2026年8月28日金曜日

綾鼓

映画「敵」
俺たちの姿を描いているから映画「敵」を見ろと、昨年、知人から言われました。ただ、さほど興味も沸かないので、見ていませんでした。過日、暇だったのでネットの配信で見てみました。吉田大八監督の「敵」(2025)は、2024年の東京国際映画祭でグランプリを受賞しています。正直なところ、これがグランプリかよ、と思いました。実に筒井康隆らしいショート・ショート的プロットですが、結局のところ、老人あるあるを描きたかっただけなのかなと思いました。それなら、老人にとって目新しさはありません。あるあるの一つとして、若い女性に金をだまし取られる、いわゆるロマンス詐欺的なモティーフも盛り込まれていました。 

死んだ先輩からLINEが来たことがあります。ビックリしました。気味が悪いとも思いました。ただ、解約された電話番号が使い回されたのだろうと思い、無視しました。先日、再び、その先輩からLINEが来ました。無視していると、”友達登録されているようですが、会ったことがあるのでしょうか?”とメッセージが来ました。不安に思っているなら申し訳ないと思い”死んだ先輩の番号です”と返信しました。すると、”そうでしたか。私は日本人とマレーシア人のハーフで神戸に住む25歳の独身女性です。何かの縁ですから、少しやりとりをしませんか?”と返ってきました。なるほど、これがロマンス詐欺かと思い、先輩の番号も含め、全て削除しました。若い人ならいざ知らず、知らない人とLINEでやりとりするなど、老人の常識からすれば、あり得ません。

ロマンス詐欺はSNSを利用した新しい手口ですが、犯罪としては昔から絶えることなく続いてきました。美人局やハニー・トラップはじめ様々な手口があるのでしょうが、基本的には恋心を食い物にする犯罪です。食欲・睡眠欲・性欲は、人間の三大欲求とされます。そういう意味では、犯罪のネタに事欠くことはありません。とりわけ老人の場合は、抑制力や認知力の衰えも重なり、だましやすいということになるのでしょう。犯罪がらみではありませんが、かつて、歌人・川田順の”老いらくの恋”という言葉が広く知られていました。川田は65歳のおり、27歳年下の門下生と不倫関係になり、「墓場に近く老いらくの恋は怖るる何ものもなし」と詠みます。恐れるものなしという心境は理解できぬでもありませんが、ややこしいことになるだろうとも思います。

能楽「綾鼓」は、御殿の女御に恋した庭師の老人がいたぶられる話です。作者は不明ですが、世阿弥以前に成立した曲とされます。老人の恋心を知った女御は、綾を張った鼓を木にかけ、その音が聞こえたら会いましょうと言います。布の鼓が鳴ることなどありません。必死に打っても鳴らないことに絶望した老人は、御殿の池に身を投げます。怨霊となった老人は池から現れ、女御を責めたてます。女御だけでなく、老人に対しても因果応報、自業自得を説いているように思います。冷静さを保っていれば、綾鼓が鳴らないことなど分かりそうなものです。鳴らないことは分かっていても、打ち続けるのは、老人にありがちな思い込みとも、執着心という深い業のようにも思えます。今でも綾鼓を打ち続ける老人が多いことには驚きますが、自業自得と言わざるを得ません。

歌人・川田順は興味深い人です。東京帝大卒業後、住友本社に入社して、経理畑を歩んだ後に常務理事にまでなっています。一方、歌人としても、天皇の指南役や歌会始の司会も務めるなど、頂点を極めた人だと言えます。老いらくの恋以前にも、川田は不倫騒動を起こしています。門下生との老いらくの恋でも、自殺未遂をするなど大騒ぎしていますが、結果的に二人は結婚しています。希代の歌人は、人並み優れた感受性を有する人でもあったのでしょう。老人の恋心を否定するものではありません。活き活きとした老後を送るうえでは有効だとも思います。しかし、それはあくまでも精神的なものであり、ブレーキとアクセルの踏み間違いをする前に、免許は返納すべきなのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2026年8月26日水曜日

