2026年8月30日日曜日

ベーグル

家の近くに、新しくベーグル専門店がオープンしました。食べてみると、フワフワとした食感が特徴的でした。いかにも日本的で今日的だと思いました。しかし、これをベーグルと呼ぶことには抵抗を感じます。私が知っているNYのベーグルは、中身がぎっちり詰まって重たい、実に無粋で田舎くさい代物です。その素朴さがベーグルの魅力なのだと思っています。NY時代に住んでいたスカースデイル村はユダヤ系の多いコミュニティであり、駅の近くにはユダヤ人家族が営むベーグル屋がありました。たまに買って、たっぷりのクリームチーズとスモークサーモンを乗せたNY名物ロックスを食べたものです。 

日本でベーグルが人気になったのは、15~20年前のことだと記憶します。その時にも、日本的な軽さに違和感を覚えました。それなりに美味しかったのでしょうが、買うことはありませんでした。しばらくすると、ベーグル屋の数は激減します。なんでもブームになり、すぐに廃れるという実に日本らしい現象でした。ブームが去った理由をネットで調べると、固さが不評だったというのです。まったく理解できない理由です。それがベーグルであり、焼きたてでなければ、オーブン・トースターで熱してから食べればいいだけのことです。ところが、最近、またベーグルがブームになっているようです。そのきっかけは、フワフワとした韓国式ベーグルだと聞きました。

ベーグルは、17世紀の東欧ユダヤ人社会が発祥とされます。小麦粉、水、塩を煉ってリング状にし、焼く前にお湯で茹でる(ケトリング)パンです。表面はパリッとし、中はもっちりとした固い食感が特徴です。バター、卵、牛乳を使わないため脂質が少なく、低カロリーで高タンパクということになります。これがヘルシーだと言われる所以であり、日本や韓国で、若い女性を中心にブームになっている背景でもあります。玄米やオートミール人気と同じ理由です。恐らく、日本や韓国では、乳製品を使わないパンをベーグルと呼んでいるのではないでしょうか。ヘルシーと言いますが、もともとはアシュケナージ(東欧系ユダヤ人)の厳しい環境から生まれた貧しい製パン法だと思います。堅いのでよく噛む必要があり、それで空腹を満たしていた面もあるのでしょう。

ベーグルに、バター、卵、牛乳が使われない理由は、17世紀の東欧で起こったハシディズム、超正統派ユダヤ教と関係があるという説もあります。ユダヤ教の聖典に基づく食事規定(カシュルート、コーシャー)では、ミルクも鶏卵も食べることはできますが、その取り扱いには厳密な規律があります。それがハシディズムにおいては、さらに厳密な取り扱いが求められ、パン屋がパンを焼く工程では対応しきれなかったため、ミルクも卵も使わなくなったというのです。ありそうな話だと思います。ベーグルのもう一つの特徴である生地を茹でる工程に関しては、13世紀、ポーランド公国の首都クラクフで行われたキリスト教徒によるユダヤ教差別から生まれたという説があります。ちなみにクラクフはベーグル発祥の地とされています。

ポーランド公国のユダヤ人は、パンを焼くことを禁じられたのです。キリスト教徒の聖餐を汚させないという理由でした。ムチャクチャな理由ですが、ユダヤ教徒を迫害するのに理由などどうでもよかったのでしょう。一神教の恐ろしさです。そして、真実かどうかは分かりませんが、ここで茹でるという発想が生まれたという説があるのです。パンを焼くなという禁令は緩和されますが、後にポーランドの司教たちは、キリスト教徒がユダヤ人からパンを買うことを禁じています。いずれにしても、ベーグルは、ユダヤ人迫害の歴史のなかで生まれたと言ってもいいのでしょう。ユダヤ人が、今でも素朴に過ぎるベーグルを食べ続けている理由は、民族の厳しい過去を忘れないためでもあるのかもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年8月28日金曜日

綾鼓

映画「敵」
俺たちの姿を描いているから映画「敵」を見ろと、昨年、知人から言われました。ただ、さほど興味も沸かないので、見ていませんでした。過日、暇だったのでネットの配信で見てみました。吉田大八監督の「敵」(2025)は、2024年の東京国際映画祭でグランプリを受賞しています。正直なところ、これがグランプリかよ、と思いました。実に筒井康隆らしいショート・ショート的プロットですが、結局のところ、老人あるあるを描きたかっただけなのかなと思いました。それなら、老人にとって目新しさはありません。あるあるの一つとして、若い女性に金をだまし取られる、いわゆるロマンス詐欺的なモティーフも盛り込まれていました。 

死んだ先輩からLINEが来たことがあります。ビックリしました。気味が悪いとも思いました。ただ、解約された電話番号が使い回されたのだろうと思い、無視しました。先日、再び、その先輩からLINEが来ました。無視していると、”友達登録されているようですが、会ったことがあるのでしょうか?”とメッセージが来ました。不安に思っているなら申し訳ないと思い”死んだ先輩の番号です”と返信しました。すると、”そうでしたか。私は日本人とマレーシア人のハーフで神戸に住む25歳の独身女性です。何かの縁ですから、少しやりとりをしませんか?”と返ってきました。なるほど、これがロマンス詐欺かと思い、先輩の番号も含め、全て削除しました。若い人ならいざ知らず、知らない人とLINEでやりとりするなど、老人の常識からすれば、あり得ません。

ロマンス詐欺はSNSを利用した新しい手口ですが、犯罪としては昔から絶えることなく続いてきました。美人局やハニー・トラップはじめ様々な手口があるのでしょうが、基本的には恋心を食い物にする犯罪です。食欲・睡眠欲・性欲は、人間の三大欲求とされます。そういう意味では、犯罪のネタに事欠くことはありません。とりわけ老人の場合は、抑制力や認知力の衰えも重なり、だましやすいということになるのでしょう。犯罪がらみではありませんが、かつて、歌人・川田順の”老いらくの恋”という言葉が広く知られていました。川田は65歳のおり、27歳年下の門下生と不倫関係になり、「墓場に近く老いらくの恋は怖るる何ものもなし」と詠みます。恐れるものなしという心境は理解できぬでもありませんが、ややこしいことになるだろうとも思います。

能楽「綾鼓」は、御殿の女御に恋した庭師の老人がいたぶられる話です。作者は不明ですが、世阿弥以前に成立した曲とされます。老人の恋心を知った女御は、綾を張った鼓を木にかけ、その音が聞こえたら会いましょうと言います。布の鼓が鳴ることなどありません。必死に打っても鳴らないことに絶望した老人は、御殿の池に身を投げます。怨霊となった老人は池から現れ、女御を責めたてます。女御だけでなく、老人に対しても因果応報、自業自得を説いているように思います。冷静さを保っていれば、綾鼓が鳴らないことなど分かりそうなものです。鳴らないことは分かっていても、打ち続けるのは、老人にありがちな思い込みとも、執着心という深い業のようにも思えます。今でも綾鼓を打ち続ける老人が多いことには驚きますが、自業自得と言わざるを得ません。

歌人・川田順は興味深い人です。東京帝大卒業後、住友本社に入社して、経理畑を歩んだ後に常務理事にまでなっています。一方、歌人としても、天皇の指南役や歌会始の司会も務めるなど、頂点を極めた人だと言えます。老いらくの恋以前にも、川田は不倫騒動を起こしています。門下生との老いらくの恋でも、自殺未遂をするなど大騒ぎしていますが、結果的に二人は結婚しています。希代の歌人は、人並み優れた感受性を有する人でもあったのでしょう。老人の恋心を否定するものではありません。活き活きとした老後を送るうえでは有効だとも思います。しかし、それはあくまでも精神的なものであり、ブレーキとアクセルの踏み間違いをする前に、免許は返納すべきなのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2026年8月26日水曜日

