2020年8月31日月曜日

アダンの実

アダンの実は、繊維質で灰汁が強いことから食用には適しません。ただ、石垣島など八重山諸島では、数日をかけて灰汁を抜き、柔らかくして食べていたようです。昔ながらのやり方で調理したアダンを、那覇の八重山料理「潭亭(たんてい)」で食べたことがあります。特段美味しいというものでもありませんでした。八重山の人々は、美味しいから、手間暇かけてアダンを食べていたのではありません。他に食べるものがなく、やむなく食べていたということです。アダンの料理は、八重山の苦難の歴史を伝えます。

沖縄本島とは言葉も異なる独立した文化圏であった八重山諸島が、第二尚王朝に支配されたのが、1500年のこと。王朝が薩摩支配下に入った後の1637年、悪名高き人頭税が八重山を含む先島諸島に課されます。豊作、凶作に関わらず家族数に応じて一定額を徴収する人頭税は、八重山の人々をとことん苦しめます。しかも、尚王朝の公定税率に、現地士族の横暴も加わり、実質八公二民という過酷な税が、琉球処分後の1903年まで継続されました。

1879年の琉球処分によって、琉球は沖縄県として日本に併合されます。王朝の支配層であった士族たちの不満は大きく、明治政府は、これを抑えるために、旧慣温存政策を取ります。つまり、全国統一の税制や統治制度をいきなり適用するのではなく、当面、尚王朝時代の制度を継続することにしたわけです。これに伴い人頭税も継続されます。


真珠養殖事業を起こすべく宮古島に渡った新潟県出身の中村十作は、人頭税に苦しむ人々を見て、県知事に改善を訴えます。取り合ってもらえなかった中村は、士族の妨害を受けながらも、帝国議会へと訴えます。同郷の読売新聞記者増田義一の助けもあり、世論も味方につけた中村らは、内務大臣井上馨へ嘆願書を提出。1903年、ようやく人頭税は廃止になりました。

琉球王朝の人頭税は、先島諸島だけではなく、支配下にあった奄美諸島でも徴収されています。奄美の人たちは、今でも琉球の人たちを良く言いません。アダンの実の料理を説明してくれた「潭亭」のご主人は、最後に「アダンを食べるのは八重山だけです。彼らは食べません」と話を締めくくりました。「彼ら」とは、間違いなく沖縄本島の人たち。長期に渡った圧制の記憶は、そう簡単に薄れるものではありません。
写真出典:okinawaclip.com

八月の濡れた砂

大学入学とともに、縁あって学生寮に入れてもらいました。寮生20数名の自治寮に1年半お世話になり、その後はアパートで暮らしました。寮を出た理由は、徹夜麻雀、いわゆる徹マンです。固定的メンバーに組み込まれ、毎夜、先輩たちと夜中から朝まで麻雀三昧の日々が続きました。楽しかったのですが、さすがに自由を求めて退寮しました。

74年、地方の大学には、まだ全共闘時代の空気が残っていました。寮には、個性的な先輩も多く、なかでも大学生活8年目という先輩2人がおり、様々なことを教わりました。ある日、そのうちの一人が、俺のアジトへ連れていってやる、といってヒッピーのたまり場のような飲み屋へ連れていかれました。二人で話をしていると、周りのヒッピーたちも参加してきて、小さな店は文学論議で大いに盛り上がりました。気が付けば、真夜中を過ぎ、雨も降り始めていました。

雨の音に誘われるように誰かが「八月の濡れた砂」をボソボソと歌い始めました。すると、瞬く間に皆が歌いはじめ、ついには皆で外に出て肩を組み、雨に濡れながらの大合唱となりました。わけもなく涙が出始め、見れば皆も泣いていました。全共闘運動は見事に敗北し、長かった高度成長もついに終わり、虚無感が漂う時代でした。時代の変化は感じつつも、変化に対応できない若者たちの自己憐憫と言えばそれまでです。そんな時代の空気をストレートに伝えたのが「八月の濡れた砂」という青春映画です。そしてその主題歌は、一瞬にして、時代の空気で空間を満たす魔力を持っていたと言えます。

「八月の濡れた砂」は、1971年の藤田敏八監督作品。ロマンポルノ移行前の日活最後の映画です。同名の主題歌は、後に井上陽水と結婚した石川セリが歌いました。まず、歌があり、それにインスパイアされた藤田敏八が、わずか25日で撮りあげた映画です。映画と主題歌の関係が、他の映画に比べて一層濃いわけです。71年の公開終了後から若者の間で評判が広がり、1年後、特別に再公開されたという伝説の映画でもあります。私も二年続けて見に行きました。
写真出典:amazon.co.jp

2020年8月30日日曜日

ゲルマンの保守性

米国中西部のミズーリ州、セントルイスから西に130キロばかり離れた田園地帯に、Japan という地名が残ります。19世紀半ば、ドイツ系の移民たちが入植し、小さな集落は、Japan と名付けられました。長崎の二十六聖人殉教に感銘を受けた入植者たちの発案だったそうです。そのままジャパンと発音していたらしいのですが、真珠湾攻撃以降、さすがに塩梅が悪いので、ジェイパンと読むようになりました。その後、集落は消え、単に地名として残るだけになっているようです。

中西部には、19世紀中期、北部ヨーロッパからの移民たちが、東部の都市を経由することなく入植しました。いわゆるゲルマン系の人々です。体の大きな人が多く、例えば、男性用の便器なども背が高く、日本人はアウェイ感を感じます。Japan もそうですが、中西部には、変わった名前の町が多くあります。メキシコ、アステカ等、メキシコにちなんだ名前も多く、北部欧州のメキシコに憧れる傾向が、地名に反映されているとのこと。

宗教的には、プロテスタントのカルビン派が多く、他にカソリック、プロテスタントのルター派も多いようです。非常に保守的な土地柄で、例えば、ミズーリ州の車のナンバー・プレートには「Show Me State」と書かれています。話だけじゃダメだ、現物を見せろ(Show Me)というのがミズーリの気風だと言うのです。保守的を通り越して、愚鈍な印象すら受けます。土地の人たちは、農民気質だと言うのですが、欧州北部の厳しい風土のなかで生きてきた歴史、そして宗教的な影響もあるのでしょう。

保守性は、連邦政府に対する不信感としても現れます。スイング・ステイト、いわゆる大統領選挙の激戦州も多く、反連邦政府の民兵ミリシアも多く存在します。前回の大統領選では、中西部のラスト・ベルトの票がトランプに流れました。共和党か民主党かという問題ではなく、東部エスタブリッシュメントに対する不満票だったとも言えます。トランプ陣営は、ウィスコンシン、ミシガン、ペンシルベニアが命運を左右すると見ているようです。現状、 世論調査では、 バイデン有利と出ていますが、中西部気質からして世論調査に答えない人たちが多いものと考えられます。民主党も、かくれトランプ支持者を甘く見るべきではありません。

昔、セントルイスの仕事仲間の米人が、NYへ行ったことがないと聞き、驚きました。なぜ、と問えば、NYはアメリカではない、外国へ行きたいとは思わない、とのことでした。実に中西部らしい話だと思います。
写真出典:flags-shop.jp

2020年8月29日土曜日

エスコフィエ

クレオパトラ、楊貴妃、小野小町とくれば「世界三大美女」ということになります。誰も見たことがないうえに、小野小町の入選は胡散臭さの極致。実は、明治中期の読売新聞が出所のようです。世界三大料理と言われるのが、フランス料理、中華料理、トルコ料理。こちらは世界的にも知られているようです。欧州の料理人たちが言い始めたらしいのですが、基準もはっきりしません。要は、近世まで、強大な王朝が存在した大国ばかりなので、正確には「世界三大宮廷料理」なのだと思われます。

フランスの宮廷料理は、ほとんど建築的であり、高さを重視した大皿料理だったようです。それを分解し、一皿づつ提供するコース料理に変え、大衆化したのが、近代フランス料理の父と言われるエスコフィエです。コース料理自体は、ロシア宮廷に一部見られたようですが、エスコフィエによって大衆化されたわけです。市民が豊かになった時代を反映しているのでしょう。エスコフィエの著書「料理の手引き」(1903)は、5千を超えるレシピが掲載され、いまだフランス料理のシェフたち必携の本だそうです。また、厨房の効率化、料理人の待遇改善にも取り組んだことでも知られています。ちなみに、エスコフィエは背が低いことを引け目に思い、背の高いコック帽を愛用していました。それがフレンチのコック帽の背が高い理由だそうです。

オーギュスト・エスコフィエは、1846年、ニース郊外に生まれます。13歳からこの道に入り、招集された普仏戦争では、不十分な食材から美味い料理を生み出す腕を磨いたと言われます。モンテカルロのグランド・ホテルのシェフを経て、セザール・リッツと意気投合したエスコフィエは、ロンドンのサボイ、ホテル・リッツ等でシェフを務め、世界の著名人たちを魅了しました。彼の死後、弟子たちが設立したエスコフィエ協会は、世界中に支部を持ち、今もフランス料理界の中心を担っているようです。エスコフィエの名言「料理は時代とともに変わっていくべきである」は、後輩シェフたちを指導するうえでの最高の言葉のように思えます。

スポーツ評論家の二宮清純氏から聞いた話ですが、フランスのスポーツ・ライターと「サッカーにおける指導者」というテーマで対談した際、うまい例え話を聞いたというのです。「二つ星のシェフとは、世界中から最高の食材を集め、世界最高の料理を作る人。三ツ星のシェフとは、目の前にある食材だけを使い、世界最高の料理を作る人」さすがフランス人。実に見事な例え話です。
写真出典:ja.wikipedia.org

旅行鞄

近年は、国内旅行でもキャスター付キャリー・バッグを持参する人が大半を占めます。駅や空港が大型化し、歩く距離が増えたことが主因なのでしょう。私は、旅慣れたライト・トラヴェラーを気取り、あくまでも旅行鞄にこだわってきました。ただ、各種デバイスやコードを持ち歩くために荷物が重くなり、また加齢とともに重い鞄がしんどくなってきたため、キャリー・バッグを購入しました。使ってみると、これがなかなか便利なのです。

旅行鞄に限らず、鞄が日本に入ってきたのは明治の始め。鞄という言葉も明治期に初めて作られた言葉です。江戸期まで、従者のいる大名や武士は別として、庶民は振り分け荷物一つで旅をしていました。徒歩での移動が前提なので、徹底的にライト・トラヴェルにこだわり、軽くてかつ両手も自由になるという優れものです。矢立はじめ小物類は折り畳み式が多く、着替えはほぼ無し。街道と宿場が整備されていたことが大前提の旅だったとも言えます。