キールバーサ

私の貯蔵肉好きの原点は、母方の祖母が好きなクラコウ、そして函館のカール・レイモンのソーセージにあります。ですから、今でもカール・レイモンのクラコウは、超が付くほどの大好物です。クラコウは、19世紀、ポーランドのクラクフで生まれたソフトな食感のドライ・ソーセージです。豚肉に、塩、コショウ、ニンニク、コリアンダーなどを加え、広葉樹でスモークします。にんにくの風味を効かせ、食感を柔らかくするために脂肪分を多目に入れていることが特徴です。クラコウ発祥の地であるクラクフはポーランド第二の都市であり、かつてはポーランド王国の首都でもありました。歴史ある街は、世界遺産にも登録されています。

ポーランドは、ドイツと並ぶソーセージ自慢の国として知られます。ポーランドが、ソーセージ大国になった背景として、古くから養豚が盛んであること、そして燻製が普及していたことが挙げられます。食糧事情が悪かったポーランドでは、14世紀、王室が、肉類を長期保存するため燻製に取り組みます。それが庶民の間にも広がっていくことになりました。ポーランドは、自国をポルスカと呼びますが、語源は野原だと聞きます。平坦な国土は農業に適しているように思えますが、地表は大陸氷河の影響によって砂質の土壌に覆われています。やせた土地では作物の実りも乏しく、食糧の確保は極めて厳しかったわけです。従って、養豚や燻製は生きるために欠かせないものとなり、それがソーセージの文化を生んでいったと言えるのでしょう。なお、現在のポーランドは、土壌改良等の成果もあり、EUの食料庫と言われるほど農業生産は高まっています。

NYにいた頃、隣町にドイツ系の家族が経営する精肉店があり、美味しいソーセージも売っていました。たまに食べましたが、アメリカで最もよく食べたソーセージは、ヒルシャイア・ファーム社の”ポルスカ・キールバーサ”でした。手頃な価格でアメリカ中のスーパー・マーケットで買うことが出来ます。ヒルシャイアのキールバーサは、直系3~4cmで40cmほどの長さのソーセージをU字型に曲げて売られています。超粗挽きで脂肪分が多く、コショウやにんにく等のスパイスを効かせ、しっかりスモークされています。焼いたり、煮たりもしますが、調理済みなので、基本的にはそのまま食べていました。味がしっかりしているので、パンはもとよりおにぎりとの相性も抜群です。また、小腹が空いた時にもピッタリです。しかし、残念なことに日本では売っていません。

キールバーサとは、ポーランド語でソーセージ全般を意味すると聞きます。キールバーサは、もともと古スラブ語だったようです。ですから、ロシアのコルバサ、ウクライナのコウバサなど、東欧では似たような言葉が見受けられます。その語源は、テュルク語のプレスして灰の中で焼いた肉、あるいはユダヤ語の肉類全般だとされます。ちなみに、スラブ系以外のソーセージの呼称は、ラテン系とゲルマン系に別れます。ラテン語の塩を語源とするのは、フランス語のソシス、イタリア語のサルシッチャ等であり、ラテン語圏ではありませんが英語のソーセージもラテン語からの派生です。一方のゲルマン系は、ドイツ語のヴルストに代表され、ねじるという古ゲルマン語に由来するとされています。豚の腸などのケーシングをねじるところから来ているのでしょう。

ソーセージの最も古い歴史は、5千年前のシュメールにあるとされます。中東で広がり、テュルク族経由で東欧にも伝わったということなのでしょう。キールバーサの語源とされるテュルク語の”プレスして灰の中で焼いた肉”とは、燻製を指すのではないかと思います。燻製は、7,000~10,000年前には行われていたと推測されています。恐らく、たまたま火のそばに置いておいた肉の水分が抜け、長期保存できることを発見したのでしょう。燻製には、様々な方法がありますが、押し固めた肉を、まだ温かい灰の中に入れておけば、低温燻製に近いものができるように思えます。つまり、ソーセージは、燻製から誕生したと言えるのではないでしょうか。だとすれば、しっかりとスモークするキールバーサは、ソーセージの原型に近いのかもしれません。(写真出典:hillshirefarm.com)