キールバーサ

私の貯蔵肉好きの原点は、母方の祖母が好きなクラコウ、そして函館のカール・レイモンのソーセージにあります。ですから、今でもカール・レイモンのクラコウは、超が付くほどの大好物です。クラコウは、19世紀、ポーランドのクラクフで生まれたソフトな食感のドライ・ソーセージです。豚肉に、塩、コショウ、ニンニク、コリアンダーなどを加え、広葉樹でスモークします。にんにくの風味を効かせ、食感を柔らかくするために脂肪分を多目に入れていることが特徴です。クラコウ発祥の地であるクラクフはポーランド第二の都市であり、かつてはポーランド王国の首都でもありました。歴史ある街は、世界遺産にも登録されています。

ポーランドは、ドイツと並ぶソーセージ自慢の国として知られます。ポーランドが、ソーセージ大国になった背景として、古くから養豚が盛んであること、そして燻製が普及していたことが挙げられます。食糧事情が悪かったポーランドでは、14世紀、王室が、肉類を長期保存するため燻製に取り組みます。それが庶民の間にも広がっていくことになりました。ポーランドは、自国をポルスカと呼びますが、語源は野原だと聞きます。平坦な国土は農業に適しているように思えますが、地表は大陸氷河の影響によって砂質の土壌に覆われています。やせた土地では作物の実りも乏しく、食糧の確保は極めて厳しかったわけです。従って、養豚や燻製は生きるために欠かせないものとなり、それがソーセージの文化を生んでいったと言えるのでしょう。なお、現在のポーランドは、土壌改良等の成果もあり、EUの食料庫と言われるほど農業生産は高まっています。

NYにいた頃、隣町にドイツ系の家族が経営する精肉店があり、美味しいソーセージも売っていました。たまに食べましたが、アメリカで最もよく食べたソーセージは、ヒルシャイア・ファーム社の”ポルスカ・キールバーサ”でした。手頃な価格でアメリカ中のスーパー・マーケットで買うことが出来ます。ヒルシャイアのキールバーサは、直系3~4cmで40cmほどの長さのソーセージをU字型に曲げて売られています。超粗挽きで脂肪分が多く、コショウやにんにく等のスパイスを効かせ、しっかりスモークされています。焼いたり、煮たりもしますが、調理済みなので、基本的にはそのまま食べていました。味がしっかりしているので、パンはもとよりおにぎりとの相性も抜群です。また、小腹が空いた時にもピッタリです。しかし、残念なことに日本では売っていません。

キールバーサとは、ポーランド語でソーセージ全般を意味すると聞きます。キールバーサは、もともと古スラブ語だったようです。ですから、ロシアのコルバサ、ウクライナのコウバサなど、東欧では似たような言葉が見受けられます。その語源は、テュルク語のプレスして灰の中で焼いた肉、あるいはユダヤ語の肉類全般だとされます。ちなみに、スラブ系以外のソーセージの呼称は、ラテン系とゲルマン系に別れます。ラテン語の塩を語源とするのは、フランス語のソシス、イタリア語のサルシッチャ等であり、ラテン語圏ではありませんが英語のソーセージもラテン語からの派生です。一方のゲルマン系は、ドイツ語のヴルストに代表され、ねじるという古ゲルマン語に由来するとされています。豚の腸などのケーシングをねじるところから来ているのでしょう。

ソーセージの最も古い歴史は、5千年前のシュメールにあるとされます。中東で広がり、テュルク族経由で東欧にも伝わったということなのでしょう。キールバーサの語源とされるテュルク語の”プレスして灰の中で焼いた肉”とは、燻製を指すのではないかと思います。燻製は、7,000~10,000年前には行われていたと推測されています。恐らく、たまたま火のそばに置いておいた肉の水分が抜け、長期保存できることを発見したのでしょう。燻製には、様々な方法がありますが、押し固めた肉を、まだ温かい灰の中に入れておけば、低温燻製に近いものができるように思えます。つまり、ソーセージは、燻製から誕生したと言えるのではないでしょうか。だとすれば、しっかりとスモークするキールバーサは、ソーセージの原型に近いのかもしれません。(写真出典:hillshirefarm.com)

2026年8月24日月曜日

心頭滅却

恵林寺三門
子供時分、私が暑いの寒いのと言うと、父親から「えらい坊さんが”心頭滅却すれば火もまた涼し”と言っている」 と聞かされたものです。漢字も意味も分からないものの、要は我慢しろということなのだと思っていました。この言葉は、恵林寺の快川紹喜(かいせん じょうき)禅師の言葉として知られます。恵林寺は、甲斐武田氏の菩提寺でした。快川禅師の言葉の原典は、唐代の詩人・杜荀鶴の「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」という一文だとされます。意味するところは、禅を行うに山水など必要なく、無念無想の境地に入れば、環境に惑わされることもない、ということなのでしょう。それが、誤用されるに至った経緯には、快川紹喜禅師の死に様が関係しています。

1582年、織田信長は甲斐の武田勝頼を攻めます。いわゆる甲州征伐です。もともと劣勢だった武田軍は、臣下の離反も相次ぎ、追い詰められた勝頼はじめ武田一族は自害します。戦国随一の強さを誇った甲斐武田家は、ここに滅びます。信長軍は、執拗に残党狩りを行います。恵林寺にも武田方の武将である佐々木次郎こと六角義定が逃げ込みます。恵林寺を囲んだ信長軍は、佐々木次郎の引き渡しを求めます。快川禅師は、これを拒否します。武田家の菩提寺である以上に、聖域としての寺という考えからなのでしょう。引渡しを拒絶された織田軍は、寺を焼討ちにします。その際、快川禅師は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い残して、火の中に入り、焼死したとされます。武田家への殉死ではなく、寺社に火をかける信長の非道さへの抗議だったようにも思えます。

神社仏閣が聖域という認識は古くからあり、鳥居などで結界が形成されていることからも分かります。それが統治権力の及ばない、いわゆるアジール化するのは、平安末期、武士が台頭してきたあたりからなのでしょう。それも、単に宗教的な意味合いだけでなく、寺社が僧兵で武装したことも大きな要因だったと思われます。信長が、比叡山延暦寺や石山本願寺を燃やしたのは、それが軍事拠点だったからであり、宗教的背景はなかったとされます。信長以前にも、後白河法皇が比叡山に攻め入ろうとしましたし、平家は、圓城寺に次いで南都焼討まで行っています。南都焼討には過失説もありますが、合戦の通常戦術とも言えます。いずれにせよ、東大寺・興福寺などが燃えました。さらに言えば、圓城寺と延暦寺の抗争によって、圓城寺は幾度も燃やされています。

恵林寺は、1330年、甲斐国の守護職が夢窓疎石を招いて開山しています。夢窓疎石は、後醍醐天皇や足利尊氏にも崇敬された臨済宗の国師です。由緒ある寺でしたが、応仁の乱で荒廃し、武田信玄によって再興されています。実は、恵林寺も武田家の防衛拠点として要塞化されていたという説があります。近年、後背の恵林寺山に山城跡も発見されています。大名の菩提寺が要塞化されている例は多く見られます。静岡市の臨済寺は、今川氏の城塞寺院として知られます。福岡市の崇福寺も、黒田家の菩提寺ですが、城塞化されていました。大名の菩提寺ではないものの、石山本願寺や根来寺が要塞と変わらぬ構造を持っていたことも有名です。寺は、立地、敷地の広さ、建屋の堅固さ、そして聖域としての位置づけからして、要塞に適していたのでしょう。

