2026年3月2日月曜日

日本国王良懐

”日本国王良懐”とは、14世紀後半、明が”冊封国”である日本の国王とした懐良親王のことです。懐良(かねよし)が、なぜ良懐になったのか、誠に不思議です。しきたり等に基づく意図的なものなのか、単なる間違いなのか、よく分かりません。冊封とは、中国の王朝が、周辺国家に称号や印章を与えることで、形式的な主従関係を築くという中国伝統の外交手法です。被冊封国は、毎年、朝貢を行う事でその関係を維持しました。日本の場合、古くは漢が奴国を、魏が邪馬台国を、宋が五王時代の倭を冊封しています。しかし、6世紀以降、冊封関係は消滅し、日本は中国と、名目上、対等の関係を保つことになります。

明は、1368年、朱元璋が元朝を北に追いやって建国されています。当時、中国沿岸部は、主に九州、対馬、壱岐から出撃してくる倭寇の襲来に悩まされていました。倭寇が勢いを増した背景には、南北朝の混乱、室町幕府の衰退があるとされています。1369年、太宰府を占拠していた懐良親王のもとに、国書を携えた明の使者が来訪します。国書は、日本国王が倭寇を取り締まらなければ、明は軍を派遣して倭寇を成敗し、国王を捕えるという内容でした。この脅しに、懐良親王は激怒し、使節団17名のうち5名を殺害し、2名を3か月勾留します。翌年、明は、さらに高圧的な国書を持った使節を送り込みます。明側の記録に依れば、懐良親王は態度を一変し、倭寇が捕虜にしていた70余名と貢ぎ物を明に捧げることで、日本国王として冊封を受けます。

懐良親王が冊封を受け入れた理由は、明を恐れたからではなく、日明貿易がもたらす富が魅力的だったからなのでしょう。飛ぶ鳥を落とす勢いで九州を制圧していった南朝の懐良親王でしたが、ほどなく北朝側の攻勢を受けて太宰府を追われています。しかし、事情を把握していない明は、依然として懐良親王を日本国王と認識し、他との貿易を認めませんでした。薩摩の島津氏はじめ日明貿易を行おうとする者は、やむなく懐良親王の名をかたるしかありませんでした。室町幕府の将軍・足利義満ですら、明からすれば、日本国王良懐と争う敵方の臣下と見なされ、日明貿易の開始までには苦労を強いられたようです。なんとも律儀な話ですが、明としては、冊封体制を維持するためには、当然の対応だったわけです。なお、後に足利義満は日本国王として冊封されています。

一時とは言え、明から日本国王とされた懐良親王は、後醍醐天皇の皇子でした。後醍醐天皇は、鎌倉幕府を破り天皇親政を回復します。建武の新政です。しかし、足利尊氏に敗れて、逃れた先の吉野で南朝政権を建てます。後醍醐天皇は、皇子たちを全国に派遣し、地方からの巻き返しを図ります。まだ幼かった懐良親王も、征西大将軍に任じられ、九州に向かいます。徐々に豪族たちを味方に付けた懐良親王は、北朝勢との戦いを展開し、ついに九州の最重要拠点とも言える太宰府を制圧するに至ります。しかし、それも長くは続かず、足利義満が送り込んだ九州探題・今川了俊によって追い詰められていきます。最終的には、現在の八女あたりで、病のために没したとされます。都から遠く離れた九州で、幼時から戦いの人生を送った凄まじい皇子でした。

懐良親王が始めたとも言える日明貿易ですが、その後、150年以上に渡って継続されることになります。その莫大な利益は、当初は室町幕府が独占し、幕府の勢力が弱まると、細川氏と堺商人、大内氏と博多商人などが手にすることになります。日本からは銅などの鉱物資源、明からは、江戸初期まで流通した硬貨”永楽通宝”、生糸、織物、陶磁器、書物などが輸入され、経済、文化に大きな影響を与えました。日本の伝統文化の中核を成すことになる東山文化、北山文化も、日明貿易なくして成立しなかったと言えます。幕府が管理する勘合貿易だった日明貿易は、16世紀中頃、大内氏の滅亡、倭寇の活発化を受けた明の海禁政策強化等によって下火になります。また、民間の貿易量が幕府の勘合貿易を上回るようになったことから、新たな貿易管理が求められ、朱印船貿易へとつながっていきます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年2月28日土曜日

