2026年10月3日土曜日

MKウルトラ

Netflixで「ユナボマー」(2026)を見ました。ユナボマーは語り尽くされています。本作はユナボマー誕生の背景に絞ることで特色を出そうとしていますが、 残念ながら中途半端な駄作でした。ユナボマー事件は、1978~1996年、全米を震撼させた郵送爆弾事件です。ユナボマーとは、FBIが付けた事件のコード名に由来します。当初、狙われたのが大学(University)の教授、航空会社(Airline)の社長だったことから、UNとAへのBombでUNABOMとしたのです。ユナボマーは、18年間で計16個の郵便爆弾を送り、3名を殺害し、23名を負傷させています。ユナボマーの正体は、最年少でカリフォルニア大学バークレー校の助教授になった数学者セオドア・カジンスキーでした。要は、反産業主義者だったわけです。

IQ167のカジンスキーは、16歳でハーバード大学に入学します。飛び級で入学した大学では、年上の級友たちのなかで孤独感を感じていたようです。哲学に興味を覚えたカジンスキーは、心理学者ヘンリー・マレーの実験に参加します。映画では、この実験がユナボマーを生んだと強く示唆しています。しかし、証明されておらず、カジンスキー本人も否定しています。マレーの実験とは、極度のストレス下でいかに信念を維持できるかという研究でした。そのため、実験の目的は隠され、被験者は虐待的な扱いを受けます。後に、この実験は、非人道的、非科学的で、無益な実験だったと評価されます。映画でも示唆されていますが、この実験はCIAの指示で行われていました。1950~60年代、CIAが極秘に行っていた”MKウルトラ”プロジェクトの一部だったのです。

MKウルトラは、LSD等を投与したり、物理的に虐待して、精神や脳機能を操作する、つまりマインド・コントロールが目的でした。冷戦下にあって、捕虜やスパイから情報を得ることが一つの目的でした。朝鮮戦争時、敵が捕虜に対して行ったとされることへの対抗措置だったとも言われます。実験は、被験者の同意を得ず、目的も知らされることなく行われました。もともとは、原爆同様、ナチスの研究を引き継ぐ形でスタートしています。1973年、ウォーターゲート事件に関連して議会の調査が及ぶことを恐れたCIA長官リチャード・ヘルムズは、MKウルトラに関するすべてのファイルの破棄を命じます。その後、内部告発や報道によってCIAの実態が暴露されると、ロックフェラー委員会やチャーチ委員会が設置され、CIAの違法活動が明らかになります。

一部は残ったものの資料の大半が失われたMKウルトラの全容は、いまだ不明のままです。100程度の研究所等が関与し、被験者は米国内、カナダを中心として数千人に上ったと推定されています。占領下の日本でも秘密拘留所が設置され、人体実験が行われたという話もあります。明らかになったMKウルトラに関連する死亡例もあります。最も有名なものは、フランク・オルソンのケースなのでしょう。オルソンは、プロジェクトに参加する科学者でしたが、道徳的疑念から辞意を明らかにします。密かにLSDを盛られたオルソンは、数日後、ホテルの窓から落下して死亡します。シーモア・ハーシュによるNYタイムスの記事で真相を知った遺族は、政府とCIAに調査を依頼しますが、資料がないことを理由に断られます。そこで遺族は訴訟に打って出ます。

法廷で真相が曝かれることを恐れた政府は、大統領から遺族に直接謝罪までさせ、訴訟取り下げを図ります。結果、訴訟は取り下げられ、議会立法での補償が行われています。そこまでして隠す必要があったというわけです。オルソン・ケースの詳細は、Netfixのドキュメンタリー「ワームウッド」に詳しいところです。チャーチ委員会の取組は、CIAの活動を規制する法令や大統領令、そして米国上院の常設諜報特別委員会の設立につながっています。機密事項が存在する以上、それを扱う機関が独立的な裁量権を持つことは理解できます。しかし、独立的な裁量権を持つ機関が暴走することも自明と言えます。従って、複数の監視機関が必要になるわけです。日本の内閣調査室は、国家情報局に格上げされました。その上部機関は国家情報会議であり、首相を議長に主要閣僚で構成されます。そして同会議の事務局は国家情報局が担当します。それで十分な監視体制と言えるのかは、多少疑問が残ります。(写真:セオドア・カジンスキー 出典:okinawatimes.co.jp)