快川禅師が三門で焼死したことは事実のようです。しかし、火もまた涼し、と遺偈を残し、燃える寺に入ったということに関しては、同時代の文献には見当たらず、どうやら後代の創作とする説が有力です。国師の称号まで受けた高僧が、遺偈において、至って表面的で幼稚な誤用をするとは思えません。では、誰が、この作り話を広めたのかと言えば、案の定、戦前の修身の国定教科書でした。直裁に言えば、軍部が死を恐れない兵士を作り上げるために利用したということになります。兵装の不十分さ、作戦の無謀さをごまかし、多くの命を奪った”大和魂”醸成のために使われたわけです。恐ろしいことに、軍部のねらいは見事に達成されました。闘争心や愛国心を否定するものではありません。ただ、それを悪用する全体主義は、おぞましい究極の悪としか言いようがありません。(写真出典:erinji.jp)

2026年8月22日土曜日

パリ大改造

パリ中心部の街並みの美しさは世界一だと思います。それは、放射状に伸びる広い主要道路と統一された建屋の高さとデザインによるところが大きいと言えます。19世紀後半に行われたパリ大改造の賜物であり、まさに都市計画のお手本です。同じ頃に改造されたバルセロナも見事な街並みを持ちますが、改造中のパリをも参考にしたようです。欧州では、産業革命とともに、都市部に労働者が大量に流れ込みます。キャパを超える人口を抱えることになった両都市も、道が狭く、汚く、風通しの悪い、実に不衛生で悲惨な街になっていったようです。だからこそ、思い切った大改造を実施できたとも言えます。そして、都市改造の大前提として、強力な政権と豊富な資金も欠かせません。

パリは、ナポレオン3世による第二帝政下にありました。バルセロナには、中央政府と対立するほど自主性の高いカタロニア自治政府が存在していました。また、両市は、産業革命と人口増によって潤沢な税収を誇っていたはずです。さらに、パリの場合、改造を主導したセーヌ県知事のジョルジュ・オスマンは、新たな土地収用法を導入します。”超過収用”です。街路の用地だけでなく、両側の開発用地も強制的に収用する手法です。一定の対価を払って土地を収用した後、道を整備し、高さとデザインに統一性を持たせた建物を建設し、そのうえで民間不動産業者に売却します。そこで得られた超過収益は、公共施設の建設などの費用に充てられました。明治期、日本でもこの超過収用が導入されましたが、制約が多く、うまくいかなかったようです。

パリとバルセロナには、街が放射状か格子状かという違いがあります。土地活用面では、バルセロナの格子状が効率的だと思います。ただ、中心部へのアクセスの良さでは、パリの放射状が圧倒的に優れています。背景には、労働者の街として急成長したバルセロナ、そして政治的中心地としてのパリという性格の違いがあります。放射状都市には、モニュメントが街の方々からよく見えるというメリットもあります。パリの街の美しさを生んでいる一因です。一方、敵の侵入を許しやすいというデメリットもあります。また、議論があるのは、中心部のロータリー交差点です。信号渋滞が起きないことはメリットですが、交通量が増えると、使いにくさや事故の多発という問題も生じます。ただ、近年、渋滞解消の面から、ロータリー交差点が再評価されているようです。

光と影があって、はじめて都市は成立するものだと思っています。都市の影の部分とは、市井の人々の生活を支え、いかがわしさも含めて庶民文化を育む雑多な街区のことです。大きな街には、霞ヶ関や丸の内だけでなく、新宿や渋谷などが必要だということです。そこから都市のダイナミズムが生まれると言っても過言ではありません。もちろん、都市計画の図面上に、街の影の部分が設計されることはありません。それは、パリ大改造でもあっても同じです。ところが、パリの場合、庶民が創り上げた街角のカフェ文化やマルシェがそれを代替し、他の街以上に、豊かな庶民文化を生み出してきました。パリのカフェは、文化都市パリを成立させている奇跡とも言えます。つまり、パリの街は、ジョルジュ・オスマンと庶民が創り上げた街だとも言えるのでしょう。

近年、温暖化や偏西風蛇行の影響から、夏の欧州は災害級の熱波に襲われています。山火事も多く発生しますが、都市部では死者も多く出ています。パリも、この夏、40度越えを記録し、少なからずの死者を出しました。欧州は乾燥しているので、日中の気温が高くても、室内や木陰では、あるいは日が落ちると爽やかに過ごすことができます。個人宅はもとより、ホテルですら、エアコンは必要ありません。しかし、気温40度のパリでは、鉛の屋根が熱せられて、エアコンなしの室内は地獄のような状態になるはずです。また、エアコンの普及率が低い理由としては、温暖化対策としての法規制もあり、パリの景観を守るために室外機の設置が制限されているためでもあります。パリ大改造は、パリを世界一美しい街にしましたが、今は、それが禍している面もあるわけです。(写真出典:blablablablog.com)

2026年8月20日木曜日

夢浮橋

 「夢浮橋」は、源氏物語最終巻のタイトルですが、人生や世の中のはかなさを表す言葉でもあります。また、後醍醐天皇が、生涯、手元から離さなかったという盆石も「夢浮橋」という銘でした。中国の産とされる長さ30cm弱の平たい石は、底面の全てが接地しているように見えますが、実は両端がわずかに接地するのみで宙に浮いています。底面には後醍醐天皇の筆とされる「夢ノ浮橋」の銘が書かれています。地に着いているようで浮いているという石は、後醍醐天皇の生涯を象徴しているようにも思えます。また、後醍醐天皇自身も、思うようにならない人生を、この石に投影していたのではないでしょうか。盆石「夢浮橋」は、後に徳川家康の手に渡り、現在は名古屋の徳川美術館に収蔵されています。

後醍醐天皇と言えば、鎌倉幕府を倒して天皇親政を行うものの、武士の反発を受けて失敗し、吉野に南朝を開いた天皇ということになります。江戸期から昭和にかけ、北朝・室町幕府の視点から長く酷評されてきた後醍醐天皇ですが、近年は研究が進み、優れた為政者にして文化人、また信心に厚く、温厚な人だったという評価が広まっているようです。後醍醐天皇が、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子として生まれたのが、1288年、両統迭立の時代でした。両統とは、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統を指します。後嵯峨上皇が後継を明確にせずに亡くなったため、両統が正統を主張して対立し、結果、鎌倉幕府が仲裁に入り、10年毎に両統から交互に天皇を立てるという両統迭立の時代に入ります。

妥協は不満しか生まないものです。両統迭立とは言え、自己の正統にこだわる両統の対立は続きます。その期間を後嵯峨上皇の崩御から南北朝の終焉までとすれば、120年間に渡ったことになります。対立は、大覚寺統のなかでも起こります。大覚寺統の後二条天皇が崩御し、持明院統の花園天皇が即位すると、皇太子に立つのは後二条天皇の第一皇子・邦良親王が順当でした。しかし、幼少、病弱であったため、後二条天皇の弟である後醍醐天皇が皇太子となります。後醍醐天皇が即位すると、皇太子は持明院統から出すことになりますが、後宇多上皇は、後二条天皇の在位が短かったことを理由に、大覚寺統から出すことを幕府に押し込み、邦良親王が立ちます。後宇多上皇は、この機を捉えて、大覚寺統がイニシアティブを取ることをねらったものと考えます。

その意図は、後醍醐天皇とも共有されていたのではないでしょうか。邦良親王が成人となり、皇子も生まれ、践祚の準備が整っても、後醍醐天皇は譲位しませんでした。大覚寺統の正統といえる邦良親王ではなく、自らの子孫を正統にすることに執着したとされます。後醍醐天皇は、時間を稼いで持明院統を追い落とすという後宇多上皇の作戦から着想を得て、自らの子孫の正統を確立しようとしたのかもしれません。あるいは、後宇多上皇の作戦を確実なものにするために、裏で上皇と結託し、あえて時間稼ぎをしたのかもしれません。上皇は、後醍醐天皇に譲位を迫っていたようですが、それも味方と敵を欺くための戦術だったとも考えられます。1324年、後醍醐天皇が倒幕を画策したという正中の変が起こります。幕府が調査した結果、後醍醐天皇は無罪とされます。

