2021年3月31日水曜日

ゼネラリストとスペシャリスト

永守重信氏
 日本人は「平均」好きで、アメリカ人は”Best”という言葉を好みます。その違いは、端的に教育の違いとなって現れています。読み・書き・算盤の伝統からか一般知識詰め込み型の日本の教育。個性を尊重することによって競争力を涵養するアメリカの教育。その違いは、優劣の問題ではなく、社会の在り方の違いだと言えるのでしょう。企業にあって、日本は組織重視型であり、ゼネラリスト育成に重きを置きます。アメリカは、個人主義であり、スペシャリストが求められます。アメリカ企業に、組織図を求めると、ポカンとされます。さらに強く要求すると、個人名とレポーティング・ラインが書かれたものを作成し、出してきます。

企業文化の違いは、歴史的経緯から来る部分が大きいと思います。日本企業の組織主義のルーツは、千年続いた武家社会、江戸期の武士の官僚化、明治期以降の官僚主導国家に求めることができます。一方、アメリカの場合は、欧州が”個人主義”を発見して程なく、フロンティアが始まります。そこでは、早いものが勝ち、強いものが勝つ、という苛烈な開拓競争が移民たちの間で行われました。アメリカは、今なお、フロンティアの時代を生きているとも言えます。それぞれの企業文化は、一長一短あります。日本の高度成長を支えたと言われる年功序列・終身雇用・企業内組合を、アメリカに置き換えると実力主義・流動的雇用・産別組合となります。生産を拡大する場面では日本型が有効であり、技術革新が求められる場面ではアメリカ型が有利だと思われます。低成長化、グローバル化、あるいは情報革命が進む昨今、日本の教育は批判される傾向にあります。当然だと思います。

企業で求められる能力とは、煎じ詰めれば、結果を出す力です。この能力と大学の偏差値の相関性が低いことは、皆、よく知っています。にも拘わらず、日本の教育は、依然として知識が重視され、企業も、相変わらずゼネラリスト指向の採用を行い、育成に随分時間をかけているように思います。学校と社会は別、という考え方もあるでしょうが、社会的には非効率だと思います。また、国の教育政策に関わる議論は、全国一律を前提とする以上、なかなかまとまりません。このままでは、グローバル化の進むビジネスの現場にあって、日本企業の競争力が失われていくばかりと心配になります。今、必要なことは、大学の多様性を認める行政、大学・企業が一体となって求められる人材の育成方式を試すことではないかと思います。

今後の日本の教育を考えるうえで、今、最も注目すべきは京都先端科学大学だと思います。掘立小屋から始めた日本電産を世界トップに育て上げた異色の経営者・永守重信氏が、私財を投じ、自らが理事長になってスタートさせた大学です。永守氏が、前身の京都学園に、金も口も出し始めたのは2018年3月です。もともと教育の重要性を訴え、日本の大学の在り方に疑問を呈してきた永守氏は、英語とすぐに使える専門性の獲得をめざして、京都先端科学大学をオープンしました。20年には肝入りの工学部も開設し、10年で京大を抜くと豪語しています。永守氏なら、やりかねません。これが日本の大学、産業界への大きな刺激になっていくものと思われます。

アメリカの激しい個人間の競争は、成功者よりも多くの脱落者を生み出します。それを当然として受け入れる社会的価値観が共有されていることも忘れてはいけません。どこの国においても、個人主義と集団主義はバランスしているものだと思いますが、アメリカでは、歴史的経緯から、それが大きく個人主義に傾いています。それがアメリカの成長の原動力でもあり、社会的な諸弊害の源でもあります。競争力重視の教育にシフトする場合、このことにも留意すべきです。学生も自覚が求められますし、教育者の責任は一層重くなり、企業は必要とする人材を厳選採用し配置する必要があります。また、労働市場の流動性を確保しておくことも重要となります。(写真出典:xtrend.nikkei.com)

2021年3月30日火曜日

「ノマドランド」

 監督:クロエ・ジャオ    2020年アメリカ

☆☆☆☆

上質な映像が印象に残る散文詩のような作品でした。アメリカ人は、広大な自然のなかを、RV、いわゆるキャンピング・カーで旅するのが好きです。アメリカがモノづくりを止め、リーマン・ショックに襲われると、ノマド化する白人高齢者が増えたであろうことは理解できます。本作は、時代を映しつつ、自然のなかを旅する老人たちを、詩情豊かに映し出しています。ドラマらしいドラマもなく、役者を使っていないこともあり、セミ・ドキュメンタリー・タッチとも言えそうです。NHKの「ドキュメント72時間」の上質版といった風情でもありす。演技を感じさせないフランシス・マクドーマンドの自然さが、この映画を象徴しています。アカデミー作品賞の有力候補と言われていますが、やや情緒的に過ぎるようにも思えます。

本作は、ジェシカ・ブルーダーのノンフィクション『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』を読んだフランシス・マクドーマンドが共感し、クロエ・ジャオを監督に指名して、製作されたとのことです。クロエ・ジャオは、中国出身ながら、アメリカで学び活動する若手監督です。マクドーマンドは、彼女の監督2作目「ザ・ライダー」(2018)を見て、起用を決めたようです。「ザ・ライダー」は、役者を使わず、詩情豊かな映像が主人公の内面を浮かび上がらせる佳作でした。アメリカで撮っているとは言え、彼女も、中国第7世代を代表する監督の一人だと思います。近年、観客を引きずり込んで展開する伝統的な映画ではなく、フラットにドラマを提示し、判断を観客に委ねるスタイルの映画も多くなりました。クロエ・ジャオも典型的だと思います。そういう意味では、彼女の起用は、ドンピシャだったわけです。なお、クロエ・ジャオは、アマゾン・オリジナルとマーベルで次回作を撮影中とのこと。楽しみです。

アメリカの田舎の人を演じさせたら、この人の右に出る人はいないと言えるフランシス・マクドーマンドは、いまやアメリカを代表する大女優になりました。アカデミー主演女優賞2回、助演女優賞ノミネート3回、トニー賞もエミー賞も獲っています。彼女が出た映画は、何らかの賞を獲っているような印象があります。コーエン兄弟のデビュー作「ブラッド・シンプル」(1984)は、マクドーマンドのデビュー作でもあります。実在感ある田舎娘を好演していましたが、彼女の名前を不動のものにしたのは、やはりコーエン兄弟の「ファーゴ」(1996)なのでしょう。コーエン兄弟と彼女の独特な間合いがピッタリ共鳴した名作です。彼女無しに「ファーゴ」は成立しません。実生活においても、ジョエル・コーエンと彼女は夫婦ですが。

2000年前後から、アメリカで起きた産業転換は、白人労働者の没落を招きました。多くは、長く地方の工場で働き、アメリカの中流家庭を築いてきた層です。アメリカの産業界は、グローバル化戦略のなかで、世界のフラット化、つまりアメリカン・スタンダードで世界を統一し、生産をコストの安い海外へと移転していきます。アメリカ国内には、マネジメントと研究開発が残り、同時にIT分野へと産業転換が進められました。トランプは、白人中流階層の没落は、中国とメキシコ移民のせいだと言いました。違います。アメリカの産業界が選択したことであり、政府は、その変化に対応できませんでした。本作は、その間の事情を背景としながらも、決して、ここを深堀していません。旅に憧れるアメリカ人の特性、あるいはノマドが有する文明批判と、微妙にバランスさせています。テーマがあいまいになったきらいもあります。

「ノマドの一番良いところは、最後のさよならを言わないことだ。皆、"See you down the road"(どこかの道でまた会おう)と言うだけだ」というセリフが出てきます。とても象徴的な言葉のように思えます。”最後のさよなら”は、人間にとって避けがたい死のことでもあり、生きるうえで成さざるを得ない大きな判断のことでもあるのでしょう。ノマドの気楽さとも言えますが、ノマドの現実逃避という面を、端的に表しているように思えました。(写真出典:eiga.com)

2021年3月29日月曜日

制度としての結婚

Mary Daly
題名が思い出せないのですが、三島由紀夫の短編のなかで、貴族の母が娘に「恋なんて、結婚してからにしなさい」と言う下りがあったと記憶しています。また、和田誠の「お楽しみはこれからだ」のなかで紹介されていた映画「ボルジア家の毒薬」の名セリフに「恋人なら結婚してから探せばよい」というのがありました。チェーザレ・ボルジアが妹ルクレチアに言う言葉です。いずれも、結婚と言えば政略結婚しかなかった世界の話です。非人間的と思える政略結婚ですが、有力な家に生まれれば、一族の隆盛、自らの安寧、そして我が子の安全や立身のためには、当然のことだったのでしょう。政略結婚を、人権無視の残酷な仕打ちと理解するのは、現代人だからかも知れません。

とすれば、そもそも結婚という制度は何なのか、という疑問が湧きます。ホモ・サピエンスが選択した繁殖方法、あるいは愛しい人と一緒にいたいという気持ち等は理解できますが、それと社会的制度とは、必ずしも一致しません。人類は、直立二足歩行を始めた際、赤ん坊を小さく産んで、時間をかけて育てる作戦を採らざるをえませんでした。人間の乳児は、すぐには立てませんし、授乳期間が終わっても、すぐには自ら食物を確保することもできません。その長い育成期間を担うのは、授乳期間があることから、女性でした。その間、女性は、食物を自分で確保できないため、相方の男性が、食料を供給します。乳児死亡率が高かったこともあり、女性はどれだけ多くの子を産み、育てられるか、ということが種の繁栄上、最も重要でした。よって、農耕以前の社会は、母権社会だったと想定されています。

農耕が始まると、効率的に食料を確保できるようになり、かつ余剰も生まれます。生産の前提である農地、そして労働単位である家族が極めて重要な生産手段となります。農業生産を、より組織的、効率的に行なうために生まれたのが家父長制度だったのでしょう。農地も労働力もすべて家父長のみに所有権が認められ、それを根拠とした統治が行われる仕組みです。結婚は、家父長制度を支える仕組みとして制度化されたのでしょう。いわば、制度としての結婚とは、所有関係の明確化だったのでしょう。極端に言えば、妻をどうしようと家父長である夫の勝手だったわけです。もちろん、現代では、法的に家父長制度は否定され、男女、親子を問わず、すべての個人に等しく人権が認められています。しかし、それが法的に整備されてから、まだ100年も経っていません。

ラディカルなフェミニスト(女性解放活動家)は、結婚制度を否定します。当然だと思います。男女平等を勝ち得るためには、女性を従属的位置に固定した家父長制度、およびそれを支える仕組みを排除する必要があります。法的には改正されたとしても、社会には、まだまだ家父長制に基づく仕組みや意識が多く残ります。残存する仕組みの代表が、制度としての結婚なのでしょう。また、意識の問題としては、男性側ばかりに問題があるとは言えません。女性の意識にも、まだ多く家父長制の影響が残ります。昔、台湾財界の方から「50年かけて築いたものは、無くなるまで50年かかります」と聞かされました。台湾における日本の影響の話です。同じ理屈が成り立つのなら、相当過激な対策を講じない限り、男女平等が実現するのは、かなり先のことだと言えます。

欧米のラディカル・フェミニストにとって、最大の難敵は、キリスト教かも知れません。アメリカの神学者にしてラディカル・フェミニストのメアリ・デイリーは、「神が男なら、男は神である」と言い切り、それまでタブーであったキリスト教の家父長制的性格を批判しました。しかし、デイリーは、神を否定したわけではありません。神の言葉が問題なのではなく、家父長制を前提としたその記述に問題があるとするフェミニズム神学を創設しました。(写真出典:nytimes.com)

2021年3月28日日曜日

エルヴィス・マニア

今年のグラミー賞は、やや退屈な結果に終わったと思います。日ごろ、アメリカのポップを追いかけているわけではないので、グラミーのノミネートや受賞結果から、新しい音楽を仕入れることを楽しみにしています。今年に限っては、新鮮な驚きがまったくありませんでした。グラミー賞は、1958年を対象にスタートしました。もし、グラミーが1956年を対象として始まっていたら、一人のアーティストが主要部門をすべて独占していたはずです。その年、メンフィスから来た若者が、記録破りの大ヒットを立て続けに飛ばし、世界中の若者を虜にしました。エルヴィス・プレスリーです。エルヴィスは、グラミーの”Hall of Fame”や”Lifetime Achievement Award”、あるいはゴスペル部門を獲得していますが、四大部門は、一度も受賞していません。とは言え、エルヴィスは、グラミーなど霞むような大記録を多く持ち、レコード・CDの売上だけでも600億円。ギネス・ブックによって、史上、最も成功したソロ・アーティストと認定されています。

その人気は、今も衰えることがなく、死後のセールス等も大記録となっています。メンフィスの自宅”グレイスランド”は、訪れる人が絶えず、国定史跡に認定されているほどです。さらに驚くべきことに、エルヴィスのものまねを生業にしている人が8万人以上いると言います。確かに、アメリカ南部では、いたるところにエルヴィスがいます。皆、判で押したように白いベルボトムのジャンプ・スーツ、派手なもみあげにサングラス、と晩年のラスヴェガスのステージを真似しています。もはや典型的な南部の光景の一つと言え、何の違和感もありません。エルヴィスは生きているという風説が絶えないのも、そっくりさんがどこにでもいるからではないか、とさえ思います。南部でキングと言えば、エルヴィスのことですが、その絶えない人気は、もはや宗教レベルとしか言いようがありません。

いつの時代にも、若い世代は旧体制に対してNOと言うものだと思いますが、50年代のロックンロールほど強烈だったものはなく、60年代の世代断絶も、ここから始まったと言えます。いわばその教祖たる存在がエルヴィスでした。ロックンロールは、白人のカントリー・ミュージックと黒人のR&Bが、譜面の上ではなく、彼の体の中で合体して出来上がった音楽です。腰を振って歌うスタイルが低俗だと批判されたわけですが、それはエルヴィスの発明ではなく、黒人文化でした。ミシシッピの田舎町で生まれ、メンフィスの低所得者用住宅で黒人とともに育ったエルヴィスならでは音楽と風俗だったのでしょう。人種差別が激しかった頃のアメリカでは、黒人のように歌い振る舞う白人は、かなり衝撃的だったはずです。若者たちは、そこに旧体制からの自由を見出すわけですが、同時に、それは南部の貧乏人が、北部の白人たちに突き付けた、低俗さというテロだったとも言えます。

