2022年1月31日月曜日

ホール・イン・ワン

Waialae c.c.
2022年1月、”ソニー・オープン・イン・ハワイ”最終日、松山英樹は、ラッセル・ヘンリーとのプレイオフに進みます。ワイアラエ18番ホール、パー5。セカンドショットは残り277ヤード。松山は、逆光の中、3番ウッドを振り抜きます。実にきれいなドロー・ボールは、ピンそば1mに寄り、松山はイーグルで優勝を飾ります。前年10月のZOZOチャンピオンシップの最終ホールに続く、マスターズ・チャンピオンによる鳥肌もののショットでした。さらに、ハワイアン・オープンと言えば、1983年、青木功が、日本人として初めてPGAツアー優勝を果たした大会でもあります。最終日、同じワイアラエ18番ホール。1打ビハインドの青木が、ピッチング・ウェッジでラフから打ったショットは、ストレートにカップイン。奇跡のイーグルで逆転優勝しています。

チップ・インは、回数を重ねていると、たまに出ることがあります。回数を重ねても、滅多に出ないのがホール・イン・ワンです。その発生確率には諸説ありますが、よく見かける数字は、33,000分の1です。分母はホール数だと考えられます。これは、初心者も含めた全てのゴルファーを対象としており、プロや上級者の確率は、もっと高くなります。1ラウンドに、ショート・ホールが4つとすれば、8,250ラウンドに1回という確率になります。毎日、1ラウンドこなせば、おおよそ22年半に1回達成することになります。週1回ゴルフなら、150年以上かかることになります。ちなみに、アメリカのPGAツアーだと、年間30回平均でホール・イン・ワンが出ているそうです。これは、およそ3,700分の1という確率になり、900ラウンドに1回でるということになります。

素人にとって、ホール・イン・ワンは、やはり奇跡とも、アクシデントとも言えます。偶然の産物ゆえに、素人が達成することもあります。私も、1度やりました。新潟の紫雲ゴルフ倶楽部、飯豊コース2番ホール、150y、8番アイアンでした。もちろん、ピンは狙いましたが、トップしたので、「あらっ!」と声を出してしまいました。おおよそ素人のホール・イン・ワンは、ミス・ショットから生まれます。同伴プレイヤーの達成を目撃したこともありますが、やはりトップしたボールが転がって入りました。アクシデントなればこそ、ゴルファー保険のホール・イン・ワン特約も存在するわけです。

もちろん、私も加入していました。ホール・イン・ワン特約は賞金ではありません。あくまでも事故に伴って発生した損害を補償するものです。自分用の新しいゴルフ・クラブを買っても補償されません。記念植樹や記念品の配布費用等が対象となり、そのコストが補償されます。私も、早速、給付金の請求書類を取り寄せました。書式を見て、驚き、あきれました。記入すべき最初の項目が「事故日」となっていました。どうせ私は下手なゴルファーで、ホール・イン・ワンが事故であることくらい、言われなくても分かっています。確かに保険契約上は「保険事故」であることも理解しています。とは言っても、幸運に恵まれて極めて希なことを達成したわけですから、「達成日」と表記したうえで、どうしても必要なら、(保険事故日)と小さく書けばいいじゃないですか。

ロータリークラブの仲間に、当該損保会社の支社長がいたので、このことを、熱く語りました。苦情ではなく、保険会社のホスピタリティ向上のために申しあげたわけですが、大笑いされただけでした。ちなみに、その時点で契約していた補償額上限は50万円でした。もちろん、上限まで、キッチリ使い切りました。そのうえ、契約の更新に際しては、上限を100万円に引き上げ、以来、継続しています。残念ながら、その後、使うことはありませんが。ホール・イン・ワン特約は、赤字になることが多く、今は、保険料も上がり、上限額も50万円となっているようです。ただ、更新契約に関しては、100万円が認められています。(写真出典:Waialaecc.com)

2022年1月30日日曜日

”イワン雷帝”

John Demjanjuk(1988)
Netflixのオリジナル・ドキュメンタリー「隣人は悪魔 -ナチス戦犯裁判の記録-」(2019)を見ました。16世紀、ロシアの初代ツァーリとなったイヴァン4世は、恐怖政治と苛烈な性格から、「イワン雷帝」と呼ばれます。ただ、”雷帝”は、日本独自の命名であり、ロシアでは、”恐怖のイヴァン”と呼ばれ、英語では”Ivan the Terrible”と表記されます。ナチス・ドイツが、ポーランドに作った絶滅収容所の一つにトレブリンカ強制収容所があります。ここで73万人のユダヤ人が虐殺されています。トレブリンカ強制収容所に、そのサディスティックな残忍さゆえに”イワン雷帝”と呼ばれた看守がいました。1986年、ウクライナ移民としてアメリカで暮らすジョン・デミャニュークは、この”イワン雷帝”だと特定され、市民権剥奪のうえ、イスラエルに引き渡されます。

88年、イスラエルでの公開裁判の結果、ジョン・デミャニュークは死刑判決を受けます。デミャニューク側は、ただちに控訴します。控訴中に、ソヴィエトに残っていた看守たちの証言から、別人である可能性が浮上しました。これが決め手となり、93年の控訴審では無罪を勝ち取り、アメリカに戻ります。しかし、2002年、再び告訴され、市民権剥奪のうえドイツへ送還されます。2011年、91歳になっていたデミャニュークは、有罪判決を受けます。そのニュースは世界中に配信され、ナチスの戦争犯罪に対するドイツの峻厳な姿勢に、改めて驚かされました。デミャニュークは、控訴しますが、翌2012年、亡くなっています。2度、有罪判決を受けたわけですが、デミャニュークは、一貫して、自分は”イワン雷帝”ではないと主張し続けていました。

デミャニュークの告発も判決も、主として証言と身分証に基づいています。証言は、トレブリンカの生存者たちのものであり、身分証は、KGBが偽造したものとの疑念が残ります。イスラエルでの裁判は、アイヒマン裁判と同様、ショーとして行われます。高齢となった収容所の生存者たちの肉声を、世界に届ける最後のチャンスだったわけです。生存者たちの戦後は、厳しいものだったようです。なぜ生き残ったのか、というわけです。ナチ協力者だから生還できたのではないか、という疑念もあったはずです。デミャニュークは”イワン雷帝”ではない、という証言は出にくい背景もあったわけです。実は、収容所のスタッフとして働かされたリトアニア、ポーランド、ウクライナ等々の人びとの戦後も、同様に厳しいものでした。

強制的だったとしても、虐殺する側にいたわけですから、故郷で暮らすことはできず、多くは渡米しました。そして、息をひそめて、善良な市民として暮らしてきました。デミャニュークも、まさにその一人だったわけです。アメリカは、元ナチスに寛容だったと言われます。ドイツを復興させ、共産圏に対する盾とするために、彼らは必要な人材でした。同様に、アメリカの復興のためにも、科学者だけでなく、勤勉で優秀な労働者は必要な存在でした。ソヴィエトから提供されたものも含め、アメリカは強制収容所の看守たちのリストを持っていましたが、ほとんど何もしてこなかったようです。彼らが、根強い反共思想の持主だったことが、放任した理由の一つだとも言われます。いずれにしても、生き延びるためにナチの手下にならざるを得なかった人々も、歴史の被害者と言えます。

とは言え、”イワン雷帝”のサディストぶりは常軌を逸していたのでしょう。今となっては、ジョン・デミャニュークが”イワン雷帝”だったのか否か、真相は闇の中です。映像のなかで最も気になったのは、デミャニュークの屈託のない笑顔と態度です。楽観的で粗野で、まるで絵に描いたようなアメリカ人と言えます。冤罪を被った人々は、もっと戸惑い、怒り、悲痛な表情をしているものです。デミャニュークは、彼の考えるアメリカ人に成りきるために、努力を重ねてきた人です。死刑を宣告されても、なお楽観的なアメリカ人を演じ続けていたように見えます。その背景には、尋常ならざる決意と覚悟があったとしか思えません。過去を思えば、死刑もやむなし、しかしアメリカで築いた家族だけは汚名から守らなければならない、ということだったのでしょう。とすれば、デミャニュークは、やはり”イワン雷帝”だったか、あるいは、少なくとも絶滅収容所の看守だったのだろうと想像せざるを得ません。(写真出典:australianjewishnews.com)

2022年1月29日土曜日

「ミュンヘン:戦火燃ゆる前に」

監督:クリティアン・シュヴォホー 原題:Munich–The Edge of War 2021年英・独

☆☆☆ー

第二次世界大戦の1年前、1938年に行われたミュンヘン会談を巡るフィクションが原作です。オックスフォード大の同級生である英・独の青年官僚が、ヒトラーを阻止すべく、情熱的に動く、といった内容です。そつのない演出が緊張感を保ち、よく作りこまれた映像、キャストの演技も含めて、評価できると思います。ただ、問題は脚本です。 歴史的事実を散りばめたことで焦点がぼけ、かつ肝心なところではリアリティに欠けます。ヒトラーの東方生存圏構想と思われる議事録がキーとなっていますが、それは戦争直前の緊迫した外交を左右するほどのインパクトを持ちません。チェンバレン英国首相の宥和政策の再評価、そして青年官僚たちの情熱を描きたかったのでしょうが、実録っぽいストーリー展開や演出が仇になったように思えます。実録もの的なエンドロールは、拍子抜けのお笑いものです。

ミュンヘン会談は、チェコスロバキアのズデーテンの帰属問題を巡る、ドイツ、英国、フランス、イタリア首脳による一連の会議を指します。ズデーテン地方は、もともとオーストリア=ハンガリー帝国の一部でしたが、第一次大戦後、チェコスロバキアの領土になります。ただ、ドイツ人の多い地方であり、分離独立運動が盛んに行われていました。ヒトラーは、これに介入、ズデーテンのドイツ編入を要求します。ヒトラーの真意は、チェコスロバキア全土をドイツの生存圏として併合することにありました。ヒトラーは、武力行使も辞さない強行姿勢で圧力をかけます。先の大戦から間もない時期であり、欧州列強は、平和を望む国民の声、準備不足気味の兵力を背景に、ギリギリまで平和的解決を模索します。結果、チェンバレンが主導したズデーテンのドイツへの割譲が合意され、戦争は回避されました。

しかし、ヒトラーは、協定を破り、半年後にはチェコ全土を併合します。ミュンヘン会議、あるいはチェンバレンの宥和政策は、ヒトラーを増長させ、第二次大戦を引き起こしたと批判されています。一方、第二次大戦開戦までの時間を稼いだことで、連合国側の戦争準備が進んだという評価もあります。ただ、チャーチルが批判するとおり、その間に、ヒトラーも戦力を増強したわけです。本作では、チェンバレンの平和主義を貫く姿勢が強調され、チェンバレン再評価が主眼なのかとも思えます。ミュンヘン会談時、チェンバレンは、ヒトラーと単独の不戦覚書を交わしますが、その背景に青年官僚がいたという筋書きになっています。ただ、その不戦覚書自体の評価が低いので、プロットとしては弱いものになっています。チェンバレンを演じたのは、アカデミー俳優のジェレミー・アイアンズですが、名演だと思います。 

ちなみに、 チェンバレンの最大の懸念は、共産主義であり、 ヒトラーをソヴィエトへの盾にしようとした、 という説もあります。ただ、 映画では触れられていません。 また、 ドイツの青年官僚は、反ヒトラー・グループ“黒いオーケストラ”の一員のように描かれますが、組織の描き方が、浅く、安直であるために、まったく中途半端な印象になっています。もっとも、ソヴィエト要素も黒いオーケストラも、しっかり描けば、映画の焦点は、さらにボケることになったとは思います。ちなみに、黒いオーケストラは、国防軍のルートヴィヒ・ベック上級大将を中心に、軍人と官僚たちで組織されていました。実際に、ズデーテン出兵を機に、ヒトラーを逮捕する計画もありましたが、ミュンヘン会談が行われたことで、実行は見送られています。ベックは、1944年7月20日のヒトラー爆殺とクーデターが失敗に終わった際、逮捕され、自決を許されています。

黒いオーケストラが、ヒトラーを暗殺しようとした動機は、戦争遂行を巡る意見の対立でした。全体主義やユダヤ人迫害が、彼らの眼中になかったことは、よく知られています。戦後、 ドイツは、ホロコーストを前面に出すことで、他の戦争犯罪を逃れてきた、という批判があります。アメリカが、ドイツを対ソヴィエトの盾とするために、戦争犯罪追及よりも復興を優先したためとも言われます。本作のプロットにユダヤ人問題は一切関係しません。 ただ、取って付けたように迫害されたユダヤ人女性が登場します。 ドイツでは、ナチスを扱った映画を撮る際、必ずホロコーストに触れなければならないのかもしれません。(写真出典:blochbuster01.com) 

2022年1月28日金曜日

紳士の嗜み

W.チャーチル
世界的に喫煙人口は減少の一途をたどっているわけですが、2020年、アメリカのタバコ販売数が、20年振りに増加したそうです。非喫煙の流れは若者たちから始まったわけですが、販売増加も若者たちが主導した模様です。その背景には、コロナ禍によるストレスの増加やコミュニケーション不足があるようです。タバコとコミュニケーションに関して言えば、知らぬ者同士であっても、タバコを吸いながら交わす会話は友好的なものになります。共犯幻想かもしれません。さらにNYタイムス紙の調査によれば、若者たちの間に“ウェルネス疲れ”、つまり健康ブーム疲れも生まれつつあるようです。

かつて、喫煙は”紳士の嗜み”と言われ、男性に関して言えば、吸わない人は希でした。また、世の中に、タバコの吸えない場所も希でした。会社では、自席でも、会議室でも吸い放題でした。多数が長時間に渡って会議を行えば、部屋は紫にかすむ程でした。当時を考えれば、タバコを吸わない人、タバコの嫌いな人にとっては、まさに地獄だったと思います。それが、完全に逆転したのが、ここ20年くらいのことでしょうか。いまや、喫煙者は、吸える場所を探して彷徨う流浪の民と化しました。喫煙によって肺がんの発生率が高まるという説が、喫煙環境の変化をもたらしたわけですが、その始まりは、1950年代のアメリカとも、イギリスとも言われます。

その頃から、アメリカでは、製造者責任を問う訴訟が始まっていたようです。ただ、肺がんとの因果関係が科学的に立証できない、かつ喫煙は個人が判断したリスクという論点から敗訴が続いたようです。恐らく、巨大なタバコ・メーカーの影響力も関係していたのでしょう。60年代後半には、タバコのパッケージへの警告文記載が義務づけられます。肺がんと特定するのではなく、肺がんも含めた健康へのリクスが強調されます。初期の警告文はマイルドなものでしたが、次第に厳しくなっていきます。国による違いも大きく、肺疾患の患部写真を載せる国もあります。肺が黒くなった写真は、分かりやすいのですが、やりすぎな面もあります。病気になった肺は、大体、黒くなるのだそうです。疾患と喫煙の因果関係が明らかでないまま、写真を使っているわけです。

