2026年7月11日土曜日

船徳

古典落語「船徳」は、滑稽噺ですが、江戸の夏の情緒をよく描いていると言われます。もともとは人情噺として、江戸期に生まれたようですが、明治になってから、初代三遊亭圓遊がアレンジして滑稽噺に仕立てました。にわか船頭の若旦那の滑稽さだけでなく、櫓や棹を扱う仕草、船の上で揺れる客の様子など、細かなところで噺家の腕も試される噺だと思います。それでいて、全体としては隅田川の夏の風情を醸すわけですから、滑稽噺とは言え、前座、二つ目くらいには難易度の高いネタだと思います。何度聴いても飽きのこない噺があります。夏場にうってつけの船徳もその一つだと思っています。 

勘当された若旦那が転がり込んだ先は、設定上、柳橋の船宿ということになります。隅田川と神田川が合流する柳橋界隈は、新興の新橋と並び、”柳新二橋”と呼ばれるほど栄えた花街でした。料亭や船宿が建ち並び、柳橋芸者が行き交っていたのでしょう。柳橋芸者は、東京で一番格上だったと教えてくれたのは、柳橋最後の料亭「いな垣」の女将でした。いな垣も東京で最も格上の料亭と言われていたようです。横綱審議会の会場だったことでも知られます。ただ、私がお邪魔した際には、ビルの中に入り、窓の外に見えるのは堤防だけという有り様で、往時の面影など一切ありませんでした。時代の変化もありますが、隅田川の護岸工事で風情を奪われた柳橋は廃れるしかなかったわけです。いな垣も1999年に店を閉めています。ただ、船宿は、今も数軒残っています。

船宿は、宿泊施設ではなく、船と船頭を抱える水運業者です。今も東京には60軒の船宿があり、屋形船や釣り船の運航を行っています。店によっては、座敷での宴会もできます。20年前の話ですが、屋形船の貸し切りは一艘25万円程度と聞きました。密談をするために2~3人程度で貸し切る人もいたようです。船宿のかき入れ時は、墨堤の花見と両国の花火ということになるのでしょう。それは、江戸の頃から変わっていないように思います。船徳の噺は、7月10日、観音様の功徳日”四万六千日”の出来事です。この日にお参りすると四万六千日分のご利益を授かるとされます。米の一升が米粒46,000粒にあたることから、一生分のご利益というダジャレで四万六千日と呼ぶようになったようです。浅草寺では、四万六千日に併せてほおずき市が開催されています。

噺のなかに、”ぼうず”という軍鶏(しゃも)屋が出てきます。多めのご祝儀をもらったのでぼうずへ繰り出した船頭が、飲み過ぎて他の客と喧嘩になった、というくだりです。”ぼうず 志ゃも”は、両国で、最近まで営業していました。軍鶏は、江戸初期にシャムから闘鶏のために輸入されています。江戸中期、今も人形町で営業している”玉ひで”等の軍鶏鍋が人気となり、江戸の名物とされるまでになります。軍鶏鍋は、門前仲町の有名店“有明”で何度か食べましたが、騒ぐほどのものではないと思いました。いずれにしても、江戸末期から明治の頃の江戸では、ちょっと贅沢な人気の料理だったわけです。池波正太郎の鬼平犯科帳には「夏こそしゃも鍋ですぜ」というセリフがあるようです。恐らく軍鶏鍋で精を付けて夏を乗り切ろうということだったのでしょう。

にわか船頭の若旦那の舟に乗ることになった二人の客は、夏を楽しむ江戸庶民の代表なのでしょう。柳橋の船宿の常連として、舟で吉原に通い、舟で桜や花火を楽しんでいたのでしょう。恐らく、日本橋界隈の商人といったところかと思います。古典落語「船徳」の主人公は、若旦那のように思えます。ただ、若旦那は決して深掘りされることもなく、むしろ狂言回し的存在のようにも思えます。あえて、船徳の主人公を言うのならば、夏の隅田川の風情、ということになるのでしょう。浄瑠璃の道行きにも似た味わいを持っていますが、主人公の心情が重ねられることなく、情景がスケッチされるのみです。船徳は、風変わりで粋な噺と言えそうです。(写真出典:tabashio.jp)

