2026年10月21日水曜日

大原の里

京都・奈良への修学旅行で最も印象に残った寺の一つが大原の三千院でした。心に染みるような美しさだと思いました。その後、何度も京都に行きながら、ついに大原まで足を伸ばす機会はありませんでした。仕事で行けば時間がなく、観光で行けば洛中に見所が多く、なかなか比叡山麓の大原までは行けませんでした。今般、覚悟を決めて、半世紀ぶりに大原へ行ってきました。遠い遠いと思っていましたが、京都駅から地下鉄とバスを使って1時間弱で行けます。バスの本数が多くないことはネックになりますが、気になるほどではありません。とは言え、あれも見たい、これも食べたいという京都旅行で往復2時間は、贅沢な小旅行です。

今回、大原へ行く目的の一つは、味工房志野の本店と直営の飲食店へ行くことでした。志野は、ドレッシングやポン酢を製造販売する店です。15年ほど前、京都の人に教わり、以来、ドレッシングとポン酢は志野を使ってきました。お気に入りは「ゆずと大根のドレッシング」です。平生は、百貨店での催し物などで購入しているのですが、一度、大原の本店に行ってみたいものだと思っていました。また、お昼時にもあたるので、直営の「松門」での食事も楽しみにしていました。ところが、13時頃に行ってみると、店は満席、主なメニューは売り切れと残念な結果になりました。やむなく、バス停近くの店で、素朴な田楽定食をいただきました。もう一つ残念なことがありました。三千院で時間を使いすぎて、ねらっていた寂光院を訪れることができなかったのです。

寂光院は、出家して建礼門院となった平徳子が祈りの余生を送った尼寺です。建礼門院は、平清盛の次女にして、安徳天皇の生母でした。壇ノ浦の戦いのおり、安徳天皇や一門とともに入水します。しかし、源氏方に助けられ、結果、数少ない平家一門の生き残りとなりました。平家物語は、建礼門院の祈りによって「(平家一門が)みな往生の素懐を遂げるとぞきこえし」で終わります。他のバージョンもあるのですが、これが無常観を象徴する最も有名なエンディングだと思います。大原・寂光院は、平家物語ファンにとって、重要な聖地の一つと言えます。ちなみに、大原は赤紫蘇の産地であり、しば漬け発祥の地でもあります。このしば漬けという名称は、建礼門院によって名付けられたと伝わっています。残念ながら、寂光院と松門は次回の宿題となりました。

三千院は、多少、複雑な由来を持つ天台宗の寺です。三千院の歴史は、8世紀末、最澄が比叡山延暦寺を開山したおり、その一角に設けた「円融房」に始まるとされます。その後、寺院となって坂本に本拠を移し、梶井門跡と呼ばれます。そこへ堀河天皇の皇子・最雲法親王が入山します。親王は天台座主となり、大原に梶井門跡の政所を構えます。これが後の三千院になります。梶井門跡は都の船岡山に移転しますが、応仁の乱で焼失し、大原の政所を本坊とするに至ります。しかし、江戸前期、将軍によって御所近くの土地が与えられた梶井門跡は、再び洛中に移ります。明治になると、門跡は還俗し、梨本宮家となります。仏像などは再び大原の政所に移され、三千院と称することになりました。なお、その際、近隣の往生極楽院も寺の一部として取り込まれています。

三千院に取り込まれた往生極楽院は、12世紀末に建立された天台宗とは無縁の寺でした。しかし、今や、国宝・阿弥陀三尊像、そして重要文化財のお堂は、三千院を象徴しています。阿弥陀如来像は、高さ2.3m、やや前屈みになった大和坐りで、船底天井の空間を目一杯占める様は、実に圧倒的です。にも関わらず、入母屋造のお堂は小振りで、そのアンバランスが見事だと思います。そして、その苔むした前庭は得も言われぬ静かな風情を漂わせます。これが見たかったわけです。半世紀ぶりゆえ、感慨もひとしおでした。三千院は、わらべ地蔵も有名です。かつてアメリカ人の友人から、地蔵を庭に欲しいがどこで買えるのか、と聞かれました。地蔵は売買するものじゃないと答えました。彼がイメージしていたのは、このわらべ地蔵だったのかと、今さらながらに気付きました。これなら買えます。悪いことをしたな、と反省した次第です。(写真出典:kyoto-design.jp) 

