2026年10月13日火曜日

桂離宮

父親から、桂離宮だけは見ておけ、と何度も言われていました。桂離宮は、17世紀初頭に八条宮家の別邸として創設され、現在は宮内庁が管理しています。八条宮家は、正親町天皇の孫で、誠仁親王の第六王子だった智仁親王に始まります。智仁親王は、秀吉の猶子として関白職が約束されていました。しかし、秀吉に実子が誕生したことから解約となり、秀吉によって八条宮家が創設されています。創設経緯もあってか、当時の八条宮家は宮家最大の石高を誇っていたようです。智仁親王は、若い頃から文芸に優れ、細川幽斎から古今伝授を受け、後に甥の後水尾天皇に相伝し、御所伝授が始まったとされています。また、馬術、琴、蹴鞠にも優れていたようです。その多彩ぶりは造園にも及び、桂離宮の庭園として結実したわけです。

日本三大庭園は、金沢・兼六園、水戸・偕楽園、岡山・後楽園とされます。いずれも回遊式の大名庭園であり、広大な面積を持ちます。対して桂離宮の庭園は随分と小振りですが、日本の庭園の最高傑作とされます。縮景、借景、見立てといった自然を活かす設計、狭さを感じさせない遮蔽の技、そして書院や茶室といった建造物との調和が完璧に計算されています。日本の庭園は、自然との調和や畏敬を基本に自然が再構成されます。西洋庭園は、人間が自然を制圧したかのような人工的設計になっています。昨今、日本一とされる足立美術館の庭園は、日本画の世界を具現化したものであり、日本と西洋の庭園思想の中間的な存在だと思います。そもそも足立美術館を20年以上日本一に選出しているのは、アメリカの日本庭園専門誌というマイナーな雑誌に過ぎません。

桂離宮は、まさに日本の造園思想や技術の粋が結集された最高傑作です。ドイツの建築家ブルーノ・タウトをして「泣きたくなるほど美しい」とまで言わしめています。その設計の背景にあるのが月見という伝統です。桂の地は、平安時代から月見の名所として名高く、貴族の別荘が多い土地柄だったようです。桂離宮も、月見の客人を迎え入れ、庭園を回遊させ、書院で宴を行うために設けられたのでしょう。書院からの眺めは、中秋の名月が昇る位置が計算され、池に映り込む月を楽しむ設計がされています。平安時代の国風文化は、自然を愛でる文化ですが、とりわけ月を楽しむ文化だったとも言えます。中秋の名月は中国伝来の慣習ですが、国風文化には、後の名月、十三夜があります。少し欠けた月に風情を感じる、まさに”いとをかし”の世界というわけです。

古書院には、竹で組んだ月見台が設けてあります。ここから、中秋の名月だけではなく、後の名月も愛でたものなのでしょう。宮内庁は、年に一度、中秋の名月の夜、桂離宮観月会を開催しています。桂離宮の観覧は庭園のガイドツアーのみとなっておりますが、観月会の夜だけは月波楼に上がることができます。また、書院には灯りがともされ、一段と風情が増すようです。観月会に参加するためには、平素の観覧と同様に、まずは宮内庁に申し込みます。当然のことながら、抽選があります。問題は、当選人数です。わずか64人とのこと。申込は100倍を超えるようです。一ヶ月以上前には当落が発表されるようですが、遠方からの参加は難易度が高いと言えます。一度、貴族の気分で桂離宮の月を観賞してみたいものですが、まず無理と思うべきなのでしょう。

王朝文化の風情を色濃く残す桂離宮ですが、建造されたのは平安中期から500年近く後のことになります。とは言え、古今伝授まで受けた智仁親王は、王朝文化に生きた人なのでしょう。智仁親王の意向が反映されているとしても、実際の作庭は、長らく小堀遠州が行ったとされていたようです。ただ、現在は遠州の義弟や門下という説が有力とされます。一本の切石を用いた反りのない松琴亭の石橋、すべて角のある切石で組まれた”真の飛石”など、直線を用いるあたりは遠州好みとされます。また、限られたスペースに奥行きを与える遠近法の活用なども、西洋の影響を指摘される遠州らしい作庭にように思えます。素朴な外観の松琴亭では、斬新な市松模様の襖が目を引きます。日本の伝統の集大成のような桂離宮ですが、斬新さも取り入れられているわけです。(写真出典:chukei-online.com)

