2026年10月27日火曜日

けんちん汁

愛宕にあった蕎麦屋「志な乃」は、ごつごつとした十割そば、異様なほどにコシの強いうどん、そして絶品のけんちん汁が人気の行列店でした。一番人気は”けんちん合い盛り”。そばとうどんの合い盛りに、けんちん汁というセットです。2007年には、マッカーサー道路の拡張工事に伴い、赤羽橋に移り、昨年、惜しまれながら閉店になりました。移転後の店には数回しか行けませんでした。もっと行っておけば良かったと思います。ご兄弟がやっているという姉妹店が、押上(東日本橋から移転)にあります。そばは本家と多少異なるものの、けんちん汁はさすがの味です。神楽坂にも志な乃があります。行ったことがありませんが、メニューに合い盛りもけんちん汁もあるので、恐らくご親戚なのだと思います。

けんちん汁は、精進料理の定番であり、家庭料理としても広まっています。大根、人参、ゴボウ、里芋、こんにゃく、豆腐を胡麻油で炒め、昆布や椎茸の出汁で煮込んで醤油で味付けをします。農水省の100年フードでは、神奈川県の郷土料理とされています。寒い地方の料理と思っていたので、やや意外な印象を受けますが、実は、けんちん汁の発祥が関わっていました。鎌倉の建⻑寺を開いた蘭渓道隆禅師が、けんちん汁を考案したとされているのです。よって、建長汁と書き、なまってけんちん汁になったとされます。蘭渓道隆は、1246年に中国から渡来して臨済宗を広めたとされます。北条時頼の依頼を受けて建長寺を開山しました。往時、中国から来日した僧たちは、まずは建長寺に身を寄せたものだそうです。けんちん汁も中国渡来と言っていいのでしょう。

しかし、これは俗説であって、本来は、中国伝来の普茶料理や卓袱料理の一品「巻繊(けんちん)」に由来するという説があります。巻繊は、根菜類、椎茸、豆腐や麩を繊切りにし、油と醤油で炒め、湯葉や油揚げで巻いて揚げた料理です。普茶料理は、黄檗宗を開いた隠元禅師が中国からもたらした精進料理です。なかでもゴマ豆腐は有名です。ゴマ油を使った調理法は普茶料理から始まったとされています。卓袱料理は、長崎で生まれた和洋中がミックスされた料理です。巻繊は、炒めた野菜を包まずに食すスタイルも生まれ、それを汁の具材としたけんちん汁が考案されたというわけです。普茶も卓袱も江戸初期の誕生とされますので、建長寺説よりも時代は下ります。ただ、ゴマ油を使う料理が伝わった時期からして、けんちん汁の建長寺発祥説には無理があります。

思えば、日本は、中国伝来の食材や料理であふれています。中世までの伝来に大きな役割を担ったのは、遣唐使、留学僧、そして渡来僧ということになります。仏教僧がもたらした食材や食事は、布教活動とともに全国に広がり、定着していったわけです。古くは鑑真が伝えた砂糖などが有名ですが、隠元禅師がもたらしたものはとりわけ大きかったように思います。普茶料理だけでなく、煎茶の製法と飲み方を伝え煎茶道の開祖ともなっています。また、その名を残すインゲン豆、スイカ、モヤシなどの食材も持ち込んでいます。また、木魚、テーブルと椅子、明朝体文字等も隠元禅師が伝えたとされます。とりわけ、ゴマ油で炒める手法を伝えたことは、その後の和食の文化に大きな影響を与えたと言えます。けんちん汁は、隠元汁と呼んでもいいくらいだと思います。

ところで、志な乃のけんちん汁をいただく際には、なぜ美味しいのか、いつも考えていました。隠し味としてカレー粉、あるいはクミンが使われているのではないかと思ったこともあります。しかし、本当のところは、使っているゴマ油が特別だったのではないでしょうか。日本のごまは、99.9%が、アフリカと南米からの輸入に頼っています。ゴマの収穫や選別は機械化することが困難であり、結果、人手がかかりすぎることが要因とされます。国内産としては、鹿児島県の喜界島のものが有名ですが、長野県も黒ごまの産地として知られます。志な乃という店名からして、長野県にゆかりがあり、希少な黒ごまの油を入手できていたのではないかと想像します。店の人に聞いておけば良かったな、と思います。(写真出典:sirogohan.com)

