2026年8月18日火曜日

アプレゲール

さすがに黒澤明の映画は面白いと思います。とりわけ戦後から1960年代にかけての映画は、文句なしに面白いと思います。「野良犬」(1949)も初期の傑作の一つです。日本初とされるドキュメンタリー・タッチの刑事映画は、その後の日本の犯罪映画のスタイルを方向づけたと言われます。黒澤は、ジョルジュ・シムノン風の映画を目指し、ドキュメンタリー・タッチの映画を撮ったとされます。それもそうなのでしょうが、敗戦後の荒廃した社会と若者の精神を描くためには、ドキュメンタリーの手法が最適だったのだと思います。既存の価値観の崩壊とともに、虚無的で刹那的な行動に走る若者たちは”アプレゲール”と呼ばれました。フランス語で”戦後”、あるいは”戦後派”を意味する言葉ですが、 野間宏の小説から広がったとされています。

映画は、ほとんどセットで撮影されたようですが、ラストなど一部はロケ、さらに手持ちカメラを使って闇市や街の実景も撮影されています。ドキュメンタリー・タッチを強調するためでもあったのでしょうが、、今となっては貴重な映像記録にもなっています。追われる犯人も、追う刑事も、共に戦地からの引揚者であり、混み合う列車の中で荷物を盗まれるという同じ経験をしています。黒澤は、とかく荒んだ若者扱いされるアプレゲールにも、世を悲観するだけの者と、復興に使命感を感じる者と、根源は同じでも二つの顔があると言いたかったのでしょう。また、ラスト・シーンでは、死闘の末、野原に倒れ込む二人の向こうを、子供たちが”故郷”を歌いながら歩いて行きます。二人のアプレゲールの先に日本の未来が見えるというわけです。

敗戦後、若者による無軌道とも言える事件が頻発します。それらはアプレゲール犯罪と呼ばれました。名高いものとしては、金閣寺放火事件、鉱工品貿易公団横領事件、そして光クラブ事件などがあります。犯人の若者たちは、少年時代、軍国主義体制下で徹底的な思想教育を受けた世代でした。敗戦によって、突然、自分を規定していた価値観から解放された若者たちは、自らを失っていったとも言えるのでしょう。光クラブは、現役東大生が起業した高利貸しでした。ハイパー・インフレ抑制のために打ち出された金融引締策が金詰まり状態を起こすなか、高利を謳って零細資金を集め、それ以上の高利で貸し出すヤミ金融は大成功します。現役東大生社長というブランドも信用を高めます。社長の山崎晃嗣は、特異な言動も注目を集め、一躍、時代の寵児となります。

裕福な名家に育った山崎は、東大入学後、学徒出陣で陸軍に入隊します。軍隊の理不尽さに戸惑い、敗戦後、物資の横流しなどに走る上官たちを見て衝撃を受けます。復学した山崎は、偏執的とも言える自己管理のもと勉学に励みます。そして、金詰まりという社会環境を見て、高利貸しを始めます。成功した山崎の独善的な合理主義、世間と他者を見下す態度、女性を道具と言い切る傲慢さはマスコミにとって格好のネタでした。しかし、金融当局もだまってはいませんでした。山崎は、愛人が税務署に流した情報によって、物価統制令違反で逮捕されます。不起訴処分となったものの、信用はがた落ちし、資金流失を起こした光クラブは破綻します。そして、山崎は、自虐的な遺書を残し、服毒自殺しています。最後まで、アプレゲールを演じきったとも言えそうです。

アプレゲール犯罪を犯した若者たちを、時代の犠牲者のように語る人たちがいます。確かに、突然生じた価値観の空白が、人々に与えた影響は計り知れないものだったことは理解できます。特に若者たちにとっては、生きていくために叩き込まれた規範が消失するわけですから、突然、荒野に放り出されたようなものだったと思います。しかしながら、犯罪および犯罪者は、いつの世も、本質的には変わらないようにも思えます。例えば、金融犯罪に限ってみても、今日に至るまで、山崎と同様の手口の犯罪者が登場し続けています。確かに敗戦後の社会の混乱や荒廃が、彼らを犯罪に走らせた面は否定できません。しかし、心に甘さを抱える一部の人たちは、軍国主義の時代でも、アプレゲールの時代でも、戦後民主主義の時代でも、あるいは昨今の情報革命の時代にあっても、犯罪に走る傾向にあるのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年8月16日日曜日