フラタニティ

コメディ映画は、各国の社会環境、慣習、規範、あるいは宗教の違いなどから、笑いのツボが微妙に異なり、心底笑えないものも多いと思っています。「ブルース・ブラザース」(1980)の大ヒットで知られるジョン・ランディス監督が、1978年に撮った大ヒット・コメディ「アニマル・ハウス」の笑いもしんどい面がありました。ハバード大のユーモア雑誌を起源とするナショナル・ランプーン誌の映画展開第一弾でした。知的で過激と言われる笑いのスタイルですが、アメリカのゲロゲロに甘いだけの安ケーキを思わせるところがあって、やや苦手でした。ただ、不思議なことに、いつまでも記憶に残る映画でもありました。アニマル・ハウスは、アメリカの大学伝統のフラタニティを舞台となっています。

フラタニティやソロリティは、社交クラブ、友愛クラブ等と訳されます。ロータリー・クラブ、ライオンズ・クラブ等も含まれますが、アメリカでは、ほぼ大学の社交クラブを指します。社交クラブとしては、日本の大学にもサークルなどがあります。ただ、アメリカのフラタニティは、まったく異次元の存在です。歴史の長さ、排他性、結束力、学内の邸宅風の寮、卒業後の強い絆といった独特の文化を築いています。伝統的には、男子学生を対象としたいわゆるボーイズ・クラブですが、女子学生、黒人学生のための組織もあります。全学生が参加しているわけではありません。フラタニティの数が全米最大というイリノイ大では参加学生が2割に達すると聞きますが、通常は、ごく限られた参加者数に留まります。いわば選ばれた者のための組織というわけです。

一般的なフラタニティは、政治、宗教、あるいはビジネス等を目的として、古くから、世界中で結成されてきました。時には秘密結社的でもあり、フリー・メイソンもその一つです。アメリカの大学におけるフラタニティの形態もフリー・メイソンの影響を受けているようです。その嚆矢は、1776年、ウィリアムズバーグにあるウィリアム・アンド・メアリー大の”ファイ・ベータ・カッパ”とされます。名称がギリシャ語であることもエリート主義や秘密主義の表れであり、その後、多くのフラタニティがこれに倣います。フラタニティの原型は、1825年に創設されたNY州ユニオン大の”カッパ・アルファ”とされています。当初は、大学当局から否定されていたようですが、次第にそのメンバーたちが社会的影響力を増していったことで公認されたと聞きます。

例えば、イェール大の”デルタ・カッパ・イプシロン”は、多くの財界人に加え、大統領も6人輩出しています。本人の優秀さや家柄に加え、強力なネットワークも成功要因になっているのでしょう。それにしても、大学のフラタニティという文化が、ほぼアメリカにしか存在しないことは不思議です。恐らく、アメリカのピューリタン文化や多民族国家というあたりが背景にあるのではないでしょうか。商工業に勤しむことが神に通じる道とするカルヴァン派ですが、欧州での弾圧を、信者が団結し、時に身を隠しながら耐えてきたDNAを持っています。また、多民族国家は、激しい競争社会でもあり、同じ民族や同質者の結束は生きていくうえで必須とも言えます。総じて言えば、厳しい競争を強いられる社会がフラタニティ文化を生んだとも言えるのでしょう。

大学のフラタニティには、どこか子供じみたところがあります。まるで子供たちの秘密基地遊びのようでもあります。秘密主義、独自のしきたりや合言葉、シンボル、独特なメンバー選考、ヘイジングと呼ばれるしごきのような通過儀礼など、いずれもが子供時代に経験したことを思い出させます。子供っぽいと言えば、それまでですが、それが強力なネットワークとしてアメリカ社会を動かしている面もあり、決してあなどれないわけです。思えば、アメリカの学校教育は、ひたすら競争ということを教え込んでいるようなところがあり、フラタニティはその最たるものの一つと言えそうです。アニマル・ハウスは、そうしたアメリカ社会の構造を皮肉っていたのでしょう。その根深さゆえ、笑いもグロテスクなほどにせざるを得なかったのかもしれません。(写真出典:filmarks.com)

