2026年7月17日金曜日

前世

ダライ・ラマ14世
30年も前のことですが、北京の前門劇場へ京劇を観にいった際、記憶に残るほど強烈な既視感、いわゆるデジャブュを感じました。デジャブュを記憶していることなどありませんが、この時だけは特別で、これ以降にデジャブュの記憶などありません。もっとも、デジャブュは、年齢とともに感じることが無くなるようですから、歳のせいかもしれません。それと、あれはデジャブュだったのかと疑問に思う点もあります。というのも、前門劇場のデジャブュは、単なる既視感ではなく、祖父と一緒に来たことがあるという漠然としたイメージも浮かんだのです。さらに言えば、もともと京劇は好きだったのですが、それ以降、妙に懐かしさを感じるようになりました。京劇の歌唱など意味も分からないのですが、とても懐かしく思え、かつ、常に祖父のイメージが浮かびます。

祖父とは外祖父のことです。教員だった祖父は、日露戦争に砲兵として従軍したことがあり、それが唯一の海外経験だったと思われます。京劇が好きという話は一度も聞いたことがありません。戦争の話も一度も聞いたことがありません。経験がベースでないとすれば、京劇やその独特な歌唱がアジア系DNAに働きかける何かを持っているのかもしれません。あるいは、私の前世の記憶の断片、とでも考えるしかありません。輪廻は、バラモン教、ヒンドゥー教の根幹を成す思想であり、仏教やジャイナ教にも引き継がれます。また、転生、リーインカーネーションは、世界各地でも見られる思想です。転生を明確に否定しているのはイスラム教だけとも聞きます。もちろん、輪廻や転生は非科学的です。非科学的とは、まだ人間が解明できていないという意味もあるわけですが。

世界には、前世の記憶を持っているという人が多く現れてきました。しかし、科学的に検証すると、本から得た知識、他人から聞いた知識がほとんどだったようです。突然、外国語を話すという事例も多いようですが、フランス語のように聞こえるだけでフランス語ではないというケースばかりだったとのこと。全てを否定することはできないかもしれませんが、おおよそ思い込み、勘違いの類いだと言えます。私の京劇に関する懐かしさという感情も、なんらかの記憶が交錯して生まれているのでしょう。それにしても、輪廻や転生といった死生観が古くから存在し、今も、それなりに支持されているのは、何故なのかということが気になります。多くの信仰や宗教が、死への恐怖に基づいて成立していることに関係しているのだろうと思います。

仏教の輪廻は苦しみであり、現世で功徳を積むことによって輪廻から解脱できるとされます。死後に起こることを明らかにしつつ、現世での生き方を諭しているわけです。一方、転生の多くは、身体は滅びても魂は不滅であるという思想です。ある意味、不死の発想であり、死の恐怖を軽減する効果があるわけです。転生と言えば、チベットのダライ・ラマを思い起こします。ダライ・ラマは、チベット仏教最高位のラマであり、観音菩薩の化身とされます。かつては、政治の最高権力者でもありました。ダライ・ラマが亡くなると、転生して、どこかで生まれ変わります。高僧たちは、各種占いを行い、様々な兆候を読み解き、転生したダライ・ラマを探すことになります。候補者を見つけると、高僧たちは本当の転生ダライ・ラマか否かを確認するために、いくつかのテストを行います。その一つは、前世の記憶の確認なのだそうです。

催眠療法の一つに退行催眠があります。催眠状態で記憶をさかのぼることで、トラウマやコンプレックスの原因を明らかにし、心理的な安定を得るという手法です。その際、しばしば前世の記憶が現れるようです。ただ、多くは虚偽の記憶や誤った記憶とのことです。なかには、反論が難しいケースも存在するらしいのですが、だからと言って前世や転生を証明しているわけでもありません。誤った記憶であっても、精神状態が回復するのであれば意味があるのでしょう。1970年代に始まるオカルト・ブームを機に、80年代以降、前世ブームが起きています。また、漫画、アニメの世界では転生ブームが続いているとも聞きます。しかし、転生は、ファンタジーのジャンルとしては定番なのでブームと言うべきかどうかは疑問です。常に前世の人気が高いということは、いつの世も現世に不満を持つ人が多いということなのでしょう。(写真出典:britannica.com)

