2026年3月27日金曜日

庚申信仰

帝釈天参道
映画の文法のようなものを、おぼろげながら理解できたきっかけは、フランソワ・トリフォーの「男と女」、そして山田洋次の「男はつらいよ」シリーズだったと思います。「男と女」はビデオの無い時代に30回程度見ました。「男はつらいよ」は、全50作のうち、20作くらいは見ていると思います。”読書百回、その意、おのずと現る”というわけで、同じ、ないしは同じような映画を何度も見ていると、その製作手法が見えてくるものです。「男はつらいよ」は、はじめ渥美清のおかしさに笑い、次にその上手さにうなり、最後は山田洋次の巧みさに魅せられた、といったところです。舞台となった葛飾柴又は、いまだに観光客が訪れる名所ですが、何一つ変わっていません。帝釈天も何も変わっていません。

柴又帝釈天の正式名称は経栄山題経寺であり、1629年に創建された日蓮宗の寺です。中山法華経寺19世の開山とされています。本尊は、本堂に安置される大曼荼羅であり、帝釈天ではありません。柴又帝釈天の通称で知られるようになったのは、江戸中期のことだとされます。寺の修復を行ったところ、住職が、行方不明になっていた日蓮直筆の板本尊(いたほんぞん)を発見します。板本尊は木板にお題目や仏の名を刻んだものですが、発見された板本尊には、お題目と法華経薬王品の一節が記され、片面には帝釈天が描かれていました。発見直後に発生した天明の飢饉の際、住職が板本尊を背負って江戸市中と下総国を回ると、飢えや病気で苦しむ人々に不思議な御利益があったとされます。以来、柴又帝釈天は参拝客で賑わい、門前町も形成されました。

板本尊は、今も帝釈堂に安置されています。また、板本尊が発見されたのが庚申の日だったことから、柴又帝釈天の縁日は庚申の日とされ、板本尊も開帳されます。庚申信仰の原型は、平安期に中国から伝わった道教由来の行事でした。庚申の夜、眠っている人間から三尸(さんし)の虫が抜け出し、天帝に悪行を告げて寿命を縮めるとされ、それを防ぐために庚申の日前夜は眠らずに過ごすという行事です。平安の貴族たちは「庚申御遊」と称して、宴を開いて夜を過ごしたようです。武家政権の時代になると、それが侍の間にも、守庚申、後に庚申侍として広まっていきます。15世紀後半になると、会食主体だった行事に仏教要素が入り、勤行しながら夜を過ごすことになります。さらに在来信仰と結びつき、幅広い御利益のある民間信仰になっていきます。

庚申信仰の最盛期は江戸期であり、庚申の日前夜から眠らずに祈りを捧げる「庚申待ち」、「宵庚申」が盛んに行われるようになります。年に6回ある庚申の日の前夜ともなれば、柴又は提灯の火であふれたようです。どこか百日参りやお百度参りに通じるところがあるように思います。つまり、自らの身体に負荷をかけることによって、神仏に思いの強さを伝え、願いを成就してもらうという発想です。道教由来のイベントとは大きくかけ離れ、豊作、招福、厄除け、家族和合、良縁、病除け、諸芸上達までと幅広い御利益があるとされていたようです。藁にもすがる思いの民衆の願いが生んだ民間信仰なのでしょう。日本三大庚申とされるのは、京都の八坂庚申堂(金剛寺)」、大阪の「四天王寺庚申堂」、東京の「入谷庚申堂(喜宝院)」です。

現在、入谷庚申堂は、喜宝院から小野照崎神社に移されています。小野照崎神社は、渥美清が願掛けをして「男はつらいよ」の主演を射止めた神社としても知られています。「男はつらいよ」で寅さんが首から下げているお守りは、帝釈天のものではなく、小野照崎神社のものだったという話もあります。余談ですが、寅さんのマドンナは分不相応なお嬢様タイプで、寅さんが独り相撲を取って失恋するのがお決まりでした。マドンナとして異質だったのは、浅丘ルリ子演じるドサ回りのキャバレー歌手リリーです。リリー三部作と言われる“寅次郎忘れな草”、”寅次郎相合い傘”、”寅次郎ハイビスカスの花”は、相思相愛の寅さんとリリーが結ばれそうで結ばれないという切ないストーリーでした。忘れられた人々を描いた傑作だったと思います。どこか庚申信仰にすがった大衆の姿に通じるところがあるようにも思えます。(写真出典:katsushika-kanko.com)

