2023年12月30日土曜日

年越し料理

宮崎”歳とり膳”
コロナ禍で、売上も単価も上がったおせち料理セットが、今年も売れているようです。おせちは、作るものから買うものに変わった感があります。私の周囲でも、早くからおせち料理の予約をすることが常識化している印象があります。まったく理解しがたく、信じがたい話です。かつて、セットで販売されるおせち料理と言えば、年末年始に多忙を極める人、あるいは単身世帯向けであり、多少なりとも正月気分を味わうといった程度のものでした。いわば、わびしいものだったわけです。それが、いまや多くの家庭が、豪華なおせちを購入しているわけです。数年前、百貨店で聞いた話ですが、売れ筋は3万円台とのことでした。

もっとも、核家族化の進展とともに、おせちは全て手作りという時代はとうの昔に終わっていました。おせちは、品数が多く、一から作るのには相当の手間がかかります。食べる人も、作る人も、ある程度の人数がいることが前提の料理と言えます。おせち料理の単品販売は、いつの頃からか一般化していました。しかし、それはあくまでも家庭で作るおせちの一部を補完するものであり、おせちの全てではありませんでした。というのも、おせち料理には、各地域の特性や家族の伝統が詰まっているものだったからです。おせちに対して、年越し料理、つまり大晦日に食べる料理に関しては、地域の特性というよりも、各家庭によってそれぞれといった印象があります。

ただ、年越し蕎麦だけは、全国的に食べられているようです。その起源は、博多の承天寺発祥説、商家の三十日蕎麦起源説等、諸説あるようですが、少なくとも江戸期には一般化していたようです。蕎麦切りは細長いことから長寿を願う縁起ものとされますが、大晦日に食べるのは、一年の厄災を断ち切るという意味があるからなのだそうです。一部、正月に食べるところもあれば、讃岐ではうどん、沖縄では沖縄そばを食べるようです。讃岐は別としても、うどん文化圏の関西以西でもうどんではなく、蕎麦切りを食べる点は興味深いと思います。年越し蕎麦以外の年越し料理の定番はあまり聞いたことがありませんが、地域によっては”歳とり膳”があります。ただ、これはもうおせち料理そのものです。

大晦日におせちを食べる地域は、それなりにあります。旧暦では、日没が新しい日の始まりとされますので、大晦日の夜におせちを食べることは理にかなっているわけです。では、皆、大晦日に何を食べているのかというと、寿司、すき焼き、カニ、マグロ、鍋といったところでしょうか。一年の労をねぎらい、新しい年を迎えるという意味で、多少豪華な食事になっているわけです。年末恒例のアメ横の売出でも、おせち用食材の他に、カニやマグロが人気です。各家庭の定番があるということなのでしょう。伝統を重んじたり、縁起をかつぐことが多い日本で、年越し料理が家庭毎にバラバラというのも面白いと思います。恐らく、おせち料理こそ最重要であり、年越し料理などといった概念すら無かったのでしょう。

大昔、スペインのコスタ・デル・ソルで年越しを迎えたことがあります。トレモリノスのホテルの大宴会場で、地元の人たちが年越しパーティをやっていました。ちょっと覗いたら、入れ、入れと言われ、言葉も通じないのに、宴会に参加させてもらいました。たくさんの料理とワインの樽が並び、長老からは高そうな葉巻までもらいました。印象的だったのは、真夜中になると、”蛍の光”が流れ、それぞれ12個のぶどうを食べます。そして、前の人の肩に手をおいて列を作って踊ります。ジェンカによく似た踊りでした。これが延々と続くわけです。日本の”ゆく年くる年”的なおごそかな世界とは大違いで驚いたものです。(写真出典:maff.go.jp)

2023年12月28日木曜日

トンイル(統一)

統一旗
韓国政府機関が、定期的に行っている意識調査において、今般、南北統一が必要、ある程度必要とする回答が、64%と過去最低を更新したというニュースがありました。しかも若い世代では、大多数が統一を望んでいないとされます。韓国では、同種の調査が頻繁に行われているようですが、いずれも結果は同じ傾向を示しているようです。東西冷戦のあおりを受けて、南北が分断されてから、80年が経とうとしています。同じ民族同士が戦い多大な犠牲を出した朝鮮戦争ですが、停戦状態に入ってからも既に70年が経過しました。その間に、ヴェトナム、ドイツは分断を解消し、朝鮮半島だけが残りました。ここまで、異なる政治体制のなかで他国としての歴史を積み重ねると、統一が現実味を失っていくことは理解できます。 

同じ民族で、同じ言葉を話し、80年前までは一つの国としての歴史を共有していたわけですから、統一は民族の悲願として当然です。南の資本力と技術、北の資源や人材を組み合わせれば、一層の繁栄が見込まれることも理解します。ただ、いかに統一するのか、その姿が全く見えません。文在寅前韓国大統領は、統一に向けて様々な動きをしていましたが、具体的な統一への道筋を示したことは一度もありません。ヴェトナムは、北の共産政権が、南の民主政権とそれを支援する米国を武力制圧することで統一を成し遂げました。戦争による勝ち負けは、最も分かりやすい統一への道ではあります。しかし、現在の朝鮮半島で、雌雄を決するような戦争が起こるとは思えません。

北が核を保有していることも影響としては大きいと思いますが、ひとたび半島で銃声が轟けば、それは米国と中国の対決へと直結します。さすがに、それは両国にとってリスクが大きすぎます。また、ドイツ統一の場合、ソヴィエトが経済的に行き詰まり、東欧各国で広がった反共産主義革命が引き金となり、ベルリンの壁が崩壊しました。北の後ろ盾である中国とロシアが消滅する、あるいは簡単に体制が変わるとは思えません。金王朝と運命をともにする貴族だけが住む平壌で革命が起きることなど考えにくく、地方で暴動が起きたとしても、即刻分断、鎮圧されます。軍事クーデターによって、金王朝が転覆される可能性はあります。ただ、金王朝は、飴と鞭でしっかり軍を掌握しており、また、クーデターが成功したとしても後継政権が民主的とは限りません。

恐怖をもって国民を押さえつけている金王朝が存在する限り、国民投票や政府間交渉といった民主的な手法による統一はあり得ません。経済からはじめて、徐々に交流を拡大し、北の解放につなぐという手法もありますが、それこそ金王朝が最も警戒するところだと思います。かつて行われた特区方式が経済交流の限界だと思います。また、国外からの暴力的手段によって金一族を排除、あるいは分断できたとしても、クーデター同様、平壌の貴族たちが取って替わるだけという可能性があります。もし仮に、統一できるとすれば、統一朝鮮は大いに潤う可能性があります。ただ、GDP格差が1:40とも言われる状況では、統一コストはべらぼうな額となります。韓国経済は停滞し、南北守旧派による暴動も起こって世情は悪化し、資本や人材の国外流出も避けられません。

総じて言えば、金王朝がその存続を政治目的とする限り、そして中国が現状維持を望む限り、統一は困難と考えます。隣り合う異なる国家として、友好的な関係を保つことが、”統一”なるもののゴールかも知れません。これが、韓国の若い世代が肌で感じる現実でもあるのでしょう。奇跡的な経済成長を遂げた韓国の若い世代にとって、もはや統一は悲願ですらないのかも知れません。北に核を放棄させ、安定的な関係を構築するためには、南北の体制を維持したまま、北の資源を南が活かして双方の経済発展につなげることが、残された現実的選択のように思えます。それこそが、まさに悲劇だと言わざるを得ないのですが・・・。(写真出典:jp.yna.co.kr)

