2026年2月22日日曜日

武相荘

白洲次郎は、敗戦後、吉田茂首相に請われて閣僚となり、その後、東北電力の会長職を務めるなど財界人としても活躍した人です。名のある人ではありますが、歴史的偉業を成し遂げたわけでもなく、著作があるわけでもなく、教科書に名前が載るような人ではありませんでした。ところが没後、1980年代後半から、にわかに知名度を高め、戦後日本を救った人くらいの言われ方をするようになります。まさにブームと言ってもよかったと思います。時は、まさに日本がバブル経済を駆け上がっている頃でした。富豪の家に生まれ、ケンブリッジに留学し、高級外車を乗り回し、ゴルフが上手で、ファッションにもうるさい美男子は、没後とは言え、時代が見出したアイコンだったのかもしれません。

白洲次郎の祖父・白洲退蔵は、三田藩の儒官の家の生まれながら、幕末の混乱期、藩主に見出されて家老格にまで上りつめた人です。その後、横浜正金銀行の頭取も務めています。父親の白洲文平は、ハバード大学、ボン大学に学んだ後、白洲商会を立ち上げ、綿貿易で巨万の富を築きあげた人です。いわば白洲家は、幕末・維新の変革期にあって、一気に上昇気流に乗った家だったと言えるのでしょう。白洲次郎は、1902年に生まれています。出生地は東京とも芦屋とも言われているようです。幼少期から、祖父が設立した神戸女学院の外国人教師から英語を学んでいたようです。長じて神戸一中に入学。学生ながら、アメリカの名車ペイジ・オートモビル・グレンブルックを乗り回していたようです。卒業後はケンブリッジへ留学します。

ケンブリッジ時代は、豊富な仕送りを背景に、貴族を含む英国の上流社会の子弟たちと交流します。英国紳士を範とする白洲次郎の信条や生活スタイルはここで形成されたわけです。ここでも名車を乗り回し、大陸のドライブ旅行も行っています。しかし、父親の会社が、昭和恐慌で倒産したため、帰国を余儀なくされます。帰国後は英字新聞の記者や、コネで外資系商社の役員に就任します。この間、華族出身で、米国留学経験も持つ樺山正子と結婚します。戦時中は、鶴川村(現町田市)に「武相荘(ぶあいそう)」を建て、世間とは一線を画した生活を送ります。武相荘とは、武蔵国と相模国にまたがる地にあることと無愛想をかけています。洒落た名前をつけたものです。次郎としては、英国貴族のカントリー・ライフを気取ったという面もあるのでしょう。

戦況が厳しくなると、次郎にも召集令状が届きます。次郎は、英国留学時代に知り合った東部軍参謀長に依頼し、これを握りつぶしています。白洲次郎が政治家にならなかった一因は、この一件が選挙で不利に働くと思ったからではないでしょうか。敗戦後、次郎は、面識のあった吉田茂外相の要請によって終戦連絡中央事務局の参与に就任します。語学力はもとより、ケンブリッジでの経験や交流を踏まえれば、アメリカ人にも臆せず折衝できる逸材でした。GHQをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたという逸話が残ります。その後、吉田内閣の貿易省長官として通商産業省設立などに辣腕を振い、1951年、東北電力会長へ転身しています。政治家を目指さない次郎は、吉田茂にとって誠に使い勝手の良い人材だったとも言えそうです。

白洲次郎の夫人である白洲正子は随筆家として、多くの書籍を著わしています。そのテーマは、能楽、古美術、工芸と幅広く、その確かな審美眼で多くの読者を魅了した人です。なかでも「かくれ里」(1971)は、紀行と古美術が一体となった傑作だと思います。私も、いつか「かくれ里」のルートをなぞってみたいものだと思っています。白洲正子は、多くの時間を武相荘で過ごしたようですが、白洲次郎は赤坂のマンションを拠点に活動していたようです。やはり、英国紳士流の生活を目指していたと言えるのでしょう。白洲次郎は、希に見るほど魅力にあふれた人だったのだろうと想像します。豪快な逸話、おしゃれな逸話も多く残されています。しかし、繰り返しになりますが、教科書に載るような人ではなかったと思います。(写真出典:buaiso.com)

