2022年6月30日木曜日

ローマのカタコンベ

西ローマ滅亡の理由としては、よく民族大移動が挙げられます。フン族に圧迫された東方ゲルマン族が西へと大移動を起し、巻き込まれた西ローマは滅亡するというわけです。外形的には、その通りでしょうが、本質的な滅亡の原因を巡る議論も数多くあります。愚帝、腐敗等を挙げる例もありますが、これらは制度疲労に伴う症状です。さらに、アントニヌス勅令などを遠因として挙げる場合もありますが、そうなるとローマの歴史すべてが原因となります。私のお気に入りは、多様性の喪失です。広大な古代ローマを成り立たせていたのは。”ローマの寛容”が実現した多様性でした。ローマ法やローマ街道といった文明のもと、各文化が独立性を保ちながら連携し、パクス・ロマーナを実現していたわけです。

 多様性喪失の象徴の一つが、キリスト教の国教化です。多神教だったローマに支配された民族は、それぞれの神を否定されることはありませんでした。しかし、313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教は公認され、392年、テオドシウス帝によって国教化されます。世界宗教としてのキリスト教の誕生です。ただ、一神教のキリスト教にあって、唯一神以外への信仰は邪教です。各民族の心の拠り所を否定することは、民族そのものの否定を意味します。緩やかな民族連合であったローマが崩壊するのは当然です。なお、コンスタンティヌス帝がキリスト教徒になった経緯は不明なままです。神の啓示を受けたとも、新たな統治システムを求めたとも言われます。

いずれにしても、コンスタンティヌス帝以前のローマは、皇帝を超える唯一神を崇拝するユダヤ教徒の扱いに手を焼き、イエス・キリストがガリラヤで宣教を開始した時から警戒を強め、300年間、キリスト教を弾圧してきました。しかし、終末における神の救済を説く一神教に、抑圧された人々はすがり、弾圧されるほど信仰心を強くするという構図がありました。いわば地下宗教だった時代のキリスト教を象徴しているのが、カタコンベと呼ばれる地下埋葬所です。ヨーロッパ各地にカタコンベは存在していますが、最も有名なものは、ローマ郊外にあるサン・カリストのカタコンベだと思われます。広さは東京ドームの3倍超、地下4層、通路の総延長は20kmに達する巨大な地下墓地には、50万人を超えるキリスト教徒が埋葬されていました。

サン・カリストのカタコンベは、ローマ市内から、地下鉄と路線バスを乗り継いで行けます。古代ローマを偲ばせるアッピア街道沿いにあります。聖地でもあるので、世界中からキリスト教徒が訪れています。カタコンベ内部へは、教会によるガイド・ツアーに参加しなければ入れません。各国語のツアーがありますが、英語ツアーが最も多く、予約なしでも参加できます。私は、2度行きました。これほど強烈に歴史を体感させられる場所はないのではないかと思います。それは単にキリスト教の歴史に留まらず、生々しい古代ローマの歴史でもあります。遺骨は、すでに他の場所に埋葬されていますが、通路に沿って、遺体が安置された窪みが並びます。思わず知らず合掌してしまいます。

アッピア街道沿いとは、実に巧みな配置をしたものだと思います。アッピア街道は、紀元前4世紀に敷設が開始されています。プーリア州のブリンディシまで総延長580kmというアッピア街道は”街道の女王”とも呼ばれます。現代の技術と大差無いほど高度な舗装が施されています。素早く軍を移動させるための軍用道路ですが、平生は庶民にも開放されていました。ローマ街道は、多様性がゆえに発達したローマ経済の基本インフラだったわけです。人や荷馬車が行き交う街道沿いであり、かつローマからも近いので、目立たず容易に遺体を運ぶことが可能だったと思われます。カタコンベは、ローマ市街を望む丘陵の地下にあり、現在は整備された緑地ですが、当時は農地や放牧地だったのでしょう。(写真出典:lugaresquevisitar.com)