2026年10月1日木曜日

佐久間町の奇跡

前立腺ガンの生体検査を受けるために秋葉原の三井記念病院に入院したことがあります。入院は、高校生の頃、蓄膿症の手術をして以来のことでした。入院前に、隠れてタバコが吸える場所を物色しました。病院の目の前に、もってこいの和泉公園がありました。予行演習を兼ねて公園に行った際、「防火守護地」という石碑を見つけました。碑文に曰く「この附近一帯は大正十二年九月一日関東大震災のときに町の人が一致協力して防火に努めたので出火をまぬがれました」。そして火災を免れた佐久間町、和泉町などの町名が記載してあります。いわゆる佐久間町の奇跡です。住民たちの努力が起こした奇跡ではありますが、実は、佐久間町の歴史が生み出した奇跡でもあります。

江戸初期、神田川が開削されると、神田佐久間町あたりには、材木商が集まり、大名屋敷が立ち並ぶことになります。町名の由来は、材木商佐久間平八にあるようです。また神田和泉町は、藤堂和泉守高虎の屋敷があったことに由来します。佐久間町は、文政の大火、天保の大火等いくつかの火事で火元とされ、悪魔町と陰口されることもあったようです。材木置場が原因とされ、木場は深川方面へと移転され、跡地は火除広道とされます。明治2年には神田相生町の大火が起こり、またもや佐久間町が火元として疑われます。広道を抜ける風や川風が上野山に当って上昇気流を起こし、ひとたび火が出ると延焼しやすい地域だったとも言われます。いずれにしても、神田相生町の大火を機に、広大な火除明地が設置され、皇居にあった鎮火神社が移設されます。

江戸城には、浜松秋葉神社を分祀した秋葉神社がありました。浜松秋葉神社は、家康が秋葉大権現を分祀、創建した神社です。秋葉大権現こと秋葉山本宮秋葉神社は709年創建、全国400社を従える火防の神です。神仏混合以降は秋葉大権現と呼ばれてきました。また、井伊の赤揃隊発祥の地でもあります。戦国最強とされた武田の赤揃隊は、家康に敗れた後、井伊直政預かりとなり、この地で井伊家への忠誠を誓っています。江戸城の秋葉神社は、火防のみならず武運の神でもあったわけです。新政府は、江戸城から徳川の色を完全に消しますが、扱いに困った秋葉神社は残したようです。神仏分離令を出した新政府は、神仏混合だった秋葉神社の祭神を鎮火三神に変えたうえで移転し、鎮火神社とします。ただ、庶民は、これを慣れ親しんだ秋葉さまと呼ぶようになります。

これが秋葉原という地名の由来です。水運の便が良いこのあたりは、江戸期から青物市場がありました。いわゆる“やっちゃば”です。明治中期には鉄道も通り、物流拠点化していきます。アキハバラかアキバハラかという議論があります。当初は、秋葉ヶ原(アキバガハラ)と呼ばれていたようですが、駅名はアキハバラとされます。秋葉大権現の読みがアキハだったからかもしれません。いずれにしても、この駅名が地名化していったわけです。関東大震災が起きた頃、秋葉原は問屋が軒を並べる街になっていました。震災直後、おりからの強風に煽られた火の手が浅草方面から秋葉原にも迫ります。人々は警察の誘導で本所方面へ逃げます。しかし、佐久間町では「この町の者たちは逃げてはならない」と声が上がります。悪魔町という汚名を返上すべき時だったわけです。

住民たちは、川の水を汲み、バケツリレーして消火にあたります。しかし、町の中心だった佐久間小学校に火の粉がかかり始めます。学校が燃えれば町は終わりだと、卒業生が集まりはじめ、200人を越す人々が消火にあたったといいます。 2日間燃え続けた火災は、東京東部を焼け野原にします。ただ、佐久間町、和泉町界隈だけが延焼を免れます。逃げる防災から消す防災へ、つまり初期消火の重要性が認識された出来事だったと言えるのでしょう。しかし、太平洋戦争時の空襲では、この教訓が仇になったとも言われます。つまり、住民を初期消火に動員する態勢をとり、日頃の訓練を重ねたことで、避難が遅れ、結果、人的被害を拡大することになったわけです。大震災に打ち勝った佐久間町、和泉町一帯も、空襲には敵いませんでした。(写真出展:bo-sai.co.jp)

