2023年11月19日日曜日

越中守

宴席で、戦国武将では誰が好きかという話になりました。私は、さほど戦国武将に詳しいわけでもないので、これといって好きな武将はいません、ただ、細川忠興にはいつも興味を惹かれます、と答えました。その理由を聞かれたのですが、一言で語れるものではありません。まさにその複雑さに惹かれるわけです。細川越中守忠興は、足利家支流の名門細川家に生まれ、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。戦場にあっては武勲の誉れ高く、かつその判断の苛烈さでも知られます。一方では、細川三斎として、利休七哲に名を連ねるほどの茶人であり、三斎流の開祖でもあります。また、正室であった明智光秀の三女・玉子、洗礼名・ガラシャを深く愛したことでも知られます。

とにかく戦国の世にあって異彩を放つ人だと思います。まずは、権力者が目まぐるしく変わる戦国の世にあって、常に勝ち組についた政治的判断力の高さは見事です。恐らく最大の危機は本能寺の変だったと思われます。信長の臣下として頭角を現わした忠興は、信長の仲介によって光秀の三女を正室に迎えます。本能寺の変が起きると、光秀は、忠興に自陣に加わるよう求めます。忠興は、父・幽斎とともに、信長を弔うとして剃髪し、合流を断ります。なお、ガラシャは、累が及ばぬよう領地であった丹後に幽閉されます。これらが功を奏し、秀吉傘下となった忠興は、小牧・長久手の戦い以降、戦場で武勲を重ね、七将に数えられるまでになります。秀吉の甥・秀次に借財のあった忠興は、秀次事件で秀吉の追及を受けることになります。

これを救ったのが徳川家康でした。秀吉が亡くなると、七将は石田三成と敵対しますが、忠興はさらに徳川方に近づき、関ヶ原の合戦では東軍として戦います。その際、大阪城内の細川屋敷にいたガラシャは、三成方の襲撃を受けます。ガラシャは、キリスト教の教義上、自殺することは出来ず、家老の介錯で死にます。さらに、遺体を残さぬために屋敷を爆破させています。関ヶ原で三成本隊と戦った忠興は、その功績が認められ、豊前33万9千石を受領し、総構え、唐造りの天守を持つ小倉城を築いています。戦に強く、文化人でもあった忠興らしい城だったのでしょう。大坂の陣でも功をあげた忠興は、肥後熊本54万石に加増・移封されます。以降、明治の廃藩置県まで、細川家は熊本藩主の座にありました。

丹後半島へ旅行した際、忠興への興味を一層かき立てられる話を聞きました。本能寺の変の前のことですが、細川家は、信長に与えられた丹後南半国を領有し、宮津城を拠点としていました。一方、丹後北半国は、一色氏が治めていました。当初、一色氏は、信長と敵対していましたが、光秀によって、信長方へ取り込まれます。その際、光秀は、忠興の妹・伊也を一色に嫁がせます。本能寺の変が起きると、一色義定は、上司となっていた光秀の要請に応え加勢します。部下としては当たり前の判断であり、上手に逆らった忠興はむしろ例外的だったのでしょう。光秀を破った秀吉は、細川家との姻戚関係に配慮し、一色家を処分していません。ただ、光秀に加勢したことは忘れていませんでした。一色に謀反の恐れあり、と秀吉から耳打ちされた忠興は、一色義定を宮津城での宴席に誘い、だまし討ちにしたうえで、一族・郎党を皆殺しにしています。

この残酷な仕打ちに、妹・伊也は、兄・忠興に斬りかかったと言われます。また、次男の忠秋は、大阪の陣で豊臣方に与しました。これを家康は赦したものの、忠興は自害を命じています。家康が長男を自害させたことが思い出されます。忠興は、家族にも部下にも厳しい人だったようです。これが戦乱の世を生き抜く忠興の覚悟であり、永く続く名門の底力のようにも思えます。また、忠興の冷徹で合理的な判断は、国際的企業の経営者に通じるものもあります。落語「竹の水仙」で、左甚五郎が宿代代わりに彫った竹の水仙を目にして、これを所望したのは細川越中守とされます。宿の亭主に、値段を聞かれた甚五郎は「越中ならば200両」と答えます。現在価値では数百万円になります。細川越中守は、時代背景からして忠興が想定されているものと思われます。フィクションとは言え、忠興の文化人ぶりと財力が、いかにリスペクトされていたが伝わる噺です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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