嫌煙の動きを、社会的弾圧レベルへと引き上げたのは、80年代以降強まった「受動喫煙」という考え方でした。それまでは、喫煙者のオウン・リスクという理解でしたが、副流煙が周囲の人間に与える健康リスクが唱えられます。匂いが嫌だと言っていた嫌煙派は、喫煙者を殺人者と批判し始めます。それ以降の喫煙に対する規制は、もはや迫害、あるいはファッショを思わせるものとなっていきます。喫煙者は、アメリカ・インディアンや戦前の日本における共産主義者のような状況に置かれます。日本以外の先進国では、タバコは1箱千円以上し、屋内は一切禁煙、屋外は自由となります。日本は、1箱600円程度ですが、都会の場合、屋内外問わず、決められた場所でしか吸えません。狭い居留地に追い込められたネイティブ・アメリカンの気持ちがよく分かります。

喫煙が肺の健康を害することは理解できます。ただ、副流煙の影響は、ゼロとは言いませんが、どれほどのものか疑問ではあります。そうした反論も許されないような状況は、まさに全体主義的であり、多様性を否定する方向感を持ちます。それが怖いと思います。近年、タールを燃焼せず、煙も匂いも発生させない加熱式タバコが普及しています。言ってみれば、ただのニコチン吸引器です。タバコの香り、味はタールの燃焼がもたらします。そうした観点からは、加熱式はタバコとは呼べず、いっそのことニコチンの錠剤でも服用すればいい、とも思います。かつて、アメリカの禁酒法がそうだったように、”紳士の嗜み”への弾圧も、女性の社会的地位向上と相関しているのかもしれません。大好きな話があります。男勝りで知られるアルバート・ゴアの母親の発言です。喫煙者にキスするのは、汚れた灰皿にキスするようなものよ。否定しがたい名言だと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年1月27日木曜日

フラットな組織

 IT産業が躍進し、GAFAが世界を席巻すると、会社組織のフラット化、あるいはフラット組織が注目されます。カジュアルな服を着て、フリー・アクセスの職場で、自由気ままに働く姿が、フラットな組織を象徴していました。開発系の企業はもとより、生産を海外に委託し、経営・開発・マーケティングだけを行うビジネス・モデルが、それを可能にしていました。ことに若い人たちが立ち上げるスタート・アップ企業は、皆、そのスタイルです。ただ、ペンシルベニア大のウォートン・スクールの調査によれば、失敗したスタート・アップの多くが、フラットな組織ゆえに崩壊していると言います。大雑把に言えば、統制や調整機能が弱いことの弊害だと考えられます。

組織とは、目的を共有し、統制システムを持った集団だと理解できます。ビジネスにおいては、目標共有と役割分担が組織を構成します。組織の規模が大きくなると、階層化が進み、硬直化傾向が現れてきます。組織のフラット化は、環境変化への対応力、機動性、結束力等の向上に有効であり、個々人の能力を引き出す効果も大きいと考えられます。特に開発系の仕事では効果的であり、ミーイズムの強いミレニアム世代の活用という面からすれば、採用すべき組織形態です。また、IT技術の進化にともない、個々人の情報共有が容易になったことで、統制システムにも変化が生じています。つまり、階層化の必要性が薄れてきたわけです。もっとも、階層化には処遇面も関わっていますが、これはまた別な問題となります。

近年のフラット組織を理論面から支えているのが、”ホラクラシー経営”や”ティール組織”だと思われます。ホラクラシー経営とは、大雑把に言えば、組織階層を無くし、意思決定をトップダウン型から分散型に転換することです。誠に聞こえは良いのですが、多くの前提条件が必要だと思われます。特に、組織を構成するメンバー全員が、等しく高いモラールとスキルを持っていることが、最低限、求められます。スタート・アップの創業者グループには適合するのでしょうが、普遍性には欠けます。組織の統制システムが持つ全体主義的な傾向を排除し、多様性を尊重し、民主的な経営を実現しようということなのでしょうが、理想論のように聞こえます。

ティール組織は、過去からの組織形態を色で定義し、現在、求められている組織を”Teal"、”鴨の羽色”組織と定義しています。声の大きい人が率いる組織が”Red”、役割分担が明確になり階層化されると”Amber”、硬直化した階層の弊害を能力主義で解消する”Orenge”、より一層個人の多様性を活かす”Green”、そしてメンバー同士が共鳴し合いながら一つの生命体のように機能する”Teal”となります。ここでも、やはり大前提が求められています。セルフ・マネジメント(自己管理)、ホールネス(個人の全体評価)、エヴォリューショナリィ・パーパス(進化する目的)の3つだと言われます。これまた、理想論に過ぎ、あたかもユートピアを語っているようでもあります。

いずれも完璧に近い個人を前提とする理想論です。ただ、DX(デジタル・トランスフォーメイション)という未知の領域における組織のあり方に、全体ではなく、個人という視点から挑んでいる点は理解できます。ネットが全てのインターミディアリを否定する以上、そのアプローチは、極めて正鵠を得ていると思います。個人と組織という問題は、組織の誕生とともに発生した古いテーマです。それに、IT技術が、新しい光を与えるであろうことは明確です。ただし、現実的には、組織そのものを否定するのではなく、あくまでも統制システムにフォーカスして、来るべき組織像を考えるべきなのでしょう。スタート・アップの失敗例は、その良い材料になるはずです。(写真:F.ラルー「ティール組織」出典:amazon.co.jp)

2022年1月26日水曜日

スカイツリー

東京スカイツリーが完成してから、今年で10年になります。2000年頃、東京の高層ビル化が進み、電波塔としての東京タワーが限界を迎えたことから、新たな電波塔建設が計画されました。東京タワーの333mに対して、テレビ局等が要請した高さは600mであり、建設地は、ある程度限られます。都内各地や埼玉など、様々な候補地が挙げられたようですが、結果、押上の東武電鉄の貨物駅跡とセメント工場跡地に決りました。高さは634m、武蔵国にちなんだと聞きます。計画当初、建造物としては世界一の高さを狙い、610mが想定されていたようです。ただ、建設中に、ドバイのブルジュ・ハリファが828mで完成し、結果、世界第二位の高さになりました。ただ、タワーとしては世界一だそうです。

たまたま、オープン前の内覧会に行くことができました。ただ、その日は雨。展望台は、雲の中で、何も見えませんでした。後日、展望台にあるレストランに誘ってくれた先輩がおり、夕食にでかけました。ちょうど空気も澄んでいたので、遠くまで見渡すことができ、特に関東平野に浮かぶように立つ筑波山の姿が印象的でした。聞いた話ですが、展望台で、皆が行う事の一つは、自分の家を探すことだそうです。私も探しました。もちろん、見えるわけではありませんが、あのあたりだと確認できるだけで満足なわけです。また、345mの高さから見る東京の夜景も見事でした。一定以上の高さになれば、見える景色に、さほどの違いはないだろうと思っていましたが、明らかに東京タワーから見る夜景とは異なっていました。

NHKの番組で、台湾の風水の第一人者が、スカイツリーは、東京の運気を上げると話していたことを覚えています。川が蛇行するところに立つ高い建物は運気を上げる、と言っていました。東京オリンピック招致が成功した際には、スカイツリーのおかげかとも思いました。風水上、北東方向は鬼門とされます。江戸の町作りも、風水に基づくわけですが、江戸城の北東、上野には寛永寺が置かれました。また、裏鬼門という考え方もあり、芝には増上寺が建立されています。とすれば、スカイツリーは、まさに東京の鬼門に立ち、裏鬼門には東京タワーが立つという綺麗な構図になります。オリンピック招致も結構な話ではありましたが、できることなら、両タワーのパワーで、東京を震災から守ってもらいたいものだと思います。

完成当時、話題になったことの一つが、心柱でした。日本の五重塔は、一つたりとも地震で崩壊していないと言います。なぜなら地面と接しない心柱を持つことで、地面と接する外部構造との間に、揺れの周期にズレが生じ、耐震性を高めているのだそうです。スカイツリーも、中央に避難階段を内包する心柱があり、免震構造の一旦を担うと言います。日本古来の工法が活かされたと話題になりました。ただ、五重塔の心柱は、最上階の屋根に対する重しとして作られたものであり、耐震目的ではありません。また、スカイツリーの心柱は、科学的な免震性の追求から生まれたものであり、古来の工法を取り入れたものではありません。ただ、結果として、免震効果という点ではつながり、話題になったわけです。

スカイツリーで、少し残念に思うのは、ライトアップです。スカイツリーの鉄骨は、筒状になっており、素人ですら、技術的には優れたものだと理解できます。ただ、ライトを当てた際、面が限られるので、あまり映えないという恨みが残ります。対して、面の多い東京タワーやエッフェル塔の鉄骨は、ライト映えがするわけです。ライトアップの設定自体は、見事なものであり、安全性という面も理解できますが、やはり残念な気がします。(写真出典:tokyo-skytree.com)

2022年1月25日火曜日

味付のり

旅先の朝食で出てくる個別包装された味付のりは、いい加減なものが多く、閉口します。味付のり自体は、大好きです。海苔の風味と甘塩っぱい味が癖になります。ただ、ご飯のお供としての海苔は、焼き海苔に醤油が一番良いと思っています。ですから、そもそもホテルの朝食に味付のりというのが気に食わないわけですが、もっと問題なのは、海苔自体の品質の悪さです。味を付けることで、品質の悪さを誤魔化している印象があり、不快です。そのうち、ホテルの味付のりは、どうも西日本に多いな、ということに気づきました。調べてみると、案の定、西日本は、おおむね味付のりの文化でした。

有明は別として、西日本は海苔の生産が少ないから味付のりが多いのか、と思いました。ところが、これは大ハズレ。日本の海苔の主な生産地は、九州と瀬戸内でした。海苔の歴史は、縄文時代にさかのぼるようです。文献としては、既に常陸風土記や大宝律令に登場しており、高価な珍味として重宝されていたようです。海苔の養殖が始まったのは、17世紀、大森海岸でのことだったようです。家康が好んだことから、大森の漁師たちは、江戸城に海苔を献上していました。もちろん、天然の海苔だったわけですが、ある日、生簀に海苔が付着するのを見て、養殖を思いついたとされます。海苔は江戸の特産品になります。

18世紀末には、紙漉きの技術を応用した板海苔が誕生し、海苔の流通は拡大します。江戸末期には、焼き海苔も登場します。そして明治2年、天皇の京都行幸のために、日本橋の山本海苔が味付のりを開発します。程なく一般にも販売され、人気となったようです。海苔の養殖は、明治末期、全国に広がっていったようです。味付のりの大衆化に大きな役割を果たしたのは、1921年に創業した大阪のニコニコのりだったようです。1931年に、ロール式の自動味つけ機を開発、安価な味付のりを販売します。これが大阪での海苔の普及に大きな貢献をしたようです。つまり、大阪の人々にとって、味付のりこそが海苔だったわけです。これが西日本の味付のり文化の始まりだったのでしょう。

きっかけを作ったのはニコニコのりだったとしても、なぜ大阪の人々が、味付のりを好んだのかという疑問もあります。一説によれば、大阪の出汁文化ゆえ、ということになります。しかし、味付のりの味つけは、基本的には醤油と砂糖であり、出汁は使っていません。遠因としての出汁文化は理解できる面もありますが、むしろ、大阪のソース文化こそが直接的背景なのではないかと考えます。日本のソース文化は、大阪のイカリソースから始まりました。1986年、日本初のウースター・ソースを開発・販売しています。恐らく、当時としては、ハイカラなものであり、何にでもソースをかける食文化が生まれたのでしょう。とりわけお好み焼きやたこ焼き、あるいは串カツでは、準主役とも言えます。言ってみれば、味付のりは、ソース風味の食品の一つだったのでしょう。

味付のりの一つに韓国海苔があります。これも人気があります。日本統治時代、韓国では、盛んに海苔の養殖が行われましたが、ほぼ全てが日本へ出荷されていたようです。戦後、ダブついた海苔の消費を拡大するため、日本の味付のりを参考に考案されたのが、ごま油と塩を塗った海苔でした。韓国の人々にとっても、海苔の一般化は味付のりから始まったと言えるわけです。ちなみに、私が最も美味しいと思った味付のりは、伊勢の答志島のものです。肉厚、パリパリ、やや辛い味付け、癖になる味でした。ただ、そのブランドは、生産量が少なく、答志島に行かないと買えないと聞かされました。残念。(写真出典:seikatu-cb.com)

2022年1月24日月曜日

ルラロー

Amazon Original の「LuLaRich」というミニ・シリーズを見ました。カリフォルニアに本拠を置くアパレル会社「LuLaRoe」による、マルチまがい商法、あるいはネズミ講まがいのスキームで、多くの主婦たちが被害を受けた事件のドキュメンタリーです。日本では、久しくネズミ講被害の話は聞かなくなったので、やや驚きました。日本での、ネズミ講、あるいはマルチ商法という表現は、やや曖昧なところがあります。マルチ・レベル・マーケティング(連鎖販売取引、MLM)は、厳しい規制がありますが、適法なビジネスです。ピラミッド・スキーム(無限連鎖講、いわゆるネズミ講)は違法です。

LuLaRoeは、2012年、スティダム夫妻によって設立されました。派手な色使いとパターンを特徴とする女性用のカジュアル衣料を販売し、2014年に発売したレギンスが成功したことから、MLMビジネスを本格化します。MLMは、高額な商品を売りますが、LuLaRoeは安価なアパレルという気軽さ、エントリーのしやすさが特徴です。「家に居ながら、5万~10万ドルの年収」というキャッチ・コピーが主婦層にささり、コンサルタントと呼ばれるLuLaRoeの販売代理店は、わずか3年で10万人以上に膨れあがります。LuLaRoeは、急速な成長に、経営が追いつかず、混乱を生み出し、結果、ネズミ講を疑われてもやむを得ない状況に陥り、多くの被害者を出しました。LuLaRoeは、レギンスをMLMに乗せることで成功し、かつ自らの首を絞めたわけです。

コンサルタントは、5~9千ドル分の在庫を一括して買い取り、倍の価格で、販売します。同時に、新たなコンサルタントの募集も行い、チームを作ることが推奨されます。階層化が進むと、会社から、チーム全体の発注額に応じたボーナスが支給されます。初期に参加したコンサルタントは、月3万ドル以上のボーナスを獲得していたと言います。一方、全体の平均ボーナスは、年間で500ドル程度でした。MLMの典型的な特徴でもあります。ド派手なセミナーやコンベンション、あるいはSNSを通じて、コンサルタントは異常なほど前向きなマインドを植え付けられていきます。アメリカの伝統的な経営手法ですが、MLMの場合、宗教的とも言える巧妙なマインド・コントロールと言えます。ちなみに、マーク・スティダムは、熱心なモルモン教徒です。