2026年2月26日木曜日

良妻賢母

見性院
1581年に織田信長が開催した京都馬揃えは、当時、流行した馬揃えのなかで最も大規模で豪華なものだったとされています。馬揃えは、軍馬の優劣を競い、訓練成果を披露するイベントでした。馬は、武士にとって戦場のパートナーであるとともにステータス・シンボルでもありました。京都馬揃えは、天下布武を旗印に天下人への道を駆け上がる信長にとって、その成果と偉容を示す軍事パレードでもありました。多くの武将や公家が参加した馬揃えの行列のなかに、後の土佐藩初代藩主・山内一豊の姿もありました。困窮し、さほどの馬も持っていなかった一豊に、その妻(後の見性院)は自らの持参金を投げ打って名馬を買い与えます。その名馬は信長の目にとまるところになり、一豊は加増されます。

有名な”山内一豊の妻”という話であり、明治期から戦前にかけては、日本の婦女子が目指すべき良妻賢母の手本として女学校の教科書にも載っていました。ただ、京都馬揃えの頃、山内一豊は、既に現在の赤穂市周辺に2000石の領地を拝領しており、困窮していたわけではなかったようです。つまり、このよく知られた美談は、後の世の創作だったわけです。初出は江戸中期、一介の旗本から御側御用人にまで登り詰めた新井白石の著書などとされています。京都馬揃えの際の話というのは事実ではないとしても、そのはるか以前に行われた馬揃えで、似たような出来事があったのではないかという説もあります。いずれにしても、山内一豊の妻は、なかなかの人物で夫をよく助けたことは事実であり、この美談が創作される下地はあったと言えるのでしょう。

一豊の妻に関してお気に入りの話があります。”笠の緒文”です。関ヶ原の戦いの直前、一豊は、家康の会津征伐に従軍しています。留守宅の妻のもとに大阪城から文箱が届き、一豊に届けよ、と使者から言われます。書状は、増田長盛と長束正家が石田三成への加勢を促す内容でした。妻は、大阪の要請があっても家康に忠義を尽くすべきだとする自らの手紙を文箱に加えて一豊に届けます。さらに、妻は、一豊宛に、この文箱を開けずに家康に届けろ、という手紙をこよりにして使者の笠の緒に編み込みます。この笠の緒文を読んだ一豊は、手紙を燃やし、文箱を開封せずに家康に届けます。家康は、三成の開戦意志を知ると共に、一豊の妻の手紙に感動します。直後に行われた関ヶ原の戦いでの貢献もあり、一豊は、土佐一国を与えられることになりました。

妻は浅井家家臣の娘とされますが、戦国を生きた武家の人々の知恵が伝わる話です。ただ、教訓話ではなく、あくまでも処世術に過ぎません。家父長制を徹底したい明治政府としては、”山内一豊の妻”の良妻賢母イメージの方が大事でした。戦後、民主主義における基本的人権、男女平等という観点からして、”山内一豊の妻”の話は批判されることになります。しかし、批判されるべきは、家父長制であり、その徹底を図った明治政府です。作り話とは言え”山内一豊の妻”の話自体に否定すべき要素はないものと思います。戦国の武家は、夫も妻もなく、家族一丸となって生き残りを図るしかなかったはずです。農耕とともに成立した家父長制ですが、江戸期には幕府による社会管理の手法として徹底されます。江戸期の家族の姿は、戦国時代とは異なっていたわけです。

賢母という言葉は普遍的なものだと思いますが、良妻に関しては家父長目線ということになります。今風に言うなら、良妻良夫と並列すべきなのでしょう。妻の話ばかりが目立つ山内一豊ですが、果たして良夫だったのでしょうか。妻と手を取りながら功成り名を遂げたわけですから、良夫というべきなのでしょう。藩主として土佐に乗り込んだ一豊は、長宗我部残党の抵抗・反乱に苦しめられます。一計を案じた一豊は、大きな相撲大会を開き、集まった群衆のなかから長宗我部派を一網打尽にして処刑しています。司馬遼太郎の「功名が辻」においては、このだまし討ちを見た一豊の妻が夫に失望するというストーリーになっています。しかし、処世術に長けた夫と妻は似合いの夫婦だったのではないかと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年2月24日火曜日

