2026年7月31日金曜日

トウモロコシ

今年は、枝豆とトウモロコシの出来が良い、と聞いたので、買って食べて見ました。枝豆については、新潟の黒埼茶豆に限ると思っているので、通常、他のものを買うことはありません。今回は群馬のブランド品を試しました。やはり、茶豆にはかなわないものの、とても美味しくて驚きました。安価なものも試してみましたが、残念な代物でした。トウモロコシは、茨城産のブランドものを買い、レンジで蒸し焼きにして食べました。これが、とても甘味が強く、青森のブランド”嶽きみ”に迫る美味しさでした。ならば、と思い、1本99円の安売り品も試してみましたが、これも十分に甘くて驚きました。確かに今年は当たり年かもしれません。

野菜は何でもそうでしょうが、採れ立てが一番美味しいに決まっています。トウモロコシも、朝もぎが最も甘いわけです。それが、収穫後、数日経っても美味しいわけですから、なかなかのものです。トウモロコシは、中南米原産とされ、15世紀末、コロンブスが欧州に伝えました。日本には16世紀後半に伝来したとされます。海外(唐)から入ってきた諸越に似た植物ということで、当初は唐諸越と表記されたようです。諸越は、アフリカ原産の穀物であり、中国では高粱(コーリャン)、世界的にはソルガムと呼ばれます。その後、唐諸越は、粒が揃って並ぶ様から玉の字をあてて玉蜀黍と表記されるようになりました。日本でトウモロコシの栽培が本格化したのは明治期のことでした。アメリカから早生品種が輸入され、北海道開拓使が栽培を始めています。

世界の穀物の生産量は増加を続けており、2021年には30億トンに達しています。うちトウモロコシは12億トンを占め、各8億トン弱の米と小麦をはるかに超えています。トウモロコシの6割は家畜の飼料になります。食用は、わずか13%です。他はエタノール等の燃料や工業用ということになります。生産国としては、アメリカと中国が群を抜いており、世界の半分を占めています。食用としての消費量を見れば、原産国メキシコがトップです。主食であるトルティーヤの原料であること、栽培が気候風土に適していることなどが理由なのでしょう。食用としてのトウモロコシは、トルティーヤがそうであるように、圧倒的に粉食が主流です。粒食が中心である日本は、極めて珍しい国ということになります。米の粒食を主食にしている影響なのかもしれません。

粒食中心ゆえ、日本のトウモロコシは、どんどん甘く品種改良されてきました。札幌名物の焼きトウモロコシは、醤油・味醂・砂糖などで作った甘辛いタレが魅力です。焼きトウモロコシは、1885年(明治18年)、平岸の農家・重延テイが、家計の足しにしようと、大通りで売ったのが始まりとされます。当時の品種は今ほど甘くなかったので、甘辛いタレを塗って焼いたのでしょう。近年の糖度ランキングを見ると、”おおもの”、”きみひめ”が20%と、メロン・マンゴー並みです。さらに”ピュアホワイト”、”サニーショコラ”、”甘々娘”等が続きます。弘前の”嶽きみ”に多い品種は”恵味”と聞きますが、昼夜の寒暖差の激しい岩木山麓という栽培地の特性がさらに甘味を増すのだそうです。十年ほど前、新宿の伊勢丹が、1本千円で嶽きみを販売したことが話題になりました。

ものづくり大国を自称する日本の工業界では、小さいものはより小さく、精密なものはより精密に、と進化してきました。農産物も同じです。甘いものはより甘くなっていきます。もちろん、価格は高くなっていきます。情報革命と流通の進化が、そうした傾向を助長しているように思います。日本の工業界には「いいものを作れば、必ず売れる」という神話があります。農業でも同じかもしれません。しかし、この神話には、多少の疑問を感じます。高価で入手困難といった高級農産物があってもいいとは思いますが、全ての生産者がそれを指向するならば、日本の農業はおかしなことになります。基本とすべき思想は、あくまでも「良いものを安く」だと思います。トウモロコシの甘みが弱いと思ったら、甘辛いタレを塗って焼けばいいわけです。(写真出典:hugkum.sho.jp)

2026年7月29日水曜日

サン・ピエトロ大聖堂

世界最大のキリスト教寺院は、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂です。床面接は2万3,000㎡と東京ドームの半分程度であり、総面積は倍の約5万㎡です。高さならば、イエスの塔が完成したサグラダ・ファミリアの172.5mがトップで、ビルの40階分くらいに相当します。ちなみに、世界最大のモスクは、メッカのマスジド・ハラームであり、床面積は東京ドーム8個分、延床面積は24個分となります。世界のキリスト教徒は24億人ですが、カソリックに限れば14億人、イスラム教は19億人となります。本山の大きさは信者数に応じるようにも思いますが、マスジド・ハラームは、人生で一度のハッジ(巡礼)が義務づけられているという事情もあります。なお、仏教も世界宗教ですが、総本山的存在はありません。大寺院としては、ボロブドゥールやアンコールワットの名前が挙がります。

サン・ピエトロ大聖堂を訪れて驚くのは、参拝客の数の多さと熱量の高さ、そして国籍・民族の多様さです。さすがカソリックの総本山、世界中から参拝者があとを絶たないわけです。マスジド・ハラームは、さらにすごいのでしょう。サン・ピエトロ大聖堂は、キリストの最初の弟子である聖ペテロ(サン・ピエトロ)の墓の上に築かれたとされます。幾度かの発掘調査が行われ、地下深くにある遺跡は聖ペテロの墓でほぼ間違いないだろうとされています。聖ペテロの時代、バチカンは、ローマ郊外の丘に過ぎなかったようです。大聖堂の始まりとなる教会堂は、4世紀、皇帝コンスタンティヌス1世によって建てられています。現在の大聖堂は、16世紀に約120年をかけて建設されています。ルネサンス期でもあり、ラファエロやミケランジェロも参加しています。

例えば、メッカのマスジド・ハラームは、アッラーが預言者イブラーヒーム(アブラハム)に示した場所、ムハンマドがクラーンで指示した場所に建ちます。ところが、キリスト教の総本山は、キリストが指示したわけでもなく、キリストの生死にゆかりがあるわけでもないローマに、それもその外れのバチカンにあります。不思議な話だと思っていました。もちろん、古代のローマは、地中海世界を征したローマ帝国が”カプト・ムンディ(世界の首都)”と呼んだ大都市です。これが現代の企業であれば、本社がローマに置かれても何の不思議もありません。しかし、宗教の世界において、大都市であることは優先順位の一番ではないと思います。第一使徒の墓があることは大きな理由にはなり得ますが、それが最優先とは考えにくいと思うわけです。

ローマという都市ではなく、教皇がいる場所ということが大事なのかもしれません。早い段階から、ローマ司教はペテロの後継者として特別な存在だったようですが、全司教のトップとして認められていたわけではありません。ローマの首都がコンスタンティノープルに移ると、いずれの司教が上かという議論もあったようです。5世紀になってはじめて、ペテロの後継者たるローマ教皇の権威は全教会に及ぶという認識が公的に確認されたようです。ローマ教皇の紋章として知られる鍵の由来は、マタイの福音書にあるペテロへのイエスの言葉「わたしは天の国の鍵をあなたに授ける」だと聞きます。ペテロの後継者ゆえローマ司教が教皇であり、総本山はペテロの墓の上に置かれる、というわけです。ただ、ペテロではなくイエスの墓が優先されるべきではないかと思います。

本来、エルサレムの聖墳墓教会こそ総本山にふさわしいと思います。聖墳墓教会は、ゴルゴタの丘、イエスの墓の上に建っているとされます。キリスト教の最も重要な聖地です。しかし、長くイスラム教徒が支配する地域にあり、総本山としては都合が悪かったということなのでしょう。エルサレムには、ユダヤ教の”嘆きの壁”、キリスト教の”聖墳墓教会”、イスラム教の”岩のドーム”という三大一神教の最重要聖地が存在します。今も昔も複雑な土地です。カソリックが、ペテロに準拠して教皇と総本山をローマに置いたことは、現実的な選択だったとも言えそうです。なお、ローマ司教の司教座が置かれるカテドラルは、今もサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂です。ローマのラテラノ大聖堂は、”全カトリック教会の母なる聖堂”と呼ばれ、サン・ピエトロ大聖堂よりも格上とされます。サン・ピエトロ大聖堂は、宗教的である以上にカソリック教会の政治的な中心地ということなのでしょう。(写真出典:nta.co.jp)