思えば、日本人は、昔から大の旅行好き。比較的移動が容易な狭い国土、南北に長く風土の異なる各地の存在、識字率の高さによる情報共有が進んでいたこと等が背景として考えられます。江戸期、原則として、移動の自由はありませんでした。ただ、参拝や湯治等は大目に見られていたようです。最も人を集めたのはお伊勢さんと言われます。「一生に一度はお伊勢参り」のキャッチ・コピーが効いたわけです。年間最大400万人と言われたお陰参りは、当時の日本人の10人に一人が行った勘定になります。

対して欧州では、旅は基本的に貴族や上流階級のもので、庶民は旅行等していなかったようです。従者のいる人たちに旅行鞄は必要ありません。産業革命以降、市民階級が豊かになり、かつ鉄道の普及によって旅行が始まり、旅行鞄の必要が生まれます。ですから、そもそも旅行鞄は、鉄道移動を前提に誕生したと言えます。

世界で最初の旅行鞄専門店は、1854年に創業したパリのルイ・ヴィトンです。平積みできるトランクに布を張った旅行鞄は評判となり、模造品も出回り始めます。コピー防止の観点から作られたモノグラムは、万博で見た日本の家紋に着想を得たというのは有名な話です。ちなみに日本人で最初にルイ・ヴィトンの鞄を購入したのは板垣退助。自由民権運動の父にして、庶民派政治家として知られる人がヴィトン最初の顧客というのも面白い話です。
振り分け荷物   写真出典:amazon.co.jp

2020年8月28日金曜日

梁盤秘抄#5 Abraxas(天の守護神)

アルバム名:Abraxas(天の守護神)(1970)  アーティスト:サンタナ  

サンタナのベスト・アルバムは何か?と問われれば、間違いなく「スーパー・ナチュラル」(1999)と答えます。では、サンタナで一番好きな曲は?と聞かれれば、即刻「Samba Pa Ti(君に捧げるサンバ)」と答えます。この20世紀を代表する名曲は、全米ナンバー・ワンに輝いたサンタナ2枚目のアルバム「Abraxas(天の守護神)」に収められています。同アルバムからシングル・カットされたのがブラック・マジック・ウーマン。初の全米ナンバー・ワン・ヒットとなりました。

カルロス・サンタナは、1947年、メキシコのハリスコ州の生まれ。ティワナを経由して、サンフランシスコに移住し、アメリカ国籍を取ります。ブルーズに傾倒していたサンタナのデビューには面白いエピソードがあります。フィルモア・ウェストに出演予定のポール・バターフィールドが泥酔し、穴を埋めるために即席のバンドが結成されます。そこに潜り込んだのが19歳のサンタナでした。その演奏は注目を集め、バンドが結成されました。

1969年には、ファースト・アルバムがリリースされるとともに、伝説のウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェスティバルに出演し、大ブレイクします。翌年、リリースされたAbraxasで、全米ナンバー・ワンを獲得。トップ・バンドになります。ラテン音楽伝統のリズム・セクションに、ラテン音楽独特の哀愁を帯びたメロディ。しかし、なんといってもカルロス・サンタナの抜群のテクニックとユニークなメロディ・センスあふれるギターこそ、サンタナの魅力です。Samba Pa Ti は、美しい旋律とカルロス・サンタナのセンスが詰まった名曲です。

始めてサンタナのライブに行ったのは、76年。オリジナル・メンバーでもあるパーカッショニストのホセ・チェピート・エレアスの強烈な演奏が印象に残りました。以来、折に触れてライブには行っていますが、2013年は、やたらロング・トーンを多用したギターが疲れを感じさせ、心配しました。ただ、2017年の武道館では、完全復活。実にサンタナらしい音を聞かせてくれました。

カルロス・サンタナは、マイルス・デイビスやアリス・コルトレーン始め、実に多様なミュージシャンと共演しています。ただ、いつも確実にサンタナらしいギターを貫いています。数音聞いただけで、サンタナだと分かるくらいです。ラテン・ロックと言われますが、唯一無二のサウンドは、サンタナという独立したジャンルだと思います。
写真出典:amazon.com

2020年8月27日木曜日

築地井上のラーメン

懐かしい井上の光景 出典:pinterest.jp
2017年8月3日夕刻、築地場外もんぜき通りに火の手があがり、飲食店17軒が焼失。火元は、大人気店、中華そばの井上でした。早朝開店、昼過ぎには閉まる立ち食いラーメン屋。行列が絶えることはないのですが、メニューが一つであることもあり、回転が早く、50人の行列でも30分も並べば、食べられました。このうえなくバランスの良いスープにうまいチャーシューがたっぷり。これを立ち食いですすり上げると、幸せ感で満たされます。最後の頃は、そこそこ値上げして一杯700円。私が、東京で最も好きなラーメンでした。

ラーメンの歴史ということになると、最初に食べた日本人は水戸光圀公という話が定番。ところが、近年、「蔭涼軒日録」という文献に、中国の書物を参考に、小麦とかん水を使って打った麺が出てくることが発見されました。1488年のことであり、これが日本のラーメン事始めではないか、と言われているそうです。蔭涼軒は、相国寺境内の鹿苑院にあった足利家の休憩所。なんと日本のラーメンは京都発祥だったということになります。

横浜中華街でも中華麺は出されていたようですが、今につながる日本式のラーメンは、やはり浅草の「来々軒」が発祥。1910年のことでした。大人気となり、瞬く間に全国に広がり、かつ各地で独自の進化を続けてきました。単純な料理なのに、そのヴァリエーションは広く、かつ店によって味が異なるわけですから、驚異的な多様性です。それが一杯千円以内で味わえるわけですから、実にいい楽しみだと思います。

私の好みは支那そば系。よく食べるのは、飯田橋のびぜん亭、交通会館のひょっとこ、有楽町大勝軒あたり。佐野ラーメン、喜多方ラーメンも大好きですし、博多に行けば元祖長浜屋、札幌へ行けば純連かすみれは欠かしません。久留米の沖食堂、熊本の黒亭、また行きたいですね。ま、数えあげれば、切りがないわけです。なかでも井上は最上級でした。誠に残念。豊洲市場で再開か、と期待されましたが、なしのつぶて。出火元の責任を重く受け止め、廃業したとも聞きました。

赴任したことのある新潟も、実はラーメン王国。背脂発祥の燕・三条、新潟のこってり味噌、そして長岡のしょうが系醤油。長岡は宮内駅の青島食堂は大のお気に入り。しょうがで醤油の角を取ったまろやかな味は絶品。近年は秋葉原にも店を出し、行列店となっています。本店より、やや脂っこさが勝る感じです。ま、東京の若者の好みに合わせたのでしょう。

生命記憶

人権に関わる会合で、諏訪中央病院名誉院長である鎌田實医師の講演を聞いたことがあります。生い立ち、医師としての活動歴等、実に興味深い講演でした。なかでも恩師でもある解剖学者・三木成夫の著作「胎児の世界」に関する話には興奮しました。すべての胎児は、その成長の初期段階のごくわずかな期間で、脊椎動物の発生から人間に至るまでのすべての進化を体現、追体験しているというのです。まさに生命の不思議です。

松岡正剛が、東京芸大の保健センター長をしていた三木成夫に会った際の話を書いています。初対面で、いきなり「君はデボン紀の顔だな」と言われたそうです。以来、二人は、科学の枠を超えた議論を交わす仲になったそうです。極めて高い知のレベルで交わされる議論を聞いてみたかったところです。三木成夫は、解剖学者に留まらない天才的思索家だったのでしょう。その著作も、解剖学、比較発生学の成果を踏まえつつも、それに留まる本ではありません。人類学であり、哲学であり、文学的ですらあります。

「胎児の世界」は三部構成。第一部は「故郷への回帰」として生命記憶の回想について語ります。第二部が「胎児の世界」、生命記憶の再現。第三部は「いのちの波」、生命記憶の根源を探ります。細胞的、あるいは遺伝子的記憶としての生命記憶がテーマとなっています。私たちが、生きている過程で獲得した記憶ではなく、そもそも体が持っている記憶が生命記憶です。有名な話で言えば、人間が爬虫類に嫌悪感を持つのは、かつて恐竜に怯えた記憶だと言われます。

人間の胎児は、受精32日目、サメのような魚類の顔になります。そこには鰓裂(えら)が見られます。34日目、今度は両生類の顔に変化します。この時の顔は険しい表情を見せます。エラ呼吸から肺呼吸に変わる苦しみ、上陸の記憶が再現されているわけです。36日目、大脳が大きくなり、けものに近い様相が現れます。38日目には哺乳類の特徴が現れはじめ、40日目には、人間の顔になっていきます。人間の胎児は、わずか8日間で、脊髄動物5億年の歴史を繰り返すわけです。部分的かも知れませんが、「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルの反復説の証明なのでしょう。

思えば、胎児は羊水という海で発育します。羊水は古代海水の成分に近いとも言います。また人間も含め脊椎動物は、塩分を摂取することで海に居たころの体内バランスを維持しているとも言います。驚きの世界であり、納得性の高い話です。鎌田先生は、人間一人ひとりは生命38億年の歴史を背負って生きている、そんな人間を差別なんかできますか、と語っていました。感動しました。
三木成夫「生命とリズム」表紙(右上は胎児の受精32日目、右下34日目、左上36日目、左下38日目)  写真出典:Amazon

2020年8月26日水曜日

クラブとネクタイ

昔から、まったく意味不明だな、と思っているのがネクタイの存在です。その必要性や機能性が理解できません。クールビズで、ノーネクタイが成立するなら、そもそも不要だったのではないか、と思ってします。もちろん、おしゃれという観点からすれば、個人の自由です。軍隊や何らかのチームが揃いのタイをすることも理解できます。ただ、一般的にドレス・コード化することは疑問だな、と思います。

ネクタイの歴史を紐解くと、古代ローマにたどり着きます。ローマ兵の兜は、形状からして首に当るので、こすれることを避けるため、フォカスと呼ばれるスカーフを巻いたものだそうです。時は下って、17世紀フランス。護衛のために雇われたクロアチア兵が、揃いのフォカスを巻いているのを見たルイ14世は、側近に「あれは何か?」と聞きます。側近は、クロアチア兵のことだと勘違いし「あれはクラバット(クロアチア兵)です」と答えます。おしゃれなルイ14世は、これが気に入り、自身も首に「クラバット」を巻くようになります。これが、宮廷から市民に至るまで大流行となります。

この時期の肖像画等を見ると、皆、思い思いのクラバットを首に巻いています。これがネクタイの直接的起源だと言われます。初めからネクタイは、機能も必要もない、ただの飾りだったわけです。欧州中に広まったクラバットは、19世紀初頭の英国で進化します。稀代の伊達男ボウ・ブランメルの巻いて締めて結ぶネック・クロースが火付役となります。19世紀後半には、オックスフォード大の学生が帽子のリボンを首に巻いたことから現在のネクタイが生まれます。排他的なクラブタイが始まりだったわけです。

