2021年1月31日日曜日

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」

アグニェシュカ・ホランド監督    原題:Mr.Jones 
2019年ポーランド・ウクライナ・イギリス

☆☆☆

ジャーナリストのガレス・ジョーンズによるホロドモール報道を題材とする作品です。ホロドモールを、直接的に描く初めての劇映画だと思われます。原題通りジョーンズの伝記なのか、ジョーンズを通してホロドモールの現実を描くのか、ホロドモールを起こした政治状況を描くのか、様々な重い要素を詰め込みすぎて、焦点がぼけてしまった印象を受けます。さらに、ジョージ・オーウェルを語り部として登場させ、「動物農場」を通じて全体の整理を図っていますが、屋上屋を重ねた印象となり、見事に失敗しています。ポーランド出身のホランド監督は、、アンジェイ・ワイダの弟子で、現在はアメリカで活躍しています。

ホロドモールは、1932~1933年に、肥沃な穀倉地帯ウクライナとロシア南部で起きた人為的大飢饉を指します。犠牲者数は、いまだに定まらず、150万人から1450万人まで諸説あります。スターリンによる極端な圧政が生んだ悲劇であることは確かですが、これがホロコーストやアルメニア人虐殺と同じジェノサイドに当たるか否かについては議論があります。つまり、結果的には、ウクライナでの民族浄化に近いと言えますが、スターリンの目的は農業政策であり、ロシア南部も含まれることから、ジェノサイドとまでは言えないという意見もあります。なお、国連は、「人道に対する罪」として認定しています。

いずれにしても、数百万人が犠牲となった20世紀最大級の悲劇であることは間違いありません。レーニンは、スターリンを後継者に指名しながら、彼をよく知るにつれ、指導者にしてはいけない、と言い残して死にます。スターリンは、熾烈な政治闘争を勝ち抜き、1929年までには、政治・経済・軍事の実権を掌握し、事実上の独裁体制に入ります。スターリンは、共産主義の優位性を世界に示すために、工業生産に力を入れます。ジョーンズは、世界恐慌の嵐が吹き荒れるなか、ソヴィエトだけが好調な経済を維持していることに違和感を感じます。統計資料を精査した結果、統計指標上の数値に矛盾があることに気づきます。ジャーナリスト魂に火が付いたジョーンズは、厳しい監視体制をかいくぐり、ウクライナへ潜入します。

スターリンは、共産主義化のなかで落ち込んだ農業生産を、集団農場化で回復しようとします。機械化された大型農場で、生産性をあげ、生産物をすべて国が確保し、余剰人員を工業へ回すというねらいでした。土地も家畜も奪われ、多くは強制移住させられ、残った農家も作物を国に取り上げられます。農民は農奴以下の状態に置かれ、農業生産も一層落ち込み、大飢饉が起こります。スターリンは、こうした状況は、富農層が招いたとし、銃殺、強制収容所送りにしています。ウクライナは、飢死者であふれているにもかかわらず、スターリンは、取り上げた穀物を工業地帯へ送り、さらには輸出までしていました。ジョーンズが気付いた統計上の矛盾は、とりもなおさず数百万人の命だったと言えます。

映画には描かれていませんが、ソヴィエトへの入国を禁じられたジョーンズは、1934年、日本を経由して満州に入ります。1931年、満州事変が勃発し、翌年には関東軍が満州国を建国しています。その実態を報道するための取材旅行でしたが、匪賊に拉致されます。ジョーンズの身柄は、別の匪賊に売られ、1935年、射殺された遺体が発見されます。二番目の匪賊は親ソ派であり、ジョーンズを殺害したのはソヴィエトの秘密警察である内務人民委員部(NKVD)、後のKGBだとされています。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年1月30日土曜日

「KCIA 南山の部長たち」

 ウ・ミンホ監督  2020年韓国

☆☆☆

1979年に起こった韓国のパク・チョンヒ(朴正熙)大統領暗殺事件を題材とする映画です。事件は、大韓民国中央情報部(KCIA)が持つ接待所で起こりました。宴席を共にしていたKCIA部長キム・ジェギュ(金載圭)が、パク・チョンヒ大統領とチャ・ジチョル(車智澈)大統領警護室長を射殺します。そこで起きたことは、同席していた秘書室長や2名の若い女性による証言で明らかになっています。ただ、キム部長の動機については、圧政者に堕落した大統領を排除する”革命”だったのか、釜馬民主抗争の対応について叱責され、その地位が危うくなったキム部長の個人的動機によるものか、いまだに判然とはしていません。

少なくとも、クーデターとしての計画性が一切ないことから、個人的怨嗟とその言い訳としての”革命”が、キム部長なかで混然一体となっていたのでしょう。本作も、同じスタンスをとっていますが、それでは映画的な展開が難しくなります。ただ、キム部長役のイ・ビョンホン、大統領役のイ・ソンミン等の表情で見せる好演、スピード感ある展開等が奏功し、映画をスリリングなものにしています。一方で、映像がやや平板であること、当時のパク政権と韓国の状況に関する描写が薄いことが気になりました。パク政権の全てを語れば、ストーリーは煩雑になります。大統領とキム部長の関係に焦点を絞らざるを得なかったのでしょう。

本作では、実名を使っていません。関係者も多いのでしょうから、理解できます。ただ、事件の全容をよく知る韓国人はいいのですが、海外の観客には分かりにくくなります。国軍保安司令官が、暴動の鎮圧に空挺部隊投入を提案したり、事件後、一人で大統領執務室の金庫から金塊等を取り出すシーンが出てきます。事件後に、粛軍クーデターを起こし、大統領として軍政を強化したチョン・ドファン(全斗煥)だと思われます。韓国の人たちは、髪型だけで分かるのでしょうが、海外では意味不明だと思います。

近年、韓国映画は、軍事政権、保守政権を、徹底的にたたく傾向にあります。たたかれる理由もあるのですが、青瓦台への忖度も見え隠れします。本作も、その延長線上にあるのでしょうが、キム部長、パク前部長の描き方が、やや微妙です。大統領だけを悪者にするなら、二人はヒーローです。ただ、所詮、二人とも大統領一派ゆえ、手放しで英雄視もできません。独裁政権全体をたたくなら、まるで異なるシナリオになります。難しい所です。そこで警護室長と保安司令官が悪役を一手に引き受けるという構図になったのでしょう。

パク・チョンヒの娘パク・クネ(朴槿恵)大統領が弾劾されるきっかけとなったのは、”チェ・スンシル(崔順実)ゲート事件”です。かつて、キム部長は、チェ・スンシルの父である祈祷師チェ・テミン(崔太敏)と娘時代のパク・クネが不適切な関係にあることをパク・チョンヒに報告します。二人の言い分を聞いたパク・チョンヒはキム部長をひどく叱責します。大統領暗殺事件の裁判では、被告側が、このことも暗殺の動機の一つであったと述べているようです。(写真出典:klockworx.com)

2021年1月29日金曜日

世界の翼

TBSの「兼高かおる 世界の旅」は、1959年から30年超に渡って放送された人気番組。旅行ジャーナリストの兼高かおるは、インド人の父と日本人の母のもと、神戸に生まれ育ちます。端麗な容姿、上品な口調ながら、その行動力は並外れていました。海外渡航が制限されていた当時の日本にあって、兼高かおるも、「世界の旅」もあこがれの的でした。オープニングでは、テーマソング「八十日間世界一周」が流れ、航空機の映像に「制作にあたっては世界の翼パンナムの協力を得ました」というナレーションがかぶります。パンナムのロゴと「世界の翼パンナム」というコピーは、完全に刷り込まれました。

パンアメリカン航空は、20世紀のアメリカを、そして世界を代表する航空会社でした。パンナムとヒルトンは、まさにパクス・アメリカーナの象徴でもありました。ちなみに、パンナム傘下のホテルは、インターコンチネンタルでしたが。パンナムの創業は、1927年。キューバとの航空郵便から事業を始めます。ほどなく旅客便にも進出し、国際線のパイオニアとして世界に航路を広げます。第二次大戦中は、機材と乗員を軍に徴用されますが、それが後に政府との太いパイプになり、パンナムの強みになります。経営者は、市場の寡占・独占を目指すものです。創業者の一人で、長くパンナムに君臨したファン・トリップも、戦後、政治力を使って国際路線独占を目論見ます。そこに立ちはだかったのは、TWA等を傘下におく大富豪ハワード・ヒューストンでした。

熾烈な争いの末、独占の夢は破れ、欧州線はTWA、太平洋線はノースウェスト、南米線はブラニフが獲得します。ただ、パンナムは、全世界へのアクセスを手元に残し、海外旅行ニーズ拡大とアメリカ企業の国際展開を背に、世界の翼へと成長します。旅客機のジェット化、大型化、超音速化、そしてJFK空港の専用ターミナル、あるいはNYの象徴ともなった巨大なパンナム・ビル建設と、パンナムは飛ぶ鳥を落とす勢いでアメリカを代表する企業へと成長します。ファン・トリップは、黄金期と言える1968年に退任しますが、その後、パンナムには暗雲が立ち込め始めます。放漫経営のツケ、機材購入の巨額な負債等が経営を苦しめます。世界の航空界のリーダーであったパンナムの息の根を、最終的に止めたのは、ディレギュレーションとロッカビー事件でした。

1978年、ジミー・カーター政権による航空規制緩和、いわゆるディレギュレーションが行われると、エアフェアは下落、収益は悪化します。パンナムは、手薄だった国内線への本格導入に着手しますが、初期コストがかかり過ぎて失敗します。一方で、組合は、世界最高水準の年俸を手放しません。パンナムは、ドル箱路線や機材の切り売りに入らざるを得ませんでした。そこへ追い打ちをかけたのが、ロッカビー事件です。1988年、ヒースロー空港を飛び立ったパンナム103便は、スコットランドのロッカビー上空で爆発、空中分解します。死者は270人。カダフィー率いるリビア政府が関与するテロでした。同時に、荷物検査を怠り、搭乗していない旅客の荷物を積んでいたことに関し、パンナムも有罪判決を受けます。

パクス・アメリカーナの象徴であり、アメリカ資本主義の象徴もであったパンナムは、イスラム系テロリストにとって最適のターゲットとなりました。顧客は、もはやパンナムを選択しなくなり、パンナムは消えていきました。ファン・トリップがパンナム帝国を築くに際して強引に打ち立てた柱の数々が、70年代以降、すべて禍の元に変じ、帝国は崩壊していったわけです。パンナムの盛衰は、20世紀アメリカの光と影そのものでもあります。(TVシリーズ「PANAM」 写真出典:amazon.co.jp)

2021年1月28日木曜日

モーヌの大将

 「モーヌの大将」(1913)は、フランスの夭折した作家アラン=フルニエによる青春小説の傑作です。原題は ”Le Grand Meaulnes” であり、grand は背の高い、偉大な、大人びた(兄貴分)といった意味になりますが、ニュアンスとしてはそれらすべてを含むものと考えます。大将という訳は、昔は名訳だったのでしょうが、今となってはピンと来ません。かつては「モーヌの大将」と題されていましたが、さすがに、近年は「グラン・モーヌ」という原題で出版されています。フランスでは、いまだに青春小説の代名詞であり、高い人気を誇ると聞きます。アメリカでJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の人気が衰えないことと重なります。

田舎の小さな学校に転校してきたモーヌは、背が高く、大人びたところのある少年でした。ある日、森のなかで迷ったモーヌは、不思議な館にたどり着き、運命の美少女イヴォンヌと出会います。感傷的で切ない物語は、美少女、不思議な館の他にも、いくつかの謎、仲間たち、旅芸人、といったロマンティックな道具立てに事欠きません。舞台となったのは、アラン=フルニエが少年時代を過ごしたフランス中部の田舎町エピヌイユ=ル=フルリエル村。作家自身の少年時代や青年期の体験に基づく作品だと言われます。1967年には、映画カメラマンとして有名なジャン・ガブリエル・アルビコッコが、ブリジット・フォッセーを主演に映画化しています。

映画「さすらいの青春」
多感な年ごろに見たせいか、監督こだわりの幻想的な映像とともに切ない物語が、いつまでも心に残りました。忘れられない映画の一つです。映画の原題は、原作と同じ”Le Grand Meaulnes” でしたが、邦題は「さすらいの青春」となっていました。フランスではよく知られた名作とは言え、日本での知名度がいまいちだったことを物語っています。切なくロマンティックな物語は、日本人にも好まれそうなのですが、あまり受け入れられませんでした。多少複雑な構成であること、あるいは切なすぎるエンディングが災いしたのかも知れません。