近年、正中の変は、後醍醐天皇追い落としをねらう邦良親王と持明院統の謀略だったという説が有力視されているようです。この時点まで、後醍醐天皇と幕府は良好な関係にあったとされます。翌々年、邦良親王が亡くなると、後醍醐天皇は、邦良親王の皇子と並んで自らの皇子をも皇太子候補とします。結果として、幕府は、両統迭立の考えから持明院統から皇太子(後の光厳天皇)を立てます。ここに至り、後醍醐天皇は倒幕の烽を上げることになります。緒戦に敗れた後醍醐天皇は隠岐に流されますが、脱出し、ついに鎌倉幕府を倒します。後醍醐天皇は、天皇親政を目指して幕府と戦った不屈の人とも言われますが、あくまでも大覚寺統、そして自らの子孫の正統化に執着していただけなのではないでしょうか。建武の新政は結果論であり、南朝開闢も天皇親政ではなく血筋にこそ動機があったものと思います。(写真出典:tokugawa-art-museum.jp)

2026年8月18日火曜日

アプレゲール

さすがに黒澤明の映画は面白いと思います。とりわけ戦後から1960年代にかけての映画は、文句なしに面白いと思います。「野良犬」(1949)も初期の傑作の一つです。日本初とされるドキュメンタリー・タッチの刑事映画は、その後の日本の犯罪映画のスタイルを方向づけたと言われます。黒澤は、ジョルジュ・シムノン風の映画を目指し、ドキュメンタリー・タッチの映画を撮ったとされます。それもそうなのでしょうが、敗戦後の荒廃した社会と若者の精神を描くためには、ドキュメンタリーの手法が最適だったのだと思います。既存の価値観の崩壊とともに、虚無的で刹那的な行動に走る若者たちは”アプレゲール”と呼ばれました。フランス語で”戦後”、あるいは”戦後派”を意味する言葉ですが、 野間宏の小説から広がったとされています。

映画は、ほとんどセットで撮影されたようですが、ラストなど一部はロケ、さらに手持ちカメラを使って闇市や街の実景も撮影されています。ドキュメンタリー・タッチを強調するためでもあったのでしょうが、、今となっては貴重な映像記録にもなっています。追われる犯人も、追う刑事も、共に戦地からの引揚者であり、混み合う列車の中で荷物を盗まれるという同じ経験をしています。黒澤は、とかく荒んだ若者扱いされるアプレゲールにも、世を悲観するだけの者と、復興に使命感を感じる者と、根源は同じでも二つの顔があると言いたかったのでしょう。また、ラスト・シーンでは、死闘の末、野原に倒れ込む二人の向こうを、子供たちが”故郷”を歌いながら歩いて行きます。二人のアプレゲールの先に日本の未来が見えるというわけです。

敗戦後、若者による無軌道とも言える事件が頻発します。それらはアプレゲール犯罪と呼ばれました。名高いものとしては、金閣寺放火事件、鉱工品貿易公団横領事件、そして光クラブ事件などがあります。犯人の若者たちは、少年時代、軍国主義体制下で徹底的な思想教育を受けた世代でした。敗戦によって、突然、自分を規定していた価値観から解放された若者たちは、自らを失っていったとも言えるのでしょう。光クラブは、現役東大生が起業した高利貸しでした。ハイパー・インフレ抑制のために打ち出された金融引締策が金詰まり状態を起こすなか、高利を謳って零細資金を集め、それ以上の高利で貸し出すヤミ金融は大成功します。現役東大生社長というブランドも信用を高めます。社長の山崎晃嗣は、特異な言動も注目を集め、一躍、時代の寵児となります。

裕福な名家に育った山崎は、東大入学後、学徒出陣で陸軍に入隊します。軍隊の理不尽さに戸惑い、敗戦後、物資の横流しなどに走る上官たちを見て衝撃を受けます。復学した山崎は、偏執的とも言える自己管理のもと勉学に励みます。そして、金詰まりという社会環境を見て、高利貸しを始めます。成功した山崎の独善的な合理主義、世間と他者を見下す態度、女性を道具と言い切る傲慢さはマスコミにとって格好のネタでした。しかし、金融当局もだまってはいませんでした。山崎は、愛人が税務署に流した情報によって、物価統制令違反で逮捕されます。不起訴処分となったものの、信用はがた落ちし、資金流失を起こした光クラブは破綻します。そして、山崎は、自虐的な遺書を残し、服毒自殺しています。最後まで、アプレゲールを演じきったとも言えそうです。

アプレゲール犯罪を犯した若者たちを、時代の犠牲者のように語る人たちがいます。確かに、突然生じた価値観の空白が、人々に与えた影響は計り知れないものだったことは理解できます。特に若者たちにとっては、生きていくために叩き込まれた規範が消失するわけですから、突然、荒野に放り出されたようなものだったと思います。しかしながら、犯罪および犯罪者は、いつの世も、本質的には変わらないようにも思えます。例えば、金融犯罪に限ってみても、今日に至るまで、山崎と同様の手口の犯罪者が登場し続けています。確かに敗戦後の社会の混乱や荒廃が、彼らを犯罪に走らせた面は否定できません。しかし、心に甘さを抱える一部の人たちは、軍国主義の時代でも、アプレゲールの時代でも、戦後民主主義の時代でも、あるいは昨今の情報革命の時代にあっても、犯罪に走る傾向にあるのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年8月16日日曜日

朱の国

根来塗
日本の神社の多くは朱色に塗られています。魔除け、あるいは防腐・防虫のためと言われます。ところが、神社の最高位にある伊勢神宮は素木(しらき)造りです。そもそも日本の神社は素木造りが基本でした。中国から仏教が伝来すると、寺院の朱塗りも伝わります。そして、神仏混淆が進むにつれて、神社も赤くなっていったのだそうです。古来、中国人が赤を好むのは、陰陽五行説に基づいており、魔除け、健康、幸運、繁栄などを象徴する色だからだとされます。国旗までも赤です。中国の赤は”紅”と呼ばれ、世界的には”Chinese Red” とされます。対して日本古来の赤は”朱”であり、”Japanese Vermilion”と呼ばれます。いずれも硫化水銀を含む辰砂という鉱物から作られます。

日本の朱は縄文時代から存在します。朱塗りの土器や籃胎漆器(漆塗りのカゴ)などが発掘されています。また、辰砂を砕いて顔料にしたものは”丹”と呼ばれます。奈良の枕詞である“青丹(あおに)よし”は、木々の緑(青)と建造物の丹(朱)のコントラストの美しさを表します。また、頭頂部が赤い鶴は丹頂鶴と呼ばれます。辰砂から作る朱は、我々のイメージする黄色味が強い赤色ではなく、真っ赤だったと聞きます。辰砂は貴重品であったことから、丹鉛と呼ばれる鉛系の朱が代用品として普及し、現在の朱になったようです。ちなみに、日本的な赤としては、他に深い赤褐色の”弁柄(べんがら)”があります。弁柄は、酸化鉄赤から作られます。江戸期にインドのベンガル地方から伝えられたので”べんがら”と呼ばれるようになったとされています。

弁柄は、海外で”Japan Red”とも呼ばれ、建造物だけでなく、陶磁器や漆器にも使われます。変わったところでは、近江八幡の名物”赤蒟蒻”にも使われています。国内の弁柄の産地としては、赤い町として知られる岡山県高梁市の備中吹屋が有名です。柿右衛門の赤も弁柄です。有田焼の酒井田柿右衛門の様式は、景徳鎮やマイセンにも影響を与えたとされます。濁手と呼ばれる白い地色に文様を描き、明るい色彩による上絵付けを施します。独特な色合いを出す赤の顔料は、弁柄を主に何年もの時間をかけて慎重に調合されると聞きます。昨年、柿右衛門窯に行きましたが、その素晴らしさに圧倒されました。また、黒内朱と呼ばれる輪島塗のお椀にも弁柄が使われます。黒と朱は相性が良く、特に漆器では見事なコントラストを生みます。まさに日本の美だと思います。

