2020年4月27日月曜日

木鶏

年に三度、国技館で相撲を観戦し、「巴潟」で塩ちゃんこをいただく。これが私の楽しみの一つ。相撲はTVに限ると言う人もいます。ただ、TVでは、結果は伝わっても、館内の興奮は伝わりません。まさに土俵と客席が一体化しているのが大相撲であり、国技館だと思います。今の両国国技館は二代目ですが、初代国技館が最も沸いた日は、1939年1月15日と相場が決まっています。双葉山の連勝記録が69で止まった日です。

不世出の大横綱・双葉山は、右目が失明状態であることを隠して入門。その弱点を克服すべく、鬼のように稽古をしたそうです。しかし、真っ正直な取り口ゆえ、あまり注目される力士ではなかったようです。ところが、蓄膿症の手術をすると、体も大きくなり、力もつけ、ついに連勝街道に乗ります。相手の立ち会いを見定めてから自分に有利な態勢に持ち込む「後の先」は双葉山の代名詞。右目の不利をカバーするための立ち会いでもありますが、そこから繰り出す上手投げは無敵。腕ではなく、漁師時代に鍛えた強い肩を使い、押さえつけるように投げたと言われます。

打倒双葉に燃える出羽一門は、右目が見えないことに気づいており、この日、安藝ノ海も右から攻め、ついに外掛けで双葉を倒します。館内は大騒ぎ、座布団どころか、酒瓶、やかん、果ては下駄まで飛んだと言います。その夜、双葉山は、郷里の先輩である思想家・安岡正篤宛に有名な電報を打ちます。「われ未だ木鶏たりえず。」かつて安岡から伝授された木鶏の話は、列士・荘子が原典の闘鶏の話でした。闘鶏は、相手を見て、空威張り、興奮、威圧するようではまだ未熟、木彫りの鶏の如く動じなくなれば、徳が全うし、他を寄せ付けない。

後に理事長となった双葉山は、周年行事の挨拶で土俵に上がります。係の人が読み上げ原稿を忘れ、取りに戻ります。その間、理事長は微動だにしない。館内は失笑とヤジであふれます。それでも理事長は動かない。すると館内は静まりかえり、やがて割れんばかりの大拍手が館内を包んだと聞きます。皆、木鶏を忘れていませんでした。
写真出典:Wikipedia



マクア渓谷