2021年8月24日火曜日

什の掟

会津藩軍旗
明治元年から数えて150年目に当たる2018年、政府は「維新150年」と銘打ち、様々な催しを行いました。折から、薩長史観、つまり明治以降の歴史は、薩長に都合良く書かれてきたという批判も高まっていました。維新という言葉も、明治中期、戊辰戦争正当化のために、薩長が編み出した言葉だとされます。では、長州出身の安倍政権が打ち出した「維新150年」という仕掛けを、会津の人たちは、どう受け止めているのか。それが気になり、会津へ行ってみました。会津若松城下には「戊辰150年」の幟が並んでいました。さすが会津。見事なものです。会津へのリスペクトが、更に高まりました。

薩長が実権を握ると、会津は、賊軍の烙印を押され、戊申戦争で焼き尽くされ、雌伏の時を過ごしてきました。もともと会津は、律令時代から奥州の中心でした。交通の要所であり、かつ実り豊かな土地です。江戸期には、江戸城の北の守りとして、奥州に対する前線としての役割を果たします。天下泰平の江戸の世にあっても、常に緊張感をもって武力を保全していたと言えます。江戸期を通じて、薩摩と会津が最強藩と言われていたようです。子弟の教育にも、ユニークな制度が採られていました。町内の6~9歳までの藩士の子弟は、10人前後で「什(じゅう)」と呼ばれるグループを構成します。毎日、順番に各家を集合場所として集まり、勉学に励んだと言います。そして、その什には、「什の掟」と呼ばれる厳粛なルールがありました。

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

いけないことはいけない。有無を言わさず、きっぱり言い切る潔さには、背筋が伸びる思いがします。現代風に言えば、小学校低学年の子供たちが、毎日、これを唱和し、徹底されたわけです。子弟たちは、10歳になると、藩校「日新館」に通い、学問と武芸を徹底的に仕込まれます。長ずれば、良いサムライになることは間違いありませんし、白虎隊が生まれるのも納得できます。日新館の前身は、江戸初期に開かれた「稽古堂」だったとされます。日本初の民間学問所であり、その門戸は庶民のために開かれていたと言います。ちなみに、日新館を訪れ驚いたのは、江戸期からあったというプールの存在です。様々な戦場を想定し、 古式泳法の鍛錬をしていたのだそうです。

ひとたび賊軍の汚名を着せられれば、軍人か教育者くらいしか、世に出る道はなかったと聞きます。 奥州越列藩同盟の各藩も状況は同じです。厳しい状況のなかでも、教育の伝統を守り続けた会津は、野口英世をはじめ、白虎隊の生き残りで東大総長となった山川健次郎、日清・日露戦争でも活躍した陸軍大将柴五郎、あるいは同志社の新島八重、近代看護の母山川捨松等を生んでいます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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