2026年8月24日月曜日

心頭滅却

恵林寺三門
子供時分、私が暑いの寒いのと言うと、父親から「えらい坊さんが”心頭滅却すれば火もまた涼し”と言っている」 と聞かされたものです。漢字も意味も分からないものの、要は我慢しろということなのだと思っていました。この言葉は、恵林寺の快川紹喜(かいせん じょうき)禅師の言葉として知られます。恵林寺は、甲斐武田氏の菩提寺でした。快川禅師の言葉の原典は、唐代の詩人・杜荀鶴の「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」という一文だとされます。意味するところは、禅を行うに山水など必要なく、無念無想の境地に入れば、環境に惑わされることもない、ということなのでしょう。それが、誤用されるに至った経緯には、快川紹喜禅師の死に様が関係しています。

1582年、織田信長は甲斐の武田勝頼を攻めます。いわゆる甲州征伐です。もともと劣勢だった武田軍は、臣下の離反も相次ぎ、追い詰められた勝頼はじめ武田一族は自害します。戦国随一の強さを誇った甲斐武田家は、ここに滅びます。信長軍は、執拗に残党狩りを行います。恵林寺にも武田方の武将である佐々木次郎こと六角義定が逃げ込みます。恵林寺を囲んだ信長軍は、佐々木次郎の引き渡しを求めます。快川禅師は、これを拒否します。武田家の菩提寺である以上に、聖域としての寺という考えからなのでしょう。引渡しを拒絶された織田軍は、寺を焼討ちにします。その際、快川禅師は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い残して、火の中に入り、焼死したとされます。武田家への殉死ではなく、寺社に火をかける信長の非道さへの抗議だったようにも思えます。

神社仏閣が聖域という認識は古くからあり、鳥居などで結界が形成されていることからも分かります。それが統治権力の及ばない、いわゆるアジール化するのは、平安末期、武士が台頭してきたあたりからなのでしょう。それも、単に宗教的な意味合いだけでなく、寺社が僧兵で武装したことも大きな要因だったと思われます。信長が、比叡山延暦寺や石山本願寺を燃やしたのは、それが軍事拠点だったからであり、宗教的背景はなかったとされます。信長以前にも、後白河法皇が比叡山に攻め入ろうとしましたし、平家は、圓城寺に次いで南都焼討まで行っています。南都焼討には過失説もありますが、合戦の通常戦術とも言えます。いずれにせよ、東大寺・興福寺などが燃えました。さらに言えば、圓城寺と延暦寺の抗争によって、圓城寺は幾度も燃やされています。

恵林寺は、1330年、甲斐国の守護職が夢窓疎石を招いて開山しています。夢窓疎石は、後醍醐天皇や足利尊氏にも崇敬された臨済宗の国師です。由緒ある寺でしたが、応仁の乱で荒廃し、武田信玄によって再興されています。実は、恵林寺も武田家の防衛拠点として要塞化されていたという説があります。近年、後背の恵林寺山に山城跡も発見されています。大名の菩提寺が要塞化されている例は多く見られます。静岡市の臨済寺は、今川氏の城塞寺院として知られます。福岡市の崇福寺も、黒田家の菩提寺ですが、城塞化されていました。大名の菩提寺ではないものの、石山本願寺や根来寺が要塞と変わらぬ構造を持っていたことも有名です。寺は、立地、敷地の広さ、建屋の堅固さ、そして聖域としての位置づけからして、要塞に適していたのでしょう。

快川禅師が三門で焼死したことは事実のようです。しかし、火もまた涼し、と遺偈を残し、燃える寺に入ったということに関しては、同時代の文献には見当たらず、どうやら後代の創作とする説が有力です。国師の称号まで受けた高僧が、遺偈において、至って表面的で幼稚な誤用をするとは思えません。では、誰が、この作り話を広めたのかと言えば、案の定、戦前の修身の国定教科書でした。直裁に言えば、軍部が死を恐れない兵士を作り上げるために利用したということになります。兵装の不十分さ、作戦の無謀さをごまかし、多くの命を奪った”大和魂”醸成のために使われたわけです。恐ろしいことに、軍部のねらいは見事に達成されました。闘争心や愛国心を否定するものではありません。ただ、それを悪用する全体主義は、おぞましい究極の悪としか言いようがありません。(写真出典:erinji.jp)

