2026年6月29日月曜日

「シラ-ト」

監督: オリベル・ラシェ       2025年スペイン・フランス

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

これは、現代版イージー・ライダーなのだと思いました。イージー・ライダーは、1960年代アメリカの価値観の揺らぎを映像化したわけですが、本作は、現代社会の揺らぎをテーマとしているように見えます。実に政治的なロード・ムービーですが、レイブやEDM、あるいは砂漠と大型車といった要素を、違和感なく一体的に表現している点が新しいと思います。本作は、カンヌ国際映画祭で監督賞を獲得するなど高い評価を得ています。監督のオリベル・ラシェは、パリで生まれたガリシア人です。ガリシアは、スペインで最も西に位置する自治州であり、ガリシア語はじめ独自の文化を持つことで知られます。それは、監督の世界を見る冷静な目や感性に影響しているように思えます。

レイブは、1980年代のイギリスから始まっています。遠隔地や廃墟など非日常的な場所に、レイヴァーと呼ばれる人々が自主的に集まり、朝まで熱狂的に踊り続けます。管理されたビジネスそのものであるフェスやディスコを否定し、人里離れた場所でトランス状態に入るということは、どこか宗教的な印象すら受けます。ただ、実態は単なる現実逃避であり、60年代のカウンター・カルチャーに比べれば、思想性に欠ける単なるドロップアウトのようにも思えます。映画では、レイヴァーになるべく家を出た娘を探す父親と息子が、モロッコのレイブに現れます。父子は、伝統的な価値観、あるいは家族という人間が持つ本性の象徴なのでしょう。父子は、次のレイブ・ポイントへと向かうレイヴァーのグループに同行することになります。

ドロップアウトした人間とは言え、レイヴァーのグループも一つの家族です。二つの家族は、厳しい砂漠の道を共に進んでいきます。さらに悲劇に襲われることによって、二つの家族は一体化します。見た目は違えども、同じく連帯を求める人間性が表現されているのでしょう。そして、ここに異質な要素が登場することになります。国家や戦争の象徴としての地雷原です。レイヴァー二人が犠牲になります。父親だけが無事に地雷原を渡りきります。どうやって渡れたのかと聞かれた父親は「無心に歩いただけだ」と答えます。これが、この映画のキー・ポイントなのでしょう。政治システムに対する人間性の勝利というわけです。ラスト・シーンで貨車に乗って沈んだ顔をしているのは、失ったものゆえか、システムに依存する自分を嘆いているのか、判然としません。

という風に図式的に見ることもできるわけですが、この映画の最大の魅力は、鳴り響くEDMと自然主義的な演出が相まって生み出される今日性やリアリティなのだと思います。ロードムービーの伝統を踏まえつつも、新たな表現を実現したとも言えそうです。キャストのほとんどは、レイブでスカウトされた素人だと聞きます。実に見事なスカウトだったと思います。皆、いい味を出しています。主役の一人とも言える音楽は、ベルリンを拠点に活動するDJカンディン・レイのオリジナルであり、いくつかの賞も獲得しています。砂漠の風景も主役の一人だと言えます。撮影はモロッコとスペインで行われたようです。モーリタニアのレイブ・ポイントを目指す一行は西サハラを進んでいきますが、そこは、いまだに西サハラ紛争が継続されている地域でもあります。

西サハラ紛争は、西サハラの領有を巡るモロッコ、モーリタニア、そしてサハラ・アラブ民主共和国を建国したポリサリオ戦線の争いです。19世紀からスペインの植民地となっていた西サハラですが、20世紀半ば、モロッコとモーリタニアが領有を主張します。スペインが手を引くと、両国が分割統治しますが、アルジェリアやリビアの支援を受けたポリサリオ戦線が、独立を目指す戦闘を1976年から開始します。国連や周辺国家等によって、幾度も停戦や紛争終結が図られてきましたが、いまだに解決しておらず、戦闘も散発しています。近年では、イスラエルを承認したモロッコに対して、トランプが西サハラ領有を認めたことで、混乱は深まっています。西サハラ紛争は、植民地主義が引き起こした問題の一つですが、現代の国際政治が直面する課題を象徴している面もあります。そこを映画の舞台に据えた本作の意図の濃さを感じます。(写真出典:eiga.com)

2026年6月27日土曜日

ポン酢

15年ほど前に、京都大原の味工房志野のドレッシングとポン酢を知り、以来、愛用しています。お気に入りのドレッシングは、”ゆずと大根”、ポン酢は定番の”ゆずのぽん酢”です。定番商品は、新宿高島屋の食品売場でも買えるのですが、他の商品はお取り寄せかデパートの催し出店で買うことになります。年に何度か、東京にも出店しますので、その際に買っています。味工房志野は、もともと大原でとんかつ屋と一品料理屋を営んでいたのだそうです。ドレッシング屋は40年前から始めたとのこと。少しお高いのですが、天然素材にこだわった美味しい商品が人気です。田舎のドレッシング屋を自称していますが、自社生産、自社販売にこだわっている点も京都らしいなと思います。

かつて、ポン酢に関しては、さほどのこだわりもなく、スーパーで買えるメーカー品を使っていました。というのも、使う機会が、せいぜい水炊き系の鍋物程度に限られていたからなのでしょう。それが変わったきっかけは、高知県で馬路村の”ゆずの村”を口にしたことでした。馬路村は、徳島県との県境にある人口600人ばかりの山村です。かつては林業で栄えましたが、斜陽となり、村はゆずの栽培を始めます。1986年にはゆずの加工も始め、ポン酢しょうゆ”ゆずの村”を発売します。ゆずの風味の強いポン酢は評判を呼び、売上は急増していきました。当初、3,000万円程度だった加工品の売上は、1993年には10億円、1998年には20億円、2005年には30億円を超えていきます。ポン酢が、山間の寒村にシンデレラ・ストーリーをもたらしたわけです。

ポン酢は、柑橘果汁と酢を合わせたものです。これに醤油や出汁を加えたものがポン酢醤油です。近年では、ポン酢醤油もポン酢と呼ぶ傾向にあります。ポン酢の語源は、柑橘系の果汁を指すオランダ語の”ポンス”だとされます。長崎の出島に伝わり、保存性を高めるために酢と合わせたものが九州に広がっていったようです。ただ、果汁は酸化しやすく、家庭では扱いにくいものなので、主に料理屋で調味料として使用される時代が長かったようです。ある時、半田の中埜酢店7代目が、料亭で博多水炊きを食べ、そのポン酢醤油の美味しさに感動します。これを家庭用の鍋用調味料にしたいと研究を始め、1964年には関西で試験販売、1967年には全国販売にこぎつけたのがミツカンの”味ぽん”でした。ポン酢は、比較的歴史の浅い調味料だったわけです。

ポン酢に関する関東と関西の違いは有名な話です。関西人にとってポン酢はソウルフードであり、各家庭には数種類のポン酢があるといわれます。関東の鍋物はスープに味付けした寄せ鍋スタイルが多く、関西では水炊きスタイルが多いことがポン酢の普及の違いを生んだとされます。また、ポン酢醤油は出汁醤油でもあり、出汁文化の関西で広く受入れられたという説もあります。確かに、ポン酢の使い方は、関東では鍋のつけだれくらいですが、関西では様々な料理に醤油並みに使われます。スーパーでの品揃えも、関東の数種類に対し、関西では数十種類置いてあるといいます。なかでも、人気が高いのは旭食品の”旭ポンズ”と聞きます。最近は、近所のスーパーでも見かけることがあります。確かに、しっかり出汁が利いた美味しいポン酢だと思います。

