2022年5月31日火曜日

一点豪華主義

30年前、はじめてソウルへ行った際、地元の人が梨泰院のとあるブティックへ連れて行ってくれました。片言の日本語を話す店主が、鍵のかかった奥の部屋に案内してくれます。店よりも広いようにも思えるその部屋は、欧州ブランド品であふれていました。すべてコピー品です。最高品質の偽物だと言っていました。後年、眠らない巨大衣料品市場、東大門市場へ出かけた際、店の人が、日本語で”本物の偽物、あるよ”と声をかけていました。1980年前後から、日本では,海外旅行ブームを背景に、欧州ブランド品のブームが起きました。同時に、高い技術力を持つ韓国では、コピー品が作られ、日本に入ってきます。その後、世界的に知的財産保護が強化されましたが、今でもコピー品は出回っているようです。

欧州ブランド・ブームを牽引したのは、ルイ・ヴィトンでした。本物かコピー品か分かりませんが、多くの人が、ヴィトンのバッグや財布をこれ見よがしに持っていました。当時、本物のヴィトンの財布は、ライターの火でも燃えない、という話が出回っていました。実際のところ、ヴィトンの生地は、キャンバス地に塩化ビニール加工を施したものであり、不燃性が高いとされます。多少、ライターの火で炙ったくらいでは燃えないものだそうです。当時、「それ本物のヴィトンか?」「本物だ!」「じゃ、燃やしてみるか」という会話が聞かれました。概ね、皆さん、燃やすまではしません。それほど偽物も多く、自信がなかったということなのでしょう。

アメリカで聞いた話ですが、ホテルマンは、バッグで客の品定めをするのだそうです。要は、すべてのバッグ類が、一つの欧州ブランドで統一されていることが、上客の最低要件だと言うのです。旅行鞄というものは、そういうものなのでしょう。当時の日本には、一点豪華主義という言葉もありました。四畳半のアパートに住んでヴィトンのバッグかよ、と馬鹿にもされていました。ブームに流される日本の特徴でもあり、和魂洋才、あるいは脱亜入欧でがんばってきた日本ならではとも言えます。そうやって日本は、欧州から多くを学んできたわけです。また、一点豪華主義は、日本の階級意識の薄さの象徴でもあり、それはそれで面白いと思います。当時、パリのヴィトン本店には日本人が行列を作り、またヴィトンの海外初出店は東京でした。その後、お株を中国人に奪われるわけですが。

ルイ・ヴィトンは、軽くて丈夫な鞄を作ると評判の鞄職人だったようです。1854年、結婚を機に、世界初となる旅行鞄専門店を、パリにオープンします。当時、鉄道や蒸気船の登場によって、旅行者が格段に増えていました。まさに時代が彼を求めていたのでしょう。トランクの上から布地を張るというヴィトンの鞄は評判をとり、欧州中に上顧客を広げていきます。ただ、同時にコピー商品も出回ります。コピー防止のために”ダミエ・ライン”を発売しますが、それもすぐにコピーされます。そして、1896年には、トレードマークとも言える”モノグラム・ライン”を発売しています。つまり、ルイ・ヴィトンの歴史は、コピー品との戦いの歴史であり、またコピーされることが一流ブランドの証明なのかも知れません。

ルイ・ヴィトンの旅行鞄は、自分で旅行鞄を手に持つことがない人たちのためにあります。今も変わらずそういう人たちはいるのでしょうが、近年、他の多くの人は、硬質プラスティック製や布製のスーツケースを持って旅行します。恐らく、ルイ・ヴィトンの旅行鞄の売上も落ちているのでしょうが、ハンドバッグはじめ小物類で稼いでいるように見えます。余談ですが、1987年、NYへ赴任直後、ハーレムの近くで、モノグラム・ラインの野球帽を被っているお兄ちゃんがいて、思わず「ナイス・キャップ!」と声をかけると、「Year!」と応えていました。もちろん、本人は、ジョークであり、まさか本当のヴィトン製とは思っていなかったとは思いますが。(写真出典:carousell.sg)

2022年5月30日月曜日

Anything Goes

よらず舞台は楽しくて、はまるものです。舞台の魅力は、様々あるのでしょうが、映画・映像と比べれば、その本質が明らかになるように思います。要は、臨場感ということになのでしょうが、生身の人間が演じているので、受ける印象も感情移入も、より現実的になります。クロード・ルルーシュ監督の「あの愛をふたたび」のなかで、ジャン・ポール・ベルモンドが、つまらないショーを見ている時には、ずっと一人の踊り子だけを見るんだ、と話していました。結構、舞台の本質をついたセリフなのではないかと思います。映画は、我々が見るものを監督がフレームとして決めます。舞台では、常に全体が視野に入っています。よって我々が見るものを決めるとも言えます。

NYにいた頃、日本から来た人たちのお付き合いで、年に2~3本、ブロードウェイ・ミュージカルを見ていました。当時は、「コーラス・ライン」、「レ・ミゼラブル」、「ミス・サイゴン」、「42nd Street」等がヒットしていました。私が、一番好きだったミュージカルは、なんといっても「エニシング・ゴーズ」です。コール・ポーターの大ヒット・ミュージカルです。コール・ポーターは、アメリカを代表する作詞・作曲家です。アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン、オール・オブ・ユー、ビギン・ザ・ビギン、ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ等々、数々のスタンダード・ナンバーを生み出しました。また、ミュージカル作者としても活躍し、映画化もされています。

ミュージカルは、大衆芸能だと思います。ブロードウェイ・ミュージカルは、かなりレベルの高い演出・パフォーマンスですが、それでもにアメリカらしい大衆芸能だと思います。シリアスなものも良いのですが、明るく、楽しく、ちょっと涙もある、というスタイルが、最もアメリカ的だと思っています。そういう意味も、「エニシング・ゴーズ」は最高だと思います。NYからロンドンに向かう豪華客船で起きるドタバタを描いたロマンティック・コメディです。ミュージカルのストーリーは、単純なものが良く、そこに、いかにヴァリエーション豊富な歌や踊りを入れられるかという勝負だと思っています。そもそもAnything Goesの意味は”何でもあり”です。「エニシング・ゴーズ」は、何度も上演されていますが、私がリンカーン・センターで見た1988年版は、トニー賞も獲得しています。 

実にアメリカ的なミュージカルを、日本で商業的に成功させたのが、浅利慶太と劇団四季です。1979年上演の「コーラスライン」の成功、そして、1984年、西新宿のテントで行った「キャッツ」のロングラン公演で人気を確立したとされます。「キャッツ」は、日本初のロングラン公演でした。多くの団員を抱え、7つの常設劇場を持ち、年間3,000ステージを公演しています。劇団四季は、とにかくチケットが入手できないほどリピーターで混んでいます。私も、何度か観ました。歌も踊りもレベルが高いと思います。ただ、演奏が生ではなくテープだという点が、ミュージカルの魅力を大きく損ねていると思います。もちろん、それが劇団四季の収支を下支えしているのでしょうが。

「42nd Street」も印象に残るミュージカルでした。1933年のミュージカル映画を舞台化したものです。アメリカ人の大好きなサクセス・ストーリーですが、ブロードウェイの内幕ものでもあります。アメリカ的なサクセス・ストーリーでは、家族や仲間たちによる支え、恋人の理解、意地悪だけど後に良きサポーターとなるライバルや上司といった要素が定番です。「42nd Street」には、その全てが入っています。そして、ミュージカル制作者たちへの深い愛情も伝わる傑作でした。ミュージカルもそうですが、舞台は、観るものも、創るものも、一度ハマったら、なかなか抜け出せない魔力があると言えます。(写真出典:anythinggoesmusicalcinema.com)

2022年5月29日日曜日

大谷石

久々に、宇都宮の大谷資料館に行ってきました。地下宮殿を思わせる採石場跡は、なかなかの異空間ぶりです。行った日は雨で、地下空間も、やや霞がかかったような空気で、一層幻想的でした。映画・TVCMの撮影、コンサートや新車の発表会等のイベント、あるいは結婚式にも貸し出されるようです。ただ、お値段は高めだとも聞きます。結構、観光客を集めるスポットなので、分かる気がします。採石場としては、かなり歴史が古いようです。1979年に一般公開されるまでは、陸軍の秘密倉庫、中島飛行機の地下工場、戦後は古米の貯蔵庫としても活用されていたようです。

大谷石は、軽石凝灰岩であり、海底に堆積した火山礫が、隆起して地上に現われたものです。宇都宮近郊に多く見られ、最盛期には120もの採石場があったようです。現在は、10カ所程度の坑内掘り採石場が稼働しているそうです。軽石を多く含むことから、加工しやすく、耐火性や耐湿性が高く、建材として活用されてきました。門塀、蔵の外壁などに多く使われます。また、耐熱性の高さから石窯などにも使われるようです。その白っぽい色合いも魅力です。ただ、多孔質ゆえに劣化も早く、屋外では黒っぽくなってきます。加工技術が進んだので、最近は、コースター、キャンドル立て、鉢カバー等も販売されています。

北関東は、縄文遺跡の多い土地ですが、大谷石は、既に、竪穴式住居の炉石として活用されていたようです。また律令時代の国分寺の礎石にも使われているとのこと。実に古くから活用されてきた石です。とは言え、産出量が飛躍的に増えるのは、明治以降です。洋風建築が増え、建材としての用途が広がったわけです。しかし、大谷石の人気を決定的にしたのが、1922年建造の旧帝国ホテルです。ランク・ロイド・ライトの代表作とも言われる旧帝国ホテルは、大谷石が多く用いられています。その完成披露の日、関東大震災が発生したものの、さしたる被害も無かったという話は有名です。現在、ファサードは、愛知県の明治村に移設、展示されています。

採石場跡では、手掘り、機械掘り、両方の痕跡が見られます。機械掘りの歴史は、意外と浅く、普及したのは1960年頃と言われます。いかに扱いやすいといっても、地中深く、人力で掘り出し、運搬することは大変な重労働だったに違いありません。資料館そばの露天掘りの跡の一つは、山をくり抜くように採石されています。薄く残った山の頂上部は、いつ崩れてもおかしくないように思えます。実際、1989年には、地下の採石場が大規模に陥没し、採石場の閉鎖、観光客の減少を招いたとされます。水分にさらされた大谷石の劣化を考えれば、頷ける事故です。公開されている採石場跡は安全だとされていますが、多少、陥没事故の記憶が頭をよぎることも事実です。

資料館そばには、天台宗の大谷寺があり、弘法大師手掘りとされる磨崖仏があります。掘られているのは千手観音ですが、その高い技術は、渡来人によるものとの説もあるようです。ただ、気になるのは、空海が彫ったという観音様を天台宗のお寺が誇らしげに説明していることです。1200年に渡る天台・真言の不仲も、弘法大師の名声にはかなわないということなのでしょうか。(写真出典:tripadvisor.jp)

2022年5月28日土曜日

かりゆし

かりゆしウェアの歴史は、決して古いものではありません。1970年に、沖縄県観光連盟会長だった宮里定三が、アロハ・シャツに負けない沖縄ファッションを作ろうと発案したものです。当時は”沖縄シャツ”と名付けられていたようです。残念ながら広まることはなく、わずかに関係者が着るのみだったと言います。1980年には、県観光開発公社が”おきなわウェア”として売り出しますが、やはり不発だったようです。1990年、沖縄県は、本気で観光のてこ入れに入ります。”めんそーれ沖縄県民運動推進大会” です。その際、大々的な公募の結果、名称は”かりゆしウェア”と決定、カジュアル・フライデーでの着用も推奨されます。

ここでかりゆしウェアの知名度は高まるわけですが、その名を全国に知らしめたのは、2000年に開催された九州・沖縄サミットだったと思います。各国首脳が着用したことで、認知度は格段にアップしました。沖縄県内では、公式の場も含めて夏場の定番となり、毎日ではありませんが、閣僚も着用するに至ります。ハワイのアロハ、フィリピンのバロン、インドネシアのバティック同様、オフィシャル・ウェアとして定着した感があります。開襟、半袖、裾出しのかりゆしウェアは、高温多湿な日本の夏に最適なファッションだと思います。1979年、オイルショックを受けて政府が提唱した”省エネ・ルック”なるゲテモノがありましたが、これはさすがに一般化しませんでした。2005年に始まるクール・ビズ運動が、かりゆしウェアの普及を促進したと思います。

十数年前、沖縄支社へ出張し、皆の前で話す機会がありました。プライベートは別として、公式行事への参加は初めてでした。かりゆしウェアで臨まなければ、沖縄の人たちに失礼になると思い、空港に出迎えてくれた支社長に、まずはかりゆしショップへ連れて行ってくれ、とお願いしました。ホテルにチェックインがてら、ホテルのかりゆしショップでどうですか、というので、ホテルへ向かいました。ホテルでは、支配人と営業担当者が出迎えてくれ、彼らも引き連れてかりゆしショップへ行くことになりました。店では、社長を呼んでくると行って、結局、6人くらいに囲まれて、かりゆしウェアを選ぶはめになりました。まず最初に見せられたのが、一点ものコーナーでした。地元の議員さんや社長さんたちは、柄がかぶらないように1点ものを着るのだそうです。芭蕉布や紅型を使った見事なものでしたが、とても買える値段ではありませんでした。

かりゆしウェアが、モデルとしたアロハ・シャツは、ハワイの日本人移民が作ったものでした。パラカと呼ばれるヨーロッパの船員たちのシャツの柄が、絣に似ていたことから、日本から持ち込んだ和服をシャツに作り替えたのが始まりとされます。20世紀初頭には日本移民によって商品化され、中国人商人がアロハ・シャツと命名したと言われます。いまでは、ハワイにおけるオフィシャル・ウェアでもあります。今もあるかどうかは知りませんが、かつては、毎週金曜日がアロハ・デイとされ、島民はアロハかムームーを着用していたものです。ハワイの日系人は36万人、うち沖縄出身者の子孫は4万5千人に登ります。アロハ・シャツの起源には、沖縄移民も関わっていたのでしょう。とすれば、かりゆしウェアは、里帰りしたファッションとも言えそうです。

”かりゆし”は、沖縄の言葉で、めでたいことを指します。沖縄県庁によるかりゆしウェアの定義は、沖縄県産であること、そして沖縄らしいデザインであることの2点だけです。柄は、琉球伝統の柄からトロピカルなものまでと、かなり多様性があります。スタイルにも、時々の流行があり、最近はボタンダウンが多い用に思います。ちなみに、アロハ・シャツのヴィンテージものは、高値で取引されます。また、ヴィンテージもののレプリカも人気です。いつか、かりゆしウェアにもヴィンテージ市場が登場するかもしれません。(写真出典:lfeelcoco.ti-da.net)

2022年5月27日金曜日

月桂樹

Apollo e Dafne
家の前に月桂樹があるのですが、やたら大きくなって、上を通る電線を脅かします。東電の人に注意され、リスクを回避するために、毎年一回、枝打ちせざるを得ません。さほどの大きさではないとは言え、高さも幅も3mくらいはあります。この枝打ちが、なかなか難儀なわけです。また、落とした枝の処理も面倒なものです。作業を開始するには、結構、覚悟が入ります。 古代ローマに始まり、今もマラソン等の勝者には、月桂冠が贈られます。その生命力の強さゆえに、勝者に相応しい冠とされたのではないかと思うほどです。ちなみに、古代ギリシャのオリンピアードで、勝者に贈られたのは、オリーブの冠です。

