2021年6月6日日曜日

涮羊肉

龍水楼の涮羊肉
神田小川町近くの「龍水楼」は、知る人ぞ知る中華の名店です。清朝最後の皇帝にして満州国皇帝だった愛新覚羅溥儀の弟溥傑が愛した店でもあります。正真正銘の北京火鍋「涮羊肉(シュワンヤンロウ)」が食べられる店です。かつて、都内で涮羊肉がたべられる店は龍水楼だけだったのでしょうが、最近は、北京から涮羊肉を売りにする店も出店しているようです。涮羊肉は、ラムのしゃぶしゃぶですが、生後4か月の子羊の内腿だけを使います。子羊なので、肉の臭みもまったくなく、あっさりとした食べ物なので、十数種類の薬味を自分の好みで合わせて付けダレにして食べます。北京名物ですが、もともとはモンゴルから持ち込まれた食文化です。日本のしゃぶしゃぶの起源でもあります。

もともと日本にも水炊きという料理は存在していたのですが、しゃぶしゃぶ自体は戦後に登場した食べ物です。日中戦争で北京に出兵した民芸運動家の吉田璋也が、京都祇園の「十二段屋」に涮羊肉を紹介し、柳宗悦等の助言も得て、牛肉を使い、ゴマダレで食べる方式が考案されました。当時の日本では、羊肉は入手困難であり、また日本人の口に合うことから、牛肉が代用され、付けダレも和風にゴマダレとしました。発売当時は、”牛肉の水炊き”という名称だったようです。また、吉田璋也が、故郷の鳥取に開いた「たくみ割烹店」では、”すすぎ鍋”という名称を、今でも使っています。”しゃぶしゃぶ”という名称は、大阪のスエヒロ本店を経営していた民芸運動家の三宅忠一が命名したとされます。従業員がたらいの中でおしぼりをすすぐ音から発想したようです。

日本のしゃぶしゃぶは、民芸運動のなかから生まれたと言っていいのでしょう。民芸運動家らしく鍋にもこだわりました。北京の涮羊肉で使われる中央に通気口のある火鍋子(ホーコーズ)に似せたしゃぶしゃぶ鍋が考案されました。火鍋子の通気口は比較的大きく、そこに炭を立てるように入れて加熱する方式です。熱が放射状に伝わるという利点があります。日本では、コンロの上に鍋を載せますので、通気口を熱源とする意味はありませんが、火鍋子の風情を残し、水炊きとの違いを打ち出したのでしょう。民芸運動家らしい発想とも言えます。かつてしゃぶしゃぶ鍋は、各家庭にもあったものですが、近年、見かけるとすれば、由緒正しい店くらいでしょうか。飾りに近い通気口なので、当然の流れなのでしょう。

牛肉に始まる日本のしゃぶしゃぶですが、豚肉やラム肉、あるいは鯛や鰤と多様化してきました。私が、とりわけ好きなのは、鹿児島の黒豚しゃぶしゃぶです。肉は、地元で”シロ”と呼ばれるバラ肉に限ります。六白豚の脂身の甘さが絶品です。いつまでも食べ続けたくなります。鹿児島の六白豚は、サツマイモを食べて育つので脂が特に甘いと言われます。また、スープに溶け出したきめ細かく上質な脂は、締めの麺類に良く合います。鹿児島でよく使われるのが五島うどんですが、私が好きなのは中華麺。実によく合います。鹿児島では、店によって、食べ方がかなり異なる点も興味深いのですが、いずれにしても六白豚を使っているので、食べ方が異なっても、どれも美味しいと思います。風変りだったは、南洲館の”熊襲鍋”を使ったしゃぶしゃぶです。鍋の信じがたい巨大さに圧倒されました。

実は、龍水楼には、もう一つの名物があります。西太后が愛したというデザート「三不粘(サンプーチャン)」です。皿、箸、歯にくっつかない、という意味です。原料は卵、砂糖、ラード、でんぷんのみながら、調理が極めて難しく、北京でこれを出せる店は一つだけ、作れる職人は2人だけと聞きます。それが神田で食べられるわけです。龍水楼は、ご主人の高齢化に伴い、一晩に一組しか予約を取りません。ご主人が付きっ切りで、料理の解説をしてくれます。しかも、ご主人が、早く食え、とプレッシャーをかけるので、入店から出店まで、わずか70分。ご高齢ゆえ、早く就寝したいのでしょう。ビールを飲む暇もなかったので、即刻、近所の馴染みの店に飛び込み、飲み直しました。(写真出典:tabelog.com)

マクア渓谷