2026年8月6日木曜日

酷暑

エジプトのアブシンベル神殿へ行った際、50度超えという気温を経験しました。そのレベルになると、直射日光で肌が軽い火傷になる恐れもあるので、露出は禁物です。ただ湿度がゼロに近いので、日陰は涼しいくらいでした。あらためて、日光と砂を避けるベドウィン族の衣装の合理性に感心しました。一方、パキスタンのカラチでは、気温40度超え、かつ湿度ほぼ100%という気候も経験しました。冷房の効いた室内から外に出ると、コンクリートの塊が両肩に被さるような印象を受けました。海辺はマシだろうと思いましたが、アラビア海からはもっと重苦しい熱風が吹きつけていました。気象庁は、今年から、40度超えの日を「酷暑日」と定めました。 その途端、過去に例がないほど40度超えが続出しています。

フィリップ・K・ディックの小説に、気温100度になった未来が描かれたものがありました。人が外へ出る時には、携帯クーラーを背負います。ほぼ宇宙服ということなのでしょう。近年、屋外で作業する人たちが、電動ファンの付いた作業服を着用しています。酷暑日といい、ファン付作業着といい、どんどんフィリップ・K・ディックの小説に近づいているように思えます。地震に襲われた熊本が酷暑日を記録した日、他の九州各地でも酷暑日が発生しました。そのなかに佐賀市も含まれていました。佐賀市の夏と言えば、松本清張原作・野村芳太郎監督・橋本忍脚本の傑作「張込み」(1958)を思い出します。高温多湿な日本の夏を最も強く感じさせる映画だったと思います。日本の白黒映画は、雨の描き方がうまいと思うのですが、夏の暑さも同様に見事です。

もちろん、アフリカや東南アジアで撮った映画は暑さが伝わります。アメリカであっても「狼たちの午後」などは印象に残っています。原題は”Dog Day Afternoon”であり、Dog Dayは暑い日を指します。しかし、そこで描かれている暑さは、高温多湿な日本の夏とは大いに異なります。「張込み」は、日本的な夏が見事に描かれています。東京・深川で発生した強盗殺人事の犯人が逃走し、佐賀に住む元恋人を訪ねると踏んだ刑事二人が張込みに入ります。原作は、30ページほどの短編ですが、脚本の橋本忍が緊張感あふれるドラマに仕立てています。映画は、刑事たちが横浜駅から佐賀へ向かう夜行列車の旅から始まります。横浜・佐賀間1,200km、蒸気機関車では、一昼夜以上かかる旅です。暑くて混み合う車内の描写だけで、いきなり暑苦しさが伝わります。

ロケは、佐賀市を中心に行われています。戦時中、佐賀市も空襲を受けています。ただ、徹底的な灯火管制が奏功し、目標を見失った米軍は爆弾を田んぼのなかに投下します。結果、ほぼ被害のなかった佐賀市は、撮影が行われた昭和30年代でも城下町の風情をよく残しています。佐賀市の最高気温は、当時でも35~36度まで達していたようです。演技、演出、カメラワークもうだるような暑さを見事に伝えます。旅館での張込みという動きの少ないプロットが、暑さをより際立たせている面もあります。それどころか、短く動きの少ない原作を、緊張感あふれる映画に仕立てあげるために、暑い夏が効果的に使われているとも言えそうです。夕立やお祭も含めて、暑い夏は映画としてのテンションと奥行を出すためのサブ・プロットだったと言ってもいいのでしょう。

サスペンスながら、テーマがしっかりしていることも特徴的です。高度成長に突入した都市と寂れていく地方という構図、農村から上京した労働者の悲惨な就労環境、といった当時の社会現象が端的に表現されています。また、時代とともに変化しつつあった女性の社会的地位や女性の幸せに関する目線も大きな要素になっています。短編とは言え、さすが社会派松本清張だと思います。被疑者の元恋人は、相当年上の銀行員と結婚し、ほぼ女中と変わらぬ日々を送っています。被疑者と温泉地で待ち合わせた元恋人は、まるで別人かのように感情を露わにします。しかし、数時間後、被疑者は張り込みを続けてきた刑事たちに逮捕されます。刑事のモノローグ「この女は数時間の命を燃やしたに過ぎなかった」は名セリフとされているようです。暑い夏はここにもあったわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年8月4日火曜日

