2026年3月2日月曜日

日本国王良懐

”日本国王良懐”とは、14世紀後半、明が”冊封国”である日本の国王とした懐良親王のことです。懐良(かねよし)が、なぜ良懐になったのか、誠に不思議です。しきたり等に基づく意図的なものなのか、単なる間違いなのか、よく分かりません。冊封とは、中国の王朝が、周辺国家に称号や印章を与えることで、形式的な主従関係を築くという中国伝統の外交手法です。被冊封国は、毎年、朝貢を行う事でその関係を維持しました。日本の場合、古くは漢が奴国を、魏が邪馬台国を、宋が五王時代の倭を冊封しています。しかし、6世紀以降、冊封関係は消滅し、日本は中国と、名目上、対等の関係を保つことになります。

明は、1368年、朱元璋が元朝を北に追いやって建国されています。当時、中国沿岸部は、主に九州、対馬、壱岐から出撃してくる倭寇の襲来に悩まされていました。倭寇が勢いを増した背景には、南北朝の混乱、室町幕府の衰退があるとされています。1369年、太宰府を占拠していた懐良親王のもとに、国書を携えた明の使者が来訪します。国書は、日本国王が倭寇を取り締まらなければ、明は軍を派遣して倭寇を成敗し、国王を捕えるという内容でした。この脅しに、懐良親王は激怒し、使節団17名のうち5名を殺害し、2名を3か月勾留します。翌年、明は、さらに高圧的な国書を持った使節を送り込みます。明側の記録に依れば、懐良親王は態度を一変し、倭寇が捕虜にしていた70余名と貢ぎ物を明に捧げることで、日本国王として冊封を受けます。

懐良親王が冊封を受け入れた理由は、明を恐れたからではなく、日明貿易がもたらす富が魅力的だったからなのでしょう。飛ぶ鳥を落とす勢いで九州を制圧していった南朝の懐良親王でしたが、ほどなく北朝側の攻勢を受けて太宰府を追われています。しかし、事情を把握していない明は、依然として懐良親王を日本国王と認識し、他との貿易を認めませんでした。薩摩の島津氏はじめ日明貿易を行おうとする者は、やむなく懐良親王の名をかたるしかありませんでした。室町幕府の将軍・足利義満ですら、明からすれば、日本国王良懐と争う敵方の臣下と見なされ、日明貿易の開始までには苦労を強いられたようです。なんとも律儀な話ですが、明としては、冊封体制を維持するためには、当然の対応だったわけです。なお、後に足利義満は日本国王として冊封されています。

一時とは言え、明から日本国王とされた懐良親王は、後醍醐天皇の皇子でした。後醍醐天皇は、鎌倉幕府を破り天皇親政を回復します。建武の新政です。しかし、足利尊氏に敗れて、逃れた先の吉野で南朝政権を建てます。後醍醐天皇は、皇子たちを全国に派遣し、地方からの巻き返しを図ります。まだ幼かった懐良親王も、征西大将軍に任じられ、九州に向かいます。徐々に豪族たちを味方に付けた懐良親王は、北朝勢との戦いを展開し、ついに九州の最重要拠点とも言える太宰府を制圧するに至ります。しかし、それも長くは続かず、足利義満が送り込んだ九州探題・今川了俊によって追い詰められていきます。最終的には、現在の八女あたりで、病のために没したとされます。都から遠く離れた九州で、幼時から戦いの人生を送った凄まじい皇子でした。

懐良親王が始めたとも言える日明貿易ですが、その後、150年以上に渡って継続されることになります。その莫大な利益は、当初は室町幕府が独占し、幕府の勢力が弱まると、細川氏と堺商人、大内氏と博多商人などが手にすることになります。日本からは銅などの鉱物資源、明からは、江戸初期まで流通した硬貨”永楽通宝”、生糸、織物、陶磁器、書物などが輸入され、経済、文化に大きな影響を与えました。日本の伝統文化の中核を成すことになる東山文化、北山文化も、日明貿易なくして成立しなかったと言えます。幕府が管理する勘合貿易だった日明貿易は、16世紀中頃、大内氏の滅亡、倭寇の活発化を受けた明の海禁政策強化等によって下火になります。また、民間の貿易量が幕府の勘合貿易を上回るようになったことから、新たな貿易管理が求められ、朱印船貿易へとつながっていきます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

日本国王良懐