2026年6月21日日曜日

千葉氏

”千葉城”
JR千葉駅から本千葉駅へ向かうと、左手の丘の上に城郭が見えてきます。初めて見た人は、必ずと言っていいほど、千葉市に城があるとは知らなかった、と言います。実はその通りであって、歴史上、千葉市に天守閣を持つ城郭は存在していませんでした。通称、千葉城と呼ばれている建築物は、1967年に城郭を模してコンクリートで建設された千葉市立郷土博物館です。”千葉城”が建つ丘は亥鼻(いのはな)と呼ばれ、中世には亥鼻城があるにはあったのですが、平山城でした。従来、千葉氏の居城とされてきましたが、現在では発掘や研究が進み、千葉氏の家老だった原氏の平山城だったという説が有力になっているようです。

千葉という地名は、下総の豪族・千葉氏が支配していたことから定着した地名と思われがちです。しかし、千葉という地名は古くから存在し、万葉集にも登場しています。草木が生い茂る豊かな場所という意味だったようです。千葉氏は、桓武平氏の流れを汲む坂東平氏の平常兼が、11世紀中葉、千葉荘を支配して千葉大介を称したのが始まりとされます。坂東平氏は、898年、桓武天皇の孫にあたる平高望が上総介として下向したことに始まります。高望の子孫は、近隣に勢力を拡大していきますが、なかでも高望の側室の子であった良文の子孫は、坂東各地で武士団を形成しました。なかでも、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏の八氏は、坂東八平氏として知られます。うち房総を拠点とした千葉氏と上総氏は房総平氏とも呼ばれます。

1180年、以仁王の令旨に応じて平家追討の兵を挙げた源頼朝は、伊豆の石橋山の戦いで敗れ、海路、安房国へ渡ります。房総の地で再挙した頼朝に加勢したのは房総平氏でした。千葉氏の3代目当主だった千葉常胤(つねたね)も、上総国の上総広常、安房国の安西景益とともに参陣します。平氏が源氏方に参陣することは腑に落ちない面もありますが、房総平氏が、下総国目代の藤原親政の圧政下にあったことが背景と言われます。親政の妻は、平清盛の正室・時子の妹でした。平清盛の勢いは、坂東にまで及んでいたわけです。清盛は伊勢平氏の当主ですが、伊勢平氏は、もとをただせば坂東平氏の傍流です。都で貴族化した伊勢平氏は、他の平氏一門を隷属化させていました。同じ桓武平氏ながら坂東平氏も同様の扱いを受けており、不満を抱いていたのでしょう。

加えて、千葉常胤は、上総氏や周辺の豪族との領土争いが続き、所領を守ることも厳しい状況にあったようです。しかし、頼朝に従った常胤は、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦で戦功を挙げ、有力御家人にまで上ります。頼朝に鎌倉を拠点にすべきと進言したのも常胤だとされています。また、房総平氏の当主となっていた上総広常が、1184年、頼朝に謀殺されたことで、常胤は房総平氏の当主になり、下総の守護にも任命されます。しかし、鎌倉時代中期、一族が三浦氏の乱に加担したために千葉氏は処分を受けます。南北朝時代になると、一族は南北に別れて戦います。室町中期、事実上の戦国時代の始まりとも言われる享徳の乱でも、一族と家臣が関東管領側と鎌倉公方側に別れて戦います。その後も一族の内紛が続き、最終的には、秀吉の小田原成敗によって後北条氏とともに滅ぼされ、一族は離散することになりました。

武家の本質は、領土を武力と一族の団結で維持・拡大することにあると思います。激しく動く歴史の波に翻弄されたこと、そして一族の結束を維持できなかったことが、千葉氏の滅亡につながったのでしょう。千葉氏の興廃の歴史は、まさに武家の歴史の縮図のように思えます。江戸期になると、下総国、上総国、安房国には、佐倉藩を除けば、天領、20を超える小藩、旗本領等がまだら状に分布されることになります。幕府は、江戸への近さゆえ、この地に有力な藩を置くことを避けたのだと言われます。千葉の町は、古くから交通の要所として栄えており、江戸期には千葉妙見宮の門前町としても知られる存在になりました。城はなくても賑わっていたわけです。歴史的背景もないのに、昭和になってから、わざわざコンクリートの城を建てる意味があるのかと言えば、疑問と言わざるを得ません。県民としては、むしろ貧困な発想を恥ずかしいと思っているのではないでしょうか。(写真出典:jaran.net)