英国伝統のクラブは、16世紀に現れ、17世紀には組織化されたようです。コーヒー・ハウスに同好の士が集い、男性のみの排他的組織になっていきました。18世紀、産業革命で市民の財力が高まると、食事や宿泊もできる建物を独自に所有するようになり、スポーツ愛好家のクラブでは、ゴルフ場、馬場まで持つようになります。排他性を高めるために高い入会金・会費、厳密な紹介制度、独自の厳しいルール等も作られます。ドレス・コードも、その一つ。各クラブ独自のタイ、いわゆるレンジメンタル(連隊)・タイの誕生です。

英国では、今でもレジメンタル・タイを締める際は、その排他性ゆえ、時と場合をわきまえる必要があるようです。排他性は、明らかに団結力を高めます。ただ、一方で、差別の温床ともなります。英国の階級社会とインドのカーストは、 どうしようもなく根深いものがあります。 先の見えない階級社会は、英国で本物のロックを生み出す主な理由でもあります。 本当にネクタイは必要ですか?
ボウ・ブランメル・スタイルのネック・クロース 出典:wikimedia.commons

2020年8月25日火曜日

レニ

90歳を超えたレニ・リーフェンシュタールのインタビューを中心に構成されたレイ・ミューラー監督の「レニ」(1993)を見ました。エミー賞を受賞するなど高い評価を得たドイツのドキュメンタリー映画です。90年代ですら、ドイツでナチスに関係する映画を作ることはハードルが高かったと聞きます。3時間を超える大作ですが、レニ・リーフェンシュタールの複雑な人生、芸術と政治という複雑な議論からすれば、決して長すぎる映画ではありません。

レニ・リーフェンシュタールは、舞踏家、ノースタントのアルピニスト女優を経て、20代で映画監督になります。時はナチス台頭の時代。ナチス党大会を傍聴した彼女は、他のドイツ人と同様、ヒトラーの演説に興奮し、希望を見出します。彼女とヒトラーとその幹部たちとの親しい交友が始まります。ヒトラーは、彼女に1934年のナチス全国党大会のドキュメンタリー制作を依頼します。ヒトラーとシュペーアが作り上げた壮大な党大会は大成功し、彼女のドキュメンタリー「意思の勝利」も世界中で高い評価を得ます。ファシズムの熱狂を余すところなく伝える見事な映像が、当時のドイツ人に与えた影響の大きさは恐ろしいほどです。

36年、ナチのプロバガンダと言われたベルリン・オリンピックが開催され、彼女は、その記録映画を撮ります。予算無制限で作られた「オリンピア(民族の祭典・美の祭典)」は、歴史的傑作となり、スポーツ映像の原典とも言われます。しかし、記録というよりは、演出の多い映像詩に近く、肉体美や力強さを礼賛する姿勢がファシズム的とも言われます。

戦争が終わると、彼女は激しくバッシングされます。責任を問う訴訟も多く提訴されますが、党員でなかった彼女は多くに勝訴しています。しかし、それで批判が止むわけもなく、彼女は完全に抹殺されます。ある意味、ドイツは彼女をスケープゴートにしたと言えます。それはそれで恐ろしい話です。彼女は、ナチスを利用し、利用されたのだと思います。映画は芸術であり、政治とは無縁だったと彼女は言いますが、映画は、その存在そのものが政治的なものです。映画監督の政治責任は逃がれようがありません。

1973年、彼女は、10年間撮り続けたスーダンのヌバ族の写真集を出版、世界中で高い評価を得ました。抑えがたい才能の奇跡の復活であり、不屈の精神の賜物でもあります。しかし、それでも世界は、彼女を許しませんでした。その後、80歳を超えてからダイビング・ライセンスを取り、100歳で「ワンダー・アンダー・ワールド」を制作。これが遺作となりました。アルプスの頂で花開いた類稀なる才能と不屈の精神は、海の底で終わりを告げた、ということでしょうか。
写真出典:eiga.com

2020年8月24日月曜日

インディ500

Indy500 2020
コロナの影響で8月開催となったインディ500で、佐藤琢磨が、2017年に続き二度目の優勝。複数回優勝は、まさに歴史的快挙です。松下幸之助の孫、ヒロ松下が日本人として初めて挑戦してから30年経ちました。インディ500は、モナコ、ル・マンと並ぶ世界三大自動車レースの一つにして、最古のレースです。アメリカでは、野球のワールド・シリーズ、フットボールのスーパーボウル、ゴルフのマスターズと同様、まさに国民的お祭りです。

インディ500は、毎年5月、インディアナポリスで開催されます。オーバルコースでは世界最速のレース。平均速度は350~360キロ、最高速度は380キロに達します。ほっておけば空に飛びだす速度なので、車体は、ダウンフォースを効かせ、地面から浮き上がらないように設計されています。一度インディ・カーのレースを見ました。フェンスにへばりついて観戦し、大失敗。レースカーが速すぎて、間近かではよく見えないのです。その速さですから、一瞬の気の緩みどころか、ミリ単位のハンドル・ミスで、車は宙を舞います。

通常、カーレースと言えば、金曜に練習走行、土曜に予選、日曜が本戦といった日程。インディ500は、その危険性ゆえに、練習走行だけでも1週間行われ、予選も2日間と、日程はおおよそ2週間に及びます。その間、街中がお祭りムード。110年の歴史を誇るインディ500には、数々の伝統があり、特別感を高めます。例えば、優勝者は牛乳を飲むとか、国歌のあとに「Back Home Again in Indiana」を歌うとか。スタートコマンドはスピードウェイを所有するハルマン家が行いますが、これを永らく務めたメアリー・ハリマンの「Gentlemen, start your engines」は名物でした。近年は女性ドライバーも参加するのでLadies & Gentlemen になっているようですが。

モナコやル・マンは、カー・メーカーの戦いとも言えますが、インディカーはほぼワンメイク、皆同じダラーラのシャーシにホンダかシボレーのエンジンを使います。ドライバー個人によるスポーツという色合いが強くなります。モータースポーツの普及度合いの違いかも知れませんが、欧州と米国の文化の違いを感じます。
写真出典:usatoday.com

ギロチンとクロワソン

18世紀、フランス、民衆が今日食べるパンにも困っていると聞いたマリー・アントワネットは「パンが無ければ、ケーキを食べればいいわ」と言ったとされます。民衆から乖離し、浮世離れした生活を送る貴族の傲慢さを象徴する話であり、フランス革命のトリガーにもなったとされる有名な話です。ただ、これはフェイク・ニュース。実際に、こう言ったのは、トスカーナ公国のさる公爵夫人。マリー・アントワネットは、宮廷費を削り、貴族から募金を募り、民衆に食料を届けていました。フェイク・ニュースを流したのは、マリー・アントワネットが進める宮廷改革に不満を持つ一部貴族たちでした。

後に良妻賢母となるマリー・アントワネットも、嫁いだばかりの頃は、かなりヤンチャだったようです。実家を離れた年頃の小娘なら当然とも思いますが、母マリア・テレジアから厳格に育てられた反動でもあるのでしょう。肖像画を見ると、絶世の美女というわけでもなく、むしろ典型的なハプスブルグ顔と言えます。ただ、豊かな金髪は人々を驚かせ、何よりも世界一の宮廷で身に着けた優雅な身のこなしにフランス宮廷はひれ伏したと言われます。彼女が、ウィーンから持ち込んだものは、優雅な立ち振る舞いに加え、上品なファッション、入浴の習慣、花の香水、上質な家具、コーヒー等があります。フランス文化の多くは、彼女に負うところが大きいわけです。おいしいパンも、その一つ。

当時、欧州ではデンマーク人が最高のパン職人とされていました。今もデニッシュという言葉が残るくらいです。マリー・アントワネットも、実家からデンマーク人のパン職人を連れてきます。彼は、マリー・アントワネットのために、デニッシュの生地を三日月型に折り込んだパンを焼き上げます。クロワソンの誕生です。日本ではクロワッサンと呼ばれますが、どこでも通じません。フランスではクロワソン、アメリカではクロサーン、ドイツではギッフェリと呼ばれます。私は、ル・フィガロが世界一と認めたメゾン・カイザーのクロワソンが大好きです。香ばしさと発酵バターの風味のバランスの良さが見事。毎朝でも食べれます。

フランス革命で、ギロチンの露と消えたマリー・アントワネットですが、ある逸話が残ります。通常、ギロチンに首を入れる際、体は下向きになります。マリー・アントワネットは、気丈にも上向きに首を入れ、刃が落ちてくるのを見ていたというのです。これまた真っ赤なウソ、フェイク・ニュース。ただ、民衆が、彼女の矜持の高さ、堂々たる最後に感銘を受けたことを伝える話だとも言えます。
写真出典:fr.wikipedia.org

2020年8月23日日曜日

而今

日本における曹洞宗開祖である道元禅師は、1223年、23歳のおり、南宋に渡り、天童山景徳寺で修行します。ある日、景徳寺で、食事や供物を担当する典座の老僧が、炎天下、笠も被らず、杖をつき、汗をダラダラと流しながら、キノコを干していました。歳を聞けば68歳といいます。800年前の68歳と言えば、今なら90~100歳くらいでしょうか。

道元が「誰か若い僧にやらせてはいかがですか」と言うと、老僧は「他は是我にあらず(他人は自分ではない)」と答えます。道元は、重ねて、「今日は暑いので、別の日にやったらいかがですか」と言えば、「更に何れかの時をか待たん(今やらなきゃ、いつやるのだ)」と言われ、道元は絶句します。

この時、道元は、大きな悟りを得ます。後に著書「正法眼蔵」のなかで「而今(じこん)」という言葉で表されます。「今、ここ」といった意味合いです。一般的には、今、ここでできることを一生懸命にやる、と理解されているようです。なかなかいい解釈ですが、道元が意図したものとは全く異なると思います。存在とは、過去でも、未来でもなく、今、ここにしかない、という意味であり、道元がたどりついた時空観そのものなのでしょう。

道元は、景徳寺住職である天童如浄の「心身脱落」という言葉に真理を悟ったと言われます。道元の言う「只管打坐(しかんたざ)」とは、雑念を捨てひたすら座禅することです。心体を一つにして、心体を消し去る。それが「心身脱落」、つまり無我の境地。修行は悟りを得るためのものではなく、修行こそ悟りであるという「修証一如(しゅしょういちにょ)」という訓えにつながります。人は皆仏心を持つ、仏心があるから修行する、修行すれば仏心があらわになる、といった思想が背景にあるのでしょう。

