2026年4月22日水曜日

さくらんぼの実る頃

パリ13区はセーヌ川左岸にあります。その中心部イタリア広場の南に、石畳の路地と小さな家が密集する丘があります。大改造前の庶民の街の風情をよく残すビュット・オ・カイユ地区です。ビュットは丘であり、カイユとはその当たり一帯の地主だった人物の名前です。パリ中心部の堂々たる景観とは全く異なりますが、古いパリの暮らしを濃厚に感じさせてくれます。今は、アーティストが多く住むという静かな住宅街になっています。決してメジャーではありませんが、パリの観光名所の一つと聞きます。ビュット・オ・カイユが名所となっているのは、ここがパリ・コミューン最後の砦の一つだったからでもあります。

パリ・コミューンほど、ロマンティックに偶像化された歴史はないのではないでしょうか。1871年3月から5月までの約70日間だけパリに出現した自治政権は、世界史上初の労働者政権とされます。マルクス、バクーニン、エンゲルス、レーニン等が絶賛し、かつパリ・コミューンに学んだとして、階級闘争の強化、暴力革命、プロレタリア独裁を訴え、その後継者たるスターリン、毛沢東らに引き継がれていきました。彼らは、パリ・コミューンを階級闘争の象徴に仕立てあげたわけです。それは、あたかもキリスト教における十字架のようでもあります。その後の左翼ラディカリズムに非現実的な目標感を与え、かつそのロマンティシズムは進歩的とされる若者たちを魅了していきます。しかし、パリ・コミューンは、階級闘争などではありませんでした。

フランス革命時、バスティーユ牢獄を襲った市民たちも、世界初の市民革命を起こしたという認識はなかったはずです。ただ、明らかに民衆が国王を攻撃し、政権を奪取するという革命の始まりでした。パリ・コミューンは、普仏戦争末期、屈辱的終戦か徹底抗戦かを巡る臨時政府とパリの民衆との対立から生まれています。また、民衆は、帝政復活を恐れていたとされます。パリに入城したプロシア軍と武装した民衆との衝突を回避するために、臨時政府は民衆の武装解除に動きます。これが民衆の蜂起につながり、臨時政府はパリを脱出して権力の空白が生まれます。急遽行われた選挙で革命派が勝利し、パリ・コミューンが誕生します。自治政権は、プロシアに対する徹底抗戦、帝政復活阻止で一致しただけの烏合の衆であり、パリは混乱の極致へと落ちていきます。

パリ・コミューン最後の1週間は”血の週間”と呼ばれます。パリに入城した臨時政府軍は、市街戦を展開し、パリを制圧していきます。一部国民衛兵軍を含むとは言え組織化もされていない暴徒と正規軍の戦いの結果は明らかです。コミューン側は1万~1万5千人が戦死、4万人以上が逮捕され、その場で処刑された者も多数に上るとされます。虐殺に近い状況ですが、マルキストたちにとって、パリ・コミューンを十字架に仕立てるためには、この惨劇こそが重要だったのだと思います。フランス国民にとって、パリ・コミューンの鎮圧は、政治的安定をもたらすものとして歓迎されます。一方で、第三共和政を確立させる契機になったという評価もあります。いずれにせよ、パリ・コミューンはフランスの革命の伝統のなかにしっかり位置づけられているように思います。

その証左とも言えるのが、シャンソンを代表する名曲「さくらんぼの実る頃」だと思います。もともとは、パリ・コミューン以前に銅工職人クレマンが作った失恋の歌でした。しかし、血の週間の最中、サクランボのカゴを抱えながらコミューンの負傷者の救護にあたり、自らも命を落としたという看護婦ルイーズを称える歌へと書き換えられます。当時のパリ市民が、パリ・コミューンの犠牲者を悼んでよく歌ったとされています。近年で言えば、ジブリ作品「紅の豚」の挿入歌として加藤登紀子が歌い評判となったようです。実は、1982年にフランス大統領フランソワ・ミッテランが訪日した際、フランス大使館を訪れた昭和天皇が、フランス人歌手とともに、「さくらんぼの実る頃」を歌ったという逸話も残っています。ビュット・オ・カイユは、この曲がよく似合う街だと思いました。(写真出典:theearfultower.com)