2026年7月27日月曜日

清洲越え

河文
名古屋に赴任して、初めて”三英傑”という言葉を聞きました。もちろん、信長・秀吉・家康のことです。歴史を築いた三人の武将がすべて愛知県出身であることは県民の自慢です。ただ、三英傑という呼び方は全国的ではありません。それを名古屋の人に告げると、信じられないという顔をします。名古屋最大の祭は、1955年に始まった"名古屋まつり"ですが、地元での愛称は”三英傑まつり”です。パレードの目玉が郷土英傑行列だからです。三英傑同様、名古屋で初めて聞いた言葉に”清州越え”があります。家康の清州城から名古屋城への移転は”清州越し”とされますが、同道した家臣、僧侶、町人たちは”清州越え”と呼ばれます。清州越しを経験した家は、名古屋城開闢以来の名家として特別なリスペクトを集めています。

京都へ向かう新幹線が名古屋駅を出ると、ほどなく右手に清州城が見えます。これは1989年にコンクリートで再現された城です。清州城は、15世紀初頭、尾張守護の斯波義重によって築城され、後に尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城となります。長く信長の居城だったことでも知られます。また、信長が本能寺の変に倒れると、後継者問題を議論する清州会議が開かれたことでも知られます。関ケ原の戦い以降、家康の九男・徳川義直が城主となり、豊臣方への防御拠点になります。しかし、庄内川下流にあって水害が多く、城も小ぶりであったことから、家康は熱田台地での築城を命じます。清州城は解体され、名古屋城の一部として再利用されました。1612~1616年にかけて、清州の城下町も、町ごと名古屋へ移転することになりました。

清洲越えと言えば、伊藤次郎左衛門のいとう呉服店(後の松坂屋)、竹中藤兵衛正高の竹中工務店、水野太郎左衛門の鍋屋、河内屋文左衛門の河文、今は存在しませんが渡辺忠左衛門の飛脚問屋などが有名です。茶道の町・名古屋には古い和菓子屋が多くあります。しかし、その多くは、名古屋城開闢後に京都等から来ており、清洲越えではありません。400年の歴史を持つ両国屋是清も元は大阪です。実は、ネットで探しても清洲越えの一覧のようなものは見つかりません。これも名古屋らしいな、と思います。創業の古い店がザラに存在するからでもありますが、町の人たちが心得ていれば十分といった傾向もあります。美味しい名古屋メシを全国に広めるべきでしょう、と財界の重鎮に話したところ、なぜそんなことをする必要があるのか、と返されたことがあります。

 名古屋城下の商人町は碁盤の目に区割りされていました。その区画には清洲越えが多く店を構えており、”碁盤割”と呼ばれていたようです。どれだけ商売が繁盛していても、碁盤割以外は格下と見なされていたと聞きます。岡谷鋼機は、名古屋商人を代表する古い企業ですが、初代・岡谷總助宗治は鉄砲町で創業しており、碁盤割とは呼ばれません。名古屋は、大空襲を受け、名古屋城も焼失しました。戦後、大胆な都市改造が行われ、歴史ある町名の多くが失われました。例えば、清洲越えの魚屋だった料亭・河文のある界隈は”魚棚(うぉんたな)”という町だったようです。老人は、今もそう呼びます。古い町名が消えることで、町の記憶も失われる傾向があります。例えば、金沢は江戸期の町名復活を行い、成功しています。名古屋もやるべきだと思います。

バブル崩壊は、日本経済に深い爪痕を残しました。名古屋では土地バブルが発生しなかったので影響は限定的であり、それが、名古屋奇跡の十年と呼ばれる好景気につながります。地上げなどが起こらなかったのは、今も先祖代々の土地で商売し、暮らしている家族が、土地を売らなかったからだと聞きました。名古屋の保守性がバブルを防いだわけです。名古屋で生まれ育った人は、名古屋の大学を卒業して家業を継ぐ、あるいは名古屋の企業に就職することを良しとする傾向があります。トヨタはじめ輸出で大成功している企業が多いのですが、決して愛知県から出ていきません。従業員も海外駐在を望まないと聞きます。京都企業は、京都で成功すると、東京ではなく、いきなり世界を目指す傾向があります。その違いは、尾張の農民文化に根ざすとも言われます。名古屋は、日本で最も保守的な街かもしれません。(写真出典:online.bunka.go.jp)

2026年7月25日土曜日

「大統領のケーキ」

監督: ハサン・ハディ      2025年イラク・カタール・アメリカ

☆☆☆+

1990年、サッダーム・フセイン率いるイラクがクウェートに侵攻すると、アメリカ主導の多国籍軍がイラク空爆を開始します。湾岸戦争の始まりです。映画の舞台となったイラク南東部の湿地帯アフワールも、のどかな農村風景に米軍機が飛ぶ日が続きます。祖母と暮らす9歳の少女ラミアは、学校でフセイン大統領の誕生日を祝うケーキを焼く係になります。持病を抱え、経済的にも行き詰った祖母は、ラミアを手放すことにします。それを知ったラミアは逃亡し、友人とケーキの材料集めに奔走します。ラフながら勢いのある映像、子役も含めていい味を出しているキャスト、全編に流れる民族音楽が見事だと思います。演出は自然主義的ですが、それを超える監督の熱意と勢いを感じました。

しかし、政治性という観点から見れば、ややフォーカスが甘いように感じました。ヨシで作った浮島の上で、ヨシで作った家に暮らすアフワールの人々の暮らしは、古代から何一つ変わっていないように見えます。貧困にあえぎ、フセインの独裁にさいなまれ、欧米からの軍事攻撃を受けながらも、宗教を支えに日々の生活を続けています。アフワールの人々がイラク国民に擬せられているのでしょう。大変な時代だったとは思いますが、それだけを描くのであれば、映画としてはあまりにも稚拙です。他人に預けられることになったラミアは逃げ出します。これは理解できます。しかし、いかに厳しい罰という脅しがあるにしても、自らの状況を顧みずにフセインの誕生日を祝うケーキの材料集めに奔走するというプロットが分かりにくい面があります。

それは、ファシズムの恐ろしさ、とりわけ洗脳の恐ろしさの象徴なのかもしれません。あるいは体制に従順な国民性を嘆いているのかもしれません。ただ、いずれにしてもプロットとしては、鋭さに欠けています。むしろ印象的には”ラミアの大冒険”的な描き方になっています。また、シーア派とスンニー派、バアス党と国民の対立の描き込みが弱いように思います。イランに隣接するアフワールの人々は、間違いなくシーア派だと思います。ひょっとすると偉そうにしている学校教師はバアス党の象徴なのかもしれませんが、我々には分かりにくいと思います。イラク社会を描くにあたり、この対立構図が取り込まれていないことは、いささか妙だと思います。意図的に回避されているのかもしれません。もっとも見る人が見れば、気付くのかもしれませんが。

なお、プロットの時期の設定は、必ずしも現実とは一致していません。イラク国内、あるいはアメリカへの政治的配慮があるのかもしれません。ラスト・シーンも、伝えようとしていることが、希望なのか、絶望なのか、分かりにくいように思いました。そうした甘さはあるものの、映画としての勢いは見事なものだと思います。本作は、昨年のカンヌ国際映画祭で、新人監督賞に相当するカメラ・ドールを獲得しています。全編がイラクで撮影され、キャストはほぼ素人だったようです。それが、かえって映画に勢いを与えているように思います。カメラ・ワークは、やや荒っぽいのですが、やはり勢いを感じさせます。全編に流れる民族音楽が素晴らしい効果を生んでいます。プロデューサーに、アメリカの映画人たちが名を連ねていることも興味を引きました。(写真出典:eiga.com)

2026年7月23日木曜日

山姥

能楽「山姥」は世阿弥の作とされています。「申楽談儀」 のなかには、世阿弥が語った「山姥、百万、これらは皆名誉の曲舞どもなり」という言葉が残されており、思い入れの深い演目だったことが分かります。「百万」は、百万という遊女が行方知れずとなった息子を探すという狂女物を代表する演目です。「山姥」は、山姥を題材とした歌舞で評判をとった遊女が善光寺にお参りする道すがら、山中で本物の山姥に出会うという話です。遊女は、”百万山姥”と呼ばれています。百万は、奈良に実在した曲舞(くせまい)の名手です。観阿弥が習った曲舞の流派の祖とも言われます。「山姥」、「百万」は、遊女・百万へのリスペクトを込めた作品でもあったのでしょう。