2026年9月29日火曜日

サンティアゴ・デ・クーバ

ブルー・ノートで、キューバを代表するソンのバンド、セプテート・サンティアゲーロのライブを聴くことができました。パフォーマンス・レベルが極めて高く、満員の場内は大盛り上がりでした。キューバも、ブラジルと同様、一度行ってみたい国でした。もし行けたならハバナだけだけでなく、サンティアゴ・デ・クーバへも出向き、本場のソンに浸ってみたいと思っていました。政治状況等もあって行けていませんが、向こうから本物のソンがやってきてくれたわけです。キューバ南東部に位置する港町サンティアゴ・デ・クーバは、人口は50万人、キューバ第2の都市です。天然の良港を持つ街は、キューバで最も古い歴史を持つ街でもあります。

サンティアゴ・デ・クーバは、1515年、スペインのコンキスタドールの一人ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルによって開かれています。クリストファー・コロンブスの船団の一員だったベラスケスは、キューバ征服を任され、後にキューバ総督になっています。サンティアゴ・デ・クーバはコンキスタドールの拠点でもあり、ここからコルテスがメキシコ征服へ、デ・ソトがフロリダ征服へと向かっています。1553年に総督府がハバナに移ると、イギリスやフランスの襲撃を受け、一時期は海賊たちの拠点にもなっていたようです。19世紀初頭には、ハイチ革命の余波として、フランス人や自由奴隷が流れ込みます。つまり、サンティアゴ・デ・クーバは、自由思想も含め、実に多様な文化が交差していたわけです。そうした文化的背景からソンも生まれています。

セプテート・サンティアゲーロは、その名の通り、基本的には7人編成です。ソンのバンドは、1930年代に確立されたというトレス、ギター、ベース、トランペット、コンガ、パーカッション、ボーカルというセプテット構成が基本です。この7人編成が、完璧なソンの世界を聴かせてくれます。ただ、セプテート・サンティアゲーロは、伝統のセプテット形式を踏襲しつつ、ボーカルを2人にするなど臨機応変な編成をしているようです。当夜のボーカルは、ゲスト・シンガーも加えた3人体制になっていました。その演奏レベルの高さには驚かされました。シンガーは張りのある声でキレの良い歌を聞かせ、トランペットはハイノートで吹きまくり、コンガとパーカッションは躍動感あふれるリズムをたたき出し、トレスが情感たっぷりに曲を作っていきます。

まるで、サンティアゴ・デ・クーバのクラブにいるかのような印象を受けました。いつまでも聴いていたくなる演奏でした。スタジオ録音と変わらぬクオリティの高さは、音楽的にも、技術的にも完璧なパフォーマンスと言えます。と言うか、彼らにとっては、スタジオもライブも何一つ変わらないということなのでしょう。2年前、同じブルー・ノートで聴いたマリーザ・モンチのステージも完璧なパフォーマンスでした。ブラジルやキューバといった音楽が盛んな国のトップ・バンドは、厳しい競争を勝ち抜いた者たちで構成されているということなのでしょう。セットリストは、カンデーラやチャンチャンといった伝統的なソンが中心でした。テンポが変わっても、客が踊れる曲という基本は変わりません。MCは、スペイン語で押し通していました。お見事。

19世紀末の米西戦争では、この地でスペインは大敗し、結果、キューバは独立しました。ただ、その後、アメリカによる実質的支配が続くわけですが、1953年、フィデル・カストロ率いる反乱軍が、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵舎を攻撃し、革命戦争が始まります。1959年1月1日、カストロはサンティアゴ・デ・クーバ市庁舎のバルコニーからキューバ革命の勝利を宣言しています。ソンが生まれた街サンティアゴ・デ・クーバは、独立の地でもあり、革命の地でもあったわけです。その後、ソンは、マンボ、チャチャ、そしてサルサを生んでいくことになります。サンティアゴ・デ・クーバは、カリブ海の歴史における最も重要な街の一つと言っても過言ではないのでしょう。(写真出典:nishinippon.co.jp)