2026年10月11日日曜日

テーマパーク

2024年のテーマパークの入場者数ランキングを見ると、第1位はフロリダのディズニー・ワールドにあるマジック・キンダム、第2位にはカリフォルニアのディズニー・ランドが続きます。そして、大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)が、他のディズニー系テーマパークを抑えて3位に躍進していました。マーケティング的に見れば、テーマパークはリピーター戦略の典型です。リピーターを確保するコストは、新規顧客を獲得するコストに比べて相当低くなります。リピーター戦略は効率的ですが、リピーターの信用を高く維持する努力に加え、新鮮さを失わないための投資も求められます。テーマパークで言えば、新しいアトラクションの投入が代表例となります。加えて、USJは、アニメとのコラボといったキャンペーンを次から次へ投入し、プロモーション面でも大きな成功を得ています。

テーマパークは、アミューズメント・パーク(遊園地)のサブ・ジャンルなのでしょう。特定のテーマやコンセプトで、アトラクションや飾付を統一し、来場者を非日常的な世界へ没入させる仕組みです。従業員の衣装や接客などにも没入感を高めるためのきめ細かな工夫がなされています。物販にも良い効果が得られます。ディズニーのアニメの世界を具現化したディズニー・ランドは最も成功した例なのでしょう。一方のユニバーサル・スタジオのテーマは、ユニバーサル映画です。あまりにも幅が広いので、テーマへの訴求は薄くなります。テーマパークというよりも特色あるアミューズメント・パークというべきだと思います。テーマへの訴求の弱さは、様々なコラボ・キャンペーンの展開しやすさにつながります。弱みを逆手にとって成功したのがUSJです。

アミューズメント・パークは、定義次第ではありますが、古い歴史を持っています。その原型は、ロンドンのバーソロミュー・フェアだとされます。もともとは布市だったようですが、1133年、王の勅許を得て、夏の一時期、修道院の庭で様々な物品が取引されました。多くの人が集まるようになり、食べ物屋、見世物小屋、芝居小屋なども立つようになります。欧米では、今でも期間を限定した移動遊園地が盛んに開園されています。アメリカのカウンティ・フェアやストリート・フェアも典型な例です。常設のアミューズメント・パークの祖先は、一般公開された庭園とする説もあります。だとすると、その歴史は古代ローマにまでさかのぼります。常設型アミューズメント・パークの始まりは、デンマークのディレハフスバッケン、通称バッケンとも言われます。

1583年、コペンハーゲン郊外に天然の泉が発見されます。当時、コペンハーゲンは水質が悪かったので人々が引き寄せられ、大道芸人や露天商も集まるようになり、やがてアミューズメント・パーク化したようです。18世紀頃には、ウィーンのプラーター公園、コペンハーゲンのチボリ公園など庭園から発展したアミューズメント・パークが広がり、19世紀には、乗り物系アトラクションが主役となることで大衆の人気を集めることになります。その背景には、産業革命がありました。乗り物の動力が開発されたこと、都市部の工場へと労働力が集中したこと、そして万国博覧会の開催が大きな契機になりました。万博は、1851年のロンドンに始まりますが、1893年にシカゴで開催された万博が、現在のアミューズメント・パークの先駆けになったとされます。

日本には”テーマパーク”と呼ばれるものが、実に多く存在します。そして、同じくらい多くの”テーマパーク”が潰れています。その一つに新潟県の柏崎トルコ文化村があります。1996年、後に破綻する新潟中央銀行主導でオープンし、2004年に閉じられました。閉園数ヶ月前に行ったことがあります。悲惨なほどにしょぼい施設でした。トルコ村には総額で75億円が投じられています。潰れた”テーマパーク”のなかには自治体の資金が投入されたものも少なからずあります。なぜ、こんなものがビジネスとして成立すると思ったのか、不思議でなりません。”テーマパーク”ブームの背景として、バブル経済とリゾート法が挙げられます。総合保養地域整備法、通称リゾート法は、1987年に内需拡大策として施行されています。バブル景気に浮かれていましたでは済まされない政治的問題のように思います。(写真出典:travel.rakuten.co.jp)