コンサルタントは、ホーム・パーティやSNSを使って商品を販売します。リクルートにもSNSが多用されます。LuLaRoeの爆発的成功は、SNSの賜物と言っていいと思います。SNSが、MLMに新たなリスクをもたらしたとも言えます。あまりの過熱ぶりに、生産は追いつかず、倉庫の外まで在庫が置かれ、商品の品質、カスタマー・サービスは劣化の一途をたどります。地方によっては、コンサルタントが過剰となり、2017年、ついにLuLaRoeのMLMは、逆回転を始めます。周囲はコンサルタントだらけとなり、借金して仕入れた在庫は売れず、新規の募集もできず、結局、借金だけが残ります。辞めるときには在庫を買い取るという契約時の約束も反故にされます。全米で、LuLaRoeに対する訴訟が始まり、州当局による捜査も始まります。

LuLaRoe事件の問題点は、参加を希望した主婦層の多さであり、特に地方の主婦層の置かれた厳しい現状なのだと思います。その背景には、白人中間層の没落、格差の固定化、子育てのために働けない主婦層、結果、膨らんでいく借金という地方の現実がありました。ドナルド・トランプが人気を集めた背景と同じです。LuLaRoeのコンサルタントは、ほぼ平均年収世帯の白人女性だけだったようです。LuLaRoeは、厳しい現状から抜け出し、かつての生活を取り戻したいという切実な夢を売っていたとも言えます。州当局とも罰金で和解したLuLaRoeは、規模は大幅に縮小したものの、現在も同じビジネスを続けています。経済的に厳しい没落世帯がある限り、やや危ないものも含めてMLMビジネスがなくなることはないのでしょう。(写真出典:scarymommy.com)

2022年1月23日日曜日

ムーアの法則

Apple II
1978年、大学を卒業して、会社に入ると、最初の配属先は札幌支社でした。担当した仕事の一つが、毎月、営業成績の速報値を本社に報告することでした。午前中に、各営業拠点から、電話で業績報告を受け、それを集計して本社へ”打電”します。打電とは、電報を打つことですが、当時、会社では電話と電報が一体化したようなテレックスを使っていました。まずは、タイププライターのような機械で、紙テープに穴を開けるパンチを行います。作成した紙テープを機械に流してプリント・アウトさせ、数字の確認を行います。ミスがあれば、その部分のテープを切り取り、打ち直したテープをつなぎます。そのうえで、専用回線から本社にデータを送信します。 毎回、締切時刻が迫るなかでの作業であり、緊張したものです。

テレックスは、1931年、アメリカのAT&T社が開始したサービスです。日本では、1956~2002年まで使われていました。1980年代、急速に普及したファクシミリが取って代わり、90年代後半にはパソコンに置き換わりました。1980年、本社人事部の制度担当となり、各種調査業務も担当しました。業務上必要なデータは、システム部に依頼してプリント・アウトしてもらいました。同じ年の後半、メイン・フレーム・コンピューターのオープン・ユース、つまり、一部の業務については、エンド・ユーザーが直接コンピューターにアクセスする政策が開始されます。各部の担当者が、簡易言語を教えられ、パンチ・カードを打ち込み、プログラムを深夜のバッチ処理にかけました。

パンチ・カードは、実に面倒な代物でした。ほどなくして、オープン・ユースのヘヴィー・ユーザーだった私は、特別にシステム部のコンソールから、直接、メイン・フレームを動かすことを許されました。一方、1977年には、”Apple II”が登場し、パーソナル・コンピューター時代が幕を開けていました。各メーカーは、開発したパソコンの試供品を会社に持ち込みます。当時はオフコン(オフィス・コンピューター)と呼ばれていました。私は、誰も使っていない試供品1台を部に持ち込み、様々遊んでみました。言語はBasicでしたが、簡単な動画作りから始め、パート・タイマーの給与計算システム等を作成しました。面白かったので、家用にも、簡単なBasicで動くコンピューターを買いました。1983年には、日本IBMが日本語で動く「マルチステーション5550」を発売します。社内でも5550が標準装備になります。

1987年、NYに赴任する際には、IBM5550と東芝のラップトップを持参し、業務管理や会計処理、レターやプレゼン資料の作成に使いました。もっとも、1985年に登場したばかりのラップトップは、まだ重くて、ラップ・クラッシャーとも呼ばれていました。1993年に帰国すると、日本はワード・プロセッサー、いわゆるワープロ全盛時代を迎えていました。日本語入力機能の便利さが受けたのでしょう。ただ、互換性と日本語に強いDOS/Vの登場、そして1995年、マイクロソフトのWindows 95発売によって、世はパソコンとネットの時代に突入していきます。社内でも、ワープロはパソコンに駆逐されていきました。当時は、マウスの使い方に慣れない人たちが多く、マウスを空中にまで持ち上げるなど、珍妙な光景もありました。Windows 95は、我が家へのパソコン導入のきっかけでもありました。

思えば、私の会社員生活は、パソコンの登場と驚異的な進化の時期に重なっていたように思います。その進化を、影でリードしていたのはムーアの法則でした。1965年、インテルの創業者の一人ゴードン・ムーアは、集積回路上のトランジスタ数は、毎年倍になると予測します。1975年には、2年で倍と修正されますが、技術の進化は、まさにムーアの法則どおりに進みました。数年前から、ムーアの法則の終焉、という言葉も多く見かけるようになりました。確かに法則性は失われつつあるのでしょうが、半導体の微細化、高層化は、留まるところを知らず、進化し続けています。(写真出典:appleinsider.com)

2022年1月22日土曜日

バッチャン

ハノイの東には、ホン川が流れています。紅河とも記載される大河は、雲南省に発し、トンキン湾に注ぎます。ハノイ以東にデルタを築き、広大な水田地帯を構成しています。酸化鉄を多く含むため、川は赤みがかった色をしており、紅(ホン)河と呼ばれます。ハノイ南東で、ホン川が蛇行するあたりにバッチャンがあります。ハノイ中心部から、10kmほどの距離にあります。ヴェトナムで、最も有名な陶器づくりの村であり、成人の9割が陶器に関連した仕事を行っていると聞きました。 古くから海外へも輸出され、アジアを代表する陶器の一つでもあります。ちなみにバッは茶碗、チャンは村を意味するそうです。

バッチャンの陶器は、ホン川の恵みとも言われます。川が運ぶ良質の粘土が、蛇行点で堆積され、バッチャンの陶器になるからです。恐らく、ホン川の酸化鉄も釉薬づくりに適していたのでしょう。また、輸送にも最適な場所であり、ホン川を通じて国内外に運ばれたわけです。ヴェトナム文化は、日本と同じく、中国の影響を大きく受けています。支配されていた時期もあることから、ヴェトナムの方が中国色が濃いように思えます。陶磁器も同様です。ヴェトナムの焼き物は、古くから存在していましたが、本格化したのは、元朝の影響を受けた磁器や景徳鎮に刺激された染付が作られるようになった頃と言われます。

安土桃山時代には、日本にも輸出され、「安南焼」と呼ばれていたようです。ただ、この時期、ヴェトナムの陶磁器は衰退期に入っており、質の悪い製品が多かったようです。日本の茶人たちは、その雑さを趣と捉え、好んだようです。粗悪な量産品と見るか、素朴な味わいと見るか、難しいところです。詰まるところ、受け手の問題ではありますが、民芸運動を巡る議論を思い起こします。柳宗悦は、民芸に「用の美」を見いだし、美術として光をあてます。ただ、それが芸術かどうかについては議論も多く、北大路魯山人等は、厳しく批判しています。バッチャンの陶器は、どこか日本の民芸に通じる味わいがあります。

バッチャンは、古くから、生活陶器、装飾工芸品、建築用陶器等、幅広く製作してきたようです。ただ、最もバッチャンらしいのは、素朴な生活陶器だと思います。大人気のベトナム雑貨にも通じる味わいです。すべて手作りという風合の良さ、有名なトンボはじめ、身近で違和感のない絵柄、日本人には、馴染みやすいどころか、懐かしさすら感じさせます。日本のどこかの窯で焼いたと言っても通るくらいです。同じく中国文化の影響を受けている、と言えば、それまでですが、それ以上に、ヴェトナムと日本の感性の類似性によるところが大きいのではないでしょうか。細長く海に面した国土、米食文化、水田風景、野菜好き、うま味に使う魚醤等々、多くの類似点があります。生活陶器が似通っていても、何の不思議もありません。

初めてヴェトナムへ行った時、バッチャン焼の水煙草用の喫煙具を買いました。小ぶりな急須に金属の長い煙管を付けたような代物です。もちろん使うために購入したのではなく、置物として面白いと思ったわけです。やや古びた感じだったので、これはアンティークなのか、と聞いてみました。これは、アンティーク風に仕上げただけで、本当のアンティークなら、値段は100倍を超えると言われました。古バッチャン、それも初期のものは、高価で取引されているようです。ただ、見た目には、現代のものと、さほど大きな違いはありません。バッチャン焼は、昔とあまり変わっていないということなのでしょう。(写真出典:333store.jp)

2022年1月21日金曜日

もうよかろうか

萩 指月城跡
萩の指月城では、月始め、藩主が「もうよかろうか」と問い、家老たちが「まだお早う御座います」と答えるのが慣わしだったと言います。また、毎年元旦には、家老たちが「倒幕の機はいかに」と問い、藩主が「時期尚早」と答えていたそうです。長州毛利家の遺恨の深さが、明治維新につながったという話ですが、260年間も熟成に熟成を重ねた恨みなど、世界史的にも、希に見る一級品と言わざるを得ないと考えます。それほどまでに、関ヶ原後の家康による毛利家への処分は厳しかったとも言えますし、むしろ毛利家を断絶しなかったことが家康の痛恨の失策とも言えます。司馬遼太郎は、これを「千慮の一失」とまで言っています。

実は、“千慮”の家康は、毛利家断絶を決めていました。ただ、毛利家家臣吉川広家のたっての願いにより、減封どまりとしています。吉川広家は、関ヶ原の合戦のおり、家康と内通し、毛利軍を動かさなかったという大功績があり、報償として岩国を拝領していました。毛利家を存続させるためなら、岩国を返上するとまで言われた家康は、論功行賞徹底の観点から、やむなくその願いを聞き入れました。とは言え、西国10カ国を支配し、実質200万石と言われた毛利家は、長州に追いやられ、交通不便な萩を居城とさせられ、石高は36万石まで落とされます。家臣団を維持することはできず、それでも萩までついてきた多くの家臣たちは、百姓に身をやつすしかなく、重臣ですら、食べるために田畑を耕したと言います。

江戸期を通じて、元の家臣たちを中心に、組織的な新田開発が行われ、幕末の頃には、実質100万石まで近づいていたようです。また、交通の要所であったこともあり、早くから商品経済にも着目していました。米、塩、紙は、防長三白と言われ、特産品になっていました。毛利家は、着々と倒幕資金を貯めていたとも言えます。人材育成も然りだったのでしょう。高杉晋作が組成した奇兵隊は、身分にこだわらない近代的兵団の始まりとして有名ですが、駆けつけた農民たちは、260年前の家臣たちの末裔だったと言われます。皆、その日が来るのを、ひたすら待っていたわけです。世代を超えて、260年も続く怨念とは、実に空恐ろしいものでありますが、その怨念がなければ、明治維新も成らなかったわけです。

会津では、薩摩の人気が高く、長州が嫌われる、と聞きました。薩長に壊滅させられた会津ですが、明治期、薩摩は会津の復興に手を貸していたとも聞きます。江戸期最強と言われた両藩ゆえ、互いをリスペクトする気持ちもあったのでしょう。一方、長州の不人気は、会津戦争時、長州兵が激しい攻撃を行ったからだと想像出来ます。ところが、長州は、長岡藩との北越戦争に手間取り、会津戦争には参戦していません。また、事後処理も担当していません。戊辰戦争は、本当に必要な戦争だったのかという疑問があります。恐らく、長州による徳川家に対する執拗な復讐が、記憶に深く刻まれているから嫌われるのでしょう。長州の徳川家に対する積年の恨みは、そう簡単に晴らせるものではなかったということでもあります。

1986年、戊辰戦争から120年が経過したことから、萩市は、会津若松市に、友好都市提携を申し込みます。「もうよかろうか」というわけです。会津若松市からの回答は「時期尚早」でした。指月城における藩主と家老たちの会話を踏まえた発言かどうかは不明ですが、実に皮肉な回答です。東日本大震災のおり、萩市は、会津若松市に対して様々な支援を行っています。後年、会津若松市長は、萩市を訪れ、お礼を申し述べますが、あわせて「和解という意味ではない」と断言しています。260年の怨念は、武力をもって晴らされましたが、同時に、少なくとも150年の怨念を生んだわけです。(写真出典:yamaguchi-tourism.jp)

2022年1月20日木曜日

スカースデール

ウェストチェスター郡スカースデール村は、NYのベッドタウンです。マンハッタンの北30kmに位置し、メトロ・ノース鉄道のハーレム・ラインを利用すれば、グランド・セントラル駅から50分弱、直行運転なら30分強で着きます。 森の中に家が点在し、例えて言うなら軽井沢のような村です。かつてアメリカの中流を代表するとまで言われたスカースデールは、豊かなコミュニティです。中心を成すのは広い庭を持つ邸宅の数々であり、その周囲に、使用人たちが住んでいたと思われる家々が広がります。1987~1992年、我が家もスカースデールに住みましたが、最初の家は、恐らく村で一番小さな家でした。その後、広さも家賃も5割増しの家に越しましたが、それでも下の中くらいでした。

日本では、「一億総中流」と言われた時代でしたから、アメリカのミドル・クラスの定義の高さに驚いたものです。邸宅は、おおむね門から玄関が見えません。自宅の庭で、結婚式やガーデン・パーティが開かれていました。邸宅は、当時の価格で、1.5~2億円と聞きました。日本の不動産価格からすれば、それでも安いと思いました。ただ、購入後、購入額と同程度のランニング・コストが、毎年かかるとのことでした。少なくとも、数人の専属庭師とメイドは、絶対必要だと想像できます。著名人も、少なからず住んでいたようですが、坂本龍一・矢野顕子夫妻が越してきたことを覚えています。邸宅周辺の家々も、日本なら高級住宅クラスです。ニューイングランド様式の家が多かったのですが、外見以上に、屋内は広く、豪華なものでした。