2026年2月20日金曜日

五穀

アワ
豊作を祈願する際などに「五穀豊穣」という言葉をよく聞きます。五穀とは、米をはじめとする穀物類だと理解していますが、正しくは何を指しているのか知りませんでした。五穀とは、米、麦、粟(アワ)、黍(キビ)、稗(ヒエ)のことです。米・麦以外は、馴染みが薄いわけですが、古代の日本では重要な穀物であったことが想像できます。アワと言えば、おせち料理の定番コハダの粟かの子、神田須田町「竹むら」の名物あわぜんざい、キビについては、桃太郎のきびだんごくらいしか思いつきません。ただ、現代のきびだんごは、餅粉から作る求肥が主であり、キビは、ほぼ入っていないようです。ヒエに至っては、貧しい食べ物というイメージがあるばかりで、口にしたことすらありません。

アワは、米よりも早く伝来した日本最古の穀物とされます。既に、縄文時代には栽培されていたことが明らかになっています。生育期間が短く、痩せた土地や寒冷地でも育つことから重宝されたのでしょう。アワの原産は中国とされます。中国北部では、8千年以上前から栽培されていたようです。それがアジア、ヨーロッパ、アフリカへと広がっていきます。なお、考古学上、世界最古の麺とされているのは中国北部で発見されたアワの麺だそうです。日本では、稲作の伝来とともに、アワの栽培は減っていきます。ただ、稲作に適していない寒冷地や山間地での栽培は続きました。現在の栽培量は限られており、主に飼料とされているようです。ちなみに「濡れ手に粟」という慣用句は”濡れ手に泡”と誤解されがちですが、濡れた手に小粒なアワがよくつく様を表しています。

キビの歴史は、アワよりも古く、中国北部では12,000年前から栽培されていたようです。ただ、日本には、米、アワ、ヒエより遅く、弥生時代の初期に伝来したとされています。日本では、実が黄色いことから黄実(キミ)と呼ばれ、キビになっていったようです。アワよりも生育期間が短く、乾燥地や痩せた土地でも育ちます。原産地は不明ですが、ユーラシア大陸から世界中に広がったようです。一方、中国原産のヒエは、既に縄文時代には渡来し、米やアワと同様に主食穀物として栽培されていたようです。特に寒冷地では、冷害に強い穀物として、近代に至るまで栽培されていました。アワやヒエは、稲作に適さない地で多く栽培されていたので、米も食べられない貧しい地域の食糧というイメージが強く、蔑まされてきた歴史もあります。

そうした蔑視の風潮が物語るように、歴史も古く主食格だった粟(アワ)、黍(キビ)、稗(ヒエ)は、時代とともに米に駆逐されていったということになります。高温多湿を好む稲が日本の気候に適していた、栽培には手間がかかるものの生産性が極めて高い、他の穀物に比べて収穫後の手間がかからない、そして何よりも甘味があって食感も良いことが一人勝ちの要因だったのでしょう。日本の社会や文化は、稲作と米をベースとして形成された文化です。また、日本の歴史は、新田開発と稲の品種改良の歴史だったとも言えそうです。山間地や寒冷地でも水田が営まれていきます。ただし、稲作一辺倒の農業は、しばしば、凶作、それに伴う飢饉を生じてきました。その際、多少なりとも飢えをしのぐために役だったのは、皮肉にも、アワ、ヒエ、キビでした。

古くから稲作一点集中のリスクを唱えた人は多くいたものと思われます。そのなかで最も有名なのは二宮尊徳なのではないでしょうか。二宮尊徳と言えば、薪を背負い読書しながら歩く二宮金治郎像で有名ですが、江戸後期、飢饉で荒廃した農村、あるいは財政破綻した藩の立て直し等に取り組んだ経世家、思想家です。凶作・冷害への対策として、アワ・ヒエの作付けを指導したとされています。しかし、全国的には、社会や経済にしっかり組み込まれた稲作からの展開は進まず、飢饉の発生は止められませんでした。自らの努力で国に献身的に奉公する国民の象徴として全国に建てられた二宮金治郎像も消えつつあるようです。近年に至り、健康指向の高まりから、食物繊維、タンパク質、マグネシウムなどの栄養素を豊富に含む雑穀が注目されており、生産も上向いているようです。(写真出典:kotobank.jp)

