2023年11月27日月曜日

博多の商法

鶏卵素麺
博多は、天然の良港に恵まれ、大陸・朝鮮半島への玄関口でもあり、有史前から人の往来が絶えない交易、外交、そして防衛の拠点であり続けました。福岡市は、今も変わることなく九州の中心として、九州の玄関として、日本の玄関として、多くの人が集まります。バブル崩壊、リーマン・ショックといった停滞期にあっても、福岡にビル建設の槌音が絶えたことはありません。キラキラとした新しい商業施設、勢いのある歓楽街、次々と建設されるマンションなど、急成長を遂げるアジアの大都市と同じような風情を感じます。それは素晴らしいことではありますが、それだけでいいのだろうか、と以前から思っていました。近代化や国際化は、ややもすれば街のアイデンティティや個性を失うことにもつながりかねません。

福岡市は、1889年に、福岡と博多が合併して出来た街です。古代から栄えた博多は、太宰府の玄関口として、あるいは商人による日本最古の自治都市として栄えてきました。一方の福岡は、関ヶ原の戦いの功績が認められた黒田長政が築いた福岡城の城下町です。那珂川を挟んで、古い商人町と新しい武家町が隣り合っていたわけです。合併後も二つの町は、なかなか融和せず、市の名称は福岡とし駅名は博多とするといった調整も行われます。外の人間には、福岡・博多の違いが分かりにくく、福岡市の旧名が博多と勘違いしている傾向もあります。例えば、有名な山笠祭の正式名称は博多祇園山笠であり、旧福岡の人からすれば「あれは福岡市の祭ではなく、博多区だけの祭だ」ということになります。

福岡に城下町の風情を感じることはありません。博多にも、長い歴史を持つ商人町を思わせるものはほとんどありません。大火や空襲で町が焼かれたという歴史もありますが、他にもそういう町は多いものの、ここまで伝統や歴史を感じさせない土地はありません。それは、福岡市の人々のこだわりが薄いことの現れなのでしょう。伝統に価値観を見いださなかった、あるいはそれにすがる必要がなかったとも言えます。それほどまでに、福岡市は繁栄を続けてきた町であり、経済原則が優先されてきたわけです。福岡市の観光案内を見ると、さすがに櫛田神社や大濠公園は入っているものの、他は、ほとんど新しい施設です。鴻臚館跡、板付遺跡、大野城跡といった極めて重要な古代遺跡など、完全に番外です。

土産物も同様だと思います。博多駅には、実に多くの土産物屋が集まり、賑わいを生んでいます。ただ、多くの店が、ほとんど同じ商品を扱っています。明太子、博多通りもん、博多の女等々、定番商品とそのヴァリエーションが並ぶばかりです。ただ、それが飛ぶように売れるわけです。また、豚骨ラーメン、もつ鍋、水炊き、うどん、餃子、鶏皮といった福岡市の食文化は大人気ですが、すべて歴史が浅く、かつ、福岡が起源とされるのはもつ鍋とうどん(諸説あり)くらいです。起業家精神あふれる街とも言えますが、流行を追う安易な街とも言えそうです。奈良には“大仏商法”という言葉があります。努力せずとも客は来る、といった意味です。どうも福岡市には、同じ傾向があるのではないかと思ってしまいます。

城下町福岡を代表するお菓子と言えば、「鶏卵素麺」があげられます。もともとは、平戸に伝わったポルトガル菓子です。製法を教わった松屋利右衛門が、1673年に博多で販売を開始しています。江戸期、日本三大銘菓に数えられることもありました。もっとも三大銘菓の定説とされているのは、金沢の長生殿、長岡の越の雪、松江の山川であり。鶏卵素麺は次点といったところです。残念ながら知名度は低く、隅に追いやられてる印象があります。業績不振から製造・販売元の松屋利右衛門が身売りしたことも影響しているのでしょう。現在は、工場を買った鹿児島の会社が運営する松屋、そして創業家が再興した松屋利右衛門の2店が製造・販売しています。歴史的背景から、開放的で進取の精神に富むとされる福岡市民の気風は素晴らしいと思いますが、鶏卵素麺に限らず、福岡市には、もっと大事にすべきものが数多くあると思います。(写真出典:edepart.sogo-seibu.jp)

2023年11月25日土曜日

「ザ・キラー」

監督: デヴィッド・フィンチャー     2023年アメリカ

☆☆☆☆ー

希代の才人デヴィッド・フィンチャーが、Netflixに持ち込んだ企画です。2020年にアカデミー賞を逃した「Mank/マンク」に続くNetflixオリジナルです。本作は、フランスのコミックを原作としています。一見、絵に描いたようなネオ・ノワール映画に見えます。ただ、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「サムライ」(1967)やトレヴェニアンの「シブミ」(1979)へのオマージュであり、かつパロディ的でもあるというところが、この映画の面白さだと思います。デヴィッド・フィンチャーらしいきめ細かな映像と展開が光り、効果的にザ・スミスの音楽が使われるなど、実にスタイリッシュな仕上がりとなっています。あらためて、デヴィッド・フィンチャーのセンスの良さに驚かされます。

ジャン=ピエール・メルヴィルの監督・脚本になる「サムライ」は、孤独で冷静なプロの殺し屋を描いています。よく練られた脚本、静謐さをたたえた映像美、アラン・ドロンの名演もあって、フィルム・ノワールの傑作とされています。ただ、サムライは、フランスのフィルム・ノワールが得意とする男たちの友情や絆とはまるで異なる孤独をテーマとしています。映画は「サムライの孤独ほど深いものはない」というキャプションから始まります。そして、殺し屋の暗い部屋が前後に揺れるという有名なカメラ・ワークが続きます。サムライは、この始まりの時点で、典型的なフィルム・ノワールと決別していると言えます。あえてジャンルにこだわるとすれば、ネオ・ノワールの始まりと言えるかも知れません。

ジャン=ピエール・メルヴィルは、レジスタンスの闘士であり、フランス初の独立系映画作家であり、ヌーベル・ヴァーグの精神的支柱としても知られます。トレンチ・コートとフェドーラ帽へのこだわりなど、スタイルへの執着でも知られます。サムライは、いわばメルヴィル的美学の結晶のような作品だと思います。マーティン・スコセッシ、 クエンティン・タランティーノはじめ、多くの映画人が、その影響を受けているとされます。フィンチャーもその一人なのでしょう。出世作となった「セブン」(1995)のタイトルバックや冒頭のシーンには、あきらかにサムライの影響が見られます。フィンチャーも、メルヴィルと同様に完璧主義者として知られます。