2026年4月20日月曜日

孤立言語

定年退職後、日本語学校の教師になった先輩の話を聞きました。日本で日本語を教えるのですから、さほど面倒なこともないだろうと思っていましたが、なかなかに大変そうです。授業は、生徒の母国語や英語を使って行うのではなく、前回までに教えた日本語だけを使って進めるというのです。気の遠くなるような話です。ただ、考えてみれば、語学学校というものは、世界中どこでも同じような教え方をするものなのでしょう。それなりの教育メソッドがあったとしても、教師には緻密で周到な準備が求められることになります。しかも、世界で最も習得困難とされる日本語ですから、実に難儀な話だと思います。

アメリカ国務省は、最も習得が困難な言語として、中国語(北京語と広東語)、日本語、韓国語、アラビア語を挙げています。なかでも日本語を最も習得に時間を要する言語としています。もちろん、アメリカ人にとって、という前提ではありますが、他国でも同じ認識だと思います。中国語は漢字と四声、韓国語はハングルと独特な文法、アラビア語はアラビア文字と語根派生システムといったところが難しさの主な要因とされています。日本語も含め、文字がアルファベットではないことがハードルを高くしているのでしょう。とりわけ漢字は、表意文字ゆえ膨大な数に上ります。諸橋轍次の大漢語辞典には親文字だけで5万字以上が収録されています。さらに同じ漢字でも四声や発音によって意味がまったく異なるというややこしさがあります。

日本語には、漢字の音読み、訓読みがあり、さらに表音文字の仮名、カタカナが加わります。日本語の難しさは、曖昧な表現や分かりにくい文法にもあります。韜晦術は、日本語に限らず、日本文化の根幹だとも言われます。また、文法的には、SOV(主語・目的語・動詞)型ながら柔軟な語順、あるいは主語の省略なども特徴的だと思います。さらに、敬語、謙譲語、丁寧語の使い分けに至っては、若い日本人も十分には対応できていません。それにしても、このように複雑怪奇な日本語は、いかにして生まれたのか、興味がそそられるところです。世界一シンプルな言語とも言われる英語は、古英語を話していたブリテン島に多様な民族が押し寄せてきたことから単純化したと言われています。日本語は、逆の道をたどったように思えます。

簡単に言えば、孤立化ということになります。日本人のルーツに関しては、大陸から来た縄文人、北東アジアから来た弥生人、東アジアから来た古墳人が混血した三重構造説が有力とされます。重要なのは、それ以降、大陸からの征服者も大量移民も現れなかったことです。島国という点ではブリテン島も同じですが、平野が少なく、かつ天変地異の多い日本は魅力に乏しかったのでしょう。もちろん、ブリテン島と日本との違いの背景には、欧州が遊牧民の圧迫を受けたという事情もあります。いずれにしても、古墳時代以降、日本へは大陸から文字や文化は伝わりますが、人的支配が無かったことが、日本語の孤立化を進めたわけです。だとすれば、中国と陸続きで、かつ中国による支配も経験した朝鮮半島の言語が孤立化したことの方が、より不思議に思えてきます。

朝鮮民族のルーツはウラル系だと聞きます。朝鮮半島には、漢民族、ツングース系、あるいは倭人も押し寄せ、それを朝鮮民族が押し返して歴史が進みます。興味深いのは、紀元前1世紀から紀元4世紀頃まで続いた楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡のいわゆる漢四郡の時代です。燕の家臣が逃亡してきて開いた衛氏朝鮮を漢が破り、半島の北西から中部を支配しました。つまり、古代朝鮮は、南部を除き、500年間に渡り漢民族が支配していました。言語の孤立が起こるとは思えません。恐らく、漢民族による支配は点と線に限定されていたのでしょう。中原に起こる漢民族の王朝にとって、朝鮮半島は辺境であり、戦に負けて逃げ込む場所に過ぎなかったわけです。孤立言語が維持された大きな理由はここにあると思います。ただ、朝鮮民族は、自らの強靭さによって独立性を保ってきたと主張しがちではありますが。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年4月18日土曜日