2026年10月9日金曜日

小督

能楽「小督(こごう)」は、中秋の名月の嵯峨野を舞台としていることから、秋の定番演目であり、嵯峨野の秋の気配を感じさせる人気の演目でもあります。実在した小督局は、信西(藤原通憲)の孫にあたります。高倉天皇の寵妃であり、美しいだけでなく、箏の名手でもあったとされます。高倉天皇の中宮は平清盛の娘・徳子です。小督局は、高倉天皇に愛されたことから、平清盛の怒りに触れ、東山の清閑寺で出家させられています。後のことですが、病を得た小督を、藤原定家が清閑寺に見舞ったという記録も残っているようです。能楽「小督」は、平家物語に基づいており、史実とは異なっています。能楽の小督は、清盛を恐れて、自らの意志で嵯峨野に隠棲します。

小督を忘れられない天皇は、行方を捜させます。そして、小督が嵯峨野の片蔀(かたしとみ)の家に隠棲していることを知ります。天皇は、源仲国に文を託し、馬を与えて嵯峨野へと走らせます。乏しい手がかりゆえ、小督の住まい探しは難儀します。折しも十五夜だったことから、小督は、天皇を想いながら、箏で「想夫恋」を奏でます。笛の名手でもあった仲国は、その音が小督の箏であることに気付き、片蔀の侘び住いを訪ねます。小督は面会を拒みますが、勅命であること、仲国の決意が固いことから、仲国と会います。仲国は小督に天皇の文を渡し、小督も返書を仲国に渡します。小督は、帰ろうとする仲国を止めて酒を振る舞います。仲国は万感の思いを込めて男舞を舞います。そして、小督が見送るなか、馬にまたがり都へと帰っていきます。

小督を観ると、いくつかの疑問が浮かびます。まずは、なぜ仲国の視点なのかということです。シテは仲国であって、小督ではありません。一説によれば、小督のメイン・テーマは秋の嵯峨野の風情であり、悲恋ではないから、ということになります。小督をシテとすればドラマ性が強まるので、あえて仲国をシテにしているというわけです。小督の作者は、長く金春禅竹とされていたようですが、今は否定され、作者不詳となっています。確かに、緻密にドラマを織り上げる金春禅竹の作風とは異なるように想います。しかし、秋の嵯峨野の風情を謡いたいというのであれば、わざわざ、ドラマ性が色濃く滲んでくる平家物語ものをプロットに選ばないようにも想います。ドラマ性を薄めるために、仲国をシテにするといった回りくどいプロットも選ばないように想います。

高倉天皇の治世と言えば、平清盛の娘である徳子が中宮となり、安徳天皇が生まれ、清盛が天皇の外戚になるという平家の絶頂期と重なります。能楽「小督」の登場人物は、すべて、平氏と対立した後白河院につながる人々です。平家の傀儡と言われることの多い高倉天皇は後白河院の子であり、父親同様、平家とは相容れなかったという説もあります。小督の祖父の信西は、平家を取立てますが、後白河院側近として平家と対立した人として知られます。そして、仲国も後白河院の近習だった人です。作者が描きたかったのは、悲恋のドラマでなかったことは明らかですが、メイン・テーマは、秋の嵯峨野の風情ではなく、武家の前に陰り行く公家社会の悲哀だったように思います。それを表現するに、秋の嵯峨野のもの悲しさが相応しかったといことなのでしょう。

よって、舞台は東山から嵯峨野へ、小督を見舞った藤原定家は仲国へと翻案されたのでしょう。実際の仲国は、複数の国司を務め、刑部大輔、院細工所別当も務めています。ただ、御廟建立を唱えると、人を迷わす妖言とされ、配流されました。なお、仲国が笛の名手という記録はないようです。むしろ、高倉天皇こそ笛の名手として知られていたようです。仲国の弟には仲章がおり、鎌倉幕府で活躍し、源実朝が暗殺された際、共に殺されています。高倉天皇の中宮・徳子は、平家一門が滅亡した壇ノ浦で入水しますが、助けられて、一門で唯一の生存者となります。出家して建礼門院となり、大原の寂光寺で、夫・高倉天皇、子・安徳天皇、そして一族を弔う日々を送りました。平家物語には、隠棲の地として嵯峨野がよく登場します。往時は、人家もまばらな野原だったのでしょう。しかし、実際の小督には無縁の地だったということになります。(写真出典:the-noh.com)

