2026年2月4日水曜日

鉢木

能楽「鉢木」
老後には、ゆっくり鎌倉を散策したいものだと思っていました。ところが、なかなか実現しません。最大の理由は混雑です。十年ほど前、鶴岡八幡宮にほど近い小町の教会で先輩のお葬式があって行きましたが、鎌倉駅の人出の多さにひるみました。小町通りなどは明治神宮の初詣さながらの混雑でした。もともと東京に近い観光地として人気ではありますが、そこにインバウンド客が加わり、騒動レベルに達しているわけです。往時の「いざ鎌倉」という時にも、武士たちでこれくらい混み合ったことだろうと想像しました。“いざ鎌倉”とは、鎌倉時代、幕府に一大事が起これば、関東一円に散らばる御家人たちが鎌倉に駆けつけるという備えを象徴する言葉です。

実は、この言葉は能楽に由来するとされています。謡曲「鉢木」が上演されると評判を取り、浄瑠璃や読本に取り上げられ、明治以降は教科書にも載るほど好まれることになりました。大雪の夜、旅僧が一軒の家に宿を求めます。その家は貧しく、暖を取る薪も無かったので、主人は大事にしていた鉢木(盆栽)を切って燃やします。主人の佐野源左衛門常世は、領地を騙し取られ極貧の生活を送っていますが、”いざ鎌倉”という時に備え、くたびれた鎧、錆びた薙刀、痩せた馬だけは残していました。後日、幕府の号令がかかり、ドタドタながら鎌倉に駆けつけた常世でしたが、本陣に呼び出されます。上座に座っていたのは、あの日の旅僧でした。その正体は、僧の姿で世情を視察していた北条時頼でした。常世は、その姿勢が高く評価され、領地を安堵されます。

シンデレラ型サクセス・ストーリーの傑作だと思います。作者は、観阿弥、あるいは世阿弥という説もありますが、証跡がなく、作者不詳とされています。厳しい環境にあっても、誠実であり続ければ、いつか報われる、という教訓が語られています。さらに言えば、御恩と奉公で構成された武士社会の忠義、滅私奉公といった価値観を、端的に現わしているとも言えます。滅私奉公の精神は、軍国主義下、そして戦後の高度成長期へと受け継がれていきます。入社間もない頃、先輩たちは、夜10時まで働き、その後は皆で飲みに行き、帰宅するのは真夜中過ぎ。そして翌朝、満員電車に押し込まれ、再び会社へという生活を送っていたものです。家族を犠牲にして奉公した企業戦士たちの努力は、マイホーム、マイカー、家電などで報われたということなのでしょう。

その後、低成長の時代を迎えると、企業は従業員に等しく報いることが出来なくなり、滅私奉公という言葉は、全体主義的な色の濃い過去の遺物として批判され、消えていきます。企業の人事制度は、年功序列から能力主義、さらには実績主義へと変わっていきました。佐野源左衛門常世の忠義は、企業にチーム・プレイが求められる限り、今でも賞賛されることになります。ただ、戦場で実績を挙げない限り、常世の領地が安堵されることはありません。単一市場が拡大する成長期には、滅私奉公に代表される画一主義が企業の大きな推進力となります。しかし、新たな市場自体を開発していかざるを得ない状況下では、画一主義は機能しないどころか、ブレーキになる可能性すらあります。とは言え、鉢木の精神が染みこんだ日本人は、なかなか個人主義的にはなれない面がありました。近年に至り、ようよう若い世代に変化が見えてきたように思います。

「鉢木」の原典は、文献上、見つからず、フィクションだろうとされています。北条時頼が出家したことは事実ですが、全国行脚したという記録は確認されていません。時頼は、北条得宗家の独裁を確立した辣腕の執権でしたが、一方では信心深く、御家人や庶民に対しては善政を敷いたことでも知られます。時頼に対する世間の評判が良かったことも、鉢木成立の背景にあったのでしょう。水戸黄門の全国行脚も完璧なフィクションですが、鉢木が創作のヒントになっているのではないでしょうか。佐野源左衛門常世の存在も、確認されていません。ただ、栃木県佐野市には墓と伝承が残っています。伝承によれば、常世は、家来たちを叱咤激励しながら激流を渡る際、家来ともども流されて死んだとされているようです。なにやら、企業文化における滅私奉公の死につながるものを感じます。(写真出典:cte.jp)

