2026年2月16日月曜日

公職追放

公職追放、通称パージとは、敗戦後、進駐してきたGHQが、日本を徹底的に民主化するために、戦前に影響力を持った人々を公職から排除した政策です。いわゆる戦犯とされた5,700人とは別に、軍国主義の推進に相応の役割を果たした政治家、軍人、官僚、教育者、財界人、右翼、マスコミ関係者など約20万人が職を追われました。なかには、市井の町内会長等も含まれていたようです。法律に基づいているわけではないので裁判やオープンな審査は行われず、ひたすらGHQ民政局が指名し、退職金も手当等もないまま放り出されました。公職追放は、ドイツにおける非ナチ化政策を踏襲するものでした。ドイツでは、非ナチ化で公務員の1/3が解雇されています。

公職追放の政策意図は十分に理解できますが、見事なまでに人権を無視していると言えます。それだけに法的根拠や手続きの正統性が問われるところだと思います。占領下の日本は主権を奪われ、独立を失った状態にありました。とは言え、GHQによる統治はいわゆる間接統治であり、憲法はじめ日本の法律は停止されていたわけではありません。実態として、GHQの指令は国内法を超越していたということになりますが、その法的根拠は何なのか、よく分かりません。ここは今でも様々な議論があるようです。公職追放も、国際法だけでなく、GHQの規定上も、合法性が担保されていたのかどうか、よく分かりません、GHQが発した公職追放の指令には判断基準が明記されていますが、追放者選定に関しては、相当、恣意性が働く仕組みでもありました。

民政局には、左翼運動家等が押しかけて追放すべき人物を告発していたようです。吉田茂首相の気に食わない人物がパージされたという話もあります。GHQの若い民間スタッフまでもが候補者選定に関わっていました。オーストリア人である彼女の両親は戦時中の日本で冷遇されていたようです。つまり、公職追放は、魔女狩り、リンチの類いだったとも言えるのでしょう。いつ、誰が告発されるか分からない、自分もパージされるかもしれないという恐怖が広がり、人々は疑心暗鬼の状態に置かれたわけです。民主主義を目指すと言いながら、その手法は全体主義そのものだったわけです。戦前の軍国主義下で体制に異を唱えることは死を意味します。軍国主義の先導者、盲従者がいたことは事実ですが、多くは追従せざるを得なかった人々なのだろうと思います。

結論ありきの政治ショーだったアイヒマン裁判で、アイヒマンは官僚として命令に従っただけだと主張します。主導的であったか、追従的であったかの判断は微妙です。GHQ民政局も、そのことは十分以上に分かっていたはずです。だとすれば、公職追放や非ナチ化政策の真のねらいは、ファシズム的手法で社会にショックや恐怖を与え、一気にファシズムのマインド・コントロールを解くことだったのではないか、と思えます。正統と異端という二元論は、実に一神教的な手法だとも言えます。その効果は圧倒的だったように思います。アッという間に軍国主義や国粋主義は悪の権化となり、十分な審議もされずに追放された各界のリーダーの後には若い世代が台頭していきます。まるで手のひらを返したように浸透した”戦後民主主義”は、教育の成せる技のように言われますが、実は、それ以上に公職追放の影響が大きかったのではないかと思います。

GHQの間接統治の手足であった官僚に対する公職追放は限定的だったとも聞きます。ここにも、GHQの政策意図が見えると思います。公職追放は民主化を推進したわけですが、一方で、日本社会や経済の弱体化を招き、左翼の台頭を許した面もあります。GHQ参謀部は、当初から民政局の政策を懸念していたようですが、東西冷戦の構図が明確になるにつれ、軌道修正を始めます。レッド・パージと呼ばれる左翼の摘発に乗り出すなど、統治政策は180度変わっていきます。公職追放の解除は、1950年に開始されていますが、完全な終息は、1952年、日本が再独立を果たしたサンフランシスコ平和条約の発効を待たなければなりませんでした。しかし、公職追放の全面解除は、反共・防共体制構築を急いだという面もあり、十分な議論がないままに戦前の体制をそのまま復活させることにもなりました。(写真:GHQ民政局ケーディス次長 出典:ja.wikipadhia.org)

