2022年4月30日土曜日

茶の湯

千玄室大宗匠
大学生の頃、社会に出てから、茶の湯の一つも飲めないようでは恥ずかしい、と父親に言われ、遠州流の師範だった親戚の茶室で、にわか稽古をしたことがあります。言われたことを言われた通りにやっただけの半日でした。まったく興味がわかなかったので、それっきりになりました。当然ながら、何一つ覚えていません。後に、高級料亭などで、茶の湯を振る舞われた際、あの時、もう少し稽古しておけば良かったな、とは思いました。さはさりながら、近年のビジネス・シーンで茶の湯を頂くことなどありません。また、プライベートでも、そのような付き合いはありません。出されたら、一言「不調法でございます」と添えて、真似事をしておけば済むとも言えます。

お茶は、遣唐使たちが中国からもたらしたとされます。当時は、蒸して固めた団茶ばかりだったので、”茶色”という言葉も生まれます。また、貴重品であったこともあり、しばらくは薬として扱われていたようです。日本に喫茶の習慣を持ち込んだのは、臨済宗開祖の栄西だとされます。鎌倉時代のことです。お茶の木の栽培も始め、製法も確立しました。ここでお茶と禅との関係ができあがるわけです。生死をかけて戦う武士たちにとって、禅は、またとない精神修養となります。お茶も同様、ひとときの安らぎをもたらし、平常心を養うことにつながりました。ひとたび武士階級に喫茶の習慣が普及すると、茶会が開かれるようになります。覇権を争う時代にあって、茶会は、茶葉、道具をひけらかす場として、派手さを増し、闘茶なども行われるようになります。

そうした傾向に対するアンチテーゼとして”佗茶”が生まれます。室町時代の浄土宗の僧侶村田珠光が、佗茶の創始者とされています。珠光は、奈良の田舎に庵を組み、訪れる人を茶でもてなしたそうです。とは言え、当時流行していた唐物といわれる豪華な輸入ものの茶器を使うのではなく、欠けた茶碗や質素な竹柄杓などで茶を点てました。珠光は「心の師とはなれ、心を師とせされ」という言葉を残しています。茶の湯は、己の心を導くものであり、己の我執の心に従うべきものではない、といった意味でしょうか。浄土宗の祖とも言われる恵心の「往生要集」が原典とされますが、茶道の精神を端的に伝える言葉のように思えます。珠光の佗茶を大成させたのが千利休ということになります。興味深いことに、利休は、一切書物を残していません。その人となりや点前は、周囲の人たちが書き残したものに依るばかりと聞きます。

利休の佗茶は、武士の間に広まり、茶人たちは大名等の庇護を受けます。江戸期に入ると、町人たちの間にも茶の湯が広がっていきます。その受け皿となったのが、町方の出身であった千家でした。表、裏、江戸の三千家の他に遠州流、織部流なども、大量の入門者をさばくために家元制度を創設し、また稽古法としての七事式なども考案されました。商人たちの間で、様々な芸事を楽しむ遊芸が流行しますが、茶の湯も、その一つとなったわけです。一方で、利休の教えを守ろうとする流れもあり、茶の湯の心得とされる「和敬清寂」という言葉も生まれます。明治期に至り、大名の庇護を失った茶の湯は、廃れかけますが、主に女子の礼儀作法として広まっていきます。日本文化を体現する総合文化という位置づけは、戦後形成されたものだと聞きます。

「和敬清寂」はいい言葉だと思います。亭主と客が、和して、互いを敬う。その時と場を生む茶室や茶器は静寂を旨とする、ということなのでしょう。作法に身を委ね、静かな心を得るという考え方も理解できます。余談ですが、企業のトップを勤めた方が亡くなると「お別れの会」がホテル等で開かれます。東京では昼の立食パーティです。京都では随分異なります。全てではないかもしれませんが、私が参列した会は、着席、指名献花方式でした。最も驚いたのが、会の冒頭に行われた千玄室大宗匠による献茶でした。そのてらいも力みもなく、自然で流れるようなお手前には、神々しさすら感じました。達人の凄みとともに、京都企業の奥深さも感じた次第です。(写真出典:news-postseven.com)

2022年4月29日金曜日

ロシア・チョコ

マツヤのロシア・チョコ
プーチンによるウクライナ侵攻後、東京のロシア料理店が苦境に立たされていると聞きました。何の関係もない、風評被害の一例なのでしょう。少し心配なのは、新潟の「マツヤ」のことです。恐らく、日本で唯一のロシア・チョコ専門店です。ロシア・チョコ、あるいはロシアン・チョコは、ロシア製のチョコレートという意味もありますが、乾燥した果実やゼリー等をチョコレートでコーティングしたお菓子のことです。世界中にありそうなお菓子ですが、なぜかロシア・チョコと呼ばれます。私の大好物の一つです。マツヤの初代は、ロシア人から技法を学んだようですが、現在の三代目も同じ製法を守っているとのことです。

新潟に赴任していた際、近くにマツヤがあったこともあり、よくギフトに使いました。買い物すると、一つ味見をさせてくれます。これが美味しいものですから、結局、ギフトだけではなく、自分用も選ぶことになります。マツヤは、常時、10種類くらいのロシア・チョコを揃えていました。私のお気に入りは、イチジク、リンゴ、プラムといったところですが、多少酸味のある果実とチョコレートの相性が良いように思います。また、噛んだ時の食感も、ロシア・チョコの魅力だと思っています。当時、ギフトは、マトリョーシカの絵を貼った塩ビの筒に入れていました。安っぽいともレトロとも言えますが、それはそれで味がありました。さすがに、最近はマトリョーシカ型の紙箱を使っているようです。

ロシア・チョコのルーツを探ると、アレクセイ・アブリコソフという名前に行き着きます。アレクセイは、1824年、菓子業を営む家に生まれます。父親の代に店は倒産、アレクセイは苦学して会計士になります。後に、裕福な妻の実家の助けもあり、アレクセイは家業の菓子業を復興し、次々とヒット商品を生み出します。当時、ドライ・フルーツをチョコでコーティングした商品は、フランスから輸入されていました。その製造技術を得たアレクセイは、同業者を出し抜くために、黒海沿岸に秘密工場を建て、生産に入ります。この作戦は大成功します。もちろん他社も同様の商品を発売しますが、アレクセイには追いつきません。アレクセイは、ロシア皇室御用達の菓子舗に認定されます。

ドライ・フルーツをチョコでコーティングした菓子の発祥は、ロシアではなさそうです。ただ、それがロシアで大いに愛されたことから、ロシア・チョコと呼ばれるようになったのでしょう。ロシアでは、チョコレートは貴重品だったはずです。ソリッド・タイプのチョコ・バーよりも、使用するチョコが少なくて済むコーティング・タイプは、価格を抑えるためにも有効だったのでしょう。革命後、ソヴィエトでは、安価な質の悪いチョコレートが大量生産されるようになります。しかし、慢性的な物不足から、チョコレートの生産も滞り、むしろ少量の高品質なチョコレートが生産されたようです。それらは、新しい貴族とも言える高級幹部用の嗜好品となりました。

ソヴィエト時代、チョコレートは「第二の通貨」とも呼ばれていたそうです。一党独裁下の官僚社会では、賄賂が常態化していくものです。金銭を贈ったことがバレると、厳しく罰せられます。ただ、高級チョコレートであれば、単なるギフトと言い訳することが出来ます。こうして貴重な高級チョコレートが、第二の通貨として流通していったというわけです。その際、ロシア・チョコも使われたかどうかは定かではありません。(写真出典:things-niigata.jp)

2022年4月28日木曜日

三英傑

名古屋まつり
名古屋は、日本のものづくりの中心地ですが、首都圏と関西に挟まれているせいか、その文化や気質は、今一つ知られていないところがあります。名古屋の人は、よく「名古屋は大きな田舎です」と言います。もちろん、そう言われたら、必ず否定しなければいけません。賛同すれば、名古屋人のプライドを傷つけることになります。ただ、文化や気質の知名度という点では、当たっている面もあります。名古屋に住んで、初めて知ることは多いのですが、その一つが「三英傑」という言葉です。英傑の意味は分かりますし、三英傑とは誰を指すのかも容易に理解できます。ただ、名古屋以外では、全く馴染みの無い言葉です。他では聞かない言い方だと伝えると、名古屋の人は、皆一様に驚きます。

三英傑とは、言うまでもなく、尾張の織田信長と豊臣秀吉、三河の徳川家康のことです。戦国時代を代表する三人の武将は、すべて愛知県の出身というわけです。江戸期まで尾張と三河は別な国であり、かつ英傑という言葉からして、明治以降に作られた概念であることは明らかです。廃藩置県で一つの県となった尾張と三河を団結させ、東京、大阪に対抗できる勢力を築こうという意思を感じさせます。明治期の殖産興業政策は、政府主導で進められます。尾張徳川家は、戊辰戦争の際、官軍として参戦しているものの、徳川御三家である以上、薩長政権とは距離があったはずです。明治の大財閥は、政府と結託して生まれますが、名古屋からは誕生していません。政府の援助を期待できない以上、名古屋は、自らの資本と努力で殖産興業を進めるしかなかったわけです。

気質も異なる尾張と三河は、互いに対抗する意識が強かったと言われます。それどころか、今でも、決して仲良しではありません。世界のトヨタは、愛知県を代表する大企業です。一方、尾張の名古屋市は、歴史的にも、規模的にも日本を代表する大都市です。名古屋の老人たちに、豊田市と言うと、必ず「ああ、挙母(ころも)ね」という言葉が返ってくると言われます。挙母は、トヨタが本社を置くまでは、三河の片田舎の小さな城下町でした。尾張の人たちからすれば、三河の田舎ものが、何を偉そうにしているか、ということなのでしょう。一方、三河のプライドの高さは、岡崎市中心部にある”康生通り”という地名からもよく分かります。 康生とは、家康が生まれたところ、という意味です。

いずれにしても、愛知県としての団結は、自然と生み出されるはずもなかったわけです。三英傑という概念で、県を一つにまとめるというアイデアは、実に見事な着想だったと思います。廃藩置県後、日本各地では、同じような苦労がありました。例えば、昭和54年まで分県運動が行われていた長野県では、県民の歌「信濃の国」が作られ、学校で徹底されました。今でも、長野県民は、皆、「信濃の国」を歌えます。毎年10月に開催される「名古屋まつり」のハイライトは、昭和30年に始まった郷土英傑行列です。三英傑が、三姫と武者たちを引き連れて行列します。三英傑役は、一般公募されます。三姫とは、濃姫、ねね、千姫のことですが、各デパートの店員から選ばれる習わしです。一度、見に行きましたが、大層立派な武者行列です。200万人という見物客を集める大イベントであり、名古屋のプライドを感じさせます。

今の名古屋で、御三家と呼ばれるのは、トヨタ、JR東海、中部電力です。御三家とは、新興財閥を指します。もともと名古屋には、五摂家という言葉があります。伊藤家の松坂屋、名古屋鉄道、東海銀行に、中部電力と東邦ガスを加えた五社を指しました。五摂家を中心に、江戸時代から続く20ばかりの名門が、名古屋財界を動かしてきました。名古屋出身の城山三郎が、1956年、本名の杉浦英一名義で出版した「創意に生きる~中京財界史」は、幕末から1950年代半ばまでの名古屋財界の軌跡を、克明に記載しています。名古屋財界は、尾張徳川藩の枠組みを活かしながら発展してきたと言えるのかも知れません。(写真出典:lifestylemarket.jp)

2022年4月27日水曜日

ホワイト・ホット

A&Fの紙袋
NY郊外に住んでいた頃、衣類の安売屋で、トミー・ヒルフィガーの黄色いワーク・シャツを買いました。5ドルくらいだったと記憶します。トミー・ヒルフィガーは、まだブランドを立ち上げたばかりの頃でした。そのシャツは、恐らくサンプル品か、倒産した衣料販売店から仕入れたバッタものだったのでしょう。ところが、かなりしっかりとした作りで、大きめのサイズだったこともあり、その後、30年間、愛用しました。他にも、30年以上着ている服が、いくつかあります。サイズが変わらず、毎日着るものでなければ、作りのいいブランド衣類はかなり長持ちするものです。

トミー・ヒルフィガーは、ラルフ・ローレンに次ぐアメリカン・カジュアルのトップ・ブランドですが、トミーよりも、さらにターゲットを絞り込んだカジュアル・ブランドに、一世を風靡したアバクロンビー&フィッチがあります。1990年代後半~2010年頃は、異常なほどの人気でした。私は、ターゲット外でもあり、何の興味もありませんでした。デザイン的には、大きめのロゴやTシャツの過激な文章が目立つ程度で、特に変わったものではありませんでした。ただ、マーケティング、特に広報戦略がエッジの効いたものでした。有名人たちが着はじめると、大ブームになりました。端的に言えば、白人のイケメンでイケてる大学生のイメージです。意図的にゲイっぽいイメージもにじませていました。

ところが、2000年代後半に入ると、その”ホワイト・ホット”と呼ばれる排他的なマーケティング戦略が、人種差別的との批判が起こり、特に人事や採用関係では訴訟問題にまでなります。2014年、経営トップだったマイク・ジェフリーズの解任とともに、人気は急落しました。ターゲットを特定するところからマーケティングは始まります。もっと言えば、ターゲットさえ明確化できれば、そのマーケティング戦略は、6割方成功とも言えます。そういう意味では、アバクロンビー&フィッチのマーケティング戦略は、見事でした。ただし、広告素材等のイメージングまではいいとしても、経営や人事まで”ホワイト・ホット”に染め上げたところが大問題でした。さらに言えば、カリスマ経営者になったマイク・ジェフリーズのチェック機能なき独裁体制こそ問題だったのでしょう。

Netflixのオリジナル・ドキュメンタリー「ホワイト・ホット~アバクロンビー&フィッチの盛衰」を見ました。元従業員、識者へのインタビューを中心に構成されています。最近のNetflixのドキュメンタリーが多用している構成です。現場で何が起きていたかを知り、問題の概要を理解するためには、良い手法であり、コストも、時間もかかりません。ただし、問題の本質に切り込んでいくドキュメンタリー作家たちの訴求性には、及びもつきません。つまり、有色人種を採用しなかったことはよくないよね、で終わっているわけです。何故、それが起きたのか、マイク・ジェフリーズ個人の問題なのか、アパレル産業や社会の問題なのか、また二度と起きないようにするためには、何が必要なのか、といった視点に欠けています。

