2020年6月30日火曜日

営業昔話(12)真実の瞬間

昔々、一冊の本がサービスを変えたとさ。

ヤン・カールソン著「真実の瞬間」(87年)は、サービス・マーケティングの始まりを告げた本として有名です。カールソンは、旅行代理店の若き経営者でしたが、経営危機に陥ったSASスカンディナビア航空の社長に抜擢されます。カールソンは、わずか1年でSASを復活させました。後にバーバリゼーションと呼ばれることになる手法です。より顧客に近い川下の業界から川上の会社の社長を抜擢する方法であり、やはり経営危機にあった英国のバーバリ社がデパート業界から社長を抜擢し、成功します。

SAS社長に就任したカールソンは、顧客は従業員と会った最初の15秒でリピートするかどうか判断すると主張します。この15秒こそが「真実の瞬間」であり、顧客本位主義を宣言した瞬間でした。ナショナル・フラッグであるSASは官僚化が進んでいました。カールソンは、顧客フロントに大幅な権限移譲を行います。それは大きなコストカット、そして伝説的なサービスを生み出します。出発間際、カウンターで航空券を家に忘れたことに気づいた顧客に対し、グランド・スタッフが自らの判断で搭乗券を手渡す、といった具合です。

さらにカールソンは、SASの搭乗客の多くがビジネスマンであることを発見します。ターゲットをビジネスマンに定めたカールソンは、今や常識となったビジネス・クラスを発明します。SASの業績が急回復したのも頷けます。こうして、従前は物品の販売に限定されていたマーケティングが、サービス分野へと水平展開していったわけです。同じころ、伝統的マーケティングも、生産者目線のマス・マーケティングから、消費者目線のOne to One マーケティングへと大きく変化していきました。

その後、夢の国ディズニーランド、Noと言わない百貨店ノードストローム、ホスピタリティをブランド化したリッツ・カールトン等々、多くの伝説的サービスが、顧客本位のサービス・マーケティングを広めていきました。いまや常識となった顧客本位のマーケティングですが、「真実の瞬間」の持つ歴史的意義が変わることはありません。

「真実の瞬間」のなかに大好きな例え話があります。欧州の街角で働く石工に何をしているのかと尋ねると、一人は「石を削ってるんだよ」と答えます。別な石工は「欧州一の教会を建てているんだ」と答えます。下手な解説は不要ですね。
ビジネス・クラスに立つヤン・カールソン  出典:bilder i syd

ラス・メニーナス

いつまでも見ていたい、その前から立ち去り難い絵というものがあります。私の場合、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、レンブラントの「夜警」、ラファエロの「キリストの変容」等々ですが、なかでも別格はベラスケスの「ラス・メニーナス」です。例えば、「夜警」は、人間が絵画という表現のなかでたどりついた最高傑作ではないかとさえ思います。「ラス・メニーナス」は、そうした名作とは異なり。絵画を哲学する絵画という極めて特殊な位置にあると思います。古来、実に多くの人たちが「ラス・メニーナス」を語ってきましたが、語らずにいられない絵なのです。

当たり前のことですが、絵画空間は、キャンヴァスの向こうに広がります。鑑賞者は、安全な位置から、キャンバスの中を覗き込みます。「ラス・メニーナス」だけは、絵画空間がキャンヴァスのこちら側に広がってきて、見ている者を取り込んでいきます。私たちは、もはや安全な傍観者の立ち位置を失い、戸惑うことになります。光と影、構図等を巧みに使い、見事な立体感を出している絵画は山ほどあります。とは言え、立体的に見える二次元の存在であることに変わりありません。「ラス・メニーナス」は三次元の中に存在し、まるでARがごとき効果を実感させます。

陰影、遠近法、構図等、実に細かく計算された技巧の積み重ねが、それを実現しているわけですが、最も直接的には、絵のなかに描かれた画家ベラスケス本人が鑑賞者を描こうとしていること、鑑賞者とは私たちではなく部屋に奥の鏡に映ったフェリペ4世夫妻であること、という構図が三次元を構成しています。そして画面右から入る光はじめ、技巧の数々が、三次元を現実的なものにしています。

ベラスケスの画法の特徴は、近くで見ると速くて荒いタッチが、離れてみると見事なまでに写実的であることです。後の印象派が獲得した技法を300年近く前に生み出していたわけです。また絵画を超える絵画という現代アートの作家たちが挑戦するテーマを400年も前に易々と成功させていたわけです。ベラスケスは、人間の視覚を感覚的に科学した人なのでしょう。さらに言えば、宮廷官僚としての成功も合わせ考えれば、人間を高いところから俯瞰する能力を持った天才だったとも思います。
「ラス・メニーナス(女官たち)」プラド美術館蔵   出典:wikipedia

2020年6月29日月曜日

ブルーマウンテン

日本を代表するコーヒー・メーカーのNYオフィスに、仕事で出入りしていたことがあります。ある日訪問すると、「いいところへ来たね。ブルーマウンテンにある自社農場から豆が届いたばかりだ。飲むかい?」というわけです。もちろん、有り難くいただきました。ブルーマウンテンは、ジャマイカのブルーマウンテン山の高度800m以上、寒暖差の激しい高地で栽培されます。見事なバランスに、ほんのりとした甘味。さすがです。ただ、薄いんですわ。

インドネシアが世界に誇るコーヒーと言えばコピ・ルアク。ジャコウネコの糞からとれる希少コーヒー。天然ものは、カぺ・アラミドと呼ばれます。インドネシアの方からいただいたことがあります。必ずフレンチ・プレスで入れることと言うので、わざわざ道具を買って飲みました。コクのある美味いコーヒーです。ただ、薄いんですわ。

たまに行く珈琲専門店で、「今日はパナマ・ゲイシャが入ってます」というので、お高かったのですが、飲みました。ゲイシャはエチオピア原産ですが、パナマの高地で栽培されるものが最高と言われます。他のコーヒーとはまるで違う、何かフルーツ系の飲み物のようでした。ただ、薄いんですわ。

世界最高と言われるコーヒーは、象の糞から採るタイのブラック・アイボリー、ジャコウネコの糞から採るコピ・ルアク、パナマ・ゲイシャ、ブルー・マウンテンあたりでしょうか。味と香りを楽しむためには、フレンチ・プレスが適していると言われます。普段、ダーク・ローストをエスプレッソ系の入れ方で飲んでいるので、どうも高級コーヒーを通の入れ方で飲むと、薄く感じてしまいます。ある意味、悲しい話ですが、習い性ゆえ、致し方ありません。さらに、フレーバー・コーヒーも好きですなどと言った日には、通の皆さんのヒンシュクを買うこと間違いなし。

プロや通を目指しているわけでもなく、朝、起き抜けに飲むコーヒーに幸せを感じて過ごせれば、それで十分。コーヒーは、いい楽しみだと思います。日に3杯ほど飲むので、常時5~6種類くらいの豆を用意してあります。恥ずかしながら、うち2種類は、フレーバー・コーヒーです。
ジャコウネコ   出典:7325coffee

2020年6月28日日曜日

唐入り

福岡は、いつ行っても活気溢れる魅力的な街です。魅力の一つは食文化。数ある名物のなかで、私が毎回欠かさないものは、呼子のイカです。あの甘さは病みつきになります。一度、呼子の朝市へ出かけたことがあります。イカも堪能しましたが、はじめての松浦半島で驚いたことが二つあります。一つは、玄海原発の福岡への近さ。近すぎませんか?今一つは、名護屋城跡の大きさです。当時、大阪城に次ぐ規模だったようです。

名護屋城は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、出兵拠点として築かれ、秀吉の死後、速やかに解体されています。当時、松浦半島は、各大名の陣屋で埋め尽くされ、20万を超す兵が集まっていたそうです。明らかに日本の中心だったわけです。また、朝鮮出兵は、規模において、当時、世界最大の戦争だったともいわれます。ところが、いまだに定説がないのが、秀吉の出兵意図。秀吉自身が「唐入り」と称しているとおり、朝鮮半島は前段戦に過ぎず、目標はあくまでも明の平定でした。それにしても、何故?

余りにも資料が少なく、有力な説も確証に欠けます。大名への俸禄としての土地の拡大を狙ったという説、大名たちの戦力・財力を減らすために出兵したという説、明や朝鮮半島も含めて天下統一と認識していたという説、貿易の拡大を求めたという説、果ては妄想、発作的思いつき説までありますが、いずれも決定的な確証はありません。むしろ、証跡の少なさの中にこそ真実があるのではなかとも思えます。

つまり、下克上の時代ゆえ成りあがることができた秀吉は、豊臣家の安泰など望むべくもないことは百も承知。そこで、大名弱体化どころか、大名をすべて国内から放逐しようと考えたのではないでしょうか。だからこそ誰にも本音は語れず、真意が悟られぬよう言葉少なだったと考えます。実に幼稚な発想ですが、その絵の大きさ、単純さ、直截さこそ秀吉の強さだったとも思えます。ただ、出兵したのは子飼いの大名だけで、家康等は参戦しておらず、辻褄が合いません。これは「隗より始めよ」ということであり、明出兵への地ならしだったと考えられます。

とは言え、大名たちも、秀吉の狙いに薄々気づいており、だからこそ、秀吉の死後、即座に名護屋城は解体されたのではないかと思います。朝鮮への気遣いという説もあるようです。いずれにしても、かくも巨大な城郭の解体に関する資料がほとんど何も残っていないと聞きます。いかにも不可解。大名たちの嫌悪感の現れのようにも思えます。
名護屋城復元模型  出典:saga museum


2020年6月27日土曜日

知恵の七柱

「なんびとたりとも我々の祖国を侵略できない。なぜなら我々の祖国は、我々の心の中にあるからだ。」T.E.ロレンス中佐の「知恵の七柱」の一節だと記憶します。心情的にはアラブと同化したロマンチストらしい言葉です。少し前、正確な言い回しが知りたくて、同書をパラパラと読み返してみたのですが、見つけられませんでした。記憶違いとは思えないのですが。

英国陸軍トマス・エドワード・ロレンス中佐は、アラビアのロレンスとして知られます。1888年、貴族の落とし子として生まれ、オックスフォード大学在学中にはアラビア半島を放浪。卒業後は、考古学に没頭します。陸軍入隊後は地図課に配属され、後に堪能なアラビア語を活かし、外務省直下の情報将校となります。マッカのハーシム家とともに、オスマン・トルコに対するゲリラ戦を展開、アラビア半島の解放を勝ち取りました。