2026年7月15日水曜日

ウクレレ

名手エディ・カマエ
定年退職後に新たに趣味を持とうとする人たちがいます。現役時代、無趣味だった人が多いのでしょう。新たに見つけた趣味にハマって楽しそうに日々を送っている人たちがいる一方で、当初の意気込みはどこへやら、早々にあきらめる人も多くいます。典型的だと思うのが写真です。知人を見渡すと、高価なカメラを買ったにも関わらず、開店休業状態の人が何人かいます。実は、私も、老後の楽しみとして写真を考えました。ニコンの知人に相談すると、いきなり一眼レフではなく、まずは高機能なデジカメで遊んでみたら、と言われました。その通りにしてみました。しばらくは旅行に携えて行きました。ただ、ドロミテでバッグからカメラを出そうとして転倒、骨折して以来、止めてしまいました。スマホで十分だと気付いたからでもあります。

ウクレレも老後の趣味の典型の一つだと思います。長続きしなかった人を2人ばかり知っています。カメラもウクレレも簡単そうに見えるのでしょう。ウクレレは、小型で4弦だけなので扱いやすく、かつ、のんびりとしたムードのハワイアンゆえ無理なく弾けると思うのでしょうが、小型な楽器ほど、扱いも難しくなるものです。間口が広ければ、奥行きも深いと思うべきです。いずれも表現手段ですから、表現する欲求と表現したい対象がなければ、まったく無意味だと思います。ウクレレをあきらめた知人の1人は、多少は続きましたが、その理由は、フラダンスの先生でもある女性講師が魅力的だったからと聞きました。動機は不純なほど長続きするものですが、ひょっとすると、講師がきれいに見えたのは、彼女がハワイの文化を体現していたからかもしれません。

ウクレレの起源は、19世紀後半、ポルトガル移民が持ち込んだブラギーニャだとされます。ウクレレは、ハワイ語で”飛び跳ねるノミ”を指します。細かな指使いに由来するのでしょう。19世紀のハワイでは、社会、文化、そして音楽が大きく変わります。1795年、西洋の銃を手に入れたカメハメハ1世がハワイを統一し、ハワイ王国を建国します。西洋からの移民や文化の流入が始まります。1874年に選挙で国王になったカラカウアは、廃れていた伝統芸能の復活に努めます。その妹で最後の王となったリリウオカラニは音楽の才能に恵まれていたこともあり、その治世下で西洋音楽を取り入れたハワイアン・ミュージックが形成されていくことになります。ウクレレのみならず、ハワイ発祥のスティール・ギターやスラック・キー・ギターも、この時代に生まれています。

20世紀初頭になると、ハワイ音楽は世界的ブームになります。1915年にサンフランシスコで開催されたパナマ・パシフィック国際博覧会での演奏がきっかけの一つになったようです。ハワイの音楽は、地元観光でも欠かせない存在となり、ハワイに赴任した多くの米軍兵士たちが広めたとも言われます。ハワイ移民の多かった日本でも、日系2世のスティール・ギター奏者バッキー白片がハワイアンを広げたとされます。敗戦後も、進駐してきた米兵がもたらしたハワイアンは大ブームとなっています。アメリカ本土でも日本でも、ハワイは憧れの島です。アメリカ資本がリゾート化したという背景もありますが、そもそも気候風土が魅力的だったと言えます。そして、ピースフルなハワイアン・ミュージックと文化が人々を惹きつけてきたことも大きな要因なのでしょう。

南北アメリカの大西洋岸では、西洋音楽と西アフリカ音楽が融合して、サンバ、ソンやカリプソ、そしてジャズが生まれています。実は、太平洋の真ん中でも、西洋音楽とハワイの伝統音楽が融合してハワイアン・ミュージックが生まれていたわけです。余談ですが、ポルトガルからブラジルに渡ったブラギーニャは、スティール弦のカヴァキーニョとなり、今でもサンバやショーロに欠かせない楽器になっています。また、インドネシアに伝わったものは、クロンチョ音楽のチャッ・チュッという3弦の小型ギターになりました。あらためて、大航海時代を切り開いたポルトガルの影響力には感心させられます。ちなみに、ハワイ風ドーナッツのマラサダも、ポルトガル移民がハワイに持ち込んだものです。(写真出典:eddiekamaesongbook.org)

