2021年8月31日火曜日

屋形船

冬の始め時分、会社のレクレーションとして、同じ部署の人たちと屋形船を貸し切ったことがあります。通常は、揚げたての天ぷらがメインで、一人一万円ほどかかりますが、会費は4千円だというのです。いくら季節はずれとは言え、随分と安いわけです。お安くなっている理由は料理でした。もんじゃ食べ放題に飲み放題というメニューでした。屋形船の最盛期と言えば、春の桜から夏の花火や納涼、秋の月見あたりだと思います。もんじゃは、閑散期対策としてやっているのでしょう。正直、具合が悪くなりました。閉めきった船内に、もんじゃの安い油の臭いが充満し、すっかり油酔いしたというわけです。

大昔から、世界中で、船遊びは行われてきたのでしょう。 海や湿地を埋め立てて出来た江戸の町は、河川が多いことから、 船遊びが盛んだったようです。大名や豪商の乗る豪華船から、庶民の小舟まで、 多様な船が隅田川に浮かべられていました。なかでも、和船に、屋根と障子で囲んだ座敷をしつらえた屋形船は、人気の船だったようです。お金に余裕があれば、芸者衆も乗せて、賑やかに、酒と料理を楽しんだのでしょう。浮世絵で、よく見かける光景なので、粋な遊びとして人気だったのだと思います。大勢ではなく、少人数で楽しむのが屋形船の最も良い遊び方なのだと思います。

何かの会合で、船宿のご主人と話したことがあります。聞いたところ、船の大きさにもよりますが、25万円前後で貸し切りができるそうです。お金持ちは、気に入った料亭の料理を持ち込み、少人数で遊ぶようです。また、企業が密談に使うこともあると言います。いささか信じがたい話です。人に話を聞かれたくないなら、わざわざ船に乗らなくても、いくらでも他の選択肢があります。ただ、交渉相手を逃げられないようにするというメリットはありそうです。そうなると、ほぼ軟禁状態とも言えます。お安くしますから、今度、使ってみませんか、と言われました。ただ、まっとうな企業では、ほぼ発生しないシチュエーションですよ。

近年の屋形船は、伝統的な和船が減り、繊維強化プラスティック(FRP)で船体を作り、そのうえでお座敷を内装する新造船が多いようです。軽量で耐久性にも優れるFRPは、造形もしやすく、和船の風情を再現しやすいようです。FRP船が増えている理由の一つは、インバウンド需要への対応だとも聞きます。欧米人の乗船を考えると、さすがに天井の高さも考える必要があります。ただ、一番のポイントは、トイレだそうです。確かに、昔の屋形船のトイレは実に狭くて、相撲取りは絶対無理という代物でした。日本人だけなら、それでも何とかなったのですが、さすがに欧米人向けとしては厳しいものがあります。

かつて、宴会、特に大宴会は、お座敷と相場が決まっていました。座が盛り上がってくれば、皆、お酌するために移動し、あるいは、あちこちに車座ができて、まさに人が交わる良い場でした。椅子とテーブルでは、なかなかそうはいきません。10年ほど前ですが、社内の宴会は座敷に限る、という個人的キャンペーンを張ったことがあります。驚いたことに、宴会のできる座敷を探すのに苦労しました。”座敷あり”で店を検索すると、おおむね掘りごたつ式の狭い部屋が出てきます。とても座敷と呼べる代物ではりません。高級料亭等は別として、お座敷のニーズがなくなってしまったということなのでしょう。遠からずうちに、屋形船も、忍者レストラン的な存在になるのかもしれません。(写真出典:shinagawa.keizai.biz)

2021年8月30日月曜日

グルカ兵

歴史的に、ほとんど全ての戦争は、プロの戦士たち、 つまり常備軍だけで戦われたわけではありません。兵の大層は、素人の一般人でした。古代において、常備軍は稀な存在でした。兵士が必要とされるのは、戦時だけだからです。中世になると、常備軍と言えるオスマン・トルコのイェニチェリ、西欧の騎士、日本のサムライ等が現れますが、その数は、決して多くはありませんでした。近世に至ると、特に市民革命以降は、国民兵の存在を背景に、その訓練、統率を担い、高度化した武器の専門家としても、各国は常備軍を設置していきます。それでも戦場に投入される兵士の圧倒的多数は一般市民でした。

戦場におけるプロの兵士は、常備軍だけはありません。傭兵たちです。傭兵は、古代から存在し、常備軍の代わりに、あるいは常備軍の不足を補うために活用されてきました。国民兵の時代になると、植民地の支配や防衛を担います。二度の世界大戦でも、主に植民地で活用されています。戦後は、アフリカでの紛争等において暗躍します。現在、国連では、傭兵の使用は禁じられていますが、批准国は少数です。また、ヴェトナム戦争以降、政治によって兵力を制限された軍は、警備会社という名目で、傭兵を多用しています。湾岸戦争以降は、主に特殊任務や技術者として、兵士よりも多数が雇われているとも聞きます。過去から勇名をはせた傭兵は、数多く存在しますが、現在でも、複数の国で活用されているのが、ネパールのグルカ兵です。

ネパールの歴史は古く、かつ独立を守ってきた国です。18世紀、国が統一された直後、清朝との戦いで劣勢となったネパールは、事実上、清の朝貢国となりますが、独立は維持されます。19世紀には、イギリスとの戦いに破れます。ただ、国土の一部は割譲したものの、独立は守りました。イギリスと講和した際の条件の一つが、グルカ兵の傭兵化でした。グルカとは、ネパールのゴルカ朝の英語読みです。小柄ながら勇猛果敢にして敏捷なグルカ兵は、白兵戦に優れ、英国軍で活躍します。第二次大戦中、日本軍もグルカ兵を避けて進軍しました。また、1982年、英国とアルゼンチンが戦ったフォークランド紛争では、グルカ兵の到着を知ったアルゼンチン兵が、恐れをなして潰走したといいます。

現在も、英国軍、インド軍、シンガポール軍にはグルカ兵部隊が存在し、米軍にも一部雇用されているようです。最盛期、英国軍には、11万人を超すグルカ兵が在籍していたようです。傭兵としてのグルカ兵の報酬は、決して高くないものの、ネパールの平均年収の10倍以上と聞きます。エリート国民というわけです。ネパールにとって、グルカ兵は、貴重な外貨獲得手段でもあります。同時に、グルカ兵の存在が、ネパールの独立維持を支えてきた面もあるのではないかと思います。ネパールと英国連邦各国との親密な関係の根底には、多くの戦争をともに戦ってきたグルカ兵、そして女王陛下をガードするグルカ兵があるのだと思います。

グルカ・ナイフ、あるいはククリ・ナイフと呼ばれるナイフは、グルカ兵の象徴であり、恐怖の的でもあります。10年ほど前、衝撃的なニュースが入ってきました。インドの長距離列車が、40人ばかりの強盗に襲われます。すると一人の乗客が、ナイフ一本で強盗たちに立ち向かい、3人を殺し、8人を負傷させ、撃退したというのです。その乗客は、元グルカ兵でした。もちろん、手にしていたナイフは、ククリでした。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年8月29日日曜日

梁盤秘抄#17 Illmatic

アルバム名: Illmatic(1994)                                             アーティスト名:Nas

「Illmatic」は、ラッパーNasのデビュー・アルバムです。Nasは、1973年の生まれで、NYのクイーンズ・ブリッジ・ハウジング・プロジェクトで育ちます。ハウジング・プロジェクトは、低所得者向けの公営団地です。第二次大戦後、膨大な数の帰還兵たちの住宅対策の一環として、巨大な団地が作られました。帰還兵たちは、家族と収入が増えるにつれ、団地を離れていきます。それを埋めたのは黒人やヒスパニックでした。ハウジング・プロジェクトが、ほどなく犯罪の巣窟になっていくのは、やむを得ない流れだったのでしょう。若者は、ギャング団に所属しなければ、生きていくことが困難になります。 

そこに麻薬、そして銃が入り、ギャング団同志の抗争が激しくなります。70年代、最大のギャング団だったゲットー・ブラザースのベンジャミン・メレンデスが打ち出した和平協定のなかから、ヒップホップが生まれます。しかし、黒人とハウジング・プロジェクトを巡る環境が変わったわけではありませんでした。Nasは、そうした環境の中で育ちます。学校を中退し、麻薬の売人をしながら、ジャズ・トランぺッターの父の影響もあり、音楽の世界を目指します。16歳でメイン・ソースのレコーディングに参加した後、NYラップ界で頭角を現していき、1994年、ファースト・アルバム「Illmatic」をリリースします。

NY発祥のラップでしたが、当時は、圧倒的に西海岸のギャングスタ系ラップが人気でした。注目を集めてたNasのレコーディングには、NYの大物プロデューサーたちが参加します。NY復権のために集まったとも言えます。彼らが持ち込んだリズムは、それぞれエッジがきいていて、アルバムの完成度を高めています。Nasの独特の声とキレのいいラップも見事ですが、その歌詞も高い評価を得ます。その才能、センスの良さが、言葉という翼を得て自在に空を飛んでいるような印象を受けます。すさんだ環境で育ったNasですが、聖書やクラーンには親しんでいたと言います。

Nasの詞は、複層的に畳みかける韻、強烈なキラー・フレーズも特徴ですが、最も印象的なのはその叙情性だと思います。なかでも「One Love」は名曲だと思います。刑務所に入っている友人に宛てた手紙の形式を取り、ハウジング・プロジェクトの日常を伝えています。友人の子供の誕生、不誠実なパートナー、友人の死、友人が売人になったこと等々、Nasを取り囲む現実が語られています。手紙の形をとることで、気負うことなく、NYの黒人たちが直面する絶望的な現状が、淡々と歌われます。それがリアルさを一層ストレートに伝えています。そして、そこにうっすらとしたセンチメントを乗せるあたりがNasの才能だと思います。

ヒップホップやラップは、誕生から50年近くを経て、明確なジャンルを築き、世界中に定着しています。今や、様々なラップが存在し、コマーシャル・ベースでも大きな成功を収めています。「Illmatic」は歴史的名盤になりましたが、それ以降のNasのアルバムは、あまり感心しません。その後、グラミーも獲得していますが、完成度は高くても、あまり面白くありません。Nasと言えども、コマーシャル・ベースにならざるを得なかったのでしょう。Nasが、ハウジング・プロジェクトに、ストリートに身を置いていたからこそ、名作「Illmatic」は生まれました。(写真出典:amazon.cojp)

2021年8月28日土曜日

ワイルド・スピード

大人気のワイルド・スピード・シリーズ最新作「ジェット・ブレイク」を観てきました。9作目になるようです。もちろん、アカデミー賞をねらうような映画ではなく、B級アクション映画ですが、毎回、工夫を凝らしたカー・アクションは退屈させません。結果的には、これまでの全作品を見ていますが、実は、映画館で観るのは初めてでした。私にとって、ワイルド・・スピードは、飛行機の中で観る映画の定番です。従って、途中で気絶したり、食事しながらと、しっかり見たことがありません。大したストーリーでもないので、派手なアクションだけ見れば十分という、暇潰しには最適な作品です。

ワイルド・スピード大成功の要因は、カー・アクションのすごさもありますが、一番は、ターゲットを絞り切ったことだと思います。アメリカには、改造車、セクシーな若い女性、切れのいい音楽、 ビールのシックスパックが全てという種族が多く存在します。決して若者に限った話でもありません。若者の車離れが進む日本とは大違いです。映画には、毎回、マニアが泣いて喜ぶような改造車が登場します。ドライブ・テクニックもすごいのですが、マニアならずとも興奮するのは、エンジン音だと思います。本当にクルマが好きな人たちが作っている映画だな、と思います。

カー・アクションの原点とされる映画は、ピーター・イエーツ監督、スティーブ・マックイーン主演の「ブリット」です。 刑事役のマックイーンが乗るフォード・マスタングGTと犯人の乗るダッチ・チャージャーが、サンフランシスコの坂道で繰り広げるカー・アクションは、迫力といい、尺の長さといい、画期的でした。随分、興奮させられたものです。「ブリット」でも、回転数やギア・チェンジで変わるリアルで迫力あるエンジン音は、強く印象に残りました。全体的に、セリフも音楽も抑え気味の映画の中で、エンジン音は主役級の扱いでした。「ブリット」以来、カー・アクションで、エンジン音は、極めて重要な要素となりました。

2001年にスタートしたシリーズの3作目までは、まさにマニア向けのストリート・レース映画でした。4作目は、さらに幅広いターゲットを狙った娯楽映画へと変わり、大ヒットします。5作目以降は、制作費も大幅に増額され、まさに大型娯楽映画となります。シリーズものらしく、主人公ドムの家族、仲間たちといったおなじみの顔が揃い、ヘレン・ミレンやカーディーBといったゲストも登場します。アメリカ映画定番の楽屋落ちのセリフもあり、アメリカの映画館なら大歓声間違いなしです。ありとあらゆるアクションを試してきたシリーズですが、今回投入された新手のアクションのあと「これ初めてだっけ?」というセリフがあり、思わず吹き出しました。よく心得た演出です。