マーケティングにおけるターゲットの絞り込みと排他性の強い広告戦略は、微妙な関係にあります。単純に言えば、排他性が強いほど、ターゲットへの訴求は深度を増すと言えます。ただし、ターゲット以外の人々に対して、攻撃的であったり、不快感を与えれば、社会的に批判されることになります。あくまでも広告宣伝は、公共性を有すると理解すべきなのでしょう。ネットの警告付きのサイトなどは、微妙なところですが、それでも公共性は意識すべきではないでしょうか。(写真出典:gmcanantnag.net)

2022年4月26日火曜日

楚辺そば

楚辺そば
沖縄では、そばとぜんざいを商えば食いっぱぐれが無い、と言われるそうです。沖縄には、無数に沖縄そば店があります。観光客目当てもあるでしょうが、やはり、沖縄の人たちは沖縄そばをよく食べるということなのでしょう。ちなみに、ぜんざいとは、金時豆のかき氷のことです。わたしは、30年前、58号線沿いの大きな店で、初めて沖縄そばを食べました。店名は「なかむら」だったと思うのですが、現在の建屋が記憶と違います。30年も経てば、色んなこともあって、今の佇まいになっているのかも知れません。いずれにしても、とても美味しくて、一発でファンになりました。

以来、沖縄に行く都度、様々な店で食べてきました。沖縄そばが好きだと言うと、沖縄の人たちが、あそこへ行け、ここがうまいと、教えてくれました。沖縄そばは、店によって味が大きく異なります。出汁の違い、麺の打ち方の違い、ソーキ等の味付けが千差万別であり、そこが、また面白いと思います。しばらくは”首里そば”が気に入って通っていました。民芸風にしつらえた室内でいただく、バランスの良い上品な沖縄そばです。クリアなスープと歯切れの良い麺は、飽きのこない味だと思います。また、炊き込みご飯の”じゅーしー”も、あっさり系で美味しくいただけます。行列店ですが、並ぶ価値はあります。問題は、駐車場です。首里という土地柄、近くに駐車場がなくて、やや難儀します。

近年、一番のお気に入りは”楚辺そば”です。数年前、地元の人から聞いて行った店です。やはりバランスの良い出汁ですが、首里そばよりも庶民的で、力強さを感じます。麺は細麺。沖縄そばに限らず、私は細麺派なので、まさにストライクでした。力強さを感じるのは、恐らく油分が多いからなのだと思いますが、それが食べ応えにもつながります。古民家を使った店ですが、今風に改装したものではなく、まるで居抜き状態。かつての那覇の庶民の生活を偲ばせて趣きがあります。ただし、楚辺そばは、アクセスが難関です。都心にあるのですが、やや高台になるせいか、開発が遅れた住宅地のなかにあります。まったく人に説明できません。初めて行った際、レンタカーを使ったのですが、たどりつけたのは、本当に奇跡だと思いました。

沖縄そばは、明治末期頃に誕生したようです。中国人が中華そば屋を開店します。高価なものだったようです。そこで修行した比嘉さんという人が独立し、通称「ベェーラー」そば屋を開業します。この店は、地元の味と庶民価格で人気を博します。これが沖縄そばの起源だと言われます。麺は、小麦粉100%、伝統的にはかん水を使わず木灰を使います。例えば、首里そばは、木灰そばが売りです。出汁は、豚と鰹のダブルスープが基本ですが、この割合によって店の味が大きく異なってきます。具材としてはソーキが有名ですが、これは1967年に名護の我部祖河食堂が始めて出したとされます。また、沖縄そばには、島唐辛子を泡盛に漬け込んだコーレグースも欠かせません。

沖縄そばという名称については、本土復帰後、一悶着ありました。公取委が、そば粉を使っていないので”そば”とは呼べないと指摘します。県民の粘り強い折衝の結果、78年に至り、公取委が沖縄そばを公認しました。沖縄の人々の沖縄そばへの愛情を感じさせる話です。もう一つ、県民の愛情を感じさせると思うことがあります。生蕎麦、うどん、ラーメンは、そのバリエーションの豊富さも特徴的ですが、沖縄そばには、さほどのバリエーションは存在しません。伝統の味、一本槍です。沖縄の気候、風土、生活等に、実にマッチした食べ物ゆえに、バリエーションを広げる必要性がなかったのかも知れません。(写真出典:tripadvisor.com)

2022年4月25日月曜日

「アパルーサの決闘」

監督:エド・ハリス       2008年アメリカ(日本未公開)

☆☆☆

(ネタバレ注意)

エド・ハリスは、大好きな俳優です。アメリカらしさを感じさせる貴重なバイ・プレーヤーだと思います。高校時代はフットボール選手として鳴らし、その後、舞台からTV、そして映画へと移った俳優ですが、実に長いキャリアを持っています。「アポロ13号」や「トゥルーマン・ショー」でアカデミー助演男優賞にノミネートされたこともあります。「アパルーサ」は、ロバート・B・パーカーの原作をもとに、エド・ハリスが製作・監督・脚本・主演をこなした西部劇です。アパルーサは、欧州原産、アメリカで改良された斑点のある丈夫な馬です。パルース川沿いでネズパース族が育てたことからアルパーサと呼ばれるようになったようです。映画では、象徴的に町の名前として使われています。

ガンマンであるヴァージルとエヴェレットは、東部から流れてきたギャングに脅かされるアパルーサの町で、保安官として雇われます。そこへ美しく魅力的な未亡人アリソンが流れ着き、ヴァージルといい仲になります。ヴァージルとエヴェレットは、ギャングを捕らえ、裁判にかけます。絞首刑が決まったギャングは、密かにガンマンを雇います。アリソンを人質にとったガンマンは、移送中のギャングを奪います。追跡したヴァージルとエヴェレットは、ガンマンを倒しますが、ギャングを取り逃します。大統領恩赦を得たギャングは、金持ちになって町に戻ります。アリソンは、羽振りのいいギャングになびきますが、ヴァージルはアリソンと所帯を持ちたがります。エヴェレットは、ギャングと決闘して倒し、一人で町を去ります。

スペンサー・シリーズで知られるロバート・B・パーカーですが、さすがに、本作もただの西部劇ではありません。しっかりとした構図が面白い西部劇になっています。やや図式的な印象もあります。ヴァージルとエヴェレットは、アメリカ西部の象徴そのものであり、その時々の強い男になびくアリソンは、アメリカの大衆なのでしょう。暴力にまみれたアメリカ西部(ヴァージル)は、浮気性は承知の上で大衆(アリソン)に沿う、つまり民主主義を選択する。それを阻害する東部エスタブリッシュメントの植民地主義(ギャング)を排除するのも西部の暴力(エヴァレット)だが、暴力はそれを最後に終わる、ということでしょうか。本作は、ワイルド・ウェストと呼ばれる暴力にまみれた西部開拓史を、歴史上、通るべき道だったと肯定しているのでしょう。

クールで信義に厚いガンマン・エヴェレットを演じたヴィゴ・モーテンセンは、いい味を出しています。この人を見ると、どうしても「ロード・オブ・ザ・リング」のアラゴルンを思い出してします。アリソン役には、レネー・ゼルウィガー。この人は、その表情で多くを語れる、まさに名優なのでしょう。この映画が説明的になることを防いでいるのが、まさに彼女の演技だと言えます。ギャング役は、ジェレミー・アイアンズが演じ、映画を締めています。キャストは良いのですが、エド・ハリスの演出は、やや詰め込みすぎで、方向感が曖昧になったきらいがあります。西部開拓史の挽歌として、ノスタルジックに仕上げた方が、より深みのある作品になったのではないか、と思います。

本作は、日本未公開で、ビデオ化されています。アメリカでは、そこそこヒットし、評価も高かったようですが、日本の配給会社が日本の観客向きではないと判断したのでしょう。そういう作品は、山ほどあると思われます。配給会社も、ご商売ですから、利益の出そうにない作品に投資は出来ません。当然です。ただ、ネット配信の時代になると、投資のハードルは下がるわけですから、こういう作品もどんどんアップしてもらいたいものだと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年4月24日日曜日

シティ・ポップ

山下達郎”For You”
ここ2~3年、日本のシティ・ポップが海外で注目を集めているという話があります。だいたいこの手の話は、マスコミがウケねらいで誇張したものが多いわけですが、今回は本物でした。2020年末、Spotifyの ”global viral top50”で、松原みきの”真夜中のドア~stay with me”(1980)が、18週連続第1位という異常な事態が発生します。”global viral”は、単なるヒット・チャートではなく、世界中の視聴率とSNSにおける話題性の高さから算出されます。日本人も忘れていた40年前の曲が、突然、世界的注目を集め、拡散していったわけです。続けて、杏里、竹内まりあ、山下達郎、大滝詠一など、いわゆるシティ・ポップが、海外で聞かれるようになったようです。

そもそもシティ・ポップは、その定義すらはっきりしません。1970年代末から80年代にかけて続々と登場した、都会的で、おしゃれなポップスです。それまでのヨナ抜き音階中心の歌謡曲とは一線を画し、セブンス・コードはじめ当時としては珍しいコード進行が醸し出すメローなテイストが大人っぽさを感じさせたものです。という説明も、あいまいな印象になります。ニュー・ミュージックという言葉もありましたが、シティ・ポップは、そのなかでも特に大人びたサウンドでした。当時のヒット・チャートとは無縁で、TVの歌番組への出演などもありませんでした。日本のポップスの熱心なリスナーでなかった私ですら、日本の音楽のセンスが格段に良くなった、と感じました。

当時は、高度成長期を経て、二度のオイル・ショックは経験したものの、確実に豊かさを実感できる時代になっていました。為替も1ドル360円の固定制から変動制に変わり、円高基調となりました。それに伴い海外旅行ブームや海外ブランド・ブームも起きました。吹き荒れた学生運動も、70年安保が成立したことで、急速に下火になりました。若者たちは、反体制の象徴でもあった新宿から、サブ・カルチャーの街渋谷へと移っていきました。貧乏ったらしく汗臭いフォーク・ソングのブームは、ニュー・ミュージックへと変わっていきます。若者が車を持つ時代になり、ドライブに適した音楽というニーズも生まれました。そんな時代を象徴したのが「なんとなくクリスタル」でした。一橋大学に在学中の田中康夫が、1980年に発表し、大ヒットした小説です。ちょっとお高めのレストランやブランドがふんだんに登場し、ブランド小説とも呼ばれました。

シティ・ポップが注目されているのは、主にアメリカとインドネシアだそうです。また、英国中心に、欧州では、前から、山下達郎や大滝詠一等のファンが存在していました。欧州には、絶えずワールド・ミュージックを探索している人たちがいます。例えば、私がハマっている70年代西アフリカのファンクなど、欧州のマニアたちが発掘した音源ばかりです。海外でシティ・ポップがウケる理由は、そのノスタルジックな響きだと言います。同時代を生きた我々とは、まったく異なる観点です。例えて言えば、ウォン・カーウァイ監督が「欲望の翼」で使ったロス・インディオス・タバハラスの音楽です。哀愁に満ちたラテン音楽からノスタルジックな印象を受けました。それと同じなのだろうと思います。決して、アメリカ人が、シティ・ポップは都会的でおしゃれだ、と思っているわけではありません。

荒井由実の1976年のアルバム「十四番目の月」のなかに「天気雨」というポップな曲があります。シティ・ポップ的な曲というわけではありませんが、時代をよく表わしている曲だと思います。茅ヶ崎の伝説的サーフ・ショップ「ゴッデス」へ出かけるボーイフレンドについて行く女の子の歌です。トレンディな歌詞なわけですが、「きついズックのかかとふんで」という一説があります。恐らくデッキ・シューズのことだと思いますが、スニーカーとも呼ばず、まだ”ズック”の方がすんなりくる時代でもあったわけです。(写真出典:hmv.co.jp)

2022年4月23日土曜日

玉羊羹

まりもようかん
コストコに、北海道の牧家(ぼっか)のプリンが出た時には、そのパッケージングに驚きました。ゴム風船の中にプリンを充填していたのです。北国の人間は、すぐに阿寒湖名物「まりもようかん」を思い出します。北海まりも製菓が1953年に発売した商品です。まりもに似せて、緑色に着色された羊羹をゴム風船に充填して作られます。子供の頃は、羊羹など、決して好みではありませんでしたが、”まりもようかん”だけは別でした。要は、味ではなく、爪楊枝を刺した瞬間に、風船がペロリとむける面白さにつられたわけです。かつては、道東へ旅した人の定番土産でした。現在も販売されているようですが、今となってはノスタルジックな昭和を感じさせる商品です。

ゴム風船を使った羊羹は、まりもようかんのオリジナルではありませんでした。全国的には「玉羊羹」と呼ばれ、1937年に、福島県二本松の「玉嶋屋」が発売したものが有名だったようです。玉嶋屋は、羊羹の名店として知られますが、そのルーツは、江戸後期に創業した玉屋にあります。玉屋の和菓子を気に入った二本松藩主が、亭主を江戸に派遣して羊羹作りを学ばせ、二本松羊羹が誕生しています。玉屋で修行した人が、明治初期、暖簾分けで出したのが玉嶋屋です。玉嶋屋の羊羹は、薪で炊き、竹皮に包むという当時の製法を頑なに守っています。充填式が主流となる以前の竹皮羊羹は、乾燥した砂糖が表面にバリバリと付いていたものです。それが、羊羹の乾燥を防いでもいました。

玉羊羹は、1937年、日中戦争が勃発した年に開発されています。玉嶋屋は、福島県知事と軍隊から、戦地への慰問用に、柔らかさを保った羊羹の開発を依頼されます。福島県は、連隊区が置かれる帝国陸軍の主要拠点の一つでした。ゴム風船に充填するというアイデアは、当時、既に出回っていた”アイスボンボン”を参考にしたようです。充填式にしたことで、日持ちも1ヶ月と長くなりました。当時、既にアルミ箔紙のマチ付き袋への充填機は開発されていたようです。ただ、まだ一般的ではなく、かつ高価だったので、ゴム風船が使われたのでしょう。戦前は、”日の丸羊羹”という名前で販売されていました。敗戦後は、軍国主義色を消すために、玉羊羹に改称されています。