古代ローマで、勝者に月桂冠が与えられた理由は、太陽神アポロが月桂冠を身につけていたからです。アポロ、古代ギリシャ語のアポロンは、芸術、光明、医術、弓術、預言、家畜の神です。後に、太陽神ヘリオスと同一視されるようになります。アポロンは、ゼウスとレートーの息子です。ゼウスの寵愛を受けたレートーは、ゼウスの妻ヘラの怒りを恐れ、デロス島へ逃れて双子を出産します。アポロンと狩猟の女神アルテミスです。アポロンは、生後数日にして美しく立派な青年に成長したと言われます。大蛇を倒したり、ヘラクレスと戦い引き分けたりと武勲も有名ですが、一方で青年神らしく恋の話にも事欠きません。女神、妖精、王女、あるいはヒヤシンスの語源ともなった美少年ヒアキントスとの恋も知られています。

ただ一人、アポロンの求愛を拒み続けたのが、河神ペーネイオスの娘ダプネーでした。日本では、ダプネーよりも仏語・独語のダフネの方がなじみ深いと思います。ある日、弓矢に長けたアポロンは、小さなエロースの弓矢を馬鹿にします。怒ったエロースは、恋に落ちる黄金の矢でアポロンを射抜きます。矢を受けたアポロンは、最初に見たダプネーに恋をします。一方、エロースは、ダプネーに、恋を拒み続ける鉛の矢を打っていました。追いまわすアポロンから逃げ続けるダプネーでしたが、ある日、ついに捕まりそうになります。ダプネーは、父である河神に、私の姿を変えて下さい、と頼みます。すると、ダプネーの体は、たちどころに月桂樹へと変わります。諦めざるを得なかったアポロンですが、ダプネーの形見として、生涯、月桂冠を身に付け続けました。

月桂樹の学名は”Laurus nobilis”であり、高貴な緑という意味だとされます。月桂樹が、日本に入ってきたのは、明治のことであり、日露戦争の戦勝記念樹とされてから普及したようです。直訳でも意訳でもない”月桂樹”と呼ぶようになったのか、不思議なところです。実は、中国の伝説がもとになっていました。昔、仙人のもとで修業する呉剛が過ちを犯し、罰を受けます。罰とは、いくら伐っても元に戻るという、月に生えている桂の木を伐ち続けるというものでした。昔、中国では月の影を桂の木に見立てていたようです。月桂樹が日本に入ると、カツラの木に似ており、香りも強く、栄光や勝利を意味することから、伐っても元に戻るという「月の桂の木」があてられたとされます。

月ではなく、玄関前の月桂樹ですが、伐ち続け無ければならない私は、呉剛というわけです。さほど悪いことをした覚えもないのですが・・・。ところで、ローマのボルゲーゼ美術館には、ベルニーニの「アポロンとダフネ」が展示されています。ローマは、バロックの巨匠ベルニーニの作品であふれています。なかでも「アポロンとダフネ」は大傑作と言えます。躍動感はもとより、月桂樹に変わりつつあるダプネーの姿には臨場感すら感じさせます。ダプネーの伸ばされた腕の先端は、すでに月桂樹になっています。近日中に、うちの月桂樹の枝打ちもやらなければなりませんが、ダプネーの腕を切るかと思えば、多少、心が痛みます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年5月26日木曜日

牛丼

生まれて初めて東京に来たのは、20歳の頃だったと記憶します。父親が「なんだ、東京にも行ったことがないのか。見てこい」と旅費を出してくれました。東京の大学に来ていた友人たちと、プラプラ遊んだだけのことでしたが、印象に残ったことが二つあります。一つは、駅構内にひっきりなしに入線してくる電車の騒音の凄さ 、今一つは吉野家の牛丼の美味しさです。吉野家は、1968年にチェーン展開を開始し、1973年にはフランチャイズも開始しています。店舗数の拡大とともに、大ブームを巻き起こしていました。牛丼ブームは知っていても、まだ札幌に吉野家はありませんでした。

日本初の牛鍋屋は、1862年にオープンした横浜の”伊勢熊”だとされます。明治に入ると、文明開化の大騒ぎとともに、牛鍋は大流行します。まだ、肉質が良くなかった頃、牛鍋は味噌仕立てだったようですが、その後、肉質が改善され、薄切り肉も出回ると、醤油、砂糖、出汁という、いわゆる割り下が一般化していきます。すき焼きの誕生です。それをご飯の上に乗せて食べる牛丼の原型は、明治中期には登場していたようです。築地の吉野家は”牛鍋ぶっかけ”という名称で売り始め、河岸の人たちの間で大人気になったようです。当時は、名前のとおり、すき焼きを、そのままご飯の上に乗せたものだったようですが、もっと肉を味わいたいという客の要望を受け、現在の形になっていったようです。

吉野家は、1899年、当時、まだ日本橋にあった魚河岸で開業しています。創業者である松田栄𠮷の出身地である大阪の地名から名付けたようです。その後、河岸が築地へ移転すると、場内に店を構えます。大戦末期の東京大空襲では、築地も焼失しますが、戦後、吉野家は、いちはやく屋台で商売を再開しています。また、吉野家は、戦前、築地に店を持っていた人たちに呼びかけて組合を作り、築地の再興に大きな貢献をしています。1952年には、当時、まだ珍しかった24時間営業も始めています。場内の大人気店は、その後、チェーン展開、フランチャイズ展開へと進むわけです。ここへ来て、東京下町の庶民の味は、全国区となり、柳の下をねらう他のチェーン店も続々とオープンし、牛丼は大ブームとなりました。

創業者の松田栄𠮷が考案したキャッチ・フレーズが「はやい、うまい、やすい」でした。1980年代、店舗急拡大が裏目に出た吉野家は、コストダウンのために味を落とします。即座に客は離れ、吉野家は会社更生法を適用せざるを得ませんでした。90年代、見事に復活した吉野家は、味と品質を強調するために、伝統のキャッチ・フレーズの順番を「うまい、やすい、はやい」に変えています。順番はどうあれ、これは江戸庶民が愛した食文化の神髄とも言える言葉です。屋台で供された江戸の名物”すし・そば・天ぷら”は、その典型です。その後、屋台が店舗に変わり、名物も高級化が進みます。しかし、そばは立ち食いそばが、すしは回転寿司が、「はやい、うまい、やすい」の伝統を守っています。吉野家の牛丼は、明治生まれながら、江戸の伝統を受け継ぐ新名物とも言えそうです。

神戸に行列のできる牛丼屋があります。10年ほど前にオープンした”広重”です。すきやき用の神戸牛を、2~3枚乗せたものです。たまたまですが、開店早々、人に連れられて行きました。これが美味いわけです。絶品です。ただし、それは神戸牛が美味いのであって、それを牛丼と呼ぶかどうかは微妙です。高級な牛肉は、すき焼きで食べれば良く、牛丼は、あくまでも安い牛肉をじっくり煮込み、はやい、うまい、やすいの心意気で出す代物だと思います。(写真出典:yoshinoya.com)

2022年5月25日水曜日

赤いバラ

事件直前
1963年11月23日早朝の5時28分、通信衛星を介した世界初の”日米宇宙中継”が行われました。早朝にも関わらず、人類の進歩を見届けようと多くの日本人がTVの前に陣取りました。衛星放送実現を強く後押ししたのがジョン・F・ケネディ大統領でした。ところが、日本時間で当日3時30分頃、そのケネディ大統領が暗殺され、予定されていた放送内容は急遽変更されます。放送は、手書きのフリップとともに「この電波でこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのは誠に残念です」という有名なアナウンスから始まりました。皮肉なことに、世界初の衛星放送は、その推進者の悲報を伝えることになったわけです。アメリカの若き大統領は、世界の希望でした。私たちの世代にとって、ケネディ暗殺事件は、忘れ得ぬ事件の一つです。

11月22日、再選を目指すキャンペーンでダラスを訪れたケネディ大統領は、パレード中に狙撃されます。3発撃たれ、2発目が大統領の背中から首を貫通、側頭部に当たった3発目が致命傷となります。直後にリー・ハーベイ・オズワルドが逮捕されます。オズワルドは、犯行を否認し、2日後、移送直前、ダラス警察本部の地下で、ジャック・ルビーに撃たれ、即死しています。この模様は全米に中継されていました。ジャック・ルビーは、シカゴ・マフィアがダラスに送り込んだナイトクラブ・オーナーでした。ルビーは、背後関係を明かすこと無く、67年に獄死しています。暗殺直後に就任したジョンソン大統領は、大統領直属のウォーレン委員会を設置し、事件を調査します。委員会は、オズワルド単独犯行を結論とします。

しかし、この結論には、多くの反証もあり、当初から疑問視されます。その後も、再検証、関連裁判等も行われますが、現在に至るまで、真相は明らかになっていません。その間に、種々の陰謀説も唱えられてきました。CIAに使われていたオズワルドの過去、ルビーとマフィアとの関係が憶測を呼びます。CIA主導で行われたキューバのビッグス湾侵攻は、ケネディが土壇場で正規軍投入を拒否したことで失敗した面もあります。これを恨んだCIA、キューバ人グループ、マフィアによる共同犯行説。ロバート・ケネディ司法長官が進めるマフィア壊滅作戦に対抗してマフィアが実行したという説。また、ベトナムに正規軍を投入しないケネディ、あるいはベトナム介入に疑問を抱き始めたケネディを排除しようとした軍産共同体犯行説も人気があります。

ケネディの大統領選には、父親のジョー・ケネディに依頼されたシカゴ・マフィアのサム・ジアンカーナが関与していたことはよく知られています。マフィアが、協力の見返りに求めたのが、キューバ奪還だったとされます。カストロのキューバ革命以前、ハバナのカジノは、マフィアにとって大きな収入源でした。マフィアからすれば、大統領に当選したケネディは、約束を反故にしたばかりか、弟を使ってマフィア壊滅に動いた恩知らずです。裏切行為そのものであり、マフィアの論理からすれば排除されて当然とも言えます。オズワルドを単独犯に仕立てるにあたっては、CIAの手助けも必要だったはずです。オズワルドの口封じに配下のルビーを使ったことは大胆な行動ですが、マフィアは、家族の命と報奨金をもってルビーを黙らせる自信があったのでしょう。

テキサス遊説中のケネディ夫妻は、各地で黄色いバラを贈られます。テキサスを象徴する名曲「テキサスの黄色いバラ」にちなんだものです。ところが、ダラスの空港では、なぜか赤いバラが贈られます。後に、ジャクリーヌ・ケネディは不思議に思ったと語っています。それから50分後、事件は発生します。真相は不明ながら、利害が共通するマフィア、CIA,キューバ人グループの犯行という説が、最も筋が通るように思えます。”ブラック・ダリア”等LA四部作で知られるジェームス・エルロイは、1995年、”アメリカン・タブロイド”で、FBI、CIA、マフィア、キューバ人グループによる犯行説を小説化しました。狂犬エルロイの迫力ある文章は、これこそ真相と思わせるほどの迫力がありました。エルロイは、その後、”アメリカン・デス・トリップ”、”アンダーワールドUSA”を発表します。これらは、アンダーワールドUSA三部作として知られています。(写真出典:patch.com)

2022年5月24日火曜日

日間賀島

日間賀島西港のタコ
名古屋にいた時、仲間たちと、日間賀島に一泊し、翌日は知多半島でゴルフという忘年会を行いました。12月の金曜日、仕事が終わると、仲間の車数台に分乗し、知多半島の先端にある師崎港を目指します。南知多道路を使って、1時間ちょっとで着きました。師崎港から船に乗って10分程度で日間賀島に到着です。日間賀島は、三河湾国定公園内にあり、隣接する篠島や佐久島と合わせて三河湾三島と呼ばれます。名古屋に近いことから、釣りや海水浴でも人を集めます。ただ、日間賀島と言えば、なんと言っても、タコが有名です。

名古屋に赴任早々、日間賀島の民宿が経営する市内の”晴快荘”で、初めて日間賀のタコを食べました。柔らかくて、味が濃いので感動しました。日間賀島のタコは、なぜか柔らかいと言われます。恐らく茹で方にも技があるのだと思います。さらに一匹まるごと茹でて、客がハサミで切って食べるというスタイルにも驚きました。その印象が強かったので、日間賀島へ行きたいと思っていたわけです。ただ、冬場のお目当ては、タコだけではありません。トラフグです。一泊二食、ふぐづくしで2万円を切るというお値段にも驚きました。食卓には、てっちり、てっさ、唐揚げが並び、そのうえまるごとの茹でタコ、伊勢エビの刺身なども並びます。すっかり気に入り、名古屋を離任後にも、何度か行きました。

実は、愛知県のトラフグの水揚げは全国ナンバー・ワンです。かつては、知名度もなく、名古屋での消費も少なく、獲れたふぐは下関へ送られていたようです。ところが、1990年代の後半、九州近海でのトラフグの不漁が話題になると、地産地消の動きが始まったようです。いまや日間賀島は、タコとふぐの島です。ただ、残念ながら、全国区とまではいっていないように思います。日間賀島のふぐづくしで、私が最も気に入っているのは、ひれ酒です。銀座のひれ酒と言えば、ひれの先の方だけが上品に入っています。日間賀島では、まるごとのひれで、身の一部まで付いています。とても濃い出汁が出て、ほぼふぐのスープ状態です。聞けば、あらも入れた鍋で燗をつけて出しているようです。なるほどです。

日間賀島は、三河湾と伊勢湾が交わるところに位置し、とても良い漁場として知られています。伊勢湾には木曽三川、三河湾にも多くの河川が流れ込み、栄養豊かな海が形成されています。日間賀島の魚は、奈良時代の文献にも登場しているようです。東京ドーム半分程度という小さな島ですが、30基を超える古墳も確認されていると言います。ただ、タコとふぐ以外に観光資源があるわけではありません。釣りでもすれば別ですが、民宿でひたすら宴会という島になります。いきおい翌日はゴルフか、やきものの街・常滑あたりで観光ということになります。ちなみに常滑も好きな街です。古い窯元や小さな店が並ぶやきものの道、あるいはINAXのライブ・ミュージアムも楽しめます。

南知多の海水浴場が、半島の西側、伊勢湾沿いに多いこともあり、名鉄知多新線は、西側を走ります。それも内海まで。名鉄河和線も河和が終点であり、師崎までは、どうしても車が必要になります。河和からも日間賀島への船はありますが、やはり全国から客を呼ぶにはアクセスに難があります。もちろん、晴快荘はじめ、名古屋市内で、日間賀のふぐやタコを味わうことはできますが、やはり日間賀島まで足を伸ばしたいところです。(写真出典:nissho-apn.co.jp)