青春文学には、大人になる前の不安定さ、あるいは自立して大人になっていく展開等、共通点があります。なかでも多くの支持を集める小説は、不安を抱く青年たちが、ここに自分がいる、と思える作品だと思います。私も、「ライ麦畑でつかまえて」を読んだ時、アッ、ここに自分がいる、と思ったものです。父親、学校、そして社会に対する曖昧な反発、自分が人と違うように思える不安等、皆、経験することではありますが、当の本人は孤立感を強めるものです。そんな時、本のなかに自分そっくりな人間を見つければ、安心もしますし、勇気も出ます。モーヌの切ない物語は秀逸ながら、共感性という面は薄いのかも知れません。

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、召集されたフルニエは、陸軍中尉として前線に立ちます。しかし、ドイツ軍と交戦中に、部下たちとともに行方不明になります。そして、1991年に至って、ドイツ軍共同墓地で遺体が発見され、翌年、フランス陸軍墓地に埋葬されています。享年27歳。よく知られた作家ですが、その短い生涯で出版された本は、グラン・モーヌ、だた一冊でした。(写真出典:pinterest.co.uk)

2021年1月27日水曜日

地名殺し

 アメリカの住所表記は、単純で分かりやすく決められており、実に便利なものだと思いました。まず、道路にはすべて名前が付けられており、通り沿いの家々には順番に番号が付されます。通りの片側が奇数、他方は偶数。通りの名前が膨大な数になり、紛らわしい名前も多くなるなど大変な面はありますが、大都会でも、どんな田舎でも、住所と地図さえあれば、確実にたどり着けます。対して、日本の住所表記は分かりにくいように思います。ただ、かつての土地をベースとした地番方式に比べ、街区を基準とした現在の住居表示方式が分かりやすくはなっています。

住居表示方式への変更は、1962年、郵便配達の利便等を考慮して法制化されました。都市部では、京都市等を除いて、改正が進みました。京都は、碁盤状に筋と通りが整備され、各々名前が付いていたので、変える必要がなかったわけです。京都の住所は長いと不評ですが、知ればとても分かりやすい表記です。碁盤状ではない多くの街では、表示変更にはそれなりの苦労がありました。結果として、古い町名が消えていことになります。特に城下町では、街の歴史を伝え、かつ街の人たちが馴染んだ町名が多く失われることになりました。住居表示方式への変更が「地名殺し」とまで言われた所以です。

名古屋へ赴任したばかりの頃、よく「モンタナ」という地名を耳にし、アメリカとの関係が気になりました。実は、モンタナではなく、ウォンタナ、魚の棚でした。江戸期から魚屋の多い通りだったようです。古い街では、しばしば見かける町名のようです。現在の住所は「丸の内〇丁目」になっていますが、街の人たちは、依然、ウォンタナと呼ぶわけです。こうした住民が抱く違和感の解消に加え、歴史的観点、あるいは観光的観点からも、昔の町名に戻しつつある街があります。金沢です。1999年から、今も継続的に取り組んでいます。

主計町
金沢が、最初に復活した町名は「主計町(かずえまち)」です。川端の料理屋が並ぶ風情ある街ですが、町名復活とともに、歴史ある店に加え、おしゃれな店も増え、今や主要な観光スポットの一つとなっています。単なる懐古趣味などではなく、実に戦略的な町名復活でもあったわけです。絶品の寄せ鍋だけを出す「太郎」も主計町の名店。黄金の出汁、店の風情、お姉さんたちの振舞い、どれをとっても、伝統ある主計町という町名に相応しいと思います。町名変更は煩雑なことの多い取組だと思いますが、それを実行できるあたりは、金沢のプライドの高さを感じさせます。

実は、アメリカの道路表記方式は、世界標準であり、万国郵便条約における住所表記も道路表記方式を前提としています。つまり、番号、通り、市町村、州や県、国名という順番です。日本と中国だけが、逆になっているようです。ただ、その中国も道路表記方式を取っています。いよいよもって住居表示方式のような街区表記型は、日本だけのようです。今後のデジタル化を考えれば、思い切って道路表記方式への変更も考えていいのではないか、と思います。(写真出典:kanazawa-kankoukyoukai.or.jp)

2021年1月26日火曜日

アダンの海辺

田中一村ゆかりの地である千葉市の市立美術館で、全収蔵品を展示する「田中一村展」を見てきました。50歳で中央画壇と決別し、一人奄美に移住した画家は、死後、「日本のゴーギャン」と称され、脚光を浴びることになります。今回の展示は、奄美時代の作品は名作「アダンの海辺」の他、色紙数点のみであり、千葉時代の作品が主となっています。一村の代名詞とも言える奄美時代の作品を期待するとガッカリかも知れません。ただ、画家の生涯が垣間見えるという意味で、なかなか興味深いものでした。

田中一村は、1908年、現在の栃木市で彫刻家の父のもとに生まれています。幼少時から、南画に長け、神童と呼ばれたそうです。確かに、少年が描いたとも思えない、実に老成した南画風の絵が残っています。南宋画に影響を受けた南画は、江戸後期に生まれ、池大雅や与謝蕪村等が大成し、大流行しました。しかし、明治以降、フェノロサや岡倉天心から「つくね芋山水」と蔑称され、廃れます。昔の家には、二束三文の南画が、必ず何枚かあったものです。大流行したのは、床の間等の掛け軸として、重宝されたからだと思います。一村少年は、米邨と号し、画伯とまで呼ばれ、うまいこと商売に使われたような節があります。

一村は、東京美術学校(現芸大)日本画科に入学しますが、父の病気のために数か月で退学しています。ちなみに、同期には東山魁夷や橋本明治等がいます。家の生計を助けるために、清の呉昌碩らを真似た南画を描き、売っていたようです。20歳を過ぎると、日本画への挑戦が始まります。いわば商売であった南画を捨て、本格的に日本画を目指したわけです。もともとの画力、センスの良さから評価もされますが、独学ゆえの限界か、鳴かず飛ばずが続き、南画時代の贔屓も離れていきます。

30歳になると、親戚を頼って、現在の千葉市に移り、試行錯誤の時代が始まります。今回の展示は、この時代のものが中心で、力作もありますが、多くは多様な作風、作画を試しているもののように見えます。農村の薄暮を描いた色紙何点かは、見事な出来だと思いました。公募展での入選は、わずかに2点のみ、40歳以降は落選が続きます。皮肉なことに、当時の日展審査員には、東京美術学校の同期たちが名を連ねています。悔しかったはずです。50歳のおり、中央画壇に見切りをつけた一村は、奄美へと単身渡ります。千葉での20年は、彼にとっての芸大であり、千葉の自然に師事した修行時代だったとも言えるのでしょう。

奄美への移住をもって日本のゴーギャンと言われる一村ですが、奄美で確立した画風はアンリ・ルソー的だと思います。細密な描写は、画題こそ違うものの、若冲に通じるものがあります。「アダンの海辺」の浜辺と海の描写には舌を巻きます。不思議なことに、この名作には落款がありません。描きあげた時には精魂尽き果て、落款を付す力も残っていなかった、と一村は覚書に書いています。20歳までは売るために絵を描かされ、50歳までは独学で腕を磨き、69歳までは到達した孤高の境地を人知れず描く。なんという人生なのでしょう。(写真出典:bijutsutecho.com)

2021年1月25日月曜日

世界史観

昭和史研究の第一人者とも語り部とも言える半藤一利氏が亡くなりました。文藝春秋編集長として、あるいは「日本のいちばん長い日」、「ノモンハンの夏」、「昭和史」、「幕末史」はじめ多くの著作で知られます。明治維新150周年で、にわかに薩長史観ブームが起きましたが、半藤氏は、以前から反薩長のスタンスをとっていました。20年近く前、半藤氏の講演会で、明治維新は、本質的には、徳川に対する薩長の讐であったと聞き、はじめて幕末を理解したように思いました。歴史は勝者が作る、と言われますが、勝者の歴史だけが歴史ではない、ということを教えてもらったと思います。

世界史的には、1990年代から、グローバル・ヒストリー、世界史観という流れが登場しています。反西洋史観とも言えます。長いこと世界を支配してきた西洋中心主義を見直し、各地域の相互作用を世界規模で捉えるという見方です。近世における西洋の奇跡はなぜ起こったのかを科学的に分析することでもあります。1998年、アンドレ・グンダー・フランクは、「リオリエントーアジア時代のグローバル・エコノミー」のなかで、西洋は世界規模の経済やシステムにおいて中心だったことはない、と宣言します。17世紀までの世界の中心はアジアであり、18世紀以降は西洋の時代になるが、今、またアジアに移りつつある、とします。

また、グローバル・ヒストリーを代表すると言われるケネス・ポメランツの「大分岐」(2000)は、18世紀半ばまで、世界の主要国は、初期的な市場経済による成長が同時並行的に進展していたが、大分岐によってイギリスはじめ西洋が抜け出たとします。大分岐が起きた要因は、西洋が巨大なアフリカや南北アメリカという植民地に近かったからだ、とします。進化生物学者のジャレド・ダイアモンドは、ベストセラーとなった「銃・病原菌・鉄」(1997)で、西洋の奇跡は、西洋人が優秀だったからではなく、地域的要因の重なりの結果だったことを明らかにします。

南北に長いアフリカ、アメリカ両大陸に比べ、東西に広がるユーラシア大陸は、気候帯に極端な違いがなく、作物、家畜、技術、情報等の交流が比較的容易でした。病原菌に対する抗体獲得についても同様です。大航海時代以前、中央アジアは、長らく世界の中心だったとも言えます。同じユーラシア大陸にありながら、18世紀、西洋が東洋を抜いた理由は、山がちな欧州では中小国が林立し、競争が激しかったためと言われます。対して平原の多い東洋では、大帝国が成立しやすく、その皇帝たちは、国外との交流よりも国内統治を優先せざるを得ませんでした。

元代のハンドキャノン
ジャレド・ダイアモンドは、欧州がアメリカ大陸を制圧できたいくつかの要素のうち、代表的な「銃・病原菌・鉄」をタイトルとしたわけですが、銃の普及も、実にユーラシア的です。火薬は、中国の唐代に発明されています。武器への応用としては、手榴弾のような火毬に始まり、火薬を推進力とする火箭となり、宋代には火薬で石を飛ばす火槍が発明されます。元代に至ると銃身が発明され、これらが中央アジアを経由してアラビアに伝わり、来襲した十字軍を苦しめます。西洋に伝わった原始銃は、15世紀、鍛造加工に優れたドイツで、火縄銃へと進化を遂げます。そして、ピサロがインカ帝国皇帝アタワルパを生け捕りにした際に効果を発揮したというわけです。まさにユーラシアの東西交流の結果だったわけです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年1月24日日曜日

世界中が知っている? 