2026年2月6日金曜日

「ウォーフェア 戦地最前線」

監督:アレックス・ガーランド/レイ・メンドーサ  2025年イギリス・アメリカ

☆☆☆☆ー

イラク戦争時の一つの戦闘を、兵士の記憶に基づき、演出を一切加えず、タイム・フレームもそのままに再現したという実に希な映画です。音楽も一切排除し、銃声等にも加工を加えず、ひたすらにリアルさを追求しています。アレックス・ガーランドが「シヴィル・ウォー」を撮った際、軍事アドヴァイザーを務めたのがレイ・メンドーサでした。メンドーサは、この戦闘に通信兵として実際に参加していた海軍特殊部隊(ネイヴィー・シールズ)の隊員でした。脚本も監督もメンドーサを主に、ガーランドが補佐する形で行われています。撮影に際しては、一緒に戦った他の兵士たちも参加し、可能な限り忠実に戦闘を再現したようです。

2003年3月、アメリカを中心とする有志連合がイラクに侵攻し、イラク戦争が始まります。ハイテク兵器を大量に投入した有志連合は、わずか2ヶ月でイラク全土を制圧し、大規模戦闘終結宣言が出されます。しかし、イラクの正規軍は崩壊したものの、各地には抵抗勢力が残り、戦闘は継続されます。そんな中、2006年、西部アンバール県で県都ラマディの制圧を巡る戦いが勃発します。監視・支援任務に就いたシールズの小隊は、秘密裏に民家を占拠します。しかし、住民に気付かれ、アルカイダ系武装勢力に包囲・襲撃されます。負傷者が出たため、ブラッドレー歩兵戦闘車を呼んで搬送しようとしますが即席爆弾が爆発、小隊は、負傷者を抱えたまま籠城せざるを得ませんでした。最終的には、航空支援を受けながら、再度呼んだブラッドレーで脱出に成功します。

当初、有志連合は、湾岸戦争の半分という兵員数ながら、ハイテク兵器によるピンポイント攻撃でイラク正規軍を圧倒します。ただ、全国に残存する抵抗勢力との戦いでは、兵士の少なさが裏目に出ます。ラマディで米軍がとった作戦は、大規模な空爆ではなく、小隊や分隊を市内に分散浸透させ、制圧を図るというものでした。本作におけるシールズ小隊も、分隊単位で行動しています。兵士たちは、個々の任務に応じた銃やハイテク装備を装着しています。この頃から、米兵の通信のハイテク化が目立つようになりました。最も象徴的なのは、前線の兵士も、司令部と同じドローン映像を確認できるようになったことなのでしょう。一方、反抗勢力は、普段着にAKM自動小銃を持っているだけです。この違いが、破綻したアメリカによる統治を象徴しているように思えます。

これまでも、リアルな戦闘を描いた映画は、少なからずありました。ただ、リアルな戦闘シーンだけで構成される映画と言えば、リドリー・スコットの「ブラック・ホーク・ダウン」(2001)くらいしか思い出しません。実話に基づく作品でしたが、リアリティを高めるために相当脚色されていました。現実を忠実に伝える描写か 現実を的確に伝える描写か、実に微妙な問題です。製作サイドが、観客に伝えたいことを、より効果的に表現しようとすれば、一定の脚色は当然なのだと思います。ただ、本作は、一切の脚色を拒みつつ、なおかつ観客を惹きつける迫力を持っています。誠に希有な作品だと言えます。それを実現できたのは、レイ・メンドーサの細部へのこだわり、そして全体をコントロールしたアレックス・ガーランドの構想力なのだと思います。

本作は、米軍礼賛のヒーロー映画でもなければ、戦争の悲惨を伝える反戦映画でもありません。ただただ戦闘のリアリティを描き、それをどう判断するかは、観客に委ねてるとも言えます。イラク戦争自体は、開戦理由とされた大量破壊兵器が発見されなかったことから、批判されることの多い戦争です。まだ、見事に失敗したアメリカによるイラク統治は、イラク、ひいては中東全体に混乱を広げ、かつアメリカ軍兵士たちの死傷率を高め、PTSDに苦しむ多くの帰還兵を生みました。実際に起きた戦闘をリアルに再現しているとは言え、こうした問題を想起させる要素をも多く含む映画でもあります。(写真出典:imdb.com)

