2020年4月30日木曜日

営業昔話(5)ソーライ

昔々、客を創った男がおったとさ。

乗客が少ないので会社は赤字だ、と社員に言われた男は「それなら、乗客を創ればいい」と言い放ちます。男の名は、小林一三、阪急電鉄創業者です。甲州の出、慶應義塾、三井銀行を経て、阪急電鉄を創業します。一三は、沿線に宅地開発を行い、当時珍しかった割賦販売も導入します。さらに動物園、温泉、野球場など、開発していきます。温泉の余興として始めたのが宝塚少女歌劇団、後の宝塚歌劇団です。

昭和4年(1929年)には、梅田駅の上に、日本初のターミナル百貨店である「阪急百貨店」を開業します。開店当初は、大層な人出で、大食堂も大人気だったそうですが、ほどなく昭和恐慌が襲いかかります。俸給を減らされた会社員たちは、大食堂で一番安いライスだけを注文し、テーブル備え付けのソースをかけて昼食にしたと言います。ソース・ライス、略してソーライの客が増え、困った店側は、ついに「ライスだけの注文お断わり」と張り紙します。

これを聞きつけた一三は「ソーライ、大いに結構じゃないか。」と、新聞に「ライスだけ注文のお客さま大歓迎」という全面広告まで出させます。大食堂は、ソーライ客で混み合い、一三は、ニコニコしながら食堂内を歩いていたそうです。困惑する社員たちに、一三は語ります。「彼らは、今、貧乏だが、景気が戻れば、いずれ結婚し、今度は、家族を連れて、戻ってきてくれるだろう。」一三の目には、未来の客が見えていたのです。

マーケティングの基本は、ターゲットを絞り込むこと。一三は、これが見事にできていました。これからの日本社会は、会社員が大層を占める。そう見込んで、比較的安価な郊外住宅を開発し、彼らが買いやすい割賦販売を導入し、家族向け行楽地を準備し、駅で買い物させたわけです。後に日本のスタンダードとなる鉄道沿線を中心としたライフ・スタイルの提案です。自称「鉄道の素人」は、実にマーケティングの達人でした。

景気が回復した頃、阪急百貨店の大食堂に、また騒動が持ち上がります。昼食を食べた客が、食事代とは別に、皿の下にお金を置いて帰るという事件が頻発します。苦しい時代を、ソーライで生き延びた会社員たちによる、ささやかな恩返しでした。その律儀な会社員たちこそが、後の関西財界の隆盛を築いたものと確信します。

小林一三                  写真出典:山梨県立文学館




オスマン帝国軍楽隊

世界で初めて軍楽隊を作ったのは、オスマン帝国でした。13世紀末、アナトリアから興ったオスマンは、瞬く間に中東、地中海東部を支配する世界帝国となります。軍楽メフテルは、士気高揚、威嚇、儀礼用を目的に作られ、軍楽隊は戦場へも赴きました。15~16世紀、オスマンの侵略を受けた欧州では、メフテルが聞こえると、人々は恐れおののき逃げたと言います。以降、欧州でも軍楽隊が普及していきます。日本では、明治維新まで軍楽隊は存在しません。必要がなかったからです。

オスマン軍の精鋭部隊イェニチェリは、強制的に徴用されたキリスト教徒の子弟で構成され、共同生活と妻帯禁止を課す一方で高い身分と報酬を与えられたエリート軍団。その洗脳に際し、音楽も活用されたのでしょう。また、多国籍、多文化圏出身の兵士で構成されるオスマン軍全体も、帰属意識を強化するために音楽をうまく使ったのでしょう。威嚇という面では、例えば、欧州の人々にとって、メフテルは、聞き慣れないオリエントの響きであり、イェニチェリの残虐さと相まって、さぞかし不気味な音楽だったのでしょう。あるいは、ペルシャの脅威、モンゴルの恐怖といった古い記憶と結びついていたのかも知れません。

メフテル自体は、テュルクの伝統音楽を土台としているのでしょうが、オスマン帝国軍楽隊は、士気高揚、威嚇、両面とも、多民族、多文化を前提として成立したと言えます。いわば、複数国家、多文化を支配する帝国の姿そのものでもあります。江戸時代以前の日本に、軍楽隊が必要なかった理由の一つがここにあります。もちろん、日本がオスマンの攻撃を受けず、メフテルを知ることがなかったからでもありますが。

40年前、黒海からイスタンブールへ向かう乗合バスの車中、トルコ人の老人から聞いた話があります。昔、モンゴル高原に二人の兄弟がいた。一人は東へ向かい日本人になった。一人は西へ旅立ちトルコ人になった。我々は兄弟である。人類学的な話というよりは、エル・トゥールル号を救助し、宿敵ロシアを日露戦争で破った日本への親近感なのでしょう。
写真出典:nekonoheya

2020年4月29日水曜日

ジャーク・チキン

医学的には、人間が食べていい肉は白い肉だけ、と聞きます。現実的には鶏肉ということになります。世界の鶏肉料理のバリエーションは、他の肉より多いように思います。比較的淡泊な味が、様々な料理に合うのでしょう。逆に言えば、調味料の使い方が、鶏肉料理のポイントとも言えます。調味料類に漬けてから焼く、いわゆる漬け焼きも世界中にあります。

私が思う鶏肉の世界三大漬け焼きは、タンドリー・チキン、ジャーク・チキン、鶏の照り焼きです。いずれも大好物ですが、最も味わい深いのがジャーク・チキンだと思います。辛さもさることながら、とても深い複雑な味がします。調味料は、ピメント(オール・スパイス)、スコッチボネット(唐辛子系)、エスカリオン(青葱系)が基本となります。全てを揃えるのは難しいので、私は、カルディで買ったジャマイカのジャーク・シーズニングを使います。簡単にレストラン並みのジャーク・チキンができます。

ジャマイカ系レストランは、決まってラスタファリアンっぽい人たちがやっています。ジャマイカと言えば、ラスタですからね。ラスタ・カラー、ラスタ・ヘアー、そしてレゲエ。ラスタファリズムは、1930年代、ジャマイカで、農民や労働者の間に発生したアフリカ回帰運動です。エチオピアのハイレ・セラシエ皇帝を神として、アフリカへの回帰を訴えます。ドレッド・ヘアー、ガンジャ(大麻)、そして菜食主義が生活信条です。ですから、ラスタがジャーク・チキンを食べることは、絶対にないのですけどね。


ラスタは、ジャマイカでも人口の5%程度という少数派。ラスタを世界に知らしめたのはレゲエの巨人ボブ・マーリー。世界は、彼を通して、レゲエを知り、ラスタを知ります。最も売上げの多いアーティストの一人であり、死後に発売されたベスト・アルバムは、今でもビルボードのチャートにランクインしています。ボブ・マーリーの音楽も政治的姿勢も魅力的ですが、レゲエのリズムは単純すぎて飽きてしまいます。
写真出典:YouTube


