2026年7月3日金曜日

カントリー・ラインダンス

テネシー州ナシュビルには、仕事で何度も行きました。提携先の本社があったからです。 ナッシュビルは、カンバーランド川沿いの交易拠点から発展した町で、アップランド・サウス、ないしはアッパー・サウスの中心地です。また、カントリー・ミュージックのメッカとしても知られます。ナッシュビルから放送される”グランド・オール・オープリー”は、カントリー・ミュージックのライブ放送ですが、1925年に放送が開始されたというアメリカ最古にして、今でも大人気のラジオ番組です。この番組を放送するWSMは”The Air Castle of the South ”とまで呼ばれ、アメリカ南部の精神風土を支える柱の一つにもなっています。また、ダウンタウンのミュージック・ローには、200を超えるスタジオが並んでいることでも知られます。

グランド・オール・オープリーのライブ会場であるグランド・オール・オープリー・ハウス周辺は、様々な施設が作られて、いまやテーマ・パーク化しているようです。30年以上前にも、ホテル、コンベンション・ホール、ショッピング・モール、ゴルフ場等はありました。提携先のスタッフが、オープリー・ハウスの社長と友人だったことから、ホテルに泊めてもらい、リンクス・タイプのゴルフ場でプレイさせてもらったことがあります。ライブの放送日でもないのに、ホテルやモールには人があふれていました。南部の人たちにとっては、あこがれの場所であり、一度は行ってみたい場所になっているのでしょう。もちろん、ミュージッシャンにとっても、グランド・オール・オープリーに出演することは、日本の紅白歌合戦出場なみに名誉なことなわけです。

週末にカントリー・ミュージックのライブ・ハウスに案内してもらったことがあります。元は貨物集積場だったという駅近くの広い敷地に、納屋を模した大きな建物が建っていました。中に入ると、大小様々な部屋があり、それぞれ異なったタイプの音楽が演奏されています。客のいでたちは、男女問わず、皆一様に、カントリー・シャツ、バンダナ、ジーンズ、カウボーイ・ブーツ、そしてテンガロン・ハットというウェスタン・スタイルでした。聞けば、近郷近在の農家の人々が、週末のお楽しみとして、精一杯のおしゃれをして集まっているとのことでした。つまり、ウェスタン・スタイルは正装であり、ほぼ伝統的な民族衣装とも言えるのでしょう。もちろん、ハットもジーンズも、農作業で着用しているものではなく、よそ行きの新品だったわけです。

違う国に来たな、と思ったものです。NYやLAでは感じたことのない異国情緒でした。最も印象的だったのは、一番大きな部屋で踊られるカントリー・ラインダンス、いわゆるカウボーイ・ダンスでした。カントリー・ラインダンスの起源は、17世紀のイングランドとされます。皆が整列して、ステップを揃えて踊ります。基本的には、全員がステージのバンドに向かって整列しますが、二列で男女が向かい合うなどのパターンもあります。ステップも曲によって異なり、多くの種類があるようです。1970年代の日本のディスコを思い出させます。当時は、ステップ・ダンス全盛であり、その後、フリー・ダンスへと変わっていきました。カントリー・ラインダンスは盆踊りに近いものがあり、NYの人たち、特に黒人たちから見れば、田舎くさい代物だったのでしょう。

ロバート・アルトマンの最高傑作「ナッシュビル」(1975)は、アメリカという国をシニカルに描いた群像劇です。カントリー・ミュージック界をアメリカの縮図とし、大統領選挙の予備選をからめることで、アメリカの政治、社会の立ち位置をコミカルにえぐっています。当然、舞台はナッシュビルしかあり得ません。カントリー&ウェスタンは、アメリカ南部を代表する文化であり、ビッグ・ビジネスでもあります。日本でも、ヒット曲や有名歌手は多少知られていますが、その文化的広がりや深さに関する理解は薄いと思います。日本の民謡や演歌が近いのでしょうが、カントリー&ウェスタンは今もメジャーな文化であり続けています。「アメリカ人の8割は田舎者よ」というフレーズは、スーザン・ストラスバーグが映画「女優志願」(1958)のなかで語ったセリフです。カントリー&ウェスタンや福音派といった南部の文化抜きに、MAGAといった現象、あるいはアメリカという国は理解できないように思います。(写真出典:hudsonvalleycountry.com)