2026年2月4日水曜日

鉢木

能楽「鉢木」
老後には、ゆっくり鎌倉を散策したいものだと思っていました。ところが、なかなか実現しません。最大の理由は混雑です。十年ほど前、鶴岡八幡宮にほど近い小町の教会で先輩のお葬式があって行きましたが、鎌倉駅の人出の多さにひるみました。小町通りなどは明治神宮の初詣さながらの混雑でした。もともと東京に近い観光地として人気ではありますが、そこにインバウンド客が加わり、騒動レベルに達しているわけです。往時の「いざ鎌倉」という時にも、武士たちでこれくらい混み合ったことだろうと想像しました。“いざ鎌倉”とは、鎌倉時代、幕府に一大事が起これば、関東一円に散らばる御家人たちが鎌倉に駆けつけるという備えを象徴する言葉です。

実は、この言葉は能楽に由来するとされています。謡曲「鉢木」が上演されると評判を取り、浄瑠璃や読本に取り上げられ、明治以降は教科書にも載るほど好まれることになりました。大雪の夜、旅僧が一軒の家に宿を求めます。その家は貧しく、暖を取る薪も無かったので、主人は大事にしていた鉢木(盆栽)を切って燃やします。主人の佐野源左衛門常世は、領地を騙し取られ極貧の生活を送っていますが、”いざ鎌倉”という時に備え、くたびれた鎧、錆びた薙刀、痩せた馬だけは残していました。後日、幕府の号令がかかり、ドタドタながら鎌倉に駆けつけた常世でしたが、本陣に呼び出されます。上座に座っていたのは、あの日の旅僧でした。その正体は、僧の姿で世情を視察していた北条時頼でした。常世は、その姿勢が高く評価され、領地を安堵されます。

シンデレラ型サクセス・ストーリーの傑作だと思います。作者は、観阿弥、あるいは世阿弥という説もありますが、証跡がなく、作者不詳とされています。厳しい環境にあっても、誠実であり続ければ、いつか報われる、という教訓が語られています。さらに言えば、御恩と奉公で構成された武士社会の忠義、滅私奉公といった価値観を、端的に現わしているとも言えます。滅私奉公の精神は、軍国主義下、そして戦後の高度成長期へと受け継がれていきます。入社間もない頃、先輩たちは、夜10時まで働き、その後は皆で飲みに行き、帰宅するのは真夜中過ぎ。そして翌朝、満員電車に押し込まれ、再び会社へという生活を送っていたものです。家族を犠牲にして奉公した企業戦士たちの努力は、マイホーム、マイカー、家電などで報われたということなのでしょう。

その後、低成長の時代を迎えると、企業は従業員に等しく報いることが出来なくなり、滅私奉公という言葉は、全体主義的な色の濃い過去の遺物として批判され、消えていきます。企業の人事制度は、年功序列から能力主義、さらには実績主義へと変わっていきました。佐野源左衛門常世の忠義は、企業にチーム・プレイが求められる限り、今でも賞賛されることになります。ただ、戦場で実績を挙げない限り、常世の領地が安堵されることはありません。単一市場が拡大する成長期には、滅私奉公に代表される画一主義が企業の大きな推進力となります。しかし、新たな市場自体を開発していかざるを得ない状況下では、画一主義は機能しないどころか、ブレーキになる可能性すらあります。とは言え、鉢木の精神が染みこんだ日本人は、なかなか個人主義的にはなれない面がありました。近年に至り、ようよう若い世代に変化が見えてきたように思います。

「鉢木」の原典は、文献上、見つからず、フィクションだろうとされています。北条時頼が出家したことは事実ですが、全国行脚したという記録は確認されていません。時頼は、北条得宗家の独裁を確立した辣腕の執権でしたが、一方では信心深く、御家人や庶民に対しては善政を敷いたことでも知られます。時頼に対する世間の評判が良かったことも、鉢木成立の背景にあったのでしょう。水戸黄門の全国行脚も完璧なフィクションですが、鉢木が創作のヒントになっているのではないでしょうか。佐野源左衛門常世の存在も、確認されていません。ただ、栃木県佐野市には墓と伝承が残っています。伝承によれば、常世は、家来たちを叱咤激励しながら激流を渡る際、家来ともども流されて死んだとされているようです。なにやら、企業文化における滅私奉公の死につながるものを感じます。(写真出典:cte.jp)

