2026年8月14日金曜日

家作

老後の姿として憧れていたのが、古典落語に登場する「横丁のご隠居」です。武家や大店の先代も隠居と呼ばれますが、憧れていたのは、あくまでも横丁のご隠居です。恐らく奉公人として武家や商店で長く勤め上げた人なのだろうと想像します。人生経験も知識も豊富、知恵も小銭も持っており、横丁の連中の相談に乗ったり、揉め事の仲裁も行う頼れる老人です。世の中に多少は役立つ老人の理想像だと思います。一方、横丁には大家さんという人たちも登場します。横丁の外れや近所に住み、長屋の店子たちに家を貸し、賃料を受け取っています。「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」という言葉にあるとおり、濃密な関係にあったようです。

家作という言葉は、ほぼ死語になっていますが、人に貸して賃料を稼ぐために建てた家のことです。江戸の長屋から始まったと聞いたことがあります。長屋、あるいは棟割長屋は、平屋の木造アパートのような作りです。各戸は、おおむね6畳の部屋で、出入口は横丁に面していました。玄関と台所を兼ねた土間が1畳半、座敷が4畳半というごく狭い部屋でした。江戸庶民の多くは、この長屋に住んでいたわけです。江戸っ子は「宵越しの金はもたねぇ」とイキがりますが、宵越しの金など持てなかったというのが現実だったのでしょう。賃料は月400~600文、現代価値で8,000円〜15,000円程度だったと言われます。六軒長屋なら、大家の収入は月5~9万円ほど。職人の稼ぎ頭と言われた大工の月収が10~15万ですから、決して大儲けという商売ではなかったのでしょう。

明治になると、土地の売買が自由化され、民法も整備されたことなどから、不動産取引が活発になります。一方で、固定資産への課税も始まったことから、家作が多く建てられることになりました。当時の家主には、土地の払い下げを受けた士族が多かったようです。借家の建付けは、江戸期と変わらなかったようですが、その後、徐々に西洋化が進み、1910年(明治43年)には、上野に日本初となる5階建の木造アパート”上野倶楽部”も登場しています。そして1916年(大正5年)には、日本初の鉄筋コンクリートの集合住宅が、長崎県高島町の端島(軍艦島)に建てられます。また、借家も長屋ではなく戸建化が進んでいったようです。恐らく、この頃から、サラリーマンの副収入や老後の収入源としての家作が広がっていったものと思われます。

敗戦直後は、深刻な住宅不足となり、復興住宅と呼ばれる簡易な家が急増します。広い家の建築は法的に制限された時代でした。粗末な家作も多く建てられたのでしょう。インフレも相まって家作に関する家賃の統制も行われます。また、自宅を建てるための公的融資制度も整備されていきます。戦後復興から高度成長期を迎えると、農村の労働力が都市部へと大移動を始めます。官舎や社宅が増えていくわけですが、それは役所や大企業に限っての話であり、多くの労働者のためには木造2階建のアパートが多く建てられていきます。いずれも昭和を代表する街の光景になっていきます。いずれも狭い住空間のことですから、ちゃぶ台を置いて食事し、終われば片付けて布団を敷いて寝るという生活です。風呂もなかったことから、銭湯が繁昌した時代でもあります。

そういう意味では、木造2階建のアパートは、姿こそ違えど、江戸の長屋に似ていたと言えそうです。1960年代に入ると、水洗トイレ、風呂、ダイニングキッチン、ベランダを備えた公団住宅、いわゆる団地がブームとなり、入居抽選の倍率が高く、なかなか当たらなかったようです。また、70年代以降は”夢のマイホーム”という言葉も一般化します。逆に言えば、家作のニーズは引き続き高く、サラリーマン等が、老後の生活資金準備、孫子へ遺産の用意として活用していたものと思われます。その後、豊かな時代になると、木造アパートは賃貸マンションへと変わっていきます。社宅も姿を消していきます。少子化で市場は減少したものの、賃貸ニーズがなくなることはありません。競争が激しくなった市場に素人のサラリーマンが手を出せる時代ではなくなりました。一方で、サラリーマンが老後に備える投資の選択肢も広がってきたとも言えます。いずれにしても、家作という言葉は昭和とともに消えていったわけです。(写真出典:homes.co.jp)