2026年7月9日木曜日

京成百貨店

水戸への出張は、日帰りと相場が決まっていました。15年程前、あんたが好きそうな居酒屋があるから案内するよ、と水戸支社の知人に言われ一泊したことがあります。その際、居酒屋へ向かう道すがら、京成百貨店を見て驚きました。京成電鉄は、茨城県に鉄道路線もバス路線も持っていません。なぜ水戸に京成百貨店があるのか、と知人に聞くと、詳しいことは分からないが、京成電鉄の社長だった人が水戸出身だったので、水戸にも百貨店を作ったらしい、とのことでした。電鉄会社の戦略としてはピンときません。京成傘下の関東鉄道はあるものの、県南部が主戦場ですし、百貨店を作るなら自社名を使うはずです。なお、水戸には京成ホテルもあり、現在、茨城県のビジネスは、京成電鉄茨城ホールディング傘下に集約されています。 

京成電鉄は、東京と成田山新勝寺を結ぶべく、1909年(明治42年)に設立されています。延伸を重ね、上野・成田間が全線開通したのは1933年のことでした。現在、営業路線としては、近鉄、東武、名鉄、東京メトロに次ぐ私鉄第5位の長さを誇ります。電鉄会社の基本的な戦略は、阪急電鉄の小林一三の発案によるところが大きく、沿線の宅地、商業施設、レジャー施設等の一体開発が特徴です。京成電鉄は、多少異なる路線を採ってきたように思います。路線としては既存の新勝寺の参拝を目玉に据えたこと、そして、沿線にこだわらない開発をしてきたことも特徴的だと思います。その典型は、東京ディズニーランドということになります。その戦略を進めたのが、1958~1979年まで、約20年間に渡り社長を務めた川﨑千春です。

川崎千春は、1903年、水戸に生まれています。もともとは尾張徳川家に仕えた絵師の家系でした。川崎も画才があったようですが、親戚には画家が多く、血はつながっていませんが東山魁夷もその一人だと聞きます。旧制水戸高校(現茨城大学)から東京帝国大に進み、卒業後は川﨑信託(現三菱UFJ信託)、帝都タクシーを経て京成電鉄に会計課長として入社しています。社長就任後は、高度成長の波に乗り、積極的に不動産開発や成田空港への乗入れ、そして東京ディズニーランドの開発を手がけていきます。特に、東京ディズニーランドは、埋め立てから、ディズニー社との誘致交渉も含め、20年を超える取組の成果でした。水戸の京成百貨店も川崎社長時代に誕生しています。水戸支社の知人の言うとおり、水戸出身の社長が関与していたわけです。

水戸京成百貨店の前身は、常陸太田の小間物屋”島津商店”が経営する志満津百貨店でした。その高級路線は、戦後復興が進む水戸で人気となり、経営は順調だったようです。しかし、水戸市の経済成長は、中央からの大型店舗の出店ラッシュにつながります。これに危機感を持った志満津百貨店は、沿線外開発に積極的だった京成電鉄と資本提携に踏み切ります。当時、京成電鉄は、市川、上野、土浦に百貨店を設立し、水戸進出も視野に入っていたようです。志満津百貨店は水戸京成百貨店となり、地盤を固めていきます。ただ、百貨店への進出が遅れた京成電鉄は、水戸以外の店舗で苦戦が続き、早々に閉店に追い込まれていきます。市川店は残りましたが、実態はスーパーマーケットでした。市川京成百貨店跡地は、現在、京成電鉄の本社となっています。

百貨店は、提案のビジネスだと思います。一定のコンセプトや価値観に基づき、新たな生活や商品を提案することで、リピーターを生み、ふりの客を呼び込みます。そこがしっかりしていないと、他店や他業態との違いがあいまいになり、流通の荒波に飲み込まれていきます。百貨店の閉店ラッシュは、主に地方で起こりました。ショッピング・センターやEコマースに客を取られた、地方都市自体が地盤沈下している等の理由が挙げられています。しかし、一定の商圏の存在は前提となりますが、コンセプトがブレない限り、百貨店は生き残っていくものと考えます。大雑把に言えば、富裕層を対象とするリピーター戦略しかないと思います。恐らく、水戸京成百貨店は、それがハマっているのでしょう。(写真出典:kumesekkei.co.jp)

