世紀末から5世紀にかけては、ヤマト王権が、半島南部の伽耶・任那を支配下に置き、百済・新羅をも攻めます。百済は、ヤマト王権と国交を結びますが、新羅とは、以降、争いが絶えませんでした。6世紀前半、任那は新羅に占領され、ヤマト王権は、半島における権益を失います。以降も、ヤマト王権は、折に触れて、任那奪還のための兵を出しています。ヤマト王権は、製鉄をもって倭の部族社会を征したとも言われます。半島は砂鉄を産していました。その砂鉄を確保することは、王権にとって極めて重要だったのでしょう。百済再興に際して、中大兄皇子が行った判断も、その延長線上にあったものと考えられます。

また、唐との緩衝や入唐ルートとして百済を重視したという説もあります。また、百済を滅ぼした唐軍は、一旦、撤収しますが、その間隙を突こうとしたという説もあります。いずれにしても、敵は大唐であり、派兵は無謀な判断と言えます。注目すべき説として、中央集権化を進めたい中大兄皇子が、各地の豪族、特に九州の豪族たちを、勝ち目のない戦いに巻き込み、一掃しようとしたのではないか、というものがあります。蘇我一族を打ち、大化の改新を断行した中大兄皇子の政治センスと肝の太さを考えれば、頷ける話です。白村江の戦い以降の中央集権化は、唐との戦後交渉や捕虜交換、遣唐使の再開等といった外交と同時に行われています。迅速な諸政策の展開を見れば、納得性が高い説とも考えられます。その発想は、時空を超えて、豊臣秀吉、西郷隆盛ともつながっているようにも思えます。(写真出典:4travel.jp)

2023年3月22日水曜日

琉球歌劇

毎年、三宅坂の国立劇場で行われる琉球芸能公演で、初めて琉球歌劇を観ました。琉球歌劇は、方言台詞劇とともに沖縄芝居と呼ばれます。沖縄芝居は、琉球処分によって生み出された大衆芸能です。明治政府は、1872年に琉球王国を琉球藩とし、1879年には沖縄県とする琉球処分を行います。王宮に仕えていた人々は職を失うことになります。そのなかに、中国からの冊封使を”御冠船踊”でもてなしていた人々もいました。王宮が独占していた御座楽、組踊、端踊が市中に開放されたわけです。観客が大衆に変わったことで、端踊からは雑踊、組踊からは沖縄芝居が生まれます。組踊の歌と踊りは歌劇に受け継がれ、当時、本土で流行した壮士劇等の影響をうけて方言台詞劇が始まります。

1880年代早々には、組踊を演じる粗末なむしろ掛けの小屋が登場していたようですが、1891年に、常設劇場としての仲毛演芸場が開場されます。以降、次々と常設小屋が誕生し、そこで沖縄芝居が生まれていったようです。不思議なことに、歌劇よりも方言台詞芝居の方が先にブレイクしたようです。その背景には、1896年に初めて沖縄で公演された壮士芝居が大人気だったことがあるようです。その影響を受け、より写実的で、ウチナーグチで演じられる方言台詞芝居が急速に広がっっていきます。演目は、とっつきやすい時代劇が多かったようです。一方、歌劇は、1900年以降、一幕物として登場し、次第に長尺化していきます。伴奏者ではなく演者自身が歌うように変えたことが人気を集めた要因だったようです。

当時作られ、今でも人気を集める三大歌劇というものがあるようです。身分違いの悲恋を描く「泊阿嘉」、妻子ある男にだまされた女の怨念を描く「伊江島ハンドー小」、身分違いの男との間に子を設けた女が身をひく「奥山の牡丹」です。いずれも女性が主人公の悲劇です。やはり女性を中心に人気を集めたようです。封建的だった時代の女性の地位を反映しているのでしょう。ただ、沖縄俗謡の「19の春」も同じですが、琉球の歴史と現状を悲劇的な女性になぞらえているような面もあるように思えます。この3曲に、今回観た「薬師堂」を加えて、四大歌劇とする場合もあるようです。ただ、身分違いの恋を描く「薬師堂」は、男の立身出世によってハッピーエンドを迎えます。

歌劇は、情感あふれる場面、滑稽な芝居と、テンポ良く展開されます。ウチナーグチの歌と台詞が、実に小気味よいのですが、字幕なしではほぼ理解できません。沖縄の言葉は、本土と同じ日琉語族に属します。定義如何ではありすが、沖縄の言葉は方言ということになります。ちなみに、日本の言語としては、日琉語族以外に、独立した言語としてのアイヌ語があります。戦前の軍国主義の時代、沖縄でも皇民化運動とともに方言撲滅運動が展開されます。ウチナーグチが否定されることで、沖縄芝居も弾圧されます。戦後、アメリカが軍政を敷くと、沖縄芝居は沖縄独自の文化として奨励されることになりました。恐らく、日本本土との関係を断ち切り、統治を進めやすくするための文化政策だったのでしょう。

組踊や端踊は、中国からの冊封使をもてなすために演じられたと言われるわけですが、素朴な疑問として、薩摩の役人に対しても同じことが行われたのかということが気になります。どうやら、組踊に替えて「唐躍」が演じられていたようです。現在では、ほぼ消滅した唐躍は、中国劇を琉球風にしたもので、中国語で演じられたと聞きます。うがった見方かも知れませんが、薩摩に対して、中国との関係を見せつけ、牽制することが目的だったのではないでしょうか。一方で、中国の冊封使に対しては、日本との関係の深さを強調するために組踊を見せていたと思われます。独立した王国でありながら、薩摩の実効支配を受け、中国にもに対しても冊封関係を維持するという琉球王朝の微妙な立場を反映しているように思います。(写真出典:ntj.jac.go.jp)

