2021年6月30日水曜日

浪曲

広沢虎造
国立演芸場で、日本芸術文化振興会が主催する花形演芸大賞の受賞者の会がありました。表彰式と受賞者8人による公演が行われました。さすがに勢いのある芸人たちばかりなので、大いに楽しめました。 大賞は、2年連続となる古今亭文菊。今、一番チケットの取れない落語家の一人です。文菊は、なかなか難しいネタ「稽古屋」を見事に演じていました。金賞には、大人気の講談師神田伯山も入り、ネタ下ろしで「出世の春駒」を読みました。落語的な要素も入れた伯山の講談は大いにウケます。浪曲からは、唯一、関西の菊池まどかが銀賞を受賞しました。浪曲は、あまり好むところではありませんが、楽しめました。声量豊かで、伸びのある声は見事でした。演目は、ベタな新作ストーリーでしたが、きっちり客席の涙を絞り出すあたりはさすがです。

落語、講談、浪曲は、日本の三大話芸とされます。そのなかで、浪曲、あるいは浪花節だけは、少し毛色が異なります。というのも、寄席で演じられるようになったのは、明治以降のことであり、それまでは、いわゆる門付の大道芸でした。噺家や講談師からすれば、一段も二段も格下の芸能だったわけです。また、門付芸ゆえ、即興性も高く、演者の個性が反映される面が強く、それは芸能としての型や流儀が確立されていないとも言えたわけです。浪曲は、6世紀頃、大陸や半島から渡来した説教・祭文に、そのルーツがあるとされます。祭文は、神に捧げる祝詞が、独特の節回しや語りを活かして門付芸になったものです。その後、様々な民間芸能の要素を取り込み、また時事ネタも扱い、芸として続きます。江戸末期、大阪の浪花伊助が、これを「浮かれ節」と命名して演じ、人気を博します。これが浪曲の基本型となり、また浪花節と呼ばれる所以でもあります。

明治後期には、桃中軒雲右衛門が登場し、浪曲は完成されたといわれます。雲右衛門は、日本初の右翼団体玄洋社、辛亥革命に関与した宮崎滔天等との交流が深く、代表作「義士伝」はじめ、演目は武士道の鼓舞を身上としたようです。1925年にラジオ放送が開始されると、浪曲は、最も人気のある番組になっていきます。浪曲とラジオは、切っても切れない関係になりました。ラジオ放送とともに、2代目広沢虎造が大人気を博します。広沢は、寄席、ホール、ラジオ、映画といったメディア・ミックス戦略で、浪曲ブームを作り上げました。得意演目の「清水次郎長伝」は大流行となり、”森の石松”は、知らぬ者とていない存在になりました。「酒呑みねえ、寿司食いねえ」や「馬鹿は死ななきゃなおらない」といったセリフは、浪曲に馴染みのない私の世代でも、誰もが知っていました。

浪曲は、戦前・戦中、軍部との結びつきを強めていきます。愛国浪曲なるものが一世を風靡したそうです。戦時統制が始まると、寄席も影響を受け、落語や漫才は弾圧を受けます。ただ、浪曲だけは、位置づけが異なっていたようです。寄席で格下の扱いを受けてきた浪曲は、時の権力と結びつくことで、地位向上を図ったのかも知れません。あるいは、その国粋主義的傾向が、政権に利用されたのかも知れません。敗戦後は、反動的と批判もされましたが、庶民、特に地方では、肌になじんだ浪曲の人気は衰えることがなく、再びラジオの人気番組になっていきます。しかし、テレビ放送が始まり、ラジオが衰退を始めると、メディア・ミックス戦略が逆回転して、浪曲人気も急速に落ちていきます。高度成長の賭場口にあって、浪曲が得意としてきた演目の価値観や押しつけがましさが、国民の肌に合わなくなったということもあるのでしょう。講談も同様の理由で衰退していったように思います。

一方、落語は、江戸期から変わらぬ庶民目線の落ち噺。講談や浪曲と重なる噺もありますが、基本的には庶民の生活が反映された演目です。落語は、それなりに人気を保ちます。また、浪曲の穴を埋めるように、漫才が演芸の主流になってきました。講談は、笑いの要素もうまく入れて演じる伯山の登場で、人気を回復しつつあります。浪曲も、スターが必要なのでしょうが、その硬直的なスタイルからして、それだけでは人気回復は厳しいと思います。かつて3,000人を超す浪曲師がいたようですが、現在は60人とのこと。対して講談師は90人。 落語家は、 江戸期以降、 最大と言われる1,000人まで回復しているようです。(写真出典:tokyo-np.co.jp) 

2021年6月29日火曜日

ジントニック

タンカレー・ジン
26か27歳の頃、神戸出張へ行った際のことです。夜、一人で、オーセンティックなバーに行きました。その頃、酒は弱かったのですが、神戸なら港近くの老舗バーは欠かせないと思い込んでいました。もう名前も覚えていませんが、たしかフラワーロード沿いにあったバーに行きました。客は、私一人でした。ジン・トニックも2杯目のあたりで、服装のセンスがとても良いカップルが入ってきました。さすが神戸だな、と思いました。仕上げにジンのストレートをオンス・グラスで頼み、ストゥールから立ち上がりながら、勘定をしました。ジンを一気に飲み干し、グラスをカウンターにコンと置き、店を出ました。後ろから、女性の「カッコええなぁ」という声が聞こえました。「勝った」と思いました。

神戸という街は、そういうことをやりたくなる街です。外に出ると、夜景がグルグル回り、ほぼ四つん這いでホテルに戻りました。何に勝ったわけでもないのですが、少なくとも強い酒には大負けしていました。昔から、ジン・トニックが好きで、どこでも飲んできました。特段のこだわりもないのですが、最近、美味しいと思うのは、ボビーズのジンに、ウィルキンソンのトニック・ウォーター、少しだけライム・ジュースを入れたものです。ボビーズは、オランダのロッテルダム近郊のスキーダムで作られています。まだ新しいジンですが、なかなか評価が高く、オレンジ・スライスとクローブを入れたジン・トニックがお勧めとのこと。まだ、試したことはありませんが、きっと美味しいだろうな、と思います。

ジンは、大麦、ライ麦等から作る蒸留酒で、ジュニパー・ベリーで香り付けされます。ジュニパー・ベリーは、セイヨウネズという針葉樹の果実だそうです。既に11世紀頃には、イタリアの修道士がジュニパー・ベリーでスピリッツを作っていたという記録があるようです。現在につながるジンの発祥は、17世紀、オランダのライデン大学の医学部教授であったフランシスクス・シルヴィウスが作った解熱・利尿用薬用酒だとされます。ただ、当時のオランダでは、各種のフレイバーを付けたスピリッツが薬局で売られており、既にジンも売られていたとも言われます。いずれにしても、ジンは、オランダから始まったということです。

1689年、オランダ総督・オラニエ公ウィリアム3世が、名誉革命でイングランド国王になった際、ジンはイングランドに持ち込まれました。18世紀、イギリスで産業革命が起こると、労働者階級が生まれ、都市にはスラム街が生まれます。安くて、度数の高いジンは、労働者階級用の安酒になっていき、まっとうな人間の飲み物とは認められなかったと言います。それを変えたのが、チャールズ・タンカレーでした。今も続くタンカレーの創業者です。独自の製法で蒸留されたタンカレーの高級なジンは、徐々に上流階級にも認められ、20世紀に入ると、カクテル・ベースの代表格としても一般化していきました。近年では、クラフト・ジンが世界的なブームとなっており、日本でも数多く作られています。上述のボビーズも、その一つです。

銀座1丁目の「BAR オーパ銀座」は、名バーテンダーと言われる大槻健二氏の店です。店名のオーパは、当然、開高健の名作にちなんでいます。多くのバーテンダーを輩出していることでも有名な店です。ジン・トニックにライム・ジュースを入れるレシピは、この店で覚えました。いまだに、オーパに行けば、ジン・トニックに始まり、ジン・トニックに終わります。(写真出典:seijoishii.com)

2021年6月28日月曜日

カラオケ

8トラックカラオケ
私が、いつ頃、カラオケを知ったのか覚えていません。ただ、1985~86年、札幌でセールス・マネージャーをしている時、重要なお客さまだった中小企業の社長がカラオケ好きで閉口しました。その社長と食事すると、必ず馴染みのスナックへ連れていかれ、カラオケで歌っていました。私は歌うことが苦手です。歌好きな人が歌うのはいいとしても、必ず「お前も歌え」とくるわけです。当時は、まだエイト・トラックの時代で、収録曲は演歌ばかりでした。演歌が苦手な私にとっては地獄でした。早くこんなブームは去ってほしいと、ずっと思っていました。ところが、ブームが終わるどころか、どんどん広がり、機器も進化を繰り返し、文化として定着し、ついには海外でも定番化していったわけです。

歌とダンスは、人間にとって感情表出の手段であり、精神的な安定や高揚を得るためには、極めて重要なものだと思います。その歴史は、おそらく人類の歴史と同じくらい古いのでしょう。人間の組織化が進むと、祭りも含めて宗教的な儀式で重要な役割を担い、その後、緊張を解く、連帯感を高めるといった効果をもつ娯楽となり、その中から人を楽しませるという芸能が生まれることになります。歌とダンスが、人間の本質に関わるものである以上、カラオケの世界的普及は、ある意味、当然だったのでしょう。また、かつて、余興等、人前で歌うのは、歌の上手い人と相場が決まっていました。カラオケは、誰もが、一人で、人前で歌います。つまり、カラオケは、人間の表現欲求を満たすものとしての歌を、万民に開放したとも言えますし、もっと言えば、承認欲求を満たす手段としても機能しています。

一方で、カラオケは、素人の歌を聴かなければならないという状況も作ります。カラオケは、自分が歌うことが本質なので、人の歌を聞いたり、拍手するのは、自分が歌う時に聞いて拍手してほしいから、止む無く行っていることのようにも思えます。人の歌を聞きたいと思わない人にとって、カラオケは騒音でしかありません。それを我慢できるのは、自分も騒音を出すという相互性なのでしょう。ただし、それは、店の中でのことです。店の外では、完全に騒音です。何故か、外には、演奏が聞こえず、歌う声だけが響き、実に間の抜けたものに聞こえることが多いように思います。もっとも最近は防音設備が普及し、音漏れは減っているようです。

さて、そのカラオケは、誰が発明したのか、という話があります。従前は、1971年に、井上大祐が発明したということになっていました。翌年から、井上は、カラオケのレンタルを開始、大ヒットさせました。99年には、タイム誌で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」にも選出され、2004年には、イグ・ノーベル賞も受賞しています。ただ、実は、60年代から、複数の人によって、ジューク・ボックスを活用したエイトトラックのカラオケ機が商業化されていたことが判明しています。最近、井上は、カラオケを商業化した最初の人とされているようです。カラオケが特許を取得していないことは、よく知られています。井上は、既存の製品を組み合わせてカラオケを作ったので、特許申請など思いもつかなかったと語っています。カラオケは、特許を取っていなかったから、ここまで広がったとも言えます。

カラオケは、酒の場からコミュニケーションを奪ったとも言えます。私にとって、酒を飲む目的は、人と話すことでした。カラオケは、あまり話したくない人が増えたから、流行ったのかも知れません。また、スナック等の経営サイドからすれば、カラオケは、拍手だけしていれば良く、さしたる接客の努力を要しないというメリットもあるのでしょう。(写真出典:aucfree.com)

2021年6月27日日曜日

チャパクィディック

チャパクィディック事件の現場
「知の巨人」と呼ばれたジャーナリスト立花隆が亡くなりました。享年80歳。やや早すぎるように思います。立花隆は、1974年、文藝春秋誌で「田中角栄研究~その金脈と人脈」を発表し、田中角栄首相を退陣に追い込みました。1969年、田中角栄のファミリー企業が、長岡の信濃川河川敷を数億円で買収します。直後、その土地に建設省の工事が入り、時価は数百億円まで膨れ上がります。この問題を中心に田中角栄の金脈を追求したルポルタージュでした。文藝春秋誌は、同時に、児玉隆也の「淋しき越山会の女王」を掲載し、田中角栄の秘書を長く務め、愛人とされた佐藤昭子との関係を暴きました。世間は大騒ぎとなり、田中内閣は総辞職します。

信濃川河川敷問題は、東京地検によって捜査されましたが、結果、ファミリー企業の幹部一人が宅建業法違反を問われただけでした。田中角栄にとっては、この問題よりも、佐藤昭子との関係が暴露されたことの方がダメージが大きく、辞任に至ったともされます。小選挙区制以降の与党党首は、この程度のスキャンダルでは辞任しないでしょうね。答えなければ済むようですから。総辞職は、田中角栄の政治家としての矜持を感じさせるとも言えます。当時の政治記者たちにとって、報道された二つの事案は周知のことであったようです。それを報道しない記者たちの姿勢、政治家との癒着ぶりも問題となりました。ひょっとすると、政治感性の鋭い田中角栄は、報道された事案の内容よりも、時代の変化、国民の変化を読み取り、辞任したのかも知れません。

かつて、政治に金はつきもの、という認識がありました。ただし、その金は、政治家個人の懐に入るのではなく、政党運営や選挙対策に投じられました。また、政治家の愛人に関しても、ことさらに追及されることはありませんでした。戦前の家父長制の影響が色濃く残っていたわけです。これは、日本に限らず、アメリカでも同様でした。例えば、ジョン・F・ケネディ大統領のプレイボーイぶりは有名で、政治記者たちは、皆知っていたようです。特にマリリン・モンローとの関係は有名でした。しかし、それが大きな変化を見せたのが、1969年にエドワード・ケネディが起こしたチャパクィディック事件だったと言われます。63年には長兄ジョンが暗殺され、前年には大統領選の最中に次兄ロバートも暗殺され、残るエドワードに大統領の期待がかけられていました。しかし、この事件で、その道は完全に断たれました。

1969年7月、マサチューセッツ州ナンタケット湾にある超高級別荘地チャパクィディック島でのこと、エドワードは、若い女性と二人で車に乗り込み、パーティを抜け出します。ケネディ家の別荘のあるマーサズ・ヴィンヤード島へ渡る小さな橋で、車は海に転落、脱出したエドワードは、女性と車を残して、パーティ会場へ戻ります。友人たちと女性を探しますが、見つけられず、翌朝、車を発見した近隣住民が警察に通報します。若い女性との不倫、飲酒運転、薬物使用の疑い、死体遺棄の疑い、隠ぺい工作の疑い、事件は最悪の展開を見せ、世間は大騒ぎとなります。多少のスキャンダルは大目に見てくれていた政治記者たちの手には余る社会問題になっていました。ケネディ家の威光もあり、エドワードは、辛うじて上院議員を続けますが、大統領候補への扉は、完全に閉じられました。

