2026年10月17日土曜日

迎賓館

迎賓館とは、国が国賓を接遇するための施設であり、日本では、内閣府の施設等機関として、迎賓館赤坂離宮と京都迎賓館の二ヶ所が設けられています。赤坂離宮は、紀州藩邸跡に建ちます。明治宮殿完成までの一時期、仮皇居が置かれていました。現在の建物は、東宮御所として1909年に竣工しています。しかし、明治天皇のお気に召さなかったことから、東宮としては使われず、離宮とされました。その後、裕仁親王(後の昭和天皇)が東宮として使った時期もありました。1960年代に入ると海外からの賓客が増えます。そこで、離宮は迎賓館として整備されることとなり、1974年、現在の姿になっています。設計は、ジョサイア・コンドルの弟子で京都国立博物館などを設計した片山東熊。脱亜入欧の思想に基づくネオ・ゴシック様式の宮殿となっています。

実に立派な建物であり、意匠も見事なものです。国宝にも指定されています。ところが、どうもしっくりこないところがあります。明確に、何が問題かは答えられないのですが、映画のセットのような違和感、あるいは借物感を感じます。日本の古い洋館がすべてそうだというわけではありません。例えば、赤坂離宮の前に迎賓館として使われていた旧朝香宮邸、現在の東京都庭園美術館などは、是非とも住みたいと思うほど好きな建物です。明治天皇がお気に召さなかった理由は分かりませんが、やはりしっくりこなかったのではないかと想像します。それが理由とは思いませんが、2005年、純和風の京都迎賓館が開館しています。公式には、日本の歴史や文化を象徴する京都で賓客をもてなし、日本への理解と友好を深めるために建設されたということになります。

1990年代初頭、平安建都1200年を記念し、地元から国へ和風迎賓館を求める動きが起こり、1994年に建設が閣議決定しています。京都御苑内の北東部、御所の東に、地上一階、地下一階の純和風平屋建築として建てられました。2016年から、限定的ながら一般公開も行われています。希望者は、事前に宮内庁へ申し込む必要がありますが、空きがあれば当日参観も可能です。一般参観は、一日当たり360名に限定され、基本的には90分のガイドツアー方式で行われます。見てみたいと思っていましたが、今般、初めて参観してきました。日本の建築、造園、工芸における伝統技法の粋が集められ、現代技術によって支えられている最高級の施設だと感得しました。京都御苑内にあり、築地塀を巡らせた施設は、まさに日本の迎賓館に相応しい建築だと思いました。

最も印象に残ったのは、桐の間、水明の間、そして庭園でした。桐の間は、56畳の掘炬燵形式の和室宴会場です。随所にレベルの高い意匠が施されていますが、とりわけ座卓は長さ約12メートルの等厚合板に漆黒の蝋色漆塗りの逸品です。ちなみに、料理は、京都の複数の老舗料亭が請け負い、京料理を出すようです。次の間もしつらえてあり、芸子舞子の踊りや邦楽の演奏が披露されることもあるようです。正直なところ、これほどの座敷は存在するわけもなく、間違い無く日本一の高級料亭だと思いました。水明の間は、首脳会談などが行われる最も格式の高い部屋であり、平生は非公開です。ラッキーなことに、たまたま、メンテナンス中だった夕映の間の代替として参観させていただきました。池に張り出して作られ、庭の緑や水面の光を取り込む特別な部屋です。

水をテーマとする水明の間では、意匠も水に関連したものが多く配されています。天井は舟天井であり、小振りなシーリング・ライトが多く配されています。ただ、和紙と組子をイメージした天井のモダンな細工が光を和らげています。椅子は、波立涌文様の西陣織が置かれています。そして、青海波の段通は所々切り込みが入れられ、立体感を出しています。これほどのものは山形のオリエンタル・カーペットにしか出来ないだろうと思いましたが、調べて見ると、案の定でした。庭は、京都の老舗”植藤”の第16代 佐野藤右衛門の作庭です。伝統的な日本庭園の様式をしっかり踏襲しつつ、かつて何かに使われていた石材を用いるなど随所にモダンなアイデアが活かされた庭になっています。池を取り囲むように作られた京都迎賓館は、水の迎賓館でもあります。(写真出典:ja.kyoto.travel)

