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| 藤原良房 |
数年前、正倉院展で養老5年(721年)に作成されたという下総国の戸籍台帳を見たことがあります。現在の松戸市あたりの戸籍であり、興味深く見ました。戸別に家族の氏名などが細かく記載されています。台帳は、6年毎に更新されていたようです。いかに人口が少なかった時代とは言え、更新には大変な苦労があったものと思います。公地公民を理念とする律令制は、制度と実態との乖離が拡大して崩壊に至ったと言えます。税を逃れるための農民の逃亡、人口増加と口分田の不足、墾田永年私財法による私有地の拡大といった税基盤の揺ぎが主な要因となりました。綻びを修正する試みも行われますが、最終的に、朝廷は中央集権をあきらめ、請負型の分権制へと移行していきます。ここが、天皇と為政者という日本的二重構造の始まりになったものと思います。
858年、文徳天皇の急死に伴い8歳の清和天皇が即位します。史上初めての幼帝であり、外祖父の藤原良房が、皇族以外では初めてとなる摂政の座につきます。そもそも病弱だった文徳天皇は、ほとんど政務をとっておらず、伯父の良房が権勢を振っていたようです。清和天皇が東宮となったのも良房の圧力によるものでした。幼帝、天皇の外戚という藤原北家による摂関政治のスタイルが、ここに生まれたわけです。摂政は天皇の代行、関白は成人した天皇の補佐職となりますが、いずれも律令に定めのない役職です。藤原北家は、摂政・関白を独占して権勢を振います。その勢いに衰えの見えた1068年に至り、藤原北家を外戚に持たない後三条天皇が即位します。以降、摂政・関白は置かれたとしても、天皇家は藤原北家の勢力を抑えていきます。
後三条天皇の第一皇子だった白河天皇は、その流れのなかで親政を目指し、その後、子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、曾孫の崇徳天皇と3代にわたり院政をしきました。それ以前にも太上天皇、上皇は存在したものの、院政に関しては白河上皇が始まりとされます。白河上皇が天皇位を継続すれば良かったようなものですが、実子や孫を幼くして即位させ、藤原北家が外戚になることを防いだのでしょう。形式上の院政は、19世紀初頭の光格上皇まで続きますが、実態としては、室町幕府によって形骸化され、終っています。院は、摂関家に対抗するために、積極的に武士を近臣として登用していきます。これが武家の台頭につながり、結果、院政は武家政権によって倒されたと言えるのでしょう。いわゆる飼い犬に手を噛まれた状態だったわけです。
ヤマト王権は部族連合のリーダーでした。唐の脅威に怯えた朝廷は、律令制によって中央集権化を図るわけですが、部族連合という国の本質は変わらなかったのでしょう。藤原北家は、いっそ天皇家に取って替わることもできたはずです。しかし、部族社会にあって、政権交代の正統性を証明、保証することは難しく、内戦に突入することは必至だったと言えます。よって、賢い藤原北家は、天皇の権威を利用しつつ、実権を握ることにしたのでしょう。以来、鎌倉幕府から敗戦まで続く武家政権も、さらに言えば、マッカーサーも藤原北家の知恵を活用してきました。天皇と為政者という二重構造は、日本を決定的な内戦や分断から遠ざけつつ、時代の変化を取り込むことに成功してきたとも言えそうです。王朝国家は、名称とは裏腹に、天皇が実権を失い、その後の日本の二重構造が決定づけられた時代だったわけです。(写真出典:ja.wikipedia.org)