1968年は、「動乱の1968」と言われるほど、社会や政治の構造的変化が世界的に進んだ年でした。事象だけを見れば、学生運動、反戦闘争、ブラック・パワー、プラハの春、文化大革命、キング牧師やロバート・ケネディの暗殺、エル・アル航空ハイジャック、テト攻勢、ビアフラ戦争等々が起こっています。その中で、日本だけは、高度成長を維持し、欧米とは多少異なる動きにあったように思えます。ただ、その日本も、72年には経済成長が止まり、73年にはオイル・ショックと狂乱物価に見舞われます。時期に多少のズレはあるにしても、この時代、古い秩序体制にヒビが入ったことは間違いなく、ある意味、その象徴が、チャパクィディック事件であり、田中金脈問題だったのでしょう。(写真出典:usatody.com)

2021年6月26日土曜日

いなり寿司

志乃多寿司総本店のいなり
いなり寿司は、私の大好物の一つです。近年、いなり寿司は、小ぶりで皮が薄く、様々な具材を混ぜたものが多くなりました。女性が食べやすいように、ということなのでしょうか。私が好きなのは、厚手の皮に出汁をジュワッと含ませた、昔ながらのいなり寿司です。そんないなり寿司は、開業が古く、昔から製法を変えていない店くらいじゃないと、なかなかお目にかかれません。 幸いなことに、近所に昔ながらのいなり寿司専門店があり、重宝しています。その店の商品と言えば、いなり寿司と助六が主で、他にわずかばかりの総菜だけです。しかも昼過ぎには店を閉めます。どうして商売が成り立つのか不思議な面もあります。恐らく、惣菜店やスーパー等に卸しているのだとは思いますが。

いなり寿司の発祥は定かではありません。資料への初出は、江戸末期の「守貞謾稿」であり、天保前から存在したこと、尾張名古屋等にもあることが記載されています。発祥とされることが多いのは、三河の豊川稲荷です。ただ、豊川稲荷のいなり寿司も、天保の頃からとされていますので、有名ではあっても、発祥ではないように思えます。商売繁盛の御利益が大層あるとして大人気の豊川稲荷ですが、神社ではありません。れっきとした曹洞宗の寺院です。境内に鎮守として祀られている吒枳尼天が稲穂を担いでいることから豊川稲荷と呼ばれます。ちなみに参道で最も古い茶屋のいなり寿司は「いなほ寿司」と称しています。

鮨は、稲作と同じくらいに歴史が古く、魚の発酵食品である”なれ鮨”に始まり。江戸初期に”はや鮨”へと進化し、現在の姿になります。いなり寿司とはや鮨との共通点は、酢飯だけであり、いなりには魚のさの字もありません。油揚げを、なにかの魚に見立てたとも思えません。かんぴょう巻等も同様に魚を使いませんが、海苔を巻くことで、多少、海の匂いを残しています。いなり寿司は、どこの誰が考えたのか不明で、寿司としては突然変異種の類で、それどころか寿司と呼ぶことすらためらわれる謎の食べ物です。とは言え、うまいわけです。江戸では大人気となり、棒手振から始まり、屋台、店舗までできたようです。安くて、うまくて、食べやすい食品が、大人気となることは当然とも言えます。

油揚げの起源は、室町時代の精進料理にあると言われます。工夫を重ね、豆腐を揚げて肉に見立てたようです。袋状になるので、山菜などを入れた焚き物は、早くからあったと思われます。いなり寿司の起源は、おそらく余った酢飯を詰めてみたら、意外とうまかった、といったことなのでしょう。庶民の知恵ゆえ、発祥も起源もはっきりしないわけです。いなり寿司という名前も、単純な発想から来ていると思われます。稲荷神の使いは狐であり、狐の好物が揚げとされることから、名づけられたのでしょう。本当のところ、狐が揚げを好むわけはありません。本来の好物である鼠を捧げようとすれば、殺傷を伴うので憚られ、肉の見立てである揚げが使われたのでしょう。ということであれば、いなり寿司は、いずれにしても精進料理が大本だったということになります。

天保の改革では、寿司も贅沢品とされ、禁止の憂き目にあいます。ところが、値段が安かったからか、似非寿司だったからか、いなり寿司は、禁止されていません。これが、いなり寿司の普及に貢献したようです。また、天保の改革では、歌舞伎が江戸から所払いとなります。幕間の弁当として人気のあったいなり寿司が、江戸から地方へと広がるきっかけにもなったようです。ちなみに、いなり寿司と太巻き、江戸期はいなり寿司とかんぴょう巻だったようですが、このセットは「助六」と呼ばれます。これは、歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」の助六の愛人の名が”揚巻”であることにちなんで名づけられたと言われています。(写真出典:tabilist.net)

2021年6月25日金曜日

世界の壁

東洋の魔女優勝の瞬間
「世界の壁は厚かった」とは、かつてオリンピックの都度に聞かされた言葉です。国内では群を抜き、オリンピックではメダルが期待されていた選手が敗れると、必ずと言っていいほど聞かされた言葉です。64年の東京オリンピック以降、モントリオール大会くらいまでは、よく聞きました。なかなか名文句風であり、国民は、これを言われると、妙に納得したものです。しかし、私は、好きな言葉ではありませんでした。敗戦国であり、東洋の小さな国の選手ゆえ、負けても止む無し、といった卑屈さを感じます。ただ、個人の話ではなく、獲得メダル数という話になれば、”競技者数×歴史”という算式が成立し、壁の存在も理解できます。

個人に関して言えば、スポーツの世界のことですから、運も才能もあるのでしょうが、負けたということは、実力が劣っていたということであり、練習が十分ではなかったということだと思います。2021年は、テニスの大坂なおみが2度目の全豪優勝、ゴルフの松山英樹が世界最高峰のマスターズで優勝、笹生優花が日本人同士のプレイオフを制して全米女子オープン優勝、野球の大谷翔平がMLBのホームラン・ダービーのトップを走り、ボクシングの井上尚弥が2度目のラスヴェガス・メイン・イベントで3回TKO等々、日本人選手が世界の舞台で大活躍しています。もはや”世界の壁”などありません。それどころか、今や、彼らこそが”世界の壁”になりました。

アテネ・オリンピックの際、日本は自転車競技で初めてとなるメダルを獲得します。チーム・スプリントの銀メダルです。その選手の一人がインタビューで「世界一の選手は、世界一の練習をしています」と話していました。練習は裏切らないという話ではありますが、ただ、単に練習量を語っているのではないと思います。実は、”世界の壁”と言っていた時代の日本の練習は、決して世界レベルの練習になっていなかったのだと思います。当時、日本のスポーツ界は、独特の「根性論」が支配的であり、科学的なアプローチに乏しかったと思います。無論、スポーツにおける精神面の重要性を否定するものではありませんが、根性論は、一方的に、あるいは理不尽なまでに選手個人を追い込んでいきます。

64年の東京オリンピックに向けて、日本のスポーツには、開催国の威信にかけて勝利しなければならない、というプレッシャーがかかります。そのなかで、戦前の文化を彷彿とさせる根性論が注目され、広がっていきます。その象徴的存在が、大松博文監督率いる女子バレーボール・チームでした。大松監督は、勝利に向け、猛練習に次ぐ猛練習で選手たちを追い込んでいきます。結果、”東洋の魔女”と呼ばれた女子バレー・チームは金メダルを獲得します。それは日本中が歓喜した感動の瞬間でしたが、根性論が、子供たちのスポーツにも、あるいは高度成長期の営業の世界へも広がっていく契機になりました。そんななか、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得し、メキシコでの金メダルを宣言していた円谷幸吉選手が自殺します。両親宛の遺書に記された「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という言葉は衝撃を与えました。

根性論は、昭和初期、軍部が、国と国民を戦争へと引きずり込んでいった軍国主義の時代を彷彿とさせます。精神論が、全てを覆いつくし、ついには勝ち目のない太平洋戦争へと入っていきました。東京オリンピックに向かう日本のスポーツ界も、勝利至上主義に基づく精神論が支配する世界だったのでしょう。世界の壁が厚かったのではなく、日本がスポーツの世界に壁を作ったというべきです。(写真出典:sponichi.co.jp)

2021年6月24日木曜日

ハイウェイ

昔、ケンタッキー州の片田舎で、ガソリン・スタンドと簡易食堂を経営する老人がいました。幹線道路沿いという立地の良さから、商売は繁盛していました。ところが、近くにハイウェイが建設されると、車の通りはパタリと消え、老人は店を整理するしかありませんでした。手元に残ったのは、オンボロ車と自慢のレシピくらい。やむなく、老人は、車でレシピを売り歩きます。腕に自信があって食堂を経営している人たちがレシピを買うわけもありません。断られた店の数は、なんと1,009件。ところが1,010件目で、はじめてレシピが売れるます。すると、瞬く間に評判が評判を呼び、ついにはアメリカを代表するレシピにまでなります。老人の名は、カーネル・サンダースことハーランド・サンダース。ご存知、ケンタッキー・フライド・チキンの縁起です。ちなみに、カーネルとは、ケンタッキー州が、サンダースに与えた名誉大佐称号です。

世界初となる自動車専用道路の建設は、20世紀初頭のNYで行われています。全米を網羅するインターステイト・ハイウェイは、1950年代中期、ドワイト・アイゼンハワー大統領によって計画されます。第二次大戦中、欧州を転戦したアイゼンハワー将軍は、ナチスが作ったアウトバーンに感銘を受け、国防的観点から高速道路網を計画したと言われます。空前絶後と言われた国家予算を投じて作られたハイウェイ網は、当初10年で完成予定でした。しかし、計画が完遂されたのは35年後、費用は11兆円を超えていました。ちなみに、インターステイト・ハイウェイの正式名称は「ドワイト・デーヴィッド・アイゼンハワー全米州間国防高速道路網」です。国土防衛を主たる目的としたハイウェイでしたが、結果的にはアメリカの目覚ましい経済成長の原動力となっていきました。建造目的と波及効果は、まるでローマ街道の現代版です。

アメリカで驚いたことの一つは、アメリカ中、どこへ行っても、同じ商品が売られていることでした。また、メーカーは違えど、規格が統一されている商品の多さにも驚きました。例えば、近所のホームセンターには、窓や階段まで売られていました。規格化社会ならではの光景です。アメリカはメール・オーダー大国でもありました。銃器等も含め、ありとあらゆる物が、カタログに基づき、通信販売で買えました。さらに言えば、アメリカは、どんな田舎に行っても、マクドナルド・ハンバーガーやケンタッキー・フライド・チキンといったフランチャイズ店が、必ずあります。カーネル・サンダースは、ハイウェイに店を潰され、ハイウェイでビッグ・ビジネスを築いたと言えます。大量消費社会アメリカを支えているのが、物流であり、その中心にハイウェイ・システムがあることを、改めて思い知らされました。

ハイウェイとフリーウェイの違いは何か、とNYのアメリカ人に聞くと、通行料がかからないのがフリーウェイで西海岸に多い、と言われました。なるほどと思ったのですが、東部でよくある勘違いだったようです。東部には、フリーウェイと呼ばれる道路が、ほとんど無いので、そのような俗説が広がったのかも知れません。フリーウェイは、通行を制限する信号や踏切のない自動車専用道路を指す言葉で、ハイウェイ、エクスプレス・ウェイ、スルーウェイ、ターンパイク等を包括するとのこと。また、土木的には、近隣の人たちが自由に進入する権利を持たない幹線道路と定義されるようです。アメリカの自動車専用道路で、私が最も好きだったのは、ブロンクス・リヴァー・パークウェイです。パークウェイは、道の周囲や広い中央分離帯が、緑濃く整備された自動車専用道路であり、通常、トラック等は進入できません。緑の中のワインディング・ロードを、そこそこのスピードで運転すれば、実に気分爽快でした。

昔、日本のポップなどバカにしていたので、ちゃんと聞くこともありませんでした。そう言わずに聞いてみろよ、と友人に渡されたアルバムが荒井由実の「14番目の月」(1976)でした。日本のポップにはなかったメロディ、嫌味のない少女趣味的歌詞、実に独特な声、結構、気に入りました。収録曲の一つが「中央フリーウェイ」でした。中央高速道路を中央フリーウェイと言い換えただけで、競馬場やビール工場まで、おしゃれな感じになっていました。オイル・ショック後ですが、日本は確かな豊かさを感じる時代に入っていました。若者の憧れが自動車だった時代にピッタリの曲でした。中央道沿線の人たちにとっては、今でも大事な曲だそうですが、昨今、若者たちは自動車を買わず、それどころか免許さえ持たない時代になりました。えらい変わりようだと思います。(写真:最古のインターステイト95号線 出典:fredericksburg.today)

2021年6月23日水曜日

地震雲

高校の美術の授業で、屋外で水彩画を描くという課題が、何回か連続でありました。私は、初回、青い空と白い雲だけを、ササっと描きあげ、以降、友人とおしゃべりしたり、ちょっかいをかけたり、プラプラと幸せな時間を過ごしました。教師に怒られるだろうと思っていましたが、結果、良く描けていると、作品をベタホメされました。以降、美術の授業は、まじめに受講しました。 私は、結構な雲好きだと思っています。雲を見ていて飽きることがありません。観光地等で写真を撮ると、かなり高い確率で、ほとんどが雲、という写真が入っています。二度ばかり、地震雲と思われる雲を撮ったことがあります。地震雲であることには自信がありましたが、その後に、人体が感じるような地震は、一切ありませんでした。

地震の前兆・予兆という話は、実に興味深いと思います。地盤隆起やP波といった科学的なものもありますが、科学的に解明されていない民間伝承も数多くあります。典型的には、動物や昆虫の異常行動があります。東日本大震災の時には、茨城県にイルカが大量に打ち上げられていました。深海魚が海面に上がる、サクラエビが不漁になる、犬が吠える、猫が逃げる、鼠がいなくなる等々、数かぎりなくあります。また、井戸が枯れる、湧き水が濁るといった現象や、地鳴りや謎の発光等は東日本大震災でも報告されています。後付け、こじつけ、たまたま、といった面もあるのでしょうが、昔から言い伝えられてきたものも多くあります。科学とは、因果関係が証明され、再現性が確認されたものだけを指します。科学的ではないという理由で、すべての民間伝承を否定することはできないと思います。