2026年3月25日水曜日

マケドニア

マチェドニア
広尾の”LA BISBOCCIA”は、東京で一番好きなイタリア料理店です。ワゴンで運ばれてくる食材の中から、肉、魚、パスタ等を選び、料理法を決めます。店の中央にある炭火のグリルが自慢で、2017年から輸入解禁となったキアニーナ牛のビステッカ・アラ・フィオレンティーナも出してくれます。デザートもワゴンの中から選び、どんな組合せも対応してくれます。私のお気に入りは、ケーキ類にマチェドニアを散らしてもらうことです。マチェドニアは、様々なフルーツを小さくカットし、レモンやリキュールで風味付けしたデザートです。フルーツ・ポンチと言ってもいいのでしょう。ケーキ類の甘さとの相性がとても良いと思っています。マチェドニアは、イタリア語でマケドニアを意味します。 

マケドニアのあるバルカン半島は、ドナウ川、アドリア海、イオニア海、エーゲ海、そして黒海に囲まれています。ヨーロッパとアジアの交差点に位置することから、古代から文明・文化が発展するとともに、民族間の争いが絶えない地域でもあります。バルカン半島は、日本人にとって非常に分かりにくい地域だと言えます。ギリシャとブルガリアで約半分を占めていますが、歴史的に多くの民族や多くの国が複雑に入り乱れ、現在でもおおよそ12の国が存在しています。まさに色とりどりなマチェドニアそのものです。そのなかにあって、マケドニア地方、あるいは国家としての北マケドニアは、ごく一部に過ぎません。マチェドニアは、バルカンと呼ぶべきなのかも知れませんが、その名称は、かつてバルカン半島を征した古代マケドニア王国に由来しています。

マケドニア王国は、紀元前9世紀頃、バルカン半島中部にギリシャ人が建国しています。言葉や神は同じでも、都市国家を形成した古代ギリシャとは大いに異なる社会・文化を持っており、マケドニアは異民族として扱われていたようです。紀元前4世紀になると、テーバイで人質として過ごした経験を持つピリッポス2世が王になります。彼は、政治や軍政を改革し、中央集権化をはかります。そして、カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破り、スパルタを除く全ギリシャをコリントス同盟として統一します。中央集権化されたマケドニアと都市国家の寄せ集めでは勝負になりません。ギリシャの都市国家は、西洋文明の源と言われるほど、多くの文化を生んでいます。文明を起こすほどに賢い人々は、なぜ都市国家の限界に気付かなかったのでしょうか。

古代ギリシャの高度な文明と都市国家間の争いは、あくまでも小さなコップのなかで完結しており、高度な文明はエリート意識や差別主義を助長し、彼らの視野を狭めていたのでしょう。その背景にあるのは奴隷に依存した生産体制だったと言えます。奴隷制が、文明を高度化させるとともに、成長の限界も作っていたわけです。農耕が生み出した社会が中央集権化されることは必然とも言えます。古代ギリシャが生み出した直接民主制は、理想的ではありますが、歴史に逆行していたということになります。マケドニアのピリッポス2世は、ギリシャ文明の果実を巧みに用いて中央集権化を実現した人なのでしょう。ギリシャの都市国家がマケドニアに敗れ、最終的には古代ローマに滅ぼされたことは歴史的必然だったとも言えそうです。

コリントス同盟は、アケメネス朝ペルシャへの遠征を決議し、マケドニアに軍を集結させます。その最中、ピリッポス2世は暗殺されます。その意志を継いだのが息子であるアレキサンダー3世、つまりアレキサンダー大王ということになります。革新的な父やアリストテレスという教師のもとで育ったアレキサンダーが世界征服を成し得たのは、その傑出した才能がゆえだけではなく、農耕が生み出した歴史的必然がスパークしたからだったとも言えます。アレキサンダーが、蜂に刺されて死んだのが32歳の時でした。以降、後継者争いが激化して、マケドニアは分断されます。ローマの属州となり、以降もビザンツ帝国やオスマン・トルコの支配の下にあったことから、マケドニアは実に多様な民族が暮らす場所となります。まさにマチェドニアのようになったわけです。(写真出典:sbfoods.co.jp)

