2026年11月4日水曜日

Tokyo Film 2026(1)

 

東京国際映画祭は39回目となります。昨年は8日間で18本観ましたが、今年は10本に抑えました。体力的な限界もありますが、強烈に観たいと思う作品が少なかったようにも思います。とは言え、アジアを中心に欧米以外の興味深い作品を観ることができる数少ない機会ではあります。(写真出典:2026.tiff-jp)


「夜明け前の赤」 ガリン・ヌグロホ監督 2026年インドネシア ☆

第二次大戦後のインドネシア独立戦争が舞台となっています。戦乱のなかスマトラからジョグジャカルタを目指す鉱山技師のロード・ムービーになっています。日本が去り、再びオランダが植民地化をねらい、国内勢力も分断されているという混乱のなかで、独立を目指した時代が描かれています。モノローグの多い舞台のような演出、多くの関係者の思いでごった煮状態となったモティーフ、熱意は感じるものの映画として成立しているようには思えませんでした。世界第4位の2億9千万人という人口を抱えるインドネシアでは、GDPの高まりと共に、映画産業が急成長しているようです。国内で製作された娯楽映画が圧倒的な人気を持っているようです。そうした背景も、本作には反映されているように思います。ボリウッド、ノリウッドに続いてジャリウッド(ジャカルタのハリウッド)と呼ばれる時代が来るのかもしれません。

「フィリッピニャーナ」 ラファエル・マヌエル監督 2026年シンガポール・イギリス・フィリピン・フランス・オランダ ☆☆☆+

面白い監督が出てきたな、と思いました。テンポと映像の作り込みは、フィリピン版ウェス・アンダーソンといったところですが、より政治的でダークなブラック・コメディになっています。舞台となる高級カントリー・クラブでは、富裕層のために徹底的にコントロールされた多くの下層の人々が働いています。クラブは格差社会であるフィリピンを象徴しているのでしょう。イロコス出身の経営者はマルコスをイメージさせます。映画は、富裕層と下層の人々の対比を主軸にしていますが、イロコス出身の主人公が最下層からの目線を象徴しています。厳しい統制下にある主人公ですが、経営者が忘れたゴルフ・クラブを届けるという名目で、比較的自由にクラブ内を巡り、格差の実相を目にしていくことになります。しかし、希望のようなものは、一切、提示されていません。格差の実態を知ることが大事な段階なのかもしれません。作中、ロス・インディオス・タバハラスの”Always in My Heart”が流れます。明らかにウォン・カーウァイへのオマージュだと思いました。ただ、何度も使っていました。好きなのは分かりますが、1回でいいでしょう。監督はCM界出身で、ジャ・ジャンクーの指導を受けた人のようです。ただ、師のドラマ性の高さは受け継いでいないように思います。

「地獄が来たとしても」 サムエレ・ロッシ監督 2026年イタリア ☆☆☆+

舞台は第2次大戦末期のイタリア。シチリアに上陸した連合軍は、順調に北上を続けましたが、ナチが北部に築いた防衛戦ゴシック・ラインに至ると停滞します。連合軍が、ノルマンディー上陸作戦の準備に注力したためとも言われます。山中で活動していたパルチザンは、支援と補給を絶たれて苦境に陥ります。映画は、指令を受けて、単独で山中に潜んだパルチザンが1944年の厳冬を越す姿を描いています。タイトルは、“地獄が来たとしても、パルチザンは山に残る”という歌からとられています。奇をてらうことなく、正攻法で描かれた映画だと思います。イタリアのパルチザンは、ファシストとナチを倒した実績を持ち、現在もパルチザン協会が存在しています。パルチザンによる反ファシズムの伝統を誇るイタリアですが、現在の首相はポスト・ファシズムの政治家メロー二です。そうした政治状況に対して、パルチザンの物語を静かに語ることの凄みを感じました。映画は、イタリア語だけでなく、西アルプスで使われているロマンス語系とおぼしき言語も使われ、イタリア語のスーパー・インポーズも出ていました。ヨーロッパの複雑さを垣間見る思いでした。

