2026年5月2日土曜日

観艦式

一度、海上自衛隊の観艦式に参加したことがあります。観艦式とは、最高指揮官が艦艇や航空機を観閲する軍事パレードの一種です。海上自衛隊では、原則、3年に一度、士気向上、軍事力の示威、国際親善を目的に行われ、内閣総理大臣が観閲します。私が参加した際には、野田毅彦総理が、護衛艦くらまに各国の大使、駐在武官とともに乗艦し、観閲していました。私は、当時、最新鋭だったヘリ空母型の護衛艦ひゅうがに乗せてもらいました。海上自衛隊の観艦式は相模湾洋上で行われます。横浜の大桟橋から、多くの招待客とともに乗艦し、相模湾まで3時間近くかけて移動しました。観艦式は、自衛隊の活動を国民にPRすることも目的の一つとなっているため、観閲する側の艦船だけでなく、観閲される艦船にも招待客が乗艦します。

相模湾では、海外から参加した艦艇も含め、40数隻の艦艇・潜水艦が二列縦隊に整列し、観閲艦の前を高速で駆け抜けます。艦艇の甲板には海上自衛官が整列して敬礼を行います。なかなかに壮観なものでした。自衛官の説明によれば、このスタイルの観艦式には、高度なテクニックが要求されるので、現在、日本の海上自衛隊だけが行っているとのことでした。操船技術、装備の優秀さを世界に示し、抑止力の向上をはかることも観艦式のねらいだとも言っていました。護衛艦の急速回頭、潜水艦の急速浮上の訓練展示も行われていました。そして、海上自衛隊が保有する航空機も飛来します。間近に見るヘリの密集編隊飛行、US-2救難機の低速飛行展示は印象的でした。国産のUS-2救難機は、世界で最も低速での飛行が可能という優れものです。

相模湾への往復の間に、ひゅうがの艦内ツアーも行われ、格納庫と飛行甲板を上下する甲板エレベーターにも乗せてもらいました。甲板で目が釘付けになったのが近接防御火器システムのファランクスでした。6砲身のバルカン砲と捕捉・追尾レーダーが一体化されています。主にミサイルや小型艇を標的に、全自動で1分間に徹甲弾4,500発、つまり毎秒75発を発射します。古代ローマの密集陣形にちなんだ名称ですが、弾幕を張るという意味なのでしょう。説明を受けながら、最も気になったのは、1秒間に75発を撃つ際の射撃音とは一体どんなものなのかということでした。さすがに撃ってはもらえませんが、自衛官に聞いてみると「ブーン、って感じです」という答えでした。にわかには信じがたく、帰宅後、YouTubeで確認すると、確かにブーンでした。

観艦式は、14世紀のイングランドに始まるとされています。日本では、江戸期に幕府水軍による”船行列”なるものが行われていたようですが、初めての本格的な観艦式は、明治元年(1868年)、大阪の天保山沖で行われました。明治天皇が陸上から、日本の艦艇6隻、フランスの艦艇1隻を観閲したようです。戦前は、軍国主義へ向かうなか、180隻を超える艦艇が参加する大観艦式も行われていました。戦後、自衛隊が発足すると、1957年に32隻をもって再開されています。以降、40~60隻が参加して継続されてきましたが、昨年、防衛省が、当面、観艦式は行わないと発表しました。「戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に直面する現在、隙のない我が国の防衛態勢を維持する上で、そのような観閲式等を実施することは困難な状況」という理由でした。事前の準備や訓練に手間暇がかかり、コストも莫大になる観艦式ですから、至極当然な判断のように思います。

ところで、観艦式の主力を成すのは護衛艦ですが、思えば、実に妙な艦種名です。英語では”Escort Vessel”とされています。世界的に見れば、そのような艦種区分はありません。海外では、海上自衛隊の護衛艦は”Destroyer”と呼ばれています。いわゆる駆逐艦です。つまり、護衛艦なる艦種名は、自衛隊が発足する際、軍ではありません、ということを強調するために生み出されたのでしょう。観艦式で乗艦させてもらった護衛艦ひゅうがの艦種記号はDDH(Helicopter Destroyer)です。見た目は同じような後継護衛艦のいづも、かがはCVM(Cruiser Voler Multipurpose)とされています。F-35B垂直離着陸戦闘機を搭載できるように改良が加えられているからです。ちなみに、自衛隊は、本年度中に、幹部の呼称を、大将、大佐、大尉等に変えると発表しています。近々、護衛艦の呼称も駆逐艦や空母に変わるのかもしれません。(写真出典:townnews.co.jp)