2026年10月15日木曜日

ラーガ

60年前のことですが、植草甚一が、シタールが好きな男なんぞ、ホモに違いない、と書いていました。今なら、突っ込みどころ満載な不適切発言です。1960年代、シタールはブームの様相を呈していました。ブームを牽引したラヴィ・シャンカールは、タブラ奏者のアラ・ラカと共に、世界を巡り、西洋音楽と共演するなど、インド音楽の認知を高める活動をしていました。折からのサイケデリック、東洋思想ブームにシタールの音色がマッチし、若者たちが飛びつきブーム化したわけです。ただ、当のラヴィ・シャンカールは、そのことを良く思っていなかったようです。インド音楽とロック、インド文化とヒッピー文化は相容れないとして、ウッドストックを最後に、ロック・フェス出演を拒否します。ただ一つの例外は、自らが提唱したバングラデシュ難民救済コンサートであり、チャリティ・コンサートの先駆けとなりました。

ラヴィ・シャンカールの娘で、当代随一のシタール奏者といわれるアヌーシュカ・シャンカールのライブをブルーノートで聴きました。ビッグ・ネームゆえミュージック・チャージは高いものの、今年、一番退屈なライブでした。父親は、インド文化の素晴らしさを世界に伝えようとしましたが、娘は西洋文化にすり寄ってインド文化を安売りしているように思えます。シタールで味付けしたイージー・リスニングといった風情の音楽です。それを知った上でライブに行ったのは、さすがに伝統的な演奏も行うのだろうと期待したからです。ラーガの伝統に則った即興演奏も聞かせましたが、ごく限られたものでした。近年のアルバムに収録された曲など、あえてシタールの特徴を消しているようにも思え、まるでチェット・アトキンスの演奏を聴いているようでした。

ジャズ、サンバ、ソンなどは、西アフリカ音楽と西洋舞曲が融合した音楽とされます。二つの文化が交差すれば、新しい文化が生まれます。しかし、事はそう簡単でもありません。いずれかをメインに挿し木を行えば、味付けや彩りが変わるだけで融合とは言えません。アヌーシュカの音楽は、このレベルに留まっているということです。それが証拠に、新たなジャンルが生まれたわけでも、フォロワーが存在するわけでもありません。ビートルズ、ストーンズ等が、一時期、こぞって取り入れたインド・テイストとさほど変わらないように思います。欧米人に媚びてエキゾチシズムを強調した商業的要素の強い音楽に聞こえます。もっとも、本人的には、父親と同様に、インド音楽を世界に伝える活動の一手法と信じて行っていることなのかもしれません。

インド音楽にロック要素を入れた例として、1980年代のイギリスのバンド”モンスーン”があり、ヒット曲も生まれますが、すぐに飽きられました。その後も、インド風バンド、あるいはインドのロック・バンドも登場しますが、ジャンルが確立されることはありませんでした。最も成功しているのは、インドの伝統的な感性に西洋音楽の技法を巧みに取り入れたボリウッド映画の音楽かもしれません。ジャズやサンバは、楽譜の上で論理的に生み出されたわけではありません。演奏者が、即興で演奏している最中に、偶然、新しいグルーブを見つけ、他の多くの演奏者が、それにアイデアを加えることで体系化されていきます。それぞれの体内にあった感性が、欧州舞曲という新しい刺激を受けて生まれたスポンテニアスな音楽だったとも言えます。

シタールとタブラは、13世紀イスラム王朝のスルタンに仕えた大詩人アミール・ホスローが生み出したとされます。 ペルシャ由来の3弦楽器セタールとインド古来の楽器ヴィーナが合体して生まれたとされます。ヒンドゥーとイスラムの融合例なのかもしれません。インド音楽は、数百に及ぶとされる旋法のラーガと数十のリズムのターラで構成されます。ヴェルクマイスターやバッハが生み出した西洋のハーモニーとは、全く異なる、より高度な精神性を備えています。シタールとタブラさえあれば、ラーガとターラは、ヒンドゥーの全宇宙を表現できます。完全性を有するラーガとターラが、わざわざへりくだって、より簡便な音楽に合わせる必要性などなく、そもそも無理があります。インド音楽とバッハの西洋音楽が融合することなどあり得ないと思います。それにしても、名手アヌーシュカ・シャンカールのラーガを聞いてみたいものだと思いました。(写真出典:en.wikipedia.org)