実は、玉嶋屋も玉羊羹の発祥の店というわけではありません。1930年に、広島の扇屋が発売した”丸形柿羊羹”が始まりという説があるようです。干し柿ジャムを羊羹に練り込んだ商品だったようです。扇屋は、もみじ饅頭の老舗の一つでもありましたが、2015年に倒産しています。玉羊羹としては、新潟県小千谷市片貝の本丸池田屋の”玉花火”もあります。池田屋は、明治創業の羊羹の老舗ですが、玉花火は、近年の発売です。煙火師の多い町として知られる片貝は、1985年、直径120cmの正四尺玉の打ち上げに成功します。当時としては、世界最大の花火としてギネス・ブックにも登録されました。それを記念して作られてたのが色とりどりな玉花火だったようです。余談ですが、片貝まつりで打ち上げられる正四尺玉は、大きすぎて、たまに打ち上げに失敗するようです。

牧家のプリンは、面白いアイデアだとは思いましたが、パッケージに頼った商品なのだろうと思い、買うことはありませんでした。その後、あまり見かけなくなったので、不人気で仕入れを止めたのかと思っていました。ところが、実際には、美味しいと大評判になり、入荷すると即刻売り切れるのだそうです。どうりで見かけなくなったわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年4月22日金曜日

ステューベンのリンゴ

NYから日本への転勤が決まると、仕事仲間のアメリカ人たちから、様々、送別の品を頂戴しました。多かったのは、ステューベンとティファニーのクリスタル・ガラス製品でした。当時、フィフス・アヴェニューに店のあったステューベンのクリスタル・グラスは、アメリカを代表する工芸品であり、ギフトの大定番でした。アメリカの国章にも描かれるボールド・イーグル、あるいはNYの別名ビッグ・アップルにちなんだリンゴ等が有名です。私は、ティファニーのイーグルとステューベンのリンゴを何個かもらいましたが、クリスタル・ガラスを並べるような家でもないので、箱のまま、大切に保管してあるというのが現実です。もちろん、もらえばうれしいに決まっていますが、仕舞ってあるだけなら、お土産やギフトとは、何なのだろう、とも思います。

ステューベン・グラス・ワークスは、1903年、NY州コーニングの町でガラス工場を営むトーマス・ホークスが、英国からガラス工芸家のフレデリック・カーダーを招聘して、創業されました。社名は、コーニングの町があるステューベン郡からとられています。1918年には、世界最大のガラス・メーカーであるコーニング社の傘下に入ります。それまで芸術性の高い着色ガラスが主だった作風は、コーニング社が開発した品質の高いクリスタル・ガラスを使った現代的なデザインへと変わります。1939年のニューヨーク万国博覧会の未来館に出品されたステューベンの作品は、世界中から注目を集めることになります。1947年、エリザベス2世の結婚に際しては、米国大統領からのお祝い品としてステューベンが選ばれます。以来、ステューベンのクリスタル・ガラスは、米国大統領の公式ギフトになりました。

世界最大のガラス・メーカーであるコーニング社は、高い技術力をもって、時代のニーズに応えてきた会社だと思います。鉄道信号に始まり、白熱電球のバルブ、温度計、パイレックス、ブラウン管、光ケーブル等を市場に送りこんできました。近年は、一層、IT分野での存在感を増しているようです。ハイテク企業化の流れのなかで、2008年、コーニングは、ステューベンを、流通業者のショッテンシュテイン社に売却します。ショッテンシュテイン社は、2011年、既に利の薄い商売になっていたステューベンの廃業を決めます。商売だけを考えれば、至極当然の判断だったのでしょう。あわてたコーニング社は、ステューベンを買い戻しました。恐らく、多方面からのプレッシャーがあったものと想像できます。なにせ、大統領のギフトですからね。

近代的な工業の中から生み出された工芸品を守ることは、なかなか難しいのだろうと思います。会社経営は利益や投資だけで判断せざるを得ない面があるからです。現代では「伝統を守る」といっても、株主利益に直結しない限り、当然、否定されます。かつて存在したクリスタル・ガラス・メーカーの多くは、事業から撤退するか、事業を売却しているようです。日本を代表するメーカーだったHOYAも、既にクリスタル・ガラスからは撤退しています。健闘しているのは、古くから伝統を守ってきたブランドだけです。フランスでは16世紀創業のサン・ルイ、18世紀創業のバカラ、オーストリアでは19世紀創業のスワロフスキー、アイルランドでは18世紀創業のウォーターフォード等が挙げられます。

クリスタル・ガラスは、通常のガラス成分に、酸化鉛を加えて作ります。鉛を加えることで、透明度や屈折率が高くなるので、上質なガラス製品となります。また、鉛を加えるので、重くなり、叩くと高音で伸びのある音がします。加工がしやすいことでも知られ、日本の切子もクリスタル・ガラスをカットしたものです。ガラスの歴史は、6.000年を超えると言われます。原材料に鉛が含まれることも多く、鉛ガラス自体は古代から存在していました。ただし、計算された分量の酸化鉛を加えるクリスタル・ガラスは別ものです。その起源については諸説あるようですが、1676年、英国のジョージ・レイヴンズクロフトが、偶然、酸化鉛を混入したところ、クリスタル(水晶)と見まごうばかりに輝くガラスが生まれた、とされています。(写真出典:selectors.jp)

2022年4月21日木曜日

「The Mole」

監督: マッツ・ブリュガー  2020年デンマーク・スウェーデン・ノルウェイ・英国

☆☆☆+

昨年、映画館での上映を見逃して、残念に思っていたのですが、今回、Netflixにアップされた映画です。マッツ・ブリュガーのドキュメンタリー映画は、独特の手法で制作されます。正式な許可なく、隠しカメラ等を駆使する、いわゆる突撃型ではありますが、例えばマイケル・ムーア等と決定的に違うのは、偽装して潜入して撮影することです。真実に迫るためには手段を選ばない、とも言えますが、ただのキワモノになる恐れもあります。つまり、ドキュメンタリーが持つ客観性や真実味が失われる可能性があり、そこまでして真相に迫れなければ三流週刊誌並みの安っぽい手法だけが印象に残ることになります。

前作「誰がハマーショルドを殺したか?」は、衝撃を与えるとともに高く評価されました。1961年、コンゴ動乱の調停にむかった国連事務総長ハマーショルドの乗った飛行機が墜落します。当時から謀殺説が有力でしたが、その真相を追うドキュメンタリーでした。偽装取材によって、謎の組織の存在まで到達します。ただ、完全解明、告発までにはほど遠く、ややフラストレーションの残る映画でした。むしろドラマ化した方が良かったのではないか、とも思いました。ただ、今回の「The Mole」は、かなり危険な方法によって、北朝鮮の武器ビジネスの実態を映像として捉えています。北朝鮮の武器輸出は、よく知られた事実ですが、制裁逃れの実態が、ここまで明白に記録されたことは、まさに衝撃的です。

ブリュガーの映画を見て、北朝鮮に興味を持ったという目立たない元料理人の男が、潜入取材を引き受けます。デンマーク北朝鮮友好協会に潜入し、時間をかけて信用を得た彼は、北朝鮮に招かれ、メダルも授与されます。また、北朝鮮政府唯一のヨーロッパ人と言われるスペイン人のアレハンドロ・カロ・ディ・ベニョスの信頼を得た彼は、北朝鮮ビジネスへの投資家を探すように言われます。ブリュガーは、武器売買に興味を示す事業家役として、フランス外人部隊あがりの麻薬ディーラーをリクルートします。彼は、出獄したばかりでした。二人は、北朝鮮、ウガンダ、ヨルダン、北京等を回り、北朝鮮の武器売買スキームの奥深くへ浸透し、隠しカメラで映像を記録していきます。いかに犯罪を暴くためとは言え、制作サイドの違法性の高い行為が重ねられていきます。

実に10年という歳月をかけ、国家機関のバックアップもなく、素人がリスクを重ね、映画は撮られました。正直なところ、下手なスパイ映画どころのスリルではありません。武器売買の実態を暴いたことに加え、この実写ゆえの異様な緊張感が、この映画の評価を高めています。北朝鮮側が、やすやすとブリュガーの罠にはまったのは、長引く経済制裁のもと、ドル箱の武器輸出が不調だったという背景もあります。信頼できそうな話に、飛びつき、前のめりになったのでしょう。映像に登場した北朝鮮の役人やアレハンドロが、金正恩の怒りを買い、処刑されるのではないか、と心配になります。少なくとも、面が割れた以上、もう海外で活動することはできないと思います。

もちろん、潜入した二人とマッツ・ブリュガー監督の身の安全も気になります。元外人部隊の麻薬ディーラーは、再び闇の世界に潜ったのでしょう。元料理人は、本作がTVシリーズとして公開された後、家族ともども保護プラグラムを受けているようです。ブリュガーは、北朝鮮と友好関係にある国へ出入りしないよう警告されているとのことです。国連とEUは、この映画が明らかにした制裁破りの実態を重視するとしています。もちろん、北朝鮮は、いつも通り「事実無根のでっちあげだ」と抗議しています。アレハンドロは、彼らに付き合って遊んでやっただけだと言っているようです。ブリュガーの映画は、その危険性も含め、決して褒められる手法ではありませんが、この映画が暴いた真実と、制作サイドの勇気と根気は認めざるを得ないと思います。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2022年4月20日水曜日

鹿ヶ谷

鬼界ヶ島(硫黄島)俊寛象
能楽「俊寛」は、絶望の物語です。 もちろん、浄瑠璃や歌舞伎の「平家女護島」も同じです。いずれも「平家物語」を題材としています。1177年に起こった”鹿ケ谷の陰謀”によって捕らえられた俊寛僧都、藤原成経、平康頼は、鬼界ヶ島へ流罪となります。平清盛は、娘の徳子の安産祈願のために恩赦を行います。鬼界ヶ島にも、赦免使がやってきますが、許されたのは藤原成経と平康頼だけでした。俊寛は、泣いてすがりますが、一人島に残されます。結果的には終身流刑ということですが、希望を打ち砕くむごい仕打ちです。人間が希望に生きる動物だとすれば、ある意味、打ち首よりも厳しい絶望の刑だとも言えます。

鹿ケ谷の陰謀は、後白河法王、比叡山延暦寺、平清盛の緊迫した関係のなかで、突如、発覚した平家打倒を計る陰謀です。急速に勢力を増した平清盛は、後白河法王と政治と人事の主導権を争う関係になります。人事を巡る争いは、緊迫した関係となりますが、後白河法王の女御にして高倉天皇の母、そして清盛の正室時子の妹である平滋子(建春門院)が、うまく取り持ち、表面上の平穏が保たれていました。ただ、建春門院滋子が亡くなると、平家と院の近臣との関係は悪化し、一触即発の事態へと陥ります。ただ、後白河法王が折れる形で、一旦、危機は回避されます。そして、ちょうどその時、発生したのが白山事件です。

加賀守・藤原師高の目代(現地代理人)だった弟の師経が、領地を巡る争いから、白山にあった比叡山延暦寺の末寺を焼き払います。これに怒った比叡山の僧兵たちが、師高の処分を求めて、朝廷に強訴をかけます。後白河法王は、やむなく師高を流罪にするなどして、事態を収拾します。しかし、師高の父親で院の近臣だった西光に泣きつかれた後白河法王は、一転、強訴の張本人として天台座主の明雲を流罪にします。延暦寺の僧兵たちは、護送される明雲を奪還し、比叡山に立てこもります。後白河法王は、朝廷と都を防衛する任にあった平家に、比叡山攻撃を命じます。延暦寺を攻撃すると仏罰が下ると信じられていた時代にあっては、異例の強硬策でした。

敵対関係にあるとは言え、法王の命令には従わざるを得ません。しかし、命令に従って延暦寺を攻撃すれば、仏罰を受けて平家一門が破滅するかもしれません。清盛は、これが後白河法王による平家潰しの陰謀だと理解したはずです。ところが、攻撃開始直前の夜半に至り、突如、鹿ケ谷の陰謀が発覚。清盛は、比叡山に向かっていた兵を都に呼び戻し、素早く対処します。首謀者とされた西光は拷問され、自白後に即刻打ち首。藤原成親は流刑の後、謀殺されます。残る俊寛らは鬼界ヶ島へと流されました。清盛にとっては、後白河法王の勢力を削ぎ、西光処分で比叡山を攻撃する理由もなくなるという一石二鳥の事件でした。院の近臣たちが、鹿ケ谷に集まっていたことは事実かもしれませんが、平家打倒計画は非現実的であり、清盛のでっちあげとする説が有力です。

清盛は、当初から院の近臣である俊寛を殺すつもりだったのでしょうが、陰謀事件の処理としての体裁を保つために流罪にしたものと思われます。恩赦は行うとしても、後白河法王と近臣への牽制として、俊寛を残したとも考えられます。清盛に利用された俊寛は、歴史の大きなうねりに翻弄された人々の一人と言えます。一つの体制が制度疲労を起し、別な体制へ変わっていくという歴史の必然のなかでは、清盛と後白河とて同様なのかも知れません。清盛は、反平家の火の手があがる中、福原へ遷都し、仏罰とも言われる謎の熱病で死にます。公家政権回復を目指し、かつ清盛の迫害を受け続けた後白河ですが、最後には源平合戦で平家を滅ぼしました。しかし、その勝利の代償は,、長く続く武家政権の幕開けでした。”猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ”というわけです。(写真出典:mapple.net)

2022年4月19日火曜日

スープカレー

アジャンタのカレー
スープカレーに初めて出会ったのは、札幌の「アジャンタ」でした。1980年代半ばのことで、当時のアジャンタは、南22条にあったと記憶します。シャバシャバ系のカレーといえば、1964年創業、新宿紀伊國屋のB1にあった「モンスナック」が有名でした。私も大ファンです。今は、西口へ移転して営業中です。ただ、アジャンタのカレーは、まるで違いました。スパイシーなスープ、まるごとのチキン・レッグ、大きな野菜たちと、ぶっ飛んでいました。やみつきになって、随分と通いました。アジャンタは、1971年に喫茶店としてオープンし、名物カレーをメニューにしたのは1975年と聞きます。インドに通っていそうなピッピー風のご夫妻が経営していました。

当時は、まだスープカレーという言葉はありませんでした。単に”アジャンタのカレー”と呼ばれていました。スープカレーが、新たな札幌名物となったのは、2000年代に入ってからです。スープカレーという絶妙なネーミングがあってこそ、はじめて大ブームが起きたのだと思います。スープカレーというネーミングは、1993年に札幌の白石にオープンした「マジックスパイス」が発祥だとされます。マジックスパイスは、元祖カレースープを謳っています。ネーミングはその通りとしても、やはりアジャンタこそがスープカレーの元祖だと思います。いずれにしても、ジャンル名を付けるが、マーケティング上、いかに大切かという好事例だと思います。