2026年9月27日日曜日

川上

人間国宝・二世野村万作は、御年95歳になる和泉流の狂言方能楽師です。2023年には、文化勲章を受章し、受章記念公演として「川上」を演じています。その舞台を記録した映画が「六つの顔」(2025)です。シネスイッチ銀座で長く上映していたのですが、タイミングが合わず 、未見でした。今般、ネット配信されたので、ようやく観ることができました。「川上」の舞台がメインですが、野村万作が自らの芸の道についても語っています。六つの顔とは、祖父、父、弟、本人の顔、そして「靱猿」の猿面、「釣狐」の狐面を指します。ちなみに、狂言は、猿に始まり、狐に終わると言われます。幼年期、靱猿の猿で初舞台、円熟期に入り釣狐の狐を演じるというわけです。ちなみに、野村万作の芸歴は90年を超えています。

しかし、野村万作にとって、「川上」はとりわけ重要な演目だったようです。幾度も演じ、芸の集大成かのように記念公演でも演じたわけです。川上は、少し風変わりな狂言です。吉野に住む盲目の男が、霊験あらたかとされる川上の地蔵菩薩に参詣し、目が見えるようになります。念願かなった男は、大喜びで里に帰ります。しかし、目をあけてもらうには条件がありました。妻とは悪縁なので別れなければいけないというのです。その話を聞いた妻は激怒し、地蔵をののしり、絶対に別れないと言いはります。ついには、夫も折れて、2人は連れ立って帰ります。そして、道の途中で夫の目は再び見えなくなってしまいます。2人はともに泣き、これも前世の因縁と思って嘆くまいと手を取り合って帰ります。

川上は、滑稽な話とも言えますが、人生の機微を語る仏教説話のような風情もあります。川上は室町期の作とされますが、作者は不明です。現代人にはシリアスな話に思えますが、室町時代の人々には、より滑稽な印象を与えていたのかもしれません。仏に救われるという面もありますが、典型的な仏教説話とも多少異なります。高望みなどせずに、今の生活に満足し、妻に感謝しなさい、と諭されているように思えます。龍安寺のつくばいで有名な「吾唯足知」という老子の言葉を思い出します。ただ、それを人々に分かりやすく、かつ深く伝えるには並外れて高い表現力が求められます。芸の道は厳しく、終わりというものがない世界です。盲目の男の歓喜、困惑、失望、悟りへと変化してゆく表情を演じきる野村万作の芸は至高というべきなのでしょう。

野村万作は、文化勲章を受章した年、奈良県川上村でゆかりの「川上」を上演しています。地元では、曲中の地蔵菩薩は、「投げ地蔵」と呼ばれる金剛寺の木造地蔵菩薩立像だとされているようです。役小角が、自ら彫った地蔵を大峰山から投げ、それが川上に降り立ったものとされています。川上村は、後南朝の自天王が殺害された南朝終焉の地でもあります。金剛寺では、自天王を偲ぶ「朝拝式」が600年絶えることなく行われています。併せ考えれば、狂言「川上」には、別な面が見えてくるように思います。自天王が殺害された長禄の変は、後南朝方が禁裏から奪った神器を、赤松氏の遺臣が川上村で奪還した戦です。1547年のことです。狂言「川上」の成立年は不明ですが、同じ頃だとすれば、後南朝の末路を語った曲ではないかとも思えてきます。

余談ですが、シネスイッチ銀座が、この10月、70年を超える歴史に幕を引きます。昨年、丸の内TOEIが閉館していますから、これで銀座から映画館が消えることになります。シネスイッチ銀座は、いわゆるミニ・シアター系の雄です。1989年に同館で公開された「ニュー・シネマ・パラダイス」が大ヒットし、ミニ・シアター・ブームを牽引したとされます。平面の床、やや高い位置のスクリーンという昔ながらの建付けは、いまや希少と言えます。有楽町・銀座界隈で開催される東京国際映画祭の会場の一つでもありました。映画祭も影響は免れないものと思います。今後のことは分かりません。恐らく跡地にはビルが建つのでしょうが、その一角にでも再オープンしてくれれば、と思います。(写真出典:oita-press.co.jp)