2026年6月19日金曜日

ビルケンシュトック

Arizona
ドイツの靴メーカー・ビルケンシュトック社の創業は1774年とされます。教会の公文書に、その年、創業者ヨハン・アダム・ビルケンシュトックがシュー・マイスターとして認められたことが記録されているようです。日本に当てはめれば、安永3年創業ということになります。ビルケンシュトックの代名詞と言えば、フットベッドと呼ばれる内底を持ったサンダルです。フットベッドは、足裏の形状に合わせた立体的な形をしています。創業者の曾孫であるコンラッド・ビルケンシュトックが、19世紀末に原型を開発しました。当時、靴は工業生産されるようになっており、伝統的な靴職人は、靴の修理屋、あるいは特別な靴の製造者へと2分化されます。コンラッドは、医学的な個人向け整形靴の製造を行うようになります。

当時、医学用整形靴は金属の底でしっかり固定することが常識でした。しかし、コンラッドは、正しい歩行をサポートするローリング機能に注目し、足の形状にぴったりの柔軟なインソールという結論に達します。それは治療や補正に留まらず、正しい歩き方を実現する健康靴というべきものでした。研究を重ねた結果、1913年、コルクを混ぜたソールにたどり着き、フットベッドと名付けることになります。当時の広告には、まさに素足がベッドの上にあるイラストが使われています。フットベッド靴は、整形外科の世界で評判を呼び、負傷した帰還兵などに喜ばれたと言います。つまり、フットベッドは、医学の世界で生まれ、医学の世界に留まっていたわけです。それを変えたのは、コンラッドの孫であるカール・ビルケンシュトックでした。

カールは、フットベッドの素材を、コルクと天然ゴム由来のラテックスを混合したものに進化させます。そして、個々人の足に合わせて注文生産されていたフットベッドを、多くの人の足形に基づき標準化された製品へと進化させます。さらに、当時のブルータリズムの影響を受けた大胆なデザインのフットベッド・サンダル” Arizona”を発売します。我々の知るビルケシュトックが誕生したわけです。しかし、当初、医療用にオリジンを持つビルケンシュトックのサンダルは、医療従事者やごくマニアックな人々の興味を引いただけでした。そして、カウンター・カルチャーが世界的広がりを見せると、ヒッピーたちが注目するところとなります。旧体制打破を叫ぶ若者たちにとって、従来のサンダルの概念を覆したArizonaは、まさに象徴的な存在に見えたのでしょう。

個人的には、ビルケンシュトックを世界中に広めたのはスティーブ・ジョブスだったと確信しています。ジョブスは、経営が傾いていたアップル社に戻り、1998年のiMacにはじまり、iPod、iPhone、iPadと立て続けにヒットを飛ばします。同時に、ジョブス本人への注目も高まります。アップルを創業する前、ジョブスは、インド哲学に傾倒し、インドへ放浪の旅を行っています。その際、履いていたのがビルケンシュトックのArizonaであったことが、広く知られることになりました。これがビルケンシュトック・サンダルの転換点になったものと考えます。ちなみに、2022年、ジョブスが履いていたArizonaは、オークションで3,000万円という値が付けられています。また、2010年代、ビルケンシュトックの影響か、有名ブランドもサンダルを扱うようになります。

この10年で、ビルケンシュトックは売上を5倍に伸ばし、2023年には、 ニューヨーク証券取引所に株式を公開しています。商品のヴァリエーションもかなり広がっています。近年、人気が高いボストンというモデルは、サボ(木靴)に似たラインです。パンツ如何では普通の靴を履いているようにしか見えません。ビルケンシュトックのフットベッド・サンダルは、足底の密着感からして、靴とサンダルの中間的な存在だと思います。通常のサンダルのように、つっかけている印象はありません。ボストンは、究極のビルケンシュトックなのかもしれません。ただ、個人的には、あくまでもArizonaにこだわりたいと思います。私は、夏でも冬でも履いています。5年経っても、アッパーは劣化しません。ただ、さすがにソールはすり減ってきますが、店に持ち込めば、簡単にソール交換をしてくれます。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年6月17日水曜日