2026年11月2日月曜日

「ヒンド・ラジャブの声」

監督:カウテール・ベン・ハニア       2025年チュニジア・フランス 

☆☆☆

衝撃的な事実に驚かされます。録音された実際の通話を中心に映画を構成するという手法に驚かされます。イスラエルによるジェノサイドの悲惨な現実に、あらためて驚かされます。そして、ネタニヤフに対する怒りがこみ上げてきます。2024年1月29日、戦闘が激化するガザ北部から車で避難しようとしていた6歳の少女ヒンド・ラジャブとその親族は、イスラエル軍の戦車から襲撃されます。親族6人が死亡し、ヒンド・ラジャブだけが生き残り、車に閉じ込められます。ドイツにいる親族との電話をきっかけに、少女とパレスチナ赤新月社との通話が始まります。赤新月社は、救急車を派遣するためのイスラエルとの複雑な手続きに入りますが、遅々として進みません。3時間後、ようやく救急車は現場に到着します。しかし、救出直前、イスラエル軍戦車の攻撃によって、少女も救急隊員2人も虐殺されます。

実際の通話音声をそのまま使い、パレスチナ赤新月社の緊急センター内の動きが、役者たちによってドキュメンタリー・ドラマ化されています。限られたスペース、限られた役者だけでドラマは展開します。90分の映画ですが、緊張感が高い状態で保たれています。演出と演技もさることながら、そこで起きた悲惨な出来事とリアルな少女との通話記録がテンションを高め、維持しているのだと思います。そのことをどう評価すべきか、難しいところだと思います。さらに言えば、これは映画なのか、とさえ思います。もちろん、イスラエルへの批判、戦争の悲惨さは伝わります。ただ、それを訴求するようなプロットではなく、事実を伝えることに徹しています。客観性の高さで事の重大さを訴えるねらいなのでしょうが、ドラマというよりは報道といった印象を受けます。

イスラエルによるガザでのジェノサイドは、2023年パレスティナ・イスラエル戦争と呼ばれます。直接的な端緒は、10月7日、ガザを支配するハマスが、イスラエルに越境攻撃し、1,200人を殺害し、250人を人質として拉致したことだとされます。しかし、事は第一世界大戦後から続くパレスティナ紛争の一部です。ユダヤ人のパレスティナ入植を推進したシオニストは、世界、特にアメリカにおけるユダヤ人の資金と影響力、そして欧州においてはホロコーストへの同情を背景に、1947年、国連のパレスティナ分割決議を得て、翌年にはイスラエルを建国します。しかし、イスラエルは国連決議を無視して、パレスティナへの入植拡大、武力圧迫を続けてきました。ガザも戦闘が絶えることなく、事実上の封鎖状態にありました。ハマスの越境攻撃も、イスラエルがハマスへの圧迫を急速に激化させた結果と言えます。イスラエルの意図が透けて見えます。

ネタニヤフは、大統領を降りれば、汚職裁判によって収監されることは確実とされます。戦争が続く限り、特例措置によってネタニヤフは大統領の座に居座り続けることができます。ネタニヤフは、ハマスの攻撃を誘導し、当座、国際社会に対しては被害者として報復攻撃を認めさせ、扱い易いトランプの大統領就任を見越して地上兵力を投入し、ジェノサイドを始めたようにしか見えません。さらに、世界一優秀なモサドが、事前にハマスの越境攻撃を知らなかったはずはありません。むしろ、それを行わせるための工作をしていたのではないか、とさえ思います。つまり、ネタニヤフは、自国民の犠牲を前提に戦争状態を作り出し、ジェノサイドによって国民を納得させるねらいがあったのではないでしょうか。もはや、ユダヤ人にホロコーストを語る資格はありません。

本作は、ヴェネツイア国際映画祭で、銀獅子賞(審査員大賞)を受賞するなど、高い評価を得ています。監督のカウテール・ベン・ハニアはチュニジア出身です。彼女は、アカデミー賞でも、国際長編賞、ドキュメンタリー部門でノミネートされた経験を持ちます。本作で驚かされたことの一つは、製作総指揮に、著名映画人が名前を連ねていることです。ブラッド・ピット、ホアキン・フェニックス、ルーニー・マーラ、ジョナサン・グレイザー、アルフォンソ・キュアロン、スパイク・リー、そしてマイケル・ムーアという面々です。経緯は、よく分かりませんが、イスラエルのジェノサイドに抗議する人々であることは間違いないと思います。ヒンド・ラジャブ事件によって、世界中からイスラエル批判が巻き起こりました。しかし、ネタニヤフは歯牙にもかけません。なぜならトランプをコントロールできるからです。そして、今年2月、ネタニヤフとトランプは、突如、イラン攻撃を開始するわけです。ちなみに、10月27日に行われたイスラエルの総選挙で与党は過半数を獲得できませんでした。(写真出典:eiga.com)