2026年8月12日水曜日

秘仏

東京国立博物館で、弘法大師生誕1250年を記念する「空海と真言の名宝」展を見てきました。明らかに、今年の夏の最高最大の展覧会だと思います。真言宗最高の法会とされるのは、正月に東寺で行われる秘儀「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」です。かつては宮中で行われていた玉体安穏・鎮護国家等を祈念する法会です。後七日御修法を執り行うのは18寺院で構成される真言宗各派総大本山会、通称真言宗十八本山です。今回の展覧会は、この十八本山が中心となり、国宝15点を含む名宝の数々を出展しています。なかでも興味深かったのは秘仏7点の展示です。寺を訪れても拝めない秘仏の数々を間近に見ることができました。 

秘仏とは、一般には公開されていない仏像を指します。ただ、年に一度、あるいは数年、場合によっては数十年に一度、一般公開されることもあります。これは”ご開帳”と呼ばれ、多くの参拝客が押し寄せます。普段は拝めない仏様だけに、ありがたさも一段と増すわけです。20年毎に行われる伊勢神宮の式年遷宮では、その翌年がお陰参りと呼ばれ、御利益が最も大きいとされます。同じような仕組みです。そもそも信心の拠り所として安置される仏像を非公開にすることは、大きな矛盾だと思います。不思議なことに、非公開にすること、あるいは開帳時期の設定に関して、納得できる理由が語られることは、ほぼありません。まさか、たまに公開することで盛り上げようというわけでもないでしょう。希に保存のためにという説明もあります。これは理解できます。

一切開帳されない絶対秘仏もあります。善光寺の一光三尊阿弥陀如来像、東大寺二月堂の十一面観音像、浅草寺の聖観世音菩薩像などが有名です。善光寺のご本尊は、1400年前、天竺から百済経由で伝わった日本最古の仏像とされます。ご本尊が絶対秘仏とされたのは7世紀中葉のことであり、ご本尊のお告げによって秘仏化されたと伝わります。7年に一度開帳されますが、ご本尊ではなく、代わりとしての前立本尊が開帳されます。境内には、前立本尊から五色の紐で結ばれた回向柱が立てられ、触れると来世の幸せが約束されると言います。隅田川で網に掛っていたという浅草寺の聖観音像も、ご自身のお告げによって絶対秘仏とされています。東大寺の十一面観音像は、天竺の補陀落山から来た生身仏ゆえ、人目に触れさせることが出来ないほど尊いとされます。

聖徳太子の等身大立像とも伝えられる法隆寺夢殿の救世観音像も、かつては絶対秘仏でした。ところが、明治17年、日本の美術界に多大な貢献をしたアーネスト・フェノロサと岡倉天心が法隆寺を訪れ、救世観音像の開帳を要求します。寺側は、絶対秘仏ゆえ開帳できない、開帳すれば天変地異が起こり、寺は潰れるかもしれないと頑迷に抵抗します。フェノロサと天心は、文部省の調査委員という立場でもあったので、最終的には政府の命令書をもって強引に開帳させました。廃仏毀釈の苦い記憶が残る寺側も、政府命令には従わざるを得なかったのでしょう。ただ、救世観音像の開帳は、我が国美術史最大の発見ともなりました。優美な姿とアルカイック・スマイルをたたえる救世観音像は、飛鳥時代の最高傑作とされ、国宝に指定されています。

海外にも秘仏に類したものがあるようですが、多くは何らの理由で隠されたものだそうです。どうも、秘仏という発想は、日本に特有な信仰の形と言えそうです。秘仏が登場するのは平安期であり、神道の影響から生まれたという説があります。古来、日本の神々は姿を現わすものではありませんでした。6世紀に仏教と仏像が伝来すると、その影響を受けて、神道にもご神体という発想が生まれたようです。ただ、姿を見せないのが神だったので、ご神体も人目に触れないように神社の奥の奥に安置されます。今度は、これが、仏教に影響を及ぼし、秘仏が誕生したというわけです。神道と仏教の相互作用だとすれば、確かに秘仏は日本固有の信仰だと言えます。今回展覧会で公開された秘仏のなかに、国宝としては最小と言われる仁和寺の薬師如来坐像があります。その細工の見事さは驚異的であり、私でも秘仏にしたくなります。(写真出典:tnm.jp)