2026年7月1日水曜日

道後

温泉浴は、とても良い楽しみだと思います。温泉地や温泉宿の評価は、建屋、庭、しつらえ、食事などを総合的に判断して決められる傾向にあります。しかし、本来的には、湯質こそが最も重視されるべきだと思います。 個人的には。道後温泉の湯質が一番のお気に入りです。個性的で際立った湯質の温泉は他に多くありますが、バランスの良い、やさしい湯質としては道後が最高であり、毎日でも入りたいと思います。何度も道後温泉に行きましたが、たまたま、宿は、いつも大和屋でした。道後を代表する宿ですが、会社の関係で、多少の融通を利かせてくれるからです。例えば、温泉宿は一泊二食が基本ですが、特別に一泊朝食付にも対応してくれました。

道後の湯は、きめ細やかで刺激の少ない優しい湯です。18本の源泉をブレンドすることで、適温、かつなめらかな源泉掛け流しを実現しています。湯質としては、アルカリ性単純泉です。アルカリ分は、皮膚のタンパク質を溶かすので、湯はぬるっとした感触になります。古い角質や余分な皮脂が溶かされ、肌がスベスベになります。アルカリ性の温泉が美人の湯と呼ばれる由縁です。例えば、三重県の榊原温泉などはアルカリ度が高く、肌は超ヌルヌルになります。道後の湯はそこまでではなく、ちょうどいい塩梅です。なお、単純泉とは、含有成分のなかに突出した成分がない温泉を指します。泉質は、単純泉の他に、硫黄泉、二酸化炭素泉、酸性泉等々、11種類あります。単純泉は、刺激が少なく、様々な成分による効能の多様さも特徴です。

道後温泉は、縄文土器が出土したことから3千年の歴史を持つと言われます。縄文を持ち出すまでもなく、道後は日本最古級の温泉です。日本書紀や風土記にも記載される日本三大古泉は、道後、有馬、白浜となります。延喜式では、道後、有馬、いわき湯本が挙げられています。清少納言は枕草子で、有馬、玉造、榊原を名湯としています。道後は、都からは少し遠かったということなのでしょう。起源は、白鷺が傷を癒やすのが目撃されたという、ありがちな説が伝わります。また、大国主命と少彦名命の話もあります。伊予国へ旅をし、疲れて倒れた少彦名命のために、大国主命が”速見の湯”(別府)を海底の管を通して道後へと導き、少彦名命を浸からせます。少彦名命は回復し石の上で踊りだした、というのです。少彦名命は、有馬、玉造の伝説にも登場します。

道後最大の魅力は湯質だと言えますが、他にも共同浴場、温泉街、アクセスの良さ等も魅力だと思います。共同浴場は、何と言っても重要文化財の道後温泉本館ということになります。1894年に改築された本館は木造3階建で、1階が浴場、2~3階がお茶やお茶菓子も付いてくる休憩室となっています。しばらく大改修工事が行われていましたが、2024年にはフルオープンしています。道後温泉本館から市電の駅まで温泉街が続いています。その中ほどに、温泉煎餅の玉泉堂本舗があります。古風で暗い店には客がいません。というのも、予約なしで購入できず、しかも半年待ちという老舗です。ただ、正月だけは松山市内のデパートで販売されるので予約なしで買えるようです。その正月の煎餅を頂戴したことがあります。美味しいのですが、半年待ちは理解できませんでした。

道後温泉のアクセスの良さも、天下一品です。松山駅から道後温泉駅までは市電でわずか20分。松山へ出張した際にも、市内のホテルなど使ったことがありません。道後に泊まればいいわけですから。運が良ければ、週末にのみ運行される坊っちゃん列車に乗ることもできます。復元された軽便鉄道時代の蒸気機関車が牽く列車です。坊っちゃん列車の形状は蒸気機関車ながら、中身はディーゼル車になっています。夏目漱石の「坊ちゃん」で、マッチ箱のような汽車、と書かれていることからこの名称となっています。道後のお湯も含めて、伊予松山はいいところです。城もいい、お湯もいい、食事もいい、そして、何よりも、どこかのんびりとした伊予の人々がいい、と思うわけです。(写真出典:nippon.com)