2026年10月31日土曜日

永禄の変

三好義継
以前、このブログで、日本史の謎ランキングの投票を行えば、第1位は常に”本能寺の変”になると書きました。織田信長の人気が高いこともありますが、明智光秀の動機が、怨恨だったのか、政権奪取だったのか、依然として不明のままというわけです。歴史を動かしたにも関わらず、いまだ動機が不明で、諸説飛び交っている大事件は他にもあります。その一つが「永禄の変」だと思います。 1565年6月、室町幕府13代将軍・足利義輝が、二条御所に攻め込んだ三好義継、三好三人衆、松永久通らの軍勢に殺害されます。下剋上、主君殺しの典型とされますが、三好義継の意図が、今一つはっきりしません。三好義継は、光秀のように事件直後に討たれたわけではありません。にも関わらず、その目的は不明のままです。

歴史上、殺害された征夷大将軍は3人います。鎌倉幕府3代将軍・源実朝、室町幕府6代将軍・足利義教、そして足利義輝です。他に鎌倉幕府2代将軍・源頼家も謀殺されていますが、既に北条氏によって将軍職を追われていました。実朝、義教の場合は、明らかに怨恨が原因です。義輝の場合だけは、政治的背景や因縁はあるものの、怨恨とは言えません。当時の政治状況は複雑怪奇なもので、上品に言えば流動的、実態としては混乱の極致でした。将軍の影響力は弱まり、管領・細川家が権力を振うものの内紛が起こり、その家臣だった三好家が台頭します。しかし、その三好家にも内紛が起こり、周辺の大名たちも含め、手を結ぶ、裏切る、また和合するといったことが繰り返されます。将軍は、戦の都度、右往左往することになり、三好家とも幾度か戦っています。

三好義継は主君殺しとされますが、世はまさに下剋上の時代でした。ただ、下剋上といっても、その多くは政権奪取ではなく主君押込でした。主君押込とは、問題のある主君を重臣たちが排除することです。その後、主君の血縁者が後継に立てらるので、政権奪取ではありません。三好義継は、義輝殺害直後に、自らの名を義継に改名し、あたかも政権を引き継ぐ意志を示しているようにも思えます。しかし、自ら将軍職を求めるような行動は取っていません。大名たちや世間から主君殺しという批判が強かったからかもしれません。そして、1年以上も経ってから、阿波に逼塞していた足利義維の子で義輝の従兄弟にあたる義栄を擁立し、将軍にしています。結果として、主君押込の体裁にはなりましたが、事前に計画されていなかったことは明らかです。

つまり、三好義継の主君殺しは、実に計画性に乏しいということになります。三好勢は、主な指導者を次々と亡くして気勢が削がれていました。一方、その隙に、将軍・義輝が勢いを盛り返してきたことに焦りを覚えていたはずです。恐らく、三好義継らが二条御所へ押し寄せたのは、義輝を牽制すること、あるいは三好義継が三好勢のなかでのリーダーシップを確実なものにすることが目的だったのでしょう。義輝殺害が目的であれば、他にも機会がありましたし、わずか200名がいるだけの二条御所に1万を超える大軍で押し寄せる必要もありません。取次の不手際がきっかけとなって、三好勢がなだれ込んだともされています。三好家当主は義継ながら、三好三人衆や松永義久と船頭が多く、統制が取れていなかったことは、事後処理の混乱からしても明らかです。これが偶発的な永禄の変が起こった背景だったとも言えます。

その後、第14代将軍義栄も都に入ることなく逝去し、三好勢には内紛が起こります。その間に、義輝の遺児・義昭を擁した織田信長が畿内に入り、三好勢は壊滅させられています。15代将軍となった義昭も信長に追われ、240年続いた室町幕府はついに滅びます。その後、信長は本能寺に倒れ、秀吉が天下を統一し、徳川幕府の誕生へと歴史は動いていきます。つまり、意味不明な永禄の変ではありますが、日本の中世の終わりの始まりとなった大事件だったわけです。永禄の変自体は偶発的に起こったものの、混乱の中世が行き着いた必然だったと言うこともできるのでしょう。永禄の変から300年後、脱藩した水戸浪士たちによって桜田門外の変が起こり、幕末の混乱、明治維新へとつながります。歴史の転換点には、しばしば理不尽とも言える事件が起こります。それは氷山の一角であって、その背景には、常に歴史の大きなうねりがあるわけです。(写真出典:sengoku-his.com)