朱の国

根来塗
日本の神社の多くは朱色に塗られています。魔除け、あるいは防腐・防虫のためと言われます。ところが、神社の最高位にある伊勢神宮は素木(しらき)造りです。そもそも日本の神社は素木造りが基本でした。中国から仏教が伝来すると、寺院の朱塗りも伝わります。そして、神仏混淆が進むにつれて、神社も赤くなっていったのだそうです。古来、中国人が赤を好むのは、陰陽五行説に基づいており、魔除け、健康、幸運、繁栄などを象徴する色だからだとされます。国旗までも赤です。中国の赤は”紅”と呼ばれ、世界的には”Chinese Red” とされます。対して日本古来の赤は”朱”であり、”Japanese Vermilion”と呼ばれます。いずれも硫化水銀を含む辰砂という鉱物から作られます。

日本の朱は縄文時代から存在します。朱塗りの土器や籃胎漆器(漆塗りのカゴ)などが発掘されています。また、辰砂を砕いて顔料にしたものは”丹”と呼ばれます。奈良の枕詞である“青丹(あおに)よし”は、木々の緑(青)と建造物の丹(朱)のコントラストの美しさを表します。また、頭頂部が赤い鶴は丹頂鶴と呼ばれます。辰砂から作る朱は、我々のイメージする黄色味が強い赤色ではなく、真っ赤だったと聞きます。辰砂は貴重品であったことから、丹鉛と呼ばれる鉛系の朱が代用品として普及し、現在の朱になったようです。ちなみに、日本的な赤としては、他に深い赤褐色の”弁柄(べんがら)”があります。弁柄は、酸化鉄赤から作られます。江戸期にインドのベンガル地方から伝えられたので”べんがら”と呼ばれるようになったとされています。

弁柄は、海外で”Japan Red”とも呼ばれ、建造物だけでなく、陶磁器や漆器にも使われます。変わったところでは、近江八幡の名物”赤蒟蒻”にも使われています。国内の弁柄の産地としては、赤い町として知られる岡山県高梁市の備中吹屋が有名です。柿右衛門の赤も弁柄です。有田焼の酒井田柿右衛門の様式は、景徳鎮やマイセンにも影響を与えたとされます。濁手と呼ばれる白い地色に文様を描き、明るい色彩による上絵付けを施します。独特な色合いを出す赤の顔料は、弁柄を主に何年もの時間をかけて慎重に調合されると聞きます。昨年、柿右衛門窯に行きましたが、その素晴らしさに圧倒されました。また、黒内朱と呼ばれる輪島塗のお椀にも弁柄が使われます。黒と朱は相性が良く、特に漆器では見事なコントラストを生みます。まさに日本の美だと思います。

黒内朱も見事なのですが、溜塗で浮き出る朱も、実に魅力があります。溜塗は、朱の中塗りの上に、茶褐色で透明感のある”透き漆”を重ねる技法です。縁にうっすら朱が見えて、使い込むと朱を感じさせる透明感が出てきます。逆の色使いが根来塗になります。黒の下地に朱を上塗りします。日本の朱は、黒の下地があって、初めて成立する、という話を聞いたことがあります。根来は、まさにそれを地で行っています。根来塗は、和歌山県岩出の根来寺が発祥とされます。使い込むと朱が薄れ、黒漆が浮き出てきます。それが月日の重さを感じさせるような独特の風合を生みます。また、漆器の朱と言えば、堆朱も私のお気に入りです。中国伝来の技法ですが、中国では朱漆を幾重にも重ね塗りし、それを彫って紋様を刻みます。日本を代表する新潟の村上木彫堆朱は、木彫の上に朱漆を厚く塗ります。仙台にも堆朱がありますが、村上の分派と聞きます。

思えば、日本は”朱の国”と言ってもいいのかもしれません。縄文時代から朱を使ってきたことに加え、魏志倭人伝によれば、倭人は、全身に入れ墨をし、朱を塗っている、とされます。以降も、神聖なものに朱を塗り、美感の中心にも朱を据えてきたわけです。朱は、単なる色使いではなく、魔除けやエネルギーの象徴だったのでしょう。漢字の赤は、大と火を組み合わせた文字です。漢字が日本に伝わると、赤という文字には、もともと日本にあった”あか”という言葉が読みとして当てられます。”あか”は、明るい、(夜が)明ける、から生まれ、黒は、暗い、暮れる、が語源とされます。そう考えると、朱だけでなく、朱と黒の組合せこそが日本人の自然観の基本と言えるのかもしれません。(写真出典:sankei.com)