2023年3月20日月曜日

ロール・キャベツ

新宿駅の一日当たりの乗降客数は、350万人を超えており、ギネス・ブックでも世界一と認定されているそうです。新宿区の飲食店数は、かつてより減っているようですが、それでも5,500店を超え、老舗から新店、世界各国の料理店がしのぎを削っています。私が好きな店も多くあります。にもかかわらず、新宿に行った際にランチを食べるのは、ごく数店に限られます。なかでも多く行っていたは2店。一つは、紀伊国屋の地下にあったシャバシャバ・カレーで有名な”モン・カフェ”ですが、昨年、西口の高層ビル街に移転し、行く気を失いました。今ひとつは、アルタ裏の”アカシア”です。1963年創業という老舗洋食屋です。

アカシアと言えば、なんと言っても”ロールキャベツ・シチュー”です。私は、ロールキャベツ2貫とごはんのセット、通称”ロールキャベツごはん”しか注文しません。合い挽きとタマネギというシンプルなタネに、柔らかいキャベツはしっかり巻かれ、そのバランスは王道と言えます。これをじっくりチキン・スープで煮込んであります。そのスープに炒めた小麦粉を加えたと思われるシチューは、ちょっと昔風で懐かしさを感じます。ハウス食品がシチューミックスを発売したのが1966年だったそうです。それ以降、日本のシチューの味はハウスの味になります。アカシアのシチューは、ハウスのルー以前に家庭で作られていたシチューの味がします。これが、白いごはんに良く合うのです。要はお袋の味というわけです。

かつて六本木に”ダブル・アックス”というギリシャ料理店がありました。ショータイムに、客が皿を床に叩きつけて割り、その上でダンサーが踊るというパフォーマンスが人気の店でした。ギリシャ料理と言えば、ムサカやタラモサラタですが、ぶどうの葉で肉や米を包んで蒸したドルマも定番です。これがロール・キャベツの起源となった料理ですと、店員から聞きました。葉っぱで包むスタイルの料理は、世界中にありそうな気がしますが、文献上は、ササン朝ペルシアの記録に初登場しているようです。肉と米を包む料理は、オスマン・トルコ発祥で、その後、ヨーロッパ各地に広がっていったようです。ぶどうが育たない東部、北部ヨーロッパにも伝わり、ロール・キャベツに変わっていったのでしょう。

アカシアにほど近いところに、人気のロシア料理店”スンガリー新宿三丁目店”があります。ロシアとジョージア料理を出しますが、とても美味しい店です。その定番料理の一つがウクライナ風ロール・キャベツ”ゴルブッツィ”です。トマトをベースにサワー・クリームも入ったソースが特徴的です。ロール・キャベツとボルシチはウクライナ発祥の料理だと聞いたのは、この店だったように思います。ことの真偽ははっきりしませんが、トルコとの近さで言えば、ロール・キャベツのウクライナ発祥説はあり得ます。ちなみに、2022年、ウクライナのボルシチは、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。ロシアによるウクライナ侵攻以前から申請されていたようですが、戦乱を機に登録が急がれたようです。もちろん、ロシアは猛反発しています。

かつてアカシアでは、昔を懐かしむ老人客が多かったように思います。おそらく新宿が学生運動の街だった頃に通っていた人たちなのでしょう。紀伊国屋地下にあったモン・カフェも同じような老人客をよく見かけました。ただ、最近のアカシアには、若い客も多く見かけ、皆、ロール・キャベツを食べています。美味しいものは継承されていくというわけです。もし、味の東京遺産のような制度があるとすれば、寿司・蕎麦・天ぷら等と並んで、アカシアのロール・キャベツも登録されて当然だと思います。(写真出典:restaurant-acacia.com)

2023年3月17日金曜日

四季・夏

セリーヌ・シアマ監督の2019年作品「燃える女の肖像」を、Amazon Primeで観ました。公開時、同性ラブ・ロマンスの傑作として、世界中の映画祭で高く評価された作品です。18世紀フランスの孤島に立つ貴族の館が舞台となっています。よく練り上げられた脚本は、カンヌで脚本賞を獲得しています。多くの撮影賞を獲得した撮影監督クレア・マトンの映像は、絵コンテに基づき、しっかりと構成され、時に絵画的でもあります。とりわけライティングが素晴らしく、印象に残りました。かなり忠実に18世紀の生活を再現しているのですが、決して博物館的ではなく、むしろ現代的なリアリティを感じさせます。女優のメイクや髪形が自然だからかも知れません。

しかし、最も強く印象に残ったのは、ヴィヴァルディの四季・夏の第3楽章「夏の嵐」です。いわゆる劇伴のない映画ですが、重要なモティーフとしてヴィヴァルディが使われています。ただ、しっかりと曲が流れるのは、ラスト・シーンだけです。ラスト・シーンは、劇場で、圧倒的とも言える演奏を聴く主人公の表情の変化だけが映し出されます。セリフも動きもないにも関わらず、映画の主題が数分間に凝縮されたドラマティックなラスト・シーンです。名場面として映画史に残るのではないでしょうか。セリーヌ・シアマ監督は、全体的に穏やかで抑制的にドラマを展開することで、このラストをより印象的に仕上げています。このラスト・シーンを撮るためだけに映画を製作したのではないか、と思わせるほどです。

主人公を演じる二人の女優のうち、アデル・エネルは、プライベートにおいて、セリーヌ・シアマ監督のパートナーだったことが知られています。二人は、この映画がクランク・インする前に、円満に別れたと伝えらます。監督と女優の想いが、このラスト・シーンには込められているのかもしれません。また、この映画には、男性が真に理解することは難しいのかも知れないと思われるモティーフや表情が、いくつかありました。それが、この映画の深さにつながっている面もあるのでしょう。2020年、セザール賞において、ロマン・ポランスキーが監督賞を受賞します。授賞式に参加していたシアマ監督と二人の主演女優は、かつて少女への強姦罪で有罪とされたポランスキーの受賞に抗議の声をあげ、退場しています。