2026年10月29日木曜日

美しい美術館

広島県大竹市にある下瀬美術館に行ってきました。厳島神社の観月能を観るついでに立ち寄りました。2023年に開館したばかりですが、ユネスコの 優れた建築物・インテリアを表彰するヴェルサイユ賞を受賞したことで、一気に知名度があがりました。ヴェルサイユ賞は、2015年にホテルや空港を対象に創設されましたが、2024年には、美術館・博物館部門が新設され、その第1回に下瀬美術館が選ばれたわけです。設計は、NYを拠点に活躍する坂茂です。坂茂は、かつて、建築のノーベル賞とも言われるオーギュスト・ペレ賞、あるいはプリツカー賞も受賞しています。国内で言えば、大分県立美術館や富士山世界遺産センターを手がけています。紙管を使用した建築でも知られており、シェルターや避難所のパーテーションといった災害支援にも力を注いでいます。

下瀬美術館へは、山陽本線玖波駅からバスに乗って約10分、大型商業施設が並ぶ一画の海沿いにあります。対岸には厳島南端があります。立地としては、必ずしも良くないと思います。今後、木立が生長すれば、随分と変わるのかもしれません。美術館本体の他に、ロッジやレストランも併設されています。水盤に浮かぶカラフルな可動展示室が目を引きます。ややコンテナのようにも見えます。展示室にいた職員に「なぜ可動式なのか」と聞いたところ、「さァ」と答えられました。面白いとは思いますが、さほど意味があるようには思えませんでした。可動展示室よりも面白いと思ったのは、内外の壁面が鏡のようになっていることです。とてもユニークな視覚効果を生んでいます。また、木組みの天井で海の景色が見事なエントランス・ホールは印象的でした。

ヴェルサイユ賞は、あくまでも建築や内装に関わる賞であって、収蔵品や展示まで含めた美術館総体を評価しているわけではありません。ちなみに、訪れた時には、エミール・ガレ展が開催されていました。下瀬美術館を創設した丸井産業創設家のコレクションなのだそうです。丸井産業は、1958年に創業した建築関係の総合パーツ・メーカー兼商社であり、業界トップクラスの企業だそうです。創業者夫妻がエミール・ガレはじめ美術品の収集家であり、相続人である現会長下瀬ゆり子氏が、そのコレクションを展示するために美術館を開設しました。500点というコレクションを散逸させないためには、最良の選択だと思います。美術館は建てて終わりではなく、運営コストもかかります。ただ、会社が順調である限り、節税対策としても機能して行くのでしょう。

美術館における美術品と建築との関係は面白いと思います。基本的に、美術館の主役は美術品であり、建築は美術品を守り、引き立てるものなのでしょう。そういう意味では、ルーブルやウフィツィ等は王道であり、ル・コルビジェの国立西洋美術館なども正統派中の正統なのでしょう。近年は、有名建築家の手になるモダンで美しい美術館が増えています。それも地方に多いように思います。誠に結構なことだとは思いますが、もはやメインの展示品が建屋という美術館も少なくありません。しかし、モダンな外見とは裏腹に、展示室は単なる箱という美術館が多いように思います。種々の制約からして、それは当然だと思います。そう考えると、坂茂がコンテナのような展示室を可動式にしたねらいが見えてきます。美術館の制約に対する彼の抵抗なのだと思います。

美術館のビジネス的側面からすれば、建築、庭園、展示手法などで集客する戦略も十分にあり得ます。規模や資金力の乏しい小規模な美術館では、展示替えはするにしても、どうしても所蔵品中心の展示になります。従って、美術品以外にも集客のキラー・コンテンツは持っておきたいところです。しかし、美術館の本来的趣旨がブレる懸念があり、そうなると将来性も心配になります。広島市から車で40分程度の下瀬美術館ですが、本格的なレストランや宿泊用のヴィラを併設しています。いずれも高い評価を得ています。ひょっとすると、下瀬美術館は、従来の美術館の概念とは異なる新しいスタイルを模索しているのかもしれません。それは、欧州で見かける新しい富裕層をターゲットとした新しいライフ・スタイルの提案のように思えます。(写真出典:simose-museum.jp)