2026年2月18日水曜日

チリ・コン・カーン

スプーンの持ち方は、柄を下から持つ下手持ちが一般的です。下手持ちは、手首を返す必要があります。幼児にはこれが難しく、どうしても上手持ちになります。上手持ちで食べようとすると安定感に欠けることになり、幼児はよくこぼすわけです。昔の西部劇を見ていると、カウボーイたちが野営地で食事をする際、豆料理を上手持ちで食べている姿を見かけます。それがカウボーイ・スタイルというほどでもなく、彼らの行儀の悪さや品の無さを演出しているのでしょう。ところが、この食べ方が、実に美味そうに見えるのです。有楽町のガード下に昔からある「COWBOY-BAR BORO」のチリ・コン・カーンはなかなかの代物です。皆で食べる時には、スプーンをカウボーイ持ちにしろ、と強く勧めていました。

チリ・コン・カーンの源流はメキシコ料理ですが、テキサス州で生まれたテックス・メックスとされることも多く、テキサス州は州の公式料理と定めています。それどころか、今やアメリカの国民食の一つと言ってもいいのかもしれません。スペイン語でコン・カルネは”肉入り”を意味するので、肉のチリ煮込みといったところなのでしょう。チリ・コン・カーンは、主に牛ひき肉、そして豆、たまねぎ、トマト、チリ等を煮込んだ料理です。豆の印象が強いものの、ガンボー、フェジョアーダ、もつ煮込み等と同系列の料理だと思います。そのままだけでなく、チーズをかけたり、トルティーヤにはさんだり、ナチョスを添えたりと様々な食べ方があります。ただ、チリ・ドッグは外せません。とても食べにくいのですが、幸せな気分になれます。

人生最高のチリ・コン・カーンは、テキサス州サン・アントニオの運河沿いのチリ・パーラーで食べたものです。頭の中にあったチリ・コン・カーンの理想の味でした。1893年に開催されたシカゴ万博の会場に出店されたサン・アントニオ・チリ・スタンドが大人気となり、チリ・コン・カーンが全米に知られることになったと聞きます。サン・アントニオは、チリ・コン・カーンの聖地の一つでもあるわけです。店で売っていたチリ・パウダーも買って帰ったのですが、結局、家で作ることはありませんでした。チリ・コン・カーン作りは、結構ハードルが高いと思います。NY郊外では材料が手に入りにくいのです。日本では、なおさらです。ネット上には、レシピが多く出ていますが、材料を見た瞬間、これは違うな、と思ってしまいます。

文献上、チリ・コン・カーンの源流とも言える料理は、16世紀のメキシコで唐辛子を入れたシチューとして登場しているようです。17世紀からは、タサホと呼ばれる塩漬けの乾燥牛肉、現代で言えばビーフ・ジャーキーですが、これと唐辛子を煮込む料理が広がっていき、カルネ・コン・チリと呼ばれていたようです。チリ・コン・カーンが、メキシコ料理かテックス・メックスかの議論のポイントが、ここにあるように思います。つまり、メキシコ伝統のチリ・コン・カーンは豆を入れないとう説があります。それが、テキサスで豆が入ったことで現在のチリ・コン・カーンが誕生したというわけです。まぁ、どっちでも良いような議論ではありますが、個人的には、チリ・コン・カーンと言えば、やはり豆が主役だろうと思っています。

カウボーイの話に戻りますが、19世紀後半になると、チャック・ワゴンと呼ばれる料理用の幌馬車が登場します。チャックと呼ばれる料理人がカウボーイたちに食事を提供します。チリ・コン・カーンなどの豆料理に添えられたのが、サワードウ・ビスケットです。乳酸菌発酵を使って簡単に焼けるビスケットですが、長時間熟成すれば酸味の強いサワードウ・ブレッドを焼けます。これがチリ・コン・カーンにはよく合うように思います。辛味と酸味がマッチするのかもしれません。サワードウ・ブレッドは、サンフランシスコ名物ですが、ゴールド・ラッシュのおり、金鉱堀りがよく食べていたことが起源と聞きます。日本のパン屋でサワードウ・ブレッドを見かけることはありません。ただ、ライ麦の含有量が多い黒パンは、同じ乳酸発酵です。チリ・コーン・カーンのお供として、ライ・ブレッドも有りというわけです。(写真出典:en.wikipedia.org)

