2026年8月24日月曜日

心頭滅却

恵林寺三門
子供時分、私が暑いの寒いのと言うと、父親から「えらい坊さんが”心頭滅却すれば火もまた涼し”と言っている」 と聞かされたものです。漢字も意味も分からないものの、要は我慢しろということなのだと思っていました。この言葉は、恵林寺の快川紹喜(かいせん じょうき)禅師の言葉として知られます。恵林寺は、甲斐武田氏の菩提寺でした。快川禅師の言葉の原典は、唐代の詩人・杜荀鶴の「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」という一文だとされます。意味するところは、禅を行うに山水など必要なく、無念無想の境地に入れば、環境に惑わされることもない、ということなのでしょう。それが、誤用されるに至った経緯には、快川紹喜禅師の死に様が関係しています。

1582年、織田信長は甲斐の武田勝頼を攻めます。いわゆる甲州征伐です。もともと劣勢だった武田軍は、臣下の離反も相次ぎ、追い詰められた勝頼はじめ武田一族は自害します。戦国随一の強さを誇った甲斐武田家は、ここに滅びます。信長軍は、執拗に残党狩りを行います。恵林寺にも武田方の武将である佐々木次郎こと六角義定が逃げ込みます。恵林寺を囲んだ信長軍は、佐々木次郎の引き渡しを求めます。快川禅師は、これを拒否します。武田家の菩提寺である以上に、聖域としての寺という考えからなのでしょう。引渡しを拒絶された織田軍は、寺を焼討ちにします。その際、快川禅師は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い残して、火の中に入り、焼死したとされます。武田家への殉死ではなく、寺社に火をかける信長の非道さへの抗議だったようにも思えます。

神社仏閣が聖域という認識は古くからあり、鳥居などで結界が形成されていることからも分かります。それが統治権力の及ばない、いわゆるアジール化するのは、平安末期、武士が台頭してきたあたりからなのでしょう。それも、単に宗教的な意味合いだけでなく、寺社が僧兵で武装したことも大きな要因だったと思われます。信長が、比叡山延暦寺や石山本願寺を燃やしたのは、それが軍事拠点だったからであり、宗教的背景はなかったとされます。信長以前にも、後白河法皇が比叡山に攻め入ろうとしましたし、平家は、圓城寺に次いで南都焼討まで行っています。南都焼討には過失説もありますが、合戦の通常戦術とも言えます。いずれにせよ、東大寺・興福寺などが燃えました。さらに言えば、圓城寺と延暦寺の抗争によって、圓城寺は幾度も燃やされています。

恵林寺は、1330年、甲斐国の守護職が夢窓疎石を招いて開山しています。夢窓疎石は、後醍醐天皇や足利尊氏にも崇敬された臨済宗の国師です。由緒ある寺でしたが、応仁の乱で荒廃し、武田信玄によって再興されています。実は、恵林寺も武田家の防衛拠点として要塞化されていたという説があります。近年、後背の恵林寺山に山城跡も発見されています。大名の菩提寺が要塞化されている例は多く見られます。静岡市の臨済寺は、今川氏の城塞寺院として知られます。福岡市の崇福寺も、黒田家の菩提寺ですが、城塞化されていました。大名の菩提寺ではないものの、石山本願寺や根来寺が要塞と変わらぬ構造を持っていたことも有名です。寺は、立地、敷地の広さ、建屋の堅固さ、そして聖域としての位置づけからして、要塞に適していたのでしょう。

快川禅師が三門で焼死したことは事実のようです。しかし、火もまた涼し、と遺偈を残し、燃える寺に入ったということに関しては、同時代の文献には見当たらず、どうやら後代の創作とする説が有力です。国師の称号まで受けた高僧が、遺偈において、至って表面的で幼稚な誤用をするとは思えません。では、誰が、この作り話を広めたのかと言えば、案の定、戦前の修身の国定教科書でした。直裁に言えば、軍部が死を恐れない兵士を作り上げるために利用したということになります。兵装の不十分さ、作戦の無謀さをごまかし、多くの命を奪った”大和魂”醸成のために使われたわけです。恐ろしいことに、軍部のねらいは見事に達成されました。闘争心や愛国心を否定するものではありません。ただ、それを悪用する全体主義は、おぞましい究極の悪としか言いようがありません。(写真出典:erinji.jp)

心頭滅却