それ以前にも、それ以降にも噴火を繰り返してきた活火山ヴェスヴィオ山ですが、、1880年には、山頂まで登山電車が敷設されます。そのCMソングとして作られたのが「フニクリ・フニクラ」でした。世界最古のCMソングと言われます。いまやイタリアを代表する歌として知られます。国際的リゾートのレストランで演奏するバンドは、日本人の団体が来ると「さくら」を演奏し、イタリア人が来ると「フニクリ・フニクラ」を演奏したものです。日本では、1961年にNHKが”みんなのうた”で取り上げて以降、ポピュラーになります。”フニクリ・フニクラ”とは、イタリア語の登山電車”フニコラーレ(Funicolare)”から来ています。この曲のお陰で、鳴かず飛ばずだった登山電車は、大人気になったそうです。ただ、1944年の大噴火で、破壊され、運行を終えています。
79年のヴェスヴィオ山噴火の際、ポンペイの人口は約1万人。噴火とともに、多くの人が避難していますが、噴火を甘く見たか、何らかの仕事があったのか、2千人ほどが街に残っていました。火砕流は、時速100kmを超えるスピードでポンペイを襲ったと推測されています。堆積した火山灰は5mに達します。言わば、街は瞬時に冷凍保存されたようなものです。18世紀に発掘が開始されると、街並も、建物も、フレスコ画も、装飾品や生活用品も、往時の姿そのままに現れます。火山灰に含まれる成分が乾燥剤の働きをしていたようです。犠牲者の遺体は、腐敗して無くなっていましたが、火山灰には空洞が残りました。そこに石膏を流し込んだものが石膏像になったわけです。表情までは分かりませんが、死んだ時の姿勢そのままの石膏像は、リアルに惨劇を伝えます。
ポンペイでは、古代ローマの高度な都市文化を、現実感を持って見ることができます。街路は碁盤の目に区画され、歩道と車道が分けられています。上下水道が完備され、公衆浴場もあります。レストランやバーを含む様々な商店が軒を並べています。パン屋にはパンも残っていたようです。通りに面した壁には、選挙ポスターが残り、娼館の壁には、見事な色彩で男女の交わりが描かれています。フレスコ画については、特にポンペイ・レッドと呼ばれる、独特の深みがあって、なおかつ鮮やかな赤色が見事です。ローマ以降、様々な技術革新はありました。ただ、社会の制度やインフラの大まかな姿は、何も変わっていないのではないか、とさえ思います。ポンペイ遺跡は、まさにそれを実感させられる場所です。
1700年間、火山灰によって保存されてきたポンペイの街並ですが、再び大気に触れて、浸食が進んでいます。すでに倒壊した建造物もあります。敵は、雨風だけではなく、莫大な数にのぼる観光客、そして盗賊でもあるようです。イタリア政府にょる保存プロジェクトが進行しています。しかし、膨大な予算と時間のかかるプロジェクトだと言われます。ポンペイは、世界遺産中の世界遺産です。世界中から、もっと多くの寄付、もっと多くのボランティアを募って、保存すべき奇跡の街だと思います。(写真出典:theguardian.com)