2026年2月2日月曜日

ブルー・チーズ

カブラレス
家族でグアムへ行った際、プラネット・ハリウッドで、子供たちにブルー・チーズ入りのサラダを食べさせたことがあります。無理だろうとは思っていたのですが、一口食べただけで想定以上の激しい拒否反応がありました。苦味や辛さは、食べたら危険というシグナルを脳に送る役割があると言われます。つまり、子供たちの本能は極めて正常な状態にあったわけです。ブルー・チーズは、青カビで熟成させたチーズです。カマンベールやブリー等の熟成に使う白カビも、実は青カビの一種です。ほとんどの青カビ類は非病理性であり、感染することもなく、カビ毒も発生しません。

ただ、青カビが発生するということは、他の毒性の強いカビ類も発生している可能性が極めて高く、カビの発生した食品を食べることは危険だということになります。しかも、食品の表面のカビだけを除去すれば安全ということではありません。間違いなく、食品内部にまでカビは浸透しています。ブルー・チーズは、適切な温度・湿度・工程管理のもとで熟成されるため、安全に美味しく食べることができます。カビには、タンパク質をアミノ酸に分解してうま味を出す、デンプンを糖に変える、あるいは脱水するといった効果もあります。カビを利用して作る食品はチーズに限りません。身近なところでは、カビの一種である麹菌を使って発酵させる味噌、醤油、日本酒があり、麹菌を使って乾燥させる鰹節、あるいは納豆菌で発酵させる納豆などがあります。

近年、ポーランドで発掘されたチーズ作りの痕跡から、チーズの歴史は、少なくとも7,500年以上とされているようです。最初期のチーズは、羊や山羊のミルクを原料としていたようです。ブルー・チーズが、文献上、初登場したのは2,000年前とされます。フランス南部の山中にあるロックフォール=シュル=スールゾン村で、洞窟に忘れた羊のチーズに青カビが発生していたことから、偶然、発見されました。人口700人というロックフォール村は、今でもブルー・チーズの世界的産地として知られています。ちなみに、世界三大ブルー・チーズとされているのは、代名詞的存在でもあるロックフォール、9世紀頃から作られているイタリアのゴルゴンゾーラ、18世紀にその名を知られるようになったイギリスのスティルトンということになります。

ロックフォールは、青カビの刺激が最も鮮烈で、エッジの効いた味になっていると思います。今でも一番人気のブルー・チーズであり続けているのも、うなづける話です。ゴルゴンゾーラ、スティルトンは、その順にマイルドさが増していきます。知っている中で、最も美味しいと思うブルー・チーズは、スペインのカブラレスです。カブラレスは、スペイン北端のアストゥリアス自治州のカブラレス村で作られています。ブルー・チーズは、青カビを注射器でカードの中に入れるのが一般的ですが、カブラレスの場合、洞窟内で自然に付着させています。最も古い製法を維持しているわけです。青カビの刺激、牛乳のコク、塩味のバランスが絶妙だと思います。ギネス・ブックによれば、カブラレスは、最も高価なブルー・チーズとされているようです。

ブルー・チーズを使った料理は数多くあります。独特の風味をソースに活かそうと思えば、どんな料理にでも使えるとも言えます。多く見かけるのは、パスタやピッツアだと思います。ゴルゴンゾーラのピッツアには、蜂蜜がよく合います。青カビの刺激と蜂蜜の甘さが良いコラボレーションとなります。私は、デザートとして、ブルー・チーズにメープル・シロップをかけて食べます。その際には、ロックフォールが一番合うように思います。ただし、カブラレスに関して言えば、そのまま、何もかけずに、風味を味わいます。幸いなことに、数ヶ月に一度行われるチーズ好きの会で、毎回、カブラレスを楽しむことができます。これ以上、円が安くならないこと、航空料金が高くならないことを願うばかりです。(写真出典:rakuten.co.jp)