アメリカ海兵隊

佐世保の米海軍基地に配備されている強襲揚陸艦トリポリが、沖縄の海兵隊を乗せてペルシャ湾へ向かったというニュースが流れた頃、友人が、米軍の艦艇なのにアフリカの地名なのは不思議だと言っていました。米海軍には人名を冠した艦艇が多いのですが、海兵隊が乗艦する強襲揚陸艦に関しては、海兵隊が活躍したかつての戦場名が多く付けられています。イオー・ジマやオキナワ等もありました。 トリポリは、リビアの首都ですが、19世紀初頭、オスマントルコ配下の国だった頃、米国とバーバリ戦争を戦っています。アメリカ海兵隊にとっては、初の海外遠征であり、その勝利は誇るべき歴史とされています。

世界各国の軍は、多くの場合、陸・海・空の3軍構成になっていますが、アメリカでは、さらに海兵隊、沿岸警備隊、宇宙軍を加えた6軍体制になっています。各国には海兵隊に類した部隊が海軍や陸軍傘下に存在します。しかし、軍として独立しているのはアメリカ海兵隊だけです。素人にとって海兵隊は陸軍との違いが分かりにくい面があります。その独立性は、アメリカ国内でも議論があったようです。現在のアメリカ海兵隊は、上陸戦を主とした外征専門部隊です。緊急展開する先鋒部隊としての役割を担っています。しかし、16世紀、スペインで初めて海兵隊が誕生した頃の役割は大いに異なっていました。当時の海戦は、敵艦船に接舷・移乗したうえでの白兵戦でした。その戦闘員として、さらには上陸戦、水夫の規律維持のために海兵隊が生まれています。

アメリカ海兵隊は、アメリカ独立戦争中の1775年に創設され、戦争の終結とともに解散しています。そして、フランスと緊張状態が高まった1798年に再結成されます。その後、海兵隊は、米墨戦争、第一次世界大戦等で活躍するものの、接舷白兵戦や艦艇内治安維持といった役割が薄れたことから、独立した軍としての存在意義が問われることになります。その状況に大きな変化をもたらしたのが、日本の南太平洋への進出でした。海兵隊は、日本本土侵攻作戦を立案し、1924年には、陸海軍合同会議で正式採用されます。第二次世界大戦が勃発すると、陸軍は欧州戦線に兵力を取られ、太平洋戦線は海軍が担うことになります。しかし、地上戦力を持たない海軍は海兵隊に頼らざるを得ませんでした。つまり、海兵隊は、その存在意義を対日戦で確立したわけです。

太平洋戦争を主力として戦った海兵隊ですが、硫黄島での戦闘は特に名高く、擂鉢山に星条旗を掲げる海兵隊員の姿は、アーリントンの海兵隊戦争記念碑として、海兵隊の象徴ともなっています。第二次大戦後の海兵隊は、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、中東における戦争等、多くの戦争や紛争で外征部隊として先陣を切る活躍を見せ、その存在感を高めます。その間にも、海兵隊は、その兵員数、陸上車両、航空機を拡大し、一国の軍と見まごうばかりになっています。今も世界各地に展開する海兵隊ですが、存在意義の根幹を成しているのは対中国戦だと聞きます。現代にあっても、外交努力を別とすれば、戦争の終結には地上軍による侵攻が必須とされています。それは理解できますが、近年の兵器や戦術の変化を考えれば、もはや敵前上陸などあり得ないように思います。

近代的な敵前上陸は、第一次大戦中のガリポリの戦いに始まるとされています。連合国が、オスマントルコの首都コンスタンチノープル占領を目指してガリポリ半島で行った上陸作戦です。結果的には、オスマントルコの激しい抵抗の前に、作戦は失敗に終わっています。しかし、その反省から、上陸作戦に関する装備や戦術の近代化が図られ、ノルマンディー上陸作戦、あるいは仁川上陸作戦の成功につながります。昨今、衛星やドローンによる正確な偵察情報、ミサイルやドローンによるピンポイント爆撃、火力支援を伴うヘリボーンの展開等を考えれば、海兵隊が得意とするような敵前上陸の時代は終わったように思います。紛争レベルにおける外征専門部隊、緊急展開部隊としての海兵隊の意義は失われていないとしても、対中国戦などを想定すれば、軍としての独立性は難しいところにきているように思えます。(写真出典:4travel.jp)