地震雲は、大きな地震の後に、必ずと言っていいほど話題になります。携帯電話やスマホが普及したからこそ、記録されるようになったわけです。私が、地震雲を知ったのは、2004年に発生した中越地震の時でした。新潟では、結構、話題になっていました。それ以来、空を見る時には、気を付けて見ています。地中で、例えば断層に大きな圧力がかかると、電磁波や磁場が形成され、それによってイオン化された気体分子が地震雲を発生させるという説が、よく知られています。科学的な説明に思えますが、地中深くで発生した電磁波が、土中や大気中を通過できるのか、他の電磁波を発生するメカニズムが必ずしも雲を発生させていない等の反論もあり、地震雲は、科学的に否定されています。そもそも、これが地震雲という基準も明確ではありません。ネットで地震雲の画像を検索すると、かなり多様な雲がアップされています。要は、変わった雲を見ると、地震雲じゃないか、と思ってしまうわけです。

長く伸びた筋状の雲が何本か平行して現れ、他の雲が風に流されるなか、まったく動かない状態が長く続くと、地震雲とされることが多いようです。私が、見たものも同じです。これは何かあるに違いない、と思わせます。雲ではありませんが、地震と電離層異常の関係は、科学的に研究されています。電離層は、大気の上層部にある分子や原子が、紫外線等により電離した層であり、電波を反射する性質を持ちます。この性質を利用したのが、かつて国際通信の主役だった短波通信です。現在、国際通信は、より確実な衛星通信や海底ケーブルを使って行われています。なんらかの理由で、地震の1週間ほど前に、電離層が低くなる現状が確認されています。電離層の高度は電波によって観測可能です。東日本大震災の5日ほど前にも、太平洋上における電離層の異常が観測されていたようです。

まだ、因果関係は解明されていないものの、研究は継続され、あるいは地震予知への利用も検討されているようです。と聞けば、素人的には、地震雲もあり得るのではないか、と思ってしまいます。私が最も怖いと思った映画は「エクソシスト」(1973)ですが、作中「青カビに疑問を持ったから、ペニシリンが生まれた」という名セリフがありました。似非科学との批判を受けようとも、謎の解明に努力してもらいたいものだと思います。(写真出典:news.yahoo.co.jp)

2021年6月22日火曜日

香具師

国民的映画とも言える山田洋次監督の「男はつらいよ」は、ギネス・ブックでも世界最長のシリーズ映画とされています。全50作、うち48作までが渥美清生前の作品です。はじまりは、1968年放送のTVドラマでした。友人から変だけど面白いドラマをやってると聞き、途中から見始め、すっかりはまりました。最終回で、寅さんはハブに噛まれて死にます。友人は、こんないい人を殺すなんて、山田洋次はとんでもない奴だと怒っていました。それは、日本全国の声でもあったようで、1969年、映画として寅さんは復活し、空前絶後の長寿シリーズが始まりました。寅さんの生業は香具師(やし)、いわゆる的屋です。TVシリーズは、当時絶頂だった東映ヤクザ映画のパロディという面もあり、博徒ではなく香具師という設定になったという話も伝わります。

暴力団、あるいは反社会的勢力といった言葉が定着するとともに、”やくざ”という言葉の使い方が曖昧になってきました。”やくざ”という言葉の語源は、花札の”おいちょかぶ”という遊びに由来します。配られた2枚、あるいは追加の1枚の札の合計値の一の位が、9に近いほど勝ちという遊びです。追賭株とも書きます。配札が8と9なら、一の位は7となり、普通は追加の札を要求しません。それをあえて挑戦して3がでれば、0となり負けです。この一か八かと言う賭け方から893(やくざ)という言葉が生まれ、無謀な生き方をする者たちを指すようになります。生業、職業を指す言葉ではなく、生き方のあり様を言う言葉です。江戸期、士農工商という身分制度の外に置かれた博徒や香具師のなかには、そういう生き方をする者も多く、同義的に使われていったのでしょう。

博徒は、非合法の賭博を生業とする者たちです。江戸期、農村が自給自足から貨幣経済に組み込まれていく際、無宿と呼ばれるはみ出し者が生まれます。彼らは、生きにくい世を凌ぐために賭博を行ったようです。その世界を律するのは、武士の武士道と対比される任侠道です。中国の春秋戦国時代に起源を持つと言う任侠道は、はみ出し者ながら、仁義に厚く、自己犠牲をいとわぬ道です。また、各地には、「顔役」と呼ばれる親分肌の人たちもいました。必ずしも博徒というわけではありませんが、任侠道的な庶民のリーダーとでも言うべき存在であり、博徒を従える場合も多かったようです。任侠の人々は、生業からして、手荒いこともやりますが、決して素人衆には手を出さないという鉄則がありました。

対して香具師、あるいは的屋の歴史は、さらに古く、奈良時代まで遡ります。神社仏閣の建立・修繕のための普請に際し、境内に露店を出して縁起物等を商い、売上の一部を上納します。これが今に伝わる寺銭、いわゆる場所代の語源です。博徒の任侠道に対し、香具師は神農をあがめます。神農は、農業と医学の神であり、香具師が古くから商っていた漢方薬、あるいは歯科治療に由来すると言われます。戦後、的屋は博徒とともに暴力団に指定されます。的屋は、日本の祭りに欠かせない存在なので、暴力団指定は、ピンとこない面もあります。ただ、江戸の頃から、的屋も多様化し、危ない仕事も行い、もめ事の解決等に暴力を用いてきた面もあるのでしょう。また、戦後の闇市を仕切ったことが指定の大きな要因になったと思われます。

顔役や親分衆が、社会の当局の手に余る部分を、自律的に治めてきた面があり、社会には欠かせない存在だったと思われます。いわば、持ちつ持たれつの関係だったのでしょう。法治国家化が進み、司法当局も充実されると、別な理念で成立してきた世界は、邪魔者になります。様々な制約を受けた渡世人や稼業人は、地下へと潜る、つまり生きるために暴力団化せざるを得なかったという歴史なのでしょう。暴力団に指定される一方で、東映ヤクザ映画が一世を風靡し、的屋が主人公の映画がギネス・ブック級の大ヒットを飛ばすという現象は、単なるノスタルジー、あるいは高度成長のひずみの反映というばかりではなく、法治国家の矛盾や限界を示しているのかも知れません。(写真:シリーズ一番人気「寅次郎相合い傘」 出典:amazon.co.jp)

2021年6月21日月曜日

ベリー・ダンス

クラシック・バレエには、世界中のあらゆる舞踏の基本的要素が包括されている、と聞いたことがあります。つまり、バレエを習得すれば、 世界中の舞踏を踊ることができる、 ということです。 それほど、 バレエは、舞踏としての完成度が高いというわけです。舞踏家の皆さんは理解できる話かも知れませんが、素人にはピンとこない面があります。日舞やフラを、すぐに踊れるのだろうかと思いますし、一番難しそうなのは、ベリー・ダンスではないかと思います。バレエ・ダンサーが、ベリー・ダンスを踊っている姿は、想像すらできません。 

ベリー・ダンスは、妙な形で世界に広まったように思います。欧米人が、日本と言えば、フジヤマ、ゲイシャ、あるいはサムライ、ニンジャというのに似ています。そもそも、ベリー・ダンスという名称も、1893年のシカゴ万博の際、アメリカ人プロデューサーが命名し、以降、アメリカを中心に定着したようです。発祥の地とされるエジプトでは”ラクス・バラディー(国、あるいは自然の踊り)”、他のアラブ諸国では”ラクス・シャルキー(東方の踊り)”と呼ばれ、欧州でもオリエンタル・ダンスが一般的な名称です。その起源は、8千年前という説もありますが、いずれにしても世界最古の舞踊とされています。元々は、子孫繁栄と五穀豊穣を祈る踊りだったようです。ま、それは世界中の踊りに共通する縁起のようにも思いますが。

恐らく大きな変化は、7世紀、アラブ世界のイスラム化とともに訪れたのではないでしょうか。イスラムでは、女性が家族以外に肌を見せることは戒められています。ただ、公衆浴場等、女性同士の場合は問題ありません。ラクス・シャルキーは、女性が女性の集まりで踊るものになっていったようです。腰の動きは、無事な出産を願い、あるいは出産を楽にするために体を鍛えるという意味もあったのでしょう。また、公共の場から締め出されたダンサーたちは、ロマに合流し、ラクス・シャルキーはロマの芸になったという説もあります。その意味において、フラメンコはラクス・シャルキーが起源とも言われます。ちなみに、ロマはジプシーとも呼ばれますが、語源はエジプシャンです。エジプトの踊りを踊る人たちという意味でしょうか。

さらに大きな転機が訪れたのは、18〜19世紀です。欧州では、オリエンタリズムが大流行し、絵画、芝居等、多くの分野で、アラブ文化が取り上げられるようになります。ただし、それは、あくまでも欧州目線で理解されたアラブ文化です。ラクス・シャルキーも、欧州人に"発見"され、エキゾチズムと官能の象徴とされていきます。 アラブの街では、ラクス・シャルキーが、 肌も露に踊るショーとして、 欧米人向けに観光化されていきます。また、20世紀になると、ハリウッドが、色物的にラクス・シャルキーを多用し、世界に広がっていきした。しかし、それはそれで、技も磨かれ、スターや達人も生まれます。近年では、 フィットネスとしても注目され、 アメリカでも、 日本でも、 それなりの人気を得ているようです。 

アラブ系の国々へ行った際に、幾度かラクス・シャルキーを見に行きました。特に、カイロとイスタンブールでは、街一番のナイトクラブでのショーを見ました。夜も更けた頃、ショーは前座から始まります。夜中を過ぎると、二つ目クラスの登場です。スタイルの良い美人が見事な技量で踊ります。ただ、聞けば、まだまだというレベルだというのです。では、真打は何時頃に登場するのか聞くと、3時か4時くらいとのことでした。旅人には、厳しい時間です。いずれの街でも、真打登場の前に店を退散しました。(写真出典:bellydancershabibi.wordpress.com)

2021年6月20日日曜日

宅飲み

コロナ禍で、いわゆる”家飲み”、あるいは”宅飲み”が多くなったようです。家飲みも宅飲みも同じ意味で、自宅でも知人宅でも、一人でも複数でも、同じ言葉を使うようです。昔は、よく家飲みしたものです。会社に入った頃には、上司や先輩の家に招かれの宴会が、結構ありました。また、私も、よく後輩たちを自宅に連れてきて食事しました。場合によっては、そのまま泊まることもありましたし、外で飲んだ後に、先輩の家に押しかけて泊まったこともありました。皆、家には、泊り客用の寝具や歯ブラシを用意していたものです。決して、外で飲めないほど貧しかったわけではありませんし、皆の家が広かったわけではありません。いつの頃からか、また何故か、そういう文化が薄れていきました。

私の印象としては、87年に米国へ赴任した頃までは、そういう文化は続いていたように記憶します。ところが、、米国から帰国した92年には、無くなっていました。私が浦島太郎化し、歳をとったのか、世間に疎くなったのか、と思い、周囲に聞いてみると、皆、最近は無くなったね、と言っていました。私が米国に駐在していた時期、日本ではバブルが膨れ上がり、崩壊していました。バブル期、華々しく外で飲むことが増え、貧乏くさい家飲みが消滅したのか、とも思いました。多くの人は、原因はバブルではなく、若い人たちが濃い人間関係を嫌がるようになったからだ、と言っていました。言われてみれば、社員旅行も無くなっていました。やはり、若い人たちが、行きたがらない、と言われていました。

冠婚葬祭でも、同じような傾向がありました。例えば、かつて結婚式は、仲人を立てることが一般的でした。会社では、部長クラスが頼まれ仲人をしていました。私も、上司に仲人をお願いしました。私も頼まれ、NYから戻った後の数年間に、3度ばかり引き受けました。たまたま部長の奥様の体調が優れず、私が代役を勤めた格好でした。3度目の仲人を終えた後、会社の廊下で、さる役員に呼び止められ、お前、仲人やったんだってな、今時珍しいね、と言われました。調べてみると、その頃ですら、仲人をたてた結婚式は、1割程度までに減っていました。仲人のいない結婚式に、主賓として招かれ、何度かスピーチをしたことはあります。ただ、最近、上司が招かれることも少ないようです。近頃は、葬儀も家族葬が主流となり、会社関係者が通夜に押し寄せる姿も見かけなくなりました。

豊かになった日本で生まれ育った世代は、欧米的な個人主義になりつつあるという説もあります。滅私奉公で高度成長期を戦った先輩たちや、その薫陶を受けて育った私たちの世代とは異なり、個人が優先されるようになったというのは理解できます。武家社会の文化風土、挙国一致体制の呪縛から解き放たれるのは、それはそれで理解できますし、意味のあることだと思います。しかし、世代ギャップや個人主義の問題だけではないように思えます。少なくとも、個人主義の国アメリカでは、ディナーやBBQに、近所や会社の友人を招く習慣があり、ブロック・パーティ等も行われています。実は、日本の社会の変化の背景には、社会が方向性を失ったことが、深く関係しているのではないか、と考えています。

企業は、現代版の村落共同体だと思います。村落共同体は、生産における協業、一部生産手段の共有、あるいは私有財産の防衛といった目的のために団結します。個人の自由は制約を受けますが、家族主義が、共同体のメリットを目に見えるものにします。村社会を拡大していけば、それが日本という社会になり、以和爲貴を信条とする国家になります。大きな組織は、その効用が見えにくくなりますので、目標や方向性を共有することで組織を維持します。現代にあって、企業は、依然として、生産手段を共有する者で構成されています。ただ、国としての日本は、共有すべき方向性や目標が見えにくくなり、社会は崩壊、孤立化が進む過程にあるようにも見えます。日本人は、今、この狭間にいるのでしょう。新興国アメリカは、国家の方向性や統一、つまり国体を保つために、様々な努力を行っています。小学生が、毎朝、国旗にむかってプレッジ(誓約)を唱和するのもその一例です。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2021年6月19日土曜日

蘭奢待

蘭奢待
毎年秋に、奈良国立博物館で開催される正倉院展は、最も価値ある展覧会の一つだと思います。十年ほど前の正倉院展で、日本一の香木とされる「蘭奢待」を見る機会がありました。蘭奢待というのは東大寺という字を込めた雅称であり、宝物名は黄熟香、東南アジアで採取された沈香と言われます。重さは、11.6kg、これほど大きな香木を見たことがありません。蘭奢待には、38ヵ所、削った痕跡が認められるそうです。うち3カ所については、付箋が付けられ、「足利義政拝賜之處」「織田信長拝賜之處」「明治十年依勅切之」と記載されます。”明治十年依勅”とは明治天皇の指示で削ったということです。千年を経て、なお芳香を放っているそうです。

香の歴史は古く、古代オリエントでは、宗教儀式用や薬用として使われていたようです。6千年前の誇大エジプトの墳墓から乳香が出土しています。当時は、この乳香、没薬が重宝され、それを獲得するための戦いまで起きているようです。また、キリスト誕生に際し、東方の三博士が持参した贈り物は、乳香、没薬、黄金でした。また、インダス文明では、5千年前に、沈香や白檀の香りを蒸留抽出する技術が存在したようです。アジア各地での香の文化は、インドから仏教とともに広がったと言われます。沈香、その最高級である伽羅、あるいは白檀などが代表とされます。日本も同様、仏教の伝来とともに香木も渡来します。