2026年7月7日火曜日

シリアル

世界の朝食の幅広さには驚かされます。気候、風土、慣習等の違いは、同じ国の中ですら大きな違いを生みます。そのなかで、最も異質だと思える朝食がアメリカのシリアルです。もちろん、穀物と乳製品の組合せですから、朝食としての要件は満たしているのですが、工業的に生産された食品であり、どの段階でもほぼ調理されていない点が、極めて異質です。シリアルは、19世紀のアメリカで発明されていますが、未来的でSF的な食品だとも言えます。アメリカは、今年建国250年を迎える歴史のない国です。合理性と効率を追求して様々な分野で実験を繰り返す国ならではの朝食とも言えるのでしょう。そういう意味で、シリアルは最もアメリカ的な食べ物なのかもしれません。 

朝食用シリアルが発明されたのは、1863年のことです。シリアルとは”穀物”という意味ですが、小麦の全粒粉の生地をシート状に伸ばし、熱で乾燥させて成形したものでした。。NY州北西部で、温水治療のサナトリウムを経営するジェームズ・ケイレブ・ジャクソン博士が開発しました。当時、病気の多くは消化器系が原因とされており、肉食を減らす試みが始まっていました。ジャクソンも治療の一環として朝食用シリアル”グラニューラ”を開発しました。しかし、グラニューラを食べるためには、一晩、水に漬けておく必要があり、不人気だったようです。1877年、手動のオートミール挽き機を使ってオートミールを販売していたフェルディナント・シューマッハは、クエーカー・オーツ社を設立します。オートミールは、燕麦を脱穀して蒸し、平たく加工したシリアルです。

そして、1895年、ケロッグのコーンフレークが発売されます。アメリカの朝食が変わった瞬間だったのでしょう。ケロッグ医師は、ミシガン州バトルクリークのサナトリウムの所長でした。宗教的な菜食主義と腸内細菌の研究からコーンフレークは誕生したようですが、マーケティングを担当した弟が砂糖を加えることを主張します。これが兄弟の争いに発展し、弟はケロッグ社を設立します。ほどなくして、サナトリウムの患者だったチャールズ・W・ポストがこの業界に参入し成功を収めます。彼の会社は、後にゼネラル・フーズとなっています。シリアルの普及に貢献したのは、シリアルを箱入りで販売したこと、そして第二次大戦後、子供の朝食をターゲットにしたことだと言われます。当然、甘いシリアルが中心となり、おまけ入りもスタンダードになりました。

甘いシリアルに子供たちは大喜び、安価で手間いらずのシリアルは主婦の強い味方です。郊外の戸建住宅、核家族化、共働き、大量消費社会といった社会変化とともに、シリアルは、瞬く間にアメリカの朝食の定番となります。一方で、家族揃っての朝食、おふくろの味といった伝統も崩壊していき、アメリカにおける家庭崩壊の一因になったという批判もあります。シリアルで育った子供たちは、自分の子供たちにもシリアルを食べさせます。そう簡単にアメリカのシリアル文化が変わるとは思えません。ただ、近年、材料費や生産コストの上昇にともないシリアルの価格が高くなっているようです。貧乏人はシリアルすら買えないわけです。近年、健康指向のシリアル、大人用のシリアルの効果もあり、シリアル市場は拡大しているようですが、販売量は低下しています。

日本でのシリアルの売上トップはカルビーの”フルグラ”です。麦類等のグラノーラにドライ・フルーツを入れたものです。フルグラは、1991年に登場し、2011年に現在の”フルグラ”に商品名を変えています。健康指向の高まりを背景に急成長を遂げ、世界トップのシリアル・ブランドとしてギネス・ブックにも登録されたようです。その成功要因は、メイン・ターゲットを20~40歳代女性に置いたことなのでしょう。日本における女性の就労環境は、世界的に見て遅れているとされてきました。近年では、人手不足もあって、環境も改善され、就労率も高まっているようです。フルグラは、忙しくなった日本の女性の味方というわけです。結構なことではありますが、食と健康、和食の伝統といった面からは多少気になります。さらに言えば、日本の食糧需給、就労環境といった基本的な議論も忘れてはならないと思います。(写真出典:kelloggs.co.nz)

