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| 三好義継 |
歴史上、殺害された征夷大将軍は3人います。鎌倉幕府3代将軍・源実朝、室町幕府6代将軍・足利義教、そして足利義輝です。他に鎌倉幕府2代将軍・源頼家も謀殺されていますが、既に北条氏によって将軍職を追われていました。実朝、義教の場合は、明らかに怨恨が原因です。義輝の場合だけは、政治的背景や因縁はあるものの、怨恨とは言えません。当時の政治状況は複雑怪奇なもので、上品に言えば流動的、実態としては混乱の極致でした。将軍の影響力は弱まり、管領・細川家が権力を振うものの内紛が起こり、その家臣だった三好家が台頭します。しかし、その三好家にも内紛が起こり、周辺の大名たちも含め、手を結ぶ、裏切る、また和合するといったことが繰り返されます。将軍は、戦の都度、右往左往することになり、三好家とも幾度か戦っています。
三好義継は主君殺しとされますが、世はまさに下剋上の時代でした。ただ、下剋上といっても、その多くは政権奪取ではなく主君押込でした。主君押込とは、問題のある主君を重臣たちが排除することです。その後、主君の血縁者が後継に立てらるので、政権奪取ではありません。三好義継は、義輝殺害直後に、自らの名を義継に改名し、あたかも政権を引き継ぐ意志を示しているようにも思えます。しかし、自ら将軍職を求めるような行動は取っていません。大名たちや世間から主君殺しという批判が強かったからかもしれません。そして、1年以上も経ってから、阿波に逼塞していた足利義維の子で義輝の従兄弟にあたる義栄を擁立し、将軍にしています。結果として、主君押込の体裁にはなりましたが、事前に計画されていなかったことは明らかです。
つまり、三好義継の主君殺しは、実に計画性に乏しいということになります。三好勢は、主な指導者を次々と亡くして気勢が削がれていました。一方、その隙に、将軍・義輝が勢いを盛り返してきたことに焦りを覚えていたはずです。恐らく、三好義継らが二条御所へ押し寄せたのは、義輝を牽制すること、あるいは三好義継が三好勢のなかでのリーダーシップを確実なものにすることが目的だったのでしょう。義輝殺害が目的であれば、他にも機会がありましたし、わずか200名がいるだけの二条御所に1万を超える大軍で押し寄せる必要もありません。取次の不手際がきっかけとなって、三好勢がなだれ込んだともされています。三好家当主は義継ながら、三好三人衆や松永義久と船頭が多く、統制が取れていなかったことは、事後処理の混乱からしても明らかです。これが偶発的な永禄の変が起こった背景だったとも言えます。
その後、第14代将軍義栄も都に入ることなく逝去し、三好勢には内紛が起こります。その間に、義輝の遺児・義昭を擁した織田信長が畿内に入り、三好勢は壊滅させられています。15代将軍となった義昭も信長に追われ、240年続いた室町幕府はついに滅びます。その後、信長は本能寺に倒れ、秀吉が天下を統一し、徳川幕府の誕生へと歴史は動いていきます。つまり、意味不明な永禄の変ではありますが、日本の中世の終わりの始まりとなった大事件だったわけです。永禄の変自体は偶発的に起こったものの、混乱の中世が行き着いた必然だったと言うこともできるのでしょう。永禄の変から300年後、脱藩した水戸浪士たちによって桜田門外の変が起こり、幕末の混乱、明治維新へとつながります。歴史の転換点には、しばしば理不尽とも言える事件が起こります。それは氷山の一角であって、その背景には、常に歴史の大きなうねりがあるわけです。(写真出典:sengoku-his.com)