2026年8月14日金曜日

家作

老後の姿として憧れていたのが、古典落語に登場する「横丁のご隠居」です。武家や大店の先代も隠居と呼ばれますが、憧れていたのは、あくまでも横丁のご隠居です。恐らく奉公人として武家や商店で長く勤め上げた人なのだろうと想像します。人生経験も知識も豊富、知恵も小銭も持っており、横丁の連中の相談に乗ったり、揉め事の仲裁も行う頼れる老人です。世の中に多少は役立つ老人の理想像だと思います。一方、横丁には大家さんという人たちも登場します。横丁の外れや近所に住み、長屋の店子たちに家を貸し、賃料を受け取っています。「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」という言葉にあるとおり、濃密な関係にあったようです。

家作という言葉は、ほぼ死語になっていますが、人に貸して賃料を稼ぐために建てた家のことです。江戸の長屋から始まったと聞いたことがあります。長屋、あるいは棟割長屋は、平屋の木造アパートのような作りです。各戸は、おおむね6畳の部屋で、出入口は横丁に面していました。玄関と台所を兼ねた土間が1畳半、座敷が4畳半というごく狭い部屋でした。江戸庶民の多くは、この長屋に住んでいたわけです。江戸っ子は「宵越しの金はもたねぇ」とイキがりますが、宵越しの金など持てなかったというのが現実だったのでしょう。賃料は月400~600文、現代価値で8,000円〜15,000円程度だったと言われます。六軒長屋なら、大家の収入は月5~9万円ほど。職人の稼ぎ頭と言われた大工の月収が10~15万ですから、決して大儲けという商売ではなかったのでしょう。

明治になると、土地の売買が自由化され、民法も整備されたことなどから、不動産取引が活発になります。一方で、固定資産への課税も始まったことから、家作が多く建てられることになりました。当時の家主には、土地の払い下げを受けた士族が多かったようです。借家の建付けは、江戸期と変わらなかったようですが、その後、徐々に西洋化が進み、1910年(明治43年)には、上野に日本初となる5階建の木造アパート”上野倶楽部”も登場しています。そして1916年(大正5年)には、日本初の鉄筋コンクリートの集合住宅が、長崎県高島町の端島(軍艦島)に建てられます。また、借家も長屋ではなく戸建化が進んでいったようです。恐らく、この頃から、サラリーマンの副収入や老後の収入源としての家作が広がっていったものと思われます。

敗戦直後は、深刻な住宅不足となり、復興住宅と呼ばれる簡易な家が急増します。広い家の建築は法的に制限された時代でした。粗末な家作も多く建てられたのでしょう。インフレも相まって家作に関する家賃の統制も行われます。また、自宅を建てるための公的融資制度も整備されていきます。戦後復興から高度成長期を迎えると、農村の労働力が都市部へと大移動を始めます。官舎や社宅が増えていくわけですが、それは役所や大企業に限っての話であり、多くの労働者のためには木造2階建のアパートが多く建てられていきます。いずれも昭和を代表する街の光景になっていきます。いずれも狭い住空間のことですから、ちゃぶ台を置いて食事し、終われば片付けて布団を敷いて寝るという生活です。風呂もなかったことから、銭湯が繁昌した時代でもあります。

そういう意味では、木造2階建のアパートは、姿こそ違えど、江戸の長屋に似ていたと言えそうです。1960年代に入ると、水洗トイレ、風呂、ダイニングキッチン、ベランダを備えた公団住宅、いわゆる団地がブームとなり、入居抽選の倍率が高く、なかなか当たらなかったようです。また、70年代以降は”夢のマイホーム”という言葉も一般化します。逆に言えば、家作のニーズは引き続き高く、サラリーマン等が、老後の生活資金準備、孫子へ遺産の用意として活用していたものと思われます。その後、豊かな時代になると、木造アパートは賃貸マンションへと変わっていきます。社宅も姿を消していきます。少子化で市場は減少したものの、賃貸ニーズがなくなることはありません。競争が激しくなった市場に素人のサラリーマンが手を出せる時代ではなくなりました。一方で、サラリーマンが老後に備える投資の選択肢も広がってきたとも言えます。いずれにしても、家作という言葉は昭和とともに消えていったわけです。(写真出典:homes.co.jp)