ロレンスは、ハーシム家の三男ファイサルに理想を見て、ハーシム家のもとでのアラブ統一を夢見ます。しかし、部族間の争いは容易いものではなく、さらにロレンスの理想とは異なり、英国・フランス・ロシア等の思惑が交差し、中東は大国の草刈場となりました。今に続く中東の混乱の原因です。理想と現実に引き裂かれたロレンスは、戦いには勝利するものの、複雑な思いをもって戦場を去ります。

戦後、ロレンスは、中東専門家として政府で活躍することも可能でした。しかし、偽名を使ってまで、一兵卒として空軍や陸軍に潜り込みます。兄弟として共に戦ったアラブ人を母国が裏切り、結果、自分はその手先に過ぎなかったという思いが消えることはありませんでした。「知恵の七柱」が、単なる従軍記を超えた歴史的傑作になったのは、その思いがゆえです。1935年、ロレンスはオートバイ事故で亡くなります。享年46歳。アラビア半島で戦ったのは、わずか2年、失意のうちに逝った人と言えるのでしょう。

デヴィット・リーン監督の名作「アラビアのロレンス」でロレンスを演じたのはピーター・オトゥール。ロレンスの性格や心情の陰影までも醸し出す名演でした。ピーター・オトゥールは身長190cmですが、実際のロレンスは165cmのチビでした。そのことが彼の複雑な人格形成に大きな影響を及ぼしたとも言われます。
出典:time AZ

2020年6月26日金曜日

ポップン

1950年6月25日午前4時、北朝鮮軍は韓国への砲撃を開始。宣戦布告もないまま、暗号ポップン(暴風)のもと、10万の兵士が38度線を越えました。北朝鮮は十分に開戦準備を行い、装備面でもソ連の最新戦車を擁するなど南を上回っていました。一方、韓国軍は、北が38度線へ兵を移動している情報も軽視し、さらに前夜は陸軍省庁舎落成式で幹部は泥酔状態にあり、指揮命令系統も混乱。北朝鮮は、瞬く間に南に深く浸透します。

なぜ金日成は南進に踏み切ったのか、という議論があります。もちろん、共産主義政権による半島統一は悲願だったわけですが、開戦に至る直接的要因は何か、ということです。スターリンは、米国との直接対決につながりかねない南進には否定的でした。しかし、米国のトルーマン大統領による台湾問題不参入宣言、国務長官アチソンによる台湾・韓国不干渉ともとれる発言を受け、金日成が動きます。説得されたスターリンは、毛沢東の了承を前提に南進を許可します。この時、金日成は、スターリン、毛沢東双方に、他方も南進に賛成している、というウソまでついています。

金日成は、米国不干渉の可能性、韓国社会や軍の混乱等を見据えて判断したのでしょうが、実は、南進すれば、韓国民衆が蜂起し、共に李承晩政権を倒せると確信していたようです。これが彼の自信の源でした。それを金日成に吹き込んだのが朴憲永だったと言われます。朝鮮共産党の創設メンバーというエリート。戦後、南朝鮮共産党を結成しますが、米軍の弾圧を受け、北に越境します。北朝鮮では、副首相兼外相を務めます。結果、南での民衆蜂起は起きませんでした。朴憲永は、スパイ容疑で銃殺されます。責任を取らされたのでしょうが、民衆蜂起が起きていたとしても、粛清されたはずです。金日成の対抗馬ですから。

開戦から70年、いまだ半島情勢は不透明。統一は、金王朝による統一か、金王朝を排除したうえでの統一か、いずれかしかありません。文在寅がねらう、北の鉱物資源と南の技術・資本でウィンウィン、などあり得ません。金王朝は、軍を掌握するため、人民を統制するため、常に身近な敵を必要としています。尻尾を振る韓国政府など、逆に迷惑な存在であり、百歩譲っても安全なかつあげ対象でしかありません。
金日成(左)と朴憲永  出典:wikipedia

2020年6月25日木曜日

「ロングデイズ・ジャーニー」

2018年中国・フランス    監督:ビー・ガン

☆☆☆☆+

久々に好きなタイプの映像詩を見ました。フェリー二の映像のようでもあり、シャガールの絵のようでもあり、とにかく夜見る夢の世界です。時間も空間も断片的であり、ベールに包まれたような、遠い記憶のような空気感だけが、一定的、持続的に全体を覆う世界。特に後半60分の3Dワンショット映像は、夢の世界が持つ空気感を表現するためのものなのでしょう。映画にしかできない表現のあり方を心得ている監督だと思います。映画史に残る60分かも知れません。音響も実によく計算されており、その見事な構成は一つの詩を形成しています。音楽は、甘い歌謡曲を、夢の世界の象徴のように使いながら、ミャオ族のものと思われる民族音楽が効果的です。

近年、中国映画の傾向として、犯罪者や脱落者を描いた作品、それも結構作家主義的な映画が増えてきたように思います。セリフも少なく、押しつけがましくなく、判断を観客にゆだねるような映画は、近年の世界的傾向でもあります。個人的には、チャイナ・ノワールと呼んでいます。いわゆる第六世代の監督たちですが、ディアオ・イーナン監督の「薄氷の殺人」あたりから、さらに新しい感性の時代に入ったようにも思います。正直なところ、よく検閲を通ったものだとも、よく好きに撮らせたな、とも思います、明らかに中国映画が変わってきたと言えます。

ビー・ガン監督は、北京でも上海でもなく、貴州省のミャオ族の街凱里の出身。一作目の「凱里ブルース」、本作ともに凱里を舞台とし、キャスト・スタッフも地元の人間を多用しているようです。中国の場合、いかに才能豊かでも、地方から、そして少数民族が這い上がることは難しいはずです。経済発展の一方で政治的弾圧を強化してきた中国ですが、政治抜きの文化については、解放が進んできたのかもしれません。あるいは、中国共産党が、政治弾圧強化を糊塗するために進める政策の一環なのかも知れません。ただ、政治的ではない映画など存在しません。意図しようが、しまいが映画は政治的存在です。当局が過敏になれば、検閲強化は免れません。

「WASPネットワーク」

2019年スペイン・ブラジル・フランス 監督:オリヴィエ・アサイヤス

☆☆+

90年代、キューバがフロリダに展開したスパイ組織に関する実話。スパイした対象は、米国ではなく、反カストロ派の亡命キューバ人グループ。ソヴィエト崩壊で苦境に立たされたキューバに対し、反カストロ派がテロ攻勢を強めていた時期のことです。98年、スパイ組織は、カストロ暗殺計画をキャッチ。キューバは、計画阻止のため米国に情報を渡します。米国は、反カストロ派を摘発しますが、同時にキューバのスパイも逮捕します。逮捕された5人のスパイは「キューバン・ファイブ」と呼ばれ、英雄として釈放運動も起こりました。

カストロにしてみれば、暗殺計画は反革命そのものであり、キューバ人同士の問題。場所が、たまたまアメリカ国内だったというだけであり、しかもCIA等が反カストロ派を支援してきた経緯があるだけに、スパイ網の展開は正当防衛ということになります。アメリカ政府にしてみれば、平等に違法行為を摘発したということになります。2014年、バラック・オバマとラウル・カストロは国交正常化に向け動き出します。いわゆるキューバの雪解けです。キューバン・ファイブは、その際、捕虜交換という形で釈放されています。

実話ものは、情報も多く、十分な準備が可能なので、結構、面白い作品が多いように思います。ただ、本作は、どうにも視点の定まらない、まったく深さのない作品になりました。情報の多さに流された印象があります。いいネタだけに誠に残念。良かった点と言えば、光の捉え方が独特で、うまく地域や時代の空気感を出していたカメラ。また、ペネロペ・クルスのやや抑え気味の演技も実話ものとしては適切だったと思います。

多少、アンラッキーだったのは、キューバの雪解け直後でなく、トランプによる揺り戻しが起こってからの公開になったことです。雪解け直後であれば、事実を淡々と追うだけでも一定の評価を得た可能性があります。揺り戻し後という環境では、より明確な政治スタンス無しには、フニャフニャの映画になってしまいます。フィデル・カストロは、キューバでコマンダンテ(司令官)と呼ば、死後も絶大な人気を誇ります。コマンダンテ・フィデルを前面に出すだけで、映画はかなり締まったと思うのですが、製作側が難色を示すでしょうね。
出典:prenza latina

2020年6月24日水曜日

営業昔話(11)営業現場の構造

昔々、営業現場は3つの要素で成り立っていたとさ。

全ての営業に当てはまるとは思えませんが、対面販売に限って言えば、営業の現場は、わりと単純な構図であり、3つの要素で構成されていると思います。動機づけ、活動(3K)、組織です。

動機づけ
営業は、外に出れば一人。会社の看板を背負っているとは言え、手を抜くことも可能。自分との戦いの場でもあります。それだけに動機付けはとても重要です。何のために働くのか、ということですが、「夢の実現」といってもいいと思います。夢や働く目的が明確であるほど、いいと思いますし、計画もより具体的になり、自己統制も効き、活動もブレません。マズローの欲求段階説の最上段階である自己実現が最も強い動機付けですが、家を建てるといった身近で具体的な夢も大事だと思います。
内的な動機付けを前提に、外的な動機付けが必要となります。目標と評価です。目標は、計画に基づく実現可能性が重要です。評価は処遇ということでもありますが、実績とリンクさせ、可能な限り見えやすいものがベストでしょう。

活動(3K)
基盤…ターゲットのことです。ターゲットが明確であるほど、計画も教育も、より具体的になり、より的確性が増します。開拓対象が明確なほど、責任感も強まります。
計画…日程管理も大事ですが、その前に、活動をどう組み立てるかということが大事。週に何件のアポといったプロセス目標、週単位で活動を組み立てるといった時間的枠組み、個々に見込み度を上げていく顧客管理等です。計画無くして行動も反省もありません。PDCAを回すための出発点です。計画の理想とすべきは、習慣化だと思います。
教育…商品知識、関連情報、販売手法等に関する教育、あるいは自己研鑽は、常に怠るべきではありません。業績向上のためだけではなく、顧客への誠実な対応の基本として欠かせません。それが個々人の自信、誇り、そして帰属意識の高揚にもつながります。