2026年10月19日月曜日

越後七不思議

新潟県には親鸞に関わる”越後七不思議”という伝承があります。例えば、本所七不思議などとは異なり、越後七不思議は、植物や魚といった自然界の希少種だけで構成され、見ようと思えば見れるものばかりです。親鸞聖人が、越後配流となったのは1207年のことです。律令時代には越後国の国府が置かれていた直江津、現在の上越市の居多ヶ浜に上陸してから、7年間を過ごしたとされます。配流から5年後に勅許の宣旨が出ていますが、親鸞は、しばらく越後に留まったわけです。越後は、佐渡島を中心に流刑地として知られ、順徳上皇、日蓮、世阿弥なども配流となっています。越後へ流された者のなかで、最も強い影響を残したのは親鸞だと思われます。ちなみに、新潟県の寺院の4割以上が浄土真宗となっています。

全国の仏教寺院数は、約76,000。宗派別に見れば、最も多いのが曹洞宗の14,600寺で約20%を占めます。次いで浄土真宗本願寺派が10,500寺で14%、真宗大谷派が8,800寺で12%と続きます。ただ、浄土真宗全体として見れば、21,000寺で28%となり最大勢力と言えます。北陸三県では7~8割が浄土真宗となっています。一向一揆の歴史を持つ国々ですから、当然と言えば当然です。北陸に一向宗(浄土真宗)が多い理由は、紛れもなく、本願寺中興の祖とされる蓮如の功績ということになります。比叡山延暦寺の迫害を受けた蓮如は、越前吉崎に吉崎御坊を建立し、北陸一円、遠くは奥州まで門徒を広げています。それが一向一揆へとつながり、百年に渡る“百姓の持ちたる国”を実現していくことになります。新潟県に浄土真宗が多いのは、親鸞の影響ばかりではないのでしょう。

さて、越後七不思議ですが、以下の通りとなります。

逆さ竹 枝が下向きに生える枝垂れタケ。親鸞が竹杖を逆さに土に挿したものに根が生えたとされます。天然記念物にも指定されています。

焼鮒 親鸞が焼いた鮒を池に戻すと生き返ったとされ、以降、焦げ目のような模様を持つ鮒が捕れるようになります。

八房の梅 ひとつの花に八つの実がなる梅ですが、親鸞が梅干しの種から育てたとされます。ただ、八房の梅は他にもあるようです。

珠数掛桜 親鸞が桜の枝に数珠を掛けると、花が数珠つながりに咲くようになったとされます。天然記念物に指定されています。

三度栗 一年に三度花が咲き、三度実がなる栗です。親鸞が焼栗を植えて育てたとされます。

繋ぎ榧 糸を通したような穴のある実がなるカヤの木ですが、やはり天然記念物に指定されています。農民が年貢代わりに納めた糸でつないだ榧の実を、親鸞が植えたとされます。

片葉の芦 葉が片側にだけ伸びる芦。親鸞が祈ったところ、片葉になったとされます。実は、本所七不思議の一つにも”片葉の芦”があります。

確かに珍しい品種ばかりなのでしょうが、親鸞との関わりは後付けとしか思えません。逆に言えば、それほど当地で親鸞が尊敬を集めていた証左ということになります。法然が開いた浄土宗は、南無阿弥陀仏と唱えれば、阿弥陀仏に救われ、極楽浄土へ往生できると説きます。末法とされた世にあって、鎮護国家の宗教だった仏教を個人救済の宗教に変えたとされます。法然の高弟であった親鸞は、法然の他力本願をさらに進め、絶対他力、つまり、修行ではなく阿弥陀仏の力によって信心が生まれ、往生できるとします。いわゆる念仏為本から信心為本へ、出家中心から在家中心への展開です。まさに宗教革命であり、浄土真宗が人々に熱狂的に受入れられたのも頷けます。仏教ではありますが、一神教に近いと言うこともできます。越後七不思議は、親鸞というよりも、阿弥陀仏の御業ということなのかもしれません。(写真出典:hongwanji.kyoto)