エルヴィスの最大の特徴は、甘い声と低俗性だと思います。20歳そこそこで、突然、大金を手にした南部の貧乏人がやったことは、英国風の貴族的生活を目指すことではなく、ピンクのキャディラックに乗り、毎日ベーコンを1パウンド、バナナ・プディングをケースごと食べることでした。貧しい少年が日々夢みたことの実現だったわけです。キングは、何事にも最高を求めましたが、あくまでも貧乏人が発想する身近な夢であり、その低俗性が変わることはありませんでした。エルヴィスは、大成功しても、南部の貧乏な少年であり続けたとも言えます。そのことこそが、エルヴィス人気が衰えない真の理由ではないかと思います。それは、ホワイト・トラッシュとも、ヒルビリーとも呼ばれる南部の白人たちの世代を超えて続く貧困の反映でもあります。ドナルド・トランプの異常な人気とも重なる面が多いように思えます。

驚いたことに、クック・パッドに、エルヴィス・サンドイッチのレシピが、十数件も投稿されていました。エルヴィスが食べている写真を見ると、結構、分厚いサンドイッチになっていますが、クック・パッドでは、お上品なものばかりです。本物は、バターで揚げ焼きしたパンに、ピーナッツ・バター、ベーコン、バナナを挟んだものです。エルヴィスにとっては、おふくろの味であり、ほぼ毎日食べていたと言います。そのカロリーの高さが、エルヴィスの体にもたらした影響は明らかです。(The Ultimate Elvis Tribute Artist Contest   写真出典:nbcnews.com) 

2021年3月27日土曜日

オーパーツ

”黄金のスペース・シャトル”
オーパーツ(out-of-place artifacts)は、発見された場所や時代とはそぐわないと考えられる人工品のことです。未確認飛行物体(UFO)、未確認動物(UMA)、超常現象等の研究家アイヴァン・サンダーソンが、1960年代半ばに命名したとされます。オーパーツ・ブームの先駆けとなったのは、サンダーソンが紹介した「黄金のスペースシャトル」です。コロンビアの古代遺跡から発掘された手のひらサイズの装飾品ですが、三角翼・垂直尾翼らしきものが付いた形状から、航空機の一種ではないかとされました。科学者から、航空力学にかなっているとのお墨付きもあり、また発掘場所がナスカの地上絵に近いこともあり、宇宙人がプレ・インカ文明発生に関与していたという人気の説につながりました。

細部の異なる同様のデザインの出土品も多く、今ではナマズの一種プレコを模した装飾品という認識が一般的です。また、7世紀マヤのパカル大王の石棺の蓋には、ロケットを操縦しているかのような王が描かれています。スターウォーズのスピーダー・バイクのようなものに、王がまたがっている様は、まさに驚きです。マヤ・インカと宇宙人との関わりを証明するオーパーツとして有名です。これは横にした場合、そう見えるということであり、本来は縦に描かれたものであり、生命の樹の下に横たわる王を描いたものであることが知られています。オーパーツの一つの典型が、こうした近代の発明品によく似た出土物です。単なる偶然がほとんどです。

また、デリーのアショカ・ピラーも有名です。1500年間、雨ざらしになっているにも関わらず、一切錆びていない鉄柱です。デリー郊外のイスラム遺構クトゥブ・ミナール敷地内にあります。私も見ました。観光客で賑わう世界遺産のなかで、この鉄柱に反応しているのは、私一人でした。錆びない理由は、製造過程でリン鉱が残り、コーティングの役割を果たしているからだそうです。4~5世紀に作られたコスタリカの石球群も世界遺産ですが、なかに完全な球体に近いものがあり、その技術力があり得ないとしてオーパーツだとされます。ただ、時間を掛ければ、当時の技術でもこのような球体を作ることが可能であることが証明されています。このように、不思議とされたことが、科学的に不思議ではないことが証明されたオーパーツも多くあります。

私が最も好きなオーパーツは、アンティキティラ島の機械です。NYで、この復元品を見た時には、本当に驚きました。1901年、アンティキティラ島の沈没船で発見されています。紀元前3~1世紀の作成と確認されています。外箱、歯車の一部やハンドルが欠損していますが、かなり完全に近い形を保っています。数十におよぶ大小の歯車が複雑に絡み合っており、技術レベルは、千年も先を行っているとされました。その後、調査研究が続けられ、現在では、天体の位置を予測するためのアナログ天文計算機もしくは太陽系儀だとされています。天体の動きに関する知識は、シュメールに始まり、当時、かなり高いレベルまで蓄積されていました。また、機械に関しても、アルキメデスの各種発明が示すとおり、高い水準にありました。実に優れた機械とは言え、その時、その場所にあっても当然だったわけです。

私も何度か目撃しましたが、UFOに関しては物的証拠がありません。UMAも、足跡といった不確かな証拠しかありません。オーパーツは、現物があるので、白黒が付けやすい面があります。オーパーツと称されるものの中には、多くの偽物が混じっています。例えば、オーパーツの代表のように言われていたアステカの水晶製の髑髏は、近代の作であることが証明されています。オーパーツが、いかに大きなロマンであり、多くの人を惹きつているか、ということの証左でもあります。(写真出典:w.atwiki.jp)

2021年3月26日金曜日

ジャスミン革命

ジャスミン
1936年に起きた二・二六事件を、安易にクーデター未遂事件と呼ぶ傾向があります。クーデターとは、支配階層内部における武力による非合法な政変のことです。そこで言う”政変”とは、現政権が、他の政権にとって替わることです。二・二六事件の青年将校たちが現政権の閣僚を暗殺し求めたことは、自らが政権を奪取するのではなく、天皇に親政を敷いてもらうことでした。これでは現実世界の政変とは言えず、精神論に近い世界です。支配階層内部において、統治のあり方を武力で転換しようとした、という意味ではクーデター的ではあります。対して、革命とは、被支配階層の蜂起によって既存政権を転覆することです。

2010年12月、チュニジア中部の街シディ・ブジドで、屋台で野菜を売るモハメド・ブアジジは、許可証を持っていないという理由で、商品と商売道具を没収され、暴行まで受けます。ブアジジは、役所に何度も掛け合いますが、賄賂を要求される始末。思い余ったブアジジは、県庁前で焼身自殺します。その模様は、フェイスブックで拡散し、アル・ジャジーラで放送され、国民の知るところとなります。30%を超える失業率にあえぐ若者たちが声を挙げます。SNSを通じてデモは拡大し、23年間にわたり腐敗した政治を続けてきた独裁者ベン・アリ―打倒が叫ばれます。警察は市民に発砲、多くの犠牲者を出します。軍隊も鎮圧に投入されます。しかし、軍部は発砲命令を拒絶します。さすがの独裁者も、ここまで観念し、ベン・アリ―は退陣します。

いわゆるジャスミン革命であり、SNSによる革命とも呼ばれました。チュニジアの国花はミモザですが、国民に愛されるジャスミンから命名されました。その後、暫定政権は、民衆の要求に多く応え、総選挙も実施されました。しかし、権力の不在に伴う政治的混乱は続き、内乱の危険もありました。それを回避したのはノーベル平和賞も受賞した「国民対話カルテット」の存在です。労働団体、経営者団体、人権団体、弁護士団体が連携し、対話による解決を呼びかけました。ジャスミン革命を特徴づけているのは、SNSと国民対話カルテットだと思います。とは言え。チュニジアは、今も経済の不調、高い失業率に苦しんでおり、革命を疑問視する声もあるようです。

ジャスミン革命は、SNSを通じて、即座に、中東各国に飛び火しました。いわゆるアラブの春です。リビアやエジプト等では独裁者が退き、多くの国で民主化プロセスが進みます。しかし、チュニジアのような推移をたどった国はありません。多くは、多少民主化したものの、現体制が維持されました。権力の不在につながった国々では、他国の干渉、新たな軍事クーデター、そして内乱をも引き起こします。内乱では、多くの難民が生まれ、欧州を目指しました。特殊な展開となったシリアでは、宗教的対立もあり、他国やISの干渉もあり、内戦は激化、多くの難民を生みました。アラブの春は、本当に春だったのか、とも言われます。SNSによる自然発生的な民衆蜂起は、画期的なことでした。しかし、多くの場合、組織化されていないことが、その後の混乱を生じさせたとも言えます。

世界は、まだ、SNSの本質、あるいはその扱い方を十分には理解できていないとも思えます。とは言え、SNSが、独裁に対する極めて有効な対抗策となり、非民主的な政権運営に対する牽制になり得ることは証明されたと思います。それを知っているからこそ、中国は、徹底的なSNS規制をかけているとも言えます。(写真出典:kurashi-no.jp)

2021年3月25日木曜日

馬拉糕

菜香の馬拉糕
岩手県の水沢で、出来立ての郷土菓子「雁月(がんつき)」を食べた時には、その美味しさに驚きました。要は黒糖蒸しパンです。昔から、農作業時の小昼(こびる)、つまりおやつとして食べられてきたとのこと。調べると宮城県と岩手県で好んで食べられてきたようです。海岸部では外郎タイプ、内陸部は蒸し菓子と分かれるようですが、いずれも雁月と呼ばれます。雁月という名称は、丸い蒸しパンを月に見立て、上にちらしたゴマやくるみを雁に見立てたと言い、実に風流なものです。元々は、秋の収穫時期の祝い菓子だったという説があります。広重の名作ではありませんが、月に雁、とは季節感もピッタリです。また、仙台藩が米の消費を節約するために、蒸しパンを奨励した、という説もあります。岩手の県南地方は仙台藩の領地でしたから、頷ける話です。

また、一説には、中国の寒食節(かんじきせつ)に由来するとも言われます。寒食節は、春、農耕の始まりに際して、数日間、火を一切使わず、火を改めるという習慣です。日本ではなじみ薄ですが、世界的には似たような行事が多く存在するようです。その際に食べるのが、冷たい食事、つまり寒食であり、蒸しパンは、その献立の一つだったようです。また、介子推の焼死を弔って行ったのが寒食節という説もあります。介子推は、晋の文公の論功行賞に漏れたことを嘆き、母と山中に籠ります。文公は下山させるため、山に火を放ったところ、介子推は母を抱いたまま焼死。文公は、その死を悼み、命日から3日間は火を使うことを禁じた、という話です。介子推は、実在しますが、この話は後世の創作のようです。中国の寒食節は、明代に清明祭に吸収される形で廃れたそうです。

しかし、なぜ旧仙台藩だけ寒食節なのか、という点は疑問であり、やや眉唾です。中国を持ち出されると、雁月と馬拉糕の類似性も気になります。蒸し菓子も中国からもたらされたものだと思います。先祖が同じなので、類似していて当然というわけです。馬拉糕は、私の大好物の一つです。馬拉糕好きゆえ、雁月も、すぐ気に入ったのでしょう。馬拉糕の起源もはっきりしていないようです。馬拉は、中国語でマレーシアのことであり、マレーから伝わった菓子とも言われます。またマレー人のように褐色だから馬拉糕と呼ばれるようになったという説もあるようです。雁月などの蒸し菓子と馬拉糕の大きな違いは、ラードを使うことです。それによって、独特なしっとり感が出ます。

蒸しパンの歴史そのものも明確ではありません。農耕は小麦から始まりますが、そのままでは食べれないので、小麦を粉にして水でこね、そのまま焼いたものがパンの始まりなのでしょう。ヨルダンからは、1万4千年前のパンの化石が出土しているようです。発酵させてから焼くパンは、4千年ほど前からあったようです。蒸しパンに限って言えば、メソポタミアやエジプトではなく、中国が起源なのではないか、とも聞きます。華北には、もともと蒸し器が存在し、そこに中央アジアから小麦が伝来したようです。発酵させない窩々頭、発酵させた饅頭、それらで何かを包んだ包子は、いまでも中国北部の主食です。蒸し菓子も中国起源と考えるのが自然なのでしょう。

私が最も好きな馬拉糕は、横浜中華街の菜香のものです。菜香では、馬拉糕を、10時間かけて、じっくり蒸し上げるといいます。そのしっとり感とふわふわ感は、他に類を見ないと思っています。私は、レンジで軽くチンして食べます、ふわふわ感が増して、より美味しくいただけます。よく生クリームを添えて食べるとも言われますが、私のお勧めは、メープル・シロップです。蜂蜜でもいいのですが、メープル・シロップの方が馬拉糕には合うように思います。(写真出典:saikoh-shyokuhin.com)

2021年3月24日水曜日

椰子の木陰

映画「フラガール」から
東日本大震災から1年後のことです。その頃、毎年、営業成績が優秀な職員200人ばかりを集めてコンベンション兼研修会を行っていました。プログラムの一つが、社外講師による講演会でした。その年は、震災後の対応が続いていたこともあり、なかなか講師を決められずにいました。3月、NHKで、スパリゾートハワイアンズのフラガールによる「全国きずなキャラバン」を密着取材したドキュメンタリーを見ました。施設が大きな被害を受けて、営業再開のめどが立たないなか、フラガールの皆さんは、フラで皆を笑顔にしたいと、避難所から始めて、全国をキャラバンします。泣きました。これだ、と思いました。

早速、常磐興産に斎藤社長を訪ね、社長のご講演、そしてフラガールの皆さんに踊ってもらうことをお願いしました。既に営業を再開していたにも関わらず、ご快諾いただきました。斎藤社長は、震災の際、帰るに帰れなくなった東京からのお客さまたちを、自らバスを運転して、それぞれのご自宅まで送り届けた、という方でした。講演会当日、斎藤社長には、スパリゾートハワイアンズの歴史、震災時の対応等を話していただきました。フラガールの皆さんの明るく元気なフラには、元気をもらいました。そして最後に映画「フラガール」の主題歌「フラガール~虹を~」が流れ、たおやかなフラが踊られました。涙が止まりませんでした。

映画「フラガール」は、李相日監督、松雪泰子主演の、2006年の大ヒット作です。キネマ旬報年間第一位、日本アカデミーはじめ、多くの賞も獲りました。にもかかわらず、私は、日本映画をほとんど見ないので、講演を依頼した段階では見ていませんでした。その後、講演会前に見ることができました。ボロ泣きです。最も泣けた映画の一つです。1966年に開業した常磐ハワイアンズの創成期に、フラガールを指導したカレイナニ早川とずぶの素人だった炭鉱の娘たちの物語です。ジェイク・シマブクロの音楽も良く、特に主題歌は名曲だと思います。ジェイクは、ハワイが生んだウクレレの天才奏者です。フラだからというこで、安易に依頼したのかも知れませんが、大正解でした。

常磐炭田の歴史は古く、1856年に石炭層が発見されると、順次、採掘が始まり、1870年代には、大規模な開発が行われました。首都圏に近いという好立地が幸いし、大いに栄えますが、1960年代に入ると石油に押され、廃坑が進みます。そこで、新たな収益源の確保、炭鉱労働者の雇用確保という観点から、豊富な温泉を活用した「常磐ハワイアンセンター」が計画され、1966年にオープンします。高度成長、レジャー・ブームといった背景があったにせよ、東北に椰子の木陰を作るなど、実に思い切った判断だったと思います。私なら反対します。事業性もさることながら、炭鉱労働者の戸惑いは半端なかったと思います。ましてや、娘たちのフラダンスなど、目が点になったはずです。