組織
外に出れば一人だけに、一人にしてはいけないのが営業職だと思います。マズロー的に言えば、社会的欲求と承認欲求は組織で満たされます。人は、自分のためではなく、組織のためなら、持てる能力の120%以上の力も発揮できます。それが人の伸びしろでもあります。ドラッカー曰く「人は組織への貢献のなかでしか育たない。」煎じ詰めれば、組織とは、目標共有と役割分担がすべてです。共感・納得できる目標、その達成に向けた一人ひとりの役割が明確であれば、それで十分です。組織運営の背骨は、目標と評価です。報酬・表彰等といった評価の仕組みは別として、リーダーは日常的に「ほめる・認める・感謝する」を意識することも大事です。要は、一人ひとりの居場所を作ることです。それがチーム・スピリット醸成にもつながります。詳細は別の機会に譲りますが、例え、今、冴えない営業要員であっても、居場所は作ってあげてください。組織の力が大化けさせるかもしれません。

調子の悪い営業組織は、以上の要素のうち、どれかが欠けている、あるいは弱くなっている状態だと思って間違いありません。

2020年6月23日火曜日

ザカート

随分昔のことですが、イヴン・バットゥータ号という船でジブラルタル海峡を渡り、モロッコのタンジール港へ入りました。港には、物売りが集まっていました。なかに、アフリカの人が好むカラフルな毛糸の帽子を売っている人がいました。前から欲しかったので、2ドルを半値に値切って買いました。半値は上出来。ただ、あっと言う間に半値に下がったことは多少気になりました。

その帽子を被りながら観光していると、何人かのおっさんがたむろしている場所で、声をかけられました。「その帽子、いくらで買った?」と言うわけです。自信をもって「1ドル」と答えると、おっさんたちは腹を抱えて大笑い。やはり高すぎたか。すると最年長とおぼしきおっさんが、「おまえはザカート(喜捨)をした。神の御心に沿うことをしたんだ。」と慰めてくれました。

富める者は貧しき者に喜捨しなさい、とはクルアーンに説かれるイスラム五行の一つです。原始的とは言え、有効な富の再配分システムです。アッラーフは大したもんだと感心しました。ただ、ムスリムが、ザカートを拡大解釈して、観光客にふっかけたんじゃ、たまったもんじゃない、とも思いました。後に、イスタンブールのグラン・バザールで小さな絨毯を買うのに1時間も交渉しました。値切り倒しましたが、所要時間を考えると、値切った金額は割に合わないな、と思いました。ま、交渉の途中でトルコ・コーヒーをごちそうになりましたが。

商人の街大阪は違うようですが、多くの日本人は値切るという交渉に不慣れです。値段交渉は、商取引の基本であるにもかかわらず、値切ることは浅ましく、恥だと思う傾向があります。なぜそうなったのかについては、仏教の影響とも言われます。ただ、アジアの仏教国でも値段交渉は当たり前です。他に武家文化の影響という説や、単に交渉下手という説もありますが、どれもピンときません。ただ、一つ気になる話があります。世界で初めて正札販売、つまり値札を付けた販売を行ったのは日本だということです。

1673年、日本橋の呉服商、越後屋が正札販売を始め、皆が追随します。掛値なしの正直な商売、誠実な商売というわけです。越後屋は大いに繁盛し、今も三越として、あるいは三井財閥として、その名を轟かせます。正札販売には、もう一つ大事な側面があります。差別のない商売です。正札は人を選びません。その値段で買うなら、誰にでも売るという姿勢の現れでもあります。越後屋が繁盛した主な理由は、むしろこっちだと思います。
タンジール  出典:alamy

2020年6月22日月曜日

一汁一菜

私の家は、江戸期から昭和の始めまで呉服屋を営んでおりました。子供の頃、まだ商家の家風が残っており、朝食は「一汁一菜香の物(漬物)。朝に殺生をせず。」と教わりました。商売をしていると日銭が入りますが、そこから元手や給金が出るわけで、贅沢は慎みなさいということなのでしょう。昔は、旅先の宿で出される朝食がうれしく、特に塩鮭を食べられることは贅沢だと思いました。「一汁一菜」は、健康面からみれば、結構、理にかなった食事らしく、近年では、料理研究家の土井善晴さんが「一汁一菜でよいという提案」をされています。

とは言え、一般的には「一汁一菜」と言えば、粗食の代名詞なのだと思います。よく禅宗の食事作法のように語られます。実態はそれ以前からあったと思われますが、釈迦の言う「知足」から、粗食も修行の一環と理解されたのでしょう。釈迦が入滅に際し残した説法が「遺教経」。そのなかに「知足」の訓えがあります。足るを知る者は地べたに寝ていても安楽であり、 足るを知らない者は、天の宮殿に住んでも満足しない。 足ることを知らない者はいくら裕福であっても心は貧しい。京都の龍安寺のつくばいで有名な「我唯足知」も知足の訓えに由来します。

永平寺の昼食 一汁一菜香の物
ただ、釈迦は、食事について、粗食にしろ、などとは言っていないようです。貪るように食べたり、満腹になるまで食べるのはよくないとしながらも、必要な分を食べなさいと言っているようです。活動に支障をきたさない程度の適度な食事ということなのでしょう。永平寺の小食(しょうじき)と呼ばれる朝食は、今でも道元禅師が定めたとおりに出されます。メニューは、粥、ゴマ塩、漬物のみ。足りるとは思えず、修行と理解するしかないですね。なお、昼食は一汁一菜香の物、夕食は一汁二菜香の物となります。ちなみに、入山した修行僧の多くは、一か月以内に、一度栄養失調になると聞いたことがあります。

2013年、和食がユネスコ無形文化遺産に登録されました。菊乃井の村田さんが中心になって取り組みました。村田さんの狙いの一つは、日本人の健康のために、日本の朝食に和食を復活させることだったと聞きました。日本人の朝食は、パン食が全国で平均51%。都市部なら、おそらく70~80%はいくのでしょう。パン食を選択する理由は、ほとんどが手間暇だそうです。食事を手間暇だけで考えることは、誠に悲しいことだと思います。
出典:奥井海生堂


マオイズム

朝鮮戦争のおり、成功確率五千分の一と言われた仁川上陸作戦を成功させたマッカーサーは、一気に中国国境の鴨緑江まで軍を進めようとします。大統領選出馬をねらうマッカーサーが功を焦ったとも言われます。中国の人民解放軍が鴨緑江を超え、北朝鮮に浸透しているという情報は無視、あるいは過小評価されます。谷底の細い道を進む米軍は、山中に潜んだ人民解放軍によって待ち伏せされ、包囲殲滅されます。米国陸軍の忘られぬ教訓、カスター率いる第七騎兵隊が全滅したリトル・ビッグ・ホーンの戦いの再現でした。

防御戦には、大雑把に言って二通りの戦術があります。水際防御と縦深防御です。水際作戦は、例えば国境線に兵力を集中させ、敵を一歩も国内に入れない作戦です。破られたら終わりというリスクがあります。一方の縦深防御は、国境から何重かの防衛線を敷き、敵の浸透は許すものの、消耗させ、兵站を断ち、弱体化したところを叩くという戦術です。いずれも一長一短あり、状況や地形等によって選択されます。毛沢東思想の一部を成す人民戦争理論は、敵を懐深く誘い込み、包囲殲滅することが基本です。中国の広大な国土、人民解放軍とともに戦う膨大な人民を前提としていますが、朝鮮半島でも確実な成果をあげたわけです。

縦深防御は、英語でDefence in depthと言われるとおり、深さを確保できるほど、成功確率は高まり、損害も少なくできます。戦略的深度を確保するために、国境を拡大するという選択肢もありますが、国境の外から防衛線を敷設できれば、なお良しということなります。旧ソビエトの東欧諸国やイスラエルのヨルダン川西岸等も、それに当たると思います。中国も、国境を巡る争いに、武力を投入することに躊躇はありません。例え、相手が同盟国であっても幾度か戦火を交えてきています。

ガルワン渓谷
カシミール東部、チベット国境付近のガルワン渓谷で、30年ぶりに、中印が戦火を交えました。そもそも事実上の独立国家であったチベットの武力制圧も疑問です。緊張は、インド国境だけでなく、南沙諸島、尖閣諸島にもあり、インドシナ半島への浸透等も含め、中国の拡張政策は途切れることがありません。それは領土的野心とは異なり、いまだに防衛線拡張というマオイズムが至上命題化され、中国共産党自身の防衛線にもなっているからなのでしょう。
出典:pic.twitter.com/ZXoYEmOE4X
 

2020年6月19日金曜日

とんかつ

いわゆる名古屋めしは様々ありますが、意外と知られていないのが「焼きとんかつ」です。鈍池のオゼキ、今池のたいら等、隠れた名店は、いつも混雑しています。要は、衣をつけた豚肉を鉄板で揚げ焼きにしたものです。これが香ばしく、薄い衣がちょうどいい加減で、うまいのです。ただ、冷静に考えると、フランスから伝わった揚げ焼きであるコートレットを、油の中で揚げるディープ・フライに進化させたのが日本のとんかつ。焼きとんかつは、先祖返りしたコートレットそのものであり、焼きとんかつとは実に妙なネーミングです。

豚肉に衣をつけてディープ・フライにしたのは、銀座の煉瓦亭が最初だと言われます。明治32年のことです。現在のとんかつの調理法は、昭和4年、御徒町のポンチ軒の発明とも聞きます。いずれにしても、とんかつは、洋物のカツレツとは異なる日本の食文化です。私は、常々、とんかつは、人を本当に幸せにする食べ物の一つだと思っています。天皇の料理番として知られる秋山徳蔵は、カツレツの美味しさに衝撃を受け、料理の道に入りました。とんかつではありませんが、カツレツが与えた衝撃は理解できます。香ばしい油と衣、豚肉のうまみ、脂身の甘さ、ボリューム感、それらが幸せ中枢をダイレクトに襲います。

厚切りで柔らかい肉とサクッと香ばしい衣というのが伝統的な優等生タイプだと思います。加えて、近年では、低温揚げ、無菌豚という新たなトレンドがあります。低温揚げは、肉がジューシーで柔らかく、衣はあっさりとしています。最近、ランキング上位の店は、いわゆる白いとんかつ系、低温揚げが多いように思います。高田馬場の「とん太」や阿佐ヶ谷に越した「成蔵」などは大行列店。無菌豚系は、レアな揚げ感が魅力。「檍」が有名ですが、大森の「鉄」は私のお気に入り。私の大好きな店は、やはり秋葉原の「丸五」、両国「長谷川」、水道橋「かつ吉」あたりでしょうか。