黒内朱も見事なのですが、溜塗で浮き出る朱も、実に魅力があります。溜塗は、朱の中塗りの上に、茶褐色で透明感のある”透き漆”を重ねる技法です。縁にうっすら朱が見えて、使い込むと朱を感じさせる透明感が出てきます。逆の色使いが根来塗になります。黒の下地に朱を上塗りします。日本の朱は、黒の下地があって、初めて成立する、という話を聞いたことがあります。根来は、まさにそれを地で行っています。根来塗は、和歌山県岩出の根来寺が発祥とされます。使い込むと朱が薄れ、黒漆が浮き出てきます。それが月日の重さを感じさせるような独特の風合を生みます。また、漆器の朱と言えば、堆朱も私のお気に入りです。中国伝来の技法ですが、中国では朱漆を幾重にも重ね塗りし、それを彫って紋様を刻みます。日本を代表する新潟の村上木彫堆朱は、木彫の上に朱漆を厚く塗ります。仙台にも堆朱がありますが、村上の分派と聞きます。

思えば、日本は”朱の国”と言ってもいいのかもしれません。縄文時代から朱を使ってきたことに加え、魏志倭人伝によれば、倭人は、全身に入れ墨をし、朱を塗っている、とされます。以降も、神聖なものに朱を塗り、美感の中心にも朱を据えてきたわけです。朱は、単なる色使いではなく、魔除けやエネルギーの象徴だったのでしょう。漢字の赤は、大と火を組み合わせた文字です。漢字が日本に伝わると、赤という文字には、もともと日本にあった”あか”という言葉が読みとして当てられます。”あか”は、明るい、(夜が)明ける、から生まれ、黒は、暗い、暮れる、が語源とされます。そう考えると、朱だけでなく、朱と黒の組合せこそが日本人の自然観の基本と言えるのかもしれません。(写真出典:sankei.com)

2026年8月14日金曜日

家作

老後の姿として憧れていたのが、古典落語に登場する「横丁のご隠居」です。武家や大店の先代も隠居と呼ばれますが、憧れていたのは、あくまでも横丁のご隠居です。恐らく奉公人として武家や商店で長く勤め上げた人なのだろうと想像します。人生経験も知識も豊富、知恵も小銭も持っており、横丁の連中の相談に乗ったり、揉め事の仲裁も行う頼れる老人です。世の中に多少は役立つ老人の理想像だと思います。一方、横丁には大家さんという人たちも登場します。横丁の外れや近所に住み、長屋の店子たちに家を貸し、賃料を受け取っています。「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」という言葉にあるとおり、濃密な関係にあったようです。

家作という言葉は、ほぼ死語になっていますが、人に貸して賃料を稼ぐために建てた家のことです。江戸の長屋から始まったと聞いたことがあります。長屋、あるいは棟割長屋は、平屋の木造アパートのような作りです。各戸は、おおむね6畳の部屋で、出入口は横丁に面していました。玄関と台所を兼ねた土間が1畳半、座敷が4畳半というごく狭い部屋でした。江戸庶民の多くは、この長屋に住んでいたわけです。江戸っ子は「宵越しの金はもたねぇ」とイキがりますが、宵越しの金など持てなかったというのが現実だったのでしょう。賃料は月400~600文、現代価値で8,000円〜15,000円程度だったと言われます。六軒長屋なら、大家の収入は月5~9万円ほど。職人の稼ぎ頭と言われた大工の月収が10~15万ですから、決して大儲けという商売ではなかったのでしょう。

明治になると、土地の売買が自由化され、民法も整備されたことなどから、不動産取引が活発になります。一方で、固定資産への課税も始まったことから、家作が多く建てられることになりました。当時の家主には、土地の払い下げを受けた士族が多かったようです。借家の建付けは、江戸期と変わらなかったようですが、その後、徐々に西洋化が進み、1910年(明治43年)には、上野に日本初となる5階建の木造アパート”上野倶楽部”も登場しています。そして1916年(大正5年)には、日本初の鉄筋コンクリートの集合住宅が、長崎県高島町の端島(軍艦島)に建てられます。また、借家も長屋ではなく戸建化が進んでいったようです。恐らく、この頃から、サラリーマンの副収入や老後の収入源としての家作が広がっていったものと思われます。

敗戦直後は、深刻な住宅不足となり、復興住宅と呼ばれる簡易な家が急増します。広い家の建築は法的に制限された時代でした。粗末な家作も多く建てられたのでしょう。インフレも相まって家作に関する家賃の統制も行われます。また、自宅を建てるための公的融資制度も整備されていきます。戦後復興から高度成長期を迎えると、農村の労働力が都市部へと大移動を始めます。官舎や社宅が増えていくわけですが、それは役所や大企業に限っての話であり、多くの労働者のためには木造2階建のアパートが多く建てられていきます。いずれも昭和を代表する街の光景になっていきます。いずれも狭い住空間のことですから、ちゃぶ台を置いて食事し、終われば片付けて布団を敷いて寝るという生活です。風呂もなかったことから、銭湯が繁昌した時代でもあります。

そういう意味では、木造2階建のアパートは、姿こそ違えど、江戸の長屋に似ていたと言えそうです。1960年代に入ると、水洗トイレ、風呂、ダイニングキッチン、ベランダを備えた公団住宅、いわゆる団地がブームとなり、入居抽選の倍率が高く、なかなか当たらなかったようです。また、70年代以降は”夢のマイホーム”という言葉も一般化します。逆に言えば、家作のニーズは引き続き高く、サラリーマン等が、老後の生活資金準備、孫子へ遺産の用意として活用していたものと思われます。その後、豊かな時代になると、木造アパートは賃貸マンションへと変わっていきます。社宅も姿を消していきます。少子化で市場は減少したものの、賃貸ニーズがなくなることはありません。競争が激しくなった市場に素人のサラリーマンが手を出せる時代ではなくなりました。一方で、サラリーマンが老後に備える投資の選択肢も広がってきたとも言えます。いずれにしても、家作という言葉は昭和とともに消えていったわけです。(写真出典:homes.co.jp)

2026年8月12日水曜日

秘仏

東京国立博物館で、弘法大師生誕1250年を記念する「空海と真言の名宝」展を見てきました。明らかに、今年の夏の最高最大の展覧会だと思います。真言宗最高の法会とされるのは、正月に東寺で行われる秘儀「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」です。かつては宮中で行われていた玉体安穏・鎮護国家等を祈念する法会です。後七日御修法を執り行うのは18寺院で構成される真言宗各派総大本山会、通称真言宗十八本山です。今回の展覧会は、この十八本山が中心となり、国宝15点を含む名宝の数々を出展しています。なかでも興味深かったのは秘仏7点の展示です。寺を訪れても拝めない秘仏の数々を間近に見ることができました。 

秘仏とは、一般には公開されていない仏像を指します。ただ、年に一度、あるいは数年、場合によっては数十年に一度、一般公開されることもあります。これは”ご開帳”と呼ばれ、多くの参拝客が押し寄せます。普段は拝めない仏様だけに、ありがたさも一段と増すわけです。20年毎に行われる伊勢神宮の式年遷宮では、その翌年がお陰参りと呼ばれ、御利益が最も大きいとされます。同じような仕組みです。そもそも信心の拠り所として安置される仏像を非公開にすることは、大きな矛盾だと思います。不思議なことに、非公開にすること、あるいは開帳時期の設定に関して、納得できる理由が語られることは、ほぼありません。まさか、たまに公開することで盛り上げようというわけでもないでしょう。希に保存のためにという説明もあります。これは理解できます。

