2026年5月30日土曜日

古式泳法

古式泳法、ないしは日本泳法とは、日本水泳連盟の定義によれば「日本各地の海や川などで自然環境に合わせて生まれた泳ぎが、武芸十八般の一つ『水術』として体系化され、現在13の流派で継承されている日本固有の泳ぎ」ということになります。つまり、各地に古くからあった泳ぎ方を、武士が戦場で使えるように体系化したものです。戦場の武士は、甲冑を身につけ、武器を持って泳ぐわけですから、一般的な水泳とは異なる泳ぎ方が必要となります。古式泳法を習ったことはありませんが、海で遠泳をする際などには、真似事をやっていました。常に頭を水上に出して泳ぐので、スピードは出ませんが、遠泳には向いているわけです。

1803年に開校された会津藩の藩校”日新館”には、日本最古のプールともいわれる”水練水馬池”があります。かつて、日新館は若松城の隣にあったようですが、現在は、郊外に観光・研修施設として復元されています。江戸期、会津藩士の子弟は、10歳になると日新館への入校が義務づけられていました。武術だけでなく、儒学や礼法まで、文武両道を学びます。天文台まで備えるその施設の規模は、日本有数だったようです。薩摩藩と並ぶ雄藩として知られた会津らしい話です。水練は、武術の一環として訓練されます。戦いは様々な地形や状況で行われ、甲冑を着けたままの渡河もあり、城攻めでは掘を超える必要もあります。そういう意味では、水練は極めて実践的な訓練だったわけです。同時に、水練は身体を鍛えるという意味もあったようです。

鎌倉期までの甲冑の重さは約20kg、戦国時代以降は軽量化されますが、それでも10~15kgはあったようです。ただ、重さは体中に分散され、かつ体に密着しているので、鍛錬した体であれば、そこまでの重さは感じないとも聞きます。とは言え、水中となれば、その重さは何倍にもなるはずです。そのうえ、単に泳ぐだけではなく、刀や弓を使う、武具や旗を運ぶ、あるいは兜を着脱するといったことまで行うわけです。これは、現代の水泳とはまったく別次元の技術ということになります。まさに武術なのでしょう。また、水馬は、馬とともに渡河する技で、日頃から訓練されていたようです。馬は泳げますが、それなりの制御技術は必要だったわけです。江戸期、隅田川では、将軍臨席のもと、各藩がその技を競う行事も行われていたようです。

古式泳法の特徴は、おおむね頭を水面に出していることだと思います。あたりを窺いながら進む、敵の動きから目をそらさない、あるいは武器や旗を水に濡らさないためだったのでしょう。ただ、考えてみれば、人間は、太古の昔から、世界中で泳いでいたはずです。その多くは犬など動物の泳ぎ方を真似たものだったと想像できます。つまり、常に頭を水面の上に出しておくことは、古式泳法に限らず、人間が何万年もやってきた泳ぎ方の基本だったのでしょう。19世紀に水泳が競技化されると、近代的な泳法が生まれます。クロール・平泳ぎ・背泳ぎ・バタフライが競技泳法として確立されたのは1952年のことでした。実用性、必要性を捨て、ひたすら早く泳ぐ遊びのために、人間は、はじめて頭を水面下につけて泳ぐようになったというわけです。

水泳競技が行われるようになった当時、泳法は平泳ぎと横泳ぎしかなかったようです。横泳ぎは、後に、抜き手、バタ足が取り入れられ、現在のクロールへと進化していきます。古式泳法にも、ほぼ横泳ぎと同じ泳法があります。のし泳ぎです。流派によって呼称は変わるようですが、基本的には同じ泳法です。足をハサミのように使う、いわゆるシザーキックは、横泳ぎと同じですが、手の使い方にはバリエーションがあります。遠泳の際には、腕も疲れますし、飽きてもきます。そういった際、古式泳法の様々なヴァリエーションを繰り出していくと、比較的楽に泳げます。何も早いばかりが水泳ではありません。実用的な古式泳法は、災害時にも役立つと思います。競技選手の発掘、育成はスイミング・スクールにまかせ、学校では古式泳法を中心に教えた方がいいのではないかと思います。(写真出典:gov-online.go.jp)

2026年5月28日木曜日

頭の良さ

世の中は”分かったようで分からない話”で満ちていると言ってもいいと思います。感覚的には分かったつもりても。本質はまったく理解していないという話です。具体性に乏しい話、知らない言葉の多い話、思い込みの存在、あるいは定義の曖昧な言葉の多用等々によって、いわゆるミスコミュニケーションが生じている状態です。煎じ詰めれば言葉の限界とも言えます。しかし、全ての会話において、具体性や正確性を徹底的に追求することは社会的効率の悪さにつながる面もあり、難しいところです。例えば、”あの人は頭が良い”という言葉もよく耳にしますが、これほど訳の分からない言葉もないと思います。定義が明確ではなく、共有もされていないからです。

”地頭が良い”という言葉もよく耳にします。知識は乏しくても優れた知恵を持っている人という意味だと思います。記憶力と応用力の違いとも言えます。会社のあるあるですが、偏差値の高い大学を卒業した人が、必ずしも仕事で結果を残すとは限りません。入学試験等では記憶力を試す問題が多いわけですが、会社に入ると問題解決力や応用力が求められる場面が多くなるからです。似たような概念に”IQ(Intelligence Quotient)”があります。しかし、IQが示すのは、思考能力のうち、判定可能なごく一部に過ぎず、地頭の汎用性の高い知恵とは異なります。IQは、テストによって数値化することができますが、それは同年代と比べた発達度を示すものであって、思考力や処理能力の絶対値を表すものではありません。IQは、いわば思考の成熟度を表していると言えるのでしょう。

IQは”知能指数”と訳されます。この訳語が、大きな誤解を生んでいるようにも思います。つまり、世間では、IQが高い=知能が高い=頭が良い、という受け止めが一般化しているように思います。そもそも”頭が良い”という言葉が意味不明であることも、誤った認識を広げることにつながっているのでしょう。IQが高い=頭が良い、という関係を全面的に否定するものではありませんが、IQの数値は、あくまでも頭脳の能力の一側面を相対化したものに過ぎません。一般的に、IQは、認知機能、問題解決能力、論理的思考力等を表すとされます。まとめて”知能”とも言えそうですが、それではあまりにも広すぎ、総合的に過ぎると思います。IQは、より限定的な概念であることを伝えるために”思考の成熟度指数”とでも呼んだ方がいいのではないかと思います。

IQが高ければ、勉強や仕事の成果も大きくなるのかと言えば、そうでもありません。私は、よくIQを車のエンジンの回転数に例えます。エンジンの最高出力、いわゆる馬力は、回転数×トルクで決まります。トルクは、回転させる力を表します。回転数が高くてもトルクが低ければ馬力は高くなりません。逆も真なりですが、その代表例だと思うのがアメリカ大統領を務めたブッシュ親子です。公表されているブッシュ親子のIQは100程度です。IQは標準偏差で表されますから、100は平均的ということになります。アメリカ大統領は、厳しい選挙戦を戦い抜き、国民から選ばれたスーパーマンです。中途半端な能力で成し得ることではありません。ブッシュ親子は、トルクが極めて高かったわけです。ちなみに、馬鹿のふりをしているトランプの推定IQは150を超えています。

