2022年5月5日木曜日

蓮華草

過日、ゴルフ場で蓮華草を見かけました。蓮華草は、もともと田畑の肥料とするために栽培されたと聞きます。土を肥やすだけでなく、薬草としても食材としても活用されます。また、蓮華草の蜂蜜は栄養価が高いとも言います。蓮華草と言えば、やはり思い出すのは「やはり野におけ蓮華草」という言葉です。播磨国の俳人滝野瓢水の「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」という俳句が原典です。江戸中期、裕福な回船問屋に生まれた瓢水は、遊蕩三昧の末に没落し、なおも泰然としていた人だったようです。瓢水の良く知られた句は、風情を詠んだものではなく、人の世のはかなさを伝える警句といった印象です。

蓮華草の句は、遊女を身請けしようとする友人に贈ったものだとされます。遊女は花街にいるからこそ艶やかなのであって、身を引かせ妾宅に囲うべきではない、という忠告なのでしょう。花街は、ある意味、疑似恋愛を商う場所です。遊女が、心に決めた人はあなただけ、と手紙や起請文をしたためるのは、リピーターを確保するためのプロモーションだと言えます。なかには、運命的な出会いも、本当の恋愛になることもあったと思います。遊女の心中話も少なからずあります。とは言え、身請けは、双方とも、ある程度の割り切りがあって成立していたのでしょう。遊蕩で身上を潰した瓢水ならではの冷静な視線だと思います。

「蔵売って 日あたりの善き 牡丹かな」は、没落する自身を詠んだ自虐的な句ですが、世間とは異なる瓢水の価値観をも伝え、明るさすら感じます。瓢水の価値観を端的に表わしているのが「有(ある)と見て 無(なき)は常なり 水の月」という句だと思います。虚無的なところは、ウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」を思わせるところもあります。ルバイヤートの虚無感は絶望的だとも言えますが、瓢水の場合、無常観、あるいは空の思想につながる面があるように思えます。ただし、それは禅とは呼べません。哲学し、修行を積んで得られる境地ではなく、結果的にたどりついた心情であり、より人間的な心の有りように思えます。世間を超越して得た、さばさばとした明るさに親しみを覚えます。

「やはり野におけ蓮華草」で、いつも思い出すのが橋下徹です。独自の視点から切り込む鋭い論説は、明快で分かりやすく、かつ喧嘩にも強い。時に物議も醸しますが、多くの人を魅了します。維新の会立ち上げ時には、大ブームと言っていいほどの人気でした。当時から、私は、野におくべき人だと思っていました。国民のために、無私無欲で、しぶとく政策の実現を図るのが政治家だとすれば、自説が喝采を浴びることに喜びを見いだすタイプの橋下徹は、TV向きの評論家だと思います。政治家としての覚悟に欠けるとも言えます。マッチポンプという古い言葉があります。自ら火を付け、その火を消すことで利益を得ようとする政治家のことです。橋下徹の場合、次々と火を付けていく放火犯に近いところがあります。決して消すことはありません。

瓢水は禅僧でもなければ、仏門に救いを求めたわけでもありません。「本尊は 釈迦か阿弥陀か 紅葉(もみじ)かな」という句も残しています。瓢水の宗教観をよく伝えているように思います。自分の境遇を受け入れ、自然体で暮らし、その視点から見える世間の無常を詠んだ人なのだと思います。「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」とは、まさに瓢水がたどりついた人生観であり、蓮華草は瓢水自身にも思えます。(写真出典:lovegreen.net)

マクア渓谷