2026年7月13日月曜日

甘唐辛子

私の夏の朝食の定番は、洋食系ではサルサ・ドッグとガスパチョの組合せ、和食系では茗荷ご飯とししとうの炒め物をメインに、塩鮭、味噌汁、漬物といった献立です。茗荷ご飯は、刻んだ茗荷に出汁醤油をふり、温かいご飯にかけて食べます。ししとうは、ごま油で炒め、日本酒をふりかけ、最後に香り付け程度に焦し醤油をまぶします。ししとうは、他にも、味噌炒めや焼き浸しも作りますが、朝はこのシンプルな醤油炒めがもっぱらです。夏の朝食として、山形の出汁、宮崎の冷汁などを好んで食べていた時期もありましたが、ここ15年ほどは、ほとんど茗荷とししとうです。

ししとうは、京都のタキイ種苗が獅子唐辛子を改良して作ったと聞きます。獅子唐辛子は、甘唐辛子の一種で、実の先が獅子の頭に似ていることから命名されたようです。ただ、どこが獅子の頭なのか、さっぱり分かりません。ししとうは、完熟すると赤く色づくようですが、その前に摘んで食べているわけです。唐辛子は、アマゾン川流域が原産とされ、南米では古代から食されてきたようです。唐辛子が南米を出たのは、15世紀末のことです。コロンブスが持ち帰ったわけですが、驚異的だと思うのは、それが世界中に伝播するスピードの速さです。折しも大航海時代を迎えていたことが最も大きな要因ではありますが、唐辛子自体がそれほど魅力的な食材だったとも言えるのでしょう。

日本へ伝来したのは16世紀半ば頃とされます。伝来ルートについては諸説あります。唐辛子の”唐”は、ダイレクトに中国を指すのではなく、海外という意味です。唐辛子は、南蛮とも呼ばれます。やはり、ポルトガル船によって、鉄砲など共に伝えられたのでしょう。当初は、観賞用、あるいは保温材として使われていたようです。甘唐辛子の栽培の歴史ははっきりしませんが、安土桃山末期から江戸初期だったのではないか、とされています。甘唐辛子のなかで最も古い栽培の歴史を持つのは、京の伝統野菜・伏見とうがらしだと聞いたことがあります。江戸初期の文献に登場するようです。京野菜と言えば、万願寺とうがらしが有名ですが、これは大正末期の舞鶴あたりで、伏見とうがらしと大型ピーマンが交雑してできたようです。万願寺は、私の大好物です。

ピーマンは、明治の頃、日本に伝わり、普及したのは戦後のことでした。敗戦直後、政府は厳しい食糧統制を行っていましたが、ピーマンは対象になっていなかったので、急速に栽培が広がったようです。ピーマンは、フランス語のペッパーに相当するpiment(ピモン)から来ているとされます。和製外来語なので、ピーマンは日本でしか通用しない言葉です。例えば、アメリカではグリーン・ペッパー、フランスではポワヴォン・ヴェールとなります。アメリカでスペイン語の借用語として定着したPimiento、ないしはPimient(ピメント)をフランス語読みしてピーマンになったという説もあります。ピーマンは、熱帯アメリカ原産ですが、アメリカで改良されてピーマンに、さらにオランダで改良されてパプリカになっています。

夏は甘唐辛子の季節とも言えます。旬の食材は、新鮮で安いだけでなく、美味しく、かつ栄養価が最も高い状態で食べることができます。甘唐辛子類には、ビタミンCの疲労回復効果、βカロテンの抗酸化作用と免疫力維持、ビタミンEの抗酸化作用、カリウムの塩分排出効果などが期待できます。夏にこそ食べるべき野菜とも言えそうです。また、ししとうは、食物繊維が豊富過ぎて、食べ過ぎに注意する必要があるようです。一日に10本程度にしておかないと腹痛を起こしかねないとされます。私は、一度に20本以上食べますけど、お腹を痛めたことなどありません。(写真出典:delishkitchen.tv)