2026年2月2日月曜日

ブルー・チーズ

カブラレス
家族でグアムへ行った際、プラネット・ハリウッドで、子供たちにブルー・チーズ入りのサラダを食べさせたことがあります。無理だろうとは思っていたのですが、一口食べただけで想定以上の激しい拒否反応がありました。苦味や辛さは、食べたら危険というシグナルを脳に送る役割があると言われます。つまり、子供たちの本能は極めて正常な状態にあったわけです。ブルー・チーズは、青カビで熟成させたチーズです。カマンベールやブリー等の熟成に使う白カビも、実は青カビの一種です。ほとんどの青カビ類は非病理性であり、感染することもなく、カビ毒も発生しません。

ただ、青カビが発生するということは、他の毒性の強いカビ類も発生している可能性が極めて高く、カビの発生した食品を食べることは危険だということになります。しかも、食品の表面のカビだけを除去すれば安全ということではありません。間違いなく、食品内部にまでカビは浸透しています。ブルー・チーズは、適切な温度・湿度・工程管理のもとで熟成されるため、安全に美味しく食べることができます。カビには、タンパク質をアミノ酸に分解してうま味を出す、デンプンを糖に変える、あるいは脱水するといった効果もあります。カビを利用して作る食品はチーズに限りません。身近なところでは、カビの一種である麹菌を使って発酵させる味噌、醤油、日本酒があり、麹菌を使って乾燥させる鰹節、あるいは納豆菌で発酵させる納豆などがあります。

近年、ポーランドで発掘されたチーズ作りの痕跡から、チーズの歴史は、少なくとも7,500年以上とされているようです。最初期のチーズは、羊や山羊のミルクを原料としていたようです。ブルー・チーズが、文献上、初登場したのは2,000年前とされます。フランス南部の山中にあるロックフォール=シュル=スールゾン村で、洞窟に忘れた羊のチーズに青カビが発生していたことから、偶然、発見されました。人口700人というロックフォール村は、今でもブルー・チーズの世界的産地として知られています。ちなみに、世界三大ブルー・チーズとされているのは、代名詞的存在でもあるロックフォール、9世紀頃から作られているイタリアのゴルゴンゾーラ、18世紀にその名を知られるようになったイギリスのスティルトンということになります。

ロックフォールは、青カビの刺激が最も鮮烈で、エッジの効いた味になっていると思います。今でも一番人気のブルー・チーズであり続けているのも、うなづける話です。ゴルゴンゾーラ、スティルトンは、その順にマイルドさが増していきます。知っている中で、最も美味しいと思うブルー・チーズは、スペインのカブラレスです。カブラレスは、スペイン北端のアストゥリアス自治州のカブラレス村で作られています。ブルー・チーズは、青カビを注射器でカードの中に入れるのが一般的ですが、カブラレスの場合、洞窟内で自然に付着させています。最も古い製法を維持しているわけです。青カビの刺激、牛乳のコク、塩味のバランスが絶妙だと思います。ギネス・ブックによれば、カブラレスは、最も高価なブルー・チーズとされているようです。

ブルー・チーズを使った料理は数多くあります。独特の風味をソースに活かそうと思えば、どんな料理にでも使えるとも言えます。多く見かけるのは、パスタやピッツアだと思います。ゴルゴンゾーラのピッツアには、蜂蜜がよく合います。青カビの刺激と蜂蜜の甘さが良いコラボレーションとなります。私は、デザートとして、ブルー・チーズにメープル・シロップをかけて食べます。その際には、ロックフォールが一番合うように思います。ただし、カブラレスに関して言えば、そのまま、何もかけずに、風味を味わいます。幸いなことに、数ヶ月に一度行われるチーズ好きの会で、毎回、カブラレスを楽しむことができます。これ以上、円が安くならないこと、航空料金が高くならないことを願うばかりです。(写真出典:rakuten.co.jp)