2026年4月30日木曜日

「センチメンタル・バリュー」

監督:ヨアキム・トリアー  2025年ノルウェー・フランス・デンマーク・ドイツ・スウェーデン・イギリス

☆☆☆☆

深いテーマを、スタイリッシュに、繊細に、かつ鮮やかに描き出すヨアキム・トリアーのセンスが見事に発揮されています。前作「わたしは最悪。」以上に複雑で繊細なプロットが、完成度高く表現されています。トリアー監督は、映画表現の新しい次元を提示したとも言えそうです。家を出た自己中心的な映画監督の父親、舞台俳優として成功するも行き詰まりを抱える長女、我慢することを強いられてきた次女が紡ぐ家族の物語がメイン・プロットです。しかし、単に父と娘の不協和音と理解を描いているわけではなく、複雑なプロットが織り込まれています。芸術論という面もありますが、最深部に織り込まれているのはノルウェーという国の歴史に刻まれた悲しさ、そして希望の物語のように思えました。

家を出たアル中の父と、それを許せない娘たちという構図はシンプルなものです。ただ、自殺した祖母の存在とアメリカ人女優の登場が、プロットに深さと広さを与え、物語は陰影深いものになっていきます。祖母は、反ナチの闘士であり、捕まって拷問を受けています。彼女が記録したナチの拷問の詳細は公文書館に所蔵されています。そして解放から15年、祖母は7歳の子供を残して自殺します。その子が映画監督の父であり、娘たちと同様、親が不在という環境で育ちます。父は、長女のためにシナリオを書いて持参します。それは、自分の母の物語であり、母を理解し、許すために書いたものです。父は知らなかったものの、俳優の長女は自殺未遂の経験があります。父は、祖母と長女が重なり合うことに気付いていたわけです。自殺は、血の成せる技でした。

感受性豊かなアメリカ人女優は、本読みが進むと、この役は長女以外に演じられる俳優がいないことに気付き、降板します。家族も、外部からの目線が入ることで、自らの血の濃さに気付かされていきます。また、次女も公文書館で祖母の記録を目にすることで、父のシナリオが持つ意味に気付きます。また、芸術も重要な伏線になっているように思います。父は高名な映画監督、長女は名の知れた女優です。しかし、父は、15年間、映画を撮っていません。長女は舞台恐怖症に陥っています。つまり、二人は、現実から逃避するように創作の世界に入りますが、そこに答はありませんでした。二人が逃げた現実とは、自分自身であり、自分の生い立ちであり、自分を形作る血だったわけです。結局、二人は、現実と向き合わざるを得ないことになります。

映画のナレーションを務めるのは、3代に渡る家族の歴史を見守ってきた彼らの家です。家は、ノルウェーという国を、家族はノルウェーの人々を象徴しているのでしょう。そこには、北欧の風土病とも言える鬱病やアルコール中毒があり、妹の耐える姿にはルター派の信仰が反映されているように思えます。かつてノルウェーを支配したデンマークやナチスもモティーフとして登場します。これは、もうノルウェーという国を語っているとしか思えません。映画のラストシーンは、モダンに改装された彼らの家のセットが作られ、映画が撮影されています。モダンさは現代ノルウェーの成功を象徴し、セットであることがその危うさを表現しているように思えます。いずれにしても、家族の葛藤を描いた映画は、決してそれだけの映画ではなかったということです。

本作は、高い評価を受けており、カンヌで記録的スタンディング・オーベーションとともにグランプリを、アカデミー賞では8部門にノミネートされ国際長編映画賞を獲得しています。ヨアキム・トリアーの独特なタッチ、きめ細やかさ、スタイリッシュさは、繊細なタッチのピアノ曲、あるいは軽やかで鮮やかな水彩画を思わせます。音楽の使い方も見事だと思います。トリアー監督の前作「わたしは最悪。」でも主演を務め、カンヌで主演女優賞を獲得したレナーテ・レインスヴェが、再び主演しています。その豊かな表情と表現力には驚かされます。驚いたと言えばエル・ファニングです。ダコタの妹で、子役時代からの長いキャリアを持ちますが、いい味を出していました。今後が楽しみだと思います。(写真出典:bunkamura.co.jp)