2026年10月17日土曜日

迎賓館

迎賓館とは、国が国賓を接遇するための施設であり、日本では、内閣府の施設等機関として、迎賓館赤坂離宮と京都迎賓館の二ヶ所が設けられています。赤坂離宮は、紀州藩邸跡に建ちます。明治宮殿完成までの一時期、仮皇居が置かれていました。現在の建物は、東宮御所として1909年に竣工しています。しかし、明治天皇のお気に召さなかったことから、東宮としては使われず、離宮とされました。その後、裕仁親王(後の昭和天皇)が東宮として使った時期もありました。1960年代に入ると海外からの賓客が増えます。そこで、離宮は迎賓館として整備されることとなり、1974年、現在の姿になっています。設計は、ジョサイア・コンドルの弟子で京都国立博物館などを設計した片山東熊。脱亜入欧の思想に基づくネオ・ゴシック様式の宮殿となっています。

実に立派な建物であり、意匠も見事なものです。国宝にも指定されています。ところが、どうもしっくりこないところがあります。明確に、何が問題かは答えられないのですが、映画のセットのような違和感、あるいは借物感を感じます。日本の古い洋館がすべてそうだというわけではありません。例えば、赤坂離宮の前に迎賓館として使われていた旧朝香宮邸、現在の東京都庭園美術館などは、是非とも住みたいと思うほど好きな建物です。明治天皇がお気に召さなかった理由は分かりませんが、やはりしっくりこなかったのではないかと想像します。それが理由とは思いませんが、2005年、純和風の京都迎賓館が開館しています。公式には、日本の歴史や文化を象徴する京都で賓客をもてなし、日本への理解と友好を深めるために建設されたということになります。

1990年代初頭、平安建都1200年を記念し、地元から国へ和風迎賓館を求める動きが起こり、1994年に建設が閣議決定しています。京都御苑内の北東部、御所の東に、地上一階、地下一階の純和風平屋建築として建てられました。2016年から、限定的ながら一般公開も行われています。希望者は、事前に宮内庁へ申し込む必要がありますが、空きがあれば当日参観も可能です。一般参観は、一日当たり360名に限定され、基本的には90分のガイドツアー方式で行われます。見てみたいと思っていましたが、今般、初めて参観してきました。日本の建築、造園、工芸における伝統技法の粋が集められ、現代技術によって支えられている最高級の施設だと感得しました。京都御苑内にあり、築地塀を巡らせた施設は、まさに日本の迎賓館に相応しい建築だと思いました。

最も印象に残ったのは、桐の間、水明の間、そして庭園でした。桐の間は、56畳の掘炬燵形式の和室宴会場です。随所にレベルの高い意匠が施されていますが、とりわけ座卓は長さ約12メートルの等厚合板に漆黒の蝋色漆塗りの逸品です。ちなみに、料理は、京都の複数の老舗料亭が請け負い、京料理を出すようです。次の間もしつらえてあり、芸子舞子の踊りや邦楽の演奏が披露されることもあるようです。正直なところ、これほどの座敷は存在するわけもなく、間違い無く日本一の高級料亭だと思いました。水明の間は、首脳会談などが行われる最も格式の高い部屋であり、平生は非公開です。ラッキーなことに、たまたま、メンテナンス中だった夕映の間の代替として参観させていただきました。池に張り出して作られ、庭の緑や水面の光を取り込む特別な部屋です。

水をテーマとする水明の間では、意匠も水に関連したものが多く配されています。天井は舟天井であり、小振りなシーリング・ライトが多く配されています。ただ、和紙と組子をイメージした天井のモダンな細工が光を和らげています。椅子は、波立涌文様の西陣織が置かれています。そして、青海波の段通は所々切り込みが入れられ、立体感を出しています。これほどのものは山形のオリエンタル・カーペットにしか出来ないだろうと思いましたが、調べて見ると、案の定でした。庭は、京都の老舗”植藤”の第16代 佐野藤右衛門の作庭です。伝統的な日本庭園の様式をしっかり踏襲しつつ、かつて何かに使われていた石材を用いるなど随所にモダンなアイデアが活かされた庭になっています。池を取り囲むように作られた京都迎賓館は、水の迎賓館でもあります。(写真出典:ja.kyoto.travel)