監督は、パリ郊外で、裕福なイタリア系家族のもとに生まれています。映画には、いくつかイタリアに関係するモティーフが登場します。それらは、すべてラスト・シーンのヴィヴァルディへとつながる伏線のようにも思えます。ヴィヴァルディは、17~18世紀に活躍したヴェネツイアの音楽家です。10歳にしてサンマルコ大聖堂のオーケストラにヴァイオリニストとして採用されるなど神童ぶりを発揮していたようです。彼の作った曲は、親しみやすさがあるせいか、欧州で大人気となりますが、忘れられるのも早かったようです。死後、しばらく埋もれた存在となっていましたが、20世紀に入り、楽譜が発見されたこともあって、再び注目されます。世界中に知られるようになったのは、1950年代以降だったようです。

イタリアのイ・ムジチ合奏団が、1959年にリリースした「四季」は、歴史的大ヒットとなり、バロック・ブーム、ヴィヴァルディ・ブームを巻き起こしたとされます。いまや四季を知らない人はいないようにも思いますが、恐らくは春の第1楽章に限ってのことだと思います。最もヴィヴァルディらしさを感じさせるのは、夏の第3楽章だと思います。ヴィヴァルディは600の曲を作曲したのではなく、一つの曲を600回演奏しただけだ、という悪口があります。確かに曲想にさほど多様性があるようには思いませんが、もし、その1曲は何か、と聞かれたら、夏の第3楽章だと答えてもいいように思います。(写真出典:gaga.ne.jp)

2023年3月13日月曜日

牡丹灯籠

「四谷怪談」、「皿屋敷」、「牡丹灯籠」は、日本三大怪談と呼ばれます。お岩さんの「四谷怪談」は、1825年に初演された鶴屋南北の「東海道四谷怪談」が有名ですが、その100年も前からよく知られた噂話だったようです。お菊さんの「皿屋敷」は、播州皿屋敷と番町皿屋敷が有名ですが、18世紀初頭から各地で広まった話を元に、歌舞伎や浄瑠璃として上演されたようです。姫路城内には、お菊さんが身投げしたとされる井戸も残っています。一方、お露の「牡丹灯籠」は、不世出の大落語家と言われる三遊亭圓朝が、江戸末期に創作した落語です。明代の怪奇小説「剪灯新話」を底本として17世紀に出版された浅井了意の「御伽婢子」に、江戸の奇っ怪な噂などを加味して、創作されたと言われます。

圓朝の「牡丹灯籠」は全22章、全巻を通しで演じれば、30時間は下らないという壮大なドラマです。近年、”通し”と称して演じられているのは、5~6時間に短縮されたバージョンです。一般的に怪談「牡丹灯籠」として知られる話は、お露・新三郎が登場するごく一部分だけを、短めの噺にまとめたものです。浪人・新三郎と旗本の娘・露は、互いに惹かれますが、内気な新三郎は、お露に会いに行けません。新三郎は、お露が恋煩いで死んだと聞かされます。ところが、夜ごと、侍女のお米を従え、お露は新三郎を訪ね、逢瀬を重ねます。お露が亡霊だと分かると、新三郎は、和尚からもらった魔除け札を家に貼り付けます。家に入れなくなったお露は、新三郎の店子の伴蔵に金を渡し、御札を外させます。翌朝、気になった伴蔵が、新三郎の家に行くと・・・。

元ネタとなった「剪灯新話」の「牡丹燈記」は、現在の寧波が舞台です。妻を亡くした喬生は、牡丹飾りの灯籠に照らされて歩く娘に惹かれます。喬生は、湖西に住むというその娘と近づきになり、娘は、伴をつれて喬生の家に通うようになります。喬生の家の話し声を訝った隣家の老人は、喬生が骸骨と抱き合う姿を見ます。それを告げられた喬生は、湖西へ行き、寺で娘のものと思しき棺桶を見つけます。怯えた喬生は、法師から朱符をもらい、家に貼り付けます。すると娘は現れなくなります。ひと月ばかり後、酒に酔った喬生は、うっかり湖西の寺の前を通ります。すると娘の伴の少女が現れ、喬生を寺に連れ込みます。そこには娘が待っており、薄情なお方、もう帰しませんよ、と言って棺桶のなかに喬生を引きずり込みます。以来、雨の夜に伴を連れて散歩する二人の姿が見かけられるようになります。

話は、その後の悪霊退治へと続きます。上田秋成の「雨月物語」(1776)も、「剪灯新話」を下敷きにした話が多いと聞きます。代表的なエピソードである「蛇性の婬」などは、まさに「牡丹燈記」が底本と言えます。溝口健二監督がヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を獲得した「雨月物語」(1953)も、「蛇性の婬」と「浅茅の宿」を組み合わせたものでした。日本で人気の怪談と言えば、恨みを抱いて死んだ女性の霊が主役と相場が決まっています。「牡丹灯籠」や「蛇性の婬」などは、極めて珍しいパターンだと思いますが、それもそのはず、舶来品だったわけです。娘盛りで亡くなった「牡丹燈記」の娘・麗卿はこの世への未練が残り、お露は新三郎への未練が残ります。未練も恨み同様ややこしいものです。

牡丹灯籠に関しては、気になることがあります。有名な「カラン、コロンと闇夜に響く下駄の音」という一節は、お露が新三郎の家を訪ねてくるくだりのものです。その際、お露を先導するお米が提げているのが、縮緬細工の牡丹芍薬などをあしらった燈籠、つまり牡丹灯籠というわけです。その当時、女性用として流行ったものだそうです。灯籠と言えば神棚か庭など屋外に据え付けてあるものであり、室内の灯りは行灯、夜道を行く際に提げる灯りは提灯と言います。牡丹灯籠は、手提げですから、牡丹提灯と言うべきところではないかと思うわけです。提灯とは、読んで字のごとく、手に提げる灯りという意味ですが、同時に折りたためる灯りの総称でもあったのでしょう。牡丹をあしらった灯りは、折りたためないので灯籠と言ったのではないでしょうか。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年3月11日土曜日