正統記(しょうとうき)

継体天皇像
日本の歴史は田舎者が創った、と言い切る人がいます。決して、そんなことはありません。ただ、武家の時代になると、鎌倉幕府から明治維新まで、時代を切り開いたのは常に田舎者だったとも言えます。そのフロント・ランナーは、武蔵国で生まれ信濃国で育った木曽義仲ということになります。義仲は、以仁王の平家追討の令旨に応じて兵を起し、次々と平家方を破り都に入ります。平家物語などによれば、義仲は、都で田舎者、乱暴者と蔑まれます。後白河法皇と対立した義仲は、上洛から1年も経たずに従兄弟の頼朝軍に敗れ、近江で命を落とします。後白河と義仲が対立するに至ったきっかけは、天皇家が最も重要、かつセンシティブと考える皇位継承問題に、部外者に過ぎない義仲が介入したことだと思われます。

義仲は、以仁王の第一王子・北陸宮(ほくろくのみや)を奉じて、都へ攻め上ります。安徳天皇に新主践祚の話が出ると、義仲は後白河の孫にあたる北陸宮を強く推薦します。しかし、後白河は、安徳天皇の異母弟である四ノ宮(後鳥羽天皇)を選びます。直系男子継承を正統(しょうとう)とする考えからすれば、高倉天皇の直系男子が選ばれて当然至極ということになります。天皇の正統性という概念を、義仲が不知、あるいは十分に理解していなかったことが、義仲の最も田舎者らしいところだったと言えます。中世になって生まれたとされる正統という概念の分かりやすい例が、後醍醐天皇の側近である公卿・北畠親房の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」ということになります。南北朝時代にあって、南朝の正統性を主張するために書かれた天皇年代記です。

神皇正統記は、単なる歴史書に留まらず、神国思想や政治哲学を説く書でもあり、後代に大きな影響を与えました。神皇正統記では、天皇を第〇代と表記すだけでなく、時に第〇世と併記しています。例えば継体天皇は「第二十七代、第二十世」と記載されています。”代”は天皇の単純な継承順を表し、“世”は男系の父子継承に限って、その世代順を表しています。つまり、第〇世と付く天皇は、父子継承された正統であり、他は傍系としているわけです。”万世一系”とは、天皇が神武以来の一つの血統によって継承されることを表しますが、なかでも、正統とは、男系の父子継承に限定した一直線の系統を指しています。なお、神皇正統記は、正統か否かをもって天皇の評価を変えることはしていません。ちなみに、継体天皇は、通常、第26代とされますが、神皇正統記では神功皇后を15代天皇としているために、以降にズレが生じています。

昨今、国会で皇室典範改正の議論が進んでいます。今回の改正の目的は、減少している皇族数を確保し、皇室の活動を安定的に維持することとされています。改正方向としては、女性皇族が結婚後も皇族の身分を保つ、過去に皇籍を離脱した旧宮家の男系男子を養子にすることを可能とする、という2点で合意しつつあるようです。一方、国民の間には、女性天皇を可能にする議論も行うべきという声も根強くあるようです。男女平等の時代に、愛子内親王を天皇にしないのはけしからんというわけです。皇室典範では、皇位継承者は皇統に属する男系の男子とされているわけですが、背景には万世一系論、さらに正統論があります。しかし、この両論については、理屈も、優劣も、実利もないので、到底、議論が成り立つとは思えません。

天皇が側室を持っていても、正統性は幾度も途切れ、万世一系も危機に瀕したことがあります。6世紀初頭、第25代の武烈天皇が、皇子なく、皇太子も定めずに崩御します。万世一系を守るため、有力豪族たちが奔走します。結果、応神天皇の5世の来孫とされる継体天皇が越前(近江とも)から迎えられます。継体天皇の先祖が、5世に渡り父子一系を続けていたことは奇跡的であり、継体の出自に関しては多くの議論があります。豪族たちは、継体天皇の人柄を聞き及び、会いに出かけます。そして、その大王の品格の前にひれ伏したと言います。天皇になった人を悪く言うわけはありませんが、人選上、血統だけではなく、ふさわしい人物か否かも考慮されていたのでしょう。天皇は、憲法上、日本国の象徴、国民統合の象徴とされています。憲法を重視するならば、継承されることが最重要と考えます。天皇の置かれた状況からして、皇位継承者は皇統に属するふさわしい人物とすべきではないかと思います。(写真出典:fukui-rekimachi.jp)