2026年1月31日土曜日

「京都人の秘やかな愉しみ」

「日本には2つの人種がいます。日本人と京都人です。」というフレーズで始まるTVシリーズ「京都人の秘やかな愉しみ」にハマりました。2015年からNHK・BSプレミアムで断続的に放送されています。シーズン2まで見ました。ドラマのような、ドキュメンタリーのような不思議な番組です。映像や音楽も含めて、とても丁寧、かつ上質に仕上げられています。私は京都好きではありますが、私が知っていたのは上っ面に留まり、京都人やその生活に関しては無知だったことを知らされました。1本2時間のなかに、ドラマ、寺院や街の紹介、京料理の作り方が織り込まれ、それらを通じて京都人の暮らしや心情が描かれています。決して深掘りしないスケッチ程度の描写が印象的であり、ほどほどの距離感も心地良い番組です。

京都の1年は、二十四節気、さらにそれを5日間に区分した七十二候に基づいて進みます。京都では、日によって食べるものが決まっているとも言われますが、食べるものだけでなく、行うべきことも、それぞれの日によって定められています。例えば、全国的に、節分は、豆まきか恵方巻の日といった認識が一般的だと思います。ところが、京都では旧暦の大晦日として、様々な迎春の行事が行われます。有職故事の塊のような街ですが、千年の都ゆえ、いにしえの日々が保たれてきたとも言えます。また、京都は、そうした生活を支える職人たちの街でもあります。和食文化の中心のような京都ですが、意外にもパン好きな街としても知られます。不思議なことだと思っていましたが、忙しい職人の手軽な朝食や昼食としてパン食が普及してきたのだそうです。

番組は、京都の街と人との関わりがにじみ出るよう構成されています。ドラマは、分かりやすいテーマがさりげなく描かれています。さらりと余韻を残すような演出が腕の良さを感じさせます。その演出スタイルは、他人との距離を上手に保つ京都人らしさに通じるものがあります。時にコミカルであることも、京都らしさの一つです。また、モダンで上質な生活や店も登場しますし、京都の国際性も織り込まれていますが、それらは千年の都が存続してきた理由の一つでもあります。寺院や街の紹介も、ありきたりな観光目線ではなく、京都人の生活という視点から紹介されています。料理のパートも、”手も口もよう動く京女”大原千鶴を通じて京都人が描かれています。時に京都人のインタビューも挿入されていますが、わざとらしさや唐突感のない仕上がりになっています。

人物や店のモデルが明確である点も面白いと思います。NHKという制約はあるものの、本物にこだわったということなのでしょう。シーズン2「Blue 修行中」の料亭萩坂のモデルは「高台寺和久傳」なのでしょう。シーズン1では、大原千鶴の幼少期からの友人として女将本人が登場しています。お茶屋が多い京都で料亭・和久傳は料理自慢の店として知られます。かつて若女将と呼ばれていた女将は、上品な美人ですが、気さくで機転も利くことから大人気でした。初めて和久傳に行った際、若女将が見送りに来なかったので、如何なものかと思いました。その後、皆で祇園町のバーへ繰り出しました。30分ほどすると、若女将が非礼を詫びながらバーに入ってきました。30分ばかり、お酌をして、愛想を振りまいて帰って行きました。その対応の見事さ、そして我々のいるバーが即座に分かるという京都のネットワークの凄さに感心したものです。

作・演出の源孝志は、CMやTVバラエティー制作の後、ドキュメンタリーやドラマを手がけ、芸術祭大賞はじめ数々の賞を獲得している才人です。実に斬新なアプローチで京都と京都人を描いた本作も、ATP(全日本テレビ番組製作社連盟)賞グランプリを獲得しています。京都出身だろうと思いましたが、実は岡山の人でした。ただ、大学が立命館なので、京都には慣れ親しんでいたわけです。また、音楽を担当しているのは阿部海太郎です。舞台の音楽を多く手がけている人のようですが、そのセンスの良さには感心させられます。シーズン1のエンディング・テーマには、ベンチャーズ作曲、渚ゆう子歌でヒットした「京都慕情」が使われています。武田カオリが歌うスロー・テンポなヴァージョンが、あの「京都慕情」だと気付くまでには多少時間がかかりました。半世紀以上も前のヒット曲が、これほどの名曲だったとは驚きです。(写真出典:nhk-ondemand.jp)