徳島市で地元の人たちと食事した際、全ての料理にすだちを絞ってかける光景を見て驚きました。すだちの95%は、徳島県で生産されています。爽やかな酸味と香りが食欲をそそります。最初は喜んで食べていたのですが、そのうち口がすだちの酸味だらけになり、料理の味はまったく分からなくなりました。徳島には、当然、すだちで作ったポン酢もあります。何にでもすだちを絞ってかけるのなら、すだちポン酢など不要なのではないかと思ったものです。いまや全国に、ご当地レトルト・カレー、ご当地ご飯の友があふれていますが、ご当地ポン酢醤油も必ずと言っていいほど売られています。明らかに道の駅の効果だと思われます。柑橘類の名産地に限らず、他でもリンゴ酸やワインを使ったものまであります。また、魚醤といった醤油、あるいは出汁方面からのアプローチもあり、そのヴァラエティの広さには驚きます。みんな、馬路村の柳の下をねらっているのでしょうね。(写真出典:mizkan.co.jp)

2026年6月25日木曜日

君が代

「君が代」が、日本の国歌として法定されたの1999年のことです。曲としては、1880年(明治13年)に作曲され、、日本の国歌として歌われてきましたが、正式な国歌ではなかったわけです。君が代は、古今和歌集(905年)の詠人知らずの和歌に、宮内省雅楽課に属する雅楽奏者・林廣守がメロディを付けたとされています。もっとも、同じ歌詞に、最初にメロディを付けたのは英国の軍楽隊長J.W.フェントンでした。1869年(明治2年)のことです。フェントンから日本に国歌がないことは誠に遺憾と指摘された薩摩藩砲兵大隊長・大山巌が、薩摩琵琶歌の「蓬萊山」の一部を歌詞として選び、フェントンがこれに曲を付けます。薩摩琵琶は、通常の琵琶より大ぶりで、太い音が特徴です。戦国の薩摩で武士の教養として生まれたとされます。「蓬萊山」は、祝い歌であり、その一節がそのまま「君が代」の歌詞になりました。

ただ、フェントンのメロディが西洋的に過ぎてピンとこないという声が多く、1880年、歌詞はそのままに、林廣守のメロディに変えられたわけです。君が代として使われた薩摩琵琶曲の一節は、以前から一般的に存在した歌詞でした。古くから各地で祝い歌として、田楽・猿楽・謡曲等はもとより、宴席の締めにも歌い舞われるなど、様々な形で歌い継がれてきたものでした。いわば祝い歌の定番として、馴染み深い歌詞だったわけです。その初出が古今和歌集とされています。ただ、詠人知らずという点が、様々な憶測を呼ぶことになります。当時、貴人以外が詠んだ和歌は、詠人知らずとして掲載されたようです。君が代の本当の詠人は一介の木地師だったという説があります。ここで”君”と呼ばれたのは、天皇ではなく、木地師の祖神とされる惟喬親王だとされます。

木地師は、轆轤(ろくろ)を使って、お椀などの木工品を削り出す職人です。各地の山の7合目以上の木を切る権利を保証する”朱雀天皇の綸旨”を持ち、山中を移動して生活する集団でした。文徳天皇の皇子である惟喬親王が近江国に隠棲していたおり、木工用の轆轤を考案したことから、木地師が生まれ、親王は木地師の祖神として祀られることになりました。君が代を詠んだ木地師は、この和歌が認められ、朝廷から藤原朝臣石位左衛門という名前を拝領したとも言われます。眉唾話のように思えますし、話を創作した背景や理由もよく分かりません。また一方で、気になる話もあります。福岡の志賀海神社の神楽歌を起源とする説です。志賀海神社は、古代にあって、海人を司っていた阿曇氏(安曇氏)ゆかりの神社で、その創建は古代にさかのぼるようです。

志賀海神社の山誉祭の神楽曲は、冒頭こそ君が代を”きみがだい”と歌いますが、他は君が代と完全に同じ歌詞です。残念ながら、この神楽の起源や生まれた年代は不明です。ただ、神社の伝承によれば、神功皇后が三韓成敗に赴く際、神社に寄って山誉祭の神楽を聞き、これを末代まで残すよう言葉をかけたとされます。その曲が、今に伝わるものと同一なのかは分かりません。ただ、同じである可能性は高いように思えます。糸島・博多湾一帯には、この曲の歌詞にちなんだ地名が多く存在するとも聞きます。また、神功皇后の渡海に関しては、安曇氏が協力したことを示す伝承も存在するようです。そして、ここで言う”君”とは、天皇ではなく、神功皇后を助けたとされる阿曇磯良ではないかとする説があるようです。また、この神楽曲が旅芸人たちによって各地に広められ、古今和歌集にも掲載されたとする言い伝えもあるようです。

君が代は、国歌の歌詞としては世界最古とされているようです。革命歌や軍歌のような勇ましい国歌が多いなか、祝歌的な歌詞と荘重なメロディを持つ君が代は、世界に誇るべき国歌だと思います。”君”を天皇であるとしたのは明治政府ですが、民主主義の時代に天皇を称える国歌とは何事だという批判もあります。一理あります。ただ、憲法上、天皇が国民統一の象徴とされるのであれば、君が代とは、日本の国体、あるいは国民そのものと理解することもできます。”さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで”とは、まさに国と国民の統一の永からんことを願う歌詞と言えます。ちなみに、さざれ石とは、石灰質角礫岩のことであり、小さな石が長い年月をかけて固まり、ひとつの大きな岩になったものを指します。各地でさざれ石が見つかると、大いに珍重され、神社などに置かれています。(写真出典:tenki.jp)

2026年6月23日火曜日

リトアニア

国立西洋美術館で、 チュルリョーニス展を見ました。ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニスは、リトアニアを代表する画家にして作曲家だそうです。1875年生まれのチュルリョーニスは音楽家としてキャリアを重ね、36年という短い生涯のなかで400曲を作曲します。そして、30歳になる頃から絵を描き始め、300点の作品を残しました。幻想的な画風は象徴主義絵画と言っていいのでしょう。象徴主義は、19世紀後半、印象派や写実への反発として生まれました。しかし、チュルリョーニスの象徴主義は、音楽との関係のなかから生まれているように思います。つまり、彼の音楽的世界を絵画で表現しているわけです。

チュルリョーニスについては、今回の展覧会までまったく知りませんでした。いや、それどころか、リトアニアについても、ほぼ何も知らなかったと言えます。知っていることと言えば、ソヴィエトから独立したバルト三国の一つであること、元大関・把瑠都の出身地であること、そして杉原千畝によるユダヤ人救出の舞台であったこと、以上が全てでした。リトアニアは、バルト三国の最も南に位置する国です。西はバルト海に面し、北はラトビア、南はポーランド、東はベラルーシに接しています。国の面積は6.53万 km²と北海道よりやや小さく、人口は280万人です。紀元前2000年頃からバルト族の定住が始まり、1009年に至り、初めてリトアニアの国名が文献に登場しています。

13世紀前半には、ミンダウガスが国を統一し、王として戴冠します。多神教だったリトアニア王国は、ドイツ騎士団など北方十字軍の攻撃を受ける一方で、東へと領土を拡大していきます。そして14世紀末には、ウクライナ全域、およびポーランドとロシアの一部を含む、ヨーロッパ最大の国土を有する国になります。つまり、リトアニアは、キエフ大公国を飲み込むかたちで欧州最大の国家になったわけです。キエフ・ルーシ(キエフ大公国)は、9世紀、ノルマン人、いわゆるヴァイキングによるスラブ支配から始まっています。ルーシとは国と理解して良さそうですが、もともとはヴァイキングを指すスラブ語だったようです。キエフ・ルーシは、バルト海から黒海にいたる広大な地域を支配していました。ルーシは、現在のロシア、ベラルーシの語源ともなっています。

バルト海の小国が、巨大なキエフ・ルーシを支配するに至ったことは驚きです。それを可能にした要因は主に二つあるように思います。一つは、巨大だったキエフ・ルーシが、時とともに、小ルーシの緩やかな連合体に変わっていたこと、そして”タタールのくびき”、つまり13世紀後半に起こったモンゴルの侵入と支配です。小ルーシは連合を組んで戦いますが、人口が半減したと言われるほどの激しい攻撃に敗れ、キエフ・ルーシは消滅します。そこへリトアニアが浸透していったわけです。しかし、小国の悲しさゆえ、巨大化したリトアニアの統治は、ほとんどスラブ人によって行われていたようです。15世紀末には、モスクワ・ルーシが力をつけてリトアニアの脅威となります。16世紀中葉、リトアニアは、ポーランド・リトアニア共和国を建国し対抗します。