もう一つ、スープカレーがヒットした要因があります。当たり前のことですが、小麦粉でとろみをつけた日本式のカレーライスが、全国隅々まで定着していたことです。スープカレーは、いわば旧体制に対する革命児としての存在を示し、新ジャンルを明確にすることができたわけです。ご飯の上に乗せるのではなく、スプーンですくったご飯をスープに浸して食べるというアジャンタ流の食べ方も、まさに革命児としてのインパクトがあり、新ジャンルを印象づけたと思います。具材のインパクトもありましたが、アジャンタのカレーは、なんといってもスープの美味しさとスパイスの使い方に特徴がありました。スープに目が行きがちですが、当時、まだ出始めだったインド式カリーに通じるスパイスの使い方が新しかったとも言えます。

アジャンタのスープは、チキンとたっぷりの野菜からとっていたと思われます。スープカレーは、なにせスープが命です。そういう意味では、美味しいスープさえあれば、スープカレーは簡単に作れるとも言えます。私は、よく鍋物の残りで作ります。おでんや豚しゃぶ、あるいはポトフの残りに、カレー粉やガラムマサラを入れ、各種スパイスで調整すれば、美味しいスープカレーになります。複数の野菜、肉、魚からとったスープは、グルタミン酸とイノシン酸が混じってコクを生み、だいたい美味しくなるものです。それでもコクが足りない場合には、少しだけウスター・ソース、とんかつソース、焼肉のタレ、あるいはシャウエッセン等のソーセージを加えます。さらに炒めたピーマンでも入れたら、立派なスープカレーになります。

昔、虎ノ門にあって、今は赤羽橋に越した蕎麦屋「志な乃」は、大好きな店の一つです。太めで短いタイプの十割そばは、今となっては貴重な存在です。志な乃ファンの多くが注文するのが”けんちん合い盛り”です。コシの強いうどんも絶品です。そして名物のけんちん汁は、他にない深い味わいを出しています。もちろん具材は根菜中心の野菜だけです。私は、昔から、志な乃のけんちん汁には、ほんの少しのカレー粉、あるいはクミンが入っているのではないかと思っています。あるいは、根菜の出すうま味とごま油が、奇跡的にうっすらとしたカレー風味を生んでいるのかも知れません。昔から、美味しいスープとカレー風味は相性が良いということです。(写真出典:tabelog.com)

2022年4月18日月曜日

中山法華経寺

法華経寺祖師堂
初詣の参拝客数ランキングで、常にトップに位置するのは明治神宮です。他の神社は、明治神宮を超えないように参拝客数を公表している、という説まであります。成田山新勝寺の第2位も、ほぼ定位置と言えます。そもそも初詣という習慣は、明治期になって、電鉄会社のキャンペーンから始まったと言われます。新勝寺の初詣は、京成電鉄が仕掛けて大成功し、今に至っています。史上、最も成功したキャンペーンの一つだと思います。江戸時代の新勝寺は、そこまで参拝者が多かったわけではないそうです。江戸近郊で最も多くの参拝客を集めていたのは、市川市にある中山法華経寺だそうです。法華経寺は、13世紀、日蓮が初めて開いた五勝具足の霊場とされます。

 五勝具足とは、授法の発初、精舎の最初、寺号の発心、本尊仏像造立の最初、説法権与の最初の五つが揃ったという意味だそうです。下総国を治めていたのは、源頼朝の蜂起に加勢し守護となった千葉氏でした。その家臣である若宮領主富木常忍、中山領主太田乗明は、幾度か迫害された日蓮を匿います。法華経寺開山にあたり、二人の依頼を受けた日蓮は、自ら立像釈迦牟尼佛を安置し、法華堂開堂供養会を営み、百日百座の説法を行ったとされます。日蓮ゆかりの法華経寺には、国宝の「立正安国論」と「観心本尊抄」が安置されています。他にも日蓮筆遺文、五重の塔、祖師堂等が重要文化財に指定されています。日蓮宗の総本山は身延山久遠寺ですが、法華経寺は、池上本門寺等と並び、大本山とされています。

また、境内には、日蓮が安置した鬼子母神を祀るお堂があります。母の看病のために安房国に帰郷した日蓮を、地頭が襲撃し、日蓮は深手を負います。いわゆる小松原の法難です。その際、日蓮を命を救ったのは鬼子母神だったとされます。法華経寺に避難した日蓮は、鬼子母神堂を建立します。参拝する江戸庶民のお目当ては、この霊験あらたかな鬼子母神だったようです。鬼子母神は、500人ともいわれる我が子を育てるエネルギーを得るために、人間の子供を食べる鬼でした。釈迦は、一計を案じ、鬼子母神の末子を隠し、必死で我が子を探す鬼子母神を諭し、改心させました。以来、鬼子母神は、仏法の守護神となります。ちなみに、江戸三大鬼子母神は、”恐れ”入谷の真源寺、雑司が谷の法明寺、そしてこの法華経寺とされます。

法華経寺で、私が、最も気になったのは、祖師堂の屋根です。入母屋造が二棟連なったような構造になっており、比翼入母屋造と呼ばれます。比翼入母屋造の建物は、岡山の吉備津神社と、この法華経寺祖師堂しかないと言われます。両者には、何らかの関係があるのかもしれないと、ネットで勇んで調べてみました。結果的には、何の関係もなく、単に構造上の類似に過ぎないようです。大きな建屋に格式の高い入母屋造の屋根を乗せると重くなりすぎるため、二つに分けたということだそうです。吉備津神社は、だんだん高くなる外陣、中陣、内陣を一つの建屋に収め、祖師堂も本殿と拝殿が一つになっています。いずれも、大型の建屋となっているわけです。大分の宇佐神宮の本殿は、切妻屋根を二つ乗せた構造になっています。このスタイルを格上げして入母屋造に進化させたのが、比翼入母屋造なのでしょう。

法華経寺には、今も荒行堂があり、毎年冬場には、100日間の荒行が行われます。全国から100名程度の僧が集まると聞きます。外界との接触を断ち、わずかな粥だけで、読経に明け暮れるという修行です。また、病気平癒のための加持祈祷も行いますが、かつては精神病を患う人のための療養院もあったようです。明治期になると医師法に反するというので、医院として独立させ、今も寺の裏手に中山病院として残っています。JR総武線の下総中山駅、京成の中山駅の先にある参道の門前町も、寂れたとは言え、残っています。最近は、若い人たちのおしゃれな店も増えつつあります。守るべきは守ったうえで、時代と共に変わっていくことは、実に日蓮的だとも思えます。(写真出典:pref.chiba.lg.jp)

2022年4月17日日曜日

ミシン

昔、各家庭には、小ぶりなテーブルほどもある足踏み式ミシンがあったものです。私の実家にあったのは、アメリカのシンガー社のものでしたが、壊れにくいというので、国産メーカーのミシンが好まれたようです。ジャノメ、ブラザー、ジューキ等がメジャーでしたが、トヨタや三菱ブランドまであったようです。1970年頃からは、足踏み式に替わって電動式が増えたようですが、同じ時期、家庭用ミシンの需要も落ちていきました。一般論としては、高度成長期を経て国民生活が豊かさを増し、アパレル産業や流通の進展もあいまって、家庭で服を縫う機会が減ったということなのでしょう。

ミシンの原理は、18世紀のイギリスやドイツで発明されたようです。それが、実用化されたのは、産業革命の真っ只中にあった19世紀のアメリカでした。特に、1850年、アイザック・シンガーが、現在とほぼ同じミシンを発明し、量産化します。それから、わずか4年後、2度目の来日となったマシュー・ペリー提督が、ミシンを将軍に献上しています。もちろん、これが日本に上陸した初のミシンであり、初めて使ったのは天璋院篤姫だったようです。明治期になると、ミシンの輸入が始まり、また国産ミシンも開発されます。大正期に入ると、ジャノメ、ブラザーなど国産ミシン・メーカーが量産を開始しています。ただ、一般化とまではいかなかったようです。恐らく、まだまだ高価なものだったのでしょう。

家庭用ミシンが普及するのは、戦後になってからです。もともと着物は、家庭で縫うものでした。そこへ洋服文化が浸透し、洋裁ブームが起きたということも背景にはあるのでしょう。また、メーカー・サイドには、軍需産業の民間転用という事情もありました。ただ、戦後、ミシンが急速に普及した背景には、経済復興を目指した輸出拡大が大きく関わっていると考えます。戦後すぐの輸出には、衣料品が大きなウェイトを占めていました。発展途上国が、はじめに取り組む輸出は衣料品と相場が決まっています。多額な設備投資が不要で、労働集約的な産業だからです。ならば、縫製工場の工業用ミシンのニーズは高まるにしても、家庭用ミシンの普及とは関係なさそうに思えます。

ところが、日本の場合、そこには家内工業の伝統を受け継ぐ内職の文化が深く関わってきます。つまり、内職を前提に、まだ高価だったはずのミシンが家庭に入っていったものと考えます。女性の働き口も限られ、工業資本も不十分だった時代、発注サイドには投資リスクも雇用リスクもなく、受注サイドは家にいながら苦しい家計を助けられるという内職は、実に現実的な選択だったのでしょう。戦後の経済復興は、江戸期に確立した家内工業の伝統によってキックオフしたと言えるかも知れません。1950年代、ニットの編機もブームとなります。扱い方が難しかったので、編物教室がセットだったようです。これとて、安価な機械ではなく、内職を前提として普及したものと考えます。

生産効率の悪い内職方式は、産業資本の蓄積、機械化の進展とあいまって、次第に消えていきます。また、女性の働き口も増えていきました。生産、流通、ともに発展し、洋服は、家で縫うものから、店で買うものになりました。ミシンと編機は、無用の長物として家庭に残ったわけです。軽工業の担い手は、工場であろうが、内職であろうが、いつも女性です。しかも、低賃金だったわけです。戦後復興に寄与した女性労働とミシンは、もっと評価、認識されていいように思います。ちなみに、近年、中古の足踏み式ミシンの需要が高まっているようです。開発途上国の縫製産業において、電気のいらないミシンは、投資を抑えることや不安定な電力供給への対応として、人気があるのだそうです。(写真出典:sewing.antiquelab.jp)

2022年4月16日土曜日

天気痛

ジムへ通うになってからというもの、一切、風邪をひかなくなりました。筋肉を増やすことで抵抗力が増す、とも聞きます。ところが、たまに、頭が重かったり、痛かったり、ということがあります。不思議なことに、熱も無ければ、他に痛いところもありません。その話を後輩にしたところ、それは天気痛ではないですか、と言われました。要するに、気圧の変化に伴う体調不良のことです。しばらく、天気の変わり目と頭痛の関係を気にしてみたところ、毎回というわけではないのですが、気圧が変化する時に頭痛が発生しやすいように思えました。聞けば、多くの人が天気痛に悩まされているようです。

天気痛などという言葉があることも知りませんでした。昔から、古傷が痛むから雨が近い、などといった話は聞いたことがあります。これも天気痛の一種なのでしょう。天気痛を知らなかった理由の一つは、これが病気とは認識されていないことにあります。要は、気圧の変化に体が反応している、いわば現象だというわけです。また、10人に1人くらいの割合で天気痛を感じる人がいるようなのですが、いずれにしても一部の人に限った話であることも理由の一つでしょう。そして”現象”がもたらす体調変化は、頭痛、倦怠感、めまい、肩こり、あるいはリュウマチといった持病の悪化など、一律ではなく、個人差が大きいことも、天気痛の認知度の低さにつながっていると思われます。

最も多い体調変化は、頭痛や倦怠感だと言われます。私の場合は、朝、起きた時に頭痛を感じ、その後、頭が重い感じが続きます。人間の体の6~7割は水分だと言われます。海水面と同様、月の満ち欠けも関係しているのか、とも思いました。ただ、その影響は微弱なようです。天気痛が発生するメカニズムは、医学的に解明されています。内耳が急激な気圧の変化を感じると、三叉神経等も刺激を受け、神経伝達物質が放出されます。すると、脳の血管が拡張するとともに炎症物質も放出され、頭痛を引き起こすということだそうです。また、自律神経のバランスが崩れ、交感神経が活発になりすぎると、痛みの神経を刺激し、頭や古傷が痛くなるとも言われます。逆に副交感神経が活発になりすぎると、倦怠感や気分の落ち込みにつながるわけです。

天気図では、等圧線の間隔が狭い場合、気圧変化が激しいということになります。低気圧の周囲で等圧線の間隔は狭くなります。つまり、天気が崩れ、風が強まると、天気痛が始まるわけです。ところが、実際には、さほどピッタリとリンクしません。そこが不思議なところでした。最近、TVで知ったのですが、天気図上での低気圧は一点で表わされるものの、実際には、さざ波のように気圧の低いところが周囲に広がっているのだそうです。気圧の急激な変化は、低気圧の接近とともに、断続的に発生しているということです。それなら、天気痛の発生と天気図の不一致は理解できます。最近は、そうした細かな気圧変化から天気痛の発生を予測するアプリも存在し、事前に身構えることも可能になっています。

天気痛の対処法として、耳を刺激する方法等が紹介されていますが、あまり効き目があるようには思えません。私は、ロキソニンを1錠だけ飲むことにしています。ただし、痛みがひどい場合に限ってです。天気痛の予報を見て、事前に服用すればいいのでしょうが、それでは鎮痛剤の飲み過ぎになってしまいます。花粉症予防のフェキソフェナジンは、実に効果的な薬です。天気痛にも、同じような薬を開発してもらえないものかと大いに期待しています。(写真出典:weather.goo.ne.jp)

2022年4月15日金曜日

独裁者とお袋の味

独裁者は、その政権末期、暗殺を恐れはじめると、お袋の味を求めるものだそうです。理解できる話です。この地位まで登り詰めた過程を振り返れば、非道なことも行い、危ない目にもあってきたはずです。ただ、子供時代は、皆、純真で、母親に守られていはずです。無邪気で、安全だった子供時代を象徴するのが、お袋の味というわけなのでしょう。アメリカの雑誌が、現代の独裁者に使えた料理人たちをインタビューした記事に載っていた話です。また、様々な虚言やごまかしで国民を欺く独裁者たちですが、だませない人たちがいるとも言います。それは医者と料理人だというわけです。