2026年3月2日月曜日

日本国王良懐

”日本国王良懐”とは、14世紀後半、明が”冊封国”である日本の国王とした懐良親王のことです。懐良(かねよし)が、なぜ良懐になったのか、誠に不思議です。しきたり等に基づく意図的なものなのか、単なる間違いなのか、よく分かりません。冊封とは、中国の王朝が、周辺国家に称号や印章を与えることで、形式的な主従関係を築くという中国伝統の外交手法です。被冊封国は、毎年、朝貢を行う事でその関係を維持しました。日本の場合、古くは漢が奴国を、魏が邪馬台国を、宋が五王時代の倭を冊封しています。しかし、6世紀以降、冊封関係は消滅し、日本は中国と、名目上、対等の関係を保つことになります。

明は、1368年、朱元璋が元朝を北に追いやって建国されています。当時、中国沿岸部は、主に九州、対馬、壱岐から出撃してくる倭寇の襲来に悩まされていました。倭寇が勢いを増した背景には、南北朝の混乱、室町幕府の衰退があるとされています。1369年、太宰府を占拠していた懐良親王のもとに、国書を携えた明の使者が来訪します。国書は、日本国王が倭寇を取り締まらなければ、明は軍を派遣して倭寇を成敗し、国王を捕えるという内容でした。この脅しに、懐良親王は激怒し、使節団17名のうち5名を殺害し、2名を3か月勾留します。翌年、明は、さらに高圧的な国書を持った使節を送り込みます。明側の記録に依れば、懐良親王は態度を一変し、倭寇が捕虜にしていた70余名と貢ぎ物を明に捧げることで、日本国王として冊封を受けます。

懐良親王が冊封を受け入れた理由は、明を恐れたからではなく、日明貿易がもたらす富が魅力的だったからなのでしょう。飛ぶ鳥を落とす勢いで九州を制圧していった南朝の懐良親王でしたが、ほどなく北朝側の攻勢を受けて太宰府を追われています。しかし、事情を把握していない明は、依然として懐良親王を日本国王と認識し、他との貿易を認めませんでした。薩摩の島津氏はじめ日明貿易を行おうとする者は、やむなく懐良親王の名をかたるしかありませんでした。室町幕府の将軍・足利義満ですら、明からすれば、日本国王良懐と争う敵方の臣下と見なされ、日明貿易の開始までには苦労を強いられたようです。なんとも律儀な話ですが、明としては、冊封体制を維持するためには、当然の対応だったわけです。なお、後に足利義満は日本国王として冊封されています。

一時とは言え、明から日本国王とされた懐良親王は、後醍醐天皇の皇子でした。後醍醐天皇は、鎌倉幕府を破り天皇親政を回復します。建武の新政です。しかし、足利尊氏に敗れて、逃れた先の吉野で南朝政権を建てます。後醍醐天皇は、皇子たちを全国に派遣し、地方からの巻き返しを図ります。まだ幼かった懐良親王も、征西大将軍に任じられ、九州に向かいます。徐々に豪族たちを味方に付けた懐良親王は、北朝勢との戦いを展開し、ついに九州の最重要拠点とも言える太宰府を制圧するに至ります。しかし、それも長くは続かず、足利義満が送り込んだ九州探題・今川了俊によって追い詰められていきます。最終的には、現在の八女あたりで、病のために没したとされます。都から遠く離れた九州で、幼時から戦いの人生を送った凄まじい皇子でした。

懐良親王が始めたとも言える日明貿易ですが、その後、150年以上に渡って継続されることになります。その莫大な利益は、当初は室町幕府が独占し、幕府の勢力が弱まると、細川氏と堺商人、大内氏と博多商人などが手にすることになります。日本からは銅などの鉱物資源、明からは、江戸初期まで流通した硬貨”永楽通宝”、生糸、織物、陶磁器、書物などが輸入され、経済、文化に大きな影響を与えました。日本の伝統文化の中核を成すことになる東山文化、北山文化も、日明貿易なくして成立しなかったと言えます。幕府が管理する勘合貿易だった日明貿易は、16世紀中頃、大内氏の滅亡、倭寇の活発化を受けた明の海禁政策強化等によって下火になります。また、民間の貿易量が幕府の勘合貿易を上回るようになったことから、新たな貿易管理が求められ、朱印船貿易へとつながっていきます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年2月28日土曜日