当初、主導権を握っていたリトアニアでしたが、ほどなくポーランド優勢に変わります。リトアニア諸侯は法律上持っていた自由拒否権を使って、ポーランド勢に抵抗します。これがリトアニアの近代化を遅らせたと言われています。最終的には、17世紀の北方戦争で国土は興廃し、続く18世紀初頭の大北方戦争ではロシア側に敗れ、リトアニアはロシアの属国になります。第1次世界大戦後、一旦、ロシアから独立しますが、第2次大戦後、再びソヴィエトに吸収されます。リトアニアの歴史を見ると、小国ゆえの悲哀を感じます。しかし、1944~1952年、約10万人のパルチザン「森の兄弟」がソヴィエトと戦ったことが、リトアニアを理解するためには重要なのだと思います。恐らく、その不屈の精神、プライドこそがリトアニアなのだろうと思います。(写真出典:store.shopping.yahoo.co.jp

2026年6月21日日曜日

千葉氏

”千葉城”
JR千葉駅から本千葉駅へ向かうと、左手の丘の上に城郭が見えてきます。初めて見た人は、必ずと言っていいほど、千葉市に城があるとは知らなかった、と言います。実はその通りであって、歴史上、千葉市に天守閣を持つ城郭は存在していませんでした。通称、千葉城と呼ばれている建築物は、1967年に城郭を模してコンクリートで建設された千葉市立郷土博物館です。”千葉城”が建つ丘は亥鼻(いのはな)と呼ばれ、中世には亥鼻城があるにはあったのですが、平山城でした。従来、千葉氏の居城とされてきましたが、現在では発掘や研究が進み、千葉氏の家老だった原氏の平山城だったという説が有力になっているようです。

千葉という地名は、下総の豪族・千葉氏が支配していたことから定着した地名と思われがちです。しかし、千葉という地名は古くから存在し、万葉集にも登場しています。草木が生い茂る豊かな場所という意味だったようです。千葉氏は、桓武平氏の流れを汲む坂東平氏の平常兼が、11世紀中葉、千葉荘を支配して千葉大介を称したのが始まりとされます。坂東平氏は、898年、桓武天皇の孫にあたる平高望が上総介として下向したことに始まります。高望の子孫は、近隣に勢力を拡大していきますが、なかでも高望の側室の子であった良文の子孫は、坂東各地で武士団を形成しました。なかでも、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏の八氏は、坂東八平氏として知られます。うち房総を拠点とした千葉氏と上総氏は房総平氏とも呼ばれます。

1180年、以仁王の令旨に応じて平家追討の兵を挙げた源頼朝は、伊豆の石橋山の戦いで敗れ、海路、安房国へ渡ります。房総の地で再挙した頼朝に加勢したのは房総平氏でした。千葉氏の3代目当主だった千葉常胤(つねたね)も、上総国の上総広常、安房国の安西景益とともに参陣します。平氏が源氏方に参陣することは腑に落ちない面もありますが、房総平氏が、下総国目代の藤原親政の圧政下にあったことが背景と言われます。親政の妻は、平清盛の正室・時子の妹でした。平清盛の勢いは、坂東にまで及んでいたわけです。清盛は伊勢平氏の当主ですが、伊勢平氏は、もとをただせば坂東平氏の傍流です。都で貴族化した伊勢平氏は、他の平氏一門を隷属化させていました。同じ桓武平氏ながら坂東平氏も同様の扱いを受けており、不満を抱いていたのでしょう。

加えて、千葉常胤は、上総氏や周辺の豪族との領土争いが続き、所領を守ることも厳しい状況にあったようです。しかし、頼朝に従った常胤は、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦で戦功を挙げ、有力御家人にまで上ります。頼朝に鎌倉を拠点にすべきと進言したのも常胤だとされています。また、房総平氏の当主となっていた上総広常が、1184年、頼朝に謀殺されたことで、常胤は房総平氏の当主になり、下総の守護にも任命されます。しかし、鎌倉時代中期、一族が三浦氏の乱に加担したために千葉氏は処分を受けます。南北朝時代になると、一族は南北に別れて戦います。室町中期、事実上の戦国時代の始まりとも言われる享徳の乱でも、一族と家臣が関東管領側と鎌倉公方側に別れて戦います。その後も一族の内紛が続き、最終的には、秀吉の小田原成敗によって後北条氏とともに滅ぼされ、一族は離散することになりました。

武家の本質は、領土を武力と一族の団結で維持・拡大することにあると思います。激しく動く歴史の波に翻弄されたこと、そして一族の結束を維持できなかったことが、千葉氏の滅亡につながったのでしょう。千葉氏の興廃の歴史は、まさに武家の歴史の縮図のように思えます。江戸期になると、下総国、上総国、安房国には、佐倉藩を除けば、天領、20を超える小藩、旗本領等がまだら状に分布されることになります。幕府は、江戸への近さゆえ、この地に有力な藩を置くことを避けたのだと言われます。千葉の町は、古くから交通の要所として栄えており、江戸期には千葉妙見宮の門前町としても知られる存在になりました。城はなくても賑わっていたわけです。歴史的背景もないのに、昭和になってから、わざわざコンクリートの城を建てる意味があるのかと言えば、疑問と言わざるを得ません。県民としては、むしろ貧困な発想を恥ずかしいと思っているのではないでしょうか。(写真出典:jaran.net)

2026年6月19日金曜日

ビルケンシュトック

Arizona
ドイツの靴メーカー・ビルケンシュトック社の創業は1774年とされます。教会の公文書に、その年、創業者ヨハン・アダム・ビルケンシュトックがシュー・マイスターとして認められたことが記録されているようです。日本に当てはめれば、安永3年創業ということになります。ビルケンシュトックの代名詞と言えば、フットベッドと呼ばれる内底を持ったサンダルです。フットベッドは、足裏の形状に合わせた立体的な形をしています。創業者の曾孫であるコンラッド・ビルケンシュトックが、19世紀末に原型を開発しました。当時、靴は工業生産されるようになっており、伝統的な靴職人は、靴の修理屋、あるいは特別な靴の製造者へと2分化されます。コンラッドは、医学的な個人向け整形靴の製造を行うようになります。

当時、医学用整形靴は金属の底でしっかり固定することが常識でした。しかし、コンラッドは、正しい歩行をサポートするローリング機能に注目し、足の形状にぴったりの柔軟なインソールという結論に達します。それは治療や補正に留まらず、正しい歩き方を実現する健康靴というべきものでした。研究を重ねた結果、1913年、コルクを混ぜたソールにたどり着き、フットベッドと名付けることになります。当時の広告には、まさに素足がベッドの上にあるイラストが使われています。フットベッド靴は、整形外科の世界で評判を呼び、負傷した帰還兵などに喜ばれたと言います。つまり、フットベッドは、医学の世界で生まれ、医学の世界に留まっていたわけです。それを変えたのは、コンラッドの孫であるカール・ビルケンシュトックでした。

カールは、フットベッドの素材を、コルクと天然ゴム由来のラテックスを混合したものに進化させます。そして、個々人の足に合わせて注文生産されていたフットベッドを、多くの人の足形に基づき標準化された製品へと進化させます。さらに、当時のブルータリズムの影響を受けた大胆なデザインのフットベッド・サンダル” Arizona”を発売します。我々の知るビルケシュトックが誕生したわけです。しかし、当初、医療用にオリジンを持つビルケンシュトックのサンダルは、医療従事者やごくマニアックな人々の興味を引いただけでした。そして、カウンター・カルチャーが世界的広がりを見せると、ヒッピーたちが注目するところとなります。旧体制打破を叫ぶ若者たちにとって、従来のサンダルの概念を覆したArizonaは、まさに象徴的な存在に見えたのでしょう。