2026年10月27日火曜日

けんちん汁

愛宕にあった蕎麦屋「志な乃」は、ごつごつとした十割そば、異様なほどにコシの強いうどん、そして絶品のけんちん汁が人気の行列店でした。一番人気は”けんちん合い盛り”。そばとうどんの合い盛りに、けんちん汁というセットです。2007年には、マッカーサー道路の拡張工事に伴い、赤羽橋に移り、昨年、惜しまれながら閉店になりました。移転後の店には数回しか行けませんでした。もっと行っておけば良かったと思います。ご兄弟がやっているという姉妹店が、押上(東日本橋から移転)にあります。そばは本家と多少異なるものの、けんちん汁はさすがの味です。神楽坂にも志な乃があります。行ったことがありませんが、メニューに合い盛りもけんちん汁もあるので、恐らくご親戚なのだと思います。

けんちん汁は、精進料理の定番であり、家庭料理としても広まっています。大根、人参、ゴボウ、里芋、こんにゃく、豆腐を胡麻油で炒め、昆布や椎茸の出汁で煮込んで醤油で味付けをします。農水省の100年フードでは、神奈川県の郷土料理とされています。寒い地方の料理と思っていたので、やや意外な印象を受けますが、実は、けんちん汁の発祥が関わっていました。鎌倉の建⻑寺を開いた蘭渓道隆禅師が、けんちん汁を考案したとされているのです。よって、建長汁と書き、なまってけんちん汁になったとされます。蘭渓道隆は、1246年に中国から渡来して臨済宗を広めたとされます。北条時頼の依頼を受けて建長寺を開山しました。往時、中国から来日した僧たちは、まずは建長寺に身を寄せたものだそうです。けんちん汁も中国渡来と言っていいのでしょう。

しかし、これは俗説であって、本来は、中国伝来の普茶料理や卓袱料理の一品「巻繊(けんちん)」に由来するという説があります。巻繊は、根菜類、椎茸、豆腐や麩を繊切りにし、油と醤油で炒め、湯葉や油揚げで巻いて揚げた料理です。普茶料理は、黄檗宗を開いた隠元禅師が中国からもたらした精進料理です。なかでもゴマ豆腐は有名です。ゴマ油を使った調理法は普茶料理から始まったとされています。卓袱料理は、長崎で生まれた和洋中がミックスされた料理です。巻繊は、炒めた野菜を包まずに食すスタイルも生まれ、それを汁の具材としたけんちん汁が考案されたというわけです。普茶も卓袱も江戸初期の誕生とされますので、建長寺説よりも時代は下ります。ただ、ゴマ油を使う料理が伝わった時期からして、けんちん汁の建長寺発祥説には無理があります。

思えば、日本は、中国伝来の食材や料理であふれています。中世までの伝来に大きな役割を担ったのは、遣唐使、留学僧、そして渡来僧ということになります。仏教僧がもたらした食材や食事は、布教活動とともに全国に広がり、定着していったわけです。古くは鑑真が伝えた砂糖などが有名ですが、隠元禅師がもたらしたものはとりわけ大きかったように思います。普茶料理だけでなく、煎茶の製法と飲み方を伝え煎茶道の開祖ともなっています。また、その名を残すインゲン豆、スイカ、モヤシなどの食材も持ち込んでいます。また、木魚、テーブルと椅子、明朝体文字等も隠元禅師が伝えたとされます。とりわけ、ゴマ油で炒める手法を伝えたことは、その後の和食の文化に大きな影響を与えたと言えます。けんちん汁は、隠元汁と呼んでもいいくらいだと思います。

ところで、志な乃のけんちん汁をいただく際には、なぜ美味しいのか、いつも考えていました。隠し味としてカレー粉、あるいはクミンが使われているのではないかと思ったこともあります。しかし、本当のところは、使っているゴマ油が特別だったのではないでしょうか。日本のごまは、99.9%が、アフリカと南米からの輸入に頼っています。ゴマの収穫や選別は機械化することが困難であり、結果、人手がかかりすぎることが要因とされます。国内産としては、鹿児島県の喜界島のものが有名ですが、長野県も黒ごまの産地として知られます。志な乃という店名からして、長野県にゆかりがあり、希少な黒ごまの油を入手できていたのではないかと想像します。店の人に聞いておけば良かったな、と思います。(写真出典:sirogohan.com)