能楽は、申楽に曲舞を取り込むことで成立したとも言われます。その初期の姿が「山姥」、「百万」に残されているとも聞きます。さすがに、素人には舞の違いまで分かりませんが、他の謡曲と山姥が大きく異なることは分かります。能楽は、仏教思想を背景に持ちます。無常観もさることながら、亡霊が仏法によって成仏するというパターンも多くあります。しかし、人ではない妖怪の山姥が成仏することはありません。山姥と混同されがちな鬼婆は、妄執ゆえに鬼となって旅人を襲う人間です。黒塚、安達原に登場するのが鬼婆であり、最後には仏法によって成仏します。また、鬼婆と違って、山姥には二面性があり、人を襲ったり悪さをする山姥もいますが、人に優しく、福をもたらす山姥もいます。ちなみに金太郎こと坂田金時の母も山姥でした。

山姥の詞章には「よし足引の山姥が、山廻りするぞ苦しき」という詞が、二度、登場します。“よし足引”は、足の悪いという意味と良し悪しがかけられているとされます。能楽の山姥は、実際の山姥と同様、二面性が組み込まれています。山姥の世評と山姥の苦悩という二面性、遊女・百万山姥と本物の山姥という二面性、都(世俗)と山中(自然)という二面性などです。世俗の代表たる遊女が善光寺へ向かう山中で山姥に出会う設定も意味深です。世阿弥は、それらが対立する概念ではなく、表裏一体なのだと語っているのだと思います。大乗仏教の”而二不二”、あるいは”邪正一如”、つまり、善も悪も悟れば同じ、万物はあるがままで真理を示す、ということなのでしょう。曲全体や詞章が、説法そのもののようなストレートさを持っていることも山姥の特徴だと思います。

原始仏教においては、煩悩を乗り越えて涅槃に至るとされます。しかし、それは至難の業であり、涅槃の境地にたどりついたとされるのは釈迦と他にわずかしかいません。一切の衆生の救済を掲げる大乗仏教では、煩悩即菩提、つまり、煩悩があるから悟りを求めるものであると教えます。泥があって蓮が咲くという例えもあります。煩悩と菩提は、二つであっても、二つではない而二不二ということです。世阿弥は、山から山を巡る山姥に輪廻から解脱できない衆生の姿を重ね、煩悩即菩提の象徴としたのでしょう。煩悩即菩提は、最終的には色即是空に通じていくということになります。山姥は、まさに衆生そのものであり、山姥が仏法によって救済を得ないことも、禅宗の思想を直接的に表しているように思えます。山姥は、実に良く考えられた謡曲だと思います。

山姥の正体に関しては諸説ありますが、おおむね山の民、ないしは類似したものだと思われます。農耕が始まると、山の民、海の民は、独自の生活圏を確立したうえで、物々交換で農耕民と接触することになります。山の民と言えば、漂泊の民・山窩(サンカ)が有名ですが、村落で拒絶され、共同生活が困難になった者たちも山間部で生涯を送ります。伝染病患者、身体障害者、あるいは醜女などです。山から山を巡って暮らしていた人々は、昭和初期まで存在していたようです。農耕と農耕民が国の中心になると、山の民は影の部分となり、妖怪よばわりされることにもなったのでしょう。当人たちが抱える憂鬱、受ける差別は想像に難くありません。そこに世阿弥が注目したのは仏教的精神だったということになります。余談ですが、近年のドラキュラ映画には、死ねない憂鬱という側面をテーマとするものが多くあります。世阿弥は、600年も先をいっていたわけです。(写真出典:online.bunka.go.jp)

2026年7月21日火曜日

くじらもち

松山市から南予の大洲、宇和島へドライブしたことがあります。宇和島からの帰り、海辺の駅として有名な下灘駅を目差したのですが、途中、伊予長浜に寄りました。聞けば、ここに大洲の伝統菓子”志ぐれ”の店があるので寄りましょうとのことでした。海にほど近いひなびた菓子店に入り”志ぐれ”を購入し、早速、店先で食べてみました。一口食べた瞬間、思わず「これはくじらもちだ!」と叫んでしまいました。くじらもち、ないしは久慈良餅は、青森の名物です。鰺ヶ沢にもありますが、有名なのは浅虫温泉の永井久慈良餅店です。永井の久慈良餅は、青森市内でも買えます。父親の好物でもあったので、よく買いに行かされ、かつよく食べました。そのせいか、今でもたまに食べたくなります。

くじらもちは、もち米とうるち米の粉を水で練り、クルミや小豆を混ぜて、蒸籠蒸しにしたものです。もっちりとした食感が特徴です。鯨は一切入っていません。山形県にも、くじらもちがあります。新庄が発祥とも言われます。山形では、久しく持ちの良い食べ物という意味で久持良餅と呼ぶのだそうです。また、鯨の肉に似ているから鯨餅という説もあるようです。起源ははっきりしませんが、江戸期に京菓子が北前船で庄内や青森に伝わったものとされます。山形では、新庄藩の3代藩主の頃に兵糧として考案されたという説があります。また、大洲の志ぐれについては、18世紀始から、大洲藩の江戸屋敷内で秘法菓子として伝えられてきたものとされています。個人的には、”ういろう”が田舎に伝わり、もち米やうるち米を使って再現されたのではないかと思っています。

ういろう(外郎)は、デンプンと砂糖を練って蒸したものです。 ぷるんとした食感となめらかな舌触りが特徴です。ういろうは、室町期から存在していたようです。中国からの伝来という説が有力で、元朝の医官(外郎)だった陳宗敬が、元の滅亡とともに博多に亡命し、薬としての外郎薬、そして菓子としての外郎を伝えたとされます。陳宗敬の子が、室町幕府に招聘されて京に移り、医術や貿易に励むかたわら、ういろうの製造販売を代々行っていくことになります。ういろうは、江戸期にかけて各地へと広がっていきます。ういろうと言えば名古屋名物として有名です。米粉を使う名古屋のういろうは、食感が少しくじらもちに近いとも言えます。ういろうは、名古屋以外にも、京都はじめ、山口、小田原、伊勢、神戸、徳島、宮崎などの伝統菓子になっています。

ういろうに近いものに蒸し羊羹があります。蒸し羊羹は、こしあんに、小麦粉や片栗粉、砂糖や水などを混ぜて蒸し固めたものです。寒天を入れて冷やし固める練り羊羹よりも歴史は古いようです。いずれにしても、棹状の蒸し菓子のなかで、もち米とうるち米を使うものは、くじらもちと志ぐれだけのようです。なぜ青森、山形、愛媛にだけ存在するのかはよく分かりません。共通点も見いだせません。あるいは、かつては各地にも存在し、その三ヶ所にだけ残ったのかもしれません。少し気になることもあります。芋煮と言えば、山形を中心に東北各地で行われる伝統行事です、実は、大洲にも、同じ様な”いもたき”の伝統があります。とすれば、山形と大洲に何か関係があったのか、とも思いますが、どうも一切関係はないようです。ちなみに、南予名物のじゃこ天は、宇和島藩主として仙台から赴任した伊達秀宗が伝えたとも言われます。

タイの伝統菓子カノム・チャンは大好物です。餅粉とタピオカを煉って蒸し、それを幾層も重ねたお菓子です。ういろうに近いと思います。実は、カノム・チャンに類した伝統菓子は、東南アジア一円に存在します。マレーシア・インドネシアのクエ・ラピス、ヴェトナムのバイン・ダ・ロン、他にフィリピンやミャンマーにもあるようです。これらの来歴は、極めて明確です。15世紀頃に、福建省あたりから移民してきた客家が伝えた九層糕がローカル化したものです。そもそも蒸し料理は、6~7千年前の中国で始まったようです。要は、蒸し器の発明に始まるわけです。それが、日本や東南アジア一帯に広がっていきました。面白いことに欧州には蒸し料理の歴史がありません。米の粒食、小麦の粉食の文化が深く関わっているように思えるのですが、よく分かりません。(写真出典:serai.jp)