ただし、ザ・キラーは、単なる現代版サムライでもありません。フィンチャーは、あえてサムライのフレームを使うことで、自らの美学とメルヴィルのそれとの違い、あるいは半世紀前とは大いに変わってしまった今の時代を強調したかったのかも知れません。サムライの冷徹な殺し屋は、内省的で求道者のような風情を持ちます。メルヴィルの東洋的な精神論への傾斜が反映されているわけです。ザ・キラーの主人公もプロフェッションに忠実で冷徹な殺し屋です。しかし、内省的でもなく、求道者的な人間性への信頼もありません。ドライに現実と向き合い、ハイテク機器や武器を巧みに使いこなし行動します。それは、物質文明にどっぷりと浸かり、組織、哲学等に頼ることもなく、あえて荒野で生きざるを得ない現代人の不毛と孤独を現わしているようにも思えます。

そういう観点から、主人公の殺し屋にマイケル・ファスベンダーという配役は見事だったように思います。それ以上にうまく行ったのは、ティルダ・スウィントンの起用だと思います。彼女の出たシーンが、この映画の背骨になっています。ところで、フィンチャーは、レベルの高い話題作を次々発表してきましたが、不思議なことに、一度もアカデミー賞を受賞していません。Netflixは、毎年この時期、アカデミー賞ねらいの作品を複数投入してきます。ザ・キラーも、その一つなのでしょう。2022年の「マンク」は獲れるかもと思いましたが、今回は難しいと思います。思うに、フィンチャーの映画の出来はいつも素晴らしいのですが、どこか器用さが目に付くところがあります。器用貧乏とまでは言いませんが、監督の思い入れといった部分で損をしているように思います。ライフ誌の記者だった父親の脚本を映画化した「マンク」だけは、器用さ以上のものを感じさせました。(写真出典:eiga.com)

2023年11月23日木曜日

益子と民藝

久方ぶりに益子へ行ってきました。益子名物の陶器市が終わった直後で、多くの店が休業、人もまばらでしたが、穏やかな秋の日差しのもと、のんびりと散策できました。益子の陶器市は、春秋2回開催されます。常設店舗50店に加え、窯元や作家が直接出店する特設テントが600張りも並ぶと聞きます。人出は、春が40万人、秋は20万人という大イベントです。日本三大陶器市と言えば、佐賀の有田陶器市、岐阜の土岐美濃焼まつり、愛知のせともの祭になります。ただ、陶器市は、全国各地の産地で開催され、どこも多くの人で賑わいます。単に陶器が安く買えるだけなら、人出も知れたものでしょうが、やはり日本人は陶器好きなのだと思います。 

益子は、豊富な陶土を背景に、古くから陶器作りが行われていたようです。ただ、益子の陶土は肌理が粗く、主に甕、壺、火鉢といった生活陶器が作られていました。その素朴な風合に惹かれ、益子で作陶し続けたのが濱田庄司でした。川崎の溝ノ口で生まれた濱田は、東工大窯業科で、近代陶芸の祖と言われる板谷波山に師事します。柳宗悦、河井寛次郎、富本憲吉、バーナード・リーチらとともに、民藝運動を起こしたことでも知られます。また、英国はじめ欧州でも知られた存在であり、人間国宝にも認定されています。益子焼の一般的なイメージは濱田によるところが大きいと思います。その後、モダンな作陶で知られる加守田章二が登場したことで、益子には多くの陶芸家が集まるようになり、多様な陶器を生み出していきます。

益子の中心部の丘の上には、益子古城跡があります。宇都宮氏の家臣だった益子氏の居城でしたが、益子氏は謀反によって16世紀末に滅ぼされ、廃城されます。現在は「陶芸メッセ益子」として、陶芸美術館の他に、濱田庄司邸と登り窯も移築、展示されています。濱田邸は、民藝の祖らしく素朴な日本家屋ですが、太い梁が印象的な見事な建物です。美術館では、折しも芹沢銈介展が開かれていました。染織家・芹沢銈介も、民藝運動の立役者の一人です。伝統工芸をモダンなデザインに展開したことで知られ、人間国宝に認定されています。美術館では、同時に「棟方志功と京都・十二段家」展も開催されていました。民藝運動の聖地の一つである料理屋の十二段家は、しゃぶしゃぶ発祥の店として知られます。

しゃぶしゃぶは、戦争中、中国に軍医として派遣されていた民藝運動家の吉田璋也が、帰国後、モンゴル自治区の涮羊肉を十二段家に伝えたことから始まります。ちなみに、しゃぶしゃぶという名称は、十二段家からレシピを教わった大阪のスエヒロが命名しています。民藝運動家や文学者のサロンだったという十二段家には、棟方志功や河井寛次郎の作品があふれていると聞きます。棟方志功の出世作「大和し美し」には興味深いエピソードがあります。まだ無名だった棟方は「大和し美し」を国画展に出品しようとしますが、大きすぎて出品を拒否されます。たまたまそこに居合わせた柳宗悦と濱田庄司が作品に感銘を受け、その出品を実現させたと言います。それが、後にヴェネチア・ヴィエンナーレを征し、世界のムナカタとなる版画家の始まりだったわけです。

昔から疑問に思っていることがあります。民藝調とも言える独特の字体があり、民藝フォントとしても知られています。スエヒロや東京にしゃぶしゃぶを紹介した”ざくろ”の店名ロゴも民藝調です。その起源は、調べてもよく分かりません。ただ、棟方志功の版画に多く登場する独特の文字によく似ています。棟方の場合、意図した字体というよりも、荒々しく彫った木版が生む風合のようにも見えます。それが、風土が直接語りかけているような棟方の作風を形作っている面もあります。棟方の文字に芹沢銈介のデザイン性が加わり、今の民藝調の文字ができているように思えます。ちなみに益子の陶器市のメイン・バナーも、木版画に民藝調の文字が並んでいます。益子は、陶器と民藝の町です。民藝は、やさしくしっくりとした安心感を与えてくれます。(写真出典:mashiko-kankou.org)

2023年11月21日火曜日

おにぎり

おにぎりがブームなのだそうです。と言っても、近年、数が増えたおにぎり専門店が大人気という話です。なかには、数時間ものの大行列ができている店もあるようです。専門店のおにぎりは、上質な具材とふんわりとした握り方が特徴だと思われます。また、斬新なおにぎりや、いわゆる映えるおにぎりもあるようです。値段は、多少高めだとは思います。ただ、おにぎりのことですから知れたものでしょう。物価高が生活を圧迫するなか、いわゆるプチ贅沢ということで人気を集めているのだと思われます。また、コンビニおにぎりで育った若い人たちにとって、ふんわりと握られたおにぎり、高級感のある具材は新鮮なのかも知れません。日本の国民食であるおにぎりですが、たまに変化が起きるところが面白いと思います。