2026年7月11日土曜日

船徳

古典落語「船徳」は、滑稽噺ですが、江戸の夏の情緒をよく描いていると言われます。もともとは人情噺として、江戸期に生まれたようですが、明治になってから、初代三遊亭圓遊がアレンジして滑稽噺に仕立てました。にわか船頭の若旦那の滑稽さだけでなく、櫓や棹を扱う仕草、船の上で揺れる客の様子など、細かなところで噺家の腕も試される噺だと思います。それでいて、全体としては隅田川の夏の風情を醸すわけですから、滑稽噺とは言え、前座、二つ目くらいには難易度の高いネタだと思います。何度聴いても飽きのこない噺があります。夏場にうってつけの船徳もその一つだと思っています。 

勘当された若旦那が転がり込んだ先は、設定上、柳橋の船宿ということになります。隅田川と神田川が合流する柳橋界隈は、新興の新橋と並び、”柳新二橋”と呼ばれるほど栄えた花街でした。料亭や船宿が建ち並び、柳橋芸者が行き交っていたのでしょう。柳橋芸者は、東京で一番格上だったと教えてくれたのは、柳橋最後の料亭「いな垣」の女将でした。いな垣も東京で最も格上の料亭と言われていたようです。横綱審議会の会場だったことでも知られます。ただ、私がお邪魔した際には、ビルの中に入り、窓の外に見えるのは堤防だけという有り様で、往時の面影など一切ありませんでした。時代の変化もありますが、隅田川の護岸工事で風情を奪われた柳橋は廃れるしかなかったわけです。いな垣も1999年に店を閉めています。ただ、船宿は、今も数軒残っています。

船宿は、宿泊施設ではなく、船と船頭を抱える水運業者です。今も東京には60軒の船宿があり、屋形船や釣り船の運航を行っています。店によっては、座敷での宴会もできます。20年前の話ですが、屋形船の貸し切りは一艘25万円程度と聞きました。密談をするために2~3人程度で貸し切る人もいたようです。船宿のかき入れ時は、墨堤の花見と両国の花火ということになるのでしょう。それは、江戸の頃から変わっていないように思います。船徳の噺は、7月10日、観音様の功徳日”四万六千日”の出来事です。この日にお参りすると四万六千日分のご利益を授かるとされます。米の一升が米粒46,000粒にあたることから、一生分のご利益というダジャレで四万六千日と呼ぶようになったようです。浅草寺では、四万六千日に併せてほおずき市が開催されています。

噺のなかに、”ぼうず”という軍鶏(しゃも)屋が出てきます。多めのご祝儀をもらったのでぼうずへ繰り出した船頭が、飲み過ぎて他の客と喧嘩になった、というくだりです。”ぼうず 志ゃも”は、両国で、最近まで営業していました。軍鶏は、江戸初期にシャムから闘鶏のために輸入されています。江戸中期、今も人形町で営業している”玉ひで”等の軍鶏鍋が人気となり、江戸の名物とされるまでになります。軍鶏鍋は、門前仲町の有名店“有明”で何度か食べましたが、騒ぐほどのものではないと思いました。いずれにしても、江戸末期から明治の頃の江戸では、ちょっと贅沢な人気の料理だったわけです。池波正太郎の鬼平犯科帳には「夏こそしゃも鍋ですぜ」というセリフがあるようです。恐らく軍鶏鍋で精を付けて夏を乗り切ろうということだったのでしょう。

にわか船頭の若旦那の舟に乗ることになった二人の客は、夏を楽しむ江戸庶民の代表なのでしょう。柳橋の船宿の常連として、舟で吉原に通い、舟で桜や花火を楽しんでいたのでしょう。恐らく、日本橋界隈の商人といったところかと思います。古典落語「船徳」の主人公は、若旦那のように思えます。ただ、若旦那は決して深掘りされることもなく、むしろ狂言回し的存在のようにも思えます。あえて、船徳の主人公を言うのならば、夏の隅田川の風情、ということになるのでしょう。浄瑠璃の道行きにも似た味わいを持っていますが、主人公の心情が重ねられることなく、情景がスケッチされるのみです。船徳は、風変わりで粋な噺と言えそうです。(写真出典:tabashio.jp)