ワイルド・スピードのテーマは「家族愛」だと言われます。もちろん、カー・アクションが目玉の映画ですが、縦糸は欠かせません。そこに家族を持ってくるあたりは、実うまいと思います。世界中の人々が共感できるテーマだからです。それも、くど過ぎず、安っぽ過ぎず、いい塩梅の演出になっており、アメリカ映画らしくていいと思います。今後、シリーズは、10、11作目を撮って完結と発表されています。終わり時も、いい塩梅だと思います。写真出典:screenonline.jp)

2021年8月27日金曜日

船酔い

高校生の頃、友人たちとキャンプに行くのが楽しみでした。何人かで、テントはじめキャンプ用品も共同購入し、よく出かけたものです。ある時、下北半島へキャンプに出かけ、帰りは脇野沢港から船で青森港へ戻ったことがあります。船は、20〜30トンくらいの小さな船でした。 その日は、海が荒れ、3時間近い船旅は、揺れっぱなしでした。友人たちも私も、すっかり船酔いしてしまいました。私は、 舷側に立ち、遠くの山を見続けながら、深呼吸を繰り返し、吐き気と戦いました。結果、 友人たちより、軽い症状で済みました。

後で知ったのですが、それは、船酔いへの対処法としては、結構正しいものだったようです。船酔いはじめ、各種乗り物酔いは、内耳、目、そして体全体から脳が受ける情報が多過ぎるか、矛盾しているために、平衡を保とうとする自律神経が混乱し、病的な反応を引き起こすものだそうです。ただ、そのメカニズムは、完全には解明されていないようです。船に関して言えば、揺れている以上、内耳と体をコントロールすることはできませんが、目にかんしては対応可能です。つまり、遠くの動かない一点を見つめることで、船酔いを招く要素を一つ減らせるわけです。もちろん、状況次第なので、万能の対策ではありません。

ホノルルで、 カタマラン・ヨットに乗って、イルカを見るというツアーに家族で参加したことがあります。乗客は20人がせいぜいという艇でした。さすがカタマランだけに、スピードは速いのですが、揺れ方も半端ないものでした。船酔いしてる乗客もいましたが、家族は、皆、大丈夫でした。帆船は、帆が一定方向からの風を受け続けるので、横揺れが少ないという特徴があります。しかも、双胴の上にシートを渡しただけのようなヨットですから、視界は開け、陸も、前方の波も見えています。船酔い対策には、やはり、目が大きな要素なのではないか、と思いました。

乗り物酔いは、紀元前から認識されていたようです。とは言え、産業革命以降、様々な乗り物が増え、かつスピードアップされたことで、広く知られるようになったのでしょう。昭和初期に、新聞社が読者から募った未来予測で「将来、酔い止めの薬が発明されるだろう」という予測が上位に入っていたという記事を読んだことがあります。記事は、これは実現した、と解説していましたが、実際には、必ずしも実現したとまでは言えないようです。発症のメカニズムが十分に解明されていなので、薬も、当然、諸症状を部分的に緩和するにとどまっているわけです。人によっては、あるいは状況によっては、十分な効果も得られるのでしょうが、限界はあります。

どうも乗り物酔いは、個人差があるように思えます。個性もあれば、慣れもあるのでしょう。 そうでなければ、漁師は仕事になりません。慣れ、あるいは訓練なのでしょう。乗り物酔いで、最も不思議だと思うことは、自動車で悪路をドライブ中でも、運転手だけは、 絶対に酔わないことです。これは個人差でも慣れの問題でもありません。恐らく、ドライバーだけが、 次に来る揺れを、予測できているからではないか、と思います。事前情報によって、 自律神経は身構えることが可能になり、情報の多さや矛盾を、ある程度回避できているのだと思います。船長や機長も同じではないかと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年8月26日木曜日

長征

長征ルート
1934年、瑞金拠点を国民党軍に包囲された中国共産党軍は、10万の兵士をもって西へと脱出します。 2年間に渡り、1万2500キロを踏破した「長征」の始まりです。 日本列島を2往復弱という、とてつもない距離です。国民党軍や四川軍閥と戦いながら、陝西省延安の拠点に到達した時、10万の兵力は、数千人まで減っていました。最終的には、共産党軍が国民党軍を大陸から追い出したので、「長征」という言葉も成立するのでしょうが、実態は空前絶後の大敗走です。

中国共産党は、1921年7月、上海で結党されています。現在1億人に迫る党員数も、結党時は57名、第一回党大会には13名が参加したとされています。設立当初、中国共産党は、コミンテルンの指導下にあり、ロシア人とモスクワ留学組が支配していました。コミンテルンは、ロシア革命を世界へ広げる目的で、レーニンが設立した国際共産主義運動の指導部です。コミンテルンは、都市部の労働者による革命にこだわります。一方、毛沢東は、中国の実態を踏まえ、農村部からの革命を目指します。国民党との連携、武装蜂起の失敗等、コミンテルンによる指導は迷走し、結果、国共分裂以降、国民党軍によって追い詰められていきます。ついには、毛沢東が瑞金に築いていた解放区まで退いていくことになります。

この時点でも、まだ毛沢東は主導権を握っていません。依然、コミンテルン派が主導する都市部での革命を模索しますが、いずれも失敗。逆に国民党軍は、数次に渡る囲剿作戦で共産党軍を追い詰めていきます。コミンテルンから派遣された軍事顧問オットー・ブラウンは、圧倒的多数の国民党軍に包囲された瑞金での塹壕戦を指示します。兵力・装備に劣る共産党軍にとっては自殺行為に等しい無謀な戦術でした。毛沢東等は反対しますが、押し切られます。ブラウンは毛沢東のゲリラ戦を毛嫌いしていたとも言われます。案の定、共産党軍はジリジリと押し込まれ、逃走するしかなくなり、長征が始まるわけです。

長征期間中、多くの戦闘が繰り広げられますが、最も重要な出来事は、遵義会議だと言われます。1935年1月、敗走を続ける共産党軍は、貴州省遵義で、はじめて休養を取り、あわせて今後の方針に関する幹部会議を開きます。博古、周恩来、ブラウンらコミンテルン派は、徹底的に批判されます。批判された周恩来は自己反省し、毛沢東支持に回ります。まだ集団指導体制ながら、ここで毛沢東の主導権が明確になりました。中国共産党にとっては極めて重要な分岐点だったわけです。ちなみに、遵義会議参加者のなかには、朱徳、陳雲、劉少奇、鄧小平、林彪、聶栄臻、彭徳懐、楊尚昆等も含まれています。その後の中華人民共和国を動かしていくことになる面々が揃っていたわけです。

中国共産党は、延安において、見事に建て直されます。蒋介石が、抗日に舵を切ったことが幸いしたと言えます。毛沢東は、延安において、その後の戦い方、国家と党のヴィジョン、そして毛沢東理論を完成させます。それらには、明らかに長征での経験が活かされているものと考えます。例えば戦略論における戦略深度、敵を中国奥深くまで進軍させ、そのうえで補給を断ち殲滅するという考え方は、長征そのものだとも言えます。十分な戦略深度を確保するためには、外縁部は拡張されていった方が有利です。中国が、チベット、ウイグル、北朝鮮、南沙諸島等を重視する理由の一つでもあります。長征という大逃亡劇が現代中国に与えた影響は、とても大きいわけです。(写真出典:news.yahoo.co.jp)

2021年8月25日水曜日

稲妻

昔から、恐ろしいものと言えば、地震・雷・火事・親父と相場が決まっています。どれも恐ろしいと言えば、恐ろしいのですが、なぜこの順番なのでしょうか。私は、逃げようがない順番なのではないか、と思っています。地震は、予知不能で、影響が広範囲ゆえ逃げようがありません。雷は、気象予報が進化して、予知可能になりましたが、江戸期では無理な話。かつ地震より狭いものの広範囲です。火事の範囲はさらに狭くなりますが、予測不能です。親父の影響範囲はかなり絞られますが、親のことゆえ、 逃げようがありません。ま、実際には、ちょうど七・五でゴロがいいから、この順番になっただけかも知れませんが。

雷の語源は、”神鳴り”だとされています。神の御業と思って当然だと思います。雷は、稲妻とも呼ばれます。昔、 夫も妻も「つま」と呼んでいたようです。稲の出穂期に雷が多いことから、雷は稲を妊娠させる夫に見立てられたようです。出穂の時期、稲は、日光と水分を豊富にとる必要があります。雷発生のメカニズムは、地表が日光で温められて水蒸気が発生し、それが上昇気流となり積乱雲が発生、そして雷雨になります。要するに、この時期の雷は、稲の出穂に必要な気候の全てを象徴しているわけです。稲妻という言葉は、単なる見立てだけではなく、結構、科学的だということになります。

さらに「一光一寸(ひとひかりいっすん)」と言う言葉もあります。つまり、出穂の時期、稲妻が光ると、稲は一寸伸びるというわけです。この言葉は、単に気象条件が揃ったということに留まらず、稲の成長に関わる栄養素の話だという説があります。植物の成長には、窒素、リン酸、カリウムが必要となります。農薬の基本成分ということでもあります。窒素は、空気中に多く含まれ、空気の8割が窒素と聞きます。雷の放電現象は、空気中の窒素と酸素を結合させ、窒素酸化物を作ります。これが雨に溶けて降り注ぐわけです。いわば雷雲は、肥料の生産工場だということになります。

水田では、稲に酸素を供給するために、一定程度の水を流し続けているものだそうです。ただ、雷雨が降り、それが止んだ後は、しばらく水の流れを止め、窒素酸化物を十分に稲に取り込ませると聞きます。稲作を初めて三千年。その蓄積されたノウハウには、頭が下がります。(写真出典:news.livedoor.com)

2021年8月24日火曜日

什の掟

会津藩軍旗
明治元年から数えて150年目に当たる2018年、政府は「維新150年」と銘打ち、様々な催しを行いました。折から、薩長史観、つまり明治以降の歴史は、薩長に都合良く書かれてきたという批判も高まっていました。維新という言葉も、明治中期、戊辰戦争正当化のために、薩長が編み出した言葉だとされます。では、長州出身の安倍政権が打ち出した「維新150年」という仕掛けを、会津の人たちは、どう受け止めているのか。それが気になり、会津へ行ってみました。会津若松城下には「戊辰150年」の幟が並んでいました。さすが会津。見事なものです。会津へのリスペクトが、更に高まりました。

薩長が実権を握ると、会津は、賊軍の烙印を押され、戊申戦争で焼き尽くされ、雌伏の時を過ごしてきました。もともと会津は、律令時代から奥州の中心でした。交通の要所であり、かつ実り豊かな土地です。江戸期には、江戸城の北の守りとして、奥州に対する前線としての役割を果たします。天下泰平の江戸の世にあっても、常に緊張感をもって武力を保全していたと言えます。江戸期を通じて、薩摩と会津が最強藩と言われていたようです。子弟の教育にも、ユニークな制度が採られていました。町内の6~9歳までの藩士の子弟は、10人前後で「什(じゅう)」と呼ばれるグループを構成します。毎日、順番に各家を集合場所として集まり、勉学に励んだと言います。そして、その什には、「什の掟」と呼ばれる厳粛なルールがありました。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

いけないことはいけない。有無を言わさず、きっぱり言い切る潔さには、背筋が伸びる思いがします。現代風に言えば、小学校低学年の子供たちが、毎日、これを唱和し、徹底されたわけです。子弟たちは、10歳になると、藩校「日新館」に通い、学問と武芸を徹底的に仕込まれます。長ずれば、良いサムライになることは間違いありませんし、白虎隊が生まれるのも納得できます。日新館の前身は、江戸初期に開かれた「稽古堂」だったとされます。日本初の民間学問所であり、その門戸は庶民のために開かれていたと言います。ちなみに、日新館を訪れ驚いたのは、江戸期からあったというプールの存在です。様々な戦場を想定し、 古式泳法の鍛錬をしていたのだそうです。

ひとたび賊軍の汚名を着せられれば、軍人か教育者くらいしか、世に出る道はなかったと聞きます。 奥州越列藩同盟の各藩も状況は同じです。厳しい状況のなかでも、教育の伝統を守り続けた会津は、野口英世をはじめ、白虎隊の生き残りで東大総長となった山川健次郎、日清・日露戦争でも活躍した陸軍大将柴五郎、あるいは同志社の新島八重、近代看護の母山川捨松等を生んでいます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年8月23日月曜日

夢の虚ろさ

ポール・デルヴォ―の絵を見ると、自分が夜に見る夢の世界によく似ていると思うのです。人によって、見る夢の傾向は異なるのだと思いますが、私の場合、多くは、家族や多くの知人たちが、奥行きも高さも曖昧な空間にいて、声の聞こえない会話が進んでいきます。時間も、空間も、何から何まで、曖昧で、空虚さが漂い、だからといって、嫌な感じもなく、時には幸福感を覚えることもあります。デルヴォ―の絵を見ていると、いつも、それによく似た感覚がよみがえってきます。

デルヴォ―は、ベルギーのリエージュ州に、弁護士の息子ととして生まれています。ブリュッセル王立美術アカデミーで絵画を学び、デ・キリコやルネ・マグリットの影響を受け、シュールレアリスムに傾倒していきます。デルヴォ―は、マグリットと双璧を成すベルギーのシュールレアリストと言われますが、むしろマニエリスム的な幻想作家と呼ぶのがふさわしいと思います。わき目もふらずに独自の道を進んだシュールレアリストであり、結果的にマニエリスムに近い画風にたどり着いた人のように思います。