2026年7月19日日曜日

徳政令

後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒を計画すると、幕府の御家人だった楠木正成、足利尊氏、新田義貞らが呼応し、1333年、鎌倉幕府は滅びます。倒幕は、後醍醐天皇が先導したように思われがちですが、いささか微妙です。後醍醐天皇の最大関心事は、天皇位を巡る持明院統・大覚寺統の争いであり、自らの正統の確保でした。自分の思惑に沿わない執権・北条高時を打とうとしたのは事実としても、倒幕、さらには天皇親政まで意図していたかは疑問です。鎌倉幕府滅亡の主な要因は、元寇後の御家人の困窮と幕府への不満だったと言えるのでしょう。さらに大きな視点から言えば、鎌倉幕府は、平清盛がもたらし、急速に広がった貨幣経済によって滅ぼされたとも言えます。実に皮肉な話です。

鎌倉幕府は奉公と御恩で成り立っていました。御恩とは、取りも直さず恩賞としての領地です。元寇は、対外戦争であり、防衛戦だったために、新たに獲得した土地はありませんでした。一方、全国各地から博多へ奉公のために駆けつけた御家人たちは、相当の出費を強いられています。借金を抱える者も多くおり、土地や家財を失い、没落していく者が絶えませんでした。理屈は分かっていても、幕府への不満は高まる一方でした。幕府は、得宗家への権力の集中で乗り切ろうとしますが、世情は悪化していきます。そして、1297年、幕府は永仁の徳政令を発します。本来、徳政とは、儒教の精神に基づき、民衆に恩恵を施す政治を指します。鎌倉期以前にも、貧民の救済、恩赦、訴訟処理、あるいは神事の催行などが行われてきました

永仁の徳政令は、御家人体制の維持が目的だったとされます。借金の棒引きや担保で取られた土地の返還が命じられる一方で、御家人は所領地の売買や質入れが禁止されました。貨幣経済が浸透し、分割相続制によって御家人の零細化が進む社会で、経済原則を無視した政策は大きな混乱を招き、徳政令はわずか1年で廃止されています。日本の貨幣は、7世紀の富本銭、8世紀の和同開珎に始まりますが、銅の不足から信用を失います。平安期末期になると、商品経済化が進んだことにより、平清盛が大量に輸入した宋銭によって貨幣経済化も一気に進むことになります。平家勃興の背景には、この大量の宋銭があったとされています。余談ながら、独立国家が、約500年間も外国通貨をそのまま自国通貨として流通させていたことは、他に例を見ないと聞きます。

室町期、農民などの自治的組織である惣村が形成されると、徳政令を求める土一揆が頻発し、幕府や大名が対応せざるを得なかったようです。室町も中期になると、幕府は、徳政令の利用、ないしは阻止に手数料を課す分一徳政令を行うようになります。徳政令のビジネス化と言えます。戦国期に入っても大名単位の徳政令は続きましたが、末期になると弊害も認識されるようになり廃れていきます。これは、商品経済、貨幣経済が社会に浸透し、商人たちが力を持つようになってきたことの現れなのでしょう。商業資本の誕生です。続く江戸幕府の統治の基本は、封建制、農本主義に基づく幕藩体制でした。しかし、一方で、新田開発、商品開発、交通網の整備等を背景に市場経済化が進みます。そこで生じたギャップは旗本たちの困窮につながります。

江戸の人口の半数を占める旗本の借金は、経済の悪化にもつながります。幕府は、困窮する旗本対策として、寛政の改革、天保の改革に併せて棄捐令を打ち出します。事実上の徳政令です。ただ、経済の混乱も、商人の反発もなかったようです。改革の一部だったこと、商業資本が巨大化していたこと、また、50年の間をおいて2度の徳政令なので、受入れやすかった面もあるのでしょう。しかし、度々の改革にも関わらず、幕藩体制が経済的に破綻したことから江戸幕府は倒れます。昨今、政府・国会は、令和の徳政令とばかりに、物価高対策としての消費税減税を議論しています。日本の経済は千年前と大違いですが、お上が目先の議論に終始することは何も変わっていないとも言えます。少子高齢化による経済基盤の縮小こそ議論すべき課題だと思います。政治が不在に近い状態が続くなか、日本の三流国家化はどんどん進んでいきます。(写真出典:touken-world.jp)

2026年7月17日金曜日

前世

ダライ・ラマ14世
30年も前のことですが、北京の前門劇場へ京劇を観にいった際、記憶に残るほど強烈な既視感、いわゆるデジャブュを感じました。デジャブュを記憶していることなどありませんが、この時だけは特別で、これ以降にデジャブュの記憶などありません。もっとも、デジャブュは、年齢とともに感じることが無くなるようですから、歳のせいかもしれません。それと、あれはデジャブュだったのかと疑問に思う点もあります。というのも、前門劇場のデジャブュは、単なる既視感ではなく、祖父と一緒に来たことがあるという漠然としたイメージも浮かんだのです。さらに言えば、もともと京劇は好きだったのですが、それ以降、妙に懐かしさを感じるようになりました。京劇の歌唱など意味も分からないのですが、とても懐かしく思え、かつ、常に祖父のイメージが浮かびます。

祖父とは外祖父のことです。教員だった祖父は、日露戦争に砲兵として従軍したことがあり、それが唯一の海外経験だったと思われます。京劇が好きという話は一度も聞いたことがありません。戦争の話も一度も聞いたことがありません。経験がベースでないとすれば、京劇やその独特な歌唱がアジア系DNAに働きかける何かを持っているのかもしれません。あるいは、私の前世の記憶の断片、とでも考えるしかありません。輪廻は、バラモン教、ヒンドゥー教の根幹を成す思想であり、仏教やジャイナ教にも引き継がれます。また、転生、リーインカーネーションは、世界各地でも見られる思想です。転生を明確に否定しているのはイスラム教だけとも聞きます。もちろん、輪廻や転生は非科学的です。非科学的とは、まだ人間が解明できていないという意味もあるわけですが。

世界には、前世の記憶を持っているという人が多く現れてきました。しかし、科学的に検証すると、本から得た知識、他人から聞いた知識がほとんどだったようです。突然、外国語を話すという事例も多いようですが、フランス語のように聞こえるだけでフランス語ではないというケースばかりだったとのこと。全てを否定することはできないかもしれませんが、おおよそ思い込み、勘違いの類いだと言えます。私の京劇に関する懐かしさという感情も、なんらかの記憶が交錯して生まれているのでしょう。それにしても、輪廻や転生といった死生観が古くから存在し、今も、それなりに支持されているのは、何故なのかということが気になります。多くの信仰や宗教が、死への恐怖に基づいて成立していることに関係しているのだろうと思います。

仏教の輪廻は苦しみであり、現世で功徳を積むことによって輪廻から解脱できるとされます。死後に起こることを明らかにしつつ、現世での生き方を諭しているわけです。一方、転生の多くは、身体は滅びても魂は不滅であるという思想です。ある意味、不死の発想であり、死の恐怖を軽減する効果があるわけです。転生と言えば、チベットのダライ・ラマを思い起こします。ダライ・ラマは、チベット仏教最高位のラマであり、観音菩薩の化身とされます。かつては、政治の最高権力者でもありました。ダライ・ラマが亡くなると、転生して、どこかで生まれ変わります。高僧たちは、各種占いを行い、様々な兆候を読み解き、転生したダライ・ラマを探すことになります。候補者を見つけると、高僧たちは本当の転生ダライ・ラマか否かを確認するために、いくつかのテストを行います。その一つは、前世の記憶の確認なのだそうです。

催眠療法の一つに退行催眠があります。催眠状態で記憶をさかのぼることで、トラウマやコンプレックスの原因を明らかにし、心理的な安定を得るという手法です。その際、しばしば前世の記憶が現れるようです。ただ、多くは虚偽の記憶や誤った記憶とのことです。なかには、反論が難しいケースも存在するらしいのですが、だからと言って前世や転生を証明しているわけでもありません。誤った記憶であっても、精神状態が回復するのであれば意味があるのでしょう。1970年代に始まるオカルト・ブームを機に、80年代以降、前世ブームが起きています。また、漫画、アニメの世界では転生ブームが続いているとも聞きます。しかし、転生は、ファンタジーのジャンルとしては定番なのでブームと言うべきかどうかは疑問です。常に前世の人気が高いということは、いつの世も現世に不満を持つ人が多いということなのでしょう。(写真出典:britannica.com)