ある意味、釈迦の訓えを超えた大思想体系を構築した密教からすれば、道元の素朴で原理主義的な訓えは、疎ましかったと思われます。比叡山にいじめられた道元は、都を遠く離れた越前の山中に修行の場を開きます。永平寺です。今も、常に150人ほどの修行僧が座禅三昧の日々を送ります。

三重県は名張の木屋正酒造の「而今」は、実にバランスの良い名酒。大好きな日本酒ですが、数年前までは入手困難であり、飲むためには随分苦労しました。苦労して手にした而今は、今、ここでしか飲めないという思いをもって、ありがたく飲ませていただいたものです。
道元禅師  写真出典:sotozen.net

2020年8月22日土曜日

胃袋の宣教師

私は、ハム・ソーセージといった貯蔵肉が大好きです。貯蔵肉ほど体に悪いものはない、という人たちがいます。塩分や脂肪分の多さ、防腐剤の使用等を問題にしているのでしょう。理解できますが、それでも大好きなのです。小学校高学年の頃、親戚が幸運にも函館のカール・レイモンのソーセージを入手し、私も食べさせてもらいました。天地がひっくり返るほど驚きました。うまい!世の中にこんな美味いのものがあるか、と思いました。

カール・レイモンは、ボヘミアの食肉加工職人の子として生まれ、修行のために世界を回ります。日本に寄港した際、函館で日本人女性と恋に落ち、欧州へ駆け落ちします。1922年のことでした。二年後、函館に戻った二人は、食肉加工業を始めます。カール・レイモンは「わたしのハムはね、肉の細胞を一時的に眠らすだけ。人間の胃に入るとすぐその細胞はよみがえるんですよ。」と語っています。冷蔵技術も輸送技術にも限界のあった時代、手作り、無添加にこだわった彼の貯蔵肉は、函館でも入手困難でした。

カール・レイモンは、1983年、90歳を前に一線を退きます。店は株式会社化したうえで、日本ハム傘下に入ります。ブランドは残り、今も弟子たちが製造を担っています。それらを見届け、1987年、93歳で逝去。自らを「胃袋の宣教師」と呼んだ頑固な職人の一途な生涯でした。日本の量産ソーセージを革命的においしくしたのは、日本ハムのシャウエッセンです。シャウエッセンの発売は1985年。私は、シャウエッセン開発の過程に、カール・レイモンが、何らかの形で関与していたのではないかと思っています。

実は、カール・レイモンは、筋金入りの汎ヨーロッパ主義者でもありました。若いころ、運動を象徴する旗のデザインとして青地に黄色い星を提案します。函館の空に北極星だったともいわれます。当時、そのデザインは採用されませんでした。ところが、30年後、欧州評議会は、カール・レイモンに手紙を寄せ、貴殿の案を採用すると通知します。欧州評議会の旗は現在の欧州連盟旗に引き継がれています。
カール・レイモン  写真出典:satofull.jp

疫病とアウトカースト

ジャレド・ダイアモンドのストセラー「銃・病原菌・鉄」(1997)以降、アステカやインカといった大帝国が崩壊したのは、スペイン人が持ち込んだ疫病のせいだったということが常識となりました。ただ、この説の初出はウィリアム・マクニールの「疫病と世界史」(1976)です。人口の多い地域では、人間による免疫の獲得と病原の変異による流行を繰り返し、ある程度安定的な関係に到達するが、戦争等によって、免疫を持たない地域に病原がもたらされると、短期間で爆発的感染を引き起こす。

分かりやすい話ですが、当然、双方向性があるわけです。中央アジアのトゥーラーンが起源とされるアーリア人は、南進したイラン・アーリア人と、東進したインド・アーリア人に分かれます。インド・アーリア人は、侵略の途上、各地の疫病に苦しめられます。そこで、彼らは、アーリア人以外との接触を禁止します。今も変わらぬ防疫の基本ですが、これが悪名高きインドのカースト制の起源だとされます。マクニールは、カーストの外に位置付けられる不可触民の「不可触」と言う言葉にも、防疫の発想が見えると言っています。

訪れてみると、インドは驚きに満ちています。どんな街でも多数見かける路上生活者アウトカースト、不可触民の存在も、その一つ。その数は、総人口12億のうち2億人と言われます。DNA分析上、独立した民族ではりません。死体処理、汚物処理等、いわゆる不浄の職業に起因する身分なのでしょう。法的には、半世紀以上前にカーストは撤廃されていますが、実態上は存続しています。日本の被差別部落問題と同じ構図です。

インド・アーリア人の防疫対策は、ヒンドゥー教の身分制度ヴァルナ、共同体制度ジャーティとして確立されます。巨大な国の管理上、極めて有効な制度だったと思われます。後に欧州による植民地化が進んだ際にも、分断政策として機能します。ちなみにカーストという言葉はポルトガル語起源であり、インド人は使いません。いずれにしても、為政者が管理のために生み出した差別です。

ちなみに、人間は、捕食者を狩りで絶滅させてきたが、それは目に見える敵だけだった。目に見えない敵を考えれば、我々は、依然、食物連鎖のなかにある、とマクニールは言っています。名言だと思います。
ウィリアム・マクニール「病役と世界史」   写真出典:Amazon.com

2020年8月21日金曜日

じゃがいも飢饉

ハンガリーのタル・ベーラ監督の「ニーチェの馬」(2011)は、アカデミー外国語映画賞を受賞するなど高い評価を得たモノクロ映画。ニーチェは、1889年、トリノの広場で、鞭打たれ疲れ果てた馬に抱きつき、涙を流しながら倒れます。精神崩壊したニーチェは、そのまま10年後に亡くなりました。この話にインスパイアされたという映画は、暴風が吹く平原の貧しい農家で、老農夫とその娘、死にかけた老馬がおくる数日間を描きます。セリフも少なく、毎日、同じ生活が淡々と繰り返されます。タル・ベーラ監督から、これが人生だろうよ、と言われ、何も反論できない自分がいました。ちなみに食事も毎日同じ。一日一個の茹でたじゃがいもに二杯の自家製バーリンカ(果樹酒)のみ。この食事が、映画を象徴していました。

じゃがいもは、南米チチカカ湖原産と言われ、スペインが欧州に持ち込みます。寒冷地や荒れた土地でも育ち、栄養価も高いことから、欧州全域に広がり、特に欧州北部では主食になりました。四大作物と言われる小麦、米、じゃがいも、とうもろこしの中では、最も強く、手間のかからない作物だと思います。日本には1598年伝来とされています。ジャガタラ、今のジャカルタ経由でオランダ人が持ち込んだそうです。ジャガタラ芋、変じてじゃがいもというわけです。

人間が農耕を始める前、飢饉というものは存在しなかった、と言われます。食生活が特定の作物に依存していなかったのですから、当然です。19世紀中葉、欧州北部で疫病がじゃがいもを襲い、数年間にわたり全滅状態が続きました。特に主食化率の高かったアイルランドでは大飢饉となり、100万人以上が餓死、200万人が緑の島を捨てアメリカに移民します。遅れてきた移民に残された農地はなく、多くは東部の都市の最下層に組み込まれます。例えば、NYの警官や消防士は伝統的にアイリッシュが多く、今でも殉職者は人種に関わらずバグパイプで送られます。

「アイルランド人は百敗の民である」と言い切ったのは司馬遼太郎。ひどい言いようですが、欧州中部から追われに追われて、最西端のアイルランドまで辿りついたケルト人の歴史は、確かに負け続けでした。さらにじゃがいも飢饉で海を西へと渡ったわけです。ただ、アメリカでは負けっぱなしというわけでもありません。アイルランド系大統領だけ見ても、ケネディ、レーガン、クリントンと続き、オバマの母方もアイリッシュです。今、また一人アイリッシュの大統領が誕生しようとしています。ジョー・バイデンです。
ジョー・バイデン  写真出典:biography.com

2020年8月20日木曜日

梁盤秘抄 #4 OUT TO LUNCH!

アルバム名:OUT TO LUNCH! (1964)      アーティスト:エリック・ドルフィー

出典:amazon.com
アルト・サックス、バス・クラリネット、フルート奏者のエリック・ドルフィーが、ブルー・ノートに残した唯一のレコーディングにして、ブルー・ノート最良盤の一枚と言われ、かつ60年代アヴァンギャルド・ジャズを代表する一枚とも評価されています。

私は、エリック・ドルフィーは、決して前衛ジャズのミュージシャンだとは思っていません。ユニークな表現をするテクニック抜群の人ではあっても、あくまでもメイン・ストリーマーであり、前衛ジャズが開いた自由な表現を取り込みつつ、モダン・ジャズのテンションを極限まで高めようとした人だと思います。音楽に対して、これほどまでに誠実に向き合った人も珍しいと思います。その姿勢が最も似ているのはジョン・コルトレーン、表現的に最も近いミュージシャンがいるとすればセロニアス・モンクだと思います。

ドルフィーは、1928年、LA生まれ。6歳からクラリネットを始め、クラシック奏者を目指します。数々の賞や奨学金を受けるほど才能豊かな少年だったようです。高校、大学時代からジャズにも親しみ、陸軍退役後、ミュージシャンとして活動を始めます。チコ・ハミルトン・バンドで名をあげ、NYへ移った後は、幼少期からの知人チャーリー・ミンガスのバンド、23歳で夭折したブッカー・リトルとの双頭クインテット等で活躍。この頃まではハード・バップ系とも言えます。共に研鑽してきた盟友ジョン・コルトレーンのバンドに加入したあたりから、解き放たれたかのように自由な表現が顕在化し、このアルバムにたどり着きます。

このアルバムを傑作たらしめているのは、18歳の天才ドラマー、トニー・ウィリアムスの参加です。17歳で、マイルス・デイビス・バンドに招集されたトニーは、リズムの魔術師です。縦横無尽にリズムを刻むだけでなく、 ドルフィーの自在なアドリブをジャズ・コンボの音楽として成立させています。 二人だけでやらせてみたかったですね。緊張感あふれるボクシングの試合のような音楽が聴けたはずです。

このレコーディング後、 ミンガスと欧州ツアーに出たドルフィーは、 ベルリンで糖尿病による昏睡状態に陥り、36歳の生涯を閉じます。 死の直前、 オランダでライブ録音されたのが「Last Date」。 ラスト・トラックの「ミス・アン」が終わると、 ドルフィーが肉声で語り始めます。ジャズの本質を伝え、かつ禅の時空観にも通じる、歴史的名言となりました。

When you hear music. After it's over, it's gone in the air. You can never capture it again.