個人的には、ビルケンシュトックを世界中に広めたのはスティーブ・ジョブスだったと確信しています。ジョブスは、経営が傾いていたアップル社に戻り、1998年のiMacにはじまり、iPod、iPhone、iPadと立て続けにヒットを飛ばします。同時に、ジョブス本人への注目も高まります。アップルを創業する前、ジョブスは、インド哲学に傾倒し、インドへ放浪の旅を行っています。その際、履いていたのがビルケンシュトックのArizonaであったことが、広く知られることになりました。これがビルケンシュトック・サンダルの転換点になったものと考えます。ちなみに、2022年、ジョブスが履いていたArizonaは、オークションで3,000万円という値が付けられています。また、2010年代、ビルケンシュトックの影響か、有名ブランドもサンダルを扱うようになります。

この10年で、ビルケンシュトックは売上を5倍に伸ばし、2023年には、 ニューヨーク証券取引所に株式を公開しています。商品のヴァリエーションもかなり広がっています。近年、人気が高いボストンというモデルは、サボ(木靴)に似たラインです。パンツ如何では普通の靴を履いているようにしか見えません。ビルケンシュトックのフットベッド・サンダルは、足底の密着感からして、靴とサンダルの中間的な存在だと思います。通常のサンダルのように、つっかけている印象はありません。ボストンは、究極のビルケンシュトックなのかもしれません。ただ、個人的には、あくまでもArizonaにこだわりたいと思います。私は、夏でも冬でも履いています。5年経っても、アッパーは劣化しません。ただ、さすがにソールはすり減ってきますが、店に持ち込めば、簡単にソール交換をしてくれます。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年6月17日水曜日

正統記(しょうとうき)

継体天皇像
日本の歴史は田舎者が創った、と言い切る人がいます。決して、そんなことはありません。ただ、武家の時代になると、鎌倉幕府から明治維新まで、時代を切り開いたのは常に田舎者だったとも言えます。そのフロント・ランナーは、武蔵国で生まれ信濃国で育った木曽義仲ということになります。義仲は、以仁王の平家追討の令旨に応じて兵を起し、次々と平家方を破り都に入ります。平家物語などによれば、義仲は、都で田舎者、乱暴者と蔑まれます。後白河法皇と対立した義仲は、上洛から1年も経たずに従兄弟の頼朝軍に敗れ、近江で命を落とします。後白河と義仲が対立するに至ったきっかけは、天皇家が最も重要、かつセンシティブと考える皇位継承問題に、部外者に過ぎない義仲が介入したことだと思われます。

義仲は、以仁王の第一王子・北陸宮(ほくろくのみや)を奉じて、都へ攻め上ります。安徳天皇に新主践祚の話が出ると、義仲は後白河の孫にあたる北陸宮を強く推薦します。しかし、後白河は、安徳天皇の異母弟である四ノ宮(後鳥羽天皇)を選びます。直系男子継承を正統(しょうとう)とする考えからすれば、高倉天皇の直系男子が選ばれて当然至極ということになります。天皇の正統性という概念を、義仲が不知、あるいは十分に理解していなかったことが、義仲の最も田舎者らしいところだったと言えます。中世になって生まれたとされる正統という概念の分かりやすい例が、後醍醐天皇の側近である公卿・北畠親房の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」ということになります。南北朝時代にあって、南朝の正統性を主張するために書かれた天皇年代記です。

神皇正統記は、単なる歴史書に留まらず、神国思想や政治哲学を説く書でもあり、後代に大きな影響を与えました。神皇正統記では、天皇を第〇代と表記すだけでなく、時に第〇世と併記しています。例えば継体天皇は「第二十七代、第二十世」と記載されています。”代”は天皇の単純な継承順を表し、“世”は男系の父子継承に限って、その世代順を表しています。つまり、第〇世と付く天皇は、父子継承された正統であり、他は傍系としているわけです。”万世一系”とは、天皇が神武以来の一つの血統によって継承されることを表しますが、なかでも、正統とは、男系の父子継承に限定した一直線の系統を指しています。なお、神皇正統記は、正統か否かをもって天皇の評価を変えることはしていません。ちなみに、継体天皇は、通常、第26代とされますが、神皇正統記では神功皇后を15代天皇としているために、以降にズレが生じています。

昨今、国会で皇室典範改正の議論が進んでいます。今回の改正の目的は、減少している皇族数を確保し、皇室の活動を安定的に維持することとされています。改正方向としては、女性皇族が結婚後も皇族の身分を保つ、過去に皇籍を離脱した旧宮家の男系男子を養子にすることを可能とする、という2点で合意しつつあるようです。一方、国民の間には、女性天皇を可能にする議論も行うべきという声も根強くあるようです。男女平等の時代に、愛子内親王を天皇にしないのはけしからんというわけです。皇室典範では、皇位継承者は皇統に属する男系の男子とされているわけですが、背景には万世一系論、さらに正統論があります。しかし、この両論については、理屈も、優劣も、実利もないので、到底、議論が成り立つとは思えません。

天皇が側室を持っていても、正統性は幾度も途切れ、万世一系も危機に瀕したことがあります。6世紀初頭、第25代の武烈天皇が、皇子なく、皇太子も定めずに崩御します。万世一系を守るため、有力豪族たちが奔走します。結果、応神天皇の5世の来孫とされる継体天皇が越前(近江とも)から迎えられます。継体天皇の先祖が、5世に渡り父子一系を続けていたことは奇跡的であり、継体の出自に関しては多くの議論があります。豪族たちは、継体天皇の人柄を聞き及び、会いに出かけます。そして、その大王の品格の前にひれ伏したと言います。天皇になった人を悪く言うわけはありませんが、人選上、血統だけではなく、ふさわしい人物か否かも考慮されていたのでしょう。天皇は、憲法上、日本国の象徴、国民統合の象徴とされています。憲法を重視するならば、継承されることが最重要と考えます。天皇の置かれた状況からして、皇位継承者は皇統に属するふさわしい人物とすべきではないかと思います。(写真出典:fukui-rekimachi.jp)

2026年6月15日月曜日

グアンタナモ

キューバ島東南部のグアンタナモ湾にはアメリカ海軍の基地があります。対立するキューバに、革命以前からの米軍基地が残るという不可思議な話です。グアンタナモ湾は、1903年、アメリカが、当時のキューバ政府から永久租借権を得て、今日に至ります。租借地は、割譲などとは異なり、貸した国に潜在的な主権が残っています。ただ、統治権は借りた側にあります。当然のことながら、キューバ革命後、カストロは返還を求め続けますが、アメリカは応じていません。かつての香港は、香港島が割譲、新界は99年租借という組合せでした。香港は、1997年に中国に返還されました。パナマ運河も、かつてはアメリカの永久租借地でしたが、1999年、パナマに返還されています。

アメリカとキューバが友好関係にあれば、グアンタナモも返還されていたのでしょうが、革命後の対立関係からしてアメリカが手放すことはありません。租借のきっかけは、1898年の米西戦争の際、アメリカ軍がスペイン領だったキューバを制圧したことにあります。米西戦争は、落ち目のスペインに、国内のフロンティアを終え、海外へ目を向け始めたアメリカのエゴが襲いかかった植民地戦争です。フィリピンとキューバが主な戦場となりました。1898年、ハバナ湾でアメリカの戦艦メイン号が爆発します。販売競争を繰り広げるアメリカの新聞が、スペインの仕業だというデマを流し、それがトリガーとなって戦端が切られます。その際の”Remember the Maine”というスローガンは、後に太平洋戦争で”Remember Pearl Harbor”として再び利用されることになります。