2026年8月22日土曜日

パリ大改造

パリ中心部の街並みの美しさは世界一だと思います。それは、放射状に伸びる広い主要道路と統一された建屋の高さとデザインによるところが大きいと言えます。19世紀後半に行われたパリ大改造の賜物であり、まさに都市計画のお手本です。同じ頃に改造されたバルセロナも見事な街並みを持ちますが、改造中のパリをも参考にしたようです。欧州では、産業革命とともに、都市部に労働者が大量に流れ込みます。キャパを超える人口を抱えることになった両都市も、道が狭く、汚く、風通しの悪い、実に不衛生で悲惨な街になっていったようです。だからこそ、思い切った大改造を実施できたとも言えます。そして、都市改造の大前提として、強力な政権と豊富な資金も欠かせません。

パリは、ナポレオン3世による第二帝政下にありました。バルセロナには、中央政府と対立するほど自主性の高いカタロニア自治政府が存在していました。また、両市は、産業革命と人口増によって潤沢な税収を誇っていたはずです。さらに、パリの場合、改造を主導したセーヌ県知事のジョルジュ・オスマンは、新たな土地収用法を導入します。”超過収用”です。街路の用地だけでなく、両側の開発用地も強制的に収用する手法です。一定の対価を払って土地を収用した後、道を整備し、高さとデザインに統一性を持たせた建物を建設し、そのうえで民間不動産業者に売却します。そこで得られた超過収益は、公共施設の建設などの費用に充てられました。明治期、日本でもこの超過収用が導入されましたが、制約が多く、うまくいかなかったようです。

パリとバルセロナには、街が放射状か格子状かという違いがあります。土地活用面では、バルセロナの格子状が効率的だと思います。ただ、中心部へのアクセスの良さでは、パリの放射状が圧倒的に優れています。背景には、労働者の街として急成長したバルセロナ、そして政治的中心地としてのパリという性格の違いがあります。放射状都市には、モニュメントが街の方々からよく見えるというメリットもあります。パリの街の美しさを生んでいる一因です。一方、敵の侵入を許しやすいというデメリットもあります。また、議論があるのは、中心部のロータリー交差点です。信号渋滞が起きないことはメリットですが、交通量が増えると、使いにくさや事故の多発という問題も生じます。ただ、近年、渋滞解消の面から、ロータリー交差点が再評価されているようです。

光と影があって、はじめて都市は成立するものだと思っています。都市の影の部分とは、市井の人々の生活を支え、いかがわしさも含めて庶民文化を育む雑多な街区のことです。大きな街には、霞ヶ関や丸の内だけでなく、新宿や渋谷などが必要だということです。そこから都市のダイナミズムが生まれると言っても過言ではありません。もちろん、都市計画の図面上に、街の影の部分が設計されることはありません。それは、パリ大改造でもあっても同じです。ところが、パリの場合、庶民が創り上げた街角のカフェ文化やマルシェがそれを代替し、他の街以上に、豊かな庶民文化を生み出してきました。パリのカフェは、文化都市パリを成立させている奇跡とも言えます。つまり、パリの街は、ジョルジュ・オスマンと庶民が創り上げた街だとも言えるのでしょう。

近年、温暖化や偏西風蛇行の影響から、夏の欧州は災害級の熱波に襲われています。山火事も多く発生しますが、都市部では死者も多く出ています。パリも、この夏、40度越えを記録し、少なからずの死者を出しました。欧州は乾燥しているので、日中の気温が高くても、室内や木陰では、あるいは日が落ちると爽やかに過ごすことができます。個人宅はもとより、ホテルですら、エアコンは必要ありません。しかし、気温40度のパリでは、鉛の屋根が熱せられて、エアコンなしの室内は地獄のような状態になるはずです。また、エアコンの普及率が低い理由としては、温暖化対策としての法規制もあり、パリの景観を守るために室外機の設置が制限されているためでもあります。パリ大改造は、パリを世界一美しい街にしましたが、今は、それが禍している面もあるわけです。(写真出典:blablablablog.com)

2026年8月20日木曜日

夢浮橋

 「夢浮橋」は、源氏物語最終巻のタイトルですが、人生や世の中のはかなさを表す言葉でもあります。また、後醍醐天皇が、生涯、手元から離さなかったという盆石も「夢浮橋」という銘でした。中国の産とされる長さ30cm弱の平たい石は、底面の全てが接地しているように見えますが、実は両端がわずかに接地するのみで宙に浮いています。底面には後醍醐天皇の筆とされる「夢ノ浮橋」の銘が書かれています。地に着いているようで浮いているという石は、後醍醐天皇の生涯を象徴しているようにも思えます。また、後醍醐天皇自身も、思うようにならない人生を、この石に投影していたのではないでしょうか。盆石「夢浮橋」は、後に徳川家康の手に渡り、現在は名古屋の徳川美術館に収蔵されています。