2022年5月23日月曜日

横綱の太刀

白鵬の太刀
コロナ感染拡大の影響から、国技館の相撲博物館は、しばらく休館していました。2022年夏場所を機に再開され、第69代横綱白鵬を特集していました。白鵬の半生をたどる写真、豪華な化粧まわし、さらには父親がメキシコ五輪のレスリングで獲得した銀メダルまで展示されていました。なかでも、驚いたのは、土俵入りに用いた太刀です。横綱の太刀は、横綱誕生とともに、当代最高峰の刀匠によって、新たに鍛刀されるとのこと。知りませんでした。白鵬が初打ちに臨む写真も展示されていました。土俵入りの際に、太刀持ちが持っているのは、”拵(こしらえ)”と呼ばれる外側だけであり、刀身は横綱本人が保管しているものだそうです。

力士が生業として成立するのは江戸期からと言われます。定期的な興業も打たれ、また大名が力士を召し抱え、藩の威信を示すこともありました。お抱え力士は、武士と同じ扱いをされ、実力のある力士は帯刀も許されます。勧進相撲が定着した1789年、相撲宗家の吉田司家は、人気力士に綱をつけ土俵入りさせることを思いつきます。最初に横綱免許を与えられたの二代目谷風、小野川の両力士です。1791年、将軍上覧相撲において、両横綱は、露払い、太刀持ちを従え、土俵入りを披露しました。今に続く横綱土俵入りの始まりです。なお、相撲協会の公式記録としては、谷風・小野川の前に、明石、綾川、丸山という3人の横綱がいますが、記録が曖昧であり、明石、綾川に至っては、実在すら疑問視されています。

その後、40年近く横綱は生まれていませんでしたが、1823年、司家を名乗っていた五条家が、横綱免許を柏戸・玉垣に与えます。面目を潰された吉田司家は、宗家としての地位を守るために奔走し、1828年、現在に続く横綱制度を誕生させます。新制度第1号の横綱には阿武松が選ばれています。なお、柏戸・玉垣は、今も正式な横綱としては認定されていません。この空白期間中に、史上最強と言われる信州出身の大関・雷電為右衛門が活躍しています。身長197cm、体重169kg、当時としては異例の大男です。年2場所制だった江戸本場所における生涯成績は254勝10敗。いまだ勝率としては歴代最高であり、まさに無敵の強さでした。にも関わらず、横綱免許は与えられていません。その理由には諸説あります。

強すぎたからという説、あるいは強すぎることを自覚しており、辞退したという説などは人気があります。実際、強すぎたので、張り手を禁じられてもいたようです。また、まことしやかに言われるのが、雷電を召し抱える松江藩の松平家と、吉田司家が仕える熊本藩の細川家の不仲説です。いずれにしても、問題だと思うのは、どの説も、天下無双の雷電が、なぜ力士の最高ランクに格付けられていないのか、という疑問から出発している点です。当時の最高ランクは、あくまでも大関であり、雷電も大関に格付けられています。谷風・小野川の横綱、あるいは横綱土俵入りは、いわば興業上の演出だったと言ってもいいのでしょう。従って、雷電が横綱でなかった理由は、横綱制度が無かったから、ということになります。

もし、1828年の制度化以降に雷電が活躍していれば、間違いなく横綱だったはずです。残念ながら、雷電が引退したのは1811年でした。当時44歳、とうに盛りを過ぎていたようです。ちなみに、雷電の太刀と脇差も残されています。太刀の銘は”武蔵太郎安国”、脇差は”三品難波介直格”と銘されています。いずれも江戸中期の名工だそうです。太刀の銘も、雷電為右衛門の偉大さを伝えているように思います。なお、雷電以降、信州出身の三役以上力士は1人しか出ていませんでした。ただ、ここへ来て、御嶽海が活躍し、大関に昇進しました。信州出身の大関は、実に230年ぶりという快挙です。国技館では、毎場所、御嶽海を応援するタオルが多く見られます。信州の人たちの興奮が伝わります。御嶽海の太刀が鍛刀される日を期待したいものです。(写真出典:sankei.com)

2022年5月22日日曜日

M777

ウクライナ東部ルハンシクで、ドネツ川を渡ろうとしたロシア機甲部隊を、ウクライナ軍が壊滅させた、というニュースが流れました。2022年5月12日、ウクライナ軍が公開した映像には、多くの破壊されたロシア軍戦車が映っていました。その数、70台以上とのこと。その攻撃には、アメリカから供与されたM777榴弾砲が使われた模様、とニュースは伝えています。アメリカが最新鋭の榴弾砲150門を供与するというニュースは、少し前から流れており、ウクライナ兵が訓練中とも言われていました。M777の投入で、戦況は大きく変わる可能性があるとも報じられていました。それが、これほど鮮やかな戦果を挙げるとは思いませんでした。

牽引式のM777榴弾砲は、1990年代に、英国で開発が始まり、米国の協力も得て、2005年に完成し、米軍に採用されています。ごくありふれた射程や発射速度ながら、チタン合金を多用するなどの軽量化が図られ、軍用トラックやヘリコプターで、速やかに移動させ、速やかに展開・撤収ができると言います。ロシア軍によって、鉄路や幹線道路が破壊されたウクライナでは、極めて有効な武器と言われます。さらに軍事衛星やドローンとリンクしたデジタル型照準システムを持ち、GPSを内蔵するエクスカリバー誘導弾を装填すれば、95%が目標の5m以内に着弾するという優れものです。一方、ミサイルの時代にあって、今どき榴弾砲なのか、という疑問も浮かびます。

実は、コストの問題が大きいのではないか、と思います。M777は1門4億円程度、エクスカリバー弾は1発1,000万円と言われます。確かに高価ではありますが、ミサイルは、どんな原始的なものでも1基5,000万円は下りません。ロケットエンジンを搭載し、高価な誘導装置を持つわけですから、当然なのでしょう。毎年8月、自衛隊の東富士演習場で、富士総合火力演習が行われます。一度、見せていただいたことがあります。私が見たのは、本番前日に行われる予行演習でしたが、実に迫力のあるものであり、圧倒されました。使われれる弾薬のコストは、予行演習でも3億円、本番では5億円。そのコストのうち大きな部分を、わずか数発のミサイルが占めていると聞きました。

戦争は、多くの人命と人生を奪いますが、同時に、実にお金のかかるものでもあります。石油や天然ガスの輸出で外貨を得ていますが、その経済規模は韓国と同程度というロシアにとって、戦争は大きな出費であることは間違いありません。また、軍事大国とは言え、ミサイルの備蓄には限界があり、巡航ミサイルに関しては、既に不足気味という観測もあります。さらに、英国防省によれば、ロシア軍は、すでに侵攻軍の1/3を失ったともされます。M777とエクスカリバーの投入は、戦況の変化のみならず、プーチンに大きな判断を迫る可能性があります。ただ、ロシア軍の単純な撤退は考えにくく、動員令を発動する、あるいは戦術核の使用といったエスカレートのリスクも視野に入れておくべきと考えます。

ウクライナ侵攻に関わる今後の現実的な選択肢としては、戦況が変わった段階で、第三国の仲介による停戦交渉ということになると思います。仲介国は、相応の外交力を有している必要があります。また、NATO加盟国は、第三国にはなれません。とすれば、中国ということになります。ただ、ロシアとの関係からして、中国を第三国と認められるかどうかは微妙です。通常であれば、国連事務総長も考えられますが、今回、国連は破綻しているとしか言いようがありません。どうも、適当な仲介者も見当たらないように思います。とすれば、一時的な停戦はあるにしても、戦いは長期化すると考えるのが妥当かもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年5月21日土曜日

スモーク・サーモン

玉村豊男のロング・セラー「料理の四面体」(1980)は、楽しく、かつ目からウロコといった本でした。料理の四面体とは、火を頂点に、水、空気、油が稜線となり、底辺にナマモノがくるという構成です。そのどこかに一点を置けば、それが一つの料理になる、つまり、火と三要素の距離感が、料理のヴァリエーションを生んでいるというわけです。例えば、火と水の組み合わせという場合、水が少なければ蒸し焼き、やや多いければ蒸し煮、さらに多ければ煮物になります。なるほど、と言わざるを得ません。ただ、料理の世界の広がりからすれば、やや強引な整理のようにも思います。例えば、微生物を使う”発酵”は、人間が発見した偉大な調理法の一つだと思いますが、言及がありません。

いずれにしても、火を頂点においた整理は、文化人類学的にも納得性が高いように思います。人間が最初に発見した料理は、間違いなく”焼く”だったはずです。山火事の後などに、焼けた動植物を食べて、焼くことを発見したのでしょう。火を使うという技術を獲得したのは、その後なのではないか、とも思います。私たちが、たき火やその匂いに郷愁を感じるのは、暖を取る、食事を摂る、動物から身を守る、といった安全に直結する古い記憶ゆえではないかとも思います。料理の四面体風に言えば、火から遠く、より多くの空気を介在させた料理が燻製ということになります。私たちが、燻製に魅了されるのも、DNAに刻まれた太古の記憶ゆえかも知れません。

スモークされた食品と言えば、ベーコン、ソーセージ、スモーク・サーモン、スモーク・チーズあたりが定番で、最近は、ホタテ、サバ、スモークした醤油等も見かけます。秋田伝統のいぶりがっこもあります。ただ、意外と商品の種類は広がっていないとも言えます。自分で簡単にスモークできる機器も一般的になりました。さらに言えば、業務用が中心ですが、スモーク液も売っています。過日、英国の”アップルウッド・スモーク・チェダー”というチーズを食べる機会がありました。とても美味しくて、やはりチーズがいいと美味しいということなのでしょう。ただ、聞けば、ほとんどのスモーク・チーズは、スモーク液を通しただけのものが多いとのこと。アップルウッドは、本当にスモークしているので美味しいのだそうです。

スモークした貯蔵肉も大好きなのですが、スモーク・サーモンにも目がありません。イングリッシュ・マフィンにクリーム・チーズを塗り、スライス・オニオン、ディル、そのうえにスモーク・サーモンをのせ、レモンを搾れば、絶品の朝食になります。NYのユダヤ人の定番”ロックス”のベースをベーグルからマフィンに代えた代物です。残念ながら、日本ではNYと同じようなベーグルは手に入りません。日本人向けにしたということなのかも知れませんが、日本のベーグルは、軽くてフカフカです。やはりベーグルは、不細工なほどドッチリ重くあってほしいと思います。ベーグルは、バター、卵、ミルク等を使わず、小麦粉だけを捏ねて発酵させ、茹でてから焼きます。スモーク・サーモンとの相性が抜群なのは、こうして焼いた田舎くさいベーグルです。

日本のスモーク・サーモンの草分けは、王子サーモンとされます。1961年、王子製紙の役員が、ロンドンでスモーク・サーモンに出会います。感動した二人は、帰国後、早速、スモーク・サーモン造りに挑戦します。鮭は、苫小牧沖でとれる”時知らず”が適していることを発見しますが、スモークするためのチップ探しに相当苦しんだようです。ところが、意外なところから救世主が現われます。ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝です。ウイスキーの樽に使う木材が最適であることを教えてくれました。完成した王子サーモンは、1966年、天皇陛下に献上され、美味しいとのお言葉を頂戴し、翌67年から生産が開始されています。今でも、王子サーモンは、日本のベストであり続けています。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年5月20日金曜日

「アウトポスト」

監督: ロッド・ルーリー    2020年アメリカ

☆☆☆+

アメリカ史上最長の戦争となったアフガン侵攻ですが、その最も激しい戦闘の一つとされるカムデーシュの戦いを描いた映画です。キーティング戦闘前哨基地(Combat Outpost)は、2006年、アガニスタン東部の最も戦闘の激しい地域に設置されます。四方を高い山に囲まれた谷底の基地は、あってはならない最悪の立地でした。ただ、急峻な山々が連なるヒンドゥークシュ山脈では、他に選択肢がなかったと言います。基地に配属されていたのは53名の将兵でした。日に1~2度、集中砲火を浴びるものの、基地は維持されていました。ところが、2009年10月、基地は、300名以上と言われるタリバン兵に包囲され、総攻撃を受けます。立地の悪さに加え大きな兵力格差は、致命的でした。さらに、基地が遠方に孤立し、かつ天候も悪かったことから、空からの支援もすぐには期待できませんでした。

早朝に開始されたタリバンの攻撃は、RPGと迫撃砲によって、それまで有効に既知を守ってきた米軍の迫撃砲を無力化します。数に勝るタリバンは、戦闘開始1時間で、基地内に侵入し、建屋に火をかけていきます。米兵は、どんどん追い込められていきます。実は、その時、米軍は司令官不在の状態であり、副官である中尉とクリントン・ロメシャ軍曹が指揮を執らざるを得ませんでした。軍曹は、命を省みず、基地内を動き、仲間を助けていきます。そして、ボランティアを募った軍曹は、一か八かのメイン・ゲート奪還に動き、成功します。折しも、攻撃ヘリコプター、A-10対地攻撃機、B-1爆撃機等によるエアー・ストライクが間に合い、形勢は逆転します。結果、米軍53名中、8名戦死、27名負傷。タリバンは、150名以上が戦死したと言われます。壮絶を極めた戦闘だったわけです。

ジェイク・タッパーの原作は、徹底的なヒアリングと綿密な調査によるものであり、映画も、原作に忠実に、かつ実際にキーティング基地で戦った兵士たちのアドヴァイスのもとに制作されています。一名の兵士は、本人によって演じられてもいます。ロッド・ルーリー監督のリアルで緊張感のある映像は、兵士たちによって、戦場の現実を伝えていると高く評価されたようです。ルーリー監督は、ウェスト・ポイント陸軍士官学校卒業という極めて珍しい経歴の持主であり、それゆえ監督を任されたのでしょう。ロメシャ軍曹役には、スコット・イーストウッドが起用されています。親の七光りを避けるために、別名でキャリアをスタートさせたクリント・イーストウッドの息子です。実際のロメシャ軍曹は、口数少なく責任感の強い男であり、スコット・イーストウッドは、当人を思わせる良い味を出しています。なお、Netflixのドキュメンタリー「名誉勲章」で、実際のロメシャ軍曹を知ることができます。

2001年9月11日、同時多発テロが発生すると、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、その首謀者とされたオサマ・ビン・ラディンの身柄引き渡しをタリバン政権に要求します。タリバン政権が拒否したため、アメリカは、タリバンに抵抗していた北部同盟と手を組み、アフガンに侵攻します。11月にはカブールを制圧し、タリバン政権は瓦解します。とは言え、各地でタリバンはゲリラ戦を展開します。10年に及ぶアフガン侵攻に失敗したソヴィエトの轍は踏むまいと、アメリカは、軍事攻略と同時に、地域復興チームを全土に展開し、地域開発によって住民の協力を得ようとします。しかし、ほぼ何の効果もあげることはできませんでした。数千年に渡り部族が割拠する山岳国アフガンは、他国が介入してはいけない場所なのです。

兵士の士気が最も高い戦争は、家族と故国を守る戦いだとされます。ヴェトナム戦争では、アメリカ兵たちが戦う意味を失っていました。中東での戦争では、テロから家族と国を守る、あるいは自由を守る戦いと謳われていました。しかし、兵士たちの口からは「仲間のために戦う」という言葉が多く聞かれます。カムデーシュの戦いでも同じです。それは敵弾飛び交う戦場にあっては、いつの世も変わらぬ兵士の思いだと思います。しかし、仲間の命が失われた時、何のための死だったのかという問いが浮かぶはずです。それに対する答え無くして、兵士の士気はもたないように思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年5月19日木曜日