2026年7月5日日曜日

小田原評定

北条早雲
小田原評定とは、多くの人が参加して、長時間に渡って議論するも、答えの出ない会議を揶揄して言う慣用句です。かつての日本企業には、この手の会議が多かったものです。責任回避のための無益な議論も多かったのでしょう。典型的には、積極策と保守策のせめぎ合いが多かったものと想像できます。議論が拮抗しているのであれば、リーダーの決断力が求められます。この慣用句の元になったのは、小田原合戦時、後北条方の評定において、籠城か出撃か、あるいは降伏か抗戦か、という議論が延々と続いたことだとされます。小田原合戦は、1590年、豊臣秀吉が、小田原の後北条氏を破った戦いです。秀吉が天下統一を成し遂げた最後の戦いでもあります。

後北条氏の小田原城は、天下無敵を誇る城でした。最大の特徴は、城と城下町全体を防壁で囲む惣構(そうがまえ)でした。土塁と空堀の総延長が9kmに及ぶという空前絶後の惣構です。後北条方は、この堅い守りを活かして籠城し、豊臣方が疲れたところで撃って出るという戦術を選択します。20万人を超える大軍を率いた秀吉は、関東一円の後北条方の城を次々と攻め落とします。いとも簡単に落とされたのは、後北条方が関東の武将たちを小田原城に集めて籠城したからです。各地の城には留守番役だけが残っていたわけです。秀吉は小田原城を完全に包囲し、戦いらしい戦いもないまま、後北条方は降伏します。戦わずして城を明け渡したという最後だけを見れば、後北条氏を誤解するかもしれません。勇猛な武将ひしめく関東に覇権を唱えた家です。

後北条氏の祖・伊勢盛時(北条早雲)は、桓武平氏の備中伊勢氏の出です。早雲は、室町幕府の高級官僚の家に生まれます。姉(妹説もあり)が駿河守護の今川家に嫁いだことから、その内紛の調停のために下向します。内紛は、一旦、落ち着き、功績が認められた早雲は所領を得ます。ただ、内紛は、その後も様相を変えながら続き、結果的に、伊豆を平定した早雲は、1495年頃、小田原城を奪取します。そして相模国を平定し、さらに領土を拡大していきます。後北条家は、16世紀末までに、関東一円を支配するまでに至ります。なお、伊勢氏が北条氏を名乗ったのは、2代氏綱の頃と推定されています。関東の諸勢力から外来の侵略者とみられていた伊勢氏が、相模国主としての正統性を得るために、鎌倉幕府執権・北条氏を継承すると宣言したもののようです。

後北条家の強さの源泉は、いち早く足軽を活用したこと、兵農分離を進めたこと、鉄砲を活用したこと、全国を凌ぐ甲冑生産量を誇ったこと等とされます。また、配下の城を格付けし、武将の公平な人事管理に活用したこと、領民に対しては、当時、もっとも低い税率である四公六民を採り、領内を安定させたことも知られています。さらに、配下に従えた在来の武将たちを定期的に集めて評定を行うことで、参画型経営を実現しています。あわせて、官僚制度の整備も行っています。これらは、室町幕府の諸制度を利用したものとされます。後北条家の強さは、荒ぶる坂東の地に、武力、統治、両面で近世を持ち込んだことにあるといえるのでしょう。小田原評定は評価されるべきであり、秀吉の大軍を前に行った評定のみを捉えて揶揄すべきではないと思います。

近世的な統治感覚を持った後北条家が、なぜ関白に登り詰めた秀吉と戦ったのか、という点は実に興味深いところです。秀吉が、武力による天下統一を狙っていなかったことはよく知られています。後北条家も、秀吉に忠誠を誓い、領地を安堵してもらう道があったわけです。直接的なトリガーとなったは、1589年の名胡桃城事件です。後北条家傘下の沼田城主が、秀吉の発した私闘禁止令、惣無事令に反して、真田家の名胡桃城を占領した事件です。そもそも名胡桃城占領は後北条家の指示かどうかも分かっていません。秀吉に詰問された後北条家ですが、従わなかったため、双方、兵を動かすことになりました。結果が見えているのに、あえて秀吉に刃向かった理由が、今一つ理解できません。秀吉に反感を持っていたとも、関東の独立を狙っていたとも言われます。少なくとも、桓武平氏の末裔として、室町幕府の臣下として、あるいは関東の雄として、秀吉を見下していたのだろうとは思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年7月3日金曜日