2026年10月7日水曜日

マトリョーシカ

初めてロシア料理を食べたのが、いつ、何処だったのか、どうも思い出せません。学生のころから、たまに行っていた札幌のロシア料理店「アンナ」はよく覚えています。アンナが人生初のロシア料理店だったのかもしれません。今でも、アンナで食べたボルシチとピロシキが、私のロシア料理の基本です。残念ながら、アンナは、かなり前に閉店しています。札幌とロシア料理は相性がいいと思うのですが、当時、アンナ以外のロシア料理店は知りませんでした。新潟市には、ロシアへの空路も航路もあります。ロシアへの玄関口と言ってもいいのでしょう。ところが、ちゃんとしたロシア料理店はありませんでした。

さすがに東京には、老舗も含めてロシア料理店はあるのですが、決して多いわけではありません。ロゴスキー、スンガリー、サラファン、ろしあ亭(移転)、ペチカ(閉店)等が有名です。新宿、神保町、浅草に多いように思います。文化的背景があるのでしょう。実のところ、全国にロシア料理店と銘打つ店は100軒程度しかありません。例えば、東京だけで、タイ料理店は500~600店、中華料理店は10,000店を超えるとされます。大国ロシアの知名度や地理的な近さからしても、ロシア料理店は少なすぎるように思います。ロシアの文学、音楽、バレエ、映画といった文化に魅了される人々、あるいは政治的に共感する人々もいるわけですが、文化人に限られ、一般的には、敵国、全体主義、得体の知れない国といったネガティブな印象が強いものと思います。

そうしたイメージがロシア料理店の数にも反映されているのかもしれません。ただ、外国料理店の数は、おおむね在留外国人数に比例するのではないかと思います。同国の人が増えれば、集まる場所も求められ、故郷の味を懐かしむ人も増えるものなのでしょう。法務省によれば、2025年末時点での在留外国人数は412万人です。国別に見れば、香港を含む中国が100万人超と最も多く、以下ヴェトナム68万人、韓国40万人、フィリピン35万人、ネパール30万人と続きます。対して、ロシアは、12,000人に留まります。これはマレーシアと同程度です。東京のマレーシア料理店も、ごくわずかなものです。青山通り沿いの「マレー・アジア・クイジーン」でランチを食べたことがあります。偶然なのでしょうが、私以外の客はマレーシアからの観光客ばかりでした。

日本にロシア人が少ない理由は、歴史的経緯はじめ、いくつか考えられますが、最大の理由は遠い国だからということなのでしょう。広い国土を有するロシアですが、人口は1.4億人に過ぎず、大層は欧州側に集中しています。つまり、スラブ国家ロシアにとって、日本は流刑の地シベリアよりも遠くにある、いわば最果ての国ということになります。しかし、ロシアと最果ての国には面白い関係があります。ロシアを代表する伝統工芸マトリョーシカ人形は、比較的歴史が浅く、19世紀末に生まれています。1900年のパリ万博で好評を博したことから、ロシアの代名詞になりました。実は、マトリョーシカは、箱根土産の七福神の入れ子人形を真似て作られたという説があります。推定ですが、ロシア人修道士が持ち帰り、それがマトリョーシカになったというわけです。

入れ子は、重箱などに使われる効率的な収納方法です。入れ子の七福神は、七体の神様が、コンパクトに収納された縁起物です。つまり、入れ子は収納に関わる技法だと言えます。ところがマトリョーシカは、そうした効用をまったく求めていません。単に、次々と人形が出てくるという面白さだけがウリです。入れ子は、実に馬鹿げた表面的理解をされたものだと思います。最果ての国の文化など、興味もリスペクトもなかったということなのでしょう。”近くて遠い国”と言えば、通常、韓国・北朝鮮を指しますが、ロシアは”最も近くて最も遠い国”と言えそうです。東欧の国ロシアにとって、極東は植民地、利権の草刈場、軍事的緩衝地帯でしかなかったのでしょう。それは、今もあまり変わっていないように思えます。(写真出典:shopping.jtb.co.jp)