1980年代半ばと記憶しますが、エジプトのカイロでのことです。ナイト・クラブでべリー・ダンスを見るために、タクシーに乗りました。運転手と、お決まりの「どこから来た?」に始まる会話をしていると、カー・ラジオからとても魅力的なアラブ音楽が流れてきました。「この歌、いいな」と言うと、「お前、ウム・クルスームを知らないのか?信じられない。世界中で有名だぞ!」と言われました。ウム・クルスームは、エジプトを代表する歌手ですが、確かにエジプト国外でも高い人気を誇っていました。ただし、アラブ世界に限ってのことです。

学生時代のことですが、友人と遊びに行った小樽港で外国船員と立ち話になり、結局、乗船してお茶やお菓子にタバコを御馳走になったことがあります。船員たちはフィリッピン人で、話していると女性の名前が出ました。ポカンとしていると「お前ら、知らないのか。彼女はミス・ユニバースになったフィリッピン人だ。世界中の人が知っているぞ」と言われました。調べてみると、確かに1973年のミス・ユニバースは、フィリッピン代表でした。

両者とも、地元のTVはじめマスコミが、彼女は世界中で有名だと、大げさに騒ぎたてたのでしょう。マスコミの誇張表現は、その本質に根差したもので、そんな代物だと理解すべきなのでしょう。ただ、問題は、それを真に受ける人たちも多いということです。日本のTVも同じですが、かつてはもっとひどいものでした。昔から、気になっていたことの一つは、「日本の○○が、今、アメリカで大ブームになっています」的なニュースです。実際には、数十人くらいに流行っているだけでも、大流行と言い切るわけです。

80年代後半、ダイエット・ブームを背景にアメリカでは寿司が大流行、と報道されていました。NYに赴任してみると、いわゆる寿司バーはごくわずか、食べてる人はお金持ちで流行に敏感なごく一部のみ。企業で言えば、役員クラスは食べたことがあり、中堅幹部以下は日本食すら食べたことがないというのが実態でした。それどころか、生のものは食べないというアメリカ人がほとんどで、中西部に至っては、海のもと言えば海老くらいしか食べたことがないというのが実態でした。一部で人気という意味では、今の東京のペルー料理くらいの感じであり、大流行とは言えません。「富裕層に注目されている」というのが正しい表現だったと思います。

民放は、良いコンテンツを制作・放送するためにスポンサーの協力を得ているのではなく、本質的には、より多くの人に、より多くCMを見てもらうために注目コンテンツを制作するということなのでしょう。商品の誇大広告は公正取引委員会が目を光らせています。一方、TVコンテンツの誇張表現は、BPO(放送倫理・番組向上機構)の審査対象だと思われます。ただ、あまり細かな事案は扱わないのでしょうし、表現の自由との関係も難しそうです。(ウム・クルスーム 写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年1月23日土曜日

日の丸半導体

中国ハイシリコン社の3D半導体
米国第46代大統領ジョー・バイデンは、就任当日、トランプのパリ協定離脱等、身勝手でクレイジーとしか思えない政策の修正に着手しました。今後も、新規政策とともに、軌道修正が続くものと思われます。ただ、対中国貿易政策、特にファーウェイへの制裁等については、戦術面での修正はあるにせよ、基本方針は継続されるものと考えます。それは、かつて日米貿易摩擦で日本も経験したアメリカの常套手段だからです。日米貿易摩擦は、1972年の日米繊維交渉に始まるとされ、その後、80年代には、主に自動車やハイテク分野を中心に、米国は強い圧力をかけました。その間、分野別攻防の他にも、プラザ合意、構造協議、さらに言えばロッキード事件等、様々な形で圧力がかかりました。

かつて「産業の米」とも呼ばれた半導体は、日本のお家芸であり、世界シェアが5割を超えるまでになります。日本の技術の急速な進化を恐れたアメリカは、70年代後半から、反ダンピング訴訟等で揺さぶりをかけます。そして、86年、「防衛産業の基礎を脅かすことで安全保障上の問題がある」という理屈で、強引に「日米半導体協定」を結び、日本を抑え込みます。87年には、協定の効果不十分として、パソコン、TV等に100%の報復関税を掛け、91年には第二次半導体協定も締結され、日の丸半導体は、完全に抑え込まれました。

アメリカは、日本の半導体業界を潰そうとしたというより、圧力を掛けながら、時間稼ぎをしたと言えます。93年、インテルが画期的に性能を向上させたマイクロプロセッサーPentiumを発売し、95年にはマイクロソフトがウィンドウズ95を発売します。コンピューターの世界は、メインフレームから、一気にパソコン、インターネットの時代へと入っていきます。同時に、アメリカでは、設計と製造を分離して開発スピードを上げるファブレス化も一気に進みます。日本が得意としたメモリー分野には、台湾、韓国等も参戦し、価格が下落していきます。ゲームが、劇的に変わった瞬間でした。日の丸半導体は、ついていけませんでした。

日本の半導体メーカーの多くは、総合電機メーカーの一部門か子会社でした。91年にはバブルが崩壊し、総合電機メーカーも不良債権処理に追われることになります。半導体部門は業績が悪化しただけではなく、ムーアの法則どおりに急速進化する半導体には、多額の研究開発費と設備投資が必要とされました。高い技術力を持つ半導体部門は、高い将来性が見込まれるにも関わらず、目先の業績のために清算されていきます。行き場を失った技術者たちは、いわゆる「土日ソウル通い」を始め、技術の流出が起こります。韓国メーカーは、より高い技術を獲得するために、日本の技術者を競わせます。韓国メーカーに使い捨てされることを恐れた技術者たちは、より機密性の高い技術を差し出していきました。

実に悲しい話です。バブル崩壊が残した傷痕は、単に「失われた30年」に留まりません。半導体に限らず、将来性ある産業が多く失われているものと考えます。バブルの発生、そしてバブル崩壊後の処理で重ねられた失政のつけはあまりにも重いと思います。また、将来性あるビジネスへの投資継続を判断できなかった経営、そしてそれを支援できなかった行政という側面についても、十分な検証を行い、再び同じ間違いを起こすこと無きよう願いたいものです。(写真出典:ja.wsj.com)

2021年1月22日金曜日

モンドール

昔、さる大学の医学部教授から「夜、チーズを食べるなんて、自殺行為だ」だと聞かされました。脂肪の塊だからというわけです。かつて、そういう説が多かったように思います。ところが、その後の研究で、肥満に深く関与しているのは脂肪分よりも炭水化物だということが分かってきました。同時に、乳製品の肥満を抑制する効果が注目されることになります。まだ十分に解明されていない部分も多いようですが、少なくとも、乳製品はタンパク質やミネラルを豊富に含み、代謝や免疫を正常に保つ効果が高いとされます。肥満の大きな理由のひとつが代謝異常であることがはっきりしてきたので、チーズが復権しつつあるのだそうです。

というような話を思い起こしながら、モンドールをたっぷり楽しみました。モンドールは、ジュラ山脈の高原で作られる季節限定のチーズです。生産地は、フランス、スイスにまたがりますが、付近にモンドール(金の山)と呼ばれる山があることから、こう呼ばれます。夏の間に、栄養たっぷりな高地の牧草を食べた牛のミルクだけを使って作られ、9~5月に限って販売されます。1kg生産するために、7リットルの乳業を使うと言う、実に濃いウォッシュ・タイプのチーズです。熟成が進むと、とても柔らかくなるので、エセピアの樹皮を巻き、円形の木箱に入れて販売されます。

秋から冬にかけて、欧州のチーズ店のウィンドウにはモンドールの木箱が積み上げられ、季節の風物詩にもなっています。大きな木箱を買って皆で食べるモンドール・パーティも季節の楽しみだと聞きます。濃厚で、ミルキーなモンドールは、チーズの楽しみがギュッと詰まっています。十分柔らかいのですが、表皮を取り、白ワインをかけて、木箱のままオーブンで熱します。そして、トロトロをバゲット等に乗せて食べるのが、モンドール定番の食べ方です。振りかけるワインは、同じジュラ地方の白ワインが相性がいいとされます。モンドールは、確実に、皆を幸せにしてくれます。

最も有名なウォッシュ・タイプと言えば、カマンベールです。しかし、ウォッシュ・タイプの女王はモンドールだと思います。もちろん、カマンベールも美味しいのですが、有名になった経緯は味ではありません。フランスの農産品は、A.O.C.(原産地呼称統制)でブランドが守られています。長い歴史を持つ制度ですが、20世紀になると厳格な法制化が進みます。認定第一号は、1925年、ブルーチーズの代名詞ロックフォールが取得しています。カマンベールは、かなり出遅れ、認定取得は1983年でした。その間に、カマンベールと名付けられたチーズが世界中で出回り、結果、広く知られることになりました。現在は、”カマンベール・ド・ノルマンディ”としてA.O.C.登録されています。

実は、モンドールの生産地であるジュラ山脈一帯は、フランシュ・コンテ地方にあります。フランスのハードタイプのなかで最大の生産量を誇るコンテの生産地でもあるわけです。チーズは、菌や酵母、あるいは技術や熟成環境等様々な要素で味の違いが生まれます。ただ、モンドールとコンテの美味しさを考えると、やはり元になるミルクの品質が大事なんだということがよく分かります。(写真出典:fr.peugeot-saveurs.com) 

2021年1月21日木曜日

名駅ナナちゃん

アナ雪ナナちゃん
名古屋には、名古屋城以外、観光スポットがないと言われます。決してそんなことはありません。徳川園と徳川美術館、熱田神宮、久屋大通とテレビ塔、トヨタ産業技術記念館、大須商店街等々があり、最近ではレゴ・ランドもできました。私が、名古屋観光に訪れた人に、よくお勧めしていたのが、名駅ナナちゃんです。名鉄百貨店前に立つ身長6m10cmの巨大なマネキンです。名駅ナナちゃんのすごさは、大きさもさることながら、マネキンだけに、月に2回程度のペースで、服が替わっていくことです。それを50年近く続けているわけです。もはや驚きを通り越して、名古屋の文化遺産だと思います。

名駅にある名鉄百貨店は、1972年、若者をターゲットとするセブン館をオープンします。翌73年、1周年を記念して、何か百貨店とも関係するシンボルがほしいと考え、巨大なマネキンにたどり着きます。デザインは、スイスのシュレッピー社。硬質塩ビ樹脂製です。名前は公募され、セブン館にちなんで、ナナちゃんになったそうです。名鉄百貨店前のアーケイド内に立っており、外からは見えにくくなっています。マネキンとして服を着せるので、外ではなくアーケイド内に置いたのでしょう。結果、アーケイド内での存在感は圧倒的となり、良い効果を生んでいます。それも含め、ナナちゃんは、ほぼ現代アートだと言えます。

ナナちゃんの着る服の生地は、7人分に相当するそうです。その服は、マネキンだけにトレンディなものが多く、季節感もあります。これこそ、ナナちゃんが鮮度を保ってきた理由だと思います。夏には水着も浴衣も着ます。時代を反映してランニング・ウェアを着た時には、シューズもランニング用になっていました。ちなみに靴のサイズは90cmだそうです。ナナちゃんの服は、専属の女性2人だけで、制作と着せ替えを行ってるそうです。基本的にはマネキンですから、デパートのプロモーションがメインですが、服飾専門学校生や高校生にデザインを解放することもあり、交通安全等の公的キャンペーンとタイアップしたり、また有料で企業に貸し出すこともあるようです。このオープン・システムも鮮度を保つうえで効果的です。

名古屋人は、意外と、日本一、あるいは日本初が好きです。それは名古屋の近代史と関係しています。名古屋は、徳川家康が開き、江戸期は尾張徳川家の城下町として大いに栄えます。ただ、実に豊かな街ではありますが、政治経済の中心であったことはありません。名古屋は、商業資本を十分に蓄えていましたが、明治期の巨大な財閥は生まれていません。徳川ゆえ、薩長政府とのパイプが薄かったからなのでしょう。名古屋財界は、国の助けを借りず、何でも自前でやるしかありませんでした。結果、それが、世界に誇るものづくりの文化が生みました。そして、独自の文化を持ちつつも、よろず東京と比較したがり、日本一や日本初にこだわる名古屋人の気質にもつながったのでしょう。ナナちゃんも、その文脈のなかにあるように思います。

名古屋は排他的な街だとも言われます。確かに、そういう面はあります。ただ、それだけに、なかに入ると、とても居心地のいい街でもあります。夏の暑さ、冬の寒さが無ければ、老後、住みたいとさえ思いました。今も、名古屋に行く機会があれば、大喜びです。名駅に到着すると、まずはプラットホームの”住吉”できしめんをすすり、ナナちゃんを一目見て、名古屋に来たことを実感し、そのうえで、街に出ていくのが、私のルーティンです。(写真出典:nagoyanavi.jp)

2021年1月20日水曜日

シェルパ

2021年1月16日、シェルパ族から成るネパール隊10名が、K2冬季初登頂に成功したというニュースを聞きました。K2は、標高8,611m、カラコルム山脈最高峰にして、エヴェレストに次ぐ世界第2位の高さを誇ります。カラコルム山脈は、7,000mを超える山が連なり、K2は、その最も奥深くにそびえます。人が入れないほどの奥地なので、現地名もなく、K2という名称は、19世紀後半、インド測量隊の英国人が付けた観測番号が、そのまま使われています。昔、パキスタンのイスラマバードから北京に向かう機上からK2を見たことがあります。あまりにも高い山が連なるので、最初、K2が分かりませんでした。しかし、K2を確認できた時には、その威容に鳥肌が立つ思いでした。

エヴェレストの累計登頂者は5,600人を超えていますが、K2は、わずか309人。死亡率は、エヴェレストが1%なのに対して、25%を越えており、「非情の山」とも呼ばれます。切り立った斜面のみならず、エヴェレストよりはるかに厳しいと言われる気象条件、さらに5,000m級の峠や7,000m級の山をいくつも超えるアプローチの過酷さが、これまでまったく人を寄せ付けなかったわけです。冬季はなおさらです。K2冬季初登頂は、ヒラリーとテンジンによるエヴェレスト初登頂に匹敵する大偉業だと思います。そして、それを実現したのが、シェルパ族と聞き、心を動かされました。

