こういう感動的な事を、たまにやるんです、アメリカ人は。アメリカの伝統を感じます。今年、コロナ禍で戦う医療従事者、そしてアンソニーのように社会インフラを支える人々に、感謝を伝える行動が多くありました。私の言う伝統とは、そのことではなく、地域コミュニティが、時に、一致団結して行動することです。アメリカの場合、歴史の浅い移民国家であること、畑作や酪農など家族単位の農作業が主体であったことから、地域コミュニティは、皆で、意識して、努力して、築き上げなければ、存在しないものだったのでしょう。アメリカ人のDNAには、そうした努力が組み込まれているように思います。
対して、日本の場合、地域コミュニティは、2,500年前の稲作の開始とともに成立していたと思われます。稲作は、手間暇のかかる農作業であり、家族だけでは対応できないものでした。従って、日本の地域コミュニティは、必要性が高く、既に存在していたものであり、築き上げる努力というよりも、維持する仕組みの方が大事だったように思えます。その典型が、お祭りだと思います。祭りの多くは、豊作祈願の信仰行事から始まるわけですが、柳田國男が言うところの「ハレとケ」、つまり、辛い農作業を伴う日常「ケ」のなかでエネルギーが失われていき(ケガレ)、祭り等の「ハレ」で、それを再充填するといった性格を持ちます。
加えて、祭りは、地域コミュニティの連帯を維持強化するための仕組みでもあったと思います。祭りを運営するためには、多くの役割を分担する必要があり、地域のために犠牲を払い、努力することが求められます。祭りを通じて、共同体としての連帯を強化することによって、稲作等における共同作業を円滑に実行できていたのだと考えます。それを継続することで、祭りは伝統となり、地域コミュティの心の拠りであることも含め、連帯を維持強化するための仕組みとして機能します。そういう意味で、祭りは、地域コミュニティに限らず、企業など組織全般にとっても、極めて重要だと思います。
産業構造の変化とともに、地域コミュニティの姿も変わってきました。特に都市化が進んだ地域では、地域コミュニティの連携強化の必要性が曖昧になり、祭りは、単なる行事や観光資源となり、あるいは祭りそのものが存在しません。祭りに替わる地域イベントも多く存在しますが、その脆弱な必要性ゆえ、祭りほどのパワーは持ちません。日本も、アメリカのように、地域コミュニティは、住民が意識して、努力して、築いていく必要が生じているとも言えそうです。(写真出典:Lexi Hanrahan)