2026年4月28日火曜日

パンの都

パンの都と言えば、やはりパリなのだろうと思っていましたが、日本では京都のことを指すようです。確かに、京都は、パンの消費量や購入額で常にトップ・クラスに入っています。京都は和食の総本山とも言えますから、やや意外な感じを受けます。実は、京都は華やかな文化を支える職人の街でもあります。職人たちは朝が早いため、簡単に朝食を済ませたいというニーズがあり、パン食が普及したと聞きます。京都では、小振りなパン屋が多く、実に多様なパンが売られています。ただ、特徴的には、バゲットやハード・タイプよりも、惣菜パンや和食材と組み合わせたパンが多いように思います。簡便な朝食や昼食といったニーズから生まれたパン食文化だからなのでしょう。いまや京都名物とも言える志津屋の“カルネ”なども典型だと言えます。

とは言え、世界的に見れば、やはりパンの都はパリなのだと思います。まずは、パン屋、ブーランジェリーの数が桁違いです。京都は府全体で280軒のパン屋があるようですが、パリは市内だけで1,200~1,800軒とされています。徒歩圏内に必ず数軒のパン屋があります。皆、概ね7時には開店し、焼きたてのパンを売っています。ブーランジェリーは、各種パン、サンドイッチ類、ケーキ・焼き菓子などを商っています。朝の売れ筋は、バゲット、クロワッサン、パン・オ・ショコラあたりで、ショーケース内に他の商品はまばらにしかありません。朝、バゲットを買った人たちは、必ずと言っていいほど、店を出たらすぐにかじりつきます。パリの朝のお決まりの光景と言えます。確かに、焼きたてのバゲットは、抗しがたいほどの美味しさがあります。

パリのパンは何故美味しいのかと言えば、グルテンが少なくミネラル分の多い小麦、硬水、長時間発酵、そして焼く技術などが挙げられます。またバゲットに関しては、小麦粉・水・塩・酵母以外の使用を認めず、冷凍保存も禁止という法律まであり、適合するパンは”バゲット・トラディション”と呼ばれます。また、クロワッサンに関しては、恐らく発酵バターが惜しげもなく使われている点も美味しさの秘訣なのでしょう。ただ、材料に関して言えば、日本に持ち込むことも可能だと思いますし、技術に関してはパリのパン屋で修行した日本の職人も多いはずです。それでも違いが生まれるのは、コストと価格の問題なのかもしれません。そして、それ以上に、パリと東京の湿度の違いが大きく影響しているのではないかとも思います。

パリの空は青く、夕暮れには得も言われぬほど濃い青を見せてくれます。乾燥した空気が、光の違いを生んでいるのだと思います。それは絵画の違いにも大きく影響しています。高温多湿な日本の絵画に、西洋絵画のあふれんばかりの光の輝きはありません。乾燥した空気は、土壌の違いにもつながり、植物の味にも大きな違いを生んでいるのではないでしょうか。パンだけでなく、パリで食べるハム、チーズ、野菜は、とても美味しいと思います。小麦や水の違いだけでなく、あの空気のなかで発酵させ、焼き上げたパンは、日本のものと異なって当然とも思います。やはり、その土地の風土で培われた食べ物は、その土地で食べるべきだということなのでしょう。ですから、京都で食べるべきパンも、バゲットではなく、カルネの類いだと言っていいと思います。

バゲットは、サンドイッチにしても美味しくいただけます。とりわけ、シンプルなハムとチーズのサンドイッチは、パリの食べ物を代表する逸品の一つだと思います。今般、パリに長逗留して、近所に数件あるブーランジェリーのおいしいパンを沢山食べましたが、なかでも”ERIC KAYSER”のクロワッサンを楽しめたことは大きな収穫でした。東京で一番好きなクロワッサンは、メゾン・カイザーのものです。メゾン・カイザーは、ERIC KAYSERの海外展開店となります。しかし、両者のクロワッサンは決して同じとは言えません。日本人の好み、食材の調達、価格などが考慮された結果なのでしょう。パリのERIC KAYSERのクロワッサンは、より発酵バターの風味が強く、その味わいの深さは、さすがパリで一番になったこともある店だと思いました。(写真出典:tabizine.jp)

