家作という言葉は、ほぼ死語になっていますが、人に貸して賃料を稼ぐために建てた家のことです。江戸の長屋から始まったと聞いたことがあります。長屋、あるいは棟割長屋は、平屋の木造アパートのような作りです。各戸は、おおむね6畳の部屋で、出入口は横丁に面していました。玄関と台所を兼ねた土間が1畳半、座敷が4畳半というごく狭い部屋でした。江戸庶民の多くは、この長屋に住んでいたわけです。江戸っ子は「宵越しの金はもたねぇ」とイキがりますが、宵越しの金など持てなかったというのが現実だったのでしょう。賃料は月400~600文、現代価値で8,000円〜15,000円程度だったと言われます。六軒長屋なら、大家の収入は月5~9万円ほど。職人の稼ぎ頭と言われた大工の月収が10~15万ですから、決して大儲けという商売ではなかったのでしょう。
明治になると、土地の売買が自由化され、民法も整備されたことなどから、不動産取引が活発になります。一方で、固定資産への課税も始まったことから、家作が多く建てられることになりました。当時の家主には、土地の払い下げを受けた士族が多かったようです。借家の建付けは、江戸期と変わらなかったようですが、その後、徐々に西洋化が進み、1910年(明治43年)には、上野に日本初となる5階建の木造アパート”上野倶楽部”も登場しています。そして1916年(大正5年)には、日本初の鉄筋コンクリートの集合住宅が、長崎県高島町の端島(軍艦島)に建てられます。また、借家も長屋ではなく戸建化が進んでいったようです。恐らく、この頃から、サラリーマンの副収入や老後の収入源としての家作が広がっていったものと思われます。
敗戦直後は、深刻な住宅不足となり、復興住宅と呼ばれる簡易な家が急増します。広い家の建築は法的に制限された時代でした。粗末な家作も多く建てられたのでしょう。インフレも相まって家作に関する家賃の統制も行われます。また、自宅を建てるための公的融資制度も整備されていきます。戦後復興から高度成長期を迎えると、農村の労働力が都市部へと大移動を始めます。官舎や社宅が増えていくわけですが、それは役所や大企業に限っての話であり、多くの労働者のためには木造2階建のアパートが多く建てられていきます。いずれも昭和を代表する街の光景になっていきます。いずれも狭い住空間のことですから、ちゃぶ台を置いて食事し、終われば片付けて布団を敷いて寝るという生活です。風呂もなかったことから、銭湯が繁昌した時代でもあります。
そういう意味では、木造2階建のアパートは、姿こそ違えど、江戸の長屋に似ていたと言えそうです。1960年代に入ると、水洗トイレ、風呂、ダイニングキッチン、ベランダを備えた公団住宅、いわゆる団地がブームとなり、入居抽選の倍率が高く、なかなか当たらなかったようです。また、70年代以降は”夢のマイホーム”という言葉も一般化します。逆に言えば、家作のニーズは引き続き高く、サラリーマン等が、老後の生活資金準備、孫子へ遺産の用意として活用していたものと思われます。その後、豊かな時代になると、木造アパートは賃貸マンションへと変わっていきます。社宅も姿を消していきます。少子化で市場は減少したものの、賃貸ニーズがなくなることはありません。競争が激しくなった市場に素人のサラリーマンが手を出せる時代ではなくなりました。一方で、サラリーマンが老後に備える投資の選択肢も広がってきたとも言えます。いずれにしても、家作という言葉は昭和とともに消えていったわけです。(写真出典:homes.co.jp)






