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| 見性院 |
有名な”山内一豊の妻”という話であり、明治期から戦前にかけては、日本の婦女子が目指すべき良妻賢母の手本として女学校の教科書にも載っていました。ただ、京都馬揃えの頃、山内一豊は、既に現在の赤穂市周辺に2000石の領地を拝領しており、困窮していたわけではなかったようです。つまり、このよく知られた美談は、後の世の創作だったわけです。初出は江戸中期、一介の旗本から御側御用人にまで登り詰めた新井白石の著書などとされています。京都馬揃えの際の話というのは事実ではないとしても、そのはるか以前に行われた馬揃えで、似たような出来事があったのではないかという説もあります。いずれにしても、山内一豊の妻は、なかなかの人物で夫をよく助けたことは事実であり、この美談が創作される下地はあったと言えるのでしょう。
一豊の妻に関してお気に入りの話があります。”笠の緒文”です。関ヶ原の戦いの直前、一豊は、家康の会津征伐に従軍しています。留守宅の妻のもとに大阪城から文箱が届き、一豊に届けよ、と使者から言われます。書状は、増田長盛と長束正家が石田三成への加勢を促す内容でした。妻は、大阪の要請があっても家康に忠義を尽くすべきだとする自らの手紙を文箱に加えて一豊に届けます。さらに、妻は、一豊宛に、この文箱を開けずに家康に届けろ、という手紙をこよりにして使者の笠の緒に編み込みます。この笠の緒文を読んだ一豊は、手紙を燃やし、文箱を開封せずに家康に届けます。家康は、三成の開戦意志を知ると共に、一豊の妻の手紙に感動します。直後に行われた関ヶ原の戦いでの貢献もあり、一豊は、土佐一国を与えられることになりました。
妻は浅井家家臣の娘とされますが、戦国を生きた武家の人々の知恵が伝わる話です。ただ、教訓話ではなく、あくまでも処世術に過ぎません。家父長制を徹底したい明治政府としては、”山内一豊の妻”の良妻賢母イメージの方が大事でした。戦後、民主主義における基本的人権、男女平等という観点からして、”山内一豊の妻”の話は批判されることになります。しかし、批判されるべきは、家父長制であり、その徹底を図った明治政府です。作り話とは言え”山内一豊の妻”の話自体に否定すべき要素はないものと思います。戦国の武家は、夫も妻もなく、家族一丸となって生き残りを図るしかなかったはずです。農耕とともに成立した家父長制ですが、江戸期には幕府による社会管理の手法として徹底されます。江戸期の家族の姿は、戦国時代とは異なっていたわけです。
賢母という言葉は普遍的なものだと思いますが、良妻に関しては家父長目線ということになります。今風に言うなら、良妻良夫と並列すべきなのでしょう。妻の話ばかりが目立つ山内一豊ですが、果たして良夫だったのでしょうか。妻と手を取りながら功成り名を遂げたわけですから、良夫というべきなのでしょう。藩主として土佐に乗り込んだ一豊は、長宗我部残党の抵抗・反乱に苦しめられます。一計を案じた一豊は、大きな相撲大会を開き、集まった群衆のなかから長宗我部派を一網打尽にして処刑しています。司馬遼太郎の「功名が辻」においては、このだまし討ちを見た一豊の妻が夫に失望するというストーリーになっています。しかし、処世術に長けた夫と妻は似合いの夫婦だったのではないかと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)