1950年代、アメリカで犯罪とIQの関係を調査したところ、犯罪者の平均IQが、一般人を下回っていたのだそうです。そこで犯罪とIQの関係が研究されました。しかし、研究は政府の指示によって禁止されます。実に賢明な判断です。犯罪者の平均IQが低いからといって、IQの低い人が全て犯罪を犯すとは限りません。時を同じくして、アメリカではロボトミー手術が行われていました。神経疾患の治療として脳の前頭葉から他へ伸びる神経線維を切断する手術です。これが重犯者等に対しても行われるようになります。後に、ロボトミーは、人権無視であるとして世界中で禁止されました。犯罪とIQの研究も、放っておけば人権無視につながりかねない話だったわけです。そもそも脳の働きは実に多様であり、総合的な良し悪しなど判断できません。ましてや能力を数値化することなどできませんし、数値化したところで意味はありません。(写真出典:president.jp)

2026年5月26日火曜日

「マンダロリアン・アンド・グローグー」

監督:ジョン・ファヴロー          2026年アメリカ

☆☆☆

なぜ、この映画を観に行ったのかと聞かれると、なかなか答えにくいところがあります。恐らく、50年来のスター・ウォーズ・ファンだからということになるのでしょう。また、ストリーミングで観ていた「マンダロリアン」が、結構、お気に入りだったからでもあるのでしょう。いずれにしても、スター・ウォーズのスピンアウトながら、さしたる期待も持たずに観た映画です。その最大の理由は、グローグーをクローズアップしたファミリー映画だろうと想像できたからです。やはり、ほぼファミリー映画でした。近年のゲーム感覚のアクション映画らしく、スピード感があり、バトル・シーンも連続するのですが、比較的マイルドに仕上げられていました。つまり、凡庸だったということです。

マンダロリアンは、2019~2023年にDisney+でシーズン3まで配信されました。また、2021年には、そのスピンアウトである「ボバ・フェット/The Book of Boba Fett」も配信されています。シリーズは、マンダロリアンの抱える孤独感を下敷きとした独特な世界観が印象的でした。グローグーは、連帯への渇望や家族への回帰の象徴でした。マンダロリアンは、アメリカの現状を反映した作品です。本作は、マンダロリアンの孤独は語られず、シリーズの外見だけを利用しています。配信時には、グローグーがベイビー・ヨーダとして人気が出たので、映画化に際しては、当然グローグーがクローズアップされるだろうとは思っていました。しかし、マンダロリアンの孤独を前提としなければ、マンダロリアンはただの強いおじさんであり、グローグーの魅力も失われます。

マーケティング上も、ターゲティングが実に中途半端であり、タイトルにもそれが現れています。これでは、スター・ウォーズ人気を利用しつつ、大ヒットした「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の柳の下を狙った作品としか思えません。グローグー推しならば、いっそのこと、「グローグーと仲間たち」てなタイトルで子供向けのアニメにでもしたほうが良かったのではないかと思います。シーズン4相当というセッティングも、マンダロリアンの世界観が伝わらない理由の一つです。むしろ、シーズン1~3を再構築して映画化すべきだったように思います。もちろん、それではファミリー映画に仕立てることが難しくなるのでしょうが。いずれにしても、中途半端な映画になっていますが、さすがディズニー、一定以上のレベルには達していると思います。

スター・ウォーズは、SFアクション映画ですが、哲学的とも言えるテーマをしっかり持っているからこそ永く愛されてきたのだと思います。それはスピンオフであっても同じです。配信シリーズで一番の変わり種は、少年少女の冒険譚である「スケルトン・クルー」ということになります。少年少女冒険譚は、ハリウッドの伝統芸とも言えます。豊富な経験に基づく安定感あふれるプロットとスター・ウォーズの世界観が見事にマッチした作品でした。スケルトン・クルーも、しっかりとしたテーマを持っていました。それは、ありふれているとは言え、少年少女の成長です。本作は、分かりやすいテーマに欠けます。マンダロリアンの孤独、父子の絆といった要素はあるのですが、それらは、全くフォーカスされていませんでした。

スター・ウォーズ・シリーズのなかで、マンダロリアンは拡張性のある系統だと思っていました。既にボバ・フェットをスピンオフしているわけですが、他にもディン・ジャリンとグローグーの冒険、グローグーの成長、あるいはマンダロリアン族の起源など、様々な展開が考えられます。ジャバ・ザ・ハットの息子ロッタ・ザ・ハットにも可能性があります。しかし、本作がコケると、残念ながら、すべての可能性が潰えてしまう恐れもあります。なんとか、配信シリーズだけは残してほしいものだと思います。(写真出典:en.wikipedia.org)

2026年5月24日日曜日

欠史八代

欠史八代とは、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇まで、つまり初代神武天皇と第10代崇神天皇の間の8代の天皇を指します。古事記・日本書紀(記紀)において、系譜に関する簡単な記述しかないことから欠史八代と呼ばれ、後世の創作だろうとされています。詳しい記述があれば事実というわけでもありません。いずれにしても、新たな遺構でも発見されない限り、神話は神話であり、創作の可能性は否定できないと思います。そもそも、記紀の簡単な記述しか手がかりがない段階で、創作か否かを議論することは不毛だとも思います。ただ、欠史八代について、簡潔に系譜だけが記述された理由については、興味深いところです。

古事記の序文には、帝紀・旧辞に基づき編纂したと記述されています。帝紀は天皇の系譜、旧辞は出来事や伝承が収録されていたようです。いずれも現存していません。645年の乙巳の変の際、朝廷の書庫が炎上し、多くの記録も焼失したようです。口承だけで伝わっていた歴史を、681年、天武天皇の命により編纂したのが帝紀・旧辞とされます。それを底本として8世紀に成立したのが記紀です。欠史八代が系譜だけの記載となった理由として分かりやすいのは、編纂時、帝紀のみが存在し、旧辞の八代分が失われていたということなのでしょう。ないしは、旧辞は存在していても、そもそも八代に関する記述がなかったのかもしれません。さらに、八代に関する他の口承・伝承もなかったということなのでしょう。天孫家の影の薄い時代だったのかもしれません。

纏向遺跡の発掘以降、最初の実在天皇は、その名の通り、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)、つまり崇神天皇とする説が有力です。崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと、卑弥呼とされる)は、部族連合のリーダーとして倭国大乱を治めたとされます。とすれば、崇神天皇に先立つ欠史八代は、日向から大和へと移った天孫家が、地盤を固め、部族連合を形成していく雌伏の時代だったのでしょう。記載すべき出来事に乏しい時代とも言えます。大王(おおきみ)となった天孫家には、正統性や権威の根拠となる神話が必要でした。イザナギ・イザナミ、天照大神、神武天皇へと続く神話は、太古の昔の話であり、創作しやすいと言えます、最も難しいのは、実在性の高い崇神天皇へのつなぎ部分だったのではないかと思われます。

崇神天皇が治めたとされる倭国大乱は、魏志倭人伝など中国の史書に簡単な記述があるばかりで、ほぼ何も分かっていません。2世紀後半に起こり、8年以上の長きにわたり戦われたとされます。最も理解しやすい仮説は、九州から東に勢力を拡大していった弥生系渡来集団が、縄文系在来集団とぶつかったというものです。恐らく、これが神武天皇の東征神話のモデルでもあったのでしょう。だとすれば、神武天皇は、崇神天皇のせいぜい2~3代前ということになります。しかし、それでは、神武天皇に持たせたい神性と他の有力部族が伝えるリアルな伝承との辻褄が合わなくなる可能性が高いと思われます。天孫家の神話は、他の部族の伝承を超越する必要があります。そこで、古さで箔を付け、辻褄を合わせるために欠史八代が創造されたのかもしれません。