2023年12月26日火曜日

葛城

葛城一言主神社
葛城は、奈良県中部、金剛山地の東に広がる一帯です。奈良盆地の南端に位置し、東には飛鳥、東南は吉野山系へと続きます。葛城という地名は、神武天皇が葛で土蜘蛛を捕らえたことに由来するとされます。土蜘蛛とは、昆虫のツチグモではなく、鬼という言葉と同様、ヤマト王権に敵対した土着の豪族を指します。関東、九州、北陸等の風土記に多く登場するようですが、ヤマト王権が奈良盆地に進出した当初は、当然、畿内にもいたわけです。葛城の地には、不思議な伝承があります。一言主(ひとことぬし)神、そして、その別称である葛城の神に関わるものです。 5世紀に在位したと想定される雄略天皇と一言主神の話は、記紀等に記載されています。

8世紀初頭に成立した古事記によれば、ある時、雄略天皇は、共を従え、葛城山へ狩りに出かけます。すると谷を挟んだ向こうの尾根に、出立も人数も天皇一行と同じ一団を発見します。天皇が問いかけると「吾は、悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えます。恐れ入った天皇は、一行の武具や衣服を差し出したというのです。それが日本書紀になると、天皇と一言主神は、共に狩りを楽しんだと記述されます。そして、8世紀末の続日本書紀に至ると、天皇と狩りの獲物を争った一言主神は、天皇の怒りをかい、土佐に流されたと変わっていきます。さらに9世紀の日本霊異記になると、葛城の神(一言主神)は、修験道の開祖である役行者にこき使われることになります。

役行者は、修験道総本山である吉野の金峰山と葛城山の間に岩橋を架けるよう、一言主神に命じます。一言主神は、その醜い容貌が人に不快な思いをさせることを案じ、夜の間だけ作業します。作業が進まないことに起こった役行者は、一言主神を葛でぐるぐる巻きにします。また別ヴァージョンでは、架橋に使役されたことを不満に思った一言主神が、役行者に謀反の罪を被せます。伊豆に流された役行者は、一言主神を呪詛します。わずか100年の間に、一言主神は、天皇が恐れ入る存在から、役行者に使われる神にまで落ちたわけです。普通に考えれば、天皇家と姻戚関係を深め隆盛を誇った葛城氏の没落の過程が象徴されているのだろうと理解できます。ところが、葛城氏が没落したのは、遙か昔、5世紀のことです。

葛城氏、およびその姻戚である吉備氏は、滅亡させられたとは言え、その一族・縁者が、まだ地方に残存していた可能性はあります。一言主神社が各地に創建されてることは、その証左かもしれません。8世紀、大和朝廷による中央集権化が進み、もはや葛城氏の残党を気にする必要がなくなったとも考えられます。また、”大同二年の謎”として知られるとおり、関東以北の多くの神社が、大同2年(807年)の創建となっています。蝦夷征討を成し遂げた大和朝廷が、地の神々を天照大神を頂点とする天孫家の信仰体制に組み込んだということなのでしょう。一言主神の扱いの変化も、これに呼応するものなのかもしれません。あるいは、絶頂期に向かって勢力を拡大する藤原氏と興福寺のおごりも背景にあったのかもしれません。

一説によれば、5世紀、いまだ政権基盤が脆弱だったヤマト王権は、葛城氏と両頭政権を組まざるを得なかったとされます。吉備氏との姻戚関係も持つ葛城氏は、王権にとって脅威だったわけです。皇位継承を巡る一連の政変のなかで、葛城氏は、新興の大伴氏や物部氏に敗れます。葛城氏の主な基盤は物部氏が引き継ぎますが、その物部氏は、丁未の乱で蘇我氏に敗れ、蘇我氏は乙巳の変で藤原氏に滅ぼされます。驕れるものは久しからず、というわけです。葛城氏没落から500年後の平安時代、一言主神の逸話はよく知られていたようです。醜さを恥じる、あるいはそれゆえに朝には姿を消す、といった下りが、和歌等において比喩的に使われていたようです。1,500年を経た今、一言主神の逸話は、必ずしも一般的ではありませんが、葛城、土佐をはじめ、各地に一言主神社は残っています。(写真出典:yamatoji.nara-kankou.or.jp)

2023年12月24日日曜日

「ナポレオン」

監督:リドリー・スコット    2023年アメリカ・イギリス

☆☆+

リドリー・スコットという名前は、我々の世代にとって、映画そのものだったとも言えます。”エイリアン”(1979)でヒット・メイカーとして名乗りをあげ、”ブレード・ランナー”(1982)でカリスマの地位を確立し、”ブラック・レイン”(1989)や”テルマ&ルイーズ”(1991)で才人ぶりを見せつけ、”グラディエーター”(2000)、”ブラックホーク・ダウン”(2001)で巨匠の一角を占めるに至ります。リドリー・スコットは、ヒットを飛ばす一方で、時折、駄作を作ることでも知られます。とは言え、私は、評価の低かった”プロヴァンスの贈り物”(2006)、あるいは”悪の法則”(2013)も好きでした。

本作でも、さすがと言える映像、そつのない演出は見事ですが、そもそも企画段階から無理があったのではないかと思えます。リドリー・スコットの才能が光るのは、直線的構造を持つ娯楽映画だと思います。叙事詩的な映画では、器用さが禍するのか映画が散漫になる傾向があります。本作では、ナポレオンの偉業、そしてナポレオンとジョゼフィーヌの関係という2本の映画を交互に見せられているような印象を受けます。偉業パートの映像は、実に見事なスペクタクルになっていますが、妻との関係パートについては、ややイメージ・ビデオ的な傾向があります。長尺になりすぎるので、カットせざるを得なかったのかもしれません。結果、映画は、ナポレオンという複雑な人格にフォーカスできていません。

それにしてもホアキン・フェニックスの演技は見事なものです。外見も、まさにナポレオンそのもののよう見えてきます。ジョゼフィーヌを演じたのは、英国のヴァネッサ・カービーです。現代的な自己主張の強さを感じさせる顔立ちが魅力的な女優です。ヴァネッサ・カービーの起用は良い着眼であり、彼女も良い演技をしたと思います。ただ、映画としては、彼女の起用が残念な結果を招いている面があります。彼女の独特な魅力がコスチューム劇のなかで削がれる一方で、隠しきれない現代性がドラマをやや深みに欠けるものにしています。例えば、同じヴァネッサでも、往年のヴァネッサ・レッドグレーブのように、ミステリアスな表情で、ドラマの奥深さを表現できるような女優が望ましかったように思います。

この映画最大の論点は、ナポレオンの描き方だと思います。監督はナポレオンを、”コルシカ出身の粗野な田舎者”として描いています。それは否定できない一面でしょうが、それだけでナポレオンを語ることには無理があります。監督のナポレオン像は、フランス革命とナポレオンを否定し王政を復古したウィーン会議と同じ見方とも言えます。革命と反革命という視点が希薄で、所詮、英国から見たナポレオン像と言われてもやむを得ません。実際のところは、史実よりも娯楽性を優先しただけなのでしょう。映画は単なる娯楽だと言い切ることもできます。ただ、情報量の少ない古代ローマならいざ知らず、近世を描くとすれば、それでは済まされません。例え娯楽映画であったとしても、映画は常に政治的なものです。