香りは粒子であり、香の成分となる物質は判明しています。例えば、白檀、サンダルウッドは、サンダロールという成分が、あの上品な香りの元です。ただ、サンダロールは、科学的に合成できないとも聞きます。しかも、同じサンダルウッドの木でも、原産地であるインド以外で生育したものは、あの独特の香がないようです。不思議だと思うのは、なぜ、人間は白檀をいい香りだと感じるのか、ということです。これは、人間の五感すべてについても言える疑問ですが、他の感覚に関しては、ある程度解明されるか、あるいは科学的な仮説があります。ところが香りに関しては、一部を除き、よく分かっていないようです。

ヴァニラも人気の香料ですが、香水よりも食品の香り付けによく使われます。ヴァニラの甘い香りの元はヴァニリンという物質であり、これは化学的に合成されてもいます。人間がヴァニリンを好む理由は、人間の母乳にも、若干ながらヴァニリンが存在するからだとされています。ヴァニラ・フレイバーは、”ママの味”というわけです。余談になりますが、ヴァニラ・フレイバーをまき散らすヴァニラ爆弾は有効な武器なのではないか、と思っています。戦場にヴァニラの甘い匂いが充満すると、兵士たちは、里心がつき、戦意を失うのではないか、と思います。

ヴァニラが母乳を思い出させるように、香りは、人間が持つ特定の記憶と結びついているという説があります。理解できる話です。しかし、白檀に関して言えば、多くの人間に共通し、かつあの独特な香りと結びつく記憶など、まったく想像できません。少なくとも経験というレベルではあり得ません。もしあるとすれば、人間の意識下の話であり、DNAレベルの話ということになりそうです。だとしても、人間の原産地が、インドの白檀の木の下ではないことは明らかですから、なぜ人間が白檀をいい香りだと思うのかという謎は残ります。(写真出典:wedge.ismedia.jp)

2021年6月18日金曜日

劇場型犯罪

世界初の劇場型犯罪は、19世紀末のロンドンで起きた切り裂きジャック、ジャック・ザ・リッパ―事件だとされます。世界的に有名な未解決事件の一つと言えるジャック・ザ・リッパ―事件ですが、実は、事件の全容すら判明していません。アイルランド移民とユダヤ系難民が流入し、スラム化したイーストエンドのホワイトチャペルで、1888~91年にかけて、女性が残忍に殺害される事件が続きます。その数11件。うち死体損壊が特に激しい5件はカノニカル・ファイブと呼ばれます。手口の類似性からしてジャック・ザ・リッパ―の仕業は、この5件だけではないかともされます。その前後でも、死体損壊の激しい事件は、すべてジャック・ザ・リッパ―を犯人とする説もあり、全容は不明です。

また、この間、犯人と名乗る人物からの手紙が多数、警察やマスコミに送られています。多くは信憑性に欠けるものでしたが、3通に関しては警察も注目します。ただ、どれも犯人からのものという決め手に欠けました。うち1通には、エタノール漬の人間の腎臓が同封されていましたが、これも犠牲者の腎臓と特定するには至っていません。なお、ジャック・ザ・リッパ―という名前も、手紙の中で犯人が自称していたものです。当然、手紙はマスコミの注目するところとなります。それどころか、手紙の中には、新聞の売上を伸ばすために、記者が捏造したと思われるものも含まれていたようです。まさに劇場型と言える社会の熱狂がうかがえます。

当時、英国はヴィクトリア朝末期にあたり、帝国の最盛期にありました。何に依らずピークは、凋落のスタートでもあります。世界に先んじた英国の産業革命は、経済的隆盛の影で、設備の老朽化、産業資本集約の遅れ、重工業への転換の遅れ、そして深刻な労働問題を生じていました。都市は、産業構造の転換に伴い流入する労働者で溢れ、その受け入れの限界を超えていました。スラム化したイーストエンドは、 その象徴でもありました。マスコミは、ジャック・ザ・リッパ―事件を契機に、驚異的に売り上げを伸ばすとともに、折から盛り上がりをみせていた社会主義運動も背景に、失業とスラムの問題に切り込んでいきます。ジャック・ザ・リッパ―は、資本主義の喉元をも切り裂いたのかも知れません。

ジャック・ザ・リッパ―事件が、世界初の劇場型犯罪になった背景には、印刷技術とパルプ生産の向上による新聞の隆盛、そして義務教育による識字率の改善がありました。シリアル・キラーの動機は、個人的怨恨でも強盗でもありません。様々なパターンはあるものの、多くの場合、異常な心理による自尊欲求の充足が動機だと言われます。命を奪うだけでなく、レイプする、死体を損壊する、戦利品を持ち帰る、マークを残すといった行動に加え、犯行声明を警察やマスコミに送ることまでが、ある意味、一貫した自尊欲求を満たす行動と言えます。その意味において、マスコミの熱狂は、シリアル・キラーや劇場型犯罪の大前提でもあります。

2019年、ジャック・ザ・リッパ―がポーランド人理髪師であったことが、民間のDNA鑑定で明らかになったという報道がありました。ついにその日が来たかと思いきや、そのDNA鑑定には技術的問題があったという報道が後を追って流れました。130年経っても、同じことが繰り返されているわけです。ジャック・ザ・リッパ―は、今も劇場に立ち続けているとも言えそうです。ちなみに、ジェイムス・エルロイの「キラー・オン・ザ・ロード」(1986)は、シリアル・キラーが一人称で語るという極めて稀な小説でした。異能の作家エルロイの筆の力もあって、シリアル・キラーの心の闇が強烈に伝わります。読んでいて、これほど気持ちの悪い本もない、と思いました。ある意味、発売禁止にすべき本だとも思いました。(写真出典:medium.com)

2021年6月17日木曜日

エイジング・ビーフ

Smith & Wollensky
 NYへ赴任した直後、アメリカの保険会社の連中が、”Smith & Wollensky”で歓迎会をしてくれました。NYを代表するこのステーキハウスは、ランドマーク的存在でもあり、いくつかの映画にも登場しています。彼らは「ここのステーキは、クリスピーでジューシーで最高だ」と話していました。外側は香ばしく焼き、内側は肉汁たっぷり、というわけですが、味そのものについては、一切語っていません。平均的アメリカ人の味覚細胞は、日本人より3割少ないという話も聞いたことがあります。多少うなずける面もあります。ちなみに、”Smith & Wollensky”には、その後、何度も行く機会がありました。私は、その都度、出てこないのは承知で「ソイ・ソース(醤油)はないか」と聞き続けました。最後には、ついにソイ・ソースが出てくるようになりました。多少は、私の貢献もあったのではないかと自負しています。

NYには、ステーキの老舗や名店が多くあります。老舗では、ポーターハウス、キーンズ、デルモニコ、ギャラガーズ、ストリップ・ハウス、スパークス等々あります。また名店としては、なんといってもブルックリンのピーター・ルーガーということになります。熟成肉と言えばピーター・ルーガーであり、NYのナンバー・ワン・ステーキと言えばピーター・ルーガーです。そこで修行した人たちが開いたウォルフギャング、ベンジャミン、ベン&ジャックス等も大人気です。人気のメニューは、やはりTボーン・ステーキということになります。アルファベットのTに似た腰椎の両側にサーロインとテンダーロインという異なる肉がついています。テンダーロインが多いカットは、ポーターハウスと呼ばれます。カットの特性から大振りなステーキになります。

熟成、エイジングとは、肉のタンパク質を数週間かけてアミノ酸に変化させる工程です。うま味が増し、肉質が柔らかくなります。ただ、重量は60~70%程度まで減ることになります。ピーター・ルーガーはじめ、多くのステーキ店が行っているのがドライ・エイジングです。温度、湿度、通風といった管理が難しく、経験や技が必要とされてきましたが、近年は、各要素を自動管理する熟成庫が普及しているようです。一方、ウェット・エイジングも存在し、いわゆるチルド肉は、一定程度熟成された状態になっています。ただ、狙いすました熟成度合ではなく、結果的な熟成に過ぎません。魚にも熟成はあり、和食店等では魚の種類に応じて熟成をかけてきました。最近は、血抜きの技術が普及し、魚も、容易に熟成できるようになったようです。

強火で焼き上げた熟成肉の、香ばしくうま味の強いステーキも好きですが、もう一つ、私の好物があります。ロースト・プライム・リブです。最高ランクのプライム・リブに、じっくり火を入れたものです。好きなサイズにカットできる店もありますが、1ポンドくらいが標準です。ロースト・ビーフと言えばそれまでですが、英国風のせせこましいものとは、肉が違います。厚さが違います。NYでは、国連近くのパーム・トゥのロースト・プライム・リブが好きでした。他に飲み食いしなければ、今でも1ポンドはいけると思います。ただし、残り1/3になったところで、醤油が欲しいところです。なぜか日本には、ロースト・プライム・リブを扱う店がありません。唯一、LAから進出している専門店ローリイズで、ナパのロバート・モンダヴィと共に、本格的なロースト・プライム・リブが食べられます。

ウォルフギャングも日本に進出しています。六本木店に始まり、大阪、福岡も含め5店舗を展開中です。有名なホノルル店でファンになった人が多いようです。とても美味しい熟成肉が食べられますが、なかなか予約が取れないという難点があります。ベンジャミンも六本木に進出済ですが、なんと、2021年9月には、本家本元のピーター・ルーガーが恵比寿に店を出す予定です。恐らく、数か月先まで予約が入らない状態になることでしょう。(写真出典:de.wikipadia.org)

2021年6月16日水曜日

営業昔話(16)営業の神様

昔々、営業の神様といわれる人がおったとさ。

Joe Girard
営業の神様と呼ばれる人は、古今東西、また各業界にも数えきれないほどいるのでしょう。ギネス・ブックが認定した世界一の営業マンと言えば、シボレーのセールスマンだったジョー・ジラードということになります。40以上の職を転々としたジラードは、35歳でシボレーのセールスマンになります。そして、3年後には全米トップ、4年目以降は、12年間連続で、世界一のセールスマンと認定されます。彼の信条は「 人々が買うのは商品ではなく、人なのだ」という言葉に集約されます。人に好かれるためには、誠実な姿勢、清潔な服装、話を聴く習慣、笑顔を絶やさないこと、が大事だと言っています。なかでも「聴くこと」に徹したことこそ、ジラードが成功した大きな要因だったと思われます。

私が、常々、営業の神様と呼んでいた人がいます。東京の下町の中堅印刷会社の専務さんです。莫大な印刷予算を持つ営業企画部の部長だった私のところには、大手出版会社はじめ多くの印刷会社の方々が営業に来ていました。ただ、印刷会社の選定は、各課長さんたちに任せていました。実務を担う人間同士で決めるべき事柄と思っていたからです。年度末には、年間の印刷予算の執行状況が報告されます。それを見ると、毎年一番多くの契約を獲得しているのが、並み居る大手を差し置き、営業の神様の所属する中堅印刷会社でした。印刷も信頼の商売です。ミスがない、納期を守る、多少の無理がきく等、日ごろからの信頼の積み重ねが実績に現れるということです。

専務さんは、照る日も降る日も、毎日、営業企画部に顔を出します。私が忙しそうにしていると、ドア口にじっと立ち続け、私の目線を捉えると、目礼だけして帰ります。私が、多少ゆとりがあると見ると、デスクまで来て、決まって「一生懸命やらせていただきますので、なんなりとお申し付けください」とだけ言って帰っていきます。世間話をするわけでもなく、情報を聞き出すわけでもなく、接待に誘いだすわけでもありません。話したことがなくても、専務さんの誠実な人柄は、誰もが認めるところでした。ただ、毎年1回の接待ゴルフだけは受けていました。それも専務さんから直接誘われたものではありませんでした。ゴルフの誘いは、決まって当社の会長経由で来ました。

聞けば、その中堅印刷会社の社長と専務さん、そして当社の会長の3人は、戦後の混乱冷めやらぬ頃から、苦楽を共にしてきた、いわば戦友でした。お互い出世しても、年1回のゴルフだけは続けてきたと言います。その恒例のゴルフに、私を誘ってくださいと専務さんから会長に依頼があったというのです。今度の営業企画部長は、仕事ばかりで、酒も飲まなきゃ、ゴルフもしない、営業泣かせの堅物だと印刷業界では噂しております。よって、会長さんから誘ってみてください、と言われたのだそうです。ま、堅物の実態はともかくとして、確かに接待を受けている暇がなかったことは事実でした。思うに、会長と永年の付き合いがあれば、会長に「もっとこの会社を使え」と言わせれば話は簡単なはずですが、一度たりともそんな話はありませんでした。会長とその会社との関係すら知りませんでした。これも営業の神様の人となりを伝える話だと思います。

「私は話すのが苦手なので、営業には向かいない」という人がよくいます。大きな誤解です。立て板に水の如く話しまくるのが、優秀な営業とは限りません。むしろ、聴くことこそが営業の本質です。話を聴くことで、お客さまの人となり、価値観、潜在的ニーズが明らかになります。情報に基づき、的確なタイミングで、的確な提案をすれば、確実に契約は成立します。営業とは聴くこととみつけたり。(写真出典:goodreads.com)

2021年6月15日火曜日

カンダハ―

カンダハ―
中学生の頃、スキー場の最も高いところから、最も斜度の厳しい斜面を、滑降競技よろしく、猛スピードで駆け降りることが楽しくてしょうがない時期がありました。危険と言えば、かなり危険な遊びです。ある日、友人たちとワイワイ滑っているところを、中学の体育教師に見つかり、スキーの基礎も知らないガキの遊びは、本人だけでなく、他人を巻き込む事故になりかねない、と大目玉を食らいました。そして、半ば強制的に、冬休みの3日間、その教師によるプライベート・レッスンを受けさせられました。レッスンは、緩斜面で、直滑降、斜滑降、プフルークボーゲンと、基礎中の基礎から始まりました。山のてっぺんから滑降していた我々にとっては、バカバカしいレッスンでした。いわば、今更、あいうえおを何度も書かされるようなものです。

ところが、初日のレッスンが終わる頃には、皆、真剣に基礎練習を行うようになっていました。スキーというスポーツが、加重(エッジング)と抜重で構成されているという理屈が分かったからです。それまでは、感覚的に滑っていただけでした。理屈が分かると、加重と抜重によって、自在にスキーを操れることが面白くなったわけです。3日目には、皆で、完璧に同じシュプールを描いて滑降することができ、他のスキー客から拍手までもらえました。それまでは危険な滑降で皆から嫌われていた不良少年たちが、見事に更生したというわけです。高校時代のスキーは、ゲレンデではエレガントに綺麗なシュプールを描くこと、急斜面ではこぶに逆らわず膝の屈伸で安定的に滑ることに集中しました。そうすべきだったからではなく、それが楽しかったからです。

