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| 保存されたクレーター |
トンキン湾事件は、疑惑の事件として知られています。当初から、北ヴェトナム側とアメリカ側の公式見解に隔たりがありました。後に、公開された文書や証言によって、アメリカ側の発表には虚偽が含まれたことが明らかになります。トンキン湾事件を契機に、ジョンソン政権は議会の承認を得て、北爆(北ヴェトナムへの爆撃)、米兵の大量投入を開始します。ヴェトナム戦争への本格介入を準備していたジョンソン政権にとっては、まさに渡りに船の好機であり、以降、ヴェトナム戦争は泥沼化していくことになります。やった、やらない、どちらが先に撃ったという類いの話は、古今東西の戦争のトリガーとしてよく聞く話です。しかし、それ以前に戦争は避けがたい状況になっていたからこそ起きるインシデントであることは間違いありません。
トンキン湾事件は、1964年8月2日と4日両日に発生したとされる衝突です。アメリカの駆逐艦マドックスは、公海上で通信情報収集のための哨戒活動を行っていました。一方、CIAのバックアップを受けた南ヴェトナム軍は越境攻撃を行っていました。米軍の公式発表によれば、北ヴェトナムのレーダー基地を攻撃した南ヴェトナムの艦艇が北ヴェトナムの魚雷艇に追われ、マドックスの横を通過します。マドックスを南ヴェトナム船と誤認した北ヴェトナムの魚雷艇が攻撃を開始します。マドックス、および近くを航海中だった米空母から発進した戦闘機は、魚雷艇を反撃し、1隻を撃破します。しかし、実際には、最初に威嚇射撃を行ったのはマドックスであり、自国領海内と認識する北ヴェトナムが反撃したものでした。当時、領海を巡る国際法は合意前の段階でした。
8月4日、マドックス、および合流した駆逐艦ターナー・ジョイは、哨戒活動を再開します。夜間になると、傍受した通信によって、北ヴェトナム側が両艦を攻撃しようとしていることが判明します。両艦は、先手を打って激しい攻撃を加え、魚雷艇2隻を撃沈します。これが米軍の公式発表でした。しかし、後に、遭遇も交戦も行われていなかったことが明らかになります。当初から報告には疑義が持たれていたものの、北ヴェトナムへの直接攻撃を計画していたホワイトハウスは、この報告を待っていたかのように丸呑みし、北爆へと突き進んでいきました。アメリカは、中南米、南米で国家の主権を無視した謀略を繰り返しています。事の性格からして、その謀略史にトンキン湾事件が加えられることはないのでしょうが、その体質が反映された事件だと思います。
ハノイからハロン湾へ向かう途中の農村部には、所々、丸い溜池が見られます。今も残る北爆の爪痕、爆弾クレーターです。1968年に北爆が停止されるまでに、米軍の出撃は30万回を超え、第二次大戦、朝鮮戦争を超える爆弾が投下されます。北ヴェトナムでは、推定5万人が命を落としました。ただ、北爆を予測していた北ヴェトナムは、主要工場を地方へ移転、あるいは地下に建設し、市民をハノイから疎開させていました。また、爆撃目標となる空港や基地はダミーも多かったようです。そして、ソ連、中国から支援されたミグ戦闘機、地対空ミサイル、高射砲が米軍を迎撃しました。ミグ戦闘機は中国の空港から出撃し、米軍は手出しできませんでした。米軍は、犠牲の多さと効果の薄さから、北爆継続を断念せざるをえませんでした。独立を守るために戦う国民を物量のみで制圧することはできません。そのことを、アメリカは学ぶべきでした。そして、今も理解しているとは思えません。(写真出典:vietnam.vn)