2026年7月15日水曜日

ウクレレ

名手エディ・カマエ
定年退職後に新たに趣味を持とうとする人たちがいます。現役時代、無趣味だった人が多いのでしょう。新たに見つけた趣味にハマって楽しそうに日々を送っている人たちがいる一方で、当初の意気込みはどこへやら、早々にあきらめる人も多くいます。典型的だと思うのが写真です。知人を見渡すと、高価なカメラを買ったにも関わらず、開店休業状態の人が何人かいます。実は、私も、老後の楽しみとして写真を考えました。ニコンの知人に相談すると、いきなり一眼レフではなく、まずは高機能なデジカメで遊んでみたら、と言われました。その通りにしてみました。しばらくは旅行に携えて行きました。ただ、ドロミテでバッグからカメラを出そうとして転倒、骨折して以来、止めてしまいました。スマホで十分だと気付いたからでもあります。

ウクレレも老後の趣味の典型の一つだと思います。長続きしなかった人を2人ばかり知っています。カメラもウクレレも簡単そうに見えるのでしょう。ウクレレは、小型で4弦だけなので扱いやすく、かつ、のんびりとしたムードのハワイアンゆえ無理なく弾けると思うのでしょうが、小型な楽器ほど、扱いも難しくなるものです。間口が広ければ、奥行きも深いと思うべきです。いずれも表現手段ですから、表現する欲求と表現したい対象がなければ、まったく無意味だと思います。ウクレレをあきらめた知人の1人は、多少は続きましたが、その理由は、フラダンスの先生でもある女性講師が魅力的だったからと聞きました。動機は不純なほど長続きするものですが、ひょっとすると、講師がきれいに見えたのは、彼女がハワイの文化を体現していたからかもしれません。

ウクレレの起源は、19世紀後半、ポルトガル移民が持ち込んだブラギーニャだとされます。ウクレレは、ハワイ語で”飛び跳ねるノミ”を指します。細かな指使いに由来するのでしょう。19世紀のハワイでは、社会、文化、そして音楽が大きく変わります。1795年、西洋の銃を手に入れたカメハメハ1世がハワイを統一し、ハワイ王国を建国します。西洋からの移民や文化の流入が始まります。1874年に選挙で国王になったカラカウアは、廃れていた伝統芸能の復活に努めます。その妹で最後の王となったリリウオカラニは音楽の才能に恵まれていたこともあり、その治世下で西洋音楽を取り入れたハワイアン・ミュージックが形成されていくことになります。ウクレレのみならず、ハワイ発祥のスティール・ギターやスラック・キー・ギターも、この時代に生まれています。

20世紀初頭になると、ハワイ音楽は世界的ブームになります。1915年にサンフランシスコで開催されたパナマ・パシフィック国際博覧会での演奏がきっかけの一つになったようです。ハワイの音楽は、地元観光でも欠かせない存在となり、ハワイに赴任した多くの米軍兵士たちが広めたとも言われます。ハワイ移民の多かった日本でも、日系2世のスティール・ギター奏者バッキー白片がハワイアンを広げたとされます。敗戦後も、進駐してきた米兵がもたらしたハワイアンは大ブームとなっています。アメリカ本土でも日本でも、ハワイは憧れの島です。アメリカ資本がリゾート化したという背景もありますが、そもそも気候風土が魅力的だったと言えます。そして、ピースフルなハワイアン・ミュージックと文化が人々を惹きつけてきたことも大きな要因なのでしょう。

南北アメリカの大西洋岸では、西洋音楽と西アフリカ音楽が融合して、サンバ、ソンやカリプソ、そしてジャズが生まれています。実は、太平洋の真ん中でも、西洋音楽とハワイの伝統音楽が融合してハワイアン・ミュージックが生まれていたわけです。余談ですが、ポルトガルからブラジルに渡ったブラギーニャは、スティール弦のカヴァキーニョとなり、今でもサンバやショーロに欠かせない楽器になっています。また、インドネシアに伝わったものは、クロンチョ音楽のチャッ・チュッという3弦の小型ギターになりました。あらためて、大航海時代を切り開いたポルトガルの影響力には感心させられます。ちなみに、ハワイ風ドーナッツのマラサダも、ポルトガル移民がハワイに持ち込んだものです。(写真出典:eddiekamaesongbook.org)

2026年7月13日月曜日

甘唐辛子

私の夏の朝食の定番は、洋食系ではサルサ・ドッグとガスパチョの組合せ、和食系では茗荷ご飯とししとうの炒め物をメインに、塩鮭、味噌汁、漬物といった献立です。茗荷ご飯は、刻んだ茗荷に出汁醤油をふり、温かいご飯にかけて食べます。ししとうは、ごま油で炒め、日本酒をふりかけ、最後に香り付け程度に焦し醤油をまぶします。ししとうは、他にも、味噌炒めや焼き浸しも作りますが、朝はこのシンプルな醤油炒めがもっぱらです。夏の朝食として、山形の出汁、宮崎の冷汁などを好んで食べていた時期もありましたが、ここ15年ほどは、ほとんど茗荷とししとうです。

ししとうは、京都のタキイ種苗が獅子唐辛子を改良して作ったと聞きます。獅子唐辛子は、甘唐辛子の一種で、実の先が獅子の頭に似ていることから命名されたようです。ただ、どこが獅子の頭なのか、さっぱり分かりません。ししとうは、完熟すると赤く色づくようですが、その前に摘んで食べているわけです。唐辛子は、アマゾン川流域が原産とされ、南米では古代から食されてきたようです。唐辛子が南米を出たのは、15世紀末のことです。コロンブスが持ち帰ったわけですが、驚異的だと思うのは、それが世界中に伝播するスピードの速さです。折しも大航海時代を迎えていたことが最も大きな要因ではありますが、唐辛子自体がそれほど魅力的な食材だったとも言えるのでしょう。

日本へ伝来したのは16世紀半ば頃とされます。伝来ルートについては諸説あります。唐辛子の”唐”は、ダイレクトに中国を指すのではなく、海外という意味です。唐辛子は、南蛮とも呼ばれます。やはり、ポルトガル船によって、鉄砲など共に伝えられたのでしょう。当初は、観賞用、あるいは保温材として使われていたようです。甘唐辛子の栽培の歴史ははっきりしませんが、安土桃山末期から江戸初期だったのではないか、とされています。甘唐辛子のなかで最も古い栽培の歴史を持つのは、京の伝統野菜・伏見とうがらしだと聞いたことがあります。江戸初期の文献に登場するようです。京野菜と言えば、万願寺とうがらしが有名ですが、これは大正末期の舞鶴あたりで、伏見とうがらしと大型ピーマンが交雑してできたようです。万願寺は、私の大好物です。

ピーマンは、明治の頃、日本に伝わり、普及したのは戦後のことでした。敗戦直後、政府は厳しい食糧統制を行っていましたが、ピーマンは対象になっていなかったので、急速に栽培が広がったようです。ピーマンは、フランス語のペッパーに相当するpiment(ピモン)から来ているとされます。和製外来語なので、ピーマンは日本でしか通用しない言葉です。例えば、アメリカではグリーン・ペッパー、フランスではポワヴォン・ヴェールとなります。アメリカでスペイン語の借用語として定着したPimiento、ないしはPimient(ピメント)をフランス語読みしてピーマンになったという説もあります。ピーマンは、熱帯アメリカ原産ですが、アメリカで改良されてピーマンに、さらにオランダで改良されてパプリカになっています。

夏は甘唐辛子の季節とも言えます。旬の食材は、新鮮で安いだけでなく、美味しく、かつ栄養価が最も高い状態で食べることができます。甘唐辛子類には、ビタミンCの疲労回復効果、βカロテンの抗酸化作用と免疫力維持、ビタミンEの抗酸化作用、カリウムの塩分排出効果などが期待できます。夏にこそ食べるべき野菜とも言えそうです。また、ししとうは、食物繊維が豊富過ぎて、食べ過ぎに注意する必要があるようです。一日に10本程度にしておかないと腹痛を起こしかねないとされます。私は、一度に20本以上食べますけど、お腹を痛めたことなどありません。(写真出典:delishkitchen.tv)