2026年8月10日月曜日

詠春拳

葉問
1980年にモロッコへ行った際のことです。夕方、タンジールの旧市街、いわゆるメディーナを散策しました。メディーナは迷路そのものであり、現地ガイドなしに散策などできません。アジア人が珍しかったのか、子供たちがゾロゾロとついてきます。子供たちは、アチョーと叫びながらカンフーの真似事を繰り返します。アジア人=中国人=カンフーだったわけです。もちろん、日本人と中国人の区別などつくわけもありません。私がカンフーの構えをすると、子供たちは”おーっ”と声をあげて後ずさりしました。ブルース・リーの影響がここまで及んでいるのかと驚いたものです。

「燃えよドラゴン(Enter the Dragon)」 が公開されたのは1973年のことです。完成作品としてはブルース・リー最後の映画となりました。85万ドルという低予算映画でしたが、世界的な大ヒットとなり、4億ドル(現在価値20億ドル)の興行収入をあげます。モロッコでも繰り返し上映されたのでしょう。映画としては、絵に書いたような低予算B級映画に過ぎませんが、これほどまでに大ヒットした要因については、諸説あります。わざとらしい演出が一般的だったアクション映画のなかで、銃を使わずに展開される格闘シーンが新鮮だったという説が有です。ハリウッド資本が入り、世界市場を視野に製作された点も大きかったと思います。プロットとしては、当時流行していたスパイ映画の要素を入れ、黒人映画の流行を先取りした面も有効だったのでしょう。

しかし、何と言っても、人々を熱狂させたのは、ブルース・リーが見せる本物の格闘技、そして強烈なストイシズムということになります。映画のなかでブルース・リーが披露している技は、彼が考案した截拳道(ジークンドー)という武術です。よくカンフー映画と言われますが、カンフー(功夫)とは、武術の一流派のことではありません。練習や鍛錬によって培われた技や能力を意味する言葉であり、転じて少林拳法や太極拳といった武術全般を指す言葉になったようです。ブルース・リーの截拳道は、師である葉問の詠春拳をより実戦的に体系化したものと言われます。詠春拳は、無駄のない動きが特徴であり、相手の力を利用することなどから近接戦に優れるとされます。我々がカンフーとしてイメージするのは、ほぼ詠春拳だと思っていいようです。

南派少林拳の流れを汲むと言われる詠春拳は、200年前の広東省あたりで、希代の女性拳法家・厳詠春が始めたとされます。19世紀、広東省佛山に詠春拳王と呼ばれた梁贊が現れます。そして弟子の一人・陳華順が、詠春拳初となる武館”杏濟堂”を開きます。ここで広東の詠春拳というイメージが確立されたわけです。陳華順の弟子の一人が葉問でした。裕福な家に育った葉問は、香港留学後、警察官になります。国民党政権下で出世した葉問ですが、中華人民共和国建国後は香港に逃れ、詠春拳の指導を始めます。葉問は、東洋哲学に根ざした伝統的な指導を、科学的な視点に基づく合理的な指導に変えます。これが奏功し、葉問派詠春拳は香港を代表する武術へと成長します。まさに詠春拳中興の祖と言えます。そして若きブルース・リーも入門するわけです。

葉問は、広東語でイップ・マン、普通語ではイェー・ウンと発音します。葉問を題材として生まれたのが、イップ・マン・シリーズです。世界的な大ヒット・シリーズとなりました。主演するドニー・イェンは、今やアジアを代表するトップ・スターと言えます。香港映画以外でも、スター・ウォーズのローグ・ワン、ジョン・ウィックのコンセクエンスにも出演しています。イップ・マン・シリーズは、キャラクター設定として葉問を使っていますが、ストーリーはオリジナルです。見せ場はドニー・イェンの詠春拳ということになります。実に見事な格闘シーンが展開されていますが、武術を見せるだけの映画には限界があります。ただ、詠春拳自体は、これからもアクション映画の基本スタイルとして、世界中で使われていくものと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年8月8日土曜日