フラタニティ

コメディ映画は、各国の社会環境、慣習、規範、あるいは宗教の違いなどから、笑いのツボが微妙に異なり、心底笑えないものも多いと思っています。「ブルース・ブラザース」(1980)の大ヒットで知られるジョン・ランディス監督が、1978年に撮った大ヒット・コメディ「アニマル・ハウス」の笑いもしんどい面がありました。ハバード大のユーモア雑誌を起源とするナショナル・ランプーン誌の映画展開第一弾でした。知的で過激と言われる笑いのスタイルですが、アメリカのゲロゲロに甘いだけの安ケーキを思わせるところがあって、やや苦手でした。ただ、不思議なことに、いつまでも記憶に残る映画でもありました。アニマル・ハウスは、アメリカの大学伝統のフラタニティを舞台となっています。

フラタニティやソロリティは、社交クラブ、友愛クラブ等と訳されます。ロータリー・クラブ、ライオンズ・クラブ等も含まれますが、アメリカでは、ほぼ大学の社交クラブを指します。社交クラブとしては、日本の大学にもサークルなどがあります。ただ、アメリカのフラタニティは、まったく異次元の存在です。歴史の長さ、排他性、結束力、学内の邸宅風の寮、卒業後の強い絆といった独特の文化を築いています。伝統的には、男子学生を対象としたいわゆるボーイズ・クラブですが、女子学生、黒人学生のための組織もあります。全学生が参加しているわけではありません。フラタニティの数が全米最大というイリノイ大では参加学生が2割に達すると聞きますが、通常は、ごく限られた参加者数に留まります。いわば選ばれた者のための組織というわけです。

一般的なフラタニティは、政治、宗教、あるいはビジネス等を目的として、古くから、世界中で結成されてきました。時には秘密結社的でもあり、フリー・メイソンもその一つです。アメリカの大学におけるフラタニティの形態もフリー・メイソンの影響を受けているようです。その嚆矢は、1776年、ウィリアムズバーグにあるウィリアム・アンド・メアリー大の”ファイ・ベータ・カッパ”とされます。名称がギリシャ語であることもエリート主義や秘密主義の表れであり、その後、多くのフラタニティがこれに倣います。フラタニティの原型は、1825年に創設されたNY州ユニオン大の”カッパ・アルファ”とされています。当初は、大学当局から否定されていたようですが、次第にそのメンバーたちが社会的影響力を増していったことで公認されたと聞きます。

例えば、イェール大の”デルタ・カッパ・イプシロン”は、多くの財界人に加え、大統領も6人輩出しています。本人の優秀さや家柄に加え、強力なネットワークも成功要因になっているのでしょう。それにしても、大学のフラタニティという文化が、ほぼアメリカにしか存在しないことは不思議です。恐らく、アメリカのピューリタン文化や多民族国家というあたりが背景にあるのではないでしょうか。商工業に勤しむことが神に通じる道とするカルヴァン派ですが、欧州での弾圧を、信者が団結し、時に身を隠しながら耐えてきたDNAを持っています。また、多民族国家は、激しい競争社会でもあり、同じ民族や同質者の結束は生きていくうえで必須とも言えます。総じて言えば、厳しい競争を強いられる社会がフラタニティ文化を生んだとも言えるのでしょう。

大学のフラタニティには、どこか子供じみたところがあります。まるで子供たちの秘密基地遊びのようでもあります。秘密主義、独自のしきたりや合言葉、シンボル、独特なメンバー選考、ヘイジングと呼ばれるしごきのような通過儀礼など、いずれもが子供時代に経験したことを思い出させます。子供っぽいと言えば、それまでですが、それが強力なネットワークとしてアメリカ社会を動かしている面もあり、決してあなどれないわけです。思えば、アメリカの学校教育は、ひたすら競争ということを教え込んでいるようなところがあり、フラタニティはその最たるものの一つと言えそうです。アニマル・ハウスは、そうしたアメリカ社会の構造を皮肉っていたのでしょう。その根深さゆえ、笑いもグロテスクなほどにせざるを得なかったのかもしれません。(写真出典:filmarks.com)