2026年10月13日火曜日

桂離宮

父親から、桂離宮だけは見ておけ、と何度も言われていました。桂離宮は、17世紀初頭に八条宮家の別邸として創設され、現在は宮内庁が管理しています。八条宮家は、正親町天皇の孫で、誠仁親王の第六王子だった智仁親王に始まります。智仁親王は、秀吉の猶子として関白職が約束されていました。しかし、秀吉に実子が誕生したことから解約となり、秀吉によって八条宮家が創設されています。創設経緯もあってか、当時の八条宮家は宮家最大の石高を誇っていたようです。智仁親王は、若い頃から文芸に優れ、細川幽斎から古今伝授を受け、後に甥の後水尾天皇に相伝し、御所伝授が始まったとされています。また、馬術、琴、蹴鞠にも優れていたようです。その多彩ぶりは造園にも及び、桂離宮の庭園として結実したわけです。

日本三大庭園は、金沢・兼六園、水戸・偕楽園、岡山・後楽園とされます。いずれも回遊式の大名庭園であり、広大な面積を持ちます。対して桂離宮の庭園は随分と小振りですが、日本の庭園の最高傑作とされます。縮景、借景、見立てといった自然を活かす設計、狭さを感じさせない遮蔽の技、そして書院や茶室といった建造物との調和が完璧に計算されています。日本の庭園は、自然との調和や畏敬を基本に自然が再構成されます。西洋庭園は、人間が自然を制圧したかのような人工的設計になっています。昨今、日本一とされる足立美術館の庭園は、日本画の世界を具現化したものであり、日本と西洋の庭園思想の中間的な存在だと思います。そもそも足立美術館を20年以上日本一に選出しているのは、アメリカの日本庭園専門誌というマイナーな雑誌に過ぎません。

桂離宮は、まさに日本の造園思想や技術の粋が結集された最高傑作です。ドイツの建築家ブルーノ・タウトをして「泣きたくなるほど美しい」とまで言わしめています。その設計の背景にあるのが月見という伝統です。桂の地は、平安時代から月見の名所として名高く、貴族の別荘が多い土地柄だったようです。桂離宮も、月見の客人を迎え入れ、庭園を回遊させ、書院で宴を行うために設けられたのでしょう。書院からの眺めは、中秋の名月が昇る位置が計算され、池に映り込む月を楽しむ設計がされています。平安時代の国風文化は、自然を愛でる文化ですが、とりわけ月を楽しむ文化だったとも言えます。中秋の名月は中国伝来の慣習ですが、国風文化には、後の名月、十三夜があります。少し欠けた月に風情を感じる、まさに”いとをかし”の世界というわけです。

古書院には、竹で組んだ月見台が設けてあります。ここから、中秋の名月だけではなく、後の名月も愛でたものなのでしょう。宮内庁は、年に一度、中秋の名月の夜、桂離宮観月会を開催しています。桂離宮の観覧は庭園のガイドツアーのみとなっておりますが、観月会の夜だけは月波楼に上がることができます。また、書院には灯りがともされ、一段と風情が増すようです。観月会に参加するためには、平素の観覧と同様に、まずは宮内庁に申し込みます。当然のことながら、抽選があります。問題は、当選人数です。わずか64人とのこと。申込は100倍を超えるようです。一ヶ月以上前には当落が発表されるようですが、遠方からの参加は難易度が高いと言えます。一度、貴族の気分で桂離宮の月を観賞してみたいものですが、まず無理と思うべきなのでしょう。

王朝文化の風情を色濃く残す桂離宮ですが、建造されたのは平安中期から500年近く後のことになります。とは言え、古今伝授まで受けた智仁親王は、王朝文化に生きた人なのでしょう。智仁親王の意向が反映されているとしても、実際の作庭は、長らく小堀遠州が行ったとされていたようです。ただ、現在は遠州の義弟や門下という説が有力とされます。一本の切石を用いた反りのない松琴亭の石橋、すべて角のある切石で組まれた”真の飛石”など、直線を用いるあたりは遠州好みとされます。また、限られたスペースに奥行きを与える遠近法の活用なども、西洋の影響を指摘される遠州らしい作庭にように思えます。素朴な外観の松琴亭では、斬新な市松模様の襖が目を引きます。日本の伝統の集大成のような桂離宮ですが、斬新さも取り入れられているわけです。(写真出典:chukei-online.com)