冷やし中華

冷やし中華は好きなのですが、現役の頃、ワン・シーズンに食べる機会は1~2回程度でした。というのも、サラリーマンのランチとしては、中途半端だからです。ラーメンよりカロリーは低めで、しかもラーメンのように定番のライス、チャーハン、餃子といったお共がありません。大盛りにしても、満足感は薄めだと思います。ただ、もう働いていないこと、猛暑が続くこと、何より年老いたこともあり、ここ2~3年は、昼食に自分で作って食べるようになりました。冷やし中華は、色んな具材が乗っているから美味しいという人がいます。馬鹿なことを言っちゃいけません。冷やし中華は、麺とタレが勝負です。具材なんか箸休め程度だと思います。私は、ゴルフ場の昼食で冷やし中華を注文するとき、具材は別盛りにしてもらっています。

と言いながらも、具材も楽しめ、ボリュームもランチとしては十分な冷やし中華もあります。神保町の揚子江菜館の涼拌麺 です。具材は、なんと10種類にのぼり、もはや立派な料理です。揚子江菜館は、冷やし中華発祥の店とされています。2代目オーナーが、1933年、ざるそばを参考に開発したとされます。一方、仙台の龍亭が1937年に発売した涼拌麺を嚆矢とする説もあります。ただ、いずれも涼拌麺と称していることからしても、中国が発祥と考えていいのでしょう。中華圏の涼拌麺は、常温に戻した麺に、胡麻ベースの芝麻醤や落花生ベースの花生醤を掛けて食べるようです。ということは、冷やし中華はゴマだれがルーツということになりそうですが、上海など南方では酢も使っていたようです。揚子江菜館も龍亭も当初は醤油だれだったと聞きます。

ただ、日本の冷やし中華は、涼拌麺とは異なる進化を遂げた日本独自の中華料理ではあることは間違いないようです。その証拠として、中華圏では、冷やし中華を”日式涼麺”、あるいは”日式冷中華麺”と呼ぶようです。ちなみに、関西では冷やし中華を冷麺と呼びます。韓国料理の冷麺も同じ呼び方ですから、ややこしいところがあります。京都の老舗中華料理店である中華のサカイが、1939年にゴマだれをかけた冷やし中華を冷麺として発売します。これが人気を博したことから冷麺という呼称が広まったとされます。さて、冷やし中華と言えば、醤油だれか、ゴマだれか、という議論もあります。好きずきですが、私は醤油だれ専門です。ゴマだれも美味しいと思いますが、さっぱりさが身上の冷やし中華ではなく、別な濃厚系中華料理になってしまいます。

冷やし中華ファンは、麺にこだわる人が多いように思います。冷やし中華で使う中華麺は、普通のラーメンで使うものよりも卵の割合を増やしたものになっています。いわゆる卵麺ですが、コシが強く伸びにくいという特徴があります。さらに茹でた麺を氷水でしっかり冷やすことで、弾力、ツルッとした食感も生まれます。冷やし中華の人気店では、タレもさることながら、麺がまったく異なります。その食感を家で再現することは難しいと思います。近所のスーパーで卵麺にお目に掛ることはほぼありませんが、中華街やネットで生麺を入手できれば、再現性が高くなります。もちろん、卵麺は、ラーメンの麺としても使います。香港の細い乾麺”全蛋麺”も卵麺として有名です。これはこれで美味しいのですが、冷やし中華には向きません。

冷やし中華ファンの間では、麺、タレ、具材に関するこだわりの議論が多いものですが、1985年、それらがぶっ飛ぶような出来事が札幌で起こります。札幌グランドホテルが、ビアホールのメニューとしてラーメンサラダを発売したのです。野菜の多い冷やし中華という見方も出来ますが、中華だれがドレッシングに進化したことで、日本式中華料理という枠組みを超え、ある意味、ユニバーサルな料理になったわけです。私は、市販の冷やし中華だれをベースに、レモン、ポン酢、ナンプラー、ガラムマサラ等を加えて楽しんでいます。冷やし中華の具材の基本は、キュウリ、叉焼(ないしはハム)、錦糸玉子だと思いますが、サラダだと思えば何でもありです。ただ、ラーメンサラダが、いまだ北海道名物に留まっていることは、やや意外だと思っています。(写真出典:sirogohan.com)