2026年2月16日月曜日

公職追放

公職追放、通称パージとは、敗戦後、進駐してきたGHQが、日本を徹底的に民主化するために、戦前に影響力を持った人々を公職から排除した政策です。いわゆる戦犯とされた5,700人とは別に、軍国主義の推進に相応の役割を果たした政治家、軍人、官僚、教育者、財界人、右翼、マスコミ関係者など約20万人が職を追われました。なかには、市井の町内会長等も含まれていたようです。法律に基づいているわけではないので裁判やオープンな審査は行われず、ひたすらGHQ民政局が指名し、退職金も手当等もないまま放り出されました。公職追放は、ドイツにおける非ナチ化政策を踏襲するものでした。ドイツでは、非ナチ化で公務員の1/3が解雇されています。

公職追放の政策意図は十分に理解できますが、見事なまでに人権を無視していると言えます。それだけに法的根拠や手続きの正統性が問われるところだと思います。占領下の日本は主権を奪われ、独立を失った状態にありました。とは言え、GHQによる統治はいわゆる間接統治であり、憲法はじめ日本の法律は停止されていたわけではありません。実態として、GHQの指令は国内法を超越していたということになりますが、その法的根拠は何なのか、よく分かりません。ここは今でも様々な議論があるようです。公職追放も、国際法だけでなく、GHQの規定上も、合法性が担保されていたのかどうか、よく分かりません、GHQが発した公職追放の指令には判断基準が明記されていますが、追放者選定に関しては、相当、恣意性が働く仕組みでもありました。

民政局には、左翼運動家等が押しかけて追放すべき人物を告発していたようです。吉田茂首相の気に食わない人物がパージされたという話もあります。GHQの若い民間スタッフまでもが候補者選定に関わっていました。オーストリア人である彼女の両親は戦時中の日本で冷遇されていたようです。つまり、公職追放は、魔女狩り、リンチの類いだったとも言えるのでしょう。いつ、誰が告発されるか分からない、自分もパージされるかもしれないという恐怖が広がり、人々は疑心暗鬼の状態に置かれたわけです。民主主義を目指すと言いながら、その手法は全体主義そのものだったわけです。戦前の軍国主義下で体制に異を唱えることは死を意味します。軍国主義の先導者、盲従者がいたことは事実ですが、多くは追従せざるを得なかった人々なのだろうと思います。

結論ありきの政治ショーだったアイヒマン裁判で、アイヒマンは官僚として命令に従っただけだと主張します。主導的であったか、追従的であったかの判断は微妙です。GHQ民政局も、そのことは十分以上に分かっていたはずです。だとすれば、公職追放や非ナチ化政策の真のねらいは、ファシズム的手法で社会にショックや恐怖を与え、一気にファシズムのマインド・コントロールを解くことだったのではないか、と思えます。正統と異端という二元論は、実に一神教的な手法だとも言えます。その効果は圧倒的だったように思います。アッという間に軍国主義や国粋主義は悪の権化となり、十分な審議もされずに追放された各界のリーダーの後には若い世代が台頭していきます。まるで手のひらを返したように浸透した”戦後民主主義”は、教育の成せる技のように言われますが、実は、それ以上に公職追放の影響が大きかったのではないかと思います。

GHQの間接統治の手足であった官僚に対する公職追放は限定的だったとも聞きます。ここにも、GHQの政策意図が見えると思います。公職追放は民主化を推進したわけですが、一方で、日本社会や経済の弱体化を招き、左翼の台頭を許した面もあります。GHQ参謀部は、当初から民政局の政策を懸念していたようですが、東西冷戦の構図が明確になるにつれ、軌道修正を始めます。レッド・パージと呼ばれる左翼の摘発に乗り出すなど、統治政策は180度変わっていきます。公職追放の解除は、1950年に開始されていますが、完全な終息は、1952年、日本が再独立を果たしたサンフランシスコ平和条約の発効を待たなければなりませんでした。しかし、公職追放の全面解除は、反共・防共体制構築を急いだという面もあり、十分な議論がないままに戦前の体制をそのまま復活させることにもなりました。(写真:GHQ民政局ケーディス次長 出典:ja.wikipadhia.org)