経済状況に左右された浮き沈みはあるものの、営業努力もあり、スパリゾートハワイアンズは概ね順調です。ブームとともに作られた全国のレジャー施設が壊滅状態であることを思えば、実に見事なものです。失礼な言い方になりますが、”まがい物”もここまでくると、一つの文化を形成したとも言えます。産業転換の成功例ですが、その背景として、大真面目に異業種に取り組んだ炭鉱の皆さんの並々ならぬご努力があり、そして、なかでもフラガールの皆さんの研鑽が認めらたことが大きかったのでしょう。それが、映画「フラガール」の大ヒットにもつながりました。炭鉱の跡地に椰子の木陰を作るという、まさに奇跡のプロジェクトですが、真似をしてはいけない事業だとも思います。(写真出典:hawaiians.co.jp)

2021年3月23日火曜日

丸の内

三菱ヶ原
同じ三菱グループの人たちには、初めて会ったとしても、どことなく親近感を覚え、なにか遠い親戚に会ったような気になります。それもそのはず、知らない企業ではなく、共通の知人も多いからだと思います。これは他のグループでも、まったく同じだと思います。グループとは言え、独立した企業の集まりですが、グループとしての連携を保つ努力も様々行われてもいます。そうした組織、施設、あるいはアクティビティの他に、興味深いと思うのが、丸の内という存在です。江戸期には、武家屋敷が並んでいあたりですが、明治になると軍事演習用地として、ただの野原が広がっていたようです。これを三菱の2代目岩崎弥之助が払下げてもらいます。当時は、”三菱ヶ原”と呼ばれ、その様子を描いた作者不詳の油絵もあります。散々見せられた懐かしい絵でもあります。

弥之助は、三菱ヶ原をビジネス・センターにする構想を持っており、1894年、三菱一号館を皮切りに、二号館、三号館、東京商工会議所と赤煉瓦の洋風建築が建設され、「一丁倫敦」と呼ばれます。いわゆる三菱村の誕生です。以降、丸の内には、三菱の中核を成す三菱商事・三菱重工・三菱銀行はじめ、グループ各社の本社が置かれました。この地域的集中は、他のグループにはない特徴だと思います。これが排他性を高めることは無かったと思いますが、グループの親近感を高める効果はあったと思います。NYに駐在している時、三菱系の皆さんと食事をすると、よく丸の内の話が出ました。記憶しているのは、丸の内昼食ベスト・テン、そして三菱重工爆破事件です。

昼食ベスト・テンは、皆、好きな話題でした。良く名前が挙がったのは、竹葉亭の鯛茶漬け、鳥藤のミルク・ワンタン、福津留の南蛮、伊勢廣の焼き鳥お重、万世のパーコー・ラーメン、山水楼の焼きそばと肉まん、菊亭のかき揚げ、きくかわの鰻等々でした。一番になる確率が高かったのは、伊勢廣帝劇店の焼鳥お重でした。串が選べて、本数も増すことができます。私は、2本増しでいきます。かつて、若い人たちには、課長級で1本増し、2本増しは部長になってから、と言っていました。丸の内にしか無いものとしては、ミルク・ワンタンと南蛮でしょう。ミルク・ワンタンは、聞けば驚きますが、食べると納得できます。南蛮は、既にオリジナルの味ではありませんが、鶏肉と玉ねぎを辛いスープで煮たものです。アルミ・ホイルに入れて調理し、そのまま出されます。辛いのとアルミ・ホイルの形が南蛮船に似ていることから南蛮と呼ばれます。それぞれ社員食堂はあったものの、外で食べる人も多く、丸の内仲通りの昼時は、いつも結構な人通りがありました。

その昼時の仲通りが地獄に変わった日がありました。三菱重工爆破事件は、1974年8月30日の昼時に発生しました。東アジア反日武装戦線「狼」による企業を標的とした一連の無差別爆弾テロの一つでした。丸の内仲通りに面したビルが破損し、ちょうど昼食時で込み合っていた仲通りには、ガラスの雨が降りました。結果、8人が死亡、376人が負傷しました。地下鉄サリン事件が発生するまでは、日本史上最悪のテロでした。私は入社前でしたが、その日を経験した先輩たちは、あの時、どこにいたか、から始まり、延々と話していました。仲通りの地獄絵図もさることながら、各社の皆さんが、総出でケガ人の救援にあったことも忘れ得ぬ記憶だったようです。共通の体験は、人々の結束を高める効果があります。ましてや新宿まで聞こえたと言う爆発音やガラスが降ってくるという経験ならば、なおのことでしょう。

昔は、よく休日出勤をしていました。休日の仲通りは、閑散としており、それはそれで好きでした。それが、今や、休日の方が人出が多いという街に変わりました。三菱地所による通称”丸の内マンハッタン計画”は、丸ビルの建て替えから始まったと記憶します。1923年建造の旧丸ビルの地下からは、基礎に使われた松の杭が5,400本以上出てきたと言います。三菱ヶ原は湿地帯だったので、水に強い松が使われたわけです。驚くべきことに、松杭は、建造時の状態をそのまま保っていたそうです。一部は、丸ビル36階の”招福楼”の内装にも使われ、1階オフィス入口では、そのままの姿を見ることもできます。(写真出典:jaa2100.org)

2021年3月22日月曜日

「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

 総監督:庵野秀明 監督:鶴巻和哉・中山勝一・前田真宏    2021年日本

☆☆☆☆

※タイトルの最後には演奏記号の「反復終了」が付きます。

本作を見るにあたり、まずは、エヴァのTVアニメ全26話(95~96年)、劇場版の「Air/まごころを、君に」、「DEATH (TRUE)2」、新劇場版の序・破・Qを見て、たっぷりとエヴァ・ワールドに浸りました。エヴァンゲリオン(福音)と謎の「使徒」と呼ばれる敵が戦うという暗示的な設定から、その世界観にハマりました。他にも、エヴァには、死海文書、アダム、リリス、知恵の実、マギ、最後の審判を思わせるセカンド・インパクト等々キリスト教からの暗示的な引用が多く、当初は、キリスト教の世界をテーマにしているのかと思いました。ただ、引用はしても、キリスト教ベースではなく、一神教的な終末論でもなく、むしろ新たな天地創造神話の様相を帯びています。

SFは、しばしば神の領域に入っていきます。未来のストーリーを展開しようとすれば、未来の世界を定義する、つまり新たな世界を創造する必要があるからです。そして創り上げた世界観を主題として提示するSFも多くあります。ただ、エヴァは、違うようです。世界観を暗示させるものが多く散りばめられていますが、説明されることもなく、厳密に論理的で科学的な構成を持っているようにも見えません。暗示に留めることで、世界観に奥行きを持たせたり、視聴者のマニアックな興味を引き出したりしているように思えます。SFアニメの世界では、暗示や複線といった小細工を配することは、一般的に行われる手法なのかもしれませんが、なかなかうまいやり方だと思います。

一見すると、エヴァの主題は、エディプス・コンプレックスのように思えます。シンジ、ミサト、アスカ、リツコに関しては、しつこいほどに親との関係性が提示されます。エヴァは、シンジ君たちが自我や超自我を形成していく物語とも言えます。そういう意味では、新たな創造神話というよりも、ジョーゼフ・キャンベルの比較神話論に近い正統派ファンタジーのように思えます。1) 天命が下る、2) 従者と旅に出る、3) 別世界へと入る、4) 指導者・協力者と出会う、5) 悪と出会う、6) 戦いのなかで成長する、7) 戦いを征する、8) 帰還してリーダーになる、というのがキャンベルの構成ですが、エヴァの場合、7)は典型的な形はとっておらず、8)はありません。

エヴァにおけるシンジの従者とは、エヴァ・パイロットたちであり、ミサト、リツコ、同級生たちなのでしょう。また、指導者・協力者は、一見、ミサトのようでもありますが、やはり綾波レイなのでしょう。多くの神話に登場する母のイメージを宿す女神そのものです。6)の”戦いのなかでの成長”は、キャンベルの原典では”Transformation(変容)”となります。憎しみと憧れの対象である父なるものへの変容です。変容して、はじめて父なるものと対等に戦えるわけです。エヴァで言うところの「覚醒」かも知れません。”7)戦いを征する”には、エヴァのユニークさが見えます。シンジがお膳立てをして、母なる女神が戦いに決着をつけ、シンジが父を理解する、という流れになっています。なお、エヴァには、8)の戦いの後の世界が無いわけですが、続編へ含みを持たせているようにも思えます。

シン・エヴァは、実によく構成された上出来の作品です。エヴァの世界観をベースに、スピード感もあり、エンターテイメント性も高く、おそらく予備知識無しでも十分に楽しめる作品になっていると思います。その分、世界観の深堀が抑えられた面もあり、マニアックなエヴァ・ファンには、やや消化不良かも知れません。”Game of Thrones”の最終回を巡る議論を思い起こさせます。ただ、新たな暗示も少なからず提示されており、様々な議論が、まだまだ続くことでしょう。(写真出典:itmedia.co.jp)

2021年3月21日日曜日

ラウェイ

ミャンマーの神聖なる国技と言われるラウェイは、世界で最も過激な格闘技とも言われます。神事ゆえ、試合前の儀式もあり、試合中も生演奏の音楽が流れ続けます。タイのムエタイに似ていますが、違いは、グローブを装着せず、バンデージを巻いただけで闘うこと。さらに、立った状態の関節技、頭突き、投げ技、故意ではない金的も許されています。また、伝統的には、フリー・ノックダウン制であり、カウントも取りません。つまり、完全に倒れるか、試合放棄の意思が表明されない限り、試合は終りません。また、採点もされず、判定による勝敗もありませんから、どれだけダウンしても、5R終了時点で立っていれば、負けにはなりません。また、タイムアウトも認められます。近年の公式戦では、選手の安全のために、カウントも取り、スリー・ノックダウン制も採用され、一部、採点による判定も行われています。

アンダーグラウンド・ファイト的な感じもしますが、要は、古い武術の姿を、変えることなく今に伝えているということなのでしょう。競技化される以前の古式ムエタイも、ラウェイに近いものだったようです。ラウェイの歴史は、千年を超えるといわれますが、古式ムエタイ同様、その起源ははっきりしていません。ただ、インドの古式武術カラリパヤットが源流であろうとされています。相撲の由来にも似ています。神事が先か後かは別にしても、戦場における実戦的武術として、そして武人の日ごろの鍛錬として発展してきたということなのでしょう。

カラリパヤットは、武器も使う総合的な武術ですが、もともと南部のケララ州のドラヴィダ人の武術と侵入してきたアーリア人の武術が融合して誕生したとされます。現在の形になったのは、12世紀頃といわれますが、その起源ならば、紀元前までさかのぼるのでしょう。カラリパヤットを源流とするのは、ラウェイやムエタイだけではありません。禅宗の開祖である達磨大師は、6世紀、インドから中国に渡り、嵩山少林寺を開きます。その際、カラリパヤットも伝え、少林拳が生まれたとされています。琉球古武術も、少林拳が源流という説もありますから、空手も、カラリパヤットの末裔であり、ラウェイの遠い親戚ということになります。

ミャンマーには、古くから、南部のモン族、北部のピュー族の国が栄えており、一時期、雲南の南詔国に支配された時代もありました。10世紀以降は、ヒマラヤ山脈北部に起源を持つとされるビルマ族が南下し、以降、ビルマ族、モン族、シャン族などのタイ族、山岳民族、さらにモンゴルやムガールが、イラワジ川流域に広がる豊かな穀倉地帯を巡って争ってきました。武術としてのラウェイが必要とされたわけです。19世紀には、英国が武力によってインドに統合し植民地化します。英国は、ミャンマーを多民族化し、お得意の分断統治を行います。今も続く民族紛争や貧富の差のタネがまかれたわけです。1947年には英国から独立を果たしますが、永らくネ・ウィンによる軍事独裁が続きます。それに終止符を打ったのは、88年の反政府運動でした。

しかし、即座に軍部が政権を掌握します。大衆は、たまたま英国から帰国していた独立の父アウンサンの娘アウンサン・スー・チーを担ぎ出して、国民民主連盟(NLD)を結成します。以降、2015年にNLDが政権を確保するまで、スー・チー女史は軟禁されながらも、民主化運動を率いてきました。2021年2月、軍部は、自らの利権を確保するために、クーデターを起こし、スー・チー女史も再び軟禁されます。大衆はデモに打って出て、軍部と対峙しています。既に多数の死者がでています。国民を守るために結成された国軍が、国民に銃を向けた瞬間、それはただの武装勢力に成り下がります。独裁に終止符を打ち、しぶとく民主政権を獲得した国民は、簡単には引き下がりません。ラウェイを国技とする国の国民は、倒れても、倒れても、立ち上がります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年3月20日土曜日

山の上ホテル

私が、東京で一番好きなホテルは、神田駿河台の「山の上ホテル」です。近年、食事はしても、宿泊することはなくなりました。かつては、地方へ赴任していた時、あるいは正月等には、よく宿泊していました。高台に立つ、いわゆるクラシック・ホテルです。客室数が35という小規模なホテルですが、アール・デコの建物、感じの良い接客、おいしい食事等、上質感の漂うホテルです。かつては、出版各社が近いこともあり、文筆家のいわゆる缶詰宿としても有名でした。川端康成、三島由紀夫、池波正太郎等が愛したホテルでもあり、文化人のホテルとしても知られています。

1937年建造の本館は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計です。ヴォーリズ合名会社、のちの近江兄弟社の創立者でもあります。施主は、北九州の石炭商・佐藤慶太郎であり、当初は、佐藤の慈善事業の拠点、佐藤新興生活館として使われています。戦争中は、海軍に接収され、戦後はGHQが米軍婦人部隊の宿舎として使っています。ホテルとしての開業は、1954年でした。実業家である吉田俊男が借り受ける形でスタートしています。ホテルの名前は、米軍婦人部隊がつけたニック・ネーム”Hilltop”に由来します。かつては別館もありましたが、2014年、隣接する明治大学に売却されています。

日本クラシック・ホテルの会には、日光の金谷ホテル、箱根の富士屋ホテル、軽井沢の万平ホテル等、9つのホテルが参加しています。山の上ホテルは、建物とコンセプトの基準なら十分に満たしていると思いますが、創業が浅いので入会していないのでしょう。日本にも、アール・デコ建築は、多少、存在しますが、ホテルはここだけだと思います。曲線のアール・ヌーヴォに対して直線のアール・デコと言われますが、アール・デコの特徴の一つは、エキゾティシズムだと思います。山の上ホテルは、外観から調度品にいたるまで、アール・デコで統一されていますが、私のお気に入りは、廊下や階段に配されたタイルです。エキゾティシズムを感じさせる色や質感が、自己主張することなくあしらわれ、上質感を醸し出しています。ステーキ・レストラン”ガーデン”から望む小さな庭も、とても感じが良く、好きですね。