Gentle on My Mind

John Hartford
1966年にジョン・ハートフォードが作曲し、翌年、グレン・キャンベルが歌って世界的大ヒットとなった「Gentle on My Mind」は、20世紀を代表する名曲の一つです。グラミー賞はじめ、多くの賞を総なめにしました。2001年までのデータですが、ラジオで最も多く放送された曲としては、ビートルズの「Yesterday」に次いで第2位となっています。切なさ、優しさ、懐かしさが絶妙に入り交じるカントリー&ウェスタンの名曲です。カントリーの曲には、自己憐憫の要素が多く、この曲なども代表格です。愛する女性を置いて旅に出た南部男が、彼女を恋しく思いながら歌う、といった内容です。男が旅に出た理由が語られることはありません。そんなに彼女が恋しいのなら、旅に出るなよ、と言いたくなります。

グレン・キャンベルは、同じ年にリリースした名曲「By the Time I Get to Phoenix」も大ヒットさせ、その年のグラミー賞をダブル受賞するという快挙を成し遂げています。早朝にだまって女性のもとを去る男の移動距離、そして突然恋人に去られた女性の一日の時間経過を重ねた傑作です。Gentle on My Mindと同じく、置き去りにした女性を愛しく気遣う男の心情が歌われています。ここでも、旅に出る理由が語られることはありません。南部男は、何かに呼ばれたかのように放浪の旅に出ます。その理由は、移民の国だから、カウボーイの遺伝子があるから、南北戦争に敗れた貧しい南部だから、アメリカは広い国だから、等々と考えられますが、はっきりしません。いずれにしても、どこか現実逃避的な色合いがあります。それが自己憐憫にもつながっているのでしょう。

カントリーとブルー・グラスの歌手で、バンジョーとフィドルの名手としても知られるジョン・ハートフォードは、素朴な歌い口、あるいは控えめで田舎くさい性格もあって、皆に愛されたミュージシャンでした。名曲Gentle on My Mindを作曲しながら、グレン・キャンベルの影になる傾向があったことも、愛された理由の一つかも知れません。グレン・キャンベルのGentle on My Mindは、なめらかな美声で、感情豊かに歌われます。一方、ジョン・ハートフォードは、バンジョーと砂をまいたベニヤ板の上でのタップというブルー・グラス・スタイルで、素朴に淡々と歌います。いずれも素晴らしいのですが、ジョン・ハートフォードの歌声は、女性への思いだけではなく、南部の空気感や生活感といったものまで感じさせます。

映画「ドクトル・ジバゴ」を観てインスピレーションを得たジョン・ハートフォードは、直後、わずか2~30分でGentle on My Mindを書き上げたと言います。名曲の誕生というのは、得てしてそんなものなのでしょう。巨匠デヴィッド・リーン監督の「ドクトル・ジバゴ」は、1965年末に公開されています。ノーベル文学賞も受賞したボリス・パステルナークの原作は、ロシア革命の混乱に翻弄される恋人たちの生涯を描いています。映画も3時間を超える大作でした。モーリス・ジャール作曲になるドラマチックな「ララのテーマ」も大ヒットしました。しかし、いかにもロシアらしく重々しいドクトル・ジバゴと南部の空気感漂うGentle on My Mindでは、あまりにも違いが大きく、インスパイアされたと言ってもピンと来ません。

Gentle on My Mindには、セントルイスで育ち、ミシシッピ川をこよなく愛したジョン・ハートフォードの記憶のなかの光景、あるいは失われつつある南部の風情が歌い込まれています。旅に出た南部男が女性を恋しく思う歌ですが、実は、本当に恋しかったのは、女性以上に、心にやさしく残る南部の情景だったのかも知れません。ドクトル・ジバゴは、ロシアそのもの描いているとも言え、かつ腹違いの兄がユーリ・ジバゴを回想するという形をとっています。回想が持つ優しさと甘酸っぱさが、ジョン・ハートフォードを刺激し、南部を懐かしむ歌を書かせたのかもしれません。かつての南部の情景がいつも心にあったからこそ、瞬時にこの名曲を書き上げることが可能だったのだろうと思います。(写真出典:stlouiswalkoffame.org)

2023年3月9日木曜日

「ベネデッタ」

監督: ポール・バーホーベン    2021年フランス・オランダ・ベルギー

☆☆+

「ベネデッタ」は、エロティックなエンターテインメント系映画です。17世紀イタリアに実在した修道女がモデルと聞き、間違いなく重厚なアート系なのだろうと思っていました。ただ、いきなりファースト・シーンから、アート系ではないことが判明し、あわてて鑑賞モードを切り替えました。思えば、監督が、ロボコップ、トータル・リコール、スターシップ・トゥルーパーズ等、ハリウッドのエンターテインメント系でヒットを飛ばしてきた人ですから、初めから想定すべき事態でした。舞台となった修道院は、フィレンツェに近いトスカーナ州ペーシャに存在しました。ペーシャは「ピノッキオ」の作者カルロ・コッローディが育った町でもあります。