2026年7月11日土曜日

船徳

古典落語「船徳」は、滑稽噺ですが、江戸の夏の情緒をよく描いていると言われます。もともとは人情噺として、江戸期に生まれたようですが、明治になってから、初代三遊亭圓遊がアレンジして滑稽噺に仕立てました。にわか船頭の若旦那の滑稽さだけでなく、櫓や棹を扱う仕草、船の上で揺れる客の様子など、細かなところで噺家の腕も試される噺だと思います。それでいて、全体としては隅田川の夏の風情を醸すわけですから、滑稽噺とは言え、前座、二つ目くらいには難易度の高いネタだと思います。何度聴いても飽きのこない噺があります。夏場にうってつけの船徳もその一つだと思っています。 

勘当された若旦那が転がり込んだ先は、設定上、柳橋の船宿ということになります。隅田川と神田川が合流する柳橋界隈は、新興の新橋と並び、”柳新二橋”と呼ばれるほど栄えた花街でした。料亭や船宿が建ち並び、柳橋芸者が行き交っていたのでしょう。柳橋芸者は、東京で一番格上だったと教えてくれたのは、柳橋最後の料亭「いな垣」の女将でした。いな垣も東京で最も格上の料亭と言われていたようです。横綱審議会の会場だったことでも知られます。ただ、私がお邪魔した際には、ビルの中に入り、窓の外に見えるのは堤防だけという有り様で、往時の面影など一切ありませんでした。時代の変化もありますが、隅田川の護岸工事で風情を奪われた柳橋は廃れるしかなかったわけです。いな垣も1999年に店を閉めています。ただ、船宿は、今も数軒残っています。

船宿は、宿泊施設ではなく、船と船頭を抱える水運業者です。今も東京には60軒の船宿があり、屋形船や釣り船の運航を行っています。店によっては、座敷での宴会もできます。20年前の話ですが、屋形船の貸し切りは一艘25万円程度と聞きました。密談をするために2~3人程度で貸し切る人もいたようです。船宿のかき入れ時は、墨堤の花見と両国の花火ということになるのでしょう。それは、江戸の頃から変わっていないように思います。船徳の噺は、7月10日、観音様の功徳日”四万六千日”の出来事です。この日にお参りすると四万六千日分のご利益を授かるとされます。米の一升が米粒46,000粒にあたることから、一生分のご利益というダジャレで四万六千日と呼ぶようになったようです。浅草寺では、四万六千日に併せてほおずき市が開催されています。

噺のなかに、”ぼうず”という軍鶏(しゃも)屋が出てきます。多めのご祝儀をもらったのでぼうずへ繰り出した船頭が、飲み過ぎて他の客と喧嘩になった、というくだりです。”ぼうず 志ゃも”は、両国で、最近まで営業していました。軍鶏は、江戸初期にシャムから闘鶏のために輸入されています。江戸中期、今も人形町で営業している”玉ひで”等の軍鶏鍋が人気となり、江戸の名物とされるまでになります。軍鶏鍋は、門前仲町の有名店“有明”で何度か食べましたが、騒ぐほどのものではないと思いました。いずれにしても、江戸末期から明治の頃の江戸では、ちょっと贅沢な人気の料理だったわけです。池波正太郎の鬼平犯科帳には「夏こそしゃも鍋ですぜ」というセリフがあるようです。恐らく軍鶏鍋で精を付けて夏を乗り切ろうということだったのでしょう。

にわか船頭の若旦那の舟に乗ることになった二人の客は、夏を楽しむ江戸庶民の代表なのでしょう。柳橋の船宿の常連として、舟で吉原に通い、舟で桜や花火を楽しんでいたのでしょう。恐らく、日本橋界隈の商人といったところかと思います。古典落語「船徳」の主人公は、若旦那のように思えます。ただ、若旦那は決して深掘りされることもなく、むしろ狂言回し的存在のようにも思えます。あえて、船徳の主人公を言うのならば、夏の隅田川の風情、ということになるのでしょう。浄瑠璃の道行きにも似た味わいを持っていますが、主人公の心情が重ねられることなく、情景がスケッチされるのみです。船徳は、風変わりで粋な噺と言えそうです。(写真出典:tabashio.jp)

2026年7月9日木曜日

京成百貨店

水戸への出張は、日帰りと相場が決まっていました。15年程前、あんたが好きそうな居酒屋があるから案内するよ、と水戸支社の知人に言われ一泊したことがあります。その際、居酒屋へ向かう道すがら、京成百貨店を見て驚きました。京成電鉄は、茨城県に鉄道路線もバス路線も持っていません。なぜ水戸に京成百貨店があるのか、と知人に聞くと、詳しいことは分からないが、京成電鉄の社長だった人が水戸出身だったので、水戸にも百貨店を作ったらしい、とのことでした。電鉄会社の戦略としてはピンときません。京成傘下の関東鉄道はあるものの、県南部が主戦場ですし、百貨店を作るなら自社名を使うはずです。なお、水戸には京成ホテルもあり、現在、茨城県のビジネスは、京成電鉄茨城ホールディング傘下に集約されています。 

京成電鉄は、東京と成田山新勝寺を結ぶべく、1909年(明治42年)に設立されています。延伸を重ね、上野・成田間が全線開通したのは1933年のことでした。現在、営業路線としては、近鉄、東武、名鉄、東京メトロに次ぐ私鉄第5位の長さを誇ります。電鉄会社の基本的な戦略は、阪急電鉄の小林一三の発案によるところが大きく、沿線の宅地、商業施設、レジャー施設等の一体開発が特徴です。京成電鉄は、多少異なる路線を採ってきたように思います。路線としては既存の新勝寺の参拝を目玉に据えたこと、そして、沿線にこだわらない開発をしてきたことも特徴的だと思います。その典型は、東京ディズニーランドということになります。その戦略を進めたのが、1958~1979年まで、約20年間に渡り社長を務めた川﨑千春です。

川崎千春は、1903年、水戸に生まれています。もともとは尾張徳川家に仕えた絵師の家系でした。川崎も画才があったようですが、親戚には画家が多く、血はつながっていませんが東山魁夷もその一人だと聞きます。旧制水戸高校(現茨城大学)から東京帝国大に進み、卒業後は川﨑信託(現三菱UFJ信託)、帝都タクシーを経て京成電鉄に会計課長として入社しています。社長就任後は、高度成長の波に乗り、積極的に不動産開発や成田空港への乗入れ、そして東京ディズニーランドの開発を手がけていきます。特に、東京ディズニーランドは、埋め立てから、ディズニー社との誘致交渉も含め、20年を超える取組の成果でした。水戸の京成百貨店も川崎社長時代に誕生しています。水戸支社の知人の言うとおり、水戸出身の社長が関与していたわけです。

水戸京成百貨店の前身は、常陸太田の小間物屋”島津商店”が経営する志満津百貨店でした。その高級路線は、戦後復興が進む水戸で人気となり、経営は順調だったようです。しかし、水戸市の経済成長は、中央からの大型店舗の出店ラッシュにつながります。これに危機感を持った志満津百貨店は、沿線外開発に積極的だった京成電鉄と資本提携に踏み切ります。当時、京成電鉄は、市川、上野、土浦に百貨店を設立し、水戸進出も視野に入っていたようです。志満津百貨店は水戸京成百貨店となり、地盤を固めていきます。ただ、百貨店への進出が遅れた京成電鉄は、水戸以外の店舗で苦戦が続き、早々に閉店に追い込まれていきます。市川店は残りましたが、実態はスーパーマーケットでした。市川京成百貨店跡地は、現在、京成電鉄の本社となっています。

百貨店は、提案のビジネスだと思います。一定のコンセプトや価値観に基づき、新たな生活や商品を提案することで、リピーターを生み、ふりの客を呼び込みます。そこがしっかりしていないと、他店や他業態との違いがあいまいになり、流通の荒波に飲み込まれていきます。百貨店の閉店ラッシュは、主に地方で起こりました。ショッピング・センターやEコマースに客を取られた、地方都市自体が地盤沈下している等の理由が挙げられています。しかし、一定の商圏の存在は前提となりますが、コンセプトがブレない限り、百貨店は生き残っていくものと考えます。大雑把に言えば、富裕層を対象とするリピーター戦略しかないと思います。恐らく、水戸京成百貨店は、それがハマっているのでしょう。(写真出典:kumesekkei.co.jp)