後醍醐天皇と言えば、鎌倉幕府を倒して天皇親政を行うものの、武士の反発を受けて失敗し、吉野に南朝を開いた天皇ということになります。江戸期から昭和にかけ、北朝・室町幕府の視点から長く酷評されてきた後醍醐天皇ですが、近年は研究が進み、優れた為政者にして文化人、また信心に厚く、温厚な人だったという評価が広まっているようです。後醍醐天皇が、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子として生まれたのが、1288年、両統迭立の時代でした。両統とは、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統を指します。後嵯峨上皇が後継を明確にせずに亡くなったため、両統が正統を主張して対立し、結果、鎌倉幕府が仲裁に入り、10年毎に両統から交互に天皇を立てるという両統迭立の時代に入ります。

妥協は不満しか生まないものです。両統迭立とは言え、自己の正統にこだわる両統の対立は続きます。その期間を後嵯峨上皇の崩御から南北朝の終焉までとすれば、120年間に渡ったことになります。対立は、大覚寺統のなかでも起こります。大覚寺統の後二条天皇が崩御し、持明院統の花園天皇が即位すると、皇太子に立つのは後二条天皇の第一皇子・邦良親王が順当でした。しかし、幼少、病弱であったため、後二条天皇の弟である後醍醐天皇が皇太子となります。後醍醐天皇が即位すると、皇太子は持明院統から出すことになりますが、後宇多上皇は、後二条天皇の在位が短かったことを理由に、大覚寺統から出すことを幕府に押し込み、邦良親王が立ちます。後宇多上皇は、この機を捉えて、大覚寺統がイニシアティブを取ることをねらったものと考えます。

その意図は、後醍醐天皇とも共有されていたのではないでしょうか。邦良親王が成人となり、皇子も生まれ、践祚の準備が整っても、後醍醐天皇は譲位しませんでした。大覚寺統の正統といえる邦良親王ではなく、自らの子孫を正統にすることに執着したとされます。後醍醐天皇は、時間を稼いで持明院統を追い落とすという後宇多上皇の作戦から着想を得て、自らの子孫の正統を確立しようとしたのかもしれません。あるいは、後宇多上皇の作戦を確実なものにするために、裏で上皇と結託し、あえて時間稼ぎをしたのかもしれません。上皇は、後醍醐天皇に譲位を迫っていたようですが、それも味方と敵を欺くための戦術だったとも考えられます。1324年、後醍醐天皇が倒幕を画策したという正中の変が起こります。幕府が調査した結果、後醍醐天皇は無罪とされます。

近年、正中の変は、後醍醐天皇追い落としをねらう邦良親王と持明院統の謀略だったという説が有力視されているようです。この時点まで、後醍醐天皇と幕府は良好な関係にあったとされます。翌々年、邦良親王が亡くなると、後醍醐天皇は、邦良親王の皇子と並んで自らの皇子をも皇太子候補とします。結果として、幕府は、両統迭立の考えから持明院統から皇太子(後の光厳天皇)を立てます。ここに至り、後醍醐天皇は倒幕の烽を上げることになります。緒戦に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流されますが、脱出し、ついに鎌倉幕府を倒します。後醍醐天皇は、天皇親政を目指して幕府と戦った不屈の人とも言われますが、あくまでも大覚寺統、そして自らの子孫の正統化に執着していただけなのではないでしょうか。建武の新政は結果論であり、南朝開闢も天皇親政ではなく血筋にこそ動機があったものと思います。(写真出典:tokugawa-art-museum.jp

