京都で「先の戦」と言えば「応仁の乱」のこと、とは有名な話です。日本の歴史の分水嶺とも言われる応仁の乱は、京都を中心に11年間も続きます。京都は、すっかり焼け野原になったと言います。山名宗全は、堀川の西側に陣を敷きました。戦後、避難していた織物職人がその地に集まったことから、日本を代表する織物「西陣織」の名が生まれます。
天保年間創業の川島織物(現川島織物セルコン)は、西陣を代表する織屋の一つ。明治の世になり、いち早く室内装飾分野にも進出します。皇居の綴織壁掛、あるいは劇場の緞帳の多くは、川島織物の作品です。川島織物の本社は、現在、鞍馬に近い山間にあります。敷地内には、古今東西の貴重な織物を展示する「川島織物文化館」が併設されています。その入口を入ると、まず目に飛び込むのが、巨大な織りかけの綴織。それには、川島織物の物作りの精神を表す「断機の訓え」というエピソードがありました。
大正時代、宮内省から明治宮殿用の壁掛の依頼が入ります。下絵や試し織りに5年をかけ、正式発注を受けます。折しも欧州は第一次世界大戦中。当時、世界最高峰と言われたドイツの染料も入手困難となっていました。代替品も使いながら、何とか1年ほど織り進めると、ごくわずかな退色が見つかります。職人たちは、問題なしとして、織り進める判断をします。しかし、真夜中、三代目未亡人の絹子は、一人で織場に入り、涙ながらに経糸(たていと)を切り落とします。経糸が切断されれば、織物は終わりです。

川島織物製作歌舞伎座緞帳 出典:LIXIL