2026年10月25日日曜日

清経

芳年画清経
今年も、厳島神社の観月能を観ることができました。今回は、第28回になります。人間国宝・友枝昭世氏も、86歳になりましたが、相も変わらず見事な舞を見せてくれました。観月能は、満月かその前後で開催されますが、今年は、眉月の夜となりました。いつもなら、上演開始とともに潮が満ちてくるのですが、今回は大潮の3日前ゆえ、観客席に着いた頃には、能楽堂も客席の回廊も既に海の上でした。曲は世阿弥の「清経」。平清経は、平家が都落ちした年、一門の将来をはかなんで入水しています。壇ノ浦の戦いの1年半前のことであり、一門には衝撃が走ったとされます。潮が満ちた観月能では、波の音が少し気になるほどだったのですが、それはそれで清経を上演するには相応しかったようにも思います。

平清経は、重盛の三男として、1163年に生まれています。横笛の名手だったようです。武士というよりは、貴族の御曹司という風情だったのでしょう。都落ちした平家は、西国を足場に巻き返しを図ります。当然、太宰府も確保しておくべき拠点であり、清経が送り込まれたようです。ただ、重盛の臣下だった緒方惟栄が源氏に寝返り、清経を太宰府から追い落とします。清経は、落ちのびた豊前国柳浦、現在の宇佐市の沖合で入水したとされます。後の壇ノ浦における平家の滅亡が予兆されているかのようです。巻き返しを図ろうとしている一門にとっては、ある意味、不吉な出来事だったのでしょう。ちなみに、緒方惟栄という人は、頼朝に追われた義経を匿うために、豊後国竹田に岡城を築いています。岡城は、滝廉太郎の「荒城の月」のモデルとされています。

世阿弥の「清経」は、大胆に脚色した夢幻能になっています。都の清経の妻のもとに、清経の悲報と遺髪が届きます。妻は、再会の約束を果たさなかった夫を恨み、遺髪の受取りを拒みます。妻の夢に清経が現れ、遺髪を受け取らなかった妻を責め、死に至る経緯、修羅道の現実を話します。そして最後には、念仏によって往生します。観月能では、音取という小書きが付いており、笛が橋懸りに正対し、清経の霊を迎えます。清経が笛の名手だったことにちなみ、霊魂を笛で呼び出すかのような演出になっています。他では見かけない小書きですが、えも言われぬ妖しげな空気が漂います。ましてや、波の音が聞こえているわけですから、一層、幽玄さが増すわけです。友枝さんは、この小書きの効果を狙って眉月の夜を選んだのではないか、とさえ思いました。

「清経」に関する一般的な解釈としては、死してなお絶望感と夫婦愛の狭間で苦しむ清経が、戦乱のむごさ、諸行無常を象徴しているとされます。そして仏法によって救済を受けるわけです。実に世阿弥の夢幻能らしい曲とも言えます。それが正しい解釈なのでしょう。ただ、個人的には、清経の妻は平家一門を象徴しているようにも思えます。捲土重来を期して戦う平家一門のなかで、早々と戦うことを諦めた清経は裏切り者ということになります。しかし、都落ちした平家の人々は、明日は我が身という絶望感を心の奥底にかこっており、清経を単なる裏切り者として罵ることはできなかったのではないでしょうか。妻の夫への愛情、約束を違えたことへの憤りという複雑な心情は、そうした平家一門の心根を表現しているように思えるわけです。

お決まりとも言えますが、清経にも生存説が伝えられています。熊本県八代市の山中にある五家庄に伝わる伝承によれば、平清経は、壇ノ浦の戦いの後に伊予国今治に落ち延び、阿波国祖谷を経て、伊予国八幡浜から九州に渡ったとされます。清経は、豊後国の緒方家を頼ったとされ、姓を「緒方」に改め、その後、五家庄に移り住んだといいます。恐らく、他の平家落人伝説と同様、清経本人ではなく、平家方の侍が五家庄に落ち延び、清経を騙ったということなのでしょう。しかし、興味深いのは、ここに、清経を太宰府から追い落とした緒方惟栄が登場することだと思います。緒方惟栄が、頼朝から逃げる義経をかばったという話が、うまく使われているように思えます。得てして、こうした話のあやが使われると、事は真実味を増すものです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年10月23日金曜日