日本書紀の年代や年齢は、第20代允恭天皇あたりまで、かなり怪しげです。その最大の要因は、神武天皇の即位年を紀元前660年と定めたことにあります。聖徳太子らが、中国の讖緯思想の一つである辛酉革命に基づき決めています。辛酉革命とは、干支が辛酉(かのととり)の年には大革命が起きるという一種の予言です。神武天皇の即位を紀元前660年としたことで、以降の天皇の在位期間や年齢は、辻褄を合わせるためにとんでもないものになりました。欠史八代が創作なのであれば、帝紀・旧辞、あるいは記紀の編纂時に、天皇の人数を増やせば済んだ話だと思います。それを、あえて変えずに、在位年数や年齢の方を大幅に水増ししたわけです。天皇の系譜は、動かしがたいものだったと推測することができます。もちろん、それが、即刻、欠史八代の実在を証明するものではありませんが。(写真:神武天皇図 出典:kashiharajingu.or.jp)

2026年5月22日金曜日

病院食

フランスの病院食
急性腎不全で入院したことがあります。幸いなことに、無罪放免、つまり何の食事制限もないまま退院することができました。ただ、5日間の入院で体重が10kg落ちました。体の水分を抜くという治療の影響もありますが、実は病院食が不味すぎて食が細くなったためでもあります。昔から、病院食は、不味いものと相場が決まっています。コストが抑えられていることもありますが、最大の理由は塩分の制限だと思います。高血圧や腎臓病患者向けの病院食の塩分は、1日6gまでという制限があります。小さじすり切り1杯分に相当します。一方、日本人の平均摂取量は10gとのこと。病院食が味気ないものになって当然です。

腎不全の原因が前立腺肥大にあったことから、慈恵医大病院で前立腺の一部切除手術を受けました。5日間入院する必要があったので、今度は準備よく、塩、出汁、ふりかけなどを密かに持ち込みました。ところが、意外にも、病院食が美味しかったので、まったく出番がありませんでした。慈恵医大だけ、病院食のコストや塩分量の基準を無視しているとも思えません。出汁や食材の工夫が上手なのかも知れないとも思いました。しかし、ほどなく、味噌汁やスープが一切出てこないことに気付きました。味噌汁やスープの塩分を他のメニューに回すことで味のある食事を実現していたわけです。味噌汁の塩分は、1.5gといいますから、3食で4.5g。これは大きな違いを生みます。なお、食事中の水分としては、ほうじ茶が出されていました。

娘がパリで入院したので看病しました。その際、フランスの病院食に驚かされました。とても美味しいのです。娘の食が細かったこともあり、食べ残しを味見していました。器こそプラスティックの使い捨て容器でしたが、例えばコルドン・ブルーといった手の込んだまともな料理が出されていました。毎回、メニューも付いてきました。パンは国のお墨付きであるラベル・ロージュ認定品が出され、毎回、フランス家庭料理の定番である塩ポタージュや少量ながらブランド・チーズも付きます。デザートには果物も出ますが、ヨーグルト状のものが多かったと思います。とても塩分が制限されているとは思えませんでした。脳神経外科の回復病棟ゆえのメニューだとは思いますが、さすが美食の国、美味しいものを食べて元気になるという発想なのでしょう。

日本では、患者が何をどれほど食べたかを看護師がチェックしています。パリでは、それも一切ありませんでした。日本の病院食は、治療の一部として病院が管理し、ゆえに保険でカバーされているのでしょう。フランスの病院食は、病院ではなくフード・サービス会社が提供しています。もちろん、メニューは医師と連携して決めているとは思いますが、かなりゆるいように思います。また、一般的に、病院食は保険でカバーされていないようです。さらに、日本では入院患者への食べ物の差し入れは制限されることが多く、禁止される場合もあります。フランスには、一切、そういう制限はありませんでした。ちなみに、生花は持ち込み禁止でした。感染症対策ですが、日本の病院でも広がりつつあるようです。花屋さんは大打撃でしょうね。

ちなみに、日本に限らず、病院内は禁煙です。フランスも同じです。ただ、欧米の禁煙ルールは屋内に限られることが多く、屋外なら自由というスタイルです。パリの病院で最も驚いたことの一つは、病棟の玄関あたりにも灰皿が設置されていたことです。また、ゴミ箱にも、だいたい簡便な灰皿機能が付いています。玄関前の灰皿付近では、結構な数のスタッフや患者がタバコを吸っていました。禁煙ファシズム下にある東京よりも、かなり気軽にタバコを楽しめます。昨年、パリでは、法律の改定が行われ、公園、学校周辺、スポーツ施設周辺など、子供や住民が集まる屋外エリアは禁煙とされ、ポイ捨ても含めて、罰金が設定されたようです。そこに病院が入っていないのも、結構、驚きです。(写真出典:tabizine.jp)

2026年5月20日水曜日

相撲王国

青森県武道館
昨年あたりから、角界でにわかに話題に上ってきたのは、142年問題でした。青森県は、 1883年(明治16年)から、142年間に渡り、幕内力士を欠かしたことがないという記録を持っています。それが危うくなっているのです。ただ一人の幕内力士となった錦富士のふんばりで記録は維持され、今年は143年問題になっています。とは言え、薄氷の記録維持状態が続いています。錦富士の双肩には、青森県民の期待が大きなプレッシャーとなってのしかかっています。気の毒には思いますが、十両の尊富士の再入幕も確実とは言えない状態では、がんばってもらうしかありません。そんな記録がどうした、という話でもありますが、青森県民にとっては数少ない自慢ですから、大いに気になります。

都道府県別に見た出身力士の幕内在位連続年数において、青森県に次ぐ記録を持つのは茨城県であり、43年となっています。実に100年の差があるわけですから、もはや青森県だけの問題ではないようにも思います。かつて青森県と北海道は相撲王国と呼ばれていましたが、近年、共に凋落が著しいところです。現在、都道府県別の力士数では、東京都、愛知県、大阪府・兵庫県、福岡県、鹿児島県が上位となっています。おおむね人口の多さと比例しているように見えます。これを人口10万人あたりの輩出率でみると、鹿児島県、高知県、青森県という順番になります。このように、近年では、鹿児島県が圧倒的な存在感を示しているわけです。しかも、鹿児島県出身力士の半数は奄美出身であり、いまや奄美こそが相撲王国の名にふさわしいのかもしれません。

奄美は、古来、琉球と大和の影響下にありましたが、15世紀になると琉球を統一した第一尚王朝に制圧され、支配下に入ります。琉球では、第一尚王朝以前から、格闘技として沖縄角力(ウチナージマ)が行われていましたが、それが奄美にも伝わり、島角力(シマジマ)として広まります。沖縄角力や島角力は、がっぷり四つに組み合った状態から始めて、相手の両肩を地面につければ勝ちとなります。手をついても、土俵から出ても負けにはなりません。がっぷり四つの状態を維持するため、突っ張りや喉輪といった離れてとる技はありません。江戸期に入ると、薩摩藩が奄美を支配します。同時に、大和相撲も伝わりました。大和相撲は、次第に島角力を抑えて主流になっていきます。代官や有力者が力士を抱えるなど、本土と同じ現象が起きていたようです。

奄美には、土俵が140以上あるようです。各集落に土俵が一つあるとも言われます。奄美地方は、人口10万人ながら、集落数が170を超えています。山がちな奄美大島や離島の多さゆえなのでしょう。かつて、土俵の数は小学校の数に比例すると聞いたことがあります。確かに、青森の各小学校には土俵があったものです。今は、相撲をとって遊ぶ小学生は皆無に近いと思います。小学校よりは集落の土俵の方が残りやすいのでしょう。相撲など何処でもとれるようにも思いますが、やはり土俵があれば、遊び、稽古して、大会も開かれます。スポーツの普及に関しては、専用施設の存在が大きな意味を持つわけです。ちなみに、屋根や観客席も備えた相撲場の数では、鹿児島県の32ヶ所、青森県の29ヶ所が群を抜いています。新旧相撲王国揃い踏みといったところです。