ラム酒

東京ディズニーランドは、隣町にあるというのに久しく行っていません。それどころか、ディズニー・シーには行ったことすらありません。子供たちが小さい頃には、毎年、家族で行っていましたが、子供たちも成長すると親とは一緒には行かないものです。ディズニー・ランドは大人も楽しめるので、大好きでした。アメリカにいる時には、フロリダのディズニー・ワールドにも3度ばかり行きました。ディズニー・ランドで最も好きなアトラクションと言えば”カリブの海賊”ということになります。スティーブンソンの「宝島」の熱烈なファンとしては、当然の選択です。テーマソングの”Yo Ho (A Pirate's Life for Me)”が聞こただけでワクワクしてしまいます。

”カリブの海賊”のなかで酔っ払った海賊たちが飲んでいるのは、間違いなくラム酒ということになります。ラム酒は、17世紀のカリブ海で生まれた酒です。もっとも、サトウキビを発酵させた酒自体は、大昔から、世界各地で作られていたようですが、現在に至るラム酒の製造法が確立されたのが、17世紀のバルバトス島、ないしはプエルトリコと言われています。そもそも、サトウキビ自体はカリブに自生しておらず、15世紀にコロンブスが持ち込んだ作物とされています。カリブ海は、サトウキビのプランテーションと化していきます。現地のインディオたちが奴隷として働き、彼らがヨーロッパから持ち込まれたウィルスで全滅すると、アフリカから黒人奴隷が連れてこられます。

ラム酒は、サトウキビの絞り汁や廃糖蜜を発酵・蒸留し、樽で熟成して作られます。ラム酒は、砂糖生産の副産物、ストレートに言えば残りかすから作られる安酒だったわけです。当初、ラム酒は、奴隷の栄養補給や懐柔のために作られたようです。また、ラム酒は、ビタミンC不足で発症する壊血病の特効薬と信じられていたので、イギリス海軍が水兵に支給し、商船や海賊船にも積み込まれ、港の酒場にも置かれていきます。船乗りと言えばラム酒、ラム酒といえば船乗り、という関係が生まれたわけです。実際のところは、ラム酒そのものに効果があったのではなく、混ぜて飲まれていたライムやレモンのビタミンCが有効だったようです。いずれにしても、この誤解が、ラム酒をカリブ海から大西洋全域へと広めていったわけです。

ラム酒のアルコール度数は40~80%に達し、とても強い酒だと言えます。海賊たちがヘベレケになるのも当然です。ラム酒は強い酒というばかりではなく、甘さとコク、そしてほろ苦い香りが特徴です。その風味の良さからして、お菓子等のフレーバー、あるいはカクテル・ベースとしても重宝されています。かなでも、ラム・レーズンは最も広く流通している加工品かもしれません。ラム・レーズンは、18世紀のイギリスで誕生しています。最初からラム酒とレーズンの絶妙な組合せをねらっていたわけではなく、単にレーズンを保存するために強いラム酒を使ったことから生まれたようです。ラム・レーズンは、アイスクリーム、チョコレート、パウンド・ケーキといった焼き菓子、あるいはレーズン・バターにも使われています。

レーズン・バターは、もともとドイツが起源だと言われます。日本では、1972年に小岩井農場が商品化しています。おりからのウィスキー・ブームと相まって人気を博しました。ただ、小岩井のレーズン・バターは、ラム・レーズンは使っていません。一方、1977年に発売された六花亭のマルセイバターサンドは、ラム・レーズンを使っています。2000年前後から大人気となり、今や北海道を代表する銘菓と言えます。マルセイバターサンドは、ホワイト・チョコレートが加えられている点がヒットした理由なのでしょう。1983年に札幌で創業されたロイズ・チョコレートも北海道土産の定番になっています。ロイズのラム・レーズンの板チョコは、とてもレベルが高いと思います。しかし、近年、ラム・レーズンを使ったお菓子の王様に君臨しているのは、鹿児島の梅月堂のラムドラだと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年2月22日日曜日