2026年4月16日木曜日

蔵書

学生時代、親から仕送りが届くと、米と本を買いました。米さえあえば、何とか食べていけると思っていました。お金の大半は、読みたい本を買うことに使いました。片っ端から読んで、読み終わると、すぐに古本屋に持ち込みます。高く買い取ってくれる馴染みの古本屋がありました。本を売って得たお金で、また本を買うわけです。買った本に蔵書印を押して、本棚に並べるといった趣味はありませんでした。蔵書なんて少女趣味そのものだ、とうそぶく先輩がいて、その影響もあったように思います。必ず読み返すだろうと確信する本以外は、とにかく売っていました。ちなみに、学生時代は、よくディスコに通っていましたが、そうした遊興費は、アルバイトで稼ぎ出していました。

会社に入社して3年目の頃、同じ部の先輩に、毎週7~8冊ばかりの本を買う人がいました。当時、八重洲ブックセンターには得意先の割引制度があり安く本が買えました。電話注文すると会社へ配達してくれるので、先輩の購入状況も分かるわけです。その先輩のご自宅は井の頭公園のそばにあり、花見に来いと呼ばれたことがあります。庭は、8畳ほどのプレハブ小屋で占められ、中はぎっしりとアルミの書棚が並んでいました。驚いたことに、蔵書は、ラベルとカード目録で管理されており、まるで図書館そのものでした。当時、先輩たちには、蔵書数を知性のバロメーターとするような価値観があったように思います。しかし、この先輩について言えば、読書好きを通り越して、蔵書自体が目的化されたマニアックなコレクターだと思いました。

また、別な先輩は、蔵書で家の床が抜けそうになり、蔵書の収納を大前提とした家を建てました。学究肌で、エコノミスト的な活動も行っている先輩ですから、単なるコレクターとは多少異なる面があります。過日、その先輩と話していた時のことですが、話題が”NHKオンデマンド”に及びました。その存在を知らなかった先輩が”えっ!そんなものがあるのか!じゃ、俺のこれまでの努力は何だったんだ!”と絶叫したのです。先輩の書庫は、新聞の切り抜き、果ては少女漫画まで含むという幅広さで有名でした。書籍類に留まらず、TVの録画まで収蔵していたわけです。もはや国会図書館に近いなと思いました。その先輩には、今から思い切った整理を始めないと、お子さんたちに大迷惑をかけますよ、と自分の経験に基づいたアドヴァイスをさせてもらいました。

私の父は、農業経済に関する学究的な活動も行っており、十数冊の著作もあります。本を書くには、当然、参考資料も必要となります。父はコレクターではありませんが、やはり蔵書は多かったと言えます。晩年も、難しい本を読むことがボケ防止だと言って、書籍の購入は続けていました。このままだと本の置き場所だけでなく、死後整理も大変になると思い、専門性の高い本を公立図書館や専門機関などに寄贈してもらいました。それでも、亡くなった時には、結構な数の本が残っていました。育った時代のせいか、私は本を捨てることに抵抗があります。そこで古本屋に持ち込むわけですが、値の付く本など限られています。結局、多くの本は、タダ、ないしはタダ同然で引き取ってもらうことになります。引き取ってもらえるだけ、有りがたいと思うべきなのでしょう。

ここ十数年は、本が増えないようにと思い、可能な限り、Kindleを使っています。バックライトがあったり、スマホでも読めたり、と便利な点は多々あるのですが、正直なところ、いまだに紙の本の方がいいなと思っています。私は、ノンフィクション系の本を読む際、気になった箇所があればページの端を折り込みます。Kindleにも、類した機能はあるのですが、どうも使い勝手が悪く、さほど活用していません。しかし、電子書籍最大の問題点は、所有権なのだと思います。電子書籍は、閲覧権、あるいは利用権を購入しているだけであり、所有権はありません。従って、売却することも、人にあげることもできません。分かりやすく言えば、電子貸本というわけです。その仕組みからして理解できるところはあります。しかし、それならば、紙の本よりも、もっと安くすべきではないかと思うわけです。(写真出典:maidonanews.jp)