藩士の珈琲

1800年前後、ロシアは日本に開国を迫り、たびたび来航しますが、幕府はこれを拒絶します。業を煮やした皇帝使節レザノフの部下が北海道沿岸を焼き討ちし、慌てた幕府は、東北諸藩に蝦夷地沿岸警備を命じます。津軽藩は、300名を宗谷警備に投入、幕府指示で、うち100名弱を知床半島の斜里に分遣します。アイヌも越冬しない知床の厳しい冬、準備も不十分な分遣隊は、次々と浮腫で死亡、翌春、救助されたのは17名のみでした。「津軽藩士殉難事件」です。

分遣隊が斜里に到着したのは7月末。急ぎ兵舎を作りますが、生木を使うしかなかったので、反り返りですきま風だらけになったようです。暖をとるにも生木を使うしかなく、煙で難儀したようです。8月末には初雪を観測。米と味噌だけは豊富だったようですが、野菜もなく、海の凍結で漁もできません。結果、ビタミン不足から浮腫になります。さらに凍結した海からロシア兵が攻め込むのではないかという恐怖も大きかったようです。

津軽藩は、この殉難を藩の恥として、記録を抹消、箝口令をしきます。それが明るみに出たのは150年後の1954年、生残り藩士の日記発見が契機でした。事件から半世紀後、幕府は、津軽藩に浮腫の薬を与えます。南蛮渡来の貴重品、和蘭珈琲でした。珈琲を飲んだ初めての庶民は津軽藩士とされています。弘前の成田専蔵珈琲店は、当時の珈琲を再現。市内の数カ所の喫茶店で「藩士の珈琲」として供されています。

それにしても北海道はいつから日本の領土になったのでしょうか。1855年の日露和親条約以前はあいまいです。鎌倉期、安東氏が蝦夷沙汰代官職に任ぜられた頃から交易対象として認知され、その配下だった蠣崎氏、後の松前氏は、秀吉、ついで江戸幕府から、道南を領地として認められます。ただ、北海道の大半は蝦夷地(アイヌの土地)のままでした。1799年、ロシアを警戒した幕府は蝦夷地を直轄領化します。これが、北海道の領土化の最初ではないかと思われます。
                                            藩士の珈琲 出典:ぐるたび


2020年4月28日火曜日

営業昔話(4)断機の訓え

昔々、機屋に立派な嫁がおったとさ。

京都で「先の戦」と言えば「応仁の乱」のこと、とは有名な話です。日本の歴史の分水嶺とも言われる応仁の乱は、京都を中心に11年間も続きます。京都は、すっかり焼け野原になったと言います。山名宗全は、堀川の西側に陣を敷きました。戦後、避難していた織物職人がその地に集まったことから、日本を代表する織物「西陣織」の名が生まれます。

天保年間創業の川島織物(現川島織物セルコン)は、西陣を代表する織屋の一つ。明治の世になり、いち早く室内装飾分野にも進出します。皇居の綴織壁掛、あるいは劇場の緞帳の多くは、川島織物の作品です。川島織物の本社は、現在、鞍馬に近い山間にあります。敷地内には、古今東西の貴重な織物を展示する「川島織物文化館」が併設されています。その入口を入ると、まず目に飛び込むのが、巨大な織りかけの綴織。それには、川島織物の物作りの精神を表す「断機の訓え」というエピソードがありました。

大正時代、宮内省から明治宮殿用の壁掛の依頼が入ります。下絵や試し織りに5年をかけ、正式発注を受けます。折しも欧州は第一次世界大戦中。当時、世界最高峰と言われたドイツの染料も入手困難となっていました。代替品も使いながら、何とか1年ほど織り進めると、ごくわずかな退色が見つかります。職人たちは、問題なしとして、織り進める判断をします。しかし、真夜中、三代目未亡人の絹子は、一人で織場に入り、涙ながらに経糸(たていと)を切り落とします。経糸が切断されれば、織物は終わりです。

ごくわずかでも自信の持てないものは、絶対に出さない。その品質へのこだわりは、宮内省も認めるところとなり、第一次大戦後、あらためて制作、納品されたと言います。品質とは信用のことです。信用とは商売そのものです。
川島織物製作歌舞伎座緞帳  出典:LIXIL



2020年4月27日月曜日

木鶏

年に三度、国技館で相撲を観戦し、「巴潟」で塩ちゃんこをいただく。これが私の楽しみの一つ。相撲はTVに限ると言う人もいます。ただ、TVでは、結果は伝わっても、館内の興奮は伝わりません。まさに土俵と客席が一体化しているのが大相撲であり、国技館だと思います。今の両国国技館は二代目ですが、初代国技館が最も沸いた日は、1939年1月15日と相場が決まっています。双葉山の連勝記録が69で止まった日です。

不世出の大横綱・双葉山は、右目が失明状態であることを隠して入門。その弱点を克服すべく、鬼のように稽古をしたそうです。しかし、真っ正直な取り口ゆえ、あまり注目される力士ではなかったようです。ところが、蓄膿症の手術をすると、体も大きくなり、力もつけ、ついに連勝街道に乗ります。相手の立ち会いを見定めてから自分に有利な態勢に持ち込む「後の先」は双葉山の代名詞。右目の不利をカバーするための立ち会いでもありますが、そこから繰り出す上手投げは無敵。腕ではなく、漁師時代に鍛えた強い肩を使い、押さえつけるように投げたと言われます。

打倒双葉に燃える出羽一門は、右目が見えないことに気づいており、この日、安藝ノ海も右から攻め、ついに外掛けで双葉を倒します。館内は大騒ぎ、座布団どころか、酒瓶、やかん、果ては下駄まで飛んだと言います。その夜、双葉山は、郷里の先輩である思想家・安岡正篤宛に有名な電報を打ちます。「われ未だ木鶏たりえず。」かつて安岡から伝授された木鶏の話は、列士・荘子が原典の闘鶏の話でした。闘鶏は、相手を見て、空威張り、興奮、威圧するようではまだ未熟、木彫りの鶏の如く動じなくなれば、徳が全うし、他を寄せ付けない。

後に理事長となった双葉山は、周年行事の挨拶で土俵に上がります。係の人が読み上げ原稿を忘れ、取りに戻ります。その間、理事長は微動だにしない。館内は失笑とヤジであふれます。それでも理事長は動かない。すると館内は静まりかえり、やがて割れんばかりの大拍手が館内を包んだと聞きます。皆、木鶏を忘れていませんでした。
写真出典:Wikipedia



2020年4月26日日曜日

営業昔話(3)ヒット商品

昔々、小さな文房具のセットが売れたとさ。

80年代の半ば、中堅文具メーカーP社が、考えられないほどの大ヒットを飛ばします。サイズを小さくした文具をセットにしたもので、決して安くはありませんでした。小さいとは言え品質は高く、実際に文具として使えました。ただ、実用性で売れたのではなく、物珍しさで大ヒット。ブームの特徴で、持っていること自体がカッコ良かったわけで、瞬く間に入手困難となり、ブームは一層加熱しました。

当時、P社のアメリカ法人の社長は、日本にいるとき、営業を統括していた方でした。ニュー・ジャージーのオフィスを訪問し、初めてお会いした際、「大ヒット、おめでとうございます」と申しあげたところ、「何がめでたいんだ。あのヒットでうちはつぶれるよ。」と言うのです。うちは、下町の小さな文具屋だよ。営業の連中は、暑い日も寒い日も、照った日も降った日も、日がな一日、問屋回りをして、商品を少しでも扱ってもらうよう、ペコペコ頭を下げていたんだ。毎日、その繰り返しよ。でも、それではじめて会社が回っていたんだ。

