2022年5月6日金曜日

ディスコ

Gimme Little Sign
ディスコの店内に、鋭い笛が鳴り響くと、バンドは演奏を止め、若者たちは非常階段へ殺到します。いわゆる”手入れ”の合図です。初めて笛を聞いた時には、私もつられて逃げましたが、次回以降は居残りました。20歳前だったので、酒やタバコはよろしくないのですが、逃げる必要までは感じなかったのです。何度か経験しましたが、実際に警察等が店内に入ってきたことはありませんでした。ディスコは、ビルの5階か6階にあったので、地上の入り口あたりに見張りがいて、危険を察知すると連絡していたのでしょう。未成年者がディスコに行ってはならないという法律があるとも思えず、18歳未満は入店させないといった営業に関する条例、あるいは一般的な未成年者の補導逃れだったのでしょう。 

1970年代、ススキノにあった「ニューツーヤング(恐らくNew "Too Young")」は、R&B系のディスコで、”デイビス”というキレのいいバンドが人気の店でした。私は、週に2~3度は通っていました。当時は、曲毎にステップが決まっており、ステージ方向に列を成して踊りました。うまい連中がフロアのフロントに陣取り、皆が真似をして踊っていました。フロント組は、素人では入れないようなディープな店に行き、フロア後方で最新のステップを覚え、我々に伝えるという仕組みです。我々も、ダンスが上手くなり、かつフロントの常連組が少ない時には、フロントで踊ることができました。フロントへ行けるかどうかの判断は、場の雰囲気としか言いようがありません。初めて来店して事情を知らない下手くそがフロントに行くと、キッチリ嫌がらせをされて、排除されたものです。チーク・タイムもありましたが、ニューツーヤングは、踊りメインの、いわば硬派なディスコでした。

人気だった曲は、ジェームス・ブラウンやモータウン系でした。JBの”Sex Mchine”、シュープリームスの”Stop In The Name Of Love”、テンプテーションズの”Get Ready”などは大人気でした。今でも耳に残っているのはブレントン・ウッズの”Gimme Little Sign”です。大好きな曲です。リアル・タイムのヒット曲ではなく、数年前の曲が多かったのは、レコードを回すのではなく、生バンドだったからなのかも知れません。ファッションは、ティーパードのコットン・パンツにスウィング・トップといったアイビー系です。靴は、ターンしやすいローファーがメインです。バイト先で知り合った色んな大学の仲間と行きましたが、結構、一人でも行きました。行けば、必ず誰か仲間がいるからです。ただ、一緒に行く仲間達がいることは、決して重要な要素ではありませんでした。ワイワイすることが目的ではなく、皆、純粋に踊りに行っていたからです。

70年代も後半に入ると、ディスコ・ブームが到来し、ススキノのディスコも様変わりしていきます。ジョン・トラボルタの映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977)の大ヒットが象徴的でした。ススキノにも、レコード中心の大型ディスコが増え、クール&ギャング、KC&サンシャイン・バンド、ヴァン・マッコイ、ドナ・サマー等に加え、ジンギスカン、アラベスク、RB&カンパニーといった欧州系もヒットを飛ばしていました。服装もVANに代表されるアイビーから、JUN&ROPE系の”コンチ”が主流となります。ハッスル、バンプ、バスストップといったダンスが流行し、タイトなライン型ステップ・ダンスは衰退していきます。ディスコは一般大衆化が進み、それまでのイキがった若造のたまり場から、大人の社交場に変わっていったわけです。私も行くには行ったのですが、好みというほどではありませんでした。

NY赴任後も、何度かディスコには行きました。当時、流行の最先端だった”The Tunnel”は、おしゃれな白人の多い店でした。中に入れてもらえない連中も多いなか、日本人はすぐに入れてもらえたものです。面倒もおこさず、金払いも良かったからなのでしょう。”Palladium”も記憶に残ります。伝説のディスコ”Studio54”を開いたイアン・シュレーガーが、ミュージック・ホールを改造してオープンした巨大なディスコです。設計は磯崎新でした。若者でごった返すホールに、信じがたいほど大音量の音楽が流れていました。最も印象的だったのは、テクノトロニックの”Pump Up the Jam”(1989)です。大音量で聞くベルギー産ディスコ・テューンの迫力は、今でも忘れません。(写真出典:discogs.com)

マクア渓谷