2026年2月26日木曜日

良妻賢母

見性院
1581年に織田信長が開催した京都馬揃えは、当時、流行した馬揃えのなかで最も大規模で豪華なものだったとされています。馬揃えは、軍馬の優劣を競い、訓練成果を披露するイベントでした。馬は、武士にとって戦場のパートナーであるとともにステータス・シンボルでもありました。京都馬揃えは、天下布武を旗印に天下人への道を駆け上がる信長にとって、その成果と偉容を示す軍事パレードでもありました。多くの武将や公家が参加した馬揃えの行列のなかに、後の土佐藩初代藩主・山内一豊の姿もありました。困窮し、さほどの馬も持っていなかった一豊に、その妻(後の見性院)は自らの持参金を投げ打って名馬を買い与えます。その名馬は信長の目にとまるところになり、一豊は加増されます。

有名な”山内一豊の妻”という話であり、明治期から戦前にかけては、日本の婦女子が目指すべき良妻賢母の手本として女学校の教科書にも載っていました。ただ、京都馬揃えの頃、山内一豊は、既に現在の赤穂市周辺に2000石の領地を拝領しており、困窮していたわけではなかったようです。つまり、このよく知られた美談は、後の世の創作だったわけです。初出は江戸中期、一介の旗本から御側御用人にまで登り詰めた新井白石の著書などとされています。京都馬揃えの際の話というのは事実ではないとしても、そのはるか以前に行われた馬揃えで、似たような出来事があったのではないかという説もあります。いずれにしても、山内一豊の妻は、なかなかの人物で夫をよく助けたことは事実であり、この美談が創作される下地はあったと言えるのでしょう。

一豊の妻に関してお気に入りの話があります。”笠の緒文”です。関ヶ原の戦いの直前、一豊は、家康の会津征伐に従軍しています。留守宅の妻のもとに大阪城から文箱が届き、一豊に届けよ、と使者から言われます。書状は、増田長盛と長束正家が石田三成への加勢を促す内容でした。妻は、大阪の要請があっても家康に忠義を尽くすべきだとする自らの手紙を文箱に加えて一豊に届けます。さらに、妻は、一豊宛に、この文箱を開けずに家康に届けろ、という手紙をこよりにして使者の笠の緒に編み込みます。この笠の緒文を読んだ一豊は、手紙を燃やし、文箱を開封せずに家康に届けます。家康は、三成の開戦意志を知ると共に、一豊の妻の手紙に感動します。直後に行われた関ヶ原の戦いでの貢献もあり、一豊は、土佐一国を与えられることになりました。

妻は浅井家家臣の娘とされますが、戦国を生きた武家の人々の知恵が伝わる話です。ただ、教訓話ではなく、あくまでも処世術に過ぎません。家父長制を徹底したい明治政府としては、”山内一豊の妻”の良妻賢母イメージの方が大事でした。戦後、民主主義における基本的人権、男女平等という観点からして、”山内一豊の妻”の話は批判されることになります。しかし、批判されるべきは、家父長制であり、その徹底を図った明治政府です。作り話とは言え”山内一豊の妻”の話自体に否定すべき要素はないものと思います。戦国の武家は、夫も妻もなく、家族一丸となって生き残りを図るしかなかったはずです。農耕とともに成立した家父長制ですが、江戸期には幕府による社会管理の手法として徹底されます。江戸期の家族の姿は、戦国時代とは異なっていたわけです。

賢母という言葉は普遍的なものだと思いますが、良妻に関しては家父長目線ということになります。今風に言うなら、良妻良夫と並列すべきなのでしょう。妻の話ばかりが目立つ山内一豊ですが、果たして良夫だったのでしょうか。妻と手を取りながら功成り名を遂げたわけですから、良夫というべきなのでしょう。藩主として土佐に乗り込んだ一豊は、長宗我部残党の抵抗・反乱に苦しめられます。一計を案じた一豊は、大きな相撲大会を開き、集まった群衆のなかから長宗我部派を一網打尽にして処刑しています。司馬遼太郎の「功名が辻」においては、このだまし討ちを見た一豊の妻が夫に失望するというストーリーになっています。しかし、処世術に長けた夫と妻は似合いの夫婦だったのではないかと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年2月24日火曜日