2026年10月25日日曜日

清経

芳年画清経
今年も、厳島神社の観月能を観ることができました。今回は、第28回になります。人間国宝・友枝昭世氏も、86歳になりましたが、相も変わらず見事な舞を見せてくれました。観月能は、満月かその前後で開催されますが、今年は、眉月の夜となりました。いつもなら、上演開始とともに潮が満ちてくるのですが、今回は大潮の3日前ゆえ、観客席に着いた頃には、能楽堂も客席の回廊も既に海の上でした。曲は世阿弥の「清経」。平清経は、平家が都落ちした年、一門の将来をはかなんで入水しています。壇ノ浦の戦いの1年半前のことであり、一門には衝撃が走ったとされます。潮が満ちた観月能では、波の音が少し気になるほどだったのですが、それはそれで清経を上演するには相応しかったようにも思います。

平清経は、重盛の三男として、1163年に生まれています。横笛の名手だったようです。武士というよりは、貴族の御曹司という風情だったのでしょう。都落ちした平家は、西国を足場に巻き返しを図ります。当然、太宰府も確保しておくべき拠点であり、清経が送り込まれたようです。ただ、重盛の臣下だった緒方惟栄が源氏に寝返り、清経を太宰府から追い落とします。清経は、落ちのびた豊前国柳浦、現在の宇佐市の沖合で入水したとされます。後の壇ノ浦における平家の滅亡が予兆されているかのようです。巻き返しを図ろうとしている一門にとっては、ある意味、不吉な出来事だったのでしょう。ちなみに、緒方惟栄という人は、頼朝に追われた義経を匿うために、豊後国竹田に岡城を築いています。岡城は、滝廉太郎の「荒城の月」のモデルとされています。

世阿弥の「清経」は、大胆に脚色した夢幻能になっています。都の清経の妻のもとに、清経の悲報と遺髪が届きます。妻は、再会の約束を果たさなかった夫を恨み、遺髪の受取りを拒みます。妻の夢に清経が現れ、遺髪を受け取らなかった妻を責め、死に至る経緯、修羅道の現実を話します。そして最後には、念仏によって往生します。観月能では、音取という小書きが付いており、笛が橋懸りに正対し、清経の霊を迎えます。清経が笛の名手だったことにちなみ、霊魂を笛で呼び出すかのような演出になっています。他では見かけない小書きですが、えも言われぬ妖しげな空気が漂います。ましてや、波の音が聞こえているわけですから、一層、幽玄さが増すわけです。友枝さんは、この小書きの効果を狙って眉月の夜を選んだのではないか、とさえ思いました。

「清経」に関する一般的な解釈としては、死してなお絶望感と夫婦愛の狭間で苦しむ清経が、戦乱のむごさ、諸行無常を象徴しているとされます。そして仏法によって救済を受けるわけです。実に世阿弥の夢幻能らしい曲とも言えます。それが正しい解釈なのでしょう。ただ、個人的には、清経の妻は平家一門を象徴しているようにも思えます。捲土重来を期して戦う平家一門のなかで、早々と戦うことを諦めた清経は裏切り者ということになります。しかし、都落ちした平家の人々は、明日は我が身という絶望感を心の奥底にかこっており、清経を単なる裏切り者として罵ることはできなかったのではないでしょうか。妻の夫への愛情、約束を違えたことへの憤りという複雑な心情は、そうした平家一門の心根を表現しているように思えるわけです。

お決まりとも言えますが、清経にも生存説が伝えられています。熊本県八代市の山中にある五家庄に伝わる伝承によれば、平清経は、壇ノ浦の戦いの後に伊予国今治に落ち延び、阿波国祖谷を経て、伊予国八幡浜から九州に渡ったとされます。清経は、豊後国の緒方家を頼ったとされ、姓を「緒方」に改め、その後、五家庄に移り住んだといいます。恐らく、他の平家落人伝説と同様、清経本人ではなく、平家方の侍が五家庄に落ち延び、清経を騙ったということなのでしょう。しかし、興味深いのは、ここに、清経を太宰府から追い落とした緒方惟栄が登場することだと思います。緒方惟栄が、頼朝から逃げる義経をかばったという話が、うまく使われているように思えます。得てして、こうした話のあやが使われると、事は真実味を増すものです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年10月23日金曜日

