2026年5月24日日曜日

欠史八代

欠史八代とは、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇まで、つまり初代神武天皇と第10代崇神天皇の間の8代の天皇を指します。古事記・日本書紀(記紀)において、系譜に関する簡単な記述しかないことから欠史八代と呼ばれ、後世の創作だろうとされています。詳しい記述があれば事実というわけでもありません。いずれにしても、新たな遺構でも発見されない限り、神話は神話であり、創作の可能性は否定できないと思います。そもそも、記紀の簡単な記述しか手がかりがない段階で、創作か否かを議論することは不毛だとも思います。ただ、欠史八代について、簡潔に系譜だけが記述された理由については、興味深いところです。

古事記の序文には、帝紀・旧辞に基づき編纂したと記述されています。帝紀は天皇の系譜、旧辞は出来事や伝承が収録されていたようです。いずれも現存していません。645年の乙巳の変の際、朝廷の書庫が炎上し、多くの記録も焼失したようです。口承だけで伝わっていた歴史を、681年、天武天皇の命により編纂したのが帝紀・旧辞とされます。それを底本として8世紀に成立したのが記紀です。欠史八代が系譜だけの記載となった理由として分かりやすいのは、編纂時、帝紀のみが存在し、旧辞の八代分が失われていたということなのでしょう。ないしは、旧辞は存在していても、そもそも八代に関する記述がなかったのかもしれません。さらに、八代に関する他の口承・伝承もなかったということなのでしょう。天孫家の影の薄い時代だったのかもしれません。

纏向遺跡の発掘以降、最初の実在天皇は、その名の通り、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)、つまり崇神天皇とする説が有力です。崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと、卑弥呼とされる)は、部族連合のリーダーとして倭国大乱を治めたとされます。とすれば、崇神天皇に先立つ欠史八代は、日向から大和へと移った天孫家が、地盤を固め、部族連合を形成していく雌伏の時代だったのでしょう。記載すべき出来事に乏しい時代とも言えます。大王(おおきみ)となった天孫家には、正統性や権威の根拠となる神話が必要でした。イザナギ・イザナミ、天照大神、神武天皇へと続く神話は、太古の昔の話であり、創作しやすいと言えます、最も難しいのは、実在性の高い崇神天皇へのつなぎ部分だったのではないかと思われます。

崇神天皇が治めたとされる倭国大乱は、魏志倭人伝など中国の史書に簡単な記述があるばかりで、ほぼ何も分かっていません。2世紀後半に起こり、8年以上の長きにわたり戦われたとされます。最も理解しやすい仮説は、九州から東に勢力を拡大していった弥生系渡来集団が、縄文系在来集団とぶつかったというものです。恐らく、これが神武天皇の東征神話のモデルでもあったのでしょう。だとすれば、神武天皇は、崇神天皇のせいぜい2~3代前ということになります。しかし、それでは、神武天皇に持たせたい神性と他の有力部族が伝えるリアルな伝承との辻褄が合わなくなる可能性が高いと思われます。天孫家の神話は、他の部族の伝承を超越する必要があります。そこで、古さで箔を付け、辻褄を合わせるために欠史八代が創造されたのかもしれません。

日本書紀の年代や年齢は、第20代允恭天皇あたりまで、かなり怪しげです。その最大の要因は、神武天皇の即位年を紀元前660年と定めたことにあります。聖徳太子らが、中国の讖緯思想の一つである辛酉革命に基づき決めています。辛酉革命とは、干支が辛酉(かのととり)の年には大革命が起きるという一種の予言です。神武天皇の即位を紀元前660年としたことで、以降の天皇の在位期間や年齢は、辻褄を合わせるためにとんでもないものになりました。欠史八代が創作なのであれば、帝紀・旧辞、あるいは記紀の編纂時に、天皇の人数を増やせば済んだ話だと思います。それを、あえて変えずに、在位年数や年齢の方を大幅に水増ししたわけです。天皇の系譜は、動かしがたいものだったと推測することができます。もちろん、それが、即刻、欠史八代の実在を証明するものではありませんが。(写真:神武天皇図 出典:kashiharajingu.or.jp)