2026年4月14日火曜日

ジェイウォーク

アメリカで”ジェイウォーク(Jaywalk)” と言えば、歩行者が横断歩道以外で道を横断することを言います。もともとは、20世紀初頭、道路の反対側を走る、つまり逆走する馬車の御者を”ジェイドライバー”と呼んでいたのだそうです。”jay”とは、当時のスラングで愚か者、田舎者を意味していたようです。次第に交通ルールやマナーを守らない馬車の御者や自動車の運転手を指すようになり、さらには同様の歩行者についても”ジェイウォーカー”と呼ぶようになったとのこと。ちなみに、アメリカで下手な運転をしていると”サンデー・ドライバー!”と怒鳴られます。日曜にしか運転しないほど車になれていない人という意味です。

当時の田舎の道には横断歩道など無かったのでしょうから、都会の人が”田舎者!”と馬鹿にするのも理解できます。ただ、先に存在していたのは歩行者であって、馬車でも自動車でもありません。どこで道を横断しようと歩行者の勝手であり、横断する歩行者がいたら車が停止すべきではないかと思います。一般的な認識としては、馬車や自動車の通行量が増えてきたので、歩行者の安全を守るために横断歩道が生まれたということになのでしょう。しかし、横断歩道を渡りなさいという法律は、必ずしも、実情や世論を背景に成立したわけではなさそうです。横断歩道に関する初の法律は、1925年、LAで成立していますが、その背景には、自動車業界によるキャンペーンとロビー活動があったようです。人よりも自動車とビジネスが政治的に優先されたわけです。

自動車産業の勝利ではありますが、当時、T型フォードのヒットもあって、アメリカはモータリゼーションの時代を迎えていたことも事実です。法の成立経緯は別としても、横断歩道は人と車の共存を図ったという理解もできます。しかし、日本の道路交通法のように、歩行者に横断歩道を渡る義務を課し、違反すれば罰金を科すというのは主客転倒のようでもであり、如何なものかと思います。もっとも、法律はあっても、それで捕まり、罰金を払ったという人は聞いたことがありません。それならば、法律は無用、ないしは努力義務にすべきではないか、とも思います。昨年、NYでは、ついに法改正が行われ、ジェイウォークが合法化されました。実態を踏まえた改正と聞きます。実態を踏まえるまで、随分と時間がかかったものだと思います。

また、歩行者信号を守るべきかどうか、という問題もあります。ここは、国による違いが大いに出ていると言えます。NYやフランスでは、信号を遵守せよという法律は存在するようですが、ほとんどの人が信号を無視して、自ら車が来るかどうかを見定めて渡っています。イギリスでは、歩行者信号遵守の法律そのものがないようです。自己責任というわけです。つまり、歴史的に市民革命の経験を持つ国では、法が存在するかどうかに関わらず、歩行者信号が無視される傾向にあるわけです。社会の根底に個人主義が根付いているということなのでしょう。一方、車が通っていなくても信号を守るのは、日本、そしてドイツだと聞きます。民族的特性と言えるのかもしれませんが、20世紀初頭、両国が全体主義国家だったことを思えば、実に興味深い話です。

昨年、自動車運転免許の更新に際し、高齢者講習なるものを受けました。机上と実技の講習、各種視力の検査がありました。更新の可否を決める試験ではありませんが、自分の運転傾向が明らかになり、なかなか面白かったと思います。その際、道路上の菱形のマークの意味を知りました。この先に信号のない横断歩道があることを警告する道路標識です。たまに見かけるのですが、それが意味していることは知りませんでした。講習後、講師と雑談した際、これは最近出来た標識なのか、と聞いてみました。いや、昔からありますよ、と聞かされ、ショックを受けました。恐らく、免許取得の際に習ってはいたのでしょうが、記憶から飛んでいたわけです。50年間、まったく気にしてこなかった、あるいは気にする必要性がなかったということなのでしょう。(写真出典:seiwa.co.jp)