おにぎりの歴史は古く、弥生時代の遺跡からは、似たようなものが出土しているようです。現在と同じおにぎりは、古墳時代の遺跡で見つかっています。ジャポニカ米の特徴である粘り気が、おにぎりという食べ物を生んだのでしょう。日本と同じくジャポニカ米を栽培する中国北部や朝鮮半島には、冷たい米を食べる文化がなく、おにぎりは日本で独自に生まれ、育ったようです。平安時代には一般化していたようですが、戦国の世になると、兵糧としてさらに広がります。江戸期には、白米の生産が大幅に増えたこともあり、農作業時の昼食、小昼として、あるいは旅や行楽のお共としても普及します。また、海苔の生産が盛んになったことから、海苔を巻くスタイルも登場し、ほぼ現在に至るおにぎりの姿が出来上がります。

おにぎりは簡単に作れることもあって、家庭で作って食べるものでした。それを大きく変えたのは、コンビニおにぎりの登場でした。おにぎりは買って食べるものになったわけです。日本におけるコンビニ第1号は、1974年に開店したセブンイレブンの豊洲店でした。おにぎりは、開店当初から販売されていたようですが、マイナーな商品でした。それを大きく変えたのは、1978年にセブンイレブンが採用したフィルム式包装でした。ご飯と海苔をフィルムで仕切って包装し、食べるタイミングで海苔を巻くという画期的な商品でした。海苔のパリパリ感が人々を驚かせました。翌年には、シナノフーズがフィルムを引き抜くパラシュート式を開発、1990年には、同社が開発し、現在も主流となっているセンターカット式が登場しています。

この包装がコンビニおにぎりの爆発的ヒットにつながり、定番化したわけです。その立役者だったパリパリの海苔ですが、国内の生産量は、1990年をピークに下落しています。生産地個々の事情もあるようですが、最大の減少要因は、海水温の上昇です。地球温暖化が、ストレートに海苔の生産減少、価格高騰につながっています。海苔好きには頭の痛い話です。10年ほど前、築地の寿司屋のカウンターで、この話を知人にしていたら、大将が「お客さん、違うよ。海苔が高値になった一番の原因は、コンビニおにぎりだよ」と言うのです。あいつらが海苔を買いあさるから、ただでさえ減っている海苔の値段を押し上げているんだ、こっちはいい迷惑だよ、と苦々しく言っていました。

コンビニおにぎりは、手軽で便利なものです。ただ、海苔のパリパリ感は良いのですが、機械で成型されたおにぎりは堅すぎると思います。本来的なおにぎりの空気を含んだふんわり感とは随分と違います。そのことへの批判や反省からか、コンビニでは、ふんわりとした高級おにぎりも発売されています。ただ、今度は、握れていないおにぎりになっています。おにぎりは、寿司のシャリと同じで、外はしっかり、中はふんわり、が基本なのだと思います。それは、おそらく手で握らないと実現できない食感なのでしょう。さはさりながら、国民食であるおにぎりは、様々なスタイルがあっていいのだとも思います。伝統は、今、輝いてこそ意味がある、と言っていいのでしょうから。(写真出典:kurashiru.com)

2023年11月19日日曜日

越中守

宴席で、戦国武将では誰が好きかという話になりました。私は、さほど戦国武将に詳しいわけでもないので、これといって好きな武将はいません、ただ、細川忠興にはいつも興味を惹かれます、と答えました。その理由を聞かれたのですが、一言で語れるものではありません。まさにその複雑さに惹かれるわけです。細川越中守忠興は、足利家支流の名門細川家に生まれ、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。戦場にあっては武勲の誉れ高く、かつその判断の苛烈さでも知られます。一方では、細川三斎として、利休七哲に名を連ねるほどの茶人であり、三斎流の開祖でもあります。また、正室であった明智光秀の三女・玉子、洗礼名・ガラシャを深く愛したことでも知られます。

とにかく戦国の世にあって異彩を放つ人だと思います。まずは、権力者が目まぐるしく変わる戦国の世にあって、常に勝ち組についた政治的判断力の高さは見事です。恐らく最大の危機は本能寺の変だったと思われます。信長の臣下として頭角を現わした忠興は、信長の仲介によって光秀の三女を正室に迎えます。本能寺の変が起きると、光秀は、忠興に自陣に加わるよう求めます。忠興は、父・幽斎とともに、信長を弔うとして剃髪し、合流を断ります。なお、ガラシャは、累が及ばぬよう領地であった丹後に幽閉されます。これらが功を奏し、秀吉傘下となった忠興は、小牧・長久手の戦い以降、戦場で武勲を重ね、七将に数えられるまでになります。秀吉の甥・秀次に借財のあった忠興は、秀次事件で秀吉の追及を受けることになります。

これを救ったのが徳川家康でした。秀吉が亡くなると、七将は石田三成と敵対しますが、忠興はさらに徳川方に近づき、関ヶ原の合戦では東軍として戦います。その際、大阪城内の細川屋敷にいたガラシャは、三成方の襲撃を受けます。ガラシャは、キリスト教の教義上、自殺することは出来ず、家老の介錯で死にます。さらに、遺体を残さぬために屋敷を爆破させています。関ヶ原で三成本隊と戦った忠興は、その功績が認められ、豊前33万9千石を受領し、総構え、唐造りの天守を持つ小倉城を築いています。戦に強く、文化人でもあった忠興らしい城だったのでしょう。大坂の陣でも功をあげた忠興は、肥後熊本54万石に加増・移封されます。以降、明治の廃藩置県まで、細川家は熊本藩主の座にありました。

丹後半島へ旅行した際、忠興への興味を一層かき立てられる話を聞きました。本能寺の変の前のことですが、細川家は、信長に与えられた丹後南半国を領有し、宮津城を拠点としていました。一方、丹後北半国は、一色氏が治めていました。当初、一色氏は、信長と敵対していましたが、光秀によって、信長方へ取り込まれます。その際、光秀は、忠興の妹・伊也を一色に嫁がせます。本能寺の変が起きると、一色義定は、上司となっていた光秀の要請に応え加勢します。部下としては当たり前の判断であり、上手に逆らった忠興はむしろ例外的だったのでしょう。光秀を破った秀吉は、細川家との姻戚関係に配慮し、一色家を処分していません。ただ、光秀に加勢したことは忘れていませんでした。一色に謀反の恐れあり、と秀吉から耳打ちされた忠興は、一色義定を宮津城での宴席に誘い、だまし討ちにしたうえで、一族・郎党を皆殺しにしています。

この残酷な仕打ちに、妹・伊也は、兄・忠興に斬りかかったと言われます。また、次男の忠秋は、大阪の陣で豊臣方に与しました。これを家康は赦したものの、忠興は自害を命じています。家康が長男を自害させたことが思い出されます。忠興は、家族にも部下にも厳しい人だったようです。これが戦乱の世を生き抜く忠興の覚悟であり、永く続く名門の底力のようにも思えます。また、忠興の冷徹で合理的な判断は、国際的企業の経営者に通じるものもあります。落語「竹の水仙」で、左甚五郎が宿代代わりに彫った竹の水仙を目にして、これを所望したのは細川越中守とされます。宿の亭主に、値段を聞かれた甚五郎は「越中ならば200両」と答えます。現在価値では数百万円になります。細川越中守は、時代背景からして忠興が想定されているものと思われます。フィクションとは言え、忠興の文化人ぶりと財力が、いかにリスペクトされていたが伝わる噺です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年11月17日金曜日