2026年9月25日金曜日

デザインの力

国立新美術館で開催中の「ピカソ meets ポール・スミス」展を見てきました。もともとは行くつもりなどありませんでした。ピカソ展としては凡庸なラインナップですし、いかに有名デザイナーとはいえ、展示室のレイアウトをいじったくらいでは面白くもないだろうと思っていたのです。ただ、親戚が連続で入選している二科展を見るために新美術館へ行ったので、ついでにピカソ展も覗くことにしました。というのも、その親戚がピカソ展を絶賛していたからです。展覧会というよりも、久々に見たピカソに感動していた様子でしたが・・・。いずれにしても、何の期待も持たずに展示室に入りました。ところが、いきなり驚きました。やられました。デザインのパワーを、まざまざと見せつけられました。

通常、美術展の展示レイアウトと言えば、限られたスペースに多くの絵画などを掲げることになります。キュレーターの工夫と言えば、テーマに沿った展示の順番くらいになるのでしょう。恐らく、キュレーターの皆さんは、日頃から、展示アイデアと制約条件の狭間で悶々としているものと思われます。そういう意味でも、今回の「ピカソ meets ポール・スミス」展は秀逸なアイデアだったのだろうと思います。キュレーターの夢だったと思われる”並べるだけではない展示”が、希代のデザイナーであるポール・スミスのブランド力をもって実現したわけです。各展示室が、絵画の色合い、テーマなどにインスパイアされたデザインになっています。例えば、青の時代の代表作「男の肖像」は、一面青く塗られた部屋に一枚だけ展示されていました。

陶器の皿を展示した部屋は興味深いものでした。展示室の三方には、何の変哲もない同じ白い皿が、壁を埋め尽くすように規則正しく掛けられています。正面の壁の中央にピカソの皿が数点掛けられています。他のピカソ展なら、隅のガラス・ケースに収められ、注目されることも少ないと思います。ポール・スミス流では、皿が注目されるだけでなく、展示室全体が一つのアートになっています。現代アートの世界では、展示室全体が作品化されることもありますが、クラシックな絵画の世界ではあり得ません。絵画の新しい楽しみ方とも言えます。一方で、ポール・スミスの解釈が押しつけられる、あるいは彼の作品化されるとも言えます。ただ、作品は完成した瞬間から作者の手を離れ独立した存在になるわけですから、それはそれで面白いと思います。

ポール・スミス、正しくはサー・ポール・スミスは、英国を代表するファッション・デザイナーです。ファッション・デザイナーとしては、ハーディ・エイミスに続いて2人目のナイトに叙されています。ポール・スミスは、1946年、ノッティンガムシャーに生まれ、24歳で自分の衣料品店を開いています。30歳でパリコレに参加し、1980年代にはロンドンの他に、東京やNYにも店を広げています。ファッション・デザイナーですが、ビジネスのセンスもなかなかのものです。また、実に多才な人でもあり、自動車、家具、内装、本の装丁、映画等々、多様な分野にデザインを展開しています。そのデザインは、”ひねりのあるクラシック”が身上とされます。ストライプは、彼のデザインの特徴の一つですが、一時期、日本でもカラフルなストライプの紙袋はトレンドでした。

「ピカソ meets ポール・スミス」展は、美術界に新しいトレンドを作るのではないかと思います。従来の点数を集めて開催する大規模展に加え、厳選された絵画を没入感あふれるレイアウトで見せる展覧会も流行しそうです。当初は、ブランド力のある画家や有名デザイナーとのコラボレーションが主体となるのでしょう。今回、会場のすべてが写真撮影可能になっていました。ここがヒットするための大きな要因になるのだろうと思います。森美術館では「ロン・ミュエク展」が、高額な入場料にもかかわらず、会期を延長するまでの大ヒットになりました。つまり、”映える美術展”ということで、美術界もSNSの影響は無視できないわけです。それはそれで、美術ファンを増やすという意味で結構なことだとは思いますが、行き過ぎには要注意です。(写真出典:artscape.jp)

