2021年6月8日火曜日

ポンペイ

ポンペイ遺跡を訪ねて、特に印象深かったのは、犠牲者の石膏像、石畳の道の轍、壁の落書きでした。いずれも、2千年を隔てて、なお街の息遣いを伝えます。ポンペイは。紀元前7世紀には、オスキ人とヒーコ人の集落として存在したようです。エトルリア人やサムニウム人の支配も受けますが、紀元前1世紀には同盟市戦争でローマに敗れ、以降、ローマの植民都市となります。水はけの良いヴェスヴィオ山の裾野を活用したブドウ栽培とワイン醸造、そしてアッピア街道につながる港湾都市として栄えます。62年には、大きな地震で被害を受け、ローマ風の街並みとして再建されています。そして79年8月24日午後1時、ヴェスヴィオ山が噴火します。地震は、噴火の前兆だったとも言われます。噴火は12時間続き、25日深夜には火砕流が発生、街は瞬く間に火山灰で埋めつくされます。同時に有毒なガスも街を襲い、火砕流から逃れた人々も、このガスで即死したとみられています。

それ以前にも、それ以降にも噴火を繰り返してきた活火山ヴェスヴィオ山ですが、、1880年には、山頂まで登山電車が敷設されます。そのCMソングとして作られたのが「フニクリ・フニクラ」でした。世界最古のCMソングと言われます。いまやイタリアを代表する歌として知られます。国際的リゾートのレストランで演奏するバンドは、日本人の団体が来ると「さくら」を演奏し、イタリア人が来ると「フニクリ・フニクラ」を演奏したものです。日本では、1961年にNHKが”みんなのうた”で取り上げて以降、ポピュラーになります。”フニクリ・フニクラ”とは、イタリア語の登山電車”フニコラーレ(Funicolare)”から来ています。この曲のお陰で、鳴かず飛ばずだった登山電車は、大人気になったそうです。ただ、1944年の大噴火で、破壊され、運行を終えています。

79年のヴェスヴィオ山噴火の際、ポンペイの人口は約1万人。噴火とともに、多くの人が避難していますが、噴火を甘く見たか、何らかの仕事があったのか、2千人ほどが街に残っていました。火砕流は、時速100kmを超えるスピードでポンペイを襲ったと推測されています。堆積した火山灰は5mに達します。言わば、街は瞬時に冷凍保存されたようなものです。18世紀に発掘が開始されると、街並も、建物も、フレスコ画も、装飾品や生活用品も、往時の姿そのままに現れます。火山灰に含まれる成分が乾燥剤の働きをしていたようです。犠牲者の遺体は、腐敗して無くなっていましたが、火山灰には空洞が残りました。そこに石膏を流し込んだものが石膏像になったわけです。表情までは分かりませんが、死んだ時の姿勢そのままの石膏像は、リアルに惨劇を伝えます。

ポンペイでは、古代ローマの高度な都市文化を、現実感を持って見ることができます。街路は碁盤の目に区画され、歩道と車道が分けられています。上下水道が完備され、公衆浴場もあります。レストランやバーを含む様々な商店が軒を並べています。パン屋にはパンも残っていたようです。通りに面した壁には、選挙ポスターが残り、娼館の壁には、見事な色彩で男女の交わりが描かれています。フレスコ画については、特にポンペイ・レッドと呼ばれる、独特の深みがあって、なおかつ鮮やかな赤色が見事です。ローマ以降、様々な技術革新はありました。ただ、社会の制度やインフラの大まかな姿は、何も変わっていないのではないか、とさえ思います。ポンペイ遺跡は、まさにそれを実感させられる場所です。

1700年間、火山灰によって保存されてきたポンペイの街並ですが、再び大気に触れて、浸食が進んでいます。すでに倒壊した建造物もあります。敵は、雨風だけではなく、莫大な数にのぼる観光客、そして盗賊でもあるようです。イタリア政府にょる保存プロジェクトが進行しています。しかし、膨大な予算と時間のかかるプロジェクトだと言われます。ポンペイは、世界遺産中の世界遺産です。世界中から、もっと多くの寄付、もっと多くのボランティアを募って、保存すべき奇跡の街だと思います。(写真出典:theguardian.com)

マクア渓谷