2026年6月29日月曜日

「シラ-ト」

監督: オリベル・ラシェ       2025年スペイン・フランス

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

これは、現代版イージー・ライダーなのだと思いました。イージー・ライダーは、1960年代アメリカの価値観の揺らぎを映像化したわけですが、本作は、現代社会の揺らぎをテーマとしているように見えます。実に政治的なロード・ムービーですが、レイブやEDM、あるいは砂漠と大型車といった要素を、違和感なく一体的に表現している点が新しいと思います。本作は、カンヌ国際映画祭で監督賞を獲得するなど高い評価を得ています。監督のオリベル・ラシェは、パリで生まれたガリシア人です。ガリシアは、スペインで最も西に位置する自治州であり、ガリシア語はじめ独自の文化を持つことで知られます。それは、監督の世界を見る冷静な目や感性に影響しているように思えます。

レイブは、1980年代のイギリスから始まっています。遠隔地や廃墟など非日常的な場所に、レイヴァーと呼ばれる人々が自主的に集まり、朝まで熱狂的に踊り続けます。管理されたビジネスそのものであるフェスやディスコを否定し、人里離れた場所でトランス状態に入るということは、どこか宗教的な印象すら受けます。ただ、実態は単なる現実逃避であり、60年代のカウンター・カルチャーに比べれば、思想性に欠ける単なるドロップアウトのようにも思えます。映画では、レイヴァーになるべく家を出た娘を探す父親と息子が、モロッコのレイブに現れます。父子は、伝統的な価値観、あるいは家族という人間が持つ本性の象徴なのでしょう。父子は、次のレイブ・ポイントへと向かうレイヴァーのグループに同行することになります。

ドロップアウトした人間とは言え、レイヴァーのグループも一つの家族です。二つの家族は、厳しい砂漠の道を共に進んでいきます。さらに悲劇に襲われることによって、二つの家族は一体化します。見た目は違えども、同じく連帯を求める人間性が表現されているのでしょう。そして、ここに異質な要素が登場することになります。国家や戦争の象徴としての地雷原です。レイヴァー二人が犠牲になります。父親だけが無事に地雷原を渡りきります。どうやって渡れたのかと聞かれた父親は「無心に歩いただけだ」と答えます。これが、この映画のキー・ポイントなのでしょう。政治システムに対する人間性の勝利というわけです。ラスト・シーンで貨車に乗って沈んだ顔をしているのは、失ったものゆえか、システムに依存する自分を嘆いているのか、判然としません。

という風に図式的に見ることもできるわけですが、この映画の最大の魅力は、鳴り響くEDMと自然主義的な演出が相まって生み出される今日性やリアリティなのだと思います。ロードムービーの伝統を踏まえつつも、新たな表現を実現したとも言えそうです。キャストのほとんどは、レイブでスカウトされた素人だと聞きます。実に見事なスカウトだったと思います。皆、いい味を出しています。主役の一人とも言える音楽は、ベルリンを拠点に活動するDJカンディン・レイのオリジナルであり、いくつかの賞も獲得しています。砂漠の風景も主役の一人だと言えます。撮影はモロッコとスペインで行われたようです。モーリタニアのレイブ・ポイントを目指す一行は西サハラを進んでいきますが、そこは、いまだに西サハラ紛争が継続されている地域でもあります。

西サハラ紛争は、西サハラの領有を巡るモロッコ、モーリタニア、そしてサハラ・アラブ民主共和国を建国したポリサリオ戦線の争いです。19世紀からスペインの植民地となっていた西サハラですが、20世紀半ば、モロッコとモーリタニアが領有を主張します。スペインが手を引くと、両国が分割統治しますが、アルジェリアやリビアの支援を受けたポリサリオ戦線が、独立を目指す戦闘を1976年から開始します。国連や周辺国家等によって、幾度も停戦や紛争終結が図られてきましたが、いまだに解決しておらず、戦闘も散発しています。近年では、イスラエルを承認したモロッコに対して、トランプが西サハラ領有を認めたことで、混乱は深まっています。西サハラ紛争は、植民地主義が引き起こした問題の一つですが、現代の国際政治が直面する課題を象徴している面もあります。そこを映画の舞台に据えた本作の意図の濃さを感じます。(写真出典:eiga.com)