インディアン・サマー

”インディアン・サマー”は、日本語で小春日和と訳されます。晩秋から初冬のよく晴れて日中は気温も上がる穏やかな陽気を指します。日本では、春の日が訪れたようだということで小春日和と言います。欧州中部では”老婦人の夏”、南欧では聖人の日にあわせ”聖マルティンの夏”、中国では”秋老虎”とも呼ばれるようです。”老婦人の夏”は、日光に照らされた蜘蛛の巣が老婦人の白髪に見えることから名付けられたと聞きます。”インディアン・サマー”の語源については定説がありません。インディアンが冬に備えて猟を行うのに最適な天気という説が有力とされます。ただ、猟としては、インディアン独特の風習でも、晩秋に限った話でもなく、いまひとつ説得力に欠けると思います。

アメリカにいる頃、数人のアメリカ人に、なぜインディアン・サマーと呼ぶのかと聞いてみました。面白いことに、全員から、同じ答えが返ってきました。寒い気候に支配された晩秋に、暑い夏が逆襲しているかのような天気であり、それが白人に追いやられたインディアン(ネイティブ・アメリカン)の逆襲に例えられている、というわけです。この話の方が説得力があり、アメリカ人の一般的認識なのではないかと思います。多分に西部劇の影響があるようにも思いますが、現代の米国人、特に白人たちのネイティブ・アメリカンに対する罪の意識が高いことの現れのように思えました。言うまでもなく、アメリカ開拓の歴史は、ネイティブ・アメリカンをだまし、襲い、殺し、土地を奪っていく歴史でもありました。

ネイティブ・アメリカンと植民者との戦いは、16世紀に始まります。植民とは、一方には開拓でも、他方には侵略ですから、争いが起こって当然です。戦いが起こった背景には、契約という概念がネイティブ・アメリカンになかったこと、そして植民者側がネイティブ・アメリカンの社会構造を理解していなかったことにあるとされます。つまり、ネイティブ・アメリカン側には土地の売買という概念がなく、植民者が土地の代金として渡した金品は贈り物と理解されたと言います。また、ネイティブ・アメリカンの社会にヒエラルキーは存在せず、小規模な集団が合議に基づき行動するのみでした。白人が勝手に名付けた”酋長(チーフ)”の実態は、集団の調整人に過ぎません。”酋長”に✕と署名させた契約書など無意味だったわけです。

小競合いは別として、戦争規模の武力衝突は、16~20世紀初頭までに100弱存在します。独立後、急増した移民たちが西へ西へと開拓を進めると、武力衝突の数は増えていきます。19世紀には60弱の”インディアン戦争”が起きています。西部では、スー、コマンチ、シャイアン、あるいはアパッチといった騎馬に長けた勇猛な部族による”逆襲”が起こっています。ただ、"インディアン戦争”でネイティブ・アメリカンが勝利することは、ごくごく稀でした。白人たちの記憶に刻まれている敗戦は、1876年、第七騎兵隊が殲滅されたリトル・ビッグ・ホーンの戦いくらいだと思われます。功を焦ったカスターが突出したために、シャイアン等の部族連合に待ち伏せされた戦いです。後に、第七騎兵隊は、仕返しとしか思えないウンデット・ニーの虐殺を起こしています。

野球のメジャー・リーグで100年を超える歴史を有するクリーブランド・インディアンズが、2021年、球団名をガーディアンズに変えました。ポリティカル・コレクトネスに配慮した結果です。しかし、ネイティブ・アメリカン問題は、単なる人種差別の問題ではありません。強制移住と保留地軟禁、同化政策の失敗、援助依存化等々、連邦政府の政策は、ネイティブ・アメリカンを孤立させ、極貧状態に置いてきました。保留地の自治権は、カジノ運営などで収入を増やしましたが、一部に限られています。また、自治化は自己責任化という側面も持ちます。いずれにしても、問題の本質は、生活と文化を維持する手立てを奪われたことにあり、根本的解決は厳しいと思います。そして、ネイティブ・アメリカンは一つではなく、部族毎に分かれているため、一律の政策では対応できないことも大きな障害となっています。一時的な”インディアンの逆襲”はあっても、ネイティブ・アメリカンの勝利は望み薄と言わざるを得ません。(写真出典:metmuseum.org)

2023年11月15日水曜日

鵯越

“鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし” は、一ノ谷の合戦のおり、源義経が騎乗したまま崖を下り、平家を蹴散らすという平家物語屈指の名場面です。須磨浦から舟で敗走した平家は、屋島でも惨敗、さらに西へと向かい、壇ノ浦で滅亡します。平家物語は、鎌倉時代に成立したとされる軍記物語です。盲目の琵琶法師によって、節をつけて語られる平曲としても知られます。歴史書ではなく、あくまでも大衆向けの語り物です。大筋では歴史を踏まえているとしても、細部は大いに脚色されていて当然です。逆落としについても、それが事実か否かを含め、種々の議論があります。逆落としが行われた場所については、神戸市西部の鉄拐山(てっかいさん)が、最も有力な候補とされています。

鉄拐山の姿は、写真や映像で何度も見ていますが、言うほど急峻な崖には見えません。一度、実際に見てみたいと思い、今般、初めて須磨浦へ出かけました。本来的には、鉄拐山に登るべきではありますが、レトロなロープウェイとカーレーターを使って鉢伏山に登り、東に鉄拐山を望むことにしました。実際に見てみると、崖は写真よりもかなり厳しいものでした。最大斜度は40度とのこと。30度の斜面でも、上から見れば直角に見えるものです。決して高い山ではありませんが、斜面には砂岩が露出しており、”須磨アルプス”と呼ばれるのも頷けます。人が降りることも危険ですが、馬に乗ったまま一気に下ることなどもってのほかです。逆落としが事実ならば、ギネス・ブックものの大チャレンジだと思います。

”鵯越の逆落とし”は、平家物語によって広まったフレーズと言えます。現在も六甲山地の西に鵯越という地名が存在します。平安期と同じ場所なのかは不明ですが、鉄拐山とは8kmも離れています。平家物語によれば、義経一行は獣しか通わない鵯越という難所を越えて一ノ谷口の裏手の山へ至ったということになります。つまり、“鵯越”と”逆落とし”の場所は異なります。それが、何故かひとまとめにされ一般化したわけです。近年の研究で、当時、国境の石碑がある場所は”ひよ”、谷筋は”とり”とも呼ばれていたことが分かったようです。鉢伏山は摂津と播磨の国境にあり、険しい谷もあり、”ひよ・とり”に合致します。逆落としは、鉢伏山で行われた可能性も浮上しているようです。

