2021年3月10日水曜日

あれから十年

 2011年3月11日14時46分、私は、当時、江戸川区にあった会社の研修所の4階で、100人くらいの仲間たちに話をしていました。信じがたいほどの大きな揺れに、私は「全員、机の下に潜れ!」と叫びました。普段は、私の言うことなど、大して聞かない連中も、さすがに、このときばかりは、皆、さっと机の下に入りました。揺れは、どんどん強くなり、私は、ついに東京崩壊の日が来たかと思い、皆の最後を見届けようと、両足を踏ん張り、一人立ち続けました。

揺れがおさまると、会社の車で丸の内本社へ向かいました。永代通りは、屋外に避難した人で溢れていました。大きな余震が来て、車も揺れ、ビルの看板が落ちる瞬間も目撃しました。いつもの倍以上の時間がかかり、ようやく本社に着くと、エレベーターが全て止まっていました。やむなく27階にある自分の部署まで階段で上がりました。さすがに一気に上がるのは厳しく、途中、息をつこうと、かつて部長をしていた人事部に立ち寄りました。部屋に入ると、何故か、皆、拍手で迎えてくれました。後日、何故、拍手をしたのか、と聞くと、理由は分からないけど知らぬ間に拍手していた、と言っていました。皆、不安だったということなのでしょう。

全国の営業現場を統括する部署にいたので、すぐに、ありとあらゆる手段を使って、現地と連絡を取り始めました。従業員の安否確認を最優先とし、情報の集約、救援物資の手配、救援隊の組成、他部門との連携等々に着手しました。衛星電話や防災電話もありましたが、通信状況は悪く、かつあまりにも広範囲なので、なかなか全貌を掴むことはできませんでした。19時には、災害対策本部が立ち上がり、全社体制が組まれました。真夜中を回っても、途切れ途切れながらも現地とのやり取りが続き、状況が少しづつ見えてきました。東京湾越しに市原の工場から上がった火の手が見え、電車が止まった都内の道は大渋滞、歩道には歩いて帰宅する人の波が見えました。あの夜、本社では、約7割に当たる2,400人が一夜を明かしました。

二日目も同様の状態が続きました。ある程度、体制が動き始めたのを見定め、夜は災害対策用に入居していたマンションに戻り、かつて赴任していた新潟と連絡をとって、救援隊を送り込むルートを探りました。結果、上越道から磐越道で東北へ入り、山形を支援の前線基地とすることにしました。翌朝早く、部下の部長から電話があり、今日、救援隊を送り込みましょう、との提案がありました。まったく同感だったので、社長の自宅に電話して、許可を取り、先発隊の組成と持参する装備・物資の準備に入りました。別々の5ヵ所を目指す先発隊の要員はボランティアを募り、車も職員所有のSUVを使いました。衛星電話や積めるだけの救援物資等を積み込みました。現地で不足していたガソリンは、都内でも十分に入手できず、新潟支社に調達してもらいました。午後、皆の激励の拍手に見送られ、先発隊が出発しました。

救援隊は、短期間で交代できるように、次々と送り込みました。救援物資の輸送体制も泥縄ながら動き始め、情報も把握できるようになっていきました。安否確認も進みましたが、やはり残り数パーセントには時間がかかりました。残念ながら、3名の従業員が亡くなり、家族、家屋を失った従業員は多数。完全に使用不可となった事務所は、津波の直撃を受けた大船渡、そして福島第一原発の避難区域に指定された南相馬の2カ所でした。時間とともに、津波被害の想像を超える甚大さが判明するとともに、福島第一原発事故という前代未聞の恐ろしい災害の姿も明らかになっていきました。

マクア渓谷