2026年5月22日金曜日

病院食

フランスの病院食
急性腎不全で入院したことがあります。幸いなことに、無罪放免、つまり何の食事制限もないまま退院することができました。ただ、5日間の入院で体重が10kg落ちました。体の水分を抜くという治療の影響もありますが、実は病院食が不味すぎて食が細くなったためでもあります。昔から、病院食は、不味いものと相場が決まっています。コストが抑えられていることもありますが、最大の理由は塩分の制限だと思います。高血圧や腎臓病患者向けの病院食の塩分は、1日6gまでという制限があります。小さじすり切り1杯分に相当します。一方、日本人の平均摂取量は10gとのこと。病院食が味気ないものになって当然です。

腎不全の原因が前立腺肥大にあったことから、慈恵医大病院で前立腺の一部切除手術を受けました。5日間入院する必要があったので、今度は準備よく、塩、出汁、ふりかけなどを密かに持ち込みました。ところが、意外にも、病院食が美味しかったので、まったく出番がありませんでした。慈恵医大だけ、病院食のコストや塩分量の基準を無視しているとも思えません。出汁や食材の工夫が上手なのかも知れないとも思いました。しかし、ほどなく、味噌汁やスープが一切出てこないことに気付きました。味噌汁やスープの塩分を他のメニューに回すことで味のある食事を実現していたわけです。味噌汁の塩分は、1.5gといいますから、3食で4.5g。これは大きな違いを生みます。なお、食事中の水分としては、ほうじ茶が出されていました。

娘がパリで入院したので看病しました。その際、フランスの病院食に驚かされました。とても美味しいのです。娘の食が細かったこともあり、食べ残しを味見していました。器こそプラスティックの使い捨て容器でしたが、例えばコルドン・ブルーといった手の込んだまともな料理が出されていました。毎回、メニューも付いてきました。パンは国のお墨付きであるラベル・ロージュ認定品が出され、毎回、フランス家庭料理の定番である塩ポタージュや少量ながらブランド・チーズも付きます。デザートには果物も出ますが、ヨーグルト状のものが多かったと思います。とても塩分が制限されているとは思えませんでした。脳神経外科の回復病棟ゆえのメニューだとは思いますが、さすが美食の国、美味しいものを食べて元気になるという発想なのでしょう。

日本では、患者が何をどれほど食べたかを看護師がチェックしています。パリでは、それも一切ありませんでした。日本の病院食は、治療の一部として病院が管理し、ゆえに保険でカバーされているのでしょう。フランスの病院食は、病院ではなくフード・サービス会社が提供しています。もちろん、メニューは医師と連携して決めているとは思いますが、かなりゆるいように思います。また、一般的に、病院食は保険でカバーされていないようです。さらに、日本では入院患者への食べ物の差し入れは制限されることが多く、禁止される場合もあります。フランスには、一切、そういう制限はありませんでした。ちなみに、生花は持ち込み禁止でした。感染症対策ですが、日本の病院でも広がりつつあるようです。花屋さんは大打撃でしょうね。

ちなみに、日本に限らず、病院内は禁煙です。フランスも同じです。ただ、欧米の禁煙ルールは屋内に限られることが多く、屋外なら自由というスタイルです。パリの病院で最も驚いたことの一つは、病棟の玄関あたりにも灰皿が設置されていたことです。また、ゴミ箱にも、だいたい簡便な灰皿機能が付いています。玄関前の灰皿付近では、結構な数のスタッフや患者がタバコを吸っていました。禁煙ファシズム下にある東京よりも、かなり気軽にタバコを楽しめます。昨年、パリでは、法律の改定が行われ、公園、学校周辺、スポーツ施設周辺など、子供や住民が集まる屋外エリアは禁煙とされ、ポイ捨ても含めて、罰金が設定されたようです。そこに病院が入っていないのも、結構、驚きです。(写真出典:tabizine.jp)