ところが、今度の大ヒットだよ。品薄で、問屋の方から会社へ来て、一つ二つでもいいから回してくれ、と頼むわけだ。営業担当者は、横柄な態度で、いま在庫はないんだよね、てなもんだよ。外回りすることもなくなり、クーラーの効いた部屋で、机に脚をのせて、電話応対しているだけ。会社、つぶれるよ。こんなことしてたら、ホントに会社つぶれるよ。いいかい、覚えておきな「ヒット商品は営業を殺すんだよ。」

鳥肌がたちました。名言中の名言。後に、勤めていた会社がヒットを飛ばした時、私は、皆にこの話をして、引き締めをはかりました。ちなみに、その会社はつぶれませんでした。それどころか、企業向けに文具のデリバリ・サービスをはじめ、大成功しています。アメリカでは一般的なサービスでしたから、あの人が、帰国後、始めた商売だな、と思いました。
出典:GetNavi

2020年4月25日土曜日

お膳の文化

どうも、食事の際、食器を手に持って食べるのは日本人だけらしいのです。同じお箸の文化圏ながら、中国・韓国で器を持って食べるのは、ほぼマナー違反。何故そうなったかについては、様々な説があるようです。お米への敬意をあらわす、日本米は粘りがあって匙にはむかない、家が狭いから、家に食堂という発想がなかったから、等々。どれも、イマイチ、しっくりこないわけです。私は、まずお膳ありき、の文化なのではないか、と思います。

古来、履き物を脱いで、座って暮らす生活においては、食事は折敷等、お盆状のものを敷いて食べていたようです。それに足が付き、衝重等、お膳の原型が定着したのは平安期だったようです。その背景には、個食の思想があります。この頃、社会的にも、家庭内でも、序列や身分が定着し、身分の違う者が同じテーブルや大皿で食事することなどあり得なかったわけです。さらに、個食文化の背景には「穢れ」の発想があったようです。穢れは難しい概念ですが、ここでは公衆衛生的な穢れだと思います。要は、度重なる疫病対策だったのでしょう。

お膳が前提となれば、食器を手に持って食べことは合理的であり、匙の必要性は薄れます。食器を手に持つ文化を、精神的レベルまで高めたのは禅宗です。道元禅師が定めた食事の作法は、今でも曹洞宗で生きており、かつ現代の作法に通じるところが多いと聞きます。武家が禅宗に帰依すると、道元の作法は世間に広がり、室町期、武家故実(しきたり)の小笠原流によって体系化されます。

小笠原流は、武家故実、弓道、馬術、礼法に関わる流派。江戸幕府に用いられたことで、定着、一般化し、今でも日本の食事作法の基本は小笠原流だと言えます。ちなみに、小笠原流では「箸先五分(1.5cm)、長くて一寸(3cm)」と言われ、それ以上汚してはいけません。達人ともなれば、一分以内と言われます。私は、いつも、これが気になります。
                                  写真出典:輪島市



2020年4月24日金曜日

名人

落語界で六代目と言えば、笑福亭松鶴とも言われますが、三遊亭圓生という声もあります。歌舞伎の世界で六代目と言えば、文句なしで六代目尾上菊五郎となります。舞台の神とまで呼ばれた不世出の名優菊五郎は、大正11年、これまた希代の名プリマドンナ、アンナ・パブロワの公演を帝劇で見ます。その際、名人と名人は、極めて高いレベルで理解しあいます。私の大好きな話の一つです。

アンナ・パブロワの帝劇公演は、日本で初めての本格的バレエ公演だったようです。パブロワは、既に世界的名声を勝ち得ており、ことに「瀕死の白鳥」は彼女の代名詞ともなっていました。ラスト・シーンで白鳥は死に、幕が下ります。その死んだ姿に感動した菊五郎は、三日通ったと言います。二人が会った際、菊五郎が「あなたはラストで息をしていなかった。」と言えば、パブロワは「白鳥は死んだのですから当然です。」と答えます。続けて「もし幕が下りなかったらどうするんだ。」と聞けば、名プリマドンナは「そのまま死にます。」と答えたそうです。

息をしていないことを見抜く名人と、「死にます。」と答える名人。名人は名人にしか理解できなという鳥肌ものの話。実は、菊五郎は「息をつめる」ということを体得した瞬間、名優になったという話があります。舞台は、タイミングと間の芸術とも言われます。息をつめるとは、おそらくタメのことなのでしょう。タメが舞台上の爆発力を生むことがあります。菊五郎は、無意識に、パブロワの息を読んでいたのでしょう。ちなみに、パブロワの死後、バレエ界はその才能に敬意を表し、20年間「瀕死の白鳥」を上演しなかったと言います。

義太夫の人間国宝、八代目豊竹嶋太夫が引退会見の際、70年に及ぶ芸歴を振り返り「下手だから続きました。」と語ります。楽しかったことは、と聞かれた嶋太夫は「ただただ苦しゅうございました。」と答えています。人間国宝にして、この言葉。芸の道に終わりはありません。
アンナ・パブロワ「瀕死の白鳥」ラスト・シーン    出典:Russia Beyond


写実と象徴

日本画と西洋画という区分は、西洋の絵画が入ってきた明治時代に作られた概念です。様々な定義づけもありますが、概ね結果論が多いように思います。例えば、最も有名な違いと言えば陰影の有無ということになります。ただ、西洋でも、中世前期頃までは、輪郭線にべた塗りが多く、日本画とあまり変わりません。それが油絵具の登場で大きく変わります。上塗りしやすい油絵具の登場で、表現方法が大きく広がったわけです。つまり、突き詰めれば、油絵具の発明が、日本画と西洋画の違いの根源なのではないでしょうか。

そして、それぞれの画材を前提に、技と表現を進化させた結果、様々な違いを生んできたのだと思います。上村松園が油で描いた「序の舞」など見たいと思いません。あの凛とした気品は、岩絵具とニカワでしか出せないと思います。同様に、レンブラントが岩絵具で「夜警」を描けるわけもありません。とは言え、日本画と西洋画の違いは、画材に起因するものばかりとも言えません。西洋画の写実に対し日本画の象徴という点も、その一つ。明確な相違ではなく、傾向という程度ですが、その背景には、宗教があると思います。

仏教もキリスト教も偶像崇拝禁止。キリスト教の神は擬人化されていますが、像も絵もありません。ただ、キリストは人間なので、より写実的である方が伝えやすいと言えます。一方、釈迦は「法(真理)に依りて人に依らざれ」と遺言します。釈迦の死から500年後、ギリシャの影響を受けたガンダーラで初めて仏像が作られます。仏教の宗教化が進んだ現れでもありますが、仏教が求めるものが「真理」であること、そして「人に依らざれ」の教えが、仏像を象徴的なものにしていったと思われます。

では、仏教・キリスト教以前は、どうだったのでしょう。彫刻を見る限り、技巧の違いはあっても、いずれも写実的だと思います。例えば、ほぼ同時期に作られたギリシャ彫刻、始皇帝陵の兵馬俑、いずれもレベルの高い写実派だと思います。とすれば、日本画も含め、東洋美術は、仏教の影響下で、象徴の道を進んだと言えるかもしれません。