シェルパ族は、ネパールのエヴェレスト南麓に居住する少数民族です。17~18世紀、チベット東部から迫害を逃れて移り住んだと言われます。放牧を主な生業としていましたが、20世紀に入り、欧米人中心にヒマラヤ登山が始まると、ポーターやガイドとして活躍するようになります。近年のエヴェレスト登山ブームのなか、シェルパ族のカリ・ミタは、24回というエヴェレスト最多登頂記録を打ち立てています。また、シェルパ族は家父長制の色が濃いため、女性の登頂者は40人に満たないようですが、ラクパ・シェルパは9回の女性最多登頂記録を持っています。

かつては、各国のナショナル・チームが、国の威信をかけて登頂に挑みました。そこでは、シェルパは、頼れるパートナーとして存在していました。しかし、空港やヘリ・ポートはじめ、登山環境が整備されると、有象無象のアマチュア・チームがエヴェレストに押し寄せます。シェルパの扱いも、金で雇われた単なる現地労働者へと変わっていきました。いかに登山環境が良くなったとは言え、エヴェレストが危険な山であることに変わりはありません。経験豊かなシェルパをパートナーとして認めない限り、皆の命がリスクにさらされます。

2014年、シェルパ13人死亡、3人行方不明という大事故が起こります。シェルパの怒りは頂点に達し、ストライキが行われました。結果、シェルパの位置づけや保障は改善されています。そして、単なるポーターではなく、山のプロとしてのシェルパ族の民族意識も大いに高まります。K2冬季登頂は、シェルパのプライドをかけた戦いだったのでしょう。シェルパにとっては、独立を勝ち得たのと同等の意味を持つ勝利だったのだと考えます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年1月19日火曜日

トトカルチョ

ずっと、”トトカルチョ”は、日本独特のやくざなスラングだとばかり思っていました。それがイタリア語だと知ったのは、2001年にスポーツ振興くじ、いわゆるTOTOがスタートした時でした。”カルチョ”はサッカーで、”トト”は大雑把に言えば賭けです。トトカルチョという言葉は、Jリーグやサッカーくじが始まるはるか前から、ごく一般的に使われていたと思います。”野球トトカルチョ”、”甲子園トトカルチョ”、”相撲トトカルチョ”等は、職場、商店街、町内等で、ごく普通に行われていました。それどころか、相撲好きだった昭和天皇は、宮中で、側近たちと相撲トトカルチョを楽しんでいたそうです。もちろん、お金は一切賭けずに、天皇が賞品を出すスタイルだったようですが。

例えば、相撲トトカルチョにも、実に様々な賭け方があったようです。毎日の勝敗を一番多く当てた人が掛け金を総取りする方式、予想の当たった取組の数に応じて配当する方式、優勝力士を当てるもの、場所毎にあらかじめ選んだ力士の勝敗でポイントを積み上げて順位を決めるもの、等々です。かつては、場所前に、新聞屋さんが白地の星取表を届けてくれました。皆、TV観戦しながら、それをいちいち記入していたものです。もちろん、トトカルチョをやっているので、熱心だったわけです。

総選挙があると、”選挙トトカルチョ”の用紙が回ってきました。全候補者の当落予想、選んだ候補者の当落予想、政党別の当選者数予想等があったように記憶します。最も大規模で複雑だったのは”夏の甲子園トトカルチョ”でした。優勝予想に留まらず、優勝・準優勝の連番、ベスト4予想、そして個々の勝敗予想等々、賭けの対象はかなり広範囲でした。もはや仲間内でのお楽しみどころか、玄人顔負け、あるいは、ほぼビジネスと言えるほどのレベルでした。当然、予想紙まで回ってきたものです。本当に好きな人たちが多かったということです。

もちろん、昔も、公営ギャンブル以外の賭博は違法です。ただ、刑法上、「一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない」とされています。”一時の娯楽に供する物”の具体的定義が問題となりますが、判例で、金銭はこれに該当しないとされています。つまり、法的には、お金をかけたら、すべてアウトです。一方、実際の検挙・起訴実務の現場においては、やはり程度問題ということになるようです。時代が変わったということなのか、何かきっかけがあったのか、いつの頃からか、各種トトカルチョは姿を消していきました。ところが、2020年、政府によって、各種トトカルチョは、事実上、解禁された、と考えられます。

安倍政権の強弁して押し通すという政治手法は、国民無視としか言いようがありませんでした。検察官の定年延長問題も、その一つ。渦中の黒田東京高等地検総長の賭け麻雀に対する対応にも驚かされました。法務省は、テンピン、つまり千点百円の賭けを”一時の娯楽に供する物”として、黒田氏を標準例より軽い「訓告」処分にします。明らかに判例無視です。金銭を賭けたらアウトという判例は、よく知られています。一体、どういう神経でこういう国民をバカにした対応ができるのか、不可思議です。もはや、日本は、法治国家とは呼べません。政権が、書いてあることをやらない、書いてないことをやる、そういう時にこそ、暴動が発生するものです。検察審査会が、本件を起訴相当と判断しました。今後の司法の判断が注目されます。(北日本新聞配布の相撲星取表 トトカルチョとは関係ありません 出典:kitanippon.net)

2021年1月18日月曜日

京の漬物

大藤の千枚漬
京都の漬物は、とても美味しいものです。例えば、東北で漬物と言えば、保存食であり、塩辛くて当然です。京都の漬物は、塩辛くなく、保存食とも思えません。もはや、料理の一品といった風情があります。問題は、お高いことです。京都の人に、こんな話をしたことがあります。京都の漬物は美味い。ただ高い。京都人が、皆、高い漬物を毎日食べているとは思えない。観光客には高い漬物を売り、京都人は安くて美味しい秘密の漬物屋で買っているに違いない。それを聞いた京都人は大笑いしていましたが、一切答えはありませんでした。やはり、そんな店があるのかも知れません。

京の三大漬物と言われるのは、しば漬、すぐき、千枚漬けです。私が最も好きなのは、千枚漬けです。江戸末期、孝明天皇の料理番だった大黒屋藤三郎が、聖護院かぶらに出会い、千枚漬けは生まれました。その後、御所を下がった藤三郎は、「大藤」を屋号に店を持ち、千枚漬けを売り出しました。職人技としか言いようのないかぶらの薄さ、甘酢漬にすることで保たれる純白、昆布のいい出汁、保存を前提としない塩加減。実に京都らしい、華やか漬物です。大藤の千枚漬けは、壬生菜が添えられます。藤三郎が、御所で千枚漬けを出すときに、壬生菜を松に見立てて添えたことに由来するそうです。

京の三大漬物のなかで、最も古い歴史を誇るのが、紫(しば)漬です。もっとも原種に近いちりめん赤紫蘇の産地であった大原の里で、古くから作られていた赤紫蘇と茄子の塩漬けです。柴漬と命名したのは、建礼門院徳子だとされます。平清盛の娘にして、安徳天皇の生母である徳子は、平家一門が滅亡した壇ノ浦で唯一人生き残り、大原寂光院で余生を送ります。里人が差し入れた漬物が気に入り、柴漬と名付けたとされます。最近市販されている柴漬けは、胡瓜や茗荷を加え、調味酢を加えた柴漬風が多いようです。対して、土井志ば漬本舗等が作る伝統的な柴漬は本柴漬と呼ばれます。

すぐきは、かぶの一種である京野菜”酢茎”を塩で漬け、乳酸発酵させたもので、すっきりとした酸味が特徴。”天秤押し”という独特の漬け方も、よく知られるところです。もともと酢茎は、桃山時代から、上加茂神社だけで栽培され、漬物としてのすぐきは、上加茂神社が御所等への贈答用に漬けていたそうでです。江戸末期からは、近隣の農家での栽培も始まったとのこと。今でも、すぐきは上加茂周辺でのみ作られ、室や樽に住みついた乳酸菌は、この土地独特のものだと言われます。すぐきの乳酸菌から発見された”ラブレ菌”は、制癌効果や免疫力助長効果があると言われ、注目されました。

すぐきは別として、京都で土産物として市販されている漬物の多くは、塩を抑え、昆布のうま味を効かせ、甘酢で上手に仕上げているようです。それが分かれば、家でもできそうですが、なかなかうまくはいきません。京都の人は、香のものがまずければ食事は台無し、とまで言います。うるさい客に鍛えられた匠の技、そして京野菜の存在が、京の漬物を一段特別なものにしています。(写真出典:ja.kyoto.travel)

2021年1月17日日曜日

映像の限界

ギザでクフ王のピラミッドを初めて見た時の興奮は忘れません。もちろん、ピラミッドの画像や映像をさんざん見ていたにもかかわらず、やはりその量感にはたまげるわけです。映像は、白黒からカラーへと進化し、リアルさを増しましたが、二次元という制約がありました。3DあるいはARへと進み、かつより精緻な再現機能を持てば、現実と変わらぬまでになるのかも知れません。ただ、科学的なことはよく分かりませんが、人間の頭脳は、形や色だけでなく、奥行きや空気感はじめ、五感を通して得られる様々な情報を瞬時に処理し、感覚的な量感や質感を得ます。それを機械で再現することは、理論上可能だとしても、実現には随分時間がかかるように思います。

コロナ禍のなかで、音楽のライブ・ストリーミングが増え、私も、いくつか視聴しました。カメラ・ワークやツイートの挿入や、様々工夫も凝らしていました。それなりに楽しめましたが、ライブとはまるで異なる代物であることは間違いありません。一番良かったストリーミングは、観客を入れた会場からのストリーミングでした。多少なりともライブ感を感じることができたからです。もっとも、仲間たちと、酒でも飲みながら、ストリーミングを視聴すれば、随分違ったものになったかもしれません。スポーツのパブリック・ビューイングも同じ感じなのでしょう。

音楽に限らず、舞台芸術やスポーツもそうですが、実際にその場で楽しむライブ感の持つ魅力は不思議なものです。例えば、芝居のストーリーや役者の演技を楽しむだけなら、映像でも十分で、相撲の取組やその結果を見るだけなら、TV観戦がベストでしょう。ところが、ライブの臨場感には格別なものがあるわけです。音や映像は、その代替にすぎず、あるいはライブとは別物です。やはり、人間の頭脳が持つ情報処理力の高さが関係しているのでしょう。加えて、ライブは、一度参加すると、また行きたくなるという、妙な習慣性をもっているようにも思えます。それは、情報処理力の問題だけでは説明できなように思えます。

それは、恐らく、連帯感に深く関係しているのではないでしょうか。演者や競技者と観客との連帯感、あるいは観客同志の連帯感こそライブの魅力なのだと思います。連帯感こそエロティシズムの根源であり、人は連帯感を求めて生きる、と言ってもいいのでしょう。演者や競技者は、観客との見えない対話のなかで、パフォーマンスのギアを上げたり、変えたり、あるいは歓声を受けてアドレナリンの分泌を高めたりするものだと思います。いわば共同作業に近いとも言えます。そして、観客同志の連帯感は、お祭りと同じ効用をもたらします。

平生の国技館など、その典型であり、飲んで食べて歓声をあげて、完全にお祭り状態です。今は、観客も半分以下、飲食禁止、声を出すことも禁止です。それはそれで取組に集中できるメリットもあります。しかし、コロナ感染が安定し、通常開催に戻った時には、飲食も声出しも解禁すべきです。取組だけが、大相撲の魅力ではありません。コロナ禍で広がったリモート文化が妙に定着するようなことがあれば、企業にとっても、国にとっても、ひいては人類にとってもいいことではありません。人は、一人にしてはいけない動物です。(写真出典:tabicffret.com)

2021年1月16日土曜日

スチームパンク

テリー・ギリアム監督の「Brazil(未来世紀ブラジル)」(1985)は、「20世紀のいつか、どこかの国で」というコピーで始まります。にもかかわらずタイトルはブラジル。その理由は、監督が、映画のテーマ曲として、南国のパラダイスを思わせる曲を使いたいと思い、「ブラジルの水彩画」に出会います。アリー・バロッソ作曲のこの曲はブラジル第二の国歌とも言われる名曲。すっかり気に入った監督は、タイトルまでブラジルにしてしまいます。監督に言わせれば、この映画は「ジョージ・オーウェルの『1984』の1984年版」であり、ディストピアをスチームパンク風に描いていました。

スチームパンクは、1980年代後半に命名された比較的新しいSFのマイナー・ジャンルです。概ね、19世紀のヴィクトリア朝英国あたりを舞台に、機械化された文明に、当時は存在していなかった機械や技術を加え、レトロフィーチャーな世界を展開します。動力が主に蒸気であることからスチームパンクと名付けられました。SFの世界では、ウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングの「ディファレンス・エンジン」(1990)が代表作と言われますが、歴史系、ファンタジー系と幅が広く、メディアも、小説、映画、ゲーム、デザイン、ファッションと裾野を広げています。