2026年5月20日水曜日

相撲王国

青森県武道館
昨年あたりから、角界でにわかに話題に上ってきたのは、142年問題でした。青森県は、 1883年(明治16年)から、142年間に渡り、幕内力士を欠かしたことがないという記録を持っています。それが危うくなっているのです。ただ一人の幕内力士となった錦富士のふんばりで記録は維持され、今年は143年問題になっています。とは言え、薄氷の記録維持状態が続いています。錦富士の双肩には、青森県民の期待が大きなプレッシャーとなってのしかかっています。気の毒には思いますが、十両の尊富士の再入幕も確実とは言えない状態では、がんばってもらうしかありません。そんな記録がどうした、という話でもありますが、青森県民にとっては数少ない自慢ですから、大いに気になります。

都道府県別に見た出身力士の幕内在位連続年数において、青森県に次ぐ記録を持つのは茨城県であり、43年となっています。実に100年の差があるわけですから、もはや青森県だけの問題ではないようにも思います。かつて青森県と北海道は相撲王国と呼ばれていましたが、近年、共に凋落が著しいところです。現在、都道府県別の力士数では、東京都、愛知県、大阪府・兵庫県、福岡県、鹿児島県が上位となっています。おおむね人口の多さと比例しているように見えます。これを人口10万人あたりの輩出率でみると、鹿児島県、高知県、青森県という順番になります。このように、近年では、鹿児島県が圧倒的な存在感を示しているわけです。しかも、鹿児島県出身力士の半数は奄美出身であり、いまや奄美こそが相撲王国の名にふさわしいのかもしれません。

奄美は、古来、琉球と大和の影響下にありましたが、15世紀になると琉球を統一した第一尚王朝に制圧され、支配下に入ります。琉球では、第一尚王朝以前から、格闘技として沖縄角力(ウチナージマ)が行われていましたが、それが奄美にも伝わり、島角力(シマジマ)として広まります。沖縄角力や島角力は、がっぷり四つに組み合った状態から始めて、相手の両肩を地面につければ勝ちとなります。手をついても、土俵から出ても負けにはなりません。がっぷり四つの状態を維持するため、突っ張りや喉輪といった離れてとる技はありません。江戸期に入ると、薩摩藩が奄美を支配します。同時に、大和相撲も伝わりました。大和相撲は、次第に島角力を抑えて主流になっていきます。代官や有力者が力士を抱えるなど、本土と同じ現象が起きていたようです。

奄美には、土俵が140以上あるようです。各集落に土俵が一つあるとも言われます。奄美地方は、人口10万人ながら、集落数が170を超えています。山がちな奄美大島や離島の多さゆえなのでしょう。かつて、土俵の数は小学校の数に比例すると聞いたことがあります。確かに、青森の各小学校には土俵があったものです。今は、相撲をとって遊ぶ小学生は皆無に近いと思います。小学校よりは集落の土俵の方が残りやすいのでしょう。相撲など何処でもとれるようにも思いますが、やはり土俵があれば、遊び、稽古して、大会も開かれます。スポーツの普及に関しては、専用施設の存在が大きな意味を持つわけです。ちなみに、屋根や観客席も備えた相撲場の数では、鹿児島県の32ヶ所、青森県の29ヶ所が群を抜いています。新旧相撲王国揃い踏みといったところです。

北海道の相撲文化は、炭鉱から生まれたと聞きます。各炭鉱には娯楽のために相撲部が作られ、対抗戦なども盛んに行われていたようです。一方、青森では、もともと庶民の娯楽として相撲がとられていたようですが、戦国時代末期、津軽藩の開祖となる津軽為信が相撲を奨励したことから盛んになったようです。津軽藩では、相撲奉行も置かれ、相撲大会も多く開かれ、お抱え力士も存在したようです。農家の次男・三男たちは、お抱え力士となって立身出世することを目指したものだそうです。ちなみに、お抱え力士は、戦時には軍夫として、平時には鳶として城の補修などを担っていたとされます。北海道・青森は、寒くて、貧しくて、相撲くらいしか娯楽がなかったから相撲王国になったと言われがちですが、それなりの背景もあったわけです。(写真出典:aomorikenbudoukan.com)