パルマ

3年前、家族でバルセロナへ旅行した際、久しぶりにフラメンコの舞台を観ました。カタルーニャは、フラメンコの本場というわけではありませんが、国際的な観光都市でもあるバルセロナには”スペイン的なもの”が揃っています。小さなライブ・ハウスでの公演でしたが、ステージが近いこともあり、その迫力に圧倒されました。ギターは、地元で名の知れた人だったようです。歌と踊りは、ロマの血を感じさせる顔立ちの小柄な中年女性でした。私は、熱心なフラメンコ・ファンというわけではありませんが、たまには観たり、聴きたくなります。ウォークマンには、ギタリストのパコ・デ・ルシアと歌手のカマロン・デ・ラ・イスラという伝説のコンビのCDを収録しています。

フラメンコの魅力は、その情熱的な歌と踊りということになります。音楽は、超絶テクニックのギター、絞り出すような声が、激しく感情を吐き出します。もう一つ、フラメンコには欠かせない”楽器”があります。パルマと呼ばれる手拍子です。喉と手のひらは、人間にとって最も古い楽器であり、ごく気軽に演奏できる楽器でもあります。従って、手拍子は世界中に存在します。とは言え、民謡の単純な手拍子しか知らない民族からすれば、フラメンコ・パルマは、もはや神の領域としか思えません。その複雑に刻まれるリズムは、とても真似できるとは思えません。もちろん採譜され、その構造も明らかなので、習得することは可能です。ただ、それは理論ではなく、感性が打ち出すリズムであり、極めることは非常に難しいと思います。

フラメンコの根底には、コンパスと呼ばれる独特なリズム・パターンがあります。リズム・セクションのいないフラメンコでは、このコンパスが、カンタオール(歌い手)、ギタリスタ、バイラオール(踊り手)で共有されていなければ、フラメンコは成立しません。例えば3拍子の曲では、6拍、あるいは12拍で一つのコンパス、4拍子の曲では、4拍や8拍で1コンパスが構成されます。そこにアクセント(強弱)、コントラ・ティエンポと呼ばれる裏打ちが加わり、さらにリブレというコンパスが変わっていくパターン、あるいはポリリズム的に複数パターンのリズムが同時進行するものがあります。また、パルマにはセコとソルダというパルマの音の高さによる打ち分けがあり、サパティアードという踵打ちもあります。もう一つ言えば、絶妙のタイミングで繰り出されるハレオ(掛け声)もリズム感なくして成立しません。

フラメンコの起源については、後付けも含めて諸説ありますが、概ね、18世紀頃、アンダルシア西部のヒターノ、つまりロマ族の間で起こったと言われます。土地柄、イスラム文化の影響もあるとされています。初めは、カンテ(歌)、パルマ、そしてハレオだけだったようですが、19世紀後半になると、そこにバイレ(踊り)とトケ(ギター演奏)が加わり、現在の形になったようです。その情熱的な音楽の背景には、流浪の民ロマの悲惨な歴史があり、カンテは、ロマの悲痛な叫びそのものなのでしょう。ロマは、11世紀頃に、インドのラジャスターンを旅立ち、15世紀頃には東欧に達したとされます。ドイツ語系ではツィゴイネル、フランスではボヘミアン、英語ではジプシーと呼ばれます。ジプシーの語源はエジプシャンであり、15世紀頃、自らを低地エジプト出身と語っていたからとされます。

フラメンコのスターたちは、おおむねヒターノの血をひく人たちだと言われます。また、最近は別として、楽譜を読めない人が多かったようです。まさに民族の血から湧き出る音楽だったわけです。ロマの人たちは、芸能に秀でた人が多いと言われます。音楽はもとより、芸能全般で活躍していますが、最も有名なのは、やはりチャーリー・チャップリンということになります。ロンドンの貧しい芸人の父母のもとに生まれ、幼少期は救貧院と路上での生活を送ったとされます。チャップリンの初舞台は、5歳の時と言われます。唄を歌ったチャップリンは大喝采を浴びたそうです。やはり血なのでしょうか。(写真出典:superprof.es)

2022年5月18日水曜日

クラクション

Varanasi
随分と前のことですが、山口県の萩へ行った時のことです。同行していた人が、突然「この町、音が無い」と言うのです。皆で、耳を澄ましてみましたが、確かにほぼ無音でした。街には音があふれているのもです。車、電車の音が最も大きく、他に、人の話し声、ハイヒールの音、工事現場の騒音、各種アナウンス、店外に漏れ出た音楽、信号等の警告音等々です。街の音は、騒音として、都市生活者にストレスを与えている面があります。ゆえに、私たちは、野山の鳥や虫の鳴き声、あるいは風が木々を渡る音に癒しを感じるのでしょう。一方、耳に馴染んだ音は、安心感を与える面もあります。生活音があった方が、仕事や勉強に集中できるという人もいます。街の環境音CD等は、それなりにニーズがあります。

いずれにしても、無音という状態は、なかなか経験することが無く、違和感だけではなく、不安を覚えることもあるのでしょう。萩の町が、無音を目指しているとは思いません。車や人の通りが少なく、あるいは城下町らしく車の通る道が限られていたり、各種アナウンスも制約されていることから、結果、無音に近い状態が生まれやすいのでしょう。街には、その街の持つ匂いというものがあります。例えば、NYのすえた匂い、台北の五香粉の匂い、ホノルルのフレーバー・コーヒーの匂い、あるいはかつてのマドリードのドゥカードスというタバコの匂い等を記憶しています。ただ、近代都市の生活音には、さほど大きな違いはないように思います。ただ、日本と海外の街の音を比べると、一つ大きな違いがあります。車のクラクションです。

外国人は、日本のクラクション音の少なさに驚くようです。日本では、道路交通法上、クラクションは警告音とされ、危険回避以外の目的での使用は禁じられています。警告音と定義すれば、警告としての有効性を確保するために、他の目的での使用を禁じることは理解できます。日本におけるクラクション使用の少なさは、民度の高さとも言われますが、法で禁じられていることが最大の要因だと思います。海外の法規がどうなっているのかはよく知りませんが、恐らくクラクションに関する記載がないか、あったとしても努力義務程度の扱いなのでしょう。海外でのクラクションは、ドライバーの意思表示のための装置のように思えます。クラクションの代わりにスピーカーを付ければ、街は怒号であふれ、騒音はすざまじいものになることでしょう。

アジアの国々では、車はもとより、バイクのクラクションが加わることで、騒音レベルは格段に上がります。アジア的騒々しさの頂点に立つ街は、インドのワーラーナシー(ベナレス)だと思います。ガンジス川に面したガートと呼ばれる階段状の沐浴場では、毎日、日没後にプージャーという礼拝の儀式が行われます。信じがたいほど多くのヒンドゥー教徒が押し寄せ、そこに観光客も加わります。三々五々に礼拝するのではなく、僧侶たちによる儀式なので、開始時間めがけて、街中から人が集まります。日本なら車もバイクも乗り入れ禁止にするところだと思いますが、ワーラーナシーでは、路上生活者や牛が多い道に、ありとあらゆる乗り物が殺到し、身動きがとれない状態になります。そして、全員がクラクションを鳴らし続けるわけです。そのうえ、大音量で流される僧侶の祈りや儀式の音楽が加わり、街はカオスの極致に至ります。

ワーラーナシーは別格としても、アジア各地の夕暮れ時には、アジア的雑踏が生まれ、クラクションの洪水が起きます。日本の夕暮れは、いわゆる帰宅ラッシュということになります。東南アジアでは、自宅で食事する習慣がないところも多く、家族総出で、夕食を食べに行くためのラッシュが発生するわけです。NYのクイーンズにあるフラッシングは、いまやチャイナ・タウンになっているようですが、かつてはオール・アジア的な街でした。夕暮れ時には、アジア的雑踏が発生し、クラクションが騒がしく鳴る街でした。国を離れても、習慣は変わらないものなんだと感心したものです。(写真出典:newsclick.in)

2022年5月17日火曜日

法華一揆

日像上人
1932年に発生した五・一五事件は、政党政治に終わりを告げ、軍国主義が始まる契機となりました。海軍青年将校が起こしたテロ事件ですが、その背後には、国粋主義者の大川周明と井上日召がいました。井上日召は、日蓮宗の僧侶ですが、一人一殺主義で知られる血盟団を組織し、1932年2月には前蔵相の井上準之助、3月には三井の総帥だった団琢磨を殺害しています。血盟団のテロが、五・一五事件の引き金となりました。日蓮宗は、しばしば政治に関与していく傾向を持ちます。同時に、日蓮宗は、政治的に利用される傾向もあるように思います。末法の時代にあって、国と国民を救済できる唯一無二の存在が法華経であるとする日蓮宗は、他宗派や国家体制を激しく批判するという一面があるからです。一神教の原理主義者に近いようにも思えます。

比叡山延暦寺の迫害を受けた浄土真宗の蓮如は、越前に吉崎御坊を開き、多くの信者を集めます。その後、勢力を拡大した一向宗(浄土真宗)の信者は、一向一揆によって、加賀国を自治国家として百年治めました。同じ頃、日蓮宗も、約5年間に渡り、京都を支配しています。法華一揆と呼ばれます。一向一揆、あるいは本願寺は、戦乱の世にあって、大名以上の勢力を持ち、その影響力の大きさは歴史に名を留めています。それに比べ、5年間とは言え、都を自治運営した法華一揆は、さほど知られていません。その大きな理由は、期間の短さではないように思います。法華一揆は、日蓮宗徒が、その教義に基づき、権力と戦い、京都の自治権を奪取したということではありません。京に迫る一向一揆を防ぐために、室町幕府の実権を握っていた細川晴元によって利用されたという側面が大きく、歴史上の扱いも小さくなっているのではないでしょうか。

京都に日蓮宗を布教したのは日蓮の弟子である日像です。下総国で生まれた日像は、日蓮の弟子であった兄日朗に師事し、後に身延山で日蓮の弟子となります。日蓮入滅後、その遺志を継いで、京都布教を決意します。日蓮の足跡をたどって、佐渡、北陸と布教を続け、1294年、京都に入り、布教活動を開始します。日蓮宗の排他的な性格からして、他宗派による激しい弾圧を受けます。佐渡配流、紀伊流罪、洛内追放と3度に渡る迫害にも負けず、1321年には、後醍醐天皇の許しを得て、布教の拠点としての妙顕寺を創建しています。いわば東国の新興宗教に過ぎなかった日蓮宗が、朝廷、のちには幕府の公認を得ることになったわけです。以降、日蓮宗は、町衆を中心に信仰を集め、16世紀には、洛中法華21ヶ寺と呼ばれる由緒寺院を構えるまでになります。

当時の京都は、”題目の巷”とも呼ばれたようです。題目とは、日蓮宗の”南無妙法蓮華経”を指します。とは言え、延暦寺等からの迫害は続き、日蓮宗徒は武装することになります。同じ頃、細川高国を破り幕府の実権を握った細川晴元は、臣下であった三好元長と争います。晴元勢は、本願寺に頼み込んで一向一揆を起こさせ、三好元長を討ち取ります。ところが一向一揆の勢いは止まらず、京を窺うまでになります。晴元は、1532年、京の法華宗(日蓮宗)をそそのかし、日蓮宗が邪教と批判する一向宗の山科本願寺を焼き討ちさせます。今度は、法華宗の勢いが止まらず、京の町を支配するに至ります。1536年、増長する法華宗は比叡山に宗教問答をけしかけます。上総国茂原の法華宗信徒に比叡山の僧が論破され、面目を失った比叡山は、近江の六角定頼の助けを得て、洛中法華21ヶ寺を焼き討ちします。その際、京都の大部分が焼失し、その規模は応仁の乱を上回ったと言います。これが天文法華の乱です。

法難という言葉は、一般的には仏教に対する迫害や弾圧を指します。よらず新しい宗教は、時の権力や権力と結びついた旧宗教から攻撃されます。三大一神教の預言者たちも、皆、厳しい迫害を受けています。日蓮も同様です。その排他性ゆえに攻撃されることの多かった日蓮の四大法難は有名です。日蓮宗では、教義の正当性、帰依が生み出す力の証明、あるいは宗徒の団結等の象徴として、特に法難を重視する傾向があります。宗教は、迫害によって力を増していくという傾向があります。洛中法華21ヶ寺焼討は、日蓮宗にとっての法難の一つなのでしょうが、日蓮四大法難とは、随分、趣きが異なるように思います。(写真出典:kosaiji.org)

2022年5月16日月曜日

いらっしゃいませ

井上ひさし「国語元年」
フランスで、商店のドアを開けると、ボンジュールと声をかけられます。こちらも、ボンジュールと返します。イタリアならボンジョルノ、ヴェトナムならシンチャオ、いずれにしても、「こんにちは」という意味の言葉をかけられ、こちらも同じ言葉を返します。それが日本では、「いらっしゃいませ」という独特な言葉をかけられます。”ようこそおいで下さいました”という感謝の意味で使われているのでしょう。ただ、文法的には、どう考えても”おいで下さい”という意味にしかとれません。既に店に入っているにもかかわらず、”来てください”と言われるわけです。こちらは、まさか”行きますよ”とは応えません。返す適当な言葉はないように思います。結果、”こんにちは”、ないしは意味不明の”どうも”で返すことになります。

 「いらっしゃいませ」の起源は、宿場町の宿、あるいはお祭りの見世物小屋などで、呼び込みのために使われた言葉だと言われます。呼び込みの言葉なら、理解できます。”寄りなさい”という命令、あるいは要請する言葉の丁寧な言い方です。それが定着し、現在の意味になったと言うのですが、いつ、どこで、なぜ、未来形の要請する言葉が、過去形の感謝の言葉に変わったのか、まったく理解できません。類似した表現として、”ようこそお出でくださいまして、誠にありがとうございます”という言い回しが浮かびます。これは、感謝の言葉として理解できます。何の根拠もありませんが、明治期あたりから”いらっしゃませ”という妙な言葉が広まったのではないかと想像します。

「こんにちは」が定着したのが明治期と言われます。江戸期までは、”今日は、ご機嫌いかが?”とか”今日は、日よりも良くなによりです”などと使われていたようです。それが明治期になると省略形に変わり、教科書を通じて一般化されます。日本語の歴史のなかで、明治は極めて大きな転換点となっています。国語の統一、つまり標準語の制定が行われたわけです。朝廷や幕府といったごく限られた場所は別として、300の藩に分割され、移動にも一定の制限があった日本では、標準語のニーズはありませんでした。薩長政権が樹立されると、政府内ですら、お国言葉が飛び交い、意思疎通に支障をきたします。最も危機感を募らせたのは軍隊だったと言います。