拷問

「ロマンティック街道」というネーミングは、マーケティング上の見事な成功例だと思います。ロマンティック街道とは、ドイツ南部のバイエルン州ヴュルツブルクからフュッセンまでの約400kmを指します。1950年、観光促進のために命名されたようです。ここで言う街道とは、幹線道路ではなく、観光ルートといった意味です。ドイツには、もともと休暇街道という概念があったようです。1927年に制定されたドイツ・アルペン街道が嚆矢とされます。現在も多くの休暇街道が存在します。その発想の元になったのは巡礼道ではないかと想像します。日本では、ロマンティック街道を、メルヘンチック、あるいはローマ的と誤認しがちですが、本来的には、ロマン主義的という意味です。

ロマンティック街道の中心の一つが、ローテンブルク・オプ・デア・タウバーだと思います。ローテンブルクは、タウバー川流域にあって、ニュルンベルクと共にフランケン地方を代表する街です。中世の街並みがよく保存されているローテンブルクは、世界中から観光客が訪れます。その歴史は、10世紀にまでさかのぼります。神聖ローマ帝国下では、皇帝直属の帝国自由都市として栄えます。17世紀の三十年戦争ではプロテスタント側として戦いますが、フランス軍に占領され、街は荒廃します。それが、中世の街並みを残すことにつながったといわれています。20世紀になると、ナチスが”最もドイツ的な街”と賞賛したことから、ある意味、ナチズムの聖地化します。第二次大戦で大きな被害を受けますが、世界中から寄附が集まり、街は再建されます。

見所の多いローテンブルクですが、最も印象に残っているのは「中世犯罪博物館」です。”犯罪”と言いますが、印象的には展示物の大半が拷問に関わっており、拷問博物館ではないかと思いました。拷問は、人間が共同体を構成して以来、強要の手段として世界中で行われてきたのでしょう。主に自白を得るための手段となったのは、中世ドイツでのことだったようです。神が裁くという神判から脱却するために自白が重視され、取り調べの延長線上で公然化されたようです。拷問を行う役人も生まれますが、その精神的負担を軽減するため、彼らは仕事中にワインを飲むことが許されていました。ワインが拷問を激化させたという説もあります。エスカレーションには、人間のサディスティックな面、創意工夫する能力、そして一神教の苛烈さも関係しているのでしょう。

最も印象的な拷問具は、アイアン・メイデンでした。複製品でしょうが、現物を見るのは初めてだったので恐怖を感じました。聖母マリアをかたどったという2mばかりの鉄製の人形は、内側に無数のクギが取り付けられています。中に入れられた人間は、全身をクギで刺される仕組みです。アイアン・メイデンは、中世には実在していなかったという説もあるようです。「苦悩の梨」も恐ろしい代物でした。鉄の器具を口の中にいれ、ネジで広げていくわけです。他にも恐ろしい危惧が並んでいましたが、恥辱を与えるための道具も多く展示されていました。これは取り調べの一環ではなく処罰ということなのでしょう。鉄の仮面や体を覆う樽などは、公衆の面前に晒すことで人間の尊厳を奪ったわけです。日本の村八分にも似て、共同体の根源に関わる処罰と言えます。

もちろん、現在は、国際法上も、各国の法制上も、拷問は固く禁じられています。しかし、今も、戦場で、警察で、あるいは私的にも拷問は続けられています。自白を得るためなら、自白剤を使えば済むことではないかとも思います。ただ、いわゆる自白剤は、意識を朦朧とさせる薬効しかなく、必ずしも確実に自白を得られるものではないようです。自白剤は。第一次大戦の頃に登場し、ナチスが徹底研究しました。その成果を引き継いだのが冷戦下のアメリカとソ連です。余談ですが、昔、アミューズメント・パークで、パイレーツに乗りました。ボート形の乗り物が振り子運動を繰り返すという恐ろしい代物ですが、いつ終わるか分からないところが、まさに拷問そのもの。「何でもするから、降ろしてくれ!」と叫び続けました。金を払って拷問を受けるなど狂気の沙汰です。降りてから製造会社を確認すると、ドイツのメーカーでした。納得しました。(写真出典:commons.wikimedia.org)