2026年8月18日火曜日

アプレゲール

さすがに黒澤明の映画は面白いと思います。とりわけ戦後から1960年代にかけての映画は、文句なしに面白いと思います。「野良犬」(1949)も初期の傑作の一つです。日本初とされるドキュメンタリー・タッチの刑事映画は、その後の日本の犯罪映画のスタイルを方向づけたと言われます。黒澤は、ジョルジュ・シムノン風の映画を目指し、ドキュメンタリー・タッチの映画を撮ったとされます。それもそうなのでしょうが、敗戦後の荒廃した社会と若者の精神を描くためには、ドキュメンタリーの手法が最適だったのだと思います。既存の価値観の崩壊とともに、虚無的で刹那的な行動に走る若者たちは”アプレゲール”と呼ばれました。フランス語で”戦後”、あるいは”戦後派”を意味する言葉ですが、 野間宏の小説から広がったとされています。

映画は、ほとんどセットで撮影されたようですが、ラストなど一部はロケ、さらに手持ちカメラを使って闇市や街の実景も撮影されています。ドキュメンタリー・タッチを強調するためでもあったのでしょうが、、今となっては貴重な映像記録にもなっています。追われる犯人も、追う刑事も、共に戦地からの引揚者であり、混み合う列車の中で荷物を盗まれるという同じ経験をしています。黒澤は、とかく荒んだ若者扱いされるアプレゲールにも、世を悲観するだけの者と、復興に使命感を感じる者と、根源は同じでも二つの顔があると言いたかったのでしょう。また、ラスト・シーンでは、死闘の末、野原に倒れ込む二人の向こうを、子供たちが”故郷”を歌いながら歩いて行きます。二人のアプレゲールの先に日本の未来が見えるというわけです。

敗戦後、若者による無軌道とも言える事件が頻発します。それらはアプレゲール犯罪と呼ばれました。名高いものとしては、金閣寺放火事件、鉱工品貿易公団横領事件、そして光クラブ事件などがあります。犯人の若者たちは、少年時代、軍国主義体制下で徹底的な思想教育を受けた世代でした。敗戦によって、突然、自分を規定していた価値観から解放された若者たちは、自らを失っていったとも言えるのでしょう。光クラブは、現役東大生が起業した高利貸しでした。ハイパー・インフレ抑制のために打ち出された金融引締策が金詰まり状態を起こすなか、高利を謳って零細資金を集め、それ以上の高利で貸し出すヤミ金融は大成功します。現役東大生社長というブランドも信用を高めます。社長の山崎晃嗣は、特異な言動も注目を集め、一躍、時代の寵児となります。

裕福な名家に育った山崎は、東大入学後、学徒出陣で陸軍に入隊します。軍隊の理不尽さに戸惑い、敗戦後、物資の横流しなどに走る上官たちを見て衝撃を受けます。復学した山崎は、偏執的とも言える自己管理のもと勉学に励みます。そして、金詰まりという社会環境を見て、高利貸しを始めます。成功した山崎の独善的な合理主義、世間と他者を見下す態度、女性を道具と言い切る傲慢さはマスコミにとって格好のネタでした。しかし、金融当局もだまってはいませんでした。山崎は、愛人が税務署に流した情報によって、物価統制令違反で逮捕されます。不起訴処分となったものの、信用はがた落ちし、資金流失を起こした光クラブは破綻します。そして、山崎は、自虐的な遺書を残し、服毒自殺しています。最後まで、アプレゲールを演じきったとも言えそうです。

アプレゲール犯罪を犯した若者たちを、時代の犠牲者のように語る人たちがいます。確かに、突然生じた価値観の空白が、人々に与えた影響は計り知れないものだったことは理解できます。特に若者たちにとっては、生きていくために叩き込まれた規範が消失するわけですから、突然、荒野に放り出されたようなものだったと思います。しかしながら、犯罪および犯罪者は、いつの世も、本質的には変わらないようにも思えます。例えば、金融犯罪に限ってみても、今日に至るまで、山崎と同様の手口の犯罪者が登場し続けています。確かに敗戦後の社会の混乱や荒廃が、彼らを犯罪に走らせた面は否定できません。しかし、心に甘さを抱える一部の人たちは、軍国主義の時代でも、アプレゲールの時代でも、戦後民主主義の時代でも、あるいは昨今の情報革命の時代にあっても、犯罪に走る傾向にあるのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年8月16日日曜日