2026年7月7日火曜日

シリアル

世界の朝食の幅広さには驚かされます。気候、風土、慣習等の違いは、同じ国の中ですら大きな違いを生みます。そのなかで、最も異質だと思える朝食がアメリカのシリアルです。もちろん、穀物と乳製品の組合せですから、朝食としての要件は満たしているのですが、工業的に生産された食品であり、どの段階でもほぼ調理されていない点が、極めて異質です。シリアルは、19世紀のアメリカで発明されていますが、未来的でSF的な食品だとも言えます。アメリカは、今年建国250年を迎える歴史のない国です。合理性と効率を追求して様々な分野で実験を繰り返す国ならではの朝食とも言えるのでしょう。そういう意味で、シリアルは最もアメリカ的な食べ物なのかもしれません。 

朝食用シリアルが発明されたのは、1863年のことです。シリアルとは”穀物”という意味ですが、小麦の全粒粉の生地をシート状に伸ばし、熱で乾燥させて成形したものでした。。NY州北西部で、温水治療のサナトリウムを経営するジェームズ・ケイレブ・ジャクソン博士が開発しました。当時、病気の多くは消化器系が原因とされており、肉食を減らす試みが始まっていました。ジャクソンも治療の一環として朝食用シリアル”グラニューラ”を開発しました。しかし、グラニューラを食べるためには、一晩、水に漬けておく必要があり、不人気だったようです。1877年、手動のオートミール挽き機を使ってオートミールを販売していたフェルディナント・シューマッハは、クエーカー・オーツ社を設立します。オートミールは、燕麦を脱穀して蒸し、平たく加工したシリアルです。

そして、1895年、ケロッグのコーンフレークが発売されます。アメリカの朝食が変わった瞬間だったのでしょう。ケロッグ医師は、ミシガン州バトルクリークのサナトリウムの所長でした。宗教的な菜食主義と腸内細菌の研究からコーンフレークは誕生したようですが、マーケティングを担当した弟が砂糖を加えることを主張します。これが兄弟の争いに発展し、弟はケロッグ社を設立します。ほどなくして、サナトリウムの患者だったチャールズ・W・ポストがこの業界に参入し成功を収めます。彼の会社は、後にゼネラル・フーズとなっています。シリアルの普及に貢献したのは、シリアルを箱入りで販売したこと、そして第二次大戦後、子供の朝食をターゲットにしたことだと言われます。当然、甘いシリアルが中心となり、おまけ入りもスタンダードになりました。

甘いシリアルに子供たちは大喜び、安価で手間いらずのシリアルは主婦の強い味方です。郊外の戸建住宅、核家族化、共働き、大量消費社会といった社会変化とともに、シリアルは、瞬く間にアメリカの朝食の定番となります。一方で、家族揃っての朝食、おふくろの味といった伝統も崩壊していき、アメリカにおける家庭崩壊の一因になったという批判もあります。シリアルで育った子供たちは、自分の子供たちにもシリアルを食べさせます。そう簡単にアメリカのシリアル文化が変わるとは思えません。ただ、近年、材料費や生産コストの上昇にともないシリアルの価格が高くなっているようです。貧乏人はシリアルすら買えないわけです。近年、健康指向のシリアル、大人用のシリアルの効果もあり、シリアル市場は拡大しているようですが、販売量は低下しています。

日本でのシリアルの売上トップはカルビーの”フルグラ”です。麦類等のグラノーラにドライ・フルーツを入れたものです。フルグラは、1991年に登場し、2011年に現在の”フルグラ”に商品名を変えています。健康指向の高まりを背景に急成長を遂げ、世界トップのシリアル・ブランドとしてギネス・ブックにも登録されたようです。その成功要因は、メイン・ターゲットを20~40歳代女性に置いたことなのでしょう。日本における女性の就労環境は、世界的に見て遅れているとされてきました。近年では、人手不足もあって、環境も改善され、就労率も高まっているようです。フルグラは、忙しくなった日本の女性の味方というわけです。結構なことではありますが、食と健康、和食の伝統といった面からは多少気になります。さらに言えば、日本の食糧需給、就労環境といった基本的な議論も忘れてはならないと思います。(写真出典:kelloggs.co.nz)

2026年7月5日日曜日

小田原評定

北条早雲
小田原評定とは、多くの人が参加して、長時間に渡って議論するも、答えの出ない会議を揶揄して言う慣用句です。かつての日本企業には、この手の会議が多かったものです。責任回避のための無益な議論も多かったのでしょう。典型的には、積極策と保守策のせめぎ合いが多かったものと想像できます。議論が拮抗しているのであれば、リーダーの決断力が求められます。この慣用句の元になったのは、小田原合戦時、後北条方の評定において、籠城か出撃か、あるいは降伏か抗戦か、という議論が延々と続いたことだとされます。小田原合戦は、1590年、豊臣秀吉が、小田原の後北条氏を破った戦いです。秀吉が天下統一を成し遂げた最後の戦いでもあります。

後北条氏の小田原城は、天下無敵を誇る城でした。最大の特徴は、城と城下町全体を防壁で囲む惣構(そうがまえ)でした。土塁と空堀の総延長が9kmに及ぶという空前絶後の惣構です。後北条方は、この堅い守りを活かして籠城し、豊臣方が疲れたところで撃って出るという戦術を選択します。20万人を超える大軍を率いた秀吉は、関東一円の後北条方の城を次々と攻め落とします。いとも簡単に落とされたのは、後北条方が関東の武将たちを小田原城に集めて籠城したからです。各地の城には留守番役だけが残っていたわけです。秀吉は小田原城を完全に包囲し、戦いらしい戦いもないまま、後北条方は降伏します。戦わずして城を明け渡したという最後だけを見れば、後北条氏を誤解するかもしれません。勇猛な武将ひしめく関東に覇権を唱えた家です。

後北条氏の祖・伊勢盛時(北条早雲)は、桓武平氏の備中伊勢氏の出です。早雲は、室町幕府の高級官僚の家に生まれます。姉(妹説もあり)が駿河守護の今川家に嫁いだことから、その内紛の調停のために下向します。内紛は、一旦、落ち着き、功績が認められた早雲は所領を得ます。ただ、内紛は、その後も様相を変えながら続き、結果的に、伊豆を平定した早雲は、1495年頃、小田原城を奪取します。そして相模国を平定し、さらに領土を拡大していきます。後北条家は、16世紀末までに、関東一円を支配するまでに至ります。なお、伊勢氏が北条氏を名乗ったのは、2代氏綱の頃と推定されています。関東の諸勢力から外来の侵略者とみられていた伊勢氏が、相模国主としての正統性を得るために、鎌倉幕府執権・北条氏を継承すると宣言したもののようです。

後北条家の強さの源泉は、いち早く足軽を活用したこと、兵農分離を進めたこと、鉄砲を活用したこと、全国を凌ぐ甲冑生産量を誇ったこと等とされます。また、配下の城を格付けし、武将の公平な人事管理に活用したこと、領民に対しては、当時、もっとも低い税率である四公六民を採り、領内を安定させたことも知られています。さらに、配下に従えた在来の武将たちを定期的に集めて評定を行うことで、参画型経営を実現しています。あわせて、官僚制度の整備も行っています。これらは、室町幕府の諸制度を利用したものとされます。後北条家の強さは、荒ぶる坂東の地に、武力、統治、両面で近世を持ち込んだことにあるといえるのでしょう。小田原評定は評価されるべきであり、秀吉の大軍を前に行った評定のみを捉えて揶揄すべきではないと思います。

近世的な統治感覚を持った後北条家が、なぜ関白に登り詰めた秀吉と戦ったのか、という点は実に興味深いところです。秀吉が、武力による天下統一を狙っていなかったことはよく知られています。後北条家も、秀吉に忠誠を誓い、領地を安堵してもらう道があったわけです。直接的なトリガーとなったは、1589年の名胡桃城事件です。後北条家傘下の沼田城主が、秀吉の発した私闘禁止令、惣無事令に反して、真田家の名胡桃城を占領した事件です。そもそも名胡桃城占領は後北条家の指示かどうかも分かっていません。秀吉に詰問された後北条家ですが、従わなかったため、双方、兵を動かすことになりました。結果が見えているのに、あえて秀吉に刃向かった理由が、今一つ理解できません。秀吉に反感を持っていたとも、関東の独立を狙っていたとも言われます。少なくとも、桓武平氏の末裔として、室町幕府の臣下として、あるいは関東の雄として、秀吉を見下していたのだろうとは思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年7月3日金曜日