実は、リドリー・スコットが、娯楽性を追求するために改ざんしたのは、ナポレオン像だけではありません。例えば、アウステルリッツの戦いにおける有名な湖のシーンです。ロシア兵が凍結した湖面を敗走すると、フランス軍が砲撃によって氷を割り、ロシア兵が次々と湖に沈んでいくという展開になっています。これは、戦果を劇的に伝えたいナポレオンの嘘だったことがよく知られています。もっと驚いたのは、ナポレオンがピラミッドを砲撃させるシーンです。これは、完全に事実無根であり、ピラミッドにその痕跡などありません。やり過ぎです。このシーンだけでも本作は「リドリー・スコットのなんちゃってナポレオン伝」的な映画になっています。リドリー・スコットが、叙事詩的作品に不向きであることを如実に伝える映画でした。(写真出典:imdb.com)

2023年12月22日金曜日

ガザ回廊

イスラエルによるガザ攻撃は、ホロコーストと同様、ジェノサイド以外の何ものでもありません。トリガーは、ハマスによる大規模ミサイル攻撃でした。ただ、世界最高とされるイスラエルの諜報機関モサドは、事前に計画を知っていたのではないでしょうか。自国民に犠牲が出ることも、ハマス徹底攻撃の理由になることから、ある程度は覚悟していたのではないでしょうか。また、自殺行為的なハマスのミサイル攻撃は、イスラエルと中東諸国の関係改善の動きにあせったハマスの暴挙と言われます。ただ、天井のない監獄と言われるほどガザを締め付けてきたイスラエルの長期作戦の帰結とも思えます。限界を超えていたガザは、いつ爆発してもおかしくなかったのでしょう。つまり、ハマスは、イスラエルの罠にはまった、あるいは罠と知りつつ攻撃に出るしかなかったように思えます。

イスラエルのねらいは、ガザ回廊の実効支配だと思われます。いまや国家として多くの国が承認するパレスティナですが、主な領土であるヨルダン川西岸において、パレスティナ政府が実権を握っているのは、国土のわずか20%弱にすぎません。その他は、イスラエルによる実効支配が続いています。イスラエルにとって、ガザ制圧に関する唯一最大の懸念は、国際的批判です。常にイスラエルを支持してきたアメリカが、その防波堤となることは明白ですが、とりわけ大統領選挙目前の今、民主党も共和党も、一層強くイスラエルを支持するしかない状況にあります。また、ロシアによるウクライナ侵攻が続く中、国際社会からの過度な介入も考えにくい状況にあります。これもイスラエルにとっては好材料と言えます。

パレスティナ問題の起源を語ったり、大英帝国の二枚舌を糾弾することは、非生産的だと思います。パレスティナ問題への現実的な対応は、二国共存しかないと思います。妥協は不満しか生まないと言われますが、もはや妥協以外の道はないように思います。ただ、新たに国境線を議論することは非現実的です。中東戦争でイスラエルが実効支配地域を広げる以前の国連決議181号(1947)、いわゆる”パレスティナ分割決議”に戻るべきかと思います。181号決議は、アラブ10カ国が反対、英国が棄権、他国は一度は賛成した案であり、今も有効です。パレスティナを含むアラブ各国には妥協してもらう必要があります。一方、イスラエルには違法な入植地等をあきらめてもらう必要があります。

181号議決を基本としつつも、現実的な調整はあり得ると思います。例えば、パレスティナは、ガザを含む南部を放棄し、ヨルダン川西岸、およびハイファ・ナザレを除く北部を領地とする。これでパレスティナの飛地は解消されます。イスラエルは、パレスティナをシリア・レバノンとの緩衝帯として確保できるので、ゴラン高原から撤退すべきでしょう。560万人と言われるパレスティナ難民の一部は、帰国することになると思われます。国際社会はその帰還を財政的に支援するべきだと思います。エルサレムは、181号議決の趣旨に従い、国連信託統治とするのが現実的だと思います。新しい国境やエルサレムの治安維持には、当面、国連軍があたる必要があるでしょう。もちろん、こんな素人案など実現困難であることは百も承知ですが、言ってみたくなるほど、パレスティナの状況は出口が見えません。

181号が決議される際、シオニストたちは、賛成票を集めるため、臆面もなく買収工作を行いました。パレスティナ問題の原因を作ったのは英国の二枚舌ですが、シオニストの横暴を許してきたのは米国です。いずれもユダヤ人の経済力が背景にあります。加えて、米国では、人口の22%を占め、影響力を増大させてきたキリスト教福音派の票が政治を左右すると言われます。福音派は、その名のとおり、聖書を絶対視する原理主義者です。福音派は、旧約聖書のなかで神がユダヤ人に与えた”約束の地”を絶対だとし、イスラエルを支持します。聖書は”隣人を愛しなさい”とも言っています。福音派にとって、この言葉も絶対的なのでしょう。とすれば、パレスティナ人は隣人ではなく、約束の地を侵す異教徒という理解なのでしょう。一神教は、ユダヤ人の発明です。人々は一神教に救いを求めてきましたが、同時に、世界は一神教に翻弄されてきたとも言えそうです。(写真出典:wsj.com)

2023年12月20日水曜日

ジェリコのラッパ

Junkers Ju 87
ド素人の印象に過ぎないのですが、ジェット機、特にジェット旅客機のエンジン音は、皆、同じように聞こえます。対して、プロペラ機のエンジン音には個性が感じられます。まずは、ターボプロップとレシプロ・エンジンでは、音が全く異なります。ターボプロップは、レシプロよりも個性が乏しいように思います。技術が進化すると、個性は失われていくものなのでしょう。レシプロ・エンジンの音は、いかにも機械が回っているといった風情があり、何故かワクワクします。昔、水平対向エンジンの音に惹かれ、スバル・レガシーに乗っていたことがあります。スバルには、中島飛行機時代から培われたエンジンの技術があります。ご自慢の水平対向エンジンは、小型飛行機にも使われるエンジンであり、プロペラ機のような音がします。

旅客機のエンジン音なら平和なものですが、大戦中の戦闘機や爆撃機のエンジン音となると、これはもう恐怖そのものだったと思います。戦争中の空襲の話を聞くと、老人たちは、皆、B29爆撃機の低いゴーンという音が恐ろしかったと話します。B29の低重音も恐ろしいと思いますが、もっと恐ろしかったのは、ナチスの急降下爆撃機シュトゥーカの降下音だったのではないかと思います。もちろん、実際の音を聞いたことはありませんが、戦争映画や記録映像で、嫌というほど耳にしています。シュトゥーカは、急降下爆撃機を指すドイツ語ですが、通常、最も代表的なナチスの急降下爆撃機であるユンカース社製”Ju87”を指しています。外見としては、主翼に角度がつけられた逆ガル・ウィング、固定脚、複座が特徴です。

照準器が登場する以前、急降下爆撃は水平爆撃に比べて爆弾の命中率が高く、1919年には実用機が飛んだようです。爆弾投下後、機体を急上昇させる際に、相当の負荷がかかるため、機体は頑丈に作られます。水平飛行から急降下に入ると、独特な甲高い音が響きます。恐らく主翼に付けられたダイブブレーキが発する風切音なのでしょう。次に何が起こるかを知っているだけに、実に恐ろしい音だと思います。Ju87の降下音は、連合国側から”悪魔のサイレン”と呼ばれ、恐れられたといいます。敵がこの音を恐れていることを知ったナチスは、固定脚に風力式の本当のサイレンまで取り付けたようです。ドイツ兵は、このサイレンを”ジェリコ(エリコ)のラッパ”と呼んでいたそうです。実に皮肉な話だと思います。