北海道の相撲文化は、炭鉱から生まれたと聞きます。各炭鉱には娯楽のために相撲部が作られ、対抗戦なども盛んに行われていたようです。一方、青森では、もともと庶民の娯楽として相撲がとられていたようですが、戦国時代末期、津軽藩の開祖となる津軽為信が相撲を奨励したことから盛んになったようです。津軽藩では、相撲奉行も置かれ、相撲大会も多く開かれ、お抱え力士も存在したようです。農家の次男・三男たちは、お抱え力士となって立身出世することを目指したものだそうです。ちなみに、お抱え力士は、戦時には軍夫として、平時には鳶として城の補修などを担っていたとされます。北海道・青森は、寒くて、貧しくて、相撲くらいしか娯楽がなかったから相撲王国になったと言われがちですが、それなりの背景もあったわけです。(写真出典:aomorikenbudoukan.com)

2026年5月18日月曜日

クリスティーナの世界

NYにいた頃、デラウェア州ウィルミントンに仕事でよく行った時期があります。街を流れるブランディワイン川の上流一帯は、美しい田園風景が広がるとともに建国時代の風情をよく残しています。一度、200年前の水車小屋を使ったレストランに行き、ランプの灯だけで夕食をしたことがあります。まさにタイムスリップでした。アメリカの18~19世紀初頭の風情は、とても魅力的だと思います。信仰と希望の力で困難な開拓を成し遂げた時代の残り香に惹かれるということなのでしょう。ちなみに、ブランディワイン川という風変わりな名称は、上流の滝の落差を巡って、測量士たちがブランディとワインを賭けて勝負したことに由来するとされています。

ブランディワイン川をさかのぼりペンシルベニア州に入ったあたりにチャッズフォードがあります。アメリカの国民的画家アンドリュー・ワイエスが、生まれ育ち、そして亡くなった村です。チャッズフォードは、独立戦争時の激戦地でもあり、ブランディワイン派と呼ばれる画家たちの芸術村でもありました。アンドリュー・ワイエスの父、ニューウェル・コンヴァース・ワイエスも高名な挿絵画家でした。病弱だったワイエスは、自宅で、絵画を含む全ての教育を父から受けています。父の影響から、ロバート・フロストやヘンリー・デイヴィッド・ソローの著作を読み、ウィンスロー・ホーマーの絵に憧れて育ちます。これら自然へのこだわりを持った著作や絵画、そしてブランディワイン川流域の美しい田園風景がアンドリュー・ワイエスの絵画を形成したのでしょう。

ワイエスの絵は、賛否がはっきり分かれるように思います。主にテンペラで描かれる写実的な絵は平板で退屈だと評する人たちもいます。一方で、そこにアメリカの精神風景を見て取る人たちも多く存在します。ワイエスの最も有名な作品である「クリスティーナの世界」なども典型だと思います。緩やかな丘陵の野原に女性が横たわり、丘の上に建つ家を見上げているだけの絵です。実に単純な構図だとは思いますが、強い印象を与えます。アンナ・クリスティーナ・オルセンは実在の人物であり、下半身が麻痺して歩くことができませんでした。ただ、彼女は、生涯、車椅子を拒否して、どこへ行くにも這って移動したと言います。困難を厭わず、人目を気にせず、自らを貫いたその姿には、強い意志、自立心、そして個人の尊厳が象徴されていると思います。

これこそがアメリカ的精神であり、アメリカ人を魅了するものなのだと思います。それは、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの思想である個人の尊厳、自然との調和、市民的不服従につながります。ソローの代表作「ウォールデン 森の生活」等が、アメリカ人に大きな影響を与えたというのではなく、ソローがアメリカ人の精神を鮮明に表したということだと思います。とりわけアメリカ東部の人々の心には、個人の尊厳と自然との関係が密接不可分なものとして根付いています。恐らく、彼らの血のなかに開拓の歴史と精神が色濃く残っているからなのでしょう。これはアメリカ人以外には分かりにくいところがあります。自分もNY郊外に暮らした経験がなければ、ソローなど単なる自然愛好家に過ぎないと思っていたはずです。日本人も、晴耕雨読の生活への憧れはありますが、それは内省的な隠遁生活を意味します。アメリカ人には、自然のなかで育んだ自立心や個人の尊厳が国の歴史を作ってきたという誇りがあるのでしょう。

東京都美術館が100周年を記念して「アンドリュー・ワイエス展」を開催しています。日本ではワイエスの人気など知れたものだろうと思っていましたが、案の定、会場は空いていました。もともと、日本では、欧州のルネサンス、印象派、油絵が人気の頂点にあって、アメリカ絵画など下に見られる傾向があります。世界の美術史においても、アメリカ美術が登場するとすれば、ポップ・アートくらいのものなのでしょう。それも絵画というよりはムーブメントとして捉えられる傾向が強いと思います。アメリカ文学も、似たようなものだと思います。アメリカが世界のトップに躍り出たのは20世紀であり、その光と影がアメリカの芸術を生んだということなのでしょう。結果的ではありますが、ワイエスの絵も反物質主義に貫かれている、と言ってもいいのかもしれません。(写真出典:en.wikipedia.org)

2026年5月16日土曜日

ライトレール

「人間は考える葦である」という言葉を残したブレーズ・パスカルは、早熟の天才の見本のような人だと思います。なにせ、1640年、16歳のおりに「パスカルの定理」を発表しています。その後も、パスカルの三角形、確率論、パスカルの原理などの業績を挙げ、死後には遺稿集「パンセ」が発表されています。また、パスカルは発明家、実業家としての顔も持っていました。1662年には、世界初の乗合馬車を発明し、パリで事業化しています。"Omnibus"と呼ばれたその馬車は、バスの語源ともなりました。乗合馬車は、欧州の各都市に広がり、軌道馬車、路面電車へと進化していきます。さらには進化版のライトレール(LRT)も登場し、路面電車と併せてトラムと総称されています。

路面電車は、19世紀、世界各都市へと広がりましたが、モータリーゼーションの時代を迎えると、渋滞の原因になったり、定時運行が困難になったために、徐々に姿を消していきます。路面電車に代わって多く採用されたのが地下鉄でした。時代が進み、70~80年代になると、車の渋滞解消、後には環境対策としてトラムが見直され、欧州を中心に再び勢いを取り戻します。日本でも、1930年には120近くの都市で路面電車が走っていましたが、1975年には20数都市にまで減っています。路面電車が残った街は、札幌、函館、東京、富山、豊橋、京都、岡山、広島、高知、松山、長崎、熊本、鹿児島などでした。西日本に路面電車が多く残ったのは、雪の影響が少なく、相対的に運行コストが低かったことも関係しているのではないかと思います。

日本では、欧米のようなトラム復権の例は少ないものの、富山市、宇都宮市がLRTを導入しています。富山市のライトレールは、2006年に開業しました。富山市は、コンパクト・シティ構想の数少ない成功例として知られます。少子高齢化、人口減少に対応しつつ、活力ある都市づくりをねらった富山市の構想は、公共交通の活性化、公共交通沿線への居住誘導、中心市街地の活性化を柱に進められました。つまり、LRTの整備が大きな鍵を握っているわけです。LRT導入の成否は、こうした都市計画との連動にあるのだと思います。コンパクト・シティを目指した都市は他にもあります。いずれもLRT敷設が計画に盛り込まれていました。しかし、高齢世帯のLRT沿線や中心部への移転が大きなネックとなって頓挫しています。それは単に移転費用の問題だけとは言えません。