カントリー・ラインダンス

テネシー州ナシュビルには、仕事で何度も行きました。提携先の本社があったからです。 ナッシュビルは、カンバーランド川沿いの交易拠点から発展した町で、アップランド・サウス、ないしはアッパー・サウスの中心地です。また、カントリー・ミュージックのメッカとしても知られます。ナッシュビルから放送される”グランド・オール・オープリー”は、カントリー・ミュージックのライブ放送ですが、1925年に放送が開始されたというアメリカ最古にして、今でも大人気のラジオ番組です。この番組を放送するWSMは”The Air Castle of the South ”とまで呼ばれ、アメリカ南部の精神風土を支える柱の一つにもなっています。また、ダウンタウンのミュージック・ローには、200を超えるスタジオが並んでいることでも知られます。

グランド・オール・オープリーのライブ会場であるグランド・オール・オープリー・ハウス周辺は、様々な施設が作られて、いまやテーマ・パーク化しているようです。30年以上前にも、ホテル、コンベンション・ホール、ショッピング・モール、ゴルフ場等はありました。提携先のスタッフが、オープリー・ハウスの社長と友人だったことから、ホテルに泊めてもらい、リンクス・タイプのゴルフ場でプレイさせてもらったことがあります。ライブの放送日でもないのに、ホテルやモールには人があふれていました。南部の人たちにとっては、あこがれの場所であり、一度は行ってみたい場所になっているのでしょう。もちろん、ミュージッシャンにとっても、グランド・オール・オープリーに出演することは、日本の紅白歌合戦出場なみに名誉なことなわけです。

週末にカントリー・ミュージックのライブ・ハウスに案内してもらったことがあります。元は貨物集積場だったという駅近くの広い敷地に、納屋を模した大きな建物が建っていました。中に入ると、大小様々な部屋があり、それぞれ異なったタイプの音楽が演奏されています。客のいでたちは、男女問わず、皆一様に、カントリー・シャツ、バンダナ、ジーンズ、カウボーイ・ブーツ、そしてテンガロン・ハットというウェスタン・スタイルでした。聞けば、近郷近在の農家の人々が、週末のお楽しみとして、精一杯のおしゃれをして集まっているとのことでした。つまり、ウェスタン・スタイルは正装であり、ほぼ伝統的な民族衣装とも言えるのでしょう。もちろん、ハットもジーンズも、農作業で着用しているものではなく、よそ行きの新品だったわけです。

違う国に来たな、と思ったものです。NYやLAでは感じたことのない異国情緒でした。最も印象的だったのは、一番大きな部屋で踊られるカントリー・ラインダンス、いわゆるカウボーイ・ダンスでした。カントリー・ラインダンスの起源は、17世紀のイングランドとされます。皆が整列して、ステップを揃えて踊ります。基本的には、全員がステージのバンドに向かって整列しますが、二列で男女が向かい合うなどのパターンもあります。ステップも曲によって異なり、多くの種類があるようです。1970年代の日本のディスコを思い出させます。当時は、ステップ・ダンス全盛であり、その後、フリー・ダンスへと変わっていきました。カントリー・ラインダンスは盆踊りに近いものがあり、NYの人たち、特に黒人たちから見れば、田舎くさい代物だったのでしょう。

ロバート・アルトマンの最高傑作「ナッシュビル」(1975)は、アメリカという国をシニカルに描いた群像劇です。カントリー・ミュージック界をアメリカの縮図とし、大統領選挙の予備選をからめることで、アメリカの政治、社会の立ち位置をコミカルにえぐっています。当然、舞台はナッシュビルしかあり得ません。カントリー&ウェスタンは、アメリカ南部を代表する文化であり、ビッグ・ビジネスでもあります。日本でも、ヒット曲や有名歌手は多少知られていますが、その文化的広がりや深さに関する理解は薄いと思います。日本の民謡や演歌が近いのでしょうが、カントリー&ウェスタンは今もメジャーな文化であり続けています。「アメリカ人の8割は田舎者よ」というフレーズは、スーザン・ストラスバーグが映画「女優志願」(1958)のなかで語ったセリフです。カントリー&ウェスタンや福音派といった南部の文化抜きに、MAGAといった現象、あるいはアメリカという国は理解できないように思います。(写真出典:hudsonvalleycountry.com)