山の上ホテルの大きな特徴は、食事だと思います。なかでも最も有名なのは”天ぷら山の上”でしょう。天ぷらの名店は数々ありますが、かつて東京に君臨していたのは”近藤”と”みかわ”だったと思います。さつまいもの天ぷらで有名な銀座の”近藤”は、天ぷら山の上の料理長を永年務めた近藤さんの店です。私が、天ぷらの美味しさ、奥深さを、はじめて知ったのは、ここ天ぷら山の上です。中華料理”新北京”の安定感のある味も大好きです。贅沢な素材から丁寧にとったと思われるスープが美味しいので、何を食べても美味しいと思います。コーヒーパーラー”ヒルトップ”のケーキも捨てがたいところですし、メインダイニングの”ラヴィ”の朝食も外せません。小さなバー”ノンノン”のジントニックも好きなタイプです。

一度、年末から年始にかけて数泊した際、おせちのお重が部屋に届けられたことがあります。大きくはありませんが、とても上品で美味しいおせちでした。実は、これ、ホテルからのサービスでした。山の上ホテル最大の特徴は、ホスピタリティだと思います。サービスのブランド化やホスピタリティが叫ばれる遥か以前から、山の上ホテルの接客は見事でした。ファンの多くは、この居心地の良さを生み出すホスピタリティの虜になったのだと思います。(写真出典:travel.watch.impress.co.jp)

2021年3月19日金曜日

平将門

中国から欧州まで、ユーラシア各国の歴史は、覇権を握る王朝が、別の系統に敗れ、新たな王朝が始まる、ということの繰り返しです。日本では、何故か、それは起こりませんでした。もちろん、天皇の後継者争いもあれば、南北朝時代もありましたが、それらは、あくまでも天皇家のお家騒動です。実権が武家に移行した後、覇権争いが続きましたが、天皇位を名乗る覇者はなく、天皇家は継承され続けました。欧米では、神が王権を授ける仕組みが採られました。実にうまいやり方です、日本では、天皇がその役割を担ってきたとも言えます。恐らく、大陸と違って、他国や他民族が陸続きに存在しなかったことで、王朝の変遷が起こりにくかったのでしょう。

例外に近い存在は、平将門だと思います。ただし、将門は、朝廷を滅ぼそうとしたのではなく、自ら”新皇”と名乗ることで、朝廷と対立しました。将門は、10世紀、桓武平氏の流れをくむ、いわゆる坂東平氏の家に生まれます。桓武天皇から数えて5代目、父の良将は、下総国を拠点とする鎮守府将軍でした。将門は、若くして都に上り、藤原忠平に仕えますが、立身出世は叶わず、20歳代後半で関東に戻ります。東国では、父の兄弟たちを中心とする争い、いわゆる「平将門の乱」の前哨戦が始まっていました。将門の乱の原因については、関係者も多く、やや複雑な面もあり、いまだに定説はないようですが、いずれにしても東国の覇権を争う戦いだったのでしょう。

平氏一門の戦いですが、将門と伯父たちの争いに、伯父たちの舅であった源護(みなもとのまもる)も参戦します。源護が朝廷に訴え出たために、将門は召喚され、都で裁きを受けています。また、将門も朝廷に訴え、伯父たちの追討令を得ています。さらに役人の讒訴も受けますが、これも無罪となっています。いずれにしても、将門は、朝廷を尊重していたと言えますし、朝廷もここまでの争乱は、坂東平氏の私闘と認識していたのでしょう。ところが、常磐国の豪族を匿ったことから、常磐国府と戦い、印綬を没収します。将門は、敵である従兄弟が常磐国府と結託していたことから、やむなく国府と戦ったと証言していますが、朝廷に刃向かったことに変わりありません。後戻りできなくなった将門は、関東の他の国府も攻め、新皇を称するに至ります。

将門には、当初から独立の意思などまったく無く、行きがかり上、国府の印綬を没収したことで、袋小路に入り込んでしまったのでしょう。朝廷は、討伐軍を差し向けます。940年2月、なぜか兵の大多数を解散させていた将門を、討伐軍が襲います。将門は奮戦するも、戦死。首は都へ運ばれ、獄門の刑に処されます。これが日本初のさらし首だったと言われます。同時期、伊予日振島を本拠地に大水軍を擁する藤原純友の乱も起こり、朝廷は恐れおののきます。将門・純友共謀説もあります。純友の乱は、都から下向された下級武士たちが、公家による搾取や横暴に耐えかねて兵を挙げており、将門の乱も、私闘から始まったとは言え、朝廷による地方行政の綻びが背景にあるのでしょう。朝廷にとっては、通り雨だったのかも知れませんが、侍の治世は、確実に姿を現しはじめていたとも言えます。

将門は、東国の民衆から支持されていたようです。災害に加え、公家たちによる搾取が、農民を苦しめていたからだとされます。将門の首塚にまつわる話をはじめ、多くの伝説が残されているのは、公家の横暴に対する民衆の反発の現れでもあるのでしょう。将門が、菅原道真、崇徳天皇とともに三大怨霊とされたのは、江戸期のことです。他の二人の憤怒とは異なり、将門の怨霊とは、苦しめられた東国の民衆の怒りと理解することもできます。我が家の初詣は、将門も祀られる神田明神と決まっています。よって成田山新勝寺への参拝は憚られます。新勝寺は、将門調伏を祈願すべく、朝廷の命を受けて開山されたからです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年3月18日木曜日

「ラスト・フル・メジャー」

 監督:トッド・ロビンソン    2019年アメリカ

☆☆+

ヴェトナム戦争初期、激戦の中に飛び込み、多くの兵士を救助し、戦死した空軍のパラレスキュー隊員に関わる実話です。ビル・ピッツェンバーガーの勇気ある行動は、米軍最高の栄誉である名誉勲章に値する貢献だったにも関わらず、エビデンス不足で却下され、空軍十字章が与えられます。戦友たちは、34年間、名誉勲章を求める運動を続け、2000年、ついに名誉勲章が与えられます。映画は、国防総省の官僚が、出世を捨ててまで、退役軍人たちの思いを実現するという筋立てになっています。泣きました。ヴェトナム帰還兵が引きずる過去、戦友たちへの思い、勲章に対する思い、愛国心、34年後であっても名誉勲章を与えるアメリカという国家のあり方、アメリカ映画のお家芸を見せてくれます。

サー・カム・ミーの戦いは、1966年4月、サイゴンの南70Kmのゴム園で、2日間に渡って行われた戦闘です。C中隊を囮にヴェトコンの大隊をおびき寄せ、それを他の中隊が殲滅するという作戦でした。しかし、ヴェトコンが待ち伏せしており、かつ他の中隊が密林に動きを阻まれたため、C中隊は孤立し、猛攻撃にさらされます。また、定員200名のC中隊は、当時、離脱中の兵が多く、兵員数は134名と作戦想定を大きく下回り、戦力不足は否めませんでした。夜間には、ヴェトコンが負傷者まで殺害します。最終的には、米軍の激しい近接爆撃で戦闘は終ります。結果、死者36名、71名負傷、死傷率80%という悲惨な戦いになります。地上戦における米軍の死傷率は、1日当たり6%程度と言われます。80%は、ほぼ虐殺レベルと言えます。

戦場上空には、陸軍の救援ヘリが飛んでいましたが、極めて危険な状況から、離脱します。近くにいた空軍のパラレスキュー・ヘリが支援に入ります。彼らの任務は、空軍パイロットのレスキューであり、陸軍兵士を助ける義務はありません。しかし友軍の苦境を見かねて駆け付けます。衛生兵まで負傷したことを知ったピッツェンバーガーは、地上に降下し、激戦のなかで救助にあたります。彼が命を救った兵士は12名にのぼると言います。自らも戦い、3発の銃弾を受け、それでも救助を続けたと言います。思えば、戦場における衛生兵ほど過酷な任務はない、とも言えます。

タイトルは、リンカーン大統領の有名なゲティスバーグ演説から引用したそうです。演説では”The Last Full Measure”の後に”of devotion”と続きます。ピッツェンバーガーの活躍は、まさに”最後にして最大の献身”と言えます。ちなみに、演説は「彼らの死を無駄にしないために、我々は、”人民の人民による人民のための政治”を地上から消滅させないと決意するものである」という有名なフレーズへと続きます。監督の、ピッツェンバーガーへの、そしてヴェトナム帰還兵に対するリスペクトを十分に伝えます。もっとも、タイトルから”of devotion”をカットした理由は、意味深でもありますが。

泣きましたが、映画としての出来はホメられるレベルにはありません。尻切れトンボとなっている陰謀話の仕立てがお粗末、平板でお決まり重視のカメラ・ワーク、それをカバーできなかった編集、ヴェトナムっぽさを感じない戦闘シーンと、実に惨憺たる代物となっています。それでも泣けるのは、ひたすら、ピッツェンバーガーの実話の重さ、そしてこれが遺作となったピーター・フォンダはじめ名優たちによる名演がゆえです。その二つだけで成立している映画とも言えます。クリント・イーストウッドに監督させたかった映画です。(写真出典:en.wikipedia.org)

2021年3月17日水曜日

セント・パトリックス・デー

3月17日は、セント・パトリックス・デーです。5世紀、アイルランドにキリスト教を広めた聖人の命日です。聖パトリック、あるいはラテン名でパトリキウスとも呼ばれますが、4世紀、ウェールズに生まれたケルト人です。16歳の時、アイルランドの海賊に拉致され、奴隷として売られます。羊飼いとしてアイルランドの野山で一人過ごすなか、神の啓示を受けた聖パトリックは、拉致から6年後、アイルランドから逃走して故郷に戻ります。荒野を踏破し、海を渡る厳しい道のりだったようです。その後、大陸へ渡り、7年間神学を学んだ聖パトリックは、ローマ司教の命を受け、かつて奴隷として辛酸をなめたアイルランドへ布教のために渡ります。

当時のアイルランドは、族長たちによる群雄割拠の時代であり、争いが絶えませんでした。また、ケルト人独特の多神教の司祭ドルイドたちが支配する島でもありました。聖パトリックは、アイルランドにキリスト教を伝えた最初の人ではありません。聖パトリックの前にも、ローマ司教は布教を試みています。しかし、見事に失敗しています。極めて厳しい環境下での布教は、困難を極めたようです。聖パトリックは、アイルランドから逃げ出した港に上陸しますが、歓迎されず、北部へと拠点を移して布教をしました。30年に及んだ布教活動の結果、聖パトリックは、アイルランドに、365の教会と12万人と言われる信者を残しました。

聖パトリックの布教が成功した背景には、彼がアイルランドをよく知り、言葉を話せたことがあります。また、王族や貴族の女性たちへの布教が、その影響力や寄進といった観点から、大きな成果を生んだともされます。最も有名な話は、アイルランドを象徴するクローバーに似た三つ葉のシャムロックの活用です。そもそもドルイド教では、3という数字が重視され、シャムロックの三つ葉も大事にされていました。聖パトリックは、三位一体をシャムロックを使って説いていったとされます。今でも、セント・パトリックス・デーの名物は、緑色とシャムロックです。聖パトリックにまつわる伝説は多くあるようです。アイルランドから蛇を追い出したという話も人気です。確かに、アイルランドに蛇は生息していないようですが、そもそもアイルランドには、氷河期以降、蛇は生息していなかったようですが。

NYは、アイリッシュの多い街です。19世紀半ばのじゃがいも飢饉で、多くのアイリッシュがアメリカへ移民します。遅れてきた移民であるアイリッシュは、社会の底辺から、警察官や消防士として這いあがります。いまでも、警察や消防の殉死者を葬う公葬は、本人の宗教を問わず、バグパイプが葬列を先導し、五番街の聖パトリック大聖堂で葬儀が執り行われます。そんな土地柄ですから、3月17日には、世界最大のセント・パトリックス・デー・パレードが行われます。また、それは毎週のようにパレードが行われるNYでも最大級のものでもあります。その日は、アイリッシュに限らず、皆、何かしら緑色のものを身に着け、パブでは緑色のビールを飲みます。NY郊外にあった自宅の後ろにはアイリッシュ系の家族が住んでいました。毎年、3月17日が近づくと、週末は、一日中、おやじがバグパイプの練習をしていました。

2007年には、「日本アイルランド外交関係樹立50周年」を記念して、セント・パトリックス・デーに、東京タワーが緑色にライトアップされたことがあります。夜空に浮かび上がる緑の東京タワーは、実に印象的でした。もちろん、聖パトリックの遺徳を偲ぶ日ではありますが、アイリッシュにとっては、春の訪れを寿ぐ日でもあるのだと思います。どんよりとした雲に覆われ、寒い日が続くアイルランドでは、春の訪れは、格別な思いをもって迎えられるのでしょう。(写真出典:nydailynews.com)

2021年3月16日火曜日

大天使ガブリエル

フラ・アンジェリコ「受胎告知」
アブラハムの宗教とも呼ばれる三大一神教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教には、神の使いとしての天使が存在し、共有されています。神が姿を現すことのない三大一神教では、人間との中継役が必要だったのでしょう。天使にも階級が存在します。9階層の一番下が”天使”であり、その上が”大天使”となります。ミカエル、ガブリエル、ラファエルは、三大大天使とも言われ、よく名前が知られています。ミカエルは天使軍を率い、ラファエルは守護天使を監督します。そして、最も興味深いと思うのは、神の言葉を伝えるガブリエルです。

大天使ガブリエルは、預言者モーゼの死を看取り、また、旧約聖書によれば、預言者ダニエルに対して、ペルシア王キュロス2世の即位、キュロス2世によるバビロン捕囚の終わり、エルサレム神殿の再建を伝え、終末思想について語っています。ユダヤ人とユダヤ教にとって、極めて重要な事柄を伝えているわけです。新約聖書になると、聖母マリアにイエス・キリストの受胎を伝えます。いわゆる受胎告知です。ダ・ヴィンチやフラ・アンジェリコ等の絵では、ガブリエルの見事な翼が描かれています。イスラム教では、預言者ムハンマドに神の言葉「クルアーン」を伝え、バドルの戦いでは、圧倒的に不利だったムハンマドを助け、勝利に導いています。