2026年8月2日日曜日

「急に具合が悪くなる」

監督:濱口竜介      2026年日本・フランス・ベルギー・ドイツ

☆☆☆☆ー

いまや日本を代表する映画監督となった濱口竜介の新作です。介護の現場を変えようと奮闘する施設長のフランス人女性とガンで余命宣告を受けた舞台演出家の日本人女性の交流が描かれます。映画は、一部が日本、大半はパリを舞台とし、フランス語と日本語で進行されます。畳みかけるようにドラマが展開するのではなく、スケッチを編んでいくような構成になっています。それが196分続くわけですからダレて当然だと思うのですが、決して観客を飽きさせることはありません。前の作品でも同じ印象を持ちましたが、これが濱口監督の独特な才能、あるいは感性なのだと思います。主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒は、カンヌ国際映画祭で女優賞を共同受賞していますが、作品へのリスペクトあってのことなのでしょう。

原作は、ガンで亡くなった哲学者の宮野真生子が、文化人類学者の磯野真穂と交わした往復書簡集「急に具合が悪くなる」(2019)です。二人の書簡に感銘を受けた監督は、映画に仕立てるために大胆な翻案を行ったわけです。恐らく書簡で語られている内容はそのままに、映画としてのプロットやフレーム建てを考案したのでしょうが、創作と言っていい作業であり、その才能には感心させられます。ことにパリと日本、フランス人と日本人という着想が、書簡集を映画として成立させるうえで、キーとなるフレームだったと思われます。介護施設内での出来事、介護手法であるユマニチュード、劇中劇、重度の自閉症児といったモティーフも映画を成立させるために組み込まれています。原作が書簡集だけに、会話だけの映画になることを回避するための工夫だと思います。

決してダレることはないものの、それらのモティーフと会話の重層的な展開、そしてテーマへの収斂が起きないことが、映画にやや冗漫な印象を与えています。テーマへの収斂は、意図的に回避されていると思います。テーマは、生と死、希望と絶望、必然と偶然、それらに基づく人生観ということになるのだろうと思います。しかし、押しつけがましい結論のようなものは提示されません。原作も映画も、判断は読者と観客に委ねられているのでしょう。長尺の映画がダレない理由は、ここにもあります。主人公二人の葛藤が、観客一人ひとりの答えを求めてくるからです。ゆえに演技や演出は、適度な自然主義を保つ必要があり、おのずと映画は長尺なものにならざるを得ません。こうした観客の巻き込み方こそ濱口映画の特徴なのだろうと思います。

ユマニチュードは、テーマに深く関わるモティーフです。良いところに目を付けたものです。ユマニチュードは、人間らしさを尊重する認知症ケアの技法です。1979年、フランスで開発されています。日本では、2012年に導入され、現在はかなり普及しているようです。ユマニチュードのねらいとするところもさることながら、それを半ば強要される看護師たちの反応がドラマを作っています。主人公が展開する資本主義論とも重なってきます。結論に関しては観客に委ねられていると書きましたが、ユマニチュードの施設への導入に関しては、ポジティブにシナリオが展開します。これがテーマの全てではないものの、結果としては映画の縦糸として機能しているように思います。これも書簡集を映画化する際の大事な要素になっているわけです。

濱口竜介監督は、アカデミー賞と世界三大国際映画祭のすべてで主要な賞を獲得しています。日本の映画監督も、ついにここまで来たな、という印象があります。もちろん、黒澤明はじめ多くの監督の作品が海外で評価されてきました。また、是枝裕和など、海外でメガホンを取った監督もいます。ただ、濱口竜介は、諸先輩たちと異なり、初めから国際的な舞台のメインストリームで、そのディレクティングのレベルの高さが評価されています。明らかに次元が変わったのだと思います。ただ、その評価は、諸先輩たちが刻んできた歴史の上にあることも事実だと思います。スポーツの世界でも同じですが、世界で活躍する選手は突然変異ではなく、これまでの積み上げの上に咲いた花なのだと思います。(写真出典:eiga.com)