2026年1月29日木曜日

高麗郡

高麗神社
飯能に親しい先輩がおり、昔から宴会やゴルフで随分とお邪魔しました。西武池袋から特急電車に乗れば40分で飯能です。初代のレッドアロー号、ニュー・レッドアロー、現在のラ・ヴューと3世代の特急電車に乗ってきました。西武池袋線は、平地から秩父山地を目指して武蔵野台地を緩やかに登っていく路線です。武蔵野台地は、概ね関東山地が生み出した扇状地です。飯能は、秩父山地を水源とする入間川が作った扇状地の扇頂部にあたります。標高は100mですが、都心との気温差はマイナス5℃と聞きます。かつて、この一帯は高麗(こま)郡と呼ばれていました。高麗郡は、8世紀に成立して、1896年に入間郡に統合されるまで存続していました。

高麗郡は、716年、関東一円に居住する高句麗からの移民1,799人を集めて設置されました。郡司には、高句麗最後の王となった宝蔵王の子である高麗若光が就いています。高句麗は、紀元前1世紀、弱体化した漢の玄菟郡に、ツングース系の扶余の王族・朱蒙が興したとされます。建国はもっと古いという説もあります。新羅・百済との三国時代には、満州南部から朝鮮半島の大半を領土としています。東アジア激動の時代、隋・唐の圧迫をしのぎ、700年間、大国を維持した高句麗は、まさに強国でした。ただ、強大化した唐は、新羅と連携し、688年、ついに高句麗を滅ぼします。高句麗は、半島に攻め込んだ倭国とも何度か戦い退けていますが、新羅攻略に関しては連携も模索しています。高麗若光の日本渡来は、亡命とも、支援要請ともいわれています。

日本書紀には、666年、高句麗から使節団が来訪したという記述があり、そのなかに玄武若光の名があります。続日本書紀には、703年、従五位下高麗若光に王(こにきし、またはこきし)のカバネを与えたという記録があります。そして、716年の高麗郡の設置となるわけです。飯能の北隣の日高市には高麗神社があり、高麗若光が祀られています。また、神奈川県大磯にある高来神社は、明治中期に改称されるまでは高麗神社であり、高麗若光に由来するとされます。大磯には高麗山があり、近郊の高座郡の旧名・高倉郡も高句麗が由来と聞きます。いずれにしても、高麗若光がこの地にいたということなのでしょう。中国系帰化人の秦氏が開いた秦野市などは別として、高麗若光はじめ、関東には、半島からの渡来人の足跡が多く残っているわけです。

稲作はじめ、渡来人が日本の文明化に果たした役割はとてつもなく大きいと言えます。ヤマト王権時代になると、文化、技術、宗教等の伝道師として敬意をもって迎えられ、多くは官職を得て、氏姓を賜り、畿内に居住します。ただ、663年、倭国が、白村江で唐・新羅に大敗を喫すると状況は大きく変わります。東アジアの混乱を受けて亡命者が急増するわけです。百済、高句麗、新羅の人々は関東へと送られます。畿内に渡来人が増えすぎたとも、武蔵野開拓のためだったとも言われます。ただ、恐らくはより政治的な理由だったのではないかと思います。つまり、唐から半島の亡命者の扱いを問いただされた際、辺境の地に追いやったと説明するためだったのではないでしょうか。確かに当時の武蔵野は辺境だったわけですが、亡命者たちはそれなりに保護もされています。

758年には、新羅からの亡命者を集めて新羅郡が置かれます。その後、改称され、新座(にいくら)郡となり、現在の新座市や志木市につながります。余談ですが、、大泉学園にある「和菓子 大吾」の「爾比久良(にいくら)」は、昭和天皇が訪米した際、手土産として持参した逸品として知られます。卵黄と白餡で作る黄味羽二重時雨餡はホロホロとした食感であり、中には餡子と栗が一個丸々入っています。爾比久良という名称は「当地の古の呼称にちなむ」と店は説明しています。確かに、爾比久良は新倉郡の雅称ですが、それが平安時代に新羅郡が改称されたものだとは、誰もが知らないのではないかと思います。いずれにしても、武蔵野は、朝鮮半島と縁深い土地だということです。(写真出典:komajinja.or.jp)