2026年6月27日土曜日

ポン酢

15年ほど前に、京都大原の味工房志野のドレッシングとポン酢を知り、以来、愛用しています。お気に入りのドレッシングは、”ゆずと大根”、ポン酢は定番の”ゆずのぽん酢”です。定番商品は、新宿高島屋の食品売場でも買えるのですが、他の商品はお取り寄せかデパートの催し出店で買うことになります。年に何度か、東京にも出店しますので、その際に買っています。味工房志野は、もともと大原でとんかつ屋と一品料理屋を営んでいたのだそうです。ドレッシング屋は40年前から始めたとのこと。少しお高いのですが、天然素材にこだわった美味しい商品が人気です。田舎のドレッシング屋を自称していますが、自社生産、自社販売にこだわっている点も京都らしいなと思います。

かつて、ポン酢に関しては、さほどのこだわりもなく、スーパーで買えるメーカー品を使っていました。というのも、使う機会が、せいぜい水炊き系の鍋物程度に限られていたからなのでしょう。それが変わったきっかけは、高知県で馬路村の”ゆずの村”を口にしたことでした。馬路村は、徳島県との県境にある人口600人ばかりの山村です。かつては林業で栄えましたが、斜陽となり、村はゆずの栽培を始めます。1986年にはゆずの加工も始め、ポン酢しょうゆ”ゆずの村”を発売します。ゆずの風味の強いポン酢は評判を呼び、売上は急増していきました。当初、3,000万円程度だった加工品の売上は、1993年には10億円、1998年には20億円、2005年には30億円を超えていきます。ポン酢が、山間の寒村にシンデレラ・ストーリーをもたらしたわけです。

ポン酢は、柑橘果汁と酢を合わせたものです。これに醤油や出汁を加えたものがポン酢醤油です。近年では、ポン酢醤油もポン酢と呼ぶ傾向にあります。ポン酢の語源は、柑橘系の果汁を指すオランダ語の”ポンス”だとされます。長崎の出島に伝わり、保存性を高めるために酢と合わせたものが九州に広がっていったようです。ただ、果汁は酸化しやすく、家庭では扱いにくいものなので、主に料理屋で調味料として使用される時代が長かったようです。ある時、半田の中埜酢店7代目が、料亭で博多水炊きを食べ、そのポン酢醤油の美味しさに感動します。これを家庭用の鍋用調味料にしたいと研究を始め、1964年には関西で試験販売、1967年には全国販売にこぎつけたのがミツカンの”味ぽん”でした。ポン酢は、比較的歴史の浅い調味料だったわけです。

ポン酢に関する関東と関西の違いは有名な話です。関西人にとってポン酢はソウルフードであり、各家庭には数種類のポン酢があるといわれます。関東の鍋物はスープに味付けした寄せ鍋スタイルが多く、関西では水炊きスタイルが多いことがポン酢の普及の違いを生んだとされます。また、ポン酢醤油は出汁醤油でもあり、出汁文化の関西で広く受入れられたという説もあります。確かに、ポン酢の使い方は、関東では鍋のつけだれくらいですが、関西では様々な料理に醤油並みに使われます。スーパーでの品揃えも、関東の数種類に対し、関西では数十種類置いてあるといいます。なかでも、人気が高いのは旭食品の”旭ポンズ”と聞きます。最近は、近所のスーパーでも見かけることがあります。確かに、しっかり出汁が利いた美味しいポン酢だと思います。

徳島市で地元の人たちと食事した際、全ての料理にすだちを絞ってかける光景を見て驚きました。すだちの95%は、徳島県で生産されています。爽やかな酸味と香りが食欲をそそります。最初は喜んで食べていたのですが、そのうち口がすだちの酸味だらけになり、料理の味はまったく分からなくなりました。徳島には、当然、すだちで作ったポン酢もあります。何にでもすだちを絞ってかけるのなら、すだちポン酢など不要なのではないかと思ったものです。いまや全国に、ご当地レトルト・カレー、ご当地ご飯の友があふれていますが、ご当地ポン酢醤油も必ずと言っていいほど売られています。明らかに道の駅の効果だと思われます。柑橘類の名産地に限らず、他でもリンゴ酸やワインを使ったものまであります。また、魚醤といった醤油、あるいは出汁方面からのアプローチもあり、そのヴァラエティの広さには驚きます。みんな、馬路村の柳の下をねらっているのでしょうね。(写真出典:mizkan.co.jp)