マニエリスムは、イタリア語の様式を表す”マニエラ”を語源とします。いわゆる”マンネリ”の語源でもあります。マニエリスムは、ギリシャ・ローマという古典の理想美を追求したルネサンスに対して、より主観的で、人工的な作風であり、ある意味、ルネサンスの逆張りとも言えます。ラファエロやティントレットの後期の作品もマニエリスムとされることもあります。ドイツやネーデルランドでもルネサンスは起こりますが、イタリアとは異なり、より宗教的で、より自然主義的でした。 北方マニエリスムも、その流れを汲む独特のものだったと言われます。 

個人的な印象としては、北方の画家たちは、ヤン・ファン・エイク以降、ゴシックから発展した独自の写実的な世界を展開しており、古典ベースのイタリア・ルネサンスとは、明らかに異なります。マニエリスムの影響も受けたのかもしれませんが、 北方の画家たちの作風は、もともとマニエリスム的だったと思えます。クラナッハ親子も、デューラーも、皆、ファン・エイクにつながっているように思えます。実は、デルヴォーの作風も、シュルレアリスム運動のなかで生まれたというよりも、北方絵画の伝統をより現代的に表現しているように思えます。デルヴォーを、ファン・エイクの後継者だと言えば、言い過ぎでしょうか。

夢の中では、場面、状況、ストーリー等が、どんどん変わっていくことが、ままあります。ところが、 それは、とてもスムーズに展開していきます。私も、驚くことも、戸惑うこともなく、全てを受け入れていきます。 夢の中では、驚きだけではなく、他の感情的起伏も、ほぼないようにも思えます。デルヴォーの絵に、必ずと言っていいほど登場する女性たちは、大きく虚ろな目をしています。クラナッハの女性たちも、同じような目をしています。その目が、私に夢の世界を思い出させます。この虚ろさは、何なのだろうと思ってしまいます。(写真出典:tallengestore.com)

2021年8月22日日曜日

ハーメルンの笛吹き男

ハーメルンは、ドイツ中部ニーダーザクセン州に位置する古い街です。その歴史は、1200年と言われます。日本でもグリム童話の「 ハーメルンの笛吹き男」で知られています。実は、「 ハーメルンの笛吹き男」は、13世紀にハーメルンで起きた奇妙な事件に基づく伝承がベースとなっています。グリム童話では、なんとなくハッピーエンド風になっていますが、これは児童向けを考慮した日本だけで見られる改変だと聞きます。グリムの原作も、その元になった伝承も、実に奇妙で薄気味の悪い話であり、決してハッピー・エンドではありません。

1284年6月25日、ねずみの大量発生で困っていたハーメルンの街に、カラフルな衣装をまとい、笛を持った男が現れます。男は、お金をくれるなら、街中のねずみを退治すると提案し、街は、それを受け入れます。男が笛を吹くと、ねずみたちが集まります。男は、そのまま川まで行って、ねずみたちを溺死させます。ところが、街の人たちは、約束のお金を払いませんでした。怒った男は、代わりにお前たちの大事なものをいただく、と言い残し消えます。翌26日、大人たちが教会に行っている間に再び現れた男は、笛で130人の子供たちを集めて洞窟に入り、中から岩で入口を閉じ、二度と出てきませんでした。

もちろん、額面どおりの事実ではなく、なんらかの事件、 事象を比喩的に伝えている伝承なのでしょう。これまで、実に様々な解釈や研究が行われてきたようです。ねずみとの関係からペストで多くの市民が亡くなったことを伝えているという説があります。笛吹男は死神であり、感染を恐れて死者を洞窟に埋葬したのかもしれません。説得力のある話ですが、ペストの流行は、100年後のことであり、辻褄があいません。 他には、単純な悪魔の仕業説、土砂崩れ等の自然災害説、笛吹男は児童性愛者だった説、少年十字軍説、 等々があったようです。最も有力、 かつハーメルン市も認めている説は、東方への植民説です。

当時、ドイツでは、人口増加に伴い土地が不足し、農家の長男以外は、農奴になるか、失業者としてさまようかしかなかったと言います。そこで、東方への植民が始まり、ロカトールという植民請負業までいたようです。恐らく、農家の次男坊以下が、人身売買の形で、ロカトールに連れて行かれたのでしょう。その頃、人身売買自体は珍しいことではなかったでしょうが、親の切なさが、笛吹男の話へと転嫁されたのだと思います。仔細な調査の結果、ポーランド近くまでの東方には、ドイツ由来と思われる地名や、ハーメルンに多かった名字が散在していることが判明しています。

植民先としては、トランシルヴァニアが有力視されているようです。後に、ドラキュラ伯爵で有名になるトランシルヴァニアは、当時、モンゴルの侵略を受けて、かなり荒廃していたようです。多くの農民が殺戮され、農地を耕す人が不足していたわけです。モンゴルの侵略が、ハーメルンの笛吹男につながるわけで、まさに世界史観を実感させられる話です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年8月21日土曜日

ゼロ戦

ワシントンD.C.のスミソニアン博物館の航空宇宙館の奥まったところに、敵国の航空機という展示室があり、ほぼ完全な形の”ゼロ戦”と”メッサーシュミットBF109”が並んで展示されています。両機とも、第二次大戦中の名機であり、敵国には脅威とされていました。零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦は、アメリカでは”三菱ゼロ”と呼ばれます。三菱自工とダイムラー・ベンツが資本提携した際には、アメリカの週刊誌の表紙に、三菱ゼロとメッサーシュミットが並んで描かれていました。日本とドイツのイメージは、まだそんなものなんだと思ったのを覚えています。

ゼロ戦の優位性は、長い航続距離、強力な機銃2門という攻撃力、そして優れた運動性能だとされます。実戦配備は、1940年夏、日中戦争でした。9月に初めて交戦しますが、13機編隊のゼロ戦部隊は、無傷のまま敵機を27機撃墜するという大成果でした。しかも、初陣のゼロ戦部隊に対して敵部隊は経験豊富なパイロットばかりだったと言います。大陸でのゼロ戦は、まさに無敵の活躍を続けます。40年12月、太平洋戦争に突入しても、連合軍機に対するゼロ戦の優位は際立っていました。米軍パイロットの間には、恐怖心が広がっていったとも言われます。しかし、それも42年のミッドウェイ海戦まででした。

42年、米軍は、アリュ―シャン列島に不時着したゼロ戦を鹵獲します。徹底的に研究した結果、ドッグファイトを避ける、あるいは優位高度からの一撃離脱戦法といったゼロ戦への対応策があみだされます。これによって、ゼロ戦による損害は減少されます。さらに、新たな戦闘機の開発も進み、ゼロ戦の餌食となっていたワイルド・キャットに代わって、コルセア、ヘルキャット等の新鋭機が投入されます。一方、 日本では、ゼロ戦の後継機の開発が遅れます。優秀ながら、既に優位性を失っていたゼロ戦ですが、終戦まで主力戦闘機として製造され続けました。工業生産力の差が勝敗を分けたとも言われる戦争を象徴するような話です。

ゼロ戦の航続距離や運動性能といった利点は、機体の軽量化によるところが大きかったようです。軽量化は、超々ジュラルミンといった軽量素材、素材の肉抜き加工等に加え、防弾機能を犠牲にして成立していました。つまり防御よりも攻撃を優先させたわけです。もちろん、攻撃は最大の防御、 という言い方もあります。しかし、明らかにパイロットの命を犠牲にして軽量化を実現していたと言えます。帝国陸海軍の精神性を優先する傾向に通じるものがあります。戦争末期、兵器や弾薬等が不足してくると、 精神力重視の傾向は異常なレベルにまで達していきました。

第二次大戦後、連合国によって、日本とドイツの航空機製造は根絶やしにされます。ゼロ戦の設計者堀越二郎が、再び航空機を設計できたのは、50年代末期に始まるYS‐11計画でした。東西冷戦が激化した50年代半ば、日本には航空自衛隊が、ドイツには空軍が創設されます。ドイツは、NATOの枠組みのなかにあり、60年代早々、欧州各国と共同で戦闘機製造を再開しています。日本には、まだ純国産戦闘機はありません。2030年代に運用開始が見込まれる次期戦闘機は、国産戦闘機となります。ただ、エンジンは、IHIとロールス・ロイスの共同開発になりました。エンジンの純国産化は、ハードルが高いようです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年8月20日金曜日

星の数

NYで働いていた頃、オフィスの机のなかに、いつも”ザガット・サーベイ”を入れてました。ザガット・サーベイは、1979年に、弁護士のザガット夫妻が始めたレストランの評価本です。ミシュラン等、専門家による評価に疑問を持った夫妻が、ユーザー評価に基づくランク付けを始めました。多くの人による評価なので信頼がおけると大人気でした。実際、使い勝手も良く、概ね正確な評価がされていたと思います。1999年には東京版も発売されました。2007年にミシュラン・ガイドが東京版を出すと、大評判となり、評価方法の異なるザガット・サーベイも売上を伸ばします。ただ、その後、売り上げは落ちていき、グーグルに買収されたことを機に廃刊となりました。

ザガットは、ミシュランに負けたわけではなく、ネット化されていなかったことで、調査方法が同じ”食べログ”に押されたのだと思います。かつてアメリカでは、モービル石油が出していた”モービル・トラベル・ガイド”が、旅の必須アイテムでした。やはりネット化が遅れたため、”トリップ・アドバイザー”に負け身売りしています。なお、現在は、フォーブス・トラベル・ガイドとして継続されています。また、ミシュラン日本進出の頃、ザガットで東京一の評価を得ていたのは、江戸川区篠崎の”焼肉ジャンボ”でした。もちろん評価の高い店ですが、東京中の和洋中の名店を抑えて一番というのも疑問でした。ユーザー評価方式には、やらせ、組織票、偏りといった問題が付き物です。

調査員方式にも弱点はあります。調査範囲の限界や評価視点といった問題です。初年度、ミシュラン東京版は、焼き鳥やラーメン等、下世話な庶民の味は調査対象にしていませんでした。また、5つの評価視点の一つに”革新性”があり、驚きました。江戸の頃から一切変わらぬ味という保守性をどう評価するのか疑問でした。東京中の鮨屋が、大トロに金箔を積み上げるようになるのではないかと心配しました。ミシュランは、安くて美味しい店を紹介するビブグルマンも出していますが、基本的には高級店ガイドといった風情です。そもそもミシュランはタイヤ・メーカーであり、ミシュラン・ガイドは、自動車旅行のためのガイドです。今でも、例えば、三ツ星は「それを味わうために旅行する価値がある卓越した料理」と表現されています。そんな旅ができるのは、セレブな方々ということになります。

ミシュラン・ガイドは、階級社会の文化だな、と思います。いずれにしても、西洋料理の視点、そしてセレブ向けといった視点で、日本の食の多様性をカバーすることには限界があります。その点を考慮すれば、やはり日本人には食べログかな、と思うわけです。もちろん、食べログもすべての店をカバーしているわけではありません。投稿する人たちも来ないような店の評価は、掲載されないか、評価も低くなるわけです。絵画や音楽にも評価というものが存在します。しかし、個人にとって大事なことは、”好きか嫌いか”ということにつきます。食事も似たようなところがあります。専門家が、いかに高く評価しようとも、美味しいと思えなければ、何の意味もありません。食べログも同様ですし、様々な問題もありますが、多くの人が美味しいと思ったのであれば、それは大いに信頼できます。また、食べログに掲載されている口コミも参考になります。

TVでは、いわゆるグルメ番組が目白押しです。馬鹿当たりはせずとも、一定の視聴率が確保でき、かつ制作費も安いので、多くなっているのでしょう。飲食店サイドが、一定のお金を払えば、制作会社が取り上げてくれるという話も聞きます。過日、客は私だけという昼過ぎのうなぎ屋で、制作会社とおぼしき人と店主の会話が聞こえてきました。制作会社は、取材させていただきますが、千円グルメという特集なので、千円のメニューを用意してください、というわけです。店主は、う~ん、と唸って絶句していました。レストラン・ガイドには、様々な問題もありますが、TVよりは数段信頼できます。星の数ほどあるすべての飲食店を評価するのは到底無理ですが、要は、使い方次第ということなのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年8月18日水曜日

「ジャッリカットゥ」

監督: リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ   2019年インド

☆☆☆+

南インドの山中で、大勢の村人が叫びながら、屠殺場から逃げた水牛を追いかけ、追いかけられるという映画です。ほぼそれだけの映画です。CGを使っていないと言う映像は、圧倒的な迫力とスピード感にあふれ、エネルギーがスクリーンからほとばしるようです。ただ、それ以上でも、それ以下でもありません。この映画は、Mollywood映画と呼ばれます。かつてボンベイと呼ばれたムンバイで制作される映画は、Bollywood映画とよばれます。対して、南部ケララ州で、マラヤーラム語で制作される映画はMollywood映画と呼ばれているようです。インド映画界では第4位の規模だそうです。さすが、人口13億人、公用語は22という国だけのことはあります。ちなみに、近年、Nollywood映画という言葉もあります。ナイジェリア映画のことです。人口2億を超える国では、映画も一大産業です。