2026年9月23日水曜日

博多の串焼き

近年、博多名物として知られるようになったのが「とりかわ串」です。焼き鳥屋の鶏皮は美味しいのですが、珍しくもないメニューです。名物と言われてもピンときませんでした。ところが、博多のとりかわ串は、独特な焼き方で、その美味さは中毒性すらあります。一般的な焼鳥では、切った鶏皮を串に刺して焼きます。とりかわ串は、首あたりの皮を伸ばして、串にグルグル巻き、一晩、二晩、タレに漬け込んでから、表面をカリッと焼き上げています。香ばしく、うま味があって、かつクドくないので、本当に何本でも食べられます。とりかわ串は、1971年頃、博多の小さな焼鳥屋で古賀貞己が考案したとされます。鶏皮嫌いの娘に、鶏皮を美味しく食べさせたいと思い、試行錯誤した結果と聞きます。

博多の串焼きと言えば、なんといっても、豚バラです。これも、とりわけ珍しいものではありません。ところが、博多の豚バラ串は、なぜか美味いのです。過日、四ツ谷で、炭火を使った博多焼鳥の店へ行きました。とりかわ串は合格点でした。ただ、豚バラ串は、美味しいのですが、博多のものとは違いました。博多の豚バラ串の特徴の一つは、肉の赤身と脂身のバランスです。ちょうど半々くらいのイメージです。その店のバラ肉のバランスは博多風だったのですが、肉が厚すぎました。博多では、肉が適度に薄く、焼き上がりがカリッとしています。薄めにしていることは、焼き上がりを早くする工夫でもあるのでしょうが、余分な脂を落とし、かつ、うま味を閉じ込める効果があるものと思います。もちろん、火力の強い炭火で焼くことは大前提です。

また、近年は、野菜巻き串が、新たな博多名物になっています。レタス、青ネギ、アスパラ、トマト、えのきといった野菜を、豚バラや牛肉で巻いて串に刺し、焼いたり蒸したりします。ヘルシーでインスタ映えするというので、若い女性からブームに火が着いたと言われます。博多の屋台で、変わり串として出す店もあったようですが、ブームを先導したのは「ねじけもん本店」とされます。もともとは東京の店だったようですが、本場の博多で勝負したいと、15年ほど前に出店し、ブームを巻き起こしました。アスパラ豚などは古典的とも言えますが、レタス豚、青ネギ豚、プチトマト豚などは、もはや定番と言えます。店によっては、様々な新しいアイデア串が提供されています。ただ、野菜巻きのポイントは、厚過ぎず、薄過ぎずという肉の厚さにあると聞きます。

福岡県の焼鳥屋は、総数、人口10万人あたりの数、ともに全国トップです。その背景の一つには、鶏肉にこだわらない串焼の文化があるのだろうと思います。そして、その文化を生んだのは、間違い無く屋台の文化なのでしょう。狭い屋台での調理には限界があります。あらかじめ串打ちしておき、注文が入れば焼くだけという串焼は、実に屋台向きのメニューと言えます。豚バラ串は、絶妙な厚さ、強い炭火、赤身と脂身のバランスなど、まさに屋台ならでは環境が生んだ逸品なのでしょう。また、福岡市は屋台の数も全国一です。現在は100軒程度ですが、ピークだった1960年代には400軒を超していたようです。その競争の激しさが絶品の串焼を生んだとも言えそうです。

博多の友人は、博多の焼鳥消費量が多い最大の理由はキャベツだと言い切っています。博多で串焼の店に入ると、まず、酢ダレがかかった生のキャベツが出てきます。お通しなのかサービスなのか判然としませんが、とにかく、だまっていても出てきます。通常、おかわりし放題です。一串食べて、キャベツをいけば、口もさっぱりして、次の串を美味しくいただけます。また、次の串の出が遅い場合にも、キャベツでもたせられます。確かに、酢ダレがかかった生のキャベツは、串焼きの消費拡大に貢献しているように思えます。このスタイルは、1964年、博多の「天下の焼鳥 信秀本店」の創業者・安岡英雄が始めたとされます。大阪の串揚げ屋のキャベツにヒントを得たようです。もはや、キャベツは名脇役から準主役に出世したようにも思います。(写真出典:tabelog.com)