ジェリコのラッパは、旧約聖書ヨシュア記に登場します。モーゼの後継者ヨシュアは、神に約束された地カナンで、城塞都市ジェリコを包囲します。イスラエルの民が、ヨシュアの合図とともに一斉に角笛を吹くと、城壁が崩れ落ちます。ヨシュアは、ジェリコに立てこもっていたカナン人の老若男女、家畜に至るまでを皆殺しにします。つまり、ジェリコのラッパとは、ユダヤ人を約束の地に導いたユダヤ人指導者の逸話が元になっているわけです。ホロコーストを遂行するドイツ兵がユダヤ由来の名前を付けるなど、実に皮肉な話だと思います。ジェリコの街は、ヨルダン川西岸に現存します。数次に渡る発掘調査の結果、ヨシュアによるジェリコ虐殺は後代の創作と判明したようです。

スペイン内乱から第二次世界大戦初期まで大暴れして連合国側を恐怖させたシュトゥーカですが、機体が重く、速度も遅く、航続距離も短いことから、徐々に戦闘機の餌食となっていきます。バトル・オブ・ブリテンでは英国空軍によって多数撃墜され、ドイツ空軍は大きなダメージを受けます。しかし、ドイツにおけるシュトゥーカの威力は神話化し、特に空軍総司令官だったヘルマン・ゲーリングが急降下爆撃に固執したことから、ナチスは空軍の戦略と装備のアップデートに遅れをとり、制空権を失っていきました。とかく成功体験に囚われると身を滅ぼすものです。ナチスのシュトゥーカは典型的な話とも言えます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年12月18日月曜日

菓子パン

木村屋のあんパン
東日本大震災の1週間後、山形のタクシーをチャーターし、三陸を回りました。LPGで動くタクシーを使ったのは、不足していた現地のガソリンを使わないためでした。いつ、どこで食事できるかも不確かな状況のなか、タクシーの運転手さんは、自分の食事用に菓子パンを積んできていました。3日目、昼食のあてもないまま海岸沿いを走っていると、運転手さんが、皆でパンを食べましょう、と自分用の食料を分けてくれました。実は、私は菓子パンが苦手なのですが、そんなことを言っている場合でもなく、ありがたく頂戴しました。釜石にたどり着き、従業員の皆さんに「何か食べたいものはあるか?」と聞いたところ、菓子パンと言うのです。早く言ってよ、私の分をあげたのに、と思った次第です。

菓子パンは日本で生まれました。三大菓子パンは、あんパン、ジャムパン、クリームパンなのだそうです。菓子パンの嚆矢でもあるあんパンは、1874年に木村屋が発売しています。同じ木村屋が1900年に発売したのがジャムパン、1904年には中村屋がクリームパンを発売しています。この三大菓子パンが、日本にパンの文化を定着させたとも言われます。他にもブームにまでなった大人気のメロン・パンがありますし、渦巻きパンにチョコ等を詰めたコロネ等もあります。いずれも苦手です。あんこやジャムといったフィリングが嫌いなのではありません。菓子パンの生地が苦手なのです。あのパサパサ、モサモサとした食感がいけません。

本来、パンの生地には、乳製品はほとんど使われませんが、菓子パンの生地には、バターや砂糖の他に、ミルクや卵が練り込まれています。菓子パンに類するペイストリーの生地にはミルクも卵も使いません。クロワッサンやブリオッシュといったヴィエノワズリーと菓子パンを比べれば、使うバターの量が大いに違うと思います。菓子パンと同じく日本発祥のソフトフランスパンの生地には、卵もミルクも使いません。ちなみに、ソフトフランスパン系は好みです。例えば、ソフトフランパンの生地を使う塩パンにあんこを入れたものなどは大好きです。発酵や焼き方の関係もあるかも知れませんが、いずれにしても菓子パンの生地には、なんとも言えない中途半端な印象がつきまといます。

私が、菓子パンの生地を苦手とするのは、学校給食のコッペパンから受けたトラウマが関係しているかも知れません。学校給食は、完食が絶対的条件でした。私も、先生に詰められ、嫌いだった人参を泣きながら食べさせられたことを覚えています。ただ、コッペパンは、食べ残してもランドセルに隠すことができました。私のランドセルには、いつも食べ残しのコッペパンが数本、カピカピの状態で入っていました。ランドセルを開けると、パンの匂いが充満していたものです。唯一、コッペパンを完食する場合があり、おかずとしてソース焼きそばが出た時です。コッペパンの中側を急いでほじって食べ、そこに焼きそばを入れて食べるわけです。コッペパン独特の無味乾燥感は気にならなくなります。

10年ほど前からでしょうか、TV等で各地のご当地パンが紹介される機会が増えました。日本のパン市場では、山崎製パンが圧倒的に強く、その売上は2位のフジパンの4倍近くあります。全国のスーパー・マーケットのパン売り場は、大半、山崎パンによって占められているということになります。山崎パンの寡占状態がゆえに、昔から親しまれ、生き残ってきたご当地パンが、注目を集めることになったのでしょう。数年前、デパートでご当地パン特集があり、有名どころをいくつか試してみたことがあります。菓子パン系のご当地パンは、やはり苦手でした。惣菜パン系は、幾分マシなのですが、それでも、また食べたいと思うようなものはありませんでした。ご当地パンの人気の源泉は、味の良さというよりも、慣れ親しんだ懐かしい味ということなのではないでしょうか。(写真出典:kimuraya-sohonten.co.jp)

2023年12月17日日曜日

「首」

監督:北野武    2019年日本

☆☆+

(ネタバレ注意)

ビートたけしが監督する映画を、初めて観ました。たけしの映画を嫌ったのではなく、そもそも日本映画をほとんど観ないからです。俳優としての北野武は、崔洋一監督の「血と骨」(2004)で観ました。鬼気迫る演技は見事なものでした。コメディアンに悪役をやらせたら絶品という法則そのものだと思いました。監督としての北野武は、ヴェネツィア国際映画祭での金獅子賞、銀獅子賞に象徴されるとおり、今や世界的巨匠となっています。一度、観てみたいと思っていたのですが、なぜか北野映画はネットで配信されていないこともあり、機会がありませんでした。「首」は、正直、がっかりしました。ただ、周囲に聞くと、これまでの北野映画とは、まったく異なるとの評でした。失敗作ということなのでしょうか。

構想30年と言いますから、随分と思い入れのある映画なのでしょう。ただ、役者は、常連も含めて集めたものの、プロダクション・サイドの問題が重なり、これまでと同様の支援体制がない状態で制作せざるを得なかったようです。そのせいかどうかは分かりませんが、編集が酷いことになっていると思いました。本作は、編集し直せば、まったく印象の異なる映画になる可能性が高いと思います。結果的には、たけしの歴史に関する仮説がゴチャゴチャと提示されているだけという代物になっています。本来的には、農民出身である秀吉の視点から武士の首や男色へのこだわりをあざ笑い、武士を美化することなく、その真実、そして戦国の世の不毛を映像化したかったのでしょう。

それは、単に歴史のリアリティを追求するということではありません。仮説や創作も含めて、史実を再構成し、監督の思想や視点を明確に伝えるという手法が指向されたものと思われます。だとすれば、それは、かなり面白い試みになっていたはずです。ただ、誠に残念なことに、映画はフォーカスを失い、散漫な印象だけを残す結果になりました。また、映像的には、やや奥行きに欠ける傾向があり、ベタっとした印象を受けました。これも編集上の問題の現れという可能性もあります。他の北野映画はどうなのか知りませんが、本作では、テーマを訴求するうえで、あえてロング・ショットや広がりのあるショットを排除するという判断をしたのかもしれません。  