2026年10月15日木曜日

ラーガ

60年前のことですが、植草甚一が、シタールが好きな男なんぞ、ホモに違いない、と書いていました。今なら、突っ込みどころ満載な不適切発言です。1960年代、シタールはブームの様相を呈していました。ブームを牽引したラヴィ・シャンカールは、タブラ奏者のアラ・ラカと共に、世界を巡り、西洋音楽と共演するなど、インド音楽の認知を高める活動をしていました。折からのサイケデリック、東洋思想ブームにシタールの音色がマッチし、若者たちが飛びつきブーム化したわけです。ただ、当のラヴィ・シャンカールは、そのことを良く思っていなかったようです。インド音楽とロック、インド文化とヒッピー文化は相容れないとして、ウッドストックを最後に、ロック・フェス出演を拒否します。ただ一つの例外は、自らが提唱したバングラデシュ難民救済コンサートであり、チャリティ・コンサートの先駆けとなりました。

ラヴィ・シャンカールの娘で、当代随一のシタール奏者といわれるアヌーシュカ・シャンカールのライブをブルーノートで聴きました。ビッグ・ネームゆえミュージック・チャージは高いものの、今年、一番退屈なライブでした。父親は、インド文化の素晴らしさを世界に伝えようとしましたが、娘は西洋文化にすり寄ってインド文化を安売りしているように思えます。シタールで味付けしたイージー・リスニングといった風情の音楽です。それを知った上でライブに行ったのは、さすがに伝統的な演奏も行うのだろうと期待したからです。ラーガの伝統に則った即興演奏も聞かせましたが、ごく限られたものでした。近年のアルバムに収録された曲など、あえてシタールの特徴を消しているようにも思え、まるでチェット・アトキンスの演奏を聴いているようでした。

ジャズ、サンバ、ソンなどは、西アフリカ音楽と西洋舞曲が融合した音楽とされます。二つの文化が交差すれば、新しい文化が生まれます。しかし、事はそう簡単でもありません。いずれかをメインに挿し木を行えば、味付けや彩りが変わるだけで融合とは言えません。アヌーシュカの音楽は、このレベルに留まっているということです。それが証拠に、新たなジャンルが生まれたわけでも、フォロワーが存在するわけでもありません。ビートルズ、ストーンズ等が、一時期、こぞって取り入れたインド・テイストとさほど変わらないように思います。欧米人に媚びてエキゾチシズムを強調した商業的要素の強い音楽に聞こえます。もっとも、本人的には、父親と同様に、インド音楽を世界に伝える活動の一手法と信じて行っていることなのかもしれません。

インド音楽にロック要素を入れた例として、1980年代のイギリスのバンド”モンスーン”があり、ヒット曲も生まれますが、すぐに飽きられました。その後も、インド風バンド、あるいはインドのロック・バンドも登場しますが、ジャンルが確立されることはありませんでした。最も成功しているのは、インドの伝統的な感性に西洋音楽の技法を巧みに取り入れたボリウッド映画の音楽かもしれません。ジャズやサンバは、楽譜の上で論理的に生み出されたわけではありません。演奏者が、即興で演奏している最中に、偶然、新しいグルーブを見つけ、他の多くの演奏者が、それにアイデアを加えることで体系化されていきます。それぞれの体内にあった感性が、欧州舞曲という新しい刺激を受けて生まれたスポンテニアスな音楽だったとも言えます。

シタールとタブラは、13世紀イスラム王朝のスルタンに仕えた大詩人アミール・ホスローが生み出したとされます。 ペルシャ由来の3弦楽器セタールとインド古来の楽器ヴィーナが合体して生まれたとされます。ヒンドゥーとイスラムの融合例なのかもしれません。インド音楽は、数百に及ぶとされる旋法のラーガと数十のリズムのターラで構成されます。ヴェルクマイスターやバッハが生み出した西洋のハーモニーとは、全く異なる、より高度な精神性を備えています。シタールとタブラさえあれば、ラーガとターラは、ヒンドゥーの全宇宙を表現できます。完全性を有するラーガとターラが、わざわざへりくだって、より簡便な音楽に合わせる必要性などなく、そもそも無理があります。インド音楽とバッハの西洋音楽が融合することなどあり得ないと思います。それにしても、名手アヌーシュカ・シャンカールのラーガを聞いてみたいものだと思いました。(写真出典:en.wikipedia.org)

