しかし、最も強く印象に残ったのは、ヴィヴァルディの四季・夏の第3楽章「夏の嵐」です。いわゆる劇伴のない映画ですが、重要なモティーフとしてヴィヴァルディが使われています。ただ、しっかりと曲が流れるのは、ラスト・シーンだけです。ラスト・シーンは、劇場で、圧倒的とも言える演奏を聴く主人公の表情の変化だけが映し出されます。セリフも動きもないにも関わらず、映画の主題が数分間に凝縮されたドラマティックなラスト・シーンです。名場面として映画史に残るのではないでしょうか。セリーヌ・シアマ監督は、全体的に穏やかで抑制的にドラマを展開することで、このラストをより印象的に仕上げています。このラスト・シーンを撮るためだけに映画を製作したのではないか、と思わせるほどです。
主人公を演じる二人の女優のうち、アデル・エネルは、プライベートにおいて、セリーヌ・シアマ監督のパートナーだったことが知られています。二人は、この映画がクランク・インする前に、円満に別れたと伝えらます。監督と女優の想いが、このラスト・シーンには込められているのかもしれません。また、この映画には、男性が真に理解することは難しいのかも知れないと思われるモティーフや表情が、いくつかありました。それが、この映画の深さにつながっている面もあるのでしょう。2020年、セザール賞において、ロマン・ポランスキーが監督賞を受賞します。授賞式に参加していたシアマ監督と二人の主演女優は、かつて少女への強姦罪で有罪とされたポランスキーの受賞に抗議の声をあげ、退場しています。
監督は、パリ郊外で、裕福なイタリア系家族のもとに生まれています。映画には、いくつかイタリアに関係するモティーフが登場します。それらは、すべてラスト・シーンのヴィヴァルディへとつながる伏線のようにも思えます。ヴィヴァルディは、17~18世紀に活躍したヴェネツイアの音楽家です。10歳にしてサンマルコ大聖堂のオーケストラにヴァイオリニストとして採用されるなど神童ぶりを発揮していたようです。彼の作った曲は、親しみやすさがあるせいか、欧州で大人気となりますが、忘れられるのも早かったようです。死後、しばらく埋もれた存在となっていましたが、20世紀に入り、楽譜が発見されたこともあって、再び注目されます。世界中に知られるようになったのは、1950年代以降だったようです。
イタリアのイ・ムジチ合奏団が、1959年にリリースした「四季」は、歴史的大ヒットとなり、バロック・ブーム、ヴィヴァルディ・ブームを巻き起こしたとされます。いまや四季を知らない人はいないようにも思いますが、恐らくは春の第1楽章に限ってのことだと思います。最もヴィヴァルディらしさを感じさせるのは、夏の第3楽章だと思います。ヴィヴァルディは600の曲を作曲したのではなく、一つの曲を600回演奏しただけだ、という悪口があります。確かに曲想にさほど多様性があるようには思いませんが、もし、その1曲は何か、と聞かれたら、夏の第3楽章だと答えてもいいように思います。(写真出典:gaga.ne.jp)