拷問

「ロマンティック街道」というネーミングは、マーケティング上の見事な成功例だと思います。ロマンティック街道とは、ドイツ南部のバイエルン州ヴュルツブルクからフュッセンまでの約400kmを指します。1950年、観光促進のために命名されたようです。ここで言う街道とは、幹線道路ではなく、観光ルートといった意味です。ドイツには、もともと休暇街道という概念があったようです。1927年に制定されたドイツ・アルペン街道が嚆矢とされます。現在も多くの休暇街道が存在します。その発想の元になったのは巡礼道ではないかと想像します。日本では、ロマンティック街道を、メルヘンチック、あるいはローマ的と誤認しがちですが、本来的には、ロマン主義的という意味です。

ロマンティック街道の中心の一つが、ローテンブルク・オプ・デア・タウバーだと思います。ローテンブルクは、タウバー川流域にあって、ニュルンベルクと共にフランケン地方を代表する街です。中世の街並みがよく保存されているローテンブルクは、世界中から観光客が訪れます。その歴史は、10世紀にまでさかのぼります。神聖ローマ帝国下では、皇帝直属の帝国自由都市として栄えます。17世紀の三十年戦争ではプロテスタント側として戦いますが、フランス軍に占領され、街は荒廃します。それが、中世の街並みを残すことにつながったといわれています。20世紀になると、ナチスが”最もドイツ的な街”と賞賛したことから、ある意味、ナチズムの聖地化します。第二次大戦で大きな被害を受けますが、世界中から寄附が集まり、街は再建されます。

見所の多いローテンブルクですが、最も印象に残っているのは「中世犯罪博物館」です。”犯罪”と言いますが、印象的には展示物の大半が拷問に関わっており、拷問博物館ではないかと思いました。拷問は、人間が共同体を構成して以来、強要の手段として世界中で行われてきたのでしょう。主に自白を得るための手段となったのは、中世ドイツでのことだったようです。神が裁くという神判から脱却するために自白が重視され、取り調べの延長線上で公然化されたようです。拷問を行う役人も生まれますが、その精神的負担を軽減するため、彼らは仕事中にワインを飲むことが許されていました。ワインが拷問を激化させたという説もあります。エスカレーションには、人間のサディスティックな面、創意工夫する能力、そして一神教の苛烈さも関係しているのでしょう。

最も印象的な拷問具は、アイアン・メイデンでした。複製品でしょうが、現物を見るのは初めてだったので恐怖を感じました。聖母マリアをかたどったという2mばかりの鉄製の人形は、内側に無数のクギが取り付けられています。中に入れられた人間は、全身をクギで刺される仕組みです。アイアン・メイデンは、中世には実在していなかったという説もあるようです。「苦悩の梨」も恐ろしい代物でした。鉄の器具を口の中にいれ、ネジで広げていくわけです。他にも恐ろしい危惧が並んでいましたが、恥辱を与えるための道具も多く展示されていました。これは取り調べの一環ではなく処罰ということなのでしょう。鉄の仮面や体を覆う樽などは、公衆の面前に晒すことで人間の尊厳を奪ったわけです。日本の村八分にも似て、共同体の根源に関わる処罰と言えます。

もちろん、現在は、国際法上も、各国の法制上も、拷問は固く禁じられています。しかし、今も、戦場で、警察で、あるいは私的にも拷問は続けられています。自白を得るためなら、自白剤を使えば済むことではないかとも思います。ただ、いわゆる自白剤は、意識を朦朧とさせる薬効しかなく、必ずしも確実に自白を得られるものではないようです。自白剤は。第一次大戦の頃に登場し、ナチスが徹底研究しました。その成果を引き継いだのが冷戦下のアメリカとソ連です。余談ですが、昔、アミューズメント・パークで、パイレーツに乗りました。ボート形の乗り物が振り子運動を繰り返すという恐ろしい代物ですが、いつ終わるか分からないところが、まさに拷問そのもの。「何でもするから、降ろしてくれ!」と叫び続けました。金を払って拷問を受けるなど狂気の沙汰です。降りてから製造会社を確認すると、ドイツのメーカーでした。納得しました。(写真出典:commons.wikimedia.org)

Tokyo Film 2026(1)