この問題に、最初に声をあげたのが森有礼だったとされます。留学帰りだった森有礼は、日本語を捨て、英語を国語とすることを主張したと言われます。さすがに、それは実現しなかったわけですが、合理的な選択肢ではあったのでしょう。後に文部大臣となった森有礼は、伊勢神宮で不敬なふるまいがあったとされ、凶刃に倒れています。その後、上田万年等の国語学者が、国語の統一、言文一致、つまり標準語の制定に努力することになります。標準語のモデルとされた言葉は、東京の山の手言葉であり、その大本は江戸城における公用語だったようです。つまり、日本の標準語は、武士の言葉、男性の言葉、そして創られた言葉だったわけです。標準語は、教科書、小学唱歌などを通じて広まっていきます。

井上ひさしの戯曲「国語元年」は、全国統一話し言葉の作成を命じられた官吏が、様々なお国言葉が飛び交う家庭のなかで、四苦八苦するという話です。標準語の設定に際して、実際にあったであろう様々な議論が、次々と面白おかしく展開されます。正しい発音だけでもダメ、語彙の統一も困難、西洋の文法の移入も無理があり、最終的には東京の山の手言葉を標準に、唱歌を通じて普及を図ろうといった流れでした。後には、ラジオ、テレビが標準語の普及に大きな役割を果たすことになりますが、明治期には、唱歌による普及が唯一の手段だったのでしょう。ちなみに、少し調べてみたのですが、「いらっしゃいませ」成立の謎は、解明できませんでした。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年5月15日日曜日

出現

「出現」
芸術の都パリには多くの美術館があります。ただ、多くの人はルーブル、オルセー、ポンピドゥー・センターで満腹となり、他の美術館までは足が延びません。ルーブルだけでも、まともに見るなら数日を要するわけで、パリは何度も行くべき街ということになります。地下鉄のピガール駅を降りて、ラ・ロシュフーコー街の坂道を登ると、象徴主義を代表するギュスターブ・モローの美術館があります。1903年、モローの遺言に基づき、住宅兼アトリエを美術館としてオープンしています。世界初の個人美術館でもあります。内部は、モダンに改装するのではなく、当時のまま残されています。晩年、ここに引きこもって幻想的な作品を描き続けたギュスターブ・モローの世界を体感することができます。そういう意味では、もはや美術館以上の存在だとも思います。

1826年、パリに生まれたギュスターブ・モローは、エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)に学び、テオドール・シャセリオーに師事しています。シャセリオーは、新古典派にロマン派の要素を入れたとされます。モローの新古典派から象徴主義へという展開は、シャセリオーの影響もあるのでしょう。当時は、神話や歴史を描く新古典派が、アカデミーとして画壇を支配し、サロン入選が画家への道とされていた時代です。それに反旗を翻したのが自然や日常を描く印象派の画家たちでした。権威主義に陥った新古典派は、内外から揺さぶられていたとも言えるのでしょう。また、1892年に、エコール・デ・ボザールの教授となったモローが、学生であったアンリ・マティスとジョルジュ・ルオーを庇護したことはよく知られています。後にフォビズムを築く二人は、モローの死後、学校から放逐されています。

19世紀後半に起こった象徴主義を一言で定義することは難しいものがあります。内面的なものに形を与えると言っても、すべてをカバーすることはできず、むしろ”自然主義への反発から生まれた”と言った方がわかりやすいかも知れません。産業と科学の時代への人文的反発という面があります。象徴主義は、フランス文学から始まります。ボードレール、マラルメ、そしてポール・ヴェルレーヌ、あるいはユイスマンスへと続きます。象徴主義は、他の分野へも波及し、音楽では、ワーグナー、ドビッシー、サティ等が良く知られています。絵画では、英国のラファエル前派、後のビアズリーもいますが、やはり代表格としては、ギュスターブ・モローということになります。象徴主義は、表現者によって、ロマン主義的、耽美的、宗教的、エキゾチシズム、悪魔崇拝など、実に多彩な傾向を包含しています。

モローの代表作の一つとされるのが「オイディプスとスフィンクス」(1864)です。大いに物議を醸したようですが、既に後の象徴主義的作品群につながる傾向が現われていると思います。象徴主義の代表としてのモローの名を決定的にしたのが「サロメ」シリーズであり、特に「出現」は絵画史に残る傑作だと思います。欧州における”ファム・ファタール(運命の女、魔性の女)”のイメージを決定づけた作品とも言われます。様式美、装飾性、エキゾチシズム、耽美性など、モロー独自の幻想的世界が集約されています。欧州文化は、その本質的において、ロマンティシズムやデカダンスを内包していると思います。「出現」は欧州文化がたどり着いた究極の姿の一つとも考えられます。「出現」は、その後の象徴主義、世紀末芸術に大きな影響を与えたとされます。また、アンドレ・ブルトンは、モローをシュールレアリスムの先駆者とまで言っています。

ギュスターブ・モローには、永年連れ添ったパートナーがいました。モデルのアレクサンドリン・ドゥリューです。1890年、彼女が亡くなると、モローは塞ぎ込み、作品は、一層メランコリックなものになったとされます。ドゥリューの写真やモローが書いたスケッチが残されています。サロメはじめ、モローが描く女性のモデルがドゥリューであったことが良く分かります。特に、ドゥリューの眼差しは特徴的であり、印象深いものがあります。目の前の現実ではなく、どこか遠くの世界を見ているような目に、モローは強く惹かれたのではないかと思えます。モローにとって、アレクサンドリン・ドゥリューは単なるモデルではなく、ミューズそのものであり、ファム・ファタールだったのでしょう。(写真出典:musey.net)

2022年5月14日土曜日

梁盤秘抄#25 Ebo Taylor

アルバム名:Ebo Taylor(1977)                                                                        アーティスト: Ebo Taylor

ガーナのイメージを聞けば、多くの人がチョコレートと答えると思われます。ロッテの定番商品”ガーナ・ミルク・チョコレート”からの連想です。ガーナ・ミルク・チョコレートは、1964年に発売されています。それまでの日本のチョコレートと言えば、軽めのテイストのアメリカ風が主流でした。ガーナ・ミルクは、欧州風、特にまろやかでコクのあるスイス風を目指した初の商品だったようです。発売以来60年近く、ガーナ・ミルクは、ベストセラーの地位を保ってきました。ネーミングは”スイス・チョコ”でも良かったはずですが、あえてカカオ豆の生産量ナンバー・ワンだったガーナを使い、パッケージにもカカオ豆を描き、チョコレート本来の美味しさを追求する姿勢を打ち出したのでしょう。

カカオは、ガーナ原産でもなく、ガーナに自生していたわけでもありません。1876年、赤道ギニア領ビオコ島に鍛冶屋として出稼ぎに行っていたテテ・クワシが、帰国に際して持ち帰った種から、ガーナのカカオ栽培が急拡大しました。その背景には、栽培に適した気候と換金性の高さがありました。ガーナ発祥と言われる音楽”ハイライフ”も似たような成立経緯があります。その原型とされるパーム・ワイン・ミュージックは、リベリアの港町の安酒場で、中南米から帰国した元奴隷たちが始めたとされます。そもそも中南米音楽は、土着の音楽、西アフリカの奴隷たちが持ち込んだ音楽、そして欧州の舞曲等がミックスされて誕生しています。パーム・ワイン・ミュージックは、旅をして、少し垢抜けて、帰国した音楽というわけです。

狭義のハイライフは、第二次大戦後、ガーナの上流階級向けに始まったダンス音楽です。ガーナには、既に英国軍のブラスバンドに影響されたビッグバンドの文化があり、ハイライフ誕生につながったようです。ガーナ音楽界をリードしてきたギタリストのエボ・テイラーの音楽も、ハイライフが基本となっています。そこにアフロ・ビートの要素が加わり、独自の音楽が形成されています。エボ・テイラーは、1960年代中期、ロンドンへ留学しています。そこでビートルズやストーンズに触れ、かつナイジェリアのフェラ・クティと知り合います。アメリカのファンクに刺激されたフェラ・クティは、自分たちの音楽の必要性を痛感し、アフロ・ビートを生み出します。その思想が、エボ・テイラーにも引き継がれたわけです。

エボ・テイラーの音楽は、ポリ・リズム、ファンキーなカッティング・ギターの上に、強烈なブラスが鳴り響きます。それは、ガーナ音楽の歴史が詰まっているかのようでもあります。1936年生まれのエボ・テイラーは、永らくガーナのローカル・ミュージシャンに過ぎませんでした。2000年前後に至り、アメリカのヒップホップのアーティストたちが、彼を”発見”します。2008年にはアルバム”Love and Death ”がリースされ、世界はエボ・テイラーを知ることになりました。以降、彼の旧作も次々と”発掘”され、世界に広がっていきました。本作”Ebo Taylor”も、その一作ですが、70年代のアフロ・ビート色の濃い時代のベスト・アルバム的な内容になっています。特に”Heaven”は、いつまでも耳に鳴り響く傑作だと思います。

ガーナは、1957年に独立するまで”英領ゴールド・コースト”と呼ばれ、今も金の産地です。ダイヤモンドも産出します。金、ダイヤモンド、カカオに加え、2010年からは海底油田が稼働し、GDPは順調に伸びているようです。音楽に関して言えば、近年、欧米化が進んでいるようです。一般的に、GDPが上ると、大衆文化の欧米化が進む傾向があります。国際交流が進み、海外の文化が流入すると、人々は、豊かさの象徴である欧米の文化に憧れを持つようになるのでしょう。やむを得ないことではあります。ただ、ナショナリズムなくしてインターナショナリズムなし、という原則が忘れられがちであることは、誠に残念です。高齢ながらエボ・テイラーには、もうひとがんばりしてもらいたいと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年5月13日金曜日

マーシャル・ロー

マルコス新大統領
数年前の東京国際映画祭で、フィリピンのブリランテ・メンドーサ監督の「ローラは密告された」を観ました。マニラのスラムの厳しい現状が、セミ・ドキュメンタリー・タッチで描かれていました。とてつもないパワーにあふれた作品でした。そのパワーの源は、政治に対する怒りだと思います。上映後、パネル・ディスカッションが行われました。印象に残ったのは、若いフィリピン女性の「We never forget the age of martial law !(戒厳令の時代を忘れてはいけない)」という言葉でした。祖国への思いがこみ上げ、涙声で語ったその言葉は、フィリピンの厳しい現状をよく伝えていると思いました。

2022年5月、フィリピンでは大統領選挙が行われ、ドゥテルテ大統領の後任として、フェルディナンド・マルコス(・ジュニア)氏が選出されました。同氏は、戒厳令によって独裁体制をしいたマルコス元大統領の長男です。父親とは、時代も、人格や政治信条も異なるのかも知れませんが、驚きとしか言いようがありません。同氏は、戒厳令時代を知らない若者たちをターゲットに、SNSを多用した選挙戦を徹底し、マルコス時代の明るい面だけを伝え続けたようです。明らかな歴史の修正です。今や、失業に苦しむフィリピンの若者たちは、マルコス時代は夢のような時代だったと誤解しているようです。また、同氏は、一切、公開討論会に参加していません。何を言われるかは明確で、かつ反論もできないことがはっきりしてたからなのでしょう。

信じられないのは、今の時代に、若者たちが、いとも簡単に修正された歴史を受け入れていることです。戒厳令時代を経験した人々が存在し、歴史的事実へのアクセスも容易なはずです。調べればすぐに分かることであり、また事実を伝えようとする動きも多かったはずです。にもかかわらず、マルコス・ジュニアは、大統領に選出されました。彼の陣営は、トランプの選挙戦を研究したのでしょう。SNSを使った巧みな誘導が行われたものと考えます。独裁下で行われたマルコスの悪行の数々は、司法上、裁かれていません。それを盾に取り、事実とは認定されていないと強弁していたようです。そして、勝利の最大の要因は、若者たちが政治と経済の現状に失望し、夢物語を強く欲していたということなのでしょう。ヒトラーはじめ、多くの独裁者が生まれた状況に類似します。独裁者は、大衆が生み出す幻想とも言えます。

マルコスの場合、独裁を生んだのは、米国の反共政策と本人の権力欲でした。48歳で大統領に就任したマルコスは、アジアのケネディと言われるほど、国民の期待を集めます。フィリピンでは、貧富の格差を背景に共産勢力が活動を強めていました。共産化を恐れた米国の支援のもと、マルコスは、経済政策を進め、一方で共産勢力を攻撃し、ヴェトナムにも派兵しています。しかし、急速でいびつな経済成長は格差を拡大し、国内情勢は不安定化します。1972年、マルコスは戒厳令を発して憲法を停止、独裁体制へと入ります。マラカニアン宮殿で、イメルダ夫人と王侯貴族のような生活を送るマルコスのもと、ネポティズムが進み、国民は生活苦にあえぎ、反対派は厳しい弾圧を受けます。しかし、リベラルな政権の誕生を恐れた米国は、これを支援します。1981年、ローマ法王の訪問を機に戒厳令は解除され、不正選挙によって、マルコスは再任されます。

1983年、米国に亡命中だった反マルコス派のベニグノ・アキノが、命の危険を顧みず、フィリピンに戻ります。アキノ氏は、世界中に同時中継されるなか、マニラ国際空港で射殺されます。衝撃的な事件でした。マルコスの関与は明らかにされず、首謀者として逮捕された参謀総長も無罪とされます。当然、国内外からマルコス批判が高まりました。1986年、アキノ氏の未亡人コラソン・アキノが大統領選挙に圧勝します。しかし、マルコスは、立会人による選挙結果を無視して、当選を主張します。国内は騒然となり、海外からの批判も増す中、米国に支援された軍部のクーデターによって、マルコスはついに宮殿を追われます。その際、宮殿に残されたイメルダ夫人の膨大な数の靴が話題となりました。独裁政権が滅ぶと、甘い汁を吸ってきた取り巻きは批判され、利権を奪われます。彼らが、復権を望むのは当然なのでしょう。しかし、民衆は、決して「戒厳令の時代を忘れてはいけない」と思います。(写真出典:nishinippon.co.jp)

2022年5月12日木曜日

美術展の絵葉書

藤田嗣治展グッズ
かつて、美術展のグッズ販売と言えば、カタログ、複製画、そして絵葉書くらいだったと記憶します。近年の主催者は、マーチャンダイズにも力を入れ、実に多様な品々を売っており、人気となっています。また、美術館のギフト・ショップも充実されました。その背景には、美術愛好家の裾野が広がったことがあると思われます。投資としての美術品の取引は急増しているようですが、絵を描く人やコレクターが増えたわけではないと思います。いわば一般教養として、美術にも目を向ける人が増えたということなのでしょう。マスコミがもたらす情報量の多さによるところも多いと思いますが、海外旅行が一般化し、旅先の美術館等で絵画を見る機会が増えたことも影響しているように思えます。

美術展にマーケティングが導入されると、一般愛好家たちが踊らされるケースも増えてきます。例えば、近年の若冲やフェルメールのブームです。もちろん、若冲もフェルメールも素晴らしいのですが、ブームの過熱ぶりには、いささか驚かされます。明らかにマーケティングの成果と言えます。わずか1~2枚で、若冲展、フェルメール展と銘打ち、人を集める商売のやり方は、如何なものかと思います。美術展のビジネス的側面を否定するものではありません。むしろ良い企画やお金のかかる展示が増えることは大歓迎です。さはさりながら、節操のない商売は、愛好家を減らし、美術展そのもの減少につながりかねません。主催者の皆さんには、是非、プライドをもった企画をしていただき、節度あるマーケティングをしていただきたいと思います。