派生メニューも多いとんかつですが、カツどん、カツカレーが両巨頭。いずれも、うまいとんかつが基本ではありますが、実は出汁のうまさが大きな要素だと思います。カツどんは、銀座「梅林」がうまいと思うのですが、決め手は出汁だと思います。地方によってはソースカツどんもありますが、どうもピンときません。ついでに言えば、関西の牛かつもあっさりしすぎてピンときません。神戸の廣野ゴルフ倶楽部のヘレかつサンドだけは格別ですが、決め手はソースのうまさではないかと思っています。
丸五のとんかつ  写真出典:kyah.blog.jp

2020年6月18日木曜日

サンバ・サラヴァ

私が、最も多く見た映画は、クロード・ルルーシュ監督の「男と女」(66年)。ビデオもDVDもない時代、映画館で30回近く見ています。当時、すべてのシェークエンスが頭に入っており、映画文法の基礎を学んだように思いました。無名作家による低予算の自主製作映画は、いきなりカンヌでグランプリ、そしてアカデミー外国語映画賞を獲得、世界中で大ヒットします。フランシス・レイの主題歌も、知らぬ者とていない大ヒット。さらに、欧州では、もう一曲大ヒットしました。挿入曲「サンバ・サラヴァ」です。この映画で一躍有名になった役者で歌手のピエール・バルーが持ち込み、ヨーロッパにボサノヴァを広めた曲と言われます。

「サンバ・サラヴァ」は、ヴィニシウス・ジ・モライスが、ギタリストのバーデン・パウエルと作った曲です。「サラヴァ」は、神の祝福を、という意味ですが、ブラジルの黒人奴隷たちがキリスト教化するなかで生まれた言葉だそうです。ジ・モライスは、アントニオ・カルロス・ジョビンと共に、59年の「シェーガ・ジ・サウダージ(邦題:想いあふれて)」でボサノヴァを生み出しました。彼は、国連大使も務めた高名な外務官僚でもありました。クーデターで誕生した軍事政権から左翼的とみられたジ・モライスは、海外に飛ばされ、フランスに駐在します。そこでフランシス・レイやピエール・バルーと親交を結び、ボサノヴァを伝えます。

ジ・モライスを左遷させた軍事政権が、ヨーロッパにボサノヴァを広めたとも言えます。ただ、軍事政権は、ブラジル国内で、ボサノヴァを退廃的だとして弾圧します。ボサノヴァは殺されたとも言われますが、もう一組、ボサノヴァを殺したと言われる連中がいます。誕生間もないボサノヴァは、映画「黒いオルフェ」のヒットや、クール・ジャズのスタン・ゲッツが「イパネマの娘」を大ヒットさせたことで、全米の音楽シーンを席捲します。ところが、直後、英国から登場した長髪の4人組にすべて持っていかれました。ビートルズです。

ボサノヴァは、知的で都会的な人々の間で根強い人気がありますが、ブラジル国内では、弾圧の影響でマイナーな存在になっていると聞きます。ところが、2016年、リオ・デ・ジャネイロ・オリンピックの際、マスコット名を公募したところ、ヴィニシウスとトムに決まります。ヴィニシウスはジ・モライス、トムはアントニオ・カルロス・ジョビンのことです。リオの人々は、ボサノヴァを生んだ二人を忘れていませんでした。
写真出典:banger.jp

「人間の時間」

2018年韓国 監督:キム・ギドク

☆☆☆+

奇才キム・ギドクの作品は、概ね観念的な図式に基づいて製作されているように思います。ただ、ストレート・タイプとブレンド・タイプに分かれます。ブレンド・タイプは、エンターテイメント性やドラマ性がブレンドされたタイプで「悪い男」や「嘆きのピエタ」等です。対して、図式が全面に出るストレート・タイプは、例えば「絶対の愛」や「メビウス」等です。今回の「人間の時間」は、ストレート・タイプ。図式をグイグイと突き詰めていきます。ストレート・タイプを映画として成立させるためには、映像の魅力や幅広さにこだわり、表現をよりドラマティックにする必要性があります。

本作も、空に浮かぶ戦艦という魅力的な設定、チャン・グンソク、オダギリ・ジョー、藤井美菜といった美男・美女の配役、カニバリズムの直接的表現、等々、単なる図式の提示を超えるアイデアが満載です。もちろん、人間ー空間ー時間ー人間という構成で提示される図式それ自体、とても興味深いものがあります。キム・ギドクによる新たな創造神話とも言えます。ただ、図式への思い入れが強すぎて、映画というよりは、監督の図式解説を聞かされているような気になりました。

「我々人間は、DNAが乗り継ぐ舟に過ぎない」とは、確か英国の生物学者の言葉だったと記憶します。その継続する連鎖のなかで、母親の役割は大きなものがあります。作品中、神のようにも見える老人は、実は時間なのではないか、と思います。「もうだれの子供でも関係ないわ」と母性の象徴と化したイブ(藤井美菜)を時間が助けるという図式に見えます。欲望渦巻く人間社会の中で、母性だけが時代を乗り越えていく、という母性礼賛なのかもしれません。

乗り捨てられるただの舟かと思えば、多少悲しくもなります。ただ一方で、きわめて優秀なDNAは、なぜ恒久的に使える舟を作らないのか、という疑問もあります。それは、おそらく変化に対応するために、その都度、その環境下で最強の舟を乗り継ぐということが目的なのでしょう。どこか母の強さに通じるものがあるようにも思えます。
写真出典:dolly9.com

2020年6月17日水曜日

「ザ・ファイブ・ブラッズ」

2020年アメリカ 監督:スパイク・リー

☆☆☆☆

脚本がとてもいい。スパイク・リーらしい演出も満載。Black Lives Matterのデモが続くなか、Netflixで配信。それも含めて、スパイク・リーの記念碑的作品になるだろうと思います。あまり顧みられることがなかったヴェトナム戦争時の黒人兵。それを現代から描くことで、とても立体的な構図を実現しています。特に演出で面白かったのは、回想シーンで、死んだノーマン以外は、老人たちがそのまま演じていたこと。監督が、若い俳優を使うことを嫌がり、CG処理する予算はなかったとのこと。結果、とても面白い演出になっていました。

若き天才スパイク・リーも立派に老人となったものの、感覚の鋭さは衰え知らず。「ブラック・クランズマン」も上出来でしたが、本作は、もっとノビノビと映画を作っている印象があり、若いころの作品を彷彿とさせます。人種差別への強烈なプロテストもいつもながらですが、これまで彼が言ってきたことのすべてを注ぎ込んだような印象です。音楽もいつも通りのこだわり満載ですが、マーヴィン・ゲイの”ワッツ・ゴーイン・オン”がいいモティーフになっています。役者たちもいい演技をしています。特にスパイク・リー作品常連のデルロイ・リンドーは、持てるものをすべて出し切ったくらいの演技です。

ミネアポリスでの白人警官によるジョージ・フロイド殺害事件は、決して珍しい事件ではないのでしょう。ただ、その犯行のすべてが動画で拡散し、コロナウィルス感染防止の自粛と失業で荒んだ人々の感情に火を付けたように思われます。そして、国内の分断が自らの選挙に有利に働くことを知っているトランプは、いつもどおりあおります。しかし、これほど大きなデモとなり、明確な要求がないままでは、終わりが見えません。

人種差別を含め、およそ差別というものは、為政者の都合で生み出されたものが多いと考えます。人種差別に限ってみれば、古代ギリシャやローマには見られない差別です。もちろん、民族対立や宗教差別、そして奴隷とという仕組みもあります。ただ、肌の色といった外形による差別はありません。産業革命後の植民地政策全般において、現地人迫害、奴隷化の正当性を強弁するために作られたものだと思われます。人が作ったものであれば、人が壊すことも可能なはずです。ただ、あまりにも深く根を張ってしまったため、黒人大統領が2期務めた後ですら、除去するためにはまだ時間が必要なのでしょう。
出典:theriver.jp

2020年6月16日火曜日

八紘一宇

1945年8月9日公開、フランク・キャプラ監督「Know Your Enemy:Japan」という映画を見ました。米国陸軍省製作のプロバガンダ映画です。奇しくも長崎への原爆投下と同じ日の公開ですが、厳しい戦いが予想された日本の本土進攻に向け、主に兵士の教宣用に作られたものなのでしょう。フランク・キャプラは、アカデミー監督賞を3度受賞した巨匠。コメディとヒューマニズムを持ち味とする監督ですが、戦時中は、志願して陸軍映画班に所属し、プロバガンダ映画を作っていました。

そういう映画ですから、恐ろしく差別的であることは当然として、非常に分かりやすく悪の権化は誰かを伝えます。天皇ヒロヒトです。世界征服をたくらむヒロヒトとその手下のショーグンたちは、国民を奴隷化し、そこで稼いだ資金で軍を近代化。さらに、ヒロヒトのために死ねば軍神になると教育し、死を恐れぬ兵士を量産している、といった内容です。完全にマンガの世界です。分かりやすいという意味では、さすがフランク・キャプラとも言えます。

フランク・キャプラは、ヒロヒトの世界征服の野望を象徴する言葉として「八紘一宇」を何度も使います。実に巧妙な手口です。ヒトラー/ナチズム、ヒロヒト/八紘一宇、というわけです。「八紘一宇」の原典は日本書紀。日向から東征した神武天皇は、橿原に都を定めます。その際に発した遷都の詔に「八紘を掩いて宇と為さん」とあります。つまり、すべての人々が入れる一軒の家のような国造りをする、という決意表明です。日蓮宗の田中智学は、大正時代、これを「八紘一宇」と造語し、神武天皇の建国の精神とします。田中は反戦論者であり、「八紘一宇」は世界平和をめざす日本の国体であるとします。

「八紘一宇」が多用される契機となったのは、昭和11年の二・二六事件です。反乱軍の蹶起趣意書に「八紘一宇を完うする国体」という言葉があります。その後、1940年、近衛内閣は大東亜共栄圏構想を打ち出し、八紘一宇を基本概念とします。汎ヨーロッパ主義を範として、欧米による植民地支配に対抗するという趣旨は見事だと思います。ただ、一方で、天皇のもとでの汎アジア主義とも理解でき、日本帝国によるアジア侵攻と植民地化の方便とされました。

宮崎市の平和台公園には、巨大な「八紘一宇の塔」が立っています。紀元2600祭の際、東征前の神武天皇の皇宮屋があった場所の北側に建設されました。昭和54年、昭和天皇が宮崎に行幸された際、ここで記念式典を行うという案が出されます。昭和天皇は、これを拒否しています。まさにご英断。
宮崎市平和台公園「八紘之基柱」  出典:travel.star