2026年1月27日火曜日

焼味飯

飲茶は、ワゴン・サービス・スタイルがベストだと思います。保温機能付のワゴンに点心を乗せて店内を回り、客に皿を選ばせます。味には関係のない仕組みですが、楽しくてワクワクします。結果、テーブルでオーダーするよりも沢山食べてしまいます。一時期、東京や横浜にもワゴン・サービス店は存在したのですが、ほぼ見かけなくなりました。店にとっては効率が悪い面もあり、相当に大きな店でなければ成立しないスタイルなのでしょう。飲茶という習慣は、唐代から続いているようですが、ワゴン・サービスが、いつ、どこで生まれたのか分かりません。ただ、香港名物として知られているので、香港発祥ではないかと思います。

10年ほど前、飯田橋に「贊記茶餐廳」がオープンしました。茶餐廳は、読んで字のごとく、お茶と軽食の店であり、香港ではごく一般的に存在するスタイルのようです。贊記茶餐廳は、明らかに香港の人たちのためにオープンした店だと思われ、メニューも香港スタイルがそのまま持ち込まれています。 飲茶、麺類、ご飯もの、菓子もあり、香港でのランチの雰囲気が味わえます。特に菠蘿包(ポーローパオ)という菓子パンが人気で、それにバターをはさんだものが定番になっています。この店のメニューにもありますが、香港のランチの定番に焼味飯(シャオウェイファン)があります。叉焼やロースト・ダックなどをご飯と一緒に食べるというシンプルな代物です。もともとは広東発祥らしいのですが、最も香港らしいランチのように思えます。

例えば、横浜中華街を歩けば、店先のガラス越しに叉焼はじめ様々な肉が吊るされているのが見えます。実に中華街らしい光景だと思います。それを骨ごとぶつ切りにしてご飯に乗せたものが焼味飯です。厳密に言えば、ロースト・ダックのように単純なあぶり焼きを焼味と呼び、タレや蜜を塗りながら焼いた叉焼などは焼臘(シャオラー)と呼ばれます。ただ、通常、あまり厳密な区分はされず、香港では概ね全てが焼臘とされているようです。日本で、チャーシューと言えば、ラーメンの具材として一般的です。ラーメン屋の叉焼は、豚肉を煮込んだ、いわゆる煮豚がほとんどです。なかには醤油などに漬け込んだ豚肉をオーブンで焼いた焼豚を使う店もあります。とにかく、日本では煮豚も焼豚もチャーシューと呼ぶわけですが、中華料理の叉焼とは大いに異なります。

焼臘としての叉焼は、甘辛いタレに漬け込んだ豚肉を窯に吊して蒸し焼きにしたものです。甘く深い味わいと表面近くの赤みが特徴です。近年、中国の都市部でも日式拉麺店が増えているようですが、煮豚は日式叉焼と呼ばれているようです。煮豚は、日本で生まれた別ものということなのでしょうが、間違いなく中国料理が起源だと思います。中華料理には、豚肉を煮る東坡肉(トンポーロウ)や醤肉(ジャンロウ)があり、それが日本で、角煮やラーメン屋のチャーシューになったものと思われます。ラーメン屋の煮豚の歴史は判然としませんが、専用の窯がいらない、日持ちが良い、バラ肉は安い、煮汁も活用できるといったメリットがあり、ラーメン屋で広まったようです。ラーメンの世界では、スープや麺と並ぶ主役格と言っていいのでしょう。

最近、浅草橋にある香港料理店の焼味飯にハマっています。この店も、香港人相手の店のようで、日本人客はごくわずかです。提供されている焼味は、広東式叉焼、焼肉(豚肉)、焼鴨、醤油地鶏、蒸し鶏です。ランチには、2種類の肉を選んで乗せるセットがあります。一番人気は、皮付きの状態でじっくりローストした焼肉(豚肉)のようです。しっとりとして実に美味しいのですが、問題は皮です。例えば、北京ダックのようなパリパリとした食感ではなく、バリンバリンの固さです。とても歯がたちません。それが本場香港の焼味ということなのでしょうが、私は皮だけ残してしまいます。ちなみに、その店の名物の一つは、河粉(ホーファン)です。香港名物の幅広な米粉麺です。ヴェトナムのフォーの語源とされています。(写真出典:hongkongnavi.com)