武相荘

白洲次郎は、敗戦後、吉田茂首相に請われて閣僚となり、その後、東北電力の会長職を務めるなど財界人としても活躍した人です。名のある人ではありますが、歴史的偉業を成し遂げたわけでもなく、著作があるわけでもなく、教科書に名前が載るような人ではありませんでした。ところが没後、1980年代後半から、にわかに知名度を高め、戦後日本を救った人くらいの言われ方をするようになります。まさにブームと言ってもよかったと思います。時は、まさに日本がバブル経済を駆け上がっている頃でした。富豪の家に生まれ、ケンブリッジに留学し、高級外車を乗り回し、ゴルフが上手で、ファッションにもうるさい美男子は、没後とは言え、時代が見出したアイコンだったのかもしれません。

白洲次郎の祖父・白洲退蔵は、三田藩の儒官の家の生まれながら、幕末の混乱期、藩主に見出されて家老格にまで上りつめた人です。その後、横浜正金銀行の頭取も務めています。父親の白洲文平は、ハバード大学、ボン大学に学んだ後、白洲商会を立ち上げ、綿貿易で巨万の富を築きあげた人です。いわば白洲家は、幕末・維新の変革期にあって、一気に上昇気流に乗った家だったと言えるのでしょう。白洲次郎は、1902年に生まれています。出生地は東京とも芦屋とも言われているようです。幼少期から、祖父が設立した神戸女学院の外国人教師から英語を学んでいたようです。長じて神戸一中に入学。学生ながら、アメリカの名車ペイジ・オートモビル・グレンブルックを乗り回していたようです。卒業後はケンブリッジへ留学します。

ケンブリッジ時代は、豊富な仕送りを背景に、貴族を含む英国の上流社会の子弟たちと交流します。英国紳士を範とする白洲次郎の信条や生活スタイルはここで形成されたわけです。ここでも名車を乗り回し、大陸のドライブ旅行も行っています。しかし、父親の会社が、昭和恐慌で倒産したため、帰国を余儀なくされます。帰国後は英字新聞の記者や、コネで外資系商社の役員に就任します。この間、華族出身で、米国留学経験も持つ樺山正子と結婚します。戦時中は、鶴川村(現町田市)に「武相荘(ぶあいそう)」を建て、世間とは一線を画した生活を送ります。武相荘とは、武蔵国と相模国にまたがる地にあることと無愛想をかけています。洒落た名前をつけたものです。次郎としては、英国貴族のカントリー・ライフを気取ったという面もあるのでしょう。

戦況が厳しくなると、次郎にも召集令状が届きます。次郎は、英国留学時代に知り合った東部軍参謀長に依頼し、これを握りつぶしています。白洲次郎が政治家にならなかった一因は、この一件が選挙で不利に働くと思ったからではないでしょうか。敗戦後、次郎は、面識のあった吉田茂外相の要請によって終戦連絡中央事務局の参与に就任します。語学力はもとより、ケンブリッジでの経験や交流を踏まえれば、アメリカ人にも臆せず折衝できる逸材でした。GHQをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたという逸話が残ります。その後、吉田内閣の貿易省長官として通商産業省設立などに辣腕を振い、1951年、東北電力会長へ転身しています。政治家を目指さない次郎は、吉田茂にとって誠に使い勝手の良い人材だったとも言えそうです。

白洲次郎の夫人である白洲正子は随筆家として、多くの書籍を著わしています。そのテーマは、能楽、古美術、工芸と幅広く、その確かな審美眼で多くの読者を魅了した人です。なかでも「かくれ里」(1971)は、紀行と古美術が一体となった傑作だと思います。私も、いつか「かくれ里」のルートをなぞってみたいものだと思っています。白洲正子は、多くの時間を武相荘で過ごしたようですが、白洲次郎は赤坂のマンションを拠点に活動していたようです。やはり、英国紳士流の生活を目指していたと言えるのでしょう。白洲次郎は、希に見るほど魅力にあふれた人だったのだろうと想像します。豪快な逸話、おしゃれな逸話も多く残されています。しかし、繰り返しになりますが、教科書に載るような人ではなかったと思います。(写真出典:buaiso.com)