実例を挙げたらキリがないほど、スチームパンクのテイストは、至るところで多用されています。米国のTVなら「Q.E.D.」や「ワイルド・ワイルド・ウェスト」が有名ですし、映画なら「マッド・マックス」や「ライラの冒険」、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」や「ハウルの動く城」もスチームパンクの一例です。スチームパンクの場合、動力が主に蒸気と設定されるので、イメージ的には、機械から漏れ出る水蒸気、円形メーター、そしてダクトが多く使われます。「未来都市ブラジル」ではダクトが山のように登場し、ディストピアにおける管理社会の実態を象徴していました。

命名され、流行したのが80~90年代ということですが、その先祖となれば、ジュール・ヴェルヌであり、H.G.ウェルズであり、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」も挙げられます。ヴェルヌ、ウェルズは、SFの開祖であり、19世紀の現実に、時間を先取りした未来の技術を取り込んだわけですが、スチームパンクは、20世紀やそれ以降の技術を、時間を逆転させて19世紀に入れ込みます。スチームパンクは、SF誕生時の興奮を受け継ぐ古典派といえるかも知れません。誕生時からSFがそうであったように、スチームパンクも、ユートピアとディストピアの両面性を持ちます。

電子機器と違い、機械は機能が形として目に見えます。伝統美との融合、機能美の追及、あるいは未来の象徴という性格も加わり、機械を美しいと思う見方も生まれました。一方、機械が人間を圧することへの懸念も、早くからあります。資本主義や機械文明への批判で有名なチャップリンの「モダンタイムス」は、スチームパンク的でもあります。チャップリンが批判したのは機械というよりも資本主義の持つ管理社会的な側面だったと思います。「未来世紀ブラジル」は、1984年版の「モダンタイムス」とも呼べるのでしょう。「モダンタイムス」に人間性を象徴する名曲「スマイル」があったように、「未来世紀ブラジル」にも「ブラジルの水彩画」が必要だったわけです。多少、皮肉っぽい面はありますが。(写真出典:cinemore.jp)

2021年1月15日金曜日

晏嬰

民意なきところに国は立たず

宮城谷昌光の「晏子」に出てきた言葉です。晏嬰を描く小説ですが、これは晏嬰が残した言葉ではなく、 宮城谷昌光の名文です。「晏子春秋」や「史記」で伝えられる晏嬰の政治思想を端的に表す言葉だと思います。晏嬰(あんえい)は、紀元前6世紀、春秋戦国時代に活躍した斉の名宰相。司馬遷は、「史記」の「管晏列伝」のなかで、同じく斉の宰相だった管仲とともに、晏嬰を絶賛し、「晏嬰の御者になりたい」とまで語っています。

晏嬰の父である晏弱は、宋の公子でありながら、争いの絶えない宋を離れ、斉へ亡命した人。晏弱は、自分を受け入れてくれた斉への忠心厚く、軍事の天才を発揮します。その子晏嬰は、ひ弱に生まれ、成人しても身長は135mに満たなかったと言われます。ただ、その清廉潔白さや気骨は、身の丈を優に超えるものがあったということです。父が没すると、当時、既に稀であった正式な服喪の礼に則り、三年間、粗末な衣服で、粗末な仮小屋に住み、粗末な食事をし、人々を驚かせたと言います。

晏嬰は、哲学者ではなく、あくまでも三代の斉公に仕えた政治家です。その信条とするところは、民を安んじ、隣国と友好をはかり、社稷(国)を永らえることです。晏嬰にとって、民と社稷は、斉公を超える存在です。その観点からすれば、斉公に諫言することは、政治家としての当然の務めであり、諫言するからには自らの襟も正して当然、ということになります。事実、晏嬰は、極端なまでに節倹力行・儀礼尊重の人だったようです。斉公からの過度な恩賞は全て辞退し、ある時は、晏嬰を気遣って公が増築してくれた自宅を、わざわざ元に戻したとされます。

「晏子春秋」は、後代、晏嬰の言行をまとめた書物ですが、その大半を占めるのが、斉公に対して行った諫言の数々です。晏嬰の諫言から多くの成句が生まれていますが、最も有名なものの一つが、「牛首馬肉」。後に「羊頭狗肉」という言葉になりました。宮中の女性が男装することを霊公が好むと、それが街中で大流行します。霊公は、風俗が乱れるとして、街での男装を厳しく禁じますが、一向に止みません。霊公は、晏嬰に、何故止まないのか、と問います。晏嬰は、宮中で許し、街で禁じることは、牛の頭を看板に掲げて、馬肉を売るようなもの。まず宮中から正しなさい、と諫言します。

「晏子春秋」のなかに、賢人の誉れ高い普の叔向と、乱世における政治家の処し方を語る章があります。叔向は「正道を貫けば、地位を失い、民を捨てることになる。世の流れにそって邪道を行えば、地位は守れるが、正道を捨てることになる。どうするべきか?」と問います。晏嬰は「民のためにということを根本に置けば、正道を捨てることはなく、民を捨てれば、正道などあり得ない」と明解に答えています。是非とも、永田町界隈や大手町あたりで、「晏子春秋」の読書会を開催してもらいたいものです。(写真出典:shisokuyubi.com)

2021年1月14日木曜日

悲しい詩

前から気になっていたドイツのドキュメンタリー作家マイク・シーゲルの「情熱と美学」を見ました。サム・ペキンパーの生涯に関するドキュメンタリーです。懐かしさから見たのですが、ブルーな気分になってしまいました。センチでノスタルジックな仕立ては、ペキンパーを語るうえで最適だと思います。暴力描写を変えたと言われるサム・ペキンパーは、熱烈なファンも多く、影響を受けた映画人も多くいます。ただ、評価はバラつき、忘れられた存在になりつつあるように思います。

「ワイルド・バンチ(1969)」のスローモーションに度肝を抜かれ、「わらの犬」(1971)では真の恐怖を味わされました。大ヒットした「ゲッタウェイ」や「コンボイ」もいいのですが、ややペキンパーらしさに欠けるように思います。私が一番好きなペキンパー映画はセンチな「ガルシアの首」(1974)です。一本気な職人気質とも言えるペキンパーは、ハリウッドのプロダクション・システムと戦い続けた人でした。そのペキンパーが、編集権まで持った数少ない映画が「ガルシアの首」です。ペキンパー組の俳優たちも好きですが、なかでもウォーレン・オーツは大のお気に入り。ウォーレン・オーツは「ガルシアの首」に主演するために生まれた、と言いたくなるほどのハマリ役でした。

暴力描写で有名なペキンパーは、暴力を「悲しい詩」だと言っています。ペキンパー映画の本質は、決して暴力ではありません。時代や世間と反りが合わない”本物の男たち”へのバラードです。ですからペキンパー映画は、結構、ウェットな代物になります。ウェットさが暴力を意味あるものにし、暴力がウェットさを印象深いものにしています。ペキンパーが「砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード」(1970)を自身の代表作と位置付けていることは象徴的です。消えゆくフロンティアに捧げた映画は、猛々しい強面ではなく、素朴で誠実な男が主人公でした。ペキンパーの祖父は開拓者であり、製材業を営む山の男でした。山の生活やそこで生きる人々への郷愁こそ、ペキンパー映画の本質かも知れません。

映画監督やオーケストラの指揮者という仕事は、並みの精神力では務まらないほど厳しい仕事だと思います。ペキンパーの場合、それに加えて、製作会社との絶え間ない戦いもありました。天才肌で、こだわりが強く、現場では横暴極まりないとしても、それはペキンパーの繊細さゆえかもしれません。精神を削るような仕事に、ペキンパーの酒量は増す一方で、片時も放せなくなっていたようです。加えて、彼を理解し、ついてきてくれた友人、俳優、スタッフが、次々と亡くなっていくと、アルコールに加え、麻薬にも深入りします。心はさみしい独裁者は、ハリウッドから干されていきました。あたかもフロンティアが消えていったように。

アメリカでペキンパーの評価が低いことは、よく知られています。恐らく理由は、暴力描写とハリウッドへの反抗なのでしょう。ペキンパーは、映画における暴力描写を別次元へと高めました。今や、ペキンパーも眉をひそめかねないほどの暴力にあふれる映画界ですが、当時のアメリカでは、随分と物議を醸したようです。アメリカ人は、自分たちの恥部を突き付けられて、激しく嫌悪したのでしょう。今一つのプロダクション・システムへの反抗は、当時の映画界にあっては自殺行為だったと思われます。ハリウッドと一線を画すオーソン・ウェルズ等がペキンパーを絶賛しても、ハリウッドで収入を得ている多くの映画人は、忖度せざるを得なかったのでしょう。(写真出典:ciatr.jp)

2021年1月13日水曜日

冬来たりなば

P・B・シェリー
大寒は、二十四節気で最も寒い日、あるいは最も寒い時期を表します。おおよそ1月20日頃とされます。直前の節気は小寒、後に続くのは立春となります。寒さが一番厳しくなるものの、春も近いというわけです。思い起こすのは、英国のロマン派詩人シェリーの「冬来たりなば春遠からじ」でしょう。原文は「If Winter comes, can Spring be far behind?」です。直訳すれば、「冬になれば、春が遥か後方ということはあり得るだろうか?」という感じでしょうか。「冬きたりなば」では、名訳に過ぎて、詩というよりも格言っぽく聞こえます。実際のところ、ネットではシェリーの格言と言い切っているものまであります。

日本で「冬来たりなば」が広く知られている理由は、シェリーの詩からタイトルをとったA.S.M.ハッチンソンの小説「冬来たりなば」が、1922年に映画化され、日本でもヒットしたからだそうです。独善的な男の親切心が災いを招き二転三転するが、最後には男にも救いがもたらされるといった話のようです。シェリーの詩ではなく、言葉だけが独り歩きし、ついには格言のようになったわけです。この言葉を末尾におくシェリーの「西風の賦」は、冬の荒々しいパワーに対する畏敬の念を謳っています。

シェリーは、裕福な貴族の家に生まれ、イートン校、オックスフォードと進みますが、無神論を唱え、放校処分となります。その後、カトリックの解放を訴え、放浪の旅を続けます。アナキストのゴドウィンの家に身を寄せたシェリーは、ゴドウィンの娘メアリーと激しい恋におちます。メアリーと妻と3人で暮らすことを提案しますが、受け入れらるわけもなく、メアリーと大陸へ駆け落ちします。婚外子を孕んだ妻が自殺し、シェリーとメアリーは結婚しています。その後、メアリーは小説「フランケンシュタイン」を発表します。その着想は、欧州へ駆け落ちした際、レマン湖畔にあるバイロン卿の別荘で得たとされます。シェリーは、ジェノヴァ沖を特注ヨットで航海中、突然の暴風雨に見舞われ、遭難、死亡しています。西風のように激しい人生だったと言えます。

今年の冬は、例年並みの寒さだと聞きます。ただ、ここ数年、暖冬が続いたためか、とても寒いと感じます。例年並みとは言え、数年に一度クラスという寒波にも見舞われました。日本海側では、例年の数倍という大雪が降り、車が多数立ち往生する事態が頻発しました。ちなみに、TVのニュースは、長い車列と疲労したドライバーを映し出します。とても興味があるのは、渋滞の先頭はどうなっているのかという点ですが、決して映し出されることはありません。いずれにしても、記録的寒波であり大雪ですが、この冬は、これで終わりという保証はありません。

さて、すっかり格言化した「冬来たりなば」ですが、「降りやまぬ雨はない」や「明けない夜なない」、あるいは「日はまた昇る」と同様の意味で語られています。雨の例えは、大井川の川越人夫たちの口癖と聞いたことがあります。雨で水嵩が増して川留めになると川越人夫は手間賃が稼げません。長引けば死活問題です。ところが、川越人夫は幕府お抱えの公務員であり、川留めになっても、収入は途絶えることがありません。雨の例えは、のんびりした話だったわけです。コロナ禍に際し、降りやまぬ雨はないと言っている人たちがいます。その通りかも知れませんが、3年も続けば、とてものんびりとした言い方はできないと思います。(写真出典:poetry.hix05.com)