2026年10月11日日曜日

テーマパーク

2024年のテーマパークの入場者数ランキングを見ると、第1位はフロリダのディズニー・ワールドにあるマジック・キンダム、第2位にはカリフォルニアのディズニー・ランドが続きます。そして、大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)が、他のディズニー系テーマパークを抑えて3位に躍進していました。マーケティング的に見れば、テーマパークはリピーター戦略の典型です。リピーターを確保するコストは、新規顧客を獲得するコストに比べて相当低くなります。リピーター戦略は効率的ですが、リピーターの信用を高く維持する努力に加え、新鮮さを失わないための投資も求められます。テーマパークで言えば、新しいアトラクションの投入が代表例となります。加えて、USJは、アニメとのコラボといったキャンペーンを次から次へ投入し、プロモーション面でも大きな成功を得ています。

テーマパークは、アミューズメント・パーク(遊園地)のサブ・ジャンルなのでしょう。特定のテーマやコンセプトで、アトラクションや飾付を統一し、来場者を非日常的な世界へ没入させる仕組みです。従業員の衣装や接客などにも没入感を高めるためのきめ細かな工夫がなされています。物販にも良い効果が得られます。ディズニーのアニメの世界を具現化したディズニー・ランドは最も成功した例なのでしょう。一方のユニバーサル・スタジオのテーマは、ユニバーサル映画です。あまりにも幅が広いので、テーマへの訴求は薄くなります。テーマパークというよりも特色あるアミューズメント・パークというべきだと思います。テーマへの訴求の弱さは、様々なコラボ・キャンペーンの展開しやすさにつながります。弱みを逆手にとって成功したのがUSJです。

アミューズメント・パークは、定義次第ではありますが、古い歴史を持っています。その原型は、ロンドンのバーソロミュー・フェアだとされます。もともとは布市だったようですが、1133年、王の勅許を得て、夏の一時期、修道院の庭で様々な物品が取引されました。多くの人が集まるようになり、食べ物屋、見世物小屋、芝居小屋なども立つようになります。欧米では、今でも期間を限定した移動遊園地が盛んに開園されています。アメリカのカウンティ・フェアやストリート・フェアも典型な例です。常設のアミューズメント・パークの祖先は、一般公開された庭園とする説もあります。だとすると、その歴史は古代ローマにまでさかのぼります。常設型アミューズメント・パークの始まりは、デンマークのディレハフスバッケン、通称バッケンとも言われます。

1583年、コペンハーゲン郊外に天然の泉が発見されます。当時、コペンハーゲンは水質が悪かったので人々が引き寄せられ、大道芸人や露天商も集まるようになり、やがてアミューズメント・パーク化したようです。18世紀頃には、ウィーンのプラーター公園、コペンハーゲンのチボリ公園など庭園から発展したアミューズメント・パークが広がり、19世紀には、乗り物系アトラクションが主役となることで大衆の人気を集めることになります。その背景には、産業革命がありました。乗り物の動力が開発されたこと、都市部の工場へと労働力が集中したこと、そして万国博覧会の開催が大きな契機になりました。万博は、1851年のロンドンに始まりますが、1893年にシカゴで開催された万博が、現在のアミューズメント・パークの先駆けになったとされます。

日本には”テーマパーク”と呼ばれるものが、実に多く存在します。そして、同じくらい多くの”テーマパーク”が潰れています。その一つに新潟県の柏崎トルコ文化村があります。1996年、後に破綻する新潟中央銀行主導でオープンし、2004年に閉じられました。閉園数ヶ月前に行ったことがあります。悲惨なほどにしょぼい施設でした。トルコ村には総額で75億円が投じられています。潰れた”テーマパーク”のなかには自治体の資金が投入されたものも少なからずあります。なぜ、こんなものがビジネスとして成立すると思ったのか、不思議でなりません。”テーマパーク”ブームの背景として、バブル経済とリゾート法が挙げられます。総合保養地域整備法、通称リゾート法は、1987年に内需拡大策として施行されています。バブル景気に浮かれていましたでは済まされない政治的問題のように思います。(写真出典:travel.rakuten.co.jp)