2020年6月15日月曜日

夜の蝶

おそめこと上羽秀
京都の祇園界隈には、芸妓、あるいは元芸妓の方々が経営するバーが多数あります。戦後間もなく、最初にバーを開いた芸妓は、不世出の京美人と言われた「おそめ」こと上羽秀でした。「バーおそめ」は、政財界、文壇のセレブたちで賑わい、おそめは、銀座にも高級クラブを出店します。飛行機で、京都・東京を往復する様は、「空飛ぶマダム」ともてはやされたようです。客でもあった川口松太郎は、彼女をモデルに小説「夜の蝶」を書き、映画化もされます。「夜の蝶」という言葉は、今風に言えば流行語大賞ものだったようです。高度成長期に入ると、祇園も銀座も、接待の社用族が幅を利かせます。セレブたちは姿を消し、おそめのバーもクラブも廃れていったようです。

おそめには、妻子ある同棲相手がいました。いわゆるヒモですが、バーが廃れ始めた頃、突然、この男が時代の寵児になります。東映の大プロデューサー俊藤浩慈です。やくざとの付き合いがあった俊藤は、東映が、テレビへの対抗策として打ち出した任侠路線の製作者として起用されます。一時代を築く未曽有の大成功でした。俊藤映画は、着流しの渡世人が、義理と人情の板挟みになりながら、最後に悪を倒すという勧善懲悪もの。高度成長のひずみに矛盾を感じる大衆は、手を打って大喜び。鶴田浩二、高倉健、藤純子らの人気にも支えられ、東映は10年にわたり任侠路線を走ります。

俊藤のワンパターンに辟易していた監督の山下耕作、脚本家の笠原和夫は、リアルで冷徹なやくざ社会の本質を描きます。68年、二人は「博打打ち・総長賭博」を製作。東映任侠映画の最高傑作ですが、私が一番泣いた映画でもあります。鶴田浩二がラストで吐くセリフ「任侠道?そんなもん俺にはねぇ!」は有名ですが、それはそのまま73年、笠原和夫脚本、深作欣司監督「仁義なき戦い」へとつながりました。明日を失った戦争帰りの若者たちの殺し合い、そして姑息な裏切りに終始する大人たちの世界。気が付けば、高度成長は、とうに終わっていました。

「夜の蝶」も「渡世人」も、死語となって久しいところです。後年、俊藤と上羽秀は入籍しています。戦後から高度成長までを体現した二人だと言えます。晩年、上羽秀は、経営するカフェに、たまに顔を出していたようです。ピンと着物をまとった姿は、あくまでも凛として、居合わせた人たちの目を引いたと言います。俊藤の前妻の娘が、藤純子。今の富司純子です。その娘の寺島しのぶは、国際的な性格俳優、息子の五代目菊之助は梨園を支える大黒柱。俊藤家のストーリーは、まだまだ続いて行きます。
写真出典:pinterest.jp

2020年6月14日日曜日

カーディフの巨人

1869年10月、ニューヨーク州西部のカーディフで、井戸掘職人が、地中深くから化石化した巨人を発見します。高さ3mを超す巨人の発見は、大ニュースとして全米に報道されます。すぐに学者、野次馬が押し寄せます。一人50セントの見物料を払って、子細に見てみると、ただの石膏であることがすぐに判明します。実は、ジョージ・ハルが仲間たちと仕組んだまがい物でした。

石膏でできた偽物と報道されても、後から後からと見物人が詰めかけ、ハルは大儲け。これに目を付けたのが、興行の神様P.T.バーナムです。バーナムは、サーカスと見世物小屋(フリーク・ショー)と珍獣動物園を合体させた大サーカス団を作り、専用列車で、全米と欧州を巡業しました。世界一と言われたリングリング・サーカスです。バーナムは、巨人を譲れとハルに迫ります。しかし、断られたため、自分で作ることにします。こうして「コロラドの巨人」がロッキー山脈で「発見」されます。

理解できないのは、学者が偽物と言っても見物客が絶えなかったことです。ましてや柳の下のどじょうまで登場して、客を集めるわけです。なぜなのでしょう。学者から、巨人が偽物だと言われたバーナムは「There's one born every minute.」とだけ答えたと言います。直訳すれば、1分毎に生まれる奴がいる、となりますが、その意味は「世の中にバカはつきない。」

それが興行師の本音であり、見世物小屋の長い歴史を支えてきた真実かもしれません。情報の少ない時代だったから、とも言えそうです。ただ、この時期に限って言えば、むしろ、情報が増えたから人が集まったとも言えるのではないでしょうか。産業革命が生み出した植民地と蒸気船は、世界を狭くしました。探検家たちも大活躍し、世界中から珍奇なものが集まります。また、紙が安価に生産され、印刷機が飛躍的に効率を上げた時代、多くの印刷物、つまり情報が出回ります。人々は、エキゾティズムという麻薬に染まり、より珍しいものを求めたわけです。バーナムの興行は、産業革命が生み出したとも言えそうです。あるいは、啓蒙主義が末端まで届いた、というべきかも知れません。
発掘直後のカーディフの巨人    出典:wikipedia

2020年6月13日土曜日

新聞大国

NYで働いていた頃、郊外の家から電車でマンハッタンに通っていました。乗車時間は約1時間。確実に座れることもあり、朝夕は、新聞を買って乗り込みます。もちろん、ネット以前の話です。

朝は、New York Timesを読みます。全国紙が、USA Todayだけという米国では、経済紙Wall Street Journalと並ぶ大新聞です。これが、なかなかすんなり読めないのです。難しい単語、凝った構文が多く、毎朝、自分の英語力を嘆いていました。夜、帰宅時には、大衆紙New York Postを買います。これが、実にスラスラ読めるわけです。内容も、単語も、構文も分かりやすく、妙に短縮した単語も、例えばPresidentはPrez、nightはniteといった具合ですが、ストリート・イングリッシュそのもので馴染みやすいものがありました。自分の英語力もまずまずと自信を持って帰れました。もちろん、翌朝には、また打ちのめされるわけですが。

驚かされたのは、スーパーマーケットのレジ横の新聞売り場です。週刊新聞の類が売られていました。典型的には「ついに発見!火星人と結婚した女」といった見出しです。売れるから置いているわけで、買う人たちはどこまで信じて読むのか、実に不思議でした。思えば、日本では、多くの人たちが、全国版の朝刊紙、あるいはミニ全国紙的な地方紙を読んでいます。すごいことではありますが、やや異常とも言えそうです。米国の多様性の方が、まだ納得できます。

日本最初の日刊紙は、明治2年創刊の「横浜毎日新聞」です。新聞は、明治政府の後押しもありましたが、日清・日露戦争を契機に発行部数を急増させたようです。従来の論説型から報道型に変わったためと言われます。そもそも日本で新聞が急速に普及した背景には、識字率の高さがあります。戦国時代に来日した宣教師たちも、識字率の高さに驚いています。江戸末期の就学率は80%を超えていました。戦後、GHQが識字率向上のために、日本語のローマ字化を計画します。しかし、調査した識字率が高く、計画を断念したという話まであります。

日本が新聞大国となった理由は、識字率の高さに加え、早くから宅配、月決めという世界的には少数派の仕組みを採用したこと、そして拡張員と呼ばれる訪問販売員の存在が大きかったものと思われます。今でも、読売新聞は世界一の発行部数を誇りますが、洗剤をもってバイクで家々を回る販売員の長年の努力の賜物なのでしょう。ネット化が進む新聞ですが、日本のペースは世界平均より緩やかだと聞きます。
新聞配達員  出典:pressnet.or.jp

2020年6月12日金曜日

「コリーニ事件」

2019年ドイツ 監督:マルコ・クロイツパイントナー

☆☆☆☆

とにかく、まずは原作がとても良い。2011年の大ベストセラー、フェルデナント・フォン・シーラッハの「コリーニ事件」。シーラッハは、現役の高名な弁護士にしてベストセラー作家。祖父がヒットラー・ユーゲントの最高指導者。本作のプロットであるドイツ法制上の問題点について、国が調査委員会を設定したほど、社会に影響を与えたといいます。

フランコ・ネロ 出典:crank-in.net
ベストセラーの映画化は、どうしてもストーリーを追いがちで、演出は凡庸になってしまう傾向があるように思います。しょうがないのかも知れませんが、ややTVっぽい感じです。ドラマチックに仕上げたい気持ちはわかりますが、原作のプロットのすごさ、法廷のリアルさ等を考えれば、もっと抑えた、ドライなテイストの方が効果的だったのではないかと思います。

平凡な演出を、カバーして余りあるのがフランコ・ネロの演技。というか、存在感のすごさです。往年のジャンゴ役者、マカロニ・ウェスタンのヒーローは、歳を重ね、実にいい味を出しています。表情だけで、終わることのない戦争の悲惨を表現しています。フランコ・ネロが、本作の出来に及ぼした影響は、とても大きいと思います。

それにしても、ドイツの過去との向き合い方、あるいは法に対する厳格さには、本当に頭が下がります。一方で、ドイツは、ナチスとホロコーストをスケープゴートにして、戦争責任を回避してきたという見方もあります。例えば、ドイツはナチスの犯罪被害を受けた自国民への補償のみ行い、侵略した国への賠償は行っていません。背景には、戦勝国の足並みが揃わなかったこともありますが、戦後、旧ドイツ領から追放されたドイツ人への補償問題もあります。ナチスに関する追及についても、特別な法律があるのではなく、あくまでも通常の法体系のなかで行われています。また、ナチス追及も、東西冷戦構造のもと、あいまいになった経緯もあります。故殺、故殺ほう助の時効問題も、その文脈のなかにあります。

そもそもニュルンベルグ裁判、東京裁判といった国際軍事裁判も、事後法ではないか、人道というなら原爆投下、シベリア抑留も裁かれるべきではないか等々、今もその正当性が議論されています。戦争を裁くことは、極めて難しいテーマだと言えます。ただ、ドイツ人のように厳格に向き合い続けることが重要だと思います。

国民の安全

82年、内戦が続くレバノンに、イスラエルの戦車軍団が侵攻、レバノンの展開中だったシリア軍を排除します。その最中、私は、シリアのダマスカス空港にトランジットで降りるという経験をしました。空港からレバノン国境までは30キロ。滑走路の両側は、ぎっしり対空砲が並び、空港職員はベルトにピストルを差してしました。滑走路の写真を撮ろうとしたら、アサルト・ライフルで制されました。ま、当然ですけど。