ガブリエルが初めて登場した旧約聖書は、ユダヤ人のバビロン捕囚時代に書かれたと言われます。20万人が、約50年間に渡ってバビロンへの移住を強いられました。アイデンティティの危機に陥ったユダヤ人は、民族の誇りと団結を維持するために、旧約聖書を書いたのでしょう。とは言え、そこには、バビロン文化の影響が色濃く反映されているようです。大天使ガブリエルも、その一つだと言われます。ガブリエルのモデルについては、諸説あるようですが、3,600とされるシュメールの神々の一つではないかとも言われます。シュメール文明は、紀元前6世紀から3世紀にかけて存在した文明であり、世界最古の文明と言われます。シュメールは、周辺に勃興したセム族系の国々に滅ぼされますが、その高い文明は継承されていきます。

シュメールは、現代と同程度といわれる高い農業生産性を背景に、高い文明を築きました。文字、文字、法令、宗教、灌漑技術、天文学、数学、合金、医術等において、画期的とも、突発的とも言える発展を見せます。シュメールの60進法は、今も60分という時間の単位等に残り、小数点も計算に使っていたようです。また、地軸のブレによる影響まで、ほぼ正確に把握していたとされます。紀元前2600年頃の王が残した”ギルガメッシュ叙事詩”には、大洪水の記載があり、氷河期の終わりに起きた大洪水を指すと言われます。それは、ほぼ同様の内容で、旧約聖書のノアの箱舟へと継承されています。神々に替わって人間を創造したとされる知恵の神エンキは、ある忠実な神官に対し”大洪水に備えよ”と伝えたとされます。このエンキこそ、大天使ガブリエルのモデルなのではないか、と思います。

シュメール人の民族系統は不明だと言われます。加えて、突然のように発生した高い文明からして、シュメール人は宇宙人だったのではないかという説も大人気です。シュメール人は、自らを”ウンサンギガ”と呼んでいます。”黒い頭の人”、あるいは”混ざり合わされた人”という意味だそうです。ギルガメッシュ王は、自らを、2/3が神で、1/3が人間だと言っています。なぜ半々ではないのか不思議です。現在、人間は、母親から2系統のDNAを、父親から1系統のDNAを受け継ぐことが知られています。これを単なる偶然と言い切れるのか、と思ってしまいます。(写真出典:firenzeguide.net)

2021年3月15日月曜日

1時間の王さま

「1時間の王さま」とは、今から50年近くまえ、札幌市の理容組合が作ったキャッチ・コピーです。ポスターに仕立て、各理髪店に張り出していました。その頃、若者の間では、長髪が大流行して、理髪店の利用者が減っていました。床屋での1時間は、髪を切ってもらい、シャンプーをしてもらい、顔を剃ってもらい、マッサージしてもらい、と至れり尽くせり。王さま気分が味わえますよ、と言いたかったのでしょう。言われてみれば、確かにその通り、なかなかいいコピーです。ただ、それで若者が理髪店に戻るとは、まったく思えませんでしたが。

理髪店は、法的には理容店となるようです。ただ、口語では床屋という言い方が一般的です。いずれも意味は同じです。それにしても”床屋”とは妙な言葉です。それには、ちゃんとした謂れがありました。そもそも、人間は、大昔から、髪を切ったり、髭を剃ったりしていたわけですが、業としての理容が、いつ始まったかははっきりしません。少なくとも古代ローマには存在していたようです。欧州に比べ、日本における理容業の始まりは遅く、鎌倉時代、下関の采女之亮政之が、朝鮮の新羅人から習った技術をもとに、髪結所を開き、大繫盛します。店の奥に床の間があったことから、床の間のある店が転じて床屋と呼ばれるようになり、今に至るわけです。

床屋は、室町後期から広がりを見せたようです。その背景には丁髷(ちょんまげ)の流行がありました。どう考えても奇天烈な髪型である丁髷は、戦国時代、武士の間に広がります。兜を着用すると、蒸れてくるため、生え際から頭頂部を剃り上げる「月代(さかやき)」が流行したようです。満州族の辮髪も、同じ理由から始まったようです。平時には、側頭部と後頭部の髪をまとめて結ぶ、いわゆる丁髷を結っていました。これが一般庶民にも広がります。武士にとっては必要に迫られた髪型として理解できますが、兜をかぶることもない庶民の間に、なぜ、このように奇妙で手間のかかる髪型が広まったのかは、よく分かりません。支配階級へのあこがれだったのでしょうか。

身の回りの世話をしてくれる従僕のいない庶民は、定期的に月代を剃るために、髪結いを利用することになります。常設店舗である床屋の料金は、髭を剃り、眉を整え、耳掃除等も含めて、280文。現在価値にすると3~4千円だったようです。今と、あまり変わりません。1人の理容師が、1人の客に、1時間程度時間をかける、という労働のあり方、そしてニーズにも大きな変化がない以上、同程度の料金なのでしょう。江戸期の床屋は、将棋盤や本なども置いてあり、若者のたまり場となっていたようです。落語の「浮世床」は、その様子を語っています。明治の世になると、1871年に散髪脱刀令が太政官から発出されます。断髪令とも言われますが、実際には、髪型は自由にしてよい、という法律です。洋式軍制化が進み、兵士のなかで断髪することが一般化したために発出されたそうです。

断髪令が出されたにもかかわらず、力士だけは、今も丁髷を結っています。これも、実に不思議な話です。どうやら、相撲好きだった明治天皇に、伊藤博文らが忖度し、相撲は国技であるされ、あえて洋風化させなかったということのようです。ちなみに、江戸期の相撲の行事は裃(かみしも)を着用していたようですが、相撲は神事ゆえ、直垂・烏帽子を着用せよ、という政府の指示があったようです。相撲好きの天皇に忖度するばかりではなく、天皇を神格化して国を統一を図るという薩長の政策浸透にも使われた、ということなのでしょう。(写真出典:pinterest.jp)

2021年3月14日日曜日

「春江水暖」

 監督:グー・シャオガン   2019年中国

☆☆☆☆+

中国山水画の最高傑作とも言われる黄公望の「富春山居図」の現代版映画化です、と言い切りたくなる作品です。山水の絵巻物仕立ての映画など、誰も考えつかなかった発想です。富春江の美しい四季の景観、三世代が映す時代の変化、四人の息子それぞれの生き方、それらを丁寧な構図、長いワンショット、自然な演技で映像化し、見事な絵巻物に仕立てあげています。中国第七世代の監督に、また、新たな才能が登場しました。しかも、中国の古典に立脚した、これまでに類を見ない監督の出現とも言えます。歴史的な出来事かも知れません。ちなみにタイトルの「春江水暖」は、中国を代表する詩人にして書家である蘇東坡の「恵崇春江暁景」から引用してます。元になった一文は「春江水暖鴨先知(春江 水暖かにして 鴨先ず知る)」です。また英題は、「富春山居図」の英語タイトルそのものだそうです。

舞台となっているのは、富春江が流れる杭州市富陽区。黄公望が魅せられ、「富春山居図」を描きあげた頃の風景を残しつつも、杭州市に飲み込まれた町です。その歴史は古く、紀元前3世紀に、秦が置いた富春県に始まると言います。三国時代、呉を建てた孫権は、ここの出身です。富春県は富陽市になり、2014年には杭州市富陽区になりました。ただ、水辺の柳の散歩道や、川を見下ろす東屋等、富春江の風情を残しています。映画は、その四季を丁寧に、かつ長いワンショットで捉えています。カメラは、止まることなく、パンし続け、計算されたタイミングで、風景を、ドラマを映し出します。まさに山水そのものであり、巻物そのものです。エンドロールを見ると、撮影は2年がかりで、多くのスタッフが入れ替わり携わったことが分かります。黄公望も「富春山居図」を描きあげるのに、7年かかったそうです。

グー・シャオガン監督自身も富陽区の出身であり、故郷の風景を、そして故郷の人々を、愛情をもって撮っています。山水画には、幽玄な自然とともに、極々小さく人物が描かれることが多くあります。文人とその庵であったり、里の人々の営みであったりしますが、いずれも自然のなかの小さな存在として描かれます。そういう意味では、この映画で静かに展開されるドラマも、山水画そのものだと言えます。絵画的ドラマ、とでも呼びたくなります。三世代の意識の移り変わりを映すドラマは、誰もが経験するであろう人生模様であり、抑えた演技が、その普遍性をよく表しています。聞けば、俳優の多くは、監督の親類縁者とのこと。予算的な制約ゆえの起用でしょうが、結果、いい味を出しています。

監督は、岩井俊二の作品を見て映画好きになり、ヒンドゥー教に興味を持ったことから、インド哲学を踏まえたジェームス・キャメロンの「アバター」(2009)に強く影響を受けたそうです。本作は、ホウ・シャオシェンやジャ・ジャンクーの影響、あるいは台湾ニューシネマの影響が指摘されるのでしょう。ただ、この映画の最大の特徴は、中国古典に立脚している点であり、極めてユニークな存在だと思います。当初、監督は、中国の多くの若者たちと同様、古典なんか退屈な代物だと思っていたようです。ところが、書を習ったことで、見方が大きく変わったと言います。古典文化を知るにつれ、映画を撮りたくなったと言います。この映画の良い影響を受けて、世俗的、拝金主義的、利己的な印象の強い中国の若者たちが、中国の古典文化に親しみ、中国の伝統文化にプライドを持つようになってもらいたいものだと思います。いわば、文化大革命の清算、逆回転の文化大革命を期待します。

ラスト・シーンには、「巻一 完」という文字が出て、あらためて山水の絵巻物だったことが分かる仕組みになっています。ということは、”巻二”もあるわけですが、実は映画冒頭で示唆されています。巻二は、富春江を下った杭州が舞台となり、2022年に予定されるアジア競技大会前後の街の変化をテーマにするようです。すでに「銭塘茶人」というタイトルも公表されています。巻二は、「清明上河図」がモティーフになるようです。台北の故宮博物院で写本を見たことがあります。開封における清明節の賑わいを丁寧に描いた傑作で、飽きることなく見入ってしまいました。23年に予定される公開が、今から楽しみです。(写真出典:moviola.jp)

2021年3月13日土曜日

飯館の桜

南相馬に入ったのは、震災から1か月後でした。避難区域とされた原発から20km圏内にある2つの事務所の代替として、相馬に仮事務所を構えようと物件を探しました。それがようやく決着し、内装工事も行ったうえで開所日を迎えました。私も行きました。関東や東海地方も含め各地に避難していた従業員も集まってくれました。 一か月ぶりとなる、涙、涙の再会でした。支社長はじめ、何人かに挨拶してもらいましたが、皆、泣いてしまい、話も途切れがちになりました。震災後、できるだけ早く、皆で集まる機会を持つことは、とても大事だと思います。それは、中越地震での経験から学んだことです。人とのつながりを確認することが、普段の生活を取り戻そうとする力、復旧・復興への力の源になります。

南相馬の事務所へも行きました。相馬から南相馬に向かう道は、時折、原発関連と思われる車両が通るだけで、閑散としていました。地震の被害も、津波の被害もない町の中心部には人っ子一人見当たらず、時間が止まっているかのようでした。しかし、そこには、目に見えないだけで、放射線が漂っていたわけです。事務所の内部も、地震直後、皆が外へ飛び出した時のままになっていました。南相馬でも、津波警報が鳴り響き、皆、高台へと避難しました。ただ、津波の到達予測時間まで、多少の余裕があったので、一人の職員が自宅へと戻ります。そこへ津波が襲い掛かりました。命を落とした職員のデスクは、ちょっと離席しているだけのように見えました。

津波の被害は甚大なものでしたが、既に津波は去ったとも言えます。放射能汚染の問題は、終わりの見えない現在進行形の災害であり続けています。放射能汚染に対する不安は、日を追うごとに大きくなっていきました。羽田空港は、関西、あるいはさらに西へ避難するお金持ちでごった返していました。原発から100km圏内を立ち入り禁止とし、拠点を引き払った企業も少なからずありました。本社の災害対策本部でも、極端な意見を出す人たちがいました。根拠に乏しい不安が広がっていました。見えない恐怖ほど恐ろしいものはないのかも知れません。ある支社長が、福島県に隣接する町の事務所を閉鎖する、と連絡してきました。私は、町を捨て、お客さまを残し、従業員を置き去りにするつもりか、と怒鳴りました。従業員の安全をないがしろにするつもりはありません。ただ、皆が町から去り始めたとしても、我々保険会社は町を去る最後の会社であるべきだと思っていました。

事故から10年経つとは言え、廃炉作業もまだまだ先が長く、風評被害も完全には収まらない状況です。放射線レベルも下がり、膨大な資金を投入した除染が進んでも、帰宅する住民は少ないと聞きます。故郷へ戻りたいと思う気持ちは強くとも、放射能の恐怖は去らず、町はかつての町ではなく、避難も10年に及べば避難ではなくなります。事故後、原発に対する批判や抵抗は強くなる一方です。当然だろうと思います。しかし、将来の電力供給を考えれば、まだまだ原子力に頼ざるを得ないことも事実です。先々、炭素燃料や原発に頼らなくても済む時代が来るまでは、福島第一原発事故の教訓を活かし、安全性を高めつつ、少なくとも現存する原発は稼働させるしかないと思います。

南相馬から福島市に戻る際、やはり避難区域に指定されていた飯館村を通りました。なだらかな丘陵に農家が点在する様は、絵のように美しい光景でした。そして各農家の庭には満開の桜の木がありました。これこそが日本の原風景だと思いました。高台に車を止めてもらい、しばしその光景に見入りました。ただし、それは、まったく人の姿も気配もない、美しくも異様な里の姿でもありました。複雑な思いで桜を見ていると、私たちの方が、桜から見られているような気がしてきたことを覚えています。

2021年3月12日金曜日

寒く暗い夜~その2

昼過ぎ、大船渡から釜石を目指します。三陸の海岸を貫く国道45号線が不通のため、一旦、内陸の北上川沿いまで戻り、釜石を目指す予定でした。しかし、直前、45号が開通したとの情報が入り、海沿いに釜石へ向かいました。所々、崖が崩れ、ギリギリの一車線通行になっていました。今、余震が来たらと思うとゾッとしました。途中、タクシーの運転手さんが、山形から持参した菓子パンを分けてくれました。昼食を取れる状況ではなかったので、本当に助かりました。釜石の事務所は、商店街に面したビルの3階にあり、無事でした。2階までは完全にやられ、ビル内の立体駐車場では、車が重なりあっていました。ビルの裏手は狭い路地の飲食店街であり、建物が折り重なるように倒れていました。事務所の窓からは、港が見えます。震災当日、港に白い水煙があがるのが見え、皆で、急ぎ避難したとのことでした。