古今東西、独裁者がいなかったことなど無かったのではないでしょうか。ある意味、人々が独裁者を求めるからだ、とも言えます。独裁的な指導者はザラにいます。それは、多分に個性の問題であり、制度的な独裁制とは異なります。人々は、強いリーダーシップを求めるものであり、また、それが必要な時代もあります。その流れに乗った独裁的指導者の一部は、武力行使も含め、無理矢理、法律や政治制度を変え、独裁制を実現していきます。より強いリーダーシップを発揮できる体制こそが、国のため、国民のためになると確信しているからです。ただ、時とともに、独裁制の弊害が生じはじめると、独裁制維持のための対応が増し、国民のための独裁制は、独裁を守るための独裁になっていきます。いわば独裁の政治目的化です。

こうなると、実にタチの悪い話になってきます。国民不在の政治体制が生まれ、独裁制という仕組み自体が、それを加速していきます。独裁者の不安と不信が、恐怖政治を生むわけです。言論統制、扇動、密告制度、粛正等が発生します。一方で、国民の歓心を買うための財政を無視したばらまき、精緻に設計された個人崇拝の徹底、あるいは近臣の忠誠を確保するための縁故主義等も行われます。独裁制の末期症状の一つが、正確な情報が独裁者に届かなくなることです。近臣たちは、独裁者の意に染まない情報を伝えなくなり、場合によっては虚偽報告も生まれます。そもそも一人ないしは少人数が全てを判断する仕組みは、間違いを起こす可能性が高い代物です。そこに正確な情報や反対意見が届かなくなれば、極めて危険な状態に陥ります。

もちろん、独裁制がすべて悪ということではありません。意思決定の早さや徹底力等、組織的な効率の良さが利点としてあげられます。それに比べて、民主制の、なんと不細工で非効率的なことか。古代アテネの民主主義を築いたペリクレスは独裁的でした。共和制ローマは、二人制の執政官を、戦時に限り、独裁官に変えています。これらは、あくまでも制度内における独裁です。独裁とは、支配者と被支配者が同じ身分であることが前提となりますので、王権といった社会階級を背景とするものは除かれます。従って、独裁が発生するのは、ほぼ近世ということになります。19世紀には、貧富の格差が南米で独裁を生み、20世紀になると、ファシスト、ナチズム、共産主義等の全体主義が発生し、また軍部独裁も起こります。また戦後独立したアフリカ諸国では、部族社会と軍部が独裁へと進みます。特に、一党独裁を掲げる共産主義国家では、党の独裁が個人の独裁を生じさせる傾向があります。

公式見解はありませんが、旧ソヴィエトの独裁者スターリンは、近臣ベリヤに毒殺されたという説が有力です。独裁者の多くは、その独裁性ゆえに、民衆か近臣に殺されています。ウクライナに侵攻したプーチンは、病気のために精神障害を起こしているのではないか、という説があります。恐らく、そんなことはありません。正常な精神状態のもと、終始一貫、合理的な判断を行っていると思われます。ただし、それは独裁者自身が築いた独善的小宇宙内に限った合理性です。思うように事が展開していないことは、独裁者自身が築いた独裁体制のいびつさが生んだ結果です。プーチンのお袋の味は何なのか知りませんが、近頃、無性に、それが食べたくなっているのではないか、と想像します。(写真:チャップリンの「独裁者」出典:amazon.co.jp)

2022年4月14日木曜日

礼法

小倉藩主小笠原一族の者が、京都御所へ使いに出された際、食事を供されます。礼法で知られる小笠原家が、どのように食事するのか、公卿たちは興味津々で障子のかげから見ていたそうです。これに気づいた小笠原家の者は、いきなり汁もおかずも漬物も飯の上へかけ、さくさくと食ベ始めます。公卿たちは驚き、小笠原家の者といっても、これでは田舎の百姓にも劣ると、笑いものにします。ところが、お膳を下げて箸を洗う段になって、箸の先が二分(6ミリ)とよごれていないことに気づき、大いに関心したという話です。伊丹十三の「女たちよ」に出てくる話ですが、元は子母沢寛の「味覚極楽」のなかで小笠原伯爵談として紹介されています。小笠原流には「箸先五分、長くて一寸(1.5~3cm)」という教えがあるそうです。それが6mmともなれば、まさに宗家の技です。

小笠原流は、もとも武家故実、弓術、馬術、弓馬術(流鏑馬)の流派です。小笠原家は、甲斐国に発した豪族であり、嫡流は大名を生み、豊前小倉、肥後唐津、越前勝山の藩主となります。また、京都小笠原家は、室町幕府に仕え、有職故事の家として名を成します。有職故実とは、法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束等に関する知識です。組織が大きくなると、円滑な運営のためには、かかせない事柄です。平安時代には宮中の儀式等も確立し、有職故実を家業とする者も誕生します。分かりやすく言えば、総務部の起源のようなものだと思います。鎌倉時代になると、公家故実に関東武士の習慣を加えた武家故実が生まれます。室町幕府で重きを成した京都小笠原家は、紆余曲折を経て、徳川家康に召し抱えられ、旗本として、弓馬術や武家故実の家となります。

公家故実も武家故実も、さらには礼法も、あくまでも奥の院のものであり、一般庶民には縁遠いものでした。ただ、江戸初期、水島卜也が、江戸に小笠原流礼法の私塾を開いたことから一般化していきます。水島卜也は、小倉小笠原家の流れをくむ流派で礼法を学んだ人でした。小笠原流礼法は、江戸期を通じて広まりを見せ、出版物も種々出されています。ことに女子教育においては必須アイテムともなっていたようです。明治になると、小倉藩主であった小笠原家、および旗本として弓馬術を指南していた赤沢小笠原家が、小笠原礼法の普及に尽力していきます。小笠原礼法には、いくつかの流派があるようですが、現在も、この両家がメジャーな流派となっているようです。

当然のことながら、宮廷のあった国々には礼法が存在します。さらには、国と国との交流に際しては、国際的に認知された礼法、つまり国際プロトコールが必要となります。古代ギリシャ語で、プロトは”最初”を、コルは”糊”を意味し、巻物の最初に概要を記して付けられた紙のことだったようです。転じて議定書、そして外交儀礼全般を指すようになります。国際プロトコールには、五原則と呼ばれるものがあります。序列重視、右上位、相互主義、異文化尊重、レディ・ファーストの五つです。相互主義とは、おおむね答礼・返礼のことです。プロトコールに関する最も古い文献は、16世紀イタリアの「ガラテオ」だとされます。枢機卿ガレアッツオ・フロリモンテの指示によって、その邸宅に招かれた客人に守ってもらいたいマナー・ブックとして、ジョヴァンニ・デッラ・カーサが書いたとされます。

小笠原流礼法であれ、国際プロトコールであれ、礼儀とは、相手を尊重し、リスペクトすることなのでしょう。そのうえで、それを、いかに自然で美しく相手に伝えるかということが礼法なのでしょう。小笠原家の伝書には「水は方円の器に随う」という言葉があるそうです。一般的には、人は環境に左右される、という意味で使われます。ただ、礼法的には、いかなる状況にも対応して、相手を敬う心を、自然に表現するという意味なのでしょう。それは付け焼き刃では難しく、日頃からの鍛錬が求められるということになります。四角四面で、決まり事だらけの行儀作法など、実にうっとしいものです。ただ、美しく自然な所作に接すると、心が和むのも事実です。礼儀作法とは、実に合理的なものだと理解すべきなのでしょう。(写真出典:discoverjapan-web.com)

2022年4月13日水曜日

鶯と桜

鶯餅と道明寺
梅と言えば鶯と相場は決まっています。ただ、菓子の世界では、鶯と桜がセットです。少なくとも、私の頭の中で春を告げる菓子と言えば、鶯餅と桜餅です。理由は単純。子供の頃、春になると、父親が、いつもこのセットを買ってきたからです。鶯餅と桜餅は通年で買えますが、鶯の別名は春告鳥ですし、言うまでもなく桜は日本の春の象徴です。気分としては、春を告げるセットと言えます。ちなみに、鶯が春告鳥と呼ばれるのは、春に鳴き始めるからだとされます。ただ、春先の鶯のなかには、どうも「ホーホケキョ」が上手く鳴けない輩が多くいます。春になると、鶯は山から下りてきて、繁殖期に入ります。「ホーホケキョ」は、繁殖期の縄張り確保のための鳴き声です。鶯にとって、春先は、いわば開幕戦であり、調子が出るまで、それなりに時間がかかるというわけです。

鶯餅の発祥は、安土桃山時代にさかのぼります。大和郡山城主であったた豊臣秀長が、兄である秀吉を招いて茶会を開きます。その際に出す茶菓子として、今まで見たこともない菓子を作れと命じます。秀吉を喜ばせるためには、それくらいしなければならなかったのでしょう。菓子作りを命じられたのは、城門前の菓子屋、菊屋治兵衛でした。秀吉は、治兵衛が作った菓子をいたく気に入り、「以来この餅を鶯餅と名付けよ」と名前を授けました。秀吉の命名した菓子と言われると、なにやら有りがたくなります。ちなみに、菊屋は、今も同じ場所で、同じ鶯餅を商っています。ただし、商品名は「お城の口餅」であり、餅にまぶしてあるのは、うぐいす粉ではなく、普通の黄色いきな粉です。残念ながら日持ちしないので、東京での知名度はイマイチです。

元祖の”お城の口餅”は別として、ごく一般的な鶯餅は、あんこを求肥で包み、うぐいす粉をふりかけたものです。これは、どうも地域による違いはなく、全国どこでも同じようです。両側を引っ張り、多少横長にしたものと丸いものがあります。横長にするのは、鶯の姿に似せているのだそうです。きなこの語源は”黄なる粉”ですが、大豆を炒って皮をむき粉にしたものです。うぐいす粉は、青大豆から作られます。大豆を若いうちに収穫したものと誤解される傾向がありますが、実は普通の大豆とは異なる品種です。油分が少なく、甘みが強いとされます。うぐいす粉は、他の菓子でも使われてもいいようなものですが、鶯餅以外で見たことはありません。それもそのはず、栽培が難しく、東北の一部でしか採れない希少な食材なのだそうです。

桜餅と言えば、なんといっても「長命寺の桜餅」ということになります。向島の長命寺門前の山本やの桜餅です。1717年、長命寺の門番をしていた山本新六が、門前に開いた山本やで売り始めたのが、桜餅の元祖だそうです。桜の葉の塩漬け3枚で包んだ長命寺は、味も風味も、やはり桜餅の王様だと思います。桜の葉は、塩漬けにすることで、独特の香りと風味が生まれると言います。長命寺はあんこを小麦粉の餅でくるみ、桜の葉で巻きます。一方、道明寺と呼ばれる関西風の桜餅は、餅米を蒸して荒くひいた道明寺粉であんこをくるみ、その上に桜の葉を乗せます。道明寺粉は、藤井寺にある尼寺道明寺で、古くから作られていた糒(ほしい)を荒くひいたものとされます。どうやら関西風の道明寺の方が、全国的には多いようです。長命寺は、関東と一部東北だけにあるものだそうです。桜餅は、関東風であれ、関西風であれ、いずれもお寺さんが関係してくるところが面白いと思います。

今でも、春になると長命寺を食べるのですが、その際、必ず話題になるのが、桜の葉をとって食べるか、そのまま一緒に食べるか、という議論です。長命寺の桜餅は、葉をはずして食べろと言っています。桜の葉で巻くのは、香り付けと乾燥を防ぐためであって、食べる際には、菓子本来の風味を味わうためにはずせということだそうです。私は、一枚だけ桜の葉を残して食べます。その方が香りもよく、塩味がいい塩梅になるからです。ただ、桜の葉の香りには、肝臓を痛める成分が入っており、食べ過ぎには注意が必要だと聞きます。なんと食品添加物としても認められていないようです。(写真出典:tabelog.com)

2022年4月12日火曜日

蒲郡

蒲郡クラシック・ホテル(旧蒲郡プリンス)は、大好きなクラシック・ホテルです。三河湾に面し、竹島を望む高台に立つ城郭風の建屋は、1934年に蒲郡ホテルとして建てられました。国の近代化産業遺産、登録有形文化財にもなっています。部屋は決して広くはありませんが、19世紀から20世紀初頭の欧州のリゾート・ホテルを思わせます。食事も美味しく、特に朝食は絶品です。また、お高いのですが、美味しいシーフード・カレーも有名です。ホテルの庭先から歩道橋で渡れる竹島には、関ヶ原の合戦の前に徳川家康が必勝祈願したという八百富神社があります。島全体が天然記念物に指定されている竹島は、周囲680mを歩いて一周できます。朝の散歩には最適な島です。

愛知県蒲郡は、三河湾に面した温暖な町です。ハウス栽培の早生みかんが有名ですが、風光明媚な温泉地でもあり、海の幸、山の幸にも恵まれた良いリゾート地だと思います。また、ヨットの町としても有名です。かつて、世界最高のヨット・レースであるアメリカズ・カップに挑戦した日本チームが、ベースキャンプをおいたのも蒲郡でした。1999年には、総合リゾート施設”ラグーナテンボス”(旧蒲郡ラグーナ)もオープンしています。豊橋市に隣接し、名古屋も遠くありません。リゾートとしての立地は申し分なく、老後を過ごすにも、最適な土地の一つだと思います。ところが、東海地方はともかくとして、リゾートとしての全国的知名度は、何故かイマイチのままです。

それは、恐らく、蒲郡市のリゾート化に対する取り組みが、やや中途半端なところがあったためなのでしょう。かつて、蒲郡はリゾート化など目指していなかったと思います。温泉も、海水浴場も、蒲郡ホテルもあったわけですが、蒲郡が狙ったのはものづくりの拠点化だったと思われます。戦後の三河にあって、それは当然のことだったとも思います。三河には、トヨタとそのサプライヤーをはじめとして、多くの工場がひしめき、蒲郡も、いわゆる”ガチャマン景気”で潤った時期がありました。ガチャマンとは、織機で一回ガチャンと織れば、万の金が入るという繊維景気のことです。高度成長期の旅行ブームが起こると、日本の温泉地は、思い切った投資を行い、団体旅行を取り込みました。その頃、蒲郡が投資したのは工業化だったわけです。

1955年には、蒲郡競艇場が開場されます。市の財政難を解消して、さらなる産業投資を行う資金を確保しようとしたわけです。名古屋の人たちに聞けば、蒲郡のイメージは競艇だと言います。蒲郡競艇は成功したとも言えます。ただ、公営ギャンブルに関する調査を見れば、競艇は最もダーティなイメージを持たれているようです。蒲郡がリゾート化に舵を切った現在も、競艇場は存続しています。一度、公営ギャンブルに手を染めると、町の財政はそれに依存し、売り上げが落ち、追加投資が大きくなったとしても、なかなか止めることはできません。リゾート化を進めるためにも、その資金は必要だということになるのでしょうが、市や住民の皆さんに、思い切った判断をしてもらいたいものだと思います。三河湾の真珠とでも呼びたくなるような蒲郡のファンとして、切に願うところです。