2023年に開通した宇都宮市のライトレールも、コンパクト・シティ構想に基づき敷設されましたが、多少、富山とは色合いが異なります。宇都宮市の構想は、中心部と複数の地域拠点から構成されるネットワーク型とされます。今般、開通した宇都宮芳賀ライトレール線は、JR宇都宮駅と芳賀町の芳賀・高根沢工業団地を結んでいます。宇都宮市の東側には、鬼怒川を挟んで、芳賀・高根沢工業団地、平出工業団地、清原工業団地、さらにはテクノポリス構想などもあり、北関東随一と言える産業地帯が存在します。ちなみに、早朝、東京から宇都宮へ向かう新幹線は、いつも混んでいます。宇都宮駅の新幹線定期利用客数は、東京、大宮に次ぐほどの数になっているとのこと。その目的地の多くが、東部の産業地区になっているものと想像できます。

宇都宮市は、鉄道が南北に走り、市の中心部も東北自動車道も駅の西側にあります。また、鬼怒川に架かる橋が少ないこともあり、東部の産業地区へのアクセスは脆弱そのものでした。通勤、物量は、常に大渋滞という問題を抱えていたわけです。東部産業地域へのアクセス改善という喫緊の課題に、少子高齢化、ドーナッツ現象といった宇都宮市の新たな課題が加わることになります。そこで、東西基幹公共交通としてのライトレール構想が進んだわけです。現状、ライトレールの利用者数は予想を上回り、駅東側の開発が進み、車の通行量は平日で5千台減るなどの効果も出ているようです。ただ、産業地区へのアクセス改善の要は東北自動車道とのスムーズな連絡であり、コンパクトシティ化への要は住民の移転だと思います。ライトレール延伸計画はあるようですが、このあたりが進まないと都市計画としては掛け声倒れになる恐れもあります。(写真出典:utsunomiya-cvb.org)

2026年5月14日木曜日

ひもかわうどん

月に一度、歯のクリーニングとチェックのために、東銀座の歯科医院へ通っています。昼前に予約を入れ、終わったあとには東銀座・築地・銀座界隈で食事します。これが楽しみで通っている面もあります。飲食店には事欠かないエリアですから、今日はどこで食べようかと考えるのも楽しみの一つです。昼時には、そこここに行列ができ、食べたいと思っても、入れない店も多くあります。その一つが”五代目 花山うどん 銀座店”です。花山うどんは、明治27年、館林で創業したという老舗で、ひもかわうどんが有名です。恐らく、歌舞伎座界隈で一番長い行列ができているのが花山うどんだと思います。しかも、並んでいるのは、近所の会社員ではなく、インバウンド客ばかりという異様さです。

外国人にも人気の平打ちうどんですが、その発祥は定かではないようです。文献上の初出は江戸初期、三河・芋川の名物として平打ちの”芋川うどん”が紹介されているようです。現在、芋川という地名は存在しませんが、刈谷市のあたりを指すのではないかとされています。江戸後期の文献に、芋川うどんは、江戸でなまって”ひもかわ”、名古屋では”きしめん”と呼ばれていると記したものがあるようです。きしめんの名称は、もともと三河の知立あたりで人気だった雉肉を入れたうどん、つまり雉めんから来ているというのが名古屋市の公式見解です。知立は刈谷の隣ですから、雉めんには平打ちの芋川うどんが使われていたのだろうと想像できます。三河発祥の平打ちうどんですが、桐生のひもかわうどん、玉島のしのうどん、鴻巣の川幅うどん等もよく知られています。

桐生のひもかわうどんは、北関東で最もよく知られた平打ちうどんだと思います。桐生の名店で初めてひもかわうどんを食べた時には、その幅の広さよりもつるつるとした食感に驚き、すっかり気に入りました。北関東には、ひもかわうどんの他に、”おっきりこみ”、あるいは”煮ぼうとう”という似たような料理もあって混乱します。肉や野菜を炊き、ひもかわうどんを入れたものがおっきりこみと理解していいのでしょう。ただし、おっきりこみの場合、麺は塩を加えずにこねて、打ち粉が付いたままの生麺を鍋に入れます。小麦の一大産地である北関東ならではのうどん文化です。幅が広くて薄いうどんは、仕事で忙しい人々が考えた手間のかからないうどんだったのでしょう。切るのも簡単、煮るのも簡単、そして満足感も得やすいというわけです。

桐生市は、織物産業の街です。その歴史は古く、奈良時代には、既によく知られていたと言います。芋川うどんが伝わり、ひもかわうどんが生まれたという説以外に、川で洗う帯や紐類にちなんで名付けられたという説もあるようです。紐と川、確かにうまい組合せですが、ややこじつけっぽさがあります。しのうどんは、倉敷の玉島の名物です。禅宗の名刹である円通寺で、江戸時代から修行僧が食べていたとされます。円通寺で修行した良寛も好んだとされます。篠竹の節のように長いことからしのうどんと名付けられたようです。長いものでは1mにもなり、かつては”一節一椀”とも呼ばれていたようです。鴻巣の川幅うどんは、2008年、荒川が川幅日本一に認定されたことを記念して、市役所が音頭をとって作られた新しい名物です。

幅広の麺、あるいは平打ち麺は、何も日本に限ったものでもありません。イタリアのパスタにも、パッパルデッレ、フェットチーネやタリアテッレ、リングイネと各種揃っています。アジアでは 、台湾の担仔麺、タイのパッタイ等々も有名ですが、何といっても、中国・陝西省の𰻞𰻞(ビャンビャン)麺が代表格なのでしょう。𰻞という字は最も画数の多い漢字として有名になりましたが、習近平の好物としても話題になりました。15年ほど前、中華料理屋の若い中国人店員に、この漢字を知っているかと聞いたところ、知らないと言っていました。当時、日本で𰻞𰻞麺を出す店は、奈良の大和西大寺に一軒あるのみでした。仕事のついでに行って食べたことがあります。味付けこそエスニック感が強かったものの、麺に関しては、ひもかわを知っているだけに、何の驚きもありませんでした。(写真出典:yomiuri.co.jp)

2026年5月12日火曜日

レゲエ

ボブ・マーリーは、偉大なミュージシャンだと思います。たまに聴くと、やっぱりいいなあ、と思います。レゲエのリズムによく合う声ですし、歌い方もリズムを強く感じさせます。ラスタファリに基づくシンプルな歌詞も力強いと思います。裏打ちの2ビートが生むグルーブは、とても心地良いだけでなく、中毒性すらあるように思います。ラスタファリが大事しているガンジャ(大麻)の影響もあるのかもしれません。しかし、私はレゲエ好きというわけではありません。ボブ・マーリー以外のレゲエでは、単調なリズムに飽きてしまうからです。私にとって、レゲエはボブ・マーリー以外の何ものでもない、ということになるのでしょう。

レゲエは、ジャマイカ独自の音楽文化であるメント、スカ、ロックステディを経て、1960年代後半に生まれたとされます。1940~1950年代に人気の高かったメントは、ジャズや中南米音楽と同様、西アフリカと欧州の音楽が混じり合って誕生した音楽とされます。トリニダードトバゴ発祥のカリプソと混同されることが多いようです。メントの歌手で世界的名声を得たのがハリー・ベラフォンテです。「バナナ・ボート」は世界的なヒットとなりました。ただ、その歌は、メントではなくカリプソと思われがちです。確か似てはいますが、メントの方がゆったりとしたテンポが特徴だと思います。また、アメリカでは、カリプソの方が知名度が高かったために、マーケティング上、ハリー・ベラフォンテの音楽もカリプソとして紹介されていたようです。