2026年2月20日金曜日

五穀

アワ
豊作を祈願する際などに「五穀豊穣」という言葉をよく聞きます。五穀とは、米をはじめとする穀物類だと理解していますが、正しくは何を指しているのか知りませんでした。五穀とは、米、麦、粟(アワ)、黍(キビ)、稗(ヒエ)のことです。米・麦以外は、馴染みが薄いわけですが、古代の日本では重要な穀物であったことが想像できます。アワと言えば、おせち料理の定番コハダの粟かの子、神田須田町「竹むら」の名物あわぜんざい、キビについては、桃太郎のきびだんごくらいしか思いつきません。ただ、現代のきびだんごは、餅粉から作る求肥が主であり、キビは、ほぼ入っていないようです。ヒエに至っては、貧しい食べ物というイメージがあるばかりで、口にしたことすらありません。

アワは、米よりも早く伝来した日本最古の穀物とされます。既に、縄文時代には栽培されていたことが明らかになっています。生育期間が短く、痩せた土地や寒冷地でも育つことから重宝されたのでしょう。アワの原産は中国とされます。中国北部では、8千年以上前から栽培されていたようです。それがアジア、ヨーロッパ、アフリカへと広がっていきます。なお、考古学上、世界最古の麺とされているのは中国北部で発見されたアワの麺だそうです。日本では、稲作の伝来とともに、アワの栽培は減っていきます。ただ、稲作に適していない寒冷地や山間地での栽培は続きました。現在の栽培量は限られており、主に飼料とされているようです。ちなみに「濡れ手に粟」という慣用句は”濡れ手に泡”と誤解されがちですが、濡れた手に小粒なアワがよくつく様を表しています。

キビの歴史は、アワよりも古く、中国北部では12,000年前から栽培されていたようです。ただ、日本には、米、アワ、ヒエより遅く、弥生時代の初期に伝来したとされています。日本では、実が黄色いことから黄実(キミ)と呼ばれ、キビになっていったようです。アワよりも生育期間が短く、乾燥地や痩せた土地でも育ちます。原産地は不明ですが、ユーラシア大陸から世界中に広がったようです。一方、中国原産のヒエは、既に縄文時代には渡来し、米やアワと同様に主食穀物として栽培されていたようです。特に寒冷地では、冷害に強い穀物として、近代に至るまで栽培されていました。アワやヒエは、稲作に適さない地で多く栽培されていたので、米も食べられない貧しい地域の食糧というイメージが強く、蔑まされてきた歴史もあります。

そうした蔑視の風潮が物語るように、歴史も古く主食格だった粟(アワ)、黍(キビ)、稗(ヒエ)は、時代とともに米に駆逐されていったということになります。高温多湿を好む稲が日本の気候に適していた、栽培には手間がかかるものの生産性が極めて高い、他の穀物に比べて収穫後の手間がかからない、そして何よりも甘味があって食感も良いことが一人勝ちの要因だったのでしょう。日本の社会や文化は、稲作と米をベースとして形成された文化です。また、日本の歴史は、新田開発と稲の品種改良の歴史だったとも言えそうです。山間地や寒冷地でも水田が営まれていきます。ただし、稲作一辺倒の農業は、しばしば、凶作、それに伴う飢饉を生じてきました。その際、多少なりとも飢えをしのぐために役だったのは、皮肉にも、アワ、ヒエ、キビでした。

古くから稲作一点集中のリスクを唱えた人は多くいたものと思われます。そのなかで最も有名なのは二宮尊徳なのではないでしょうか。二宮尊徳と言えば、薪を背負い読書しながら歩く二宮金治郎像で有名ですが、江戸後期、飢饉で荒廃した農村、あるいは財政破綻した藩の立て直し等に取り組んだ経世家、思想家です。凶作・冷害への対策として、アワ・ヒエの作付けを指導したとされています。しかし、全国的には、社会や経済にしっかり組み込まれた稲作からの展開は進まず、飢饉の発生は止められませんでした。自らの努力で国に献身的に奉公する国民の象徴として全国に建てられた二宮金治郎像も消えつつあるようです。近年に至り、健康指向の高まりから、食物繊維、タンパク質、マグネシウムなどの栄養素を豊富に含む雑穀が注目されており、生産も上向いているようです。(写真出典:kotobank.jp)