一切開帳されない絶対秘仏もあります。善光寺の一光三尊阿弥陀如来像、東大寺二月堂の十一面観音像、浅草寺の聖観世音菩薩像などが有名です。善光寺のご本尊は、1400年前、天竺から百済経由で伝わった日本最古の仏像とされます。ご本尊が絶対秘仏とされたのは7世紀中葉のことであり、ご本尊のお告げによって秘仏化されたと伝わります。7年に一度開帳されますが、ご本尊ではなく、代わりとしての前立本尊が開帳されます。境内には、前立本尊から五色の紐で結ばれた回向柱が立てられ、触れると来世の幸せが約束されると言います。隅田川で網に掛っていたという浅草寺の聖観音像も、ご自身のお告げによって絶対秘仏とされています。東大寺の十一面観音像は、天竺の補陀落山から来た生身仏ゆえ、人目に触れさせることが出来ないほど尊いとされます。

聖徳太子の等身大立像とも伝えられる法隆寺夢殿の救世観音像も、かつては絶対秘仏でした。ところが、明治17年、日本の美術界に多大な貢献をしたアーネスト・フェノロサと岡倉天心が法隆寺を訪れ、救世観音像の開帳を要求します。寺側は、絶対秘仏ゆえ開帳できない、開帳すれば天変地異が起こり、寺は潰れるかもしれないと頑迷に抵抗します。フェノロサと天心は、文部省の調査委員という立場でもあったので、最終的には政府の命令書をもって強引に開帳させました。廃仏毀釈の苦い記憶が残る寺側も、政府命令には従わざるを得なかったのでしょう。ただ、救世観音像の開帳は、我が国美術史最大の発見ともなりました。優美な姿とアルカイック・スマイルをたたえる救世観音像は、飛鳥時代の最高傑作とされ、国宝に指定されています。

海外にも秘仏に類したものがあるようですが、多くは何らの理由で隠されたものだそうです。どうも、秘仏という発想は、日本に特有な信仰の形と言えそうです。秘仏が登場するのは平安期であり、神道の影響から生まれたという説があります。古来、日本の神々は姿を現わすものではありませんでした。6世紀に仏教と仏像が伝来すると、その影響を受けて、神道にもご神体という発想が生まれたようです。ただ、姿を見せないのが神だったので、ご神体も人目に触れないように神社の奥の奥に安置されます。今度は、これが、仏教に影響を及ぼし、秘仏が誕生したというわけです。神道と仏教の相互作用だとすれば、確かに秘仏は日本固有の信仰だと言えます。今回展覧会で公開された秘仏のなかに、国宝としては最小と言われる仁和寺の薬師如来坐像があります。その細工の見事さは驚異的であり、私でも秘仏にしたくなります。(写真出典:tnm.jp)

2026年8月10日月曜日

詠春拳

葉問
1980年にモロッコへ行った際のことです。夕方、タンジールの旧市街、いわゆるメディーナを散策しました。メディーナは迷路そのものであり、現地ガイドなしに散策などできません。アジア人が珍しかったのか、子供たちがゾロゾロとついてきます。子供たちは、アチョーと叫びながらカンフーの真似事を繰り返します。アジア人=中国人=カンフーだったわけです。もちろん、日本人と中国人の区別などつくわけもありません。私がカンフーの構えをすると、子供たちは”おーっ”と声をあげて後ずさりしました。ブルース・リーの影響がここまで及んでいるのかと驚いたものです。

「燃えよドラゴン(Enter the Dragon)」 が公開されたのは1973年のことです。完成作品としてはブルース・リー最後の映画となりました。85万ドルという低予算映画でしたが、世界的な大ヒットとなり、4億ドル(現在価値20億ドル)の興行収入をあげます。モロッコでも繰り返し上映されたのでしょう。映画としては、絵に書いたような低予算B級映画に過ぎませんが、これほどまでに大ヒットした要因については、諸説あります。わざとらしい演出が一般的だったアクション映画のなかで、銃を使わずに展開される格闘シーンが新鮮だったという説が有です。ハリウッド資本が入り、世界市場を視野に製作された点も大きかったと思います。プロットとしては、当時流行していたスパイ映画の要素を入れ、黒人映画の流行を先取りした面も有効だったのでしょう。

しかし、何と言っても、人々を熱狂させたのは、ブルース・リーが見せる本物の格闘技、そして強烈なストイシズムということになります。映画のなかでブルース・リーが披露している技は、彼が考案した截拳道(ジークンドー)という武術です。よくカンフー映画と言われますが、カンフー(功夫)とは、武術の一流派のことではありません。練習や鍛錬によって培われた技や能力を意味する言葉であり、転じて少林拳法や太極拳といった武術全般を指す言葉になったようです。ブルース・リーの截拳道は、師である葉問の詠春拳をより実戦的に体系化したものと言われます。詠春拳は、無駄のない動きが特徴であり、相手の力を利用することなどから近接戦に優れるとされます。我々がカンフーとしてイメージするのは、ほぼ詠春拳だと思っていいようです。

南派少林拳の流れを汲むと言われる詠春拳は、200年前の広東省あたりで、希代の女性拳法家・厳詠春が始めたとされます。19世紀、広東省佛山に詠春拳王と呼ばれた梁贊が現れます。そして弟子の一人・陳華順が、詠春拳初となる武館”杏濟堂”を開きます。ここで広東の詠春拳というイメージが確立されたわけです。陳華順の弟子の一人が葉問でした。裕福な家に育った葉問は、香港留学後、警察官になります。国民党政権下で出世した葉問ですが、中華人民共和国建国後は香港に逃れ、詠春拳の指導を始めます。葉問は、東洋哲学に根ざした伝統的な指導を、科学的な視点に基づく合理的な指導に変えます。これが奏功し、葉問派詠春拳は香港を代表する武術へと成長します。まさに詠春拳中興の祖と言えます。そして若きブルース・リーも入門するわけです。

葉問は、広東語でイップ・マン、普通語ではイェー・ウンと発音します。葉問を題材として生まれたのが、イップ・マン・シリーズです。世界的な大ヒット・シリーズとなりました。主演するドニー・イェンは、今やアジアを代表するトップ・スターと言えます。香港映画以外でも、スター・ウォーズのローグ・ワン、ジョン・ウィックのコンセクエンスにも出演しています。イップ・マン・シリーズは、キャラクター設定として葉問を使っていますが、ストーリーはオリジナルです。見せ場はドニー・イェンの詠春拳ということになります。実に見事な格闘シーンが展開されていますが、武術を見せるだけの映画には限界があります。ただ、詠春拳自体は、これからもアクション映画の基本スタイルとして、世界中で使われていくものと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年8月8日土曜日

京の喫茶店

マドラグ
修学旅行で京都へ行った際、今はなきJAZZ喫茶の名店「しぁんくれーる」を訪れた話は、先にも書きました。その日の夜、三条の「イノダコーヒ本店」にも行きました。閉店の時間が迫っており、走っていったのを覚えています。イノダコーヒ(コーヒーではありません)へ行った理由は、フォーク・シンガー高田渡の「コーヒー・ブルース」に登場するからです。私は、JAZZやR&B派だったので、フォーク・ソング、とりわけポップ化した吉田拓郎やかぐや姫などは毛嫌いしていました。ただ、岡林信広などのプロテスト・ソング系は気になるところがありました。高田渡を知ったのは「自衛隊に入ろう」(1969)からです。強烈な皮肉が込められた歌ですが、防衛庁が応援歌と勘違いし、またこの曲に触発されて入隊した人までいたようです。