スカースデールは、基本的に白人の村です。ただ、セキュリティの良さ、教育レベルの高さから、日本の駐在員たちの人気となり、当時、人口の1割が日本人という状況にまでなりました。口の悪いマンハッタンのタクシー運転手たちは、”JJタウン”と呼んでいました。 ジューイッシュとジャパニーズが多い町だというわけです。確かにユダヤ系は多く、ホリデー・シーズンになると、クリスマス・ツリーを飾る家に混じって、ハヌカーを祝う8本一体の燭台ハヌッキーヤを飾る家も多くありました。村営のスカースデール高校は、全米屈指の学力の高さを誇っていましたが、教育熱心なユダヤ系住民の貢献も大きかったのでしょう。日本人以外の有色人種としては、当時、インド人外交官の一家族だけ、住んでいました。

スカースデールを直訳すれば”傷の谷”ですが、岩の多い谷間といった感じなのでしょう。17世紀末に、ケイレブ・ヒースコートが、この土地を手に入れ、故郷だった英国中部の村、サットン・スカースデールにちなんで命名したとされます。アメリカ独立戦争では戦場にもなっており、今でも、掘れば銃弾などが出てきます。農地であったスカースデールが、大きく変貌するのは、1846年、ハーレム・ラインが敷設されてからです。鉄道でつながったことから、マンハッタンで働く人々のベッドタウンになっていきました。スカースデールは、1911年から、代表者たちで構成される委員会によって自治的に運営されています。いわゆる無党派民主主義であり、政治的であることを拒絶してるわけです。人口17,000人程度の裕福な村としては、至極まっとうな選択だと思います。

10年ほど前に、家族でスカースデールを再訪しました。まったくと言っていいほど、何も変わっていませんでした。ごく一部の商店が変わった程度です。かつて、スカースデールには、チェーン店の類いがほとんどなく、皆、個人商店でした。マクドナルドやコンビニは、隣村のものを利用します。ところが、駅舎の一画にスターバックスがオープンしていました。時代の流れですが、恐らくオープンに際しては、村民による是非を巡る議論があったものと想像できます。当時、スカースデールの家、マンション、公共施設は、すべて20世紀初頭に建てられたものばかりでした。これからも、スカースデールは変わることなく、中流の暮らしを維持していくのでしょう。(写真出典:ragette.com)

2022年1月19日水曜日

女性落語家

桂二葉
昨年11月、毎年恒例のNHK新人落語大賞で、上方の噺家、桂二葉が、全員満点という驚異的な審査結果をもって優勝しました。50年の歴史のなかで、はじめての女性の優勝者です。落語には不向きといわれる甲高い声、かつ女性というハンディキャップを克服しての大賞です。これは大きな潮目になるのかもしれません。桂二葉は、桂米二の弟子であり、米朝の孫弟子ということになります。上方落語には真打制度がないので、東京では二つ目の扱いとなるようです。ところが、勢いのある独自の芸風は、下手な真打をはるかに超えています。一門の先輩である枝雀の匂いも感じさせる高座には、大笑いしました。

落語家は、現在、1,000人ほどいるようですが、女性は50人ほどと聞きます。日本初の女性落語家は、上方落語の露の都師匠です。1974年、何度か断られたうえで露の五郎の弟子になりました。師匠たちは、一様に、女性の入門希望者に戸惑ったものだそうです。江戸時代から、男性を前提に歴史を積み上げてきた世界です。戸惑いは当然です。もちろん、入門した方の覚悟と苦労は、並大抵のことではなかっただろうと思います。噺家の世界は、弟子が師匠のものまねをすればいいという世界ではありません。芸を盗んで、我が物にして、はじめて一人前です。そういう意味では、男も女も関係ない世界ではありますが。

とは言え、初期の女性落語家の傾向として、師匠のものまね、あるいは、それがしんどくなると、語り口を講談に寄せていくような傾向もあり、聞いていて、心地よいものではありませんでした。あえて言えば、自分を男性社会に合わせようとしていたのではないでしょうか。そうした先輩たちのあがきやもがきのうえに、次の世代が生まれてきます。印象的には、女性らしさを殺さない芸風になっていったように思います。恐らく、落語界が女性の若手に慣れてきたという環境変化もあったからなのでしょう。2007年には、NHKの朝ドラで「ちりとてちん」が放送されます。若い女性が落語家を目指す話です。私は見たことがないのですが、こだわりの詰まったドラマだったようです。

視聴率は振るわなかったようですが、落語界の変化を踏まえた作品でもあったのでしょう。この時期、気になったことがあります。一部の女性落語家の語り口が、アニメの声優っぽいところがありました。アニメで育った世代なので、自然なのかも知れませんが、嫌な印象を持ちました。男のまねをすることからは卒業したものの、何かにすがろうとする姿勢が透けて見えました。女性落語家の時代は、まだ先かな、と思ったものです。ところが、NHK新人落語大賞で、桂二葉を聞いたときには驚きました。女性としての特性ではなく、桂二葉としての個性をしっかり踏まえ、芸と真っ正面から向き合っているように思えたからです。こうなれば、もう男も女も関係ありません。本当に実力で勝負する時代が始まったのでしょう。

前回のNHK新人落語大賞にも出場した桂二葉は、審査員の柳家権太楼から、ボロカスに酷評されています。ところが、今回、その権太楼が、涙ぐみながら「おめでとう。1年の精進が見える。努力すれば必ず結果を生む。期待してます」と評し、満点を付けました。芸道に身を置くものとして、二葉の精進を理解し、成長ぶりを素直に喜んだのでしょう。受賞後の記者会見で、桂二葉は「「ジジイども、みたか!ざまあみろ!」と叫んだそうです。もちろん、シャレですが、吹き出してしまいました。日本の女性差別に敏感なNYタイムス紙も、二葉の快挙を記事にしています。二葉はん、がんばりぃや、ホンマの勝負は、これからやで。(写真出典:kamigatarakugo.jp)

2022年1月18日火曜日

うま味

近所のスーパーに、カナダ産だというあじの干物が、いつも、安く売っています。中程度のサイズ、丸みのある形、肉厚と立派なものです。問題は味です。恐らく機械で干しただけなのでしょう。塩味もうま味も、大いに不足しています。ただ、安価で形が良いので、文句は言えません。そこで、日本酒に魚醤、ないしはアンチョビ・ペーストを加えたものを振りかけ、多少置いてから焼きます。干物の王様である沼津産とまでは言いませんが、かなりの上物に変身します。沼津産は、軽いくさや液を通してから干していると思われますので、それを真似たわけです。

要は、うま味を足してあげるわけです。かつて、味覚は、「味の四面体」として、甘味、酸味、塩味、苦味が基本とされていました。その他の渋味や辛味といった味は、四面体の組み合わせ、あるいは四面体に化学的刺激や物理的刺激が加わったものと整理されていました。日本では、古来、うま味が重視されてきましたが、科学的には解明されていませんでした。1908年、東京帝大の教授だった池田菊苗が、昆布からうま味の素であるL-グルタミン酸ナトリウムを抽出することに成功します。しかし、これが5つ目の味覚かどうかについては、学界でも議論が続いていました。ところが、2000年に至り、味蕾にグルタミン酸受容体が発見されたことにより、うま味は、5番目の味覚として認知されました。

うま味の成分は、菊田がグルタミン酸を発見してから5年後、弟子の小玉新太郎が鰹節からイノシン酸を、戦後、国中明が椎茸からグアニル酸を発見しています。いずれも日本での研究成果ですが、欧州にもうま味は存在します。フランス料理のフォンやフュメ、ブイヨンやコンソメ、トマト、チーズ等が欧州のうま味を構成しています。ただ、欧州では、うま味を認識し、追求するということはありませんでした。その最大の理由は、水にあります。欧州の硬水では、出汁を抽出することはできません。フォンもコンソメも長時間煮込むという手間がかかります。日本のうま味は、軟水がゆえの文化だったわけです。なお、世界に認められたうま味ですが、日本語そのままに”Umami”と表記されています。

タンパク質は、炭水化物、脂質とともに三大栄養素の一つとされ、筋肉や内臓を作っています。タンパク質は、20種類のアミノ酸から構成されます。グルタミン酸は、その一つです。うま味は、タンパク質摂取のシグナルになっているという話を聞きます。つまり、人間は、グルタミン酸を含む食品を食べ、うま味を感じ、美味しいと思いますが、それがタンパク質の摂取を促す仕組みになっているというわけです。実は、母乳には多くのグルタミン酸が含まれています。私たちは、赤ん坊の時から、うま味に導かれてタンパク質を摂取するトレーニングをしているとも言えます。疲れた時に甘いものが欲しくなり、汗をかけば塩分を補給することと同じ仕組みと言えるのでしょう。

池田菊苗がグルタミン酸を発見した翌年の1909年、その特許の使用権をいち早く取得した鈴木三郎助が「味の素」を発売します。発売当初は、なかなか売れず、ヘビが原料だという噂がたったこともあるようですが、出汁文化のある大阪での営業に成功し、料理店や家庭にも常備されるまでになります。海外へも販路を拡大しました。一時期、石油由来の成分が体に良くないと言われた時期もありました。我が家では、父親がこれを気にして、一切使っていませんでした。近年は、うま味の認識が広がり、多様な調味料が存在します。また、天然素材指向も強まりました。うま味、あるいは出汁の時代を迎えたとも言えますが、皮肉なことに味の素の存在感は薄れてきたように思います。(写真:味の素初の振りかけ瓶 出典:ajinomoto.co.jp)

2022年1月17日月曜日

二童敵討

組踊「二童敵討」
沖縄の芸能は、古典芸能も島唄も大のお気に入りです。島唄バーは、いっぱいあって、いつでも楽しめますが、古典舞踊を見る機会は、なかなかありません。もちろん、「四つ竹」など食事と舞踊を楽しめる店はありますが、さすがに観光用なので、雰囲気を味わう程度となります。なかでも、歌舞劇の組踊は、ほぼ”国立劇場おきなわ”の公演でしか見ることは出来ません。沖縄に行くときには、 国立劇場おきなわの公演スケジュールをチェックしてから出かけていますが、なかなかピッタリと日程が合うことはありません。なお、年に一回、三宅坂の国立劇場でも鑑賞できます。これは毎年楽しみに出かけています。

組踊は、能楽に近いように思います。琉球故事などを、琉球音楽と首里方言で演じます。初演は1719年とされます。首里城において、清の冊封使を接待するために演じられました。組踊を創作したのは、踊奉行だった玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)でした。公務で、薩摩や江戸に7回も出向いた玉城朝薫は、能、狂言、歌舞伎等を鑑賞し、大和芸能に関する造詣が深かったようです。また、当時の琉球には、中国から渡った崑曲系の戯曲も演じられていました。玉城朝薫は、これらの要素と琉球文化を合体させて、組踊を完成させます。この年、冊封使を接待するために上演されたという5曲は、組踊を代表する傑作「朝薫五番」として知られ、現在も上演されます。

朝薫五番は、二童敵討、執心鐘入、銘苅子、女物狂、孝行之巻の5曲です。うち二童敵討は、琉球の歴史に題材をとった作品です。15世紀、中山王尚巴志は、琉球を統一し、第一尚王朝を建てます。尚王の北山征伐の際、今帰仁城を制圧するなど活躍したのが、読谷山按司の護佐丸でした。護佐丸は、王朝の主要人物となり、王の指示で中城を増改築し、居城としました。当時、王権を狙うほど力をつけた勝連按司の阿麻和利への牽制として、護佐丸は兵馬の準備を行います。阿麻和利は、これを謀反の証左だとして王に讒言します。王は中城に兵を出し、疑われた護佐丸は、戦うことなく自刃します。直後、阿麻和利は、首里城を急襲しますが、王は、これを撃退しています。いわゆる護佐丸・阿麻和利の乱です。

護佐丸は、妻子ともども自害したとされます。ところが、二人の王子は生き延びており、踊り手に変装して阿麻和利を油断させ、首尾良く敵を討ち取るというのが、二童敵討のストーリーです。もちろん、フィクションです。実は、護佐丸・阿麻和利の乱も、尚王朝の正史である中山世鑑に記載がないことから、事実か否かは不明とも言われます。少なくとも、護佐丸の子息が一人生き残っており、後に琉球王国の有力名家となっています。その影響下で形成された伝承という説もあります。また、勝連に伝わる“おもろ”、つまり伝承等を謡う古い歌曲には、阿麻和利を名君とするものがあるようです。いずれにせよ、護佐丸は、忠節の臣として、今も沖縄では高い人気を誇ります。

”かじやで風”や”四つ竹”といった琉球舞踊は、実に優雅なもので、首里城の栄華を伝えます。琉球の宮廷舞踊も、組踊と同様、明・清の冊封使をもてなすために生まれました。最初に演じられた組踊の様子は、清の冊封副使だった徐葆光が、8ヶ月に渡った琉球滞在記として著した「中山伝信録」に記載されています。冊封とは、中国の皇帝が、従属国に新たな王が即位する際、それを認めることを言います。冊とは皇帝による任命書であり、冊をもって封じることで主従関係を明らかにします。同時期、琉球は、薩摩による実効支配も受けています。護佐丸の無念、二童による敵討は、琉球の心情に深くつながっているということなのでしょう。(写真出典:bunka.go.jp)

2022年1月16日日曜日

相撲茶屋

国技館茶屋通り
両国国技館で大相撲本場所が開かれると、前半1回、後半1回、観戦に出かけています。TV観戦で十分なのですが、館内のムードも含め、やはりライブには敵わないわけです。うち1回は、相撲協会によるネット販売を利用しています。先行抽選に参加するのですが、昨年から大相撲ファンクラブなるものが立ち上がり、その会員のための先行抽選の仕組みを利用しています。チケット代金は、額面どおりとなります。もう1回は、知人を介して、さる相撲茶屋(お茶屋)にチケットを用意してもらいます。お茶屋は、良い席を押さえていますので、さすがに、マスS席、悪くてもマスA席といった良い席を回してもらえます。

お茶屋でチケットを手配すると、国技館の入り口も一般とは異なります。木戸をくぐって左手に、通称茶屋通りと呼ばれる入り口があり、入るとズラリとお茶屋が並んでいます。担当のお茶屋に行くと、コートや傘など手回り品を預かってくれます。お土産は、この時点で受け取りますが、帰りしなに受け取ることもできます。出方と呼ばれるたっつき袴の若い衆が、席まで案内してくれ、お茶を準備してくれます。ここで、心付けを渡すのが作法です。また、その際、酒なども注文します。取組中、出方は、何度か顔を出し、追加の注文など受けます。全取組が終了すると、お茶屋通りは、客でごった返すことになります。一度、骨折治療中に相撲観戦をしたことがあります。席は、溜り席でした。溜りは、飲食禁止、手回り品も置けません。この時は、大いに出方に助けてもらいました。感謝です。なお、現在のコロナ禍で、全てのサービスが停止されています。