2020年4月23日木曜日

カタロニア賛歌

昨年、バルセロナで、2週間ばかりアパートを借り、ガウディはじめ高名な建築家の作品を見物しました。建築も素晴らしかったのですが、ちょうどメルセ祭りと重なり、華やぐバルセロナも楽しみました。初めてのバルセロナでしたが、マドリーやアンダルシアで感じるスペインらしさが薄いことに気づきました。独立性の高いカタルーニャだからとも言えますが、かといって強烈なカタルーニャ文化も感じません。平たく言えば、コスモポリタンな街だと言えます。その背景には、この街の歴史がありました。

ハンニバルで有名なカルタゴのバルカ家が、紀元前3世紀に建設した植民都市バルチーノが、バルセロナの起源とされます。その後、何度か繁栄した時期もありますが、おおむね地方中堅都市に過ぎませんでした。ところが、産業革命が、街を一変させます。国内外から集まった労働者で街はあふれ、セルダ設計による大拡張計画が実施されます。碁盤の目で知られる計画都市は、労働者のための住宅供給を目的に作られたものでした。つまり、バルセロナは、19世紀に突如出現した労働者の街だと言っても過言ではありません。

産業資本が、ムンタネーやガウディの斬新な建築に資金を供給し、多数を占める労働者が、無政府主義なムードの街を作ります。スペイン内乱のおり、バルセロナは左翼政権を支持、反ファシストどころか革命機運まで盛り上がります。共産党政府を支援するスターリンは、無政府主義の街バルセロナを抑圧。反ファシストの戦いの最中、共産党と無政府主義者が市街戦を繰り広げました。スターリンとトロツキーの代理戦争です。これでは、ナチスに支援されたフランコの反乱軍に勝てるわけがありません。

その渦中、国際義勇軍として戦ったジョージ・オーウェルの従軍記録が「カタロニア賛歌」。後にオーウェルは、スターリンと全体主義を批判したディストピア小説「1984」を書きます。カタロニア賛歌のなかで、オーウェルが繰り返し語るのは、カタラーノ(カタルーニャ人)の人の良さ。それを知るだけでも、ここは来る価値があると書いています。
サグラダ・ファミリアは2026年完成予定。高さは今の倍になります。

2020年4月22日水曜日

伊勢うどん

イタリア人の知人が「日本の食文化の幅広さには驚かされる」と言うものですから、イタリアも同じだろう、と返せば、「イタリア人はパスタとピッツアしか食べてない」とのこと。まあ、そんなことも無いのですが、確かに日本の食文化の広さはすごいと思います。和洋中にエスニック、しかも外から入ってきたものも和風に変え、さらにバリエーションを増やしているわけですから。パスタつながりで、うどんを例に取ってみても、その幅広さは、製法、形状、出汁、トッピング等を組み合わせれば、気が遠くなるほど。

日本三大うどんと言えば、秋田の稲庭、香川の讃岐までは確定。あと一つは、水沢、氷見、五島が有力候補とされます。名古屋のきしめんという声もありますが、これは名古屋人が辞退。なぜなら、きしめんはきしめんであって、うどんではないから。油を使わずに練り上げる稲庭の細麺は、かつて一子相伝の技で佐竹の殿様専用でした。讃岐は、いたって庶民派ですが、多くの塩と足踏みで出すコシの強さが売り。幾度かあった讃岐うどんブームで、うどんはコシが強くなくちゃ、という風潮が広まったように思います。

うどん文化圏の中心である大阪や京都、うどん伝来の地である博多でも、麺は、出汁が絡みやすい柔らかめ。むしろ讃岐の方が例外的。ちなみに、香川県では、日本にうどんを伝えたのは弘法大師空海だとされています。讃岐の人は、何でも弘法大師を持ち出す傾向があります。ところで、柔らかいうどんの最高峰は、なんと言っても伊勢うどん。初めて食べた時には、病人食としか思えませんでした。江戸期、お伊勢参りがブームになると、長旅で疲れた体にやさしいということで定番化したとも言います。本音は、一日中煮ておいて、客が来たらすぐに出せるという利点にあったのでしょう。


御師が広めたという「一生に一度はお伊勢参り」は、広告コピーとしてオール・タイム・ベスト。お伊勢さんの神々しさは格別なので、一度どころか何度でもお参りしたくなります。日本の多くの神社が朱塗りなのに対して、最高峰に位置するお伊勢さんは白木。格式の高さを感じます。日本で最も成功したショッピング・モールおかげ横丁で、伊勢うどんを食べれば、その真っ白な麺すら神々しく思われてきます。

出典:hitosara.com

2020年4月21日火曜日

悪の凡庸さ

今年のアカデミー賞作品賞は、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」。ポン・ジュノは好きな監督、「パラサイト」も上出来の作品、初となる外国語作品の受賞も快挙だと思います。ただ、大きくバイアスのかかった投票結果となったことも事実だと思います。個人的にはマーティン・スコセッシの「アイリッシュマン」がベストと思っていました。ただ、ネット公開作品への風当たりもあります。昨年の私のベストは「ローマ」 個人的には、Netflixが2年連続で傑作を生んだと思っています。

「アイリッシュマン」は、ほぼ実話。ジミー・ホッファ殺害は、死体・物証がないこと、他にも自白した人間が複数いることから、確定していません。スコセッシの画面の作り込みはいつも素晴らしいのですが、今回は、実話だけに一層気合いが入っています。その生み出す空気感は、スコセッシならでは。役者も、いつでもどこでも同じアル・パチーノ以外は、見事なまでにリアルです。ジョー・ペシの演技は国宝級。ハーヴェイ・カイテルも楽しんでいました。デ・ニーロに至っては、タクシー・ドライバー以来のはまり役。組織に属することで思考を停止した人間の虚ろさを体現していました。

伝説のヒットマン、アイリッシュマンことフランク・シーランは、自分の生業を振り返り「命令を受け、的確に実行し、報酬を得る。軍隊と同じだ。」と語ります。彼は、戦争中、イタリアの激戦地アンツイオで、上官の指示とは言え、ジュネーブ条約違反と知りつつ捕虜を殺害しています。ブファリーノは、即座に、アイリッシュマンの組織適性の高さを見抜き、イタリア人でもないのに組織に入れます。アイリッシュマンは、ハンナ・アーレントが言う「悪の凡庸さ」、つまり考えることをやめた普通の人が行う悪そのものです。ユダヤ人哲学者アーレントは、アイヒマン裁判を取材し、そこに怪物ではなく、平凡な能吏を見ました。

「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そこには動機も信念も邪心も悪魔的意図もありません。」その前提は組織の存在です。組織の統制が強ければ強いほど、構成員は思考を停止し、そのことに恍惚感すら感じます。ナチスやマフィアに限った話ではありません。私たちは、そこここに「悪の凡庸さ」を見ることができます。