イスラエルの戦車攻撃を可能にしたのは、イランの石油だとも言われます。79年、イラン革命が勃発。イラクのフセインは、混乱に乗じてイランに侵攻し、イラン・イラク戦争が始まります。石油を確保したい各国、シーア派革命の拡散を恐れるスンニー派国家等が入り乱れ、複雑な状況が生み出されます。例えば、米国や中国は、イランにもイラクにも武器を提供しています。イランを敵視するイスラエルは、イランの原発を空爆する一方で、米国製武器の部品供給を止められたイランにこれを横流し、見返りに石油を入手します。

レバノン内戦の激化で小康状態にあったイライラ戦争は、85年、ミサイル合戦という形で再燃。フセインは、48時間の猶予をもってイラン上空の航空機を無差別に攻撃すると宣言します。各国は、テヘランにいる自国民の救出を開始。日本は、法制上、自衛隊機を派遣できず、日本航空は労組の反対で飛べません。各国に協力を要請しますが、それぞれ自国民救出で手一杯。テヘランの日本人215名の救出は絶望的となりました。

救いの手を差し伸べたのはトルコ政府でした。明治23年、和歌山沖で遭難したトルコの軍船エルトゥールル号を救助してもらった恩を忘れていなかったのです。トルコは、多くの自国民を陸路で脱出させ、日本人全員をターキッシュ・エア機に乗せ、救出します。すごい話です。トルコに心から感謝です。この恩を忘れてはいけません。

一方、自国民を守れない日本という国は何なのかと思いました。2015年の安保関連法改正で、今は、自衛隊機を救援に飛ばすことは可能なのでしょう。しかし、憲法との関係はグレーと言わざるを得ません。日本国憲法前文には「平和を愛する諸国民の公平と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」と書かれます。平和を願うことは当然としても、他国に自国民の安全と自由を委ねて、それを国家と呼べるのでしょうか。
オスマン・トルコのフリゲート艦エルトゥールル号 出典:Wikipedia

2020年6月10日水曜日

女中

父親たちの会話の中に「女中顔」という言葉があり、子供心にどんな顔だろうと思ったことを覚えています。おそらく庶民的な顔立ちという意味なのでしょう。大宅壮一の造語とも言われますが、いまや完全な死語ですし、そもそも「女中」という言葉は、放送禁止用語だとも聞きました。おそらく差別的だということなのでしょうが、なにか腑に落ちないところもあります。

「女中」は家事労働の担い手であり、単なる職名とも思いますが、封建的社会では、他の主従関係同様、身分の上下が明確です。明治期以降も、住み込みという形態が、身分的色彩を帯び、差別的だと理解されているのかも知れません。また、住み込み女中という職業は、貧富の差を前提に成り立っていた面もあります。数年前、ヴェトナムでお願いした通訳の女性は、共稼ぎ、子供が3人なので、メイドなしには生活は成り立たないと言っていました。費用は、山間部の若い女性なら住み込みで月1万円程度とのこと。都市部と山間部の農村では、大きな経済格差があります。経済格差も差別的ということなのでしょうか。放送禁止用語は、民放の自主規制なので、定義もあいまい。視聴者の反応次第という面もあるようです。

女中とは言え、明らかに身分的関係とは異なる仕組みが「行儀見習い」です。江戸から大正期あたりまで、そこそこ豊かな家の娘たちは、花嫁修業として、より大きな家に「行儀見習い」として出されます。いわゆる上女中として、見習い先の家族の身の回りをサポートしながら、行儀作法を学びました。その際の家中での扱いは、奉公人の女中とは異なっていたようです。

私の母方の祖母は室蘭の人で、オランダ人の家に行儀見習いに行ったそうです。オランダ人の行儀を見習うことに意味があるとは思えません。単なる就職ではないか、という気もします。ただ、祖母の作るスープ、シチュー系は絶品でした。一番印象に残っているのは手作りのクラコウ、ドライ・ソーセージです。オランダ人直伝のレシピだったわけです。

大正期になると、女学校卒が花嫁条件となっていき、行儀見習いは廃れていったようです。また、戦後は、女性の高学歴化、就職先の多様化、家電の普及などとともに、女中は消えていきました。おそらく貧富の差が縮小したことも背景にあるのでしょう。それは同時に、主婦が家事労働者となり、家事をマネジメントするという性格を失ったということでもあります。家の伝統や味が失われていく構図でもあったのでしょう。
昭和期の典型的な女中部屋  出典:Yahoo.co.jp

2020年6月9日火曜日

魔法の言葉

工学博士の五日市剛さんは、会社経営者やコンサルタントとは別の顔を持っています。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」というセミナー、同じタイトルの小冊子は、口コミだけで、長年にわたり、実に多くの支持を集めてきました。学生時代、イスラエルへ一人で出かけた五日市さんは、ユダヤ人のおばあさんと出会い、ツキを呼ぶ魔法の言葉を教わります。それは「ありがとう」という言葉でした。その後、五日市さんが経験した不思議な奇跡の数々が、ありがとうの深さを伝えます。

林文子さんは、ホンダのトップセールスからBMW東京社長、ダイエー会長等を経て、横浜市長になりました。東京日産の社長時代の密着番組を見たことがあります。部下との会話は、ありがとうで始まり、ありがとうで終わります。ある日、階段の下の方だけ掃除した若手社員にありがとうと言います。あなたの掃除で、皆が気持ち良く働け、それがお客様に伝わり、業績が上がる、本当にありがとう。翌日、若者は、階段の上から下まで掃除していました。ありがとうという言葉で人を動かしていたと言えます。

ありがとうと言われて嫌な人はいません。自分が、ありがとうと言えば、まわりの人たちはハッピーになります。そして、世の中で起こるすべての事柄に対して、感謝の気持ちをもって臨めば、幸せにならないはずはありません。まさに魔法の言葉だと言えます。ありがとうの語源は「有り難し」だそうです。滅多にない、あり得ないという意味です。おそらく「有り難き幸せ」が省略されたのでしょう。

中国語の「謝」は、言葉を発して緊張を緩めることが語源であり、よって感謝にも陳謝にも使います。今一つ、ピンときません。英語の「Thank」やドイツ語の「Danke」は、考えるが語源で、あなたのことを思っています、といった意味でしょうか。イタリア語の「Grazie」、スペイン語の「Gracias」の語源は恩恵であり、あなたに恵みがありますように、ということ。ポルトガル語の「Obrigado」の語源は義務で、恩に着ます、という意味だと思います。日中は自分のこと、欧州は相手に対することが語源という違いがあります。

ありがとうの語源には釈迦由来説もあります。最古の経典「法句経」にある盲亀浮木の例えです。人間として生まれてくることは、広い海で、目の見えない亀が、海面に浮かぶ木片の穴から顔を出すくらい、有り難しこと、まさに僥倖。輪廻転生の考え方が背景にあります。人として生まれたことの幸せを忘れるな。つまり常に感謝の気持ちをもって生きなさい、ということでしょう。五日市さんの魔法の言葉につながりそうです。
                   隠れた大ベストセラー五日市剛「ツキを呼ぶ魔法の言葉」  出典:Amazon

2020年6月8日月曜日

営業昔話(10)農耕型

昔々、営業は農耕だよと言ったもんだとさ。

NYで働いていたころ、仕事仲間の米人たちに「あなたにとって保険営業とは何か?」と、よく聞いていました。単なる興味本位ですが、皆、まじめに答えてくれました。様々な答えがありましたが、一人だけ面白いことを言った人がいます。中堅保険ブローカー会社の社長です。「保険営業とは”Cold Canvas”だ。」コールド・キャンバスとは飛込営業のことです。個人営業から始めたたたき上げの人らしい答えです。私は、よく分かるけど、今は時代が変わったよねと言い、一つの例え話をしました。

江差のニシン漁の話です。昔、春になると江差の浜にはニシンの大群が押し寄せ、船元は、平船を何艘持つか、ヤン衆と呼ばれた出稼労働者を何人雇えるか、日に何度船を出せるかの勝負だった。ある日、ニシンは浜に来なくなり、船元は沖に向かいます。エンジンのついた大型船と熟練の漁師が必要になりました。春のニシン漁だけでは厳しいので、他の魚の生態も勉強し、魚群探知機も必要になった。そして、もっといい方法を思いつきます。養殖です。保険営業の歴史も同じでしょう。

営業は農耕型の時代だ、と河合楽器の河合社長に話したことがあります。「農耕型営業を始めたのは私だよ。」と言われました。戦後、高価なピアノを買えるような家庭はなく、考えた河合さんは音楽教室を始めます。まず、子供たちにピアノに親しんでもらい、家に余裕ができたらピアノを買ってもらうという作戦です。大当たりしました。高度成長期、多くの家にピアノがありました。

種まき型とは別ですが、かつて保険は集金契約が多く、集金のために必ず訪問するので、契約者の情報は全て掴んでいました。情報は営業の種。適切な提案が、適切なタイミングでできるわけです。これも農耕的です。ただ、集金も無くなり、情報入手が困難となり、保険営業は厳しい時代を迎えました。そこでCSR(カスタマー・リレーションシップ・マネジメント)が登場します。2割の上顧客が8割の売上を生み出すというパレートの法則に基づき、既存顧客をシステマティックに徹底分析し、多件数販売するという方法です。近代農業といったところでしょうか。

さて、話はNYへ戻りますが、私の江差の話を聞いてくれたブローカー会社の社長は、じっと私の目を見て、「それでも営業は"Cold Canvas"なんだよ。」と言いきりました。成功する人たちは違うもんだな、とつくづく思いました。
                                                                                                            開始当時のカワイ音楽教室   出典:Kawai.co.jp

月の砂漠

もう40年も前のことですが、モロッコのマラケシュを夕方に発ち、カサブランカまでバスで移動しました。ウトウトして目を覚ますと、日はとっぷりと暮れ、砂漠に月が出ています。驚きました。目を疑うほど驚きました。その月がやたら大きいのです。モロッコは月に近いのか、とも思いましたが、「月の砂漠」ってくらいだから、砂漠に月は付き物か、と妙に納得しました。