その後、アメリカの支援を受けてスペインから独立したキューバ政府が、グアンタナモの永久租借を認めます。アメリカは租借料として毎年金貨2,000枚(約4,000米ドル)を支払いました。キューバ革命後、カストロは一度だけ租借料を受け取りますが、以降は拒否し、グアンタナモ返還を求めます。1962年に勃発したキューバ危機の際、グアンタナモ海軍基地は、最前線として兵員・装備ともに強化されています。1964年には、カストロがグアンタナモへの水の供給を絶つという強行策に打って出ますが、アメリカは海水の淡水化プラントを建設して、これをしのぎます。近年、グアンタナモは、アフガンやイラクでテロへの関与が疑われて拘束された人々の収容キャンプとして注目を集めました。国内法や国際法の制約を受けないグレー・ゾーンの収容所とされています。

租借地における統治のあり方は、租借契約によって異なるようです。グアンタナモの場合、アメリカが完全なる管轄と統治権を確保しているようです。キューバ法の対象外ですが、かといってアメリカの領土ではないのでアメリカ法の対象でもありません。つまり、法律としてはアメリカ海軍の軍法しかないということになります。人権保護の傘から外された中東の収容者たちは、拘束の法的根拠もないまま、拷問を受けることになりました。もし捕虜としての拘束であれば、ジュネーブ条約によって守られますが、アメリカは捕虜ではない、犯罪者であるという立場をとります。犯罪者だとしても、中東で逮捕・拘束し、キューバへ移送・収容する法的根拠などありません。的確な表現をするとすれば、拉致・監禁ということになるのだろうと思います。

グアンタナモ湾収容キャンプは、2002年に開設されています。2001年の同時多発テロを受け、ジョージ・W・ブッシュ大統領はアフガニスタン侵攻を即断します。同時に、大統領は、イラク・イラン・北朝鮮を大量破壊兵器を保有する”悪の枢軸”と批判し、2003年にイラク戦争が始まります。しかし、制圧したイラクに大量破壊兵器は見つかりませんでした。同時多発テロ翌日から、大統領とラムズフェルド国防長官が、イラク攻撃をほのめかしていたことが、後日、判明します。大統領は、国民感情からしてテロの報復を急ぐ必要がありました。十分な情報がないなかで、石油利権を含む歴史的経緯からイラクが生け贄として選ばれたとしか思えません。大統領には、情報を得るために拷問を行う場所が必要だったわけです。当然、収容所は、国内外内から批判され、民主党のオバマ、バイデン両大統領は収容所閉鎖を指示します。ところが、共和党の強い反対によって実現されていません。(写真出典:nbcnews.com)

2026年6月13日土曜日

中学生の頃、人生で一度だけ水害を経験しました。川の水が堤防を越えそうだというので、家財道具を二階へ運び上げました。残るは畳だけとなったのですが、重くて難儀しているところへ水が来ました。その重い畳が水圧で浮き上がります。水は恐ろしいと思ったものです。水害の後、一階の畳は全て廃棄して新調しました。その際、畳床の芯材に稲わらを使う伝統的な畳はあきらめて、当時、登場したばかりのスタイロフォームを芯材に使った畳を選択しました。とても軽くて、これなら水が出ても、すぐ2階に上げられると思いました。ただ、それ以降、一度も水害はありませんでした。 

畳は、日本独自の文化です。ゴザや筵の類いは、中国や韓国にもありますが、畳は日本にしかありません。畳は、畳床、畳表、畳縁で構成されます。畳床は、伝統的に稲わらを圧縮して芯材とします。稲わら床は、吸湿性、放湿性に優れているとされます。ただ、重いのが難点ともいえます。近年登場したスタイロフォームを芯材とする畳床は、軽さや断熱性で優れますが、吸放湿性が弱いとされます。木材チップを主原料とする芯材もありますが、化学素材の芯材に比べ、重くなります。ただ、断熱性や吸放湿性には優れているようです。以上を組み合わせるタイプもあるようです。畳床の寿命は10~20年と言われますが、メンテナンスが良ければ40~50年もつこともあるようです。もちろん、畳表は、適宜、張り替える必要があります。

畳表は、縦糸に綿糸や麻糸を用い、稲わらよりも細いイ草を織り込んで作ります。他に和紙や化学繊維で作る畳表もあるようです。畳表だけをゴザとして使うこともあります。畳縁(たたみべり)は、畳の長辺に縫い付ける細い布です。畳の角の補強や隙間を埋めるために縫い付けられます。畳は、統一された規格という合理性、あるいは組み合わせて使う自在性も特徴的だと思います。畳のサイズは、京間、江戸間、琉球畳など数種類ありますが、規格が統一されていることで日本建築のサイズの基準にもなっているわけです。これが千年以上前から存在するのですから、誇るべき日本文化の一つだと思います。ただ、その歴史は判然としません。少なくとも、現在のものに近い最古の畳は正倉院の「御床畳」とされます。

当時は、天皇や貴族が寝具として使っていたようです。”畳む”という文字からしても、寝る際に敷いていた筵から進化したものと想像できます。寝具や座具として使っていた畳が、部屋全体に敷かれるようになったのは、室町期に発展した武家の書院造からだとされます。座敷という言葉もここで生まれるわけです。書院は、書斎兼居間を指しますが、来客の多かった武家では、接客、儀式の場へと変化し。家の中心になっていったようです。来客の人数も多ければ、いちいち座具として畳を敷くのも面倒で全体に畳を敷き詰める座敷へと変化したのでしょう。畳のサイズは、寝具・座具の名残だと思われます。ただ、武家では戦に際し、甲冑を身に纏って土足で家の中を行き来することもありました。その際、簡単に片付けられる畳のサイズは便利だった面もあるのでしょう。また、メンテナンスという面からみても、畳のサイズは合理性があるように思います。

畳自体の自在性もさることながら、座敷の多様性も見事なものです。一つの座敷が、書斎、客間、ダイニング、寝室に対応できるわけですから、実に効率的です。これも畳が生んだ文化なのでしょう。西洋式に、ソファ、ダイニング・テーブル、ベッドを置けば、その部屋の用途は限定されます。現代の日本は、なんて効率の悪い間取りを選択したのだろうとさえ思います。余談ですが、たまに行く温泉宿では、畳の部屋で食事をし、布団を敷いて眠ります。椅子の生活が長くなったこと、そして老化とともに足腰が弱っていることもあり、畳から立ち上がることがしんどくなりました。知らず知らずのうちに、温泉宿でもベッドの部屋を選択している今日この頃です。(写真出典:tatamiweb.com)

2026年6月11日木曜日

シェトランド

スコットランドのシェトランド諸島は、イギリスの最北端、北緯60度に位置する亜寒帯の島々です。総面積は沖縄本島よりやや大きい程度です。その名前は、シェトランド・セーターやフェア・アイル・セーターでよく知られています。シェトランド・セーターは、ざっくりとした風合が特徴です。フェア・アイルは、色とりどりな幾何学模様が特徴です。人口2万3千人に対して羊は29万頭。羊だらけの島だと言えます。もちろん、漁業の島でもありますし、1978年以降は石油の島でもあります。また、アン・クリーヴスのジミー・ペレス警部シリーズを原作とするドラマ「シェトランド」の舞台でもあります。

小説は2006年から9作、ドラマは2013年から10シーズンがリリースされています。刑事小説の魅力の半分は舞台設定にあります。極北の島、風が強く曇りがちな島、樹木がほとんどない島、しかも島の人間は皆知り合いというシェトランドは、刑事小説にとって魅力あふれる舞台です。また、刑事物ではお決まりの刑事本人の複雑な家庭もしっかり組み込まれています。ドラマとしては、英国伝統のフーダニット系謎解きミステリーに、ノルディック・ノワールのテイストも加えられていることが特徴なのでしょう。シーズン1~2は、アン・クリーヴスの原作に基づく1ストーリー2話構成でしたが、シーズン3以降は、オリジナル脚本で1シーズン1ストーリー6話構成になります。このじっくりとドラマを展開させるスタイルがシェトランドの独特な世界を形作っています。