2026年6月15日月曜日

グアンタナモ

キューバ島東南部のグアンタナモ湾にはアメリカ海軍の基地があります。対立するキューバに、革命以前からの米軍基地が残るという不可思議な話です。グアンタナモ湾は、1903年、アメリカが、当時のキューバ政府から永久租借権を得て、今日に至ります。租借地は、割譲などとは異なり、貸した国に潜在的な主権が残っています。ただ、統治権は借りた側にあります。当然のことながら、キューバ革命後、カストロは返還を求め続けますが、アメリカは応じていません。かつての香港は、香港島が割譲、新界は99年租借という組合せでした。香港は、1997年に中国に返還されました。パナマ運河も、かつてはアメリカの永久租借地でしたが、1999年、パナマに返還されています。

アメリカとキューバが友好関係にあれば、グアンタナモも返還されていたのでしょうが、革命後の対立関係からしてアメリカが手放すことはありません。租借のきっかけは、1898年の米西戦争の際、アメリカ軍がスペイン領だったキューバを制圧したことにあります。米西戦争は、落ち目のスペインに、国内のフロンティアを終え、海外へ目を向け始めたアメリカのエゴが襲いかかった植民地戦争です。フィリピンとキューバが主な戦場となりました。1898年、ハバナ湾でアメリカの戦艦メイン号が爆発します。販売競争を繰り広げるアメリカの新聞が、スペインの仕業だというデマを流し、それがトリガーとなって戦端が切られます。その際の”Remember the Maine”というスローガンは、後に太平洋戦争で”Remember Pearl Harbor”として再び利用されることになります。

その後、アメリカの支援を受けてスペインから独立したキューバ政府が、グアンタナモの永久租借を認めます。アメリカは租借料として毎年金貨2,000枚(約4,000米ドル)を支払いました。キューバ革命後、カストロは一度だけ租借料を受け取りますが、以降は拒否し、グアンタナモ返還を求めます。1962年に勃発したキューバ危機の際、グアンタナモ海軍基地は、最前線として兵員・装備ともに強化されています。1964年には、カストロがグアンタナモへの水の供給を絶つという強行策に打って出ますが、アメリカは海水の淡水化プラントを建設して、これをしのぎます。近年、グアンタナモは、アフガンやイラクでテロへの関与が疑われて拘束された人々の収容キャンプとして注目を集めました。国内法や国際法の制約を受けないグレー・ゾーンの収容所とされています。

租借地における統治のあり方は、租借契約によって異なるようです。グアンタナモの場合、アメリカが完全なる管轄と統治権を確保しているようです。キューバ法の対象外ですが、かといってアメリカの領土ではないのでアメリカ法の対象でもありません。つまり、法律としてはアメリカ海軍の軍法しかないということになります。人権保護の傘から外された中東の収容者たちは、拘束の法的根拠もないまま、拷問を受けることになりました。もし捕虜としての拘束であれば、ジュネーブ条約によって守られますが、アメリカは捕虜ではない、犯罪者であるという立場をとります。犯罪者だとしても、中東で逮捕・拘束し、キューバへ移送・収容する法的根拠などありません。的確な表現をするとすれば、拉致・監禁ということになるのだろうと思います。

グアンタナモ湾収容キャンプは、2002年に開設されています。2001年の同時多発テロを受け、ジョージ・W・ブッシュ大統領はアフガニスタン侵攻を即断します。同時に、大統領は、イラク・イラン・北朝鮮を大量破壊兵器を保有する”悪の枢軸”と批判し、2003年にイラク戦争が始まります。しかし、制圧したイラクに大量破壊兵器は見つかりませんでした。同時多発テロ翌日から、大統領とラムズフェルド国防長官が、イラク攻撃をほのめかしていたことが、後日、判明します。大統領は、国民感情からしてテロの報復を急ぐ必要がありました。十分な情報がないなかで、石油利権を含む歴史的経緯からイラクが生け贄として選ばれたとしか思えません。大統領には、情報を得るために拷問を行う場所が必要だったわけです。当然、収容所は、国内外内から批判され、民主党のオバマ、バイデン両大統領は収容所閉鎖を指示します。ところが、共和党の強い反対によって実現されていません。(写真出典:nbcnews.com)

