2022年4月23日土曜日

玉羊羹

まりもようかん
コストコに、北海道の牧家(ぼっか)のプリンが出た時には、そのパッケージングに驚きました。ゴム風船の中にプリンを充填していたのです。北国の人間は、すぐに阿寒湖名物「まりもようかん」を思い出します。北海まりも製菓が1953年に発売した商品です。まりもに似せて、緑色に着色された羊羹をゴム風船に充填して作られます。子供の頃は、羊羹など、決して好みではありませんでしたが、”まりもようかん”だけは別でした。要は、味ではなく、爪楊枝を刺した瞬間に、風船がペロリとむける面白さにつられたわけです。かつては、道東へ旅した人の定番土産でした。現在も販売されているようですが、今となってはノスタルジックな昭和を感じさせる商品です。

ゴム風船を使った羊羹は、まりもようかんのオリジナルではありませんでした。全国的には「玉羊羹」と呼ばれ、1937年に、福島県二本松の「玉嶋屋」が発売したものが有名だったようです。玉嶋屋は、羊羹の名店として知られますが、そのルーツは、江戸後期に創業した玉屋にあります。玉屋の和菓子を気に入った二本松藩主が、亭主を江戸に派遣して羊羹作りを学ばせ、二本松羊羹が誕生しています。玉屋で修行した人が、明治初期、暖簾分けで出したのが玉嶋屋です。玉嶋屋の羊羹は、薪で炊き、竹皮に包むという当時の製法を頑なに守っています。充填式が主流となる以前の竹皮羊羹は、乾燥した砂糖が表面にバリバリと付いていたものです。それが、羊羹の乾燥を防いでもいました。

玉羊羹は、1937年、日中戦争が勃発した年に開発されています。玉嶋屋は、福島県知事と軍隊から、戦地への慰問用に、柔らかさを保った羊羹の開発を依頼されます。福島県は、連隊区が置かれる帝国陸軍の主要拠点の一つでした。ゴム風船に充填するというアイデアは、当時、既に出回っていた”アイスボンボン”を参考にしたようです。充填式にしたことで、日持ちも1ヶ月と長くなりました。当時、既にアルミ箔紙のマチ付き袋への充填機は開発されていたようです。ただ、まだ一般的ではなく、かつ高価だったので、ゴム風船が使われたのでしょう。戦前は、”日の丸羊羹”という名前で販売されていました。敗戦後は、軍国主義色を消すために、玉羊羹に改称されています。

実は、玉嶋屋も玉羊羹の発祥の店というわけではありません。1930年に、広島の扇屋が発売した”丸形柿羊羹”が始まりという説があるようです。干し柿ジャムを羊羹に練り込んだ商品だったようです。扇屋は、もみじ饅頭の老舗の一つでもありましたが、2015年に倒産しています。玉羊羹としては、新潟県小千谷市片貝の本丸池田屋の”玉花火”もあります。池田屋は、明治創業の羊羹の老舗ですが、玉花火は、近年の発売です。煙火師の多い町として知られる片貝は、1985年、直径120cmの正四尺玉の打ち上げに成功します。当時としては、世界最大の花火としてギネス・ブックにも登録されました。それを記念して作られてたのが色とりどりな玉花火だったようです。余談ですが、片貝まつりで打ち上げられる正四尺玉は、大きすぎて、たまに打ち上げに失敗するようです。

牧家のプリンは、面白いアイデアだとは思いましたが、パッケージに頼った商品なのだろうと思い、買うことはありませんでした。その後、あまり見かけなくなったので、不人気で仕入れを止めたのかと思っていました。ところが、実際には、美味しいと大評判になり、入荷すると即刻売り切れるのだそうです。どうりで見かけなくなったわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

マクア渓谷