一昨年、コロナ禍で、各国が企業や商店に対する助成金の給付を始めた時、ドイツの芸術家支援策が話題になりました。記者会見で、その趣旨を問われたドイツ政府の大臣が、芸術は私たちの生活に欠かせない存在ですから、と答えていました。そのきっぱりとした言い方に感動しました。文化の奥深さが違うな、とも思いました。日本の文化庁も、芸術全般に関して、各種支援は行っていますが、一定規模以上の美術展にも助成金を出していいのではないかと思います。金を出せば、国は口も出すことになり、それはそれで問題です。ただ、過度な営利性に対する抑止効果も期待できます。その際、できればシニア料金の設定もお願いしたいものです。もちろん、空席を埋めるための映画館のシニア料金とは、同列に議論できないことは分かっていますが。なお、東京都立の美術館だけは、既にシニア料金の設定があります。

また、マーケティング導入にともなって広告にも力が入り、TVも含めたメディア・ミックス戦略が展開されます。多くの人にアピールするわけですが、一方で大混雑を発生させることにもなります。ちなみに、TVの影響力はすごいものがあり、NHKの日曜美術館で扱われると、爆発的に人が押し寄せます。ただ、展覧会の開期前や開期始めに放送されることは少ないように思います。やはり、一定程度、混雑の発生を避けるよう配慮しているのでしょう。メディア戦略やTVの特集等に取り上げられない、小規模な、あるいは地方で開催される良い企画も多くあります。最近は、美術系サイトも充実し、よく紹介されていますが、NHKの”アートシーン”も、丁寧に拾っていると思います。ただ、時間の短いアートシーンですら、紹介されると大混雑を引き起こします。

話は、美術展のグッズ販売に戻りますが、品目が増えても、昔と変わらず売れているのが絵葉書です。皆さん、買った絵葉書をどうされているのか、実に不思議です。葉書として使う人は少ないと思います。インテリアのアクセントとして使う場合が多いのでしょう。ただ、見ていると何枚も購入している人が多く、そこまでの枚数は不要だと思います。まぁ、安価な記念品として購入されているのでしょう。いい商売をしているな、と思います。一方、展覧会のポスターの販売は見かけなくなりました。かつては、美術展に限らず、様々なポスターを、部屋の壁に画鋲で貼っていたものです。そのような光景は見かけなくなったように思います。思えば、結構、貧乏ったらしい光景でもありました。額装されたパネルは別として、世の中が豊かになり、薄れた文化なのかもしれません。(写真出典:curators.jp)

2022年5月11日水曜日

愛の不毛

Monica Vitti
”最も好きな映画監督”という話題は成立します。各個人の判断だからです。ただ、”最も優秀な映画監督”という話題や議論は成立しません。なぜなら、各監督の作風があり、統一された基準もないからです。最も多くの売上や観客動員数、あるいは最も多くの賞を獲得した監督という見方は成立します。ミケランジェロ・アントニオーニ監督は、世界三大映画賞すべてを獲得した二人の監督のうちの一人です。1961年「夜」でベルリンの金熊賞、64年「赤い砂漠」でヴェネツィアの金獅子賞、そして67年には「欲望」でカンヌのパルムドールを獲得しています。ちなみにアカデミー賞では、「欲望」で監督賞、94年には名誉賞を受けています。ミケランジェロ・アントニオーニを”最も優れた映画監督の一人”と言うことはできるのでしょう。

アントニオーニの映画は”映像による文学”だと思います。20世紀文学のテーマは疎外だと言われますが、アントニオーニの映画を見た後は、まさに現代文学を一冊読んだような気分になります。アントニオーニの映画は、孤独や不安をつきつめていく傾向があります。特に、「情事」(1960)、「夜」(1961)、「太陽はひとりぼっち」(1962)は、「愛の不毛三部作」と言われ、アントニオーニの代表作とされます。なお、「太陽はひとりぼっち 」の原題は”L'eclisse(日蝕)”です。邦題は、60年にアラン・ドロンの人気を決定づけた「太陽がいっぱい」の大ヒットにあやかって命名されています。余談ですが、「太陽がいっぱい」の原題は”Plein soleil(完全な太陽)”であり、お天道様は何でもお見通し、といった意味です。

私が初めて見たアントニオーニ作品は「欲望(原題:Blowup)」でした。ロンドンで撮影された英語作品です。見た瞬間に衝撃を受けたわけではありませんが、いつまでも、いつまでも強い印象が残りました。そんな映画は、他にあまりありません。当時、中学生だった私にとっては、娯楽映画以外の映画文法に初めて触れた作品だったと思います。音楽は、ハービー・ハンコックであり、劇中、主人公が迷い込むライブハウスでヤードバーズが演奏していたことでも知られます。当時のヤードバーズは、エリック・クラプトン退団後であり、リード・ギターがジェフ・ベック、サイドにジミー・ページという編成でした。アンプの調子が悪いことにいらだったジェフ・ベックが、アンプとギターを叩き壊すシーンが有名です。実は、これ、アントニオーニの演出でした。

私が最も好きなアントニオーニ作品は「夜」です。最もアントニオーニらしい映画だとも思っています。起承転結といったドラマは一切なく、隙間風の吹く中年夫婦の一日を、淡々と描きます。スケッチの積み重ねが、すれ違う心の動き、現代社会の矛盾、人間の孤独と不安、つまり”愛の不毛”を描き出していきます。夜通し行われる大富豪のパーティ・シーンは、現代社会、もっと言えば人間社会の縮図となっており、デカダンス、矛盾、人間の弱さ、愚かさといった全てが詰まっています。ただし、カメラは、それを責めるのでもなく、蔑むのでもなく、ごく客観的に捉えていきます。表情だけで、映画を成立させることができるジャンヌ・モローとマルチェロ・マスロヤン二の存在感が見事です。また、アントニオーニ映画のミューズとも言えるモニカ・ヴィッティは短めの出演ですが、ある意味、この映画を象徴する存在でした。

モニカ・ヴィッティは派手な顔立ちの人ではありますが、戦前までの美の基準からすれば、美人とは呼べないように思います。居るだけでアンニュイを漂わせる個性的な顔立ちが、現代社会そのものを象徴しているような女優だと思います。マリリン・モンロー、ブリジット・バルドーなども伝統的な美の基準の外にあり、品位ある美しさとは無縁の女優でした。ただ、彼女たちも、モニカ・ヴィッティと同様、現代社会を体現していました。モニカ・ヴィッティが、アントニオーニのミューズであり続けたことはよく理解できます。そして、他の監督作品で成功しなかったことも頷けます。2022年2月、モニカ・ヴィッティは、90歳で亡くなりました。(写真出典:cinesoku.net)

2022年5月10日火曜日

桑名

旧東海道は、一カ所だけ、道が途切れます。宮宿、現在の名古屋市熱田から、桑名宿までの海路”七里の渡し”です。このあたりは、木曽三川と呼ばれる木曽川・長良川・揖斐川はじめ、多くの川の河口部があり、湿地帯が広がっています。陸路を取れば、相当、迂回する必要があります。時間短縮のために、4時間、27kmの海路がメインとなったわけです。もちろん、海が穏やかな日ばかりではありませんので、しばしば事故も発生する難所の一つとされていました。熱田神宮近くの宮宿、そして桑名宿の海岸には、当時を偲ばせる常夜灯などが復元されています。

三重県桑名市は、古くから東西の交通・物流の要所として栄えてきました。室町時代には、いわゆる”十楽の津”として、商人達が支配する自由都市になります。その後、一向一揆の拠点となったために、隣国尾張の織田信長に破壊されます。江戸期になると桑名藩の城下町として、そして東海道の主要宿場町として栄えました。また、濃尾平野・伊勢平野の米の集積地であったことから、江戸末期には、米相場が立ちました。明治以降は、後に国営化された関西鉄道、近鉄の前身伊勢電鉄など鉄路の拠点ともなります。ただ、中京の一大拠点としての名古屋が発展するとともに、桑名は歴史的役割を終えて、名古屋のベッドタウンになっていきます。

名古屋に近い港という利点もあって発展した桑名は、名古屋に近すぎたことで衰退したとも言えそうです。かつて栄えた町だけに、桑名名物は数々あります。ことに桑名鋳物は有名であり、川口と並ぶ鋳物産地とされます。その歴史は、17世紀初頭、鉄砲の鋳造に始まります。梵鐘の生産地として有名ですが、現在は、マンホールやグレーチングに強みを発揮しているようです。また、萬古焼といえば四日市ですが、実はもともとのルーツは桑名にあります。桑名の豪商であった沼波弄山が開いた窯から萬古焼は始まりました。陶器と磁器の中間的性質を持つ萬古は、急須、土鍋で有名です。現在、桑名萬古は、すっかり四日市萬古に取り込まれています。

「その手は桑名の焼き蛤」は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に登場する名文句です。桑名と言えば、この言葉がすぐに出るほど、蛤の名産地として知られています。木曽三川がもたらす栄養で育った桑名の蛤は、肉厚でうまみが濃い絶品です。日本で流通するハマグリの90%が中国産、8%が朝鮮ハマグリ、残りわずか2%が桑名の大和蛤だと言います。桑名で蛤を堪能するなら、七里の渡跡に近い割烹「日の出」につきます。完全予約制のコース料理のみとなります。日の出に行くと、なぜか日本酒を飲み過ぎてしまいます。蛤と日本酒の関係はよく分かりませんが、少なくともその相乗効果は最強クラスです。毎回、経営者姉妹の姉の蛤講釈を聞かされます。もう何度も聞いたからいいよ、という言う人が多いのですが、私は、結構、好きです。

名店「歌行灯」で知られる桑名のうどんも有名です。安永餅も名物ですが、これは焼いたものがベストです。また、柿安の本店も桑名にあります。実は、ホルモンのレベルの高さも有名です。桑名の食文化は、歴史の厚みを感じさせます。日の出の近くには、日本一の山林王として知られた諸戸清六の邸宅「六華苑」があります。現在は、桑名市が管理・公開しています。1913年竣工の和洋折衷建築であり、国の重文・名勝にも指定されています。設計は、鹿鳴館や三菱一号館で有名なジョサイア・コンドルです。三菱お抱えだったコンドルの作品は、東京に集中しており、六華苑は、唯一の例外です。また、ナガシマリゾートも桑名市にあります。6割が名神高速を使って関西から来る客だと聞きます。桑名の地の利の良さを感じさせます。(写真出典:hamaguriittaku.com)

2022年5月9日月曜日

桃紅

篠田桃紅「燦」
昔の話ですが、アメリカの中西部でローカル便の飛行機に乗り、文庫本を読んでいました。すると隣の席のアメリカ人のおばさんが「その本は、タテに読むものなのか?タテに読んだ方が早く読めるのか?」と聞いてきました。縦書き、横書きの読みやすさなど考えたこともなかったので「タテでもヨコでも同じだと思う」と答えました。また、かつてアメリカの田舎で、日本のクレジット・カードを使って買い物し、漢字でサインすると、よく”Wow!"、あるいは”Beautiful”と言われました。漢字は、物珍しかっただけではなく、表意文字自体が不思議な存在であり、私の下手な字でも、現代アートのように見えたのかも知れません。

初台のオペラ・シティ・アートギャラリーで「篠田桃紅展」を見てきました。篠田桃紅は、1913年生まれ、2021年に107歳で亡くなるまで、前衛書道家として活躍しました。1956年からは、抽象表現主義のメッカとなっていたNYへ渡り、高い評価を得ます。ただ、アメリカの乾燥した空気と墨との相性が悪く、58年には帰国しています。帰国当時は、米国で評価された前衛芸術家としてもてはやされたようです。いわゆる時の人にはなったものの、作品が評価されることはなかったようです。しかし、それは、桃紅の問題というよりも、当時の前衛芸術が置かれた状況だったように思えます。もの珍しさだけで取り上げられ、理解者が広がることはなかったのでしょう。

前衛書道は、1940年、上田桑鳩、その弟子である宇野雪村等が立ち上げた”奎星会”に始まるとされます。古典をなぞることを旨としてきた書道ですが、前衛書道は、線や墨を用いた表現方法として登場します。さらに、文字からも離れ、自由に時空を創造するものとして、墨象と呼ばれることもあります。いわば言語から造形への展開です。墨が持つ奥深い造形の力は、水墨画の世界で実証済みです。そういう意味では、水墨抽象画と言ってもいいのかも知れません。ただ、線の持つ表現力へのこだわりこそが前衛書道の大きな特徴のように思えます。そういう意味では、前衛書道は、墨と線の画家ともいえる雪舟の現代的後継者といってもいいかも知れません。

とは言え、上田桑鳩や宇野雪村の作品は、やはり書道だと思います。桃紅は、よりグラフィカルな展開を見せます。抽象表現として、独自の世界を構成していると思います。1950年代のモダニズムの申し子のようにも思えます。私は好きですが、二次元的であること、グラフィック・デザイン的であることが、評価に影響しているように思えます。桃紅は、リトグラフ作品を多く残しています。刷り上がったリトグラフに一筆を加えるスタイルが多く見られます。筆で墨の濃淡を表現していなくても、墨と線という意味において、桃紅の墨象の一つの到達点なのではないかと思います。線の躍動感はあるものの、全体としては、墨が醸し出す静謐感が伝わります。最も桃紅らしいとも思えます。

ギャラリーでは、桃紅が関わった建築を紹介するビデオも上映されていました。丹下健三とコラボした電通旧本社や日南市文化センターなども収録していました。桃紅の作品は、高度成長期のモダンな建築によく使われています。また、海外からの賓客をもてなすホテルのスイートなどでも、和モダンを象徴する絵画としてよく使われています。私は、戦後のモダンな建築も大好きですが、桃紅の作品は、そこによくマッチします。やはり、桃紅は、戦後のモダニズムの象徴だと思います。(写真出典:gotokamiten.jp)

2022年5月8日日曜日

きんつば

あんこに興味の無かった私が、あんこ好きに変わったきっかけの一つは、金沢は中田屋のきんつばです。25年ほど前のことだったと思います。様々な条件も重なったのかも知れませんが、お土産にいただいた中田屋のきんつばが、とても美味しいと思い、すっかりあんこ党になりました。今でも、私の中で、中田屋はきんつば界の頂点に立っています。中田屋は、1934年、中田憲龍によって創業されました。中田屋の龍のロゴは、中田憲龍が、自分の名前にちなんで、自らデザインしたものだそうです。いつの頃からか、金沢と言えば中田屋のきんつば、きんつばと言えば金沢の中田屋と言われるまでになりました。決して甘すぎず、上品なのに、味わい深いあんこは絶品です。

餃子や肉まんの中身は、餡と呼ばれます。餡(あん)とは、詰め物という意味です。7世紀の初め、遣隋使が持ち帰った食文化の一つです。中国では肉類が多かったようですが、日本では精進料理として野菜類を煮詰めて包むものが中心となります。小豆を甘く煮詰めれば、”あんこ”になります。小豆は、稲と同じ頃に渡来したと言われます。赤いことから魔除けとして珍重されたようですが、その名残は赤飯に認められます。小豆は、当初、塩で煮られていたようですが、甘葛を使って甘く煮たものも登場します。室町期には、砂糖を使うようになり、江戸期になると、それが一般化します。世界各地にも似たような料理が存在します。例えば、ひよこ豆で作る中東のフムスなどもあんこの一種と言えます。インゲン豆等で作るのが白あんですから、フムスを砂糖で煮れば白あんが出来るのでしょう。