2026年8月12日水曜日

秘仏

東京国立博物館で、弘法大師生誕1250年を記念する「空海と真言の名宝」展を見てきました。明らかに、今年の夏の最高最大の展覧会だと思います。真言宗最高の法会とされるのは、正月に東寺で行われる秘儀「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」です。かつては宮中で行われていた玉体安穏・鎮護国家等を祈念する法会です。後七日御修法を執り行うのは18寺院で構成される真言宗各派総大本山会、通称真言宗十八本山です。今回の展覧会は、この十八本山が中心となり、国宝15点を含む名宝の数々を出展しています。なかでも興味深かったのは秘仏7点の展示です。寺を訪れても拝めない秘仏の数々を間近に見ることができました。 

秘仏とは、一般には公開されていない仏像を指します。ただ、年に一度、あるいは数年、場合によっては数十年に一度、一般公開されることもあります。これは”ご開帳”と呼ばれ、多くの参拝客が押し寄せます。普段は拝めない仏様だけに、ありがたさも一段と増すわけです。20年毎に行われる伊勢神宮の式年遷宮では、その翌年がお陰参りと呼ばれ、御利益が最も大きいとされます。同じような仕組みです。そもそも信心の拠り所として安置される仏像を非公開にすることは、大きな矛盾だと思います。不思議なことに、非公開にすること、あるいは開帳時期の設定に関して、納得できる理由が語られることは、ほぼありません。まさか、たまに公開することで盛り上げようというわけでもないでしょう。希に保存のためにという説明もあります。これは理解できます。

一切開帳されない絶対秘仏もあります。善光寺の一光三尊阿弥陀如来像、東大寺二月堂の十一面観音像、浅草寺の聖観世音菩薩像などが有名です。善光寺のご本尊は、1400年前、天竺から百済経由で伝わった日本最古の仏像とされます。ご本尊が絶対秘仏とされたのは7世紀中葉のことであり、ご本尊のお告げによって秘仏化されたと伝わります。7年に一度開帳されますが、ご本尊ではなく、代わりとしての前立本尊が開帳されます。境内には、前立本尊から五色の紐で結ばれた回向柱が立てられ、触れると来世の幸せが約束されると言います。隅田川で網に掛っていたという浅草寺の聖観音像も、ご自身のお告げによって絶対秘仏とされています。東大寺の十一面観音像は、天竺の補陀落山から来た生身仏ゆえ、人目に触れさせることが出来ないほど尊いとされます。

聖徳太子の等身大立像とも伝えられる法隆寺夢殿の救世観音像も、かつては絶対秘仏でした。ところが、明治17年、日本の美術界に多大な貢献をしたアーネスト・フェノロサと岡倉天心が法隆寺を訪れ、救世観音像の開帳を要求します。寺側は、絶対秘仏ゆえ開帳できない、開帳すれば天変地異が起こり、寺は潰れるかもしれないと頑迷に抵抗します。フェノロサと天心は、文部省の調査委員という立場でもあったので、最終的には政府の命令書をもって強引に開帳させました。廃仏毀釈の苦い記憶が残る寺側も、政府命令には従わざるを得なかったのでしょう。ただ、救世観音像の開帳は、我が国美術史最大の発見ともなりました。優美な姿とアルカイック・スマイルをたたえる救世観音像は、飛鳥時代の最高傑作とされ、国宝に指定されています。

海外にも秘仏に類したものがあるようですが、多くは何らの理由で隠されたものだそうです。どうも、秘仏という発想は、日本に特有な信仰の形と言えそうです。秘仏が登場するのは平安期であり、神道の影響から生まれたという説があります。古来、日本の神々は姿を現わすものではありませんでした。6世紀に仏教と仏像が伝来すると、その影響を受けて、神道にもご神体という発想が生まれたようです。ただ、姿を見せないのが神だったので、ご神体も人目に触れないように神社の奥の奥に安置されます。今度は、これが、仏教に影響を及ぼし、秘仏が誕生したというわけです。神道と仏教の相互作用だとすれば、確かに秘仏は日本固有の信仰だと言えます。今回展覧会で公開された秘仏のなかに、国宝としては最小と言われる仁和寺の薬師如来坐像があります。その細工の見事さは驚異的であり、私でも秘仏にしたくなります。(写真出典:tnm.jp)