2021年1月12日火曜日

「アルジェの戦い」

ジッロ・ポンテコルヴォ監督    1966年イタリア・ アルジェリア

☆☆☆☆+

1966年、ヴェネチアで金獅子賞を獲得した名作「アルジェの戦い」をデジタル・リマスター版で見ました。記録映画を思わせる白黒映像、素人俳優、テンポの良い演出。ジッロ・ポンテコルヴォ監督は、ロベルト・ロッセリーニ作品を見て映画の世界に入ったと言うだけあって、見事にネオ・リアリスモの血を受け継いでいます。独立直後から、戦いの興奮冷めやらぬアルジェのカスバでオール・ロケを敢行、カスバの住民たちもエキストラとして参加しています。その臨場感は、限りなくドキュメンタリーに近く、映画史上、極めて稀な製作過程だと言えます。ある意味、すべての映画監督が夢に見る製作環境だとも言えます。

アルジェリアは、カルタゴ時代からの古い歴史を持ちますが、19世紀、フランスの侵略を受け、植民地化されます。フランス人が入植し、第二次大戦のおりには、反ヴィシー政権のフランス共和国臨時政府もここで設立されています。1954年には、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が結成され、独立に向けた戦いが本格化します。アルジェのFLNは、迷路のような旧市街カスバを拠点にテロを激化させます。同じ年、フランスは、ディエンビエンフーの戦いでヴェトミンに敗れ、インドシナを失っています。それだけに、負けられないフランスは、累計50万人に及ぶ大軍を、アルジェリアに投入します。

アルジェリア戦争は、複雑な戦争でした。フランスが、他の植民地の独立を認める一方、アルジェリアに大軍を送り込んだ理由は、コロンと呼ばれるフランス系を中心としたヨーロッパ人の存在です。100万人に及ぶコロンは、アルジェリアを政治的にも経済的にも支配していました。コロンの武装部隊は、フランス等で政治家へのテロを実行し、独立容認に傾いたド・ゴール大統領暗殺まで計画します。さらに、アルジェリア駐留軍とコロン武装部隊は、対立する本国軍と戦闘直前までいきます。独立を目指すアルジェリア人、それを弾圧から容認に変化したフランス、独立断固反対のコロンと駐留軍、という三つ巴の戦争だったわけです。

映画は、カスバにおけるFLNの組成から、フランス空挺部隊によって壊滅させられるまでを描き、2年後に本格化した民衆蜂起、そして独立をエンディングとしています。作中、主人公のアリに、FLN幹部が「革命を起こすことは難しい。もっと難しいのはそれを継続することだ。勝利することはさらに難しい。でも本当に大変なのは勝利してからだ」と語ります。名言ですね。ちなみに、独立後、コロンたちは、フランスに戻りますが、二級市民として長らく差別されたと言います。

カスバは、もともとアラブ語で城塞という意味ですが、丘の斜面に城塞を囲むように形成された旧市街を指します。マグレブ諸国特有の言葉で、市街地を指すメディナとは区分されます。昔、タンジールのカスバを訪れ、ほど近いホテルに泊まったことがあります。バルコニーから港と地中海が見渡せる見事な眺望でした。日本では、「カスバの女」に代表されるようにスラム街、暗黒街のイメージですが、決してそんなことはありません。怪しげで危ない街というカスバのイメージを決定づけたのはジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「望郷(ペペ・ル・コモ)」(1937)だと言われます。アルジェリア人を鼠と呼んだコロンの差別意識が反映されていたと言わざるを得ません。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年1月11日月曜日

象の天敵

 象の天敵はネズミという話があります。ネズミは、象の足裏をかじる、鼻に入って窒息させるとか言われますが、科学的にはデタラメ。象の天敵と言えるのは病原菌だけであり、天敵とは言わないにしても、密猟者や自然破壊者としての人間も脅威なのでしょう。無敵とも言える象ですが、臆病な性格で、知らないものには近づかないことで身を守っているそうです。中国共産党は、時々、象をイメージさせるような行動をとることがあります。国内では無敵、海外でも無敵に近づきつつある中国共産党ですが、例えネズミであっても、潜在的な脅威と見なしたものには容赦ない対応を取ることがあります。それが無敵状態を作り上げてきた秘けつでもあるのでしょう。

2020年10月、アリババ・グループの総帥ジャック・マーは、公の場で政府批判を繰り広げました。中国共産党のスターとして賞賛されてきたジャック・マーですが、ここ数年、反トラスト法を盾に、政府から圧力をかけられていました。報道されていない部分で、相当のプレッシャーを受けていたことは想像に難くありません。当局批判は、蓄積されたいらだちの爆発かもしれません。それ以降、ジャック・マーの姿は、まったく確認されていません。富裕層が、しばらくの間、世間から姿を消すことは、ままあります。しかし、ジャック・マーは公人であり、それは難しいと思います。アリババ・グループは、党にとって、大きくなり過ぎたということかも知れません。

中南海を囲む法輪功学習者
思い起こすのは「法輪功事件」です。法輪功は、1990年代に、李洪志が起こした気功の流派です。真・善・忍を日常生活の指針とし、4つの動作と瞑想で構成されます。組織もなく、会費もなく、自然発生的に中国全土に広がり、愛好者は、アッと言う間に国内で7千万人、世界で1億人に達したと言われます。党に匹敵する規模になった法輪功を恐れた江沢民の指示で、政府は圧力をかけ始めます。99年、拘束された実践者の釈放を求める1万人が、読書をしながら、無言で、党の中枢とも言える中南海を囲みます。「中南海、包囲される」と新聞が書き立てたこともあり、江沢民は激怒し、徹底的弾圧が開始されました。

全国で、いわれなき弾圧、拘束が行われます。そして、拘束者の臓器を摘出して移植に使うという蛮行が明るみに出ます。政府は否定したものの、様々な形で、その事実が確認され、世界中から厳しい批判が行われました。一人っ子政策の際、地方幹部が、施設送りとなった二人目以降の子供たちを海外へ里子に出し、手数料を稼いだことがありました。恐らく、臓器摘出も、政府、あるいは党による指示ではなく、黙認のもと、地方幹部が行ったものではないでしょうか。法輪功に対する弾圧は続いています。中国政府の日本大使館のホームページにも「邪教『法輪功』の危害」というページがあります。

中国古典芸能を世界に紹介する「神韻芸術団」は、NYに本拠地を置き、世界中で公演しています。神韻の公演が決まった国は、必ず中国政府から公演中止を強く要請されます。神韻は、亡命した法輪功学習者たちが立ち上げた芸術団です。古典芸能を弾圧する中国政府に抗議するというスタンスを取り、暗に法輪功弾圧に対抗しています。一度、東京で公演を見ましたが、高いレベルのテクニックを持ち、古典芸能をモダンに表現していました。(写真出典:epochtimes.jp)

2021年1月10日日曜日

おいてけ堀


本所の掘割で釣りをしたら、随分、魚が獲れた。日も暮れてきたので、帰ろうとすると、堀から「置いていけ~」と恐ろしい声がする。慌てて家へ逃げ帰り、籠を見てみると空っぽになっていた。ご存知、本所七不思議の一つ「おいてけ堀」です。場所は、今の錦糸町あたりとのこと。当時は、湿地帯が広がり、堀も多かったようです。「置いていけ」と叫んだのは、河童説とタヌキ説があります。錦糸町の人形焼きの名店「山田屋」はタヌキ説。店頭に本所七不思議と掲げ、タヌキの人形焼きが名物となっています。

本所七不思議は、江戸期の都市伝説集です。江戸の爆発的人口増加、そして振袖火事とも呼ばれる明暦の大火(1657年)がきっかけとなり、本所には武家屋敷や住宅が増えていきます。それを加速させたのが、1659年の両国橋の架設です。正式には大橋でしたが、武蔵国と下総国を結ぶことから両国橋と呼ばれるようになったようです。18世紀に入ると、赤穂浪士が本所の吉良邸に討ち入り、隅田堤は桜の名所となり、両国の花火大会や回向院の大相撲も始まり、本所は賑わいを見せていきます。19世紀の墨東は、江戸を支える家内工業、物流拠点としても栄えます。

本所七不思議には、もう一つタヌキが登場します。「狸囃子」あるいは「馬鹿囃子」です。囃子が聞こえ、その方角に進むと消える。また、別な方角から聞こえるので、追うと、また消える。追いかけ続けると、いつしか見知らぬ土地にいた。実は、狸囃子は、本所に限らず、全国に多く存在する話のようです。恐らく、風、あるいは空気の屈折によって、遠くの音が近くまで届いたものと思われます。不思議なことに思えたでしょうね。同様に、「おいてけ堀」も、ナマズ目の川魚ギバチがトゲでたてる大きな音が、正体不明で不気味だったから生まれた都市伝説とも言われます。

舞台となった錦糸町ですが、江戸と下総国を結ぶ街道筋に掘割があることで、物流拠点として栄えていたようです。錦糸町とは、随分きれいな名前ですが、名前の由来となったのは、JR錦糸町駅の北側にあったという錦糸堀です。もともとは岸堀だったものが、なまったとされます。堀に朝日、夕日が映えて、錦糸のようだったことから、錦糸堀と呼ばれるようになったという説もあります。いずれにしても、17世紀には、河童の話もあれば、タヌキも出没する土地柄だったわけです。近年、錦糸町は、こざっぱりとしてきましたが、昔、やや危ない街だった頃には、タヌキのような人が多く歩いていたものです。

都市伝説(Urban Legend)という言葉は、アメリカの民族学者ジャン・ハロルド・ブルンヴァンが、その著書「消えるヒッチハイカー~都市の想像力のアメリカ」(1988)で初めて使ったそうです。要は、真実性が疑わしい話が、本当にあった話として流布される噂話といったところでしょう。古今東西、そのネタには困らないくらい存在するのでしょう。それが書物として残されるケースは稀だと思われます。「本所七不思議」は、印刷技術の進んだ江戸ならでは、あるいは当時世界最大の都市だった江戸ならでは、ということなのでしょう。(一景「本所割下水」(1871)    写真出典:ja.ukiyo-e.org)

2021年1月9日土曜日

梁盤秘抄 #12 Colossal Head

 アルバム名:Colossal Head (1996)  アーティスト名:ロス・ロボス

ロス・ロボスは、1974年にイーストLAで結成されたチカーノ・バンド。ロックを基本に、テックスメックス、カントリー等、様々な要素を持った音楽を演奏します。87年、リッチー・ヴァレンスの短い生涯を描いてヒットした映画「ラ★バンバ」の同名主題歌が、世界的な大ヒットとなりました。「ラ・バンバ」は、メキシコ民謡をロックに仕立てたリッチー・ヴァレンス58年のヒット曲ですが、スペイン語で歌われた全米初のヒットでもあります。半世紀近く活躍するラテン・ロックの大御所ロス・ロボスの目立ったヒットはこれだけというのも不思議な気がします。

ラテン・ロックというジャンルは、はっきりとした傾向を持っていません。サンタナの名前が一番に来ますが、あれはサンタナ独自の音楽であり、追随者がいるわけではありません。ロス・ロボスも同様です。要はヒスパニック系が演奏していればラテン・ロックと言われる傾向があるということです。Netflixが南米のロックの歴史をミニ・シリーズ化した「魂の叫び」を見ました。基本的には、米英音楽のコピーながら、時代と共に進み、自国語の歌詞や自国の民族音楽に目覚めていくという過程をたどっています。ここにも、ラテン・ロックという概念はなく、あくまでも南米各国のロックです。

ただ、ロス・ロボスの音楽は、他の米国の白人バンドとは明らかに異なる独特のセンスを持ったロックです。メキシカンそのものもありますが、基本的はカントリー・ロック・バンドです。そこに強いビート、ユニークなテンポ、少し投げやりなムードが、ロス・ロボス・ワールドを構成しています。92年にリリースされた「Kiko」は実験的な名作と言われます。実に丁寧に作り込んだ作品ですが、かなり肩に力が入っています。「Colossal Head」は、Kikoで展開されたアイデアが、よりナチュラルっぽく、よりストリートっぽく、よりファンクっぽく展開されます。彼らの独特なセンスがストレートに伝わります。チカーノによるロックの傑作だと思います。

Colossal Head は、直訳すれば”巨大な頭”となりますが、通常、オルメカ文明が残した巨石人頭像を指します。オルメカ文明は、紀元15~4世紀頃、メキシコに栄えた文明であり、アメリカ大陸最初の文明とされます。2~3mもあるという巨石人頭像は、オルメカ文明発見の端緒となった石像でもあります。それをアルバム・タイトルとするあたりに、チカーノのプライドを感じます。アルバムのなかでは「Mas y Mas」が、デイヴィッド・ヒタルゴの特徴的な高音ヴォーカルとテクニック抜群のギターが冴えわたり、ロス・ロボスの代表曲となりました。個人的には、「Can't Stop the Rain」がお気に入り。ファンクの名曲だと思います。