「コーヒー・ブルース」は1971年の曲です。高田渡の曲調は、民青系の直截なプロテスト・ソングから、日々の生活を素朴に歌う平和主義的なものに変わっていました。自分も、民青系を嫌っていたので、好感が持てました。70年安保闘争が終わり、反政府というよりも反ファシズムという流れの中での平和主義はベターな選択だと思われました。「三条へ行かなくちゃ 三条堺町のイノダってコーヒー屋へね」で始まるコーヒー・ブルースは、好きな女の子とコーヒーを少しばかり、というたわいもない歌です。当時、ファシズムに対抗する一つの手段は、我々がチャランポランに生きることなのではないか、と思っていたこともあり、なんとなく染みる歌でした。イノダコーヒ本店へ向かう際、皆でコーヒー・ブルースを歌いながら走ったことを覚えています。

イノダコーヒは、1940年、画家でもあった猪田七郎がコーヒーの卸売を始め、1947年にコーヒー・ショップを開いています。イノダのコーヒーは、あらかじめ砂糖が入っていることが特徴です。私は、普段、コーヒーに砂糖は加えませんが、イノダに限っては、濃いコーヒーと甘味を楽しんでいます。また、いつの頃からか、イノダのモーニングが人気となりました。今は大行列状態が続きます。イノダに限らず、京都には歴史のある、あるいはレトロな喫茶店が多くあります。文化の街、学生の街らしい光景ですが、ちゃんと贔屓筋が付いているからこそ、という話でもあります。京都で人気のレトロな喫茶店と言えば、フランソワ、ソワレ、築地、あるいは六曜社などが知られています。もっと地味でレトロな喫茶店も多くあります。チロルなどもその一つでしょう。

私のお気に入りは、二条の「マドラグ」です。2011年開店ですから、比較的新しい店ということになります。しかし、前身は1950年代から半世紀続いた「喫茶セブン」であり、ご主人が亡くなったために休業中だった店を居抜きでマドラグは開店しています。1950年代のモダニズムを強く感じさせる店内は、私にとって居心地の良さNo.1です。ちなみに、店名はブリジット・バルドーがサントロペに持っていた別荘の名前から付けたようです。京都へ行った際には寄せてもらっていたのですが、ある時、困ったことが起きました。閉店した洋食店コロナの名物・玉子サンドイッチを継承することになったのです。確かに、分厚くてフワフワのサンドイッチは絶品ですが、これを目当てに人が押し寄せるようになったのです。その後も何度か行ってみましたが、行列ができており、まったく入れません。玉子サンドイッチは、別な形で継承して欲しかったと思います。

最近の画一化された”カフェ”の流行には馴染めません。スターバックスは、家でも職場でもない第三の(居心地の良い)場所を目指していましたが、今は混み合うスーパーマーケットのような場所になっています。ただ、街でよく見かけるチェーンのカフェに入ることはあります。それはコーヒーの味や店の雰囲気が目当てではなく、ひたすらタバコを吸うためです。長居する人が多いなか、私はコーヒーを飲んで、タバコを2~3本吸ったら店を出ます。かつての喫茶店は、味や雰囲気に個性があり、それを共有することで文化の象徴的存在となっていました。全国の街には、いまだにそういう喫茶店が残っているのでしょう。東京にも、しぶとく残っています。しかし、文化としての喫茶店が最も多く残っているのが京都だと思います。(写真出典:kyoto.graphic.co.jp)

2026年8月6日木曜日

酷暑

エジプトのアブシンベル神殿へ行った際、50度超えという気温を経験しました。そのレベルになると、直射日光で肌が軽い火傷になる恐れもあるので、露出は禁物です。ただ湿度がゼロに近いので、日陰は涼しいくらいでした。あらためて、日光と砂を避けるベドウィン族の衣装の合理性に感心しました。一方、パキスタンのカラチでは、気温40度超え、かつ湿度ほぼ100%という気候も経験しました。冷房の効いた室内から外に出ると、コンクリートの塊が両肩に被さるような印象を受けました。海辺はマシだろうと思いましたが、アラビア海からはもっと重苦しい熱風が吹きつけていました。気象庁は、今年から、40度超えの日を「酷暑日」と定めました。 その途端、過去に例がないほど40度超えが続出しています。

フィリップ・K・ディックの小説に、気温100度になった未来が描かれたものがありました。人が外へ出る時には、携帯クーラーを背負います。ほぼ宇宙服ということなのでしょう。近年、屋外で作業する人たちが、電動ファンの付いた作業服を着用しています。酷暑日といい、ファン付作業着といい、どんどんフィリップ・K・ディックの小説に近づいているように思えます。地震に襲われた熊本が酷暑日を記録した日、他の九州各地でも酷暑日が発生しました。そのなかに佐賀市も含まれていました。佐賀市の夏と言えば、松本清張原作・野村芳太郎監督・橋本忍脚本の傑作「張込み」(1958)を思い出します。高温多湿な日本の夏を最も強く感じさせる映画だったと思います。日本の白黒映画は、雨の描き方がうまいと思うのですが、夏の暑さも同様に見事です。

もちろん、アフリカや東南アジアで撮った映画は暑さが伝わります。アメリカであっても「狼たちの午後」などは印象に残っています。原題は”Dog Day Afternoon”であり、Dog Dayは暑い日を指します。しかし、そこで描かれている暑さは、高温多湿な日本の夏とは大いに異なります。「張込み」は、日本的な夏が見事に描かれています。東京・深川で発生した強盗殺人事の犯人が逃走し、佐賀に住む元恋人を訪ねると踏んだ刑事二人が張込みに入ります。原作は、30ページほどの短編ですが、脚本の橋本忍が緊張感あふれるドラマに仕立てています。映画は、刑事たちが横浜駅から佐賀へ向かう夜行列車の旅から始まります。横浜・佐賀間1,200km、蒸気機関車では、一昼夜以上かかる旅です。暑くて混み合う車内の描写だけで、いきなり暑苦しさが伝わります。

ロケは、佐賀市を中心に行われています。戦時中、佐賀市も空襲を受けています。ただ、徹底的な灯火管制が奏功し、目標を見失った米軍は爆弾を田んぼのなかに投下します。結果、ほぼ被害のなかった佐賀市は、撮影が行われた昭和30年代でも城下町の風情をよく残しています。佐賀市の最高気温は、当時でも35~36度まで達していたようです。演技、演出、カメラワークもうだるような暑さを見事に伝えます。旅館での張込みという動きの少ないプロットが、暑さをより際立たせている面もあります。それどころか、短く動きの少ない原作を、緊張感あふれる映画に仕立てあげるために、暑い夏が効果的に使われているとも言えそうです。夕立やお祭も含めて、暑い夏は映画としてのテンションと奥行を出すためのサブ・プロットだったと言ってもいいのでしょう。

サスペンスながら、テーマがしっかりしていることも特徴的です。高度成長に突入した都市と寂れていく地方という構図、農村から上京した労働者の悲惨な就労環境、といった当時の社会現象が端的に表現されています。また、時代とともに変化しつつあった女性の社会的地位や女性の幸せに関する目線も大きな要素になっています。短編とは言え、さすが社会派松本清張だと思います。被疑者の元恋人は、相当年上の銀行員と結婚し、ほぼ女中と変わらぬ日々を送っています。被疑者と温泉地で待ち合わせた元恋人は、まるで別人かのように感情を露わにします。しかし、数時間後、被疑者は張り込みを続けてきた刑事たちに逮捕されます。刑事のモノローグ「この女は数時間の命を燃やしたに過ぎなかった」は名セリフとされているようです。暑い夏はここにもあったわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年8月4日火曜日

冷やし中華

冷やし中華は好きなのですが、現役の頃、ワン・シーズンに食べる機会は1~2回程度でした。というのも、サラリーマンのランチとしては、中途半端だからです。ラーメンよりカロリーは低めで、しかもラーメンのように定番のライス、チャーハン、餃子といったお共がありません。大盛りにしても、満足感は薄めだと思います。ただ、もう働いていないこと、猛暑が続くこと、何より年老いたこともあり、ここ2~3年は、昼食に自分で作って食べるようになりました。冷やし中華は、色んな具材が乗っているから美味しいという人がいます。馬鹿なことを言っちゃいけません。冷やし中華は、麺とタレが勝負です。具材なんか箸休め程度だと思います。私は、ゴルフ場の昼食で冷やし中華を注文するとき、具材は別盛りにしてもらっています。