ベネデッタ・カルリー二は、1590年、山岳地帯の裕福な家庭に生まれています。母子の命も危ぶまれる難産の末に生まれたようです。両親は、神に祝福された子として宗教的な英才教育を施し、9歳でペーシャの修道院に入れます。後に正式な修道院になりますが、ベネデッタが入会した頃は私的に運営されるいわば半修道院だったようです。当時、入会希望者の増加に修道院が対応できなかったために、このような半修道院が多く設立されていたようです。入会早々、ベネデッタがマリア像に祈っていると、マリア像が彼女の上に倒れるという事故が発生します。大きな像だったにもかかわらず、彼女は奇跡的に無傷でした。彼女が、自分は特別だと思うきっかけになったのかも知れません。この事件は、映画にも登場しています。

23歳のベネデッタは、神父にキリストの幻視体験を報告します。幻視体験は、何度も繰り返されますが、神父は、神の御業か悪魔の所業か判断できませんでした。1618年、ベネデッタは、就寝中に聖痕を得ます。聖痕とは、磔刑にされたキリストと同じく頭、両手、両足、脇腹に、傷が浮き出ることです。修道会は、ベネデッタを院長にまつりあげます。同時に、ペーシャの教区長の調査が行われ、ベネデッタの幻視は本物であると結論が出されます。さらにフィレンツェの教皇使節による調査も行われます。その際、ベネデッタと見習修道女バルトロメアとの淫らな関係が明らかになります。修道女の肉の罪は重罪です。ベネデッタは、71歳で亡くなるまで半監禁状態に置かれ、幻視や聖痕も疑念が持たれ、認められることはありませんでした。

監督は、ベネデッタ・カルリーニを題材としながらも、実に手際よく、史実とは異なるエンターテインメントに仕立てあげています。同性愛をメインとしつつ、幻視と聖痕には疑問を差し込み、教会の政治的内幕、ペスト等をモティーフとして散らし、都合の良いストーリーにまとめています。大した腕前だと感心させられます。しかし、これでは教会関係者から批判されること間違いなし。事実、宗教団体からの抗議を受け、シンガポールやロシアでは上映禁止になったようです。監督としては、織り込み済みの抗議であり、いい宣伝になるくらい思っていたのではないでしょうか。だとすれば、なかなかの商売上手、ヒット・メーカー魂とも言えそうです。

ベネデッタ・カルリーニが生きた時代、幻視体験や聖痕の報告は多くあったようです。もちろん、ヴァチカンが奇跡と認定するケースなど数えるほどであり、幻視は法悦状態での思い込み、聖痕は自傷が多かったということなのでしょう。キリスト教が教会を持ち、組織化されると、教義的にも、政治的にも権威主義が生まれます。それに反旗を翻したプロテスタントですら、同じ道をたどった面があります。いずれの宗教でも、ことは同じです。権威主義が横行すれば、原理主義運動などの反権威の動きも生まれます。権威に対抗する策の一つは笑いです。この映画にも、笑いの要素が入っていれば、思想的なスタンスが明確なアート系作品になっていたかも知れません。(写真出典:en.wikipedia.org)

2023年3月7日火曜日

塩パン

十数年前、愛媛県にすごいパン屋があり、オリジナル商品”塩パン”がバカ売れしているというTVニュースを見ました。食べてみたいと思っていたら、程なくして、近くのパン屋にも塩パンが登場しました。職人気質のじいさんが経営する対面販売のパン屋で、バゲットやハード・トーストが美味しい店でした。フランスで修行したのか、クロワッサンが”クロワソン”と表記されているのが印象的でした。残念ながら、店主が高齢のため、現在、店は閉じられました。焼き上がりの時間をねらって塩パンを買うと、やたら美味しくて、ハマりました。気がつくと、多くのパン屋が塩パンを売り始めていました。一つのパンが、これほど早く浸透していくことを目の当たりにして驚きました。

塩パンを発明したのは、愛媛県西部の八幡浜市にある「パン・メゾン」という店です。売り上げが落ち込む夏場対策として、2003年に考案されたようです。当初は、さっぱり売れなかったようですが、魚市場で働く人たちから売れ始め、それが高校生へと広がり、家族でも評判となったことから、大爆発したと言います。発売から4年後には、1日6,000個という驚異的な売上となり、全国ニュースでも取り上げられることになります。ロールパンの倍のバターを包み込んで焼き上げる塩パンは、岩塩を乗せた表面がパリッとし、バターが溶けて空洞化した中はモッチリ、そして底はバターがしみ出してサクッとした食感になります。ソフトな生地をベースに、バターで風味と食感を増した塩パンは、老若男女が楽しめる傑作です。

塩パンのルーツは、ウィーン発祥の”ザルツ・シュタンゲン”だという話もあります。塩の棒という意味のこのパンは、見た目が塩パンとそっくりです。同じくウィーン発祥で、日本でも見かけることが多い”カイザー・ゼンメル”は、丸い形状に放射状の切れ込みがあり、ポピー・シードを乗せた香ばしいパンです。それを棒状にしたのがザルツ・シュタンゲンです。塩パンとの違いはバターの使い方だと思います。塩パンで使うバターの多さが、劇的な変化を生んでいると思います。ザルツシュタンゲンは、基本的な材料で作る油分の少ないリーン系です。一方、塩パンは、多少油分も入れたソフト・フランスパンの生地を使いますが、なにせ包むバターの量が多いので、結果、リッチ系になっていると言えます。

「パン・メゾン」は、数年前、本所吾妻橋に、塩パン専門の「塩パン屋パン・メゾン」を開きました。基本の塩パンに加え、あんバター塩パン、塩パンのメロンパン、塩パンのサンドイッチといったアレンジ・パンも売っています。開店当初は、大行列だったようです。多少落ち着いたとは言え、今でも行列は絶えません。その後、東銀座にも店を出したようです。愛媛県まで行かなくても、元祖塩パンが食べられることは、誠にありがたい話です。過日、ポカポカとした陽気の日に、本所吾妻橋で塩パンを買い、墨堤に腰掛けて、焼きたてを食べました。やはり焼きたてが一番美味しいわけです。海外の文化を、日本人好みに変えていくという日本人の発想力の豊かさに敬意を表しながら、美味しくいただきました。