2026年4月12日日曜日

Mazda

マツダ号 DA型
マツダ(Mazda)は、生産台数において日本第6位の自動車メーカーです。マツダは、1920年、広島で「東洋コルク工業株式会社」 として創業しています。その後、1927年には、業態の変化に応じて「東洋工業株式会社」、そして、1984年、ブランド名と会社名を統一して「マツダ株式会社」へと社名を変更しています。ブランド名のマツダが浸透していたので、社名変更には何の違和感もありませんでした。また、英文表記の”MAZDA”は、Zを使っている点が面白いと思っていました。アメリカ人には”tsu”の発音が難しく、”トゥ”となりがちです。それを踏まえた命名だったのでしょう。マツダは、事実上の創業者である松田重次郎に由来した名称だと理解していました。ところが、MAZDAにはもう一つの意味があったことを、最近、知りました。

それは、ゾロアスター教の最高神「アフラ・マズダー(Ahura Mazda)」にかけているというのです。英文のブランド名が同じスペルだったので、後付けで言い始めただけなのだろうと勘ぐりました。ところが、1927年、同社が自動車製造に参入して初めて発売した三輪トラック「マツダ号 DA型」の時点から、松田重次郎はアフラ・マズダーにあやかることを意図し、英文ブランド名をMAZDAにしたと言うのです。正直、驚きました。ゾロアスター教は、紀元前10~11世紀ころ、ペルシャで生まれた世界最古の宗教とされています。ペルシャから中東、アジアに広がりましたが、イスラム教の台頭によって押しやられ、現在では中東に少数の信者を残すのみとなっています。アフラ・マズダーは、善・光明・創造の神とされています。

衰えたとは言え、世界宗教の最高神の名をブランド名にすることは、いささか差し障りを感じます。三輪オートバイに荷台を付けただけの三輪トラックの商品名が「アマテラス」だとすれば、物議を醸すどころの話ではありません。マツダのホームページ上では、松田重次郎は、東西文明始まりのシンボルとも言えるアフラ・マズダーを、自動車文明の始まりのシンボルとして捉え、また世界平和を希求し自動車産業の光明となることを願って名付けた、とされています。松田重次郎は、1875年、現在の広島市南区に生まれています。学校教育を受けることなく、大阪の鍛冶屋で機械の製作技術を身につけ、海軍工廠で勤務した後、松田鉄工所を開きます。その後、故郷に戻り、1921年、前年に設立された東洋コルク工業株式会社の社長に就任しています。

松田重次郎は、技術者としての合理性とロマンティックな面を併せ持った人だったのでしょう。事実上の創業者がロマンティックな技術者だったことは、ロータリー・エンジンなど画期的な技術を生み出し続けるマツダの企業風土に大きな影響を与えているのだと思います。十数年前のことですが、さる大手自動車メーカーの技術系役員が、今、日本でエンジンを語らせたら、マツダの右に出るものはいない、と断言していました。そのマツダと同じく高い技術力を誇るのがホンダです。しかし、マツダもホンダも日本一の自動車メーカーにはなっていません。その理由は簡単です。営業力の違いです。トヨタは、その営業力で、日本を、世界を征した企業だと言えます。マツダは、近年、技術力に加え、デザインに力を入れたことで、売上を伸ばしてきました。

20年ほど前に、社外研修でマツダのエンジン開発担当の役員と同席したことがあります。その頃、マツダ・デザインが評判を取り始めていました。そのことを話題にすると、彼は、エンジン部門からすると、それが悩みの種だというのです。デザインが優先される風潮が生まれたために、エンジン・ルームのスペース確保や空力抵抗を下げる工夫がないがしろにされているというのです。松田重次郎の後継者としては、車の根源に関わる許しがたい風潮だと思っていたのでしょう。一方、アフラ・マズダー的には、世界に光明を届けるためにはデザインも無視できないわけです。耐久消費財メーカーのあるあるなのでしょうが、この葛藤こそが、ものづくり日本を支えているのだろうな、とも思えました。(写真出典:mazda.com)

