第二次世界大戦前、英国と米国は、民間航空の覇権を争っていました。戦争が勃発すると、英国は爆撃機、米国は輸送機の製造を分担することになります。戦後の航空業界を見据えた場合、不利な立場にあった英国政府は、連合国側の反攻が開始された1943年、ブラバゾン委員会を立ち上げ、民間旅客機の設計に入ります。そこで提案された一つがジェット旅客機であり、後のコメットになります。開発・製造を担当したのは、デ・ハビランド社でした。同社は、木造のモスキート爆撃機で有名ですが、ジェット戦闘機ヴァンパイアを作った実績がありました。とは言え、大型ジェット旅客機は、誰にとっても未知の世界でした。まずは、大きな推進力を生み出す高性能なジェット・エンジンを開発する必要があります。
当時のジェットエンジンの主流は、英国が開発した遠心コンプレッサー型でした。しかし、推力には限界があり、より性能の高い軸流コンプレッサー型の開発は必須でした。軸流型は現在に至るまで使われてますが、当時、その研究に先んじていたのは、ナチス・ドイツでした。アメリカとソヴィエトは、ベルリン陥落直後から、ナチスの科学者たちを自国へとさらっていきます。出遅れた英国は、独自開発の道しかありませんでした。それには時間がかかりすぎるため、コメットは、従来型のエンジンを選択せざるを得ませんでした。また、現在主流となっている主翼の下にエンジンを吊り下げる方式も、ナチスの技術を応用したボーイングが特許を得ていたため、使えませんでした。結果、コメットは、旧式エンジンを翼に内蔵する独特の機体となりました。
ジェット旅客機は、高高度を高速で飛行するため、そしてそのために機内を与圧する必要もあることから、頑丈かつ軽量な機体が求められます。持てる技術を駆使して完成したコメットは、1952年、ついに就航します。ピストン式のレシプロ・エンジンを積んだプロペラ機の倍の速さで飛ぶコメットは大人気となります。しかし、就航直後から事故が続き、1954年1月には、空中分解を起して墜落、乗客全員が死亡します。原因究明と改良が行われますが、3ヶ月後に、再び墜落事故を起こします。原因は金属疲労だったようです。一方、アメリカは、コメットより大型で高性能なボーイング707、ダグラス DC-8、コンベア880を投入します。デ・ハビランド社もしぶとく改良を重ねますが、競争にはなりませんでした。1964年、コメットは生産を終了します。
デ・ハビランド社は、コメット開発の初期、1946年にナチスのジェット戦闘機メッサーシュミット・コメートを模した研究機を開発します。しかし、同機は試験飛行中に墜落し、パイロットは死亡してます。そのパイロットは、デ・ハビランド社の社長サー・ジェフリー・デ・ハビランドの子息でした。このことが、コメット開発にかけるデ・ハビランドの執念の源にもなっていたのでしょう。近年、民間による宇宙開発が急展開しています。夢のまた夢と思われていた宇宙旅行も始まっています。イカロスの子孫たちは、危険を顧みずに、大空への挑戦を続けてきました。空を飛ぶという壮大なロマンは、終わりなき進化をプログラムされた人類にとって、その本質に深く関わっているということなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)