2026年6月13日土曜日

中学生の頃、人生で一度だけ水害を経験しました。川の水が堤防を越えそうだというので、家財道具を二階へ運び上げました。残るは畳だけとなったのですが、重くて難儀しているところへ水が来ました。その重い畳が水圧で浮き上がります。水は恐ろしいと思ったものです。水害の後、一階の畳は全て廃棄して新調しました。その際、畳床の芯材に稲わらを使う伝統的な畳はあきらめて、当時、登場したばかりのスタイロフォームを芯材に使った畳を選択しました。とても軽くて、これなら水が出ても、すぐ2階に上げられると思いました。ただ、それ以降、一度も水害はありませんでした。 

畳は、日本独自の文化です。ゴザや筵の類いは、中国や韓国にもありますが、畳は日本にしかありません。畳は、畳床、畳表、畳縁で構成されます。畳床は、伝統的に稲わらを圧縮して芯材とします。稲わら床は、吸湿性、放湿性に優れているとされます。ただ、重いのが難点ともいえます。近年登場したスタイロフォームを芯材とする畳床は、軽さや断熱性で優れますが、吸放湿性が弱いとされます。木材チップを主原料とする芯材もありますが、化学素材の芯材に比べ、重くなります。ただ、断熱性や吸放湿性には優れているようです。以上を組み合わせるタイプもあるようです。畳床の寿命は10~20年と言われますが、メンテナンスが良ければ40~50年もつこともあるようです。もちろん、畳表は、適宜、張り替える必要があります。

畳表は、縦糸に綿糸や麻糸を用い、稲わらよりも細いイ草を織り込んで作ります。他に和紙や化学繊維で作る畳表もあるようです。畳表だけをゴザとして使うこともあります。畳縁(たたみべり)は、畳の長辺に縫い付ける細い布です。畳の角の補強や隙間を埋めるために縫い付けられます。畳は、統一された規格という合理性、あるいは組み合わせて使う自在性も特徴的だと思います。畳のサイズは、京間、江戸間、琉球畳など数種類ありますが、規格が統一されていることで日本建築のサイズの基準にもなっているわけです。これが千年以上前から存在するのですから、誇るべき日本文化の一つだと思います。ただ、その歴史は判然としません。少なくとも、現在のものに近い最古の畳は正倉院の「御床畳」とされます。

当時は、天皇や貴族が寝具として使っていたようです。”畳む”という文字からしても、寝る際に敷いていた筵から進化したものと想像できます。寝具や座具として使っていた畳が、部屋全体に敷かれるようになったのは、室町期に発展した武家の書院造からだとされます。座敷という言葉もここで生まれるわけです。書院は、書斎兼居間を指しますが、来客の多かった武家では、接客、儀式の場へと変化し。家の中心になっていったようです。来客の人数も多ければ、いちいち座具として畳を敷くのも面倒で全体に畳を敷き詰める座敷へと変化したのでしょう。畳のサイズは、寝具・座具の名残だと思われます。ただ、武家では戦に際し、甲冑を身に纏って土足で家の中を行き来することもありました。その際、簡単に片付けられる畳のサイズは便利だった面もあるのでしょう。また、メンテナンスという面からみても、畳のサイズは合理性があるように思います。

畳自体の自在性もさることながら、座敷の多様性も見事なものです。一つの座敷が、書斎、客間、ダイニング、寝室に対応できるわけですから、実に効率的です。これも畳が生んだ文化なのでしょう。西洋式に、ソファ、ダイニング・テーブル、ベッドを置けば、その部屋の用途は限定されます。現代の日本は、なんて効率の悪い間取りを選択したのだろうとさえ思います。余談ですが、たまに行く温泉宿では、畳の部屋で食事をし、布団を敷いて眠ります。椅子の生活が長くなったこと、そして老化とともに足腰が弱っていることもあり、畳から立ち上がることがしんどくなりました。知らず知らずのうちに、温泉宿でもベッドの部屋を選択している今日この頃です。(写真出典:tatamiweb.com)