2026年10月9日金曜日

小督

能楽「小督(こごう)」は、中秋の名月の嵯峨野を舞台としていることから、秋の定番演目であり、嵯峨野の秋の気配を感じさせる人気の演目でもあります。実在した小督局は、信西(藤原通憲)の孫にあたります。高倉天皇の寵妃であり、美しいだけでなく、箏の名手でもあったとされます。高倉天皇の中宮は平清盛の娘・徳子です。小督局は、高倉天皇に愛されたことから、平清盛の怒りに触れ、東山の清閑寺で出家させられています。後のことですが、病を得た小督を、藤原定家が清閑寺に見舞ったという記録も残っているようです。能楽「小督」は、平家物語に基づいており、史実とは異なっています。能楽の小督は、清盛を恐れて、自らの意志で嵯峨野に隠棲します。

小督を忘れられない天皇は、行方を捜させます。そして、小督が嵯峨野の片蔀(かたしとみ)の家に隠棲していることを知ります。天皇は、源仲国に文を託し、馬を与えて嵯峨野へと走らせます。乏しい手がかりゆえ、小督の住まい探しは難儀します。折しも十五夜だったことから、小督は、天皇を想いながら、箏で「想夫恋」を奏でます。笛の名手でもあった仲国は、その音が小督の箏であることに気付き、片蔀の侘び住いを訪ねます。小督は面会を拒みますが、勅命であること、仲国の決意が固いことから、仲国と会います。仲国は小督に天皇の文を渡し、小督も返書を仲国に渡します。小督は、帰ろうとする仲国を止めて酒を振る舞います。仲国は万感の思いを込めて男舞を舞います。そして、小督が見送るなか、馬にまたがり都へと帰っていきます。

小督を観ると、いくつかの疑問が浮かびます。まずは、なぜ仲国の視点なのかということです。シテは仲国であって、小督ではありません。一説によれば、小督のメイン・テーマは秋の嵯峨野の風情であり、悲恋ではないから、ということになります。小督をシテとすればドラマ性が強まるので、あえて仲国をシテにしているというわけです。小督の作者は、長く金春禅竹とされていたようですが、今は否定され、作者不詳となっています。確かに、緻密にドラマを織り上げる金春禅竹の作風とは異なるように想います。しかし、秋の嵯峨野の風情を謡いたいというのであれば、わざわざ、ドラマ性が色濃く滲んでくる平家物語ものをプロットに選ばないようにも想います。ドラマ性を薄めるために、仲国をシテにするといった回りくどいプロットも選ばないように想います。

高倉天皇の治世と言えば、平清盛の娘である徳子が中宮となり、安徳天皇が生まれ、清盛が天皇の外戚になるという平家の絶頂期と重なります。能楽「小督」の登場人物は、すべて、平氏と対立した後白河院につながる人々です。平家の傀儡と言われることの多い高倉天皇は後白河院の子であり、父親同様、平家とは相容れなかったという説もあります。小督の祖父の信西は、平家を取立てますが、後白河院側近として平家と対立した人として知られます。そして、仲国も後白河院の近習だった人です。作者が描きたかったのは、悲恋のドラマでなかったことは明らかですが、メイン・テーマは、秋の嵯峨野の風情ではなく、武家の前に陰り行く公家社会の悲哀だったように思います。それを表現するに、秋の嵯峨野のもの悲しさが相応しかったといことなのでしょう。

よって、舞台は東山から嵯峨野へ、小督を見舞った藤原定家は仲国へと翻案されたのでしょう。実際の仲国は、複数の国司を務め、刑部大輔、院細工所別当も務めています。ただ、御廟建立を唱えると、人を迷わす妖言とされ、配流されました。なお、仲国が笛の名手という記録はないようです。むしろ、高倉天皇こそ笛の名手として知られていたようです。仲国の弟には仲章がおり、鎌倉幕府で活躍し、源実朝が暗殺された際、共に殺されています。高倉天皇の中宮・徳子は、平家一門が滅亡した壇ノ浦で入水しますが、助けられて、一門で唯一の生存者となります。出家して建礼門院となり、大原の寂光寺で、夫・高倉天皇、子・安徳天皇、そして一族を弔う日々を送りました。平家物語には、隠棲の地として嵯峨野がよく登場します。往時は、人家もまばらな野原だったのでしょう。しかし、実際の小督には無縁の地だったということになります。(写真出典:the-noh.com)