1184年、後白河法皇の平家追討の宣旨を受けた源頼朝は、5万6千の兵をもって範頼に大手を、1万の兵を率いる義経を搦手として、福原の平家本陣を攻めます。2月7日、浜沿いに進む大手軍は、夜明けとともに生田口の平家を攻め、激しい攻防戦が行われます。山中を行く搦手の義経は、三草山で平家を破った後、兵を分けて福原の北の夢野口へ向かわせる一方、自身は一ノ谷口を目指します。このあたりから、諸説が入り乱れることになります。平家物語、吾妻鏡、玉葉等で、微妙に違いがあります。鵯越で兵を分けたか否か、夢野口への攻撃を率いたのは安田義定か多田行綱か、逆落としが行われたのは鵯越か鉄拐山か、逆落としを行ったのは70騎だけなのか3千の兵なのか、等々。

それにしても、いまだに研究者や好事家の議論が絶えないということは、いかに源義経の人気が高いかを現わしています。歴史上確認できる義経の動向は、1180年、黄瀬川の陣において兄・頼朝と再会し、1189年、衣川で自害するまでの9年間だけです。享年31歳。奢れる平家を華々しい活躍で滅亡させ、頼朝に謀反を疑われて逃走し非業の死を遂げるという、短いながらも波瀾万丈な生涯が、人々を惹きつけてやまないわけです。九郎判官義経の人気は、鞍馬寺の牛若丸に始まり、大陸へ渡りジンギスカンになったという説まで、実に多くの伝説を生むことになります。それどこか、理屈抜きで弱いものに味方する判官贔屓という日本人の気質まで生みました。平家物語が語る”諸行無常”とは、平家の栄華と没落だけではありません。平家を滅ぼした義経の生涯もまた”春の夜の夢のごとし”だったわけです。(写真:鉢伏山から望む須磨浦)

2023年11月13日月曜日

広島の味

がんす
厳島神社での観月能の前に、腹ごしらえをしようと、宮島口の「あなごめし うえの」に入りました。行列店とのことですが、夕刻なのですんなり席につけました。あなご飯は、昨年の観月能の際、宮島の人気店「ふじたや」に行列して食べました。あまりピンと来ませんでした。江戸前の煮あなごは好きですが、あなご飯となると、どうしても鰻丼と比較してしまい、物足りなさを感じます。四国出身の友人は、子供の頃、鰻だとだまされてあなごを食べており、初めて鰻を食べた時には感動したと言っていました。というわけで、あなご飯には食指が動かなかったのですが、宮島一番の老舗だというので”うえの”に入りました。驚きました。美味しかったのです。ふわっとした仕上がり、絶妙な旨味を感じるタレと飯、また食べたいと思いました。 

観月能の幽玄の世界を堪能した後、広島市内に戻り、友人と薬研堀へと繰り出しました。流川・薬研堀界隈は、中国地方最大の歓楽街と言われます。昨年、広島のお好み焼きの魅力を”発見”したこともあり、良さげなお好み焼き店を探し、飛び込みました。結果的には大正解。行列のできる人気店「越田」でした。まずは、ご挨拶代わりに、広島名物がんすを注文。がんすは、すり身にタマネギや唐辛子などを加えてから長方形に成形し、パン粉をつけて揚げたものです。がんすは、昭和初期、呉で揚げかまぼことして誕生したようです。名前は、広島弁の「〇〇でございます」を意味する「〇〇でがんす」をもじって付けられたとされます。何故か、すり身は揚げると甘みが出ます。それにタマネギまで入るのですから、美味いに決まっています。鉄板で焼いてもらったがんすは絶品でした。

続いて、広島へのご挨拶シリーズとして、牡蠣を注文しました。鉄板焼きの牡蠣と言えば、バター醤油が定番ですが、自家製の牡蠣ソースで焼いてくれました。牡蠣の多少の塩味と甘味のあるソースがベストマッチで、まるで新しい料理を食べているようでした。他にも、なじみのない”ゲタ焼き”というメニューがあり、注文しました。ゲタとは、豚の肋骨の骨と骨の間の肉のことで、言わば中落ちというわけです。多少堅さがあり、噛むほどに旨味が出てきました。そして締めは、当然、お好み焼きです。綺麗に焼き上がったお好み焼きは、蒸したキャベツの甘さがたまらない絶品でした。ちなみに、広島焼き、あるいは広島風お好み焼きという言い方がありますが、広島人からすればもってのほか、あくまでも”お好み焼き”なのだそうです。

生地に具材を混ぜ込んで焼く大阪のお好み焼きと違い、クレープ状に焼いた生地でキャベツ、焼きそば、他の具材を挟み込む広島のお好み焼きは、蒸し焼きと言ってもいいのでしょう。大正期に関西で広まった一銭洋食が広島のお好み焼きのルーツとされます。関西では、それが具材を混ぜるお好み焼きへ変わりますが、広島では一銭洋食の挟むスタイルが継承されたわけです。キャベツが主役に躍り出るのは、戦後の混乱期だったようです。要は、安価で入手しやすい食材だったのでしょう。また、食糧不足にあえぐ大衆のために、腹持ちのよい焼きそばが加えられます。ちなみに、”ちゃん”のつくお好み焼き屋が多いのは、多くの戦争未亡人が、屋台でお好み焼きを焼いて食いつないだからだとのこと。戦後の混乱が、広島のお好み焼きを生んだと言えるのでしょう。

広島のお好み焼きに欠かすことのできない食材の一つに”イカ天”があると言います。イカ天とは、薄く伸ばしたスルメイカを衣をつけて揚げたものです。酒のつまみとして、あるいは駄菓子として知られますが、実は広島県発祥、かつその生産もほぼ広島県が独占しているようです。江戸期、良質の塩と交換するために尾道へ集まった各地の物産のなかに、北海道のスルメイカがあり、イカ天が生まれたとのこと。お好み焼きのトッピングとして、あるいは隠し味として使われるようです。味に深みがでることは間違いありません。もんじゃのさきイカに通じるものがります。総じて、広島県はB級グルメに事欠かない土地柄のように思えます。人口の多くが海岸沿いの工業地帯に集中しているからなのかも知れません。(写真出典:hotpepper.jp)

2023年11月11日土曜日

酒船石

酒船石
アニミズムに基づく古代の巨石文化は、世界中にあります。日本も他国と同様に、環状列石、ピラミッド、ケルン、メンヒル等々があります。ただ、日本の場合、石があまり大きくない傾向があります。石の大きさは、集団の規模、権力の集中度等とも関係すると思われます。卑弥呼、ヤマト王権が登場するまで、倭国は規模の小さな部族に分かれていました。それが小ぶりな石の文化につながっているのでしょう。ヤマト王権が確立された飛鳥時代になると、大きな石を運んで加工するという巨石文化が現れます。石舞台は蘇我馬子の墓とされます。猿石、石人象、須弥山石等は、権威を示すためのモニュメントとされ、噴水の機能を持つ石もあります。また、益田岩船、酒船石など、何のために作られたのか不明なものもあります。 