2026年7月31日金曜日

トウモロコシ

今年は、枝豆とトウモロコシの出来が良い、と聞いたので、買って食べて見ました。枝豆については、新潟の黒埼茶豆に限ると思っているので、通常、他のものを買うことはありません。今回は群馬のブランド品を試しました。やはり、茶豆にはかなわないものの、とても美味しくて驚きました。安価なものも試してみましたが、残念な代物でした。トウモロコシは、茨城産のブランドものを買い、レンジで蒸し焼きにして食べました。これが、とても甘味が強く、青森のブランド”嶽きみ”に迫る美味しさでした。ならば、と思い、1本99円の安売り品も試してみましたが、これも十分に甘くて驚きました。確かに今年は当たり年かもしれません。

野菜は何でもそうでしょうが、採れ立てが一番美味しいに決まっています。トウモロコシも、朝もぎが最も甘いわけです。それが、収穫後、数日経っても美味しいわけですから、なかなかのものです。トウモロコシは、中南米原産とされ、15世紀末、コロンブスが欧州に伝えました。日本には16世紀後半に伝来したとされます。海外(唐)から入ってきた諸越に似た植物ということで、当初は唐諸越と表記されたようです。諸越は、アフリカ原産の穀物であり、中国では高粱(コーリャン)、世界的にはソルガムと呼ばれます。その後、唐諸越は、粒が揃って並ぶ様から玉の字をあてて玉蜀黍と表記されるようになりました。日本でトウモロコシの栽培が本格化したのは明治期のことでした。アメリカから早生品種が輸入され、北海道開拓使が栽培を始めています。

世界の穀物の生産量は増加を続けており、2021年には30億トンに達しています。うちトウモロコシは12億トンを占め、各8億トン弱の米と小麦をはるかに超えています。トウモロコシの6割は家畜の飼料になります。食用は、わずか13%です。他はエタノール等の燃料や工業用ということになります。生産国としては、アメリカと中国が群を抜いており、世界の半分を占めています。食用としての消費量を見れば、原産国メキシコがトップです。主食であるトルティーヤの原料であること、栽培が気候風土に適していることなどが理由なのでしょう。食用としてのトウモロコシは、トルティーヤがそうであるように、圧倒的に粉食が主流です。粒食が中心である日本は、極めて珍しい国ということになります。米の粒食を主食にしている影響なのかもしれません。

粒食中心ゆえ、日本のトウモロコシは、どんどん甘く品種改良されてきました。札幌名物の焼きトウモロコシは、醤油・味醂・砂糖などで作った甘辛いタレが魅力です。焼きトウモロコシは、1885年(明治18年)、平岸の農家・重延テイが、家計の足しにしようと、大通りで売ったのが始まりとされます。当時の品種は今ほど甘くなかったので、甘辛いタレを塗って焼いたのでしょう。近年の糖度ランキングを見ると、”おおもの”、”きみひめ”が20%と、メロン・マンゴー並みです。さらに”ピュアホワイト”、”サニーショコラ”、”甘々娘”等が続きます。弘前の”嶽きみ”に多い品種は”恵味”と聞きますが、昼夜の寒暖差の激しい岩木山麓という栽培地の特性がさらに甘味を増すのだそうです。十年ほど前、新宿の伊勢丹が、1本千円で嶽きみを販売したことが話題になりました。

ものづくり大国を自称する日本の工業界では、小さいものはより小さく、精密なものはより精密に、と進化してきました。農産物も同じです。甘いものはより甘くなっていきます。もちろん、価格は高くなっていきます。情報革命と流通の進化が、そうした傾向を助長しているように思います。日本の工業界には「いいものを作れば、必ず売れる」という神話があります。農業でも同じかもしれません。しかし、この神話には、多少の疑問を感じます。高価で入手困難といった高級農産物があってもいいとは思いますが、全ての生産者がそれを指向するならば、日本の農業はおかしなことになります。基本とすべき思想は、あくまでも「良いものを安く」だと思います。トウモロコシの甘みが弱いと思ったら、甘辛いタレを塗って焼けばいいわけです。(写真出典:hugkum.sho.jp)