公営ギャンブルの売上のピークは1992年で、9兆円弱を記録しました。その後、中央競馬会を除き、売上は半分以下まで落ちています。ただ、コロナ禍にあって、競艇は売上を伸ばしています。TVCMが奏功しているとも聞きます。公営ギャンブルの1.5倍の売上をあげるパチンコを加えれば、日本は、アメリカに次ぐギャンブル大国です。さる調査によれば、ギャンブル依存症は先進国中第一位でもあります。ギャンブル依存が起こす犯罪も後を絶ちません。日本人が、他国の人に比べてギャンブル好きとは思えません。政策・制度が、庶民のなけなしのお金を奪っているようにしか見えません。ちなみに、日本発祥の競艇は、一部韓国にもあります。パチンコも日本と韓国だけにありました。ただ、2006年、依存症を問題視した韓国は、パチンコを禁止しています。(写真出典:jcha.jp)

2022年4月11日月曜日

「ドライブ・マイ・カー」

監督:濱口竜介     2021年日本

☆☆☆☆

(ネタバレ注意)

SAAB900は、好きな車で、アメリカで5年乗りました。北欧らしいしっかりとした造りの安定感あふれる車です。当時、アメリカでは、オーナーの学歴が最も高い車として知られていました。アメリカ人の仕事仲間は、サーブ・オーナーを”サーヴィ”と命名し、眼鏡をかけ、髭を生やしたインテリっぽい奴が乗る車と言っていました。村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」では黄色いサーブ、本作では赤いサーブのターボが使われています。映画では、別の車種でもよかったのでしょうが、サーブにこだわった点に監督のセンスと思い入れを感じます。ま、ターボではなく、クラシックとも呼ばれるベース・カーの方が、より良かったとは思います。

日本映画は、ほとんど観ないのですが、本作はあまりにも評価が高いので、観てみました。とても良く出来た作品だと思います。スローテンポで静かな展開に、どうなることかと思いましたが、興味深い伏線が多数埋め込まれ、それらをじっくり考えさせる演出に、3時間という長尺も苦になりませんでした。一定のトーンやテンションを3時間継続させる監督の力量は見事なものです。世界レベルとも、現代の映画の流れの最先端にいるとも、言えるのでしょう。まずは脚本の良さが光ります。そして、それを活かす自然主義的な演出が見事です。キャスティングも、芝居臭さが強くない”ちょうどいい”感があります。特に韓国の俳優たちが映画をしめていたように思います。

テーマは、喪失と再生、ということになるのでしょうが、構成が興味深く、作品に奥行きを持たせています。主人公の喪失感を生んでいるのは妻と娘の死ですが、再生は、主人公が自分自身と真摯に向き合うことで起こります。それを手助けしたのは、ドライバーであり、若い役者であり、チェーホフの”ワーニャ伯父さん”であり、芝居の他の出演者たちという構図です。ただ、再生のプロセスは、すべて妻が仕組んだものであり、現実ではなく、主人公の内的世界だけで展開していることかも知れない、とも思わせます。そう思わせるのは、巧みに埋め込まれた伏線の数々であり、観客は、妻が支配しているかのような微妙な二重構造を、うっすらと感じるように計算されています。それが、この映画を、深みのある、そして緊張感のある映画にしています。

すべての伏線が二重構造を暗示しているように思えます。舞台で演じられるワーニャ伯父さんとシンクロする現実、主人公の演出家と役者という両面性、まるで鏡に映った主人公のように喪失感を持つドライバー、一見空虚な若者ながら強いメッセージを主人公に伝えた若い役者、温暖な広島の風景とドライバーの原点である雪の北海道、多言語で演じられる舞台、声を失い手話で演技する役者、日本と韓国、広島の過去と現在。そして、縦糸としてそれらをつなぐ赤いサーブは、主人公の妻そのものです。タイトルの「ドライブ・マイ・カー」は、ビートルズの楽曲ですが、性的な意味合いを持つことが知られています。“私の車を運転して”とは、主人公に対する妻からのメッセージそのものなのでしょう。

舞台上のラストで、ソーニャがワーニャに語る”耐えて生きる”というセリフは、ストレートにこの映画の主題を語っています。思わず涙がこぼれました。舞台でソーニャを演じるのは、声を失った韓国の俳優です。彼女もまた、主人公の妻そのものなのでしょう。声を失ったことが死んだことを暗示し、手話は、死んだ後に主人公の再生を手助けすることの暗示なのでしょう。ドライバーが韓国で微笑みながらサーブを運転しているというラスト・シーンは、謎めいています。ドライバーも、車と同じく、実は主人公の妻なのだと思います。日本でないことは、彼女が死んでいることを暗示し、微笑みは、夫を再生させたという安堵感なのではないでしょうか。(写真出典:dmc.bitters.co.jp)

2022年4月10日日曜日

太平記

皇居外苑の楠木正成像
学生の頃、海外ミステリーばかり読んでいた私は、歴史小説好きの友人から、カタカナの名前なんかよく覚えられるな、と言われたことがあります。私からすれば、似たような名前ばかり出てくる日本史の方が、ややこしく思えました。例えば、鎌倉幕府の執権である北条家の当主の名前などは典型です。初代時政から14代高時まで、皆、時という字が入り、誠に覚えにくいものがあります。そのせいもあり、鎌倉から室町時代にかけての歴史は、どうも苦手でした。しかし、うろ覚えのままというのも気になり、どうせなら太平記を原文で読んでみようと思いたちました。太平記は、かなり脚色されていることも承知のうえです。リズムの良い文章は、読みやすいものでした。最大の問題は、その長さです。日本の歴史文学で最長と言われる全40巻は、さすがに、しんどいものがありました。

太平記は、作者も、成立時期も、いまだ明確にはなっていません。ただ、複数の作者によって、書き加えられたものという説が有力であり、成立時期に関しては、14世紀後半と見られています。鎌倉幕府の崩壊、建武の新政、南北朝の分裂、そして南北朝合一の直前までが記述されています。公家政権から武家政権への移行期における両者のせめぎ合い、そして各々の内部抗争による大混乱時代が描かれています。東国武士が樹立した鎌倉幕府は、武家政治の始まりに過ぎず、後鳥羽上皇が北条義時に敗れた承久の乱でも、まだ確立とは言えず、後醍醐天皇による巻き返し、さらには室町幕府による支配へと続く過程が必要でした。しかし、室町幕府までは、まだ公家政治の枠組みが継続されていたとも言えます。それが転換点を迎えたのが、日本史の分水嶺とも言われる応仁の乱なのでしょう。

太平記は、武家政治の揺籃期を描いており、それは武家社会の基本的性格が醸成される過程でもあります。太平記には、その後の武家社会を支配することになる朱子学の影響があることはよく知られています。儒教の原理主義のような朱子学においては、絶対的真理としての”理”が存在し、それは仁・義・礼・智・信の五常で現わされます。いわゆる大義が重視され、君臣父子という上下関係が絶対的なルールとされます。武家社会の基本的思想となり、江戸幕府では官学とされました。幕末には、尊皇攘夷という思想も生み、明治政府の統治思想に引き継がれ、太平洋戦争の終戦、つまり武家政治が終わるまで日本を支配した思想と言えます。李氏朝鮮では、朱子学を国を治める根本に置いたことで、硬直的な社会が構成されました。日本では、あくまでも学問という位置づけでしたが、寺子屋の教育等を通じて、社会に浸透します。

一方、太平記には、朱子学と相反する”婆娑羅”も描かれています。婆娑羅とは、革新的で権威を軽んじる行動や服装を言い、後の下剋上につながります。公家政治の復権を企てた後醍醐天皇は、自身も革新的であり、婆娑羅をうまく使って戦ったとも言えます。朱子学を背景とする太平記では、世を乱す者として否定的に描かれています。ただ、婆娑羅は、実力主義とも言え、武力で物事を解決する武家社会の本質でもあると考えます。南北朝時代に現れ始めた武家の実力主義は、本質的がゆえに、広がりを見せ、ついには応仁の乱、戦国時代へとつながります。一方で、戦乱の世を終わらせた江戸幕府は、朱子学を重視せざるを得なかったとも言えます。武家政権は、この矛盾する二つの性格を抱えながら、太平洋戦争まで突き進んだわけです。日本の歴史は、部族社会、公家政権、武家政権と、5~6百年単位で変遷してきました。とすれば、百年に満たない民主主義社会など、まだ揺籃期と言えるのかも知れません。

太平記を代表するスターと言えば、後醍醐天皇への忠義に生きた楠木正成です。江戸、明治、そして終戦まで、楠木正成はスターであり続けました。朱子学的観点からすれば、武家社会は、楠木正成をスターにしておく必要があったわけです。戦後世代にとって、楠木正成は、やや縁遠い人になりました。恐らく、GHQの指示があり、教科書はもとより、様々な場面での露出が制限されたからなのでしょう。そのことが、私に限らず、戦後世代が、南北朝時代の歴史を不得手とする理由につながっているのかも知れません。(写真出典:fng.or.jp)

2022年4月9日土曜日

英雄ポロネーズ

ショパン
ピアニストの安達朋博さんのコンサートに行ってきました。デビュー15周年ということで、大曲と言えるベートーベンの交響曲3番「英雄」を演奏していました。リストがピアノ独奏曲にしたものですが、まるでオーケストラを聴いているような広がりと奥行きを感じさせる演奏でした。安達朋博さんは、高校卒業後、クロアチアで学んだ人で、クロアチアからの逆輸入ピアニストとも呼ばれています。西ヨーロッパで学んだ人たちとは、やや異なるテイストを持っています。また、ショパン弾きとしても有名であり、当日もポロネーズをいくつか弾きました。久々に聴いた「英雄ポロネーズ」に感動しました。

安達さんは、政治に踏み込まないように、気を使いながらも、ショパンが母国ポーランドからパリに亡命したことに言及し、暗にロシアによるウクライナ侵攻を批判していました。フレデリック・ショパンは、亡命フランス人の父と没落貴族の母のもと、1810年、当時のワルシャワ公国に生まれます。音楽一家だったこともあり、幼少期からピアノに親しみ、7歳のおりには、人前で演奏を披露し、作曲も始めたようです。ショパン少年は、モーツアルトやベートーヴェンと並び称されるまでの天才ぶりを発揮します。11歳の年には、ロシア皇帝の前でも演奏しています。ちょうど、ショパンが、その演奏活動を欧州全域に広げ始めた1830年、母国ポーランドでは“11月蜂起”が起こります。

ポーランドは、ヨーロッパ中央部に位置する平原の国です。平原がゆえに、古代から人の往来が多く、豊かで、かつ隣国の干渉を受けやすい国だと思います。レフ族が、キリスト教を受け入れ、ポーランド王国を建てたのが10世紀頃です。その後、国は、王族による分断の時代が続き、モンゴルやドイツ騎士団の侵攻を許し、混乱します。14~16世紀、ヤギェウォ朝のもとで、ポーランドは隆盛を極め、ヨーロッパの大国になります。16世紀には、議会制民主主義国家としてのポーランド・リトアニア共和国が誕生します。ただ、その後、ポーランドは、隣国との戦争に疲弊していくことになり、18世紀後半には、ロシア、プロイセン、オーストリアによって分割されました。この間。ポーランド国民は、独立に向けた戦いを続けていくことになります。

11月蜂起も、その一つでした。ロシア皇帝から、フランスの7月革命鎮圧のための派兵を命じられたことをきっかけに、士官学校の若い下士官たちが蜂起します。さらにロシアの圧政からの独立を求める市民も加わり、国中で戦いが行われました。2年間に渡った蜂起でしたが、他の独立運動と同様、ロシアに粉砕されます。蜂起が起こった時、ショパンは、ウィーンにいました。故国での音楽活動は諦めざるを得ず、またポーランド分割の当事者であるオーストリアでは反ポーランドのムードが強かったため、パリへ向かいます。結局、ショパンは、ポーランドを想いながら、パリで生涯を過ごすことになります。この時期、ポーランド・ロマン派の詩人や画家たちが多く活躍していますが、その多くは亡命者でした。故国への強い想いが、彼らの創作活動の原点にあり、同時に、それがゆえに普遍性を持ち得なかったとも言われます。

ショパンも、まさにポーランド・ロマン派の詩人だったと言えます。希に見る才能と故国への想いが相まって、数々の傑作を生み出しました。その最高傑作の一つが、英雄ポロネーズです。ポーランド・ロマン派の詩人と異なり、ショパンが世界的名声を得るに至ったのは、言葉ではなく、音を用いて詩を紡いだからかも知れません。亡命芸術家は多く存在します。しかし、亡命詩人は、他の分野に比べて少ないのではないかと思います。国があって、国民がいて、詩は成立しているといえるのかも知れません。ポーランドが再び独立を勝ち得たのは、第一次大戦後の1918年でした。そして、1939年には、再びソヴィエトとナチス・ドイツによって分割されます。第二次大戦後、再び独立しますが、永らくソヴィエトの衛星国家とされ、民主国家となった1989年のことでした。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年4月8日金曜日

火の用心

町内会の班長を1年間務めました。仕事と言えば、回覧板を回すことと町内会費の集金くらいですが、楽しみにしていたのは夜回りです。残念ながら、新型コロナ蔓延防止のため、この1年は、すべて中止となりました。夜回りとは、夜、拍子木を打ちながら、町内を回り、防火を呼びかけることです。かつては、拍子木ととともに、「火の用心、マッチ一本、火事のもと」という掛け声もかけていました。いつの頃からか、掛け声はなくなり、拍子木だけになりました。恐らく、うるさい、という批判が多くなったのでしょう。夜回りは、町会役員のボランティア活動です。感謝の声こそ掛けても、批判とは如何なものかとは思います。ただ、マッチを使う家は、さすがに無くなったとは思いますが。

「火の用心」という言葉は、徳川家康の家臣であり、三河三奉行の一人とされる本多作左衛門の手紙が原典とされます。長篠の戦いのおり、陣中から妻に宛てた手紙は、日本一短い手紙としても有名です。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と、実に簡潔明瞭なものです。ちなみに”お仙”とは、嫡子仙太郎のことであり、長じて、越前丸岡城主となっています。本多作左衛門は、戦場にあっては、豪胆な戦士であり、また奉行としては判断が早く、公平な仕事ぶりだったようです。また、忠義に厚く、家康にズケズケとものを言う人でもあったようです。その性格が、秀吉の不興を買うことにもなり、晩年は蟄居を命じられてもいます。無骨ながらも、君主を思い、家族を思うことは人並み以上の三河武士の典型のような人だったのでしょう。

