公職追放の政策意図は十分に理解できますが、見事なまでに人権を無視していると言えます。それだけに法的根拠や手続きの正統性が問われるところだと思います。占領下の日本は主権を奪われ、独立を失った状態にありました。とは言え、GHQによる統治はいわゆる間接統治であり、憲法はじめ日本の法律は停止されていたわけではありません。実態として、GHQの指令は国内法を超越していたということになりますが、その法的根拠は何なのか、よく分かりません。ここは今でも様々な議論があるようです。公職追放も、国際法だけでなく、GHQの規定上も、合法性が担保されていたのかどうか、よく分かりません、GHQが発した公職追放の指令には判断基準が明記されていますが、追放者選定に関しては、相当、恣意性が働く仕組みでもありました。
民政局には、左翼運動家等が押しかけて追放すべき人物を告発していたようです。吉田茂首相の気に食わない人物がパージされたという話もあります。GHQの若い民間スタッフまでもが候補者選定に関わっていました。オーストリア人である彼女の両親は戦時中の日本で冷遇されていたようです。つまり、公職追放は、魔女狩り、リンチの類いだったとも言えるのでしょう。いつ、誰が告発されるか分からない、自分もパージされるかもしれないという恐怖が広がり、人々は疑心暗鬼の状態に置かれたわけです。民主主義を目指すと言いながら、その手法は全体主義そのものだったわけです。戦前の軍国主義下で体制に異を唱えることは死を意味します。軍国主義の先導者、盲従者がいたことは事実ですが、多くは追従せざるを得なかった人々なのだろうと思います。
結論ありきの政治ショーだったアイヒマン裁判で、アイヒマンは官僚として命令に従っただけだと主張します。主導的であったか、追従的であったかの判断は微妙です。GHQ民政局も、そのことは十分以上に分かっていたはずです。だとすれば、公職追放や非ナチ化政策の真のねらいは、ファシズム的手法で社会にショックや恐怖を与え、一気にファシズムのマインド・コントロールを解くことだったのではないか、と思えます。正統と異端という二元論は、実に一神教的な手法だとも言えます。その効果は圧倒的だったように思います。アッという間に軍国主義や国粋主義は悪の権化となり、十分な審議もされずに追放された各界のリーダーの後には若い世代が台頭していきます。まるで手のひらを返したように浸透した”戦後民主主義”は、教育の成せる技のように言われますが、実は、それ以上に公職追放の影響が大きかったのではないかと思います。
GHQの間接統治の手足であった官僚に対する公職追放は限定的だったとも聞きます。ここにも、GHQの政策意図が見えると思います。公職追放は民主化を推進したわけですが、一方で、日本社会や経済の弱体化を招き、左翼の台頭を許した面もあります。GHQ参謀部は、当初から民政局の政策を懸念していたようですが、東西冷戦の構図が明確になるにつれ、軌道修正を始めます。レッド・パージと呼ばれる左翼の摘発に乗り出すなど、統治政策は180度変わっていきます。公職追放の解除は、1950年に開始されていますが、完全な終息は、1952年、日本が再独立を果たしたサンフランシスコ平和条約の発効を待たなければなりませんでした。しかし、公職追放の全面解除は、反共・防共体制構築を急いだという面もあり、十分な議論がないままに戦前の体制をそのまま復活させることにもなりました。(写真:GHQ民政局ケーディス次長 出典:ja.wikipadhia.org)