塩パンに使われるソフト・フランスパンの生地も、実は、日本人の発明です。1865年、江戸幕府は、フランスの協力を得て、横須賀で造船所の建設を始めます。その際、技術者たちに同行したパン職人がフランスパンを焼きます。それを見た日本の職人が、日本人の口にも合うよう工夫を凝らし、外はパリッとして、中はモチッとしたソフト・フランスパンが誕生します。ソフト・フランスパンは、リーン系のフランスパンに比べ、生地に砂糖やバターを少量加えて、しっかりこねます。それによってフランスパンよりもグルテンを多く含む生地が生まれます。しっかりこねるあたりは、日本のうどんや蕎麦の文化を感じさせて面白いところです。(写真出典:syokuraku-web.com)

2023年3月6日月曜日

「エブリシング・エブリウェア・・・」

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

監督:ダニエルズ(ダニエル・クワン・ ダニエル・シャイナート)  2022年アメリカ   

☆☆☆+

移民家族における家族愛、世代間ギャップの克服といったテーマを持つ映画ですが、その革新的な表現方法に度肝を抜かれます。テーマからすれば、日常のスケッチやモティーフを重ねてドラマを紡いでいくことが伝統的手法と言えます。ただ、この映画では、家族がメタバース世界での主役となり、比喩的、暗示的なパラレル・ワールドでの戦いをスピーディーに展開することでドラマが構成されています。TikTokの時代を反映したような実にぶっ飛んだ表現方法にばかり注目が集まっていますが、テーマから乖離することなく映画が展開できているのは、アジアを代表する国際女優ミシェル・ヨーの演技、存在感なのだと思います。彼女こそが、この映画を支える背骨だと言えます。

1962年、ミシェル・ヨーは、マレーシアの裕福な家庭に生まれています。4歳でバレエを始め、15歳のときには、両親と共に英国へ移住し、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・ダンスに学びます。ただ、脊髄を損傷する大けがを負い、バレエを断念せざるを得ませんした。ミス・コンテストで注目された彼女は、ジャッキー・チェンとのCMに出演し、この世界に入ります。その身体能力の高さから、アクション映画でのカンフー女優として名を馳せます。その後、「007 トゥモロー・ネバー・ダイ」や「グリーン・ディステニー」の大ヒットにより国際的に活躍する女優となりました。また、アクション系のみならず、「宋家の三姉妹」や「SAYURI」といったドラマでも高い評価を得ています。

本作における”ヴァース・ジャンピング”と”ベーグル”は、ダニエルズの大発明です。ヴァース・ジャンピングは、奇妙な行動をとると、他のパラレル・ワールドへ即刻移動できる仕組みです。これによって、説明シーンの必要もなく、全く異なるイメージを次々と繰り出し、シュールでスピーディーな展開が可能になっています。一方、ベーグルは、家族崩壊につながる無関心やディス・コミュニケーションを象徴しているのでしょう。ドラマのなかで浮かび上がらせることが多い抽象的な概念を、身近なベーグルに具象化することで、映画は、分かりやすいストーリー展開を持つエンターテイメントに仕上がっています。ベーグルに限らず、穴が空いていれば何でも良かったわけですが、ユダヤ人がアメリカに持ち込んだベーグルを選択したあたりは興味深いと思います。

20世紀アメリカ文学をリードしたのは、ユダヤ系の作家たちでした。文明化や都市化が進展すると、人間の孤独が大きな社会的課題になりました。2千年に及ぶ迫害の歴史を持つユダヤ人は、疎外感を表現することに巧みだったということなのでしょう。今世紀に入ると、疎外感が家族の変容、あるいは崩壊へとつながる傾向が顕著になってきたように思います。ユダヤ人がアメリカに持ち込んだベーグルは、現代社会における孤独、疎外感、ひいては家族崩壊を象徴するのにふさわしかったということなのでしょう。家族の強い結束を特徴とする移民社会ですら、家族のあり方が揺らいでいます。若い世代では、現地化が進み、より社会とのリンクが強くなる一方で、家族の結束は希薄化する傾向も生まれます。中国人移民に限らず、アメリカの移民家族の多くが、本作のテーマに共感したのではないでしょううか。

設立して10年ながら、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの制作会社A24は、本作で、”レディ・バード”や”へディレタリー”の記録を上回る最大の興業成績をあげました。A24は、比較的低予算ながら、制作は作家にまかせるといった傾向のある会社だと思います。例えば、ダニエルズの前作「スイス・アーミー・マン」(2016)の製作費は300万ドルでした。今回、ダニエルズは、A24としては破格の2,500万ドルという製作費を得て、1億1千万ドルという興業成績をたたき出しています。その信頼は、さらに高くなったわけです。ここのところ、アカデミー賞常連のA24ですが、エブ・エブは、作品賞も含め、これまでの最多となる11部門にノミネートされています。少なくともミシェル・ヨーの主演女優賞は固いところじゃないでしょうか。(写真出典:en.wikipedia.org)

2023年3月5日日曜日

虞美人草

梅が咲き誇る頃になると、南房総はポピーの花摘みの季節を迎えます。南房総一帯には、館山ファミリーパークをはじめとするポピー畑が広がり、一足早い春を求めて多くの人が繰り出します。かつては道路事情が悪く、大渋滞したものですが、近年は、館山自動車道が富浦まで延伸され、随分と行きやすくなったようです。ポピーという英名が一般化されていますが、和名はヒナゲシ(雛芥子) であり、ケシ科の花です。と言っても、麻薬成分は含まれていません。フランスではコクリコと呼ばれ、赤いヒナゲシは、ヤグルマギク、ヒナギクと合わせて国花とされています。この三つの花の色合いが、フランス国旗の色だからと言われます。ちなみに、赤いヒナゲシは、ポーランドの国花でもあります。