ラジオが普及し始めると、ジャズやR&Bの影響を受けてスカが誕生します。スカの2・4拍目が強いオフビートは、ラジオの受信状況が悪く2・4拍目だけが強く聞こえたために生まれたという説があります。ただ、スカは、ドラム・アンサンブルと賛美歌で構成されるラスタファリのナイヤビンギの影響が強く、リズムの根源もそこにあるとされています。さらに、ジャマイカ発祥のサウンド・システムがスカを育てたとも言われます。サウンド・システムは、移動できるターンテーブル、アンプ、大きなスピーカーで構成されます。1940~1950年代はレコード・プレイヤーが普及しておらず、大衆がレコードを聴けるのはサウンド・システムだけだったようです。以降、サウンド・システムにはDJが入り、トースティングも生まれます。後のラップの原点だったわけです。

スカのアップ・テンポに疲れて、1960年代前半にロックステディが生まれます。60年代後半、それがレゲエのゆったりとしたグルーブにつながっていきます。レゲエの特徴として、2・4拍目にカッティング・ギターが強調され、ドラムは3拍目にアクセントを置き、ベースはうねるように演奏されます。ドラムは、3拍目のスネアのリムショットとキック(バスドラム)が特徴的ですが、これはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのドラマーだったカールトン・バレットが生み出したリズムです。と言っても、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズがレゲエを作ったわけではありません。レゲエには、ジミー・クリフはじめ先人たちがいたわけですが、レゲエを確立させ、世界に広めたのがボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズだったと言っていいのでしょう。

ボブ・マーリーが世界に広めたのは音楽としてのレゲエだけではありません。世界の人々は、彼を通じて、ラスタファリを知ることになりました。ラスタ・カラーとドレッド・ヘアはレゲエを象徴するファッションとして広がりました。ラスタファリは、信仰でも、思想でもなく、宗教的思想運動とされます。それも理解しにくいところではありますが、最も引っかかるのがジャー(神)です。ジャーと呼ばれているのは、1975年まで存命だったエチオピアのハイレ・セラシエ1世です。ラスタファリが、アフリカ回帰運動でであることも理解できます。ハイレ・セラシエ1世が聡明な皇帝として知られていたことも知っています。だとしても、他国の存命する王を神として崇めることは、違和感の塊だとしか言いようがありません。(写真:映画「One Love」ポスター 出典:tower.jp)

2026年5月10日日曜日

能島

しまなみ街道には多くの展望台がありますが、最も人気が高いのは亀老山展望公園だと思います。隈研吾設計になるモダンな展望台からは、瀬戸内海が一望できます。トリップ・アドバイザーの「旅好きが選ぶ!日本の展望スポット2017」では、清水寺に次ぐ第2位となっています。ちなみに第3位は東京都庁でした。亀老山展望公園は、今治市の大島にあります。大島には、カレイ山展望台もあります。花崗岩の山であるカレイ山は保水性が低いために枯れ山や枯井と呼ばれており、それがこの風変わりな名前の由来となったようです。カレイ山展望台の魅力は、瀬戸内海を一望できることに加え、能島村上氏の拠点だった能島を眼下に臨めることです。

能島は、大島と伯方島の間にあり、その周囲の海域は宮窪瀬戸と呼ばれます。宮窪瀬戸は、瀬戸内海を最短で航海するための要所です。同時に、干満の差が大きく、激しい潮流が発生する難所でもあります。その潮流を体験するための観光船まで出ています。カレイ山展望台から見ていると、潮流を体験するためにエンジンを停めた観光船は、アッという間に潮に流されていきます。まるで激流を下る舟のようです。能島は、瀬戸内海の船の航行を見張る上でも、城の防御という観点からも最適だったわけです。能島村上氏は、因島村上氏、来島村上氏と並び、村上水軍を構成する三家の一つですが、この宮窪瀬戸の存在ゆえに、他の二家とは性格を異にする存在でした。

村上水軍の起源には、河内源氏説と村上源氏説があり、はっきりしていません。文献上の初出は15世紀とされます。芸予諸島の本州側に因島村上氏、四国側に来島村上氏、中央に能島村上氏が拠点を築き、各々独立しながらも一族としての連携も強かったようです。もともと海運、漁業、案内人、護衛などを生業としていた一族は、通行料の取立てを始め、支払わない船を襲ったことから海賊化していきます。その後、因島村上氏は、山名、大内、毛利といった大名の下に入って水軍となり、さらに河野、豊臣についた来島村上氏は大名化していきます。ただ、交通の要所である宮窪瀬戸をおさえる能島村上氏だけは独立性を保ちます。能島村上氏は、各大名へ安全な航海を保障する見返りに各地の港に出先を置かせてもらい、そこで通行料を徴集するという仕組みを築きます。つまり、ビジネス上、中立を保つ必要があったわけです。

能島村上氏も、最終的には毛利傘下に入ります。その後、秀吉が海賊停止令を出しことで打撃を受け、関ケ原の戦いにおいては、三家とも西軍方だったために、村上水軍の活躍は終わりを告げることになります。海賊は体制に組み込まれることで水軍と呼ばれるようになったわけですが、そもそも海賊という呼び方にはしっくりこない面があります。略奪行為そのものは、大昔から存在した海賊と変わらないのでしょうが、藤原純友の乱以降、その性格は大いに変わったのだと思います。つまり、海辺に暮らすならず者たちの集団としての海賊ではなく、律令制の崩壊とともにあふれ出した中級・下級官吏の武者たちの集団へと変わっていったのだと思います。平安末期の王朝時代、陸上でも私設関所で通行料の徴集が行われ、その背景には武者の存在がありました。

武者の存在が治安を悪化させ、それを武者の武力で鎮圧しようとしたことで、武家の時代が始まります。村上一族も海賊ではありますが、むしろ”海武者”とでも呼ぶべきではないかと思います。能島を臨む大島の浜に「村上海賊ミュージアム」があります。宮窪瀬戸の潮流体験船の発着港でもあります。実は、この施設は「村上水軍博物館」としてスタートし、2020年に改称されています。改称理由として今治市が言うには「当時の生活実態が略奪者ではなく海上の安全保障や通航料徴収を行う組織であったため」としています。だとすれば、海賊という呼称には違和感があります。水軍という呼称は江戸期に生まれたと言いますから往時の名称に戻す、あるいは海賊時代の独立性を尊重するというのであれば、理解できる面もありますが。(写真出典:oideya.gr.jp)

2026年5月8日金曜日

マッドマン・セオリー

Richard Nixon
あまりにも腹立たしいので、ドナルド・トランプの話などするつもりはありませんでした。ただ、気になることがあったので書くことにします。関税騒動からイラン攻撃に至るまで、トランプの交渉戦術を「マッドマン・セオリー」だとする記事が散見されます。確かに、”トランプは狂っている”と言いたくなりますが、交渉のなかでやっていることは単なる脅しに過ぎず、マッドマン・セオリーと呼べるようなものではありません。マッドマン・セオリーとは、相手に、自分が何をやるか分からない狂人だと信じ込ませ、譲歩や妥協を引き出す交渉戦術です。脅しとの違いはレベル感とも言えますが、マッドマン・セオリーは、相手に、単なる困惑ではなく、常識を越えた恐怖を与える戦術だと言えます。

マッドマン・セオリーは、大昔から存在していたものと思われますが、よく引き合いに出されるのがニクソン大統領の例です。ヴェトナム戦争時、ニクソンは、北ヴェトナムを交渉のテーブルに着かせるために、あいつは狂っていて核兵器を使いかねない、という噂を水面下で流したとされます。ちなみに、アル中だったニクソンは、実際に錯乱状態になることもあったようです。いずれにしても、ニクソンが、核爆弾という最終兵器を持ち出したこと、発射ボタンを押すことができる立場にあったことがポイントになります。東西冷戦下では、核ミサイルの発射が核の応酬につながり、人類が滅亡するというリスクが広く認識されていました。1972年、北ヴェトナムはパリでアメリカとの交渉を開始しますが、アメリカによる北爆の影響が大きかったとされています。