2026年10月21日水曜日

大原の里

京都・奈良への修学旅行で最も印象に残った寺の一つが大原の三千院でした。心に染みるような美しさだと思いました。その後、何度も京都に行きながら、ついに大原まで足を伸ばす機会はありませんでした。仕事で行けば時間がなく、観光で行けば洛中に見所が多く、なかなか比叡山麓の大原までは行けませんでした。今般、覚悟を決めて、半世紀ぶりに大原へ行ってきました。遠い遠いと思っていましたが、京都駅から地下鉄とバスを使って1時間弱で行けます。バスの本数が多くないことはネックになりますが、気になるほどではありません。とは言え、あれも見たい、これも食べたいという京都旅行で往復2時間は、贅沢な小旅行です。

今回、大原へ行く目的の一つは、味工房志野の本店と直営の飲食店へ行くことでした。志野は、ドレッシングやポン酢を製造販売する店です。15年ほど前、京都の人に教わり、以来、ドレッシングとポン酢は志野を使ってきました。お気に入りは「ゆずと大根のドレッシング」です。平生は、百貨店での催し物などで購入しているのですが、一度、大原の本店に行ってみたいものだと思っていました。また、お昼時にもあたるので、直営の「松門」での食事も楽しみにしていました。ところが、13時頃に行ってみると、店は満席、主なメニューは売り切れと残念な結果になりました。やむなく、バス停近くの店で、素朴な田楽定食をいただきました。もう一つ残念なことがありました。三千院で時間を使いすぎて、ねらっていた寂光院を訪れることができなかったのです。

寂光院は、出家して建礼門院となった平徳子が祈りの余生を送った尼寺です。建礼門院は、平清盛の次女にして、安徳天皇の生母でした。壇ノ浦の戦いのおり、安徳天皇や一門とともに入水します。しかし、源氏方に助けられ、結果、数少ない平家一門の生き残りとなりました。平家物語は、建礼門院の祈りによって「(平家一門が)みな往生の素懐を遂げるとぞきこえし」で終わります。他のバージョンもあるのですが、これが無常観を象徴する最も有名なエンディングだと思います。大原・寂光院は、平家物語ファンにとって、重要な聖地の一つと言えます。ちなみに、大原は赤紫蘇の産地であり、しば漬け発祥の地でもあります。このしば漬けという名称は、建礼門院によって名付けられたと伝わっています。残念ながら、寂光院と松門は次回の宿題となりました。

三千院は、多少、複雑な由来を持つ天台宗の寺です。三千院の歴史は、8世紀末、最澄が比叡山延暦寺を開山したおり、その一角に設けた「円融房」に始まるとされます。その後、寺院となって坂本に本拠を移し、梶井門跡と呼ばれます。そこへ堀河天皇の皇子・最雲法親王が入山します。親王は天台座主となり、大原に梶井門跡の政所を構えます。これが後の三千院になります。梶井門跡は都の船岡山に移転しますが、応仁の乱で焼失し、大原の政所を本坊とするに至ります。しかし、江戸前期、将軍によって御所近くの土地が与えられた梶井門跡は、再び洛中に移ります。明治になると、門跡は還俗し、梨本宮家となります。仏像などは再び大原の政所に移され、三千院と称することになりました。なお、その際、近隣の往生極楽院も寺の一部として取り込まれています。

三千院に取り込まれた往生極楽院は、12世紀末に建立された天台宗とは無縁の寺でした。しかし、今や、国宝・阿弥陀三尊像、そして重要文化財のお堂は、三千院を象徴しています。阿弥陀如来像は、高さ2.3m、やや前屈みになった大和坐りで、船底天井の空間を目一杯占める様は、実に圧倒的です。にも関わらず、入母屋造のお堂は小振りで、そのアンバランスが見事だと思います。そして、その苔むした前庭は得も言われぬ静かな風情を漂わせます。これが見たかったわけです。半世紀ぶりゆえ、感慨もひとしおでした。三千院は、わらべ地蔵も有名です。かつてアメリカ人の友人から、地蔵を庭に欲しいがどこで買えるのか、と聞かれました。地蔵は売買するものじゃないと答えました。彼がイメージしていたのは、このわらべ地蔵だったのかと、今さらながらに気付きました。これなら買えます。悪いことをしたな、と反省した次第です。(写真出典:kyoto-design.jp) 