2026年8月10日月曜日

詠春拳

葉問
1980年にモロッコへ行った際のことです。夕方、タンジールの旧市街、いわゆるメディーナを散策しました。メディーナは迷路そのものであり、現地ガイドなしに散策などできません。アジア人が珍しかったのか、子供たちがゾロゾロとついてきます。子供たちは、アチョーと叫びながらカンフーの真似事を繰り返します。アジア人=中国人=カンフーだったわけです。もちろん、日本人と中国人の区別などつくわけもありません。私がカンフーの構えをすると、子供たちは”おーっ”と声をあげて後ずさりしました。ブルース・リーの影響がここまで及んでいるのかと驚いたものです。

「燃えよドラゴン(Enter the Dragon)」 が公開されたのは1973年のことです。完成作品としてはブルース・リー最後の映画となりました。85万ドルという低予算映画でしたが、世界的な大ヒットとなり、4億ドル(現在価値20億ドル)の興行収入をあげます。モロッコでも繰り返し上映されたのでしょう。映画としては、絵に書いたような低予算B級映画に過ぎませんが、これほどまでに大ヒットした要因については、諸説あります。わざとらしい演出が一般的だったアクション映画のなかで、銃を使わずに展開される格闘シーンが新鮮だったという説が有です。ハリウッド資本が入り、世界市場を視野に製作された点も大きかったと思います。プロットとしては、当時流行していたスパイ映画の要素を入れ、黒人映画の流行を先取りした面も有効だったのでしょう。

しかし、何と言っても、人々を熱狂させたのは、ブルース・リーが見せる本物の格闘技、そして強烈なストイシズムということになります。映画のなかでブルース・リーが披露している技は、彼が考案した截拳道(ジークンドー)という武術です。よくカンフー映画と言われますが、カンフー(功夫)とは、武術の一流派のことではありません。練習や鍛錬によって培われた技や能力を意味する言葉であり、転じて少林拳法や太極拳といった武術全般を指す言葉になったようです。ブルース・リーの截拳道は、師である葉問の詠春拳をより実戦的に体系化したものと言われます。詠春拳は、無駄のない動きが特徴であり、相手の力を利用することなどから近接戦に優れるとされます。我々がカンフーとしてイメージするのは、ほぼ詠春拳だと思っていいようです。

南派少林拳の流れを汲むと言われる詠春拳は、200年前の広東省あたりで、希代の女性拳法家・厳詠春が始めたとされます。19世紀、広東省佛山に詠春拳王と呼ばれた梁贊が現れます。そして弟子の一人・陳華順が、詠春拳初となる武館”杏濟堂”を開きます。ここで広東の詠春拳というイメージが確立されたわけです。陳華順の弟子の一人が葉問でした。裕福な家に育った葉問は、香港留学後、警察官になります。国民党政権下で出世した葉問ですが、中華人民共和国建国後は香港に逃れ、詠春拳の指導を始めます。葉問は、東洋哲学に根ざした伝統的な指導を、科学的な視点に基づく合理的な指導に変えます。これが奏功し、葉問派詠春拳は香港を代表する武術へと成長します。まさに詠春拳中興の祖と言えます。そして若きブルース・リーも入門するわけです。

葉問は、広東語でイップ・マン、普通語ではイェー・ウンと発音します。葉問を題材として生まれたのが、イップ・マン・シリーズです。世界的な大ヒット・シリーズとなりました。主演するドニー・イェンは、今やアジアを代表するトップ・スターと言えます。香港映画以外でも、スター・ウォーズのローグ・ワン、ジョン・ウィックのコンセクエンスにも出演しています。イップ・マン・シリーズは、キャラクター設定として葉問を使っていますが、ストーリーはオリジナルです。見せ場はドニー・イェンの詠春拳ということになります。実に見事な格闘シーンが展開されていますが、武術を見せるだけの映画には限界があります。ただ、詠春拳自体は、これからもアクション映画の基本スタイルとして、世界中で使われていくものと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年8月8日土曜日