Mollywood映画は、字幕を付けて、全インドで興行されるようです。この映画も、昨年のアカデミー国際映画賞のインド代表になっています。ペッリシェーリ監督は、Mollywoodを代表する映画人であり、斬新な作風で知られているようです。本作が日本デビューとなりますが、注目されているので、他の作品も順次公開されるのではないかと思われます。カメラワークやカット割りも思い切りがいいですし、バリのケチャによく似た音楽の使い方も、なかなかユニークで面白いところがあります。演技もそうですが、とにかくエネルギーを止めることのない圧倒感が印象に残ります。

タイトルの「ジャッリカットゥ」とは、2千年以上続く南インドの牛追い競技だそうです。ケララ州の隣のタミル・ナードゥ州では、プロ競技化もされていると言いますから、驚きです。インドで、ケーブルTVを見ていた時、カバディのプロ・リーグが存在し、専門チャネルが3つもあることを発見して驚いたことがあります。13億人もいれば、なんでもあり、ってわけです。しかも、インド合衆国と言われるほど、州によって言葉も文化も違うわけですから、ジャッリカットゥのプロ・スポーツ化など驚くに当たらないのでしょう。なお、ジャッリカットゥは、動物愛護の観点から国が一度禁止したものの、住民の猛反発で復活したようです。

胡椒は、ケララ州原産です。シュメールの時代から、メソポタミアとの貿易が盛んで、大航海時代には、西欧各国との貿易で栄えました。世界に開かれたケララ州の文化の多様性は、筋金入りと言えます。また、インド伝統の医学であるアーユルヴェーダも、ケララ州発祥だそうです。現在も、香辛料の他に、セリウムやトリウムの原料となるモザナイトの輸出量も多く、また、造船、IT等は世界レベルと言われます。識字率も100%、医療環境も良く、平均寿命はインド最長。まさにインドの優等生と言えます。当然、映画産業も、やたらと踊るBollywoodなんかに負けていないわけです。

ヒンドゥーの国インドで、水牛を屠殺したり、追いかけたり等、絶対あり得ないわけで、最初はドキドキしました。ところが、映画の舞台となっているのは、キリスト教徒の村でした。ケララ州の文化の多様性は、宗教の多様性にも反映されているわけです。それにしても、インドの他州で上映されると、ヒンドゥー教徒たちが大騒ぎするのではないかと心配になります。(写真出典:imageforum.co.jp)

少年十字軍

11世紀末、セルジューク朝にエルサレムを奪われた東ローマ皇帝は、ローマ教皇に助けを求めます。皇帝が依頼したのは、傭兵の派遣でした。しかし、政治的覇権の拡大を狙う教皇は、西欧諸国に対して、聖地奪還のための軍の組成と派遣を訴えます。十字軍の始まりです。ローマ教皇は、参加者に免罪を与えます。犯した罪がチャラになり、天国へ行けると教皇が約束するわけですから、とてつもなく大きな報奨です。実は、第1回十字軍の半年ほど前に、4万人の民衆が十字軍としてフランスを発っています。ただ、戦闘力に乏しい民衆十字軍は、セルジューク軍に、なんなく蹴散らされています。

当時の西欧は、農業生産力が高まり、人口も増加していました。土地不足が顕在化するなか、天災や疫病も重なり、人々は、逃げるように”乳と蜜の流れる約束の地カナン”を目指したのでしょう。正式な十字軍も、騎士だけで構成されていたわけではなく、農民、商人、巡礼者、娼婦等々も多く同行しています。十字軍は、諸侯を中心に全8回組成されていますが、他にも民衆の熱狂が生んだ小規模な十字軍が多数あったようです。その一つが、13世紀初頭の「少年十字軍」です。神のお告げを受けたというフランスのエティエンヌ、ドイツのニコラウスという少年が先導となり、ゆく先々で多くの民衆を巻き込み膨れ上がっていきます。

少年十字軍とは言いますが、実態は、青年や他の食い詰めた民衆だったとされています。ニコラウスの一団は、ジェノバへ到達しますが、食料不足を怖れた街によって追い返されています。エティエンヌの率いた集団は、フランス国王によって解散命令が出されますが、十字軍運動への刺激にしようとする教皇は放任します。なんとか海に出たエティエンヌ隊でしたが、船が遭難し、生き残りも商人に騙され、奴隷として売り飛ばされます。ただ、このような動きがあったことは事実としても、海に出たという証跡は何も無く、尾ひれはひれがついて、話が広まったようです。少年十字軍が、最も有名になったのは、実は、19世紀のアメリカでした。

著名な聖職者たちが、少年十字軍の悲惨を伝える書籍を出版します。18~19世紀、啓蒙主義者やプロテスタントによって展開された「カソリックの圧政=暗黒の中世」プロパガンダの一環でした。一次資料をつまみ食いして作り上げたフィクションですが、聖職者の言っていることだけに、あたかも史実のごとく定着していきました。歴史の捏造は大問題です。ただ、十字軍は急激で熱狂的な民族大移動とも言えるような面もあり、悲惨な話には事欠かなったものと思います。西欧の外にしか新たな領土を得られなくなった騎士たち、食い詰めて逃げ出すしかなかった農民たち、いわば発火点に達しつつあった油に、免罪特権という火を注いだのがローマ教皇だったと言えます。

少年十字軍は、宗教的熱狂が生み出したマス・ヒステリアの一種なのでしょう。規模の大きなマス・ヒステリアは、宗教的なものが多いように思います。しかも、概ね、時代の転換期といった社会的不安を背景に発生しています。江戸末期に発生した”ええじゃないか”等も典型だと思われます。辛く厳しい現実、先が見通せない不安から逃避するための大義名分を、宗教が与えてくれる、ということだと思います。十字軍は、ローマ教皇の政治的野心が引き起こしたマス・ヒステリアですが、オリエントと西欧の文化交流という副産物も生み、その後の西欧の発展に寄与した面もあります。(写真:ギュスターブ・ドレ「少年十字軍」 出典:ja.wikipedia.org)

2021年8月17日火曜日

時計台

世界三大がっかりと言えば、シンガポールのマ―ライオン、コペンハーゲンの人魚姫、ブリュッセルの小便小僧のことです。日本三大がっかりは、札幌の時計台、高知のはりまや橋、長崎のオランダ坂とされます。いずれも随分有名ながら、自分が想像していた外見と違ったので、からがっかりしたとは、身勝手で、失礼な話でもあります。それぞれの背景や出来栄えをしっかり理解してもらいたいものだと思います。

札幌市時計台は、思い切り下から煽った写真が多く、それらに比して、実物はさほど大きくないこと、そして周囲が高いビルだらけなので一層小さく見えることが、がっかりの要因なのでしょう。札幌農学校の演舞場だった時計台は、クラーク博士の発案によって、1878年に建設されました。在校生も少なく、しかも武芸専用の体育館ですから、十分な規模だったのでしょう。3年後、時計台が取り付けられています。時計は、アメリカのハワード社製の重錘振子式時計であり、今も現役で、鐘が時を告げています。1903年、農学校の移転に伴い、時計台は札幌市に移管されます。その後、メンテナンスに綻びが生じ、昭和初期には止まったままだったそうです。

明治期、時計の保守を担当したのは、東日本一の時計店だったなかの時計店でした。そこで修行した井上清が、1928年、時計台近くに自分の店を出します。時計台の時計は、永らく止まったままであることに心を痛めた井上は、札幌市に保修を掛け合いますが、断られます。思い余った井上は、時計台に忍び込み、さび付いた時計の分解掃除を始めます。井上の丁寧な仕事の甲斐もあり、時計は、再び動き始めます。札幌市も、これを追認し、井上は、ボランティアとしてメンテナンスを続けました。さらに井上の息子和雄が跡を継ぎます。和雄は、小学校時代、先生から「時計台の時計はお前が守るんだ」と言われて育ったそうです。

市の非常勤職員となった和雄は、2014年まで保守に携わり引退しています。現在は、和雄の指導を受けた市の職員2名がメンテナンスを行っているようです。錘の巻き上げ、注油、分解掃除の他にも、震度3以上の地震で狂いが生じ、自動車の振動でねじが緩むこと等への対応も必要だと言います。札幌市時計台は、日本最古の時計台です。140年間、風雪や地震等にも耐え、時を刻み続けられたのは、ハワード社の頑丈な時計、堅牢な建屋のおかげでもありますが、雨の日も、雪の日も時計台に通い続けた井上親子の献身的な貢献なかりせば、ということになります。道路にへばりついて写真を撮るだけでなく、入館して展示も見てもらいたいものだと思います。

ちなみに、演舞場を作るというクラーク博士の発想ですが、北辺の守りを固めるという意味があったようです。ただ、農学校の学生の人数などしれたものでしかありません。クラーク博士の構想は、ロシアが攻めてきた時、農学校の学生たちが指揮官として、屯田兵を率いて戦うというものだったと言われます。戦時の指揮官としての日ごろの覚悟と鍛錬のために、演舞場は重要な意味を持っていたわけです。札幌市時計台は、北海道開拓当初の緊張感を伝える歴史遺構でもあります。(写真出典:skyticket.jp)

2021年8月16日月曜日

ウェハース

ウェハースが大好物なのですが、それを言うと「子供みたいだな」という反応が多く、あまり人には言わないようにしてきました。アイスクリーム・コーンもあり、ゴーフルやゴーフレットもあり、さらに言えば最中の皮種も似たようなものなのに、なぜウェハースだけ子供っぽいと言われるのか、やや不明ではあります。私のお気に入りのウェハースは、イタリアのロアカー社の「クアドラティー二・チョコレート」です。ロアカー社は、イタリアの南チロル地方にあるウェハース専業メーカーです。100カ国に輸出され、世界シェアはトップだそうです。同じイタリアには、高級ウェハースのBABIもありますが、ロアカーで十分楽しめます。

アルフォンス・ロアカーは、子供の頃からボルツァーノの小さなベーカリーで働いていました。1925年には、そのベーカリーを買い取り、永年の夢だったウェハースを焼き始めます。ボルツァーノ・ウェハースの誕生です。サクサク食感のウェハースは、大評判となり、1967年には、工場を建設し、量産体制に入ります。鮮度を保つためのパッケージの改良が、輸出拡大にもつながったようです。1974年には、ボルツァーノから、更に山中深くアウナ・ディ・ソットのレノンに会社を移転しています。世界遺産ドロミテの一部であるシリアール山を望む絶景のなかでロアカーのウェハースは作られています。ロアカー社は、シリアール山を、しっかりパッケージにも描きこんでいます。

ウェハースの生地は、小麦粉、卵、砂糖、ミルク等から作られます。ロアカーは、原材料にもこだわり、例えばミルクは、いまだにイタリア・アルプスの小規模農家のものを使っていると言います。ロアカー社が、南チロルの山中にこだわる理由の一つなのでしょう。ウェハースは、もちろん味も重要ですが、その大前提として生地のサクサク感と香ばしさが命だと思います。ロアカーの絶妙な食感と香ばしさは、ほぼ理想的だと思います。ウェハースと最中は似てると思います。最中の味の決め手はあんこでしょうが、皮種のパリパリ感あってのあんこです。最中の皮種は、概ね専門業者が焼き上げ、菓子屋に納入しています。一番すごいと思う皮種は、近江八幡の”たねや”の最中です。極限まで攻めた香ばしさの秘密は、小豆皮パウダーと裏こがしだと聞きます。

ウェハースの発祥ははっきりしていないようです。キリスト教の聖体拝領にも使われきましたし、中世末期の正餐のデザートしての記録もあるようです。ウェハースという言葉は、オランダ語の”wâfel”(蜂の巣)が語源とされますので、フランドル地方で生まれたものなのでしょう。ウェハースも、ワッフルも、フランス語のゴーフルも同じ語源です。今は多様化していますが、基本的には蜂の巣状の凹凸が特徴だったのでしょう。日本では、1925年に森永製菓がウェハースを、1929年には風月堂がゴーフルを発売しています。このあたりが嚆矢なのでしょう。森永太一郎は、栄養のあるおいしいお菓子を日本の子供たちに食べさせたい、という思いで森永製菓を創業しています。日本で、ウェハースが子供のお菓子として広まった経緯は、ここにあるのかも知れません。

ちなみに、最中の皮種は、小麦ではなく、餅米から作られます。要は、薄く伸ばした餅を焼いたものです。最中という言葉は、拾遺和歌集にある源順の歌にあるようで、「もなかの月」と呼ばれていたようです。最中の原型は平安末期からあったわけです。今の形になったのも、最中という名称になったのも、江戸期のことだったようです。ウェハースも、最中も、始まりはプリミティブなお菓子だったわけです。長く愛されてきたのは、単純な作り方もさることながら、人間が香ばしさを好む本質的傾向を持っているからではないか、と思います。おそらく人間にとって最初の調理は「焼く」だったと思われます。人間が、香ばしさを好むのは、太古の記憶につながる幸福感ゆえではないでしょうか。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年8月15日日曜日

特攻

知覧特攻平和会館
知覧の特攻平和会館を訪れた際、見学所要時間は1時間程度と知人に言われ、そのように計画しました。ところが、実際には3時間かかりました。特攻隊員の遺書を読み始めたら、すべて読み終わるまで、そこを離れることはできませんでした。日本人は、皆、一度は知覧の特攻平和記念館を訪れるべきだと思います。行って、 日本の将来を思い自らの命を犠牲にした若者たちに手を合わせるべきだと思います。行って、 戦争の悲惨さに、非情さに思いを深くすべきだと思います。行って、国家も含めた組織が時として見せる理不尽さへの警戒を新たにすべきだと思います。