2026年4月26日日曜日

検非違使

葵祭の検非違使尉
農耕の開始ほど人類に大きな影響を与えた変革はないのではないかと思います。余剰生産物は人口増加、分業、組織化を生み、文明の発生へとつながります。また、農耕地と労働力の必要性が所有の概念を生み、絶え間ない争いをもたらしました。所有をめぐる争いは、戦争だけでなく、強盗、殺人、詐欺といった各種犯罪をも生み出したと考えます。農耕は、余剰食糧とともに、社会を乱す悪をも生んだと言えます。古代にあっては、村落や部族のリーダーが、事実上、警察、裁判、刑の執行を担っていたのでしょう。部族連合だったヤマト王権下でも、基本的には各部族に罪人処置は委ねられていたようです。時代が進むにつれ、武力を持った豪族が王権下の警察機能を担っていったものと思われます。 

7世紀末、律令体制が構築されると、二官八省の一つとして刑部省が設けられ、司法全般を担います。ただ、軽い罪に関しては、各官司、つまり各役所において対応していたようです。また、官僚の監視、都の風俗取締のために弾正台も設置されています。8世紀末、必要性が薄れたとして軍団が廃止されると、治安は悪化していきます。武装した強盗団や狼藉者が増え、荘園間の争いも武力闘争化していきます。つまり暴力が幅を利かせる時代になっていったわけです。そこで、9世紀初頭、嵯峨天皇は、天皇直轄の令外官(りょうげのかん)、つまり律令に定めのない職務として、都の警備を担う検非違使を設置します。検非違使とは、不法・違法といった非違を検察する使者を意味しますが、後には、警察・司法・刑罰全般を担当していくことになります。

810年、嵯峨天皇と平城上皇の対立から薬子の変が起こります。天皇と上皇の”二所朝廷”という深刻な対立を煽ったのが藤原式家の藤原薬子と兄の仲成だとされます。嵯峨天皇は、いち早く兵を動かし、平城上皇のいる奈良を囲みます。結果、上皇は出家、薬子は服毒自殺しています。ちなみに、事件を平城上皇の変とは呼ばず、薬子の変とするのは天皇家への配慮だと聞きます。平城上皇の寵愛を受けた藤原薬子が、尚侍(ないしのかみ)という天皇と臣下の文書の取次を仕切る官職に就いていたことが混乱を深めた一因でした。嵯峨天皇は、天皇直轄の令外官である蔵人を設け、男性秘書に文書の取次を任せます。検非違使と蔵人の設置は、機能不全に陥っていた律令制の終りを象徴しているとも言えます。この時点では天皇親政が前提だったことにも留意すべきなのでしょう。

検非違使は、律令官と兼務する形で任命されました。下級官吏には、宮中の門番である衛門府の人材が活用されます。つまり、幹部を除き、検非違使は、設立当初から武者で構成されていたわけです。その後、検非違使庁は、刑部省、弾正台といった類似組織を吸収して組織を拡大し、地方にも展開して人員を増やしていきます。検非違使の躍進には、天皇直轄であることだけでなく、その武力も大いに影響しているでしょう。こうして下級官吏に過ぎなかった武者が世に出るルートができあがっていったわけです。王朝時代に至り、いわゆる摂関政治の時代を迎えると、検非違使は絶頂期を迎えます。天皇に直接任命された別当(長官)の宣旨が律令に優先され、庁内の慣例である庁例に基づく運営がなされていきます。来るべき武家政権への歩みが、ここに始まったわけです。

院政期になると、院の警護を担う北面武士が存在感を高め、検非違使にも任命されていきます。なかには源氏も平氏も含まれていました。次第に、院は、検非違使庁を通さずに北面武士に直接指示していきます。結果、検非違使は権限が限定され、司法のみを担当していくことになります。武者は、検非違使という枠組みを必要としないほど存在感を高め、やがて武士となり、武家となっていったわけです。ちなみに、有職故実書「北山抄」を残した藤原公任は、検非違使別当も経験しています。紙が高価だったため、北山抄は検非違使別当時代の用済みの公文書の裏に書かれています。国宝「三条家本北山抄裏文書」は、いわば検非違使の事件簿であり、往時の社会実態をよく伝えます。あらゆる犯罪が報告されていますが、ほとんどの犯罪に武者がからんでいます。検非違使は、武力を武力で征する仕組みです。そのような対応は、往々にして状況をエスカレートさせ、負のスパイラルを生みがちなものです。(写真出典:ja.kyoto.travel)