京の喫茶店

マドラグ
修学旅行で京都へ行った際、今はなきJAZZ喫茶の名店「しぁんくれーる」を訪れた話は、先にも書きました。その日の夜、三条の「イノダコーヒ本店」にも行きました。閉店の時間が迫っており、走っていったのを覚えています。イノダコーヒ(コーヒーではありません)へ行った理由は、フォーク・シンガー高田渡の「コーヒー・ブルース」に登場するからです。私は、JAZZやR&B派だったので、フォーク・ソング、とりわけポップ化した吉田拓郎やかぐや姫などは毛嫌いしていました。ただ、岡林信広などのプロテスト・ソング系は気になるところがありました。高田渡を知ったのは「自衛隊に入ろう」(1969)からです。強烈な皮肉が込められた歌ですが、防衛庁が応援歌と勘違いし、またこの曲に触発されて入隊した人までいたようです。

「コーヒー・ブルース」は1971年の曲です。高田渡の曲調は、民青系の直截なプロテスト・ソングから、日々の生活を素朴に歌う平和主義的なものに変わっていました。自分も、民青系を嫌っていたので、好感が持てました。70年安保闘争が終わり、反政府というよりも反ファシズムという流れの中での平和主義はベターな選択だと思われました。「三条へ行かなくちゃ 三条堺町のイノダってコーヒー屋へね」で始まるコーヒー・ブルースは、好きな女の子とコーヒーを少しばかり、というたわいもない歌です。当時、ファシズムに対抗する一つの手段は、我々がチャランポランに生きることなのではないか、と思っていたこともあり、なんとなく染みる歌でした。イノダコーヒ本店へ向かう際、皆でコーヒー・ブルースを歌いながら走ったことを覚えています。

イノダコーヒは、1940年、画家でもあった猪田七郎がコーヒーの卸売を始め、1947年にコーヒー・ショップを開いています。イノダのコーヒーは、あらかじめ砂糖が入っていることが特徴です。私は、普段、コーヒーに砂糖は加えませんが、イノダに限っては、濃いコーヒーと甘味を楽しんでいます。また、いつの頃からか、イノダのモーニングが人気となりました。今は大行列状態が続きます。イノダに限らず、京都には歴史のある、あるいはレトロな喫茶店が多くあります。文化の街、学生の街らしい光景ですが、ちゃんと贔屓筋が付いているからこそ、という話でもあります。京都で人気のレトロな喫茶店と言えば、フランソワ、ソワレ、築地、あるいは六曜社などが知られています。もっと地味でレトロな喫茶店も多くあります。チロルなどもその一つでしょう。

私のお気に入りは、二条の「マドラグ」です。2011年開店ですから、比較的新しい店ということになります。しかし、前身は1950年代から半世紀続いた「喫茶セブン」であり、ご主人が亡くなったために休業中だった店を居抜きでマドラグは開店しています。1950年代のモダニズムを強く感じさせる店内は、私にとって居心地の良さNo.1です。ちなみに、店名はブリジット・バルドーがサントロペに持っていた別荘の名前から付けたようです。京都へ行った際には寄せてもらっていたのですが、ある時、困ったことが起きました。閉店した洋食店コロナの名物・玉子サンドイッチを継承することになったのです。確かに、分厚くてフワフワのサンドイッチは絶品ですが、これを目当てに人が押し寄せるようになったのです。その後も何度か行ってみましたが、行列ができており、まったく入れません。玉子サンドイッチは、別な形で継承して欲しかったと思います。

最近の画一化された”カフェ”の流行には馴染めません。スターバックスは、家でも職場でもない第三の(居心地の良い)場所を目指していましたが、今は混み合うスーパーマーケットのような場所になっています。ただ、街でよく見かけるチェーンのカフェに入ることはあります。それはコーヒーの味や店の雰囲気が目当てではなく、ひたすらタバコを吸うためです。長居する人が多いなか、私はコーヒーを飲んで、タバコを2~3本吸ったら店を出ます。かつての喫茶店は、味や雰囲気に個性があり、それを共有することで文化の象徴的存在となっていました。全国の街には、いまだにそういう喫茶店が残っているのでしょう。東京にも、しぶとく残っています。しかし、文化としての喫茶店が最も多く残っているのが京都だと思います。(写真出典:kyoto.graphic.co.jp)