2026年5月18日月曜日

クリスティーナの世界

NYにいた頃、デラウェア州ウィルミントンに仕事でよく行った時期があります。街を流れるブランディワイン川の上流一帯は、美しい田園風景が広がるとともに建国時代の風情をよく残しています。一度、200年前の水車小屋を使ったレストランに行き、ランプの灯だけで夕食をしたことがあります。まさにタイムスリップでした。アメリカの18~19世紀初頭の風情は、とても魅力的だと思います。信仰と希望の力で困難な開拓を成し遂げた時代の残り香に惹かれるということなのでしょう。ちなみに、ブランディワイン川という風変わりな名称は、上流の滝の落差を巡って、測量士たちがブランディとワインを賭けて勝負したことに由来するとされています。

ブランディワイン川をさかのぼりペンシルベニア州に入ったあたりにチャッズフォードがあります。アメリカの国民的画家アンドリュー・ワイエスが、生まれ育ち、そして亡くなった村です。チャッズフォードは、独立戦争時の激戦地でもあり、ブランディワイン派と呼ばれる画家たちの芸術村でもありました。アンドリュー・ワイエスの父、ニューウェル・コンヴァース・ワイエスも高名な挿絵画家でした。病弱だったワイエスは、自宅で、絵画を含む全ての教育を父から受けています。父の影響から、ロバート・フロストやヘンリー・デイヴィッド・ソローの著作を読み、ウィンスロー・ホーマーの絵に憧れて育ちます。これら自然へのこだわりを持った著作や絵画、そしてブランディワイン川流域の美しい田園風景がアンドリュー・ワイエスの絵画を形成したのでしょう。

ワイエスの絵は、賛否がはっきり分かれるように思います。主にテンペラで描かれる写実的な絵は平板で退屈だと評する人たちもいます。一方で、そこにアメリカの精神風景を見て取る人たちも多く存在します。ワイエスの最も有名な作品である「クリスティーナの世界」なども典型だと思います。緩やかな丘陵の野原に女性が横たわり、丘の上に建つ家を見上げているだけの絵です。実に単純な構図だとは思いますが、強い印象を与えます。アンナ・クリスティーナ・オルセンは実在の人物であり、下半身が麻痺して歩くことができませんでした。ただ、彼女は、生涯、車椅子を拒否して、どこへ行くにも這って移動したと言います。困難を厭わず、人目を気にせず、自らを貫いたその姿には、強い意志、自立心、そして個人の尊厳が象徴されていると思います。

これこそがアメリカ的精神であり、アメリカ人を魅了するものなのだと思います。それは、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの思想である個人の尊厳、自然との調和、市民的不服従につながります。ソローの代表作「ウォールデン 森の生活」等が、アメリカ人に大きな影響を与えたというのではなく、ソローがアメリカ人の精神を鮮明に表したということだと思います。とりわけアメリカ東部の人々の心には、個人の尊厳と自然との関係が密接不可分なものとして根付いています。恐らく、彼らの血のなかに開拓の歴史と精神が色濃く残っているからなのでしょう。これはアメリカ人以外には分かりにくいところがあります。自分もNY郊外に暮らした経験がなければ、ソローなど単なる自然愛好家に過ぎないと思っていたはずです。日本人も、晴耕雨読の生活への憧れはありますが、それは内省的な隠遁生活を意味します。アメリカ人には、自然のなかで育んだ自立心や個人の尊厳が国の歴史を作ってきたという誇りがあるのでしょう。

東京都美術館が100周年を記念して「アンドリュー・ワイエス展」を開催しています。日本ではワイエスの人気など知れたものだろうと思っていましたが、案の定、会場は空いていました。もともと、日本では、欧州のルネサンス、印象派、油絵が人気の頂点にあって、アメリカ絵画など下に見られる傾向があります。世界の美術史においても、アメリカ美術が登場するとすれば、ポップ・アートくらいのものなのでしょう。それも絵画というよりはムーブメントとして捉えられる傾向が強いと思います。アメリカ文学も、似たようなものだと思います。アメリカが世界のトップに躍り出たのは20世紀であり、その光と影がアメリカの芸術を生んだということなのでしょう。結果的ではありますが、ワイエスの絵も反物質主義に貫かれている、と言ってもいいのかもしれません。(写真出典:en.wikipedia.org)