飛鳥の巨石文化のなかで、最も興味深いものは、酒船石だと思います。全長5.5m、幅2.3m、厚さ1mの石の表面には、円形の窪みから3本の溝が放射状に走り、液体が流れるような構造になっています。さらに円形・楕円形の浅い窪み穿かれ、全体としては幾何学的な構図のように見えます。酒船石は、高台の上に置かれています。高台は、見事な石垣を回すなど人工的に造られたもののようです。酒船石という名称は、江戸時代に定着したとされています。酒を造る道具という見立てがされたのでしょう。しかし、そうは見えません。何らかの祭祀を行うための道具立て、薬を造るための仕掛け、あるいは宇宙人が何らかの記録として残したのではないかという説まであります。

30年前、酒船石のある高台の下の窪地から、亀形・小判型の石造物が発見されます。湧水樋から小判型の石の窪みに、そして亀をかたどった石の円形の窪みへと水が流れ落ち、それぞれの窪みに貯められるような仕組みも施されています。しかも周囲は、人目を避けるように掘り下げられ、斜面には観客席のような石段まであります。文献に記載がないことから、その目的や用途は不明ですが、類した工事の記述が、日本書記の斉明天皇期にあると言います。謎の石造物ではありますが、これは間違いなく占いのための道具立てだったと思います。文献がないこと、人目を避けるような高台や窪地にあることが、何よりの証拠です。占いは秘儀であり、むやみに人に見せるものでも、その手順を記録するものでもありません。

とすれば、亀形・小判型石造物に付属する観客席のようなものは何か、ということになります。日本書記には、唐・新羅連合軍に攻められた百済への援軍派遣に際し、斉明天皇自らが、その可否を占ったとあるようです。恐らく酒船石は占術師が使う道具であり、亀形・小判型石造物は、天皇自らが占いを行う場所だったのではないでしょうか。天皇が占う際には、運命を共にする、あるいは心を一つにすべき高官たちを同席させることがあったものと思われます。飛鳥時代の占いとしては、筮竹を用いる易占、亀の甲羅を使う亀卜等が知られていますが、神の言葉を伝える神託も行われていたはずです。卑弥呼はじめ呪術者には女性が多かったようです。亀形・小判型石造物は、女帝である斉明天皇ならではの遺跡のように思えます。

欧州の巨石文化は、石材を使った建築技術の発展、あるいは信仰から宗教の時代へと変わることによって消えていきます。飛鳥の巨石文化は、強大なヤマト王権の確立、渡来人がもたらした文化と技術を背景に誕生したものと思われます。仏教が隆盛しつつあった飛鳥時代の巨石文化は、そもそもアニミズムとの関連が薄く、墓や呪術系の道具立てを除けば、せいぜいが庭石だったわけです。神仏混淆の日本では、自然のなかにある巨石への信仰は続きますが、仏教寺院や仏像は、より加工しやすい木材や青銅で造られていきます。やや極論かもしれませんが、日本の巨石文化は、おおむね飛鳥時代に庭石としてスタートしたことで、世界に類を見ない枯山水の石庭を生んだと言えるような気がします。

2023年11月9日木曜日

甘樫丘

奈良へは、仕事で何度も行きましたが、観光する時間など全くなく、早起きして東大寺、興福寺あたりにお参りするのが精一杯でした。平城京どまりというわけです。今般、正倉院展を観るついでに、飛鳥まで足を延ばしました。これまで飛鳥へ足が向かなかったのは、建造物が残っておらず、石碑以外には、古墳や巨石ばかりというイメージが強かったからです。例えば古戦場は、その戦闘の詳細を知らなければ、ただの原っぱです。同様に、多少なりとも飛鳥時代を知らなければ、そこへ行く意味はないわけです。近年、歴史的、あるいは考古学的な発見や研究が進んだこともあり、古代史がブームの様相を呈しています。私も、古代史関連の本を何冊か読んだので、いよいよ飛鳥へ行ってみようかと思った次第です。

飛鳥時代は、592年、推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位した時から、藤原京、ないしは平城京への遷都までの約1世紀を指します。大雑把に言えば、推古天皇の摂政だった聖徳太子が国としての形を整え、国家鎮護のための仏教が隆盛し、白村江で唐・新羅に大敗し、中大兄皇子が国防強化のために律令体制を導入し、初めての都城である藤原京が造られた時代です。部族国家であった倭国が、中央集権的な日本国へと変貌を遂げた世紀と言えます。豊浦宮から藤原京に至る王宮は、奈良盆地南部に集中しており、現在の明日香村一帯が飛鳥と呼ばれます。実に狭いエリアであり、明日香村北部の甘樫丘に登れば、歴史の舞台をほぼ一望できます。今回の目的の一つが、この甘樫丘に登ることでした。

甘樫丘は、飛鳥川に面した標高148mという小高い丘です。万葉集で歌われた植物を集めた”万葉の植物路”を中心に国営歴史公園として整備されています。7世紀前半に権勢を振った蘇我蝦夷と入鹿の親子が、それぞれ邸宅を構えていたことでも知られます。蘇我氏は、武部宿禰を祖とする有力豪族です。蝦夷の父である蘇我馬子は、半島から伝来した仏教に深く帰依し、仏教を邪神とする物部守屋と対立します。皇位継承を巡って対立を深めた両者は、587年、ついに刃を交えます。丁未(ていび)の乱です。苦戦した馬子が勝利できたのは、陣営に参加していた厩戸皇子、後の聖徳太子が四天王像を彫り、戦勝を祈願したためとされます。馬子は、崇峻天皇を即位させますが、政策全般で溝が深まったため、崇峻を殺害します。

そして、日本初の女帝である推古天皇を擁立し、聖徳太子を摂政とします。蘇我氏が実権を握ったわけですが、入鹿の時代になると、その専横ぶりは度を超し、天皇位を窺うまでになったとされます。645年、入鹿は、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後に藤原鎌足)らによって、皇極天皇の目前で殺害されます。蝦夷も自害しています。この乙巳(いっし)の変を機に大化の改新が始まります。日本書紀は入鹿の大悪人ぶりを多く語りますが、近年の発掘・研究によって、それらが事実ではないことが判明しつつあるようです。藤原氏が、入鹿殺害を正統化するために偽造した、というのが学界の定説になっているようです。さらに、17条の憲法などは馬子の業績であり、それを否定するために、聖徳太子という人物がねつ造されたという説まであります。いわゆる勝者の歴史というわけです。