ラム酒

東京ディズニーランドは、隣町にあるというのに久しく行っていません。それどころか、ディズニー・シーには行ったことすらありません。子供たちが小さい頃には、毎年、家族で行っていましたが、子供たちも成長すると親とは一緒には行かないものです。ディズニー・ランドは大人も楽しめるので、大好きでした。アメリカにいる時には、フロリダのディズニー・ワールドにも3度ばかり行きました。ディズニー・ランドで最も好きなアトラクションと言えば”カリブの海賊”ということになります。スティーブンソンの「宝島」の熱烈なファンとしては、当然の選択です。テーマソングの”Yo Ho (A Pirate's Life for Me)”が聞こただけでワクワクしてしまいます。

”カリブの海賊”のなかで酔っ払った海賊たちが飲んでいるのは、間違いなくラム酒ということになります。ラム酒は、17世紀のカリブ海で生まれた酒です。もっとも、サトウキビを発酵させた酒自体は、大昔から、世界各地で作られていたようですが、現在に至るラム酒の製造法が確立されたのが、17世紀のバルバトス島、ないしはプエルトリコと言われています。そもそも、サトウキビ自体はカリブに自生しておらず、15世紀にコロンブスが持ち込んだ作物とされています。カリブ海は、サトウキビのプランテーションと化していきます。現地のインディオたちが奴隷として働き、彼らがヨーロッパから持ち込まれたウィルスで全滅すると、アフリカから黒人奴隷が連れてこられます。

ラム酒は、サトウキビの絞り汁や廃糖蜜を発酵・蒸留し、樽で熟成して作られます。ラム酒は、砂糖生産の副産物、ストレートに言えば残りかすから作られる安酒だったわけです。当初、ラム酒は、奴隷の栄養補給や懐柔のために作られたようです。また、ラム酒は、ビタミンC不足で発症する壊血病の特効薬と信じられていたので、イギリス海軍が水兵に支給し、商船や海賊船にも積み込まれ、港の酒場にも置かれていきます。船乗りと言えばラム酒、ラム酒といえば船乗り、という関係が生まれたわけです。実際のところは、ラム酒そのものに効果があったのではなく、混ぜて飲まれていたライムやレモンのビタミンCが有効だったようです。いずれにしても、この誤解が、ラム酒をカリブ海から大西洋全域へと広めていったわけです。

ラム酒のアルコール度数は40~80%に達し、とても強い酒だと言えます。海賊たちがヘベレケになるのも当然です。ラム酒は強い酒というばかりではなく、甘さとコク、そしてほろ苦い香りが特徴です。その風味の良さからして、お菓子等のフレーバー、あるいはカクテル・ベースとしても重宝されています。かなでも、ラム・レーズンは最も広く流通している加工品かもしれません。ラム・レーズンは、18世紀のイギリスで誕生しています。最初からラム酒とレーズンの絶妙な組合せをねらっていたわけではなく、単にレーズンを保存するために強いラム酒を使ったことから生まれたようです。ラム・レーズンは、アイスクリーム、チョコレート、パウンド・ケーキといった焼き菓子、あるいはレーズン・バターにも使われています。

レーズン・バターは、もともとドイツが起源だと言われます。日本では、1972年に小岩井農場が商品化しています。おりからのウィスキー・ブームと相まって人気を博しました。ただ、小岩井のレーズン・バターは、ラム・レーズンは使っていません。一方、1977年に発売された六花亭のマルセイバターサンドは、ラム・レーズンを使っています。2000年前後から大人気となり、今や北海道を代表する銘菓と言えます。マルセイバターサンドは、ホワイト・チョコレートが加えられている点がヒットした理由なのでしょう。1983年に札幌で創業されたロイズ・チョコレートも北海道土産の定番になっています。ロイズのラム・レーズンの板チョコは、とてもレベルが高いと思います。しかし、近年、ラム・レーズンを使ったお菓子の王様に君臨しているのは、鹿児島の梅月堂のラムドラだと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年2月22日日曜日