その頃、スキー用具も大きく変わり始めていました。グラスファイバーのスキー板、プラスティック製のバックル式スキー・ブーツ、そしてステップ・イン式のビンディング等です。ステップ・イン以外は、10年以上前から存在し、競技者が使っていましたが、この頃から一般化したように記憶します。その頃まで、板は合板が主流で、靴はヒモ式の革靴が一般的だったように思います。ビンディングは、ワイヤーで靴の踵を固定し、靴の先でレバーを倒してワイヤーを固定する、いわゆる”カンダハ―”が一般的でした。カンダハ―は、1929年に開発されていますので、随分と長命だったわけです。カンダハ―という名称は、当時のアルペン・スキーのレース名にちなんだとされます。Kandaharとは、アフガニスタンのカンダハールのことです。アフガンでスキーのレースなどあり得ません。実に不思議な話です。

19世紀、大英帝国とロシア帝国は、中央アジアの覇権を争っていました。その一環として、英国は、インドからアフガンに2度侵攻し、最終的には保護国化しています。第二次アフガン戦争の際、包囲されたカンダハールの英国軍を救出るため、ロバーツ将軍は、1万の将兵を引き連れ、カブールを出発します。ロバーツは、灼熱の乾燥地帯約360マイルを20日間で走破し、見事、カンダハール救出に成功します。大英帝国は、この偉業を称え、ロバーツをナイトの位に叙し、”カンダハールのロバーツ卿”という称号を与えました。1903年、ロバーツは、アルペン・スポーツ・クラブ副会長に就任し、1911年に行われた世界初のアルペン・レースに優勝カップを寄贈します。レースは、”カンダハールのロバーツ卿”チャレンジ・カップと命名され、略してカンダハ―・カップと呼ばれます。こうして、アフガンとアルペンが結びつき、ビンディングの名前がカンダハ―になったというわけです。

中学生当時、私は、親父のお古のニシザワの合板スキーに乗り、ヒモ式の靴を履いていました。ただ、ビンディングだけは、チロリアの最新式ステップ・インでした。実は、買ったのではなく、スキー用品の新作展示会に行った際、抽選会で当てたものでした。1等賞のクナイスルのグラスファイバー・スキーが欲しくて参加した抽選会だったのですが、さすがにこれは当たりませんでした。思えば、その頃は、72年の札幌冬季オリンピック開催を控え、スキー・ブームだったのかもしれません。(写真出典:skitop.jp)

2021年6月14日月曜日

ジンギスカン

大学生の頃、高校時代の友人から、彼の大学同級生の実家を訪ねるので一緒に行かないかと誘われ、のこのこ付いていったことがあります。その実家というのは、北海道は新十津川の農家でした。まずは滝川で待合せ、有名な松尾ジンギスカンの本店へ向かい、特上肉を購入しました。ジンギスカンと言えば、薄くスライスしたマトンが主流の時代、分厚い特上肉は、本店でしか買えない希少品でした。見渡す限り畑が広がる新十津川の農家で食べた分厚い羊肉は絶品でした。外を見れば、1両編成のディーゼル車が通っていきます。あれは何?と聞けば、札沼線とのことでした。札沼線の北海道医療大学駅と新十津川駅間は、昨年、廃線になっています。

学生時代、サッポロビール園でアルバイトをしていたことがあります。夏の最盛期には、様々な大学から集まったアルバイトが250人くらいまで膨れ上がります。仲間が多いのと、有名人が来店するので、結構、楽しいバイトでした。ビール園の売りは、ジンギスカン食べ放題と生ビール飲み放題でした。使う肉は、輸入された冷凍マトンの薄切りです。真ん中が盛り上がったジンギスカン鍋で焼き、特製のタレで食べます。数時間働くと、羊肉の脂で、眼鏡は曇り、髪も脂でベトついてきます。仕事あがりには、従業員用の浴場でしっかり洗うのですが、なかなか脂は落ちませんでした。鍋を洗うのもバイトの仕事でしたが、厚いゴム手袋をして、熱湯のなかで洗わないと脂はとれませんでした。私は、羊肉が好きなので問題ありませんが、あの脂と独特の匂いが苦手な人には務まらないバイトでした。

日本の緬羊飼育は、明治に入り、軍服の生地を増産するために始まります。1875年、明治政府が千葉県の冨里に開設した下総牧羊場が始まりとされます。ただ、その数年前、北海道開拓使が、牧羊を試験的に行っています。いずれにしても、羊毛が目的とは言え、同時に食用の試みも始まったようです。羊肉は、時間とともに臭みが増します。食用の取組は、この臭みとの戦いでもあります。焼方とタレがポイントになります。焼方は、日本の大陸進出に伴い、中国で烤羊肉(カオヤンロウ)を食べた人たちが、余分な脂を落としながら焼くスタイルを国内に持ち帰りました。中央が盛り上がったジンギスカン鍋は、1935年、東京の「成吉思荘」発祥とされます。一方のタレは、漬け込んでから焼く、焼いてから付ける、味噌ベースか醤油ベースか等様々あります。付けダレは、長野で開発されたというたっぷりの林檎を加えるスタイルが主流です。ちなみに、私は、昔から、札幌のベル食品の「成吉思汗のたれ」一筋です。

かつて東京では、羊肉を食べたことがない、あるいは苦手という人がほとんどでした。2006年頃、BSE問題に起因する牛肉離れという現象が起こりました。替わって、健康にも良いラム肉のブームが到来しました。ブームは、数年で終わりましたが、多くの根強いファンも獲得し、ジンギスカンの店もある程度残り、スーパーでも良いラム肉が買えるようになりました。むしろ、昔ながらの臭みの強い冷凍マトンの薄切りの方が手に入りにくいほどです。また、高級ラム肉も食べることができるようになりました。最高級は、希少なサフォーク種の生肉でしょうか。札幌の超人気店「いただきます。」で、サフォーク肉を食べた時には感動しました。北海道の直営農場で飼育された食用専用のサフォーク肉は、クセがなく、柔らかく、うま味が強いという特徴を持ちます。一方、行列の絶えないススキノの老舗「だるま」は、マトン一本鎗です。羊肉のうま味は、マトンの方が濃いと言われますが、確かにヤミツキになります。

さて、問題は、なぜ羊の焼肉をジンギスカンと呼ぶのか、ということですが、その起源も諸説あります。よく知られているのは、札幌農学校出身で、満州国の総務庁長官を務めた駒井徳三が命名したという説です。満州の烤羊肉と日本で人気の義経=ジンギスカン説から発想したと言われます。ちなみに、青森県南部地方には「義経鍋」なるものがあります。料理ではなく、焼肉としゃぶしゃぶが同時に楽しめるように設計された鍋です。義経都落ちの際、兜を使って鴨を食したことが始まりとされますが、胡散臭さ満載の起源です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年6月13日日曜日

乳白色の肌

長い髪のユキ(1923)
ポーラ美術館で「フジター色彩への旅」展を見てきました。ポーラ美術館の企画展は、いつも上質で、見ごたえがあり、キュレーターの心意気を感じさせます。藤田嗣二は、エコール・ド・パリを代表する画家の一人であり、パリでは知らぬ者とていない人気作家でした。個人的には、あまり好きな作風ではありませんが、彼が名声を勝ち得えるきっかけとなった、いわゆる「乳白色の肌」は素晴らしいと思います。藤田は、死ぬまで、その秘密を明かさなかったようですが、近年、科学的な解明も進み、謎が解けつつあるようです。いわゆるバリウムにベビー・パウダーを混ぜたものを下地に使い、炭酸カルシウムと鉛白を混ぜた絵具を塗っていたようです。

西洋では、14世紀後半に油絵具が発明されると、絵具を混ぜて多様な色彩を生み出すことが可能となり、表現の可能性が広がりました。対して日本画で用いる顔料は、混ぜ合わせることができないので、多くの色を用意する必要があります。現在、日本画で用いる顔料は、1万色とも2万色とも言われ、画家たちは、常に1~2千種類を手元に置いているようです。日本産業規格、いわゆるJISが定める慣用色名は296色、源氏物語に登場する色は368色、これだけでもすごいと思うのですが、表現者にとっては十分ではなく、新たな色が追及されるわけです。デジタルの世界では、三原色を用いたRGBによって無限に色の創造が可能ですが、顔料となれば、実に大変な作業なのだと思います。藤田は、西洋画の世界に、日本画で用いる面相筆を使った線描、そして日本画の顔料の発想で作った乳白色を持ち込みました。

藤田嗣二は、1886年、後に軍医のトップ陸軍軍医総監となる父の元、東京に生まれます。東京美術学校、後の東京芸大に学びますが、黒田清輝等の写実主義一辺倒の学風に合わず、成績不振だったようです。27歳で渡仏、モンパルナスに居を構え、世界中からパリに集まったピカソ、モディリアニ、スーチン、キスリング等々のボヘミアンたちと交流します。その中から生まれた流れがエコール・ド・パリであり、藤田は、その代表的な作家として名を成しました。1931年には、個展開催のため、南米に渡ります。南米の色彩に魅了された藤田は、2年近くを現地で過ごし、画風にも鮮やかな色が現れます。その後、日本に戻った藤田は、日中戦争のなか従軍画家として中国に渡ります。一度、パリに戻りますが、世界大戦勃発とともに帰国、再び従軍画家として活動し、陸軍美術協会理事長にもなっています。

戦後、藤田は戦争協力者の烙印を押され、批判を浴びることになります。陸軍が藤田の画風を好むわけもなく、軍医総監の嫡男にして高名であることを利用しただけなのでしょう。また、藤田の戦争画も、国威発揚とは程遠いものだと思います。しかし、時代に流された藤田への批判を否定することもできません。藤田は逃げるように日本を離れ、1949年、フランスに戻ります。しかし、エコール・ド・パリの時代は遥か彼方に過ぎ去り、戦争協力者という烙印も影響してか、亡霊扱いされたようです。それでも支援者の助けもあり、挿絵本や少女像のシリーズで独自の画風を展開し、1968年、スイスで亡くなっています。藤田の「「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」という言葉は、あまりにも有名です。藤田は、没後に再評価されたわけですが、生前、これほど母国で認められなかった画家もいないと思います。

藤田が日本で評価されなかったのは、戦争の落とした影ゆえ、とも言えます。軍国主義の時代がなければ、エコール・ド・パリの流れが、日本画壇そものを変えていた可能性があります。藤田の国内での評価も違ったはずです。戦争がなければ、従軍画家のスケープゴートにされることもなかったわけです。藤田のみならず、戦争がゆえに、その才能が評価されなかった作家は多くいるのでしょう。その多くは発表の機会どころか、制作の機会をも奪われた人々です。それに比べれば、国内での評価は不満でも、パリで高い評価を得たわけですから、藤田は幸せだと思います。(写真出典:atpress.ne.jp)

2021年6月12日土曜日

甘酒茶屋

かつての東海道、今は箱根旧街道と呼ばれますが、畑宿と元箱根の中間あたりに甘酒茶屋はあります。400年前に開業し、現在のご当主は13代目になるそうです。江戸幕府が箱根街道を整備した頃に店を出しているわけです。さすがに建屋は、何度か手を加えてきたようですが、往時の面影をしっかり残しています。”箱根八里”とは、小田原宿・三島宿間を言います。明治後期の唱歌「箱根八里」(鳥居忱作詞、瀧廉太郎作曲)に”箱根の山は天下の嶮、函谷關もものならず”と歌われるとおり、箱根街道は、非常に険しい山越えの道です。ぬかると危険なので、江戸期には石畳も整備され、一部は今も残ります。畑宿と箱根の関所の間にあって、甘酒茶屋は、貴重な休憩所だったわけです。ちなみに”函谷關”とは、中国河南省にある古代からの難所。切り立った崖の中を数キロに渡って道が続き、いくつかの歴史的な戦いの舞台にもなっています。

 私は、古民家が大好きです。東西を問わず、古民家系のレストランやカフェにも惹かれます。古民家で、昔の人々の生活を想像すると、興味が尽きることはありません。甘酒茶屋は、生きた博物館とも言え、雄弁に江戸の生活を感じさせます。甘酒茶屋は、文藝絵画にも、しばしば登場していますが、最も有名なのは忠臣蔵の”神崎与五郎 東下りの詫び証文”だと思います。京から江戸へ向う赤穂浪士神崎与五郎(神崎則休)が、甘酒茶屋で休んでいるとやくざな馬子の丑五郎に「馬に乗れ」と言われます。与五郎が丁重に断ると、弱腰侍と見て取った丑五郎は、図に乗って、しつこくからみます。討ち入り成就のために、ここで面倒は起こせないと、我慢に我慢を重ねる与五郎は、詫び証文まで書かされます。討ち入り後、与五郎が赤穂浪士の一人と知った丑五郎は、自分の行いを恥じ、出家して与五郎を弔ったという後日談もあります。

甘酒茶屋というくらいですから、一番の売りは甘酒です。甘酒の歴史は古く、古墳時代には醴酒(こさけ)等として知られ、「日本書紀」にも天甜酒(あまのたむざけ)として登場しています。その製法も、古くから、米麴と米で作る方法、そして酒粕から作る方法の二つが確認されています。甘味が貴重であったことから、ハレの日の飲料として一般的だったようです。また、栄養価が高いことから夏バテ対策としても親しまれ、俳句では夏の季語とされています。甘酒茶屋の甘酒は、江戸時代からの製法を受け継ぎ、米麹と米だけで作っているそうです。砂糖を入れていないので、ほんのりとした甘さが心地よい甘酒です。箱根八里を越えていく旅人にとっては、このうえない体力回復の妙薬だったのでしょう。甘酒茶屋では、夏になると冷やした甘酒も出してくれます。

峠越えの体力を確保するための力餅も大事なメニューです。磯辺ときなこが基本ですが、きなこに荒く挽いた黒ゴマをまぶしたものも数量限定で出しています。黒ゴマが香ばしくて、2切の餅など、ペロリといけます。また、おでんもスルーできないメニューです、いわゆる昔ながらの煮田楽のスタイルです。出汁で煮た玉こんにゃくに特製の味噌だれをかけて食べます。もともと田楽は、豆腐に味噌を塗って焼いたものですが、江戸初期には、煮て味噌をかける簡便な煮田楽が流行し、後におでんへと発展していきます。甘酒茶屋の玉こんにゃくは、他では見かけない、ザクザクとした荒い食感が特徴的で、江戸期のこんにゃくはこんな感じだったか、と思わせます。味噌だれが、また絶品。きめ細かく味噌の風味が強いのですが、酒や味醂、あるいは木の芽等の風味がいい味を出しています。最後は、器をなめりたくなります。