アイリッシュマンことフランク・シーラン   出典:Note






2020年4月19日日曜日

アフロ・ビート

ブルース、ジャズ、サンバ等、南北アメリカの音楽のルーツは、西アフリカにあります。70年代、その子孫の影響を受けてナイジェリアに誕生したのがアフロ・ビート。創ったのは、不屈の男フェラ・クティでした。ポリリズム、延々と続くリフ、アクの強いホーン・セクション、泥臭いヴォーカル。アフリカン・パワーを強く感じさせます。

フェラは、教師兼牧師の父、著名なナショナリストの母のもとに生まれます。母は、英国とナイジェリア独立を交渉したほどの人。兄と弟は、英国に留学した医師です。フェラも英国のトリニティ音楽大学に留学。留学中にジャズに傾倒したフェラは、西アフリカ音楽の主流ハイライフにジャズの要素を加えたバンドを結成し、アメリカに演奏旅行を行います。そこで、マルコムXとジェームス・ブラウンに強い影響を受けたフェラは、自分たちの音楽を希求し、アフロ・ビートを生み出します。

当時、ナイジェリアは軍事政権下にあり、フェラの曲は、強烈な政府批判に満ちていました。フェラは、本や演説で反政府運動を扇動したわけではありません。武力闘争を行ったわけでもありません。ただ、軍事政権も黙ってはいません。弾圧を受けたフェラは、貧民街に高い壁で囲われた大きな家を建て、独立を宣言をします。77年には、千人の兵士に襲撃され、家は全焼、母親は殺され、本人も重傷を負います。フェラは、母の棺を掲げ、政府への抗議行進を行っています。逮捕されること、実に12回。その都度釈放されますが、84年、ついに実刑判決を受けます。ただ、裁判官が、政府から圧力をかけられた不当判決であることを告白します。これを受け、ポール・マッカートニーはじめ世界中の音楽家たちが抗議運動を繰り広げ、フェラの釈放を勝ち取ります。

音楽的に成功したフェラは、LAやロンドンに住み、活動することもできたはずです。しかし、貧民街に住み続け、自身のライブハウス「アフリカ・シュライン」で演奏し続け、政府を挑発し続けました。まさに不屈の男。97年、エイズに感染したフェラは、西洋医学を拒否して、亡くなりました。ラゴスのアフリカ・シュラインでは、今もフェラの子供達が演奏しています。末子シェウンは、毎年、青山のブルーノートでもライブを行っています。
写真出典:alubarika

十三の砂山

冬の日本海を代表する味覚の一つが鱈。福岡や北海道の一部では明太、韓国ではミョンテ、中国北東部沿岸やシベリアではミンタイと呼ばれます。古代から続く日本海の交流の証しとも言えます。南は、東松浦半島・壱岐・対馬・朝鮮半島と続く海の道、北では、樺太と大陸の間にある間宮海峡(タタール海峡)で、日本列島と大陸はつながります。冬に凍結する間宮海峡の最狭部はわずか7km強。かつて日本海交易を背景に隆盛を誇ったのが安東氏。その拠点は、津軽半島の十三湊(とさみなと)でした。14世紀の最盛期には、「十三千塔」といわれるほど多くの神社仏閣を擁し、大いに賑わっていたようです。

北条家の御内人であった安東氏は、鎌倉中期、蝦夷沙汰代官として、陸奥に赴任します。縄文時代から交易拠点であった十三湊は、安倍一族、後に奥州藤原氏が支配していましたが、安東氏はこれを攻め、自らの拠点とします。安東氏は、アイヌ、大陸、朝鮮半島との交易で、大きな利益をあげます。大陸伝来の造船技術と航海法を活用した安東水軍は、当時、最強だったという説もあります。元史に記載される元の樺太アイヌ襲撃の報復として、安東水軍がアムール川流域のキジ湖まで攻め入ったという記録もあるようです。

安東氏は、青森県の大半、秋田北部、北海道南部まで勢力を広げますが、二家に分裂。北部を治めた下国家は、南部氏に敗れ、秋田北部を支配した上国家は、その後、大名秋田家として明治まで存続しました。安東氏没落の背景には、十三湊の劣化があるようです。十三湖は、十三の川が流れ込むことから命名されました。古代には、津軽半島の大層に広がる内海でしたが、土砂の堆積が進み、港としての機能が失われていきました。堆砂は、今も進んでいます。

十三湊の栄華は「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」に詳しいのですが、これは日本三大偽書の一つ。発掘調査も行われていますが、資料の少なさが偽書を生んだとも言えます。津軽民謡「十三の砂山」で「十三の砂山、米ならよかろう」と歌われるほど荒れた十三湖でしたが、土砂が堆積した土地は、現在、水田になっています。結果、米になったとも言えます。
十三湖      出典:るるぶ&more


2020年4月18日土曜日

ジャンテ・ロウ

国連の世界幸福度報告で、いつも上位を占めるのが北欧諸国。幸福度報告は、GDP、寿命、福祉等の外形的データの積み重ねです。では、当人達はどう思っているのか、と幸福度の意識調査をすれば、やはり北欧諸国が上位を占めます。私は、北欧の陰鬱な犯罪TVドラマのファンです。その陰鬱さは筋金入り。とても幸せな人たちが作るドラマとは思えません。白夜・極夜に極寒、収入の半分が税金、鬱病やアル中の多さ、などからして、北欧の人たちが幸せですと言っているのが、まったく理解できません。

高福祉国家という道を選択し、収入の半分が税金という国々では、教育、医療、老後生活等が無料です。外形的データが良いのは当たり前。北欧型社会主義は、SF的な管理社会を思わせます。そんなに優れた制度だとすれば、北欧以外にも広がっていたはずです。私が知っている北欧の人は、皆穏やかな人たちですが、覇気を感じません。例えば、映画界でも、北欧は超美人の供給国ですが、名を成したのはイングリット・バーグマンとリブ・ウルマンくらい。情熱も、やる気も、生きる喜びも、あまり感じないのは、高福祉政策の悪影響ではないか、と思ってしまします。

でも、当人たちは幸せだと言うわけです。気になって、調べてみたら、面白いものを見つけました。「ジャンテ・ロウ」です。1933年にデンマークで出版された小説で唱えられ、瞬く間に、スカンディナビア諸国に浸透した道徳訓です。10項目で構成されますが、言っていることは「自分が特別だと思うな、他より優れていると思うな」ということにつきます。厳しく謙虚さを求めているわけです。ジャンテ・ロウが、短期間で、北欧中に浸透したのは、そもそも、そういう精神風土があったからなのでしょう。


恐らく、キリスト教ルター派という信仰がベースだと思います。同じプロテスタントでも、商工業者が多いカルヴィン派は、産業革命を先導し、冨を築きます。対して、ルター派は北方農民の宗教であり、より原理主義的だと言えます。北欧の人々は、厳しい自然や、厳しい農作業に、黙々と耐えてきた人々なのです。滅多なことでは、文句も言わないのです。それを幸せと呼ぶかどうかは、意見が分かれるでしょうが、そうしなければ生きてこれなかったのでしょう。

イングリット・バーグマン   出典:allcinema

2020年4月17日金曜日

人生は祭りだ!