と言いながらも、具材も楽しめ、ボリュームもランチとしては十分な冷やし中華もあります。神保町の揚子江菜館の涼拌麺 です。具材は、なんと10種類にのぼり、もはや立派な料理です。揚子江菜館は、冷やし中華発祥の店とされています。2代目オーナーが、1933年、ざるそばを参考に開発したとされます。一方、仙台の龍亭が1937年に発売した涼拌麺を嚆矢とする説もあります。ただ、いずれも涼拌麺と称していることからしても、中国が発祥と考えていいのでしょう。中華圏の涼拌麺は、常温に戻した麺に、胡麻ベースの芝麻醤や落花生ベースの花生醤を掛けて食べるようです。ということは、冷やし中華はゴマだれがルーツということになりそうですが、上海など南方では酢も使っていたようです。揚子江菜館も龍亭も当初は醤油だれだったと聞きます。

ただ、日本の冷やし中華は、涼拌麺とは異なる進化を遂げた日本独自の中華料理ではあることは間違いないようです。その証拠として、中華圏では、冷やし中華を”日式涼麺”、あるいは”日式冷中華麺”と呼ぶようです。ちなみに、関西では冷やし中華を冷麺と呼びます。韓国料理の冷麺も同じ呼び方ですから、ややこしいところがあります。京都の老舗中華料理店である中華のサカイが、1939年にゴマだれをかけた冷やし中華を冷麺として発売します。これが人気を博したことから冷麺という呼称が広まったとされます。さて、冷やし中華と言えば、醤油だれか、ゴマだれか、という議論もあります。好きずきですが、私は醤油だれ専門です。ゴマだれも美味しいと思いますが、さっぱりさが身上の冷やし中華ではなく、別な濃厚系中華料理になってしまいます。

冷やし中華ファンは、麺にこだわる人が多いように思います。冷やし中華で使う中華麺は、普通のラーメンで使うものよりも卵の割合を増やしたものになっています。いわゆる卵麺ですが、コシが強く伸びにくいという特徴があります。さらに茹でた麺を氷水でしっかり冷やすことで、弾力、ツルッとした食感も生まれます。冷やし中華の人気店では、タレもさることながら、麺がまったく異なります。その食感を家で再現することは難しいと思います。近所のスーパーで卵麺にお目に掛ることはほぼありませんが、中華街やネットで生麺を入手できれば、再現性が高くなります。もちろん、卵麺は、ラーメンの麺としても使います。香港の細い乾麺”全蛋麺”も卵麺として有名です。これはこれで美味しいのですが、冷やし中華には向きません。

冷やし中華ファンの間では、麺、タレ、具材に関するこだわりの議論が多いものですが、1985年、それらがぶっ飛ぶような出来事が札幌で起こります。札幌グランドホテルが、ビアホールのメニューとしてラーメンサラダを発売したのです。野菜の多い冷やし中華という見方も出来ますが、中華だれがドレッシングに進化したことで、日本式中華料理という枠組みを超え、ある意味、ユニバーサルな料理になったわけです。私は、市販の冷やし中華だれをベースに、レモン、ポン酢、ナンプラー、ガラムマサラ等を加えて楽しんでいます。冷やし中華の具材の基本は、キュウリ、叉焼(ないしはハム)、錦糸玉子だと思いますが、サラダだと思えば何でもありです。ただ、ラーメンサラダが、いまだ北海道名物に留まっていることは、やや意外だと思っています。(写真出典:sirogohan.com)

2026年8月2日日曜日

「急に具合が悪くなる」

監督:濱口竜介      2026年日本・フランス・ベルギー・ドイツ

☆☆☆☆ー

いまや日本を代表する映画監督となった濱口竜介の新作です。介護の現場を変えようと奮闘する施設長のフランス人女性とガンで余命宣告を受けた舞台演出家の日本人女性の交流が描かれます。映画は、一部が日本、大半はパリを舞台とし、フランス語と日本語で進行されます。畳みかけるようにドラマが展開するのではなく、スケッチを編んでいくような構成になっています。それが196分続くわけですからダレて当然だと思うのですが、決して観客を飽きさせることはありません。前の作品でも同じ印象を持ちましたが、これが濱口監督の独特な才能、あるいは感性なのだと思います。主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒は、カンヌ国際映画祭で女優賞を共同受賞していますが、作品へのリスペクトあってのことなのでしょう。

原作は、ガンで亡くなった哲学者の宮野真生子が、文化人類学者の磯野真穂と交わした往復書簡集「急に具合が悪くなる」(2019)です。二人の書簡に感銘を受けた監督は、映画に仕立てるために大胆な翻案を行ったわけです。恐らく書簡で語られている内容はそのままに、映画としてのプロットやフレーム建てを考案したのでしょうが、創作と言っていい作業であり、その才能には感心させられます。ことにパリと日本、フランス人と日本人という着想が、書簡集を映画として成立させるうえで、キーとなるフレームだったと思われます。介護施設内での出来事、介護手法であるユマニチュード、劇中劇、重度の自閉症児といったモティーフも映画を成立させるために組み込まれています。原作が書簡集だけに、会話だけの映画になることを回避するための工夫だと思います。

決してダレることはないものの、それらのモティーフと会話の重層的な展開、そしてテーマへの収斂が起きないことが、映画にやや冗漫な印象を与えています。テーマへの収斂は、意図的に回避されていると思います。テーマは、生と死、希望と絶望、必然と偶然、それらに基づく人生観ということになるのだろうと思います。しかし、押しつけがましい結論のようなものは提示されません。原作も映画も、判断は読者と観客に委ねられているのでしょう。長尺の映画がダレない理由は、ここにもあります。主人公二人の葛藤が、観客一人ひとりの答えを求めてくるからです。ゆえに演技や演出は、適度な自然主義を保つ必要があり、おのずと映画は長尺なものにならざるを得ません。こうした観客の巻き込み方こそ濱口映画の特徴なのだろうと思います。

ユマニチュードは、テーマに深く関わるモティーフです。良いところに目を付けたものです。ユマニチュードは、人間らしさを尊重する認知症ケアの技法です。1979年、フランスで開発されています。日本では、2012年に導入され、現在はかなり普及しているようです。ユマニチュードのねらいとするところもさることながら、それを半ば強要される看護師たちの反応がドラマを作っています。主人公が展開する資本主義論とも重なってきます。結論に関しては観客に委ねられていると書きましたが、ユマニチュードの施設への導入に関しては、ポジティブにシナリオが展開します。これがテーマの全てではないものの、結果としては映画の縦糸として機能しているように思います。これも書簡集を映画化する際の大事な要素になっているわけです。

濱口竜介監督は、アカデミー賞と世界三大国際映画祭のすべてで主要な賞を獲得しています。日本の映画監督も、ついにここまで来たな、という印象があります。もちろん、黒澤明はじめ多くの監督の作品が海外で評価されてきました。また、是枝裕和など、海外でメガホンを取った監督もいます。ただ、濱口竜介は、諸先輩たちと異なり、初めから国際的な舞台のメインストリームで、そのディレクティングのレベルの高さが評価されています。明らかに次元が変わったのだと思います。ただ、その評価は、諸先輩たちが刻んできた歴史の上にあることも事実だと思います。スポーツの世界でも同じですが、世界で活躍する選手は突然変異ではなく、これまでの積み上げの上に咲いた花なのだと思います。(写真出典:eiga.com)

「ヒンド・ラジャブの声」