近くの高台にある学校へ避難したところで、職員の一人が、すぐ近くの家に一人でいる母親が心配で坂道を降りていきます。それが最後でした。三陸の人たちは、チリ地震津波の経験から、揺れたら高台へ避難するということが身に付いています。ただ、一旦、避難しても、津波到達まで余裕があると思い、家へと向かって命を落とした人が多くいました。津波警報が出たら、家族それぞれが、自分の命を守ることを優先するという約束をしておくべきなのでしょう。亡くなった職員が、遺体で発見されたのは、1ヶ月後のことでした。懸命な捜索が行われましたが、意外なことに、遺体は事務所の近くで発見されました。それほどガレキの処理に時間がかかったわけです。

一人の職員の家がある隣町の鵜住居にも行きました。釜石湾の一つ北に位置する入り江ですが、海岸線から2kmほどは、何も無くなっていました。緩やかな高台にある職員の家は無事でしたが、数十センチ低い隣の家は被災していました。三陸の入り江は、皆、地形が異なるので、津波の被害状況もそれぞれ異なっていました。場所によっては、海岸から4~5km奥の山中まで高い津波が到達しているところもありました。鵜住居の隣町は大槌です。大槌も、まったく何も無くなっていました。チリ地震津波の後に作った6.4mという防波堤があり、これがために安心していたのか、市長はじめ市の職員は高台に避難せず、市庁舎で命を落としました。行政機能を失った大槌の被害状況は伝わることもなく、救援も遅れました。2階建ての民宿の屋上に乗りあげた観光船、米軍が生存者を探した後につけるマークだけがガレキのなかで目につきました。

夜には、再び水沢に戻りました。翌日は、東北道から山形に入り、最上川沿いに酒田へ抜け、庄内空港から羽田に戻りました。震災に関する報道のなかで、マスコミが自粛したと思われるのが、遺体の映像であり、自殺、窃盗、強姦等に関するニュース、そして町の匂いを伝えることです。津波が運んだヘドロ等の強烈な匂いです。入浴や着替えもままならない状況のなか、人々も同じ匂いがしました。羽田に着いてみると、私も同じ匂いになっていました。マンションで、すぐに全ての衣服を洗濯しました。夜遅く、洗濯した衣類をたたみ始めると、妙に背中がゾクゾクします。三陸は寒かったので、風邪でもひいたかと思いましたが、ゾクゾクするのは背中だけです。私は霊感など全くないタイプですが、さすがにピンときました。衣類を全てまとめ、丁寧に合掌したうえで、ごみ置き場に持ち込み、再度、合掌したうえで捨てました。

その年、何度か、三陸に行きましたが、依然、行方不明者は多く、ガレキの処理には時間がかかり、仮設住宅の供給も遅れ気味でした。その後、所によっては、盛り土の工事も始まりました。正直、違和感を感じました。嵩上げは、議論と研究を重ねた末の合理的な計画なのでしょう。合理的ゆえ住民も賛成したのでしょう。しかし、住民が本当に望んでいたのは、住み慣れた町の復旧のはずです。残念ながら、それは最初から否定されているわけです。切ないジレンマです。これが本当に復旧・復興なのかと思いました。

2021年3月11日木曜日

寒く暗い夜~その1

 揺れたのは、お客さまのところにいるときだった。大きく長い揺れだった。車に飛び乗り、急ぎ事務所へ戻ろうとする。サイレンとともに、「大津波が来る!」と防災無線が叫ぶ。高台の避難所を目指す。道は、既に大渋滞。水が路面を浸し始める。車を捨てて、走り始める。水嵩が増し、勢いも激しくなる。近くのビルに飛び込み、屋上を目指す。階段を上り始めると、津波が後を追う。必死で駆け上がった屋上から下を見ると、車が、家が、そして人が流されていく。夜になっても水は引かない。動けない。通りには、いくつもの死体が流れていくのが見えた。寒くて暗い夜だった。

釜石で女性職員から聞いた話そのままです。ボロボロ泣きながら、話してくれました。

震災発生から数日後、依然、状況は厳しいものの、本社の支援体制、復旧に向けた段取り等が軌道に乗ってきました。ちょうど1週間目に山形空港が再開。当日、さっそく現地へ飛び、被害の大きかった宮城・岩手沿岸部の事務所を回りました。現地のガソリン不足を考慮し、LPG燃料のタクシーをチャーターしました。仙台へ向かう道では、支援に向かう米軍の長い車列が印象的でした。仙台支社は、野戦基地さながらの様相でした。その夜、支援物資を使って、初めて炊き出しを行い、皆で温かい食事をとりました。夜8時頃、石巻で行方不明の従業員を捜索していた本社支援隊が戻りました。入社間もない支社職員も一緒でした。彼女は石巻出身の一人娘で、実家は流され、両親とも行方不明になっていました。手がかりを得たい一心で支援隊に同行したようです。その感情を押し殺したような硬い表情に、胸が締め付けられる思いでした。

翌朝早く、石巻を目指しました。日和山から見る町には、何も残っていませんでした。少し山手にある事務所は無事でしたが、1階は津波に襲われ、取り残された10人弱の従業員が一昼夜を過ごしました。屋上で焚火をして暖を取るなど、皆を守る所長のサバイバル能力の高さに感心しました。行方不明だった従業員は、後日、遺体で発見されました。子供の通う小学校へ急ぐ途中、橋の近くで渋滞につかまり、津波に飲まれました。次いで、壊滅状態の南三陸を経て、気仙沼に入りました。町の中心部は、打ち上げられた船、折り重なった車、そしてガレキで覆われていました。坂上にある事務所は無事でしたが、1階は津波にやられていました。黒板を玄関前に出し、町の人々の伝言板にしていました。何か書け、と言われ、「がんばれ東北! がんばれ日本!」と書きました。本社に戻った後、これを「がんばろう東北! がんばろう日本!」と変え、復旧・復興のキャッチ・フレーズにしました。

その夜は、被害の少ない岩手県水沢に入ります。そこを拠点に、三陸沿岸部各地へ出入りする予定でした。ただ、沿岸部への道は、一般車通行禁止となっており、本社支援隊は、家族の捜索と言って通っていました。私は偽るわけにもいかず、本社出発前に関係省庁へ働きかけましたが、やはり許可は出ませんでした。ところが、幸いなことに、翌日から通行が解除され、朝早く、大船渡に入ることができました。港近くにあった事務所は2階部分まで津波に襲われ、柱がむき出しになっていました。皆で集まれる場所が無いので、避難所になっていたリアスホールの駐車場に集合しました。あの日以来の再会に、皆、泣きながら抱き合っていました。私が、話し始めると、突然、皆が号泣します。給与は心配するな、完全に保証する、という私の言葉がきっかけでした。地元企業は解雇の嵐で、行政の支援も見えないなか、皆、心細い思いをしていたのです。

大船渡にも、一人連絡のつかない職員がいました。隣町の陸前高田に家があるというので、探しに出かけました。家は流されていましたが、近くの避難所で聞き込みをした結果、生存が確認でき、かつ偶然にも大船渡へ戻る道で出会うことができました。避難所に行った際、隣接する漁協の厨房では、炊き出しが行われていました。7~8人くらいのおかみさんたちが、下ネタを連発し、大笑いしながら働いていました。海の民は、基本的にたくましく、明るい人たちです。厳しい自然と折り合いをつけながら、何世代にも渡って生きてきた人たちです。中越地震では、山の民のたくましさを知りました。中越地震を取材した神戸新聞の記者が「阪神淡路大震災の際、被災者を取材すると、行政への批判ばかりだった。中越では、支援に対する感謝の言葉しか聞かれない」と書きました。最もひ弱で、面倒くさいのが、街の民かも知れません。

2021年3月10日水曜日

あれから十年

 2011年3月11日14時46分、私は、当時、江戸川区にあった会社の研修所の4階で、100人くらいの仲間たちに話をしていました。信じがたいほどの大きな揺れに、私は「全員、机の下に潜れ!」と叫びました。普段は、私の言うことなど、大して聞かない連中も、さすがに、このときばかりは、皆、さっと机の下に入りました。揺れは、どんどん強くなり、私は、ついに東京崩壊の日が来たかと思い、皆の最後を見届けようと、両足を踏ん張り、一人立ち続けました。

揺れがおさまると、会社の車で丸の内本社へ向かいました。永代通りは、屋外に避難した人で溢れていました。大きな余震が来て、車も揺れ、ビルの看板が落ちる瞬間も目撃しました。いつもの倍以上の時間がかかり、ようやく本社に着くと、エレベーターが全て止まっていました。やむなく27階にある自分の部署まで階段で上がりました。さすがに一気に上がるのは厳しく、途中、息をつこうと、かつて部長をしていた人事部に立ち寄りました。部屋に入ると、何故か、皆、拍手で迎えてくれました。後日、何故、拍手をしたのか、と聞くと、理由は分からないけど知らぬ間に拍手していた、と言っていました。皆、不安だったということなのでしょう。

全国の営業現場を統括する部署にいたので、すぐに、ありとあらゆる手段を使って、現地と連絡を取り始めました。従業員の安否確認を最優先とし、情報の集約、救援物資の手配、救援隊の組成、他部門との連携等々に着手しました。衛星電話や防災電話もありましたが、通信状況は悪く、かつあまりにも広範囲なので、なかなか全貌を掴むことはできませんでした。19時には、災害対策本部が立ち上がり、全社体制が組まれました。真夜中を回っても、途切れ途切れながらも現地とのやり取りが続き、状況が少しづつ見えてきました。東京湾越しに市原の工場から上がった火の手が見え、電車が止まった都内の道は大渋滞、歩道には歩いて帰宅する人の波が見えました。あの夜、本社では、約7割に当たる2,400人が一夜を明かしました。

二日目も同様の状態が続きました。ある程度、体制が動き始めたのを見定め、夜は災害対策用に入居していたマンションに戻り、かつて赴任していた新潟と連絡をとって、救援隊を送り込むルートを探りました。結果、上越道から磐越道で東北へ入り、山形を支援の前線基地とすることにしました。翌朝早く、部下の部長から電話があり、今日、救援隊を送り込みましょう、との提案がありました。まったく同感だったので、社長の自宅に電話して、許可を取り、先発隊の組成と持参する装備・物資の準備に入りました。別々の5ヵ所を目指す先発隊の要員はボランティアを募り、車も職員所有のSUVを使いました。衛星電話や積めるだけの救援物資等を積み込みました。現地で不足していたガソリンは、都内でも十分に入手できず、新潟支社に調達してもらいました。午後、皆の激励の拍手に見送られ、先発隊が出発しました。

救援隊は、短期間で交代できるように、次々と送り込みました。救援物資の輸送体制も泥縄ながら動き始め、情報も把握できるようになっていきました。安否確認も進みましたが、やはり残り数パーセントには時間がかかりました。残念ながら、3名の従業員が亡くなり、家族、家屋を失った従業員は多数。完全に使用不可となった事務所は、津波の直撃を受けた大船渡、そして福島第一原発の避難区域に指定された南相馬の2カ所でした。時間とともに、津波被害の想像を超える甚大さが判明するとともに、福島第一原発事故という前代未聞の恐ろしい災害の姿も明らかになっていきました。

2021年3月9日火曜日

駅弁

はつだ「和牛弁当」
世の中には弁当好きが多くいます。なぜ好きかと聞けば、美味しいから、と言うのですが、同じものなら、皿に載せて、暖かいうちに食べた方が美味いに決まっています。恐らく、味付けが濃いこと、そして、非日常性という味も加わり、美味しいと感じるのでしょう。正確には、美味しいではなく、楽しいのが弁当だと思います。弁当を携行食と考えれば、恐らく狩猟採取の時代から、何らかの形で存在していたと思われます。稲作が始まって以降は、お握りや干飯等が定番になったはずです。箱入りの弁当は、織田信長の発明だとする説があります。安土城で、多くの人に、一度に食事を提供する方策として、信長が発案したとされます。合理的、かつ斬新な発想が持ち味の信長ですから、うなずけるものがあります。

日本における駅弁の起源には諸説ありますが、1885年、宇都宮駅開業に合わせて、日本鉄道の委嘱を受けた旅館「白木屋」が発売したものが始まりとされます。おにぎりとたくあんだけだったそうです。折詰の駅弁は、1890年、姫路駅で、「まねき食品」が発売したものが始まりとされています。以降、鉄道の普及とともに日本の駅弁は、多様な進化を遂げていきます。かつては、駅構内での立ち売りが駅弁売りの定番でした。昔は、汽車が駅に停車すると、窓を開け、駅弁売りを呼んで買っていました。ポリエステルの容器に入ったまずいお茶も付き物でした。私は、秋田県大館駅の鶏めし弁当、青森県八戸駅の小唄寿司が好きでした。昨年、鶏めし弁当を、何十年ぶりかに食べました。懐かしさもありますが、なかなか美味しくいただきました。甘く濃い味付けですが、昔は、あの甘さが人気を呼んだのでしょう。

日本三大駅弁と言われるのは、富山のます鮨 、横川の峠の釜飯、森のいかめしです。このクラスになると、旅の食事だけではなく、お土産としても人気でした。出張の多かった父親が、買ってきてくれ、大喜びで食べたことを覚えています。ます鮨の独特な容器も心躍る代物でした。峠の釜飯の他にも、陶器の釜を使った駅弁は多くあり、どこの家にも何個かはあったものです。捨てるにはもったいないものですが、使い道があるわけでもなく、ただ食器棚の奥にしまってありました。1960年代、旅行も出張も増えた時代、地方の駅でも日に数百食、人気の駅弁ともなると、日に数千食は売れたと聞きます。駅弁の黄金時代でした。70年代に入ると、新幹線に代表される鉄道の高速化、モータリゼーションによる鉄道離れ、安全面から立ち売りも禁止され、またコンビニの展開等もあり、駅弁は衰退していきました。

替わって人気を博したのが、デパート等の駅弁大会です。昔からあったようですが、90年代以降、デパートの人気イベントになりました。かつてほどではないものの、駅弁は、駅構内を飛び出すことで活路を開いたわけです。常設の駅弁大会とも言える東京駅の駅弁屋「祭」も大盛況。祭では、山形新幹線開通後の93年に登場した米沢駅の「牛肉どまん中」が不動の一番人気だと聞きます。山形新幹線のなかで買えますが、乗車後、すぐに予約しないと買えないほどの人気です。飽食の時代にあっては、ローカル色を強調し、高級食材を用いたものが、生き残ったということなのでしょう。もはや駅弁という名称も妥当ではないのかも知れません。いずれにしても、やはり日本人は弁当好き、ということは間違いなさそうです。