2022年6月29日水曜日

熊沢天皇

熊沢天皇
1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾した日本では、終戦の詔が発せられます。日本は、連合国軍の占領下におかれます。サンフランシスコ講和条約が締結され、日本が再独立を果たしたのは1952年です。ポツダム宣言は、占領下でも日本の主権が認められるとしていましたが、進駐してきた連合国軍は、行政・司法・立法を軍政下におき、公用語を英語にすると通達します。日本は、ポツダム宣言違反を強く主張し、結果、日本政府を通じて、連合国軍総司令部(GHQ)が間接統治することになります。いわば、GHQが天皇に取って替わり、親政に近いことを行うことになったわけです。占領下、特に新憲法が1946年11月3日に公布されるまでの間は、日本は真空状態におかれたようなものでした。

当時、最も関心を集めたことの一つが昭和天皇の扱いです。連合国側にとっては、ヒトラー、ヒロヒト、ムッソリーニは、第二次大戦を仕掛けた三悪人とされていました。戦犯No.1候補だったわけです。結果的には、リスクを抑制しつつ日本を統治するために天皇は存置するというマッカーサーの方針が打ち出され、憲法に反映されます。それまでの間に、奇妙なことも多々起きています。その一つが、自称天皇が複数現われたことです。その数、19~30人と言われます。その代表が、熊沢天皇でした。名古屋で雑貨商を営む熊沢寛道は、熊野宮信雅王なる皇子の子孫であると主張、正統な皇位継承権は南朝の後亀山天皇の直系である自分にあるとします。記録上、南朝最後の親王とされるのは後亀山天皇の子である尊雅王であり、信雅王は確認できません。マスコミは、面白い話題として、揶揄的に取り上げました。

実は、明治時代、熊沢の父親も同じ主張を政府に上奏し、ことごとく無視されていたようです。熊沢天皇の主張は、筋金入りだったわけです。熊沢天皇が世間に知られるようになった経緯は、興味深いものがあります。熊沢は、彼の主張をGHQにも送りつけます。たまたまそれを目にした米軍の準機関紙である星条旗新聞の記者が、他の欧米誌の記者とともに、熊沢を取材し、記事にします。熊沢天皇は、一躍、時の人となります。星条旗新聞が、単なるこぼれ話として扱ったのか、あるいはGHQの一部が天皇制に揺さぶりをかけようとしたのかは判然としません。熊沢天皇問題の焦点は二つあります。まずは、熊沢が後亀山天皇の直系かどうか。この問いに、熊沢は、証拠はすべて天皇家にあるはずだと答えています。お話になりませんが、肯定も否定もできません。

今一つは、南朝、北朝、いずれが正統か、という大問題です。これは、もう延々と議論されてきた問題です。明治期にも大激論が行われ、帝国議会では政争の具にもなります。明治44年、帝国議会は一定の答えを出しています。南朝の正統性を認めた上で、1392年、明徳の和約において南北合一が行われている、ただ、和約が履行されず、混乱が生じたとしました。国としての公式見解からすれば、熊沢天皇が主張する南朝の子孫説はともかくとして、皇位継承に関する正統性は論外ということになります。マスコミの寵児となった熊沢天皇の周囲には、これを利用しようとする人々が集まり、政治団体を作り、全国遊説まで行います。しかし、GHQの天皇制存置の方針が打ち出されると、世間の興味は薄れ、人々も去っていきます。

熊沢は、皇位継承権の正統性を巡る訴訟も行っています。ただ、天皇は裁判権の外、として退けられています。サンフランシスコ講和条約が結ばれると、熊沢天皇は忘れ去られます。ただ、その主張を変えることなく活動していたようですが、最後は、板橋の飲み屋街に間借りし、寂しい死を迎えたようです。天皇制の帰趨が危ぶまれたこの時期、世論調査では85%の人が天皇制維持を望んでいたようです。天皇の戦争責任を問う声もありました。あまりにも当たり前の存在だった天皇について、程度の差はあったにしても、多くの人々が考えさせられた時期だったのでしょう。(写真出典:rikka-press.jp)

2022年6月28日火曜日

シュハスコ

シュラスコ(churrasco)は、ブラジル・スタイルのバーベキューです。ポルトガル語では、シュハスコという発音になります。ポルトガル語のRは、頭文字の場合、重なる場合、Nの後の場合、ハヒフヘホのような発音になります。例えばロナウド(Ronaldo)は、ホナウドになります。シュハスコは、牛肉等を部位毎に鉄串に刺し、直火で焼き上げます。ブラジルのBBQとして一般的だったシュハスコですが、店で提供されるようになったのは50年ほど前からだと聞きます。東京でも食べることができますが、ベストは”バルバッコア”だと思います。サンパウロに本店があるだけあって、かなり本格的なシュハスコが楽しめます。