古今東西、戦いの場では、決死隊の組成、あるいは決死の突撃が行われてきました。決死とは、死亡リスクが高い、 あるいは死を覚悟して戦う、という意味であり、死ぬことではありません。日清・日露の戦争でも、決死隊はありました。無論、志願が前提であり、支援・救援態勢が組まれ、かつ最悪の場合、遺体が回収できることが作戦承認の最低条件だったと聞きます。特攻隊は、それらとは全く異なります。志願を前提としていたとしても、それは組織的な自殺の強要そのものです。特攻の原点となる水上特攻の案は、既に1943年夏頃、現場から出始めています。前線では、通常の兵器で、連合軍と戦うことの限界に気づいていたということでもあります。

では、特攻を判断した上層部は、皆、極悪非道の輩だったのか、というと必ずしもそうではありません。当初、現場から上がってきた発想を、幹部は全面否定します。神風特攻隊の大西中将ですら、最初は否定し、特攻隊司令になっても統帥上の外道であるとの認識を持っていました。いよいよ戦況が悪化すると、様々な条件付きで、一部特攻が始まります。志願制は大前提でした。直前脱出へのこだわりもありました。あるいは天皇の指示を避けた現場判断としての実行でもありました。特攻の非道性から目を背けたかったわけです。実は、神風特攻隊を知ったナチスも、「ゾンダーコマンド・エルベ(エルベ特攻隊)」を組織しています。案を聞いたヒトラーですら、当初、これを否定しています。実行する段階になった際には、これは命令ではなく自発的行為である、と強調したと言います。

では、上層部は、特攻を非道と思いながら、なぜ特攻を判断するに至ったのか。戦況が悪化したからであり、他に戦うすべがなかったから、と言えばそれまでです。ただ、そこには戦いを止める、つまり降伏という選択肢もあります。シビリアン・コントロールが機能していれば、合理的に最優先されるべき選択肢です。 軍政の実権を握る帝国軍人たちは、天皇の統帥権を盾にとって、シビリアン・コントロールをないがしろにし、さらには政治全般をも動かしていました。しかし、彼らは軍人であり、その本分は、戦争に勝つことであり、国と国民の安泰を保つことではありません。 明治期以降の成功体験もあり、戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」という精神が徹底されており、彼らに降伏という選択肢はありませんでした。

終戦の日の朝、 最後の陸軍大臣だった阿南惟幾は「一死以って大罪を謝し奉る」としたため、切腹します。天皇に対して、戦いに敗れたことを詫びているわけです。国と国民に対して、 悲惨な戦争に巻き込んだことを詫びているわけではありません。抗戦を主張した阿南の真意は不明ですが、最後のサムライであったと思います。暴走したサムライたちも問題ではありますが、それ以上に大問題と言わざるを得ないのは、サムライたちが文民統制下になかったことです。武力は文民統制、つまり国民の統制下に置くべきです。その仕組みに綻びが生じないように目を光らせるのも国民の義務です。曖昧な憲法解釈といった危うげな話には、十分気をつけるべきです。(写真出典:chiran-tokkou.jp) 

2021年8月14日土曜日

わらしべ長者

長谷観音
貧乏な男が長谷観音に参詣すると「寺を出たところで手に触れたものが賜り物だから持って行け」とお告げを受けます。男は、寺を出たところでつまづき、藁に手が触れます。これがお告げかと、藁をもって帰る途中、虻がうるさいので捕まえて藁で縛ります。通りかかった貴族の子供が、それが欲しいと騒ぎます。従者が、ミカン三つとの交換を提案します。ミカンを手に入れた男は、疲れて水を欲しがる身分の高い人に会います。男は、ミカンと上等な布三反と交換します。翌朝、立派な馬に乗る人に出会います。ところが、その馬が急に倒れて死にます。主人は、従者に馬の処理を命じて行ってしまいます。男は、処理に困る従者に、布一反をやり、死んだ馬を買います。長谷観音に向かって、馬を生き返らせ給えと祈ると馬は生き返ります。男は、馬を連れて京に上ります。すると旅に出ようとしていた人が、馬と自分の田と交換してくれと言います。その後、男は、その田からとれた米で、豊かになりました。

ご存知「わらしべ長者」です。12~13世紀の「今昔物語集」と「宇治拾遺物語」が初出とされます。様々なバリエーションがありますし、面白いことに、英国や韓国等にも、似たような話があるようです。霊験あらたかな長谷観音を宣伝するために作られた話かもしれません。ベースになっているのは物々交換です。最も古い経済活動とも言われますが、今も無くなったわけではない相対取引です。物々交換を効率化するために、貨幣が生まれたと聞かされてきましたが、その因果関係を伝える証跡は見つかっていないようです。同様に、貨幣誕生以前の市場経済を担っていたという話も、一切証跡がないようです。要は、相対取引という性格からして、貨幣や市場といった社会システムとは、無縁なところで続いてきたということなのでしょう。

この「わらしべ長者」をマーケティング的に見ると、なかなか面白いことになります。藁も虻も価値のないものですが、組み合わせることで、特定のターゲット、ここでは幼児に対しては価値を生み出すことになります。価値の創造です。高価でもないミカンが、今それが必要な人にとっては、上等な布に値するというのは、価格決定プロセスそのものです。馬が田と交換されるのも、同様のプロセスです。いずれも、ターゲットが特定されているがゆえに成立しています。まさにマーケティングの大原則です。ドラッガーは「マーケティングの目的はセールスを不要にすることだ」と言っています。ターゲットが明確で、ターゲットが欲するものを提供すれば、販売というプロセスは不要になります。わらしべ長者が販売しようと思ったのは、馬だけです。他は、求められて交換しただけです。

当たり前のことですが、物々交換は、ターゲットとニーズが明確です。販売というプロセスを必要としません。市場経済や貨幣とは無縁であり、独立した存在だとも言えます。わらしべ長者は、ターゲットとニーズを発掘するマーケティング・プロセスそのものです。もちろん、作者のねらいは、長谷観音の御利益によって幸運を得たということなのでしょう。また、観音様の助けは借りたが、手に入れた田を地道に耕したからこそ豊かになった、という勤勉を奨励する説話だともされています。どうもそれもピンと来ません。長谷観音の認知を高め、参拝客を増やすために、長谷寺の賢い坊さんが考え出したブランディング手法だったとしか思えません。マーケティングは、コトラーが体系化しただけであって、彼が発明したものではありません。

わらしべ長者と課税というコラムを読んだ記憶があります。結論から言えば、田は、譲渡所得に該当するようです。家具、什器、通勤用自動車、衣服など生活用動産の譲渡による所得は原則として非課税ですが、土地等は課税対象です。取得費と譲渡費用を除いた譲渡所得が課税されます。それは、物々交換でも同様だとされます。ま、それは理解できる話です。わらしべ長者は、等価交換したと主張することになるのでしょう。極端に言えば、藁と田は同じ価値だと抗弁するわけです。もちろん、通用しません。田の現在価値から馬の現在価値を引いたものが譲渡所得と認定されます。わらしべ長者としては釈然としないと思いますが、止む無しです。国税は、そんなに甘くありません。(写真出典:yamatoji88.jp)

2021年8月13日金曜日

不射の射

中島敦
中島敦の短編「名人伝」は、「列子」を素材とする弓の名人の話です。中島敦の遺作とも言われます。実に中国的な名人話で面白いのですが、さらに面白いのは、その解釈に議論があることです。主人公は究極の名人になったとも、 実は名人ではなかったとも言われます。 様々に解釈される様子を見て、 中島敦は、シメシメとほくそ笑んでいるのかもしれません。趙の都・邯鄲に紀昌という男がおり、弓の名人になりたいと思い、当代随一という名人の門を叩きます。 

名人は、 まず瞬きしない訓練をしろ、と言います。 紀昌は、妻の機織台の下で2年訓練し、 一切瞬きしなくなります。次に、 小さなものが大きく見える訓練をしろ、 と言われ、 虱を髪の毛に結び、 見続けること3年、 ついに大きく見えるまでになります。 ようやく名人は、紀昌に弓の奥義を教えます。 瞬く間に上達した紀昌は、師匠がいなければ、自分が一番になれると思い、師匠を襲います。名人同士の戦いは決着がつかず、名人は、私が教えることはもうない、霍山の甘蝿老師に学べ、と言います。ようようたどり着いた山中で、甘蝿老師は、まず弓を引いてみろ、と言います。紀昌は、一矢で5羽の鳥を射抜いて見せます。

老師は、お前の弓は「射の射」だ、まだ「不射の射」を知らぬと見える、と言って、弓矢を持つことなく、一羽の鳶を打ち落とします。それから10年、山中で修行した紀昌は、廃人のようになって都に戻ります。かつての師匠は、弓矢を持たない紀昌を見て真の名人の誕生だと騒ぎます。それから様々な噂が立ちます。紀昌の家に入ろうとした泥棒が、鋭い殺気に射抜かれたように塀から落ちた、紀昌の家の上だけ鳥が飛ばない等々。帰郷して3年後、知人の家で弓矢を見た紀昌は、真顔で「これは何か?」と尋ねます。

さて、紀昌は究極の名人になったのでしょうか、あるいはただの廃人になったのでしょうか。中島敦にとって、それはどうでもいい話であり、「名人伝」は、既に名人話でも無いのでしょう。むしろ、仏教的説話のように思えます。紀昌は、一番の名人を目指し、超人的な努力を重ね、しかも師を亡きものにしようとまでしますが、これはまさに煩悩のかたまりと言えます。霍山の甘蝿老師の言う「射の射」は物質社会そのものであり、「色」と言えます。対して「不射の射」は解脱した状態、つまり「空」へ至る道なのでしょう。しかし、紀昌に「不射の射」を見せつけた甘蝿老師も、まだ涅槃の境地には達していないと言わざるを得ません。

甘蝿老師のもとで10年修行し、廃人にようになった紀昌こそ、無我の境地に達し、「空」に近づいていたのでしょう。「空」を体現できれば涅槃です。ただ、「空」を理解するだけでも難しく、「空」を人に伝えることは、さらに難しく、故に実に多くの教典が存在します。物書きとしての中島敦が、最後に試みたのは、「空」を彼なりに伝えようとすることだったのではないでしょうか。 紀昌は名人か否かという問い、あるいは名人話自体が否定されているようにも思えます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年8月12日木曜日

ドキュメント72時間

NHKのドキュメンタリー番組「ドキュメント72時間」は、2006年の放送開始以来、コアなファンに支えられる人気番組です。一定の地点を72時間ドキュメントし、そこに交差する様々な人生を映し出します。正直言って、当たりはずれもあります。実に様々な場所で撮ってきました。海外ロケもあれば、韓国KBSとのコラボや、中国で中国スタッフが制作したものもありました。また、松崎ナオのテーマソング「川べりの家」が、効果的に使われ、番組の重要な顔ともなっています。年末には、1年間の放送のなかで、もういちど見たいと思う作品を視聴者が投票し、ベスト10を一気に見せてくれます。私も、すべての作品を見ているわけではありませんが、投票には参加しています。

「ドキュメント72時間」最大の魅力は、普段、知り得ないような人生が、ごく短いコメントと映像で語られることです。いわば通りすがりの撮影なので、登場する人たちも、客観的に、明るく、なかば肯定的に、あるいは悟ったように自分の人生をコメントします。その一つひとつの生き様を深堀りしたら、とてつもなく重たいドキュメンタリーになっていると思います。別な言い方をすれば、視聴者側が、映像と短いコメントから、想像力を働かせて、勝手に様々な人生を思い浮かべる番組だとも言えます。この押しつけがましさのない距離感が、とても心地良いのだと思います。

「男も女も寂しいのよ。ここは寂しい人たちが集まる街なのよ」。2014年、鶯谷の24時間営業の食堂を撮影した「大都会・真夜中の大衆食堂」のなかで、投資詐欺にあい、銀行員から風俗に没落し、今はデリヘルを経営するという老女の言葉です。番組を象徴するようなコメントだと思います。特徴ある場所で撮影するので、日ごろは何の接触もないものの、何かしらの共通点を持った人たちが交錯します。そこには、ささやかな共感、あるいは連帯感が漂います。それは、厳しい人生を生きていそうな人々が、その場所に集まる理由でもあります。「ドキュメント72時間」は、かすかな連帯という救いを見せてくれる番組でもあります。

私が最も好きな作品は、2015年のランキング1位にもなった「秋田・真冬の自販機の前で」です。吹雪が吹き付ける真冬の秋田港で、雑貨屋の前に置かれたうどんの自販機に、24時間、ポツリポツリと人々がやってきます。くたびれた自販機が提供するのは、それぞれの人生のどこかの時点で、何らかの意味を与えてきたうどんでした。放送は大反響を呼び、わざわざ全国から200円のうどんを食べに人が集まったといいます。しかし、外国船への食品納入を仕事にしてきた雑貨店は、店主が年老いて、外国船の入港が激減したことで、店を閉じることになります。自販機も撤去されます。自販機最終の日のドキュメントを新たに加えた「秋田・真冬の自販機の前で 惜別編」が放送されたのは、2016年春のことでした。心に残る作品です。

