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Gimme Little Sign |
1970年代、ススキノにあった「ニューツーヤング(恐らくNew "Too Young")」は、R&B系のディスコで、”デイビス”というキレのいいバンドが人気の店でした。私は、週に2~3度は通っていました。当時は、曲毎にステップが決まっており、ステージ方向に列を成して踊りました。うまい連中がフロアのフロントに陣取り、皆が真似をして踊っていました。フロント組は、素人では入れないようなディープな店に行き、フロア後方で最新のステップを覚え、我々に伝えるという仕組みです。我々も、ダンスが上手くなり、かつフロントの常連組が少ない時には、フロントで踊ることができました。フロントへ行けるかどうかの判断は、場の雰囲気としか言いようがありません。初めて来店して事情を知らない下手くそがフロントに行くと、キッチリ嫌がらせをされて、排除されたものです。チーク・タイムもありましたが、ニューツーヤングは、踊りメインの、いわば硬派なディスコでした。
人気だった曲は、ジェームス・ブラウンやモータウン系でした。JBの”Sex Mchine”、シュープリームスの”Stop In The Name Of Love”、テンプテーションズの”Get Ready”などは大人気でした。今でも耳に残っているのはブレントン・ウッズの”Gimme Little Sign”です。大好きな曲です。リアル・タイムのヒット曲ではなく、数年前の曲が多かったのは、レコードを回すのではなく、生バンドだったからなのかも知れません。ファッションは、ティーパードのコットン・パンツにスウィング・トップといったアイビー系です。靴は、ターンしやすいローファーがメインです。バイト先で知り合った色んな大学の仲間と行きましたが、結構、一人でも行きました。行けば、必ず誰か仲間がいるからです。ただ、一緒に行く仲間達がいることは、決して重要な要素ではありませんでした。ワイワイすることが目的ではなく、皆、純粋に踊りに行っていたからです。
70年代も後半に入ると、ディスコ・ブームが到来し、ススキノのディスコも様変わりしていきます。ジョン・トラボルタの映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977)の大ヒットが象徴的でした。ススキノにも、レコード中心の大型ディスコが増え、クール&ギャング、KC&サンシャイン・バンド、ヴァン・マッコイ、ドナ・サマー等に加え、ジンギスカン、アラベスク、RB&カンパニーといった欧州系もヒットを飛ばしていました。服装もVANに代表されるアイビーから、JUN&ROPE系の”コンチ”が主流となります。ハッスル、バンプ、バスストップといったダンスが流行し、タイトなライン型ステップ・ダンスは衰退していきます。ディスコは一般大衆化が進み、それまでのイキがった若造のたまり場から、大人の社交場に変わっていったわけです。私も行くには行ったのですが、好みというほどではありませんでした。
NY赴任後も、何度かディスコには行きました。当時、流行の最先端だった”The Tunnel”は、おしゃれな白人の多い店でした。中に入れてもらえない連中も多いなか、日本人はすぐに入れてもらえたものです。面倒もおこさず、金払いも良かったからなのでしょう。”Palladium”も記憶に残ります。伝説のディスコ”Studio54”を開いたイアン・シュレーガーが、ミュージック・ホールを改造してオープンした巨大なディスコです。設計は磯崎新でした。若者でごった返すホールに、信じがたいほど大音量の音楽が流れていました。最も印象的だったのは、テクノトロニックの”Pump Up the Jam”(1989)です。大音量で聞くベルギー産ディスコ・テューンの迫力は、今でも忘れません。(写真出典:discogs.com)