「ガーンジー島の読書会の秘密」

2018年イギリス・フランス   監督:マイク・ニューウェル

☆☆☆+

大人のおとぎ話。英国人が伝統的に好むものを詰め込み、ミステリー仕立てにしたおとぎ話です。今時、こんな映画を丁寧に作っていることに感動しました。

ガーンジー島は、英国海峡チャネル諸島で二番目に大きな島です。ちなみに一番大きな島は、牛や伸縮性のある織物で有名なジャージー島です。ノルマンディーの西の沖合に位置し、英国王室属領として英国法の及ばない自治領となっています。かと言って、独立国ではないので、英国連邦国でもなく、欧州連合国でもありません。平たく言えばやはり英国の一部です。日本人には、なかなか分かりにくい話です。主な産業は、観光、園芸、酪農であり、タックス・ヘイブンとしても知られます。チャネル諸島は、第二次大戦中、ナチスに占領された唯一の英国領でもあります。

ナチス占領下で生まれた悲恋が、ミステリー仕立てで語られます。興味をそそられたロンドンの女流作家は、島で謎解きをするうちに、英国人として最も大切にすべきものに目覚め、米国人の金持ちとの婚約を解消するに至ります。原題を直訳すれば「ガーンジー島の文学とポテト・ピール・パイ協会」となります。実に英国的。文学、園芸、厳しい自然、ジン、何よりも友人たちの絆と、道具立ても、実に英国的。英国の観客たちの笑みや涙が容易に想像できます。「英国的なもの」が主役の映画と言ってもいいのでしょう。

実に素直な脚本、実に手堅い演出、実に味のあるキャスティング、そして園芸や自然に対する愛情があふれる映像。この映画の制作に携わった人々は、本当に楽しかっただろうな、と思えます。角度をつけた映画や賞を狙う映画などとは一線を画す佳作。この作品のような、ほんわかとした、分かりやすい映画作りも大切にしていただきたものだと思います。
写真出典:dokushokai-movie.com

リトル・ビッグ・ホーンの戦い

1876年6月、モンタナ州のリトル・ビッグ・ホーン川流域に、スー族、シャイアン族等のインディアン約2千人が集結し、宗教儀式サン・ダンスを行うとともに、白人との戦いに関する協議を行っていました。クレイジー・ホース、ゴール等、名だたる戦士たちも参加していました。これを察知した米国陸軍は、ギボン隊とテリー隊による挟撃作戦を計画します。テリー隊を先導したのは、ジョージ・アームストロング・カスター率いる第七騎兵隊の約700名。

攻撃予定日の前日、早くもインディアン野営地に到達したカスターは、インディアンの気の緩みを戦機と捉えます。敵の多さから慎重論を唱える副官やインディアン斥候たちの制止を振り切ったカスターは、第七騎兵隊を3隊に分け攻撃を開始します。判断の背景には、白人優位主義もあったのでしょう。インディアン側もカスターの動きを掴んでおり、先発した副官の隊は壊滅。騎兵隊の数の少なさに、より慎重になったインディアンたちは、カスター本体を包囲したうえで殲滅。カスターも戦死します。功を焦ったカスターは、自ら死地に飛び込んだと言えます。米国陸軍士官学校は、今も、リトル・ビッグ・ホーンの戦いを教訓とすべく、机上演習を行っていると聞きます。

カスターは、1839年、オハイオの鍛冶屋の息子として生まれます。ウェストポイント陸軍士官学校に合格したカスターですが、成績、素行は悪く、卒業も危ぶまれます。ところが南北戦争が勃発。繰上卒業となり任官したカスターは、戦場で目覚ましい活躍を見せます。戦時中とは言え、24歳で州兵准将となったカスターは、Boy General(少年将官)と呼ばれ、全米から脚光を浴びます。長髪に髭、自らデザインした軍服、自尊心の塊カスターは、戦場にあって、恐れ知らずの突撃を繰り返します。賞賛される一方で、無謀とも言える戦術は、部下に多数の戦死者を出しています。

戦後、軍籍を離れ政治家となりますが、政治力を使って陸軍中佐、名誉少将として復帰、インディアン戦争の前線に出ます。ここでも、穏健派の有力族長一族の虐殺、聖地への侵攻等、物議を醸しつつ、リトル・ビッグ・ホーンへと向かいました。カスターを駆り立てたものは、自尊心の強さ、過去の栄光へのこだわり、現職大統領との確執等々挙げられています。また、一説には、インディアン戦争を主導し、大統領選を狙っていたとも言われます。カスターの死後、妻リビーは、彼を英雄化するキャンペーンを展開し、成功します。インディアン抑圧を強める政府もこれを後押しした面があります。戦時の英雄は、しばしば平時の悪夢となります。
写真出典:wikipedia.com

2020年8月19日水曜日

花旦(ホアタン)

昨年、梅蘭芳(メイ・ランファン)来日100周年を記念して、現代の梅派を代表する女優、史依弘(シー・イーホン)の公演が行われました。史依弘は、上海に自身の名前を冠する劇場を持つほどの大女優。極めて貴重な公演なので、演目の異なる2夜の公演とも行き、その見事な唄、踊り、演技を堪能しました。特に梅蘭芳の十八番でもあった「貴妃酔酒」にはしびれました。

梅蘭芳は、1894年、北京の京劇の名家に生まれます。四大名旦の一人とされる大俳優です。旦は、女形を指し、烈女・貞女役の青衣、華やかな娘役の花旦、老女役の老旦、女武人役の武旦の4つから成ります。青旦と花旦をまとめて青衫と呼び、代表的俳優が梅蘭芳です。梅蘭芳は、単なる名優にとどまりません。京劇の近代化を実現し、京劇を世界に紹介した人でもありました。

1919年に初来日。帝劇で行われた日本初の京劇公演は大成功となり、時の総理原敬はじめ著名人が押し寄せたと言います。その際、歌舞伎界とも交流し、伝統的芸能に近代的要素が取り込まれていることに刺激を受け、京劇の近代化に努めたと言われます。また、24年には、再度来日し、関東大震災のチャリティー公演も行っています。30年には米国公演を行います。歌舞伎を有する日本ならいざ知らず、西洋社会で京劇が受け入れられるか、大きな賭けだったようですが、日に日にカーネギー・ホールは観客で埋め尽くされていき、結果、大成功をおさめます。NYタイムスは、「世界が彼に恋をした」という有名な言葉を掲載します。

37年、日中戦争が勃発すると、梅蘭芳は、上海に避難し、抗日に徹します。上海で、日本軍から厚遇を条件に公演することを求められますが、徹底的に拒否。女形として演技できなように、ひげを生やし、強い酒で喉を焼くことまでします。中国人の土地に侵略することはできても、中国人の心まで奪うことはできない、という趣旨一貫した行動が、不世出の大芸術家の真骨頂を伝えます。

59年に中華人民共和国が建国された後、梅蘭芳は、毛沢東と会います。その際、毛沢東は「あなたは私より有名だ」と言ったとされます。かつての抗日闘士に対する、毛沢東なりの敬意の表明だったのでしょう。
写真出典:zhuanian.zhifu.com

2020年8月18日火曜日

巻スカート

アメリカのデス・ヴァレーで、 気温54.4度を記録し、 89年ぶりに最高気温記録を更新するとのこと。デス・ヴァレーは、 深い盆地なので、 熱がこもるようです。

昔、 エジプトのアスワンで、 52度を経験したことがあります。 肌を露出するとやけどすると言われました。 ただ、 湿度が限り無くゼロに近いので、 日陰では、 肌寒く感じられました。 実は、アスワンの52度よりもきつかったのは、パキスタンのカラチで経験した48度。湿度がほぼ100%。冷房のきいた室内から屋外に出ると、コンクリートに押しつぶされたかのような圧力を感じます。いわゆる体感気温ということですが、気温、湿度、風力の関係で、暑さ寒さの感じ方に大きな違いが出るわけです。加えて、人間サイドの代謝、年齢、性別、そして着衣も関係してきます。

エジプトの民族衣装と言えばガラビア。長くてゆったりとしたワンピースです。高温低湿に対応した衣装です。パキスタンは、カミーズというゆったりとした長いシャツに、シャルワールと呼ばれるウェスト3mくらいにもなるゆったりとしたズボン。これも実は、高音低湿向けです。高温多湿のカラチ向けではありませんが、国の大半が高温低湿だからです。キーワードは「ゆったり」。実は、高温多湿地域でも、上着は変化しますが、腰から下はゆったりが基本です。ミャンマーのロンジーはじめ、東南アジアの国々の古い民族衣装には、巻スカート・タイプが多数あります。

考えてみれば、日本の着物も、巻スカート系とも言えます。高温多湿地域としては、理にかなっているわけです。近代化、不平等条約撤廃に向け、脱亜入欧政策を進めた明治政府の心意気は理解できます。ただ、日本もここまで暑くなると、欧州型の服装はいかがなものかと思います。クールビズは、とても良い政策でした。ただ、この酷暑では、日本のサラリーマンが気の毒です。こうなったらアジア的原点に戻り、着物や巻スカートをドレスコードに加えるべきではないでしょうか。ユニクロさんにがんばってもらい、ステテコの商品化に続き、来年の夏は、ビジネス巻スカートをプッシュいただきたいものだと思います。
ミャンマーのロンジー 出典:depositphotos.com

2020年8月13日木曜日

白人特権

手をポケットに入れてはいけない。買わないものを触らない。何かを買ったらレシートかレジ袋なしで店を出てはいけない。身分証明書なしに外に出てはいけない。白人の女性をじっと見てはいけない。警察に職務質問されたら、反論してはいけない。

これは、米国の黒人家庭で、子供たちが叩き込まれる訓えの一部。トラブルを避けるための処世術ではありません。生き残るために最低限守るべき鉄則だというのです。米国の黒人が置かれた差別の恐ろしい現実です。米国の人口に占める黒人の割合は13%。警官に殺された市民に占める黒人の割合は23%。圧倒的に他の人種を上回ります。全米の囚人の黒人と白人の比率は5:1。法が変わり、制度が変わっても、差別がもたらす理不尽な恐怖は、百五十年前の南部と何一つ変わっていなのではないでしょうか。


チェルシー・ハンドラーの「私と白人特権」(2019)というドキュメンタリーを見ました。チェルシー・ハンドラーは、米国のユダヤ系コメディアン。スタンダップ・コメディをベースに、メディアを活用することで、大スターになりました。チェルシーのNetflixにおける番組やドキュメンタリーは、スタンダップのトークそのままに、差別、性、政治等、社会のタブーに皮肉をこめて切り込みます