2026年7月29日水曜日

サン・ピエトロ大聖堂

世界最大のキリスト教寺院は、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂です。床面接は2万3,000㎡と東京ドームの半分程度であり、総面積は倍の約5万㎡です。高さならば、イエスの塔が完成したサグラダ・ファミリアの172.5mがトップで、ビルの40階分くらいに相当します。ちなみに、世界最大のモスクは、メッカのマスジド・ハラームであり、床面積は東京ドーム8個分、延床面積は24個分となります。世界のキリスト教徒は24億人ですが、カソリックに限れば14億人、イスラム教は19億人となります。本山の大きさは信者数に応じるようにも思いますが、マスジド・ハラームは、人生で一度のハッジ(巡礼)が義務づけられているという事情もあります。なお、仏教も世界宗教ですが、総本山的存在はありません。大寺院としては、ボロブドゥールやアンコールワットの名前が挙がります。

サン・ピエトロ大聖堂を訪れて驚くのは、参拝客の数の多さと熱量の高さ、そして国籍・民族の多様さです。さすがカソリックの総本山、世界中から参拝者があとを絶たないわけです。マスジド・ハラームは、さらにすごいのでしょう。サン・ピエトロ大聖堂は、キリストの最初の弟子である聖ペテロ(サン・ピエトロ)の墓の上に築かれたとされます。幾度かの発掘調査が行われ、地下深くにある遺跡は聖ペテロの墓でほぼ間違いないだろうとされています。聖ペテロの時代、バチカンは、ローマ郊外の丘に過ぎなかったようです。大聖堂の始まりとなる教会堂は、4世紀、皇帝コンスタンティヌス1世によって建てられています。現在の大聖堂は、16世紀に約120年をかけて建設されています。ルネサンス期でもあり、ラファエロやミケランジェロも参加しています。

例えば、メッカのマスジド・ハラームは、アッラーが預言者イブラーヒーム(アブラハム)に示した場所、ムハンマドがクラーンで指示した場所に建ちます。ところが、キリスト教の総本山は、キリストが指示したわけでもなく、キリストの生死にゆかりがあるわけでもないローマに、それもその外れのバチカンにあります。不思議な話だと思っていました。もちろん、古代のローマは、地中海世界を征したローマ帝国が”カプト・ムンディ(世界の首都)”と呼んだ大都市です。これが現代の企業であれば、本社がローマに置かれても何の不思議もありません。しかし、宗教の世界において、大都市であることは優先順位の一番ではないと思います。第一使徒の墓があることは大きな理由にはなり得ますが、それが最優先とは考えにくいと思うわけです。

ローマという都市ではなく、教皇がいる場所ということが大事なのかもしれません。早い段階から、ローマ司教はペテロの後継者として特別な存在だったようですが、全司教のトップとして認められていたわけではありません。ローマの首都がコンスタンティノープルに移ると、いずれの司教が上かという議論もあったようです。5世紀になってはじめて、ペテロの後継者たるローマ教皇の権威は全教会に及ぶという認識が公的に確認されたようです。ローマ教皇の紋章として知られる鍵の由来は、マタイの福音書にあるペテロへのイエスの言葉「わたしは天の国の鍵をあなたに授ける」だと聞きます。ペテロの後継者ゆえローマ司教が教皇であり、総本山はペテロの墓の上に置かれる、というわけです。ただ、ペテロではなくイエスの墓が優先されるべきではないかと思います。

本来、エルサレムの聖墳墓教会こそ総本山にふさわしいと思います。聖墳墓教会は、ゴルゴタの丘、イエスの墓の上に建っているとされます。キリスト教の最も重要な聖地です。しかし、長くイスラム教徒が支配する地域にあり、総本山としては都合が悪かったということなのでしょう。エルサレムには、ユダヤ教の”嘆きの壁”、キリスト教の”聖墳墓教会”、イスラム教の”岩のドーム”という三大一神教の最重要聖地が存在します。今も昔も複雑な土地です。カソリックが、ペテロに準拠して教皇と総本山をローマに置いたことは、現実的な選択だったとも言えそうです。なお、ローマ司教の司教座が置かれるカテドラルは、今もサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂です。ローマのラテラノ大聖堂は、”全カトリック教会の母なる聖堂”と呼ばれ、サン・ピエトロ大聖堂よりも格上とされます。サン・ピエトロ大聖堂は、宗教的である以上にカソリック教会の政治的な中心地ということなのでしょう。(写真出典:nta.co.jp)