京の喫茶店

マドラグ
修学旅行で京都へ行った際、今はなきJAZZ喫茶の名店「しぁんくれーる」を訪れた話は、先にも書きました。その日の夜、三条の「イノダコーヒ本店」にも行きました。閉店の時間が迫っており、走っていったのを覚えています。イノダコーヒ(コーヒーではありません)へ行った理由は、フォーク・シンガー高田渡の「コーヒー・ブルース」に登場するからです。私は、JAZZやR&B派だったので、フォーク・ソング、とりわけポップ化した吉田拓郎やかぐや姫などは毛嫌いしていました。ただ、岡林信広などのプロテスト・ソング系は気になるところがありました。高田渡を知ったのは「自衛隊に入ろう」(1969)からです。強烈な皮肉が込められた歌ですが、防衛庁が応援歌と勘違いし、またこの曲に触発されて入隊した人までいたようです。

「コーヒー・ブルース」は1971年の曲です。高田渡の曲調は、民青系の直截なプロテスト・ソングから、日々の生活を素朴に歌う平和主義的なものに変わっていました。自分も、民青系を嫌っていたので、好感が持てました。70年安保闘争が終わり、反政府というよりも反ファシズムという流れの中での平和主義はベターな選択だと思われました。「三条へ行かなくちゃ 三条堺町のイノダってコーヒー屋へね」で始まるコーヒー・ブルースは、好きな女の子とコーヒーを少しばかり、というたわいもない歌です。当時、ファシズムに対抗する一つの手段は、我々がチャランポランに生きることなのではないか、と思っていたこともあり、なんとなく染みる歌でした。イノダコーヒ本店へ向かう際、皆でコーヒー・ブルースを歌いながら走ったことを覚えています。

イノダコーヒは、1940年、画家でもあった猪田七郎がコーヒーの卸売を始め、1947年にコーヒー・ショップを開いています。イノダのコーヒーは、あらかじめ砂糖が入っていることが特徴です。私は、普段、コーヒーに砂糖は加えませんが、イノダに限っては、濃いコーヒーと甘味を楽しんでいます。また、いつの頃からか、イノダのモーニングが人気となりました。今は大行列状態が続きます。イノダに限らず、京都には歴史のある、あるいはレトロな喫茶店が多くあります。文化の街、学生の街らしい光景ですが、ちゃんと贔屓筋が付いているからこそ、という話でもあります。京都で人気のレトロな喫茶店と言えば、フランソワ、ソワレ、築地、あるいは六曜社などが知られています。もっと地味でレトロな喫茶店も多くあります。チロルなどもその一つでしょう。

私のお気に入りは、二条の「マドラグ」です。2011年開店ですから、比較的新しい店ということになります。しかし、前身は1950年代から半世紀続いた「喫茶セブン」であり、ご主人が亡くなったために休業中だった店を居抜きでマドラグは開店しています。1950年代のモダニズムを強く感じさせる店内は、私にとって居心地の良さNo.1です。ちなみに、店名はブリジット・バルドーがサントロペに持っていた別荘の名前から付けたようです。京都へ行った際には寄せてもらっていたのですが、ある時、困ったことが起きました。閉店した洋食店コロナの名物・玉子サンドイッチを継承することになったのです。確かに、分厚くてフワフワのサンドイッチは絶品ですが、これを目当てに人が押し寄せるようになったのです。その後も何度か行ってみましたが、行列ができており、まったく入れません。玉子サンドイッチは、別な形で継承して欲しかったと思います。

最近の画一化された”カフェ”の流行には馴染めません。スターバックスは、家でも職場でもない第三の(居心地の良い)場所を目指していましたが、今は混み合うスーパーマーケットのような場所になっています。ただ、街でよく見かけるチェーンのカフェに入ることはあります。それはコーヒーの味や店の雰囲気が目当てではなく、ひたすらタバコを吸うためです。長居する人が多いなか、私はコーヒーを飲んで、タバコを2~3本吸ったら店を出ます。かつての喫茶店は、味や雰囲気に個性があり、それを共有することで文化の象徴的存在となっていました。全国の街には、いまだにそういう喫茶店が残っているのでしょう。東京にも、しぶとく残っています。しかし、文化としての喫茶店が最も多く残っているのが京都だと思います。(写真出典:kyoto.graphic.co.jp)