映画ファンに、一番好きな映画を聞くことは、拷問です。一本に絞ることなど不可能だからです。ただ、私に限って言えば、すぐに答えることができます。なぜなら、かつて、それだけをじっくり考える機会があったからです。30年前、仕事でアメリカ中西部をぐるぐる回っていたことがあります。コーン畑のなかの対向車を見るのも希な道を、一人でひたすら走りました。他にすることもないので、毎日、ベスト・ムービーを考え続けたわけです。

私のベスト・ムービーは、フェデリコ・フェリーニ監督の「81/2」です。奇妙なタイトルですが、フェリーニにとっては9作目の映画。ただ、1作目が共同監督作品だったため、1/2というわけです。随分、適当なタイトルの付け方のようですが、主人公グイドは映画監督であり、まさに自伝的、あるいは私小説的な映画だったわけです。初期のネオリアリズモから大きく作風が変わった「甘い生活」も素晴らしい映画でした。美しい映像、幻想的なシーン。退廃的と批判されたそうですが、退廃は欧州文化、就中イタリア文化そのものだと思います。「81/2」は、「甘い生活」の次作であり、映画的に一層純化されていると思います。

初めてローマに行ったときには、ヴェネト通りのカフェ・ド・パリに行き、「甘い生活」を実感しました。次にローマに行ったときには、ポポロ広場のカフェ・カノーヴァで、フェリーニお気に入りの席から、行き交う人々を眺めました。人生なんて、理不尽で、不可解で、不愉快なことばかり。でも、ささやかな希望や慰めもないわけではない。それって、どうしようもなく馬鹿だけど、愛おしくもある人間たちとのつながりなのかも。釈迦は、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、と言いました。フェリーニも同じです。ただ、釈迦は八正道の実践で涅槃に至るとし、フェリーニは、人との連帯のなかに救いがあると言うわけです。グイドの場合には、連帯するために自殺せざるを得ませんでしたが。「人生は、そう簡単なものでもないさ」フェリーニが、目をギョロリとさせながら、言っているようにも思えます。


映画史上、最も有名なラストにつながる「人生は祭りだ。さあ、一緒に楽しもう!」は、映画史上、最も有名な台詞かも知れません。祝フェリーニ生誕100年。

8 1/2 のラスト・シーン     出典:Note


2020年4月16日木曜日

営業昔話(2)輪島塗

昔々、能登を地震が襲ったとさ。

2007年、能登半島を震度6強の地震が襲います。石川県としては、観測史上最も大きな地震でした。直後、輪島塗の名工・慶塚修兵衛氏を、お見舞いのために訪問しました。白塀をまわした広大な屋敷には、蔵が3棟あり、うち2棟が被害を受けたとのこと。ところが、中にあった塗り物は、一つたりとも傷がついていなかったというのです。「輪島塗というのは、それほど強いものなのです。」と慶塚さんは語っていました。それもそのはずです。輪島塗は、塗って削ってを繰り返すこと、実に70数工程。実用漆器としての輪島塗は、美しさのためだけに、その工程をこなしているのではありません。

慶塚さんのご好意で、工房を見せていただきました。数人のお弟子さん達が、黙々と塗りの工程をこなしていました。部屋の隅に、段ボールの箱があり、覗くと、きれいな吸物椀が無造作に入れてあります。「ああ、それですか。30年前、私が塗って、金城樓に納めたものです。」金城樓は、金沢一の老舗料亭です。「30年も、毎晩、熱いものを入れてるとこうなるんです。ほら、底が焼けているでしょう。」見た目には、黒字に金模様のきれいな椀ですが、よくよく見れば、確かに底はうっすら緑がかっていました。「ですから、店から引いてきて、今度は、息子が塗って、また納めます。」いささか驚いた私は「一体、輪島塗は何年使えるものなのですか?」と聞きました。その答えに、さらに驚きました。「塗り直しをすれば、末代まで使えます。」

「ですから、私たちは、いい加減な品物を納めるわけにはいかないのですよ。」江戸の頃から、全国の名だたる老舗旅館や料亭を客としてきた輪島塗の凄さを見せつけられた思いでした。世代を超えて築き上げてきた信用、ブランド力の源泉がここにあります。営業、かくあるべし。特に、CRM戦略をとる場合、これこそが真髄なのだと思います。

干菓子皿 溜塗   出典:慶塚漆器工房

沙羅双樹(夏椿)

武家支配はいつ始まり、いつ終わったのか? 終わりに関しては、明治維新というのが常識なのでしょう。ただ、明治維新を徳川家から薩長への単なる政権交代とみれば、武家支配は敗戦まで続いたとも言えます。一方、いつ始まったのかについては、議論があるようです。細かな定義を別とすれば、平家による支配から始まったとみるのが妥当だと思います。院政に寄り添うことで勢力を拡大してきた平氏は、清盛という類い希な才能を得て、一気に政権中枢へと登りつめます。

しかし、その平家による支配は、長めに見ても20年程度という短さでした。清盛は、全国の武家を支配する体制、公家を抑える構造を模索中でした。「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言わせた隆盛ぶりですが、自らのあまりも急速な政権奪取に、その支配構造がついていけなかったのでしょう。朝廷による支配体制が律令制からの転換期にあったことも負の要因だったと思われます。いずれにしても、平家の体制面での弱さを、その個性でカバーしていた清盛の死が、没落の始まりとなりました。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」 ご存じ「平家物語」冒頭の名文です。あまりにも早い勃興と没落の物語は、日本人の本質とも言える無常観に強く共鳴し、最も好まれる古典の一つとなっています。例えば、能200余曲のうち、平家物語を題材としたものは30数曲に及びます。もっとも、題材に選ばれているのは、清盛ではなく、もっぱらその子や孫たちの世代ですが。

なかでも世阿弥作「敦盛」は人気です。清盛の弟経盛の子。美少年にして、笛の名手。一ノ谷合戦の際、騎馬のまま海に入ったところを、熊谷直実に呼び止められます。わざわざ引き返した敦盛は、名乗らぬまま、首をはねられます。敵から逃げない、身分の低いものには名乗らない、矜持の高さを見せつけるような死でした。享年17歳。能では、幽霊になった敦盛と出家した直実の再会が謡われます。幸若舞「敦盛」の一節は、信長が好んだことでも知られます。「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」 武士という職業にあって、無常観はDNAそのものなのでしょう。

興味深いのは、武家支配下にあっても、国の主権者が天皇であり続けたことです。海外では、皇帝も王も簒奪者であり、いわば天皇家が次々と変わるわけです。それは神が王位を授けるという仕組みが背景にあり、日本では天皇がその役目を担っていたということなのでしょうか。

朝咲き夕方散る夏椿(沙羅双樹) 出典:ワルディーの京都案内

2020年4月15日水曜日

ラ・フロリディータ

アメリカ大統領が退任すると、その名を冠した図書館が建てられます。Libraryですが、資料館と訳すべきでしょうね。ジョン・F・ケネディ大統領の図書館は、ボストンにあります。博物館も兼ねた施設の地下には、彼の生い立ちや業績が展示され、まるでテーマ・パークのようです。あまり知られていないのですが、施設のなかに、全米最大のヘミングウェイ・アーカイブスがあります。部屋の前には、スコット・フィッツジェラルドからヘミングウェイに宛てた手紙が展示されています。内容は、ヘミングウェイの小説をこき下ろすもの。怒ったヘミングウェイは、手紙に赤字で「a son of a bitch!」と殴り書きしています。実にヘミングウェイらしい資料です。それにしても、なぜケネディ図書館にヘミングウェイ・アーカイブスがあるのか。それには、ちょっとしたエピソードがあります。