2026年7月27日月曜日

清洲越え

河文
名古屋に赴任して、初めて”三英傑”という言葉を聞きました。もちろん、信長・秀吉・家康のことです。歴史を築いた三人の武将がすべて愛知県出身であることは県民の自慢です。ただ、三英傑という呼び方は全国的ではありません。それを名古屋の人に告げると、信じられないという顔をします。名古屋最大の祭は、1955年に始まった"名古屋まつり"ですが、地元での愛称は”三英傑まつり”です。パレードの目玉が郷土英傑行列だからです。三英傑同様、名古屋で初めて聞いた言葉に”清州越え”があります。家康の清州城から名古屋城への移転は”清州越し”とされますが、同道した家臣、僧侶、町人たちは”清州越え”と呼ばれます。清州越しを経験した家は、名古屋城開闢以来の名家として特別なリスペクトを集めています。

京都へ向かう新幹線が名古屋駅を出ると、ほどなく右手に清州城が見えます。これは1989年にコンクリートで再現された城です。清州城は、15世紀初頭、尾張守護の斯波義重によって築城され、後に尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城となります。長く信長の居城だったことでも知られます。また、信長が本能寺の変に倒れると、後継者問題を議論する清州会議が開かれたことでも知られます。関ケ原の戦い以降、家康の九男・徳川義直が城主となり、豊臣方への防御拠点になります。しかし、庄内川下流にあって水害が多く、城も小ぶりであったことから、家康は熱田台地での築城を命じます。清州城は解体され、名古屋城の一部として再利用されました。1612~1616年にかけて、清州の城下町も、町ごと名古屋へ移転することになりました。

清洲越えと言えば、伊藤次郎左衛門のいとう呉服店(後の松坂屋)、竹中藤兵衛正高の竹中工務店、水野太郎左衛門の鍋屋、河内屋文左衛門の河文、今は存在しませんが渡辺忠左衛門の飛脚問屋などが有名です。茶道の町・名古屋には古い和菓子屋が多くあります。しかし、その多くは、名古屋城開闢後に京都等から来ており、清洲越えではありません。400年の歴史を持つ両国屋是清も元は大阪です。実は、ネットで探しても清洲越えの一覧のようなものは見つかりません。これも名古屋らしいな、と思います。創業の古い店がザラに存在するからでもありますが、町の人たちが心得ていれば十分といった傾向もあります。美味しい名古屋メシを全国に広めるべきでしょう、と財界の重鎮に話したところ、なぜそんなことをする必要があるのか、と返されたことがあります。

 名古屋城下の商人町は碁盤の目に区割りされていました。その区画には清洲越えが多く店を構えており、”碁盤割”と呼ばれていたようです。どれだけ商売が繁盛していても、碁盤割以外は格下と見なされていたと聞きます。岡谷鋼機は、名古屋商人を代表する古い企業ですが、初代・岡谷總助宗治は鉄砲町で創業しており、碁盤割とは呼ばれません。名古屋は、大空襲を受け、名古屋城も焼失しました。戦後、大胆な都市改造が行われ、歴史ある町名の多くが失われました。例えば、清洲越えの魚屋だった料亭・河文のある界隈は”魚棚(うぉんたな)”という町だったようです。老人は、今もそう呼びます。古い町名が消えることで、町の記憶も失われる傾向があります。例えば、金沢は江戸期の町名復活を行い、成功しています。名古屋もやるべきだと思います。