2026年8月6日木曜日

酷暑

エジプトのアブシンベル神殿へ行った際、50度超えという気温を経験しました。そのレベルになると、直射日光で肌が軽い火傷になる恐れもあるので、露出は禁物です。ただ湿度がゼロに近いので、日陰は涼しいくらいでした。あらためて、日光と砂を避けるベドウィン族の衣装の合理性に感心しました。一方、パキスタンのカラチでは、気温40度超え、かつ湿度ほぼ100%という気候も経験しました。冷房の効いた室内から外に出ると、コンクリートの塊が両肩に被さるような印象を受けました。海辺はマシだろうと思いましたが、アラビア海からはもっと重苦しい熱風が吹きつけていました。気象庁は、今年から、40度超えの日を「酷暑日」と定めました。 その途端、過去に例がないほど40度超えが続出しています。

フィリップ・K・ディックの小説に、気温100度になった未来が描かれたものがありました。人が外へ出る時には、携帯クーラーを背負います。ほぼ宇宙服ということなのでしょう。近年、屋外で作業する人たちが、電動ファンの付いた作業服を着用しています。酷暑日といい、ファン付作業着といい、どんどんフィリップ・K・ディックの小説に近づいているように思えます。地震に襲われた熊本が酷暑日を記録した日、他の九州各地でも酷暑日が発生しました。そのなかに佐賀市も含まれていました。佐賀市の夏と言えば、松本清張原作・野村芳太郎監督・橋本忍脚本の傑作「張込み」(1958)を思い出します。高温多湿な日本の夏を最も強く感じさせる映画だったと思います。日本の白黒映画は、雨の描き方がうまいと思うのですが、夏の暑さも同様に見事です。

もちろん、アフリカや東南アジアで撮った映画は暑さが伝わります。アメリカであっても「狼たちの午後」などは印象に残っています。原題は”Dog Day Afternoon”であり、Dog Dayは暑い日を指します。しかし、そこで描かれている暑さは、高温多湿な日本の夏とは大いに異なります。「張込み」は、日本的な夏が見事に描かれています。東京・深川で発生した強盗殺人事の犯人が逃走し、佐賀に住む元恋人を訪ねると踏んだ刑事二人が張込みに入ります。原作は、30ページほどの短編ですが、脚本の橋本忍が緊張感あふれるドラマに仕立てています。映画は、刑事たちが横浜駅から佐賀へ向かう夜行列車の旅から始まります。横浜・佐賀間1,200km、蒸気機関車では、一昼夜以上かかる旅です。暑くて混み合う車内の描写だけで、いきなり暑苦しさが伝わります。

ロケは、佐賀市を中心に行われています。戦時中、佐賀市も空襲を受けています。ただ、徹底的な灯火管制が奏功し、目標を見失った米軍は爆弾を田んぼのなかに投下します。結果、ほぼ被害のなかった佐賀市は、撮影が行われた昭和30年代でも城下町の風情をよく残しています。佐賀市の最高気温は、当時でも35~36度まで達していたようです。演技、演出、カメラワークもうだるような暑さを見事に伝えます。旅館での張込みという動きの少ないプロットが、暑さをより際立たせている面もあります。それどころか、短く動きの少ない原作を、緊張感あふれる映画に仕立てあげるために、暑い夏が効果的に使われているとも言えそうです。夕立やお祭も含めて、暑い夏は映画としてのテンションと奥行を出すためのサブ・プロットだったと言ってもいいのでしょう。

サスペンスながら、テーマがしっかりしていることも特徴的です。高度成長に突入した都市と寂れていく地方という構図、農村から上京した労働者の悲惨な就労環境、といった当時の社会現象が端的に表現されています。また、時代とともに変化しつつあった女性の社会的地位や女性の幸せに関する目線も大きな要素になっています。短編とは言え、さすが社会派松本清張だと思います。被疑者の元恋人は、相当年上の銀行員と結婚し、ほぼ女中と変わらぬ日々を送っています。被疑者と温泉地で待ち合わせた元恋人は、まるで別人かのように感情を露わにします。しかし、数時間後、被疑者は張り込みを続けてきた刑事たちに逮捕されます。刑事のモノローグ「この女は数時間の命を燃やしたに過ぎなかった」は名セリフとされているようです。暑い夏はここにもあったわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年8月4日火曜日