カントリー・ラインダンス

テネシー州ナシュビルには、仕事で何度も行きました。提携先の本社があったからです。 ナッシュビルは、カンバーランド川沿いの交易拠点から発展した町で、アップランド・サウス、ないしはアッパー・サウスの中心地です。また、カントリー・ミュージックのメッカとしても知られます。ナッシュビルから放送される”グランド・オール・オープリー”は、カントリー・ミュージックのライブ放送ですが、1925年に放送が開始されたというアメリカ最古にして、今でも大人気のラジオ番組です。この番組を放送するWSMは”The Air Castle of the South ”とまで呼ばれ、アメリカ南部の精神風土を支える柱の一つにもなっています。また、ダウンタウンのミュージック・ローには、200を超えるスタジオが並んでいることでも知られます。

グランド・オール・オープリーのライブ会場であるグランド・オール・オープリー・ハウス周辺は、様々な施設が作られて、いまやテーマ・パーク化しているようです。30年以上前にも、ホテル、コンベンション・ホール、ショッピング・モール、ゴルフ場等はありました。提携先のスタッフが、オープリー・ハウスの社長と友人だったことから、ホテルに泊めてもらい、リンクス・タイプのゴルフ場でプレイさせてもらったことがあります。ライブの放送日でもないのに、ホテルやモールには人があふれていました。南部の人たちにとっては、あこがれの場所であり、一度は行ってみたい場所になっているのでしょう。もちろん、ミュージッシャンにとっても、グランド・オール・オープリーに出演することは、日本の紅白歌合戦出場なみに名誉なことなわけです。

週末にカントリー・ミュージックのライブ・ハウスに案内してもらったことがあります。元は貨物集積場だったという駅近くの広い敷地に、納屋を模した大きな建物が建っていました。中に入ると、大小様々な部屋があり、それぞれ異なったタイプの音楽が演奏されています。客のいでたちは、男女問わず、皆一様に、カントリー・シャツ、バンダナ、ジーンズ、カウボーイ・ブーツ、そしてテンガロン・ハットというウェスタン・スタイルでした。聞けば、近郷近在の農家の人々が、週末のお楽しみとして、精一杯のおしゃれをして集まっているとのことでした。つまり、ウェスタン・スタイルは正装であり、ほぼ伝統的な民族衣装とも言えるのでしょう。もちろん、ハットもジーンズも、農作業で着用しているものではなく、よそ行きの新品だったわけです。

違う国に来たな、と思ったものです。NYやLAでは感じたことのない異国情緒でした。最も印象的だったのは、一番大きな部屋で踊られるカントリー・ラインダンス、いわゆるカウボーイ・ダンスでした。カントリー・ラインダンスの起源は、17世紀のイングランドとされます。皆が整列して、ステップを揃えて踊ります。基本的には、全員がステージのバンドに向かって整列しますが、二列で男女が向かい合うなどのパターンもあります。ステップも曲によって異なり、多くの種類があるようです。1970年代の日本のディスコを思い出させます。当時は、ステップ・ダンス全盛であり、その後、フリー・ダンスへと変わっていきました。カントリー・ラインダンスは盆踊りに近いものがあり、NYの人たち、特に黒人たちから見れば、田舎くさい代物だったのでしょう。

ロバート・アルトマンの最高傑作「ナッシュビル」(1975)は、アメリカという国をシニカルに描いた群像劇です。カントリー・ミュージック界をアメリカの縮図とし、大統領選挙の予備選をからめることで、アメリカの政治、社会の立ち位置をコミカルにえぐっています。当然、舞台はナッシュビルしかあり得ません。カントリー&ウェスタンは、アメリカ南部を代表する文化であり、ビッグ・ビジネスでもあります。日本でも、ヒット曲や有名歌手は多少知られていますが、その文化的広がりや深さに関する理解は薄いと思います。日本の民謡や演歌が近いのでしょうが、カントリー&ウェスタンは今もメジャーな文化であり続けています。「アメリカ人の8割は田舎者よ」というフレーズは、スーザン・ストラスバーグが映画「女優志願」(1958)のなかで語ったセリフです。カントリー&ウェスタンや福音派といった南部の文化抜きに、MAGAといった現象、あるいはアメリカという国は理解できないように思います。(写真出典:hudsonvalleycountry.com)

2026年7月1日水曜日

道後

温泉浴は、とても良い楽しみだと思います。温泉地や温泉宿の評価は、建屋、庭、しつらえ、食事などを総合的に判断して決められる傾向にあります。しかし、本来的には、湯質こそが最も重視されるべきだと思います。 個人的には。道後温泉の湯質が一番のお気に入りです。個性的で際立った湯質の温泉は他に多くありますが、バランスの良い、やさしい湯質としては道後が最高であり、毎日でも入りたいと思います。何度も道後温泉に行きましたが、たまたま、宿は、いつも大和屋でした。道後を代表する宿ですが、会社の関係で、多少の融通を利かせてくれるからです。例えば、温泉宿は一泊二食が基本ですが、特別に一泊朝食付にも対応してくれました。

道後の湯は、きめ細やかで刺激の少ない優しい湯です。18本の源泉をブレンドすることで、適温、かつなめらかな源泉掛け流しを実現しています。湯質としては、アルカリ性単純泉です。アルカリ分は、皮膚のタンパク質を溶かすので、湯はぬるっとした感触になります。古い角質や余分な皮脂が溶かされ、肌がスベスベになります。アルカリ性の温泉が美人の湯と呼ばれる由縁です。例えば、三重県の榊原温泉などはアルカリ度が高く、肌は超ヌルヌルになります。道後の湯はそこまでではなく、ちょうどいい塩梅です。なお、単純泉とは、含有成分のなかに突出した成分がない温泉を指します。泉質は、単純泉の他に、硫黄泉、二酸化炭素泉、酸性泉等々、11種類あります。単純泉は、刺激が少なく、様々な成分による効能の多様さも特徴です。

道後温泉は、縄文土器が出土したことから3千年の歴史を持つと言われます。縄文を持ち出すまでもなく、道後は日本最古級の温泉です。日本書紀や風土記にも記載される日本三大古泉は、道後、有馬、白浜となります。延喜式では、道後、有馬、いわき湯本が挙げられています。清少納言は枕草子で、有馬、玉造、榊原を名湯としています。道後は、都からは少し遠かったということなのでしょう。起源は、白鷺が傷を癒やすのが目撃されたという、ありがちな説が伝わります。また、大国主命と少彦名命の話もあります。伊予国へ旅をし、疲れて倒れた少彦名命のために、大国主命が”速見の湯”(別府)を海底の管を通して道後へと導き、少彦名命を浸からせます。少彦名命は回復し石の上で踊りだした、というのです。少彦名命は、有馬、玉造の伝説にも登場します。

道後最大の魅力は湯質だと言えますが、他にも共同浴場、温泉街、アクセスの良さ等も魅力だと思います。共同浴場は、何と言っても重要文化財の道後温泉本館ということになります。1894年に改築された本館は木造3階建で、1階が浴場、2~3階がお茶やお茶菓子も付いてくる休憩室となっています。しばらく大改修工事が行われていましたが、2024年にはフルオープンしています。道後温泉本館から市電の駅まで温泉街が続いています。その中ほどに、温泉煎餅の玉泉堂本舗があります。古風で暗い店には客がいません。というのも、予約なしで購入できず、しかも半年待ちという老舗です。ただ、正月だけは松山市内のデパートで販売されるので予約なしで買えるようです。その正月の煎餅を頂戴したことがあります。美味しいのですが、半年待ちは理解できませんでした。

道後温泉のアクセスの良さも、天下一品です。松山駅から道後温泉駅までは市電でわずか20分。松山へ出張した際にも、市内のホテルなど使ったことがありません。道後に泊まればいいわけですから。運が良ければ、週末にのみ運行される坊っちゃん列車に乗ることもできます。復元された軽便鉄道時代の蒸気機関車が牽く列車です。坊っちゃん列車の形状は蒸気機関車ながら、中身はディーゼル車になっています。夏目漱石の「坊ちゃん」で、マッチ箱のような汽車、と書かれていることからこの名称となっています。道後のお湯も含めて、伊予松山はいいところです。城もいい、お湯もいい、食事もいい、そして、何よりも、どこかのんびりとした伊予の人々がいい、と思うわけです。(写真出典:nippon.com)

朱の国