ニクソンのマッドマン・セオリーが奏功したわけではありませんが、究極の恐怖をもたらしたことは間違いないと思います。近年、マッドマン・セオリーを巧みに用いたのはプーチン大統領だったと思います。欧米の支援を受けたウクライナが攻勢に出ると、プーチンは戦術核の使用をほのめかします。同時に、プーチン不健康説も流布されていきます。恐らくマッドマン・セオリーを意識したプーチンの戦術だったのだと思います。ニクソンにしても、プーチンにしても、劣勢に置かれた状況でマッドマン・セオリーを使っています。それは単なる偶然ではなく、劣勢であることがマッドマン・セオリーの真実味を高めるからなのだと思います。窮鼠猫を噛む、というわけです。マッドマン・セオリーは、弱者の捨て身の戦術と言ってもいいのかもしれません。

マッドマン・セオリーは、自らも相当な打撃や不利益を受けることを前提に成立するのだと思います。自らの破滅も厭わないという狂った覚悟が、相手に恐怖を与えるわけです。核ミサイルを撃てば、自らも核ミサイルの報復を受けることは明らかです。トランプの100%関税は、自国経済への影響もあるわけですから、マッドマン・セオリー的かもしれません。ただ、コントロール可能なレベルの悪影響と言えます。”イランを石器時代に戻してやる”といったトランプ発言は、常軌を逸していますが、到底、マッドマン・セオリーと呼べるようなものではなく、ただの威嚇に過ぎません。トランプの常識外れな言動は、狂っているとしか言いようがないわけですが、あくまでも計算された交渉術の範疇だと思います。そういう意味ではよく徹底されているとも言えます。

狂人ネタニヤフは、首相退任とともに収監される恐れがあり、戦争を継続して首相であり続けるしかありません。支持率を回復したいトランプは、ユダヤ人の金と票を握るネタニヤフにけしかけられてイラン攻撃に踏み切ったとしか思えません。イエスマンで固めたトランプ政権は、読み違え、誤算を繰り返しています。世界は、もはやトランプの脅しを見透かしています。脅しどころか、マッドマン・セオリーすら通用しない国があるとすれば、それはイランです。もし、トランプがマッドマン・セオリーを使うとすれば、そこで起きることはイランの譲歩ではなく、地域を越えたエスカレーションだと思います。視聴率アップだけが身上のTVマン・トランプは、腹をくくることもできず、あるいは狂気に陥る可能性もないと思います。皮肉にも、トランプの信念の無さ、俗っぽさが、世界を真の恐怖から救うのかもしれません。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年5月6日水曜日

明鏡止水

明鏡止水とは、 荘子の言葉に由来し、なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態を指すとされます。無心の境地とも言えるのでしょうが、さらに意識を集中し、冷静さのレベルを高めた状態のように思います。NHKの番組「明鏡止水〜武のKAMIWAZA〜」は、日本古来の武術を中心に、フルコンタクト・スポーツにおける体の使い方を解明しようとする番組です。レギュラー放送ではありませんが、楽しみにしている番組です。タイトルも見事だと思います。単に武術を紹介するのではなく、その原理原則を解き明かす番組としては、実に相応しいと思います。心技体の語順は、単なるゴロの良さではなく、意味のある並びなのだと思います。

番組のホストを務めるのは、岡田准一とケンコバです。番組内で、岡田准一は”武術翻訳家”と呼ばれています。アイドル・グループの出身ですが、俳優としての活躍が多く、かつ武術家としても知られる異色の人です。各種格闘技の修行を行い、ブラジリアン柔術の世界大会に参加したこともあるというツワモノです。吉本興業所属の芸人ケンドー・コバヤシは、空手経験があり、大のプロレス・ファンとしても知られているようです。二人とも、フルコンタクト系に造詣が深いわけです。番組には、あまり知られていない古武術や格闘技の大家がゲスト参加し、演武を行い、解説を加えます。決して古武術に固執せず、プロレス、現代格闘技、あるいは他のスポーツや漫画の世界にまで範囲を広げて、心技体の関係を極めようとする姿勢が素晴らしいと思います。

番組から、武術やフルコンタクト・スポーツに共通する要素が見えてきます。重心、崩し、脱力、円運動、相手の力の利用などが印象に残りました。例えば、重心ですが、丹田(へそのやや下)に力を入れて、膝をやや曲げて直立する姿勢が最も安定感が高く、ちょっとやそっとの力では動かせないと言います。相撲で言えば、この姿勢のままでは、押すことも、投げることもできないとされます。そこで、崩し、つまり相手の重心をずらすことが必要となります。左右へいなす、上向きに力を加える、踏み込みを誘うなどして、相手のバランスを崩していきます。がっぷり四つの状態から上手投げを打っても決まらないと言われますが、相手を押し、相手が反撥して押してくる力を利用することで、技が決まります。つまり、相手の重心のバランスを崩しているわけです。

フルコンタクト・スポーツに筋力は欠かせません。しかし、筋肉量が勝敗を決めるわけではありません。柔よく剛を制す、というわけです。スピード、タイミングといった要素が勝負を決めます。また、筋肉に頼る、つまり体に力が入りすぎていると、合理的な早い動きはできません。力を抜くことが大事になります。また、重心を保つうえでは体幹が重要となり、そのためにインナー・マッスルを鍛える必要があるようです。フルコンタクト・スポーツは合理的な世界ですが、対戦中に考えて動くことなどできません。日頃からの稽古によって、体に覚えさせるしかありません。古武術の型、あるいは相撲の日々の稽古などによって、体に基本をたたき込みます。横綱、大関でも、場所前に十分な稽古ができていないと、本割で思うような結果を残すことは出来ません。

今村翔吾のベストセラー「イクサガミ」をNetflixがミニ・シリーズ化し、岡田准一が、主演、プロデューサー、アクション・デザイナーを務めています。ストーリー展開はともかくとしても、アクション・シーン、特に岡田准一のチャンバラが、惚れ惚れするほどリアルで見事な仕上がりになっています。他の役者ならば、見栄え重視のチャンバラになるのでしょうが、さすが武術家の刀さばきは、理に適ったものになっています。「Shogun」の真田広之の後継者は、この人しかいないのではないかと思います。ちなみに、「イクサガミ」は、Netflixの週間グローバルTOP10(非英語シリーズ)で第1位を獲得し、Rotten Tomatoesでも評価100%を得ています。シーズン2の製作も決定しているようです。(写真出典:tvguide.or.jp)

2026年5月4日月曜日

スカーフェイス

映画「スカーフェイス」 は、1983年、 ブライアン・デ・パルマ監督、オリバー・ストーン脚本、アル・パチーノ主演で大ヒットしたギャング映画です。今でも、ギャング映画のアイコン的存在として知られます。キューバから来たトニー・モンタナが、コカイン・マフィアとして成り上がり、破滅するまでが描かれています。当時は、仁義なき戦いのデ・パルマ版だな、と思ったものです。実は、この映画、主人公はイタリア系からキューバ系へと置換えられていますが、1932年にハワード・ホークスが監督した「暗黒街の顔役」のリメイクです。そして、オリジナル版の主人公トニー・カモンテのモデルとなったのが、シカゴ・マフィアのドン、アル・カポネでした。