アルバム「Colossal Head」には、どこか斜に構えたシャープさのようなものを感じます。とは言え、曲調は、実に多様です。それがロス・ロボスらしさなのでしょう。アメリカで生まれ育ったものの、メキシコ人であることを常に意識させられてきたデラシネの感性が感じられます。様々な要素の音楽と言っても、彼らにとっては垣根などは無く、それが彼らの音楽なのでしょう。ロス・ロボスは、不思議な魅力にあふれています。(写真出典:amazon.com)

2021年1月8日金曜日

どら焼き

和菓子業界は、洋菓子に押されて、衰退傾向なんだろうと思っていました。大きな間違いでした。経営者の高齢化、後継者不足等で、企業数は減っていますが、微減レベルであり、売上自体には大きな変化は見られません。ほとんどが和菓子用に使われる小豆の消費量にも大きな変化はありません。贈答用の需要が底堅いこと、季節感があること、和菓子を好む傾向がある高齢者が増加していること、さらに天然素材が多く健康に良いとされること、等々が需要を支えているようです。

好きな和菓子ランキングを見ると、大福、団子等と並び、常に上位に入るのが「どら焼き」です。入手しやすいことも人気を支えているのでしょう。どら焼きの起源は、はっきりしていません。よく言われるのが、弁慶説です。怪我をした弁慶が、手当をしてくれた農民に、お礼として、銅鑼を使って焼いたのが始まりとされます。弁慶が登場した時点で、眉唾ものと思ってしまいます。小豆のあんこは、鎌倉時代に登場したようです。小麦粉を溶いて、薄く焼き上げた皮であんこを巻く、いわゆる餡巻も同時期に生まれたと想像できます。砂糖を入れたあんこは室町期に登場し、江戸期に一般化します。

江戸期のどら焼きは、丸く焼いた皮にあんこを乗せ、周りを織り込んで四角くしたものだったようです。フランスのガレットのようなものなのでしょう。ちなみに、どら焼きという名称を最初に使ったのは、京都の”笹屋伊織”だったようです。江戸末期のことです。今も、当時のままのどら焼きを売っていますが、皮と餡を重ねたうえでグルグル巻きにしたものです。餡巻の豪華版といったところでしょうか。丸い一枚皮のどら焼きは、明治初期、大伝馬町の”梅花亭”が売り出します。当時は、一枚の丸い皮を半折りにして餡を包んでいたようです。日本橋の清寿軒は、小判どら焼きとして、このスタイルのものも売っています。梅花亭は、今も霊岸島で営業していますが、既に一枚もののどら焼きは売っていません。

現在の二枚の皮で餡を挟むどら焼きは、大正3年、上野の”うさぎや”が発売しました。上質な餡、ふわっとしていて、かつもっちり感のある皮。どら焼きの皮は、かくあるべし、という皮だと思います。うさぎやは、どら焼き界の王様です。私が考えるどら焼き四天王は、うさぎやの他に、絶妙に柔らかい皮の池袋・すずめや、洋菓子のようなふかふかした皮の浅草・亀十、香ばしい皮の日本橋・清寿軒。いずれもあんこの上質さは言うまでもありません。問題は、どこも予約するか、並ばないと買えないことです。

過日、四ツ谷の”わかば”で鯛焼きを買おうと並んでいると、あんこは体に良い、というポスターを見つけました。あんこの原材料である小豆は、ポリフェノールと鉄分を豊富に含んでいること、あんこは見た目よりもカロリーが低いこと等が挙げられていました。長生きしたかったら、あんこを食べなさいとも言っています。もちろん、過ぎたるは…、ということではありますが。(うさぎやのどら焼き 写真出典:woman.mynavi.jp)

2021年1月7日木曜日

百年企業

NYタイムスが、コロナ下における企業経営のあり方を探るべく、京都の「一文字屋和輔(一和)」を取材した記事を読みました。今宮神社門前の一文字屋和輔は、西暦1000年創業、あぶり餅のみを商います。コロナ禍で客足は減ったものの、一和は財政状況を心配していない。なぜなら、その経営は、短期的な利益と成長よりも、伝統と安定を優先しているからだ。長期的視点に立つからこそ、幾たびの戦火や災害を乗り越えてきたのだ、と伝えます。アメリカ的な、株主利益優先の近視眼的経営では、コロナ禍を乗り越えられない、と警鐘を鳴らしています。

100年経営研究機構によれば、創業100年以上の日本企業は、3万3千社以上。それは、世界の百年企業の4割を占めるそうです。うち、200年以上が3,100社以上、500年以上が約140社、そして西暦1000年以前に創業した企業は19社ある、と記事は伝えます。よく言われる日本の千年企業は9社です。19社は間違いだと思います。世界最古の企業として有名なのが大阪の宮大工、金剛組です。578年、聖徳太子の四天王寺建立に際して招集を受けた宮大工が創業しています。

日本に百年企業が多い理由は、長期的視点に立った経営ばかりでもありません。近世で言えば、江戸幕府の鎖国政策、そして植民地化されなかったことも含め、明治期の急速な近代化が外国の干渉を排除してきたことが大きな理由だと思われます。第二次大戦では、沖縄が戦場となり、原爆、空襲で主要都市は焼け野原となり、独立も失います。ただ、戦後の外国による干渉は、あくまでも占領統治であって、植民地支配ではありませんでした。大雑把に言えば、極東の島国であったことが幸いしていると言えそうです。

百年企業の内訳を見ると、地域別には、東京都が最も多く、ついで大阪府、愛知県と続きます。全企業に占める百年企業の割合で見ると、京都府、山形県、新潟県という順番になり、興味深いところです。業種で言えば、最も多いのが貸事務所。これは老舗が家業をたたみ、資産を活用して不動産業を行っているケースが多いということなのでしょう。次いで、清酒製造、旅館と続きます。いずれも時代の変化による影響が少ない商売とも言えますが、資本力が無ければできない商売でもあり、それが時代の荒波を乗り越える元にもなっていたと想像できます。

2019年、新たに百年企業になった会社は、1600社を超えると聞きました。日本に百年企業が多い理由として、地政学的理由をあげましたが、明治期以降の企業に関して言えば、日本的社会主義の賜物とも言えそうです。富国強兵策、国家総動員体制、戦後の経済復興計画、それらは日本の優秀な官僚による管理のもと、進められました。いわゆる日本株式会社です。企業は、役所の業者として、管理されるとともに手厚い保護も受けてきた面があります。国際化とともに、企業を取り巻く法的環境は、欧米化が進んできました。株主利益の重視等も典型です。今後も、日本が、百年企業の多さを誇れるかどうかは、微妙だとも言えそうです。(一文字屋和輔 写真出典:smartmagazine.jp)

2021年1月6日水曜日

アントニヌス勅令

古代ローマには暴君と言われる皇帝が何人か現われます。カリギュラ、ネロ、コンモドゥス、ヘリオガバルス等々と共に名前があがるのが、21代目の皇帝カラカラです。ローマに残る大浴場にその名を残しますが、共同皇帝だった弟を殺害し、それを非難したアレキサンドリアの住民2万人を虐殺しました。人気取りのために軍人の給与を上げ、財政難になると貨幣改悪を行うなどしています。日ごろから、粗暴極まりなく、些細な理由で部下や市民を処刑し、ギボンに「人類共通の敵」とまで言わせています。そのカラカラ帝が、212年に発出した「アントニヌス勅令」は、ローマ帝国滅亡の始まりとも言われます。

カラカラは、アントニヌス勅令によって、全属州民にローマ市民権を与えました。古代ローマの紋章に刻まれる「SPQR(Senatus Populusque Romanus)」は、”ローマの元老院と市民”という意味ですが、それが国家としてのローマを表していました。帝国内にあって、ローマ市民は、支配層として位置づけられ、選挙権・被選挙権、所有権、税制上の優遇等が与えられました。当初、兵役は市民の義務でしたが、マリウスの軍制改革で志願制となり、ここからローマ市民の特権階級化が始まったとされます。いずれにしても、被支配地域である属州民とは大きな格差がありました。

そもそも属州民は、補助兵として志願し、満期除隊すれば市民権を得ることができました。属州民が、こぞって志願したことから、強大なローマ軍が成立したと言われます。ただ、待遇の悪さから志願者が減り、軍の維持に支障をきたすまでになります。アントニヌス勅令は、その改善もねらいのひとつだったはずです。ただ、志願する最大の理由であった市民権獲得が無意味になったことで、結果、志願者の減少に歯止めはかかりませんでした。

勅令最大のねらいは、税収の増加だったとされます。属州民税は失いますが、同時に税率引き上げを行った相続税と奴隷解放税の増収を狙っていたようです。しかし、属州民に無条件で市民権を与えたことで、もともとのローマ市民はもとより、種々の努力をして市民権を得た属州民のモチベーションも下がります。属州民にとってもローマ市民権の価値が下がったため、社会も経済も停滞し、結果、税収も減少したといいます。

結局、見た目は、進歩的に見えるアントニヌス勅令ですが、社会を混乱させただけだったと言えます。例えて言えば、居間を少し広くしたかっただけなのに、大黒柱を切ってしまったようなものです。獲得権の既得権化が壊したものは、社会のヒエラルキーのみならず、競争原理と、それに基づく社会の流動性だったのでしょう。流動性こそ、社会の活力だと思います。若い人たちが、将来に何ら希望を持っていないと言われる昨今の日本ですが、長い目で見れば、社会の流動性を失っていくのではないか、と心配になります。ローマ的”終わりの始まり”でなければいいのですが。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年1月5日火曜日

三代の傾城

 三代とは、夏・殷・周と続く中国の古代王朝です。かつて、夏・殷については、「史記」等に記載はあるものの、伝説上の王朝とされていました。ところが、1928年から本格的に発掘された殷墟、加えて1959年に発見された二里頭遺跡から、その実在が確認されました。夏の開祖である禹は、黄河の大洪水後の治水に功績があり、紀元前20世紀頃、帝位に着いたとされますが、その大洪水の痕跡も科学的に確認されているようです。殷(商)の湯王が、夏を滅ぼし、王朝を建てたのが紀元前17世紀。周(西周)の武王が、牧野の戦いにおいて、殷を滅ぼしたのが、紀元前11世紀でした。紀元前8世紀には、その西周も滅亡し、東周の時代、つまり春秋戦国時代が始まります。

葛飾北斎「殷の妲己」
三代の各王朝最後の王は、夏の桀、殷の紂王、西周の幽王となりますが、いずれも悪政をもって知られ、そのために国を滅ぼされています。そして興味深いことに、この三王の悪政の影に、それぞれ末喜、妲己、褒姒という、絶世の美女にして、名だたる悪女が存在します。夏の桀は、徳がなく、武力に訴える高圧的な王だったとされます。桀は、妃だった末喜(ばっき)を喜ばすために、巨大な宮殿を建て、その落成を祝う大宴会を催します。また末喜が、絹を裂く音を好み、よく笑ったことから、国中の絹を集め、裂いたとも言われます。ただ、末喜に関する記録は少なく、後世、妲己や褒姒のエピソードが改変され、付け加えられたとも言われます。

暴君として名高い殷の紂王が愛した妲己(だっき)は、美しいだけでなく、弁舌に優れ、かつ淫乱だったとされます。「酒池肉林」という言葉を残した通夜の宴会は、池を酒で満たし、木々に肉を下げ、男女を裸にして追わせたとされます。また、油を塗った銅製の棒を火の上に掛け、罪人を渡らせる「炮烙の刑」を喜んだと言われ、それを諫めた王の叔父を「聖人の心臓には七竅(人の顔にある7つの穴)があるというが見てみたい」と殺し、心臓を取り出したという話も伝わります。「封神演義」では、紂王を滅ぼすために遣わされた九尾の狐の化身とされています。

褒姒(ほうじ)は、西周の幽王の二番目の后。一切笑うことが無かったとされます。ある日、王が、必要もないのに、召集の狼煙をあげ、集まった諸将が右往左往する様を見た褒姒が笑ったことから、王は何度も同じことを行います。褒姒を后にするために廃された前の后の実家が、反乱を起こし、王宮に迫った際、王は狼煙をあげますが、もはや将兵は誰一人駆け付けませんでした。幽王と褒姒は捉えられて殺され、西周は滅びます。末喜、妲己、褒姒は、まさに傾国であり傾城だったわけですが、自ら進んで悪さをしていたのは、妲己だけのようにも思います