面白いことに、本作に女性はほとんど登場しません。時代劇に付き物である奥方や姫君は皆無です。ここにもたけしの強い意図を感じます。恐らく、時代劇に登場する女性たちは、観客に媚びるために登場させられているのだと思います。実在する女性であっても、時代背景からすれば存在感が薄く、かつ記録が残っていたとしても極めて限定的だと思われます。日本人の歴史認識は、おおむねフィクションにすぎない時代劇によって形成されていると言えます。やたら美化された武士のイメージもさることながら、やたら存在感のある戦国の女性たちについても作られたものなのでしょう。たけしは、誤解をもたらしてきたエンターテイメントのあり方も強く批判したかったのだと考えます。

光秀が三日天下に終わった最大の要因は、本能寺で信長の首を見つけられなかったことだとされます。つまり、信長の死が証明されないため、武将たちは半信半疑となり、光秀への加担をためらったとされます。その間に”中国大返し”で京まで戻った秀吉は、体制が不十分な光秀軍を山崎の戦いで破ります。映画では、弥助が信長の首をはね、持ち去ります。たけしの思い入れが強いラスト・シーンを成立させるための創作なのでしょう。ちなみに、信長の首は、囲碁の本因坊家の開祖となる日海、後の算砂が、信長の指示に基づき、碁盤と共に風呂敷に包み持ち出したという説があります。確かに、算砂は本能寺の変当日、信長の前で対局を行っています。その際、“三劫”という世にも珍しい局面が現れます。三劫とは、互いの石を取り合う循環局面が盤面上に3ヶ所以上現れ、対局がそれ以上進まなくなる状態です。事の真偽はともかくとしても、以降、三劫は不吉とされているようです。(写真出典:cinematoday.jp)

2023年12月15日金曜日

わらじ

ここ数年、アークテリクスのコンシールLTというトレッキング・シューズがお気に入りで、普段から履きまくってきました。少しくたびれてきたので、新しいものを買おうとしたのですが、随分と人気があるようで、全く在庫がありません。そこで代わりになる靴をと思い、アウトレットで探していると、カンペールが目に入りました。試してみると、一発でビートルという靴が気に入り、購入しました。最大の特徴は、靴底がフラットなことです。まるで裸足で歩いているような感覚です。これは西洋版の草鞋(わらじ)だと思いました。日本の草鞋をイメージしたわけではないと思います。カンペールは、スペイン・マヨルカ島発祥の店です。スペインにはジュート縄を底に使うエスパドリーユがあり、その伝統に根ざしているように思えました。 

近年、運動靴は、クッション性の高い厚底、アーチ・サポートと呼ばれる土踏まず部分を高くした立体的なインソールが主流です。足底のフィット感が高く履き心地が良いこと、足底にかかる衝撃を分散させることで疲れにくいといった効用もあるのでしょう。ただ、特定の運動には適しているのかもしれませんが、果たして普段使いの靴、あるいは散歩用の靴としてはどうなのか、という疑問があります。欧州のゴツゴツとした石畳が多い町では意味があるかもしれませんが、日本のような真っ平らな路面が多い町での必要性はあまり感じません。厚くて立体的なインソールは、材質や製造技術の進化の賜物なのでしょう。一方、人類は、随分と長いこと、平らなインソールの靴を履いてきましたが、それは単に技術の問題だったのでしょうか。

日本の場合、旅をする際、平安時代から底が平らな草鞋を履いてきました。草鞋は、軽い、通気性が良い、ある程度のクッション性がある、コストが安い、使い捨てといった特性があります。ただ、日に40kmも歩くには疲れにくいという条件が必要だったと思われます。創意工夫に優れた日本人が、千年近くも草鞋を履き続けてきたということは、疲れに対しても効果があったからだと思えます。草鞋は、足指が鼻緒を挟むことで鍛えられ、地面を踏ん張る力が増し、土踏まずの形成にも有効だと聞きます。インソールが平面的で柔軟性があることに関しては、素足で地面を掴むに等しいことから、足裏が鍛えられ、土踏まずの形成にも効果があるものと思われます。さらには、体重分散効果も大きいと思われます。

全体重を、足裏全体で受け止めることによって分散させ、疲れにくくする効果があるのではないでしょうか。立体的なインソールは、衝撃には強くとも、体重を分散させる効果は薄いように思われます。加えて姿勢の問題があります。カンペールのビートルを履いて感じたことは、立体的インソールに比べて、体の重心がやや後退することです。実は、後退するのではなく、直立したのだと思います。立体的インソールは、運動時に有効な前傾姿勢を生み出す仕組みでもあるのでしょう。人間の体は、直立を前提に構成されています。ということは、直立した状態に近いほど疲れにくいのではないでしょうか。また、膝への負荷を考えれば、クッション性の高いインソールの方がいいとは思いますが、それは立体性の問題ではありません。

ちなみに、縄文時代の土器には、モカシンのような靴をかたどったものがあるそうです。恐らく北方文化の影響なのでしょう。以降も、狩りや戦いの際、あるいは雪の中では靴が使われています。ただ、普段使いは草履(ぞうり)や下駄、旅の際には草鞋が主流となるわけです。草鞋は、飛鳥から奈良時代の頃、中国から伝来し、平安期には一般化していたようです。草履は、平安期に草鞋を改良して作られたようです。草鞋の足首を縛る紐を取り除き、着脱がしやすくなっています。家で靴を脱ぐ日本の文化に適合させたわけです。草履の一種である雪踏(せった)は、竹皮の草履の底に皮を貼り、踵部分に金属を付けて防水機能を持たせたものです。いずれにしても、草鞋や草履は健康に良く、かつ疲れにくいとは思うのですが、どうにも鼻緒は苦手です。サンダルも鼻緒のあるものはいけません。当面は、カンペールのビートルでがんばろうかと思います。(写真:カンペール”ビートル” 出典:camper.com)

2023年12月13日水曜日

コーサ・ノストラ

John Gotti
フランシス・フォード・コッポラ監督のゴッドファーザー三部作(1972~74)は、映画史に残る傑作です。NYにおけるマフィア組織コーサ・ノストラの世界を描く一大叙事詩ですが、それは同時に、病める大国アメリカの自画像でもありました。マフィアは、シチリアに起源を持つ組織です。シチリアは、永らく外国支配を受け、イタリア統一後も中央政府との軋轢が絶えませんでした。マフィアは、厳しい状況下、いわば自己防衛的な意味も含めて形成されたと言えます。19世紀になると、マフィアは、移民によってアメリカに持ち込まれました。遅れてきた移民であったイタリア移民、ことに辺境のシチリアからの移民は、肩を寄せ合って生きていく必要がありました。新天地アメリカでも、シチリア人の環境は厳しかったわけです。

各国の歴史のなかで、反社会的組織が存在しなかったことなどないと思われます。農耕を始めて以来、人間は、原始的な集落から国家に至るまで、実に多様な組織を作ってきました。しかし、そもそも個人と組織は対立する概念です。万民の欲求にすべて応えられる国家や自治体など存在するわけがありません。反社会的組織は、そこを補う形で生まれ、育つものなのでしょう。アメリカ社会が繁栄を遂げた20世紀、社会が抱える矛盾も増大し、アメリカン・マフィアも組織を拡大していきます。ゲーテではありませんが、光が強ければ影もまた濃い、というわけです。また、マフィアは、時に国家、あるいは権力とも互いを補完する形で手を結びます。これも各国の歴史の中でしばしば見かけてきた構図です。

コーサ・ノストラの力の源泉は、暴力に基づく庇護のシステムだと思われます。つまり、上納金を払う限り、ビジネスであれ、悪事であれ、組織がそれを邪魔することも、他の暴力組織、時には行政の介入からも守ってくれるという仕組みです。暴力がベースにあるとは言え、原始的な環濠集落のリーダーと農民との関係と同じであり、一定の縄張りの存在が前提となる点では近代国家にも類似します。1960年代、成長のピークを迎えたアメリカでは、様々な矛盾が社会的対立を生んでいきます。コーサ・ノストラも同様に、1960年代後半から衰退を始めます。政府による暴力組織対策が強化されたことが大きかったのでしょう。1970年に制定された威力脅迫及び腐敗組織に関する連邦法、いわゆるRICO法は政府の強力な武器となりました。