夜回りは、江戸初期、幕府の指示で始まったようです。火事と喧嘩は江戸の華、と言われますが、とにかく江戸は火事の多い町でした。江戸三大大火と言えば、振袖火事とも呼ばれる1657年の明暦の大火、1772年の目黒行人坂の大火、1806年の丙寅の大火です。ただ、それらに匹敵する規模の大火は、実に100回以上あったようです。1641年の桶町火事を機に、大名が火消役を勤める大名火消が組織化されます。このころ、町内の防犯・防火のために自身番が置かれ、夜回りとともに「火の用心」という言葉も登場します。また、明暦の大火後には、旗本で組織される定火消が設置され、同時に、町火消もスタートします。ただ、町火消が制度化されたのは1717年のことであり、威勢良く纏を振り回す「いろは48組」が組織されました。幕末にかけて、江戸の消防を担ったのは、この町火消でした。

江戸に大火が多かった理由として、冬場の乾燥と強風、人口の密集、木造長屋の多さ、莨の火の不始末等が挙げられます。煙管は、吸い終わると、叩いて火の気の残る灰を落としますが、飛んだ先が悪ければ、すぐ出火します。また、放火の多さも江戸の大火の特徴とされます。放火の理由としては、火事場泥棒ねらいや怨恨が多かったようですが、復旧工事による商売繁盛を目論むケースも少なくなかったようです。また、一説には、町の区画整理等のために、役人が火消に放火をさせることもあったと言います。商売繁盛や区画整理等は、とんでもない話ですが、その前提は、そもそも火事が多かったということなのでしょう。ちなみに、放火犯、いわゆる火付は大罪であり、市中引き回しのうえで火焙りにされています。

当時の消火方法としては、もちろん水も掛けるのですが、木造長屋が燃えると、水では追いつかず、火元や近隣の建物を壊し、延焼を防ぐスタイルでした。幕府の防火対策としては、火除地や広小路を造り延焼を防ぐ、あるいは藁葺屋根を瓦葺に代えることや土蔵造りを推奨していました。もし江戸が土蔵造りや石造りの町並みになっていれば、大火は、ある程度防げたものと思います。しかし、経済的理由に加え、高温多湿な気候に地震の多さを考えれば、それは難しかったのでしょう。八っあんや熊さんが土蔵造りの長屋に暮らす姿は、とても想像できません。(写真出典:aucfree.com)

2022年4月7日木曜日

「湖のランスロ」

監督:ロベール・ブレッソン      1974年フランス

☆☆☆+

アーサー王ほど、よく知られていて、かつ、いまだにその実在が議論されている人もいないと思います。恐らく、アーサーは、6世紀頃に実在した武将の一人であり、ケルトの人たちによって、どんどん神格化され、伝説になっていったのだろうと想像できます。サクソン人に敗れたケルト人にとって、ケルト再興へ希望をつなぐ民族のシンボルが必要だったということなのでしょう。アーサー王の物語は、魔法使いマーリン、宝剣エクスキャリバー、妻グィネヴィアの不義、謀反を起こす甥モルドレッド、極楽の島アヴァロンといった基本的な構成要素に、円卓の騎士や聖杯伝説も加わり、壮大な物語が構成されています。

ランスロット、仏語のランスロは、円卓の騎士の一員であり、アーサー王の妻グィネヴィアとの道ならぬ恋によって、騎士団の崩壊を招いたとされます。湖の精に育てられたことから”湖のランスロ(Lancelot Du Lac)”とも呼ばれます。ブレッソン監督は、アーサー王と騎士たちによる聖杯探索が失敗に終わったところから映画を始め、騎士団崩壊までのストーリーを描いています。そのこと自体が、ブレッソンの映画に対する姿勢を象徴しています。つまり、超自然的な要素満載の伝説としてではなく、極めてリアルな実在としての騎士たちを描いているわけです。ブレッソンは、自らの作品をシネマ(映画)ではなく、シネマトグラフと呼んでいたようです。

通常、シネマトグラフと言えば、映画を発明したリュミエール兄弟が製作した撮影・投影機器を指します。見世物としての芝居を撮るのではなく、現実を映像として記録するというスタンスをブレッソンは重視したのだと思われます。ブレッソンの映画は、素人を配役し、演技らしい演技をさせず、淡々と記録していくスタイルです。自然主義の塊のような人で、後のヌーヴェルヴァーグ、そして、いわゆる作家指向の監督たちに大きな影響を与えました。ブレッソンは、1950年代から、本作の製作を目指していたようですが、カラー技術や財政的問題から、実現が遅れに遅れたと聞きます。1962年には、裁判にだけ特化した「ジャンヌ・ダルク裁判」を撮っていますが、リアルな中世を描くためには騎士が必要だったのでしょう。

中世の象徴としての騎士のリアルな描き方は、細部にまでこだわりを見せています。例えば、全編を通じて、甲冑のガチャガチャという音が強調され、剣さばきはとてもスローになっています。日本の刀剣は切るために存在しますが、中世ヨーロッパの剣は、鉄製の甲冑を前提とするので、刺すことと叩くことが主たる機能でした。従って、剣はとても重く、ハリウッド映画のようには早く振れませんでした。また、映画は、騎士同士の戦いからスタートしますが、そのシーンの残忍さは、公開当時としては衝撃だったのだろうと思われます。また、ラストシーンは、内部抗争で倒れた甲冑の騎士たちの死体が累々と映し出されます。中世そのものを暗示しているのでしょう。

アーサー王への忠誠、そしてグィネヴィアとの恋の板挟みに悩むランスロの姿は、組織と個人という今日的、あるいは永遠のテーマでもあります。物語のなかでは、アーサーとランスロットは、騎士団を二分して戦いますが、仲裁によって、グィネヴィアは王のもとへ戻され、出家します。ランスロットは、仲間たちとフランスへ渡ります。後を追ったアーサーでしたが、故郷で息子が反乱を起したため、制圧のために帰国し、あえなく戦死します。ランスロットも出家しますが、グィネヴィアが死ぬと、自らも命を絶ちます。武芸に秀で、騎士道精神溢れるランスロットでしたが、恋に生きる道を選択した、と言うことができるのでしょう。(写真出典:natalie.mu)

2022年4月6日水曜日

青の洞門

世界初のトンネルとされているのが、3,700年前、 バビロンのユーフラテス川の下を通した歩行者用トンネルです。川を挟んで建っていた王宮と神殿を行き来するためだったようです。渇水期に、流れをせき止め、通路を造って埋め直したのではないか、とされています。以来、世界中で多くのトンネルが掘られてきました。ところが、不思議なことに、山国である日本では、中世までトンネル文化はありませんでした。日本で最も古い歩行者用トンネルは、大分県の耶馬溪にある”青の洞門”だとされます。1764年、曹洞宗の行脚僧であった禅海が、30数年かけて、手掘りで通したとされます。今も壁面には、ノミの跡が、くっきり残ります。また、菊池寛の短編「恩讐の彼方に」のモデルとしても知られています。

日本でトンネルが発達しなかったのは、馬車の文化が無かったからだと思います。日本には、大規模な会戦が出来るような平原が少なく、結果、古代の戦車は生まれていません。欧州やオリエントでは、戦車の発達が馬車の文化を創ったものと思われます。他にも、日本の在来馬が小型で馬車を引くには限界があったこと、あるいは山がちで雨の多い風土では、馬車用の道の整備が難しかったことも影響しているかも知れません。もっとも、日本にも乗用の牛車はありましたが、これは都を多少進むものであり、旅をするものではありませんでした。いずれにせよ、馬車の文化が無かったとしても、トンネルのニーズは大いにあったはずです。ただ、掘る手間暇を考えると、人馬で峠を越していく方が合理的だったのでしょう。

禅海は、越後高田藩士の子息で、”六十六部”と呼ばれる行脚僧でした。六十六部とは、自ら写経した法華経66部を全国の霊場に納めてまわる僧でした。禅海は、耶馬溪の羅漢寺に経を納めた際、土地の人々が、奇岩で知られる競秀峰の麓の岸壁を、鎖をつたいながら通る姿を目にします。そこでは、しばしば人命が失われていることを聞き、心を痛めます。禅海が、一人で隧道の掘削を始めたのは1735年頃であり、以降、托鉢勧進で得た資金で石工も雇い、掘り進めます。そして、1764年、全長342m、うちトンネル部分144mの洞門を完成させます。その執念には驚かされます。恐らく、洞門を掘り続けることが、禅海にとっての禅だったのでしょう。ちなみに、開通後、しばらくは通行料を取っていたらしく、日本初の有料道路とも言われています。

耆闍崛山(ぎじゃくっせん)羅漢寺は、羅漢山の洞窟や亀裂に埋め込まれるように堂が並び、4千体とも言われる石仏が安置されています。また、五百羅漢像は、日本最古のものとされます。多くの寺を訪れてきましたが、これほど異形な寺は無かったように思います。そもそも、火山活動が生み出した岩石を、山国川が削り込んだ耶馬溪の風景自体が異形の塊です。小豆島の寒霞渓、群馬の妙義山と並び、日本三大奇景とも言われます。さらに言えば、その名称すらも異形と言えます。もともとはシンプルに”山国谷”と呼ばれていたようですが、この地を訪れた漢学者の頼山陽が、中国の山水画を思わせる風景に感動し、”やまくにだに”を中国風の当て字にしたのが耶馬溪なのだそうです。この話、あまりピンとこないのは、漢字の知識不足ゆえでしょうか。

ちなみに、日本最長と言われる手掘り隧道は、新潟県中越地方にある”中山隧道”です。長岡市の小松倉地区は、山中深くにある集落であり、冬場には積雪が4mという豪雪地帯でもあります。買い物はもとより、急病人が出ても、急峻な中山峠を越えるしかありませんでした。たまりかねた住民たちは、1932年、隧道掘削を決断します。全長922mの隧道は、16年間、住民たちが、無報酬で、ツルハシだけを使って掘り進めたものです。行政は、何も手助けしなかったのかと訝ってしまいます。それどころか、国は、1998年まで、住民手掘りの中山隧道を国道291号線として機能させていました。これまた“青の洞門”並みに驚くべき話です。(写真出典:ja.wikipedia,org)

2022年4月5日火曜日

語学学校

NYに5年もいたのなら、英語はペラペラでしょう、とよく言われました。そういう時には、あいまいな笑顔だけ浮かべるようにしていました。実は、英語、うまくありません。自分で言うのも如何なものかとは思いますが、仕事はうまくできました。日本企業向けに、医療保険を設計し、販売する仕事をしていました。客先のフリンジ・ベネフィット担当者は、全てアメリカ人ですが、その道のプロばかりです。企業保険の世界は、やたらとアブリビエーションが多く、その羅列だけで折衝は進んでいきます。重要なのは、文法や表現ではなく、制度内容やコストです。英語の上手い下手は、全く商売に関係ありませんでした。移民の国アメリカらしい話でもあります。英国なら事情は別かもしれません。

とは言え、日常会話や世間話で、もどかしい思いをしたくないと思い、無料に近いコミュニティ・カレッジの英語のクラスに通ったことがあります。まず最初に、クラス分けのためのペーパー・テストが行われます。私の成績は、トップ・ランクであり、上級クラスに入りました。私が優秀なのではなく、日本の英語教育のレベルが高いという証左です。ただ、日本人の文法や単語力は優れていても、会話力は悲惨なものです。だからここに来ているわけで、それが上級クラスでは意味がないと思いました。クラスでは、イディオム(慣用表現)を中心に勉強しました。30人ばかりの生徒の多くがヒスパニック系であり、日本人は私だけでした。先生が質問すると、皆、適当な英語で、適当なことをベラベラしゃべり始めます。少し間をおいて、私が手を挙げ、正解を答える、というパターンが続きました。

仕事が忙しくなったこともあり、かつ私のニーズにはまったく合っていなかったので、途中で止めました。ただ、クラスメイトたちからは、文法など気にせず、とにかくしゃべることだ、ということだけは学んだように思います。定年退職後に、日本語学校の先生をしている先輩から、語学の指導法には、直説法と間接法という二つのパターンがあると聞きました。直接法とは、日本語だけで授業を進めるとうスタイルです。ただし、教えた日本語だけで授業を進めるという、非常に厳しい制約があり、教授法の習得には時間がかかるようです。一方の間接法は、生徒の母国語を使って日本語の文法や単語を教えるというものです。日本における英語教育は、間接法ということになります。いずれの方法にも、一長一短あるのでしょうが、少なくとも間接法では、しゃべれない生徒が多くなることは間違いありません。

NY在任中に、昭和天皇が崩御されました。仕事仲間のアメリカ人たちはお悔やみを言ってくれました。場合によっては、彼らにとっては摩訶不思議な天皇制に話が及ぶこともありました。残念ながら、うまく説明できませんでした。なぜなら、その当時の私は、天皇制に関して頭の整理が出来ておらず、明確な自分の意見を持っていなかったからです。必要だけど平生は意識しない空気のような存在、と言うのが精一杯でした。単なる印象の話です。聞いた方は、意味不明だったと思います。英会話に関して最も重要なことは、言わなければならないことがあるか、言いたいことがあるか、ということだと思います。語学は、あくまでもコミュニーションの道具です。上手か否かではなく、伝わるかどうかを重視すべきだと思います。そういう意味では、手間暇がかかっても、直接法で学んだ方がいいと思います。

コミュニティ・カレッジでのクラスのことですが、訓練のためにと思い、授業の前後にクラスメートたちと雑談するようにしていました。どこから来たのか、仕事は何か、といった程度の会話です。これもまた、何の訓練にもなりませんでした。なぜなら、私が一言話すと、向こうは何十倍も、何百倍も話してくるからです。国はどこだ、と聞いただけなのに、親族構成のすべてを聞かされることなどザラでした。彼らにとって家族は、大事な存在であり、誇りに思っているということを、小賢しい日本人にも知って欲しかったのでしょう。(写真出典:bcc.edu)