2026年4月24日金曜日

ファルセット

 R&Bにファルセットは欠かせません。その始まりはよく分かりませんが、広めたのはスモーキー・ロビンソンなのでしょう。ファルセットと言えば、個人的にはスタイリテックスの「誓い(You Make Me Feel Brand New)」、シュープリームスとテンプテーションズの「君に愛されたい(I'm Gonna Make You Love Me)」を思い出します。「誓い」はラッセル・トンプキンスJr.、「君に愛されたい」はエディ・ケンドリックスが見事なファルセットを聞かせます。他にもファルセットの名曲は数多くありますが、若い頃によく聞いたこの2曲には思い入れがあります。「誓い」は、ディスコに通いまくっていた頃の大ヒットですから、とりわけ印象深いものがあります。また、モータウンらしさ満開の「君に愛されたい」は、今でも聞くと幸せな気分になります。

ファルセットはイタリア語ですが、高音域で歌う際に使われる発声技法を指します。一般的には、裏声と理解されています。ただ、裏声も、発声技法的には、ファルセットのみならず、ヘッドヴォイス、ミドルヴォイスなどがあります。オペラなどで使われるのがヘッドヴォイス、R&Bやポップスではファルセットやミドルヴォイスが使われます。ニュー・ソウルのカーティス・メイフィールドの歌い方もファルセットと思われがちですが、マウスレゾナンス(口腔共鳴)を使ったミドルヴォイスです。ミドルヴォイスは、地声と裏声の中間という意味で、声の幅が広く高音から低音への移動がなめらかなので、ポップスで多く使われます。対してファルセットは、喉をリラックスさせ、腹式呼吸で息を多く使うことで、透明感のある声を出しています。

また、ファルセットは、民族音楽でも使われます。スイスのヨーデルは、地声とファルセットを交互に繰り出します。トルクメンの叙事詩もファルセットで歌われるようです。東欧のロマの音楽でも、しばしばファルセットが登場します。最も有名なのはハワイアンかも知れません。地元の言葉で”レオ・キエキエ”と呼ばれるハワイアン・ファルセットは、、男性によって歌われる伝統的な歌唱法です。ハワイでは、毎年、複数のハワイアン・ファルセット・コンテストが開催されているようです。西欧におけるファルセットの歴史は16世紀の教会に始まります。ローマ教皇が、女性が教会で歌うことを禁じたため、高音部を少年たちが歌うことになります。しかし、合唱に際しては、少年たちの声量不足が問題となり、成人男性がファルセットで歌うようになったのだそうです。

高音部を歌う少年たちは、当然、声変わりしていきます。それを避けるために、少年たちを去勢するというとんでもないことまで行われます。去勢された男性歌手は”カストラート”と呼ばれ、ピークを迎えた17~18世紀には4,000人以上が存在していたようです。それほどまでに、男性の高音域での歌は魅力的だとも言えます。18世紀に活躍したカルロ・ブロスキ、通称ファリネッリは、最も有名なカストラートです。声域は3オクターブ半あったとされます。大人気を博したファリネッリは、数回の公演で一国の首相の年俸を超える収入を得ていたとも伝えられます。ベートーヴェンも、才能豊かなボーイ・ソプラノだったので、カストラートにされそうになったようです。19世紀後半に至り、ローマ教皇が、人道的観点からカストラートを禁止しています。

日本のポップス、いわゆるJポップをよく聴くわけではありませんが、いつの頃からか、ファルセットを使う曲が増えたように思います。それも傾向としては、サビの部分で一部だけファルセットにするスタイルが多いと感じます。地声と裏声のスムーズな切替えには、なかなかの技量が求められます。恐らく、優れた歌唱力を持つ歌手たちが始めたトレンドなのでしょう。サビにファルセットを使うことで感情表現の幅を広げることが可能になり、楽曲の印象を際立ったものにできます。しかし、そのスタイルも、ここまで多用され、一般化すると、もはや楽曲の個性ではなく、Jポップの特性のようにも思います。ひょっとすると、西洋音階に乗りにくいとされる日本語の弱点をカヴァーする解決策の一つなのかもしれません。(写真:スタイリテックス「誓い」 出典:ticro.com)