今回は、かなりストレートに、自身の過去の経験と向き合いながら、多くの人と語り合います。チェルシーは、高校生の頃、家を飛び出し、黒人の恋人と同棲し、酒と麻薬におぼれます。何度か逮捕されますが、自分だけはすぐ釈放されたと言います。まさに白人特権だったわけです。ところが、当時の本人は、それを白人特権だとは認識していませんでした。それが白人特権の大きな特徴でもあります。

チェルシーから、白人特権に関するインタビューを受けた黒人たちの多くは、とまどいを見せます。もう、その手の話はうんざりだよ、いくら話しても何も変わらない、白人特権の問題は、白人同士で話し合い、解決すべき問題だよ、と言うのです。目からウロコでした。差別問題は、差別者と被差別者との関係の問題ではなく、差別者の内面の問題と捉えるべきということなのでしょう。
Chelsea Handler  出典:tvline.com

2020年8月12日水曜日

コークの世界制覇

世界最大の飲料メーカー、コカ・コーラ・カンパニーの本社が所在するジョージア州アトランタには、「ワールド・オブ・コカ・コーラ・ミュージアム」があります。最も興味深い展示は、世界各国のコークの試飲。見事に味が異なります。説明によれば、各国の風土・気候・嗜好に合わせ調整してあるとのこと。そのとおりなのでしょうが、もっと言えば、各国の食事との相性を計算しているように思います。

例えば、アメリカのコーラは、日本のものより軽い印象があります。それは、ジャンク・フードとの相性を計算したフレイバーと炭酸濃度なのだと思います。アメリカの脂っこいジャンク・フードに、コークは実によく合います。例えて言うなら、和食の味噌汁です。それが売り上げを伸ばしてきた秘けつなのだと思います。喉が乾いたら飲むくらいでは世界一にならないわけです。コークは、アメリカのジャンク・フードと手を携え、世界を征服していったわけです。

19世紀末に誕生したコークが躍進した理由は多くあります。まずはボトリングを挙げるべきでしょう。アメリカのソーダ類は、薬用としてスタートしたため、薬局のソーダ・ファウンテインでグラス売りされていました。それをボトル売りにすることで、いつでも、どこでも飲めるようにしました。ボトルの形状もブランディング効果抜群でした。コークの代名詞とも言えるコンツアー・ボトルは1915年に誕生。目指したのは、暗闇でも、割れてもコークだと分かるボトルだったそうです。

30年代、ペプシの安売り攻勢で危なかったこともあったようですが、第二次世界大戦が勃発すると状況は一変。コカ・コーラ社は、いかにコストがかかろうとも、世界中のどこでも、いつでも、兵士がコークを飲めるようにする、と宣言します。政府もこれを歓迎、コークは軍需物資扱いとなります。結果、世界中の60カ所に、政府資金でボトリング工場が建設されました。戦後、それらが世界制覇の足掛かりとなったことはいうまでもありません。ジャンクフードとボトルと戦争が、コークを世界一にしたわけです。

コークは、一度、味を変えています。70年代後半からペプシの大攻勢を受け、首位から陥落したコカ・コーラ社は、85年に味を変えたニュー・コークを発売、巻き返しを図ります。結果は、ブーイングの嵐。 大失敗でした。わずか2ヵ月半で元の味に戻します。ところが、この大惨事が、マーケティング的には良い効果を生み、首位に返り咲きます。何という幸運。マーケの世界では伝説となっています。
写真出典:PicClick.com

怠け者の車

欧州でレンタカーした時、驚いたことがあります。オートマチック車が稀だったのです。近年は、高級車はオートマ化し、マニュアルとオートマを組み合わせたDCT車も増えていますが、欧州は圧倒的にマニュアル車の世界です。驚いた、とイタリア人に言ったら、「オートマ車なんて、怠惰な人間の車だ」と言われました。

オートマチック・トランスミッションは、1940年代、アメリカで開発され、瞬く間に一般化します。アメリカの自動車を巡る環境は、日本や欧州と大きく異なります。ガソリンが安いこと、国土が広く高速道路も発達していること、生活必需品として誰でも運転すること、郊外の急速な発展とともに渋滞が発生したこと等です。真っすぐな道を長時間ドライブすることを前提とすれば、大型化、トルク重視、フワフワのスプリング、オートクルーズも納得できますし、加えて、女性も老人も運転する必要性から、オートマ、パワステ等イージー・ドライビングも追及されたわけです。

対して欧州は、狭くて曲がりくねり山坂も多い道、石油は輸入が多く安くないこと、公共交通が発達していること等、燃費で劣るAT車には不向きと言えます。ただ、それ以上に、自動車に対する認識の違いが大きいように思えます。要は、馬車の長い歴史を持つ欧州人にとって、自動車は単なる自走馬車なのだと思います。日常的に長時間運転することもないので、イージードライブや快適でラグジュアリーな車内なども必要ないのです。単なる道具ですから、頻繁に新車に乗り換えることもありません。もちろん、貴族向けのスポーツカーや高級車も発達したわけですが、ごく一部の話です。

日本は、環境的には欧州に近いと思います。事実、1985年時点、オートマ車は半数に満たなかったのです。では、なぜオートマの国になったのか。日本の自動車輸出は、80年代に入り、アメリカ向け、つまりオートマ車を中心に大幅に拡大。輸出比率は半数を超えます。自動車メーカーとしては、国内向けにもオートマ車の生産を拡大することが、コストダウンにつながります。日本のオートマ化はメーカーの戦略だったように思えます。
アメ車のコラムシフト  写真出典:car-moby.jp

2020年8月11日火曜日

蜃気楼

世界各地で見られる地上絵は、随分と古いものだそうです。近年、注目される中東の車輪型地上絵は、8,500~5,500年前のもの。地上絵の人気ナンバー・ワン、ナスカの地上絵は、1,500~2,500年前のものと推定されます。ナスカの地上絵は、だいぶ研究が進んでいるようですが、 依然、 何のために描かれたのかは不明のまま。 暦法説、 雨乞い説、 宗教儀式説に始まり、 果ては宇宙人とのコミュニケーション説までありますが、いずれも決定打に欠けるとのこと。ついに複数目的説まで出ているようです。 インカ文明同様、ティワナクやナスカ等インカに先立つ諸文明も文字を持っていないことが、解明を阻んでいます。

私のお気に入りは、ドイツの物理学者ヘルムート・トリブッチによる蜃気楼説です。 下位蜃気楼の一種である逃げ水を、水として取り込もうとしたのではないか、 という仮説です。 ポイントは、 地上絵が、 全て一筆書きになっていること。 溝は浅く、 水を貯めるには不適ですが、 逃げ水の性質からして、 深さより広さが重視されたのだと考えられます。 ただ、残念ながら、学会はこの説を無視しています。その背景には蜃気楼と人類の薄い関係があるように思います。

古代から蜃気楼は不思議な現象だと思われていたはずですが、歴史的な記録や文献は、とても少ないように思います。不思議な現象は、通常、神の御業となり、信仰の対象となります。蜃気楼には、それがありません。見られる時と場所が限定され、かつ実益も実害もないので、たまに見かける自然現象という認識以上でも以下でもなかったのだと思われます。逃げ水も、目の錯覚であり、本当の水は無い、そんなことくらいナスカ人も知っていたはず、ということなのでしょう。

そもそも「蜃気楼」という言葉自体、実にいい加減に扱われてきたな、と思います。もとは中国の言葉ですが、蜃は大ハマグリのこと、気はその吐く息、楼はそこに浮かび上がる楼閣という意味です。古代ならともかく、それを現在に至るまでの数千年間、何の迷いも無く使ってきたわけです。どうでもいい現象だったということでしょうか。
写真出典:yuuma7.com

2020年8月10日月曜日

女性とストッキング

戦後強くなったものは女性とストッキング。1950年代に流行した言葉です。誰が言い始めたのか判然としません。一説によれば、朝日新聞が愛媛県で拾った言葉とも。いずれにせよ、なかなか上手な言い回しです。ストッキングは化学繊維の普及で破れにくくなりましたが、経済復興を象徴しています。女性が強くなったということは、日本を戦争へ追い込んだアンシャン・レジームの崩壊を意味し、民主化が進んだことを象徴しています。

苦手だった今村昌平の映画を2本見ました。苦手だった理由は、重苦しさもありますが、一番しんどかったのは、何を言っているのか聞き取れないことです。方言の多用は問題ありません。私の耳に問題があるのか、日本語の母音の多さゆえなのか、録音技術が悪いのか、あるいは役者の活舌が悪いのか、よく分かりません。いずれにせよ、近年、ビデオが字幕付きになっていることを発見し、ヒット作「にっぽん昆虫記」と今平本人が最高作と言っている「赤い殺意」の2本を視聴に及んだ次第です。

今平の造語「重喜劇」を代表する2作品であり、女性のたくましさが描かれています。いずれも東北の因習深い貧困層という設定であり、戦前の日本の古い体質が強調されています。昆虫記では、売春をテコに古い世界から抜け出した女性と、彼女を追いこして進む次の世代が描かれています。赤い殺意では、抑圧された女性が、強姦されたことを機に、古い世界でイニシアティブを獲得していきます。いずれも、抑圧され、不幸が重なる主人公のあっけらかんとしたたくましさが印象的です。彼女たちは、旧体制に虐げられ、戦後、自らの道を進み始めた日本の大衆を象徴しているのでしょう。

カンヌでパルムドールを2回、日本アカデミー賞で監督賞を3回受賞という巨匠は、1926年の生まれ。戦争の時代、あるいは戦場を経験した人たちの旧体制への憎悪は半端ないものがあります。日本をあの不幸な時代へと導いたのは誰か、何故か、そして二度と同じ過ちを繰り返してはならない。彼らの執念は、薄れることなく次の世代に受け継がれるべきと考えます。
写真出典:books.rakuten.co.jp

ヒロシマという記憶

1945年8月6日、原爆投下により広島電鉄も壊滅的被害を受けます。ただ、翌日には宮島線の一部、3日後の9日には市内線の一部の運行を再開しています。一瞬にして消えた街では、路面電車の運行など考えられなかったはずです。一面の焼け野原を走る広電は、市民に希望を与えました。日本一の規模を誇る路面電車を、広島市民が心から愛して止まない理由がここにあります。広電に、あらためて心からの敬意を表したいと思います。

復旧に向けた作業は、被爆当日から、社員と軍の電信隊が共同し、徹夜で取り組んだと言います。思えば、作業に当たった人々も被爆していたわけです。乗務員の確保も難しく、徴兵された社員の穴を埋めるべく広電が設立した女学校の学生が乗務したそうです。運賃も徴収しませんでした。被爆した車両の一部は、メンテナンスを重ね、今も現役で市内を走っています。