2026年10月13日火曜日

桂離宮

父親から、桂離宮だけは見ておけ、と何度も言われていました。桂離宮は、17世紀初頭に八条宮家の別邸として創設され、現在は宮内庁が管理しています。八条宮家は、正親町天皇の孫で、誠仁親王の第六王子だった智仁親王に始まります。智仁親王は、秀吉の猶子として関白職が約束されていました。しかし、秀吉に実子が誕生したことから解約となり、秀吉によって八条宮家が創設されています。創設経緯もあってか、当時の八条宮家は宮家最大の石高を誇っていたようです。智仁親王は、若い頃から文芸に優れ、細川幽斎から古今伝授を受け、後に甥の後水尾天皇に相伝し、御所伝授が始まったとされています。また、馬術、琴、蹴鞠にも優れていたようです。その多彩ぶりは造園にも及び、桂離宮の庭園として結実したわけです。

日本三大庭園は、金沢・兼六園、水戸・偕楽園、岡山・後楽園とされます。いずれも回遊式の大名庭園であり、広大な面積を持ちます。対して桂離宮の庭園は随分と小振りですが、日本の庭園の最高傑作とされます。縮景、借景、見立てといった自然を活かす設計、狭さを感じさせない遮蔽の技、そして書院や茶室といった建造物との調和が完璧に計算されています。日本の庭園は、自然との調和や畏敬を基本に自然が再構成されます。西洋庭園は、人間が自然を制圧したかのような人工的設計になっています。昨今、日本一とされる足立美術館の庭園は、日本画の世界を具現化したものであり、日本と西洋の庭園思想の中間的な存在だと思います。そもそも足立美術館を20年以上日本一に選出しているのは、アメリカの日本庭園専門誌というマイナーな雑誌に過ぎません。

桂離宮は、まさに日本の造園思想や技術の粋が結集された最高傑作です。ドイツの建築家ブルーノ・タウトをして「泣きたくなるほど美しい」とまで言わしめています。その設計の背景にあるのが月見という伝統です。桂の地は、平安時代から月見の名所として名高く、貴族の別荘が多い土地柄だったようです。桂離宮も、月見の客人を迎え入れ、庭園を回遊させ、書院で宴を行うために設けられたのでしょう。書院からの眺めは、中秋の名月が昇る位置が計算され、池に映り込む月を楽しむ設計がされています。平安時代の国風文化は、自然を愛でる文化ですが、とりわけ月を楽しむ文化だったとも言えます。中秋の名月は中国伝来の慣習ですが、国風文化には、後の名月、十三夜があります。少し欠けた月に風情を感じる、まさに”いとをかし”の世界というわけです。

古書院には、竹で組んだ月見台が設けてあります。ここから、中秋の名月だけではなく、後の名月も愛でたものなのでしょう。宮内庁は、年に一度、中秋の名月の夜、桂離宮観月会を開催しています。桂離宮の観覧は庭園のガイドツアーのみとなっておりますが、観月会の夜だけは月波楼に上がることができます。また、書院には灯りがともされ、一段と風情が増すようです。観月会に参加するためには、平素の観覧と同様に、まずは宮内庁に申し込みます。当然のことながら、抽選があります。問題は、当選人数です。わずか64人とのこと。申込は100倍を超えるようです。一ヶ月以上前には当落が発表されるようですが、遠方からの参加は難易度が高いと言えます。一度、貴族の気分で桂離宮の月を観賞してみたいものですが、まず無理と思うべきなのでしょう。

王朝文化の風情を色濃く残す桂離宮ですが、建造されたのは平安中期から500年近く後のことになります。とは言え、古今伝授まで受けた智仁親王は、王朝文化に生きた人なのでしょう。智仁親王の意向が反映されているとしても、実際の作庭は、長らく小堀遠州が行ったとされていたようです。ただ、現在は遠州の義弟や門下という説が有力とされます。一本の切石を用いた反りのない松琴亭の石橋、すべて角のある切石で組まれた”真の飛石”など、直線を用いるあたりは遠州好みとされます。また、限られたスペースに奥行きを与える遠近法の活用なども、西洋の影響を指摘される遠州らしい作庭にように思えます。素朴な外観の松琴亭では、斬新な市松模様の襖が目を引きます。日本の伝統の集大成のような桂離宮ですが、斬新さも取り入れられているわけです。(写真出典:chukei-online.com)