2026年10月7日水曜日

マトリョーシカ

初めてロシア料理を食べたのが、いつ、何処だったのか、どうも思い出せません。学生のころから、たまに行っていた札幌のロシア料理店「アンナ」はよく覚えています。アンナが人生初のロシア料理店だったのかもしれません。今でも、アンナで食べたボルシチとピロシキが、私のロシア料理の基本です。残念ながら、アンナは、かなり前に閉店しています。札幌とロシア料理は相性がいいと思うのですが、当時、アンナ以外のロシア料理店は知りませんでした。新潟市には、ロシアへの空路も航路もあります。ロシアへの玄関口と言ってもいいのでしょう。ところが、ちゃんとしたロシア料理店はありませんでした。

さすがに東京には、老舗も含めてロシア料理店はあるのですが、決して多いわけではありません。ロゴスキー、スンガリー、サラファン、ろしあ亭(移転)、ペチカ(閉店)等が有名です。新宿、神保町、浅草に多いように思います。文化的背景があるのでしょう。実のところ、全国にロシア料理店と銘打つ店は100軒程度しかありません。例えば、東京だけで、タイ料理店は500~600店、中華料理店は10,000店を超えるとされます。大国ロシアの知名度や地理的な近さからしても、ロシア料理店は少なすぎるように思います。ロシアの文学、音楽、バレエ、映画といった文化に魅了される人々、あるいは政治的に共感する人々もいるわけですが、文化人に限られ、一般的には、敵国、全体主義、得体の知れない国といったネガティブな印象が強いものと思います。

そうしたイメージがロシア料理店の数にも反映されているのかもしれません。ただ、外国料理店の数は、おおむね在留外国人数に比例するのではないかと思います。同国の人が増えれば、集まる場所も求められ、故郷の味を懐かしむ人も増えるものなのでしょう。法務省によれば、2025年末時点での在留外国人数は412万人です。国別に見れば、香港を含む中国が100万人超と最も多く、以下ヴェトナム68万人、韓国40万人、フィリピン35万人、ネパール30万人と続きます。対して、ロシアは、12,000人に留まります。これはマレーシアと同程度です。東京のマレーシア料理店も、ごくわずかなものです。青山通り沿いの「マレー・アジア・クイジーン」でランチを食べたことがあります。偶然なのでしょうが、私以外の客はマレーシアからの観光客ばかりでした。

日本にロシア人が少ない理由は、歴史的経緯はじめ、いくつか考えられますが、最大の理由は遠い国だからということなのでしょう。広い国土を有するロシアですが、人口は1.4億人に過ぎず、大層は欧州側に集中しています。つまり、スラブ国家ロシアにとって、日本は流刑の地シベリアよりも遠くにある、いわば最果ての国ということになります。しかし、ロシアと最果ての国には面白い関係があります。ロシアを代表する伝統工芸マトリョーシカ人形は、比較的歴史が浅く、19世紀末に生まれています。1900年のパリ万博で好評を博したことから、ロシアの代名詞になりました。実は、マトリョーシカは、箱根土産の七福神の入れ子人形を真似て作られたという説があります。推定ですが、ロシア人修道士が持ち帰り、それがマトリョーシカになったというわけです。

入れ子は、重箱などに使われる効率的な収納方法です。入れ子の七福神は、七体の神様が、コンパクトに収納された縁起物です。つまり、入れ子は収納に関わる技法だと言えます。ところがマトリョーシカは、そうした効用をまったく求めていません。単に、次々と人形が出てくるという面白さだけがウリです。入れ子は、実に馬鹿げた表面的理解をされたものだと思います。最果ての国の文化など、興味もリスペクトもなかったということなのでしょう。”近くて遠い国”と言えば、通常、韓国・北朝鮮を指しますが、ロシアは”最も近くて最も遠い国”と言えそうです。東欧の国ロシアにとって、極東は植民地、利権の草刈場、軍事的緩衝地帯でしかなかったのでしょう。それは、今もあまり変わっていないように思えます。(写真出典:shopping.jtb.co.jp)

