江戸初期、神田川が開削されると、神田佐久間町あたりには、材木商が集まり、大名屋敷が立ち並ぶことになります。町名の由来は、材木商佐久間平八にあるようです。また神田和泉町は、藤堂和泉守高虎の屋敷があったことに由来します。佐久間町は、文政の大火、天保の大火等いくつかの火事で火元とされ、悪魔町と陰口されることもあったようです。材木置場が原因とされ、木場は深川方面へと移転され、跡地は火除広道とされます。明治2年には神田相生町の大火が起こり、またもや佐久間町が火元として疑われます。広道を抜ける風や川風が上野山に当って上昇気流を起こし、ひとたび火が出ると延焼しやすい地域だったとも言われます。いずれにしても、神田相生町の大火を機に、広大な火除明地が設置され、皇居にあった鎮火神社が移設されます。
江戸城には、浜松秋葉神社を分祀した秋葉神社がありました。浜松秋葉神社は、家康が秋葉大権現を分祀、創建した神社です。秋葉大権現こと秋葉山本宮秋葉神社は709年創建、全国400社を従える火防の神です。神仏混合以降は秋葉大権現と呼ばれてきました。また、井伊の赤揃隊発祥の地でもあります。戦国最強とされた武田の赤揃隊は、家康に敗れた後、井伊直政預かりとなり、この地で井伊家への忠誠を誓っています。江戸城の秋葉神社は、火防のみならず武運の神でもあったわけです。新政府は、江戸城から徳川の色を完全に消しますが、扱いに困った秋葉神社は残したようです。神仏分離令を出した新政府は、神仏混合だった秋葉神社の祭神を鎮火三神に変えたうえで移転し、鎮火神社とします。ただ、庶民は、これを慣れ親しんだ秋葉さまと呼ぶようになります。
これが秋葉原という地名の由来です。水運の便が良いこのあたりは、江戸期から青物市場がありました。いわゆる“やっちゃば”です。明治中期には鉄道も通り、物流拠点化していきます。アキハバラかアキバハラかという議論があります。当初は、秋葉ヶ原(アキバガハラ)と呼ばれていたようですが、駅名はアキハバラとされます。秋葉大権現の読みがアキハだったからかもしれません。いずれにしても、この駅名が地名化していったわけです。関東大震災が起きた頃、秋葉原は問屋が軒を並べる街になっていました。震災直後、おりからの強風に煽られた火の手が浅草方面から秋葉原にも迫ります。人々は警察の誘導で本所方面へ逃げます。しかし、佐久間町では「この町の者たちは逃げてはならない」と声が上がります。悪魔町という汚名を返上すべき時だったわけです。
住民たちは、川の水を汲み、バケツリレーして消火にあたります。しかし、町の中心だった佐久間小学校に火の粉がかかり始めます。学校が燃えれば町は終わりだと、卒業生が集まりはじめ、200人を越す人々が消火にあたったといいます。 2日間燃え続けた火災は、東京東部を焼け野原にします。ただ、佐久間町、和泉町界隈だけが延焼を免れます。逃げる防災から消す防災へ、つまり初期消火の重要性が認識された出来事だったと言えるのでしょう。しかし、太平洋戦争時の空襲では、この教訓が仇になったとも言われます。つまり、住民を初期消火に動員する態勢をとり、日頃の訓練を重ねたことで、避難が遅れ、結果、人的被害を拡大することになったわけです。大震災に打ち勝った佐久間町、和泉町一帯も、空襲には敵いませんでした。(写真出展:bo-sai.co.jp)