2026年10月11日日曜日

テーマパーク

2024年のテーマパークの入場者数ランキングを見ると、第1位はフロリダのディズニー・ワールドにあるマジック・キンダム、第2位にはカリフォルニアのディズニー・ランドが続きます。そして、大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)が、他のディズニー系テーマパークを抑えて3位に躍進していました。マーケティング的に見れば、テーマパークはリピーター戦略の典型です。リピーターを確保するコストは、新規顧客を獲得するコストに比べて相当低くなります。リピーター戦略は効率的ですが、リピーターの信用を高く維持する努力に加え、新鮮さを失わないための投資も求められます。テーマパークで言えば、新しいアトラクションの投入が代表例となります。加えて、USJは、アニメとのコラボといったキャンペーンを次から次へ投入し、プロモーション面でも大きな成功を得ています。

テーマパークは、アミューズメント・パーク(遊園地)のサブ・ジャンルなのでしょう。特定のテーマやコンセプトで、アトラクションや飾付を統一し、来場者を非日常的な世界へ没入させる仕組みです。従業員の衣装や接客などにも没入感を高めるためのきめ細かな工夫がなされています。物販にも良い効果が得られます。ディズニーのアニメの世界を具現化したディズニー・ランドは最も成功した例なのでしょう。一方のユニバーサル・スタジオのテーマは、ユニバーサル映画です。あまりにも幅が広いので、テーマへの訴求は薄くなります。テーマパークというよりも特色あるアミューズメント・パークというべきだと思います。テーマへの訴求の弱さは、様々なコラボ・キャンペーンの展開しやすさにつながります。弱みを逆手にとって成功したのがUSJです。

アミューズメント・パークは、定義次第ではありますが、古い歴史を持っています。その原型は、ロンドンのバーソロミュー・フェアだとされます。もともとは布市だったようですが、1133年、王の勅許を得て、夏の一時期、修道院の庭で様々な物品が取引されました。多くの人が集まるようになり、食べ物屋、見世物小屋、芝居小屋なども立つようになります。欧米では、今でも期間を限定した移動遊園地が盛んに開園されています。アメリカのカウンティ・フェアやストリート・フェアも典型な例です。常設のアミューズメント・パークの祖先は、一般公開された庭園とする説もあります。だとすると、その歴史は古代ローマにまでさかのぼります。常設型アミューズメント・パークの始まりは、デンマークのディレハフスバッケン、通称バッケンとも言われます。

1583年、コペンハーゲン郊外に天然の泉が発見されます。当時、コペンハーゲンは水質が悪かったので人々が引き寄せられ、大道芸人や露天商も集まるようになり、やがてアミューズメント・パーク化したようです。18世紀頃には、ウィーンのプラーター公園、コペンハーゲンのチボリ公園など庭園から発展したアミューズメント・パークが広がり、19世紀には、乗り物系アトラクションが主役となることで大衆の人気を集めることになります。その背景には、産業革命がありました。乗り物の動力が開発されたこと、都市部の工場へと労働力が集中したこと、そして万国博覧会の開催が大きな契機になりました。万博は、1851年のロンドンに始まりますが、1893年にシカゴで開催された万博が、現在のアミューズメント・パークの先駆けになったとされます。

日本には”テーマパーク”と呼ばれるものが、実に多く存在します。そして、同じくらい多くの”テーマパーク”が潰れています。その一つに新潟県の柏崎トルコ文化村があります。1996年、後に破綻する新潟中央銀行主導でオープンし、2004年に閉じられました。閉園数ヶ月前に行ったことがあります。悲惨なほどにしょぼい施設でした。トルコ村には総額で75億円が投じられています。潰れた”テーマパーク”のなかには自治体の資金が投入されたものも少なからずあります。なぜ、こんなものがビジネスとして成立すると思ったのか、不思議でなりません。”テーマパーク”ブームの背景として、バブル経済とリゾート法が挙げられます。総合保養地域整備法、通称リゾート法は、1987年に内需拡大策として施行されています。バブル景気に浮かれていましたでは済まされない政治的問題のように思います。(写真出典:travel.rakuten.co.jp)