ヘミングウェイは、人生の後半を、キューバのハバナ郊外で過ごしました。所有する広大な農園フィンカ・ビヒアで書かれた「老人と海」は、彼にノーベル賞をもたらします。最晩年、キューバは、カストロによる革命の渦に巻き込まれます。ヘミングウェイは、カストロを支持していました。戦火を逃れていたヘミングウェイが、キューバに再入国した際には、ハバナ市民から熱烈な歓迎を受けています。革命政府樹立後、カストロは米国との関係を維持しようとしますが、親米政権を倒された米国の姿勢はかたくなで、キューバはソビエトとの関係を深めていきます。60年、革命政府が、外国人資産の国有化を発表すると、ヘミングウェイは、原稿や財産を残したまま、米国に帰国します。そして61年、ついにキューバと米国は国交を断絶。その年の夏、アイダホ州ケチャムの自宅に戻っていたヘミングウェイは、愛用のショットガンで自らの命を絶ちました。

ヘミングウェイの最後の妻メアリーは、キューバに残してきた遺品を米国に移そうとします。しかし、国交断絶のうえに、ケネディが許可したビッグス湾侵攻作戦も見事に失敗し、両国の関係は最悪の状態にありました。米国市民によるキューバ渡航も完全に禁止。困ったメアリーは、ケネディの妻ジャクリーンに計画を打ち明け、協力を依頼します。それを聞いたケネディは、米国の至宝ヘミングウェイのため、メアリーの渡航を例外的に許可します。キューバに乗り込んだメアリーは、カストロと直談判し、フィンカ・ビヒアの放棄と引き替えに、遺品の多くを運び出すことに成功しました。さすがヘミングウェイが愛した女です。


後年、メアリーは、ケネディ夫妻の尽力に感謝し、遺品のすべてをケネディ図書館に寄贈しました。現在、フィンカ・ビヒアは、ヘミングウェイ博物館として客を集め、彼が通いつめたバー「ラ・フロリディータ」は聖地となっています。いつか、その赤いカウンターで、ヘミングウェイが作ったというパパ・ダイキリを飲んでみたいものです。

La Floridita  出典:AD

営業昔話(1)営業のトヨタ

昔々、ホンダが大いに悩んだとさ。

技術力ではトヨタを超えている部分も多いのに、なぜ売り上げで超えられないのか。ホンダは、シンクタンクに依頼して、両社の違いを徹底的に分析します。お金をかけた割には、両社の技術に決定的な差違は見いだせませんでした。ところが、意外なところに注目すべき差違が見つかります。ホンダ・ユーザーの2割がディーラーの担当者氏名を覚えていたのに対し、トヨタ・ユーザーは9割が名前を言えたというのです。両社の差は、技術ではなく、営業の差だった、というわけです。

名古屋に赴任し、トヨタも担当することになった私は、トヨタの営業に関する本を探しました。名古屋の書店には、トヨタ・コーナーができるほど、多くのトヨタ本がありました。ところが、多くは生産技術や組織風土に関わるもので、営業に関する本はありませんでした。そこでネットで古本をあさり、トヨタの営業に関する本を十冊ばかり入手、すべて読みました。はっきり言って、面白い本は一冊もありませんでした。トヨタのディーラー網を築き、販売の神様と言われた神谷正太郎氏の本ですら同様。そこには、カンバンやカイゼンのような独自の仕組みなど一切ありませんでした。至って普通なのです。

「営業のトヨタ」の秘密を見つけようと意気込んでいただけに、がっかりしました。ただ、結果として、この十冊ばかりのつまらない本が、大発見を導いてくれました。トップ・ブランドを築いたトヨタの営業とは、普通のことを、どれだけ徹底的にやれるか、ということだったのではないかということです。後日、トヨタ自販出身のグループ幹部に、自販の何が凄かったのか、と聞いてみました。少し考えた末の答えは「特にない。ただ、活気だけはあったな」というものでした。

昔々、飲み会の余興として「自分が経験した凄い営業」コンテストをやりました。その夜、一等賞になったのは、カー・ディーラーの営業担当者の話。その人は、判で押したように半年に一度自宅に来る、そして判で押したように同じ事を言って帰る、というのです。それは「あなたは本当にいい車を買いました。大事に乗ってあげてください」というものでした。ディーラーは、新車への乗り換えで成績が立ちます。にも関わらず、乗り続けろ、と言うのですから、もう、その担当者以外から車を買うことなど考えられません。
”販売の神様”神谷正太郎  出典:JAHFA


2020年4月14日火曜日

ファンク

絵画や音楽は、それを知らない人に文章で伝えようとすれば、とても難しい作業になります。若い頃、好きな音楽は?、と聞かれ、ジャズやファンクと答えていました。あまり一般的ではなかったファンクについては、「どんな音楽?」とよく聞かれました。1拍目を強調した強いリズム、シンコペーションを効かせたベース・ライン、鋭いカッティング・ギター、延々と続くリフ、などと自分なりの理解を話しても通じるわけもなく、スマートな音楽の真逆で、泥臭く、田舎くさく、思いっきり黒っぽい音楽、と印象を語れば、余計に分からなくなります。なにせ聞いてもらうのが一番なわけです。

では、何を聞いてもらうのがいいかと言えば、やはりジェームス・ブラウンということになります。"Cold Sweat", "I got the feelin'", "Sex machine"あたり長浜のラーメン屋に近づいた時と同じくらい匂います。ところが、食べ始めると、匂いなんか気にならないわけです。ファンクは豚骨ラーメンです。そもそも黒人俗語のFunkは悪臭のこと。JBは、その音楽、あのステージ、そして存在そのものが、強烈に臭いわけです。それは、えらく原始的な匂いで、まるで人間が初めて音楽に出会った時の匂いだとも言えそうです。

60年代にJBが口火を切ったファンクは、70年前後で、大きな広がりを見せ、全盛期を迎えます。その頂点に立ったのは、天才スライ・ストーン率いるスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンでした。黒人・白人の混成バンドでしたが、おりしも高まりを見せていたブラック・パワー・ムーブメントと重なり、コンサートは常に暴動レベルの盛り上がり。騒乱の扇動容疑でFBIにつきまとわれるほどでした。その扇動ぶりは、ウッドストックの記録映画で見ることができます。猛スピードでファンクを追求していったスライは、73年、アルバム「Fresh」で頂点を極めます。余計なものをそぎ落とした、まるで墨絵のようなファンクでした。


思えば、そこでスライは神の領域に踏み込んでしまったのでしょうね。以降、転落の人生が始まります。10年ほど前、青山のブルーノートで、ルーファスのライブに客演したスライを生で見ました。大ヒット曲「ハイヤー」では、客席に降りて、皆と大合唱。私も、意外と小柄だったスライと肩を組み、歌わせてもらいました。紛れもなく、私の人生最高の瞬間の一つでした。
                                                                                              