2026年10月5日月曜日

あけび

家の近くを散歩していると、庭にアケビの木を育てている家を見つけました。アケビの木など見分けもつかないのですが、実が成っていたので間違いありません。アケビは山の中に自生しているものだと思っていたので驚きました。調べてみると、観賞用として、そこそこポピュラーなものらしいのです。久々にアケビの実を見たら、食べたくなりました。とは言え、スーパー・マーケットで、簡単に手に入るものでもりません。最後にアケビを食べたのは、10年ほど前、熊本でのことでした。酔っ払って、下通のアーケード街を歩いていると、小さな八百屋の店先にアケビを見つけました。迷わずに購入し、ホテルで食べました。やさしい甘さに、少し幸せな気分になりました。

熊本の前にアケビを食べたのは、さらに7~8年前、山形でのことでした。気に入った日本酒の店があり、山形に行った際にはお邪魔していました。そこでアケビの肉詰めが出されたのです。アケビの実の皮の部分を食べるという発想がなかったので、大いに驚きました。聞けば、山形では定番の家庭料理だというのです。アケビの肉詰めは、皮の苦味に味噌ベースの味付けがいい塩梅に乗って、なかなか乙なものでした。喜んで食べているうちに、アケビの実の甘い果肉はどうしたのか、ということが気になり、聞いてみました。なんと、捨てるというのです。目が点になりました。三枚におろした鯛の皮だけを調理し、身を捨てるようなものです。そこで、お願いして果肉を出してもらい、美味しくいただきました。仲間にも勧めたのですが、食べたのは私だけでした。

アケビの実の皮を食べるのは、山形だけではないようですが、農水省の「うちの郷土料理」では、”あけびの味噌詰め焼き/あけびの油焼き”が山形県の郷土料理として登録されています。山形では、春の新芽は山菜として、秋は実を肉詰め等にして食べ、さらにつるはつる細工に使うようです。ここまでアケビを使い切る県は、他にはないものと思います。アケビの栽培も行われており、生産量は日本一とのことです。山形県は、食の宝庫と言われます。名産品として、米、牛肉、豚肉、果物、野菜などがよく知られています。また、料理も、そば、芋煮、玉こんにゃく、ラーメン、棒鱈、漬物などが有名です。実に多彩な食材と料理ですが、その多くがブランド化されている点も見事です。ただ、その山形県が、アケビの甘い果肉を食べないというのも驚きです。

アケビは日本原産です。熟すると実が割れることから、”開ける+実”でアケビと呼ばれるようになったとされます。学名は「アケビア・キナタ」です。”キナタ”とは、ラテン語で”5個ずつ”を意味し、アケビの花の5枚の小葉を指すようです。北海道以外の日本、朝鮮半島、中国に分布しているようです。中国名は“木通”です。欧米では、”キナタ”、あるいはチョコレートの匂いがすることから”チョコレート・ヴァイン”とも呼ばれ、19世紀、観賞用に輸入されたようです。ただ、寒さや乾燥にも強く、天敵のいないアメリカでは生態系を脅かす侵略的外来種とされている地域が多いようです。また、アケビは、古くから生薬として用いられてきました。利尿効果や内臓の熱を下げる効用があるようです。逆に、妊婦や胃腸が冷えやすい人には禁物とされています。

実は、アケビには、もう一つ、注目すべき利点があります。種子から採れるアケビ油です。江戸期から昭和の初め頃までは、食用油の王様として珍重されていたと聞きます。主に秋田藩で搾油されており、手間がかかることから生産量は少なく、希少価値も高かったようです。アケビ油は、他の植物油とは異なる成分構造を持ち、消化、吸収されにくく、かつ体脂肪がつきにくいとされます。結果として、美肌効果、高血圧予防、血糖値上昇の抑制などの効果が期待されているとのことです。ただ、生産者も少なく、ごく少量が高額で販売されています。大雑把に言えば、ごま油の10倍以上の値段です。生産量を増やす取組も始まっているようですが、庶民でも購入できる日は、相当、先になるのでしょう。(写真出典:oishii.iijan.or.jp)