2026年1月31日土曜日

「京都人の秘やかな愉しみ」

「日本には2つの人種がいます。日本人と京都人です。」というフレーズで始まるTVシリーズ「京都人の秘やかな愉しみ」にハマりました。2015年からNHK・BSプレミアムで断続的に放送されています。シーズン2まで見ました。ドラマのような、ドキュメンタリーのような不思議な番組です。映像や音楽も含めて、とても丁寧、かつ上質に仕上げられています。私は京都好きではありますが、私が知っていたのは上っ面に留まり、京都人やその生活に関しては無知だったことを知らされました。1本2時間のなかに、ドラマ、寺院や街の紹介、京料理の作り方が織り込まれ、それらを通じて京都人の暮らしや心情が描かれています。決して深掘りしないスケッチ程度の描写が印象的であり、ほどほどの距離感も心地良い番組です。

京都の1年は、二十四節気、さらにそれを5日間に区分した七十二候に基づいて進みます。京都では、日によって食べるものが決まっているとも言われますが、食べるものだけでなく、行うべきことも、それぞれの日によって定められています。例えば、全国的に、節分は、豆まきか恵方巻の日といった認識が一般的だと思います。ところが、京都では旧暦の大晦日として、様々な迎春の行事が行われます。有職故事の塊のような街ですが、千年の都ゆえ、いにしえの日々が保たれてきたとも言えます。また、京都は、そうした生活を支える職人たちの街でもあります。和食文化の中心のような京都ですが、意外にもパン好きな街としても知られます。不思議なことだと思っていましたが、忙しい職人の手軽な朝食や昼食としてパン食が普及してきたのだそうです。

番組は、京都の街と人との関わりがにじみ出るよう構成されています。ドラマは、分かりやすいテーマがさりげなく描かれています。さらりと余韻を残すような演出が腕の良さを感じさせます。その演出スタイルは、他人との距離を上手に保つ京都人らしさに通じるものがあります。時にコミカルであることも、京都らしさの一つです。また、モダンで上質な生活や店も登場しますし、京都の国際性も織り込まれていますが、それらは千年の都が存続してきた理由の一つでもあります。寺院や街の紹介も、ありきたりな観光目線ではなく、京都人の生活という視点から紹介されています。料理のパートも、”手も口もよう動く京女”大原千鶴を通じて京都人が描かれています。時に京都人のインタビューも挿入されていますが、わざとらしさや唐突感のない仕上がりになっています。

人物や店のモデルが明確である点も面白いと思います。NHKという制約はあるものの、本物にこだわったということなのでしょう。シーズン2「Blue 修行中」の料亭萩坂のモデルは「高台寺和久傳」なのでしょう。シーズン1では、大原千鶴の幼少期からの友人として女将本人が登場しています。お茶屋が多い京都で料亭・和久傳は料理自慢の店として知られます。かつて若女将と呼ばれていた女将は、上品な美人ですが、気さくで機転も利くことから大人気でした。初めて和久傳に行った際、若女将が見送りに来なかったので、如何なものかと思いました。その後、皆で祇園町のバーへ繰り出しました。30分ほどすると、若女将が非礼を詫びながらバーに入ってきました。30分ばかり、お酌をして、愛想を振りまいて帰って行きました。その対応の見事さ、そして我々のいるバーが即座に分かるという京都のネットワークの凄さに感心したものです。

作・演出の源孝志は、CMやTVバラエティー制作の後、ドキュメンタリーやドラマを手がけ、芸術祭大賞はじめ数々の賞を獲得している才人です。実に斬新なアプローチで京都と京都人を描いた本作も、ATP(全日本テレビ番組製作社連盟)賞グランプリを獲得しています。京都出身だろうと思いましたが、実は岡山の人でした。ただ、大学が立命館なので、京都には慣れ親しんでいたわけです。また、音楽を担当しているのは阿部海太郎です。舞台の音楽を多く手がけている人のようですが、そのセンスの良さには感心させられます。シーズン1のエンディング・テーマには、ベンチャーズ作曲、渚ゆう子歌でヒットした「京都慕情」が使われています。武田カオリが歌うスロー・テンポなヴァージョンが、あの「京都慕情」だと気付くまでには多少時間がかかりました。半世紀以上も前のヒット曲が、これほどの名曲だったとは驚きです。(写真出典:nhk-ondemand.jp)