2026年4月22日水曜日

さくらんぼの実る頃

パリ13区はセーヌ川左岸にあります。その中心部イタリア広場の南に、石畳の路地と小さな家が密集する丘があります。大改造前の庶民の街の風情をよく残すビュット・オ・カイユ地区です。ビュットは丘であり、カイユとはその当たり一帯の地主だった人物の名前です。パリ中心部の堂々たる景観とは全く異なりますが、古いパリの暮らしを濃厚に感じさせてくれます。今は、アーティストが多く住むという静かな住宅街になっています。決してメジャーではありませんが、パリの観光名所の一つと聞きます。ビュット・オ・カイユが名所となっているのは、ここがパリ・コミューン最後の砦の一つだったからでもあります。

パリ・コミューンほど、ロマンティックに偶像化された歴史はないのではないでしょうか。1871年3月から5月までの約70日間だけパリに出現した自治政権は、世界史上初の労働者政権とされます。マルクス、バクーニン、エンゲルス、レーニン等が絶賛し、かつパリ・コミューンに学んだとして、階級闘争の強化、暴力革命、プロレタリア独裁を訴え、その後継者たるスターリン、毛沢東らに引き継がれていきました。彼らは、パリ・コミューンを階級闘争の象徴に仕立てあげたわけです。それは、あたかもキリスト教における十字架のようでもあります。その後の左翼ラディカリズムに非現実的な目標感を与え、かつそのロマンティシズムは進歩的とされる若者たちを魅了していきます。しかし、パリ・コミューンは、階級闘争などではありませんでした。

フランス革命時、バスティーユ牢獄を襲った市民たちも、世界初の市民革命を起こしたという認識はなかったはずです。ただ、明らかに民衆が国王を攻撃し、政権を奪取するという革命の始まりでした。パリ・コミューンは、普仏戦争末期、屈辱的終戦か徹底抗戦かを巡る臨時政府とパリの民衆との対立から生まれています。また、民衆は、帝政復活を恐れていたとされます。パリに入城したプロシア軍と武装した民衆との衝突を回避するために、臨時政府は民衆の武装解除に動きます。これが民衆の蜂起につながり、臨時政府はパリを脱出して権力の空白が生まれます。急遽行われた選挙で革命派が勝利し、パリ・コミューンが誕生します。自治政権は、プロシアに対する徹底抗戦、帝政復活阻止で一致しただけの烏合の衆であり、パリは混乱の極致へと落ちていきます。

パリ・コミューン最後の1週間は”血の週間”と呼ばれます。パリに入城した臨時政府軍は、市街戦を展開し、パリを制圧していきます。一部国民衛兵軍を含むとは言え組織化もされていない暴徒と正規軍の戦いの結果は明らかです。コミューン側は1万~1万5千人が戦死、4万人以上が逮捕され、その場で処刑された者も多数に上るとされます。虐殺に近い状況ですが、マルキストたちにとって、パリ・コミューンを十字架に仕立てるためには、この惨劇こそが重要だったのだと思います。フランス国民にとって、パリ・コミューンの鎮圧は、政治的安定をもたらすものとして歓迎されます。一方で、第三共和政を確立させる契機になったという評価もあります。いずれにせよ、パリ・コミューンはフランスの革命の伝統のなかにしっかり位置づけられているように思います。

その証左とも言えるのが、シャンソンを代表する名曲「さくらんぼの実る頃」だと思います。もともとは、パリ・コミューン以前に銅工職人クレマンが作った失恋の歌でした。しかし、血の週間の最中、サクランボのカゴを抱えながらコミューンの負傷者の救護にあたり、自らも命を落としたという看護婦ルイーズを称える歌へと書き換えられます。当時のパリ市民が、パリ・コミューンの犠牲者を悼んでよく歌ったとされています。近年で言えば、ジブリ作品「紅の豚」の挿入歌として加藤登紀子が歌い評判となったようです。実は、1982年にフランス大統領フランソワ・ミッテランが訪日した際、フランス大使館を訪れた昭和天皇が、フランス人歌手とともに、「さくらんぼの実る頃」を歌ったという逸話も残っています。ビュット・オ・カイユは、この曲がよく似合う街だと思いました。(写真出典:theearfultower.com)