2026年1月25日日曜日

ファスナー

かつての日本では、ファスナーは”チャック”と呼ばれていました。チャックという言葉が、いつ、そしてなぜ消えたのかは判然としません。ファスナー自体は変わることなく存在しているのに、最も一般的だった呼称が消える現象は珍しいことだと思います。チャックは、初の国産ファスナーのブランド名でした。1927年頃、尾道の”チャック・ファスナー社”が、国産ファスナーの製造を始め、巾着をもじった”チャック印”というブランド名で販売しました。これが一般名詞化したわけです。ファスナーの呼称に限らず、私語禁止を意味する”口にチャック”などという言い回しも、ごく普通に使われていたものです。

チャック一辺倒の世界に、”ジッパー”という言葉がにじんできたのは、1960年代末ではないかと思います。その頃、ジーパンと呼ばれていたジーンズが大いに普及したことが背景にあるのでしょう。ジーンズは、敗戦とともに日本に流れ込みますが、1960年代には、エドウィン、キャントン、ボブソン、ビッグジョンといった日本のメーカーが続々と参入し、市場は拡大していきます。アメリカでジーンズのファスナーは”ジッパー”と呼ばれていました。アメリカ文化に憧れる若い世代を中心に、ジッパーという呼び方は日本でも広がっていきました。ジッパーは、かつてタイヤ・メーカーとして知られたBFグッドリッチ社が、1923年にファスナー付のオーバーシューズを発売した際の商品名に由来します。速く閉める際の擬音だったようです。

一般名詞としてのファスナー”fastener”は、締めるものを意味し、他にも様々な道具類が存在します。新発明だったファスナーは、ブランド名で呼ぶしかなかったのでしょう。ファスナーに関する初めてのアイデアは、ミシンを発明したアメリカのエリアス・ハウによって生み出されたようです。ハウのアイデアは、うまく細工された靴の引き紐だったようで、商品化はされていません。1892年、アメリカのホイットコム・L・ジャドソンが、現在のファスナーの原型となる発明で特許を取り、新たな靴の留め具として商品化しています。翌1883年に開催されたシカゴ国際博覧会にも出品されますが、まったく注目されなかったようです。ジャドソンが創設した会社に、1906年、ギデオン・サンドバックが入社し、ファスナーの改良、普及に貢献することになります。

サンドバックの最も大きな貢献は、1917年に特許を取った分離可能なファスナーの開発だったといえるのでしょう。この発明が、ファスナーを靴やポーチから衣服へと展開させることになります。衣類への適用は子供服から始まったようですが、1937年に、紳士服のズボンの前立てに適しているのはボタンかジッパーかという論争が起こり、ジッパーが勝利します。パリのファッション・デザイナーたちが主導したというこの論争を機に、ジッパーは急拡大していったとされます。サンドバックが在籍した会社は、その後「Talon」と名称変更し、圧倒的な世界シェアを獲得するに至ります。ちなみに、現在の世界シェア・トップは、富山のYKK(旧吉田工業)です。一貫生産と株式非上場という強みが安定的な高品質を実現し、マーケットを広げていったとされます。

日本でファスナーという呼称が定着した経緯は判然としません。ただ、海外ではファスナーが一般的だったので、国際化に伴って定着していったのでしょう。その後、ファスナーには、線ファスナーと面ファスナーという区分が生まれます。1955年、スイスのジョルジュ・デ・メストラルが、マジック・テープを発明したからです。マジック・テープの活用も、子供用の靴から始まったようです。靴の締め具には、その後も様々なアイデアが投入されています。例えば、ゴルフシューズのダイアル式のBOA、ソロモンのクイック・シューレース、カンペールのゴム製エラスティック・シューレース等がすぐに思い浮かびます。それぞれ一長一短があり、靴の締め具としては、やはり靴紐が主流であり続けています。個人による足の形状差が大きく、その調整には靴紐が優れているからなのでしょう。(写真出典:lyncs.ykkfastening.com)