蝦夷・入鹿の邸宅があった甘樫丘の上からは、東に飛鳥寺を見下ろすことができます。蘇我馬子によって建立された飛鳥寺は、伽藍を備えた日本初の仏教寺院とされます。既に伽藍は失われ、小ぶりな寺院が再建されています。本尊は、日本初の仏像とされる釈迦如来像であり、飛鳥大仏とも呼ばれます。法隆寺金堂の国宝・釈迦三尊像の作者としても知られる渡来人の止利仏師の作とされます。ただ、飛鳥大仏も幾たびか焼失し、首だけが残ったとされます。現在は、修復を重ねた姿で鎮座しています。飛鳥寺の境内を西に出てすぐのところには、入鹿の首塚があります。甘樫丘、入鹿の首塚、飛鳥寺が一直線に並んでいるわけです。わずかな距離のあいだに、蘇我氏の盛衰が凝縮されているとも言えます。(写真:蘇我入鹿の首塚、後方は甘樫丘)

2023年11月7日火曜日

芦雪


伊藤若冲ブームのきっかけを作ったのは、美術史家の辻惟雄とされます。美術手帖誌に連載後、1970年に出版された「奇想の系譜」が、それまでキワモノ的扱いだった江戸中期の6人の画家たちを、アヴァンギャルドという視点から再評価することになりました。6人の画家とは、岩佐又兵衛、狩野山雪、曽我蕭白、伊藤若冲、長沢芦雪、歌川国芳です。2006年、国立博物館の「プライス・コレクション展」で注目を集めた若冲がブームを先行する格好となりましたが、他の画家たちの絵も若冲と併せて展示されるようになります。そして、2019年、辻惟雄のベストセラーのコンセプトを具現化したような「奇想の系譜展」が東京都美術館で開催されます。ようやくこれで三役揃い踏みといった感じになりました。

「奇想の系譜展」には、6人以外に鈴木其一と白隠慧鶴も加えられていました。何とも凄みのある展覧会で、若冲など大人しく見える程でした。なかでも、蕭白と芦雪のパワーには驚きました。今般、大阪中之島美術館で「生誕270年 長沢芦雪―奇想の旅、天才絵師の全貌―」展が開催されました。待望された回顧展だと言えます。大阪の市立美術館は古代美術、東洋美術、江戸期までの作品を収蔵・展示するのに対して、昨年オープンした大阪中之島美術館は近現代美術を専門とします。そこで江戸中期に活躍した芦雪展を開くことは、なかなか面白いと思いました。実際には、注目度の高い回顧展なので新しい美術館で、という意図だったのかも知れませんが、芦雪の前衛性がそうさせたと思いたくなります。

長沢芦雪は、円山応挙の高弟でした。応挙は、日本画の世界に写実性を取り込み、装飾性と融合させて新たな世界を切り開いたとされます。国宝「雪松図屏風」はもとより、幽霊の絵でもよく知られます。ちなみに、足のない幽霊は、応挙の考案とされます。対して、弟子の芦雪の大胆で、奇想天外な構図は、師匠の画風とは大違いです。三度破門されたという話もうなずけます。ただ、芦雪の緻密な筆の運びは、師匠ゆずりとも言えそうです。芦雪の有名な魚の落款は、応挙の言葉に由来すると言います。氷に閉じ込められていた魚が氷が溶けると自由に泳ぐように、自分は伝統絵画から独立し自由に絵を描けるようになった、という話です。少なくとも、応挙の革新性は、芦雪にも引き継がれていたわけです。

奇想の系譜と呼ばれる画家たちが、皆、18世紀に活躍したという点も興味深いと思います。17世紀末から上方を中心に花開いた元禄文化は、経済力を増した庶民の時代の到来を告げています。奇想の画家たちが活躍する18世紀後半からは、文化・文政時代を頂点とする庶民文化の全盛期を迎えます。従来の大名お抱えの狩野派などと異なり、庶民が見ることを前提とした作画が始まった時代とも言えるのではないでしょうか。芦雪の絵は、人々を驚かせ、楽しませることによって、高揚感、幸福感、さらには精神的自由を醸成していたように思えます。それは装飾性や精神性を重視してきた日本の絵画を民主化し、絵画が持つ本来的なパワーを引き出すことにつながったとも言えそうです。

19世紀後半の欧州画壇は、ジャポネズリーからジャポニスムの時代を迎えます。日本の絵画の陰影を無視した輪郭線による平面的表現、あるいは欧州の常識にはまったく存在しなかった大胆な構図などが、その後の欧州の絵画に大きな影響を与えます。浮世絵の大胆な構図は、木版ならではとも言えますが、芦雪が切り開いた新しい絵画の影響を受けて発展したのではないでしょうか。岩佐又兵衛は、浮世絵の祖とも言われますが、それは大胆な顔の描き方によるところが大きいと思います。しかし、芦雪の大胆な構図もまた浮世絵の祖なのではないかと思います。やや極論ではありますが、芦雪は、浮世絵を通じて、欧州絵画に影響を与えたとも言えそうです。余談ですが、芦雪は、46歳のとき、大阪で死んでいます。怨恨、嫉妬による毒殺、あるいは貧困の末の自殺だったという説もあり、真相は不明のままです。(写真出典:nakka-art.jp)

2023年11月5日日曜日

Tokyo Film 2023

2023年の東京国際映画祭が、10/23~11/1、開催されました。毎年、チケットを確保することが難しく、去年は5本しか見られませんでした。今年は、システム改定もあって、比較的スムーズに9本のチケットをゲットできました。ただ、期間中、3泊4日の広島・関西旅行が入っていたこともあり、狙っていたのに見られなかった映画が2本ありました。誠に残念。うち1本が、今年、急逝したチベットのペマ・ツェテン監督「雪豹」であり、グランプリを獲得しています。


「耳をかたむけて」 ☆☆☆  監督:リュウ・ジャイン 2023年中国

スランプに陥った脚本家が、アルバイトの弔文書きを通じて知り合った女性との交流を通じて、自信を回復するといったプロットです。短編小説的な味わいのある佳作だと思います。

「平原のモーセ」(別掲) ☆☆☆☆ー  監督: チャン・ダーレイ 2023年中国 

「犯罪者たち」 ☆☆☆☆  監督:監督:ロドリゴ・モレノ 2023年アルゼンチン等

とても新しい映画の作り方だと思います。散文詩的でもありますが、実に自由な展開が、のびやかなエッセイを読んでいるような心地良さを感じさせます。銀行から金を奪った後の関係者の心理を描くというプロットではありますが、主題は、現代人にとっての自由、あるいは社会と個人という古典的テーマの現代的解釈のように思えました。