基本的には、一つの場所を72時間に渡り定点観測する番組ですが、毛色の変わった企画を行うこともあります。印象的だったのは、2019年放送、ランキング2位になった「密着“レンタルなんもしない人”」です。「なんもしない」というサービスを提供するという青年への密着取材でした。場所ではないものの、依頼者たちの多様な人生が映し出されるという点では、まさに「ドキュメント72時間」そのものでした。この放送も大きな反響を呼び、書籍、マンガ、TVドラマ化までされています。様々な名作を生み出してきた「ドキュメント72時間」は、SNSサイズ化された今時のドキュメンタリーなのかも知れません。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年8月11日水曜日

古酒

明壽蔵
かつて、新潟のさる蔵元の5年ものという古酒を飲む機会がありました。「中華料理等によく合います」と言われて、茶色がかった古酒を飲むと、何やら味も香りも薄い紹興酒のような印象で、ガッカリしました。どうも日本酒の古酒はよろしくないな、と思っていましたが、その見方が見事に覆る古酒に出会いました。兵庫県の山陽盃酒造の「播州一献 明壽蔵」です。廃坑となった明延鉱山の坑道で、3年間熟成させた古酒です。マイルドな味わい、透明な色合い、トロリとした飲み口、なんともクセになる酒でした。気温は10度に保たれ、光が入ることもなく、かつ振動もないという廃坑の環境が作り出す絶品です。

どうも酒と言うものは、長期熟成すると、マイルドになり、深みが出るようです。ウィスキー、ワイン、紹興酒、泡盛等の例を挙げるまでもなく、多くの酒が長期熟成されています。また、醸造酒と蒸留酒による違いも無いように思えます。ところが、日本酒だけは、様子が違います。これまで古酒、あるいは長期熟成という話をあまり聞いたことがありませんでした。日本酒は、長期保存すると酢になるのではないか、という話もあります。ただ、これは事実ではありません。酢は、アルコールに酢酸菌を加え、酢酸発酵させないと出来ません。また、日本酒は、他の酒に比べて、劣化が早いのではないか、という話もありますが、これもデタラメです。味は変わったとしても、酒に消費期限はありません。

では、なぜ、日本酒に古酒が無かったのか。実のところ、江戸期までは、他の酒と同様、日本酒も長期熟成が当たり前だったようです。それを一変させたのは、明治政府による税制だったようです。不平等条約改正に向けて脱亜入欧政策を徹底する明治政府は、ワインやビールを免税にする一方、日本酒には酒税をかけます。課税方式は、造石税を採用します。造石税は、製造した酒の量に課税する従量税方式です。明治4年から昭和19年まで続きました。その後は、蔵出税、販売目的で出庫された酒に課税する方式に変わりました。造石税のもとでは、醸造した瞬間から課税されるわけですから、納税資金を確保する意味でも、できるだけ早く販売していくことになります。

造石税方式が長期に渡ったことに加え、虎の子の酒税を監視する国の目も厳しく、日本酒の古酒文化は消えていきました。新潟で、この酒は冷蔵庫で最低1年寝かせてから飲みなさい、と言われた酒がありました。清酒を熟成させる文化は、一部、消費者サイドに残っていたわけです。典型的な例は、クース(古酒)を楽しむ泡盛だと思います。蔵元は、限られた量しか長期熟成できないわけですが、沖縄の各家庭は、甕でクースを熟成させていたようです。百年を超すものも珍しくなかったと言いますが、すべて沖縄戦で失われたと聞きます。戦後は、蔵元でのクースの熟成も再開されますが、手元資金の流動性を考えると、大量に熟成させるわけにもいきません。従って、希少性は高まり、高価なものになっているわけです。

近年、日本酒の古酒も出回るようになってきました。酒税法上の規定はありませんが、業界としては、"3年以上熟成させた糖類添加酒を除く清酒" を熟成古酒と定めているようです。毎年秋には、「荒走り」や「中汲み」と呼ばれる新酒が出てきます。これはこれで美味しいのですが、熟成古酒も様々なタイプが出てくれば、更に日本酒の世界も広がります。先々は、ワインや紹興酒のように、何年ものといった楽しみ方も生まれるかも知れません。ただし、その際、古酒の値段はべらぼうなものになっていることでしょう。何年ものという概念が無かった日本酒は、値段も知れたものでした。熟成古酒によって日本酒の奥深さが広がるとともに、一方では、手ごろな値段という日本酒の魅力の一つが失われます。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2021年8月10日火曜日

天狗

天狗という言葉は、もともと中国の言葉で、流星が落下する際、稀に発生する大音響を指す言葉でした。天の犬が吠える、というわけです。飛鳥時代には、その意味で日本にも伝えられていますが、平安末期に至り、天狗は、突如、妖怪として登場します。その成立経緯は、よく分かっていないようです。室町時代に、山伏姿で、赤ら顔、嘴状の口、羽根といった天狗の姿になったようです。能楽「是界」に登場する大唐国の天狗の首領・是界坊は、口をへの字に結んだ怖い顔をしていますが、赤ら顔でもなく、鼻も高くありません。鼻が高くなるのは、江戸期以降のようです。

妖怪が、山伏姿になっていくあたりが面白いところです。室町時代の山伏は、庶民にとって、相当に胡散臭い連中だったということなのでしょう。修験道、いわゆる山伏の開祖は、7~8世紀に実在した役小角(えんのおづぬ)だとされます。役小角は、呪法を学んだ後、山岳修行を行い、修験道の基礎を築いたとされます。ただ、役小角開祖説は、後代の創作との説が有力です。実際には、平安期から起こった神仏習合の動きのなかで、古来から存在する山岳信仰に神道や仏教がミックスされ形を成したものと考えられています。密教が山岳修行を行うことから、密教との関わりが深いとされます。霊山深く入り、厳しい修行を行うことで、功徳の現れである「験力」を獲得し、それを使って民衆を救済するのが修験道とされています。

山岳信仰は、古くから世界中に存在しています。いわゆるアニミズムであり、山を霊的な存在とすること、神のいる場所とすること、あるいは死界とすること等によって構成されます。ギリシャのオリンポス山、中国の五岳信仰、仙人が住む蓬莱山等々、枚挙に暇がありません。その後に成立した宗教にも、山岳信仰は受け継がれていきます。仏教の須弥山、ユダヤ教のシナイ山、チベット仏教のカン・リンポチェ等々、これまた多く存在します。山が持つ否定できないほどの存在感、圧倒感ゆえだと思われます。しかし、修験道のような、霊山で修行して山の力を身に付けるといったアプローチは、あまり聞いたことがありません。山岳信仰とシャーマニズムが結びついた独特な信仰の形だと思います。

シャーマンは、霊界と人間界をつなぐ存在であり、病気を治したり、予言をしたり、死者と交信したりします。シャーマンは、里の中にいるからこそ、その役割を発揮します。人々とは異なる存在ですが、同じコミュニティに暮らす馴染み深い存在です。対して、山伏は、常日頃、霊山奥深くで修行に明け暮れています。里の人々にとって、恐ろしい霊界である山で修行する山伏は、時としてその験力に頼ることがあったにしても、やはり理解を超えた異端の集団だったのではないか、と思われます。恐ろしい天狗が山伏の姿になったのは、単に山中に住まいするという共通点だけではなかったと思えます。異形の妖怪が山伏姿で描かれることを、当の山伏たちは、どう思っていたのでしょうか。

天狗は、妖怪ではなく、山の神としてあがめられることもあります。全国にある愛宕神社の本尊は愛宕権現ですが、大天狗である愛宕山太郎坊のことです。同様に、秋葉権現は秋葉山三尺坊とされます。面白いことに、いずれも火伏の神として有名です。秋葉権現は、秋葉原の地名の由来でもあります。ある意味、最もよく知られている大天狗は、鞍馬山僧正坊だと思います。別名が鞍馬天狗であり、牛若丸、後の源義経に剣術を指南したことで知られます。さらにその名を広めたのは大佛次郎の人気小説「鞍馬天狗」です。何度もTVドラマ化されています。ただ、鞍馬山僧正坊とは、まったく無関係の創作キャラクターです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年8月9日月曜日

Dr.ストレンジラブ

スタンリー・キューブリック監督は、間違いなく映画史上最も影響力のあった監督の一人だと思います。 「2001年宇宙の旅」、「時計仕掛けのオレンジ」、「バリー・リンドン」、「シャイニング」等々、すべて映画の歴史を変えた作品ばかりです。その一つがブラック・コメディの傑作「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」(1964)です。原題は”Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb”であり、ストレンジラブは博士の名前です。完璧主義者のキューブリックは、翻訳された字幕までチェックしていたと言われますから、「博士の異常なる愛情」という極端な意訳タイトルも受け入れたのでしょう。

米国空軍司令の暴走によって核戦争勃発の危機が起こります。危機は、なんとか回避されたものの、予期せぬ事態によって世界は破滅へと向かいます。ラスト・シーンは、特に有名です。核実験の実写映像が多数流れ、バックには第二次大戦初期にヒットした「また会いましょう(We'll Meet Again)」が流されます。ピーター・セラーズは、博士、英国軍大佐、米国大統領の3役をこなしています。Dr.ストレンジラブは、ナチス下で核開発していた物理学者ですが、大統領を総統と呼び間違えるなど、戦争と科学という難しい問題を体現しています。モデルとされたのは、ナチスのV2ロケットの開発者でアメリカに亡命したフォン・ブラウン博士です。また、終始、強硬論を唱える将軍は、原爆投下、東京大空襲を指揮した「皆殺しのルメイ」ことカーティス・ルメイ将軍がモデルとされます。

核戦争の論理は、恐ろしいほど単純なものです。相手が核ミサイル打てば、こっちも打つ。よって、相手は打てなくなる。保有する核爆弾が多いほど、抑止力が効く。これが米ソで起きたエスカレートの構造です。事故が起きないように様々な安全策が講じられていても、偶発的なミサイル発射の懸念は拭えず、東西冷戦下にあった世界は、地球破滅の懸念に怯えました。朝鮮戦争では、マッカーサー将軍が核の使用を申請し、トルーマン大統領によって拒否されています。キューバ危機は、米ソによる核戦争の一歩手前まで行っています。また、1983年には、ソヴィエトの警戒システムが米国のミサイル発射を捉え、核戦争が起きて当然という状況が生まれます。当直将校であったペトロフ中佐が、コンピューターの誤作動を確信し、定められた手順を無視したことで、地球の滅亡は回避されました。

ちなみに、ペトロフ中佐は、手順を遵守しなかったことで左遷され、早期退職後、神経衰弱を患います。ただ、2006年に至り、米国を訪れた中佐は、国連等で「世界を救った男」として表彰を受けています。60年代末からのデタント(緊張緩和)、数次に渡る戦略兵器削減条約、ソヴィエトの崩壊等によって、一発即発的状況は緩和されました。安定化したとは言え、核戦争の危機が消滅したわけではありません。2021年には、国連による包括的な核兵器禁止条約も発効しています。ただ、核保有国とその同盟国は批准していません。日本も批准していません。唯一の戦争被爆国が、批准していないことは、まったく情けないとしか言いようがありません。日本はアメリカの核の傘に守られている、という言い方は、既に古色蒼然たる印象があります。他の大量破壊兵器とともに、国際法上禁止すべきタイミングだと思います。

東日本大震災における福島第一原発事故以降、原子力発電廃絶の声も高まっています。事故発生時の影響の大きさを考えれば、当然と言えます。ただ、世界の人口増加や中国の経済発展に伴い、世界の電力消費はうなぎ登りです。電力供給は、依然として6割超を石炭・石油などの炭素燃料に頼り、地球温暖化を進行させています。原子力は、電力の約1割を担っていますが、欧米での依存率が特に高くなっています。これを即刻廃止すれば、世界経済は破綻します。現実的な選択としては、効率は悪いものの風力・太陽光等の代替エネルギー化を進めつつ、一方で科学技術の粋を総動員して原発の安全性を高めていくしかありません。(写真出典:sonypictures.jp)

2021年8月8日日曜日

こけし

かつて、東北地方の家庭には、必ずと言っていいほど「こけし」がありました。大小様々、絵柄も異なるこけしが、複数飾ってあったものです。北海道土産の木彫りの熊もポピュラーでしたが、こけしの方が多かったのではないかと思います。我が家にも、10本以上はあったように記憶します。父親が、これは高価なこけしだと自慢しているものもありました。今は、かなり廃れたものの、一部愛好家たちが存在し、アンティークや有名作家の作品等は、高価で取引されているようです。我が家のこけしは、その後、どうなったのか不明ですが、お宝もあったかも知れません。

こけし発祥の地とされるのが、宮城県の鳴子、遠刈田、福島県の土湯ですが、すべて温泉地です。こけし発祥の経緯は、随分古い時代の畿内にまでさかのぼります。8世紀、藤原仲麻呂の乱の後、称徳天皇が安寧を願って「百万塔」を作らせ、多くの寺に納めます。百万塔は、高さ13センチ余りの木製の塔であり、内部にはお経が納められていました。そのお経は、世界最古の印刷物と言われます。百万もの塔の製作には、多くの木工職人が携わったはずです。轆轤(ろくろ)の技術を身に付けた職人たちは木地師と呼ばれます。木地師たちは、百万塔が完成すると、木材を求めて各地を移動しながら、食器等を作っていたようです。木地師は”朱雀天皇の綸旨”なるものを持っており、各地の山の七合目以上で材料となる樹木を自由に伐採できました。