シーズン7までは、ダグラス・ヘンシャルがジミー・ペレスを演じていました。その寡黙で内省的な個性がシェトランドというドラマを性格づけていました。ところが、シーズン8からは、主要な脇役はそのままに、ヘンシャルは降板し、代わってアシュリー・ジェンセンが主役になります。なんとも大胆な交替です。高い人気があるからこそ、できた主役交代であり、以降もシリーズは継続され、シーズン11まで予定されています。ヘンシャルの最後の出演となったシーズン7は、明らかにシリーズの終わりとして制作されているように思います。シーズン6で最高視聴率をヒットし、以降、多少低下したとは言え、高い数字を稼いでいたシリーズを、継続するか否か、継続するとすればいかに、といった議論が製作陣のなかでなされたのでしょう。

シーズン8から変わったことは、主演だけではありません。ジェンセン演じるルース・コールダー警部補は、ロンドン警視庁から派遣されますが、もともと島の出身であり、なにやら複雑な過去も背負っています。シェトランドの魅力の一つであるテーマ曲も、フォークロア感を抑えた曲調になっています。シェトランドは、荒涼とした風景を美しく映像化している点も魅力の一つです。シーズン7までの映像は曇天で暗めで寂寥感を漂わせていましたが、シーズン8からは、日差しが多くやや明るい色調に変わっています。登場人物たちは、相変わらず一癖も二癖もありそうな人々ですが、ローカル感が薄れ、いかにも役者がエッジを効かせたキャラクターを演じているという印象です。つまり、ドラマの本質を構成していたシェトランド諸島のリアルな暗さが薄れ、ドラマは一層プロット重視に変わり、島は単なる舞台へと変化したように思います。

同じアン・クリーヴス原作の人気刑事ドラマに「ヴェラ」があります。2011年から14年間、14シーズンが放送されました。スコットランド北部を舞台に、肥えて偏屈で優秀なおばさん刑事ヴェラが活躍するシリーズです。ヴェラもシェトランドも、ミステリー・チャンネルの看板ドラマです。ミステリー・チャンネルは、一挙放送スタイルを採っています。つまり、シェトランドの1シーズン約6時間が連続して放送されるわけです。録画して観ることを前提としたスタイルなのでしょう。私は録画機を持っていません。必要を感じないからです。見逃した番組に関しては、NHK ONEやNHKオンデマンドがあれば十分です。そういう人に一挙放送スタイルは不都合極まりないものです。結局、Amazonで有料で視聴することになります。シェトランドは、お金を払ってでも観る価値がありました。ただし、シーズン7までですけど。(写真出典:filmarks.com)

2026年6月9日火曜日

「木挽町のあだ討ち」

 監督:源 孝志  原作:永井紗耶子  2026年日本

☆☆☆ー

永井紗耶子の同名原作は、2019年から小説新潮に連載され、2023年に単行本が出版されています。その年の直木賞、山本周五郎賞を受賞し、各種ミステリー・ランキングでトップ10入りしたベストセラーです。江戸末期の仇討ちを巡る物語が、芝居小屋を舞台に展開するというミステリーです。2025年には、松本幸四郎・市川染五郎親子によって歌舞伎化されています。芝居小屋が舞台ですから、相性が良かったのでしょう。そして、今年、NHK「京都人の秘やかな愉しみ」の源孝志の監督・脚本で映画化されました。”京都人”で源孝志のセンスの良さに惚れ込んでいたので楽しみにしておりました。ただ、パリに行っている間に公開され、終了していました。今般、ようやくAmazon Primeで観ることができました。

レベル以上の娯楽映画だとは思いますが、映画的な広がりや深さには欠けるところがあります。原作は、ミステリー仕立てながら、登場人物たちがもっと深掘りされているようです。恐らく、仇討ちを通して武家社会の硬直性、あるいは芝居小屋の世界を通して江戸の社会の矛盾が表現され、作品に深みを与えているのでしょう。映画は、プロットを追うことに注力したきらいがあり、やや趣きに欠けるところがあります。源孝志のそつのない演出はなかなかのものだと思いますし、センスの良さも感じさます。ただ、プロットに追われたせいなのかも知れませんが、やはりTVの人だな、と思ってしまいます。その最大の理由は、思想性の薄さなのでしょう。管理社会に対する批判はあるのですが、通り一遍で表面的なところがあり、登場人物の陰影も薄くなっています。

仇討ちは、制度化されていました。家や一族の結束、そして武力が武家の本質だと思います。仇討ちは、幕府が主導する管理社会と武家の本来的特性とのギリギリの妥協点なのだと思います。妥協ですから、そこには矛盾も生じます。江戸期であっても、殺人は幕府か藩が処罰することになっていました。殺人犯が逃亡した場合、直系卑属にその処罰を委託する形で仇討ちが許されました。ただし、仇討ちは公的に承認・管理された場合に限ります。仇討ちを認められた者は、敵を討ち取るまで国に戻ることも、家督相続することも許されませんでした。なかには数十年を要する例もあったようです。また、仇討ちされる側にも正当防衛が認められ、返り討ちは無罪とされました。制度としての仇討ちは、1873年(明治6年)になって、ようやく禁止されています。

映画の舞台となった木挽町の森田座は、実在した芝居小屋です。中村座、市村座と並び、幕府に公認された江戸三座の一つでした。歌舞伎座などでよく見かける黒・柿色・萌葱色の三色の幕、いわゆる定式幕は、森田座の幕から始まっています。また、劇中に登場する立作者・篠田金治も、実在する武家出身の狂言作者ですが、その名を借りているだけです。木挽町は、江戸期、現在の歌舞伎座あたりに存在した地名です。とは言え、ストーリーは、まったくのフィクションです。悪所と呼ばれた芝居小屋、身分制度の外で河原乞食と呼ばれた歌舞伎役者、いずれも管理社会の外側の存在です。本作は、管理社会の外にはじき出された者たちが、管理社会に一泡吹かせるという構図を持っているわけですが、残念ながら、そこの掘り下げが浅くなっています。

娯楽作品としては、まずまずの出来だとは思うのですが、興行的には振るわなかったようです。印象的には、東映のマーケティングに限界があったように思います。これが東映の現状と言えるのかもしれません。東映は、五社の一角を占め、任侠映画、実録ヤクザ等々、TVと一線を画すアウトロー路線で1970年代までは興業成績トップを続けました。高度成長のひずみ、カウンター・カルチャー等を背景に大衆を惹きつけていたわけですが、1980年代以降は低迷します。健全娯楽路線をとることで東映の後塵を拝してきた東宝が、今や一人勝ち状態になっています。本作を、アウトロー路線全盛の頃の東映が撮れば、随分とエッジの効いた作品になったのではないか、などと夢想しながら観ました。(写真出典:eiga.com)

2026年6月7日日曜日

四股名

天空海
相撲は、垂仁天皇の命によって、野見宿禰と当麻蹴速が戦ったのが始まりとされます。紀元前23年のことと推定されます。興行としての大相撲は、江戸期の勧進相撲に始まるとされます。ここで力士の興行上の名前である四股名も生まれます。四股名は、姓と名が一対となっています。つまり、雷電だけが四股名ではなく、雷電為右衛門が四股名ということになります。それは今も変わっていません。、通常は姓の部分だけで呼ばれますが、相撲協会の正式なプロフィールや表彰状等にはフルネームが記載されます。四股名に関しては、同じ四股名は登録できないといった協会のルールがあるだけで、かなり自由に決められています。ただ、通例として、雷電など偉大な力士の名、高砂といった年寄名跡、あるいは不祥事を起こした力士名などは、止め名とされています。

かつての四股名には、山や川が多く使われていたように思います。近年は、かなりバリエーションが増えたように思います。エストニア出身の大関・把瑠都が典型ですが、外国籍の力士が増えたことも一因かも知れません。しかし、多くは、世間のキラキラ・ネームの流行に影響されたのではないかと思います。一番印象的だったのは天空海(あくあ)の登場です。同じ頃、宇瑠虎(うるとら)、爆羅騎(ばらき)、光源氏もいました。とりわけ天空海は、柔道経験を活かした豪快な相撲で幕内まで昇進したので、よく知られるところになりました。天空海という四股名は、出身地の茨城県大洗にある大型水族館アクアワールドにちなんだと聞きます。もともとの四股名は豊乃浪でしたが、成績に波があるので、波の字を取るということで2014年に改名しています。