かつて、マス席は、お茶屋を通じて入手するしかありませんでした。チケット代にお土産や接待料も含め、ひとマス最低でも10万円以上という相場でした。つまり、一人当たり2.5~3万円程度かかったわけです。ツテとカネがなければ、マス席での観戦などできませんでした。現在は、マス席の7割方を茶屋が押さえ、残りを相撲協会がネット等で販売しているようです。ただ、コロナ禍で、お茶屋の割当分も、直接販売に回っているような気がします。不祥事に伴い、何度か相撲協会も近代化の取り組みを行ってきました。お茶屋の改革も、その一つであり、現在は、明朗会計になり、お土産もチョイス出来るようになっています。ただ、お茶屋を通じて席を確保した場合には、お土産を注文することが礼儀と言えます。正直なところ、お土産は、たまに相撲観戦する人、あるいは接待向けであり、常連には、さほどうれしいものでもありません。

お茶屋は、江戸の文化です。江戸期の芝居や相撲といった興業では、委託を受けたお茶屋がチケット販売を一手に引き受けていました。来場時には、お茶、酒、食事といったサービスも提供します。相撲では相撲茶屋、歌舞伎や浄瑠璃では芝居茶屋と呼ばれていました。今もお茶屋の制度を残しているのは大相撲だけとなりました。ちょんまげを結った力士、直垂・鳥帽子姿の行司、たっつき袴の呼び出しや出方も含め、国技館は、まさに江戸の街へタイム・スリップしたようなものです。現在、国技館のお茶屋は20軒あります。すべて国技館サービスという一つの会社に所属していますが、商売は、昔からの屋号そのままで続けています。お茶屋は、概ね親方衆の関係者によって経営されています。そういう意味では、各相撲部屋との結びつきも強く、ツテがないとチケットが入手できないという不透明感にもつながっていた面があります。

1932年、出羽海一門の全関取が、角界の体質改善を求めてストライキを行いました。当時、出羽海一門は、全関取の半数を占めており、まさに角界を揺るがす大事件だったわけです。いわゆる春秋園事件です。当時の相撲協会は、要求を拒否し、造反力士たちは、別団体を立ち上げ、興業も行いました。その際の要求は10項目に渡ります。協会会計の明朗化、チケット値下げによる大衆化、年寄制度廃止、夜間興業、力士の処遇改善など、もっともな内容でした。その一つに、相撲茶屋の撤廃も掲げられていました。戦後になって、改善された事項もあり、近代化されたものもありますが、角界は、概ね江戸期の姿を残しながら継続されています。時代が変化するなか、文化を継承することは難しいことだと思います。ただ、本質を守るために、あえて変化していくことも大事だと思います。(写真出典:buzz.plus.com)

2022年1月15日土曜日

禁酒法

エリオット・ネス
昔、住んでいたNY州ウェストチェスター郡では、日曜日の午前中、酒類の販売は禁止されていました。スーパーの酒コーナーは、シートで覆われていました。アメリカには、いまだに禁酒条例のあるドライ・カウンティやドライ・タウンが存在します。日本では、大雑把に、アメリカの禁酒法とか禁酒条例と言っていますが、正確には、一定度数以上の酒の製造・販売・輸送を禁止した法令であり、飲酒そのものを禁じているわけではありません。もっとも有名な禁酒法は、1920年に施行されたボルステッド法、国家禁酒法です。アルコール度数0.5%以上の酒類が対象とされました。

禁酒法は、壮大な実験とも言われますが、端的に言えば、史上希に見るアホな法律だったと思います。取り締まりのために、財務省に捜査員、いわゆるGメンが1,500人配置されます。シカゴの大ボスだったアル・カポネを追い詰めた捜査員エリオット・ネスは、とりわけ有名です。彼の自伝「アンタッチャブル」がベストセラーとなり、Gメンたちはアンタッチャブルとも呼ばれました。ただ、捜査員数は少なく、全米をカバー出来るような体制ではありませんでした。結果、”スピーク・イージー”と呼ばれたもぐり酒場が倍増し、酒の密輸でギャングが大儲けし、ギャングの利権争いを中心に犯罪が増加しただけでした。1933年に至り、禁酒法撤廃を公約の一つに掲げたフランクリン・デラノ・ルーズベルトが大統領に就任し、ついに悪法は撤廃されました。

そもそも酒を所持し、飲むことは禁じていないという曖昧さにも問題があります。個人の在庫まで取り締まれないということだったのでしょうか。供給サイドを完全にコントロール可能というのなら、禁酒法施行も理解できます。ただ、広いアメリカを隅々まで、あるいは長い国境線を隈なく取り締まる体制を作ろうとすれば、天文学的規模の財源が必要になります。恐らく議会も、そのことは十分に理解していたはずです。あるいは、財務省の捜査員数からして、はじめから取り締まる気がなかったとも言えます。禁酒法は、政治的思惑の産物であり、その中途半端さが、大きな弊害だけを生むという悪法の典型だったと思います。そもそも個人の嗜好を法で禁じ、公平性確保のために取り締まるなど、無理筋とも思えます。 

禁酒運動は、17世紀から存在したようですが、大きな盛り上がりを見せるのは、南北戦争後でした。敬虔なプロテスタントたちが、主に南部諸州、そして女性信者を中心に運動を展開します。1910年代は、各州において女性参政権が認められていく時代でもありました。政治家たちも、宗教票、女性票を意識せざるを得なかったわけです。また、第一次大戦で、ドイツは悪だという認識が広がり、ドイツ系が大半を占めるビール会社も風評被害を受けます。そのような状況を背景に、禁酒法に対抗すべきアルコール業界もまとまることがなかったと言います。さらに第一次大戦の影響から、鉱工業の生産性向上が大きな課題となります。泥酔する工員が、生産性向上を阻害するとされ、そうした面からもアルコールは批判されたようです。

政治家たちの票読みの結果として、禁酒法は成立してしまった、というところなのでしょう。ちなみに、時の大統領ウッドロウ・ウィルソンは、拒否権を発動していますが、議会が成立させてしまいます。こうして、実効性に関わる議論が不十分なまま、禁酒法はスタートしたわけです。第一次大戦後、世界の最強国に躍り出たアメリカは、好況を背景に、ローリング・トゥウェンティーズ、あるいはジャズ・エイジと呼ばれる浮かれに浮かれた時代を迎えます。その時代をよく現わしているのが”フラッパーズ”でした。短いスカートをはき、強い酒を飲み、ダンスに明け暮れる奔放な女性たちです。禁酒法を推進した女性たちと好対照ですが、いずれにしても女性の時代、あるいは女性が解放された時代だったのでしょう。(写真出典:nytimes.com) 

2022年1月14日金曜日

しょっつる

醤油は、基本的に、溜り、濃口、薄口、再仕込み、白醤油の5種類に区分されます。このうち、最も古くから存在するのが、味噌の製造過程で浮かんでくる”溜り”です。日本の醤油発祥の地とされるのは、和歌山県の湯浅ですが、中国伝来の金山寺味噌の産地でもあります。17世紀末、”溜り”だけを、効率よく作るアルコール発酵製法が確立し、濃口醤油が生まれました。”溜り”の起源は、古代中国で作り始めた「醤(ひしお)」ということになります。醤とは、肉や魚の塩漬けのことであり、紀元前2世紀頃には、穀醤、つまり豆や雑穀の塩漬けが作られ始めたようです。それが味噌となり、豆板醤などに進化していきます。穀醤は、そのもの自体だけではなく、上澄液の”溜り”も調味料として利用されたわけです。

一方、魚で作る醤は、米などを加えて発酵させると、鮨の原型「なれずし」になります。日本では、琵琶湖の鮒寿司が有名です。魚の醤は、ペースト状にすれば、アンチョビ・ペーストのような調味料になり、その上澄み液は魚醤(ぎょしょう)となります。魚醤の発祥は、カンボジアのトンレサップ湖周辺とされます。ただ、古代ローマにも魚醤は存在し、かつ各地にアンチョビ・ペーストがあることを考えれば、トンレサップ湖から広まったのではなく、各地で同時発生したのでしょう。とは言え、魚醤を多く使うのは、アジア各地ではあります。タイのナンプラー、ヴェトナムのニョクマム、インドネシアのケチャップなどが有名です。なお、ケチャップと言えばトマトですが、その語源は、福建の鮭の醤を意味する言葉だとされています。

日本の魚醤と言えば、ハタハタを使った秋田の「しょっつる」、能登ではイカを使った「いしり」と鰯を使う「いしる」、イカナゴを使う香川の「いかなご醤油」などが有名です。いずれも、季節に大量に獲れる魚の保存法として醤が作られ、魚醤が生まれたのでしょう。使う魚によって、風味の違いはあるものの、いずれも、魚から出るアミノ酸と核酸が、濃厚なうま味を生み出します。伊豆のくさやも魚醤の一種とされます。くさやは、とても味わい深く美味いのですが、匂いがいけません。かつて、集合社宅に住んでいた頃、頂いた上物のくさやを焼いたら、人肉を焼いているのではないか、という噂がたったほどです。人肉を焼く匂いを知っているのか、とつっこみたくなりました。

秋田のしょっつるは、東北出身者にとって、なじみ深いものです。様々な用途がありますが、私のお気に入りは”しょっつる鍋”です。しょっつるの出汁で、ハタハタと各種野菜を入れた鍋です。半端ないうま味が味わえます。ただ、同じ秋田つながりで言えば、比内地鶏のスープでいただく”きりたんぽ鍋”はよく食べますが、しょっつる鍋は、滅多には食べません。なぜなら、近所で生のハタハタを手に入れることが難しいからです。そこで、ハタハタの代りに北国の冬の味覚タラを入れた、なんちゃって”しょっつる鍋”は、たまに楽しんでいます。また、アンチョビ・ペーストの代りに、パスタにしょっつるを入れても、美味しく頂けます。基本的には、同じ魚醤類ですから。逆に、魚介の鍋や煮物に、アンチョビ・ペーストを加えても、コクが出て、いい味になります。

ハタハタは、漢字では「鱩」あるいは「鰰」と書きます。ハタハタ漁の最盛期は、11~12月頃であり、雷の鳴る季節であることから、魚偏に雷となったようです。古語では、雷が鳴ることを「はたたく」と言ったことからハタハタと呼ばれたとのこと。また、雷のことを「ハタタ神」と呼んでいたことから、魚偏に神という漢字が生まれたようです。随分と立派な漢字ですが、かつては豊漁続きで安価だったことから、箱買いしかできない魚だったと聞きます。また、箱代の方が高いとまで言われたそうです。その後、乱獲がたたったのか、漁獲量が激減し、20年ほど前には、3年間の自主禁漁を行い、資源の回復を図りました。現在は、一定の漁獲制限下で漁が行われているようです。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2022年1月13日木曜日

ミカエルの夢

アヴランシュの町は、ノルマンディーの海に面した高台にあります。町の司教だったオベールの夢枕に、大天使ミカエルが立って言います。あの小島に聖堂を建てよ。半信半疑のオベールは、これを無視します。すると、またミカエルが夢に現れ、同じ事を言います。再び、オベールが無視すると、ついにミカエルは怒り、オベールの額に指を当てて、強く命じます。朝、起きたオベールの額には穴が開いていました。オベールは、サン・マロ湾に浮かぶ岩山に礼拝所を築きます。世界遺産モン・サンミッシェルの縁起です。「西洋の驚異」とも呼ばれる修道院には、世界中から年間300万人が訪れる一大観光地でもあります。

モン・サンミッシェル最大の特徴は、海上の小島に、上へ上へと積み上げられた建物群ということになります。ブリューゲル描くところのバベルの塔が海の上に姿を現わしたような風情です。建造物は、時代、時代で、増築を重ねた結果、現在の姿になっています。従って、複数の建築様式が混在しています。ノルマンディーは、ケルト人の住む土地でしたが、紀元前1世紀には、古代ローマに征服され、植民地化されます。その後、ゲルマン系のフランク王国の支配下となりますが、9世紀後半、ノルマン人に征服されます。その後、アンジュー伯の支配を経て、13世紀初頭、フランス王フィリップ2世がノルマンディーを王国に組み入れます。百年戦争の際には、一時、英国の支配も受けています。16世紀の宗教戦争においても、ノルマンディーは激戦地となっています。

1944年6月には、連合国軍によるノルマンディー上陸作戦も行われました。史上最大の上陸作戦は、モン・サンミッシェルから100kmほど北で行われました。ノルマンディーは、激しい歴史の荒波に揉まれてきました。モン・サンミッシェルは、厳しい歴史を建物に刻み込みながら、起立しているとも言えそうです。10世紀には、修道院が開かれていますが、その周辺は、要塞としても機能していました。フランス革命後は、監獄として使われ、19世紀、再び修道院として再建されています。また、19世紀には、陸地との間が埋め立てられ、堤防上に道路と鉄道が敷設されますが、砂州化が進むという問題を抱えることになります。結果、2014年、堤防は壊され、陸地とは橋でつながれることになりました。私は、堤防時代の最後に訪れましたが、確かに、海の上というよりは砂地の上にあるような印象でした。

修道院は、人里離れた場所に作られる傾向があります。出家して、神に人生を捧げるわけですから、当然と言えば当然です。人家から離れるだけではなく、イタリアのモンテ・カッシーノ修道院のように孤立峰の山頂、あるいはギリシャのメテオラの修道院群のように登るのも困難な絶壁の上に建てられている場合も多くあります。俗世と隔離された場所というだけではなく、より天に近い所という意味もあるのかも知れません。海上の修道院の代表格はモン・サンミッシェルということになりますが、アイルランド沖のシュケリッグ・ヴィヒル島に存在した修道院が最もストイックだと思われます。近づくこともままならないという絶海の孤島に作られた修道院は、スター・ウォーズのロケ地として、一躍有名になりました。

モン・サンミッシェルの名物と言えば、ラ・メール・プーラールのオムレツということになります。1888年、宿屋の女将だったアネット・プーラールが、巡礼者のために考案したというフワフワのオムレツです。その大きさに驚きますが、フワフワ過ぎて、口に入れた途端、消えてなくなります。はっきり言って、食べた気がしません。巡礼者の目を楽しませただけのようにも思います。ただ、ラ・メール・プーラールのサブレやパレは、とても美味しいと思います。サブレは、”1888”と焼き入れされています。ラ・メール・プーラールは、モン・サンミッシェル人気を背景に、日本にも進出しており、今は、東京でオムレツを食べることも、サブレも買うこともできます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年1月12日水曜日