シュハスコは、ホジージオと呼ばれる食べ放題スタイルを取ります。各テーブルには、表裏が緑と赤のカードが置かれています。緑は、肉を持ってこいというサイン、赤は食事の終りを意味します。焼かれた肉類は、鉄串のまま、各テーブルを巡り、欲しいという客に欲しいだけ切り分けられます。牛肉、豚肉、鶏肉、ソーセージにエビ、なぜかパイナップルも焼かれています。牛肉の一番人気はクッピンです。セビューとも呼ばれるコブウシのコブの部分です。希少部位ということになりますが、ほどよくサシの入った柔らかい肉です。私は、日本でいうイチボにあたるピッカーニャの方が、うま味を感じられて好きです。

シュハスコの店には、サラダ・バーが付きものです。野菜類だけでなく、ブラジル料理も並んでいます。私のお気に入りは、ブラジルのソウル・フード、フェジョアーダです。肉類と豆を塩味で煮込んだ料理です。アフリカから連れてこられた奴隷たちが、主人たちが捨てた臓物類を煮込んで食べたことが起源とされます。同じような由来を持つ料理は世界中にあります。日本の煮込み、ケイジャンのガンボー、ローマのトリッパ、フィレンツェのランプレドット、韓国の各種スープ類等々ですが、臭みを取り、柔らかくするために、じっくり煮込むので、うま味たっぷりに仕上がり、いずれも間違いなく美味しくなります。

シュハスコとともに飲むべきは、ピンガです。カシャッサとも呼ばれますが、サトウキビを原料とする蒸留酒です。そういう意味ではラム酒と同じなのですが、風味は明らかに違います。古来からブラジルにあったものではなく、サトウキビも蒸留技術もポルトガル人が持ち込んだもののようです。アルコール度数は、38~54度と聞きます。ストレートでもいいのですが、バチーダと総称されるカクテルもよく知られています。なかでもカイピリーニャ は有名です。ライムと砂糖とクラッシュアイスにピンガを混ぜたものです。口当たりが良く、さっぱりとした風味がシュハスコに良く合います。

シュハスコは、アサードと呼ばれることもありますが、実は似て非なるものです。アルゼンチンやパラグアイ等スペイン語圏では、熾火でじっくり燻すように肉を焼きます。これがアサードです。当然のことながら、アサードは、焼き上がりまで時間がかかることになります。アルゼンチンと言えば、パンパ、ガウチョということになります。パンパは、ラ・プラタ川流域の広大な平原ですが、アルゼンチンだけではなく、対岸のウルグアイからブラジル南部まで広がっています。シュハスコも、アサードも、パンパのガウチョ、ポルトガル語ではガウーショですが、彼らが発祥とされます。にも関わらず、なぜ焼き方の違いが生まれたのか、興味深いところです。(写真出典:gnavi.co.jp)

2022年6月27日月曜日

「トップガン マーヴェリック」

監督: ジョセフ・コシンスキー   2022年アメリカ

☆☆☆+

36年振りの続編とは驚きです。1986年の「トップガン」は大ヒット映画でした。主題歌も大ヒットし、トム・クルーズやメグ・ライアンはスターの地位を獲得しました。国威発揚のイメージ・フィルムとしては上出来であり、実際、軍への志願者が大幅に増えたとも聞きます。トム・クルーズは、安易な続編が制作されることを恐れ、映画化権を買い取ります。それが、続編制作に36年かかった主な理由のようです。しかし、前作は、結構、退屈な映画でした。恐らく続編も退屈だろうと思い、見る気にはなれませんでした。ところが、やたら評判が良く、見てみようと思った次第です。

驚きました。面白い映画でした。前作をはるかに超えています。国威発揚のイメージ・フィルムというフレームは変わっていませんが、その色が薄れ、テンポの良いスリリングなエンターテイメントに仕上がっています。米国海軍が全面協力した映像は、前回と同じく迫力のあるものでした。加えて、今回はCGという新たな武器が加わり、スピードも、スケールもアップしています。前作の主役はF-14戦闘機でしたが、今回はF-18です。米国海軍としては、最新のF-35をPRしたいところでしょうが、まだ機密事項が多いのかもしれません。ストーリー上では、ミッションの性格からF-18が選択されたということになっています。ただ、意外な形でF-14も再登場し、オールド・ファンをくすぐっています。