2026年10月19日月曜日

越後七不思議

新潟県には親鸞に関わる”越後七不思議”という伝承があります。例えば、本所七不思議などとは異なり、越後七不思議は、植物や魚といった自然界の希少種だけで構成され、見ようと思えば見れるものばかりです。親鸞聖人が、越後配流となったのは1207年のことです。律令時代には越後国の国府が置かれていた直江津、現在の上越市の居多ヶ浜に上陸してから、7年間を過ごしたとされます。配流から5年後に勅許の宣旨が出ていますが、親鸞は、しばらく越後に留まったわけです。越後は、佐渡島を中心に流刑地として知られ、順徳上皇、日蓮、世阿弥なども配流となっています。越後へ流された者のなかで、最も強い影響を残したのは親鸞だと思われます。ちなみに、新潟県の寺院の4割以上が浄土真宗となっています。

全国の仏教寺院数は、約76,000。宗派別に見れば、最も多いのが曹洞宗の14,600寺で約20%を占めます。次いで浄土真宗本願寺派が10,500寺で14%、真宗大谷派が8,800寺で12%と続きます。ただ、浄土真宗全体として見れば、21,000寺で28%となり最大勢力と言えます。北陸三県では7~8割が浄土真宗となっています。一向一揆の歴史を持つ国々ですから、当然と言えば当然です。北陸に一向宗(浄土真宗)が多い理由は、紛れもなく、本願寺中興の祖とされる蓮如の功績ということになります。比叡山延暦寺の迫害を受けた蓮如は、越前吉崎に吉崎御坊を建立し、北陸一円、遠くは奥州まで門徒を広げています。それが一向一揆へとつながり、百年に渡る“百姓の持ちたる国”を実現していくことになります。新潟県に浄土真宗が多いのは、親鸞の影響ばかりではないのでしょう。

さて、越後七不思議ですが、以下の通りとなります。

逆さ竹 枝が下向きに生える枝垂れタケ。親鸞が竹杖を逆さに土に挿したものに根が生えたとされます。天然記念物にも指定されています。

焼鮒 親鸞が焼いた鮒を池に戻すと生き返ったとされ、以降、焦げ目のような模様を持つ鮒が捕れるようになります。

八房の梅 ひとつの花に八つの実がなる梅ですが、親鸞が梅干しの種から育てたとされます。ただ、八房の梅は他にもあるようです。

珠数掛桜 親鸞が桜の枝に数珠を掛けると、花が数珠つながりに咲くようになったとされます。天然記念物に指定されています。

三度栗 一年に三度花が咲き、三度実がなる栗です。親鸞が焼栗を植えて育てたとされます。

繋ぎ榧 糸を通したような穴のある実がなるカヤの木ですが、やはり天然記念物に指定されています。農民が年貢代わりに納めた糸でつないだ榧の実を、親鸞が植えたとされます。

片葉の芦 葉が片側にだけ伸びる芦。親鸞が祈ったところ、片葉になったとされます。実は、本所七不思議の一つにも”片葉の芦”があります。

確かに珍しい品種ばかりなのでしょうが、親鸞との関わりは後付けとしか思えません。逆に言えば、それほど当地で親鸞が尊敬を集めていた証左ということになります。法然が開いた浄土宗は、南無阿弥陀仏と唱えれば、阿弥陀仏に救われ、極楽浄土へ往生できると説きます。末法とされた世にあって、鎮護国家の宗教だった仏教を個人救済の宗教に変えたとされます。法然の高弟であった親鸞は、法然の他力本願をさらに進め、絶対他力、つまり、修行ではなく阿弥陀仏の力によって信心が生まれ、往生できるとします。いわゆる念仏為本から信心為本へ、出家中心から在家中心への展開です。まさに宗教革命であり、浄土真宗が人々に熱狂的に受入れられたのも頷けます。仏教ではありますが、一神教に近いと言うこともできます。越後七不思議は、親鸞というよりも、阿弥陀仏の御業ということなのかもしれません。(写真出典:hongwanji.kyoto)