客の大半は車で訪れるのかと思いきや、いつも必ずハイカーたちがいます。恐らく五街道制覇組ではないかと思います。先輩に一人、江戸期の五街道を全て踏破したというツワモノがいます。聞けば、結構、ハマっている人たちがいるとのこと。四国八十八ヵ所巡り、全国百名山巡り等と並ぶメジャーな旅だそうです。街道と言っても、箱根のようにほぼ厳しい登山という場所もあります。老人の暇つぶしではありますが、実にハードな挑戦です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年6月11日金曜日

悪女

京都の人たちが”先の戦”と言えば、応仁の乱のこと、というのは有名な話です。千年の都の時間の捉え方の大きさ、という話でもあります。その後、洛中で戦闘がなかったわけではありませんが、応仁の乱ほどの戦はありませんでした。11年に及んだ応仁の乱は、京都をほぼ壊滅させました。日本の歴史の分水嶺とも言われる応仁の乱ですが、皆、名前は知っていても、なかなか概要までは説明できない、という不思議な特徴があります。その主な理由は、戦の原因が複層的で分かりにくいこと、勝敗がつかず政権も変わっていないこと、という2点に尽きるのでしょう。さらに言えば、華々しい勇者も、大規模な戦闘もなく、後の世で人気狂言の題材として取り上げられることがなかったため、人々の記憶に残らなかったとも言えます。

2016年に、呉座勇一が「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」を中公新書から出すと、分かりやすいと評判になり、歴史書としては異例のベストセラーになり、以降、出版界の日本史ブームが起きました。他の歴史書よりは分かりやすかったのかもしれませんが、題材そのものがグダグダとしているので、一気に読めるほど明解なものでもありませんでした。そもそもは、三管領家の一つ畠山氏の家督争いが起こり、もともと不仲だった山名宗全と細川勝元が介入します。そこに足利将軍家のお家騒動が重なり、戦は複雑な様相を呈します。全国各地の有力な武家も巻き込まれますが、彼らの動機としては領土的野心が大きく、戦はさらに複雑な構造になり、長引くことになりました。

応仁の乱に関係する人物のなかで、最も名が知られているのは、ひょっとすると日野富子かも知れません。富子は、室町幕府8代将軍足利義政の正室でした。生家は、藤原北家の流れを組む日野家であり、3代将軍義満以降、将軍の正室は日野家から嫁いでいます。また、富子は、 北条政子、 淀君と並び、日本三大悪女の一人とも言われます。もちろん、基準など明確ではありませんが、少なくとも歴史に大きな影響を与えたという点は共通しています。女だてらに、政治に口を出した、という家父長的価値観から、悪女とされているのかもしれません。 富子には男子が産まれず、将軍義政は、実弟を環俗させ、後継者とします。ところが、翌年、富子に男子が誕生。富子は、我が子を将軍にすべく暗躍します。これが、応仁の乱を一層複雑にしました。 

富子を悪女とする理由は、他にもあります。20歳の時に男子を出産しますが、その日のうちに亡くなります。富子は、嫡男死去を、足利義政の乳母にして寵愛を受ける今参局(いままいりのつぼね)の呪詛のせいだとして、琵琶湖の沖ノ島に流罪とします。そして、今参局は、流される途中で刺客に襲撃され、自害しています。刺客を差し向けたのは、富子とも、富子の祖母にして義政の母でもある日野重子だとも言われます。富子は、義政の4人の側室をも追放しています。さらに、富子には、守銭奴としての悪評がありました。東軍側にも、西軍側にも、軍資金を貸し出し、さらに米の投機でも荒稼ぎし、結構な財産を築いたようです。また、応仁の乱の後、京の入り口数ヶ所に関所が設けられ、神社仏閣の再建のために通行料が徴収されていました。富子は、これを自らの懐に入れていました。さすがに、これは民衆の怒りを買い、一揆が起きています。

もちろん、富子は、贅沢をするために蓄財に走ったのではありません。 将軍の御台所として、日野家の娘として、贅を極めた生活を送っていたはずです。富子は、戦乱の世にあって、実子を将軍にするために、できることは何でもする覚悟だったのでしょう。しかも女性という立場では、出来ることは限られます。その一つが、いざという時のための政治資金、あるいは軍資金を蓄積することだったのでしょう。ところが、その実子義尚は、長じて母と反目し、かつ若死にします。その後も、富子は、幕府、および日野家を、事実上支配していきます。力の背景に財力があったとも言えるのでしょう。その権力への執着もさることながら、蓄財によって得た財力を背景に権勢を振るうという極めて稀なケースだと思います。(写真:宝鏡寺蔵日野富子座像 出典:bunshun.jp)

2021年6月10日木曜日

渋谷系

野宮真紀
新潟に赴任していた頃は、とても忙しい日々が続き、少しホッとできるのは、日曜の朝くらいでした。そんな時に、よく聴いていたのが、テイ・トウワを中心とした渋谷系、そしてm-floでした。そもそも日本のポップを聴くことは皆無に近かったのですが、彼らの曲はリラックスできるように感じ、結構、ハマりました。新潟は米どころです。どこへ行くにも田んぼのなかを通っていきます。それはそれで、結構、気に入っていましたが、さすがに、毎日、田んぼを見ていたので、多少、東京を感じられる曲でバランスを取ろうとしていたのかも知れません。

90年代に流行した渋谷系は、音楽的には、実に軽い、中身のない、いわばカフェ・ミュージックと言えます。ただ、その音楽的なレベルは高く、従来の日本の音楽にはないセンスの良さを感じました。彼らの音楽に共通する都会的なムードは、生まれた時から多様な洋楽を聴いて育った彼らのネイチャーなのでしょう。70~80年代のいわゆるシティ・ポップの後継とも言われますが、少し違うように思います。シティ・ポップが登場した時には、日本のポップも変わったな、と思ったものです。はっぴいえんど、山下達郎、大瀧詠一、荒井由実、竹内まりあ、南義孝等々、思春期に洋楽に出会った人たちが、気合を入れて作り上げた新しい日本のポップスです。セブンスコードを巧みに使う都会的な楽曲が、高度成長期を経た日本の豊かさを象徴していたように思います。

渋谷系は、どちらかと言えば、都会的な若者たちの文化的ムーブメントの音楽的側面といった印象です。そのコアにあるのは、50~60年代の音楽やファッションといった文化へのリスペクトです。そして、それは渋谷独自の動きではなく、世界的な傾向でもありました。シティ・ポップが、あくまでも日本のポップスだったのに対して、渋谷系は、世界標準のポピュラー・ミュージックだったと思います。新しい世代は、易々と国境を越えたわけです。テイ・トウワは、その典型かも知れません。美大生だった頃のテイ・トウワの音楽は、坂本龍一をして「テクニックはないけど、異常にセンスが良い」とまで言わせたようです。グラフィック・デザインを学ぶためにNYへ留学したテイ・トウワは、1990年、ハウス・ミュージックのバンドの一員として、世界的メガ・ヒットを飛ばしています。

渋谷系を代表するバンドと言えば、ピチカート・ファイブということになります。軽くてお洒落な楽曲とともに、リード・ヴォーカルの野宮真紀のファッション性の高さも魅力だったのでしょう。ピチカート・ファイブは、国際的評価も高く、94年には北米デビュー、翌年には、アメリカとヨーロッパでのツアーを成功させています。さらにロバート・アルトマンがファッション業界をシニカルに描いた「プレタポルテ」、世界的に大ヒットした「チャーリーズ・エンジェル」や「オースティン・パワーズ」等、海外の映画でも楽曲が使われています。要は、60年代を彷彿とさせる上質なポップ・ミュージックとしてのセンスの良さが、国際性を勝ち得たということなのでしょう。ピチカート・ファイブは、2001年に解散しています。センスの良い人たちに評価されていたバンドは、よりポピュラーな存在へと変わりつつありました。解散は、見事なタイミングだったと思います。

m-floは、日本のラップの系譜のなかに位置付けられるのでしょうが、VERBALの持つ音楽的センスの良さは渋谷系に通じます。在日韓国人のVERBALは、米国で教育を受け、牧師を目指していました。このミックス・カルチュアルなバッググラウンドが、世界で通用する抜群の音楽センスを生んだのでしょう。いずれにしても、渋谷系以降、国境をものともしない日本のミュージシャンが増えたと言えそうです。ただ、それは、まだエレクトロやラップといった特定の分野に限られているように思います。国家政策としてコンテンツ産業を育成してきた韓国の成功とは、まったく異なる動きではありますが、日本のミュージシャンも、確実に国境を越える人が増えつつあると思います。(写真出典:columbia.jp)

2021年6月9日水曜日

ズブロッカ

20代半ばの頃、銀座のロシア料理屋へ4人で行った時のことです。その店では、ズブロッカを瓶ごと凍らせて出してくれました。そもそも口あたりの良いズブロッカですが、キンキンに冷やすと、一段と飲みやすくなります。その日は、スラブ系の飲み方を気取り、何かに乾杯してオンス・グラスを一気に煽るスタイルでいきました。これが楽しくて、結果、4人で4本を空けました。ズブロッカのアルコール度数は37.5度。危険な飲み方です。その頃は、決して酒に強い方ではなかった私としては、完全に飲みすぎでした。 

地下にあったほの暗い店から階段を上がって地上に出ると、銀座のネオンが、すべて放射状に拡散して見えました。要は瞳孔が開いていたわけです。アルコールの血中濃度が上がると、中枢神経に抑制効果がかかり、反応が鈍くなります。眩しくても、瞳孔が閉じない状態になっていたわけです。皆と別れ、何とか新橋駅にたどりつき、ホームのベンチに座り込みました。多少は落ち着くかと思ったのですが、依然、もの皆すべて放射状に眩しく光って見えます。これは、相当にヤバイと思い、三井アーバンホテルに飛び込み、ベッドに倒れ込みました。銭金のことは言ってられない状況でしたが、悲しいことに、空いていた部屋は、ベッドが3つもある部屋でした。

ズブロッカは、ポーランドを代表するフレイバード・ウォッカです。ボトルのなかに、バイソン・グラスというイネ科の植物の葉が一本入っています。起源は古く、14世紀と言われます。ウォッカの蒸留が始まった頃で、まだ技術が十分に確立されておらず、残留物が嫌な臭いを発していたようです。それを消すために、長寿の妙薬とされていたバイソン・グラスを加えたのだそうです。バイソン・グラスは、欧州で唯一太古の姿を留めると言われる世界遺産”ビアウォヴィエジャの森”にしか自生しないと言います。その採取は、厳しく制限され、20家族だけが許されているそうです。多少甘味のある緑濃い香りが特徴ですが、香りだけでなく、ズブロッカの味や色、そして舌ざわりにも独特な風味を与えています。日本では、よく桜餅の香りに似ているとも言われます。

ズブロッカが日本に入ってきたのは、いつの頃なのかは、よく分かりません。現在の製法が確立したのが、1953年と言いますから、それ以降なのでしょう。ズブロッカは、決してメジャーな酒ではありませんでした。ただ、徐々にズブロッカの知名度が上がっていったのは、開高健の貢献によるところが大きいと思います。自他ともに認めるズブロッカ・ファンだった開高健は、多くのエッセイでズブロッカを取り上げ、世界の名酒とまで言い切っています。芥川賞作家、サントリーのコピー・ライター、ヴェトナム従軍記者、釣りキチ等、多様な顔を持つ開高健ですが、豊富な知識とこだわりで、そのエッセイは若者に大人気でした。恐らく開高健のエッセイでズブロッカを知り、はまった人も多かったのではないか、と想像できます。

ズブロッカの飲み方は、何といっても冷やしてストレートだと思います。とは言え、結構、強い酒です。ポーランドでは、倍量のアップル・ジュースを加えた”シャルロッカ”という飲み方も一般的だと言います。最近、日本でも広まりつつあるようです。ちなみに、シャルロッカは、ポーランド語でアップル・パイのことだそうです。世界のウォッカの売上ナンバー・ワンは、圧倒的にスミノフです。本場ロシアのウォッカと思われがちですが、純然たる米国企業による米国産ウォッカです。ズブロッカの世界での売り上げは、堂々の第5位とのこと。どちらかと言えば、マイナーな酒だと思っていたので、これには驚きました。(写真出典:aucfan.com)

2021年6月8日火曜日

ポンペイ

ポンペイ遺跡を訪ねて、特に印象深かったのは、犠牲者の石膏像、石畳の道の轍、壁の落書きでした。いずれも、2千年を隔てて、なお街の息遣いを伝えます。ポンペイは。紀元前7世紀には、オスキ人とヒーコ人の集落として存在したようです。エトルリア人やサムニウム人の支配も受けますが、紀元前1世紀には同盟市戦争でローマに敗れ、以降、ローマの植民都市となります。水はけの良いヴェスヴィオ山の裾野を活用したブドウ栽培とワイン醸造、そしてアッピア街道につながる港湾都市として栄えます。62年には、大きな地震で被害を受け、ローマ風の街並みとして再建されています。そして79年8月24日午後1時、ヴェスヴィオ山が噴火します。地震は、噴火の前兆だったとも言われます。噴火は12時間続き、25日深夜には火砕流が発生、街は瞬く間に火山灰で埋めつくされます。同時に有毒なガスも街を襲い、火砕流から逃れた人々も、このガスで即死したとみられています。

それ以前にも、それ以降にも噴火を繰り返してきた活火山ヴェスヴィオ山ですが、、1880年には、山頂まで登山電車が敷設されます。そのCMソングとして作られたのが「フニクリ・フニクラ」でした。世界最古のCMソングと言われます。いまやイタリアを代表する歌として知られます。国際的リゾートのレストランで演奏するバンドは、日本人の団体が来ると「さくら」を演奏し、イタリア人が来ると「フニクリ・フニクラ」を演奏したものです。日本では、1961年にNHKが”みんなのうた”で取り上げて以降、ポピュラーになります。”フニクリ・フニクラ”とは、イタリア語の登山電車”フニコラーレ(Funicolare)”から来ています。この曲のお陰で、鳴かず飛ばずだった登山電車は、大人気になったそうです。ただ、1944年の大噴火で、破壊され、運行を終えています。

