白洲次郎の祖父・白洲退蔵は、三田藩の儒官の家の生まれながら、幕末の混乱期、藩主に見出されて家老格にまで上りつめた人です。その後、横浜正金銀行の頭取も務めています。父親の白洲文平は、ハバード大学、ボン大学に学んだ後、白洲商会を立ち上げ、綿貿易で巨万の富を築きあげた人です。いわば白洲家は、幕末・維新の変革期にあって、一気に上昇気流に乗った家だったと言えるのでしょう。白洲次郎は、1902年に生まれています。出生地は東京とも芦屋とも言われているようです。幼少期から、祖父が設立した神戸女学院の外国人教師から英語を学んでいたようです。長じて神戸一中に入学。学生ながら、アメリカの名車ペイジ・オートモビル・グレンブルックを乗り回していたようです。卒業後はケンブリッジへ留学します。
ケンブリッジ時代は、豊富な仕送りを背景に、貴族を含む英国の上流社会の子弟たちと交流します。英国紳士を範とする白洲次郎の信条や生活スタイルはここで形成されたわけです。ここでも名車を乗り回し、大陸のドライブ旅行も行っています。しかし、父親の会社が、昭和恐慌で倒産したため、帰国を余儀なくされます。帰国後は英字新聞の記者や、コネで外資系商社の役員に就任します。この間、華族出身で、米国留学経験も持つ樺山正子と結婚します。戦時中は、鶴川村(現町田市)に「武相荘(ぶあいそう)」を建て、世間とは一線を画した生活を送ります。武相荘とは、武蔵国と相模国にまたがる地にあることと無愛想をかけています。洒落た名前をつけたものです。次郎としては、英国貴族のカントリー・ライフを気取ったという面もあるのでしょう。
戦況が厳しくなると、次郎にも召集令状が届きます。次郎は、英国留学時代に知り合った東部軍参謀長に依頼し、これを握りつぶしています。白洲次郎が政治家にならなかった一因は、この一件が選挙で不利に働くと思ったからではないでしょうか。敗戦後、次郎は、面識のあった吉田茂外相の要請によって終戦連絡中央事務局の参与に就任します。語学力はもとより、ケンブリッジでの経験や交流を踏まえれば、アメリカ人にも臆せず折衝できる逸材でした。GHQをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたという逸話が残ります。その後、吉田内閣の貿易省長官として通商産業省設立などに辣腕を振い、1951年、東北電力会長へ転身しています。政治家を目指さない次郎は、吉田茂にとって誠に使い勝手の良い人材だったとも言えそうです。
白洲次郎の夫人である白洲正子は随筆家として、多くの書籍を著わしています。そのテーマは、能楽、古美術、工芸と幅広く、その確かな審美眼で多くの読者を魅了した人です。なかでも「かくれ里」(1971)は、紀行と古美術が一体となった傑作だと思います。私も、いつか「かくれ里」のルートをなぞってみたいものだと思っています。白洲正子は、多くの時間を武相荘で過ごしたようですが、白洲次郎は赤坂のマンションを拠点に活動していたようです。やはり、英国紳士流の生活を目指していたと言えるのでしょう。白洲次郎は、希に見るほど魅力にあふれた人だったのだろうと想像します。豪快な逸話、おしゃれな逸話も多く残されています。しかし、繰り返しになりますが、教科書に載るような人ではなかったと思います。(写真出典:buaiso.com)