2026年10月9日金曜日

小督

能楽「小督(こごう)」は、中秋の名月の嵯峨野を舞台としていることから、秋の定番演目であり、嵯峨野の秋の気配を感じさせる人気の演目でもあります。実在した小督局は、信西(藤原通憲)の孫にあたります。高倉天皇の寵妃であり、美しいだけでなく、箏の名手でもあったとされます。高倉天皇の中宮は平清盛の娘・徳子です。小督局は、高倉天皇に愛されたことから、平清盛の怒りに触れ、東山の清閑寺で出家させられています。後のことですが、病を得た小督を、藤原定家が清閑寺に見舞ったという記録も残っているようです。能楽「小督」は、平家物語に基づいており、史実とは異なっています。能楽の小督は、清盛を恐れて、自らの意志で嵯峨野に隠棲します。

小督を忘れられない天皇は、行方を捜させます。そして、小督が嵯峨野の片蔀(かたしとみ)の家に隠棲していることを知ります。天皇は、源仲国に文を託し、馬を与えて嵯峨野へと走らせます。乏しい手がかりゆえ、小督の住まい探しは難儀します。折しも十五夜だったことから、小督は、天皇を想いながら、箏で「想夫恋」を奏でます。笛の名手でもあった仲国は、その音が小督の箏であることに気付き、片蔀の侘び住いを訪ねます。小督は面会を拒みますが、勅命であること、仲国の決意が固いことから、仲国と会います。仲国は小督に天皇の文を渡し、小督も返書を仲国に渡します。小督は、帰ろうとする仲国を止めて酒を振る舞います。仲国は万感の思いを込めて男舞を舞います。そして、小督が見送るなか、馬にまたがり都へと帰っていきます。

小督を観ると、いくつかの疑問が浮かびます。まずは、なぜ仲国の視点なのかということです。シテは仲国であって、小督ではありません。一説によれば、小督のメイン・テーマは秋の嵯峨野の風情であり、悲恋ではないから、ということになります。小督をシテとすればドラマ性が強まるので、あえて仲国をシテにしているというわけです。小督の作者は、長く金春禅竹とされていたようですが、今は否定され、作者不詳となっています。確かに、緻密にドラマを織り上げる金春禅竹の作風とは異なるように想います。しかし、秋の嵯峨野の風情を謡いたいというのであれば、わざわざ、ドラマ性が色濃く滲んでくる平家物語ものをプロットに選ばないようにも想います。ドラマ性を薄めるために、仲国をシテにするといった回りくどいプロットも選ばないように想います。

高倉天皇の治世と言えば、平清盛の娘である徳子が中宮となり、安徳天皇が生まれ、清盛が天皇の外戚になるという平家の絶頂期と重なります。能楽「小督」の登場人物は、すべて、平氏と対立した後白河院につながる人々です。平家の傀儡と言われることの多い高倉天皇は後白河院の子であり、父親同様、平家とは相容れなかったという説もあります。小督の祖父の信西は、平家を取立てますが、後白河院側近として平家と対立した人として知られます。そして、仲国も後白河院の近習だった人です。作者が描きたかったのは、悲恋のドラマでなかったことは明らかですが、メイン・テーマは、秋の嵯峨野の風情ではなく、武家の前に陰り行く公家社会の悲哀だったように思います。それを表現するに、秋の嵯峨野のもの悲しさが相応しかったといことなのでしょう。

よって、舞台は東山から嵯峨野へ、小督を見舞った藤原定家は仲国へと翻案されたのでしょう。実際の仲国は、複数の国司を務め、刑部大輔、院細工所別当も務めています。ただ、御廟建立を唱えると、人を迷わす妖言とされ、配流されました。なお、仲国が笛の名手という記録はないようです。むしろ、高倉天皇こそ笛の名手として知られていたようです。仲国の弟には仲章がおり、鎌倉幕府で活躍し、源実朝が暗殺された際、共に殺されています。高倉天皇の中宮・徳子は、平家一門が滅亡した壇ノ浦で入水しますが、助けられて、一門で唯一の生存者となります。出家して建礼門院となり、大原の寂光寺で、夫・高倉天皇、子・安徳天皇、そして一族を弔う日々を送りました。平家物語には、隠棲の地として嵯峨野がよく登場します。往時は、人家もまばらな野原だったのでしょう。しかし、実際の小督には無縁の地だったということになります。(写真出典:the-noh.com)

大原の里