尼港事件

トリャピーツィンとレベデワ
1920年2~5月、アムール川河口に位置する港町ニコラエフスク(尼港)で、赤軍パルチザンが、町の人口の半分6,000人以上を虐殺します。うち730名は日本人であり、民間人、官僚、兵士が皆殺しにされています。建物も破壊され、町は壊滅状態になったといいます。いわゆる赤色テロです。ロシア革命は、レーニンが、テロを強く推奨したことから、赤色テロの嵐となります。リーダーに任命されたヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンが率いたパルチザンは4,000名、中国人と朝鮮人も数百人づつ含まれていたようです。パルチザンとは非正規軍のことであり、トリャピーツィンは、二ヶ月をかけて、アムール川下流地帯から兵員を徴募しています。山賊や強制された農民たちであり、まさに烏合の衆そのものです。

ニコラエフスク港は、1850年に建設されました。極東の貿易港として、ロシア人だけではなく、ユダヤ人、中国人、朝鮮人、そして日本人が拠点を構え、商売をしていました。ロシア革命が始まると、治安が悪化、ごく少数ながら赤軍も駐留していたようです。治安を維持したい町の有力者たちは、おりしもシベリア出兵中だった日本軍に進駐を要請します。町にいた白軍に代わって日本軍400名が町の治安を守ることになりました。そこへトリャピーツィン率いるパルチザンが到達します。日本軍は、司令部から、中立を守るよう厳命を受けていました。つまり、攻撃されない限り、発砲してはいけないということです。町の代表と日本軍は、パルチザン側と交渉のうえ、安全と自由の確保等を条件に、2月末、町を開城します。

しかし、町に入ったパルチザンは、約束を守らず、白軍や市民を拘束、拷問のうえ処刑するなど横暴な行動に出ます。すべての武器を赤軍に貸与せよといった無理難題を突きつけられた日本軍は、3月12日、ついにパルチザン本部などに突入し、武装解除を目指します。ところが、圧倒的な兵員数の差に日本軍は全滅させられ、かつ日本人、および市民の虐殺が開始されました。日本軍への無理難題は、パルチザンの罠でした。さらに、凍結した港に閉じ込められていた中国軍艦から、日本領事館、および市民に対する砲撃も行われます。後に、中国は、パルチザンに砲を貸与しただけだと弁明していますが、何の証拠もありません。5日間続いたという虐殺で、推定1.500人が亡くなりましたが、これが全てではありませんでした。

この事件を機に、日本軍は、中立というスタンスを捨て、ウラジオストク、ハバロフスク等の赤軍を武装解除します。ソヴィエト・ロシアは、極東共和国を設立し、日本との緩衝帯設置を目論みます。ニコラエフスクで虐待の限りを尽くしていたトリャピーツィン一派は、5月末、この情報に基づき、町の放棄を決定し、撤退前に市民の虐殺と町の破壊を徹底的に行います。犠牲者数は、不明のままですが、3月と合わせ、少なくとも6,000人以上と推定されています。撤退するパルチザンは、逃亡者が相次ぎ、ごく少数だけが残りました。ソヴィエト代表団は、7月3日、トリャピーツィンとその愛人で参謀長のニーナ・レベデワ等を逮捕し、簡便な裁判の直後、銃殺しています。罪状は、革命的合法性の侵害、権力乱用、略奪であり、虐殺ではありません。

処刑時、トリャピーツィンは23歳、レベデワは21歳でした。トリャピーツィンはレフ・トロツキーに心酔するアナキストだったという説もあるようです。革命に暴力はつきものです。支配階級は抹殺されます。一神教の宗教戦争は、邪教との戦いだけに、苛烈なものになる傾向があります。共産主義も、ある意味、宗教的です。共産主義革命は、内部抗争も含めて、苛烈を極めます。マスヒステリアと言ってもいいのでしょう。ましてや狂信的な若者が率いるパルチザンなど、カオスそのものです。とは言え、ソヴィエト、そしてロシアが、ニコラエフスク虐殺の責任を認めないどころか、日本軍に責任を押しつけ、トリャピーツィンを解放者と位置づけるという姿勢には、憤りを感じます。(写真出典:peremeny.ru)

2022年1月11日火曜日

まぜるな危険

自由軒名物カレー
洗剤のなかには、「まぜるな危険」と目立つように記載されているものがあります。塩素系と酸性の洗剤をまぜると、有毒な塩素ガスが発生するからです。職場で、一時期、この言葉が流行ったことがありました。同じ職場の先輩に、カレーライスを食べるとき、ルーとご飯をグジャグジャにまぜてから食べる人がいました。そんな人は、他にいなかったどころか、見たこともなかったので、目撃した時には、一同、唖然としました。その衝撃的な光景見たさに、ランチの際、その先輩を、たびたびカレー屋に誘いました。昼飯時になって、誰かが「まぜるな危険」とささやくと、皆でさりげなく先輩をカレー屋に誘導するわけです。

何故、そんな食べ方をするのですか、と聞く人はいませんでした。我々にとって、カレーをまぜて食べることは、常識はずれ、不快、下品に思え、あえて、先輩に、それを指摘することが憚られたからなのでしょう。もちろん、先輩がいない席では、大激論が交わされました。大阪人はまぜて食べるらしいという話もありましたが、先輩は大阪出身ではありません。西日本では一般的なのかも知れないという説もありましたが、他の西日本出身者はまぜていませんでした。昔の人の食べ方という説もでましたが、先輩と我々は、それほど歳の差はありません。結局、各家庭における習慣の違いなのだろうという安易な結論で落ち着きました。

Jタウンネット社の調査によれば、全国的に、まぜる派は3割弱存在し、岩手県と愛知県では、まぜる派が多数を占めるようです。その二県で、まぜる派が多い理由は不明とのこと。住んだ経験からすると、名古屋で”まぜるな危険”を見たことはありません。では大阪はどうなのかというと、72%がまぜない派でした。大阪の高齢者はまぜるという説もあります。恐らく”大阪はまぜる”説の根拠になっているのは、「自由軒」の存在なのだろうと思います。明治末期、大阪初の西洋料理店としてスタートした自由軒の名物カレーは、まぜた上に生卵をのせるという独特のスタイルを守っています。見た目は、ねっとりとしたドライカレーといった風情です。大阪の庶民の味を代表する店ゆえ、まぜるイメージが広がったのでしょう。

日本初の本格インド料理店といえば、東銀座のナイル・レストランですが、ランチの定番”ムルギー・ランチ”は、店の人から、よくかきまぜて食べて下さい、と必ず言われます。なぜ、と聞いたことがあります。答えは、その方が美味しいから、とのことでした。しかし、自由軒やムルギーのまぜるスタイルが美味しいのであれば、日本中のカレーは、あらかじめまぜてから提供されるはずだとも思います。結論的に言えば、まぜるか、まぜないか、というカレーの食べ方には、ルールも、マナーも、合理的根拠もありません。あるのは、習慣による違いだけなのだと思います。習慣の違いが、人に違和感や不快感を与えることはあり得ます。ただ、他人の習慣を、根拠なく否定するとすれば、差別が生まれることになります。多様性とは、まぜても危険ではないということだと思います。

カレーライスは、日本の国民食です。インドから英国、英国から日本へと持ち込まれた食文化ですが、ラーメン同様、短期間に独自の進化を遂げ、国民食となりました。ご飯との相性の良さと軍隊の食事の定番になったことが、普及した最大要因だと思います。ただ、なぜ日本人が、クミン・ターメリック・コリアンダーというスパイスの組み合わせを愛するようになったのかは、よく分かりません。ちなみに、カレーライスか、ライスカレーか、という議論もあります。これには、一応、定説があります。ご飯の上にルーを乗せて供するのがライスカレー、ご飯とは別に、ルーをソースポットで供するのがカレーライスなのだそうです。まぜる、まぜないと同様、カレーライスでも、ライスカレーでも、どっちでも、まったく問題ないと思います。(写真出典:hitosara.com)

2022年1月10日月曜日

「暗殺のオペラ」

監督: ベルナルド・ベルトルッチ  原題:Strategia del ragno  1970年イタリア

☆☆☆☆

ベルトルッチの出世作「暗殺の森」が公開された数日後に、イタリアのTVで公開された作品です。色彩の魔術師とも呼ばれるカメラマン、ヴィットリオ・ストラーロとベルトルッチとの名コンビが、最初に撮った作品でもあります。耽美的な映像、オペラ色の強い音楽、シュールな演出と、ベルトルッチらしさ満載の映画です。原作は、アルゼンチンの文豪ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「裏切り者と英雄のテーマ」です。ロンバルディアの美しい田園を背景に、ファシズムとの戦いをテーマとするミステリー仕立てのドラマが展開します。アリダ・ヴァリはじめ名優たちの演技が作品の陰影を深く刻んでいます。

ベルトルッチは、「暗殺の森」で高く評価され、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」で物議を醸し、「ラスト・エンペラー」でアカデミー作品賞と監督賞を受賞しました。その作風は、文学的と言っていいと思います。十代の頃は、詩人だった父親の影響から、詩や小説を書き、文学賞も獲得していたようです。ベルトルッチは、ローマ大学在学中に、ピエル・パオロ・パゾリーニと出会い、その処女作「アッカトーネ」の助監督を務めています。21歳という若さで、初監督作品を撮っています。2作目の「革命前夜」は、既にカンヌで新評論家賞を獲得しています。若くして文学的才能を開花させていたのでしょうが、ベルトルッチの映画が形を成したのは、やはりヴィットリオ・ストラーロとの出会ってからだと言えます。

文学的なベルトルッチに対して、ストラーロは絵画的と言えます。しっかりと計算された構図と色彩は、多くの映画カメラマンに影響を与えたと言われます。ベルトルッチの「ラスト・エンペラー」、フランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」、ウォーレン・ベイティの「レッズ」で、三度のアカデミー撮影賞を獲得しています。本作でも、美しい映像を見せていますが、特に、アリダ・ヴァリ演じるドライファの邸宅における緑と花と建築、そしてポール・デルヴォやキリコを思わせる町の映像は、ほとんど絵画と言っていいほどです。ロケが行われた町は、ロンバルディアのサッビオネータですが、その後、世界遺産にも、「イタリアの最も美しい村」にも選出されています。

また、映画のタイトル・バックには、数奇な運命をたどったナイーフ派のイタリア人画家アントニオ・リガブエの絵画が使われています。そのエキゾチックともいえる画風は、映画の冒頭から強烈な印象を与えます。ちなみに、リガブエの生涯は、2020年に映画化され、残念ながら見ることはできませんでしたが、昨年のイタリア映画祭でも上映されています。原作のホルヘ・ルイス・ボルヘスは、「伝奇集」等で知られますが、その幻想的な作風は、特に欧州で高く評価されています。また、独裁者ペロンの政権と戦ったことでも知られています。知名度も評価も高いにも関わらず、ノーベル文学賞を受賞しなかった作家の一人としても有名です。思えば、本作は、実に多くの才能が結集された作品だとも言えます。

イタリア人にとって、ムッソリーニ時代のファシズムは、ドイツ人にとってのナチズム同様、常に大きなテーマです。本作は、正面からファシズム批判を展開するのではなく、いわばボルヘスらしい奇譚のなかから、そして田舎町におけるファシズムの時代と現代を交差させることで、ファシズムの本質を伝えようとしています。50年前にTV用に制作された映画ですが、その品質の高さ、テーマの重要性は、今でも衰えることがないと思います。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2022年1月9日日曜日

渡来人

伏見稲荷千本鳥居
日本列島が、大陸から分離したのが、2000万年前、一方、ホモ・サピエンスがアジアに到来したのが3万年前とされますから、日本人は、皆、渡来してきた人間だと言えます。歴史上の渡来人は、3~7世紀、大陸や半島から渡ってきた移民を指します。人類学上では、弥生時代以降に日本に来た人たちのことを言います。とすれば、縄文人が先住民族ということになります。1万6000年前から日本に定住していた縄文人は、アジアに到達したホモ・サピエンスの最も古いタイプのDNAを持っていたようです。弥生人の渡来とともに混血が進み、現在の日本人には、1~2割程度だけ、縄文人のDNAが残っているようです。

歴史上の渡来人で、最も有名なのが、秦氏だと思います。日本書紀によれば、283年に、弓月君が、120県(あがた)の人々を率いて、朝鮮半島から日本に帰化したとされます。人数は不明ですが、当時の百済の村落構成から推計すると1万人以上ではないかとされます。弓月君の移民は、一筋縄ではいきませんでした。弓月君は、来日して応神天皇へ帰化の希望を伝えますが、新羅の妨害にあって実現できませんでした。そこで応神天皇は、精鋭の兵を繰り出して、弓月君とその民を日本へ脱出させました。渡来人秦氏の由来に関する伝承ですが、実際には、5世紀頃、新羅から渡来した一族と見られています。

秦氏は秦の始皇帝の末裔であるという説もあります。これは、どうも秦氏が箔付けのために創作した話のようです。1~5世紀、朝鮮半島は、三韓と呼ばれる辰韓・馬韓・弁韓が支配していました。うち辰韓は、始皇帝による中国統一の過程で生まれた流民が建てた国とされます。秦の言葉を話すことから、中国の史書においては、秦韓という記載もあるようです。秦氏の始皇帝末裔説は、秦韓という国名に基づいているのでしょう。5世紀には、辰韓の一部であった斯蘆国が隆盛し、新羅を建国して辰韓を飲み込んでいます。日本書紀における弓月君に関する記述は、このあたりの事情を背景としているのでしょう。秦氏の出自に関しては、他にも迫害を逃れた景教徒(キリスト教ネストリウス派)説や羌族の後秦由来説もあります。

いずれにしても、帰化した秦氏は、山城国(現在の京都)の太秦を拠点に、機織、土木工事、製鉄、医術などを生業とし、その勢力を拡大していきます。公人としても活躍し、多くの宮廷人も輩出しています。また、八幡神社や伏見稲荷は、秦氏が創祀した神として知られています。さらに、現在では酒造りの神様として信仰される松尾神社、あるいは平安京以前に創建された京都最古の広隆寺も秦氏が開いています。平安京建設は、山城国の有力者であった秦氏の尽力によるところが大きかったようです。秦氏は、その勢力を近畿一円に広げていますが、東国の相模国にも進出しています。秦野市は有名ですが、当時の本拠地が久我山にあったこともあり、周辺には八幡山、幡ヶ谷といった地名も残ります。

ヤマト王権に仕えた渡来人の集団としては、秦氏の他に、製鉄・軍事に優れた東漢氏、あるいは文筆に優れた西文氏等も、よく知られています。他にも、西日本には、大集団でもなく、中央に進出することもなかった渡来人が多く存在したのだろうと思います。古代における東アジアの歴史の相関性や流動性の高さには、いつも驚かされます。その流動性が文化・文明を発展させたわけです。当然ながら、中央集権化が進み、国家の概念が成熟する前の方が、流動性が高くなります。逆に言えば、国家は、意識して諸国との交流を高いレベルに置かなければ、自国の発展や進歩を実現できないとも言えるのでしょう。(写真出典:icotto.jp)

2022年1月8日土曜日

キャピタル・ヒル

ワシントンD.C.の巨大なリンカーン記念堂から東を見れば、リフレクティング・プールの向こうにワシントン記念塔がそびえ、そのまた向こうに小さくアメリカ合衆国議会議事堂を見ることがきます。約3kmに及ぶナショナル・モールです。モールの両側には、スミソニアンズはじめ博物館や美術館が並び、最もワシントンD.C.らしい、あるいは最もアメリカ合衆国らしい光景だと思います。アメリカ合衆国議会議事堂も巨大な建造物ですが、キャピタル・ヒルと呼ばれるとおり、小高い丘の上に建っているため、一層大きく見えます。もちろん、そのように計算されているわけですが。

2021年1月6日、このキャピタル・ヒルが自国民によって襲撃されるという衝撃的な事件が起きました。キャピタル・ヒルが攻撃されたのは、1812年、米英戦争時、英軍によって一部が破壊されて以来のことでした。根拠なく選挙結果は不正と主張する現職大統領によって扇動された大衆が、民主主義の象徴たる議事堂を襲うという衝撃的な事件でした。米国の根幹、あるいは民主主義の土台を揺るがす大事件です。この日、議会では、大統領選挙の結果を確定する上下両院合同会議が開かれていました。ホワイトハウス横のエリプス広場に集まった数千人の支持者の前で、トランプ大統領が演説を始めます。選挙は盗まれた。強さを見せるんだ。死ぬ気で戦うぞ。議事堂へ行こう!