事実か否かは別として、三代が同じく、傾国傾城によって滅びたと伝えられていることは興味深いところです。稲作の基本構造である家父長制の皮肉な弱点を戒めているようにも思えます。事の原因が傾城であろうとなかろうと、王が、民を忘れ、政を疎んじ、律を破れば、必ずや国は亡びるという教訓かも知れません。永く続く家には、なぜか必ず不届き者が現れるものです。その際、必要なのは、命を懸けて諫めてくれる臣下ですが、残念ながら、その労が報われるとは限りません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年1月4日月曜日

猿の惑星

過日、友人と話していると、映画「猿の惑星」が話題に上り、あれは面白かったと言うのです。私は、能天気に「猿の惑星」が面白いなどと言われると、腹が立ちます。日本人を憎悪し、猿に見立てた代物など拒否すべきものでしかないと思うからです。1968年公開当時、そのことに言及しなかった日本のマスコミのあり様にも疑問を感じます。

原作者のピエール・ブールは、英領マラヤのゴム園で働いていましたが、第二次大戦が勃発すると、フランス軍に徴兵されます。本国フランスがナチスに侵攻され、親ナチスのヴィシー政権が誕生すると、脱走して反ナチスの自由フランス軍に参加します。その後について、本人が多くを語らないために、いくつかの説があるようです。ただ、どうも日本軍の捕虜になり、その後、日本軍からヴィシー政権側のフランス軍に引き渡され、そのまま終戦を迎えたか、終戦直前に脱走したのではないか、と言われています。

現在も残るクウェー川鉄橋
いずれにしても、1952年に発表した小説「戦場にかける橋」は自身の経験に基づくとされます。日本軍は、主に英国兵から成る捕虜とアジア人労働者を使役して、タイ北部のクワイ川(現在はクウェー川と改称)に泰緬鉄道の鉄橋を架設します。あまりにも過酷な作業、劣悪な環境で、およそ2割の捕虜・労働者が命を落とします。戦後、戦争犯罪として告訴され、捕虜収容所長等が死刑判決を受けています。トカゲのしっぽ切りのような判決に憤ったピエール・ブールは、日本の戦争犯罪を世界に問うために、「戦場にかける橋」を発表します。

1957年、巨匠デビット・リーン監督が、映画化し、アカデミー作品賞を受賞します。主題歌「クワイ河マーチ」も大ヒットしました。映画史に残る傑作ですが、日本を告発するという小説の意図とは異なるヒューマニズム大作となったことが、ピエール・ブールには不満でした。怒りが治まらないピエール・ブールは、それを小説「猿の惑星」(1963)にぶつけます。泰緬鉄道建設捕虜虐待事件では、ジュネーブ条約を批准していなかったとは言え、日本軍は批判されて当然です。ただ、大量死に関しては、コレラの突発的流行等も勘案され、判決が下されています。

その現場で、実際に死ぬ思いをしたピエール・ブールが、判決を不満に思い、映画が甘いと思う気持ちは分からぬではありません。しかし、いやしくも文筆活動を行うものが、他国民を”知能ある猿”呼ばわりすることなどありえません。あまりもに失礼な話であり、まさに喧嘩を売っているとしか言いようがありません。日本国憲法からして。「猿の惑星」の発禁などすべきではありません。ただ、日本のマスコミは、ピエール・ブールの意図するところを正しく、広く伝えるべきだと思います。いまだに映画「猿の惑星」をありがたがっている日本人は、まさに猿並みと言われてもいたしかたない、とさえ思います。(写真出典:4travel.jp)

2021年1月3日日曜日

冬はつとめて

春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、そして冬はつとめて。清少納言が、”いとをかしきこと”と述べている季節の魅力です。冬の”つとめて”は、早朝のことです。「枕草子」一段には、寒い朝には、火をおこし、炭を持って廊下を移動するのもふさわしい、と書かれています。キリっと冷えた空気に清々しさを感じるとともに、火のぬくもりのありがたさ、それを準備する様も風情があると言っているのでしょう。「をかし」という日本的美感を代表する枕草子らしい文章と言えます。

私は、北国の生まれ育ちですが、寒さに関して言えば、やはり、しんどいと思いますし、苦手です。とは言え、毎年、初雪にはなぜかワクワクしましたし、雪が積もると底冷えとは異なる和らぎを感じました。朝の冷たい空気に清々しさも感じ、夜、家々に灯る明かりに温もりも感じました。枕草子も、寒さそのものを述べているのではなく、寒い朝の風情を語っています。「をかし」は、自然や事物そのものではなく、それを趣があると感じたかどうかという、極めて主観的な心の動きです。

源氏物語の「あわれ」と枕草子の「をかし」は、よく対比的に語られます。「あわれ」は、情趣的、哀感的とされ、「をかし」は、感覚的、趣向的と言われます。まさに小説には「あわれ」、随筆には「をかし」がふさわしいわけです。「あわれ」の優雅、「をかし」の優美とも言われます。いずれも、繊細な感受性に基づく洗練された上品さを備え、平安期の宮中で育まれた日本独自の美意識や美感だと言えます。

5世紀から9世紀にかけて、倭の五王の宋への入貢、遣隋使、遣唐使と、断続的に続いた中国との交流は、多くの文化をもたらしました。唐の滅亡とともに、遣唐使は終りますが、国内的には、日本独自の文化が成熟しつつあり、遣唐使の意義が薄れていたという事情もあります。663年の白村江の戦いで、日本・百済軍は、唐・新羅軍に大敗します。以降、対外リスクに対応するため、律令制、防衛体制等、急速に国家体制が整備されていきます。国号も「日本」と改称されました。同時に、仮名の誕生等、中国文化の日本化も進み、平安期には成熟を見ていたのでしょう。

「をかし」を古語辞典でみれば、滑稽、興味深い、趣がある、美しい、すばらしい、と出てきます。日本の美感の多くの要素がこの一言に凝縮されています。しかし、その後、「をかし」は、滑稽という意味になっていきました。もともと、滑稽という意味もあったようですが、それにしても、日本的美感の一つとも言える言葉が、なぜ失われていったのか、興味深いところです。おそらく、その後の武家文化のなかで、無常観を背景とする「あわれ」が武士に支持され、あまりにも貴族的だった「をかし」が影を潜めていったということなのでしょう。(写真出典:kyoto-brand.com)

2021年1月2日土曜日

祭りの力

ヴァージニア州リッチモンド郊外に開発されたホールズリーという高級住宅地があります。この地区を担当するUPS( United Parcel Service) の配達要員は、アンソニー・ギャスリン。雨の日も、風の日も、そしてコロナ感染が広がる中でも、アンソニーは、毎日、小荷物を宅配します。12月のある日、アンソニーが、いつもの通り、住宅地へ続く道に入ると、見たこともない光景が目に飛び込みます。いつもは静かな通りの両側に、住民たちが隙間なく車を並べ、手に手に「アンソニー、ありがとう」「ホールズリーは君を愛している」と書かれたボードを持って、アンソニーを待ち構えていたのです。アンソニーは、配達車を止め、涙を流しながら、住民たちに感謝の言葉を伝え、また配達に向かったそうです。

こういう感動的な事を、たまにやるんです、アメリカ人は。アメリカの伝統を感じます。今年、コロナ禍で戦う医療従事者、そしてアンソニーのように社会インフラを支える人々に、感謝を伝える行動が多くありました。私の言う伝統とは、そのことではなく、地域コミュニティが、時に、一致団結して行動することです。アメリカの場合、歴史の浅い移民国家であること、畑作や酪農など家族単位の農作業が主体であったことから、地域コミュニティは、皆で、意識して、努力して、築き上げなければ、存在しないものだったのでしょう。アメリカ人のDNAには、そうした努力が組み込まれているように思います。

対して、日本の場合、地域コミュニティは、2,500年前の稲作の開始とともに成立していたと思われます。稲作は、手間暇のかかる農作業であり、家族だけでは対応できないものでした。従って、日本の地域コミュニティは、必要性が高く、既に存在していたものであり、築き上げる努力というよりも、維持する仕組みの方が大事だったように思えます。その典型が、お祭りだと思います。祭りの多くは、豊作祈願の信仰行事から始まるわけですが、柳田國男が言うところの「ハレとケ」、つまり、辛い農作業を伴う日常「ケ」のなかでエネルギーが失われていき(ケガレ)、祭り等の「ハレ」で、それを再充填するといった性格を持ちます。

加えて、祭りは、地域コミュニティの連帯を維持強化するための仕組みでもあったと思います。祭りを運営するためには、多くの役割を分担する必要があり、地域のために犠牲を払い、努力することが求められます。祭りを通じて、共同体としての連帯を強化することによって、稲作等における共同作業を円滑に実行できていたのだと考えます。それを継続することで、祭りは伝統となり、地域コミュティの心の拠りであることも含め、連帯を維持強化するための仕組みとして機能します。そういう意味で、祭りは、地域コミュニティに限らず、企業など組織全般にとっても、極めて重要だと思います。

産業構造の変化とともに、地域コミュニティの姿も変わってきました。特に都市化が進んだ地域では、地域コミュニティの連携強化の必要性が曖昧になり、祭りは、単なる行事や観光資源となり、あるいは祭りそのものが存在しません。祭りに替わる地域イベントも多く存在しますが、その脆弱な必要性ゆえ、祭りほどのパワーは持ちません。日本も、アメリカのように、地域コミュニティは、住民が意識して、努力して、築いていく必要が生じているとも言えそうです。(写真出典:Lexi Hanrahan)

2021年1月1日金曜日

大公の聖母

ラファエロ・サンツィオは、ディエゴ・ベラスケス、アンリ・マティスと並んで、私のお気に入りの画家です。ラファエロは、聖母像を多く描いています。なかでも私が一番好きなのは、「大公の聖母」です。フィレンツェ、ピッティ宮のパラティーナ美術館に所蔵されています。小ぶりな作品ですが、ラファエロらしい艶やかなタッチで描かれ、ラファエロ定番の青と赤の衣装をまとった聖母が、伏し目がちにイエス抱き、漆黒の背景に浮かび上がります。実は、黒い背景は後世の加筆だったようです。しかし、ラファエロらしい美しく上品な聖母を際立たせる効果があり、これはこれでいいのではないかと思います。

ラファエロの聖母子像は30点弱あります。その多くが、20歳前後に4年間だけ滞在したフィレンツェで描かれています。当時、ヴェッキオ宮の壁画を競作させられたレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロが描く下絵を、ラファエロは毎日のように見に行っていたと聞きます。二人の偉大な天才の制作過程を比較して見れたことは、どんな師匠に教わるよりも勉強になったはずです。ラファエロの聖母像は、ほぼ全て三角構図で描かれていますが、ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」の影響とされます。

ラファエロの聖母像は、有力者たちが、屋敷で祈りを捧げるために発注したものが多いのでしょう。個人蔵が多かったため、現在は、各地に分散されてます。例えば、よく似た構図で描かれた「ヒワの聖母」、「美しい女庭師」、「ベルヴェデーレの聖母」の三作は、それぞれウフィッツィ、ルーブル、ウィーンの美術史美術館に所蔵されています。この三枚を一つの壁に展示したら、面白いと思うのですが。私は、一度、ローマとフィレンツェで、聖母像に限らず、可能な限りラファエロの作品を見ようとしたことがありますが、あまりにも分散しているので、なかなか大変でした。まだ見ていない作品もありますが、なかでも「システィーナの聖母」は見てみたいと思っています。ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館に所蔵されていますが、そのためだけにドレスデンへ行くことは、やや厳しいとも思っています。

ルネサンスを代表する画家ラファエロ・サンツィォは、1483年、アドリア海に面するウルビーノ公国の宮廷画家の息子として生まれています。10代後半でペルジーノに師事し、18歳でマイスターになると、その画力から多くの受注を受けたようです。その後、芸術の都フィレンツェで4年間を過ごし、ローマ教皇の招聘に応じてローマへと移ります。以降、37歳で亡くなるまで、ローマで、ヴァチカン宮殿のフレスコ画「アテナイの学堂」、あるいは晩年の「キリストの変容」などの傑作を残しました。ただ、ラファエロは、当時としては最大級の工房を抱えており、ローマ時代の作品の多くは、弟子たちによって仕上げられたそうです。

19世紀中葉の英国に、後の象徴主義の先駆けとも言われるラファエル前派が登場します。ラファエロの技法に固執する美術界に反発し、完璧すぎたラファエロ以降の西洋絵画は停滞していると宣言し、ラファエロ以前への回帰を主張しました。ラファエル前派の絵は、さほど好みませんが、ラファエロが、その後の数百年、西洋絵画を圧倒し続けていたことには驚かされます。一人の天才が、古典主義を完全無比な形にまで完成させてしまったということなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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