農林業の生産性が高まった江戸中期になると、山林の活用も進み、木地師たちの特権も制限され始めます。近畿地方に多かった木地師たちは、材料を求めて東北へと移動します。その東北でも伐採が制限されると、移動することを止め、山麓に定住するようになります。おりから、東北では、農民たちの間に湯治の習慣が広まっていました。 木地師たちは、湯治場の土産物として、こけし人形を作り始めたということのようです。当時、小田原・箱根あたりで、”赤物”という疱瘡(天然痘)除けの玩具が人気を博していました。赤い色は、天然痘から子供たちを守るとされていました。どうも、この赤物の影響を受けて、赤い色を使った木工人形が作られたようです。

全国各地には、赤い色の民芸玩具が多く見られますが、ほとんどが疱瘡除けが由来だと思われます。天然痘は、1万年前から人類を苦しめてきたウィルスです。日本には、7世紀に入ってきたようですが、瞬く間に全国に広がっています。18世紀末に、英国のエドワード・ジェンナーが世界初のワクチンである種痘を確立します。種痘は、19世紀初頭には、日本にも入っていますが、鎖国下でもあり、なかなか理解を得られなかったようです。最終的には、近代医学の祖と呼ばれる緒方洪庵の活躍をもって、種痘は日本にも広まっていきます。1980年には、世界保健機構が、天然痘の完全撲滅宣言を出しています。人類とウィルスとの長い戦いの中で、 人類が完全に勝利した唯一の例であり、現在、自然界に天然痘ウィルスは存在していません。 

江戸末期から明治にかけて、湯治の広がりとともに、こけしはよく売れたようです。戦後の高度成長期に入ると、温泉地は、行楽ブームに伴う団体旅行、社員旅行で賑わうことになります。昭和版の湯治といったところでしょうか、こけしも最盛期を迎えます。東北の各家庭にあるこけしも、この時期に購入されたものなのでしょう。こけしは、土地によって、形も絵柄も異なります。私が好きだったのは、宮城県の鳴子温泉のこけしでした。首が回る構造になっており、回すと、キュッ、キュッと音がします。鳴子というだけあって音が出るのだと思っていました。(写真出典:kogeijapan.com)

2021年8月7日土曜日

聖母出現

無宗教の人間にとって、キリスト教の奇跡は、理解しにくい面があり、それだけに興味津々でもあります。イエス・キリストが成した数々の奇跡は別として、ローマ教皇庁成立以降の奇跡は、ヴァチカンが厳密に査定し、なかなか認定されないものだそうです。認定された奇跡には、聖母マリアの出現が多いと聞きます。多くの聖母出現が記録されていますが、三大奇跡とも呼ばれるのが、フランスの”ルルドの聖母”、ポルトガルの”ファティマの聖母”、メキシコの”グアダルーペの聖母”です。

認定された奇跡に聖母出現が多いのは、キリスト教において、聖母マリアは、天に上げられただけで、死んでいないという解釈があるからだと聞きます。カソリックにおいて、人々は生まれた時から原罪を背負っているとされます。原罪は、アダムによる神への不従順という罪に起因しています。それを救済できるのはキリストだけです。ただ、聖母マリアは、神の恵みによって初めから原罪を免れており、よって老いることも、死ぬこともない、とされます。従って、聖母が天から降りてくることも、若いままの姿で現れることも、一概に否定することはできません。

ルルドの聖母は、1858年、フランスの南端の町で、14歳の少女の前に、18回に渡って姿を現しています。聖母が指した洞窟の中の泉の水が、不治の病を癒すとされ、世界中から巡礼者が集まります。これまでに説明不可能な治癒が2,500例、うち奇跡と認定されたのは68例あります。1916年には、ポルトガル中部ファティマで、3人の子供の前に、天使が現れ、聖母の出現を予告します。予告どおり、聖母は、毎月13日、半年に渡って出現しています。地獄の実在、第一次大戦収束とさらなる大戦の勃発、教皇暗殺の懸念が予言されます。ただし、教皇暗殺の予言に関しては、永らく秘匿され、まだすべては公開されていません。また、ロシアが世界にもたらす厄災を回避すべく祈りなさいとも告げます。1年後、ロシアの十月革命が起こり、宗教を全否定する共産党独裁国家が生まれ、かつ80年後に崩壊しています。

ファティマの聖母が、最後に出現した時、噂を聞きつけた民衆が7万人が集まり、太陽が狂ったように動く”太陽のダンス”という現象を目撃しています。マス・ヒステリアとしては、規模が大き過ぎる不思議な現象です。もっと不思議なのは、1531年のグアダルーペの聖母出現だと言えます。聖母出現の中では、極めて稀な物証が残っています。農夫の前に4回目に現れた時、聖母は、出現の証として、花を摘み、司教に届けるように言います。農夫は、冬なのに現れた花を自分のマントに包み、司教に届けます。するとマントに聖母像が浮かび上がっていました。そのマントは、今もグアダルーペ聖堂に掲げられています。不思議なことに、五百年経て、なお色鮮やかだと言います。科学的な分析は、限定的に行われたことがあるようですが、本格的な調査は行われていません。

グアダルーペの聖母像は、中南米のキリスト教化に大いに貢献し、永年、中南米における信仰の象徴となってきたため、今更下手なことはできないのでしょう。熱狂的な宗教心、あるいは厳しい修行のなかで幻視が起きることは理解できます。ただ、それを、単なる幻視と片付けられない現象があるのも事実なのでしょう。グアダルーペの聖母像に関して、教会は、むしろ積極的に科学的分析を行い、科学では説明できない部分があることを明らかにすべきではないかと思います。(写真:グアダラルーペの聖母像 出典:ja.wikipedia.org) 

2021年8月6日金曜日

ジョハリの窓

ジョハリの窓
6月末、米国の最年少国防長官、そして最年長国防長官として知られるドナルド・ラムズフェルドが亡くなりました。ドイツ系移民ながら、プリンストン大学を卒業、海軍ではエース・パイロットとして鳴らし、弱冠30歳で共和党下院議員に当選します。以降、政治の中枢で辣腕を振るいました。75年、43歳のおりには、フォード政権下で、史上最も若い国防長官に就任します。続くレーガン政権では、各種委員会の委員長を歴任、00年、68歳でジョージ・W・ブッシュ政権の国防長官に史上最高齢で就任しています。イラク戦争での大量破壊兵器を巡る疑惑や捕虜虐待等で批判を浴び、06年に辞任しました。

ワシントン政界の奥の院で暗躍した右派エリートですが、話が理屈っぽく、難解であることでも有名でした。特に有名になったのは、イラク戦争開戦の理由とされた大量破壊兵器が、イラクで発見されなかった際、記者会見で行った回答です。記者たちの追及を受けラムズフェルドは「知ってのとおり、知られていると知られていること、つまり知っていると知っていることがある。知られていないと知られていることがあることも我々は知っている。言ってみれば、我々は知らない何かがあるということを知っている。しかし、知られていないと知られていないこと、つまり、我々が知らないと知らないこともある」と言ってのけます。

この”known knowns”、ないしは”unknown unknowns”発言は、世界中で大きな反響を呼びます。回答になっていない、ひどいごまかし、何を言っているのか全く不明、自作の詩なのではないか、英語を話せなくなったのではないか、老齢ゆえボケたのではないか等々、大騒ぎになりました。しかし、世界中の人事部経験者たちは、何を言わんとしているのか、即座に理解したはずです。もちろん、大量破壊兵器が見つからなかったことに対する直接的回答ではありませんが、”known knowns”発言のベースになっているのは「ジョハリの窓」の四分割図です。1955年にアメリカで発表された円滑なコミュニケーション能力を獲得するためのツールです。

上下左右に四分割されたジョハリの窓は、左上を「開放の窓(自分も他人も知っている自己)」、右上を「盲点の窓(自分は知らないが、他人は知っている自己)」、左下を「秘密の窓(自分は知っているが、他人は知らない自己)」、そして右下は「未知の窓(自分も他人も知らない自己)」と定義します。要するに、この四分割を意識し、左上の「開放の窓」を大きくしていく努力を行えば、自ずとコミュケーションは円滑に行えるというわけです。人事教育上、最も基本的なテーマの一つであり、聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか。ラムズフェルドは、ジョハリの窓を口頭で説明しただけです。大量破壊兵器の存在を「未知の窓」に例えたのでしょうが、記者を煙に巻くための話法に過ぎません。

2001年9月11日に起こった同時多発テロの衝撃は、今でも忘れません。ペンタゴンで執務中だったラムズフェルドも九死に一生を得、女性職員を救出したことも知られています。テロ発生から数時間後、まだ状況すら完全に把握されていない段階で、ラムズフェルドは、既にイラク戦争を計画していたと言われます。即座に生贄が必要だと思ったのか、湾岸の石油を抑えるチャンスと思ったのか、イラン・イラク戦争で支援し、ある意味、自らが作り上げた疫病神サダム・フセインを潰す絶好の機会と思ったのか、多くの説が語られています。真実は「秘密の窓」の中にあるはずです。決してラムズフェルドが匂わせた「未知の窓」の中ではないと思います。(写真出典:benkan.co.jp)

2021年8月5日木曜日

渡良瀬橋

渡良瀬橋の夕日
新潟県三条市は、金属加工の街であり、世襲された中小企業の多い町です。三条のある経営者から、海外も含めて各地を転勤して歩く仕事がうらやましいと言われました。こっちから見れば、継ぐべき家業があって、地元で暮らせる人たちがうらやましい、と応えました。 社長は、みんな子供の頃からの知り合いで、昨夜、誰が、どこで、誰と飲んでいたかも、翌朝にはみんな知っているような町は、息が詰まると言っていました。それは理解できますが、それが地元の良さでもあるわけです。

1975年に発売された太田裕美の「木綿のハンカチーフ」は、昭和史に残る名曲であり、大ヒット曲です。松本隆作詞・筒美京平作曲というゴールデン・コンビによる初めての曲でもありました。松本隆の詞が、ボブ・デュランの「スぺイン革のブーツ」にインスパイアされていることは有名です。「スパイン革のブーツ」は、スペインに行った女性と捨てられた恋人の往復書簡という形式になっています。対して「木綿のハンカチーフ」は、地元に残った女性と都会へ出ていった男性の恋が、手紙のなかで終っていくストーリーになっています。斬新な構成の詞、ドラマ性、ノリのいい楽曲も見事でしたが、”ハンカチーフ”という昭和っぽい言葉の選択も含め、時代背景が歌い込まれていたことが最大のヒット要因だったのでしょう。

高度成長とともに、産業構造の転換が起こり、労働力は、一次産業から二次産業へ、農村から都会へと移ります。集団就職が分かりやすい例です。その後は、三次産業への展開も行われますが、地方から都会への流れは変わりません。集団就職から大学受験へと形が変わっただけです。「木綿のハンカチーフ」は、そういった時代背景をしっかり映し込んでおり、多くの若者が共感したのだと思います。それから約20年後、都会と地方の関係を織り込んだ、もう一つの名曲がヒットします。1993年、森高千里の「渡良瀬橋」です。甘く、切なく、自己憐憫のセンチメンタリズムが心に残る平成の名曲です。森高千里の素人っぽい、純朴な歌い方もマッチしていました。

「渡良瀬橋」は、地方に住む女性と都会の男性の実らなかった遠距離恋愛の物語ですが、女性が地元を離れられない理由は、明確に語られていません。地元愛が強かったのか、家業を継ぐ必要があったのか、あるいは親の介護があったのか。平成前後になると、寂れていく地方が問題になります。それは、誰が老いた親の面倒をみるのか、という問題でもありました。88~89年には、いわゆるふるさと創生一億円事業も行われています。「渡良瀬橋」は、失った恋を思う歌ですが、同時に、流出一方だった地方サイドから、地元愛という目線で自己主張がされた最初の楽曲なのではないかと思います。その視点が、都会に疲れた人々の共感を呼んだのではないかと思います。まさに、歌は世につれ、世は歌につれ、というわけです。

森高千里は、橋を歌おうと思い、地図から、美しい名前や語感の橋を探したと聞きます。熊本出身の森高千里は、足利市に縁もなく、渡良瀬橋に思い入れがあったわけでもないようですが、とても良い選択をしたものだと思います。一度、渡良瀬橋を車で通ったことがあります。何の特徴もない、どこにでもある、実用一点張りの鉄製の橋です。結果的に、その地味さが、この名曲の持つドラマを良く伝えていると思います。夕日の名勝とも言われる渡良瀬橋のたもとには、「渡良瀬橋」の歌碑も建っているようです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年8月4日水曜日

羊羹社会

藤原弘達
政治評論家の藤原弘達は、創価学会と公明党の関係にメスを入れたことでも有名ですが、30年続いたTBSの番組「時事放談」で、細川隆元とともに、歯に衣着せぬ発言を行うことで大人気でした。政治に不満を持つ国民は、大いに留飲を下げたものです。高校生の頃、たまたま藤原弘達の講演会を聞く機会がありました。今でも、印象に残っている話があります。日本は欧米に比べて階級のない国だ、上から下まで同質的で、例えて言えば羊羹みたいなものだ、表面に少しこびりついているのが砂糖だ。 当時は、 佐藤栄作首相の末期であり、場内は大爆笑となりました。 