2026年10月5日月曜日

あけび

家の近くを散歩していると、庭にアケビの木を育てている家を見つけました。アケビの木など見分けもつかないのですが、実が成っていたので間違いありません。アケビは山の中に自生しているものだと思っていたので驚きました。調べてみると、観賞用として、そこそこポピュラーなものらしいのです。久々にアケビの実を見たら、食べたくなりました。とは言え、スーパー・マーケットで、簡単に手に入るものでもりません。最後にアケビを食べたのは、10年ほど前、熊本でのことでした。酔っ払って、下通のアーケード街を歩いていると、小さな八百屋の店先にアケビを見つけました。迷わずに購入し、ホテルで食べました。やさしい甘さに、少し幸せな気分になりました。

熊本の前にアケビを食べたのは、さらに7~8年前、山形でのことでした。気に入った日本酒の店があり、山形に行った際にはお邪魔していました。そこでアケビの肉詰めが出されたのです。アケビの実の皮の部分を食べるという発想がなかったので、大いに驚きました。聞けば、山形では定番の家庭料理だというのです。アケビの肉詰めは、皮の苦味に味噌ベースの味付けがいい塩梅に乗って、なかなか乙なものでした。喜んで食べているうちに、アケビの実の甘い果肉はどうしたのか、ということが気になり、聞いてみました。なんと、捨てるというのです。目が点になりました。三枚におろした鯛の皮だけを調理し、身を捨てるようなものです。そこで、お願いして果肉を出してもらい、美味しくいただきました。仲間にも勧めたのですが、食べたのは私だけでした。

アケビの実の皮を食べるのは、山形だけではないようですが、農水省の「うちの郷土料理」では、”あけびの味噌詰め焼き/あけびの油焼き”が山形県の郷土料理として登録されています。山形では、春の新芽は山菜として、秋は実を肉詰め等にして食べ、さらにつるはつる細工に使うようです。ここまでアケビを使い切る県は、他にはないものと思います。アケビの栽培も行われており、生産量は日本一とのことです。山形県は、食の宝庫と言われます。名産品として、米、牛肉、豚肉、果物、野菜などがよく知られています。また、料理も、そば、芋煮、玉こんにゃく、ラーメン、棒鱈、漬物などが有名です。実に多彩な食材と料理ですが、その多くがブランド化されている点も見事です。ただ、その山形県が、アケビの甘い果肉を食べないというのも驚きです。

アケビは日本原産です。熟すると実が割れることから、”開ける+実”でアケビと呼ばれるようになったとされます。学名は「アケビア・キナタ」です。”キナタ”とは、ラテン語で”5個ずつ”を意味し、アケビの花の5枚の小葉を指すようです。北海道以外の日本、朝鮮半島、中国に分布しているようです。中国名は“木通”です。欧米では、”キナタ”、あるいはチョコレートの匂いがすることから”チョコレート・ヴァイン”とも呼ばれ、19世紀、観賞用に輸入されたようです。ただ、寒さや乾燥にも強く、天敵のいないアメリカでは生態系を脅かす侵略的外来種とされている地域が多いようです。また、アケビは、古くから生薬として用いられてきました。利尿効果や内臓の熱を下げる効用があるようです。逆に、妊婦や胃腸が冷えやすい人には禁物とされています。

実は、アケビには、もう一つ、注目すべき利点があります。種子から採れるアケビ油です。江戸期から昭和の初め頃までは、食用油の王様として珍重されていたと聞きます。主に秋田藩で搾油されており、手間がかかることから生産量は少なく、希少価値も高かったようです。アケビ油は、他の植物油とは異なる成分構造を持ち、消化、吸収されにくく、かつ体脂肪がつきにくいとされます。結果として、美肌効果、高血圧予防、血糖値上昇の抑制などの効果が期待されているとのことです。ただ、生産者も少なく、ごく少量が高額で販売されています。大雑把に言えば、ごま油の10倍以上の値段です。生産量を増やす取組も始まっているようですが、庶民でも購入できる日は、相当、先になるのでしょう。(写真出典:oishii.iijan.or.jp)

迎賓館