監督:クリストファー・ノーラン 2026年イギリス・アメリカ
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ここまでのところ、今年、最も期待され、最も評価され、最も稼いだ映画ということになります。クリストファー・ノーランの最高傑作という声もあります。原作の「オデュッセイア」は、「イーリアス」と並ぶ古代ギリシャの二大叙事詩であり、ホメロス作とされます。もちろん、原作のすべてのエピソードを取り込んでいるわけではありせんが、ストーリーのフレームは原作に忠実なものになっています。そのうえで、現代的解釈が大胆に加えられています。映像、演出の巧みさも含めて、さすがクリストファー・ノーランだと思います。ただ、原作のモティーフの多さが禍したのか、監督がテーマとしたところへの収束がやや乱れているように思います。クリストファー・ノーランがテーマとしたのは、大雑把に言えば、互いを尊重することによって、世界は平和を取り戻せる、ということなのでしょう。トロイの木馬は、有名な話ですが、物証も文献もないため、事実とは確認されていません。ただ、シュリーマンが遺跡を発掘したことから、トロイの存在だけは、ほぼ証明されています。クリストファー・ノーランは、トロイの木馬を欺瞞の始まりとし、以降、人類は互いにリスペクトすることを忘れ、今に続く混乱が生み出されたと言っているのでしょう。ゆえにオデュッセイアはじめギリシャ軍は帰国に苦労し、帰国しても苦難が待ち受けていたというわけです。映画のなかで、オデュッセイアは記憶が回復するとともに、そのことに気付き、無意識に帰国することを避けているのかもしれないことが暗示されています。
そのテーマを訴求するための重要なモティーフとしているが、”ゼウスの掟”です。一般的にはクセ二アと呼ばれますが、古代ギリシャ社会におけるおもてなしの概念です。客人や旅人はゼウスに守られている、あるいは姿を変えたゼウスであると信じられており、おもてなしをすることはゼウスに従うのと同じとされたわけです。オデュッセイアの妻・ペネロペに求婚するために集まった数十人は、主のいない城で数年間にわたり饗応を受けます。オデュッセイアの息子テレマコスは、父の情報を求めてスパルタに行き、王に歓待されます。クセニアを現代的に理解すれば、他者の存在を認めることであり、他者をリスペクトすることなのだろうと思います。オデュッセイアは、それを悪用して、トロイの木馬を作り、トロイの神殿と街と人々を壊滅させたわけです。
オデュッセイアが帰国できないのは、息子を殺されたポセイドンのせいだとされます。しかし、ポセイドンの怒りとは、とりもなおさず人間の欺瞞であり、人間は自ら自分の首を絞めていたわけです。映画のなかで、ゼウスやポセイドンといった神々は、直接的に姿を現わしていません。これこそ、まさにクリストファー・ノーランが、テーマを訴求するためにねらった演出なのでしょう。また、ギリシャの人々が、その来襲を恐れる「海の民」も、ギリシャ人自身の欺瞞を意味しているのでしょう。映画の中で、しばしばオデュッセイアが見る幻影としてゼンデイヤ演じるアテナが登場しますが、オデュッセイア自身の葛藤を象徴しているのでしょう。また、シャーリーズ・セロン演じるニンフ・カリュプソは、オデュッセイアの犯した罪から逃れたいという欲求を現します。
クリストファー・ノーランの映画では、いつも音楽が重要な要素となっています。今回も同様です。通常の古代劇ならば、荘厳なオーケストラの劇伴で盛り上げるところですが、本作では、あえて電子音楽に古楽器を乗せた音楽が使われています。ホメロスの現代的解釈、あるいはクリストファー・ノーラン的理解であることを強調しているのでしょう。あるいはホメロスの原作への敬意なのかもしれません。いずれにしても、今回の音楽は饒舌に過ぎるように思いました。むしろ、叙事詩としては、劇伴を抑え、無音と効果音を巧みに使うべきだったのではないかと思います。ハリウッドの俳優を使っていることにも、多少、疑問を感じました。また、世界一の美女ヘレネー役にルピタ・ニョンゴを起用していることには、やや驚かされました。監督の意図が伝わる攻めたキャスティングです。(写真出典:eiga.com)