2026年1月29日木曜日

高麗郡

高麗神社
飯能に親しい先輩がおり、昔から宴会やゴルフで随分とお邪魔しました。西武池袋から特急電車に乗れば40分で飯能です。初代のレッドアロー号、ニュー・レッドアロー、現在のラ・ヴューと3世代の特急電車に乗ってきました。西武池袋線は、平地から秩父山地を目指して武蔵野台地を緩やかに登っていく路線です。武蔵野台地は、概ね関東山地が生み出した扇状地です。飯能は、秩父山地を水源とする入間川が作った扇状地の扇頂部にあたります。標高は100mですが、都心との気温差はマイナス5℃と聞きます。かつて、この一帯は高麗(こま)郡と呼ばれていました。高麗郡は、8世紀に成立して、1896年に入間郡に統合されるまで存続していました。

高麗郡は、716年、関東一円に居住する高句麗からの移民1,799人を集めて設置されました。郡司には、高句麗最後の王となった宝蔵王の子である高麗若光が就いています。高句麗は、紀元前1世紀、弱体化した漢の玄菟郡に、ツングース系の扶余の王族・朱蒙が興したとされます。建国はもっと古いという説もあります。新羅・百済との三国時代には、満州南部から朝鮮半島の大半を領土としています。東アジア激動の時代、隋・唐の圧迫をしのぎ、700年間、大国を維持した高句麗は、まさに強国でした。ただ、強大化した唐は、新羅と連携し、688年、ついに高句麗を滅ぼします。高句麗は、半島に攻め込んだ倭国とも何度か戦い退けていますが、新羅攻略に関しては連携も模索しています。高麗若光の日本渡来は、亡命とも、支援要請ともいわれています。

日本書紀には、666年、高句麗から使節団が来訪したという記述があり、そのなかに玄武若光の名があります。続日本書紀には、703年、従五位下高麗若光に王(こにきし、またはこきし)のカバネを与えたという記録があります。そして、716年の高麗郡の設置となるわけです。飯能の北隣の日高市には高麗神社があり、高麗若光が祀られています。また、神奈川県大磯にある高来神社は、明治中期に改称されるまでは高麗神社であり、高麗若光に由来するとされます。大磯には高麗山があり、近郊の高座郡の旧名・高倉郡も高句麗が由来と聞きます。いずれにしても、高麗若光がこの地にいたということなのでしょう。中国系帰化人の秦氏が開いた秦野市などは別として、高麗若光はじめ、関東には、半島からの渡来人の足跡が多く残っているわけです。

稲作はじめ、渡来人が日本の文明化に果たした役割はとてつもなく大きいと言えます。ヤマト王権時代になると、文化、技術、宗教等の伝道師として敬意をもって迎えられ、多くは官職を得て、氏姓を賜り、畿内に居住します。ただ、663年、倭国が、白村江で唐・新羅に大敗を喫すると状況は大きく変わります。東アジアの混乱を受けて亡命者が急増するわけです。百済、高句麗、新羅の人々は関東へと送られます。畿内に渡来人が増えすぎたとも、武蔵野開拓のためだったとも言われます。ただ、恐らくはより政治的な理由だったのではないかと思います。つまり、唐から半島の亡命者の扱いを問いただされた際、辺境の地に追いやったと説明するためだったのではないでしょうか。確かに当時の武蔵野は辺境だったわけですが、亡命者たちはそれなりに保護もされています。

758年には、新羅からの亡命者を集めて新羅郡が置かれます。その後、改称され、新座(にいくら)郡となり、現在の新座市や志木市につながります。余談ですが、、大泉学園にある「和菓子 大吾」の「爾比久良(にいくら)」は、昭和天皇が訪米した際、手土産として持参した逸品として知られます。卵黄と白餡で作る黄味羽二重時雨餡はホロホロとした食感であり、中には餡子と栗が一個丸々入っています。爾比久良という名称は「当地の古の呼称にちなむ」と店は説明しています。確かに、爾比久良は新倉郡の雅称ですが、それが平安時代に新羅郡が改称されたものだとは、誰もが知らないのではないかと思います。いずれにしても、武蔵野は、朝鮮半島と縁深い土地だということです。(写真出典:komajinja.or.jp)