世界中で愛されるヒナゲシの原産地はヨーロッパとも言われますが、植物学的にははっきりしていないようです。2,500年前の古代エジプト遺跡からも種子が発見されており、エジプトでは当時から栽培されていたようです。原産地はともかくとして、ヒナゲシの栽培は、随分と古くから、世界中に広がっていたのでしょう。また、ヒナゲシは、虞美人草とも呼ばれます。紀元前202年、垓下の戦いにおいて、楚の項羽は、漢の劉邦に包囲され、討ち死にします。京劇「覇王別姫」では、その際、項羽の寵妃・虞美人は、足手まといになることを避けるため、自刎したという筋立てになっています。そして、虞美人の墓から美しい花が自生したので、人々は、これを虞美人草と呼んだとされます。

史上最強の武人という意味で覇王と呼ばれる項羽は、前漢の高祖となる劉邦とともに、秦を滅ぼした人です。しかし、両雄相並び立たず、覇権を巡って楚漢戦争が繰り広げられます。武力に勝る項羽に対して、劉邦は策略をもって戦います。最終的には、諸侯を味方につけた劉邦が、項羽軍を垓下に包囲します。四方を取り囲んだ劉邦軍は、項羽軍の戦意喪失をねらい、彼らの故郷である楚の歌を歌います。いわゆる四面楚歌の語源です。劉邦が楚を平定し、劉邦軍に楚兵が多く加わっているものと勘違いした項羽は、もはやこれまでと覚悟を決めます。項羽は、虞美人に「力は山を抜き 気は世を蓋う 時利あらずして 騅逝かず 騅の逝かざる 如何すべき 虞や虞や 若を如何せん」と歌います。騅とは、項羽の愛馬の名前です。

司馬遷の「史記」に記載されているのはここまでであり、虞美人のその後は不明です。後代、項羽が自らの手で殺した、自害を願い出た、項羽に同行するとみせて借りた刀で自害した、生き延びた等々、諸説が語られています。勇猛果敢、百戦百勝の項羽は、礼儀正しく真っ正直な人だったようですが、独裁的で、直情的な面を持った人でもあったようです。項羽については、実に多くの人たちが劉邦との比較において論じていますが、劉邦は、自分は部下たちを用いて天下をとったが、項羽は右腕とも言えるただ一人の部下すら用いることがなかった、と語っているようです。結局、項羽は覇王と呼ばれながら、国を持つことすらできませんでした。その項羽がただ一人心を通わせたのが虞美人だったわけです。

京劇「覇王別姫」における項羽と虞美人の最後は、いまだに人々の心を震わせます。史記には、「虞や虞や 若を如何せん」と歌った項羽に対して応えた虞美人の返歌が記載されています。「漢兵已に地を略し 四方は楚の歌聲 大王の意気は盡き 賤妾いずくんぞ生を聊んぜん」 二人の死は避けがたい状況のなか、項羽は、虞美人に対して、死んでくれとも言えず、ましてや自ら手にかけることもできず、嘆息するばかり。それを百も承知の虞美人は、いずくんぞ生を聊んぜん、と死の覚悟を伝えるわけです。史記が、この先を記していない理由は、単に記録がなかったのか、諸説が多すぎたのか、分かりません。あるいは、これ以上書くのは忍びないと思ったのかも知れません。(写真出典:gardenseedsmarket.com)

2023年3月3日金曜日

「別れる決心」

監督:パク・チャヌク      2022年韓国

☆☆☆☆-

「別れる決心」は、まったく新しい感覚のサスペンス・ロマンです。ジャズで言うなら、モードの誕生のように、これまでに無かったタイプの新しいスリルが生み出されています。恋愛ロマンは韓国映画の伝統ですが、新しいスリルとロマンスが見事な相乗効果を醸し出し、上質な緊張感をもって展開されます。その残り香の強さは、近年希に見るほどのレベルであり、驚かされました。パク・チャヌク監督の力量の高さ、そしてその進化ぶりを、見せつけられたという印象です。「JSA」、「オールド・ボーイ」、「親切なクムジャさん」等で、観客を魅了し、多くの賞を獲得したきたパク・チャヌク監督ですが、本作は、2022年のカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞しています。

直線的なサスペンスではなく、繊細に構成された映画であることは明確ですが、そのことは興行的な成功には結びつかないものと思われます。また、上映時間の長さは、評価が別れるところになると思います。決して冗漫な映画ではありませんし、高いレベルで緊張感が続き、飽きることなどありません。スリルとロマンスのいずれかに比重をかければ、もっと短くなるのでしょうが、絶妙なバランスと相乗的な効果をねらえば、この長さになるのでしょう。また、こだわりの多いディテールが映画を長くしている面もありますが、それとて新しい感覚を表現するためには必要不可欠だったのでしょう。とは言うものの、やはり長すぎると思います。見事な脚本ではありますが、もう少し整理する必要があったのではないでしょうか。

容疑者と刑事が恋に落ちる、というプロットだけなら、さほど目新しいものではありません。新しいスリルを生み出しているのは、こだわりのモティーフと演出です。まずは、韓国語が完璧ではない中国人女性が容疑者というアイデアが秀逸です。女性が一層ミステリアスに見えるとともに、コミュニケーション・ギャップのような不安定な状況が生まれます。翻訳機の使用も面白いと思いました。言ってみれば、ミステリアスなレイヤーをまとっている女性の本音が翻訳機を通して伝えられるわけです。通常、字幕スーパー等になるところが、ドラマのなかで音声化されることで、リアルタイムで刑事にも伝わることになります。また、いまや映画の定番となったスマホも、存分に、かつ違和感なく使われている点がうまいと思いました。

