古事記の序文には、帝紀・旧辞に基づき編纂したと記述されています。帝紀は天皇の系譜、旧辞は出来事や伝承が収録されていたようです。いずれも現存していません。645年の乙巳の変の際、朝廷の書庫が炎上し、多くの記録も焼失したようです。口承だけで伝わっていた歴史を、681年、天武天皇の命により編纂したのが帝紀・旧辞とされます。それを底本として8世紀に成立したのが記紀です。欠史八代が系譜だけの記載となった理由として分かりやすいのは、編纂時、帝紀のみが存在し、旧辞の八代分が失われていたということなのでしょう。ないしは、旧辞は存在していても、そもそも八代に関する記述がなかったのかもしれません。さらに、八代に関する他の口承・伝承もなかったということなのでしょう。天孫家の影の薄い時代だったのかもしれません。
纏向遺跡の発掘以降、最初の実在天皇は、その名の通り、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)、つまり崇神天皇とする説が有力です。崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと、卑弥呼とされる)は、部族連合のリーダーとして倭国大乱を治めたとされます。とすれば、崇神天皇に先立つ欠史八代は、日向から大和へと移った天孫家が、地盤を固め、部族連合を形成していく雌伏の時代だったのでしょう。記載すべき出来事に乏しい時代とも言えます。大王(おおきみ)となった天孫家には、正統性や権威の根拠となる神話が必要でした。イザナギ・イザナミ、天照大神、神武天皇へと続く神話は、太古の昔の話であり、創作しやすいと言えます、最も難しいのは、実在性の高い崇神天皇へのつなぎ部分だったのではないかと思われます。
崇神天皇が治めたとされる倭国大乱は、魏志倭人伝など中国の史書に簡単な記述があるばかりで、ほぼ何も分かっていません。2世紀後半に起こり、8年以上の長きにわたり戦われたとされます。最も理解しやすい仮説は、九州から東に勢力を拡大していった弥生系渡来集団が、縄文系在来集団とぶつかったというものです。恐らく、これが神武天皇の東征神話のモデルでもあったのでしょう。だとすれば、神武天皇は、崇神天皇のせいぜい2~3代前ということになります。しかし、それでは、神武天皇に持たせたい神性と他の有力部族が伝えるリアルな伝承との辻褄が合わなくなる可能性が高いと思われます。天孫家の神話は、他の部族の伝承を超越する必要があります。そこで、古さで箔を付け、辻褄を合わせるために欠史八代が創造されたのかもしれません。
日本書紀の年代や年齢は、第20代允恭天皇あたりまで、かなり怪しげです。その最大の要因は、神武天皇の即位年を紀元前660年と定めたことにあります。聖徳太子らが、中国の讖緯思想の一つである辛酉革命に基づき決めています。辛酉革命とは、干支が辛酉(かのととり)の年には大革命が起きるという一種の予言です。神武天皇の即位を紀元前660年としたことで、以降の天皇の在位期間や年齢は、辻褄を合わせるためにとんでもないものになりました。欠史八代が創作なのであれば、帝紀・旧辞、あるいは記紀の編纂時に、天皇の人数を増やせば済んだ話だと思います。それを、あえて変えずに、在位年数や年齢の方を大幅に水増ししたわけです。天皇の系譜は、動かしがたいものだったと推測することができます。もちろん、それが、即刻、欠史八代の実在を証明するものではありませんが。(写真:神武天皇図 出典:kashiharajingu.or.jp)