武相荘

白洲次郎は、敗戦後、吉田茂首相に請われて閣僚となり、その後、東北電力の会長職を務めるなど財界人としても活躍した人です。名のある人ではありますが、歴史的偉業を成し遂げたわけでもなく、著作があるわけでもなく、教科書に名前が載るような人ではありませんでした。ところが没後、1980年代後半から、にわかに知名度を高め、戦後日本を救った人くらいの言われ方をするようになります。まさにブームと言ってもよかったと思います。時は、まさに日本がバブル経済を駆け上がっている頃でした。富豪の家に生まれ、ケンブリッジに留学し、高級外車を乗り回し、ゴルフが上手で、ファッションにもうるさい美男子は、没後とは言え、時代が見出したアイコンだったのかもしれません。

白洲次郎の祖父・白洲退蔵は、三田藩の儒官の家の生まれながら、幕末の混乱期、藩主に見出されて家老格にまで上りつめた人です。その後、横浜正金銀行の頭取も務めています。父親の白洲文平は、ハバード大学、ボン大学に学んだ後、白洲商会を立ち上げ、綿貿易で巨万の富を築きあげた人です。いわば白洲家は、幕末・維新の変革期にあって、一気に上昇気流に乗った家だったと言えるのでしょう。白洲次郎は、1902年に生まれています。出生地は東京とも芦屋とも言われているようです。幼少期から、祖父が設立した神戸女学院の外国人教師から英語を学んでいたようです。長じて神戸一中に入学。学生ながら、アメリカの名車ペイジ・オートモビル・グレンブルックを乗り回していたようです。卒業後はケンブリッジへ留学します。

ケンブリッジ時代は、豊富な仕送りを背景に、貴族を含む英国の上流社会の子弟たちと交流します。英国紳士を範とする白洲次郎の信条や生活スタイルはここで形成されたわけです。ここでも名車を乗り回し、大陸のドライブ旅行も行っています。しかし、父親の会社が、昭和恐慌で倒産したため、帰国を余儀なくされます。帰国後は英字新聞の記者や、コネで外資系商社の役員に就任します。この間、華族出身で、米国留学経験も持つ樺山正子と結婚します。戦時中は、鶴川村(現町田市)に「武相荘(ぶあいそう)」を建て、世間とは一線を画した生活を送ります。武相荘とは、武蔵国と相模国にまたがる地にあることと無愛想をかけています。洒落た名前をつけたものです。次郎としては、英国貴族のカントリー・ライフを気取ったという面もあるのでしょう。

戦況が厳しくなると、次郎にも召集令状が届きます。次郎は、英国留学時代に知り合った東部軍参謀長に依頼し、これを握りつぶしています。白洲次郎が政治家にならなかった一因は、この一件が選挙で不利に働くと思ったからではないでしょうか。敗戦後、次郎は、面識のあった吉田茂外相の要請によって終戦連絡中央事務局の参与に就任します。語学力はもとより、ケンブリッジでの経験や交流を踏まえれば、アメリカ人にも臆せず折衝できる逸材でした。GHQをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたという逸話が残ります。その後、吉田内閣の貿易省長官として通商産業省設立などに辣腕を振い、1951年、東北電力会長へ転身しています。政治家を目指さない次郎は、吉田茂にとって誠に使い勝手の良い人材だったとも言えそうです。

白洲次郎の夫人である白洲正子は随筆家として、多くの書籍を著わしています。そのテーマは、能楽、古美術、工芸と幅広く、その確かな審美眼で多くの読者を魅了した人です。なかでも「かくれ里」(1971)は、紀行と古美術が一体となった傑作だと思います。私も、いつか「かくれ里」のルートをなぞってみたいものだと思っています。白洲正子は、多くの時間を武相荘で過ごしたようですが、白洲次郎は赤坂のマンションを拠点に活動していたようです。やはり、英国紳士流の生活を目指していたと言えるのでしょう。白洲次郎は、希に見るほど魅力にあふれた人だったのだろうと想像します。豪快な逸話、おしゃれな逸話も多く残されています。しかし、繰り返しになりますが、教科書に載るような人ではなかったと思います。(写真出典:buaiso.com)

庚申信仰