2026年10月17日土曜日

迎賓館

迎賓館とは、国が国賓を接遇するための施設であり、日本では、内閣府の施設等機関として、迎賓館赤坂離宮と京都迎賓館の二ヶ所が設けられています。赤坂離宮は、紀州藩邸跡に建ちます。明治宮殿完成までの一時期、仮皇居が置かれていました。現在の建物は、東宮御所として1909年に竣工しています。しかし、明治天皇のお気に召さなかったことから、東宮としては使われず、離宮とされました。その後、裕仁親王(後の昭和天皇)が東宮として使った時期もありました。1960年代に入ると海外からの賓客が増えます。そこで、離宮は迎賓館として整備されることとなり、1974年、現在の姿になっています。設計は、ジョサイア・コンドルの弟子で京都国立博物館などを設計した片山東熊。脱亜入欧の思想に基づくネオ・ゴシック様式の宮殿となっています。

実に立派な建物であり、意匠も見事なものです。国宝にも指定されています。ところが、どうもしっくりこないところがあります。明確に、何が問題かは答えられないのですが、映画のセットのような違和感、あるいは借物感を感じます。日本の古い洋館がすべてそうだというわけではありません。例えば、赤坂離宮の前に迎賓館として使われていた旧朝香宮邸、現在の東京都庭園美術館などは、是非とも住みたいと思うほど好きな建物です。明治天皇がお気に召さなかった理由は分かりませんが、やはりしっくりこなかったのではないかと想像します。それが理由とは思いませんが、2005年、純和風の京都迎賓館が開館しています。公式には、日本の歴史や文化を象徴する京都で賓客をもてなし、日本への理解と友好を深めるために建設されたということになります。

1990年代初頭、平安建都1200年を記念し、地元から国へ和風迎賓館を求める動きが起こり、1994年に建設が閣議決定しています。京都御苑内の北東部、御所の東に、地上一階、地下一階の純和風平屋建築として建てられました。2016年から、限定的ながら一般公開も行われています。希望者は、事前に宮内庁へ申し込む必要がありますが、空きがあれば当日参観も可能です。一般参観は、一日当たり360名に限定され、基本的には90分のガイドツアー方式で行われます。見てみたいと思っていましたが、今般、初めて参観してきました。日本の建築、造園、工芸における伝統技法の粋が集められ、現代技術によって支えられている最高級の施設だと感得しました。京都御苑内にあり、築地塀を巡らせた施設は、まさに日本の迎賓館に相応しい建築だと思いました。

最も印象に残ったのは、桐の間、水明の間、そして庭園でした。桐の間は、56畳の掘炬燵形式の和室宴会場です。随所にレベルの高い意匠が施されていますが、とりわけ座卓は長さ約12メートルの等厚合板に漆黒の蝋色漆塗りの逸品です。ちなみに、料理は、京都の複数の老舗料亭が請け負い、京料理を出すようです。次の間もしつらえてあり、芸子舞子の踊りや邦楽の演奏が披露されることもあるようです。正直なところ、これほどの座敷は存在するわけもなく、間違い無く日本一の高級料亭だと思いました。水明の間は、首脳会談などが行われる最も格式の高い部屋であり、平生は非公開です。ラッキーなことに、たまたま、メンテナンス中だった夕映の間の代替として参観させていただきました。池に張り出して作られ、庭の緑や水面の光を取り込む特別な部屋です。

水をテーマとする水明の間では、意匠も水に関連したものが多く配されています。天井は舟天井であり、小振りなシーリング・ライトが多く配されています。ただ、和紙と組子をイメージした天井のモダンな細工が光を和らげています。椅子は、波立涌文様の西陣織が置かれています。そして、青海波の段通は所々切り込みが入れられ、立体感を出しています。これほどのものは山形のオリエンタル・カーペットにしか出来ないだろうと思いましたが、調べて見ると、案の定でした。庭は、京都の老舗”植藤”の第16代 佐野藤右衛門の作庭です。伝統的な日本庭園の様式をしっかり踏襲しつつ、かつて何かに使われていた石材を用いるなど随所にモダンなアイデアが活かされた庭になっています。池を取り囲むように作られた京都迎賓館は、水の迎賓館でもあります。(写真出典:ja.kyoto.travel)

