ただ、フェントンのメロディが西洋的に過ぎてピンとこないという声が多く、1880年、歌詞はそのままに、林廣守のメロディに変えられたわけです。君が代として使われた薩摩琵琶曲の一節は、以前から一般的に存在した歌詞でした。古くから各地で祝い歌として、田楽・猿楽・謡曲等はもとより、宴席の締めにも歌い舞われるなど、様々な形で歌い継がれてきたものでした。いわば祝い歌の定番として、馴染み深い歌詞だったわけです。その初出が古今和歌集とされています。ただ、詠人知らずという点が、様々な憶測を呼ぶことになります。当時、貴人以外が詠んだ和歌は、詠人知らずとして掲載されたようです。君が代の本当の詠人は一介の木地師だったという説があります。ここで”君”と呼ばれたのは、天皇ではなく、木地師の祖神とされる惟喬親王だとされます。
木地師は、轆轤(ろくろ)を使って、お椀などの木工品を削り出す職人です。各地の山の7合目以上の木を切る権利を保証する”朱雀天皇の綸旨”を持ち、山中を移動して生活する集団でした。文徳天皇の皇子である惟喬親王が近江国に隠棲していたおり、木工用の轆轤を考案したことから、木地師が生まれ、親王は木地師の祖神として祀られることになりました。君が代を詠んだ木地師は、この和歌が認められ、朝廷から藤原朝臣石位左衛門という名前を拝領したとも言われます。眉唾話のように思えますし、話を創作した背景や理由もよく分かりません。また一方で、気になる話もあります。福岡の志賀海神社の神楽歌を起源とする説です。志賀海神社は、古代にあって、海人を司っていた阿曇氏(安曇氏)ゆかりの神社で、その創建は古代にさかのぼるようです。
志賀海神社の山誉祭の神楽曲は、冒頭こそ君が代を”きみがだい”と歌いますが、他は君が代と完全に同じ歌詞です。残念ながら、この神楽の起源や生まれた年代は不明です。ただ、神社の伝承によれば、神功皇后が三韓成敗に赴く際、神社に寄って山誉祭の神楽を聞き、これを末代まで残すよう言葉をかけたとされます。その曲が、今に伝わるものと同一なのかは分かりません。ただ、同じである可能性は高いように思えます。糸島・博多湾一帯には、この曲の歌詞にちなんだ地名が多く存在するとも聞きます。また、神功皇后の渡海に関しては、安曇氏が協力したことを示す伝承も存在するようです。そして、ここで言う”君”とは、天皇ではなく、神功皇后を助けたとされる阿曇磯良ではないかとする説があるようです。また、この神楽曲が旅芸人たちによって各地に広められ、古今和歌集にも掲載されたとする言い伝えもあるようです。
君が代は、国歌の歌詞としては世界最古とされているようです。革命歌や軍歌のような勇ましい国歌が多いなか、祝歌的な歌詞と荘重なメロディを持つ君が代は、世界に誇るべき国歌だと思います。”君”を天皇であるとしたのは明治政府ですが、民主主義の時代に天皇を称える国歌とは何事だという批判もあります。一理あります。ただ、憲法上、天皇が国民統一の象徴とされるのであれば、君が代とは、日本の国体、あるいは国民そのものと理解することもできます。”さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで”とは、まさに国と国民の統一の永からんことを願う歌詞と言えます。ちなみに、さざれ石とは、石灰質角礫岩のことであり、小さな石が長い年月をかけて固まり、ひとつの大きな岩になったものを指します。各地でさざれ石が見つかると、大いに珍重され、神社などに置かれています。(写真出典:tenki.jp)