2026年6月25日木曜日

君が代

「君が代」が、日本の国歌として法定されたの1999年のことです。曲としては、1880年(明治13年)に作曲され、、日本の国歌として歌われてきましたが、正式な国歌ではなかったわけです。君が代は、古今和歌集(905年)の詠人知らずの和歌に、宮内省雅楽課に属する雅楽奏者・林廣守がメロディを付けたとされています。もっとも、同じ歌詞に、最初にメロディを付けたのは英国の軍楽隊長J.W.フェントンでした。1869年(明治2年)のことです。フェントンから日本に国歌がないことは誠に遺憾と指摘された薩摩藩砲兵大隊長・大山巌が、薩摩琵琶歌の「蓬萊山」の一部を歌詞として選び、フェントンがこれに曲を付けます。薩摩琵琶は、通常の琵琶より大ぶりで、太い音が特徴です。戦国の薩摩で武士の教養として生まれたとされます。「蓬萊山」は、祝い歌であり、その一節がそのまま「君が代」の歌詞になりました。

ただ、フェントンのメロディが西洋的に過ぎてピンとこないという声が多く、1880年、歌詞はそのままに、林廣守のメロディに変えられたわけです。君が代として使われた薩摩琵琶曲の一節は、以前から一般的に存在した歌詞でした。古くから各地で祝い歌として、田楽・猿楽・謡曲等はもとより、宴席の締めにも歌い舞われるなど、様々な形で歌い継がれてきたものでした。いわば祝い歌の定番として、馴染み深い歌詞だったわけです。その初出が古今和歌集とされています。ただ、詠人知らずという点が、様々な憶測を呼ぶことになります。当時、貴人以外が詠んだ和歌は、詠人知らずとして掲載されたようです。君が代の本当の詠人は一介の木地師だったという説があります。ここで”君”と呼ばれたのは、天皇ではなく、木地師の祖神とされる惟喬親王だとされます。

木地師は、轆轤(ろくろ)を使って、お椀などの木工品を削り出す職人です。各地の山の7合目以上の木を切る権利を保証する”朱雀天皇の綸旨”を持ち、山中を移動して生活する集団でした。文徳天皇の皇子である惟喬親王が近江国に隠棲していたおり、木工用の轆轤を考案したことから、木地師が生まれ、親王は木地師の祖神として祀られることになりました。君が代を詠んだ木地師は、この和歌が認められ、朝廷から藤原朝臣石位左衛門という名前を拝領したとも言われます。眉唾話のように思えますし、話を創作した背景や理由もよく分かりません。また一方で、気になる話もあります。福岡の志賀海神社の神楽歌を起源とする説です。志賀海神社は、古代にあって、海人を司っていた阿曇氏(安曇氏)ゆかりの神社で、その創建は古代にさかのぼるようです。

志賀海神社の山誉祭の神楽曲は、冒頭こそ君が代を”きみがだい”と歌いますが、他は君が代と完全に同じ歌詞です。残念ながら、この神楽の起源や生まれた年代は不明です。ただ、神社の伝承によれば、神功皇后が三韓成敗に赴く際、神社に寄って山誉祭の神楽を聞き、これを末代まで残すよう言葉をかけたとされます。その曲が、今に伝わるものと同一なのかは分かりません。ただ、同じである可能性は高いように思えます。糸島・博多湾一帯には、この曲の歌詞にちなんだ地名が多く存在するとも聞きます。また、神功皇后の渡海に関しては、安曇氏が協力したことを示す伝承も存在するようです。そして、ここで言う”君”とは、天皇ではなく、神功皇后を助けたとされる阿曇磯良ではないかとする説があるようです。また、この神楽曲が旅芸人たちによって各地に広められ、古今和歌集にも掲載されたとする言い伝えもあるようです。

君が代は、国歌の歌詞としては世界最古とされているようです。革命歌や軍歌のような勇ましい国歌が多いなか、祝歌的な歌詞と荘重なメロディを持つ君が代は、世界に誇るべき国歌だと思います。”君”を天皇であるとしたのは明治政府ですが、民主主義の時代に天皇を称える国歌とは何事だという批判もあります。一理あります。ただ、憲法上、天皇が国民統一の象徴とされるのであれば、君が代とは、日本の国体、あるいは国民そのものと理解することもできます。”さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで”とは、まさに国と国民の統一の永からんことを願う歌詞と言えます。ちなみに、さざれ石とは、石灰質角礫岩のことであり、小さな石が長い年月をかけて固まり、ひとつの大きな岩になったものを指します。各地でさざれ石が見つかると、大いに珍重され、神社などに置かれています。(写真出典:tenki.jp)