79年のヴェスヴィオ山噴火の際、ポンペイの人口は約1万人。噴火とともに、多くの人が避難していますが、噴火を甘く見たか、何らかの仕事があったのか、2千人ほどが街に残っていました。火砕流は、時速100kmを超えるスピードでポンペイを襲ったと推測されています。堆積した火山灰は5mに達します。言わば、街は瞬時に冷凍保存されたようなものです。18世紀に発掘が開始されると、街並も、建物も、フレスコ画も、装飾品や生活用品も、往時の姿そのままに現れます。火山灰に含まれる成分が乾燥剤の働きをしていたようです。犠牲者の遺体は、腐敗して無くなっていましたが、火山灰には空洞が残りました。そこに石膏を流し込んだものが石膏像になったわけです。表情までは分かりませんが、死んだ時の姿勢そのままの石膏像は、リアルに惨劇を伝えます。

ポンペイでは、古代ローマの高度な都市文化を、現実感を持って見ることができます。街路は碁盤の目に区画され、歩道と車道が分けられています。上下水道が完備され、公衆浴場もあります。レストランやバーを含む様々な商店が軒を並べています。パン屋にはパンも残っていたようです。通りに面した壁には、選挙ポスターが残り、娼館の壁には、見事な色彩で男女の交わりが描かれています。フレスコ画については、特にポンペイ・レッドと呼ばれる、独特の深みがあって、なおかつ鮮やかな赤色が見事です。ローマ以降、様々な技術革新はありました。ただ、社会の制度やインフラの大まかな姿は、何も変わっていないのではないか、とさえ思います。ポンペイ遺跡は、まさにそれを実感させられる場所です。

1700年間、火山灰によって保存されてきたポンペイの街並ですが、再び大気に触れて、浸食が進んでいます。すでに倒壊した建造物もあります。敵は、雨風だけではなく、莫大な数にのぼる観光客、そして盗賊でもあるようです。イタリア政府にょる保存プロジェクトが進行しています。しかし、膨大な予算と時間のかかるプロジェクトだと言われます。ポンペイは、世界遺産中の世界遺産です。世界中から、もっと多くの寄付、もっと多くのボランティアを募って、保存すべき奇跡の街だと思います。(写真出典:theguardian.com)

2021年6月7日月曜日

国体無用論

長崎県立陸上競技場
かつて、地方の中核都市には、必ずと言っていいほど”国体道路” が存在しました。正式名称ではなく、国体開催に合わせて整備された道路という意味です。1946年、戦後の混乱期の中で国民に希望と勇気を与えるために、国民体育大会、いわゆる国体が始まりました。スポーツ振興のみならず、地方都市の戦後復興としての意味合いもありました。国体は、その目的を、十分に果たしてきました。しかし、もはや戦後ではないと言われてから半世紀以上経ちます。手仕舞いのタイミングを失したまま、継続されているように思えてなりません。

近年、国体が、国民の注目を集めることにありません。都道府県対抗という枠組みに人が熱狂することもありません。下手をすれば、国体開催中の県ですら、そのことを知らない県民がいるほどです。競技者のための競技会でしかありません。それならそれでもいいのですが、国体という枠組みゆえに膨大な予算が支出されるわけです。スポーツ選手にとっては、大会は多い方がいいのでしょうが、施設の建設等に、毎年、数百億年の血税が使われています。スポーツ振興に反対するものではありません。ただ、その予算があれば、もっと効率的に選手育成や競技人口拡大を実現できるように思えます。

国体形骸化の代表的な事例が、開催地の総合優勝必須化です。1964年の新潟国体以降以降、開催地が総合優勝することがほぼ常態化し、むしろ総合優勝しなければならない、というプレッシャーに変わりました。そもそも開催地は、予選なしでエントリーできる優位な仕組みもありますが、潤沢な国体予算のなかから選手強化費用を出しやすく、さらには、他県の有力選手を臨時職員として採用して出場させるという荒っぽい手まで繰り出すようになりました。そのニーズに対応して、セミプロのジプシー選手まで存在していました。もちろん、こうした傾向に異を唱えた県もありますが、ごく少数でした。2011年、日本体育協会も、さすが選手の参加資格の厳正化を行っていますが、網をかいくぐるよう対応は、まだ存在するようです。

膨大な予算が投入される競技施設にも問題があります。地方に設備の整ったスポーツ施設が増えるというメリットは大きなものがありました。しかし、昭和後期くらいからは、残念な施設が増えていきます。国体の開催要領に従えば、開会式の3万人を収容できるA級の陸上競技場を作り、サブトラックも用意する必要があります。半世紀に一度、それもたった一日のために作るわけです。広大な敷地は、当然、アクセスの悪い場所になり、専用の道路も作ることになります。当然、国体後の民間利用としては、実に使い勝手の悪いものになります。屋内競技場も、バスケットボールのコート4面が基本となります。これも、客席が遠くなるので、その後は使いにくいものとなります。あまりにも立派な競技施設があると、例えニーズがあっても、手ごろなスポーツ施設は作りにくくなります。結果、国体用競技施設が宝の持ち腐れどころか、各地のスポーツ振興のハードルにもなりかねません。

インフラ整備は、地方行政にとって、とても重要な課題です。国体が、その機会を提供してしてきた面は理解できます。しかし、近年、行政の予算は、実に多様な分野で必要とされます。半世紀に一度とは言え、膨大な予算を国体につぎ込むことは問題です。その経費の半分でも、日ごろのスポーツ振興に振り向けられたら、大きな違いを生み出せるように思います。これは、政府が悪者になってでも判断すべきことであり、”政治主導”の真価を見せてもらいたいと思います。(写真出典:hasetai.com)

2021年6月6日日曜日

涮羊肉

龍水楼の涮羊肉
神田小川町近くの「龍水楼」は、知る人ぞ知る中華の名店です。清朝最後の皇帝にして満州国皇帝だった愛新覚羅溥儀の弟溥傑が愛した店でもあります。正真正銘の北京火鍋「涮羊肉(シュワンヤンロウ)」が食べられる店です。かつて、都内で涮羊肉がたべられる店は龍水楼だけだったのでしょうが、最近は、北京から涮羊肉を売りにする店も出店しているようです。涮羊肉は、ラムのしゃぶしゃぶですが、生後4か月の子羊の内腿だけを使います。子羊なので、肉の臭みもまったくなく、あっさりとした食べ物なので、十数種類の薬味を自分の好みで合わせて付けダレにして食べます。北京名物ですが、もともとはモンゴルから持ち込まれた食文化です。日本のしゃぶしゃぶの起源でもあります。

もともと日本にも水炊きという料理は存在していたのですが、しゃぶしゃぶ自体は戦後に登場した食べ物です。日中戦争で北京に出兵した民芸運動家の吉田璋也が、京都祇園の「十二段屋」に涮羊肉を紹介し、柳宗悦等の助言も得て、牛肉を使い、ゴマダレで食べる方式が考案されました。当時の日本では、羊肉は入手困難であり、また日本人の口に合うことから、牛肉が代用され、付けダレも和風にゴマダレとしました。発売当時は、”牛肉の水炊き”という名称だったようです。また、吉田璋也が、故郷の鳥取に開いた「たくみ割烹店」では、”すすぎ鍋”という名称を、今でも使っています。”しゃぶしゃぶ”という名称は、大阪のスエヒロ本店を経営していた民芸運動家の三宅忠一が命名したとされます。従業員がたらいの中でおしぼりをすすぐ音から発想したようです。

日本のしゃぶしゃぶは、民芸運動のなかから生まれたと言っていいのでしょう。民芸運動家らしく鍋にもこだわりました。北京の涮羊肉で使われる中央に通気口のある火鍋子(ホーコーズ)に似せたしゃぶしゃぶ鍋が考案されました。火鍋子の通気口は比較的大きく、そこに炭を立てるように入れて加熱する方式です。熱が放射状に伝わるという利点があります。日本では、コンロの上に鍋を載せますので、通気口を熱源とする意味はありませんが、火鍋子の風情を残し、水炊きとの違いを打ち出したのでしょう。民芸運動家らしい発想とも言えます。かつてしゃぶしゃぶ鍋は、各家庭にもあったものですが、近年、見かけるとすれば、由緒正しい店くらいでしょうか。飾りに近い通気口なので、当然の流れなのでしょう。

牛肉に始まる日本のしゃぶしゃぶですが、豚肉やラム肉、あるいは鯛や鰤と多様化してきました。私が、とりわけ好きなのは、鹿児島の黒豚しゃぶしゃぶです。肉は、地元で”シロ”と呼ばれるバラ肉に限ります。六白豚の脂身の甘さが絶品です。いつまでも食べ続けたくなります。鹿児島の六白豚は、サツマイモを食べて育つので脂が特に甘いと言われます。また、スープに溶け出したきめ細かく上質な脂は、締めの麺類に良く合います。鹿児島でよく使われるのが五島うどんですが、私が好きなのは中華麺。実によく合います。鹿児島では、店によって、食べ方がかなり異なる点も興味深いのですが、いずれにしても六白豚を使っているので、食べ方が異なっても、どれも美味しいと思います。風変りだったは、南洲館の”熊襲鍋”を使ったしゃぶしゃぶです。鍋の信じがたい巨大さに圧倒されました。

実は、龍水楼には、もう一つの名物があります。西太后が愛したというデザート「三不粘(サンプーチャン)」です。皿、箸、歯にくっつかない、という意味です。原料は卵、砂糖、ラード、でんぷんのみながら、調理が極めて難しく、北京でこれを出せる店は一つだけ、作れる職人は2人だけと聞きます。それが神田で食べられるわけです。龍水楼は、ご主人の高齢化に伴い、一晩に一組しか予約を取りません。ご主人が付きっ切りで、料理の解説をしてくれます。しかも、ご主人が、早く食え、とプレッシャーをかけるので、入店から出店まで、わずか70分。ご高齢ゆえ、早く就寝したいのでしょう。ビールを飲む暇もなかったので、即刻、近所の馴染みの店に飛び込み、飲み直しました。(写真出典:tabelog.com)

2021年6月5日土曜日

真打

立川談志が、昭和を代表する落語の名人であったことについては、何の議論もないと思われます。古典落語に現代的感覚を持ち込んだことでも知られます。才気煥発にして理論家でもあった談志は、国会議員も含め、実に様々な分野でも活躍しました。また、破天荒な言動が、大いに物議も醸しました。 その最たるものの一つが、落語立川流の創設でした。1983年、当時、落語協会の会長であり、自らの師匠でもあった柳家小さんと、弟子の真打昇進を巡って対立し、協会を脱退、立川流を立ち上げました。実は、談志の真打昇進を巡る騒動には、前史があります。

談志は、1952年、16歳で小さんに弟子入り、2年後には二つ目に昇進します。当時から、落語はうまいし、漫才やコントまでこなし、随分目立っていたようですが、真打昇進では、自分よりも後輩の3代目志ん朝、5代目圓楽に先を越されます。自信家でもあった談志にとって、これは大きなトラウマになったようです。1978年には、落語協会分裂騒動が起こり、6代目三遊亭圓生が「落語三遊協会」を立ち上げ独立します。1930年に、6代目春風亭柳橋や柳家金語楼が立ち上げた「落語芸術協会」に続く第3の団体でした。落語芸術協会独立のきっかけは、落語家がラジオで人気を博すことに危機感を覚えた寄席経営者の締め付けでした。後ろには吉本興業の手引きがありました。落語三遊協会の場合は、立川流独立と同様に、真打昇進問題が契機となりました。実は、独立を唆したのは、談志だったといわれます。

6代目三遊亭圓生は、まさに名人でしたが、なかなか偏屈な人でもあったようです。芸道一筋、昔気質の職人のような人だったのでしょう。落語協会長時代の圓生は、真打は落語家のゴールであるとして、なかなか真打昇進を認めませんでした。次いで協会長になった小さんは、真打は落語家のスタート、その後、売れるか売れないかは本人次第、という考え方でした。小さんは、圓生時代に滞留した二つ目を大量に昇進させます。圓生は、これに激怒します。圓生に独立を唆した談志は、三遊協会の2代目協会長を狙っていました。ところが圓生は、志ん朝を2代目と考えていたことから、談志は落語協会に残留します。その談志も、5年後には独立するわけですから、真打へのこだわりに加え、師匠である小さん、ライバルである志ん朝との長くて深い因縁話と言えます。

真打は、落語会最高の位であり、高座のトリを任されます。昔、トリの話が終わると、寄席は店じまい、蝋燭の芯を打って(切って)明かりを消します。この”芯を打つ”が転じて、真打になったと言われます。真打には、明確な昇進基準があるわけではありません。そこがトラブルの元になるわけです。現在は、おおよそ年功に基づき、各団体役員の協議で決めているようですが、かつて立川流では、基準を定め、試験を行っていたこともあります。なお、抜擢真打もあります。いわゆる”〇人抜き”という昇進です。かつては、3代目志ん朝や10代目小三治、あるいは春風亭小朝の36人抜きがありました。近年では、2012年に古今亭文菊の28人抜きが話題になりました。芸術協会では、桂歌丸会長が抜擢に否定的だったことから、久しく絶えていましたが、2020年、神田伯山が、92年の春風亭昇太以来となる抜擢真打になりました。

過日、志の輔門下の立川志の春真打昇進披露公演が国立演芸場でありました。コロナの影響で、1年遅れの披露目となりました。渋谷幕張中高、イェール大、三井物産という超エリートから落語に転身した期待の変わり種。それにしても、寄席ではなく、国立演芸場での披露目。立川流は、いまだに定席寄席は出入禁止です。落語三遊協会は、今は円楽一門会となっていますが、同様、定席には上がれません。ただ、お江戸両国亭で定例公演を行っています。日本の話芸継承のためにも、大同団結していい頃合なのではないかと思います。落語ファンとしては、レベルの高い高座が期待できますが、落語家としては、限られた高座の奪い合いですから、そう簡単な話ではないのでしょう。(写真出典:tower.jp)

2021年6月4日金曜日

ナルコ・ステート

エル・チャポ
1980年代末、NYで高名な弁護士を接待したことがあります。食事中、彼が、麻薬は合法化すべきだ、と持論を展開します。初めは冗談かと思いました。ところが、極めて真面目な話でした。莫大な税金を投入しても麻薬との戦いには勝てない。信じがたい税金の無駄遣いだ。その間に、膨大なナルコ・マネー(麻薬資金)がアンダーグランド化し、アメリカ経済は縮小していく。禁酒法時代と同じようなことが起きている。死に至る麻薬の使用は、ギャンブル同様、個人の選択だ。合法化し、高い税金をかけた方が、合理的だ。確かに、理にかなった話のように聞こえます。ただ、いずれにしても、麻薬を買う金欲しさの犯罪は高止まりし、麻薬中毒で働けない人の増加は経済を蝕むなど、麻薬が社会にもたらす厄災は変わりません。