2026年5月16日土曜日

ライトレール

「人間は考える葦である」という言葉を残したブレーズ・パスカルは、早熟の天才の見本のような人だと思います。なにせ、1640年、16歳のおりに「パスカルの定理」を発表しています。その後も、パスカルの三角形、確率論、パスカルの原理などの業績を挙げ、死後には遺稿集「パンセ」が発表されています。また、パスカルは発明家、実業家としての顔も持っていました。1662年には、世界初の乗合馬車を発明し、パリで事業化しています。"Omnibus"と呼ばれたその馬車は、バスの語源ともなりました。乗合馬車は、欧州の各都市に広がり、軌道馬車、路面電車へと進化していきます。さらには進化版のライトレール(LRT)も登場し、路面電車と併せてトラムと総称されています。

路面電車は、19世紀、世界各都市へと広がりましたが、モータリーゼーションの時代を迎えると、渋滞の原因になったり、定時運行が困難になったために、徐々に姿を消していきます。路面電車に代わって多く採用されたのが地下鉄でした。時代が進み、70~80年代になると、車の渋滞解消、後には環境対策としてトラムが見直され、欧州を中心に再び勢いを取り戻します。日本でも、1930年には120近くの都市で路面電車が走っていましたが、1975年には20数都市にまで減っています。路面電車が残った街は、札幌、函館、東京、富山、豊橋、京都、岡山、広島、高知、松山、長崎、熊本、鹿児島などでした。西日本に路面電車が多く残ったのは、雪の影響が少なく、相対的に運行コストが低かったことも関係しているのではないかと思います。

日本では、欧米のようなトラム復権の例は少ないものの、富山市、宇都宮市がLRTを導入しています。富山市のライトレールは、2006年に開業しました。富山市は、コンパクト・シティ構想の数少ない成功例として知られます。少子高齢化、人口減少に対応しつつ、活力ある都市づくりをねらった富山市の構想は、公共交通の活性化、公共交通沿線への居住誘導、中心市街地の活性化を柱に進められました。つまり、LRTの整備が大きな鍵を握っているわけです。LRT導入の成否は、こうした都市計画との連動にあるのだと思います。コンパクト・シティを目指した都市は他にもあります。いずれもLRT敷設が計画に盛り込まれていました。しかし、高齢世帯のLRT沿線や中心部への移転が大きなネックとなって頓挫しています。それは単に移転費用の問題だけとは言えません。

2023年に開通した宇都宮市のライトレールも、コンパクト・シティ構想に基づき敷設されましたが、多少、富山とは色合いが異なります。宇都宮市の構想は、中心部と複数の地域拠点から構成されるネットワーク型とされます。今般、開通した宇都宮芳賀ライトレール線は、JR宇都宮駅と芳賀町の芳賀・高根沢工業団地を結んでいます。宇都宮市の東側には、鬼怒川を挟んで、芳賀・高根沢工業団地、平出工業団地、清原工業団地、さらにはテクノポリス構想などもあり、北関東随一と言える産業地帯が存在します。ちなみに、早朝、東京から宇都宮へ向かう新幹線は、いつも混んでいます。宇都宮駅の新幹線定期利用客数は、東京、大宮に次ぐほどの数になっているとのこと。その目的地の多くが、東部の産業地区になっているものと想像できます。

宇都宮市は、鉄道が南北に走り、市の中心部も東北自動車道も駅の西側にあります。また、鬼怒川に架かる橋が少ないこともあり、東部の産業地区へのアクセスは脆弱そのものでした。通勤、物量は、常に大渋滞という問題を抱えていたわけです。東部産業地域へのアクセス改善という喫緊の課題に、少子高齢化、ドーナッツ現象といった宇都宮市の新たな課題が加わることになります。そこで、東西基幹公共交通としてのライトレール構想が進んだわけです。現状、ライトレールの利用者数は予想を上回り、駅東側の開発が進み、車の通行量は平日で5千台減るなどの効果も出ているようです。ただ、産業地区へのアクセス改善の要は東北自動車道とのスムーズな連絡であり、コンパクトシティ化への要は住民の移転だと思います。ライトレール延伸計画はあるようですが、このあたりが進まないと都市計画としては掛け声倒れになる恐れもあります。(写真出典:utsunomiya-cvb.org)