私も出張の多い仕事をしておりましたが、駅弁を買って食べることは、ほとんどありませんでした。まともな食事をとってから乗車するスタイルです。ただ、一つだけ、空腹じゃなくても、必ず買って乗車するのが、京都修学院「はつだ」の「和牛弁当」です。駅構内ではなく、駅の伊勢丹の食品売り場で買えます。肉質も、味付けもいいのですが、炭火焼の香ばしさがなんとも言えない絶品だと思います。(写真出典:tabelog.com)

2021年3月8日月曜日

間人のカニ

カニと言えば、毛ガニが一番と、ずっと思っていました。タラバは大味、ズワイは水っぽく、花咲はあっさりで、しかもカニですらないわけで、やはり毛ガニが一番、と信じていたわけです。ところが、福井県三国の海辺の民宿で蟹三昧コースを食べて、びっくり。実にカニらしい味が濃厚なわけです。いまでも毛ガニは好きですが、あれは毛ガニの味だったわけです。典型的なカニの味は、ズワイの上物の方が上だと知りました。それまで、ズワイは、味噌汁にして食べる程度でしたが、要はうまいズワイを食べていなかったということです。

私にとって、人生最高のカニは、京都・和久傳でいただいた間人(たいざ)のカニです。上品、かつ濃厚な味、なんとも言えないぷりぷりとした食感。もちろん、甲羅には熱燗を注いで飲み干しました。丹後町間人のカニは、幻のカニと言われます。カニ漁船は、わずかに5艘。とにかく水揚げが少ない。ただ、漁場が港に近いことでは日本有数とのこと。甲殻類は、水揚げした瞬間から身が縮み始めると言います。港と漁場が近いほど、美味いわけです。間人漁港は、その利点を生かすために、鮮度管理には徹底的にこだわっていると聞きます。和久傳は、高台寺前にありますが、もともとは丹後峰山町の老舗旅館。水揚げの少ない間人のカニを仕入れるルートを持っているわけです。

間人とは、実に変わった町名で、難読町名としても知られるようです。”人間”をひっくり返していることに、なにか深い意味があるのかとも思えます。ところが、町名の由来は、はっきりしていないとのこと。最も有名な話は、聖徳太子の生母である穴穂部間人皇后(あなほべのはしうどこうごう)が都の争乱を避けて滞在したのが間人であり、感謝の意味で、自らの名前を集落に与えたのだそうです。ただ、皇后の名前をそのまま名乗るのは憚られるので、”たいざ”と呼ぶことにしたとされます。”たいざ”という読みは、皇后が、この地から退座したことにちなんだ、と伝わっているそうです。やや無理のある由来に思えます。かと言って、他に有力な説もないようではあります。

かつて、日本海のズワイは、消費地までの距離がネックとなり、多くは缶詰にされていたようです。決して高級品ではなかったわけです。北海道の場合、浜ゆでして運べば運べる距離に温泉や観光地がありました。60年代下期、冷凍や輸送技術が進化すると、状況は一変します。そのきっかけとなったのは、62年に、大阪道頓堀にオープンした”かに道楽”だったと聞きます。創業者の今津芳雄は、60年に山陰の魚を売りにする料理屋を開きますが、まったく当たらず、弱っていたところ、”かにすき”が評判になり始めます。今津は、自らカニの冷凍保存技術の開発に取り組み、漁協の協力を得て、冷凍法を確立します。自信を得た今津は、大阪の一等地道頓堀に、しかも看板に動く巨大なカニのオブジェというド派手な演出で勝負に出ます。おりしも日本は高度成長真っ只中。店は大当たりし、カニは、大人気食材へと急成長しました。

穴穂部間人皇后は、欽明天皇の第三皇女として生まれています。母は蘇我稲目の娘であり、蘇我馬子は叔父にあたります。長じて、用明天皇の皇后となり、厩戸皇子、後の聖徳太子を生みました。用明天皇が崩御すると、後継者争いが起こり、蘇我と物部が激しく争います。穴穂部間人皇后の弟である穴穂部皇子は、物部に擁立されたため、叔父である蘇我馬子によって殺害されます。穴穂部間人皇后が、難を避けて丹後に身を潜めたのは、この間ではないかと思われます。ただし、記紀には、一切記載がないようです。(写真出典:tan-go.net)

2021年3月7日日曜日

小原庄助さん

映画「小原庄助さん」
週に一、二度、近くのスーパー銭湯に行くことを楽しみにしています。温浴、サウナ、そして大事にしているのは日光浴です。平日のお昼少し前に行くと、空いていて、ゆっくりできます。お湯につかっていると、しばしば頭に浮かぶのが”小原庄助さん”です。小原庄助さん、何で身上潰した、朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上潰した、ハァ、もっともだ、もっともだ、という民謡「会津磐梯山」の囃子言葉です。まぁ、簡単に言えば、働かないから、破産したというわけで、儒教的倫理観の典型と言えます。逆に言えば、朝寝、朝酒、朝湯は、それほどまでに魅力的とも言えます。さすがに朝酒はしませんが、朝寝、朝湯は、確かに極楽です。

「会津磐梯山」は、全国の盆踊りで定番の一曲となっており、最も知られた民謡の一つです。猪苗代町では、毎年、全国大会が開かれ、参加者が自慢の喉を競うようです。その起源は諸説あるようですが、明治の初め、新潟県の巻町のあたりから会津に来た労働者たちが歌っていた「五ヶ浜甚句」が元歌と言われます。甚句は、7・7・7・5で1コーラスが構成されるスタイルです。民謡には、この形式が多く見られ、前後に囃子言葉が入るのが一般的です。ソーラン節、花笠音頭、おはら節等が有名です。会津磐梯山にあわせる踊りは「かんしょ(気狂)踊り」と言われ、皆が熱狂的に踊ることから、そう呼ばれるそうです。

会津磐梯山は、もともと会津甚句、あるいは玄如節と呼ばれていましたが、1934年に、小唄勝太郎が会津磐梯山というタイトルで歌い、以降、この名前が定着したようです。小唄勝太郎のレコーディングに際しては、歌詞にも囃子言葉にも手が加えられ、いわゆる正調とは異なったものになっているようです。当時、会津では、地元の文化をないがしろにするものとして批判も多く、反対運動も起きたそうです。いかにもプライドの高い会津らしい話です。とは言え、小唄勝太郎版が、大ヒットしたため、今では、こちらの方が主流となりました。

さて、小原庄助さんとは何者なのか、という問題ですが、どうも酒好きの会津人を象徴した架空の人物、というのが定説になっているようです。とは言え、会津塗師久五郎説も人気があるようです。江戸末期の人ですが、大酒飲みで知られた人だったようです。他にも、元禄期の木材問屋、東山に実在した郷頭、あるいは戊辰戦争で戦死した会津藩士という説もあるようです。また、おわら節の”おわら”起源説もあるようです。おわらという言葉も意味不明ですが、どうも”大藁”から発想された豊作を意味する言葉だったようです。ただ、わざわざ人の名前にしているところからすれば、やはり実在の人物がいたのだと思います。昔から、朝寝、朝酒、朝湯が大好きで身上潰した奴など、山ほどいたはずですから。

実は、「小原庄助さん」なる映画も存在します。大河内伝次郎主演、清水宏監督の1949年作品です。清水宏は写実的な作品が特徴とされ、実は、小津安二郎に並ぶ名監督とも言われます。しばらくアンダーレイテッドな時代が続き、近年に至り、ようやく再評価されているようです。映画は、地方の旧家のおっとりとした主人が、人の良さゆえ没落していく姿を描いているようです。地方では、よく聞く話です。当人の脇の甘さや怠惰は弁明の余地無しではありますが、戦前の地主層が、戦後民主主義の時代を迎え、農地改革等を経て没落していく話でもあります。実は、私の祖父も小原庄助タイプだったようです。私は、よく祖父に似ていると言われます。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年3月6日土曜日

煮込み

岸田屋の煮込み
土曜の朝から立石で告別式があり、お清めはどうしようか、と話していると、一人が、ここは立石ですよ、 「宇ち多”」に決まりですよ、というわけです。しかし、土曜の昼に開いているのか、と聞くと、11時開店だというので、皆で向かいました。たまげました。土曜の真昼間、11時少し前、既に長蛇の列ができていました。宇ち多”、恐るべし。やむなく、はす向かいの店で飲みながら、行列が途切れるのを待ちました。しばらくすると行列が短くなってきたので、今だ、とばかりに列につくと、今日は売り切れの声がかかり、あえなく断念。やむなく河岸を替え、夕方までグダグダと飲みました。

立石の宇ち多”は、東京五大煮込みに数えられる名店。もつ焼きともつ煮が有名です。結局、その後、宇ち多”には行けていません。東京三大煮込みと言えば、北千住の「大はし」、森下の「山利喜」、そして月島の「岸田屋」です。それに、宇ち多”と門仲の「大阪屋」を加えて、東京五大煮込みとなります。大はしと宇ち多”には行ってませんが、他の3店のなかで一番好きなのは岸田屋です。深川の味を見事に伝える岸田屋は、東日本一の居酒屋とも言われます。17時の開店ですが、確実に一巡目で入店したいなら、16時から並ぶことです。岸田屋の煮込みは、真っ黒な見た目に、割とあっさりとした味付け、まさに深川の味です。牛メンブレインと呼ばれるハラミのスジは、適度な噛み応えもあって、コップ酒が進みます。ちなみに、西日本一の居酒屋と言われるのは、京都の川端の「赤垣屋」です。ここもうまい。

森下の山利喜も大人気店ですが、やや風変りです。煮込みの付け合わせに、皆が注文するのがガーリック・トースト。要は、煮込みというよりも、ほぼビーフ・シチューの風情。おいおい、という感じですが、これがなかなかの絶品で美味いわけです。二代目が洋食屋で修行した人で、こうなったと聞きます。6時前の入店なら予約することもできます。門仲の大阪屋は、開いていたらラッキーという不定休ぶり。部位ごとに串に刺して煮込み提供されます。昔は、このスタイルが煮込みの定番だったようです。美味いのですが、あまり煮込み感がありません。それ以上に、有名店にありがちな客あしらいの悪さがいただけません。

臓物系の煮込み料理は世界中にあります。要は、上流階級が肉の上質な部分を取り、下層階級は残りの部分を食べるわけです。臓物類は、臭みを取り、柔らかくするために、濃い味で煮込みます。ローマのトリッパ、フランスのトリプー、ブラジルのフェジョアーダと、あげたら切りがないほど類似料理があります。アメリカ南部のガンボーも、特に臓物料理というわけではありませんが、煮込みの風情があります。香辛料や、一緒に煮込む野菜類に違いはありますが、いずれも、まさに煮込みです。工夫に工夫を重ね、大事に大事に受け継がれてきたソウル・フードです。どれも美味いに決まっています。

五大煮込みには入っていませんが、好きだったのは、居酒屋世界遺産とも呼ばれた木場の「河本」の通称「にこたま」です。黒い煮込みに黒い茹で卵。きっちりとした深川の味でした。昭和そのものの店内に立つ看板娘・真寿美さんが、熱中症に倒れたのが15年、81歳だったと記憶します。その後、店は再開したものの、真寿美さんが店に立つことはなく、18年には亡くなったそうです。翌年、店も閉じました。店内は真寿美さん、調理は弟のアンちゃん、と二人で切り盛りしていました。晩年の真寿美さんは、耳が遠くなり、何を注文しても、煮込みとホッピーしか出てきませんでした。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年3月5日金曜日

道の駅

大崎市の人気の道の駅
国土交通省が管轄する「道の駅」は、現在、全国各地に1,180ヵ所あります。複数の省庁、自治体、そして民間が提携するプロジェクトとしては、稀に見る大成功だったと思います。いまや、どこの道の駅も大盛況。観光客だけでなく地元の人たちにも大人気です。元々は、高速道路にサービス・エリアやパーキング・エリアがあるように、一般道にも24時間使える施設を作ろうと言う地方からの発想だったようです。ドライブインはあったのですが、24時間営業は少なく、かつ利用できるのは食事をする客に限定されます。最初の道の駅は、旧建設省が実験的に新潟県豊栄に開設した情報ターミナルだとされます。本格的議論は、90年に広島市で行われた「中国・地域づくり交流会」に始まります。官民プロジェクトとして、91年には、12ヵ所で社会実験が開始され、93年、制度化されました。

道の駅とドライブインとでは、その性格が全く異なります。ドライブインは、アメリカで、モータリゼーションの訪れとともに、ロードサイド・ダイナーとして普及しました。基本的には、車から降りることなく注文し、食事できるスタイルであり、後にドライブイン・シアターやドライブ・スルーにつながりました。日本では、トラックによる輸送が本格化した60年代、トラック運転手をターゲットとした食堂として各地に作られました。昔は、そこいら中にあったものですが、高速道路の普及によってトラック運転手の利用が減り、いまや絶滅に近い状態だと思います。都市部の郊外型店舗の拡大も、ドライブインの衰退に影響したようにも思います。いずれにしても、ドライブインは、休憩でき場所でもありましたが、あくまでも食堂でした。

道の駅のねらいは、休息機能、地域の連携機能、情報発信機能と定義されています。トイレや情報発信コーナーもありますが、物販と飲食コーナーがメインとなり、人気を博しています。特に物販では、名産品に加え、近郊の農家や漁師が持ち込む新鮮な食材が地元の人たちにも大人気です。ここが、高速のSAやPAとの大きな違いなのでしょう。地方都市の中心街は、車社会化と共に、シャッター通りとなり、駐車場の広い郊外店舗が増えました。郊外店舗の多くはチェーン展開している店であり、その画一性ゆえ、町が持っていたマルシェ的魅力は持ち得ません。道の駅の野菜は、生産者が、直接持ち込み、値付けしています。高いか安いかは別として、とても納得感が高いように思います。JAが、一括買い上げ、均一の値付けをして陳列すれば、スーパーと変わりません。失われた町の魅力を、道の駅が回復しているのかもしれません。

高度成長期の産業転換によって加速した労働力の移動は、東京一極集中、地方の衰退を生み、70年代から政治課題であり続けました。88年には、ふるさと創生事業が開始され、あろうことか、全国の市町村に、使途自由の1億円が配布されました。有効な使い方も多かったのでしょうが、純金のこけし、あるいは今は廃墟となった意味不明な箱物など、無駄遣いとしか思えないものも多くありました。道の駅が成功したのは、施設をプラットフォーム化し、運営を民間に委ねたからです。最近は、温泉施設、遊園地、宿泊施設等々、様々な施設が道の駅に追加され、総合レジャー施設化が進む傾向もあります。それはそれで結構なのですが、観光一辺倒ではなく、地域にとっての道の駅の魅力を考えるべきと思います。過剰投資がふるさと創生事業の二の舞にならなければいいのですが。