2026年6月11日木曜日

シェトランド

スコットランドのシェトランド諸島は、イギリスの最北端、北緯60度に位置する亜寒帯の島々です。総面積は沖縄本島よりやや大きい程度です。その名前は、シェトランド・セーターやフェア・アイル・セーターでよく知られています。シェトランド・セーターは、ざっくりとした風合が特徴です。フェア・アイルは、色とりどりな幾何学模様が特徴です。人口2万3千人に対して羊は29万頭。羊だらけの島だと言えます。もちろん、漁業の島でもありますし、1978年以降は石油の島でもあります。また、アン・クリーヴスのジミー・ペレス警部シリーズを原作とするドラマ「シェトランド」の舞台でもあります。

小説は2006年から9作、ドラマは2013年から10シーズンがリリースされています。刑事小説の魅力の半分は舞台設定にあります。極北の島、風が強く曇りがちな島、樹木がほとんどない島、しかも島の人間は皆知り合いというシェトランドは、刑事小説にとって魅力あふれる舞台です。また、刑事物ではお決まりの刑事本人の複雑な家庭もしっかり組み込まれています。ドラマとしては、英国伝統のフーダニット系謎解きミステリーに、ノルディック・ノワールのテイストも加えられていることが特徴なのでしょう。シーズン1~2は、アン・クリーヴスの原作に基づく1ストーリー2話構成でしたが、シーズン3以降は、オリジナル脚本で1シーズン1ストーリー6話構成になります。このじっくりとドラマを展開させるスタイルがシェトランドの独特な世界を形作っています。

シーズン7までは、ダグラス・ヘンシャルがジミー・ペレスを演じていました。その寡黙で内省的な個性がシェトランドというドラマを性格づけていました。ところが、シーズン8からは、主要な脇役はそのままに、ヘンシャルは降板し、代わってアシュリー・ジェンセンが主役になります。なんとも大胆な交替です。高い人気があるからこそ、できた主役交代であり、以降もシリーズは継続され、シーズン11まで予定されています。ヘンシャルの最後の出演となったシーズン7は、明らかにシリーズの終わりとして制作されているように思います。シーズン6で最高視聴率をヒットし、以降、多少低下したとは言え、高い数字を稼いでいたシリーズを、継続するか否か、継続するとすればいかに、といった議論が製作陣のなかでなされたのでしょう。

シーズン8から変わったことは、主演だけではありません。ジェンセン演じるルース・コールダー警部補は、ロンドン警視庁から派遣されますが、もともと島の出身であり、なにやら複雑な過去も背負っています。シェトランドの魅力の一つであるテーマ曲も、フォークロア感を抑えた曲調になっています。シェトランドは、荒涼とした風景を美しく映像化している点も魅力の一つです。シーズン7までの映像は曇天で暗めで寂寥感を漂わせていましたが、シーズン8からは、日差しが多くやや明るい色調に変わっています。登場人物たちは、相変わらず一癖も二癖もありそうな人々ですが、ローカル感が薄れ、いかにも役者がエッジを効かせたキャラクターを演じているという印象です。つまり、ドラマの本質を構成していたシェトランド諸島のリアルな暗さが薄れ、ドラマは一層プロット重視に変わり、島は単なる舞台へと変化したように思います。

同じアン・クリーヴス原作の人気刑事ドラマに「ヴェラ」があります。2011年から14年間、14シーズンが放送されました。スコットランド北部を舞台に、肥えて偏屈で優秀なおばさん刑事ヴェラが活躍するシリーズです。ヴェラもシェトランドも、ミステリー・チャンネルの看板ドラマです。ミステリー・チャンネルは、一挙放送スタイルを採っています。つまり、シェトランドの1シーズン約6時間が連続して放送されるわけです。録画して観ることを前提としたスタイルなのでしょう。私は録画機を持っていません。必要を感じないからです。見逃した番組に関しては、NHK ONEやNHKオンデマンドがあれば十分です。そういう人に一挙放送スタイルは不都合極まりないものです。結局、Amazonで有料で視聴することになります。シェトランドは、お金を払ってでも観る価値がありました。ただし、シーズン7までですけど。(写真出典:filmarks.com)