もっとも、明治時代にもかなり変わった四股名があったようです。自動車、自転車、文明(名は開化)、ロシアの陸軍中将の名前にちなんだというステッセルという力士までいたようです。大相撲は興行であり、人気商売でもありますから、四股名で注目を集める作戦も理解できます。しかし、相撲ファンとしては、大概にしておけよ、と言いたくなります。伝統を守るという観点もありますが、厳しい稽古を重ねて土俵に命を懸ける力士たち、そしてそれを応援するファンにも失礼だろうと思うわけです。通常、四股名は、部屋の親方と本人が相談して決めるようです。その際、部屋の伝統や統一感を重んじて、同じ漢字を四股名に入れることが一般的です。出羽海部屋の「出羽」、佐渡ケ嶽部屋の「琴」、九重部屋の「千代」等々、数多くあります。

今年の初場所では、伊勢ヶ濱部屋の力士9人が一斉に「富士」を使った四股名に改名し、話題を呼びました。先代の伊勢ヶ濱親方は横綱・旭富士、当代の親方は横綱・照ノ富士であり、部屋伝統の四股名です。改名した9人のうち8人は、旧宮城野部屋出身の力士たちです。2024年、暴行事件に端を発し、宮城野親方(横綱・白鵬)も弟子たちも伊勢ヶ濱部屋への預かりとなりました。その後、白鵬も角界を離れ、部屋を再興する可能性が無くなったこと、伊勢ヶ濱親方が代替わりしたこともあり、今般、結束を固めるために部屋伝統の四股名への改名となったようです。ただ、炎鵬だけは改名せず、白鵬由来の四股名のままとなっています。炎鵬は、大人気力士としての四股名を残し、関取、幕内復帰を目指すという決意をもって伊勢ヶ濱親方に懇願し、許されたと聞きます。

一度に富士が増えると、慣れないせいか、違和感を感じました。ただ、白鵬が弟子に付けた四股名に比べれば、まだマシだと思います。白鵬が命名した四股名のよろしくない例の一番が天照鵬です。三重県伊勢市の出身の力士であることから、天照大神と白鵬を組み合わせたのでしょう。日本人の親方なら絶対に付けない四股名です。日本の皇祖神を四股名に取り入れるなどもってのほかと思いますし、皇祖神を自らの四股名と並べるなど不遜の塊だと思います、力士本人、後援会、一門の親方たちが、なぜ反対しなかったのか不思議です。反対があっても押し切ったとすれば、それも白鵬らしいと思います。天照鵬は、今回、三重ノ富士に改名しています。ちなみに各地に〇〇富士と呼ばれる郷土富士は400以上存在するようです。伊勢ヶ濱部屋は、しばらく四股名に苦労することは無さそうです。(写真出典:mainichi.jp)

2026年6月5日金曜日

「シンプル・アクシデント」

監督:  ジャファール・パナヒ  2025年イラン・フランス・ルクセンブルク

☆☆☆☆

映画は政治的なものです。政治をテーマにしているか否かを問わず、不特定多数が観ることを前提としている以上、映画は政治的なものです。本作は、イラン国内の政治的状況を背景として成立しています。ただし、政治力学を描くものではなく、権力の腐敗を描くものでもなく、政治に翻弄される民衆のジレンマを描いています。本作は、政治的圧迫を受け続けるパナヒ監督が秘密裏に製作した作品です。制約の多い制作ゆえ会話劇的な面もありますが、映画としてのパースペクティブも十分に確保されてます。2025年のカンヌ映画祭で上映され、パルムドールを受賞しています。また、カンヌには釈放された監督が14年分ぶりに姿を見せ、8分間のスタンディング・オーベーションに応えたことも世界に報道されました。

政治的理由で服役したことのある人々が、受刑者たちを虐待していた看守とおぼしき人物を街で確保します。元受刑者たちの復讐心が、宗教や常識、あるいは恐怖との間で葛藤を起す状況が、時にコミカルに描かれています。イスラム全体主義下にあるイラン民衆の閉塞的な現状が端的に伝えられています。かつて世界の半分を支配するとまで言われたペルシャですが、近世になると列強、特にイギリスとロシア、後にアメリカの介入を受け続けることになります。1921年、クーデターを起こした軍人レザー・ハーンが皇帝となりパフラヴィー朝を開きます。近代化を目指したパフラヴィー朝は、第二次大戦に際し、英ソの影響を退けるために枢軸国に近づきます。しかし、これが逆効果となり、再び英ソが進駐します。20世紀初頭に発見された石油の利権は英国が握ります。

石油が生み出す巨大な利益は、英国と一部イラン人が独占し、国民は重労働と貧困のなかに置かれます。1951年に首相になった民族主義者モハンマド・モサッデクは、石油事業の国営化とソヴィエト寄りの路線を進めます。しかし、1953年には、アメリカとイギリスに担がれたモハンマド・レザー・シャーのクーデターが起こり、イラン国民は、再び、搾取される構図へと戻ります。しかし、1979年、ホメイニ師が先導したイラン革命によって状況は一変します。イラン・イスラム共和国の誕生です。国民は、欧米支配からの脱却を大歓迎しますが、一方で宗教的全体主義体制のもとで、徹底的な統制を受けることになります。本作は、まさにその体制下での大衆を描いており、監督自身も、逮捕拘禁、映画製作の禁止といった厳しい弾圧を受けることになります。

監督のスタンスは宗教全体主義への批判ですが、本作に込められたメッセージは、全体主義に抑圧されつつも行動を起こさない民衆へ苛立ちのようにも思えます。本作が、イランで秘密裏に撮影された直後、大規模な反政府デモが勃発しています。もちろん、本作はイラン国内で上映されていませんが、まるで監督のメッセージに応えるかのようなデモでした。きっかけは物価高でしたが、政府は武力弾圧、ネット遮断で応じ、数千人の死者が出たともされます。今般のイスラエル・アメリカによるイラン攻撃は、最高指導者ハメネイ師と政府指導部を殺害すれば、民衆が蜂起して政府を倒すという甘い想定のもとに決行されたように思います。しかし、結果的には、かえって国内を反米で団結させたように思います。アメリカが反政府運動を葬り去ったとも言えそうです。

監督は、「チャドルと生きる」(2000)でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞、「人生タクシー」(2015)でベルリン国際映画祭の金熊賞を獲得しています。今回、カンヌでパルムドールを受賞したことで、世界三大映画祭すべてで最高賞を獲得した4人目の監督となりました。他の3人は、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ミケランジェロ・アントニオーニ、ロバート・アルトマンです。かつて、シベリアで収容所生活を送ったソルジェニーツインが「収容所群島」でノーベル文学賞を受賞した際、作品ではなく政治的理由で受賞したと批判されたものです。ジャファール・パナヒ監督の受賞作にも、同じ批判があるのでしょう。しかし、繰り返しになりますが、映画は政治的なものです。作品の政治性が評価されることは当然だと思います。(写真出典:eiga.com)

2026年6月3日水曜日

ブロンコビリー

急性腎不全で5日間入院し、いよいよ退院するという日のことです。迎えに来る家族にバスク・チーズケーキを持参してもらい、それをタクシーのなかで食べながら帰宅しました。そして、その足で、ランチを食べるために近くのブロンコビリーへと向かいました。不味い病院食に辟易しながら、 バスク・チーズケーキと粗挽きハンバーグを夢見ていたわけです。ステーキ屋のブロンコビリーは大好きな店です。とりわけ、炭焼きがんこハンバーグ、サラダバーのパクチー・サラダ、デザートのコーヒー・ゼリーがお気に入りです。超粗挽きのハンバーグは、切り落とし肉を使うステーキ屋ならではのメニューだと思います。オニオン・ソースもとてもいい塩梅です。