もう一つ、組織の衰退を促したのが、麻薬の蔓延だったと考えます。極端に言えば、戦争のたびにアメリカの麻薬常用者は増えていきます。マフィアの一部も、これを商売にしてきました。しかし、60年代後半のカウンター・カルチャーと泥沼化したヴェトナム戦争が、社会に麻薬を蔓延せました。大都市に限らず全米に市場が拡大し、需要に供給が追いつかない状況が生まれます。新たに生まれた市場の空白は、新たな供給者が埋めていきます。市場の拡大と新たな供給システムが、マフィアの存在意義であった縄張りの意味を失わせ、庇護のシステムが崩壊していったのだと思います。私がNYにいた頃、五大ファミリーのうち最大の勢力を誇っていたのがガンビーノ・ファミリーでした。そのボスはジョン・ゴッティであり、NYマフィア衰退の象徴のような人でした。

1985年、ミッド・タウンの人気店スパークス・ステーキ・ハウスの前で、ガンビーノ・ファミリーのドン、ポール・カステラーノが殺害されます。保守的なカステラーノは麻薬取引を禁じていましたが、これに反対するジョン・ゴッティが殺害を指示し、自らボスの座につきます。繁華街で起きた衝撃的な事件に世間の注目が集まり、ジョン・ゴッティのマスコミへの露出は高まります。マフィアは、都市の闇の中に潜んで生きてきました。ところが、おしゃれなジョン・ゴッティはマスコミへの露出を楽しみ、時の人となります。三度訴追され、全て無罪を勝ち取ったジョン・ゴッティは、テフロン加工されているようだとしてテフロン・ドンとも呼ばれ、大衆の人気を集めます。しかし、最終的には、RICO法によって終身刑になっています。麻薬取引とマスコミへの露出は、ジョン・ゴッティを新時代のマフィアに仕立てますが、それがコーサ・ノストラの衰退につながったとも言えます。(写真出典:usatoday.com)

2023年12月11日月曜日

倭国大乱

古津八幡山遺跡
越後平野は、新潟県の中部から北部に広がる広大な平野です。東端には、新津丘陵があり、その一角に「古津八幡山遺跡」があります。弥生時代後期から古墳時代前期の高地性環濠集落であり、国指定史跡にもなっています。ほぼ最北、少なくとも日本海側では最北の環濠集落です。高地性環濠集落は、弥生時代中期に瀬戸内に登場し、後期には近畿一円、そして古墳時代前期には、北陸・新潟にまで広がります。周囲に水田を持つ平地の環濠集落とは異なり、高地性環濠集落は、敵に対する防御に徹した山城のようなものではないかと推測されています。古津八幡山遺跡も、越後平野を一望できる小山の上に築かれています。高地性環濠集落は、いわゆる「倭国大乱」の痕跡とする説が有力だと聞きます。

この時期の日本の歴史は、中国の史書に頼らざるを得ないわけですが、複数の史書に、倭国大乱、あるいは倭国乱の記載があります。大乱に関する記述内容は、史書によって若干の違いもあり、解釈を巡って諸説があるようです。大乱の発生時期はおよそ2世紀後半とされ、少なくとも8年間に渡って戦われたようです。場所に関して、史書は倭国とするばかりで、倭国のどこかは発掘物によって類推するしかありません。現在は、九州から瀬戸内、そして畿内と推定されているようです。恐らく、当時の倭国の主要部分すべてということなのでしょう。各史書とも、大乱の原因について、倭国は男子を王としてきたが、王位継承を巡る争いが起きたと記述しています。つまり、王統の断絶が原因だったということです。

この点に関しても、大いに議論があるようです。当時、倭国は多くの部族に分かれており、ここで言う倭国王とは、統一国家の王ではなく有力部族の王ではないかと考えられます。有力部族内部での紛争が、他部族も巻き込み、大乱化したと考えることができます。また、2世紀初頭から寒冷化が始まったことも大乱の背景にあるのではないでしょうか。稲作は、食料の大量生産を実現しますが、一方で天候に左右されるというリスクもあります。飢饉は、雑食だった縄文時代には存在せず、稲作に特化した弥生時代以降に発生するわけです。寒冷化に伴う飢饉発生を受け、各部族は、生き延びるために他の部族を襲い、貯蔵米と耕作地を奪うしかなかったのではないかと考えます。

大乱の収束に関する史書の記述は一致しています。呪術を用いる卑弥呼を王とすることで大乱が収束したとされています。大乱のなかで部族間のヒエラルキーが生まれ、結果、部族連合が形成されていったものと考えられます。そして、いずれの部族の王でもない邪馬台国の卑弥呼を王に立てることで、部族間のバランスを保ったということなのでしょう。邪馬台国も卑弥呼も、中国の史書にのみ登場し、日本の記紀等には記載がありません。そこで邪馬台国はどこにあったのか、卑弥呼とは誰なのか、という議論が盛り上がりました。近年では、纒向遺跡を邪馬台国政庁、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が有力と聞きます。大型建造物跡を含む纒向遺跡は、突如、3世紀頃に現れます。その近くにある巨大な箸墓古墳は、最古の前方後円墳とされます。

中国の史書には、卑弥呼の記述を最後に”倭の五王”の時代までの約1世紀、倭国に関する記述がありません。いわゆる”空白の4世紀”です。その間に、天孫家が部族連合のトップに立ち、ヤマト王権の基盤を固めていったものと想定されています。しかし、纒向遺跡が邪馬台国、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとすれば、奈良盆地を基盤とする天孫家は、既に2世紀後半~3世紀前半、倭国大乱を勝ち抜き、部族連合のトップに立っていたという可能性もあります。邪馬台はヤマトとも読めます。倭国大乱がヤマト王権を生み出したということかも知れません。倭国大乱は、日本に農耕が伝わって、約千年後に起きています。戦争と大王の誕生は、農耕が人間にもたらしたものを象徴しています。そこに到達するのに千年とは、人類の歴史からすれば、随分と早いようにも思えます。(写真出典:jalan.net)

2023年12月9日土曜日

青島食堂

青島食堂宮内駅前店
久々に新潟へ行ってきました。今回の目的は、従兄弟の絵画の個展を見ることでしたが、時間的には余裕のある旅だったので、まずは長岡で新幹線を降りて信越本線に乗り換え、隣の宮内駅へ向かいました。長岡市内の宮内は、酒・味噌・醤油の醸造所が多い摂田屋という町で知られます。とは言え、駅前には、一切、人の気配のない寂れた町です。ところが、駅の正面にある古びた平屋の前にだけ行列があります。青島食堂です。宮内店は、青島食堂の最も古い店舗であり、かつては本店と通称されていたこともあります。ただ、現在8店舗を展開する青島食堂に本店は存在しません。面白い発想です。スープと麺を一ヵ所で作って各店舗に届けることで、均一の味を目指すという青島食堂の姿勢の現れなのでしょう。