ある被爆者のインタビューが印象的でした。その方は、当時13歳。兵器工場に動員されており、被爆直後から児童の救援にあたります。一人の少年が「お兄さん、仇をとってください」と言って死んでいったそうです。自分は、被爆経験を語り伝えることで、今も仇を取り続けている、と語っていました。語り伝えること、そして世界中の人々に広島を訪れてもらうことが、平和への道程なのだと思います。

広島を訪問した際、「君たちはアメリカに腹が立たないのか」と語ったチェ・ゲバラが妻に送ったハガキが保存されています。そこには「平和のために戦うには、ここを訪れるべきだ」と書いてあります。映画監督のオリバー・ストーンは、広島に来るまで原爆投下の正当性を疑ったことはなかった、多くのアメリカ人はヒロシマの歴史を知らない、若者たちはもっと学ぶべきだ、と語ります。

戦争における市民の犠牲はやむを得ない面があります。ただ、市民を標的にすることは交戦法規違反であり、いかに総力戦下とは言え、市民の虐殺は人道に対する罪そのものです。原爆投下が多くの命を救った、という論理は、一面の事実であるにせよ、正当化されるべきものではありません。2人を救うためなら、1人殺しても良い、などと言えますか?
写真出典:hiroshimapeacemedia.com

2020年8月9日日曜日

梁盤秘抄 #3 Quando o Canto é Reza

アルバム名:Quando o Canto é Reza(2010)         アーティスト:ホベルタ・サー&トリオ・マデイラ・ブラジル

いまやブラジルを代表する歌姫となったホベルタ・サーと、ショーロ界の最高峰トリオ・マデイラ・ブラジルのコラボレーション。ホベルタの歌唱力と素直な声質、トリオ・マデイラの超絶技巧で、多彩で奥深いアコースティックの名作になりました。タイトルは、グーグル翻訳によれば「歌う時は祈る時」。

ホベルタ・サーは、ブラジル北東部ナタウの生まれ。最も早くヨーロッパ人が到達し、、かつアフリカの影響も濃い地域です。ホベルタは、アメリカ留学後、2004年、24歳でデビュー。サンバを現代的でポップに表現するサンバ・ノヴァの旗手として注目されます。その後、ゴールド・ディスクを2枚獲得するなど高い人気を誇り、2016年のリオ・デ・ジャネイロ・オリンピックの閉会式でも歌っています。近年のアルバムは、サンバよりは、MPBと呼ばれるポップ系の色が濃くなっているように思います。

2016年、ブラジルは国をあげてサンバ100周年を祝いました。1916年のドンガの「ペロ・テレフォーニ」が最初のサンバとされているようですが、サンバという言葉の初出は19世紀前半、音楽としては18世紀からバイーア辺りで黒人奴隷が楽しんでいたようです。いずれにせよ、西アフリカの音楽と欧州のダンス音楽が出会い、サンバは生まれたわけです。サンバは、実に多様な音楽であり、アフリカ色の強いものから、ボサノヴァまで、サブ・ジャンルは裕に100を超えると言われます。また、ポルトガル語は、西洋音階に最も馴染む言語とも言われ、サンバには、名曲、名手が目白押しです。

ショーロは、19世紀のリオで生まれたギター、カヴァキーニョ等弦楽器を中心とする音楽。即興演奏を行うので、ブラジルのジャズとも言われますが、ジャズよりも百年早く生まれています。むしろ、ジャズはアメリカのショーロと言うべきなのでしょう。天才ジャコ・ドゥ・バンドリンの「カリオカの夜」等が有名です。ショーロの演奏家は、とにかく名人揃い。人口2億のブラジルでは、音楽がビッグ・ビジネス。名のある音楽家は、半端ない実力者ばかりです。
写真出典:amazon.com

2020年8月8日土曜日

ヒップホップの誕生

真夏の夜、NYはサウス・ブロンクスの公園に、街中のストリート・ギャング千人以上が集まり、会合を開く。突如、銃声がとどろき、会合を呼び掛けた有力ギャングのリーダーが殺される。ブルックリンの弱小ギャング「ウォリアーズ」が濡衣を着せられ、NY中のギャングたちから追われる羽目に。ウォリアーズは、真夜中のマンハッタンを北から南へ逃走。彼らは、拠点であるコニー・アイランドにたどりつけるのか?

1979年の映画「ウォリアーズ」は、オール・ロケの低予算映画ながら、世界中で大ヒットしました。直線的なストーリーやスピード感とスリルもさることながら、NYの底辺で生きる若者たちのリアルさが共感を呼んだのでしょう。荒廃した街で、貧困にあえぐ若者たちは、ギャングの一員になるしか生きる道はありません。そこに麻薬が持ち込まれます。麻薬は、インスタント・マネーと共に銃をもたらし、ギャング同士の抗争が激化します。ヒップホップという新しい文化は、そうしたNYの現実のなかで、サウスブロンクスから生まれました。

70年代、ブロンクス最大のギャングであるゲットー・ブラザースのリーダー、ベンジャミン・メレンデスは、殺し合いにうんざりしていました。ある日、抗争の仲裁に送り出した仲間が殺されます。当然、大抗争事件になること必至。ところが、メレンデスは、いきりたつ仲間たちを抑えるとともに、町中のストリート・ギャングに招集をかけ、和平集会を開きます。この「ホー・アヴェニュー・ピース・トーキング」で、メレンデスは、銃による抗争を止め、お互いのブロック・パーティに参加して、唄と踊りを競い合おう、と提案します。街区毎に開かれる週末のブロック・パーティは交流型へと変わり、若者たちの新しい文化がヒップホップ(弾ける)する場へと変わっていきました。

三大DJの一人で、有力ギャングのリーダーだったアフリカ・バンバータは、ヒップホップの四大要素を、ラップ、DJ、ブレイク・ダンス、グラフティと定義します。ラップやDJは多くのスターを生み、グラフティでは、キース・へリングが画伯となります。80年代、社会の格差を拡大したネオ・リベラリズム政策が、ヒップホップを大きく育てたとも言えます。
写真出典:movies.yahoo.co.jp

2020年8月7日金曜日

蛇と女と道成寺

能楽「道成寺」を、国立能楽堂で鑑賞してきました。シテは、宝生流宗家宝生和英。鐘入りはじめ、ある意味、釣り鐘が主役とも言える「道成寺」ですが、一番の見せ場は、乱拍子と呼ばれるシテと小鼓のインタープレイだと思います。そのテンションの高さは見事なものです。見ている間に、蛇男は聞いたことがないのに、なぜ蛇女はあまた存在するのか、気になってきました。

「道成寺」は、室町後期の観世信光の作とされます。平安期の仏教説話、安珍・清姫の話を下敷きに、その後日譚という構成になっています。安珍・清姫の説話は、いくつかのバージョンがあるようです。「道成寺」で語られるのは、真砂の荘司の娘が、夫婦になると聞かされていた山伏に騙されたと思い、蛇に化身して、道成寺の釣り鐘に隠れた山伏を鐘ごと焼き殺し、自らは入水する。道成寺の住職が法華経を唱え、二人を成仏させるというものです。

その後、道成寺に釣り鐘はなかったのですが、室町時代に至り再興します。その鐘供養の場に紛れ込んだ白拍子が、実は蛇の化身だった、というのが後日譚「道成寺」です。成仏したはずの清姫でしたが、四百年たっても、まだ恨んでいたわけです。なんという執念。この執念深さこそが、蛇と女性を結び付けているものなのでしょう。しかし、蛇も女性も本来的に執念深いものというわけでもなさそうです。

そもそも人間は、恐竜に関する古い記憶から爬虫類を恐れると言われます。旧約聖書の蛇はイブに林檎を勧めます。中国の白蛇伝や欧州のラミアーは、青年を性的に誘惑し、食べます。恐怖のシンボルなのでしょうが、知性を持っているところが、執念につながるのかも知れません。一方、女性は、家父長制のなかで抑圧された存在であったことが、逆に家父長制を脅かす恐怖として、蛇と結びつきシンボル化されたのかもしれません。旧約聖書も白蛇伝もギリシャ神話も、男性が作者だったのだろうと思います。
写真出典:manjiro-nohgaku.com

2020年8月5日水曜日

「プラド美術館 驚異のコレクション」

2019年イタリア・スペイン   監督:ヴァレリア・パリシ

☆☆

案内役にアカデミー俳優を使い、所々に斬新な映像や音楽の使い方もあり、世界最大級の美術館に果敢に取り組んだな、という印象はあります。ただ、何をしたかったのか、さっぱり分かりません。単なるプラドの紹介にしては情報が偏り、作品や画家を深堀するには対象が多すぎ、パプスブルグ家を語るには情報が絵画に寄りすぎです。唯一、面白いと思った視点は、女流画家に関するエピソードです。女流監督ならでは視点なのでしょう。

監督については情報が十分ではありません。長編ドキュメンタリーは初挑戦のようですが、数年前、ル・コルビジェに関する中編ドキュメンタリーを撮っています。それが認められて、本作を任されたのでしょう。美術に関する造詣の深さは分かります。ただ、エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤをはじめ、一人でも相当の長編にならざるを得ないほどの巨匠たちが目白押しのプラドゆえ、個々の深堀は困難です。だとすれば、一つのストーリーのなかに、それぞれを埋め込んでいくしかありません。コンセプトを絞りに絞り、よほど角度のついた脚本を準備しなければ、散漫なだけの作品になります。ドキュメンタリーとは、思想のプレゼンだとも言えます。それが無ければ、ただの映像のラッシュに過ぎません。

とは言え、かつて訪れたプラドは懐かしく、好きな画家の好きな作品が出てくる映画は、それだけで楽しいわけです。プラドへ行ったのは40年前。ツアーだったので、プラドでの自由時間も限られたものでした。ベラスケスの「ラス・メニーナス」を見るためにスペインへ行ったとも言えるので、そこでたっぷり時間を取りました。結果、二番目の目的であるゴヤは、点数も多いので、ほとんど駆け足で見るしかありませんでした。それでもゴヤの画質の艶やかさには圧倒されました。写真と実物の違いは、ラス・メニーナスでもゴヤでも痛感させられました。特にゴヤは、現物以外で、その凄みはまったく伝わりません。いずれにしても、もう一度、ゆっくり数日をかけてプラドを楽しんでみたいと思いました。
写真出典:yahoo.co.jp

2020年8月4日火曜日

おわら風の盆

毎年、 9月1〜3日は、 三百年の歴史を持つという越中八尾のおわら風の盆が行われます。 江戸期の風情を残す街並が、三日間だけ、情趣深い世界へと入ります。 すっかり魅せられて、 5回ほど通いました。 ここ数年は、 理由があって中断していました。 また 行こうかなと思っていたら、 今年は、 コロナで中止とのこと。 やむなし。