アル・カポネは、1899年、NYのブルックリンで、ナポリ近郊から移民してきた理髪師の四男として生まれています。喧嘩の傷跡が頬にあったために”スカーフェイス”とあだ名されていました。真面目に働いた時期もあったようですが、若くしてイタリアン・マフィアに参加していきます。20歳頃、シカゴに移っていた兄貴分のジョニー・トーリオに呼ばれてNYを離れます。シチリア系ではないカポネがNYで出世することは限界があったのでしょう。二人は、マフィア組織シカゴ・アウトフィットの創設者であるジム・コロシモのもとで働きます。しかし、トーリオは、酒の密売を巡る対立からコロシモを殺害し、組織のトップとなり、大成功を収めます。トーリオが敵に重傷を負わされて引退すると、カポネは、わずか26歳にしてシカゴ・アウトフィットのボスになります。

1929年2月14日、カポネと対立するノースサイド・ギャングの構成員など7人が偽警察官に射殺されます。世に名高い”セント・バレンタイン・デーの虐殺”です。真っ先にカポネが疑われますが、事件当時はマイアミに滞在中という完璧なアリバイがありました。ライバルをだまらせたカポネは、シカゴ全市を牛耳るまでになります。しかし、セント・バレンタイン・デーの虐殺が、あまりにも世間の注目を集めたために、カポネは、銃器不法所持を自作自演し、逮捕・収監されます。10ヶ月の刑務所生活は豪奢なものだったようです。”民衆の敵No.1”となったカポネは、低所得者向けの食事サービスなどで人気取りも行っています。陽気なカポネは、シカゴ市民に人気があったとも言われています。しかし、大統領に就任したフーヴァーは、民衆の敵No.1の逮捕を厳命します。

財務省は、脱税と禁酒法の両面で捜査を開始します。ここで登場するのがエリオット・ネス率いる“アンタッチャブル”です。カポネ側からの賄賂や切崩しにもビクともしなかったことからアンタッチャブルと呼ばれたチームが担当したのは禁酒法違反でした。しかし、財務省の真のねらいは脱税であり、アンタッチャブルによる派手な禁酒法違反捜査は陽動作戦に過ぎなかったとされます。1931年、カポネは脱税で収監されます。以降、1939年に釈放されるまでいくつかの刑務所を経て、最後はアルカトラズに収監されています。かつてのような豪華な監獄生活は送れず、囚人たちからも孤立気味だったようです。その間に梅毒が悪化し、釈放後も自宅で療養を続け、1945年に亡くなっています。享年48歳。シカゴのボスとして君臨した栄光の時は、わずか5年程度でした。

奢れる者は久しからず、というわけです。良くも悪くもセント・バレンタイン・デーの虐殺が引き金になったと言えます。傲慢ゆえに身を滅ぼすという話の典型でもあります。アンタッチャブルを率いたエリオット・ネスの後世も寂しいものでした。熱望したFBI入りは叶わず、クリーブランドで公共治安本部長になりますが連続殺人事件を解決できず、民間警備会社勤務を経て、クリーブランド市長選に立候補しますが、落選します。以降、セールスマンや店員をしながら、酒場に入り浸り、借金を積み上げていきます。晩年のネスに、UPIの記者がインタビューして書いた「The Untouchables」が大ベストセラーとなり、TVドラマ化、映画化もされます。ただ、同書が出版された時点で、ネスは既に死亡していました。ちなみに、ブライアン・デ・パルマ監督は「アンタッチャブル」(1987)も映画化し、ヒットさせています。(写真出典:imdb.com)

2026年5月2日土曜日

観艦式

一度、海上自衛隊の観艦式に参加したことがあります。観艦式とは、最高指揮官が艦艇や航空機を観閲する軍事パレードの一種です。海上自衛隊では、原則、3年に一度、士気向上、軍事力の示威、国際親善を目的に行われ、内閣総理大臣が観閲します。私が参加した際には、野田毅彦総理が、護衛艦くらまに各国の大使、駐在武官とともに乗艦し、観閲していました。私は、当時、最新鋭だったヘリ空母型の護衛艦ひゅうがに乗せてもらいました。海上自衛隊の観艦式は相模湾洋上で行われます。横浜の大桟橋から、多くの招待客とともに乗艦し、相模湾まで3時間近くかけて移動しました。観艦式は、自衛隊の活動を国民にPRすることも目的の一つとなっているため、観閲する側の艦船だけでなく、観閲される艦船にも招待客が乗艦します。

相模湾では、海外から参加した艦艇も含め、40数隻の艦艇・潜水艦が二列縦隊に整列し、観閲艦の前を高速で駆け抜けます。艦艇の甲板には海上自衛官が整列して敬礼を行います。なかなかに壮観なものでした。自衛官の説明によれば、このスタイルの観艦式には、高度なテクニックが要求されるので、現在、日本の海上自衛隊だけが行っているとのことでした。操船技術、装備の優秀さを世界に示し、抑止力の向上をはかることも観艦式のねらいだとも言っていました。護衛艦の急速回頭、潜水艦の急速浮上の訓練展示も行われていました。そして、海上自衛隊が保有する航空機も飛来します。間近に見るヘリの密集編隊飛行、US-2救難機の低速飛行展示は印象的でした。国産のUS-2救難機は、世界で最も低速での飛行が可能という優れものです。

相模湾への往復の間に、ひゅうがの艦内ツアーも行われ、格納庫と飛行甲板を上下する甲板エレベーターにも乗せてもらいました。甲板で目が釘付けになったのが近接防御火器システムのファランクスでした。6砲身のバルカン砲と捕捉・追尾レーダーが一体化されています。主にミサイルや小型艇を標的に、全自動で1分間に徹甲弾4,500発、つまり毎秒75発を発射します。古代ローマの密集陣形にちなんだ名称ですが、弾幕を張るという意味なのでしょう。説明を受けながら、最も気になったのは、1秒間に75発を撃つ際の射撃音とは一体どんなものなのかということでした。さすがに撃ってはもらえませんが、自衛官に聞いてみると「ブーン、って感じです」という答えでした。にわかには信じがたく、帰宅後、YouTubeで確認すると、確かにブーンでした。

観艦式は、14世紀のイングランドに始まるとされています。日本では、江戸期に幕府水軍による”船行列”なるものが行われていたようですが、初めての本格的な観艦式は、明治元年(1868年)、大阪の天保山沖で行われました。明治天皇が陸上から、日本の艦艇6隻、フランスの艦艇1隻を観閲したようです。戦前は、軍国主義へ向かうなか、180隻を超える艦艇が参加する大観艦式も行われていました。戦後、自衛隊が発足すると、1957年に32隻をもって再開されています。以降、40~60隻が参加して継続されてきましたが、昨年、防衛省が、当面、観艦式は行わないと発表しました。「戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に直面する現在、隙のない我が国の防衛態勢を維持する上で、そのような観閲式等を実施することは困難な状況」という理由でした。事前の準備や訓練に手間暇がかかり、コストも莫大になる観艦式ですから、至極当然な判断のように思います。

ところで、観艦式の主力を成すのは護衛艦ですが、思えば、実に妙な艦種名です。英語では”Escort Vessel”とされています。世界的に見れば、そのような艦種区分はありません。海外では、海上自衛隊の護衛艦は”Destroyer”と呼ばれています。いわゆる駆逐艦です。つまり、護衛艦なる艦種名は、自衛隊が発足する際、軍ではありません、ということを強調するために生み出されたのでしょう。観艦式で乗艦させてもらった護衛艦ひゅうがの艦種記号はDDH(Helicopter Destroyer)です。見た目は同じような後継護衛艦のいづも、かがはCVM(Cruiser Voler Multipurpose)とされています。F-35B垂直離着陸戦闘機を搭載できるように改良が加えられているからです。ちなみに、自衛隊は、本年度中に、幹部の呼称を、大将、大佐、大尉等に変えると発表しています。近々、護衛艦の呼称も駆逐艦や空母に変わるのかもしれません。(写真出典:townnews.co.jp)

正統記(しょうとうき)