2026年9月21日月曜日

「オデュッセイア」

監督:クリストファー・ノーラン    2026年イギリス・アメリカ

☆☆☆☆ー

ここまでのところ、今年、最も期待され、最も評価され、最も稼いだ映画ということになります。クリストファー・ノーランの最高傑作という声もあります。原作の「オデュッセイア」は、「イーリアス」と並ぶ古代ギリシャの二大叙事詩であり、ホメロス作とされます。もちろん、原作のすべてのエピソードを取り込んでいるわけではありせんが、ストーリーのフレームは原作に忠実なものになっています。そのうえで、現代的解釈が大胆に加えられています。映像、演出の巧みさも含めて、さすがクリストファー・ノーランだと思います。ただ、原作のモティーフの多さが禍したのか、監督がテーマとしたところへの収束がやや乱れているように思います。 

クリストファー・ノーランがテーマとしたのは、大雑把に言えば、互いを尊重することによって、世界は平和を取り戻せる、ということなのでしょう。トロイの木馬は、有名な話ですが、物証も文献もないため、事実とは確認されていません。ただ、シュリーマンが遺跡を発掘したことから、トロイの存在だけは、ほぼ証明されています。クリストファー・ノーランは、トロイの木馬を欺瞞の始まりとし、以降、人類は互いにリスペクトすることを忘れ、今に続く混乱が生み出されたと言っているのでしょう。ゆえにオデュッセイアはじめギリシャ軍は帰国に苦労し、帰国しても苦難が待ち受けていたというわけです。映画のなかで、オデュッセイアは記憶が回復するとともに、そのことに気付き、無意識に帰国することを避けているのかもしれないことが暗示されています。

そのテーマを訴求するための重要なモティーフとしているが、”ゼウスの掟”です。一般的にはクセ二アと呼ばれますが、古代ギリシャ社会におけるおもてなしの概念です。客人や旅人はゼウスに守られている、あるいは姿を変えたゼウスであると信じられており、おもてなしをすることはゼウスに従うのと同じとされたわけです。オデュッセイアの妻・ペネロペに求婚するために集まった数十人は、主のいない城で数年間にわたり饗応を受けます。オデュッセイアの息子テレマコスは、父の情報を求めてスパルタに行き、王に歓待されます。クセニアを現代的に理解すれば、他者の存在を認めることであり、他者をリスペクトすることなのだろうと思います。オデュッセイアは、それを悪用して、トロイの木馬を作り、トロイの神殿と街と人々を壊滅させたわけです。

オデュッセイアが帰国できないのは、息子を殺されたポセイドンのせいだとされます。しかし、ポセイドンの怒りとは、とりもなおさず人間の欺瞞であり、人間は自ら自分の首を絞めていたわけです。映画のなかで、ゼウスやポセイドンといった神々は、直接的に姿を現わしていません。これこそ、まさにクリストファー・ノーランが、テーマを訴求するためにねらった演出なのでしょう。また、ギリシャの人々が、その来襲を恐れる「海の民」も、ギリシャ人自身の欺瞞を意味しているのでしょう。映画の中で、しばしばオデュッセイアが見る幻影としてゼンデイヤ演じるアテナが登場しますが、オデュッセイア自身の葛藤を象徴しているのでしょう。また、シャーリーズ・セロン演じるニンフ・カリュプソは、オデュッセイアの犯した罪から逃れたいという欲求を現します。

クリストファー・ノーランの映画では、いつも音楽が重要な要素となっています。今回も同様です。通常の古代劇ならば、荘厳なオーケストラの劇伴で盛り上げるところですが、本作では、あえて電子音楽に古楽器を乗せた音楽が使われています。ホメロスの現代的解釈、あるいはクリストファー・ノーラン的理解であることを強調しているのでしょう。あるいはホメロスの原作への敬意なのかもしれません。いずれにしても、今回の音楽は饒舌に過ぎるように思いました。むしろ、叙事詩としては、劇伴を抑え、無音と効果音を巧みに使うべきだったのではないかと思います。ハリウッドの俳優を使っていることにも、多少、疑問を感じました。また、世界一の美女ヘレネー役にルピタ・ニョンゴを起用していることには、やや驚かされました。監督の意図が伝わる攻めたキャスティングです。(写真出典:eiga.com)

MKウルトラ