2026年6月23日火曜日

リトアニア

国立西洋美術館で、 チュルリョーニス展を見ました。ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニスは、リトアニアを代表する画家にして作曲家だそうです。1875年生まれのチュルリョーニスは音楽家としてキャリアを重ね、36年という短い生涯のなかで400曲を作曲します。そして、30歳になる頃から絵を描き始め、300点の作品を残しました。幻想的な画風は象徴主義絵画と言っていいのでしょう。象徴主義は、19世紀後半、印象派や写実への反発として生まれました。しかし、チュルリョーニスの象徴主義は、音楽との関係のなかから生まれているように思います。つまり、彼の音楽的世界を絵画で表現しているわけです。

チュルリョーニスについては、今回の展覧会までまったく知りませんでした。いや、それどころか、リトアニアについても、ほぼ何も知らなかったと言えます。知っていることと言えば、ソヴィエトから独立したバルト三国の一つであること、元大関・把瑠都の出身地であること、そして杉原千畝によるユダヤ人救出の舞台であったこと、以上が全てでした。リトアニアは、バルト三国の最も南に位置する国です。西はバルト海に面し、北はラトビア、南はポーランド、東はベラルーシに接しています。国の面積は6.53万 km²と北海道よりやや小さく、人口は280万人です。紀元前2000年頃からバルト族の定住が始まり、1009年に至り、初めてリトアニアの国名が文献に登場しています。

13世紀前半には、ミンダウガスが国を統一し、王として戴冠します。多神教だったリトアニア王国は、ドイツ騎士団など北方十字軍の攻撃を受ける一方で、東へと領土を拡大していきます。そして14世紀末には、ウクライナ全域、およびポーランドとロシアの一部を含む、ヨーロッパ最大の国土を有する国になります。つまり、リトアニアは、キエフ大公国を飲み込むかたちで欧州最大の国家になったわけです。キエフ・ルーシ(キエフ大公国)は、9世紀、ノルマン人、いわゆるヴァイキングによるスラブ支配から始まっています。ルーシとは国と理解して良さそうですが、もともとはヴァイキングを指すスラブ語だったようです。キエフ・ルーシは、バルト海から黒海にいたる広大な地域を支配していました。ルーシは、現在のロシア、ベラルーシの語源ともなっています。

バルト海の小国が、巨大なキエフ・ルーシを支配するに至ったことは驚きです。それを可能にした要因は主に二つあるように思います。一つは、巨大だったキエフ・ルーシが、時とともに、小ルーシの緩やかな連合体に変わっていたこと、そして”タタールのくびき”、つまり13世紀後半に起こったモンゴルの侵入と支配です。小ルーシは連合を組んで戦いますが、人口が半減したと言われるほどの激しい攻撃に敗れ、キエフ・ルーシは消滅します。そこへリトアニアが浸透していったわけです。しかし、小国の悲しさゆえ、巨大化したリトアニアの統治は、ほとんどスラブ人によって行われていたようです。15世紀末には、モスクワ・ルーシが力をつけてリトアニアの脅威となります。16世紀中葉、リトアニアは、ポーランド・リトアニア共和国を建国し対抗します。

当初、主導権を握っていたリトアニアでしたが、ほどなくポーランド優勢に変わります。リトアニア諸侯は法律上持っていた自由拒否権を使って、ポーランド勢に抵抗します。これがリトアニアの近代化を遅らせたと言われています。最終的には、17世紀の北方戦争で国土は興廃し、続く18世紀初頭の大北方戦争ではロシア側に敗れ、リトアニアはロシアの属国になります。第1次世界大戦後、一旦、ロシアから独立しますが、第2次大戦後、再びソヴィエトに吸収されます。リトアニアの歴史を見ると、小国ゆえの悲哀を感じます。しかし、1944~1952年、約10万人のパルチザン「森の兄弟」がソヴィエトと戦ったことが、リトアニアを理解するためには重要なのだと思います。恐らく、その不屈の精神、プライドこそがリトアニアなのだろうと思います。(写真出典:store.shopping.yahoo.co.jp

