能楽は、申楽に曲舞を取り込むことで成立したとも言われます。その初期の姿が「山姥」、「百万」に残されているとも聞きます。さすがに、素人には舞の違いまで分かりませんが、他の謡曲と山姥が大きく異なることは分かります。能楽は、仏教思想を背景に持ちます。無常観もさることながら、亡霊が仏法によって成仏するというパターンも多くあります。しかし、人ではない妖怪の山姥が成仏することはありません。山姥と混同されがちな鬼婆は、妄執ゆえに鬼となって旅人を襲う人間です。黒塚、安達原に登場するのが鬼婆であり、最後には仏法によって成仏します。また、鬼婆と違って、山姥には二面性があり、人を襲ったり悪さをする山姥もいますが、人に優しく、福をもたらす山姥もいます。ちなみに金太郎こと坂田金時の母も山姥でした。
山姥の詞章には「よし足引の山姥が、山廻りするぞ苦しき」という詞が、二度、登場します。“よし足引”は、足の悪いという意味と良し悪しがかけられているとされます。能楽の山姥は、実際の山姥と同様、二面性が組み込まれています。山姥の世評と山姥の苦悩という二面性、遊女・百万山姥と本物の山姥という二面性、都(世俗)と山中(自然)という二面性などです。世俗の代表たる遊女が善光寺へ向かう山中で山姥に出会う設定も意味深です。世阿弥は、それらが対立する概念ではなく、表裏一体なのだと語っているのだと思います。大乗仏教の”而二不二”、あるいは”邪正一如”、つまり、善も悪も悟れば同じ、万物はあるがままで真理を示す、ということなのでしょう。曲全体や詞章が、説法そのもののようなストレートさを持っていることも山姥の特徴だと思います。
原始仏教においては、煩悩を乗り越えて涅槃に至るとされます。しかし、それは至難の業であり、涅槃の境地にたどりついたとされるのは釈迦と他にわずかしかいません。一切の衆生の救済を掲げる大乗仏教では、煩悩即菩提、つまり、煩悩があるから悟りを求めるものであると教えます。泥があって蓮が咲くという例えもあります。煩悩と菩提は、二つであっても、二つではない而二不二ということです。世阿弥は、山から山を巡る山姥に輪廻から解脱できない衆生の姿を重ね、煩悩即菩提の象徴としたのでしょう。煩悩即菩提は、最終的には色即是空に通じていくということになります。山姥は、まさに衆生そのものであり、山姥が仏法によって救済を得ないことも、禅宗の思想を直接的に表しているように思えます。山姥は、実に良く考えられた謡曲だと思います。
山姥の正体に関しては諸説ありますが、おおむね山の民、ないしは類似したものだと思われます。農耕が始まると、山の民、海の民は、独自の生活圏を確立したうえで、物々交換で農耕民と接触することになります。山の民と言えば、漂泊の民・山窩(サンカ)が有名ですが、村落で拒絶され、共同生活が困難になった者たちも山間部で生涯を送ります。伝染病患者、身体障害者、あるいは醜女などです。山から山を巡って暮らしていた人々は、昭和初期まで存在していたようです。農耕と農耕民が国の中心になると、山の民は影の部分となり、妖怪よばわりされることにもなったのでしょう。当人たちが抱える憂鬱、受ける差別は想像に難くありません。そこに世阿弥が注目したのは仏教的精神だったということになります。余談ですが、近年のドラキュラ映画には、死ねない憂鬱という側面をテーマとするものが多くあります。世阿弥は、600年も先をいっていたわけです。(写真出典:online.bunka.go.jp)






