2023年12月1日金曜日

大野城跡

大野山(四王寺山)
念願叶って、大野城跡と水城跡を見てきました。大野城は、福岡県の大野城市・太宰府市・宇美町にまたがる日本最古、かつ最大の朝鮮式山城です。665年、太宰府政庁を守るために、前年に築かれた水城に続き、南の基肄城(きいじょう)とともに築城されています。政庁背後に位置する標高410mの大野山、通称四王寺山の地形をそのまま活用した山城です。周囲に巡らされた土塁・石塁の総延長は8.4km、9ヶ所の城門があります。城内には数多くの礎石が発掘されています。低山ながら、谷筋は深く、急峻な崖もあります。広大な城のすべてを回るには、一日がかりだと思います。今回は、2時間弱のトレッキングで、全体の2割くらいを見てきました。西の尾根に築かれた城門跡から見ると、福岡平野が一望でき、その先には博多湾が続きます。

663年、朝鮮半島の白村江で、唐・新羅連合軍に大敗した倭国は、唐の来襲を警戒します。外交努力を展開する一方で、中大兄皇子は、国防体制の整備を図ります。まずは、664年、対馬、壱岐、筑紫などに防人(さきもり)を配置し、烽で素早く情報を伝える仕組みを整備し、水城を築きます。そして、朝鮮式山城を、九州から瀬戸内海にかけて、28カ所、築城します。そのはじまりが、大野城と基肄城でした。その時点まで、倭国には築城の経験がなく、百済から亡命してきた武人や官僚が建設を指揮したとされます。唐が西方での戦いに注力せざるを得なくなり、その間隙をついた新羅が朝鮮半島を統一すると、古代山城の存在意義は薄れ、うち捨てられることになります。わずか数十年の命だったわけです。

774年に至ると、城内に、四天王を祀る四王寺が建立されます。以降、大野山は、四王寺山と呼ばれる信仰の山へと変わります。当時の仏教は国家鎮護のための宗教であり、兵に代って仏に国防を委ねたとも言えます。また、18世紀末、大火、天然痘、豪雨に襲われた博多の商人たちは、観音様にすがるべく、四王寺山中に三十三体の石仏を安置します。西国三十三ヶ所霊場にちなんだもので、各石仏の基礎には、西国三十三ヵ所霊場の土が埋められていると聞きます。大正期頃までは、多くの人々が三十三石仏巡りをしていたようです。実は、三十三石仏の起源については異説が存在します。1584年、大野山の南裾では、岩屋城を巡る壮絶な攻城戦が戦われます。その犠牲者を慰霊するために石仏が安置されたという説です。

16世紀末、肥前の龍造寺を破った島津勢は、勢いに乗って北上し、九州統一を目指します。最後に残る障害は、秀吉が北部九州の守護に任じた大友宗麟でした。島津の勢いに恐れをなした宗麟の臣下たちは、次々と島津勢に加わります。一人残った高橋紹運は、子息たちを後背の城に置き、自らは、763名の兵とともに最前線の岩屋城に立てこもります。押し寄せる島津勢は5万に膨れあがっていました。ただ、寄せ集めの軍となった島津勢の士気は低く、攻城戦は半月に及びます。島津勢が総攻撃をかけると、ついに紹運は切腹、岩屋城は全滅します。ただ、島津側も3千人の犠牲者を出し、立て直しのために、進軍を止めざるを得ませんでした。そして、20万の兵を率いた秀吉が小倉へ上陸し、さすがの島津も降伏しています。

大野城跡へ出かけるに際して、福岡市出身の知人たちに聞いてみたところ、当然、大野城は知っていても、誰一人として大野城跡を見た人はいませんでした。驚きです。大野城跡は、現在、四王寺県民の森として福岡県が管理しています。博多駅前から車で30分も行くと山中に入ります。管理センターで地図をもらったのですが、これが実に分かりにくくて困りました。すると、しっかりと山歩きの出立を整えた中年女性が助けてくれました。彼女は、持参していた分かりやすい地図に基づき、2時間のトレッキング・コースを提案してくれました。それがなければ、人影のない山中で迷っていたかもしれません。感謝です。日本最古の城にして、日本国成立にも深く関わる遺跡です。福岡県、あるいは国が、もっと予算を投入し、もっと見学しやすくしてもらいたいものだと思いました。(写真出典:furusato-tax.jp)

マクア渓谷