2026年4月2日木曜日

王朝国家

藤原良房
学校で「王朝国家」という言葉を習った覚えがありません。それもそのはず、王朝国家は、1970年代以降に議論が高まり、定着していった概念であり、かつての教科書には載っていませんでした。中央集権を目指した律令制は、平安中期の10世紀頃、破綻します。税制の基本だった人別管理が土地別課税に代ることで荘園化が進み、中央では摂関政治、次いで院政も登場してきます。この時代を王朝国家と呼ぶわけです。封建制に基づく中世への橋渡し、あるいはその前段階とも言えるのでしょう。理解はできますが、王朝国家という呼称には違和感を感じます。王朝とは、王が国を治めるという意味であり、日本では、古墳時代から平安時代まで続きます。平安時代を王朝時代と呼ぶこともありますが、王朝国家とは時代的なズレがあります。

数年前、正倉院展で養老5年(721年)に作成されたという下総国の戸籍台帳を見たことがあります。現在の松戸市あたりの戸籍であり、興味深く見ました。戸別に家族の氏名などが細かく記載されています。台帳は、6年毎に更新されていたようです。いかに人口が少なかった時代とは言え、更新には大変な苦労があったものと思います。公地公民を理念とする律令制は、制度と実態との乖離が拡大して崩壊に至ったと言えます。税を逃れるための農民の逃亡、人口増加と口分田の不足、墾田永年私財法による私有地の拡大といった税基盤の揺ぎが主な要因となりました。綻びを修正する試みも行われますが、最終的に、朝廷は中央集権をあきらめ、請負型の分権制へと移行していきます。ここが、天皇と為政者という日本的二重構造の始まりになったものと思います。

858年、文徳天皇の急死に伴い8歳の清和天皇が即位します。史上初めての幼帝であり、外祖父の藤原良房が、皇族以外では初めてとなる摂政の座につきます。そもそも病弱だった文徳天皇は、ほとんど政務をとっておらず、伯父の良房が権勢を振っていたようです。清和天皇が東宮となったのも良房の圧力によるものでした。幼帝、天皇の外戚という藤原北家による摂関政治のスタイルが、ここに生まれたわけです。摂政は天皇の代行、関白は成人した天皇の補佐職となりますが、いずれも律令に定めのない役職です。藤原北家は、摂政・関白を独占して権勢を振います。その勢いに衰えの見えた1068年に至り、藤原北家を外戚に持たない後三条天皇が即位します。以降、摂政・関白は置かれたとしても、天皇家は藤原北家の勢力を抑えていきます。

後三条天皇の第一皇子だった白河天皇は、その流れのなかで親政を目指し、その後、子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、曾孫の崇徳天皇と3代にわたり院政をしきました。それ以前にも太上天皇、上皇は存在したものの、院政に関しては白河上皇が始まりとされます。白河上皇が天皇位を継続すれば良かったようなものですが、実子や孫を幼くして即位させ、藤原北家が外戚になることを防いだのでしょう。形式上の院政は、19世紀初頭の光格上皇まで続きますが、実態としては、室町幕府によって形骸化され、終っています。院は、摂関家に対抗するために、積極的に武士を近臣として登用していきます。これが武家の台頭につながり、結果、院政は武家政権によって倒されたと言えるのでしょう。いわゆる飼い犬に手を噛まれた状態だったわけです。

ヤマト王権は部族連合のリーダーでした。唐の脅威に怯えた朝廷は、律令制によって中央集権化を図るわけですが、部族連合という国の本質は変わらなかったのでしょう。藤原北家は、いっそ天皇家に取って替わることもできたはずです。しかし、部族社会にあって、政権交代の正統性を証明、保証することは難しく、内戦に突入することは必至だったと言えます。よって、賢い藤原北家は、天皇の権威を利用しつつ、実権を握ることにしたのでしょう。以来、鎌倉幕府から敗戦まで続く武家政権も、さらに言えば、マッカーサーも藤原北家の知恵を活用してきました。天皇と為政者という二重構造は、日本を決定的な内戦や分断から遠ざけつつ、時代の変化を取り込むことに成功してきたとも言えそうです。王朝国家は、名称とは裏腹に、天皇が実権を失い、その後の日本の二重構造が決定づけられた時代だったわけです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

さくらんぼの実る頃