日本社会は、格差が拡大、かつ固定化しつつあるという議論があります。どんな社会にも、格差は存在します。格差は、収入や資産といった物理的な差異であり、それが長期に固定化することでグループが形成され、かつそれが世代間で継承される等、流動性が失われると階級が生まれます。ですから、階級社会とは、格差の存在ではなく、流動性の欠如こそ、その本質だと言えます。 厳しい階級社会である英国では、下層階級出身のミック・ジャガーがどれほど成功したとしても、上流階級に迎えられることはあり得ません。 米国にも階級は存在しますが、欧州ほどではなく、アメリカン・ドリームに象徴される流動性もあります。

日本にも階級がないわけではありませんが、欧米に比べて薄いと言えます。歴史的には、幾度かの社会的シャッフルが起き、既存階級が崩されています。平安末期、公家社会が武家社会に替わり、応仁の乱以降は下克上の時代になります。これが第一のシャッフルです。江戸期は、武士を中心とした身分制度が、封建的な階級社会を形作ります、ただし、例えば、農民は農奴ではなく自作農であり、欧州の硬直的な階級制度とは異なります。明治維新による四民平等が、第二のシャッフルです。欧州では、市民革命によってブルジョワジーと労働者階級が形成されています。対して日本では、形式的な貴族階級が復権し、産業資本家も生まれますが、依然、実権は武家である薩長が握っていました。薩長政権は、富国強兵を急ぐ必要から、民間の力を活用するしかありませんでした。第三のシャッフルは、敗戦による民主主義化ということになります。

格差を固定化する要素は、教育だと言われます。日本の場合、江戸期の識字率は、世界一と推定されています。明治期になると、富国強兵政策のもと、教育が制度的に徹底されていきます。また、国粋主義的傾向が、思想教育を徹底させた面もあります。戦後に関しては、進学率の高まりを許容できた経済的背景に注目すべきだと思います。いずれにしても、日本の教育に、画一的との批判はあるにしても、社会の流動性を阻害するほどの障壁は存在してこなかったと思います。昨今、ネオ・リべラリズム以降の世界で、格差が固定化する傾向にあるのは事実なのでしょう。階級社会化が進むと、社会の活力が削がれ、階級間の争いが激化していきます。格差の完全固定化を避け、羊羹社会を維持するために、今、打つべき手は、やはり教育ということになるのでしょう。

日本が羊羹社会だとすれば、その形成には、社会的シャッフルや教育と同じく、天皇制による影響が大きかったのではないかと思います。器としての天皇制がなければ、羊羹も羊羹の体を成すことはなかったと思うわけです。天皇と一神教の神は類似する面もあるのでしょうが、武家社会以降、実権を持たない天皇に対して、一神教の神は絶対性を特徴とします。王権神授の世界では、王が定めた制度も絶対性を持ちます。社会は硬直化するわけです。敵対する勢力が実権を握るには、王と王が定めた社会を完全に破壊するしかありません。実権のない天皇のもとでは、相対的に、政治体制も社会体制も流動性が高くなります。日本社会の階級性が薄い理由の一つは、ここにあるのではないかと思います。(写真出典:jmca.jp)

2021年8月3日火曜日

オリンピアード

コロナ禍のなかでの開催が危ぶまれ、また開催に反対する声もあるなか、無観客で始まった「Tokyo2020」オリンピックは、 日本のメダル・ラッシュもあり、それなりに盛り上がっています。日程の半分が過ぎたところで、印象的なのは、世代交代が進んでいることです。いかに優れた選手でも、敗れる時、引退の時が来るのは宿命です。また、複数回出場する選手たちの存在は偉大ではありますが、次を担う選手たちの育成が十分ではないということでもあります。いずれにしても、大物選手がプレッシャーに敗れ、勢いのある若い選手が躍進するのも、オリンピックらしい光景と言えます。

近代オリンピックは、1896年、フランスのクーベルタン男爵の提唱に基づき始まりました。その元になった古代オリンピックは、記録に残る限り、紀元前776年から紀元393年までの1,169年間に293回開催されています。古代ギリシャのエリス王イピトスが、疫病の蔓延に悩み、デルポイの神託を受けたところ、争いを止め、競技会を復活せよ、と告げられます。イピトスは、エリスのオリンポスで競技会を行いました。古代オリンピックが、疫病退散を祈って始まったことは、実に興味深いと思います。もっとも、人類の歴史は、疫病との戦いの歴史でもありますから、理解しやすい話でもあります。

古代オリンピックに関して、最も興味深いことは、それが約1,200年も続いたことだと思います。塩野七生に言わせれば、古代ギリシャ人が、それを必要としたから、ということになります。4年に一度の古代オリンピックは、数か月間の全面的停戦を伴って開催されていました。競技者は、ギリシャの都市国家のみならず、地中海に広がる植民都市からも集まりました。その往来の安全をはかるための措置でした。同時に、戦いに明け暮れる国々にとって、4年に一度とは言え、停戦は大助かりであり、また戦争の当事者同士が会える外交機会としても、極めて重要だったのでしょう。まさに、彼らは、オリンピックを必要としていたわけです。

今も、オリンピック開催に際しては、国際オリンピック委員会が停戦を呼び掛けています。ただし、残念なことに、実効性はありません。国連と連携し、例えば国際法レベルでの規定化をはかる等の対応があっても良いのではないか、と思います。今回、柔道のモンゴル代表の一人はイランから亡命した選手でした。イラン政府が、イラン柔道連盟に対し、イスラエル選手との対戦を拒むよう指示したため、選手はモンゴルへと亡命したと言います。世界柔道連盟は、これを特例として認めるとともに、イラン柔道連盟を無期限の資格停止処分としています。オリンピックだからこそ、敵対する国同士の選手でも、同じ競技場に立ち、互いをリスペクトして競い合うことがスポーツの良さであり、オリンピック精神だと思います。

古代オリンピックが途切れた理由は明確です。当時、ギリシャはローマ帝国の支配下にありました。ローマがキリスト教を国教化すると、ゼウスに捧げる競技会など、異教として弾圧されたわけです。クーベルタンは、オリンピックの復活にあたり、政治同様、宗教による介入も否定しています。ちなみに、イピトスが受けた神託は、競技会を「復活せよ」としています。古代オリンピックに先立つ競技会が存在したわけです。それはアキレスが始めたとも、ヘラクレスが始めたともされていますが、証跡が見つかっていないので、神話的と判断されています。それにしても、人類は、どれだけスポーツを、競技会を必要としているのか、という話でもあります。(写真出典:olympics.com)

2021年8月2日月曜日

合成の誤謬

R・マクナマラ
「合成の誤謬」は、部分毎の判断は合理的でも、それらが積みあがった全体としては合理的ではない、あるいは意図せぬ結果につながることを指す経済用語です。複数の正しい判断が結合した結果、間違いが合成されるわけです。例えば、バブル崩壊後、日本の企業は、悪化した財務状態を回復するために、債務残高を減らしていきます。実に合理的な判断です。ただ、日本中の企業が、必死に債務返済を行ったことで、日本経済は縮小し、長い不況へと入っていきました。合成の誤謬は、なにも経済に限って起こる現象でもありません。

ジョン・F・ケネディは、第35代米国大統領に選出されると、国中から優秀な人材を集め、組閣します。いわゆる「べスト&ブライテスト」と呼ばれる人たちです。例えば、国防長官ロバート・マクナマラは、ハバード・ビジネス・スクールの俊才にして、凋落したフォード・モータースを徹底的な合理化と数値管理で再生させた若手社長でした。そのべスト&ブライテストたちが、なぜ泥沼のヴェトナム戦争に突入したのかを詳細にドキュメントしたのが、ピュリッツアー賞を獲得したデイヴィッド・ハルバースタムの名著「べスト&ブライテスト」です。

1954年、ディエンビエンフーの戦いで、ヴェトミンに敗れて撤退したフランスに替わって、アメリカがヴェトナムへの介入を開始します。当時は「ドミノ理論」、つまり一国が共産主義化すれば、隣国も赤化するという考えが支配的でした。アメリカは、南ヴェトナム政府に対して、軍事支援を強化していきます。こうした中で発足したケネディ政権の課題は、戦争を始めるか否かではなく、いかに状況を打開するかでした。ケネディ政権は、軍事顧問団の派遣、クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤の使用等を次々に判断していき、結果、抜き差しならない泥沼へと入っていきます。

政権内部での議論は、まるでハバート・ビジネス・スクールのケース・スタディのように進みます。個々の判断は、優れて合理的な解答だったのでしょう。マクナマラは、97年に出版した回顧録のなかで、往時を振り返り「我々は『なぜヴェトナムなのか』と問うべきだった」と繰り返しています。政治の素人だった優等生たちは、与えられた状況、条件のなかで、最も合理的で、最も効率的な判断を行っていたと思われます。ケネディ政権にとって、ヴェトナム戦争とは自由主義と共産主義の戦いでした。一方、ヴェトナム人にとっては、民族自決の実現に向けて戦ってきた戦争の一部でした。歴史を背負って、民族のために戦う兵士と、故郷を遠く離れ、意味不明な戦争を戦う兵士では、モチベーションがまるで違います。

ヴェトナム人たちは「ホー・チ・ミンの偉大さは、ヴェトナム人にとって何が最も大切かを教えてくれたことだ」と言います。それは民族自決であり、独立の確保です。ケネディ政権は、それを理解していませんでした。と言うか、そもそもヴェトナム介入の目的に関する議論を行っていなかったわけです。社会が目的とするところを明らかにして、国民の合意を得ることは、政治が果たすべき大きな役割です。政治家は、しばしば、この面倒極まりないマクロ的議論を疎かにし、大衆にとってより分かりやすいミクロ的政策論に走ります。これが、政治の世界で合成の誤謬が頻繁に発生する所以だと思います。昨今のポピュリズム、ポスト・トゥルースといった政治現象は、間違いなく大きな誤謬を生み出していくものと考えます。(写真出典:ja.wikipedia .org)

2021年8月1日日曜日

ガスパチョ

ペネロペ・クルスが「私のガスパチョに男たちはメロメロよ」と歌いながら、キッチンでガスパチョを作るシーンを覚えています。カラフルなキッチンだったので、間違いなくアルモドバル監督の作品だと思うのですが、どうもタイトルが思い出せません。いずれにしても、ガスパチョ好きとしては、印象的なシーンでした。夏の間、朝食にガスパチョは欠かせません。食欲も、元気も出るような気がします。混ぜるだけなので、自分で作ればいいのですが、野菜類を切るのも面倒で、スペイン産の安いボトルを箱買いしています。

ガスパチョは、アンダルシアの発祥とされますが、もともとはアラブ人が持ち込んだ料理だとする説があります。貧しい人たちが、パン、にんにく、ビネガー、水だけで作っていた料理だったようです。また、古代ローマ軍に由来するという説もあります。兵士たちが、水とビネガーに、塩、ハーブを加え、水筒に入れて携帯していた「ポスカ」が起源とも言われます。ポスカは、古代ローマ軍団のエネルギーを支えていたと言われるほど優れた飲料です。磔刑にされたキリストに飲ませたという話もあります。それが、アンダルシアで、パン、にんにく、オリーブ・オイルが加えられ、ガスパチョになったというわけです。

いずれにしても、暑い地域で、大量の汗を流す兵士や労働者が必要としていた代物だったのでしょう。18世紀になると、トマトがメインとなり、他の野菜も加わることで料理としての位置づけを獲得していきます。何の根拠もありませんが、アンダルシアという土地柄を考えれば、アラブとスペインの文化が融合して生まれた料理の一つがガスパチョだと思いたくなります。スペインには、アラブ文化の影響が多く残ります。フラメンコは、エジプトのラクス・シャルキー由来ですし、米、オリーブ、サフランはアラブが持ち込んだものであり、パエリアはアラブとスペインの文化融合の象徴とも言えます。

「ピレネーの向こうはアフリカである」と言ったのはナポレオンです。スペインが未開の地だと言っているのではなく、永らくアラブ支配下にあったことを指しているのでしょう。8世紀初頭、アラブ勢力は、ジブラルタル海峡を越え、瞬く間にピレネーの南までを支配します。レコンキスタで、キリスト教徒が、アラブ勢を完全に半島から駆逐したのが15世紀末です。概ね8世紀の永きに渡って、イベリア半島は、アラブ支配下にあったわけです。二つの文化が交差すれば、新たな文化が生まれます。新しい文化が持つ勢いが、スペインを世界帝国に押し上げた面もあるのではないでしょうか。

アンダルシアという言葉は、アラブ語の”アル・アンダルス(ヴァンダル人の土地)”に由来し、アンダルシアの至宝アルハンブラ宮殿も、”アル・ハムラー(赤い城)”に由来すると聞きます。アンダルシア起源のガスパチョも、”びしゃびしゃのパン”というアラブ語に由来するという説もあります。ガスパチョは、スペインらしくトマトの味が際立ちますが、これにクミン・パウダーをかけると、二つの文化が交じり合うアンダルシアのエキゾチシズムが立ち上がります。ただし、ごく少量に留めないと、アラブ感が強くなり、レコンキスタ以前に戻ってしまいます。(写真出典:cookpad.com)

夜行バス