きんつばの起源は、江戸期の京都で作られた”銀鍔”だとされます。上新粉で作った生地にあんこを包んで焼いたものだったそうです。丸い形が、刀の鍔に似ていたことから名付けられました。白い見た目から”銀”とされたのでしょう。それが江戸へと伝わると、米粉は小麦粉に変わり、名称も金の方が縁起が良いと言うことで”金鍔”になります。当時は、屋台で焼きながら売っていたようです。現代のきんつばは、あんこに寒天を混ぜて四角く成形し、小麦粉で作った極薄の衣をつけて焼いたものです。これは、1897年に、神戸の高砂屋、現在の本高砂屋が”高砂きんつば”として初めて発売しています。四角くなったことで、工程は簡素化され、大量に作ることが可能となりました。甘くて、手に持ち易い高砂きんつばは、神戸の港湾労働者の間で大ヒットしたようです。

かつて、きんつばと言えば、店頭で焼きながら販売されおり、日持ちもしないものでした。近年、店頭焼きは、デパ地下の実演販売くらいでしかお目にかかりません。紀尾井町のガーデンテラスでは、滋賀の叶匠壽庵が実演販売していたようですが、今はやっていません。きんつばの味を左右するのは、主にあんこの出来なのでしょうが、寒天の比率や衣の薄さも影響します。単なる印象ですが、関西のきんつばは、衣が厚めなものが多いように思います。中田屋は薄めです。中田屋は、衣に限らず、すべてのバランスが良いと思います。東京では、日本橋の”榮太樓總本鋪”のきんつばが有名です。こちらは、江戸の伝統を引き継ぎ、丸形です。芋きんつば、かぼちゃきんつば、あるいは各種フレーバーを入れたものもあります。それぞれ美味しいとは思いますが、やはりきんつばとは別物だと思います。

面白いと思ったのは、門前仲町の深川不動尊前にある”深川華”のきんつばです。甘くないきんつばです。最初に食べた時は、何かの間違いかと思いました。ところが、甘みと塩味の加減が良く、小豆のうま味が引き立っているように思います。珍しいので、よく手土産に使いました。恐らく、キリッとした味わいを好む深川風ということなのでしょうが、砂糖が貴重だった頃のあんこを思わせるところもあります。(写真出典:mapple.net)

2022年5月7日土曜日

メーデー

血のメーデー事件
労働者の日としてのメーデーは、戦後、国連が定めた国際デーとなっており、世界各国では祝日とされています。メーデーは、1886年5月1日、後のAFL(アメリカ労働総同盟)が、8時時間労働を求めて行ったストライキが起源とされます。アメリカは、メーデー発祥の国にも関わらず、5月1日は祝日ではありません。ただし、9月の第一月曜日がレーバー・デーとして祝日になっています。アメリカにおいて、レーバー・デーは、AFLの5月1日ストライキよりも歴史が古く、かつ祝日と制定されたのも1894年と早かったため、祝日とはなりませんでした。

日本もメーデーは祝日となっていません。日本は、戦後すぐ、11月23日を勤労感謝の日と定めています。同じ趣旨の祝日が存在していたことから、メーデーは祝日とされませんでした。では、なぜ11月23日が労働者の日となったのでしょうか。この日は、明治初期から「新嘗祭(にいなめさい)」という祝日になっていました。新嘗祭は、天皇家の祭祀として、古代から祝われてきました。天皇が、その年に収穫された穀物を天津神と国津神に捧げ、感謝の奉告を行うという祭祀です。新嘗祭は、旧暦11月の二の卯の日に行われていましたが、明治になり、新暦、つまりグレゴリオ暦が採用されると、11月23日に固定されました。

戦後、憲法において信教の自由が定義されると、国家神道色の濃い祝日である新嘗祭も廃止される運命にありました。ただ、その趣旨は収穫や生産に感謝を捧げることであり、かつ国民間に定着している祝日でもあり、「感謝の日」として残すことになりました。また、一説によれば、進駐軍から感謝祭(Thanksgiving Day)の祝日化を要請され、感謝の日で対応したとも言われます。収穫祭という意味では同じとも言えますが、感謝祭は、新大陸で飢餓状態に落ちいったピルグリム・ファーザーズが、助けてくれたインディアンに感謝するために始めたとされています。もちろん、キリスト教の文化に根ざしています。それを日本に強要するとは信じがたい話です。いずれにしても、「感謝の日」は、対象が漠然としてるので「勤労感謝の日」として祝日化されました。

日本におけるメーデーは、大正末期の1920年に始まります。ただ、軍国主義の時代には禁止され、再開されたのは戦後の1946年でした。再軍備反対、日米安保反対といった政治スローガンが中心になってくると、1952年には皇居外苑でデモ隊と警察部隊が衝突し、死者が出ます。いわゆる”血のメーデー”です。その後、高度成長期には、各団体統一のメーデーが行われ、春闘という共闘スキームと共に、賃上げ獲得に貢献します。しかし、春闘の枠組みが崩れ、労組の組織率低下とともに、参加者は低迷、メーデーは分裂開催となりました。労働者個々人は、経営側に対して、立場が弱いものです。組織化して対抗することは、十分以上に意味があります。また、経営のチェックという面でも極めて有意義だと思います。組織としての力を高めるために、各労組が連携することも有効ですし、メーデーの意義も理解できます。

ただ、現在の労組は、今日的な労働者のニーズに応える態勢になっていないことから、組織率を下げているのだと思います。また、ユニオンショップ制にあぐらをかいている労組も多いように思います。労組や労働団体が組織力を確保するために、統一的な取り組みを必要とすることは理解できます。ただ、多様化が進んだ時代にあっては、個々の問題の解決にこそ労組の力が求められるのではないかと思います。企業別組合、年功序列、終身雇用は、日本の高度成長を支えた三種の神器と言われます。年功序列は既に崩れ、終身雇用も変わりつつあります。企業別組合というあり方も、曲がり角を曲がってしまっているように思います。欧米式の産業別組合にも問題は多くありますが、今後の労組のあり方として、検討すべきではないかとも思います。(写真出典:47news.jp)

2022年5月6日金曜日

ディスコ

Gimme Little Sign
ディスコの店内に、鋭い笛が鳴り響くと、バンドは演奏を止め、若者たちは非常階段へ殺到します。いわゆる”手入れ”の合図です。初めて笛を聞いた時には、私もつられて逃げましたが、次回以降は居残りました。20歳前だったので、酒やタバコはよろしくないのですが、逃げる必要までは感じなかったのです。何度か経験しましたが、実際に警察等が店内に入ってきたことはありませんでした。ディスコは、ビルの5階か6階にあったので、地上の入り口あたりに見張りがいて、危険を察知すると連絡していたのでしょう。未成年者がディスコに行ってはならないという法律があるとも思えず、18歳未満は入店させないといった営業に関する条例、あるいは一般的な未成年者の補導逃れだったのでしょう。 

1970年代、ススキノにあった「ニューツーヤング(恐らくNew "Too Young")」は、R&B系のディスコで、”デイビス”というキレのいいバンドが人気の店でした。私は、週に2~3度は通っていました。当時は、曲毎にステップが決まっており、ステージ方向に列を成して踊りました。うまい連中がフロアのフロントに陣取り、皆が真似をして踊っていました。フロント組は、素人では入れないようなディープな店に行き、フロア後方で最新のステップを覚え、我々に伝えるという仕組みです。我々も、ダンスが上手くなり、かつフロントの常連組が少ない時には、フロントで踊ることができました。フロントへ行けるかどうかの判断は、場の雰囲気としか言いようがありません。初めて来店して事情を知らない下手くそがフロントに行くと、キッチリ嫌がらせをされて、排除されたものです。チーク・タイムもありましたが、ニューツーヤングは、踊りメインの、いわば硬派なディスコでした。

人気だった曲は、ジェームス・ブラウンやモータウン系でした。JBの”Sex Mchine”、シュープリームスの”Stop In The Name Of Love”、テンプテーションズの”Get Ready”などは大人気でした。今でも耳に残っているのはブレントン・ウッズの”Gimme Little Sign”です。大好きな曲です。リアル・タイムのヒット曲ではなく、数年前の曲が多かったのは、レコードを回すのではなく、生バンドだったからなのかも知れません。ファッションは、ティーパードのコットン・パンツにスウィング・トップといったアイビー系です。靴は、ターンしやすいローファーがメインです。バイト先で知り合った色んな大学の仲間と行きましたが、結構、一人でも行きました。行けば、必ず誰か仲間がいるからです。ただ、一緒に行く仲間達がいることは、決して重要な要素ではありませんでした。ワイワイすることが目的ではなく、皆、純粋に踊りに行っていたからです。

70年代も後半に入ると、ディスコ・ブームが到来し、ススキノのディスコも様変わりしていきます。ジョン・トラボルタの映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977)の大ヒットが象徴的でした。ススキノにも、レコード中心の大型ディスコが増え、クール&ギャング、KC&サンシャイン・バンド、ヴァン・マッコイ、ドナ・サマー等に加え、ジンギスカン、アラベスク、RB&カンパニーといった欧州系もヒットを飛ばしていました。服装もVANに代表されるアイビーから、JUN&ROPE系の”コンチ”が主流となります。ハッスル、バンプ、バスストップといったダンスが流行し、タイトなライン型ステップ・ダンスは衰退していきます。ディスコは一般大衆化が進み、それまでのイキがった若造のたまり場から、大人の社交場に変わっていったわけです。私も行くには行ったのですが、好みというほどではありませんでした。

NY赴任後も、何度かディスコには行きました。当時、流行の最先端だった”The Tunnel”は、おしゃれな白人の多い店でした。中に入れてもらえない連中も多いなか、日本人はすぐに入れてもらえたものです。面倒もおこさず、金払いも良かったからなのでしょう。”Palladium”も記憶に残ります。伝説のディスコ”Studio54”を開いたイアン・シュレーガーが、ミュージック・ホールを改造してオープンした巨大なディスコです。設計は磯崎新でした。若者でごった返すホールに、信じがたいほど大音量の音楽が流れていました。最も印象的だったのは、テクノトロニックの”Pump Up the Jam”(1989)です。大音量で聞くベルギー産ディスコ・テューンの迫力は、今でも忘れません。(写真出典:discogs.com)

2022年5月5日木曜日

蓮華草

過日、ゴルフ場で蓮華草を見かけました。蓮華草は、もともと田畑の肥料とするために栽培されたと聞きます。土を肥やすだけでなく、薬草としても食材としても活用されます。また、蓮華草の蜂蜜は栄養価が高いとも言います。蓮華草と言えば、やはり思い出すのは「やはり野におけ蓮華草」という言葉です。播磨国の俳人滝野瓢水の「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」という俳句が原典です。江戸中期、裕福な回船問屋に生まれた瓢水は、遊蕩三昧の末に没落し、なおも泰然としていた人だったようです。瓢水の良く知られた句は、風情を詠んだものではなく、人の世のはかなさを伝える警句といった印象です。

蓮華草の句は、遊女を身請けしようとする友人に贈ったものだとされます。遊女は花街にいるからこそ艶やかなのであって、身を引かせ妾宅に囲うべきではない、という忠告なのでしょう。花街は、ある意味、疑似恋愛を商う場所です。遊女が、心に決めた人はあなただけ、と手紙や起請文をしたためるのは、リピーターを確保するためのプロモーションだと言えます。なかには、運命的な出会いも、本当の恋愛になることもあったと思います。遊女の心中話も少なからずあります。とは言え、身請けは、双方とも、ある程度の割り切りがあって成立していたのでしょう。遊蕩で身上を潰した瓢水ならではの冷静な視線だと思います。

「蔵売って 日あたりの善き 牡丹かな」は、没落する自身を詠んだ自虐的な句ですが、世間とは異なる瓢水の価値観をも伝え、明るさすら感じます。瓢水の価値観を端的に表わしているのが「有(ある)と見て 無(なき)は常なり 水の月」という句だと思います。虚無的なところは、ウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」を思わせるところもあります。ルバイヤートの虚無感は絶望的だとも言えますが、瓢水の場合、無常観、あるいは空の思想につながる面があるように思えます。ただし、それは禅とは呼べません。哲学し、修行を積んで得られる境地ではなく、結果的にたどりついた心情であり、より人間的な心の有りように思えます。世間を超越して得た、さばさばとした明るさに親しみを覚えます。

「やはり野におけ蓮華草」で、いつも思い出すのが橋下徹です。独自の視点から切り込む鋭い論説は、明快で分かりやすく、かつ喧嘩にも強い。時に物議も醸しますが、多くの人を魅了します。維新の会立ち上げ時には、大ブームと言っていいほどの人気でした。当時から、私は、野におくべき人だと思っていました。国民のために、無私無欲で、しぶとく政策の実現を図るのが政治家だとすれば、自説が喝采を浴びることに喜びを見いだすタイプの橋下徹は、TV向きの評論家だと思います。政治家としての覚悟に欠けるとも言えます。マッチポンプという古い言葉があります。自ら火を付け、その火を消すことで利益を得ようとする政治家のことです。橋下徹の場合、次々と火を付けていく放火犯に近いところがあります。決して消すことはありません。

瓢水は禅僧でもなければ、仏門に救いを求めたわけでもありません。「本尊は 釈迦か阿弥陀か 紅葉(もみじ)かな」という句も残しています。瓢水の宗教観をよく伝えているように思います。自分の境遇を受け入れ、自然体で暮らし、その視点から見える世間の無常を詠んだ人なのだと思います。「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」とは、まさに瓢水がたどりついた人生観であり、蓮華草は瓢水自身にも思えます。(写真出典:lovegreen.net)

2022年5月4日水曜日

コメット

30年ばかり前、よくNYからシカゴ・オヘア空港へ飛びました。オヘアは、ユナイテッド・エアの拠点であり、当時は世界一混雑する空港としても知られていました。オヘアで乗り換えて、あるいはオヘアからレンタカーで中西部各地へ出張していました。オヘアで、いつも気になっていたことがあります。空港のはずれに、雨ざらしのまま、英国のデ・ハビランド DH.106コメット機がうち捨てられていたのです。コメットは、1952年に就航した世界初のジェット旅客機です。1964年に生産が終了した飛行機ですが、歴史的価値は極めて高いものと思われます。にもかかわらず、保存されるでもなく、展示されるでもなく、ただ劣化するにまかせた機体が置いてありました。何か事情があったのでしょうが、不明です。

第二次世界大戦前、英国と米国は、民間航空の覇権を争っていました。戦争が勃発すると、英国は爆撃機、米国は輸送機の製造を分担することになります。戦後の航空業界を見据えた場合、不利な立場にあった英国政府は、連合国側の反攻が開始された1943年、ブラバゾン委員会を立ち上げ、民間旅客機の設計に入ります。そこで提案された一つがジェット旅客機であり、後のコメットになります。開発・製造を担当したのは、デ・ハビランド社でした。同社は、木造のモスキート爆撃機で有名ですが、ジェット戦闘機ヴァンパイアを作った実績がありました。とは言え、大型ジェット旅客機は、誰にとっても未知の世界でした。まずは、大きな推進力を生み出す高性能なジェット・エンジンを開発する必要があります。