越中おわら節は、日本の民謡のなかで最もスローテンポな曲ではないかと思われます。高音で歌われる哀愁を帯びた曲調は、民謡のなかでも難曲とされます。7・7・7・5の26文字が基本の歌詞は、新作も含め、3千を超えるそうです。伴奏は、三味線、胡弓、太鼓。特に胡弓の音色が、深い味わいを醸し、古い町並みに良く合います。おわら節は、心に染み入り、いつまでも聞いていたくなります。

踊りは、農作業を模した豊年踊りと新踊りがあります。新踊りの男踊りは案山子踊り、女踊りは四季踊り。四季踊りは、蛍狩りを表すと言われ、揃いの浴衣に黒帯の女性たちが、編笠で顔を隠し優美に舞います。所作は指先まで神経が行き届き、そこはかとなく上品な艶を感じさせます。日本的女性らしさの典型のようでもあり、類を見ない踊りです。かつては二十歳前の生娘だけが躍ることを許されたと言います。現在は、青年団に所属する女性たちが踊っているとのこと。

いくつか用意された舞台で、あるいは通りで列を組んだり輪になって踊ります。真夜中を過ぎると、町流しが始まります。町流しは、気の合った者同士が、三々五々、夜中の町を流します。いつどこで始まるかも全く分かりません。そこでは、女性たちも編笠を取り、年齢も関わりなく踊ります。八尾の宿泊施設に限りがあることから、押し寄せた観光客も帰り、ここから本当の風の盆が始まります。静まり返った町に、かすかに三味線と胡弓が聞こえはじめると、暗闇から踊り手たちが現れます。まさに幽玄の世界。タイムスリップしたかのような感覚にとらわれます。

ところが、近年、始発電車まで居残り、町流しを見ようという観光客が激増しました。もはや幽玄というにはほど遠い世界になりました。私が、風の盆をあきらめざるをえなかった理由です。
写真出典:minatokobe.com

2020年8月3日月曜日

孫子の兵法

米国の国際政治学者エドワード・ルトワックは、「戦略論」(2014)のなかで、中国の軍事的な自信過剰の危険性を指摘します。軍事衝突が起きると、中国は、高い確率で初戦に敗退し、それによって紛争は、長期化、拡大することが懸念されるとしました。自信過剰の文化的背景として、毛沢東はじめ中国のリーダー層が愛読する武経七書の影響をあげています。

武経七書は、春秋戦国時代に著された兵法に関する古典七編の総称です。最も有名なのが、孫子ということになります。日本でも、経営者の皆さんに大人気です。孫子の兵法の特徴は、兵法を、戦術論ではなく、戦略論、政略論として、統治のなかで捉えていることだと思います。「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」、「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」、あるいは「人を致して人に致されず(主導権を握る)」といった言葉がよく知られています。

ルトワックによれば、武経七書は漢民族同士の戦いのなかで生まれており、敵も同じように考えるということが大前提になっていると言います。例えば、戦わずして勝つとは、敵が兵力・時勢等において自軍が劣ると考えれば、戦う前に平伏するはずだという前提に立っているわけです。よって、漢民族は、自軍の戦闘能力を高めるよりも、自軍を誇示することを優先する傾向があると言っています。

当然、異なる考え方を持つ敵に対しては、まったく通用しない場合が出てきます。歴史的に見て、漢民族の対外戦争の戦績は、決して芳しいものではありません。モンゴル族、満州族、英国、日本、ヴェトナム等には敗れ、朝鮮半島では米軍と引き分けています。現在の人民解放軍が弱いというのではありません。兵員数、物量、核兵器等、強大な軍事力を有しています。初戦を落とす確率が高いというのは、スタンスの問題です。いずれにせよ、自軍を誇示するという漢民族のDNAは、そこここでややこしい話を生み続けています。当然、それは偶発的な火花の発生確率を高めることにもなります。
孫子   出典:xtrend.nikkei .com

2020年8月2日日曜日

朝香宮邸

博物館も美術館も、英語ではMuseumとなります。美術館は、Art Gallaryという言い方もありますが、画廊という意味でも使います。いずれにしても、明確な区分があるわけではないということなのでしょう。白金台の東京都庭園美術館の英語名はTokyo Metropolitan Teien Art Museumとなります。企画展の展示だけではなく、建物と庭園も展示品なので、工夫したネーミングなのだと思います。特に庭園を固有名詞的に使っているところがポイント。

東京都庭園美術館は、私の大のお気に入りの場所。正直言って、美術館としてよりも、旧朝香宮邸として気に入っています。わずかな入場料で、この素晴らしい邸宅と庭園に入れることは幸いだと思います。旧朝香宮邸は、1933年竣工。アール・デコ様式の邸宅です。簡潔で機能的とも言えるデザインの建屋は、必ずしも大邸宅ではありません。最大の特徴は、内部も含め、そこはかとない上質感を漂わせていることだと思います。内部には、ルネ・ラリックの作品はじめ、アール・デコの意匠がそこここにちりばめられています。

ただ、旧朝香宮邸の魅力は、単なるアール・デコ・デザインだけではありません。アール・デコのエッセンスはそのままに、日本的センスで仕上げられていることが最大の魅力です。そのことが上質さを生み出しています。見事に西洋風でありながら、西洋の邸宅で受ける印象とはまったく異なる風情があります。それもそのはず、アール・デコの芸術家アンリ・ラパンによる各室の設計を元に、宮内省の技師であった権藤要吉が全体を設計しています。いわばアール・デコのデザインと日本的伝統の粋が、無理なくコラボしているわけです。

朝香宮鳩彦親王は、フランス留学中、北部ベレネーで交通事故にあい、重症を負います。駆け付けた夫人の充子内親王とともに、長期に渡りフランスで療養生活を送ります。当時のフランスはアール・デコ全盛。すっかり魅せられたご夫妻は、帰国後、この傑作を建てられました。

アール・デコは、ゴテゴテしたアール・ヌーヴォへのアンチテーゼとして、1910年代から流行。主にアメリカで、工業デザインとして全盛を極めます。エンパイヤー・ステイト・ビルはじめ、NYには多くのアール・デコ建築が残ります。ただ、1929年に世界恐慌が起こると、アメリカ経済と共に廃れていきました。
写真出典:wikipadia

2020年8月1日土曜日

ダルフール

オマル・アル=バシール
民族浄化として世界の非難を浴びたスーダンのダルフール紛争は、2019年、独裁者オマル・アル=バシールがクーデターで失脚し、収束したと報道されていました。ところが、最近、ダルフールで新たな虐殺が起こっていると言います。難民化していた非アラブ系住民が村に戻ると、不在の間にアラブ系住民が住みついており、そこで争いが再燃しているようです。アラブ系住民は、かつて中国から供給された大量の武器をまだ保有しているようです。

スーダンの西部ダルフールでは、古くから、非アラブ系=農耕民とアラブ系=遊牧民による土地と水を巡る争いが続いてきました。1956年、スーダンが独立した直後からアラブ系政府と非アラブ系との争いが始まります。停戦期間もあり、2003年には包括和平協定も結ばれましたが、争いは終りませんでした。特徴的には、スーダンの石油が欲しい中国、加えてロシアやイランが、アル=バシール政権を支持し、武器の供給等を行っていたこと。そして政府がアラブ系民兵ジャンジャウィードに大量の武器を供給し、政府の手先としていたこと。虐殺は、中国製最新武器によって行われたわけです。30万人以上が殺害され、200万人以上が難民化したと言われます。

国際社会も手をこまねいていたわけではありません。例えば、 国連も様々な対応を行います。 経済制裁も行われます。アフリカ連合と共同で平和維持軍も派遣されます。国際刑事裁判所も、アル=バシールに対し、虐殺に関与したとして逮捕状を出しています。ただ、肝心なところで、  中国とロシアが拒否権を発動するわけです。当然、中国も批判されます。 北京オリンピックをボイコットする動きもありました。世界の文化人からも抗議活動が起こりました。有名な話としては、スティーブン・スピルバーグが、抗議のため、北京オリンピックの芸術顧問を降りています。

ややこしくなりますが、スーダン内戦自体は、政府と南スーダンとの戦いであり、2011年、南スーダンは独立を勝ち取っています。南スーダンは油田を持っていることから、しっかり中国が入り込んでいます。このころから、サブ・サハラは、巨額の経済支援、融資をテコに中国が浸透、いまや中国の独壇場と化しています。
写真出典:wikipedia

カロッツエリア

先輩から、日本に馬車の文化が無いのは何故だろうね、との問いかけ。まあ、日本は山がちで、平らなところが少ないから、ということでしょうか。オリエントや欧州の馬車の文化は、古代の戦車に始まるのだろうと思います。会戦の主力装備だったのでしょうが、日本では平坦地での大規模な会戦そのものが稀です。加えるに、日本の在来種の馬は小型なので、馬車には向かなかったということもあるかもしれません。

いずれにせよ、欧州の馬車文化は、どんどん洗練されていき、18世紀ころには、その乗り心地、居住性、見た目の美しさは、ほぼ頂点に達していたと思います。それを作っていたのがコーチビルダー、イタリア語ではカロッツエリアです。19世紀、自動車が登場し、馬車は衰退していきます。ただ、初期の自動車メーカーはシャーシと駆動系だけを作り、車体は技術と経験のあるコーチビルダーが作りました。現在も車種名称として使われるクーペ、ワゴン、カブリオレ等は、元々馬車の種類でした。

自動車の大量生産が始まると、自動車メーカーは車体製造も行うようになり、コーチビルダーは、自動車メーカーに吸収されるか、一部は、英国のジャガーのように自ら自動車メーカーになり、多くは、カスタムメイド車に特化しつつ、デザインだけをメーカーに提供します。さらにデザインも自動車メーカーが内製化すると、コーチビルダーの数は減り、残った会社は、スポーツカーやコンセプトカーに活路を見出すとともに、工業デザイン全般へと領域を広げてきました。天才ジョルジェット・ジウジアーロのイタルデザイン、フェラーリのデザインで有名なピニンファリーナ、ランボルギーニ・カウンタックのベルトーネ等が、今も活躍するカロッツエリアです。

私が憧れてきた車は、フォルクスワーゲンのカルマン・ギア。プアマンズ・ポルシェとも呼ばれます。ビートルに、イタリアのカロッツエリア、ギア社がデザインした車体を乗せただけの車です。ポルシェ博士の武骨なビートルが、完璧な曲線を持つ優美なフォルムへと変身しています。ちなみに、日本の名車いすゞ117クーペもギア社の作品。担当したのは独立前のジウジアーロでした。
フォルクスワーゲン・カルマン・ギア   写真出典:gazoo.com

夜行バス