2026年10月3日土曜日

MKウルトラ

Netflixで「ユナボマー」(2026)を見ました。ユナボマーは語り尽くされています。本作はユナボマー誕生の背景に絞ることで特色を出そうとしていますが、 残念ながら中途半端な駄作でした。ユナボマー事件は、1978~1996年、全米を震撼させた郵送爆弾事件です。ユナボマーとは、FBIが付けた事件のコード名に由来します。当初、狙われたのが大学(University)の教授、航空会社(Airline)の社長だったことから、UNとAへのBombでUNABOMとしたのです。ユナボマーは、18年間で計16個の郵便爆弾を送り、3名を殺害し、23名を負傷させています。ユナボマーの正体は、最年少でカリフォルニア大学バークレー校の助教授になった数学者セオドア・カジンスキーでした。要は、反産業主義者だったわけです。

IQ167のカジンスキーは、16歳でハーバード大学に入学します。飛び級で入学した大学では、年上の級友たちのなかで孤独感を感じていたようです。哲学に興味を覚えたカジンスキーは、心理学者ヘンリー・マレーの実験に参加します。映画では、この実験がユナボマーを生んだと強く示唆しています。しかし、証明されておらず、カジンスキー本人も否定しています。マレーの実験とは、極度のストレス下でいかに信念を維持できるかという研究でした。そのため、実験の目的は隠され、被験者は虐待的な扱いを受けます。後に、この実験は、非人道的、非科学的で、無益な実験だったと評価されます。映画でも示唆されていますが、この実験はCIAの指示で行われていました。1950~60年代、CIAが極秘に行っていた”MKウルトラ”プロジェクトの一部だったのです。

MKウルトラは、LSD等を投与したり、物理的に虐待して、精神や脳機能を操作する、つまりマインド・コントロールが目的でした。冷戦下にあって、捕虜やスパイから情報を得ることが一つの目的でした。朝鮮戦争時、敵が捕虜に対して行ったとされることへの対抗措置だったとも言われます。実験は、被験者の同意を得ず、目的も知らされることなく行われました。もともとは、原爆同様、ナチスの研究を引き継ぐ形でスタートしています。1973年、ウォーターゲート事件に関連して議会の調査が及ぶことを恐れたCIA長官リチャード・ヘルムズは、MKウルトラに関するすべてのファイルの破棄を命じます。その後、内部告発や報道によってCIAの実態が暴露されると、ロックフェラー委員会やチャーチ委員会が設置され、CIAの違法活動が明らかになります。

一部は残ったものの資料の大半が失われたMKウルトラの全容は、いまだ不明のままです。100程度の研究所等が関与し、被験者は米国内、カナダを中心として数千人に上ったと推定されています。占領下の日本でも秘密拘留所が設置され、人体実験が行われたという話もあります。明らかになったMKウルトラに関連する死亡例もあります。最も有名なものは、フランク・オルソンのケースなのでしょう。オルソンは、プロジェクトに参加する科学者でしたが、道徳的疑念から辞意を明らかにします。密かにLSDを盛られたオルソンは、数日後、ホテルの窓から落下して死亡します。シーモア・ハーシュによるNYタイムスの記事で真相を知った遺族は、政府とCIAに調査を依頼しますが、資料がないことを理由に断られます。そこで遺族は訴訟に打って出ます。

法廷で真相が曝かれることを恐れた政府は、大統領から遺族に直接謝罪までさせ、訴訟取り下げを図ります。結果、訴訟は取り下げられ、議会立法での補償が行われています。そこまでして隠す必要があったというわけです。オルソン・ケースの詳細は、Netfixのドキュメンタリー「ワームウッド」に詳しいところです。チャーチ委員会の取組は、CIAの活動を規制する法令や大統領令、そして米国上院の常設諜報特別委員会の設立につながっています。機密事項が存在する以上、それを扱う機関が独立的な裁量権を持つことは理解できます。しかし、独立的な裁量権を持つ機関が暴走することも自明と言えます。従って、複数の監視機関が必要になるわけです。日本の内閣調査室は、国家情報局に格上げされました。その上部機関は国家情報会議であり、首相を議長に主要閣僚で構成されます。そして同会議の事務局は国家情報局が担当します。それで十分な監視体制と言えるのかは、多少疑問が残ります。(写真:セオドア・カジンスキー 出典:okinawatimes.co.jp)