映像的にも、斬新なギミックが効果をあげています。例えば、ロック・クライミングのシーンにおける映像の切り替えの鮮やかさ、女性を監視している刑事が彼女の部屋のなかにワープして彼女を観察するといった映像は、新しいスリルを感じさせます。インテリアやファッションにこだわった美術も見事なものです。ことに、二人のそれぞれの部屋とそのライティングが素晴らしく、映画の空気感を醸成しています。こういった試みが、古くさくなりがちなプロットを、斬新な映画に仕立てています。一方では、古いムーディな歌謡曲が重要なモティーフとして使われており、センスの良さを感じさせます。1967年のヒット曲「霧」です。実は、この曲こそ、この映画を理解するポイントなのではないかと思います。

つまり、監督の制作意図は、若い頃に見たムーディなサスペンス・ロマンへの思い入れであり、さらに言えば、監督の映画への愛情であり、リスペクトなのでしょう。歌謡曲、ラスト・シーンの霧の浜辺、あるいは靴紐を結び直すといった直接的なモティーフ等は、実に象徴的だと思います。ただ、そのままでは、あまりにも古色蒼然とし、荒削りなので、モダンでスタイリッシュに作り直し、結果、新しい感覚のスリルが生まれたわけです。古いマンションのリフォームのようなものです。本来的には、影のある韓国人女性を韓国の女優で撮りたかったのでしょうが、現在の韓国には、既にシム・ウナのような女優は存在せず、あるいは有名女優では観客に意図が伝わらず、中国人女性を中国の女優に演じさせるという選択をしたのだと思います。(写真出典:bunkamura.co.jp)

2023年3月1日水曜日

梁盤秘抄#30 Black Radio

 アルバム名:Black Radio(2012)                                                                    アーティスト:Robert Glasper 

グラミー賞の花形レコード賞は、意外な結果に驚かされることがあります。近年では、2020年、リゾの「Cuz I Love You」が迫力勝ちと思われていましたが、蓋を開けるとビリー・アイリッシュが受賞。これは、結構、驚きでした。今年は、ビヨンセ、アデル、ハリー・スタイルズが有力視されるなか、リゾの「About Damn Time」が勝つという番狂わせでした。先祖帰りしたような明るく軽快な曲は、コロナ明けの象徴なのかも知れません。そして、R&Bアルバム賞にはロバート・グラスパーの「Black Radio3」が選ばれました。2013年の「Black Radio」以来の受賞です。R&Bの本流ではないロバート・グラスパーに2度目の受賞があるとは思ってもいませんでした。R&Bも変わったということなのでしょうか。

ロバート・グラスパーの音楽は、ジャズ、ソウル、フュージョン等のいずれでもあり、いずれでもありません。ひたすらロバート・グラスパーの音楽というべきなのでしょう。正月早々、ブルー・ノートで、ロバート・グラスパーのライブを初めて聴きました。ベース、ドラムにDJという小ユニットでした。これで、ロバート・グラスパーの世界を聴かせられるのか、と心配になりましたが、十分以上にクラスパー・ワールドが展開され、大満足でした。セットアップは、「Black Radio3」収録曲が中心となっていました。ホリデイ・シーズンでもあり、彼の家族も来店しており、演奏を終えたグラスパーに駆け寄るお子さんが可愛らしく、店内の注目を集めていました。

「Black Radio」は、多くのゲストが参加し、収録曲も自身の曲以外も含めた多彩な構成になっています。ところが、すべての演奏が、見事にグラスパー・ワールドになっており、スムーズに気持ち良く展開する統一性の高いアルバムになっています。多くのゲスト、多彩な曲は、グラスパーが自らの音楽を確立したという自信の現れかもしれません。モンゴ・サンタマリアの「アフロ・ブルー」は、ジョン・コルトレーンの名演でも有名ですが、本作では、エリカ・バトゥーが歌っています。彼女の独特な抜け感のある歌い方が、グラスパー・ワールドにドはまりです。モンゴ・サンタマリアは、キューバ出身のコンガ奏者ですが、ハービー・ハンコックの「ウォーター・メロン・マン」をヒットさせたことでも知られます。

シャーディーの「Cherish the Day」は、レイラ・ハサウェイが歌っていますが、都会的でソウルフルな曲に生まれ変わっています。グラミー賞のR&Bベスト・パフォーマンスにもノミネートされた「Gonna Be Alright」は、グラスパーの曲で、レデシーが歌っています。驚くべきは、ここからグランジが始ったとされるニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」です。この曲を含むアルバム「Nevermind」は驚異的な売上を挙げ、ロックを変えたと言われます。グラスパーは、これを、原曲とはまるで異なるリリカルな曲に仕上げています。それが何の違和感もなくグラスパー・ワールドに染まっていることにたまげます。まさにグラスパーのアレンジ力の高さを示す一曲だと思います。

R&Bをベースとしつつも、個々の感性で新しい音楽を目指す動きは古くからありました。スライ・ストーンしかり、ニュー・ソウルと呼ばれたマーヴィン・ゲイ等、あるいはプリンスやシャーディーもいました。90年代からはネオ・ソウルと命名され、ディアンジェロ、エリカ・バトゥー、ローリン・ヒル等が登場します。ただ、その定義は実に様々で、定まりません。それもそのはず、互いに刺激を受けたとしても、あくまでも個人の感性で、様々な方向へと世界観を広げているからです。とは言え、多少の共通点ならば存在します。R&Bベースのリズム、都会的編曲、スムーズなメロディ、そして、とにかく気持ち良い音楽であることなどです。「Black Radio」も、聴いていて、とにかく気持ち良い音楽だと思います。その気持ち良さの根源は、一旦、R&Bの伝統から解放されたことで獲得した客観性なのかもしれません。(写真出典:amazon.co.jp)

夜行バス