「月の砂漠」は、画家で詩人の加藤まさをが、大正12年、雑誌「少女倶楽部」の依頼で書いた詩です。後にメロディがつけられ、童謡として広まりました。加藤は、海外渡航経験もなく、想像で書いたようなのですが、その着想を得たのは何処か、という論争が起きます。結核治療のために滞在した御宿か、故郷の藤枝に近い焼津の浜か。いずれも砂漠ではなく、ラクダも王子もお姫様もいません。ましてや大きな月など、何の関係もありません。

それからしばらく経って、湘南のゴルフ場の帰り、クラブバスから、また巨大な月を発見しました。車内は騒然。昔、イランで見たとか、水蒸気のレンズ効果だろうとか、いや地球との角度の問題だろうとか、果ては、明日、株価が暴落する予兆じゃないか、という説まで飛び出し、いい歳のおっさんたちが、まるで小学生のように大はしゃぎ。

科学的説明は、いくつかあります。月の軌道は楕円形。最も地球に近づくタイミングが「スーパー・ムーン」です。直径差は、最大で14%に達します。16年11月、68年ぶりの近さと言われたスーパー・ムーンを見ましたが、マラケシュや湘南の月には及びもつきませんでした。水蒸気レンズ説も確かにあります。ただし、これも多少の差に留まるようです。では、私が見た巨大な月は何なのか。

科学的定説は、なんと目の錯覚。心理学では、これを「月の錯視」、あるいは「天体錯視」と呼ぶそうです。その原因は、アリストテレスも含め、古くから議論されてきましたが、近年の答えは「総合的要因」。要は分からないということです。実際に目にした者としては、錯覚だよと言われても、納得できないものがあります。
                                                                                                               御宿海岸の月の砂漠記念像  出典:travel.co.jp

2020年6月7日日曜日

I Love NY

7~8年前、NYへ出張し、昔の仕事仲間とも会いました。私が「相変わらずNYは汚いね」と切り出すと、臭いしね、うるさいしね、人が多すぎるしね、犯罪は減らないしね、と皆が続けます。そして、いい頃合いで、誰かが「But,」と言うと、皆で「I love NY!」と叫ぶわけです。NYの定番、お決まりジョークの一つです。一時、大流行した「I Love(ハートマーク)NY」というロゴは、このお決まりが元になってると聞きました。

5番街のNY公共図書館が、「NYの消えた音~ニューヨーカーへの音によるラブレター」というアルバムを制作し、大評判になっているようです。コロナ以前の街の音を、様々な人々の協力で集め、一枚にまとめたものです。地下鉄のホーム、朝のラッシュの街、公園の静けさ等々。フレッシュでクリアーな音源は、情景どころか匂いまで思い出させます。コロナで失われた日常に涙する人も多いようです。

街には、その街独特の匂いがあると思います。例えば、ホノルルは、コナのフレイバー・コーヒーの匂い、マドリッドは、大衆たばこドゥカードスの匂い、台北は、五香粉の匂い。音も同様なのでしょうが、匂いの方が、街に暮らす人々の生活や息遣いを、ストレートに感じさせるような気がします。そしてNYの場合は、すえたドブの匂いです。老朽化し、清掃も十分ではない通りや地下鉄の臭いです。ただ、NYには、もう一つ別の匂いがあります。

世界中の人々がNYに憧れます。人々を引き付けるのは、自由の女神やブロードウェイの劇場、高層ビルのオフィスや高級マンションだけではありません。チャンスです。成功の匂いです。雑多な人種が交じり合うこともなく暮らし、犯罪も差別も無くなることはなく、様々な面で競争が激しく、お金のない人間にはとことん厳しい街です。でも、そこは、経済や文化のあらゆる面で、アメリカン・ドリームを実現できる可能性にあふれています。成功する人はごくわずか、ほとんどは失敗者です。でも、失敗者と同じ数の挑戦者が、世界中から流入し続けます。ですから、NYは、常に夢見る挑戦者の街なのです。

                                                                               ニューヨーク公共図書館前のライオン     写真出典:Daily Sun NY

2020年6月6日土曜日

営業昔話(9)商人哲学

昔々、江戸の頃の商人には哲学があったとさ。

伊藤忠商事の社是「三方よし(買手よし・売手よし・世間よし)」は、近江商人の訓えとして有名です。今でも通用する良い言葉ですが、実は昭和になってからの言葉です。近江商人は「近江泥棒に伊勢乞食」という言葉が残るほどですから、厳しい商売をしていたのでしょう。ただ、商いの根底には、三方よしに近い考え方があったのも事実だと思われます。そうでなければ、近江商人の成功もなかったのでしょうから。

石田梅岩
江戸期を代表する商人哲学者と言えば、石門心学創始者の石田梅岩です。11歳から30年以上、呉服屋で奉公し、その後、誰でも通える塾を開きました。石門心学は、商人哲学者でもある京セラの稲盛和夫さんが、世に知らしめました。梅岩の最も有名な言葉は「実の商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり」。顧客の利益、商人の利益があって、はじめて商売は成り立つ。当たり前に過ぎますが、商売が持続、拡大するための大原則でもあります。大丸創業者の下村彦右衛門は、その考えをさらに進め「先義後利」と言い切ります。義とは正しい道、公共性と考えればいいでしょう。つまり、顧客を第一に考えれば、利益は後からついてくる、という意味です。大塩平八郎の乱のおり、商人が次々と襲われるなか、平八郎が「大丸は義商なり、犯すなかれ」と言ったことから、焼き討ちを免れたという話は有名です。

千葉県の人気ナンバーワンの寿司屋は、回転寿司チェーンの「銚子丸」です。創業者の堀地速男は、鳴かず飛ばずの持ち帰り寿司店等を経営していました。お付き合いで米国研修へ出かけ、顧客満足度が大事と聞かされます。馬鹿なことを言うな、安く仕入れ、高く売るのが商売だ、と思ったそうです。ところが帰国後、自分は何が一番うれしいか、ということが気になり始めます。「おいしいね」と喜ぶ顧客の顔を見るのが、一番うれしいということに気づきます。そこで利益を削って、寿司ネタを大きくしました。顧客は大喜び、アッという間に千葉県ナンバーワンになりました。

商売は、儲けるために行います。利益を優先して当然とも言えます。しかし、商売も社会的分業の一部。世の中の役に立つから存在し、お客さまが必要とするから成り立ち、報酬を得ることができます。「先義後利」は当然の話です。問題は、実践できるかどうか。日々、それを意識して、自らを戒める仕組みも大事です。それが京都の商人哲学です。京都の若手経営者の多くは、稲盛和夫さんの盛和塾に参加しています。彼らの口癖は「そんなことしたら稲盛さんに叱られる」です。
写真出典:日本史事典.com

2020年6月5日金曜日

天安門広場

1994年6月4日、初めて天安門広場に立ちました。その広大さは、TVで見ていたイメージを超えていました。六四天安門事件から5周年のこの日、外国人を広場に近づけるな、という指示が政府から出ていると、中国人の知人から聞かされました。広場は、それと分かる私服公安であふれていましたが、入場も含めて、何の制限もありませんでした。中国共産党の自信の現れだと思いました。

85年、ソビエトの書記長に就任したゴルバチョフは、ペレストロイカとグラスノスチを推進、民主化へ動きます。これは共産主義国で多くの議論を呼びながらも、広がりを見せ始めました。中国は、78年に鄧小平が改革開放を宣言し、市場経済化が進んでいました。経済開放と独裁政治とのアンバランスは、どこかで限界を迎えるだろうと思われていました。86年。胡耀邦総書記が「百花斉放・百家争鳴」を打ち出し、民主化への期待が高まります。しかし、鄧小平ら八大元老が立ちはだかり、胡耀邦は解任されます。

後継となった趙紫陽は、改革路線を継続しようとしますが、保守派に妨げられます。そんな中、89年4月、胡耀邦が死去、各地で追悼集会が始まります。それは、ほどなく民主化を求める運動へと展開、天安門広場は10万人を超す学生や市民で埋めつくされます。世界が固唾を飲んで見守るなか、6月3日夜半、政府は軍を天安門広場に投入します。人民解放軍が人民を殺戮するという矛盾。死者は数千人とも1万人とも言われますが、いまだ公表されていません。

その後、中国はめざましい経済成長を遂げます。同時に、人民に対する政治的統制は強化の一途をたどります。人民が生み出した財貨で、人民がより一層縛られていく構図です。昨年、上海で会った中国人が言っていました。中国共産党には様々な問題があることは、皆知っている。ただ、共産党は、我々を豊かにしてくれた。この生活が続く限り、我々は、共産党を支持する。

広大な国土、膨大な人口、多様な民族。中国を治めるためには、秦の始皇帝の時代から、強力な中央集権化しかありません。アクトン卿曰く「絶対的権力は、絶対腐敗する」。共産党独裁国家の問題は、国民が共有できるヴィジョンの無さ、政権中枢での熾烈な権力闘争、そして政治における国民の不在だと考えます。国家は誰のために存在するのでしょうか。
タンクマン   出典:NHK

2020年6月4日木曜日

分断せよ

「分断せよ、しかる後に統治せよ」は政治学の基本と言われます。古くは古代ローマの分断統治、近代では、欧州列国による植民地の支配原則、さらに言えば、昨今のポピュリズム政治家の手法でもあります。日本でも、明治政府による廃藩置県は、一藩一県を避け、複数藩で県を構成し、県内が一致団結し、政府に刃向かうリスクを抑えています。

欧州の植民地支配も同様に、被支配国の国民が一致団結して反抗することを回避する手立てが講じられます。分断した二派が争うように仕向けておけば、支配国への直接的抵抗のリスクは低減できます。さらに少数派を支配層に置けば、必死で多数派を押さえつけに入り、かつ宗主国への依存が決定的となります。第一次大戦後、英仏が中東でとった手法です。例えば、シーア派が多数を占めるイラクには、マッカからスンニー派のハーシム家を連れてきて、王国を建てます。現在に至る中東の混乱は、英仏が作り出したものですが、その統治手法も混乱を生み出す要因となっています。

ポピュリズムの場合、不満を抱える国民に明快な敵を与える手法がとられます。敵が明らかになれば、自派の団結は高まります。天才アドルフ・ヒトラーは、団結を熱狂にまで高めました。ヒトラーは、その都度、上手に敵を作りましたが、最大の敵は、共産主義者とユダヤ人ということになります。国民のあらゆる不満を押し付けました。ヒトラーの才能の本質は、大衆が求めるものを正しく察知し、即座に提供できることだったかも知れません。