トランプは、副大統領にして上院議長でもあるマイク・ペンスに、議会でバイデン勝利確定を阻止するよう要請していました。当日の午前、ペンスは、憲法に基づけば、この要請に沿うことはできないとする声明を発表しています。これがトランプ暴走のトリガーになったとも言われます。憲法に従ったペンスの声明はえらいというよりも、あまりにも当たり前のことです。それにキレる大統領は、憲法も知らず、常識もない異常者としか言いようがありません。議事堂へ移動した支持者たちのうち、800人が乱入し、議会警察と衝突、一部は破壊行為に及びます。結果、双方に5人の犠牲が出ました。トランプに擁護された極右のプラウド・ボーイや一部ミリシア等は、数日前から、銃規制の厳しいワシントンD.C.への武器の持ち込み方を検討していたようです。

TV番組で人気者となったトランプにとって、視聴率は、富であり、正義です。強気のウケねらいが身上のトランプにとって、明確な敵の存在は、最も理想的な設定です。東部エスタブリッシュメントを敵に仕立てて戦った大統領選では、彼らに抑圧されてきたと信じる人々の支持を集める結果となりました。戦術的には大成功であり、大統領としても一定の支持を得てきました。人気取り一筋のTVタレントに、初めから政治信条などありません。一部マスコミは、議事堂襲撃を、トランプによるクーデター未遂と報道しています。事の性格としては、そのとおりですが、本人にクーデターという認識はなかったと思います。それどころかクーデターの何たるかも知らないのではないでしょうか。トランプや共和党支持者の多くは、この襲撃を、いまだに正統な抗議活動だったと認識しているといいます。ここが、ポピュリズムの最も恐ろしいところだと思います。

多様性こそアメリカ合衆国最大の特徴であり、強みでもあります。多様な人種、多様な宗教、多様な政治信条、それらを包括して、なおかつ国として成り立つことを目指して、試行錯誤のうえ、アメリカの民主主義は形成されてきました。そのプラットフォームとも言える選挙制度と議会を攻撃することは、アメリカそのものを否定することと変わりません。共和党議員は、トランプ人気にあやかるのではなく、支持者たちに、民主主義の何たるかを知らしめる義務があると思います。(写真出典:tavitt.jp)

2022年1月7日金曜日

ネフェルティティ

ネフェルティティは、クレオパトラ、ネフェルタリと並んで、古代エジプトの三大美女と言われます。ネフェルティティは、第18王朝のファラオ・アクエンアテン(アメンホテプ4世)の王妃でした。後にファラオとなった大神官アイの娘とも、メソポタミアのミタンニ王国の王女タドゥキパだともされます。その娘の一人は、トゥト・アンク・アメン(ツタンカーメン)の王妃となっています。ネフェルティティという名前の意味は、NeFeR(美しい)・T(者)・iTi(訪れた)であり、「訪れた美しい人」とも呼ばれます。ネフェルティティの名を知らしめることになったのは、その美しい胸像です。

ネフェルティティの胸像は、1912年、ドイツ発掘隊が、アマルナの彫刻家トトメスの工房跡で発見しました。トゥト・アンク・アメンの黄金のマスクとともに、古代エジプト美術の最高峰と言われています。古代エジプト美術の特徴と言えば様式美ということになりますが、ネフェルティティの胸像は、より写実的な印象を受けます。これはアマルナ様式と呼ばれ、アメンホテプ4世が断行した宗教改革の影響を受けています。アメンホテプ4世は、アメン・ラー信仰を背景に大きな力を持つに至ったアメン神官団を抑えるために、同じ太陽神であるアテンを唯一神に近い状態にまで高めます。アテン信仰が太陽光を重視するために、美術も写実性を高めたと言われています。なお、アテン信仰は、アメンホテプ4世の死去とともに終わりを告げました。

ネフェルティティの胸像は、現在、ベルリンの新博物館に所蔵されています。胸像は、ドイツによって強奪されたという説があります。1913年、エジプト政府とドイツ発掘隊が発掘品の分配に関する協議を行った際、ドイツ側は、この胸像を重要な発掘品ではないと偽ったと言われています。エジプト政府は、ドイツ政府に対して、100年間、胸像の返還を求めています。ヒトラーは、英国隊が発掘したトゥト・アンク・アメンの黄金のマスクに対抗するために、ネフェルティティの胸像を保有し続けることに執着したとも言われます。昨年の国立エジプト文明博物館のオープンに際しては、エジプト側から貸出要請が行われていますが、ドイツは、これも拒否しています。ひとたび貸し出せば、戻らない可能性が高いことを懸念したようです。

他にも、胸像に関しては、多くの議論があります。着色した石英で象眼した右眼に対して、左目は石膏のままです。これを巡っても、破損、未完成、練習台など諸説あります。そもそも胸像は、ドイツ隊がねつ造した偽作だとする説もあります。1992年にはCTスキャンによる調査が行われ、表面を覆うスタッコ(化粧漆喰)のなかに、芯となる石灰石が確認されました。それは、ネフェルティティの老化を示すシワまでリアルに彫刻されていたようです。まさにスタッコで化粧されていたということなのでしょう。ネフェルティティ本人に関する謎も、出生に関するものだけではありません。最も大きな謎は、ある時点を境に、一切の記録が無くなっていることです。死去説もありますが、アメンホテプ4世の共同統治者になった謎多きスメンクカーラー王は、ネフェルティティだったという説もあります。100年前に、我が子トトメス3世の共同統治者として君臨したハトシェプストに倣ったのではないかという説もあります。

謎の多さも、この美しい胸像の魅力なのかも知れません。トゥト・アンク・アメンの黄金のマスクは、エジプト考古学博物館で、実物を見ました。圧倒されました。ルクソールで、ハトシェプスト女王の美しい葬祭殿も見ました。ただ、ネフェルティティの胸像の実物は見ていません。4年前、ベルリンで実物を見る計画を立てていましたが、直前、イタリアで骨折したために、叶いませんでした。やはり、ネフェルティティの胸像は、エジプトにあるべきものだとも思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年1月6日木曜日

サイゼリヤ

サイゼリヤ1号店(2F)
市川市には、旧石器時代、縄文時代、弥生時代の遺跡が多くあり、古代から人が多く集まる土地だったようです。律令体制下では、下総国の国府も置かれました。葛飾八幡宮、中山法華経寺も開かれ、江戸期には佐倉街道の宿場としても、人を集めてきました。明治になり、総武線が開通すると、東京の富裕層の邸宅や別邸が集まり、また軍の施設も置かれます。戦後は、東京のベッドタウンとして、あるいは教育機関の集まる町として発展してきました。市川市は、1934年に、市川町、八幡町、中山町などが合併して誕生しています。市役所のある八幡地区には、地下でつながるJR総武線・都営新宿線の本八幡駅、京成電鉄の京成八幡駅があります。

本八幡駅北口の商店街の一角に、ファミリー・レストランのサイゼリヤ第1号店があります。店としては、2000年に営業を終了していますが、経済同友会が、教育記念館として保存し、予約すれば、見学も可能です。サイゼリヤは、東京理科大学に在学中だった正垣泰彦が、1967年に開業しています。火事で店を焼失した後、これからはイタリア料理の時代が来ると確信した正垣は、1968年、サイゼリヤをイタリア料理店として再スタートします。ところが、客入りはさっぱり。当時、スパゲッティだけは妙に一般化していたものの、イタリア料理店は、高級、あるいは文化人向けといったイメージだったのでしょう。

正垣は、不振の要因を価格と判断し、全品7割引という奇策を打ちます。非常識、暴挙としか言いようがありません。ところが、これが大当たりし、店は行列店になります。低価格のイタリアンという路線に自信を持った正垣は、1973年、チェーン展開を始め、すかいらーく、ロイヤルホスト、デニーズに続くファミリー・レストランの草分けとなりました。現在、店舗数は1,553店、うち国内1,089店、海外464店まで成長しました。業界に先駆けて着手した海外展開は、2003年の上海に始まります。低価格路線は、中国でも人気を博し、順調に店舗を拡大しています。

日本のイタリア料理の歴史は、1881年、ピエトロ・ミリオーレが新潟に開いたイタリア軒に始まります。当時の洋食と言えばフランス料理のことであり、パスタだけは、フランス料理の一部として広がったようです。戦後、来日したイタリア人によるイタリア料理店が相次いで開店しますが、日本人によるイタリア料理店は、1960年、飯倉にキャンティがオープンするまで待たなければなりませんでした。バブル期にイタ飯ブームが起こり、イタリア料理は一般化したと言われます。ただ、既に70年代、高田馬場のリストランテ文流、荻窪のトラットリア・ピエモンテ等が一般化や大衆化に大きく寄与していました。そして、ファミレスとは言え、サイゼリヤが果たした役割は、とても大きかったと思います。

市川市発祥の大企業が、もう一つあります。山崎製パンです。日本最大にして、世界第2位の規模を誇る会社ですが、1948年、市川市で加工委託から製パン業を始めています。現在も、中央研究所やデイリーヤマザキの本社が置かれています。市川市は、梨の生産地でもありますが、基本的には住宅街であり、決してビジネスの町ではありません。市川市発祥の山崎製パン、サイゼリヤともに、食に関連した企業であったことは、ある意味、当然なのでしょう。(写真出典:1goten.jp)

2022年1月5日水曜日

雪中行軍

1902年1月23日6時55分、青森に駐屯する歩兵第5連隊の第2大隊・第5中隊を中心に編成された210名は、ロシア戦を想定した1泊2日の雪中行軍訓練へと出発します。八甲田山北東の裾野を通る田代街道沿いに田代新湯までの片道20kmという行程でした。途中、地元民から、厳しい天候ゆえ止めた方がよい、と忠告されますが無視、また案内人も不要と判断します。午前中は、順調な行軍が続きましたが、午後になると、突如、暴風雪に見舞われます。後に判明したところによれば、観測史上最強の寒波が襲来していました。幹部は中止を検討しますが、下士官からの反対を受け、訓練は続行されます。夕刻、激しさを増した暴風雪に、食料や燃料等を積んだソリも捨て、ホワイトアウト状態の中で道も見失い、凍りついたコンパスで方角も失い、やむなくビバークを決断します。

こうして、世界最大級と言われる山岳遭難事故「八甲田雪中行軍遭難事件」が始まります。延べ1万人が動員されたという救援隊が、遭難者を発見したのは、5日後のことでした。最初に発見された生存者は、後に雪中行軍遭難記念像のモデルともなった後藤伍長であり、仮死状態で雪中に直立していたと言います。生存者はわずかに11名、199名が命を落としています。凍死がほとんどでしたが、発狂して事故死した兵も少なからずいたようです。当時、大事故として報道もされていますが、軍が機密扱いとしたことで、全容詳細は明らかになっていなかったようです。事故の原因は、様々取り沙汰されてきましたが、いまだ特定されていません。ただ、一言で言うとすれば、準備不足ということになるのでしょう。

将兵のなかに雪中行軍経験者はいませんでした。東北の出身の兵が大半でしたが、地元出身者はいませんでした。青森の雪は、気温の違いから、東北他県の雪とは異なります。12月、第5連隊は、小編成で日帰りの予行演習を行っています。その日は、晴天に恵まれ、ピクニックのようだったとされます。この経験が、自然を甘く見ることにつながったのでしょう。気象判断が甘く、ガイドも拒否し、不十分な服装で凍傷対策も施さず、食料も装備も限定的、ビバークと言っても、狭い雪壕で、暖を取ることもなく、立ったまま過ごし、食事も不十分なまま、暗いうちから不確かな情報や判断に基づき行軍を開始しています。凍死者、行方不明者が続出し、完全に統制は失われ、指揮命令系統も機能不全に陥ります。

 実は、同じタイミングで、弘前の歩兵第31連隊も、小規模な編成による雪中行軍訓練を行っています。ただ、第5連隊とは、全く連携されていませんでした。10泊11日で、八甲田山を周回する行程でしたが、全員が無事帰営しています。弘前隊は、ガイドも雇い、宿泊も民家を利用する計画でした。指揮官は、雪中行軍の経験も豊富で、兵も半数以上が地元出身者でした。弘前隊は、行軍途中で、第5連隊の遭難者と見られる人影を目撃しています。ただし、この時点で、第5連隊の行軍も遭難も知りませんでした。目撃情報は機密扱いとなり、厳重な箝口令が敷かれたと言います。遭難者と確認できたとしても、自らも命がけで行軍するなか、できることは少なかったと思われます。ただ、第31連隊の成功した雪中行軍は、第5連隊の準備不足を際立たせることになりました。