各国政府も国際機関も、麻薬の供給サイドを摘発することを主眼に麻薬対策を行ってきました。ところが、一つの供給組織やルートを潰したとしても、そこに市場がある限り、別の麻薬組織が開いた穴を埋めにきます。需要がある限り、このイタチごっこは、終わることがありません。供給を断つ作戦は、効果が乏しく、確かに税金の無駄遣いとも言えます。かと言って、需要サイド、つまり麻薬を使う人を摘発しようとすれば、どれだけ警官を増やしたところで、到底、根絶などできません。近年、需要サイドに対する新たな取り組みとして、摘発ではなく、治療を施すという流れが始まっています。即効性はまったくありません。ただ、残された唯一の道になる可能性を秘めています。

2006年、カルデロンが大統領に就任すると、メキシコ政府は、全面的な麻薬戦争に突入します。カルデロンは、米国当局とも連携し、警察のみならず軍も投入して、麻薬カルテル撲滅を図ります。カルテル側も、激しい武力抗戦を行い、毎年、双方で数千人が犠牲となりました。また、メキシコは、カルテルによる政府・警察への浸透が相当程度進んでおり、いわばナルコ・ステート、つまり麻薬マネーに基づく国家、という様相も呈していました。カルデロンは、ここにも容赦なく捜査のメスを入れていきます。まさに戦争状態であり、特にチワワ州の国境の街シウダ・フアレスでは、カルテル同志の抗争も加わり、年間の殺人事件は2,600件にのぼり、世界一治安の悪い街と言われました。麻薬戦争による治安の悪化は国民の批判を集め、政府側による殺害や拷問も国際的に批判されました。それでもカルデロンは、一定の成果をあげたと言えます。

カルデロン以降も、麻薬戦争は続きました。その間に、90年代から君臨するカルテルの主だった幹部たちは、殺害、もしくは投獄されたと言います。しかし、潰されたカルテルの後にできた空白は、新興のカルテルが埋めていきます。麻薬戦争を象徴する事件と言えば、エル・チャポことホアキン・グスマンの、2度に渡る投獄と脱獄だと思います。映画やTVドラマ化もされています。エル・チャポに限らず、メキシコ麻薬戦争は、実に多くの小説や映画に描かれています。映画ではコーエン兄弟の「ノーカントリー」、小説ではドン・ウィンズロウの「犬の力」三部作あたりが白眉だと思います。「犬の力」三部作は、30年間に及ぶ、ナルコ叙事詩とも言えます。この2作品に共通するのは、乾いた暴力だと思います。

2018年に就任したアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール大統領、通称AMLO(アムロ)は、「麻薬戦争は終わった、我々は平和を望んでいる」と宣言し、薬物の所持や使用を合法化し、取締資金を薬物依存の治療に回していく方針を語っています。しかし、この間にも、メキシコの犯罪は増加の一途をたどっています。AMLOの政策に対する批判が増え、支持率も低下しています。彼のアプローチは、一朝一夕に効果を出せるものではありません。また、巨大市場アメリカと連携しなければ、多少国内の麻薬常習者を減らせたとしても、これまで以上に強固なナルコ・ステートができあがるリスクがあります。考え方は理解できますが、本来は、需要サイドであるアメリカが取り組むべき政策のように思います。(写真出典:veja.abril.com)

2021年6月3日木曜日

ヤマト王権

箸墓古墳(航空3D測量図)
北海道・北東北の縄文遺跡群が、ユネスコの世界遺産に登録されることになりました。縄文文化が、広く知られる契機になれば結構なことだと思います。かつて、我々の世代が教科書で習った縄文は、単に狩猟採取の時代とされていました。その後、発掘調査等が進み、縄文文化に関する認識は相当変わっています。例えば、三内丸山遺跡では、数百人が定住し、栗やクルミ等の栽培が行われていたことが分かっています。1万年以上という、史上最も長く続いた縄文文化は、まだ不明な部分も多く残ります。古代の歴史に関しては、科学技術や発掘調査の進展が続き、従前とは異なる定説が多く登場しつつあります。「ヤマト王権」も、その一つだと思います。

3世紀後半から5世紀あたりまでは、大和朝廷ではなく「ヤマト王権」と呼ぶことが一般的になりました。朝廷とは、天子が朝政・朝義を行うところであり、官僚機構を備えた中央集権的政権を意味するとされます。大和朝廷が形を成すの6世紀頃からであり、それまでは小国連合の盟主として王を名乗っていました。さらに、大和は、後の命名であり、かつては倭であったという説が有力であること等から、「ヤマト王権」という呼び方に変わりました。魏志倭人伝には、邪馬台国以外にも、多くの倭の国が記載され、「後漢書倭伝」にも「倭国大いに乱れ」という記載もあり、小国が対立する状態にあったと思われます。そのなかで、畿内のヤマトが勢力を拡大していくわけです。気象に関する調査から、3世紀は雨が多く、洪水が頻発していたようです。ところが、奈良盆地は、地形的に洪水が起こらず、結果、他国よりも豊かな国だったと想定されます。

そのヤマト王権が築いた最初の王宮が、奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡ではないか、とされています。まだ、調査は、ごく数パーセントにすぎませんが、既に建築遺構も発掘されており、かなり大型の遺跡だと想定されています。また、域内に最初の前方後円墳とされる箸墓(はしはか)古墳もありますが、これも以前の古墳に比べ、突然大型になっています。箸墓古墳は、日本書紀によれば、第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の陵墓です。姫は三輪山の神の妻となったが、神は夜にしか来ず、姫が明朝に姿を見たいと願うと、神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れます。姫が驚き叫んだため、神は恥じて三輪山に去り、姫は、それを悔いて腰を落とします。その際、箸が陰部を突き、姫は死にます。墓は「箸墓」と呼ばれ、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと記載されています。

しかし、皇女の墓としては、異様に大きすぎるという見方があります。各地で作れた埴輪が奉納されていること、まったく同じ形状で縮尺だけが異なる古墳が全国にあること等から、ヤマト王権を確立したとされる崇神天皇の陵墓ではないかという説があります。箸墓古墳は、永らく宮内庁が立入禁止にしていましたが、ようやく調査が始まるようです。結果が待たれるところです。そして、箸墓には、卑弥呼、ないしは後を継いだ臺與(とよ)の墳墓ではないかとする説もあります。ただ、魏志倭人伝に記載される邪馬台国の所在地や卑弥呼の墳墓の形状とは違い過ぎるとの批判があります。かつて古代史と言えば、邪馬台国と卑弥呼一辺倒でしたが、最近は変わりつつあるように思います。新しいネタがないなかでは推理合戦も鎮静化せざるを得ません。替わって脚光を浴びているのが、縄文とヤマト王権だと思います。なにせ新発見が続いていますから。

現在確認されている古墳・横穴は、全国に16万基、うち前方後円墳は、4,800基と聞きます。航空写真による分析が進み、急速に発見が増えているようです。箸墓古墳と縮尺は異なっても完璧に同形な前方後円墳が数十基、以降も各天皇の陵墓と完全に同形の前方後円墳が全国に広がっているようです。つまり、王権ないしは朝廷が、各地の王、豪族に、設計図を与えていたわけです。臣下の証として、土木技術を伝授したということなのでしょう。前方後円墳がないのは、北海道、青森、秋田、沖縄だけです。要は、7~8世紀時点で、大和朝廷の支配が及んでいなかったところというわけです。(写真出典:nikkei.com)

2021年6月2日水曜日

梁盤秘抄 #16 Buena Vista Social Club

アルバム名:Buena Vista Social Club (1997)                     アーティスト名:ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

ライ・クーダーは、ギタリストとしては、スライド・ギターの使い手として知られ、フィンガー・ピックから独特の音を繰り出す名手です。映画音楽を多く手がけたことでも知られます。さらに、ワールド・ミュージックに関する造詣も深く、その分野での最大の功績は、 間違いなく「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」ということになります。1996年、ライ・クーダーは、キューバに赴き、忘れられていた老ミュージシャンたちと「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を録音します。アルバムは、高く評価され、グラミー賞を獲得します。1999年には、ヴィム・ヴェンダース監督によるドキュメンタリー映画も公開され、ハバナの街の様子とともに、世界中の人々を魅了しました。

キューバを代表する音楽”ソン”は、19世紀、東部のサンティアーゴ・デ・クーバで誕生したとされます。ジャズやサンバと同様、西アフリカ起源の音楽とヨーロッパの舞曲が出会い、生まれます。その後、交易港ハバナで、コンガ、マンボ、チャチャチャ、ルンバ等、多様な発展をしました。また、キューバからヨーロッパへもダンス音楽が伝播していきます。特に”ハバネラ”は、欧米で流行し、ビゼーの”カルメン”でも使われます。さらに、フラメンコとハバネラが融合し、アルゼンチンへ渡り、アルゼンチン・タンゴとなります。20世紀になると、キューバ音楽は、ニューヨークで大流行します。ルンバと総称され、多くのミュージシャンがNYへ渡ります。当時、勃興期にあったハリウッド映画でも多用され、キューバ音楽は世界へと広がっていきました。

キューバ音楽流行の背景は、強いリズムのダンス曲として魅力的だったこと、トロピカルなイメージが人を惹きつけたこと、そして、ハバナ港の往来の多さやアメリカへの近さがあったのでしょう。ハバナは、アメリカ人の大好きなリゾートへと変貌していき、ナイトクラブ、ダンス・ホール、カジノ等で、夜毎、キューバ音楽が演奏されます。しかし、1959年、カストロが革命政府を樹立すると、状況は一変します。アメリカとの関係は悪化、経済封鎖が行われます。キューバ音楽も、鳴りを潜めていきます。アメリカと結びつくことで発展したキューバ音楽の悲劇でもあります。多くのミュージシャンが演奏の場を失い、ハバナの底辺へと沈んでいきました。かつて大活躍したコンパイ・セグンドは葉巻職人に、イブライム・フェレールは靴磨きへと身をやつしていました.

しかし、世界は、キューバ音楽を忘れていませんでした。特にミューバ難民の多いNYやフロリダでは、ソンにロックの要素も加えたサルサが生まれています。キューバ音楽のポテンシャルの高さを示す例だと思います。ライ・クーダーは、そのことをよく分かっていたわけです。彼が、ハバナで口づてで集めた往年のスターたちも、ソンの真髄を忘れていませんでした。アルバムは大ヒットし、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブは、世界中をツアーし、多くの人々にソンの魅力を伝えました。特に、NYのカーネギー・ホールのライブは、ソンの魅力と彼らの実力の高さを感じさせます。長くつらい旅路を思えば、彼らにとってもカーネギー・ホールは感慨ひとしおのライブだったと思います。その模様は、2007年にリリースされたCDで楽しめます。熱量においては、97年のレコーディングを超えているように思えます。

2016年には、「アディオス・ツアー」を行い、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブは、活動を終えました。主要メンバーが亡くなり、残ったメンバーも超高齢化していました。ツアーは、ドキュメンタリー映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」として公開されました。思わず目頭が熱くなりました。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年6月1日火曜日

砂漠の女王

ガートルード・ベルは、20世紀初頭に活躍した探検家、登山家、考古学者にして外交にも関わった英国女性です。特に中東のベドウィン族の専門家であり、わずかな従者とともに砂漠を旅し、ベドウィンの族長たちとも親交を持ち、「砂漠の女王」と呼ばれました。その豊富な知識・情報は、英国の中東政策決定に大きな影響を与えました。「アラビアのロレンス」ことT.E.ロレンス中佐同様、オスマン・トルコ崩壊後のアラブ人国家樹立を主張したことでも知られます。また、英国政府が主導したイラク成立には、彼女の案が取り入れられています。

ガートルード・ベルの生家は、鉄とアルカリで財を成した英国有数の資産家でした。幼い時から活発で頭脳明晰だったガートルードは、17歳でオックスフォード大学に学びます。女性としては、極めて異例のことだったようです。わずか2年で、かつ優秀な成績で卒業していますが、学位は得ていません。当時は、女性に対して学位を授与する制度がなかったのだそうです。その後、社交界デビューしますが、高学歴が敬遠されたのか、求婚者は現れませんでした。彼女は、義理の伯父が公使を勤めるブカレスト、後にテヘランに逗留します。彼女の旅の始まりです。テヘランでは、若い外交官と恋に落ちますが、結婚は認められませんでした。その後、求婚者は事故死し、彼女の心に深い傷を残したようです。

全てを忘れるためか、ガートルードは世界を旅し、アルプスに登り、数か国語をマスターし、考古学に没頭します。2度行った世界一周の旅の途中、日本にも立ち寄っています。アルプスでは、未踏峰を制覇し、彼女の名が山名に残ります。考古学では、シュメール期から続いた交易都市ムンバカの遺跡も発見しています。しかし、最大の功績は、6度に渡るアラビア横断です。対オスマン、および部族間の争いが絶えない危険地帯であり、英国軍からも中止圧力がかかり、各部族からも警戒されるなかでの砂漠の旅です。しかし、ほどなく、ベドウィンをリスペクトする勇敢な女性の話は、アラビア中に伝わり、各部族も敬意を持って彼女を受け入れるようになります。こうして、厚いヴェールに包まれていたアラビア奥地に関する情報が明らかになっていきます。

ガートルードが、イラク建国に際して、多数派のシーアを少数派のスンニーが支配し、クルド支配地域も含めて一国とするという、今に続く禍根のタネを蒔いたのは何故か、という議論があります。。多数派を少数派に支配させる方式は、植民地支配の常道でもあります。加えて、彼女が過信したと思われるのが、イラクの王室に据えられたハーシム家が誇る預言者ムハンマドの血統です。マッカのハーシム家は、預言者ムハンマドの娘ファーティマと伯父のアブー・ターリブ夫妻の子孫としてイスラム社会の尊敬を集めてきました。イラクが絶海の孤島であるなら、ハーシム王家の存在だけで国はまとまったかも知れませんが、シーア派は、イラン・シーア派と一体であり、クルドは、トルコ、イラン、シリアに跨るクルディスタンが本来の国です。つまり、英国が勝手に引いた国境は、そもそも意味のないものであり、支配体制の問題以前に、禍のタネが存在したわけです。パレスティナ問題と同様、大英帝国の罪としか言いようがありません。

ヴェルナー・ヘルツォーク監督は、2015年に「アラビアの女王 愛と宿命の日々(原題:Queen of the Desert)」としてガートルードの生涯を映画化しています。美しい砂漠の映像と端正な映画技法が見事な映画でした。しかし、対とも言える「アラビアのロレンス」ほどのヒットはしていません。当時、ロレンスよりもガートルードの方が遥かに高位で高名でしたが、その後の知名度には大きな差があります。また、派手な戦闘シーンも、ロレンスのジレンマのようなものもない映画は、地味な展開にならざるを得ません。とは言え、ガートルードがアラビアに残した影響は、ロレンスとは比べものにならないほど大きいと思います。(写真:映画「アラビアの女王」出典:amazon.co.jp)

夜行バス