青島食堂は、1961年、宮内駅前に、ごく普通の食堂としてスタートしました。ところが、そのラーメンが大人気となり、50年前にラーメン専門店へと衣替えします。以来、変わらぬ味と人気を保ち、行列が絶えることがありません。新潟四大ラーメンの一つ”長岡生姜醤油ラーメン”というジャンルの発祥の店でもあります。私が、青島ラーメンを初めて食べて感動したのは2004年の暮れでした。当時、既にこのジャンル名は存在していましたが、まだ全国区にはなっていませんでした。しかし、1996年、武蔵・青葉・くじら軒の開店に始まるラーメン・ブームが起きると、徐々に新潟四大ラーメンも知られるようになり、青島食堂にも、全国からラーメン好きが集まるようになります。

青島ラーメンは、とにかくマイルドです。まろやかで優しく、それでいて豚と醤油の旨味をしっかり味わえる青島ラーメンは、毎日でも、毎食でも食べられます。黒い醤油味のスープには、どこにもまったく角というものがありません。生姜醤油ラーメンというジャンル名の由来にもなっている生姜は、スープを炊く際、豚の臭みをとるために、潰して大量に加えているようです。麺は、小麦のふくよかさを十分に感じさせる自家製の中細麺。薄切りにしたウデ肉のチャーシューには旨味が詰まっています。他の具材は、メンマ、ナルト、海苔、ほうれん草、ネギ。創業時から、何一つ変えていないと聞きます。余計なものを入れない、まさに中華そばの王道です。

スープと麺が同じなので、各店舗の味は同じはずですが、作り手の個性が出るのか、皆、多少の違いがあります。私は、8店舗中、7店で食べましたが、宮内の曲新町店が一番のお気に入り、次いで宮内駅前店です。新潟市内にも4店舗ありますが、どうも宮内の店舗とは味が異なり、ややマイルド感が薄れ、すました味のように思えます。10年ほど前、秋葉原のはずれに東京店も出しました。懐かしくて、何度か食べにいきました。確かに青島食堂の味ですが、少し油っぽい印象を受けました。それでも、宮内へ行かずに青島ラーメンが食べられるので、実にありがたい存在です。開店当初から、青島ラーメンの味を知る人たちが集まっていましたが、徐々にその名が知られるようになり、いまや連日の大行列です。

新潟四大ラーメンとは、長岡生姜醤油の他に、”三吉”や”蓬莱軒”などの新潟あっさり醤油、”杭州飯店”や”大むら食堂”などの燕背脂、”こまどり”や“東横”などの新潟濃厚味噌です。新潟あっさり醤油は、飲んだ後の締めに最適です。小針の住宅街のなかにある隠れた名店”味みつ”も棄てがたい味です。新潟市内で、私が最も好きだった店が”石門子”です。毎朝、店主が海で採ってきた貝類を出汁にしたラーメンは絶品でした。残念ながら、店主の体調が悪く、廃業しました。新潟濃厚味噌も熱烈なファンが多いのですが、私はどうもピンときません。燕の背脂ラーメンは、全国的に若者たちの人気を集める背脂系の元祖です。燕のラーメン屋の店内は、慎重に歩かなければならないほど油まみれです。不味いわけではないのですが、どうも人間の食べるもののようには思えません。(写真出典:walkerplus.com)

2023年12月7日木曜日

環濠集落

吉野ヶ里遺跡
かつて学校で習う縄文人とは、定住せず、狩猟採取の生活を送る原始人といったイメージでした。そこへ朝鮮半島から稲作の技術を持った弥生人が渡来し、縄文人は駆逐されたのだと習いました。しかし、発掘調査が進み、縄文人は集落を作って定住し、どんぐりや栗を栽培していたことが分かってきました。また、縄文人は、弥生人に取って代られたのではなく、 渡来した稲作の技術を習得し、いわば弥生人化したことが新たな定説となっているようです。日本最古の水稲耕作遺跡は、1979年に発見された唐津市の菜畑遺跡です。それまでは、福岡市の板付遺跡が最古とされていました。今般、その板付遺跡を見学してきました。稲作技術が、かなり完成度の高い形で伝わってきたことがよく分かりました。

水田には、水を出し入れする、いわゆる潅漑設備が不可欠です。また、畦(あぜ)を作って田に水を蓄える仕組み、あるいは田毎に高低差をつけ、効率良く水を行き渡らせる仕組みも必要となります。同時に、田を耕す、稲を刈り取るといった道具も必要となります。板付遺跡には、既に、これらが揃っています。中国で完成された水稲技術が、そのまま渡来していたわけです。同時に、縄文時代には無かった環濠集落という村の姿も渡来しています。環濠集落とは、集落を濠で囲み、外敵、害獣の侵入を防ぎ、排水にも活用します。稲作は、人類の食糧事情を飛躍的に改善するとともに余剰生産物を生み出しました。貯蔵米は、水田、労働力、道具類と併せ、所有するという概念を強めます。守るべきものが生じたわけです。

環濠集落は、8千年前に、稲作が始まった長江流域、雑穀栽培を始めた南モンゴルに登場したとされています。日本には、稲作とともに伝わった環濠集落ですが、弥生時代から古墳時代に入っていくと、姿を消していきます。稲作がもたらした余剰生産物は、集落にヒエラルキーを生み出します。生産拡大とともにリーダー層は強大な力を持ち、小規模な集落を超える存在になっていきます。多数の集落を包括したクニの誕生です。すると各集落の環濠が持っていた防衛的側面は意味を失い、環濠集落は消えていくわけです。ただ、欧州や中国では、環濠集落の規模がどんどん拡大し、城と町をまるごと城壁で囲んだ城塞都市が誕生してゆくのに対して、日本では、それが起きていません。

城塞都市が生まれなかった理由はいくつか考えられます。まずは、山が多く、起伏に富んだ国土という特性があげられます。平原とは違い、山、高台、川を活用すれば、城壁で囲うまでもなく同じ効果が得られます。また、火山の多い日本では、加工しにくい石材が多いことも理由になります。加えて、平地が少なく、切り出した石材の運搬も困難になります。日本の石材の多くは、山で切り出し、舟で運ぶ方法がとられていますが、それでは城の石垣がせいぜいで、高い城壁で町を囲むことなど夢のまた夢です。そして地震、洪水、噴火といった天災が多く、石積みが崩れやすいことも影響しているのでしょう。ただ、戦国時代には、城と城下町をまるごと、塀、石垣、濠、土塁等で囲った”総構え”が登場しています。総構えとしては、小田原や江戸がよく知られています。

板付遺跡を訪れ、最も驚いたのは、見学者の少なさです。日本最古の称号は菜畑遺跡に明け渡したものの、日本最古級の水田跡、環濠集落遺跡です。私が訪れたのは平日のお昼頃ですが、その日、二人目の来訪者でした。確かに縄文・弥生系の遺跡への来訪者は少ない傾向があります。藁の小屋と土器・石器、他には原っぱばかりですから。とは言え、もっと多くの見学者を集めるような努力は必要なのではないかと思います。翌日、佐賀県の吉野ヶ里遺跡も見学しました。日本最大級の弥生遺跡であり、いくつかの環濠集落、多くの建造物、水田、植生が再現されています。こちらは、平日にも関わらず、観光バスも数台来ており、結構な数の来訪者がいました。(写真出典:asahi.com)

2023年12月5日火曜日

ごまさば

福岡のソウル・フードの一つは「ごまさば」だと聞いていました。何度も福岡へ行っているにも関わらず、これまで食べたことがありませんでした。居酒屋の定番メニューと言われますが、多様な食文化を持ち、食事の選択肢が多い福岡ですから、これまで一般的な居酒屋へ行く機会はありませんでした。また、「ごまさば」とは料理名だと思っていましたが、一方で、「ゴマサバ」という種類の魚も存在し、どっちなんだろうと多少疑問でもありました。鯖にはマサバとゴマサバがあります。ゴマサバは、腹に胡麻状の斑点があるのでゴマサバと呼ばれます。通常、我々が食しているのはマサバであり、ゴマサバの大半は缶詰やさば節等の加工品に回されます。

