監督: ハサン・ハディ 2025年イラク・カタール・アメリカ
☆☆☆+
1990年、サッダーム・フセイン率いるイラクがクウェートに侵攻すると、アメリカ主導の多国籍軍がイラク空爆を開始します。湾岸戦争の始まりです。映画の舞台となったイラク南東部の湿地帯アフワールも、のどかな農村風景に米軍機が飛ぶ日が続きます。祖母と暮らす9歳の少女ラミアは、学校でフセイン大統領の誕生日を祝うケーキを焼く係になります。持病を抱え、経済的にも行き詰った祖母は、ラミアを手放すことにします。それを知ったラミアは逃亡し、友人とケーキの材料集めに奔走します。ラフながら勢いのある映像、子役も含めていい味を出しているキャスト、全編に流れる民族音楽が見事だと思います。演出は自然主義的ですが、それを超える監督の熱意と勢いを感じました。しかし、政治性という観点から見れば、ややフォーカスが甘いように感じました。ヨシで作った浮島の上で、ヨシで作った家に暮らすアフワールの人々の暮らしは、古代から何一つ変わっていないように見えます。貧困にあえぎ、フセインの独裁にさいなまれ、欧米からの軍事攻撃を受けながらも、宗教を支えに日々の生活を続けています。アフワールの人々がイラク国民に擬せられているのでしょう。大変な時代だったとは思いますが、それだけを描くのであれば、映画としてはあまりにも稚拙です。他人に預けられることになったラミアは逃げ出します。これは理解できます。しかし、いかに厳しい罰という脅しがあるにしても、自らの状況を顧みずにフセインの誕生日を祝うケーキの材料集めに奔走するというプロットが分かりにくい面があります。
それは、ファシズムの恐ろしさ、とりわけ洗脳の恐ろしさの象徴なのかもしれません。あるいは体制に従順な国民性を嘆いているのかもしれません。ただ、いずれにしてもプロットとしては、鋭さに欠けています。むしろ印象的には”ラミアの大冒険”的な描き方になっています。また、シーア派とスンニー派、バアス党と国民の対立の描き込みが弱いように思います。イランに隣接するアフワールの人々は、間違いなくシーア派だと思います。ひょっとすると偉そうにしている学校教師はバアス党の象徴なのかもしれませんが、我々には分かりにくいと思います。イラク社会を描くにあたり、この対立構図が取り込まれていないことは、いささか妙だと思います。意図的に回避されているのかもしれません。もっとも見る人が見れば、気付くのかもしれませんが。
なお、プロットの時期の設定は、必ずしも現実とは一致していません。イラク国内、あるいはアメリカへの政治的配慮があるのかもしれません。ラスト・シーンも、伝えようとしていることが、希望なのか、絶望なのか、分かりにくいように思いました。そうした甘さはあるものの、映画としての勢いは見事なものだと思います。本作は、昨年のカンヌ国際映画祭で、新人監督賞に相当するカメラ・ドールを獲得しています。全編がイラクで撮影され、キャストはほぼ素人だったようです。それが、かえって映画に勢いを与えているように思います。カメラ・ワークは、やや荒っぽいのですが、やはり勢いを感じさせます。全編に流れる民族音楽が素晴らしい効果を生んでいます。プロデューサーに、アメリカの映画人たちが名を連ねていることも興味を引きました。(写真出典:eiga.com)