2026年6月21日日曜日

千葉氏

”千葉城”
JR千葉駅から本千葉駅へ向かうと、左手の丘の上に城郭が見えてきます。初めて見た人は、必ずと言っていいほど、千葉市に城があるとは知らなかった、と言います。実はその通りであって、歴史上、千葉市に天守閣を持つ城郭は存在していませんでした。通称、千葉城と呼ばれている建築物は、1967年に城郭を模してコンクリートで建設された千葉市立郷土博物館です。”千葉城”が建つ丘は亥鼻(いのはな)と呼ばれ、中世には亥鼻城があるにはあったのですが、平山城でした。従来、千葉氏の居城とされてきましたが、現在では発掘や研究が進み、千葉氏の家老だった原氏の平山城だったという説が有力になっているようです。

千葉という地名は、下総の豪族・千葉氏が支配していたことから定着した地名と思われがちです。しかし、千葉という地名は古くから存在し、万葉集にも登場しています。草木が生い茂る豊かな場所という意味だったようです。千葉氏は、桓武平氏の流れを汲む坂東平氏の平常兼が、11世紀中葉、千葉荘を支配して千葉大介を称したのが始まりとされます。坂東平氏は、898年、桓武天皇の孫にあたる平高望が上総介として下向したことに始まります。高望の子孫は、近隣に勢力を拡大していきますが、なかでも高望の側室の子であった良文の子孫は、坂東各地で武士団を形成しました。なかでも、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏の八氏は、坂東八平氏として知られます。うち房総を拠点とした千葉氏と上総氏は房総平氏とも呼ばれます。

1180年、以仁王の令旨に応じて平家追討の兵を挙げた源頼朝は、伊豆の石橋山の戦いで敗れ、海路、安房国へ渡ります。房総の地で再挙した頼朝に加勢したのは房総平氏でした。千葉氏の3代目当主だった千葉常胤(つねたね)も、上総国の上総広常、安房国の安西景益とともに参陣します。平氏が源氏方に参陣することは腑に落ちない面もありますが、房総平氏が、下総国目代の藤原親政の圧政下にあったことが背景と言われます。親政の妻は、平清盛の正室・時子の妹でした。平清盛の勢いは、坂東にまで及んでいたわけです。清盛は伊勢平氏の当主ですが、伊勢平氏は、もとをただせば坂東平氏の傍流です。都で貴族化した伊勢平氏は、他の平氏一門を隷属化させていました。同じ桓武平氏ながら坂東平氏も同様の扱いを受けており、不満を抱いていたのでしょう。

加えて、千葉常胤は、上総氏や周辺の豪族との領土争いが続き、所領を守ることも厳しい状況にあったようです。しかし、頼朝に従った常胤は、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦で戦功を挙げ、有力御家人にまで上ります。頼朝に鎌倉を拠点にすべきと進言したのも常胤だとされています。また、房総平氏の当主となっていた上総広常が、1184年、頼朝に謀殺されたことで、常胤は房総平氏の当主になり、下総の守護にも任命されます。しかし、鎌倉時代中期、一族が三浦氏の乱に加担したために千葉氏は処分を受けます。南北朝時代になると、一族は南北に別れて戦います。室町中期、事実上の戦国時代の始まりとも言われる享徳の乱でも、一族と家臣が関東管領側と鎌倉公方側に別れて戦います。その後も一族の内紛が続き、最終的には、秀吉の小田原成敗によって後北条氏とともに滅ぼされ、一族は離散することになりました。

武家の本質は、領土を武力と一族の団結で維持・拡大することにあると思います。激しく動く歴史の波に翻弄されたこと、そして一族の結束を維持できなかったことが、千葉氏の滅亡につながったのでしょう。千葉氏の興廃の歴史は、まさに武家の歴史の縮図のように思えます。江戸期になると、下総国、上総国、安房国には、佐倉藩を除けば、天領、20を超える小藩、旗本領等がまだら状に分布されることになります。幕府は、江戸への近さゆえ、この地に有力な藩を置くことを避けたのだと言われます。千葉の町は、古くから交通の要所として栄えており、江戸期には千葉妙見宮の門前町としても知られる存在になりました。城はなくても賑わっていたわけです。歴史的背景もないのに、昭和になってから、わざわざコンクリートの城を建てる意味があるのかと言えば、疑問と言わざるを得ません。県民としては、むしろ貧困な発想を恥ずかしいと思っているのではないでしょうか。(写真出典:jaran.net)

カントリー・ラインダンス