2026年1月27日火曜日

焼味飯

飲茶は、ワゴン・サービス・スタイルがベストだと思います。保温機能付のワゴンに点心を乗せて店内を回り、客に皿を選ばせます。味には関係のない仕組みですが、楽しくてワクワクします。結果、テーブルでオーダーするよりも沢山食べてしまいます。一時期、東京や横浜にもワゴン・サービス店は存在したのですが、ほぼ見かけなくなりました。店にとっては効率が悪い面もあり、相当に大きな店でなければ成立しないスタイルなのでしょう。飲茶という習慣は、唐代から続いているようですが、ワゴン・サービスが、いつ、どこで生まれたのか分かりません。ただ、香港名物として知られているので、香港発祥ではないかと思います。

10年ほど前、飯田橋に「贊記茶餐廳」がオープンしました。茶餐廳は、読んで字のごとく、お茶と軽食の店であり、香港ではごく一般的に存在するスタイルのようです。贊記茶餐廳は、明らかに香港の人たちのためにオープンした店だと思われ、メニューも香港スタイルがそのまま持ち込まれています。 飲茶、麺類、ご飯もの、菓子もあり、香港でのランチの雰囲気が味わえます。特に菠蘿包(ポーローパオ)という菓子パンが人気で、それにバターをはさんだものが定番になっています。この店のメニューにもありますが、香港のランチの定番に焼味飯(シャオウェイファン)があります。叉焼やロースト・ダックなどをご飯と一緒に食べるというシンプルな代物です。もともとは広東発祥らしいのですが、最も香港らしいランチのように思えます。

例えば、横浜中華街を歩けば、店先のガラス越しに叉焼はじめ様々な肉が吊るされているのが見えます。実に中華街らしい光景だと思います。それを骨ごとぶつ切りにしてご飯に乗せたものが焼味飯です。厳密に言えば、ロースト・ダックのように単純なあぶり焼きを焼味と呼び、タレや蜜を塗りながら焼いた叉焼などは焼臘(シャオラー)と呼ばれます。ただ、通常、あまり厳密な区分はされず、香港では概ね全てが焼臘とされているようです。日本で、チャーシューと言えば、ラーメンの具材として一般的です。ラーメン屋の叉焼は、豚肉を煮込んだ、いわゆる煮豚がほとんどです。なかには醤油などに漬け込んだ豚肉をオーブンで焼いた焼豚を使う店もあります。とにかく、日本では煮豚も焼豚もチャーシューと呼ぶわけですが、中華料理の叉焼とは大いに異なります。

焼臘としての叉焼は、甘辛いタレに漬け込んだ豚肉を窯に吊して蒸し焼きにしたものです。甘く深い味わいと表面近くの赤みが特徴です。近年、中国の都市部でも日式拉麺店が増えているようですが、煮豚は日式叉焼と呼ばれているようです。煮豚は、日本で生まれた別ものということなのでしょうが、間違いなく中国料理が起源だと思います。中華料理には、豚肉を煮る東坡肉(トンポーロウ)や醤肉(ジャンロウ)があり、それが日本で、角煮やラーメン屋のチャーシューになったものと思われます。ラーメン屋の煮豚の歴史は判然としませんが、専用の窯がいらない、日持ちが良い、バラ肉は安い、煮汁も活用できるといったメリットがあり、ラーメン屋で広まったようです。ラーメンの世界では、スープや麺と並ぶ主役格と言っていいのでしょう。

最近、浅草橋にある香港料理店の焼味飯にハマっています。この店も、香港人相手の店のようで、日本人客はごくわずかです。提供されている焼味は、広東式叉焼、焼肉(豚肉)、焼鴨、醤油地鶏、蒸し鶏です。ランチには、2種類の肉を選んで乗せるセットがあります。一番人気は、皮付きの状態でじっくりローストした焼肉(豚肉)のようです。しっとりとして実に美味しいのですが、問題は皮です。例えば、北京ダックのようなパリパリとした食感ではなく、バリンバリンの固さです。とても歯がたちません。それが本場香港の焼味ということなのでしょうが、私は皮だけ残してしまいます。ちなみに、その店の名物の一つは、河粉(ホーファン)です。香港名物の幅広な米粉麺です。ヴェトナムのフォーの語源とされています。(写真出典:hongkongnavi.com)

公職追放