1978年に名古屋で創業したブロンコビリーは、東海、近畿、首都圏、福岡に約160店舗を展開しています。店舗数も、売上も、利益も順調に拡大しているようです。近所の店も、昼も夜も混んでいます。特に週末の夜ともなると、家族客であふれています。ブロンコビリー大人気の理由は、オープン・キッチンの炭火で焼かれる肉、15種類くらいの新鮮な季節の野菜が並ぶサラダバー、羽釜で炊く魚沼産コシヒカリ、数種類のデザートなのだと思います。それだけなら他店と大きく異なるというほどでもありませんが、いずれも手を抜くことなく、大真面目に提供していることが最大の特徴だと思います。安かろう、悪かろう、ということが一切ないのです。価格は、特に安いというほどではありませんが、内容と併せ考えると、とてもお得で、満足感が高いと思います。

1998年には、デフレの波に押され、炭火焼きやサラダバーをやめて低価格路線へと切替えたようです。利益率は低下するわけですが、そこへBSE問題が追い打ちをかけ、店は大赤字、潰れる寸前までいきます。そこで創業者である竹市靖公は、原点に立ち返ろうと考えます。つまり、低価格路線から提供価値向上路線へと回帰し、他では真似のできないもので客を喜ばす、客も従業員もすべて幸せにする、という本来目指していたところへ立ち返る決意をしたと言います。そのために、質の高いメニューへの絞り込み、徹底的なコスト削減のためにセントラルキッチン方式を採用するなどの経営努力を重ねます。また、”従業員が幸せだからこそ、お客様を笑顔にできる”というモットーを掲げ、従業員向けの福利厚生、アメリカ研修など教育に力を入れていることでも知られます。

結果、ブロンコビリーは、業績を見事に回復します。2007年にはJASDAQに上場し、2011年には東証1部・名証1部へ銘柄変更を果たしています。経営姿勢が真っ当でブレない店の味は間違いないということなのでしょう。客も、それを敏感に感じ取ります。かつて顧客満足度No.1を誇った回転寿司チェーンが勢いを失っていく姿を見たことがあります。何があったのか調べてみると、創業者が亡くなっていました。その寿司屋も、お客さまの喜ぶ顔が見たい、という創業者の姿勢で貫かれ、多くの客を惹きつけていたものです。ブロンコビリーの創業者・竹市靖公も、2021年に亡くなっています。ご子息が跡を継いでいますが、先代を超えて成長を続けています。先代が築いた組織やシステムが揺るぎなかったということでもあるのでしょう。

ちなみに、ブロンコビリーの店舗には、ファミレスの定番であるテーブルの呼び鈴がありません。創業者が目指したのは、経費節約ではなく、常に客席に目が行き届くサービスだったからと聞きます。また、ブロンコビリーとくだんの回転寿司チェーンのホームページには、一つ大きな違いがあります。ブロンコビリーのHPには、創業者が喫茶店から始めてブロンコビリーを設立し、倒産の危機を迎えたことまで、その生涯の物語が掲載されています。回転寿司チェーンのHPには、それがありません。創業者の物語は、会社の理念を実践することを、社会と従業員に約束するコンテンツだと思います。企業は立派な経営理念を掲げているものですが、大切なのは、それが実践される仕組みを持っているかどうかです。なかでも重要なポイントは、従業員への向き合い方だと言えます。理念の実践を担う従業員への投資を惜しまない企業が永く顧客の信頼を得ているのでしょう。(写真出典:bronco.co.jp)

2026年6月1日月曜日

トンキン湾

保存されたクレーター
トンキン湾は、ヴェトナム北部と中国・海南島の間に広がります。漢字で書けば”東京湾”であり、かつて、ハノイや紅河河口域が東の都と呼ばれていたことから命名されたようです。近年は、日本の東京湾と区別するためにバクボ(北部)湾と呼ばれているようです。水深が浅い大陸棚は漁業資源、鉱物資源が豊富で、航路の確保という面も含め、ヴェトナム・中国の利権争いの場でもありました。また、ヴェトナムのハロン湾、中国の海南島は、ともに観光地として有名です。歴史的には、幾度か勃発したヴェトナム・中国の戦争の舞台でもあり、1964年には、アメリカがヴェトナム戦争に本格介入するきっかけとなったトンキン湾事件も起きています。

トンキン湾事件は、疑惑の事件として知られています。当初から、北ヴェトナム側とアメリカ側の公式見解に隔たりがありました。後に、公開された文書や証言によって、アメリカ側の発表には虚偽が含まれたことが明らかになります。トンキン湾事件を契機に、ジョンソン政権は議会の承認を得て、北爆(北ヴェトナムへの爆撃)、米兵の大量投入を開始します。ヴェトナム戦争への本格介入を準備していたジョンソン政権にとっては、まさに渡りに船の好機であり、以降、ヴェトナム戦争は泥沼化していくことになります。やった、やらない、どちらが先に撃ったという類いの話は、古今東西の戦争のトリガーとしてよく聞く話です。しかし、それ以前に戦争は避けがたい状況になっていたからこそ起きるインシデントであることは間違いありません。

トンキン湾事件は、1964年8月2日と4日両日に発生したとされる衝突です。アメリカの駆逐艦マドックスは、公海上で通信情報収集のための哨戒活動を行っていました。一方、CIAのバックアップを受けた南ヴェトナム軍は越境攻撃を行っていました。米軍の公式発表によれば、北ヴェトナムのレーダー基地を攻撃した南ヴェトナムの艦艇が北ヴェトナムの魚雷艇に追われ、マドックスの横を通過します。マドックスを南ヴェトナム船と誤認した北ヴェトナムの魚雷艇が攻撃を開始します。マドックス、および近くを航海中だった米空母から発進した戦闘機は、魚雷艇を反撃し、1隻を撃破します。しかし、実際には、最初に威嚇射撃を行ったのはマドックスであり、自国領海内と認識する北ヴェトナムが反撃したものでした。当時、領海を巡る国際法は合意前の段階でした。

8月4日、マドックス、および合流した駆逐艦ターナー・ジョイは、哨戒活動を再開します。夜間になると、傍受した通信によって、北ヴェトナム側が両艦を攻撃しようとしていることが判明します。両艦は、先手を打って激しい攻撃を加え、魚雷艇2隻を撃沈します。これが米軍の公式発表でした。しかし、後に、遭遇も交戦も行われていなかったことが明らかになります。当初から報告には疑義が持たれていたものの、北ヴェトナムへの直接攻撃を計画していたホワイトハウスは、この報告を待っていたかのように丸呑みし、北爆へと突き進んでいきました。アメリカは、中南米、南米で国家の主権を無視した謀略を繰り返しています。事の性格からして、その謀略史にトンキン湾事件が加えられることはないのでしょうが、その体質が反映された事件だと思います。

ハノイからハロン湾へ向かう途中の農村部には、所々、丸い溜池が見られます。今も残る北爆の爪痕、爆弾クレーターです。1968年に北爆が停止されるまでに、米軍の出撃は30万回を超え、第二次大戦、朝鮮戦争を超える爆弾が投下されます。北ヴェトナムでは、推定5万人が命を落としました。ただ、北爆を予測していた北ヴェトナムは、主要工場を地方へ移転、あるいは地下に建設し、市民をハノイから疎開させていました。また、爆撃目標となる空港や基地はダミーも多かったようです。そして、ソ連、中国から支援されたミグ戦闘機、地対空ミサイル、高射砲が米軍を迎撃しました。ミグ戦闘機は中国の空港から出撃し、米軍は手出しできませんでした。米軍は、犠牲の多さと効果の薄さから、北爆継続を断念せざるをえませんでした。独立を守るために戦う国民を物量のみで制圧することはできません。そのことを、アメリカは学ぶべきでした。そして、今も理解しているとは思えません。(写真出典:vietnam.vn)

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