今般、ついに食べることができた”博多のごまさば”は、マサバを使った料理でした。マサバの刺身を甘めの醤油とみりんで和え、胡麻、ねぎ、海苔等の薬味を加えたものです。今回は居酒屋ではなく、定食屋でごまさば定食を食べました。というのも、酒の肴に最適だとは思いますが、温かいご飯に乗せて、そして最後は出汁茶漬けで食べたいと思ったからです。鯖は、冬場が旬です。脂の乗った魚は、概ね、づけ茶漬けがうまいものです。案の定、ごまさばの出汁茶漬けは、とても美味しく、もっと食べたいと思いました。しかし、鯛であろうが、ブリであろうが、出汁茶漬けは美味しく、かつ、薬味に胡麻を入れることも少なくありません。つまり、一般的的な料理であり、博多のごまさばだけが特別とは思えません。

では、なぜ、博多のごまさばだけが有名で、農水省の「うちの郷土料理」にまで登録されているのでしょうか。そもそも、鯖は”生き腐れ”というほど足が早く、刺身で食べることはありません。鯖による食中毒は、主にヒスタミン中毒です。ヒスタミンは、アミノ酸の一種である”ヒスチジン”が、”ヒスタミン産生菌”という酵素の作用によって変成したものです。ヒスチジンを多く含む魚を常温で放置するとヒスタミンが多く生成されます。ヒスタミンは加熱しても消えることはありません。鯖は、このヒスチジンを多く含み、かつ脂肪分が多いことから劣化が早いとされます。低温保存だけではヒスタミンの発生を防げないことから、塩をふる(塩鯖)、酢じめにする(〆鯖)、あるいは適切に血抜きする必要があります。

もちろん、海からあがったばかりの鯖ならば、刺身でも問題ありません。博多は玄界灘の活きのいい魚が揚がる土地柄ですが、それは博多に限った話ではありません。実は、鯖にはもう一つややこしい問題があります。魚介類に多い寄生虫アニサキスです。日本の食中毒の半数がアニサキス中毒だとされます。アニサキスは、魚の内臓に寄生しますが、魚が死ぬと、内臓から筋肉に移動するとされます。私たちは、この筋肉を刺身として食べているわけです。アニサキスは、加熱したり、冷凍すれば死滅しますが、やっかいなことに塩や酢だけでは死にません。ところが、アニサキスにも種類があり、九州北部で獲れる魚に寄生するアニサキスは、太平洋側のそれとは異なり、魚が死んでも、すぐには筋肉に移動しないようです。

つまり、博多のごまさばが特別である理由は、刺身でも食べられる新鮮な鯖を使うという全国的には極めて珍しい背景があるからだと言えます。福岡に限らず、九州北部の人たちは青魚好きです。おそらくごまさばも、漁師飯として、あるいは浜の家庭料理として食べられてきたのでしょう。ただ、意外なことに博多のごまさばが居酒屋メニューとして有名になったのは、平成になってからだと聞きます。恐らく、冷蔵技術の進化に加え、1990年に長崎自動車道が開通しことが大きかったのでしょう。というのも、福岡で消費される鯖の多くは長崎産だからです。(写真出典:gourmetcaree.jp)

2023年12月1日金曜日

大野城跡

大野山(四王寺山)
念願叶って、大野城跡と水城跡を見てきました。大野城は、福岡県の大野城市・太宰府市・宇美町にまたがる日本最古、かつ最大の朝鮮式山城です。665年、太宰府政庁を守るために、前年に築かれた水城に続き、南の基肄城(きいじょう)とともに築城されています。政庁背後に位置する標高410mの大野山、通称四王寺山の地形をそのまま活用した山城です。周囲に巡らされた土塁・石塁の総延長は8.4km、9ヶ所の城門があります。城内には数多くの礎石が発掘されています。低山ながら、谷筋は深く、急峻な崖もあります。広大な城のすべてを回るには、一日がかりだと思います。今回は、2時間弱のトレッキングで、全体の2割くらいを見てきました。西の尾根に築かれた城門跡から見ると、福岡平野が一望でき、その先には博多湾が続きます。

663年、朝鮮半島の白村江で、唐・新羅連合軍に大敗した倭国は、唐の来襲を警戒します。外交努力を展開する一方で、中大兄皇子は、国防体制の整備を図ります。まずは、664年、対馬、壱岐、筑紫などに防人(さきもり)を配置し、烽で素早く情報を伝える仕組みを整備し、水城を築きます。そして、朝鮮式山城を、九州から瀬戸内海にかけて、28カ所、築城します。そのはじまりが、大野城と基肄城でした。その時点まで、倭国には築城の経験がなく、百済から亡命してきた武人や官僚が建設を指揮したとされます。唐が西方での戦いに注力せざるを得なくなり、その間隙をついた新羅が朝鮮半島を統一すると、古代山城の存在意義は薄れ、うち捨てられることになります。わずか数十年の命だったわけです。

774年に至ると、城内に、四天王を祀る四王寺が建立されます。以降、大野山は、四王寺山と呼ばれる信仰の山へと変わります。当時の仏教は国家鎮護のための宗教であり、兵に代って仏に国防を委ねたとも言えます。また、18世紀末、大火、天然痘、豪雨に襲われた博多の商人たちは、観音様にすがるべく、四王寺山中に三十三体の石仏を安置します。西国三十三ヶ所霊場にちなんだもので、各石仏の基礎には、西国三十三ヵ所霊場の土が埋められていると聞きます。大正期頃までは、多くの人々が三十三石仏巡りをしていたようです。実は、三十三石仏の起源については異説が存在します。1584年、大野山の南裾では、岩屋城を巡る壮絶な攻城戦が戦われます。その犠牲者を慰霊するために石仏が安置されたという説です。

16世紀末、肥前の龍造寺を破った島津勢は、勢いに乗って北上し、九州統一を目指します。最後に残る障害は、秀吉が北部九州の守護に任じた大友宗麟でした。島津の勢いに恐れをなした宗麟の臣下たちは、次々と島津勢に加わります。一人残った高橋紹運は、子息たちを後背の城に置き、自らは、763名の兵とともに最前線の岩屋城に立てこもります。押し寄せる島津勢は5万に膨れあがっていました。ただ、寄せ集めの軍となった島津勢の士気は低く、攻城戦は半月に及びます。島津勢が総攻撃をかけると、ついに紹運は切腹、岩屋城は全滅します。ただ、島津側も3千人の犠牲者を出し、立て直しのために、進軍を止めざるを得ませんでした。そして、20万の兵を率いた秀吉が小倉へ上陸し、さすがの島津も降伏しています。

大野城跡へ出かけるに際して、福岡市出身の知人たちに聞いてみたところ、当然、大野城は知っていても、誰一人として大野城跡を見た人はいませんでした。驚きです。大野城跡は、現在、四王寺県民の森として福岡県が管理しています。博多駅前から車で30分も行くと山中に入ります。管理センターで地図をもらったのですが、これが実に分かりにくくて困りました。すると、しっかりと山歩きの出立を整えた中年女性が助けてくれました。彼女は、持参していた分かりやすい地図に基づき、2時間のトレッキング・コースを提案してくれました。それがなければ、人影のない山中で迷っていたかもしれません。感謝です。日本最古の城にして、日本国成立にも深く関わる遺跡です。福岡県、あるいは国が、もっと予算を投入し、もっと見学しやすくしてもらいたいものだと思いました。(写真出典:furusato-tax.jp)

夜行バス