出典:Amazon                  

南島余韻

音楽や絵画は、煎じ詰めれば、好きか嫌いか、それにつきると思います。私が好きな画家は、ラファエロ、ベラスケス、マティスの三人。他に、好きな絵となれば山ほど、気になる画家も大勢います。その中の一人に、琉球の名渡山愛順がいます。

                                 出典:Mikuniうちなぁ

名渡山愛順は、1906年、那覇の琉球かすりの問屋に生まれます。東京美術学校(現芸大)では、黒田清輝の弟子和田英作に師事。明治洋画壇の主流派と言えます。卒業後は、那覇を拠点に活動。琉球の伝統を踏まえた作画だけではなく、琉球文化の保全活動にも尽力した沖縄画壇の重鎮です。

愛順の筆には、油の質量を感じさせる安定感があるものの、構図には、多くの場合、ごく微妙な不安定感があります。点数の多い婦人像には、なまめかしい、独特なリアルさがありますが、その表情には、あきらめにも似た無関心さのようなものがいつも漂っています。どこか琉球の歴史と現状を体現しているように見えてしまいます。

昨年10月の首里城炎上には驚きました。首里城は、ただの観光名所ではありません。沖縄が、かつて琉球王国という独立国家であったことの象徴です。首里城は再建されなければなりません。再建に際しては、明治政府がつけた沖縄という名称、県という枠組を捨て、例えば「うちなぁ特別行政区」として、より独立性の高い存在をめざすべきではないか、とも思います。加えて言えば、早々に名渡山愛順美術館も開設すべきかと思います。

2020年4月13日月曜日

チカーノという文化

1959年2月3日は「音楽の死んだ日」。バディ・ホリー、ビッグ・ボッパー、そしてデビュー間もない17歳のリッチー・ヴァレンスが、飛行機事故で亡くなりました。リッチーの死後、2枚目のシングル「ドナ」は全米2位まで上昇。カップリングされた「ラ・バンバ」も22位につけます。これが、スペイン語で歌われた曲としては、全米初のヒットだったそうです。

当時のヒスパニックの人口は700万人程度。その後、増加を続け、80年代末には3,000万人程度に達します。87年に公開されたリッチーの伝記映画「ラ★バンバ」の同名主題歌は、全米ナンバーワンに輝きます。近年、ヒスパニック人口は5,000万を超え、人口の20%を占めるに至っています。今年の大統領選、民主党の候補者であったカーマラ・ハリス女史は、ジャマイカとインド移民の娘。ヒスパニックの票を集めて。大躍進するかと思っていました。結果は、早々の撤退宣言。ヒスパニックと言っても、母国は多岐にわたり、政治的統一性など存在しないわけです。最大勢力は、6割を占めると言われるメキシコ系です、

メキシコ系アメリカ人はチカーノと呼ばれます。カリフォルニア州では、人口の4割を占めると言われます。永らく低賃金労働者として抑圧され、地位向上を目指す運動がなかったわけではありませんが、大きなうねりを生むには至っていません。その理由は定かではありませんが、一つには、差別は存在しても白人社会への同化が一定程度進んだこと、そして今一つは、都市部貧困層を支配する麻薬とギャングスタの存在が大きいのではないかと思います。

チカーノ・カルチャーと言っても、これといった独自性を感じさせるものではなく、メキシコ風というだけだったように思います。ただ、ここ20年くらい、ファッション、ヒップホップ、タトゥー、ローライダーといったあたりで強烈に個性を主張し始めた印象があります。その母体はギャングスタであり、ナルコ・マネーです。メキシコの麻薬王ガジャルドによるファミリーの分割、コロンビアのメデジン・カルテルの崩壊等によって、アメリカへの麻薬供給の中心はメキシコへと移ります。チカーノ・カルチャーの勃興は、まさにこれと軌を一にしているように思います。


Netflixで、昨年は「チカーノになった日本人」、今年は「LA発オリジナルズ」とチカーノ文化を伝えるドキュメンタリーが公開されました。ギャングスタたちの家族愛と友情の深さ、エッジの効いたファッションや音楽の格好良さもさることながら、それ以上に、明日がまったく見えない青春の絶望感が重く、重くのしかかります。

                          出典:https://www.last.fm/


MTR社のレトルト

プラプラと遊び歩くのが身上とは言え、コロナ自粛下では、自宅で読書か、ネット配信の映画が中心の生活。他には、家の片付け、そして食事が気晴らしになっています。料理もするのですが、ここのところ、インドMTR社のレトルト食品をよく食べています。


MTR社は、百年近く前にバンガロールでレストランとしてスタート。海外で働くインド人のためにレトルト食品を作り始め、今では20種類以上の料理を提供しています。どれも美味しく、量もたっぷり、しかも安価。サラダとパパドをお供に食べれば、夕食として十分成立します。インド人のためのレトルト食品なので、基本ベジタリアンです。一昨年、インドへ行った際、食事が口に合い、かつ体の調子がとても良かったのですが、スパイスの効果に加え、野菜中心の食事だったことが良かったのでしょう。
出典:Flipkart

MTR社のレトルト食品は、葛西のSwagat Indian Bazaarでまとめ買いします。ネットでも購入できますが、手作りのグラブ・ジャムーンやチャイ用CTC茶葉なども目当てに、利用させてもらっています。グラブ・ジャムーンは、世界一甘いデザートとも言われますが、丸いドーナッツをシロップで煮込んだような代物。レンジで温めて食べれば、クセになること間違いなしです。この前、Swagatへ行った時には、小さな店がインド人で大混雑。皆、大量の買物。ご主人が言うには「インド人も、コロナ怖い。」それはそうだわな。


インド滞在中、一番美味しかった食事は、ジャンシ-からアグラまでの混み合った特急列車で出された夕食。飛行機のように座席まで運ばれる暖かい食事は、2種類の辛い料理にナンやデザートがついていました。うまい、うまいと騒いでいたら、インド人ガイドから、あんたはインド人だ、と言われました。MTR社のレトルト食品は、列車で食べた夕食を思い出させてくれます。

2020年4月12日日曜日

残日ということ

日残りて昏るるに未だ遠し・・・藤沢周平「三屋清左衛門残日録」


定年を迎えれば、老いと重なり、誰もが様々な不安と向き合うことになります。老後をエンジョイしている方々であっても、人生を悟ったがごとき方々でも同じです。死と同じく老後も万民に平等だからです。ただ、私の場合、今日も会社に行かなくていいんだぁ、という喜びの方が不安に勝っています。こんな感情は、ビールの泡と同じで、そのうち消えていくのでしょうが、とりあえずうれしいわけです。振り返れば、私は、人生のほとんどの時間を仕事に費やしてきました。会社勤めをしている間には出来なかったことをやれる時間を得たことがとてもうれしいのです。と言っても大層なことをするわけでもありません。本を読む、映画を見る、美術館に行く、音楽や古典芸能を楽しむ、旅に出る、食事を堪能する等々。これが私の日々。日々、思ったこと、大好きな話などを書いていきます。これが私の残日録です。何の役にもたちませんが、それも老人の特権かもしれません。強いて言えば、朝礼のネタくらいにはなるかも知れません。

夜行バス