トランプは、大統領選挙時、分断手法を取り、成功します。ただ、移民と中国を非難していれば大丈夫とも言えません。本丸は雇用と経済ですが、複雑化した経済構造のもとでは、そう簡単なことではありません。結果的に最もうまくやっているポピュリストは、ブラジルのボルソナロかもしれません。本人の手腕はともかくとして、左派政権をつぶした富裕層がバックにいるからです。コロナ対策はひどいものですが、低所得層を犠牲にしてでも経済を優先したい層の強い支持があります。いつまでも南米諸国を苦しめる貧富の格差は、植民地時代の分断統治の残滓です。分断統治の弊害に苦しめられているのは、中東だけではないわけです。
  ブラジル ボルソナロ大統領   出典:jiji.com

包むという非日常

包まれたドイツ国会議事堂   出典:1101,com
環境芸術家クリストが、20年5月末、亡くなりました。10年前に亡くなった妻で共同制作者のジャンヌ・クロードと共に、世界中の建造物や自然を布等で包み込むインスタレーションを展開してきました。私は、実際に見たことはないのですが、好きでした。昔、飲み屋で先輩とクリスト議論になったことを覚えています。「こんなものが、なぜ芸術なんだ」というわけです。

まぁ、底の知れた議論です。面白いと思うかどうかが、ほぼ全てですから。とは言え、たまに登場する議論なので、私はポップ・アートを引き合いに出して話すことにしています。例えば、アンディ・ウォホールのキャンベル缶スープですが、日常的なものを非日常的に提示することで、日常に対する新鮮な視線が生まれます。それを美しいと思う人もいれば、文明批判と受け取る人もいる。受け止めは、人それぞれでいいと思いますが、ただの缶スープでなくなった時点こそ、アートが誕生した瞬間なのでしょう。

米国は、コマーシャリズムが先導する大衆文化の国です。少し古い言い方をすれば、キッチュ大国です。スターン夫妻によるベストセラー「悪趣味百科」など氷山の一角。むしろ、「米国の洗練されたもの百科」の方が、価値が高いかもしれません。キッチュなものの中には、米国の歴史や現状のすべてが詰まっています。それらをシルク・スクリーンで描き、額縁に入れ、非日常性が生まれれば、立派にアートとして成立すると思います。

「悪趣味百科」の後に世阿弥を持ち出すのは、いかがなものかとは思いますが、世阿弥の言う「花」は、現代アートに通じるものがあると思います。世阿弥は、演劇のなかの珍しさや驚きが観客に与える効果を大事にしています。それらを踏まえて「花」は存在するのだと思います。世阿弥の「風姿花伝」は、世界最古の演劇論と言われますが、世界最古の芸術論でもあると思います。

クリスト、ジャンヌ・クロード夫妻が、30年以上前から挑戦し続けていたパリ凱旋門の梱包が、ついに許可されたそうです。残念ながら、クリスト本人はいませんが、インスタレーション自体は、20年9月に実施される予定と聞きました。時間がかかったとはいえ、それを許可したパリ市に敬意を表したいと思います。

2020年6月2日火曜日

純インド式カリー

日本初のインド料理店と言えば、東銀座のナイル・レストランです。昔、初代のA.M.ナイルさんから教わったことがあります。インドのスパイスは良質だから、食後、辛さは残らない。辛さが残るようなら、チャイを飲みなさい。驚きました。チャイを一口飲んだだけで、辛さがサッと消えました。まるでインド大魔術。

日本へカレーを紹介したのは福沢諭吉。明治初期にはレシピが公開され、以降、独自の進化を遂げ、日本を代表する食文化になります。ただし、伝わったのは欧風カレーでした。日本初のインド式カリーは、1927年発売、新宿中村屋の「純インド式カリ・ライス」です。中村家がかくまっていたインドの独立運動家ビハーリー・ボースが伝授したものでした。

ビハーリー・ボースは、インドでの過激な運動がゆえに当局から追われ、日本へ逃亡。日本で武器の調達を行います。英国の圧力を受けた日本政府も国外退去命令を出しますが、頭山満等アジア独立主義者が中村屋に頼んでかくまってもらいました。後に国外退去命令も解除され、日本政府や軍部と連携したビハーリー・ボースは、インド独立運動の重鎮として活躍しました。中村屋のお嬢さんと結婚したこともあり、「中村屋のボース」と呼ばれます。もう一人のボースと区別するためでもあります。

もう一人は、チャンドラ・ボース。欧州で活躍後、ナチスと日本の潜水艦を乗り継ぎ来日、中村屋のボースとともに活動します。1943年、日本政府の後押しで、シンガポールに自由インド仮政府を樹立、首班に指名されます。さらに、45,000人のインド国民軍を率い、インパール作戦にも参加しました。第二次世界大戦後、英国がインドから撤退する直接的きっかけとなったのは、英国のインド国民軍の処分に対する民衆の反発でした。インドでは、ガンジーと並び、チャンドラ・ボースとインド国民軍は、独立の英雄です。

実は、初代ナイルさんは、ただのインド料理屋ではありませんでした。両ボースのもとで、日本政府との折衝等にあたった独立運動の闘士です。戦後、東京裁判では、判決にただ一人異を唱えたパール判事の通訳も務めています。いずれにしても、インド独立運動のおかげで、日本人はうまいインド料理を知ったというわけです。
                                                                                                                                                       出典:hotpepper.jp

2020年6月1日月曜日

てよだわ言葉

数年前、突然、東宝の「社長」シリーズが懐かしくなり、3本ばかり見ました。楽しめましたが、ストーリーも、設定も、配役も、ほぼ同じなので、さすがに3本で十分に満腹。我々の世代のサラリーマンは、多少ですが「社長」シリーズの時代を知っています。もちろん、現実は、コメディ映画のように気楽なものであはりませんでした。ただ、上下関係、事務室、昼食、接待、銀座のクラブ、出張先での宴会等、懐かしさを感じ、うれしくなりました。

言葉使いも、その一つ。この時代の映画の中では、上の人たちは、下のものに「君(きみ)」と呼びかけます。単なる二人称ではなく、同輩や目下の人に対する軽い敬称です。礼儀正しさの表れなのでしょう。今時、会社でも、世間一般でも聞くことはありません。昔、大先輩のなかに、怒るとき、決まって「きみ~!」から始める人がいました。ちなみに、「主君」といった意味だった言葉が、いつ、どこで同輩や目下に対する軽い敬称になったのかも気になります。

今一つ、日本映画の中の、時代を感じさせる言葉に、女性の「嫌だわ」と「よろしくてよ」があります。1950年代前後の現代劇では、定番の台詞回しでした。いずれも、近年、耳にすることはありません。もっとも、お上品な上流階級では使われているのかも知れませんが、縁がないので、聞いたことがありません。調べてみると、これには「てよだわ言葉」という分類名が付けられており、明治中期、山の手の女学生の間で流行した言葉だそうです。それを小説家たちが作中で使い、広まったようです。いつの世も、若い女性たちが流行言葉をリードしていたわけです。

てよだわ言葉は、戦前の階級意識を背景とする言葉使いなのでしょう。階級意識が希薄化した戦後、それは、裕福な、上品な、あるいは教養ある女性の象徴になったのだと思われます。高度成長期に、それが失われたのは、新たな経済的ヒエラルキーの誕生、物質文明化などが背景にあると思われます。そもそも言葉は、時代とともにあります。その時代、時代で、最も効率よくコミュニケートできる言葉が選ばれ、時代の空気を表していくのでしょう。

いつの時代にも、若い人たちの言葉を、嘆かわしい、という世代が存在します。ただ、その人たちも、若いころ、先輩たちに、言葉使いがなっておらん、と言われていたのでしょう。もし紫式部が、現代の高齢者層の言葉使いを聞いたなら、「まじ、うざいんだけど」と言うかもしれません。
                                                                                                                                                    写真出典:ameba.jp

永遠のチャンプ

1973年1月25日11:22AM、首都高で白いスポーツカーが宙に舞いました。カーブを曲がりれず、中央分離帯に乗り上げたコルベット・スティングレーは反対車線に飛び出し、大型トラックに激突。即死だったドライバーは、大場政夫、23歳。現役のWBA世界フライ級チャンピオン。3週間前、タイの英雄チャチャイに逆転勝利、5度目の防衛を果たしたばかりでした。端正な顔立ちにスリムな体型、伸びのあるストレートに的確なワン・ツーというきれいなアウト・ボクシング。何よりも、打たれても打たれても前へ出る闘争心。日本で永遠のチャンピオンと呼ばれるのは、大場政夫だけです。

大場政夫は、1949年墨田区の生まれ。父親はギャンブル好きで、家族は長屋で極貧生活を送っていました。ボクシング・ファンだった父親の影響を受け、大場少年の夢は「世界チャンピオンになって、家族のために家を建てること」だったそうです。中学卒業とともに、「二木の菓子」で働きながら、帝拳ジムに入門。栄養失調の痩せた少年の反射神経の良さを見抜いた桑田トレーナーは、大場を特待生として合宿所に入れます。実力はありながらも、戦績に恵まれなかった大場は、69年、突然開花。ノンタイトル戦ながら、次々と現役チャンプたちを倒していきます。欠けていたのはスピードでした。

70年、ついに世界チャンピオンとなった大場でしたが、安心して見ていられる防衛戦は一度もありませんでした。井上尚弥、具志堅用高といった後の天才たちとは違い、努力の人だったと思います。4度目の防衛戦、世界最強と言われたオランド・アモレス戦では1Rでダウン。流血のまま、2Rでダウンを奪い返し、5Rで仕留めます。最後の試合となったチャチャイ戦でも、1Rでいきなりダウンをくらいます。その際、右足首を痛め、足を引きずりながらラウンド。12R、ついにチャチャイをとらえ、3度のダウンで仕留めました。テクニックもさることながら、秘めた闘争心はそれ以上、という大場らしい試合だったと言えます。当時、それはハングリー精神と呼ばれました。

矢吹ジョー、星飛雄馬、大場政夫は、戦後日本そのものでした。極貧の少年時代、彼らは、「あしたのために」、「巨人の星」、「家族のために家を建てる」、それぞれの夢に向かって一途でした。彼らとともに、一つの時代が終わりました。73年、高度成長は終わり、アメリカはヴェトナムから撤退し、オイル・ショックが世界を襲い、新宿で闘争に明け暮れた若者たちはおしゃれな渋谷へと移っていきました。
                                                                                                                                             写真出典:boxingnews.jp

夜行バス