2020年6月15日月曜日

夜の蝶

おそめこと上羽秀
京都の祇園界隈には、芸妓、あるいは元芸妓の方々が経営するバーが多数あります。戦後間もなく、最初にバーを開いた芸妓は、不世出の京美人と言われた「おそめ」こと上羽秀でした。「バーおそめ」は、政財界、文壇のセレブたちで賑わい、おそめは、銀座にも高級クラブを出店します。飛行機で、京都・東京を往復する様は、「空飛ぶマダム」ともてはやされたようです。客でもあった川口松太郎は、彼女をモデルに小説「夜の蝶」を書き、映画化もされます。「夜の蝶」という言葉は、今風に言えば流行語大賞ものだったようです。高度成長期に入ると、祇園も銀座も、接待の社用族が幅を利かせます。セレブたちは姿を消し、おそめのバーもクラブも廃れていったようです。

おそめには、妻子ある同棲相手がいました。いわゆるヒモですが、バーが廃れ始めた頃、突然、この男が時代の寵児になります。東映の大プロデューサー俊藤浩慈です。やくざとの付き合いがあった俊藤は、東映が、テレビへの対抗策として打ち出した任侠路線の製作者として起用されます。一時代を築く未曽有の大成功でした。俊藤映画は、着流しの渡世人が、義理と人情の板挟みになりながら、最後に悪を倒すという勧善懲悪もの。高度成長のひずみに矛盾を感じる大衆は、手を打って大喜び。鶴田浩二、高倉健、藤純子らの人気にも支えられ、東映は10年にわたり任侠路線を走ります。

俊藤のワンパターンに辟易していた監督の山下耕作、脚本家の笠原和夫は、リアルで冷徹なやくざ社会の本質を描きます。68年、二人は「博打打ち・総長賭博」を製作。東映任侠映画の最高傑作ですが、私が一番泣いた映画でもあります。鶴田浩二がラストで吐くセリフ「任侠道?そんなもん俺にはねぇ!」は有名ですが、それはそのまま73年、笠原和夫脚本、深作欣司監督「仁義なき戦い」へとつながりました。明日を失った戦争帰りの若者たちの殺し合い、そして姑息な裏切りに終始する大人たちの世界。気が付けば、高度成長は、とうに終わっていました。

「夜の蝶」も「渡世人」も、死語となって久しいところです。後年、俊藤と上羽秀は入籍しています。戦後から高度成長までを体現した二人だと言えます。晩年、上羽秀は、経営するカフェに、たまに顔を出していたようです。ピンと着物をまとった姿は、あくまでも凛として、居合わせた人たちの目を引いたと言います。俊藤の前妻の娘が、藤純子。今の富司純子です。その娘の寺島しのぶは、国際的な性格俳優、息子の五代目菊之助は梨園を支える大黒柱。俊藤家のストーリーは、まだまだ続いて行きます。
写真出典:pinterest.jp

マクア渓谷