2026年7月9日木曜日

京成百貨店

水戸への出張は、日帰りと相場が決まっていました。15年程前、あんたが好きそうな居酒屋があるから案内するよ、と水戸支社の知人に言われ一泊したことがあります。その際、居酒屋へ向かう道すがら、京成百貨店を見て驚きました。京成電鉄は、茨城県に鉄道路線もバス路線も持っていません。なぜ水戸に京成百貨店があるのか、と知人に聞くと、詳しいことは分からないが、京成電鉄の社長だった人が水戸出身だったので、水戸にも百貨店を作ったらしい、とのことでした。電鉄会社の戦略としてはピンときません。京成傘下の関東鉄道はあるものの、県南部が主戦場ですし、百貨店を作るなら自社名を使うはずです。なお、水戸には京成ホテルもあり、現在、茨城県のビジネスは、京成電鉄茨城ホールディング傘下に集約されています。 

京成電鉄は、東京と成田山新勝寺を結ぶべく、1909年(明治42年)に設立されています。延伸を重ね、上野・成田間が全線開通したのは1933年のことでした。現在、営業路線としては、近鉄、東武、名鉄、東京メトロに次ぐ私鉄第5位の長さを誇ります。電鉄会社の基本的な戦略は、阪急電鉄の小林一三の発案によるところが大きく、沿線の宅地、商業施設、レジャー施設等の一体開発が特徴です。京成電鉄は、多少異なる路線を採ってきたように思います。路線としては既存の新勝寺の参拝を目玉に据えたこと、そして、沿線にこだわらない開発をしてきたことも特徴的だと思います。その典型は、東京ディズニーランドということになります。その戦略を進めたのが、1958~1979年まで、約20年間に渡り社長を務めた川﨑千春です。

川崎千春は、1903年、水戸に生まれています。もともとは尾張徳川家に仕えた絵師の家系でした。川崎も画才があったようですが、親戚には画家が多く、血はつながっていませんが東山魁夷もその一人だと聞きます。旧制水戸高校(現茨城大学)から東京帝国大に進み、卒業後は川﨑信託(現三菱UFJ信託)、帝都タクシーを経て京成電鉄に会計課長として入社しています。社長就任後は、高度成長の波に乗り、積極的に不動産開発や成田空港への乗入れ、そして東京ディズニーランドの開発を手がけていきます。特に、東京ディズニーランドは、埋め立てから、ディズニー社との誘致交渉も含め、20年を超える取組の成果でした。水戸の京成百貨店も川崎社長時代に誕生しています。水戸支社の知人の言うとおり、水戸出身の社長が関与していたわけです。

水戸京成百貨店の前身は、常陸太田の小間物屋”島津商店”が経営する志満津百貨店でした。その高級路線は、戦後復興が進む水戸で人気となり、経営は順調だったようです。しかし、水戸市の経済成長は、中央からの大型店舗の出店ラッシュにつながります。これに危機感を持った志満津百貨店は、沿線外開発に積極的だった京成電鉄と資本提携に踏み切ります。当時、京成電鉄は、市川、上野、土浦に百貨店を設立し、水戸進出も視野に入っていたようです。志満津百貨店は水戸京成百貨店となり、地盤を固めていきます。ただ、百貨店への進出が遅れた京成電鉄は、水戸以外の店舗で苦戦が続き、早々に閉店に追い込まれていきます。市川店は残りましたが、実態はスーパーマーケットでした。市川京成百貨店跡地は、現在、京成電鉄の本社となっています。

百貨店は、提案のビジネスだと思います。一定のコンセプトや価値観に基づき、新たな生活や商品を提案することで、リピーターを生み、ふりの客を呼び込みます。そこがしっかりしていないと、他店や他業態との違いがあいまいになり、流通の荒波に飲み込まれていきます。百貨店の閉店ラッシュは、主に地方で起こりました。ショッピング・センターやEコマースに客を取られた、地方都市自体が地盤沈下している等の理由が挙げられています。しかし、一定の商圏の存在は前提となりますが、コンセプトがブレない限り、百貨店は生き残っていくものと考えます。大雑把に言えば、富裕層を対象とするリピーター戦略しかないと思います。恐らく、水戸京成百貨店は、それがハマっているのでしょう。(写真出典:kumesekkei.co.jp)