2026年2月18日水曜日

チリ・コン・カーン

スプーンの持ち方は、柄を下から持つ下手持ちが一般的です。下手持ちは、手首を返す必要があります。幼児にはこれが難しく、どうしても上手持ちになります。上手持ちで食べようとすると安定感に欠けることになり、幼児はよくこぼすわけです。昔の西部劇を見ていると、カウボーイたちが野営地で食事をする際、豆料理を上手持ちで食べている姿を見かけます。それがカウボーイ・スタイルというほどでもなく、彼らの行儀の悪さや品の無さを演出しているのでしょう。ところが、この食べ方が、実に美味そうに見えるのです。有楽町のガード下に昔からある「COWBOY-BAR BORO」のチリ・コン・カーンはなかなかの代物です。皆で食べる時には、スプーンをカウボーイ持ちにしろ、と強く勧めていました。

チリ・コン・カーンの源流はメキシコ料理ですが、テキサス州で生まれたテックス・メックスとされることも多く、テキサス州は州の公式料理と定めています。それどころか、今やアメリカの国民食の一つと言ってもいいのかもしれません。スペイン語でコン・カルネは”肉入り”を意味するので、肉のチリ煮込みといったところなのでしょう。チリ・コン・カーンは、主に牛ひき肉、そして豆、たまねぎ、トマト、チリ等を煮込んだ料理です。豆の印象が強いものの、ガンボー、フェジョアーダ、もつ煮込み等と同系列の料理だと思います。そのままだけでなく、チーズをかけたり、トルティーヤにはさんだり、ナチョスを添えたりと様々な食べ方があります。ただ、チリ・ドッグは外せません。とても食べにくいのですが、幸せな気分になれます。

人生最高のチリ・コン・カーンは、テキサス州サン・アントニオの運河沿いのチリ・パーラーで食べたものです。頭の中にあったチリ・コン・カーンの理想の味でした。1893年に開催されたシカゴ万博の会場に出店されたサン・アントニオ・チリ・スタンドが大人気となり、チリ・コン・カーンが全米に知られることになったと聞きます。サン・アントニオは、チリ・コン・カーンの聖地の一つでもあるわけです。店で売っていたチリ・パウダーも買って帰ったのですが、結局、家で作ることはありませんでした。チリ・コン・カーン作りは、結構ハードルが高いと思います。NY郊外では材料が手に入りにくいのです。日本では、なおさらです。ネット上には、レシピが多く出ていますが、材料を見た瞬間、これは違うな、と思ってしまいます。

文献上、チリ・コン・カーンの源流とも言える料理は、16世紀のメキシコで唐辛子を入れたシチューとして登場しているようです。17世紀からは、タサホと呼ばれる塩漬けの乾燥牛肉、現代で言えばビーフ・ジャーキーですが、これと唐辛子を煮込む料理が広がっていき、カルネ・コン・チリと呼ばれていたようです。チリ・コン・カーンが、メキシコ料理かテックス・メックスかの議論のポイントが、ここにあるように思います。つまり、メキシコ伝統のチリ・コン・カーンは豆を入れないとう説があります。それが、テキサスで豆が入ったことで現在のチリ・コン・カーンが誕生したというわけです。まぁ、どっちでも良いような議論ではありますが、個人的には、チリ・コン・カーンと言えば、やはり豆が主役だろうと思っています。

カウボーイの話に戻りますが、19世紀後半になると、チャック・ワゴンと呼ばれる料理用の幌馬車が登場します。チャックと呼ばれる料理人がカウボーイたちに食事を提供します。チリ・コン・カーンなどの豆料理に添えられたのが、サワードウ・ビスケットです。乳酸菌発酵を使って簡単に焼けるビスケットですが、長時間熟成すれば酸味の強いサワードウ・ブレッドを焼けます。これがチリ・コン・カーンにはよく合うように思います。辛味と酸味がマッチするのかもしれません。サワードウ・ブレッドは、サンフランシスコ名物ですが、ゴールド・ラッシュのおり、金鉱堀りがよく食べていたことが起源と聞きます。日本のパン屋でサワードウ・ブレッドを見かけることはありません。ただ、ライ麦の含有量が多い黒パンは、同じ乳酸発酵です。チリ・コーン・カーンのお供として、ライ・ブレッドも有りというわけです。(写真出典:en.wikipedia.org)

日本国王良懐