2026年6月9日火曜日

「木挽町のあだ討ち」

 監督:源 孝志  原作:永井紗耶子  2026年日本

☆☆☆ー

永井紗耶子の同名原作は、2019年から小説新潮に連載され、2023年に単行本が出版されています。その年の直木賞、山本周五郎賞を受賞し、各種ミステリー・ランキングでトップ10入りしたベストセラーです。江戸末期の仇討ちを巡る物語が、芝居小屋を舞台に展開するというミステリーです。2025年には、松本幸四郎・市川染五郎親子によって歌舞伎化されています。芝居小屋が舞台ですから、相性が良かったのでしょう。そして、今年、NHK「京都人の秘やかな愉しみ」の源孝志の監督・脚本で映画化されました。”京都人”で源孝志のセンスの良さに惚れ込んでいたので楽しみにしておりました。ただ、パリに行っている間に公開され、終了していました。今般、ようやくAmazon Primeで観ることができました。

レベル以上の娯楽映画だとは思いますが、映画的な広がりや深さには欠けるところがあります。原作は、ミステリー仕立てながら、登場人物たちがもっと深掘りされているようです。恐らく、仇討ちを通して武家社会の硬直性、あるいは芝居小屋の世界を通して江戸の社会の矛盾が表現され、作品に深みを与えているのでしょう。映画は、プロットを追うことに注力したきらいがあり、やや趣きに欠けるところがあります。源孝志のそつのない演出はなかなかのものだと思いますし、センスの良さも感じさます。ただ、プロットに追われたせいなのかも知れませんが、やはりTVの人だな、と思ってしまいます。その最大の理由は、思想性の薄さなのでしょう。管理社会に対する批判はあるのですが、通り一遍で表面的なところがあり、登場人物の陰影も薄くなっています。

仇討ちは、制度化されていました。家や一族の結束、そして武力が武家の本質だと思います。仇討ちは、幕府が主導する管理社会と武家の本来的特性とのギリギリの妥協点なのだと思います。妥協ですから、そこには矛盾も生じます。江戸期であっても、殺人は幕府か藩が処罰することになっていました。殺人犯が逃亡した場合、直系卑属にその処罰を委託する形で仇討ちが許されました。ただし、仇討ちは公的に承認・管理された場合に限ります。仇討ちを認められた者は、敵を討ち取るまで国に戻ることも、家督相続することも許されませんでした。なかには数十年を要する例もあったようです。また、仇討ちされる側にも正当防衛が認められ、返り討ちは無罪とされました。制度としての仇討ちは、1873年(明治6年)になって、ようやく禁止されています。

映画の舞台となった木挽町の森田座は、実在した芝居小屋です。中村座、市村座と並び、幕府に公認された江戸三座の一つでした。歌舞伎座などでよく見かける黒・柿色・萌葱色の三色の幕、いわゆる定式幕は、森田座の幕から始まっています。また、劇中に登場する立作者・篠田金治も、実在する武家出身の狂言作者ですが、その名を借りているだけです。木挽町は、江戸期、現在の歌舞伎座あたりに存在した地名です。とは言え、ストーリーは、まったくのフィクションです。悪所と呼ばれた芝居小屋、身分制度の外で河原乞食と呼ばれた歌舞伎役者、いずれも管理社会の外側の存在です。本作は、管理社会の外にはじき出された者たちが、管理社会に一泡吹かせるという構図を持っているわけですが、残念ながら、そこの掘り下げが浅くなっています。

娯楽作品としては、まずまずの出来だとは思うのですが、興行的には振るわなかったようです。印象的には、東映のマーケティングに限界があったように思います。これが東映の現状と言えるのかもしれません。東映は、五社の一角を占め、任侠映画、実録ヤクザ等々、TVと一線を画すアウトロー路線で1970年代までは興業成績トップを続けました。高度成長のひずみ、カウンター・カルチャー等を背景に大衆を惹きつけていたわけですが、1980年代以降は低迷します。健全娯楽路線をとることで東映の後塵を拝してきた東宝が、今や一人勝ち状態になっています。本作を、アウトロー路線全盛の頃の東映が撮れば、随分とエッジの効いた作品になったのではないか、などと夢想しながら観ました。(写真出典:eiga.com)

千葉氏