監督:源 孝志 原作:永井紗耶子 2026年日本
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永井紗耶子の同名原作は、2019年から小説新潮に連載され、2023年に単行本が出版されています。その年の直木賞、山本周五郎賞を受賞し、各種ミステリー・ランキングでトップ10入りしたベストセラーです。江戸末期の仇討ちを巡る物語が、芝居小屋を舞台に展開するというミステリーです。2025年には、松本幸四郎・市川染五郎親子によって歌舞伎化されています。芝居小屋が舞台ですから、相性が良かったのでしょう。そして、今年、NHK「京都人の秘やかな愉しみ」の源孝志の監督・脚本で映画化されました。”京都人”で源孝志のセンスの良さに惚れ込んでいたので楽しみにしておりました。ただ、パリに行っている間に公開され、終了していました。今般、ようやくAmazon Primeで観ることができました。レベル以上の娯楽映画だとは思いますが、映画的な広がりや深さには欠けるところがあります。原作は、ミステリー仕立てながら、登場人物たちがもっと深掘りされているようです。恐らく、仇討ちを通して武家社会の硬直性、あるいは芝居小屋の世界を通して江戸の社会の矛盾が表現され、作品に深みを与えているのでしょう。映画は、プロットを追うことに注力したきらいがあり、やや趣きに欠けるところがあります。源孝志のそつのない演出はなかなかのものだと思いますし、センスの良さも感じさます。ただ、プロットに追われたせいなのかも知れませんが、やはりTVの人だな、と思ってしまいます。その最大の理由は、思想性の薄さなのでしょう。管理社会に対する批判はあるのですが、通り一遍で表面的なところがあり、登場人物の陰影も薄くなっています。
仇討ちは、制度化されていました。家や一族の結束、そして武力が武家の本質だと思います。仇討ちは、幕府が主導する管理社会と武家の本来的特性とのギリギリの妥協点なのだと思います。妥協ですから、そこには矛盾も生じます。江戸期であっても、殺人は幕府か藩が処罰することになっていました。殺人犯が逃亡した場合、直系卑属にその処罰を委託する形で仇討ちが許されました。ただし、仇討ちは公的に承認・管理された場合に限ります。仇討ちを認められた者は、敵を討ち取るまで国に戻ることも、家督相続することも許されませんでした。なかには数十年を要する例もあったようです。また、仇討ちされる側にも正当防衛が認められ、返り討ちは無罪とされました。制度としての仇討ちは、1873年(明治6年)になって、ようやく禁止されています。
映画の舞台となった木挽町の森田座は、実在した芝居小屋です。中村座、市村座と並び、幕府に公認された江戸三座の一つでした。歌舞伎座などでよく見かける黒・柿色・萌葱色の三色の幕、いわゆる定式幕は、森田座の幕から始まっています。また、劇中に登場する立作者・篠田金治も、実在する武家出身の狂言作者ですが、その名を借りているだけです。木挽町は、江戸期、現在の歌舞伎座あたりに存在した地名です。とは言え、ストーリーは、まったくのフィクションです。悪所と呼ばれた芝居小屋、身分制度の外で河原乞食と呼ばれた歌舞伎役者、いずれも管理社会の外側の存在です。本作は、管理社会の外にはじき出された者たちが、管理社会に一泡吹かせるという構図を持っているわけですが、残念ながら、そこの掘り下げが浅くなっています。
娯楽作品としては、まずまずの出来だとは思うのですが、興行的には振るわなかったようです。印象的には、東映のマーケティングに限界があったように思います。これが東映の現状と言えるのかもしれません。東映は、五社の一角を占め、任侠映画、実録ヤクザ等々、TVと一線を画すアウトロー路線で1970年代までは興業成績トップを続けました。高度成長のひずみ、カウンター・カルチャー等を背景に大衆を惹きつけていたわけですが、1980年代以降は低迷します。健全娯楽路線をとることで東映の後塵を拝してきた東宝が、今や一人勝ち状態になっています。本作を、アウトロー路線全盛の頃の東映が撮れば、随分とエッジの効いた作品になったのではないか、などと夢想しながら観ました。(写真出典:eiga.com)