バブル崩壊は、日本経済に深い爪痕を残しました。名古屋では土地バブルが発生しなかったので影響は限定的であり、それが、名古屋奇跡の十年と呼ばれる好景気につながります。地上げなどが起こらなかったのは、今も先祖代々の土地で商売し、暮らしている家族が、土地を売らなかったからだと聞きました。名古屋の保守性がバブルを防いだわけです。名古屋で生まれ育った人は、名古屋の大学を卒業して家業を継ぐ、あるいは名古屋の企業に就職することを良しとする傾向があります。トヨタはじめ輸出で大成功している企業が多いのですが、決して愛知県から出ていきません。従業員も海外駐在を望まないと聞きます。京都企業は、京都で成功すると、東京ではなく、いきなり世界を目指す傾向があります。その違いは、尾張の農民文化に根ざすとも言われます。名古屋は、日本で最も保守的な街かもしれません。(写真出典:online.bunka.go.jp)

2026年7月25日土曜日

「大統領のケーキ」

監督: ハサン・ハディ      2025年イラク・カタール・アメリカ

☆☆☆+

1990年、サッダーム・フセイン率いるイラクがクウェートに侵攻すると、アメリカ主導の多国籍軍がイラク空爆を開始します。湾岸戦争の始まりです。映画の舞台となったイラク南東部の湿地帯アフワールも、のどかな農村風景に米軍機が飛ぶ日が続きます。祖母と暮らす9歳の少女ラミアは、学校でフセイン大統領の誕生日を祝うケーキを焼く係になります。持病を抱え、経済的にも行き詰った祖母は、ラミアを手放すことにします。それを知ったラミアは逃亡し、友人とケーキの材料集めに奔走します。ラフながら勢いのある映像、子役も含めていい味を出しているキャスト、全編に流れる民族音楽が見事だと思います。演出は自然主義的ですが、それを超える監督の熱意と勢いを感じました。

しかし、政治性という観点から見れば、ややフォーカスが甘いように感じました。ヨシで作った浮島の上で、ヨシで作った家に暮らすアフワールの人々の暮らしは、古代から何一つ変わっていないように見えます。貧困にあえぎ、フセインの独裁にさいなまれ、欧米からの軍事攻撃を受けながらも、宗教を支えに日々の生活を続けています。アフワールの人々がイラク国民に擬せられているのでしょう。大変な時代だったとは思いますが、それだけを描くのであれば、映画としてはあまりにも稚拙です。他人に預けられることになったラミアは逃げ出します。これは理解できます。しかし、いかに厳しい罰という脅しがあるにしても、自らの状況を顧みずにフセインの誕生日を祝うケーキの材料集めに奔走するというプロットが分かりにくい面があります。

それは、ファシズムの恐ろしさ、とりわけ洗脳の恐ろしさの象徴なのかもしれません。あるいは体制に従順な国民性を嘆いているのかもしれません。ただ、いずれにしてもプロットとしては、鋭さに欠けています。むしろ印象的には”ラミアの大冒険”的な描き方になっています。また、シーア派とスンニー派、バアス党と国民の対立の描き込みが弱いように思います。イランに隣接するアフワールの人々は、間違いなくシーア派だと思います。ひょっとすると偉そうにしている学校教師はバアス党の象徴なのかもしれませんが、我々には分かりにくいと思います。イラク社会を描くにあたり、この対立構図が取り込まれていないことは、いささか妙だと思います。意図的に回避されているのかもしれません。もっとも見る人が見れば、気付くのかもしれませんが。

なお、プロットの時期の設定は、必ずしも現実とは一致していません。イラク国内、あるいはアメリカへの政治的配慮があるのかもしれません。ラスト・シーンも、伝えようとしていることが、希望なのか、絶望なのか、分かりにくいように思いました。そうした甘さはあるものの、映画としての勢いは見事なものだと思います。本作は、昨年のカンヌ国際映画祭で、新人監督賞に相当するカメラ・ドールを獲得しています。全編がイラクで撮影され、キャストはほぼ素人だったようです。それが、かえって映画に勢いを与えているように思います。カメラ・ワークは、やや荒っぽいのですが、やはり勢いを感じさせます。全編に流れる民族音楽が素晴らしい効果を生んでいます。プロデューサーに、アメリカの映画人たちが名を連ねていることも興味を引きました。(写真出典:eiga.com)

酷暑