朱の国

根来塗
日本の神社の多くは朱色に塗られています。魔除け、あるいは防腐・防虫のためと言われます。ところが、神社の最高位にある伊勢神宮は素木(しらき)造りです。そもそも日本の神社は素木造りが基本でした。中国から仏教が伝来すると、寺院の朱塗りも伝わります。そして、神仏混淆が進むにつれて、神社も赤くなっていったのだそうです。古来、中国人が赤を好むのは、陰陽五行説に基づいており、魔除け、健康、幸運、繁栄などを象徴する色だからだとされます。国旗までも赤です。中国の赤は”紅”と呼ばれ、世界的には”Chinese Red” とされます。対して日本古来の赤は”朱”であり、”Japanese Vermilion”と呼ばれます。いずれも硫化水銀を含む辰砂という鉱物から作られます。

日本の朱は縄文時代から存在します。朱塗りの土器や籃胎漆器(漆塗りのカゴ)などが発掘されています。また、辰砂を砕いて顔料にしたものは”丹”と呼ばれます。奈良の枕詞である“青丹(あおに)よし”は、木々の緑(青)と建造物の丹(朱)のコントラストの美しさを表します。また、頭頂部が赤い鶴は丹頂鶴と呼ばれます。辰砂から作る朱は、我々のイメージする黄色味が強い赤色ではなく、真っ赤だったと聞きます。辰砂は貴重品であったことから、丹鉛と呼ばれる鉛系の朱が代用品として普及し、現在の朱になったようです。ちなみに、日本的な赤としては、他に深い赤褐色の”弁柄(べんがら)”があります。弁柄は、酸化鉄赤から作られます。江戸期にインドのベンガル地方から伝えられたので”べんがら”と呼ばれるようになったとされています。

弁柄は、海外で”Japan Red”とも呼ばれ、建造物だけでなく、陶磁器や漆器にも使われます。変わったところでは、近江八幡の名物”赤蒟蒻”にも使われています。国内の弁柄の産地としては、赤い町として知られる岡山県高梁市の備中吹屋が有名です。柿右衛門の赤も弁柄です。有田焼の酒井田柿右衛門の様式は、景徳鎮やマイセンにも影響を与えたとされます。濁手と呼ばれる白い地色に文様を描き、明るい色彩による上絵付けを施します。独特な色合いを出す赤の顔料は、弁柄を主に何年もの時間をかけて慎重に調合されると聞きます。昨年、柿右衛門窯に行きましたが、その素晴らしさに圧倒されました。また、黒内朱と呼ばれる輪島塗のお椀にも弁柄が使われます。黒と朱は相性が良く、特に漆器では見事なコントラストを生みます。まさに日本の美だと思います。

黒内朱も見事なのですが、溜塗で浮き出る朱も、実に魅力があります。溜塗は、朱の中塗りの上に、茶褐色で透明感のある”透き漆”を重ねる技法です。縁にうっすら朱が見えて、使い込むと朱を感じさせる透明感が出てきます。逆の色使いが根来塗になります。黒の下地に朱を上塗りします。日本の朱は、黒の下地があって、初めて成立する、という話を聞いたことがあります。根来は、まさにそれを地で行っています。根来塗は、和歌山県岩出の根来寺が発祥とされます。使い込むと朱が薄れ、黒漆が浮き出てきます。それが月日の重さを感じさせるような独特の風合を生みます。また、漆器の朱と言えば、堆朱も私のお気に入りです。中国伝来の技法ですが、中国では朱漆を幾重にも重ね塗りし、それを彫って紋様を刻みます。日本を代表する新潟の村上木彫堆朱は、木彫の上に朱漆を厚く塗ります。仙台にも堆朱がありますが、村上の分派と聞きます。

思えば、日本は”朱の国”と言ってもいいのかもしれません。縄文時代から朱を使ってきたことに加え、魏志倭人伝によれば、倭人は、全身に入れ墨をし、朱を塗っている、とされます。以降も、神聖なものに朱を塗り、美感の中心にも朱を据えてきたわけです。朱は、単なる色使いではなく、魔除けやエネルギーの象徴だったのでしょう。漢字の赤は、大と火を組み合わせた文字です。漢字が日本に伝わると、赤という文字には、もともと日本にあった”あか”という言葉が読みとして当てられます。”あか”は、明るい、(夜が)明ける、から生まれ、黒は、暗い、暮れる、が語源とされます。そう考えると、朱だけでなく、朱と黒の組合せこそが日本人の自然観の基本と言えるのかもしれません。(写真出典:sankei.com)

綾鼓