2021年6月7日月曜日

国体無用論

長崎県立陸上競技場
かつて、地方の中核都市には、必ずと言っていいほど”国体道路” が存在しました。正式名称ではなく、国体開催に合わせて整備された道路という意味です。1946年、戦後の混乱期の中で国民に希望と勇気を与えるために、国民体育大会、いわゆる国体が始まりました。スポーツ振興のみならず、地方都市の戦後復興としての意味合いもありました。国体は、その目的を、十分に果たしてきました。しかし、もはや戦後ではないと言われてから半世紀以上経ちます。手仕舞いのタイミングを失したまま、継続されているように思えてなりません。

近年、国体が、国民の注目を集めることにありません。都道府県対抗という枠組みに人が熱狂することもありません。下手をすれば、国体開催中の県ですら、そのことを知らない県民がいるほどです。競技者のための競技会でしかありません。それならそれでもいいのですが、国体という枠組みゆえに膨大な予算が支出されるわけです。スポーツ選手にとっては、大会は多い方がいいのでしょうが、施設の建設等に、毎年、数百億年の血税が使われています。スポーツ振興に反対するものではありません。ただ、その予算があれば、もっと効率的に選手育成や競技人口拡大を実現できるように思えます。

国体形骸化の代表的な事例が、開催地の総合優勝必須化です。1964年の新潟国体以降以降、開催地が総合優勝することがほぼ常態化し、むしろ総合優勝しなければならない、というプレッシャーに変わりました。そもそも開催地は、予選なしでエントリーできる優位な仕組みもありますが、潤沢な国体予算のなかから選手強化費用を出しやすく、さらには、他県の有力選手を臨時職員として採用して出場させるという荒っぽい手まで繰り出すようになりました。そのニーズに対応して、セミプロのジプシー選手まで存在していました。もちろん、こうした傾向に異を唱えた県もありますが、ごく少数でした。2011年、日本体育協会も、さすが選手の参加資格の厳正化を行っていますが、網をかいくぐるよう対応は、まだ存在するようです。

膨大な予算が投入される競技施設にも問題があります。地方に設備の整ったスポーツ施設が増えるというメリットは大きなものがありました。しかし、昭和後期くらいからは、残念な施設が増えていきます。国体の開催要領に従えば、開会式の3万人を収容できるA級の陸上競技場を作り、サブトラックも用意する必要があります。半世紀に一度、それもたった一日のために作るわけです。広大な敷地は、当然、アクセスの悪い場所になり、専用の道路も作ることになります。当然、国体後の民間利用としては、実に使い勝手の悪いものになります。屋内競技場も、バスケットボールのコート4面が基本となります。これも、客席が遠くなるので、その後は使いにくいものとなります。あまりにも立派な競技施設があると、例えニーズがあっても、手ごろなスポーツ施設は作りにくくなります。結果、国体用競技施設が宝の持ち腐れどころか、各地のスポーツ振興のハードルにもなりかねません。

インフラ整備は、地方行政にとって、とても重要な課題です。国体が、その機会を提供してしてきた面は理解できます。しかし、近年、行政の予算は、実に多様な分野で必要とされます。半世紀に一度とは言え、膨大な予算を国体につぎ込むことは問題です。その経費の半分でも、日ごろのスポーツ振興に振り向けられたら、大きな違いを生み出せるように思います。これは、政府が悪者になってでも判断すべきことであり、”政治主導”の真価を見せてもらいたいと思います。(写真出典:hasetai.com)

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