2021年3月11日木曜日

寒く暗い夜~その1

 揺れたのは、お客さまのところにいるときだった。大きく長い揺れだった。車に飛び乗り、急ぎ事務所へ戻ろうとする。サイレンとともに、「大津波が来る!」と防災無線が叫ぶ。高台の避難所を目指す。道は、既に大渋滞。水が路面を浸し始める。車を捨てて、走り始める。水嵩が増し、勢いも激しくなる。近くのビルに飛び込み、屋上を目指す。階段を上り始めると、津波が後を追う。必死で駆け上がった屋上から下を見ると、車が、家が、そして人が流されていく。夜になっても水は引かない。動けない。通りには、いくつもの死体が流れていくのが見えた。寒くて暗い夜だった。

釜石で女性職員から聞いた話そのままです。ボロボロ泣きながら、話してくれました。

震災発生から数日後、依然、状況は厳しいものの、本社の支援体制、復旧に向けた段取り等が軌道に乗ってきました。ちょうど1週間目に山形空港が再開。当日、さっそく現地へ飛び、被害の大きかった宮城・岩手沿岸部の事務所を回りました。現地のガソリン不足を考慮し、LPG燃料のタクシーをチャーターしました。仙台へ向かう道では、支援に向かう米軍の長い車列が印象的でした。仙台支社は、野戦基地さながらの様相でした。その夜、支援物資を使って、初めて炊き出しを行い、皆で温かい食事をとりました。夜8時頃、石巻で行方不明の従業員を捜索していた本社支援隊が戻りました。入社間もない支社職員も一緒でした。彼女は石巻出身の一人娘で、実家は流され、両親とも行方不明になっていました。手がかりを得たい一心で支援隊に同行したようです。その感情を押し殺したような硬い表情に、胸が締め付けられる思いでした。

翌朝早く、石巻を目指しました。日和山から見る町には、何も残っていませんでした。少し山手にある事務所は無事でしたが、1階は津波に襲われ、取り残された10人弱の従業員が一昼夜を過ごしました。屋上で焚火をして暖を取るなど、皆を守る所長のサバイバル能力の高さに感心しました。行方不明だった従業員は、後日、遺体で発見されました。子供の通う小学校へ急ぐ途中、橋の近くで渋滞につかまり、津波に飲まれました。次いで、壊滅状態の南三陸を経て、気仙沼に入りました。町の中心部は、打ち上げられた船、折り重なった車、そしてガレキで覆われていました。坂上にある事務所は無事でしたが、1階は津波にやられていました。黒板を玄関前に出し、町の人々の伝言板にしていました。何か書け、と言われ、「がんばれ東北! がんばれ日本!」と書きました。本社に戻った後、これを「がんばろう東北! がんばろう日本!」と変え、復旧・復興のキャッチ・フレーズにしました。

その夜は、被害の少ない岩手県水沢に入ります。そこを拠点に、三陸沿岸部各地へ出入りする予定でした。ただ、沿岸部への道は、一般車通行禁止となっており、本社支援隊は、家族の捜索と言って通っていました。私は偽るわけにもいかず、本社出発前に関係省庁へ働きかけましたが、やはり許可は出ませんでした。ところが、幸いなことに、翌日から通行が解除され、朝早く、大船渡に入ることができました。港近くにあった事務所は2階部分まで津波に襲われ、柱がむき出しになっていました。皆で集まれる場所が無いので、避難所になっていたリアスホールの駐車場に集合しました。あの日以来の再会に、皆、泣きながら抱き合っていました。私が、話し始めると、突然、皆が号泣します。給与は心配するな、完全に保証する、という私の言葉がきっかけでした。地元企業は解雇の嵐で、行政の支援も見えないなか、皆、心細い思いをしていたのです。

大船渡にも、一人連絡のつかない職員がいました。隣町の陸前高田に家があるというので、探しに出かけました。家は流されていましたが、近くの避難所で聞き込みをした結果、生存が確認でき、かつ偶然にも大船渡へ戻る道で出会うことができました。避難所に行った際、隣接する漁協の厨房では、炊き出しが行われていました。7~8人くらいのおかみさんたちが、下ネタを連発し、大笑いしながら働いていました。海の民は、基本的にたくましく、明るい人たちです。厳しい自然と折り合いをつけながら、何世代にも渡って生きてきた人たちです。中越地震では、山の民のたくましさを知りました。中越地震を取材した神戸新聞の記者が「阪神淡路大震災の際、被災者を取材すると、行政への批判ばかりだった。中越では、支援に対する感謝の言葉しか聞かれない」と書きました。最もひ弱で、面倒くさいのが、街の民かも知れません。

マクア渓谷