2026年10月1日木曜日

佐久間町の奇跡

前立腺ガンの生体検査を受けるために秋葉原の三井記念病院に入院したことがあります。入院は、高校生の頃、蓄膿症の手術をして以来のことでした。入院前に、隠れてタバコが吸える場所を物色しました。病院の目の前に、もってこいの和泉公園がありました。予行演習を兼ねて公園に行った際、「防火守護地」という石碑を見つけました。碑文に曰く「この附近一帯は大正十二年九月一日関東大震災のときに町の人が一致協力して防火に努めたので出火をまぬがれました」。そして火災を免れた佐久間町、和泉町などの町名が記載してあります。いわゆる佐久間町の奇跡です。住民たちの努力が起こした奇跡ではありますが、実は、佐久間町の歴史が生み出した奇跡でもあります。

江戸初期、神田川が開削されると、神田佐久間町あたりには、材木商が集まり、大名屋敷が立ち並ぶことになります。町名の由来は、材木商佐久間平八にあるようです。また神田和泉町は、藤堂和泉守高虎の屋敷があったことに由来します。佐久間町は、文政の大火、天保の大火等いくつかの火事で火元とされ、悪魔町と陰口されることもあったようです。材木置場が原因とされ、木場は深川方面へと移転され、跡地は火除広道とされます。明治2年には神田相生町の大火が起こり、またもや佐久間町が火元として疑われます。広道を抜ける風や川風が上野山に当って上昇気流を起こし、ひとたび火が出ると延焼しやすい地域だったとも言われます。いずれにしても、神田相生町の大火を機に、広大な火除明地が設置され、皇居にあった鎮火神社が移設されます。

江戸城には、浜松秋葉神社を分祀した秋葉神社がありました。浜松秋葉神社は、家康が秋葉大権現を分祀、創建した神社です。秋葉大権現こと秋葉山本宮秋葉神社は709年創建、全国400社を従える火防の神です。神仏混合以降は秋葉大権現と呼ばれてきました。また、井伊の赤揃隊発祥の地でもあります。戦国最強とされた武田の赤揃隊は、家康に敗れた後、井伊直政預かりとなり、この地で井伊家への忠誠を誓っています。江戸城の秋葉神社は、火防のみならず武運の神でもあったわけです。新政府は、江戸城から徳川の色を完全に消しますが、扱いに困った秋葉神社は残したようです。神仏分離令を出した新政府は、神仏混合だった秋葉神社の祭神を鎮火三神に変えたうえで移転し、鎮火神社とします。ただ、庶民は、これを慣れ親しんだ秋葉さまと呼ぶようになります。

これが秋葉原という地名の由来です。水運の便が良いこのあたりは、江戸期から青物市場がありました。いわゆる“やっちゃば”です。明治中期には鉄道も通り、物流拠点化していきます。アキハバラかアキバハラかという議論があります。当初は、秋葉ヶ原(アキバガハラ)と呼ばれていたようですが、駅名はアキハバラとされます。秋葉大権現の読みがアキハだったからかもしれません。いずれにしても、この駅名が地名化していったわけです。関東大震災が起きた頃、秋葉原は問屋が軒を並べる街になっていました。震災直後、おりからの強風に煽られた火の手が浅草方面から秋葉原にも迫ります。人々は警察の誘導で本所方面へ逃げます。しかし、佐久間町では「この町の者たちは逃げてはならない」と声が上がります。悪魔町という汚名を返上すべき時だったわけです。

住民たちは、川の水を汲み、バケツリレーして消火にあたります。しかし、町の中心だった佐久間小学校に火の粉がかかり始めます。学校が燃えれば町は終わりだと、卒業生が集まりはじめ、200人を越す人々が消火にあたったといいます。 2日間燃え続けた火災は、東京東部を焼け野原にします。ただ、佐久間町、和泉町界隈だけが延焼を免れます。逃げる防災から消す防災へ、つまり初期消火の重要性が認識された出来事だったと言えるのでしょう。しかし、太平洋戦争時の空襲では、この教訓が仇になったとも言われます。つまり、住民を初期消火に動員する態勢をとり、日頃の訓練を重ねたことで、避難が遅れ、結果、人的被害を拡大することになったわけです。大震災に打ち勝った佐久間町、和泉町一帯も、空襲には敵いませんでした。(写真出展:bo-sai.co.jp)

桂離宮