2026年5月14日木曜日

ひもかわうどん

月に一度、歯のクリーニングとチェックのために、東銀座の歯科医院へ通っています。昼前に予約を入れ、終わったあとには東銀座・築地・銀座界隈で食事します。これが楽しみで通っている面もあります。飲食店には事欠かないエリアですから、今日はどこで食べようかと考えるのも楽しみの一つです。昼時には、そこここに行列ができ、食べたいと思っても、入れない店も多くあります。その一つが”五代目 花山うどん 銀座店”です。花山うどんは、明治27年、館林で創業したという老舗で、ひもかわうどんが有名です。恐らく、歌舞伎座界隈で一番長い行列ができているのが花山うどんだと思います。しかも、並んでいるのは、近所の会社員ではなく、インバウンド客ばかりという異様さです。

外国人にも人気の平打ちうどんですが、その発祥は定かではないようです。文献上の初出は江戸初期、三河・芋川の名物として平打ちの”芋川うどん”が紹介されているようです。現在、芋川という地名は存在しませんが、刈谷市のあたりを指すのではないかとされています。江戸後期の文献に、芋川うどんは、江戸でなまって”ひもかわ”、名古屋では”きしめん”と呼ばれていると記したものがあるようです。きしめんの名称は、もともと三河の知立あたりで人気だった雉肉を入れたうどん、つまり雉めんから来ているというのが名古屋市の公式見解です。知立は刈谷の隣ですから、雉めんには平打ちの芋川うどんが使われていたのだろうと想像できます。三河発祥の平打ちうどんですが、桐生のひもかわうどん、玉島のしのうどん、鴻巣の川幅うどん等もよく知られています。

桐生のひもかわうどんは、北関東で最もよく知られた平打ちうどんだと思います。桐生の名店で初めてひもかわうどんを食べた時には、その幅の広さよりもつるつるとした食感に驚き、すっかり気に入りました。北関東には、ひもかわうどんの他に、”おっきりこみ”、あるいは”煮ぼうとう”という似たような料理もあって混乱します。肉や野菜を炊き、ひもかわうどんを入れたものがおっきりこみと理解していいのでしょう。ただし、おっきりこみの場合、麺は塩を加えずにこねて、打ち粉が付いたままの生麺を鍋に入れます。小麦の一大産地である北関東ならではのうどん文化です。幅が広くて薄いうどんは、仕事で忙しい人々が考えた手間のかからないうどんだったのでしょう。切るのも簡単、煮るのも簡単、そして満足感も得やすいというわけです。

桐生市は、織物産業の街です。その歴史は古く、奈良時代には、既によく知られていたと言います。芋川うどんが伝わり、ひもかわうどんが生まれたという説以外に、川で洗う帯や紐類にちなんで名付けられたという説もあるようです。紐と川、確かにうまい組合せですが、ややこじつけっぽさがあります。しのうどんは、倉敷の玉島の名物です。禅宗の名刹である円通寺で、江戸時代から修行僧が食べていたとされます。円通寺で修行した良寛も好んだとされます。篠竹の節のように長いことからしのうどんと名付けられたようです。長いものでは1mにもなり、かつては”一節一椀”とも呼ばれていたようです。鴻巣の川幅うどんは、2008年、荒川が川幅日本一に認定されたことを記念して、市役所が音頭をとって作られた新しい名物です。

幅広の麺、あるいは平打ち麺は、何も日本に限ったものでもありません。イタリアのパスタにも、パッパルデッレ、フェットチーネやタリアテッレ、リングイネと各種揃っています。アジアでは 、台湾の担仔麺、タイのパッタイ等々も有名ですが、何といっても、中国・陝西省の𰻞𰻞(ビャンビャン)麺が代表格なのでしょう。𰻞という字は最も画数の多い漢字として有名になりましたが、習近平の好物としても話題になりました。15年ほど前、中華料理屋の若い中国人店員に、この漢字を知っているかと聞いたところ、知らないと言っていました。当時、日本で𰻞𰻞麺を出す店は、奈良の大和西大寺に一軒あるのみでした。仕事のついでに行って食べたことがあります。味付けこそエスニック感が強かったものの、麺に関しては、ひもかわを知っているだけに、何の驚きもありませんでした。(写真出典:yomiuri.co.jp)

