2026年7月5日日曜日

小田原評定

北条早雲
小田原評定とは、多くの人が参加して、長時間に渡って議論するも、答えの出ない会議を揶揄して言う慣用句です。かつての日本企業には、この手の会議が多かったものです。責任回避のための無益な議論も多かったのでしょう。典型的には、積極策と保守策のせめぎ合いが多かったものと想像できます。議論が拮抗しているのであれば、リーダーの決断力が求められます。この慣用句の元になったのは、小田原合戦時、後北条方の評定において、籠城か出撃か、あるいは降伏か抗戦か、という議論が延々と続いたことだとされます。小田原合戦は、1590年、豊臣秀吉が、小田原の後北条氏を破った戦いです。秀吉が天下統一を成し遂げた最後の戦いでもあります。

後北条氏の小田原城は、天下無敵を誇る城でした。最大の特徴は、城と城下町全体を防壁で囲む惣構(そうがまえ)でした。土塁と空堀の総延長が9kmに及ぶという空前絶後の惣構です。後北条方は、この堅い守りを活かして籠城し、豊臣方が疲れたところで撃って出るという戦術を選択します。20万人を超える大軍を率いた秀吉は、関東一円の後北条方の城を次々と攻め落とします。いとも簡単に落とされたのは、後北条方が関東の武将たちを小田原城に集めて籠城したからです。各地の城には留守番役だけが残っていたわけです。秀吉は小田原城を完全に包囲し、戦いらしい戦いもないまま、後北条方は降伏します。戦わずして城を明け渡したという最後だけを見れば、後北条氏を誤解するかもしれません。勇猛な武将ひしめく関東に覇権を唱えた家です。

後北条氏の祖・伊勢盛時(北条早雲)は、桓武平氏の備中伊勢氏の出です。早雲は、室町幕府の高級官僚の家に生まれます。姉(妹説もあり)が駿河守護の今川家に嫁いだことから、その内紛の調停のために下向します。内紛は、一旦、落ち着き、功績が認められた早雲は所領を得ます。ただ、内紛は、その後も様相を変えながら続き、結果的に、伊豆を平定した早雲は、1495年頃、小田原城を奪取します。そして相模国を平定し、さらに領土を拡大していきます。後北条家は、16世紀末までに、関東一円を支配するまでに至ります。なお、伊勢氏が北条氏を名乗ったのは、2代氏綱の頃と推定されています。関東の諸勢力から外来の侵略者とみられていた伊勢氏が、相模国主としての正統性を得るために、鎌倉幕府執権・北条氏を継承すると宣言したもののようです。

後北条家の強さの源泉は、いち早く足軽を活用したこと、兵農分離を進めたこと、鉄砲を活用したこと、全国を凌ぐ甲冑生産量を誇ったこと等とされます。また、配下の城を格付けし、武将の公平な人事管理に活用したこと、領民に対しては、当時、もっとも低い税率である四公六民を採り、領内を安定させたことも知られています。さらに、配下に従えた在来の武将たちを定期的に集めて評定を行うことで、参画型経営を実現しています。あわせて、官僚制度の整備も行っています。これらは、室町幕府の諸制度を利用したものとされます。後北条家の強さは、荒ぶる坂東の地に、武力、統治、両面で近世を持ち込んだことにあるといえるのでしょう。小田原評定は評価されるべきであり、秀吉の大軍を前に行った評定のみを捉えて揶揄すべきではないと思います。

近世的な統治感覚を持った後北条家が、なぜ関白に登り詰めた秀吉と戦ったのか、という点は実に興味深いところです。秀吉が、武力による天下統一を狙っていなかったことはよく知られています。後北条家も、秀吉に忠誠を誓い、領地を安堵してもらう道があったわけです。直接的なトリガーとなったは、1589年の名胡桃城事件です。後北条家傘下の沼田城主が、秀吉の発した私闘禁止令、惣無事令に反して、真田家の名胡桃城を占領した事件です。そもそも名胡桃城占領は後北条家の指示かどうかも分かっていません。秀吉に詰問された後北条家ですが、従わなかったため、双方、兵を動かすことになりました。結果が見えているのに、あえて秀吉に刃向かった理由が、今一つ理解できません。秀吉に反感を持っていたとも、関東の独立を狙っていたとも言われます。少なくとも、桓武平氏の末裔として、室町幕府の臣下として、あるいは関東の雄として、秀吉を見下していたのだろうとは思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

小田原評定