「ロングショット」☆☆☆+  監督:ガオ・ポン 2023年中国

チャイニーズ・ノワールの新しい展開だと思います。東北部の社会問題を背景としつつも、これほど銃弾が飛び交う中国映画は、戦争映画以外では初めてなのではないかと思います。主人公の影の部分の描き方も含めて、新しい中国エンターテイメント映画です。政府の検閲を通せたのは、時代とその法的背景を限定したからなのでしょう。

「ミュージック」☆☆☆☆ー  監督:アンゲラ・シャーネレク 2023年独・仏等

ギリシャ三大悲劇の一つ「オイデュプス王」をベース・プロットとしています。映画は、乾いた空気感のなかで静かなテンポで展開されますが、時折入る鋭い映像が印象的でした。ピエル・パオロ・パゾリーニのウルトラ・モダン・バージョンといった印象を受けました。峻厳さすら感じさせる映画文法は見事だと思います。

「ダンテ」☆☆+  監督:プピ・アヴァティ 2022年イタリア

ダンテ再評価の立役者として知られるボッカッチョがダンテの娘である修道女を訪ねて旅をするという興味深いプロットです。ただ、ダンテに関する解説的な展開も含めて、全体がTV番組風となっています。もう少し焦点を絞って、しっかりドラマを作った方が良かったと思います。イタリア人は、どうしてもダンテを解説したくなるのでしょう。

「野獣のゴスペル」☆☆  監督:シェロン・ダヨック 2023年フィリピン

タイトルからしてブリランテ・ドーサばりの映画を期待したのですが、社会派的ながら青春物的色合いも濃く、中途半端な印象を受けました。主演する俳優の甘いマスクが気になりました。キャスティングの段階で既にブレブレの映画だったと思います。

「アンゼルム」☆☆☆+  監督:ヴィム・ヴェンダース 2023年ドイツ

現代アート作家のアンゼルム・キーファーに関するドキュメンタリー映画です。白黒の端正な映像は、ヴェンダースの熟練の技を感じさせます。実にスタイリッシュな映画ですが、キーファーの制作意欲の根源にまで切り込んだという印象は薄く、また彫刻的でもあるキーファーの作品を考えれば、3D上映の意図は理解しますが、効果があったかどうかは疑問です。

「Somebody Comes into the Light」☆☆☆+ 監督:ヴィム・ヴェンダース 2023年ドイツ

ヴェンダースの「PERFECT DAYS」出演を機に実現した田中泯のダンス映像です。田中泯のダンス、三宅純の音楽、ヴェンダースの映像が、見事にマッチした躍動感あふれる映像でした。白黒で映し出される田中泯のダンスの迫力もさることながら、欧州を中心に活躍するジャズ出身の作曲家・三宅純の音楽が魅力的な作品でした。

(写真出典:2023.tiff-jp.net)

2023年11月2日木曜日

女踊

三宅坂の国立劇場が、建替えのために、10月いっぱいをもって閉場しました。国立劇場は、1966年のオープン以来57年間、歌舞伎・文楽・日舞・邦楽・雅楽・琉球芸能等、伝統芸能の拠点として機能してきました。同敷地内には国立演芸場、伝統芸能情報館もありますが、これらすべてを同地に新たに建設される複合ビルに取り込み、2029年には再オープンする予定とされています。正倉院の校倉造りを模した特徴的な外観は、伝統芸能の総本山として相応しいものがあり、数々の建築賞も獲得しているようです。敷地は、もともと明石藩の江戸屋敷跡であり、明治以降は陸軍が使用していました。戦後は米軍に接収され、空軍の住宅として利用されていたようです。返還後、同地に、国立劇場と最高裁が建てられました。

ここ数年は、国立劇場で、浄瑠璃と琉球芸能を楽しんできました。私にとって最後の国立劇場は、組踊と琉球舞踊の公演とになりました。国立劇場、国立劇場おきなわ等々で、幾度も琉球芸能は観てきましたが、今回が最も感銘を受けた公演になりました。組踊「女物狂」は、人間国宝の宮城能鳳が指導、地謡には同じく人間国宝の西江喜春(唄と三線)と比嘉聰(太鼓)が並ぶという豪華版でした。演じる立方よりも、地謡の方に目がいきがちでした。それよりも感動したのは、同じく人間国宝の宮城幸子が舞う女踊「諸屯(しゅどぅん)」でした。本土の七・五調と異なり、八・八・八・六調の歌で踊られる女踊は、琉球舞踊の最高峰と言われます。なかでも玉城朝薫作の諸屯は最高傑作とされています。

尚王家の血をひく玉城朝薫は、18世紀初頭、中国の冊封使を接待する踊奉行に就任します。朝薫が接待のために創作したのが組踊でした。今も朝薫五番と呼ばれる二童敵討や女物狂は、組踊の主要演題であり、組踊は朝薫に始まり朝薫に終わると言われます。女踊も多く創作しており、諸屯と並び称される伊野波節(ぬふぁぶし)、今回も上演された「稲づまん」など古典女七踊とされる女踊は、すべて朝薫の作です。なかでも諸屯は、最も高い演技力と経験値が求められる難しい演目とされます。人間国宝クラスでなければ、踊れないとも言われるようです。諸屯は、実にゆったりとした曲調を持ちます。たゆたゆとした曲調こそ、琉球古典舞踊の本質だと思います。

諸屯は、満たされぬ恋を思う成熟した女性の情念を描いているとされます。曲は、それぞれ八・八・八・六調の仲間節・諸屯節・しょんがね節の三節で構成されます。諸屯とはどういう意味なのか気になりました。実は、諸屯節には原曲があり、加計呂麻島の「諸鈍長浜節」とされているようです。現在も諸鈍という地名が存在し、デイゴ並木で知られる長い浜があります。15~16世紀頃から存在する遊び歌だった諸鈍長浜節の一節が諸屯節と一致しているとのこと。また、首里から加計呂麻島に派遣されていた金武王子が、帰任後、恋仲だった奄美の女性を思って詠んだ歌が元歌という説もあるようです。いずれにしても、背景には、尚王朝による奄美進出があるわけです。

花笠を使う伊野波節とは異なり、諸屯は身一つで踊られます。踊りに大きな振り付けなど一切無く、ごくわずかな動きや手さばき、そして目の表情だけで踊りきります。特に印象的なのは、諸屯が、後ろ姿、それもほとんど動きのない後ろ姿で多くを語る舞だということです。YouTubeで、他の踊り手が舞う諸屯を観たことがありますが、宮城幸子の諸屯は、さらに動きがありません。それでいて、より深い情感を伝えてきます。琉球舞踊の真髄は、できるだけ手数を省くこと、と聞きます。中国の弓の名人が弓矢を使わずに鳥を射落としたという”不射の射”に通じるものがあります。名人芸の極致とは、そういうものなのでしょう。名残の国立劇場、最後の最後で、すごいものを観てしまったな、と思いました。(写真出典:okinawatimes.co.jp)

夜行バス