2026年7月1日水曜日

道後

温泉浴は、とても良い楽しみだと思います。温泉地や温泉宿の評価は、建屋、庭、しつらえ、食事などを総合的に判断して決められる傾向にあります。しかし、本来的には、湯質こそが最も重視されるべきだと思います。 個人的には。道後温泉の湯質が一番のお気に入りです。個性的で際立った湯質の温泉は他に多くありますが、バランスの良い、やさしい湯質としては道後が最高であり、毎日でも入りたいと思います。何度も道後温泉に行きましたが、たまたま、宿は、いつも大和屋でした。道後を代表する宿ですが、会社の関係で、多少の融通を利かせてくれるからです。例えば、温泉宿は一泊二食が基本ですが、特別に一泊朝食付にも対応してくれました。

道後の湯は、きめ細やかで刺激の少ない優しい湯です。18本の源泉をブレンドすることで、適温、かつなめらかな源泉掛け流しを実現しています。湯質としては、アルカリ性単純泉です。アルカリ分は、皮膚のタンパク質を溶かすので、湯はぬるっとした感触になります。古い角質や余分な皮脂が溶かされ、肌がスベスベになります。アルカリ性の温泉が美人の湯と呼ばれる由縁です。例えば、三重県の榊原温泉などはアルカリ度が高く、肌は超ヌルヌルになります。道後の湯はそこまでではなく、ちょうどいい塩梅です。なお、単純泉とは、含有成分のなかに突出した成分がない温泉を指します。泉質は、単純泉の他に、硫黄泉、二酸化炭素泉、酸性泉等々、11種類あります。単純泉は、刺激が少なく、様々な成分による効能の多様さも特徴です。

道後温泉は、縄文土器が出土したことから3千年の歴史を持つと言われます。縄文を持ち出すまでもなく、道後は日本最古級の温泉です。日本書紀や風土記にも記載される日本三大古泉は、道後、有馬、白浜となります。延喜式では、道後、有馬、いわき湯本が挙げられています。清少納言は枕草子で、有馬、玉造、榊原を名湯としています。道後は、都からは少し遠かったということなのでしょう。起源は、白鷺が傷を癒やすのが目撃されたという、ありがちな説が伝わります。また、大国主命と少彦名命の話もあります。伊予国へ旅をし、疲れて倒れた少彦名命のために、大国主命が”速見の湯”(別府)を海底の管を通して道後へと導き、少彦名命を浸からせます。少彦名命は回復し石の上で踊りだした、というのです。少彦名命は、有馬、玉造の伝説にも登場します。

道後最大の魅力は湯質だと言えますが、他にも共同浴場、温泉街、アクセスの良さ等も魅力だと思います。共同浴場は、何と言っても重要文化財の道後温泉本館ということになります。1894年に改築された本館は木造3階建で、1階が浴場、2~3階がお茶やお茶菓子も付いてくる休憩室となっています。しばらく大改修工事が行われていましたが、2024年にはフルオープンしています。道後温泉本館から市電の駅まで温泉街が続いています。その中ほどに、温泉煎餅の玉泉堂本舗があります。古風で暗い店には客がいません。というのも、予約なしで購入できず、しかも半年待ちという老舗です。ただ、正月だけは松山市内のデパートで販売されるので予約なしで買えるようです。その正月の煎餅を頂戴したことがあります。美味しいのですが、半年待ちは理解できませんでした。

道後温泉のアクセスの良さも、天下一品です。松山駅から道後温泉駅までは市電でわずか20分。松山へ出張した際にも、市内のホテルなど使ったことがありません。道後に泊まればいいわけですから。運が良ければ、週末にのみ運行される坊っちゃん列車に乗ることもできます。復元された軽便鉄道時代の蒸気機関車が牽く列車です。坊っちゃん列車の形状は蒸気機関車ながら、中身はディーゼル車になっています。夏目漱石の「坊ちゃん」で、マッチ箱のような汽車、と書かれていることからこの名称となっています。道後のお湯も含めて、伊予松山はいいところです。城もいい、お湯もいい、食事もいい、そして、何よりも、どこかのんびりとした伊予の人々がいい、と思うわけです。(写真出典:nippon.com)