冷やし中華

冷やし中華は好きなのですが、現役の頃、ワン・シーズンに食べる機会は1~2回程度でした。というのも、サラリーマンのランチとしては、中途半端だからです。ラーメンよりカロリーは低めで、しかもラーメンのように定番のライス、チャーハン、餃子といったお共がありません。大盛りにしても、満足感は薄めだと思います。ただ、もう働いていないこと、猛暑が続くこと、何より年老いたこともあり、ここ2~3年は、昼食に自分で作って食べるようになりました。冷やし中華は、色んな具材が乗っているから美味しいという人がいます。馬鹿なことを言っちゃいけません。冷やし中華は、麺とタレが勝負です。具材なんか箸休め程度だと思います。私は、ゴルフ場の昼食で冷やし中華を注文するとき、具材は別盛りにしてもらっています。

と言いながらも、具材も楽しめ、ボリュームもランチとしては十分な冷やし中華もあります。神保町の揚子江菜館の涼拌麺 です。具材は、なんと10種類にのぼり、もはや立派な料理です。揚子江菜館は、冷やし中華発祥の店とされています。2代目オーナーが、1933年、ざるそばを参考に開発したとされます。一方、仙台の龍亭が1937年に発売した涼拌麺を嚆矢とする説もあります。ただ、いずれも涼拌麺と称していることからしても、中国が発祥と考えていいのでしょう。中華圏の涼拌麺は、常温に戻した麺に、胡麻ベースの芝麻醤や落花生ベースの花生醤を掛けて食べるようです。ということは、冷やし中華はゴマだれがルーツということになりそうですが、上海など南方では酢も使っていたようです。揚子江菜館も龍亭も当初は醤油だれだったと聞きます。

ただ、日本の冷やし中華は、涼拌麺とは異なる進化を遂げた日本独自の中華料理ではあることは間違いないようです。その証拠として、中華圏では、冷やし中華を”日式涼麺”、あるいは”日式冷中華麺”と呼ぶようです。ちなみに、関西では冷やし中華を冷麺と呼びます。韓国料理の冷麺も同じ呼び方ですから、ややこしいところがあります。京都の老舗中華料理店である中華のサカイが、1939年にゴマだれをかけた冷やし中華を冷麺として発売します。これが人気を博したことから冷麺という呼称が広まったとされます。さて、冷やし中華と言えば、醤油だれか、ゴマだれか、という議論もあります。好きずきですが、私は醤油だれ専門です。ゴマだれも美味しいと思いますが、さっぱりさが身上の冷やし中華ではなく、別な濃厚系中華料理になってしまいます。

冷やし中華ファンは、麺にこだわる人が多いように思います。冷やし中華で使う中華麺は、普通のラーメンで使うものよりも卵の割合を増やしたものになっています。いわゆる卵麺ですが、コシが強く伸びにくいという特徴があります。さらに茹でた麺を氷水でしっかり冷やすことで、弾力、ツルッとした食感も生まれます。冷やし中華の人気店では、タレもさることながら、麺がまったく異なります。その食感を家で再現することは難しいと思います。近所のスーパーで卵麺にお目に掛ることはほぼありませんが、中華街やネットで生麺を入手できれば、再現性が高くなります。もちろん、卵麺は、ラーメンの麺としても使います。香港の細い乾麺”全蛋麺”も卵麺として有名です。これはこれで美味しいのですが、冷やし中華には向きません。

冷やし中華ファンの間では、麺、タレ、具材に関するこだわりの議論が多いものですが、1985年、それらがぶっ飛ぶような出来事が札幌で起こります。札幌グランドホテルが、ビアホールのメニューとしてラーメンサラダを発売したのです。野菜の多い冷やし中華という見方も出来ますが、中華だれがドレッシングに進化したことで、日本式中華料理という枠組みを超え、ある意味、ユニバーサルな料理になったわけです。私は、市販の冷やし中華だれをベースに、レモン、ポン酢、ナンプラー、ガラムマサラ等を加えて楽しんでいます。冷やし中華の具材の基本は、キュウリ、叉焼(ないしはハム)、錦糸玉子だと思いますが、サラダだと思えば何でもありです。ただ、ラーメンサラダが、いまだ北海道名物に留まっていることは、やや意外だと思っています。(写真出典:sirogohan.com)