2026年7月7日火曜日

シリアル

世界の朝食の幅広さには驚かされます。気候、風土、慣習等の違いは、同じ国の中ですら大きな違いを生みます。そのなかで、最も異質だと思える朝食がアメリカのシリアルです。もちろん、穀物と乳製品の組合せですから、朝食としての要件は満たしているのですが、工業的に生産された食品であり、どの段階でもほぼ調理されていない点が、極めて異質です。シリアルは、19世紀のアメリカで発明されていますが、未来的でSF的な食品だとも言えます。アメリカは、今年建国250年を迎える歴史のない国です。合理性と効率を追求して様々な分野で実験を繰り返す国ならではの朝食とも言えるのでしょう。そういう意味で、シリアルは最もアメリカ的な食べ物なのかもしれません。 

朝食用シリアルが発明されたのは、1863年のことです。シリアルとは”穀物”という意味ですが、小麦の全粒粉の生地をシート状に伸ばし、熱で乾燥させて成形したものでした。。NY州北西部で、温水治療のサナトリウムを経営するジェームズ・ケイレブ・ジャクソン博士が開発しました。当時、病気の多くは消化器系が原因とされており、肉食を減らす試みが始まっていました。ジャクソンも治療の一環として朝食用シリアル”グラニューラ”を開発しました。しかし、グラニューラを食べるためには、一晩、水に漬けておく必要があり、不人気だったようです。1877年、手動のオートミール挽き機を使ってオートミールを販売していたフェルディナント・シューマッハは、クエーカー・オーツ社を設立します。オートミールは、燕麦を脱穀して蒸し、平たく加工したシリアルです。

そして、1895年、ケロッグのコーンフレークが発売されます。アメリカの朝食が変わった瞬間だったのでしょう。ケロッグ医師は、ミシガン州バトルクリークのサナトリウムの所長でした。宗教的な菜食主義と腸内細菌の研究からコーンフレークは誕生したようですが、マーケティングを担当した弟が砂糖を加えることを主張します。これが兄弟の争いに発展し、弟はケロッグ社を設立します。ほどなくして、サナトリウムの患者だったチャールズ・W・ポストがこの業界に参入し成功を収めます。彼の会社は、後にゼネラル・フーズとなっています。シリアルの普及に貢献したのは、シリアルを箱入りで販売したこと、そして第二次大戦後、子供の朝食をターゲットにしたことだと言われます。当然、甘いシリアルが中心となり、おまけ入りもスタンダードになりました。

甘いシリアルに子供たちは大喜び、安価で手間いらずのシリアルは主婦の強い味方です。郊外の戸建住宅、核家族化、共働き、大量消費社会といった社会変化とともに、シリアルは、瞬く間にアメリカの朝食の定番となります。一方で、家族揃っての朝食、おふくろの味といった伝統も崩壊していき、アメリカにおける家庭崩壊の一因になったという批判もあります。シリアルで育った子供たちは、自分の子供たちにもシリアルを食べさせます。そう簡単にアメリカのシリアル文化が変わるとは思えません。ただ、近年、材料費や生産コストの上昇にともないシリアルの価格が高くなっているようです。貧乏人はシリアルすら買えないわけです。近年、健康指向のシリアル、大人用のシリアルの効果もあり、シリアル市場は拡大しているようですが、販売量は低下しています。

日本でのシリアルの売上トップはカルビーの”フルグラ”です。麦類等のグラノーラにドライ・フルーツを入れたものです。フルグラは、1991年に登場し、2011年に現在の”フルグラ”に商品名を変えています。健康指向の高まりを背景に急成長を遂げ、世界トップのシリアル・ブランドとしてギネス・ブックにも登録されたようです。その成功要因は、メイン・ターゲットを20~40歳代女性に置いたことなのでしょう。日本における女性の就労環境は、世界的に見て遅れているとされてきました。近年では、人手不足もあって、環境も改善され、就労率も高まっているようです。フルグラは、忙しくなった日本の女性の味方というわけです。結構なことではありますが、食と健康、和食の伝統といった面からは多少気になります。さらに言えば、日本の食糧需給、就労環境といった基本的な議論も忘れてはならないと思います。(写真出典:kelloggs.co.nz)