2026年2月6日金曜日

「ウォーフェア 戦地最前線」

監督:アレックス・ガーランド/レイ・メンドーサ  2025年イギリス・アメリカ

☆☆☆☆ー

イラク戦争時の一つの戦闘を、兵士の記憶に基づき、演出を一切加えず、タイム・フレームもそのままに再現したという実に希な映画です。音楽も一切排除し、銃声等にも加工を加えず、ひたすらにリアルさを追求しています。アレックス・ガーランドが「シヴィル・ウォー」を撮った際、軍事アドヴァイザーを務めたのがレイ・メンドーサでした。メンドーサは、この戦闘に通信兵として実際に参加していた海軍特殊部隊(ネイヴィー・シールズ)の隊員でした。脚本も監督もメンドーサを主に、ガーランドが補佐する形で行われています。撮影に際しては、一緒に戦った他の兵士たちも参加し、可能な限り忠実に戦闘を再現したようです。

2003年3月、アメリカを中心とする有志連合がイラクに侵攻し、イラク戦争が始まります。ハイテク兵器を大量に投入した有志連合は、わずか2ヶ月でイラク全土を制圧し、大規模戦闘終結宣言が出されます。しかし、イラクの正規軍は崩壊したものの、各地には抵抗勢力が残り、戦闘は継続されます。そんな中、2006年、西部アンバール県で県都ラマディの制圧を巡る戦いが勃発します。監視・支援任務に就いたシールズの小隊は、秘密裏に民家を占拠します。しかし、住民に気付かれ、アルカイダ系武装勢力に包囲・襲撃されます。負傷者が出たため、ブラッドレー歩兵戦闘車を呼んで搬送しようとしますが即席爆弾が爆発、小隊は、負傷者を抱えたまま籠城せざるを得ませんでした。最終的には、航空支援を受けながら、再度呼んだブラッドレーで脱出に成功します。

当初、有志連合は、湾岸戦争の半分という兵員数ながら、ハイテク兵器によるピンポイント攻撃でイラク正規軍を圧倒します。ただ、全国に残存する抵抗勢力との戦いでは、兵士の少なさが裏目に出ます。ラマディで米軍がとった作戦は、大規模な空爆ではなく、小隊や分隊を市内に分散浸透させ、制圧を図るというものでした。本作におけるシールズ小隊も、分隊単位で行動しています。兵士たちは、個々の任務に応じた銃やハイテク装備を装着しています。この頃から、米兵の通信のハイテク化が目立つようになりました。最も象徴的なのは、前線の兵士も、司令部と同じドローン映像を確認できるようになったことなのでしょう。一方、反抗勢力は、普段着にAKM自動小銃を持っているだけです。この違いが、破綻したアメリカによる統治を象徴しているように思えます。

これまでも、リアルな戦闘を描いた映画は、少なからずありました。ただ、リアルな戦闘シーンだけで構成される映画と言えば、リドリー・スコットの「ブラック・ホーク・ダウン」(2001)くらいしか思い出しません。実話に基づく作品でしたが、リアリティを高めるために相当脚色されていました。現実を忠実に伝える描写か 現実を的確に伝える描写か、実に微妙な問題です。製作サイドが、観客に伝えたいことを、より効果的に表現しようとすれば、一定の脚色は当然なのだと思います。ただ、本作は、一切の脚色を拒みつつ、なおかつ観客を惹きつける迫力を持っています。誠に希有な作品だと言えます。それを実現できたのは、レイ・メンドーサの細部へのこだわり、そして全体をコントロールしたアレックス・ガーランドの構想力なのだと思います。

本作は、米軍礼賛のヒーロー映画でもなければ、戦争の悲惨を伝える反戦映画でもありません。ただただ戦闘のリアリティを描き、それをどう判断するかは、観客に委ねてるとも言えます。イラク戦争自体は、開戦理由とされた大量破壊兵器が発見されなかったことから、批判されることの多い戦争です。まだ、見事に失敗したアメリカによるイラク統治は、イラク、ひいては中東全体に混乱を広げ、かつアメリカ軍兵士たちの死傷率を高め、PTSDに苦しむ多くの帰還兵を生みました。実際に起きた戦闘をリアルに再現しているとは言え、こうした問題を想起させる要素をも多く含む映画でもあります。(写真出典:imdb.com)