2026年8月2日日曜日

「急に具合が悪くなる」

監督:濱口竜介      2026年日本・フランス・ベルギー・ドイツ

☆☆☆☆ー

いまや日本を代表する映画監督となった濱口竜介の新作です。介護の現場を変えようと奮闘する施設長のフランス人女性とガンで余命宣告を受けた舞台演出家の日本人女性の交流が描かれます。映画は、一部が日本、大半はパリを舞台とし、フランス語と日本語で進行されます。畳みかけるようにドラマが展開するのではなく、スケッチを編んでいくような構成になっています。それが196分続くわけですからダレて当然だと思うのですが、決して観客を飽きさせることはありません。前の作品でも同じ印象を持ちましたが、これが濱口監督の独特な才能、あるいは感性なのだと思います。主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒は、カンヌ国際映画祭で女優賞を共同受賞していますが、作品へのリスペクトあってのことなのでしょう。

原作は、ガンで亡くなった哲学者の宮野真生子が、文化人類学者の磯野真穂と交わした往復書簡集「急に具合が悪くなる」(2019)です。二人の書簡に感銘を受けた監督は、映画に仕立てるために大胆な翻案を行ったわけです。恐らく書簡で語られている内容はそのままに、映画としてのプロットやフレーム建てを考案したのでしょうが、創作と言っていい作業であり、その才能には感心させられます。ことにパリと日本、フランス人と日本人という着想が、書簡集を映画として成立させるうえで、キーとなるフレームだったと思われます。介護施設内での出来事、介護手法であるユマニチュード、劇中劇、重度の自閉症児といったモティーフも映画を成立させるために組み込まれています。原作が書簡集だけに、会話だけの映画になることを回避するための工夫だと思います。

決してダレることはないものの、それらのモティーフと会話の重層的な展開、そしてテーマへの収斂が起きないことが、映画にやや冗漫な印象を与えています。テーマへの収斂は、意図的に回避されていると思います。テーマは、生と死、希望と絶望、必然と偶然、それらに基づく人生観ということになるのだろうと思います。しかし、押しつけがましい結論のようなものは提示されません。原作も映画も、判断は読者と観客に委ねられているのでしょう。長尺の映画がダレない理由は、ここにもあります。主人公二人の葛藤が、観客一人ひとりの答えを求めてくるからです。ゆえに演技や演出は、適度な自然主義を保つ必要があり、おのずと映画は長尺なものにならざるを得ません。こうした観客の巻き込み方こそ濱口映画の特徴なのだろうと思います。

ユマニチュードは、テーマに深く関わるモティーフです。良いところに目を付けたものです。ユマニチュードは、人間らしさを尊重する認知症ケアの技法です。1979年、フランスで開発されています。日本では、2012年に導入され、現在はかなり普及しているようです。ユマニチュードのねらいとするところもさることながら、それを半ば強要される看護師たちの反応がドラマを作っています。主人公が展開する資本主義論とも重なってきます。結論に関しては観客に委ねられていると書きましたが、ユマニチュードの施設への導入に関しては、ポジティブにシナリオが展開します。これがテーマの全てではないものの、結果としては映画の縦糸として機能しているように思います。これも書簡集を映画化する際の大事な要素になっているわけです。

濱口竜介監督は、アカデミー賞と世界三大国際映画祭のすべてで主要な賞を獲得しています。日本の映画監督も、ついにここまで来たな、という印象があります。もちろん、黒澤明はじめ多くの監督の作品が海外で評価されてきました。また、是枝裕和など、海外でメガホンを取った監督もいます。ただ、濱口竜介は、諸先輩たちと異なり、初めから国際的な舞台のメインストリームで、そのディレクティングのレベルの高さが評価されています。明らかに次元が変わったのだと思います。ただ、その評価は、諸先輩たちが刻んできた歴史の上にあることも事実だと思います。スポーツの世界でも同じですが、世界で活躍する選手は突然変異ではなく、これまでの積み上げの上に咲いた花なのだと思います。(写真出典:eiga.com)

家作