2026年4月20日月曜日

孤立言語

定年退職後、日本語学校の教師になった先輩の話を聞きました。日本で日本語を教えるのですから、さほど面倒なこともないだろうと思っていましたが、なかなかに大変そうです。授業は、生徒の母国語や英語を使って行うのではなく、前回までに教えた日本語だけを使って進めるというのです。気の遠くなるような話です。ただ、考えてみれば、語学学校というものは、世界中どこでも同じような教え方をするものなのでしょう。それなりの教育メソッドがあったとしても、教師には緻密で周到な準備が求められることになります。しかも、世界で最も習得困難とされる日本語ですから、実に難儀な話だと思います。

アメリカ国務省は、最も習得が困難な言語として、中国語(北京語と広東語)、日本語、韓国語、アラビア語を挙げています。なかでも日本語を最も習得に時間を要する言語としています。もちろん、アメリカ人にとって、という前提ではありますが、他国でも同じ認識だと思います。中国語は漢字と四声、韓国語はハングルと独特な文法、アラビア語はアラビア文字と語根派生システムといったところが難しさの主な要因とされています。日本語も含め、文字がアルファベットではないことがハードルを高くしているのでしょう。とりわけ漢字は、表意文字ゆえ膨大な数に上ります。諸橋轍次の大漢語辞典には親文字だけで5万字以上が収録されています。さらに同じ漢字でも四声や発音によって意味がまったく異なるというややこしさがあります。

日本語には、漢字の音読み、訓読みがあり、さらに表音文字の仮名、カタカナが加わります。日本語の難しさは、曖昧な表現や分かりにくい文法にもあります。韜晦術は、日本語に限らず、日本文化の根幹だとも言われます。また、文法的には、SOV(主語・目的語・動詞)型ながら柔軟な語順、あるいは主語の省略なども特徴的だと思います。さらに、敬語、謙譲語、丁寧語の使い分けに至っては、若い日本人も十分には対応できていません。それにしても、このように複雑怪奇な日本語は、いかにして生まれたのか、興味がそそられるところです。世界一シンプルな言語とも言われる英語は、古英語を話していたブリテン島に多様な民族が押し寄せてきたことから単純化したと言われています。日本語は、逆の道をたどったように思えます。

簡単に言えば、孤立化ということになります。日本人のルーツに関しては、大陸から来た縄文人、北東アジアから来た弥生人、東アジアから来た古墳人が混血した三重構造説が有力とされます。重要なのは、それ以降、大陸からの征服者も大量移民も現れなかったことです。島国という点ではブリテン島も同じですが、平野が少なく、かつ天変地異の多い日本は魅力に乏しかったのでしょう。もちろん、ブリテン島と日本との違いの背景には、欧州が遊牧民の圧迫を受けたという事情もあります。いずれにしても、古墳時代以降、日本へは大陸から文字や文化は伝わりますが、人的支配が無かったことが、日本語の孤立化を進めたわけです。だとすれば、中国と陸続きで、かつ中国による支配も経験した朝鮮半島の言語が孤立化したことの方が、より不思議に思えてきます。

朝鮮民族のルーツはウラル系だと聞きます。朝鮮半島には、漢民族、ツングース系、あるいは倭人も押し寄せ、それを朝鮮民族が押し返して歴史が進みます。興味深いのは、紀元前1世紀から紀元4世紀頃まで続いた楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡のいわゆる漢四郡の時代です。燕の家臣が逃亡してきて開いた衛氏朝鮮を漢が破り、半島の北西から中部を支配しました。つまり、古代朝鮮は、南部を除き、500年間に渡り漢民族が支配していました。言語の孤立が起こるとは思えません。恐らく、漢民族による支配は点と線に限定されていたのでしょう。中原に起こる漢民族の王朝にとって、朝鮮半島は辺境であり、戦に負けて逃げ込む場所に過ぎなかったわけです。孤立言語が維持された大きな理由はここにあると思います。ただ、朝鮮民族は、自らの強靭さによって独立性を保ってきたと主張しがちではありますが。(写真出典:ja.wikipedia.org)

観艦式