当時のジェットエンジンの主流は、英国が開発した遠心コンプレッサー型でした。しかし、推力には限界があり、より性能の高い軸流コンプレッサー型の開発は必須でした。軸流型は現在に至るまで使われてますが、当時、その研究に先んじていたのは、ナチス・ドイツでした。アメリカとソヴィエトは、ベルリン陥落直後から、ナチスの科学者たちを自国へとさらっていきます。出遅れた英国は、独自開発の道しかありませんでした。それには時間がかかりすぎるため、コメットは、従来型のエンジンを選択せざるを得ませんでした。また、現在主流となっている主翼の下にエンジンを吊り下げる方式も、ナチスの技術を応用したボーイングが特許を得ていたため、使えませんでした。結果、コメットは、旧式エンジンを翼に内蔵する独特の機体となりました。

ジェット旅客機は、高高度を高速で飛行するため、そしてそのために機内を与圧する必要もあることから、頑丈かつ軽量な機体が求められます。持てる技術を駆使して完成したコメットは、1952年、ついに就航します。ピストン式のレシプロ・エンジンを積んだプロペラ機の倍の速さで飛ぶコメットは大人気となります。しかし、就航直後から事故が続き、1954年1月には、空中分解を起して墜落、乗客全員が死亡します。原因究明と改良が行われますが、3ヶ月後に、再び墜落事故を起こします。原因は金属疲労だったようです。一方、アメリカは、コメットより大型で高性能なボーイング707、ダグラス DC-8、コンベア880を投入します。デ・ハビランド社もしぶとく改良を重ねますが、競争にはなりませんでした。1964年、コメットは生産を終了します。

デ・ハビランド社は、コメット開発の初期、1946年にナチスのジェット戦闘機メッサーシュミット・コメートを模した研究機を開発します。しかし、同機は試験飛行中に墜落し、パイロットは死亡してます。そのパイロットは、デ・ハビランド社の社長サー・ジェフリー・デ・ハビランドの子息でした。このことが、コメット開発にかけるデ・ハビランドの執念の源にもなっていたのでしょう。近年、民間による宇宙開発が急展開しています。夢のまた夢と思われていた宇宙旅行も始まっています。イカロスの子孫たちは、危険を顧みずに、大空への挑戦を続けてきました。空を飛ぶという壮大なロマンは、終わりなき進化をプログラムされた人類にとって、その本質に深く関わっているということなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年5月3日火曜日

婆娑羅

高師直
浄瑠璃や歌舞伎は、実際に起きた事件を題材とした作品が多くあります。その際、実名を使ってはならぬ、という幕府のお達しがありました。そこで、題名や役名には、様々な工夫がされることになります。例えば、赤穂浪士の討ち入りを題材とする「仮名手本忠臣蔵」は、太平記の枠組みを借りて、室町時代の話にされています。”仮名手本”とは仮名47文字から討ち入りした赤穂浪士四十七士を想起させる工夫です。殿中で刃傷沙汰に及ぶ”塩冶判官”は、太平記に登場する塩冶高貞を借り、塩の産地である赤穂の藩主浅野内匠頭を思わせるという仕掛けです。一方、敵の吉良上野介は”高武蔵守師直(こうのむさしのかみもろのう)” という役名になっていますが、これは太平記きっての悪者である高師直(こうのもろなお)を借用しています。

浅野内匠頭による刃傷沙汰の原因については、当人が即刻切腹となったこと、吉良上野介が、身に覚えがない、の一点張りだったことから、不明とされています。ただ、巷間、内匠頭の賄賂が少なかったことから、上野介が陰湿ないじめを行ったからだとされています。仮名手本忠臣蔵では、高武蔵守師直が塩冶判官の妻に横恋慕し、すげなくされたので塩冶判官をいじめたということになっています。実は、この話も太平記を借りています。塩冶高貞の妻が絶世の美女であることを聞き及んだ高師直は、湯浴中の妻をのぞき見し、情欲をかき立てられます。当時、幕府中枢で権勢を振るっていた高師直は、強引に妻に迫りますが、頑なに拒絶されます。怒った師直は、塩冶高貞に謀反の疑いありとして、軍勢を差し向け、自害させます。塩冶高貞が、謀反の疑いで滅ぼされたのは事実です。ただ、謀反の真偽は不明であり、師直の横恋慕は創作とされています。

高師直、正式には高階師直ですが、室町幕府執事(後の管領)として、足利尊氏に仕えました。高階家は、長屋王の子孫であり、源義家につながる源氏の名門でした。早くから清和源氏系の足利家に仕えた家です。高師直は、戦場にあっては類い希なる才能を発揮する武将であり、執事としては、革新的な政策を実行し、足利尊氏を支えました。また、歌人としても知られています。室町幕府成立後、足利尊氏と、尊氏が政務を任せた弟の直義との間に亀裂が入ると、高師直は尊氏派の中心となって直義と争うことになります。直義を出家引退させ、実権を握った高師直でしたが、南朝に寝返った直義に破れ、一族もろとも惨殺されています。戦乱続く時代の武将の一人ですが、なぜ太平記は、高師直を極悪人として描いたのでしょうか。実に興味深い疑問だと思います。

戦が上手に過ぎた、権力を独占した、あるいは合理主義者であったことから妬みや恨みをかったとも言われます。しかし、嫌われた最大の理由は、石清水八幡宮と吉野行宮を焼き討ちしたことだという説があります。もちろん、寺社を焼き討ちした例は過去にもあります。有名なところでは、12世紀の平重衡による南都焼討があります。仏罰が恐れられていた時代にあっては、あってはならないことであり、平家はその仏罰を受けたとも言われます。室町幕府軍は、石清水八幡宮焼討の前にも、後醍醐天皇が立てこもる笠置寺に火を放っています。ただ、いかに戦術上の必要性があったとは言え、高師直が焼き討ちした石清水八幡宮は清和源氏足利家の氏神であり、吉野行宮は、いわば皇居でした。主君や天皇を恐れぬ蛮行と見られてもやむを得なかったと言えます。

朱子学を背景に持つ太平記の視点からすれば、骨肉の争い、下剋上、讒言、無節操な合従連衡、さらには天皇をないがしろにする風潮等、乱れに乱れた時代の象徴が婆娑羅であり、婆娑羅こそ諸悪の根源だったのでしょう。その代表が高師直というわけです。ですから、悪人としての高師直というよりも、婆娑羅という現象を擬人化したものが高師直だったと考えるべきなのでしょう。派手好きで、常識外れとされる婆娑羅ですが、一面、時代の精神を反映しており、時代を先導していたとも言えます。革命児は言い過ぎでしょうが、時代を加速させた新世代だったと言えるのではないでしょうか。高師直や婆娑羅は、1960年代にカウンター・カルチャーを爆発させた若者たちにダブるところがあります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年5月2日月曜日

鰹のタタキ

 「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」は、江戸前期の俳人である山口素堂の作ですが、実によく知られた句の一つです。甲州の裕福な造り酒屋に生まれ、家業を継いだものの、早々に家督を弟に譲り、江戸や京都に遊んだ人だったようです。俳句にこだわらず、和歌、漢詩、茶道、能楽と幅広い分野を楽しんだ風流人だったようです。また、松尾芭蕉とは、その無名時代から付き合いがあり、親交は生涯続いたと言われます。青葉、ほととぎす、初鰹は、夏の季語ですが、春から初夏にかけての風情を、目、耳、舌で楽しむという良くできた句です。春になると、決まって頭に浮かぶ句です。

鰹の旬は、春の上り鰹、秋の戻り鰹ということになります。脂の乗りがいいのは戻り鰹ですが、上り鰹は、春を告げる初鰹として珍重されます。初物を食べると寿命が75日伸びると言われ、江戸の人々は、縁起物として大いに好んだようです。鰹の食べ方としては、鰹節か刺身ですが、いつの頃からか、土佐名物の”鰹のタタキ”も一般化しました。今から40年以上前のことですが、高知出身の先輩が、おまえらに本当の鰹のタタキを教えてやる、と言って自宅に招いてくれたことがあります。当時、鰹のタタキは知っていても、そこまで一般的な食べ方ではなかったと思います。さすがに藁焼きとはいきませんでしたが、先輩は、ガスを使ってタタキを作ってくれました。

おおよそ脂の乗ったものを炙れば、香ばしくなります。最近の鮨屋は、やたら炙り物が多くなった印象があります。それににんにくの薄切りを乗せれば、一層香ばしくなり、うまいに決まっています。皆で大喜びが食べましたが、後で具合が悪くなりました。要は、にんにくの食べ過ぎでした。後年、はじめて行った高知で出されたタタキにも驚きました。タタキが見えないほど薬味がどっさり乗った様子は、ほぼサラダでした。美味しくて、いくらでも食べれると思いました。私がよく使う薬味は、青ネギ、オニオン・スライス、青しそ、みょうが、おかひじき、にんにく、しょうがといったところです。また、塩タタキも人気ですが、これは、新鮮で脂の乗った鰹を、藁で焼いてすぐ食べることが前提だと思いますので、高知で頂く方がいいと思います。

それにしても、藁焼きをタタキと呼ぶのは何故なのか、気になるところです。調味料が貴重で高かった時代、塩やタレをつけた手で魚をたたき、味をなじませたことからタタキという言葉が生まれたようです。まずはタタキがあり、その上で藁焼きをしたことから、鰹のタタキという言い方が一般化したものと思われます。藁焼きという土佐独自の調理法の起源ははっきりしません。漁師が塩でたたいて生の鰹を食べるのを見た土佐藩主山内一豊が、食中毒を防ぐために広めたという説が有名です。長宗我部元親が鰹節造りで残った鰹を串焼きにしたという説、あるいは西洋人が鯨のステーキをレアで食べるのを見て鰹で試したという説もあります。鰹は傷みの早い魚です。持ちを良くするために表面だけ炙ったということなのではないでしょうか。藁を使う理由は、藁が油分が含み、高温で燃焼するからだと言われます。藁は、タタキの香ばしさの源です。

家で藁焼きなどできません。また、かつてスーパーで売っていたタタキは、ガスで表面を炙ったものが多く、香ばしさに欠けました。香ばしくないタタキなど、タタキとは呼べません。近年は、冷凍技術が発達し、本当に藁焼きしたと思われるタタキが売られています。もちろん、高知で食べるものとは比べものにはなりませんが、結構、香ばしくて、美味しいものもあります。昔、高知のタクシー運転手さんが、高知のまともな店のタタキは、皆、千葉県産だよ、と言っていました。高知県産の鰹は鰹節向きで、タタキには脂の乗った千葉県産が適しているというのです。真偽のほどは定かではありません。(写真出典:kochi-bank.co.jp)

2022年5月1日日曜日

梁盤秘抄#24 In Step

アルバム名:In Step(1989)                                                                            アーティスト:Stevie Ray Vaughan 

1990年8月26日、ウィスコンシン州イースト・トロイのアルパイン・ヴァレー・ミュージック・シアターで、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、エリック・クラプトン、ロバート・クレイ等によるブルース・フェスが開かれます。終演後、主立ったメンバーたちは、シカゴへ移動するために4台のヘリコプターに分乗します。離陸直後、初めから高度が低かった3台目のヘリコプターが、電線に接触し、墜落します。パイロットを含む乗員5名は即死。そのなかの一人がスティーヴィー・レイ・ヴォーンでした。享年35歳。パイロットは、固定翼機の免許はあるものの、ヘリコプターの免許は持っていませんでした。なんとも悔やまれる事故です。

ギター・ブルースの頂点を極めたといわれるスティーヴィー・レイ・ヴォーンは、1954年10月3日、テキサス州ダラスで生まれました。父親は、アスベスト作業員で、転居が多かったようです。子供時代のスティーヴィーは、酒乱だった父親から、よく殴られていたようです。7歳でギターを手にすると、早熟な天才ぶりを発揮し、10代早々で、バンドに参加、舞台にも立っていたようです。10代半ばでは、名前も知られるようになり、ZZトップと共演したり、レコーディングも行っています。17歳で、活動拠点をダラスからオースチンに移すと、街一番のバンドとなり、ブルースのビッグ・ネーム達の前座や共演も増えます。マディ・ウォータースは「彼は史上最高のギタリストになるだろう。ただし、白い粉を止めなければ、40歳前に死ぬね」と言ったそうです。

テキサスの有名人だったスティーヴィーが全米で知られるようになったのは、1982年のモントルー・ジャズ・フェスティバルへの出演からです。会場の問題もあり、満足出来る演奏ではなったようですが、それでも多くの人々に衝撃を与えます。 デヴィット・ボウイは、アルバム「Let's Dance」の制作にスティーヴィーを起用し、アルバムは大成功します。一躍有名になったスティーヴィーは、1983年、デビュー・アルバム「Texas Flood」をリリースし、ヒットさせます。ラリー・デイヴィスのカヴァー曲”Texas Flood”は、スティーヴィーの代名詞ともなりました。当代随一のギタリストとしての名声とともに、スティーヴィーは活躍しますが、1986年、量を増し続けたアルコールとコカインが、ついに彼の集中力を奪います。スティーヴィーは、活動を中止して、治療せざるを得ませんでした。

麻薬漬けになった多くのミュージシャンは、ここで終わりです。ただ、スティーヴィーは、見事に、酒とコカインを克服します。しかし、ある意味、彼の音楽のインスピレーションの源だった酒とコカインを失ったことで、自信喪失に陥ります。あがきながらも録音されたのが1989年の「In Step」でした。タイトルの”In Step”は、歩調を合わせる、ということですが、まさに調子を整えるという意味だったのでしょう。アルバムは大成功します。スティーヴィーにとって最初のグラミー賞も獲得しています。ややもすればテクニックが先行し、ぶっ飛ばすタイプだったスティーヴィーのギターには、変化が見られます。ゆとりを持って弾いている印象もあり、地に足が着いた完成度の高さを感じます。”Crossfire”はナンバー・ワン・ヒットにもなりました。また、”Riviera Paradise”は、ジャズの要素も入れたバラードになっています。

当時、ギター・ブルースは行くところまで行った印象がありました。しかし、スティーヴィーは、このアルバムで、新しい地平線を見てくれました。それが彼のラスト・アルバムとなったことは、皮肉でもあり、残念極まりないとも言えます。82年のモントルーで、スティーヴィーが最初に弾いたのはフレディー・キングの名曲”Hideaway”です。いつもようにタバコをくわえながら、圧倒的な演奏を繰り広げます。多くのギタリストが演奏している曲ですが、知る限りではベスト・オブ・ベスツと言える演奏だと思います。私は、オースティンの酒場で演奏しているような風情を失わなかったスティーヴィーのライブ・アルバムが好きです。それだけに、”In Step”以降のライブがどんな感じに変わったのか、聞いてみたかったところです。(写真出典:amazon.co.jp)

夜行バス