2026年2月4日水曜日

鉢木

能楽「鉢木」
老後には、ゆっくり鎌倉を散策したいものだと思っていました。ところが、なかなか実現しません。最大の理由は混雑です。十年ほど前、鶴岡八幡宮にほど近い小町の教会で先輩のお葬式があって行きましたが、鎌倉駅の人出の多さにひるみました。小町通りなどは明治神宮の初詣さながらの混雑でした。もともと東京に近い観光地として人気ではありますが、そこにインバウンド客が加わり、騒動レベルに達しているわけです。往時の「いざ鎌倉」という時にも、武士たちでこれくらい混み合ったことだろうと想像しました。“いざ鎌倉”とは、鎌倉時代、幕府に一大事が起これば、関東一円に散らばる御家人たちが鎌倉に駆けつけるという備えを象徴する言葉です。

実は、この言葉は能楽に由来するとされています。謡曲「鉢木」が上演されると評判を取り、浄瑠璃や読本に取り上げられ、明治以降は教科書にも載るほど好まれることになりました。大雪の夜、旅僧が一軒の家に宿を求めます。その家は貧しく、暖を取る薪も無かったので、主人は大事にしていた鉢木(盆栽)を切って燃やします。主人の佐野源左衛門常世は、領地を騙し取られ極貧の生活を送っていますが、”いざ鎌倉”という時に備え、くたびれた鎧、錆びた薙刀、痩せた馬だけは残していました。後日、幕府の号令がかかり、ドタドタながら鎌倉に駆けつけた常世でしたが、本陣に呼び出されます。上座に座っていたのは、あの日の旅僧でした。その正体は、僧の姿で世情を視察していた北条時頼でした。常世は、その姿勢が高く評価され、領地を安堵されます。

シンデレラ型サクセス・ストーリーの傑作だと思います。作者は、観阿弥、あるいは世阿弥という説もありますが、証跡がなく、作者不詳とされています。厳しい環境にあっても、誠実であり続ければ、いつか報われる、という教訓が語られています。さらに言えば、御恩と奉公で構成された武士社会の忠義、滅私奉公といった価値観を、端的に現わしているとも言えます。滅私奉公の精神は、軍国主義下、そして戦後の高度成長期へと受け継がれていきます。入社間もない頃、先輩たちは、夜10時まで働き、その後は皆で飲みに行き、帰宅するのは真夜中過ぎ。そして翌朝、満員電車に押し込まれ、再び会社へという生活を送っていたものです。家族を犠牲にして奉公した企業戦士たちの努力は、マイホーム、マイカー、家電などで報われたということなのでしょう。

その後、低成長の時代を迎えると、企業は従業員に等しく報いることが出来なくなり、滅私奉公という言葉は、全体主義的な色の濃い過去の遺物として批判され、消えていきます。企業の人事制度は、年功序列から能力主義、さらには実績主義へと変わっていきました。佐野源左衛門常世の忠義は、企業にチーム・プレイが求められる限り、今でも賞賛されることになります。ただ、戦場で実績を挙げない限り、常世の領地が安堵されることはありません。単一市場が拡大する成長期には、滅私奉公に代表される画一主義が企業の大きな推進力となります。しかし、新たな市場自体を開発していかざるを得ない状況下では、画一主義は機能しないどころか、ブレーキになる可能性すらあります。とは言え、鉢木の精神が染みこんだ日本人は、なかなか個人主義的にはなれない面がありました。近年に至り、ようよう若い世代に変化が見えてきたように思います。

「鉢木」の原典は、文献上、見つからず、フィクションだろうとされています。北条時頼が出家したことは事実ですが、全国行脚したという記録は確認されていません。時頼は、北条得宗家の独裁を確立した辣腕の執権でしたが、一方では信心深く、御家人や庶民に対しては善政を敷いたことでも知られます。時頼に対する世間の評判が良かったことも、鉢木成立の背景にあったのでしょう。水戸黄門の全国行脚も完璧なフィクションですが、鉢木が創作のヒントになっているのではないでしょうか。佐野源左衛門常世の存在も、確認されていません。ただ、栃木県佐野市には墓と伝承が残っています。伝承によれば、常世は、家来たちを叱咤激励しながら激流を渡る際、家来ともども流されて死んだとされているようです。なにやら、企業文化における滅私奉公の死につながるものを感じます。(写真出典:cte.jp)