近年は、道の駅の防災拠点化が進められているようです。実際的で、意味のある対策だと思います。建屋の耐震化や無停電化に始まり、貯水タンク、蓄電器、防災倉庫等々が整備されつつあり、広域防災拠点化を図っているようです。新たな町の賑わいを創造した道の駅が、さらに地方の拠点化することは望ましい方向だと思います。(写真出典:mo-kankoukousya.or.jp)

2021年3月4日木曜日

ヨナ抜き音階

雅楽
ヨナ抜き音階とは、西洋音階から、4番目のファと7番目のシを抜いた5音階、つまり4・7抜き音階です。和音階とも呼ばれ、日本人が大好きな音階です。聞けば、桜咲く里の穏やかな景色が浮かびます。明治期以降の小学校唱歌や童謡は、ほぼ全てヨナ抜きであり、政府が唱歌として導入したスコットランドやアイルランド民謡もヨナ抜き音階です。日本人の好みにピッタリだったので輸入されたようです。ヨナ抜きは、民謡は元より、童謡、演歌、歌謡曲、最近のヒット曲まで、幅広く使われています。

音楽は、各国で、それぞれ独自の進化を遂げてきました。その違いが分かりやすいのは楽器やその音色、そして独自の音階です。音階を聞けば、即座に、その国がイメージできます。各国の音階は、ほぼほぼ西洋音階で表すことができます。”ヨナ抜き”という言い方も、西洋音楽ベースです。いわば西洋音階が比較のための標準を提供してくれたわけです。日本では、他に、ニロ抜き音階が有名です。いわゆる琉球音階です。ヨナ抜き音階は、前述のとおり、スコットランドやアイルランド、あるいはラテンアメリカのフォルクローレでも使われ、必ずしも日本独自というわけではありません。私見ですが、エチオピアのオルガン奏者ハイレ・メルギアなど聞くと、日本の民謡か歌謡曲かと思うほどです。エチオピアも、ヨナ抜き好きだと思われます。

では、江戸期までに成立した民謡や童歌は、いかにしてヨナ抜きになったのか、ということが気になります。これが、なかなか分からないわけです。古代日本の音楽事情については、記紀等にも記載があり、分かっていることも多いのですが、どのようなものだったかは不明です。5世紀頃、まずは朝鮮半島から百済楽等、そして中国から唐楽が入ってきたようです。その後、南ヴェトナムの林邑楽、仏教の声明、朝鮮半島の伎楽等も入り、平安期には、それらが日本独特の雅楽を構成します。雅楽には、日本固有の俗謡等も取り入れられているようです。平安末期には、声明にルーツを持つ今様が、庶民の間で流行し、宮中にも取り入れられたようです。今様は、鎌倉期に廃れますが、雅楽の「越天楽」によすがを残していると言われます。

武士の世になると、権力とともに、音楽も宮中を出ます。というか、宮廷外の出来事も記録に残るようになったわけです。琵琶法師が平家物語を語る平調が生まれ、世阿弥が猿楽を能楽へと大成し、出雲阿国が歌舞伎踊りブームを巻き起こします。16世紀と言われる三味線の渡来は、日本の音楽事情を激変させました。浄瑠璃から歌舞伎へ、そして常磐津、新内、長唄等と、江戸期の文化や音楽の豊穣を生んでいきます。恐らく、この時期、それらの影響を受けつつ、民謡も大きく進化してたのではないでしょうか。日本各地の民謡は、記録が乏しいものの、かなり古くから労働歌や祝祭歌として存在していたはずです。それが江戸期の音楽の成熟を受け、かつ三味線や虚無僧尺八の普及によって完成度を増したのでしょう。そして、そのほぼすべてがヨナ抜き音階であり、日本人の体に深くしみこんでいったものと思われます。

結局、ヨナ抜きの浸透過程は、よく分かりません。雅楽の呂旋法は、古典のなかで唯一のヨナ抜きと言われるようですが、それが継承されていった節はありませんし、ましてや民謡に色濃く反映されたとも思えません。歌は世はつれ、世は歌につれ、と言います。絵画等と違って、記譜されていない音楽は消えていきます。民間の記録が不十分であることと併せ考えれば、全てをたどることはできません。ヨナ抜き音階は、四季が織りなす美しい日本の風土が生んだ音階、とでも言っておくべきなのでしょう。(写真出典:kunaicho.go.jp)

2021年3月3日水曜日

クラム・チャウダー

Union Oyster House
ボストンの観光名所は数々ありますが、なんといってもフリーダム・トレイルが一番有名だと思います。4kmほどのコースに、アメリカ合衆国誕生に関わる名所旧跡が16ヵ所もあります。ボストン茶会事件のサイトが入っていない点は、やや残念なところです。ちなみに、墓地が3ヵ所もふくまれており、アメリカ独立戦争の英雄たちが眠っています。アメリカ人たちは、実に丁寧に墓石を見ていますが、古戦場と同様、歴史に詳しくないと、退屈なものになります。名所もいいのですが、フリーダム・トレイル沿いで、私が最も好きなのは「ユニオン・オイスター・ハウス」です。1826年創業、営業を続けているアメリカ最古のレストランとも言われます。建物自体はさらに古く、1704年建造とされています。

ユニオン・オイスター・ハウスは、ケネディ家はじめ、ニューイングランドの著名人御用達の店でもあります。ジョン・F・ケネディがお気に入りだった席は、ケネディ・ブースと呼ばれています。名物料理は、生ガキや生クラム、そしてロブスターといったシー・フードですが、ステーキやチキンもあります。日本では珍しい生のクラムは、チェリー・ストーンと呼ばれ、最近千葉で有名になっているホンビノス貝の一種らしいです。ユニオン・オイスター・ハウスで、是非とも食べるべきものの一つが、クラム・チャウダーです。もちろん、ニュー・イングランド・スタイルの白いチャウダーですが、サラサラとしたスープにクラムの風味が効いています。とろみは、砕いたオイスター・クラッカーでつけるのがニュー・イングランドの伝統だと言われます。

クラム・チャウダーには、アメリカ各地に多くのスタイルがありますが、最も有名なのは、ミルク・ベースの白いニュー・イングランド風、トマト・ベースの赤いマンハッタン風、そして透明なスープに青い野菜が添えられたロード・アイランド風です。クラム・チャウダーは、フランス人、あるいはノバスコシア人がボストンに持ち込んだ料理と言われます。チャウダーは、フランス語の大釜が語源ともいわれます。昔のチャウダーの姿に一番近いのは、アメリカ版アサリの潮汁といった風情のロード・アイランド・スタイルのようです。ミルクを使うニュー・イングランド・スタイルは、海のものが苦手なアメリカ人のために、後に考案されたものだとも言われています。

実は、ニュー・イングランド・クラム・チャウダーは、意外と簡単な料理です。バター、小麦粉、ミルクと聞けば、いかにも面倒くさそうですが、アメリカ人が作るのですから、意外とシンプルです。要は、ベシャメル・ソースを作るわけではなく、賽の目に刻んだジャガイモ、玉ねぎ、セロリを炒める際に、小麦粉をふりかけ、最後にミルクを加えるだけです。恐らく最大のポイントは、新鮮なアサリをたっぷり使うことだと思います。その点、アサリのうま味が半端ないのは、ロング・アイランドのフリー・ポートのチャウダーです。器の半分がアサリというすごさ。ただ、砂抜きがいい加減で、結構、ジャリジャリとした食感になります。砂抜きは、しっかりやりましょう。

アメリカでは、南部の一部を除き、これといった郷土料理はありません。南部を代表する料理と言えば、ケイジャン料理があります。ケイジャンは、北東部のアカディアからイギリス軍によって追い出されたフランス系移民です。クラム・チャウダーといい、ケイジャンといい、アメリカの名物料理は、イギリス系ではなく、フランス系によって持ち込まれたものばかりというわけです。やはりそうかと思ってしまいます。(写真出典:airfrance.com)

2021年3月2日火曜日

サイコロ

六面サイコロの原型距骨
サイコロの起源は古く、しかも、どこかの誰かが発明し、世界中に伝播したということではなく、同時発生的に世界各地で登場したようです。ということは、人間の根本的なところに深く根差した代物だとも言えそうです。始まりは、恐らく、占いだったと思われます。人為的でなく、偶然、つまり神に判断を委ねる手段、ということだったのでしょう。原初、神とは大自然のことだったと思われます。無力な人間が、大自然の摂理、あるいは意思に従うことで、生存をはかる、ということが占いの意義だったのでしょう。

サイコロの最も古い形態は、メソポタミア、インド、中国等々で出土する貝殻や木片だそうです。いわゆる神託ですから、吉凶の二択を占えば事足りるわけです。ただ、三角柱や四角柱、さらにはサイコロとして使用したと思われる動物の距骨(くるぶしの骨)も出土しているようです。これがインドやエジプトで出土する六面体サイコロの原型とも言われているようです。表裏の合計が7になる六面体サイコロは、紀元前8世紀のアッシリア遺跡から発見されたものが最古だと言われています。しかし、三択以降のサイコロは、神託というよりは、遊びが目的だったのではないでしょうか。恐らく、サイコロを使った最初の遊びは”賭け”だったと考えられます。

人間が、なぜ、如何にして”賭け”を始めたのかは謎です。賭けは、生産的ではないので、遊びと理解されますが、その始まりは、神託の仕組みを活用した紛争処理だったのではないでしょうか。それが娯楽へと進化するわけですが、とてつもなく古くから行っていたことだけは間違いなさそうです。占いが先に始まったのか、賭けの方が先かは、結構、微妙なところです。いずれも、結果が予測不能と言う点では類似し、双方でサイコロが使われたことは理解できます。結果が見えないなか、未来に対する判断を積み重ねるのが、人生だとも言えます。人生は”賭け”の連続です。賭けは、人間の生き方と深く関係しているように思えます。しかし、なぜ、それを遊びにしたのかは、やはり謎です。強欲、あるいはスリルや高揚感だけで説明できるものでもなさそうな気がします。

賭けの要素と、やはり人間の性分である”競争”を遊びに仕立てたのが、サイコロを使うボードゲームです。ある意味、人生が凝縮されたような代物です。最古のボードゲームは、5,500年前のエジプトの”セネト”だと言われます。棒や動物の骨がサイコロとして使われていたようです。いわゆるレース・ゲームですが、その遊び方は、いまだに論争があるようです。賭けもボードゲームも、人々が熱中しすぎ、また不正も横行するため、古くから禁止令が出されてきました。フランス革命時に始まったギャンブルへの課税は、ゼロ・サム・ゲームをマイナス・サムへ変える有効な対策だと思います。しかし、射幸性が残る限り、人々はやめません。

賭けもボードゲームも、農業が生み出した所有の概念、競争の概念、あるいは時間的余裕を背景に成立したものと考えます。生産性の高さゆえ文明をもたらした農業ですが、一方で、非生産的なサイコロも同時に生んだということは、実に皮肉です。先のことは分からないからこそ、日ごろから汗水流して地道に働く、という農業的道徳観は、そもそも無理があり、動物としての人間には負荷が高すぎるのでしょう。サイコロは、その道徳観に対するテロとしてではなく、負荷を軽減する仕組みとして生まれたように思えます。柳田国男の「ハレとケ」は、日本だけではなく農耕社会全般に通じる概念だと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年3月1日月曜日

ラナ・プラザ崩落

2013年4月24日、朝8:45、バングラデッシュのダッカ近郊にある8階建ての雑居ビル「ラナ・プラザ」が、突如、崩落します。縫製工場、銀行、商店等が入るビルは、ちょうど朝の出勤時間帯で込み合っていました。1,127人が死亡、2,500人以上が負傷しました。崩落の原因は、耐震性を無視した違法建築であったこと、オーナーが壁面のひび割れ等を無視していたこと、そして直接的にトリガーとなったのは、屋上の大型エアコンの振動と入居する縫製工場の数千台のミシンの振動が共鳴したことでした。世界中が、この事故に注目します。ただ単に、多数の死者を出した大事故だからというに留まりません。ビル内の縫製工場の劣悪な労働環境が注目され、いわゆるエシカル・ファッション問題を世界に広める契機となりました。

低賃金、長時間労働等、劣悪な労働環境下にある工場は、スウェット・ショップ、搾取的な工場と呼ばれます。スウェット・ショップは、産業革命の申し子でしたが、先進国では規制法が作られ、姿を消しました。20世紀も後半に入ると、国際化や技術の進歩もあり、産業界は、コストの安い工場を求めて、発展途上国へと展開していきます。特に設備投資が安価な衣料品産業は、スウェット・ショップを世界中に広げます。安価で回転率の高いファスト・ファッションが台頭すると、スウェット・ショップはさらに拡大しました。ラナ・プラザの縫製工場は、27ブランドもの製品を扱っていたようです。

ラナ・プラザ崩壊事故後、欧米のブランドも参加して国際的なスウェット・ショップ監視機構が作られました。一定の効果はあったのでしょうが、バングラデッシュ政府の及び腰の対応もあり、状況が改善されたとは言えないようです。かつての日本もそうだったように、経済成長は、繊維・衣料の輸出ドライブから始まります。ただ、最低限、安全と成長は両立させる必要があります。人命を犠牲にした成長などあり得ません。さらに、ファスト・ファッションが、結果、生み出す大量の衣料廃棄物の一部は、発展途上国へと送り出され、安価、あるいは無料で人々に提供されていると聞きます。体のいい廃棄ですが、これが途上国の衣料産業を破壊し、成長機会をも奪っているわけです。

さらに、ファスト・ファッションが、大量に消費するコットンは、生産性の高い遺伝子組換綿花に頼っています。自然界に存在しない遺伝子組換植物は、大量の化学肥料を必要とし、耕作地周辺に、深刻な健康被害を生じさせているとも言われます。産業革命が巨大化させた人間の強欲は、地球、あるいは世界が、奇跡的に保ってきた微妙なバランスを破壊しながら、さらに大きくなっているということなのでしょう。だとすれば、地球と人類は、破滅への道をたどっているとしか言いようがありません。地球全体が、”ラナ・プラザ”になる日がくる、ということです。

国連が提唱する”持続可能な開発目標”、いわゆるSDGsは、新たなバランスを、地球と世界に作り上げようとする試みです。この取り組みがラスト・チャンスかもしれません。SDGsは、あくまでも目標であって、プロセスは、まだ試行中、あるいは議論されている段階です。基本的には、川下規制一辺倒ではなく、川上、つまり強欲自体に何らかの歯止めをかける必要があるように思います。現在、スウェット・ショップに対する抑制効果が最も高いと言われるのが、SNSによる発注元への批判だと言われます。確かに、かつてに比べ、ファスト・ファッション各社は神経を尖らせるようになりました。(写真出典:medium.com)

夜行バス