2026年6月29日月曜日

「シラ-ト」

監督: オリベル・ラシェ       2025年スペイン・フランス

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

これは、現代版イージー・ライダーなのだと思いました。イージー・ライダーは、1960年代アメリカの価値観の揺らぎを映像化したわけですが、本作は、現代社会の揺らぎをテーマとしているように見えます。実に政治的なロード・ムービーですが、レイブやEDM、あるいは砂漠と大型車といった要素を、違和感なく一体的に表現している点が新しいと思います。本作は、カンヌ国際映画祭で監督賞を獲得するなど高い評価を得ています。監督のオリベル・ラシェは、パリで生まれたガリシア人です。ガリシアは、スペインで最も西に位置する自治州であり、ガリシア語はじめ独自の文化を持つことで知られます。それは、監督の世界を見る冷静な目や感性に影響しているように思えます。

レイブは、1980年代のイギリスから始まっています。遠隔地や廃墟など非日常的な場所に、レイヴァーと呼ばれる人々が自主的に集まり、朝まで熱狂的に踊り続けます。管理されたビジネスそのものであるフェスやディスコを否定し、人里離れた場所でトランス状態に入るということは、どこか宗教的な印象すら受けます。ただ、実態は単なる現実逃避であり、60年代のカウンター・カルチャーに比べれば、思想性に欠ける単なるドロップアウトのようにも思えます。映画では、レイヴァーになるべく家を出た娘を探す父親と息子が、モロッコのレイブに現れます。父子は、伝統的な価値観、あるいは家族という人間が持つ本性の象徴なのでしょう。父子は、次のレイブ・ポイントへと向かうレイヴァーのグループに同行することになります。

ドロップアウトした人間とは言え、レイヴァーのグループも一つの家族です。二つの家族は、厳しい砂漠の道を共に進んでいきます。さらに悲劇に襲われることによって、二つの家族は一体化します。見た目は違えども、同じく連帯を求める人間性が表現されているのでしょう。そして、ここに異質な要素が登場することになります。国家や戦争の象徴としての地雷原です。レイヴァー二人が犠牲になります。父親だけが無事に地雷原を渡りきります。どうやって渡れたのかと聞かれた父親は「無心に歩いただけだ」と答えます。これが、この映画のキー・ポイントなのでしょう。政治システムに対する人間性の勝利というわけです。ラスト・シーンで貨車に乗って沈んだ顔をしているのは、失ったものゆえか、システムに依存する自分を嘆いているのか、判然としません。

という風に図式的に見ることもできるわけですが、この映画の最大の魅力は、鳴り響くEDMと自然主義的な演出が相まって生み出される今日性やリアリティなのだと思います。ロードムービーの伝統を踏まえつつも、新たな表現を実現したとも言えそうです。キャストのほとんどは、レイブでスカウトされた素人だと聞きます。実に見事なスカウトだったと思います。皆、いい味を出しています。主役の一人とも言える音楽は、ベルリンを拠点に活動するDJカンディン・レイのオリジナルであり、いくつかの賞も獲得しています。砂漠の風景も主役の一人だと言えます。撮影はモロッコとスペインで行われたようです。モーリタニアのレイブ・ポイントを目指す一行は西サハラを進んでいきますが、そこは、いまだに西サハラ紛争が継続されている地域でもあります。

西サハラ紛争は、西サハラの領有を巡るモロッコ、モーリタニア、そしてサハラ・アラブ民主共和国を建国したポリサリオ戦線の争いです。19世紀からスペインの植民地となっていた西サハラですが、20世紀半ば、モロッコとモーリタニアが領有を主張します。スペインが手を引くと、両国が分割統治しますが、アルジェリアやリビアの支援を受けたポリサリオ戦線が、独立を目指す戦闘を1976年から開始します。国連や周辺国家等によって、幾度も停戦や紛争終結が図られてきましたが、いまだに解決しておらず、戦闘も散発しています。近年では、イスラエルを承認したモロッコに対して、トランプが西サハラ領有を認めたことで、混乱は深まっています。西サハラ紛争は、植民地主義が引き起こした問題の一つですが、現代の国際政治が直面する課題を象徴している面もあります。そこを映画の舞台に据えた本作の意図の濃さを感じます。(写真出典:eiga.com)

船徳