2026年10月15日木曜日

ラーガ

60年前のことですが、植草甚一が、シタールが好きな男なんぞ、ホモに違いない、と書いていました。今なら、突っ込みどころ満載な不適切発言です。1960年代、シタールはブームの様相を呈していました。ブームを牽引したラヴィ・シャンカールは、タブラ奏者のアラ・ラカと共に、世界を巡り、西洋音楽と共演するなど、インド音楽の認知を高める活動をしていました。折からのサイケデリック、東洋思想ブームにシタールの音色がマッチし、若者たちが飛びつきブーム化したわけです。ただ、当のラヴィ・シャンカールは、そのことを良く思っていなかったようです。インド音楽とロック、インド文化とヒッピー文化は相容れないとして、ウッドストックを最後に、ロック・フェス出演を拒否します。ただ一つの例外は、自らが提唱したバングラデシュ難民救済コンサートであり、チャリティ・コンサートの先駆けとなりました。

ラヴィ・シャンカールの娘で、当代随一のシタール奏者といわれるアヌーシュカ・シャンカールのライブをブルーノートで聴きました。ビッグ・ネームゆえミュージック・チャージは高いものの、今年、一番退屈なライブでした。父親は、インド文化の素晴らしさを世界に伝えようとしましたが、娘は西洋文化にすり寄ってインド文化を安売りしているように思えます。シタールで味付けしたイージー・リスニングといった風情の音楽です。それを知った上でライブに行ったのは、さすがに伝統的な演奏も行うのだろうと期待したからです。ラーガの伝統に則った即興演奏も聞かせましたが、ごく限られたものでした。近年のアルバムに収録された曲など、あえてシタールの特徴を消しているようにも思え、まるでチェット・アトキンスの演奏を聴いているようでした。

ジャズ、サンバ、ソンなどは、西アフリカ音楽と西洋舞曲が融合した音楽とされます。二つの文化が交差すれば、新しい文化が生まれます。しかし、事はそう簡単でもありません。いずれかをメインに挿し木を行えば、味付けや彩りが変わるだけで融合とは言えません。アヌーシュカの音楽は、このレベルに留まっているということです。それが証拠に、新たなジャンルが生まれたわけでも、フォロワーが存在するわけでもありません。ビートルズ、ストーンズ等が、一時期、こぞって取り入れたインド・テイストとさほど変わらないように思います。欧米人に媚びてエキゾチシズムを強調した商業的要素の強い音楽に聞こえます。もっとも、本人的には、父親と同様に、インド音楽を世界に伝える活動の一手法と信じて行っていることなのかもしれません。

インド音楽にロック要素を入れた例として、1980年代のイギリスのバンド”モンスーン”があり、ヒット曲も生まれますが、すぐに飽きられました。その後も、インド風バンド、あるいはインドのロック・バンドも登場しますが、ジャンルが確立されることはありませんでした。最も成功しているのは、インドの伝統的な感性に西洋音楽の技法を巧みに取り入れたボリウッド映画の音楽かもしれません。ジャズやサンバは、楽譜の上で論理的に生み出されたわけではありません。演奏者が、即興で演奏している最中に、偶然、新しいグルーブを見つけ、他の多くの演奏者が、それにアイデアを加えることで体系化されていきます。それぞれの体内にあった感性が、欧州舞曲という新しい刺激を受けて生まれたスポンテニアスな音楽だったとも言えます。

シタールとタブラは、13世紀イスラム王朝のスルタンに仕えた大詩人アミール・ホスローが生み出したとされます。 ペルシャ由来の3弦楽器セタールとインド古来の楽器ヴィーナが合体して生まれたとされます。ヒンドゥーとイスラムの融合例なのかもしれません。インド音楽は、数百に及ぶとされる旋法のラーガと数十のリズムのターラで構成されます。ヴェルクマイスターやバッハが生み出した西洋のハーモニーとは、全く異なる、より高度な精神性を備えています。シタールとタブラさえあれば、ラーガとターラは、ヒンドゥーの全宇宙を表現できます。完全性を有するラーガとターラが、わざわざへりくだって、より簡便な音楽に合わせる必要性などなく、そもそも無理があります。インド音楽とバッハの西洋音楽が融合することなどあり得ないと思います。それにしても、名手アヌーシュカ・シャンカールのラーガを聞いてみたいものだと思いました。(写真出典:en.wikipedia.org)

けんちん汁