2022年1月23日日曜日

ムーアの法則

Apple II
1978年、大学を卒業して、会社に入ると、最初の配属先は札幌支社でした。担当した仕事の一つが、毎月、営業成績の速報値を本社に報告することでした。午前中に、各営業拠点から、電話で業績報告を受け、それを集計して本社へ”打電”します。打電とは、電報を打つことですが、当時、会社では電話と電報が一体化したようなテレックスを使っていました。まずは、タイププライターのような機械で、紙テープに穴を開けるパンチを行います。作成した紙テープを機械に流してプリント・アウトさせ、数字の確認を行います。ミスがあれば、その部分のテープを切り取り、打ち直したテープをつなぎます。そのうえで、専用回線から本社にデータを送信します。 毎回、締切時刻が迫るなかでの作業であり、緊張したものです。

テレックスは、1931年、アメリカのAT&T社が開始したサービスです。日本では、1956~2002年まで使われていました。1980年代、急速に普及したファクシミリが取って代わり、90年代後半にはパソコンに置き換わりました。1980年、本社人事部の制度担当となり、各種調査業務も担当しました。業務上必要なデータは、システム部に依頼してプリント・アウトしてもらいました。同じ年の後半、メイン・フレーム・コンピューターのオープン・ユース、つまり、一部の業務については、エンド・ユーザーが直接コンピューターにアクセスする政策が開始されます。各部の担当者が、簡易言語を教えられ、パンチ・カードを打ち込み、プログラムを深夜のバッチ処理にかけました。

パンチ・カードは、実に面倒な代物でした。ほどなくして、オープン・ユースのヘヴィー・ユーザーだった私は、特別にシステム部のコンソールから、直接、メイン・フレームを動かすことを許されました。一方、1977年には、”Apple II”が登場し、パーソナル・コンピューター時代が幕を開けていました。各メーカーは、開発したパソコンの試供品を会社に持ち込みます。当時はオフコン(オフィス・コンピューター)と呼ばれていました。私は、誰も使っていない試供品1台を部に持ち込み、様々遊んでみました。言語はBasicでしたが、簡単な動画作りから始め、パート・タイマーの給与計算システム等を作成しました。面白かったので、家用にも、簡単なBasicで動くコンピューターを買いました。1983年には、日本IBMが日本語で動く「マルチステーション5550」を発売します。社内でも5550が標準装備になります。

1987年、NYに赴任する際には、IBM5550と東芝のラップトップを持参し、業務管理や会計処理、レターやプレゼン資料の作成に使いました。もっとも、1985年に登場したばかりのラップトップは、まだ重くて、ラップ・クラッシャーとも呼ばれていました。1993年に帰国すると、日本はワード・プロセッサー、いわゆるワープロ全盛時代を迎えていました。日本語入力機能の便利さが受けたのでしょう。ただ、互換性と日本語に強いDOS/Vの登場、そして1995年、マイクロソフトのWindows 95発売によって、世はパソコンとネットの時代に突入していきます。社内でも、ワープロはパソコンに駆逐されていきました。当時は、マウスの使い方に慣れない人たちが多く、マウスを空中にまで持ち上げるなど、珍妙な光景もありました。Windows 95は、我が家へのパソコン導入のきっかけでもありました。

思えば、私の会社員生活は、パソコンの登場と驚異的な進化の時期に重なっていたように思います。その進化を、影でリードしていたのはムーアの法則でした。1965年、インテルの創業者の一人ゴードン・ムーアは、集積回路上のトランジスタ数は、毎年倍になると予測します。1975年には、2年で倍と修正されますが、技術の進化は、まさにムーアの法則どおりに進みました。数年前から、ムーアの法則の終焉、という言葉も多く見かけるようになりました。確かに法則性は失われつつあるのでしょうが、半導体の微細化、高層化は、留まるところを知らず、進化し続けています。(写真出典:appleinsider.com)

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