2026年8月6日木曜日

酷暑

エジプトのアブシンベル神殿へ行った際、50度超えという気温を経験しました。そのレベルになると、直射日光で肌が軽い火傷になる恐れもあるので、露出は禁物です。ただ湿度がゼロに近いので、日陰は涼しいくらいでした。あらためて、日光と砂を避けるベドウィン族の衣装の合理性に感心しました。一方、パキスタンのカラチでは、気温40度超え、かつ湿度ほぼ100%という気候も経験しました。冷房の効いた室内から外に出ると、コンクリートの塊が両肩に被さるような印象を受けました。海辺はマシだろうと思いましたが、アラビア海からはもっと重苦しい熱風が吹きつけていました。気象庁は、今年から、40度超えの日を「酷暑日」と定めました。 その途端、過去に例がないほど40度超えが続出しています。

フィリップ・K・ディックの小説に、気温100度になった未来が描かれたものがありました。人が外へ出る時には、携帯クーラーを背負います。ほぼ宇宙服ということなのでしょう。近年、屋外で作業する人たちが、電動ファンの付いた作業服を着用しています。酷暑日といい、ファン付作業着といい、どんどんフィリップ・K・ディックの小説に近づいているように思えます。地震に襲われた熊本が酷暑日を記録した日、他の九州各地でも酷暑日が発生しました。そのなかに佐賀市も含まれていました。佐賀市の夏と言えば、松本清張原作・野村芳太郎監督・橋本忍脚本の傑作「張込み」(1958)を思い出します。高温多湿な日本の夏を最も強く感じさせる映画だったと思います。日本の白黒映画は、雨の描き方がうまいと思うのですが、夏の暑さも同様に見事です。

もちろん、アフリカや東南アジアで撮った映画は暑さが伝わります。アメリカであっても「狼たちの午後」などは印象に残っています。原題は”Dog Day Afternoon”であり、Dog Dayは暑い日を指します。しかし、そこで描かれている暑さは、高温多湿な日本の夏とは大いに異なります。「張込み」は、日本的な夏が見事に描かれています。東京・深川で発生した強盗殺人事の犯人が逃走し、佐賀に住む元恋人を訪ねると踏んだ刑事二人が張込みに入ります。原作は、30ページほどの短編ですが、脚本の橋本忍が緊張感あふれるドラマに仕立てています。映画は、刑事たちが横浜駅から佐賀へ向かう夜行列車の旅から始まります。横浜・佐賀間1,200km、蒸気機関車では、一昼夜以上かかる旅です。暑くて混み合う車内の描写だけで、いきなり暑苦しさが伝わります。

ロケは、佐賀市を中心に行われています。戦時中、佐賀市も空襲を受けています。ただ、徹底的な灯火管制が奏功し、目標を見失った米軍は爆弾を田んぼのなかに投下します。結果、ほぼ被害のなかった佐賀市は、撮影が行われた昭和30年代でも城下町の風情をよく残しています。佐賀市の最高気温は、当時でも35~36度まで達していたようです。演技、演出、カメラワークもうだるような暑さを見事に伝えます。旅館での張込みという動きの少ないプロットが、暑さをより際立たせている面もあります。それどころか、短く動きの少ない原作を、緊張感あふれる映画に仕立てあげるために、暑い夏が効果的に使われているとも言えそうです。夕立やお祭も含めて、暑い夏は映画としてのテンションと奥行を出すためのサブ・プロットだったと言ってもいいのでしょう。

サスペンスながら、テーマがしっかりしていることも特徴的です。高度成長に突入した都市と寂れていく地方という構図、農村から上京した労働者の悲惨な就労環境、といった当時の社会現象が端的に表現されています。また、時代とともに変化しつつあった女性の社会的地位や女性の幸せに関する目線も大きな要素になっています。短編とは言え、さすが社会派松本清張だと思います。被疑者の元恋人は、相当年上の銀行員と結婚し、ほぼ女中と変わらぬ日々を送っています。被疑者と温泉地で待ち合わせた元恋人は、まるで別人かのように感情を露わにします。しかし、数時間後、被疑者は張り込みを続けてきた刑事たちに逮捕されます。刑事のモノローグ「この女は数時間の命を燃やしたに過ぎなかった」は名セリフとされているようです。暑い夏はここにもあったわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

アプレゲール