2026年7月5日日曜日

小田原評定

北条早雲
小田原評定とは、多くの人が参加して、長時間に渡って議論するも、答えの出ない会議を揶揄して言う慣用句です。かつての日本企業には、この手の会議が多かったものです。責任回避のための無益な議論も多かったのでしょう。典型的には、積極策と保守策のせめぎ合いが多かったものと想像できます。議論が拮抗しているのであれば、リーダーの決断力が求められます。この慣用句の元になったのは、小田原合戦時、後北条方の評定において、籠城か出撃か、あるいは降伏か抗戦か、という議論が延々と続いたことだとされます。小田原合戦は、1590年、豊臣秀吉が、小田原の後北条氏を破った戦いです。秀吉が天下統一を成し遂げた最後の戦いでもあります。

後北条氏の小田原城は、天下無敵を誇る城でした。最大の特徴は、城と城下町全体を防壁で囲む惣構(そうがまえ)でした。土塁と空堀の総延長が9kmに及ぶという空前絶後の惣構です。後北条方は、この堅い守りを活かして籠城し、豊臣方が疲れたところで撃って出るという戦術を選択します。20万人を超える大軍を率いた秀吉は、関東一円の後北条方の城を次々と攻め落とします。いとも簡単に落とされたのは、後北条方が関東の武将たちを小田原城に集めて籠城したからです。各地の城には留守番役だけが残っていたわけです。秀吉は小田原城を完全に包囲し、戦いらしい戦いもないまま、後北条方は降伏します。戦わずして城を明け渡したという最後だけを見れば、後北条氏を誤解するかもしれません。勇猛な武将ひしめく関東に覇権を唱えた家です。

後北条氏の祖・伊勢盛時(北条早雲)は、桓武平氏の備中伊勢氏の出です。早雲は、室町幕府の高級官僚の家に生まれます。姉(妹説もあり)が駿河守護の今川家に嫁いだことから、その内紛の調停のために下向します。内紛は、一旦、落ち着き、功績が認められた早雲は所領を得ます。ただ、内紛は、その後も様相を変えながら続き、結果的に、伊豆を平定した早雲は、1495年頃、小田原城を奪取します。そして相模国を平定し、さらに領土を拡大していきます。後北条家は、16世紀末までに、関東一円を支配するまでに至ります。なお、伊勢氏が北条氏を名乗ったのは、2代氏綱の頃と推定されています。関東の諸勢力から外来の侵略者とみられていた伊勢氏が、相模国主としての正統性を得るために、鎌倉幕府執権・北条氏を継承すると宣言したもののようです。

後北条家の強さの源泉は、いち早く足軽を活用したこと、兵農分離を進めたこと、鉄砲を活用したこと、全国を凌ぐ甲冑生産量を誇ったこと等とされます。また、配下の城を格付けし、武将の公平な人事管理に活用したこと、領民に対しては、当時、もっとも低い税率である四公六民を採り、領内を安定させたことも知られています。さらに、配下に従えた在来の武将たちを定期的に集めて評定を行うことで、参画型経営を実現しています。あわせて、官僚制度の整備も行っています。これらは、室町幕府の諸制度を利用したものとされます。後北条家の強さは、荒ぶる坂東の地に、武力、統治、両面で近世を持ち込んだことにあるといえるのでしょう。小田原評定は評価されるべきであり、秀吉の大軍を前に行った評定のみを捉えて揶揄すべきではないと思います。

近世的な統治感覚を持った後北条家が、なぜ関白に登り詰めた秀吉と戦ったのか、という点は実に興味深いところです。秀吉が、武力による天下統一を狙っていなかったことはよく知られています。後北条家も、秀吉に忠誠を誓い、領地を安堵してもらう道があったわけです。直接的なトリガーとなったは、1589年の名胡桃城事件です。後北条家傘下の沼田城主が、秀吉の発した私闘禁止令、惣無事令に反して、真田家の名胡桃城を占領した事件です。そもそも名胡桃城占領は後北条家の指示かどうかも分かっていません。秀吉に詰問された後北条家ですが、従わなかったため、双方、兵を動かすことになりました。結果が見えているのに、あえて秀吉に刃向かった理由が、今一つ理解できません。秀吉に反感を持っていたとも、関東の独立を狙っていたとも言われます。少なくとも、桓武平氏の末裔として、室町幕府の臣下として、あるいは関東の雄として、秀吉を見下していたのだろうとは思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

前世