この事件が、広く知られるきっかけとなったのは、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」(1971)、それを映画化した「八甲田」(1977)だとされます。いずれもフィクションであり、事実との相違も多いようです。地元では、昔から語り継がれてきた大事件であり、私は、母校が第5連隊駐屯地跡に建っていたこともあり、強く印象に残っています。日本百名山の一つである八甲田山(1585m)は、カルデラのなかに、18の火山が噴火して出来た山です。決して高い山ではありませんが、青森県の中央に位置し、西は旧津軽藩、東は旧南部藩領地となっています。複数の頂、なだらかな稜線、数多くの湿地帯が特徴です。世界有数の豪雪地帯でもあり、中腹にある酸ヶ湯温泉は、積雪量を伝えるTVニュースの定番ポイントでもあります。(写真:雪中行軍遭難記念像 出典:ja.wikipedia.org)

2022年1月4日火曜日

コピー・バンド

Atom Heart Mother
六本木の「アビー・ロード」は、ビートルズのコピー・バンドのライブを楽しむ店として、1996年に開店しました。私は、ローリング・ストーンズ派なので、ビートルズの楽曲はリスペクトしますが、ファンというわけではありません。ただ、誘ってくれる人がいて、アビー・ロードへは、一度だけ行ったことがあります。コピー・バンドの演奏レベルは高く、そこそこ楽しめました。ただ、多少、気持ちの悪さを感じたことがあります。それは、私よりも年上と思われるお客さんたちの反応でした。知っている曲ばかりが演奏され、いちいち歓声が上がるのは当然としても、バンドと常連客たちとのじゃれ合いが、閉鎖的、排他的な仲良しグループのそれなわけです。

バンドがプロフェッショナルな音楽を提供するというよりは、同好会の例会といった風情であり、違和感を感じた次第です。別な店であっても、バンドと常連との関係は、同じように濃密である場合もあるとは思いますが、それは、あくまでもプロとファンとの関係だと思います。アビー・ロードでは、バンドも常連も、同じビートルズ・ファンとして、供に楽しんでいるという不思議な空間だったように思います。同好会なら、それで良いのだと思いますが、こっちはお金を払って聞きに行っているわけで、そこに気持ち悪さを感じました。同好会ビジネスとでも言いたくなります。そこには、当然、バンドの甘えも生まれ、プロ意識も希薄になるではないかとも思いました。

先輩に誘われて、ピンク・フロイドのトリビュート・バンドのライブに行きました。アルバム「原子心母」を再現するというのです。そもそもピンク・フロイドの音楽は好みではないのですが、ライブに飢えていたこともあり、行ってみました。会場には、やはり同好会的雰囲気が漂っていました。ただ、とてもレベルの高い演奏であり、特にリーダーのギターは、かなりのものでした。残念だったのは、PAが、爆音指向なのか、時折、ハウリングのような嫌な音が入り、気になりました。また、チェロの音の拾い方がひどくて、チェリストがかわいそうだと思いました。結果的には、やはりピンク・フロイドの音楽には興味が持てなかったのですが、演奏を聴いているうちに、素朴な疑問が沸いてきました。

オリジナルをよく知らないので、これは完コピなのか、と先輩に聞くと、ほぼほぼ完璧だと言うのです。完コピと言えども、オリジナルとは異なるはずです。マニアックなファンとしては、完コピであればあるほど、オリジナルとの違いが気になるのではないかと考えます。そこのところを聞いてみると、確かにそうなんだけど、よくぞここまでコピーしてくれた、という感じなのだそうです。少し皮肉な言い方をすれば、ピンク・フロイドの音楽は、コピーでも楽しめる、あるいはコピーできちゃう音楽ってことですか、と聞いたところ、そうだよ、だってスコアに落とせる音楽だから、とのお答え。なるほどです。これが、ツェッペリンのコピー・バンドなら、まるで別物になってしまうけどね、とも言っていました。

コピー・バンドには、カバー・バンド、あるいはトリビュート・バンドと、様々な呼び方があるようです。あるいは”ものまね”と言ってもいいのかも知れません。やってる方は、面白くてしょうがないのだと思います。アマチュアなら、何の問題もありません。オリジナルにインスパイアされた音楽というのも、理解できます。ただ、プロとして完コピを目指すバンドというのは、なかなか腑に落ちない点も多い不思議な存在です。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年1月3日月曜日

エンパシー

東日本大震災の後、何度か被災地を訪れました。震災から1年後くらいのことですが、復興の進まない三陸で聞いた地元の人の言葉が、強く印象に残りました。支援はありがたい、感謝している、ただ、同情はいらない、同情ではなく、いつまでも震災を忘れないという気持ちを持ってもらいたい。人の記憶は薄れていくものです。震災の記憶を風化させないことこそ、被災した人たちへの支援なのだと知りました。被災した人たちへ寄り添う、という言葉も印象にのこりました。求められているのは、同情ではなく、共感ということなのだろうと思いました。

近年、”empathy(共感)”という言葉を、多く見かけるようになりました。共感という言葉自体は、新しい言葉ではありません。共感とは、他の人の感情、経験や考えを、自分のことかのように感じ、理解するということです。心理学や文化論、あるいは経営管理の世界において、”sympathy(同情)”との対比で取り上げられることが多いように思います。同情するという関係においては、両者の間に明らかな距離が存在し、場合によっては上下関係すら生まれます。対して共感は、両者の一体感が、より一層強くなります。分断の時代とも呼ばれる昨今ゆえ、注目を集め、新型コロナが、その傾向をさらに加速させたのでしょう。

共感という言葉が注目される理由として、少し異なる観点もあるように思います。共感とは、いわゆる仮想空間の広がりと深化を象徴する言葉なのではないか、とも思えるのです。ネットとスマホの普及によって、仮想空間は拡大の一途をたどっています。とは言え、仮想空間は、あくまでも仮想の世界として扱われ、現実空間とは明確に区別されます。当然と言えば、当然のことです。かつて、仮想空間は、現実空間の付帯的な存在でしかありませんでした。ところが、近年、どんどん現実空間が浸食され、仮想空間化しています。ビットコインやNFTアート、あるいはリモートワーク等が典型です。SNSの世界も含めて、既に仮想空間は現実そのものと言えるのではないでしょうか。

仮想空間には、国境も、身分も、差別も、格差もありません。そこには為政者たちが、人々を統制するために作り上げ、既成事実化してきた虚像は存在しません。ネットは、すべてのインターミディアリを否定するというのが私の持論です。人間が構築した制度は、すべてインターミディアリと言えます。国家、社会制度、貨幣、さらに言えば、言語すらもインターミディアリと言えるかも知れません。もちろん、言語が完全に排除されるとは思いませんが、ネットの本質は非言語的であり、言語に支配された世界ではありません。すべての媒介を排除して人と人が直接つながるネット世界において、コミュニケーションの根本を成すのは、”共感”なのではないかと思えます。

仮想空間を現実と認めることが、これからの人類の進歩や発展のトリガーになるようにも思えます。為政者たちは、仮想空間の広がりが、既存の現実社会を破壊し、無秩序な世界が作られることを恐れ、様々な規制をかけます。それらは、人類の進歩や発展を妨げているだけかも知れません。もちろん、ネット空間にも、何らかのルールは必要なのでしょう。ただし、そのルールとは、共感こそがコミュニケーションの基本であることを踏まえ、それを阻害しないためのルールでなければならないのでしょう。(写真出典:wcsu.edu)

2022年1月2日日曜日

ろかせず

鹿児島へ行った際、南州館名物の大きな鍋で黒豚しゃぶしゃぶを堪能した後、もう一軒行きましょうということになり、焼酎バーへ連れて行かれました。さほど大きな店ではありませんでしたが、壁一面に並ぶ芋焼酎の瓶が圧巻でした。聞けば、鹿児島には、110軒を超す芋焼酎の蔵元があると言います。一軒一軒は、さほど大きな蔵ではないので、生産量は限られ、人気の焼酎ともなれば、勢い希少品となるようです。これを飲め、あれを試せ、と言われて飲んだ芋焼酎のなかで、とりわけ気に入った銘柄がありました。極めて希少ゆえ、一杯だけだと言われたのですが、頼み込んで二杯いただきました。

「八幡 ろかせず」という芋焼酎です。かつて、芋焼酎は、臭くて、匂いが翌日にまで残ったものです。近年、そういった芋焼酎は無くなり、それが芋焼酎ブームにもつながったとものと思われます。要は、濾過の工程を入れることで、独特の臭みを消すようになったのだそうです。確かに飲みやすくはなりましたが、面白味は失われたようにも思います。そこで、南九州市の高良酒造は、あえて濾過しない芋焼酎を造り、ブランド名も「ろかせず」としました。個性を感じさせる深い味わいと香り、決して臭いとは思いません。アイリッシュ・ウィスキーに通じる風合とも言えます。割ったりせずに、常温のまま、オンス・グラスでいただくのが合っていると思います。

うまい、うまい、と大騒ぎすると、バーのママが、「八幡 ろかせず」をあげるわけにはいかないが、と言って、別の芋焼酎を一本、お土産にくれました。鹿子島は、いいところだな、としみじみ思いました。それから1~2ヶ月後のことです。福岡出身の友人と神楽坂で飲む機会がありました。日本酒と焼酎の揃えが自慢の店、焼酎好きの九州人という組み合わせで、「ろかせず」を思い出し、鹿児島での経験を話しました。するとカウンターの中にいた店の人が、これですよね、と「ろかせず」の一升瓶を出してきました。飲ませてくれと言うと、実は売り物ではないので、出せないと言います。じゃ、なぜ見せたのか、と聞くと、「ろかせず」を知っている人は少ないので、うれしくなり、つい出してしまいました、と言うのです。

金はいくらでも出すから一杯飲ませてくれ、と騒ぐと、お待ちくださいと言って、店の奥へ下がります。しばらくして戻ると、許可をもらいましたので、一合だけお出しします、とのこと。やはり美味いわけで、大喜びしました。お代はいくら、と聞くと、売り物ではないので、お代は結構です、と言われました。希少品であることは知っているので、それじゃ困ると言うと、では、また店に来て下さい、それで結構です、とのこと。何とも粋な話です。早速、2週間後、お礼の意味を込めて、4人ばかりでお邪魔しました。すると、今度は2合出してくれました。今回は、払わせてくれ、と頼むと、また、お代は結構です、また来て下さい、というわけです。味を占めたわけではありませんが、また行くと、あの瓶は、もう空いてしましました、と言われました。

その後、宮崎の有名な焼酎バーで、その話を、とくとくと語っていると、ママさんが、うちにもあるわよ、と飲ませてくれました。さすがにお代は払いしましたが、そこそこいいお値段でした。今でも、希少品であることに変わりはないようですが、最近は、ネットでも購入できるようです。私は、日本酒派で、好んで焼酎を飲むことはありません。ただ、飲むなら芋、それも可能であれば「八幡 ろかせず」を、また飲みたいものだ、と思っています。黒豚、薩摩地鶏、さつま揚げ、きびなご、黒酢、白熊、そして芋焼酎と、薩摩の独特で豊かな食文化は、実に魅力的です。(写真出典:isego.shop)

2022年1月1日土曜日

壬寅

十干十二支、いわゆる干支で言えば、2022年は「壬寅(みずのえとら)」となります。十干は、「木・火・土・金・水」の五行の陰と陽で構成され、物事の盛衰、移り変わりを現わします。 「水」は、次なる新たなステージを準備する段階であり、陽をはらむ「壬(みずのえ)」と地ならしを意味する「癸(みずのと)」の2年からなります。十二支の「寅」は、動く、あるいは延ばすという意味を持ち、草木が芽を出す状態を表すと聞きます。五行の関係を示す「相性(そうせい)」で言えば、「壬寅」は、「水生木」、つまり水が木を生み出すという年となります。

大雑把に言えば、「壬寅」は、次なる大きな成長や変化が胎動する、あるいは備える年ということになります。過去の「壬寅」の年を振り返ってみると、まずは1962年ですが、最も大きな出来事の一つとしてキューバ危機が挙げられます。第二次世界大戦後に始まった東西冷戦は、朝鮮戦争を経て、核爆弾の開発競争へと入っていきます。キューバ危機は、その危険なレースがもたらす最悪の事態、つまり核ミサイルの打ち合いによる人類滅亡という恐怖を実感させました。結果的には、直前で最悪の事態は回避されましたが、以降、ヴェトナム戦争、プラハの春、度重なる中東戦争、若者による反体制運動など、いわゆる激動の60年代が本格化していきます。

さらに、その前の「壬寅」である1902年は、産業革命を背景とする植民地争奪戦が国際的緊張を高めた時代でした。列強による清国の利権争いが激化し、満州と朝鮮を巡る日本とロシアの争いは、1904年の日露戦争へとつながりました。産業革命の一つの帰着である金融資本の成熟、市場の独占化が、持てる国と遅れてきた国との間に戦いを生んでいきます。激しさを増した植民地獲得競争は、抜き差しならない状況へと展開し、1914年の第一次世界大戦、そして第二次世界大戦を勃発させます。産業革命による科学技術の進歩が、武器の殺傷能力を異次元のレベルまで高め、いわゆる国家総力戦の時代を生みました。1902年は、20世紀前半、世界を揺るがした二つの大戦が、まさに胎動し始めた年だったと言えます。

また、1842年の「壬寅」には、清と英国のアヘン戦争が終わり、その後の中国の半植民地化を決定づけた南京条約が結ばれました。香港割譲もここで決まっています。中国の苦難の近代史は、ここに始まるといってもいいのでしょう。南京条約に衝撃を受けた政権の一つが、江戸幕府でした。古代から中国は東アジアの中心であり、日本は大国である中国を先達として、あるいは脅威として歴史を刻んできました。その中国が、いとも簡単に西洋文明に屈したことは、まさに衝撃だったわけです。この年、江戸幕府は、異国船打払令を廃止、難破船に対する薪水給与令を出しています。開国から明治維新につながる激動の時代が胎動し始めた年といえるのでしょう。

さて、今年はどのような年になるのでしょうか。米中戦争とも呼ばれる両国の緊張は高まり、台湾海峡の危機も懸念されています。ロシアは、ウクライナ周辺に兵力を集結させつつあります。まさにパクス・アメリカーナの終焉を伝える現象と言えます。ネオ・リベラリズムやグローバリズムが、資本主義を衰弱させ、経済格差の固定化を加速させているように思えます。一方で、それらは、独裁国家や独裁的国家を勢いづかせる結果にもなっています。また、ネットはじめテクノロジーが世界を変えつつあり、その行きつく先は、まだ不透明です。さらに3年目に入る新型コロナ禍は世界をどう変えるのか、加速する温暖化による影響はどこまで広がるのか等々、これまで経験したことがないほどダイナミックな変化が、地球と人類を覆いつつあります。少なくとも、今年は、次に来る大きな変化の胎動を見逃さないように目を大きく見開くべき年だと思います。ま、とりあえずは、カタールでのサッカー・ワールドカップに日本代表が出場出来るかどうかに注目ですですが。(写真出典:jbpress.ismedia.jp)

夜行バス