2026年2月2日月曜日

ブルー・チーズ

カブラレス
家族でグアムへ行った際、プラネット・ハリウッドで、子供たちにブルー・チーズ入りのサラダを食べさせたことがあります。無理だろうとは思っていたのですが、一口食べただけで想定以上の激しい拒否反応がありました。苦味や辛さは、食べたら危険というシグナルを脳に送る役割があると言われます。つまり、子供たちの本能は極めて正常な状態にあったわけです。ブルー・チーズは、青カビで熟成させたチーズです。カマンベールやブリー等の熟成に使う白カビも、実は青カビの一種です。ほとんどの青カビ類は非病理性であり、感染することもなく、カビ毒も発生しません。

ただ、青カビが発生するということは、他の毒性の強いカビ類も発生している可能性が極めて高く、カビの発生した食品を食べることは危険だということになります。しかも、食品の表面のカビだけを除去すれば安全ということではありません。間違いなく、食品内部にまでカビは浸透しています。ブルー・チーズは、適切な温度・湿度・工程管理のもとで熟成されるため、安全に美味しく食べることができます。カビには、タンパク質をアミノ酸に分解してうま味を出す、デンプンを糖に変える、あるいは脱水するといった効果もあります。カビを利用して作る食品はチーズに限りません。身近なところでは、カビの一種である麹菌を使って発酵させる味噌、醤油、日本酒があり、麹菌を使って乾燥させる鰹節、あるいは納豆菌で発酵させる納豆などがあります。

近年、ポーランドで発掘されたチーズ作りの痕跡から、チーズの歴史は、少なくとも7,500年以上とされているようです。最初期のチーズは、羊や山羊のミルクを原料としていたようです。ブルー・チーズが、文献上、初登場したのは2,000年前とされます。フランス南部の山中にあるロックフォール=シュル=スールゾン村で、洞窟に忘れた羊のチーズに青カビが発生していたことから、偶然、発見されました。人口700人というロックフォール村は、今でもブルー・チーズの世界的産地として知られています。ちなみに、世界三大ブルー・チーズとされているのは、代名詞的存在でもあるロックフォール、9世紀頃から作られているイタリアのゴルゴンゾーラ、18世紀にその名を知られるようになったイギリスのスティルトンということになります。

ロックフォールは、青カビの刺激が最も鮮烈で、エッジの効いた味になっていると思います。今でも一番人気のブルー・チーズであり続けているのも、うなづける話です。ゴルゴンゾーラ、スティルトンは、その順にマイルドさが増していきます。知っている中で、最も美味しいと思うブルー・チーズは、スペインのカブラレスです。カブラレスは、スペイン北端のアストゥリアス自治州のカブラレス村で作られています。ブルー・チーズは、青カビを注射器でカードの中に入れるのが一般的ですが、カブラレスの場合、洞窟内で自然に付着させています。最も古い製法を維持しているわけです。青カビの刺激、牛乳のコク、塩味のバランスが絶妙だと思います。ギネス・ブックによれば、カブラレスは、最も高価なブルー・チーズとされているようです。

ブルー・チーズを使った料理は数多くあります。独特の風味をソースに活かそうと思えば、どんな料理にでも使えるとも言えます。多く見かけるのは、パスタやピッツアだと思います。ゴルゴンゾーラのピッツアには、蜂蜜がよく合います。青カビの刺激と蜂蜜の甘さが良いコラボレーションとなります。私は、デザートとして、ブルー・チーズにメープル・シロップをかけて食べます。その際には、ロックフォールが一番合うように思います。ただし、カブラレスに関して言えば、そのまま、何もかけずに、風味を味わいます。幸いなことに、数ヶ月に一度行われるチーズ好きの会で、毎回、カブラレスを楽しむことができます。これ以上、円が安くならないこと、航空料金が高くならないことを願うばかりです。(写真出典:rakuten.co.jp)

武相荘