監督:ヨアキム・トリアー 2025年ノルウェー・フランス・デンマーク・ドイツ・スウェーデン・イギリス
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深いテーマを、スタイリッシュに、繊細に、かつ鮮やかに描き出すヨアキム・トリアーのセンスが見事に発揮されています。前作「わたしは最悪。」以上に複雑で繊細なプロットが、完成度高く表現されています。トリアー監督は、映画表現の新しい次元を提示したとも言えそうです。家を出た自己中心的な映画監督の父親、舞台俳優として成功するも行き詰まりを抱える長女、我慢することを強いられてきた次女が紡ぐ家族の物語がメイン・プロットです。しかし、単に父と娘の不協和音と理解を描いているわけではなく、複雑なプロットが織り込まれています。芸術論という面もありますが、最深部に織り込まれているのはノルウェーという国の歴史に刻まれた悲しさ、そして希望の物語のように思えました。家を出たアル中の父と、それを許せない娘たちという構図はシンプルなものです。ただ、自殺した祖母の存在とアメリカ人女優の登場が、プロットに深さと広さを与え、物語は陰影深いものになっていきます。祖母は、反ナチの闘士であり、捕まって拷問を受けています。彼女が記録したナチの拷問の詳細は公文書館に所蔵されています。そして解放から15年、祖母は7歳の子供を残して自殺します。その子が映画監督の父であり、娘たちと同様、親が不在という環境で育ちます。父は、長女のためにシナリオを書いて持参します。それは、自分の母の物語であり、母を理解し、許すために書いたものです。父は知らなかったものの、俳優の長女は自殺未遂の経験があります。父は、祖母と長女が重なり合うことに気付いていたわけです。自殺は、血の成せる技でした。
感受性豊かなアメリカ人女優は、本読みが進むと、この役は長女以外に演じられる俳優がいないことに気付き、降板します。家族も、外部からの目線が入ることで、自らの血の濃さに気付かされていきます。また、次女も公文書館で祖母の記録を目にすることで、父のシナリオが持つ意味に気付きます。また、芸術も重要な伏線になっているように思います。父は高名な映画監督、長女は名の知れた女優です。しかし、父は、15年間、映画を撮っていません。長女は舞台恐怖症に陥っています。つまり、二人は、現実から逃避するように創作の世界に入りますが、そこに答はありませんでした。二人が逃げた現実とは、自分自身であり、自分の生い立ちであり、自分を形作る血だったわけです。結局、二人は、現実と向き合わざるを得ないことになります。
映画のナレーションを務めるのは、3代に渡る家族の歴史を見守ってきた彼らの家です。家は、ノルウェーという国を、家族はノルウェーの人々を象徴しているのでしょう。そこには、北欧の風土病とも言える鬱病やアルコール中毒があり、妹の耐える姿にはルター派の信仰が反映されているように思えます。かつてノルウェーを支配したデンマークやナチスもモティーフとして登場します。これは、もうノルウェーという国を語っているとしか思えません。映画のラストシーンは、モダンに改装された彼らの家のセットが作られ、映画が撮影されています。モダンさは現代ノルウェーの成功を象徴し、セットであることがその危うさを表現しているように思えます。いずれにしても、家族の葛藤を描いた映画は、決してそれだけの映画ではなかったということです。
本作は、高い評価を受けており、カンヌで記録的スタンディング・オーベーションとともにグランプリを、アカデミー賞では8部門にノミネートされ国際長編映画賞を獲得しています。ヨアキム・トリアーの独特なタッチ、きめ細やかさ、スタイリッシュさは、繊細なタッチのピアノ曲、あるいは軽やかで鮮やかな水彩画を思わせます。音楽の使い方も見事だと思います。トリアー監督の前作「わたしは最悪。」でも主演を務め、カンヌで主演女優賞を獲得したレナーテ・レインスヴェが、再び主演しています。その豊かな表情と表現力には驚かされます。驚いたと言えばエル・ファニングです。ダコタの妹で、子役時代からの長いキャリアを持ちますが、いい味を出していました。今後が楽しみだと思います。(写真出典:bunkamura.co.jp)