2026年1月23日金曜日

百人町

鉄砲百人隊行列
芸術家が集まり、作品を制作し、生活するアート・コロニーは、世界中に多く見られます。例を挙げればキリがないほどです。日本では、池袋モンパルナス、那覇のニシムイ美術村等が有名です。アート・コロニーは、19世紀のフランスで始まったようです。パリのモンパルナスやモンマルトルが有名ですが、恐らくパリ近郊のバルビゾンあたりがその嚆矢なのではないかと思います。 フォンテヌブローの森に隣接し、生活費も安いことから、ミレーはじめ風景画家たちが多く集まり、いわゆるバルビゾン派が形成されました。アート・コロニーのメリットは、互いに刺激を受ける、生活面も含めて助け合う、といったこともあるのでしょうが、何よりも世間の目を気にせず制作に没頭できる環境が魅力だったのだろうと想像します。

アート・コロニーと言えば、画家や彫刻家が集まっているイメージです。音楽家が集まるLAのローレル・キャニオンなどは希な存在だと思います。同様に、小説家や詩人のコロニーは聞いたことがありません。恐らく、唯一の例外は、戦前の百人町だったのではないかと思います。岡本綺堂、国木田独歩、林芙美子、西條八十等々、また北一輝や大内兵衛なども住んでいたようです。ただ、コロニーが形成されていたのではなく、単に文筆家が多かったというだけのことかもしれません。それでも、かなり希有な存在だったのだろうと思います。百人町は、新宿の北にあり、山手線の新大久保駅、中央線の大久保駅にはさまれた一帯です。昭和初期あたりまでは、武蔵野の入り口としてのどかな田園風景が広がっており、まさに郊外だったようです。

文人の集まる町だったことが影響したのでしょうが、戦前、百人町には、日本人やドイツ人の音楽家も集まり始めます。すると、楽器店や楽器の製造・修理の工房も増えて、百人町は音楽の町、楽器の町としての顔も持つことになります。戦後になると、復員してきた楽器職人たちが集って修理工房が再開され、楽器の町も復興したようです。1950年代半ばになると、歌声喫茶やジャズ喫茶が多く集る町にもなっていたようです。音楽の町という背景に加え、新宿と高田馬場の中間という立地も良かったのでしょう。歌声喫茶は新宿が発祥とされます。ピアノやアコーディオンの伴奏で皆が合唱するという店です。カラオケの前身のようにも言われますが、60年安保闘争や高度成長のひずみを背景に左翼が仕掛けたプロパガンダだったと理解します。

百人町の町名は、百人組の組屋敷があったことに由来します。百人組は、家康が、江戸城の西を守り、あるいは落城の際、将軍が甲州へ落ちるルートを確保するために置きました。伊賀組・甲賀組・根来組・二十五騎組の4隊、各100名で構成される鉄砲隊でした。今も、皇居の大手門を入ると、中之門前に百人番所が当時のまま残っています。百人組各隊が交替で詰めて、将軍警護に当たった番所です。百人隊の組屋敷は、甲賀組が青山、根来組は市ヶ谷、二十五騎組が内藤新宿、そして伊賀組は大久保に置かれました。太平の世になると、百人組は内職としてツツジを育て始め、江戸で人気を博します。明治維新ととも百人組は解散となり、名物だったツツジも日比谷公園に移されます。その後、百人町は宅地化されていきます。なお、今も新宿区の花はツツジです。

百人町ほど激しい変遷をたどってきた町もないのではないかと思います。鉄砲隊の町、ツツジの町、文人の町、音楽の町、浮浪者と労働者の町、そして現在のコリアン・タウン、オール・エイジアン・タウンと目まぐるしく顔を変えてきました。いずれの顔にも、新宿に隣接しているという立地が影響しているように思えます。いわば奥新宿といったところです。ただ、新宿の単なる延長・拡大ヴァージョンではなく、独自の文化や風情を育んできたところが面白いと思います。新宿は欲望の町とも言えますが、実は経済合理性に貫かれた町でもあります。その周縁部として、新宿が失った自由と多様性を持ち得た町なのかもしれません。百人町は、これからも顔を変え続けていくように思います。(写真出典:cleanup.jp)

鉢木