2022年4月4日月曜日

「チタン」

監督:ジュリア・デュクルノー    2021年フランス・ベルギー 

☆☆☆☆

メアリー・シェリーが小説「フランケンシュタインあるいは現代のプロメテウス」を発表したのは、1818年のことです。ゴシック・ロマンスの傑作ですが、SF小説の嚆矢とも言われます。ちなみにジュール・ヴェルヌが登場する半世紀も前のことです。一般的に知られるフランケンシュタインと言えば、四角くて縫い目だらけの顔を持つ怪物ですが、これは1931年のハリウッド映画でボリス・カーロフが演じたイメージが定着しているからです。メアリー・シェリーの小説では、怪物に名前はなく、フランケンシュタインとは怪物を造った学生の名前です。よって人間を創造した”プロメテウス”が「あるいは」と続くわけです。

ジュリア・デュクルノー監督は、処女作「RAW」(2017)で新次元のホラーを展開し、世界中を驚かせましたが、昨年、2作目となる本作で、早くもカンヌ国際映画祭のパルムドールを獲得しています。女性監督としては、ジェーン・カンピオンに次ぐ2人目とのことです。いわゆるボディ・ホラーですが、パルムドールとしては、恐らく最もエキセントリックな映画なのではないかと思います。モダンでスタイリッシュな映像とは言え、単なるキワモノ映画がパルムドールを獲るわけもありません。ゴシック・ロマンスの正統を継ぎながらも、映画の新しい地平線を切り開いた作品だと思います。「RAW」は、新次元の物語そのものが売りでしたが、本作は、ボディ・ホラーという劇薬を使いながら、人間の本質に迫ろうとしていように思えます。

ボディ・ホラーは、人間の存在に関わる最も原始的な恐怖の一つだと思います。通常のボディ・ホラーでは、見せ場を、大仰に、おどろおどろしく提示します。ジュリア・デュクルノーは、極々、客観的に、まるで日常描写のごとく映し出します。彼女が目指しているのが、単なるホラー映画でないことは明らかです。ボディ・ホラーとしてのエキセントリックな映像によって、観客を揺さぶり、彼女の追求するテーマへと引きずり込みます。今年のアカデミー作品賞を獲ったのは家族愛をテーマとする「コーダ あいのうた」でした。まったく異なる次元からのアプローチではありますが、「チタン」のテーマも家族愛と言えます。文明の犠牲者である主人公が、奇妙な形ながら家族に回帰する物語です。「RAW」も家族が題材でした。家族は、ジュリア・デュクルノーのメイン・テーマなのでしょう。 

ボディ・ホラーと言えば、なんと言ってもデヴィッド・クローネンバーグです。ヒットした「ザ・フライ」(1986)などもありますが、自動車事故に性的興奮を覚える人々を描いた「クラッシュ」(1996)は衝撃的でした。原作は、内宇宙派のSF作家J.G.バラードでした。「クラッシュ」は、ボディ・ホラーが本来持っていた性的興奮という要素を、真っ正面から捉えた作品でした。ボディ・ホラーを単なる恐怖映画から人間性を追求する映画へと高めた記念碑的作品とも言えます。ジュリア・デュクルノーも、影響を受けた監督として、デヴィッド・クローネンバーグを挙げています。しかし、「クラッシュ」の肉体表現は、やはりおどろおどろしさを基調としており、ジュリア・デュクルノーは、それを越えた客観的、あるいは自然主義的な表現をしているからこそ、新たな映像の力を生み出したのだと思います。

ボディ・ホラーは、自らとは異なる人体への恐怖と憧憬なのでしょうが、もっと深いところでは、死への恐怖と関わっているように思われます。それは、死生観の問題とも言え、キリスト教、ないしは一神教的な死生観が生み出したものとも考えられます。インドネシアのスラウェシ島は、上質なコーヒー豆の産地として有名です。そこに暮らすトラジャ族にとって、死と生は切れ目無くつながっており、死ぬために生きる、とも言われます。死者は、香料を塗られてミイラとなり、2年間、自宅で家族と共に暮らします。その後、埋葬されますが、毎年、棺桶から出され、埃を払ったうえで、新しい衣服を着せられます。トラジャ族がボディ・ホラーを見たら、どう反応するのか、興味があります。(写真出典:fashion-press.net)

2022年4月3日日曜日

終の棲家

東京で働いてきた人が、老後、どこに住むかは大問題です。多くの人は、永年住み慣れた家で過ごすか、あるいは故郷へ帰るのでしょう。私は、故郷にも東京にも、さほどの思い入れがないので、日本のどこかに終の棲家を見つけたいと思っていました。さらに言えば、若い頃には、温暖で物価の安い国へ移住するのが理想でした。日本の年金を数倍の価値で使えるわけですから、年金生活者にとっては最適な選択だと思っていました。ただ、現実的に考えると、医療、セキュリティ、買い物等々、ある程度の都市機能が、この先も継続されるようでなければ、なかなか老後移住は難しいということになります。海外に関しては、さらに為替リスクが加わります。

出張の多い仕事だったので、老後移住の可能性という目線を持って、日本各地を見てきました。一定の都市機能とその継続性に加え、温暖で、災害に強く、排他的ではない土地柄といった条件も含めて、住めるかどうかを見ていました。日本全国にいい街は多くありましたが、移住先としては、どこも一長一短あり、ここぞという街はありませんでした。恐らく、どこも住めば都なのでしょうが、今一つ、決定力に欠けました。別な言い方をすれば、必要性に乏しい、ということになります。恐らく、皆、同じような思考過程を経て、かつ子供や孫のことも考慮して、老後も東京に留まっているのでしょう。東京一極集中は、なにも経済的理由だけで起きているわけではないと思います。

リタイアした人たちも東京に住み続けている、と話すと、アメリカ人は驚きます。少なくともNYあたりでは、結婚すると家かコンドミニアムを購入し、子供ができると、それを売って、もう少し広い家を買い、子供が大きくなると、さらに大きな家に越し、リタイアすると、それを売って、フロリダあたりに終の棲家を購入する、というパターンが一般的です。近所の人がリタイアして、フロリダのゴルフコースに隣接した家を買い、引っ越していきました。聞けば、NY近郊の家を売った金額の1/4程度で、フロリダの家が買えたそうです。その差額が老後生活のための蓄えになるわけです。年金だけで、生活でき、年に2回くらいの旅行も出来るよ、とも言っていました。

うらやましい人生設計ですが、それを可能にしている大きな要素は、中古住宅市場の存在です。それは、家が長持ちするという大前提のうえに成り立っています。近所の家は、すべて木造建築でしたが、第二次大戦前に建てられたものがほとんどでした。しっかりとした造りで、かつ地震等の災害も少ないこともありますが、日本の家屋に比べて長持ちするのは、恐らく湿度の違いなのだろうと思います。湿潤な日本に比べ、アメリカ北東部は乾燥しています。日本から持って行った漆器類は、乾燥した空気にやられ、すべて割れてしまいました。家が長持ちし、中古住宅市場が存在することで、社会全体の蓄積が増し、その効率の良さが結果として、生活の豊かさをもたらしているとも言えるのでしょう。

東京の新築マンション価格が高くなり、中古マンション市場も高騰しています。マンションに暮らす知人たちに聞くと、購入価格を2~3割超えているところもあるようです。今が売り時でしょうと言うと、売っても、次の住処が高くて買えない、と返されます。中古マンションの出物が限られ、価格はさらに上昇するわけです。日本の高齢化と不動産流動化を考えれば、今、日本に必要なのは、フロリダかもしれません。(写真出典:bisinessinsider.com)

2022年4月2日土曜日

「ナイトメア・アリー」

監督:ギレルモ・デル・トロ    2021年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

いまやファンタジー映画の巨匠となったギレルモ・デル・トロですが、本作はノスタルジックなテイストのスリラーとなっています。1946年のウィリアム・グレシャムの小説を原作としていますが、1947年にも、タイロン・パワー主演で映画化されています。とても魅力的なストーリーだと思います。冷血な詐欺師の話です。主人公は、あてもなく彷徨っているところを移動カーニバルに拾われます。見世物の世界でリーディングを身につけた彼は、大都会に出て大成功します。ところが、慢心した彼は、女性心理学者に利用され、追われる身となってカーニバルに舞い戻ります。見世物小屋と大金持ちの世界、詐欺師と謎の女性心理学者、実に魅力的なフレームです。

さすがギレルモ・デル・トロと思わせる見事な仕上がりです。40~50年代のハリウッド的フィルム・ノワールのダークなテイストを見事に再現し、かつモダンに作り込んでいます。例えて言うなら、ヒッチコックの「レベッカ」のようなスリルを持っています。映画ファンにとっては、たまらない出来だと思います。ただし、玄人好みが一般的にもウケるかと言えば、多少異なります。恐らく、原作に惚れ込んだ監督が、細部にこだわりすぎたためでしょうが、やや冗漫になっている面があります。前半の移動カーニバルのシーンは、主人公の内面を描くためにも、皮肉で教訓めいたラストのためにも、しっかりと描くべきであり、デル・トロもそうしています。ただし、今日的に言えば、テンポを悪くしてる恨みが残ります。ヒッチコックなら、もう少しスマートに処理していたと思えます。

「レベッカ」の大きな特徴は、映像と音楽が一体となった滑らかさだと思います。あたかもロマンティックなクラシック曲を聞いているかのような感覚を覚えます。単なるテンポの良さではなく、観客を捉えて放さないような流れがあります。ダークで、ファンタジックな要素を持つ映画は、その世界に、観客を巻き込んで、一気に結末まで持って行くフローが大事だと思います。デル・トロも、そのことを十分に理解していることは、彼のこれまでの作品が証明しています。本作では、残念ながら、前半で流れを作れていません。作り込みは丁寧にされているように思います。問題は、ウィリアム・デフォーかも知れません。見事な演技をしていますが、もっとアクの強い、出ただけで強烈な印象を与えるような役者が必要だったと思います。ちなみに、後半では、ケイト・ブランシェットが出ただけで、見事な流れが生まれています。

ケイト・ブランシェットは、出演しただけで、その映画がしまるという不思議な女優です。この人ほど、多様なキャラクターを演じた人はいないと思われます。エリザベス一世、エルフの女王、キャサリン・ヘップバーン、果てはボブ・デュランまで演じてきました。今回は、謎の心理学者役ですが、またしても彼女の出演で、映画全体のトーンが定まったと言えます。彼女なしで、この映画は成立しなかったとさえ思います。いかにもケイト・ブランシェットらしい役柄で、もはや、演技を楽しんでいるといった風情まで感じます。同様に、姿が見えた途端に、デル・トロ映画だなと思わせるのがロン・パールマンです。B級映画の顔とも言えます。デル・トロのヘルボーイが当たり役ですが、TVシリーズの「サンズ・オブ・アナーキー」も忘れられません。

カーニバルと呼ばれる移動式遊園地は、アメリカ人の大好きなアトラクションです。アメリカにいた頃は、カウンティ・フェアのカーニバルへ子供たちを連れていったものです。カウンティ・フェアは、郡の農産品の品評会から始まっていますが、NY郊外では、ただのお祭りです。当時、サイドショーと呼ばれる見世物小屋は、既に無かったと記憶します。日本でも、かつてお花見などでは、見世物小屋が並んだものですが、いつの頃からか、姿を消しました。子供の頃、見たいと親にせがむと、くだらないインチキだ、と一喝されて終わりでした。結果、どうも見世物小屋に入った記憶がありません。ただ、小屋の前で、独特な口調で語られる口上だけは覚えています。ダーク・サイドの存在を告げるその声は、実に恐ろしいものでした。(写真出典:filmarks.com)

2022年4月1日金曜日

ラムドラ

2~3年前、友人から鹿児島の土産としてもらったのが、ラムドラとの出会いでした。その衝撃的な美味しさに腰を抜かしました。どら焼きに何か混ぜるなど、邪道だと思っていました。とても上質なラムレーズンと餡子がベスト・マッチで。これぞ東西文化の幸福な出会いだと思いました。また、しっとり系の皮が、実によく合います。もう、日本を代表するお菓子と言ってもいいと思います。一つ、文句をつけるとすれば、直裁で、なんとも田舎くさいネーミングです。ラムドラは、鹿児島県の西部、日置市湯之元の和菓子屋「梅月堂」で製造販売されています。

湯之元温泉郷は、江戸初期開湯という歴史ある温泉です。その駅前の商店街のなかに梅月堂はあります。行ったことはありませんが、グーグル・アースで見る限り、かなりひなびた商店街にあるごくありふれた和菓子屋の風情です。大正10年創業で、温泉客相手に”湯之元せんべい”を売っていました。ネットで見る限り、上に山椒の葉が焼き込まれた、なかなか美味しそうなせんべいです。よくある温泉せんべいとは少し変わっており、独創性を感じさせます。また、“めれどら焼き”も看板商品とのこと。しっとり系の皮ということなのでしょうが、これまた独創性を感じさせます。

ラムドラは、2016年に発売されています。店を継ぐために、東京から戻った4代目が考案したようです。開発コンセプトは、働く女性がこれを食べたらまた明日から頑張れるご褒美になるもの、そして和菓子の中で一番とんがったものをつくることだったそうです。大豆も変え、ラムレーズンも自家製にするなど試行錯誤を重ね、半年ほどで完成したと言います。ラムには、ラムの代名詞とも言えるマイヤーズのダークラムを使うこだわりようです。完全に手作りのラムドラですが、大粒のラムレーズンも、職人の手によって、きっちり7粒づつ入れてあるようです。どこから食べても、ラムレーズンが味わえるためのこだわりだと言います。

ラム酒は、サトウキビから砂糖を精製する際に出る廃糖蜜(モラセス)をアルコール発酵させ、さらに蒸留して樽熟成させたものです。カリブ海に欧州からサトウキビが持ち込まれ、砂糖生産が始まるとともに、生まれた酒です。18世紀以降、英国海軍が水兵たちに支給し、カリブの海賊たちも好んだ酒として有名です。カクテル・ベースとしては、ジンやウォッカと並んで消費が多く、また菓子作りにも活用されています。ラムドラが使っているマイヤーズは、19世紀、ジャマイカで創業されました。ダークは、ホワイト・オークの樽で、平均の倍となる4年熟成されたラムです。この芳醇さがなければ、餡子とのマリアージュも成立しません。

そもそも私は、レーズン好きです。六花亭のマルセイ・バター・サンドをはじめとするレーズン・サンドは好物です。なかでも、ラムレーズンは大好物と言えます。ラムレーズンは、チョコレートとの相性も抜群であり、他にもチース・ケーキ、パウンド・ケーキ、アイスクリーム等にもよく使われています。それを餡子と合わせるとは、誠に秀逸なアイデアであり、実にいい塩梅で一体化させています。昔からなかったのが不思議なくらいです。(写真出典:gurusuguri.com)

夜行バス