2026年5月12日火曜日

レゲエ

ボブ・マーリーは、偉大なミュージシャンだと思います。たまに聴くと、やっぱりいいなあ、と思います。レゲエのリズムによく合う声ですし、歌い方もリズムを強く感じさせます。ラスタファリに基づくシンプルな歌詞も力強いと思います。裏打ちの2ビートが生むグルーブは、とても心地良いだけでなく、中毒性すらあるように思います。ラスタファリが大事しているガンジャ(大麻)の影響もあるのかもしれません。しかし、私はレゲエ好きというわけではありません。ボブ・マーリー以外のレゲエでは、単調なリズムに飽きてしまうからです。私にとって、レゲエはボブ・マーリー以外の何ものでもない、ということになるのでしょう。

レゲエは、ジャマイカ独自の音楽文化であるメント、スカ、ロックステディを経て、1960年代後半に生まれたとされます。1940~1950年代に人気の高かったメントは、ジャズや中南米音楽と同様、西アフリカと欧州の音楽が混じり合って誕生した音楽とされます。トリニダードトバゴ発祥のカリプソと混同されることが多いようです。メントの歌手で世界的名声を得たのがハリー・ベラフォンテです。「バナナ・ボート」は世界的なヒットとなりました。ただ、その歌は、メントではなくカリプソと思われがちです。確か似てはいますが、メントの方がゆったりとしたテンポが特徴だと思います。また、アメリカでは、カリプソの方が知名度が高かったために、マーケティング上、ハリー・ベラフォンテの音楽もカリプソとして紹介されていたようです。

ラジオが普及し始めると、ジャズやR&Bの影響を受けてスカが誕生します。スカの2・4拍目が強いオフビートは、ラジオの受信状況が悪く2・4拍目だけが強く聞こえたために生まれたという説があります。ただ、スカは、ドラム・アンサンブルと賛美歌で構成されるラスタファリのナイヤビンギの影響が強く、リズムの根源もそこにあるとされています。さらに、ジャマイカ発祥のサウンド・システムがスカを育てたとも言われます。サウンド・システムは、移動できるターンテーブル、アンプ、大きなスピーカーで構成されます。1940~1950年代はレコード・プレイヤーが普及しておらず、大衆がレコードを聴けるのはサウンド・システムだけだったようです。以降、サウンド・システムにはDJが入り、トースティングも生まれます。後のラップの原点だったわけです。

スカのアップ・テンポに疲れて、1960年代前半にロックステディが生まれます。60年代後半、それがレゲエのゆったりとしたグルーブにつながっていきます。レゲエの特徴として、2・4拍目にカッティング・ギターが強調され、ドラムは3拍目にアクセントを置き、ベースはうねるように演奏されます。ドラムは、3拍目のスネアのリムショットとキック(バスドラム)が特徴的ですが、これはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのドラマーだったカールトン・バレットが生み出したリズムです。と言っても、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズがレゲエを作ったわけではありません。レゲエには、ジミー・クリフはじめ先人たちがいたわけですが、レゲエを確立させ、世界に広めたのがボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズだったと言っていいのでしょう。

ボブ・マーリーが世界に広めたのは音楽としてのレゲエだけではありません。世界の人々は、彼を通じて、ラスタファリを知ることになりました。ラスタ・カラーとドレッド・ヘアはレゲエを象徴するファッションとして広がりました。ラスタファリは、信仰でも、思想でもなく、宗教的思想運動とされます。それも理解しにくいところではありますが、最も引っかかるのがジャー(神)です。ジャーと呼ばれているのは、1975年まで存命だったエチオピアのハイレ・セラシエ1世です。ラスタファリが、アフリカ回帰運動でであることも理解できます。ハイレ・セラシエ1世が聡明な皇帝として知られていたことも知っています。だとしても、他国の存命する王を神として崇めることは、違和感の塊だとしか言いようがありません。(写真:映画「One Love」ポスター 出典:tower.jp)

欠史八代