ハリウッドは、この手の、笑い、涙、チームワーク、そして大成功といった流れの映画が大得意です。典型的には、実話に基づくサクセス・ストーリー系などです。実に手慣れたもので、その手際の良さは伝統とも言えます。ところが、今回は、そのハリウッド伝統のベタな演出が抑え気味になっています。スッキリとした脚本で、テンポ良く、キレのいい映像をつないでいます。恐らく、ゲームの時代を意識したのでしょう。ゲームを超えるテンポと映像を目指したことが、今回の成功につながっていると思います。今どきのアクション映画にとって、ゲームで育った観客にアピールできるかどうかが、重要なポイントなのでしょう。

そのような観点から、監督も選んだのでしょう。ハリウッドの職人系監督ではなく、SFに手腕を見せるジョセフ・コシンスキーが選ばれています。トム・クルーズとは、「オブリビオン」(2013)で一緒に仕事をしています。コシンスキーは、風変わりな立ち位置の監督です。スタンフォード大学の工学部出身で、現在も非常勤講師をしているとのこと。映像の世界にも、テクニカルな面から入ってきたようです。「オブリビオン」では、監督だけでなく、製作・脚本も担当し、その映像は、デザインや建築を学んだ人らしいエッジの効いたものでした。2017年には、実話に基づく山火事消火部隊を描いた「オンリー・ザ・ブレイブ」を監督し、確かな腕前を見せていました。

トム・クルーズは、今年、60歳になるようですが、その若々しさには驚きます。ミッション・インポシブル・シリーズで知られるとおり、可能な限りスタントマンを使わないという主義にも驚かされます。自動車とバイクの腕前も有名です。前作同様、今回も自らバイクで疾走するシーンが使われています。今回は、カワサキのNinjaに乗っていました。自ら製作サイドもこなすトム・クルーズは、ハリウッドで独特な立ち位置を確立した大スターだと思います。気になるのは、サイエントロジー教会です。現在は、協会のNo.2だと言われます。カルトとも、営利団体とも言われますが、何かと批判の多い団体です。トム・クルーズは、学習障害をサイエントロジーで克服したと言われています。ちなみに、サイエントロジーの誕生を描いたと言われるポール・トーマス・アンダーソン監督の「ザ・マスター」(2012)は、なかなかの傑作でした。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2022年6月26日日曜日

ハリーとジャズ

"Mood Indigo"
私は、二人のヒエロニムス・ボッシュを知っていますが、いずれのファンでもあります。一人は、いうまでもなく16世紀の初期フランドル派の奇才です。その奇怪で幻想的な絵は、シュールレアリスムのルーツとも言われますが、むしろシュールレアリスム最高の画家であり、彼を超える人はいなかったとも言えます。スペインのフィリペ2世が愛好したことから、代表作のほとんどはプラド美術館にあるとされます。なでも「快楽の園」が有名です。三連祭壇画であり、宗教的寓話をボッシュ独自の妄想で描いています。プラドで、私も見ました。時代を超越した感があり、500年前の絵とは思えません。一度見たら忘れられない絵の一つです。 

今一人のヒエロニムス(ハリー)・ボッシュは、マイクル・コナリーの人気シリーズの主人公です。ロサンゼルスの刑事ですが、後に退職して私立探偵になります。ハリー・ボッシュ・シリーズは、1992年の「ナイトホークス」に始まり、20作を数えます。ただ、ハリー・ボッシュは、異母兄弟ミッキー・ハラーを主人公とするリンカーン弁護士シリーズ、LAタイムス記者ジャック・マカヴォイ・シリーズ、ハワイ出身のLAPD刑事レネイ・バラード・シリーズにも登場するので、今のところ、29作に登場しています。コナリーの作品は映画化もされていますが、近年、コナリー自身も制作や脚本に参加したAmzon Primeのミニ・シリーズが、なかなか良い出来です。

ハリーは、ジャズ好きとして描かれています。愛犬の名前もコルトレーンです。他にも、ロック、ブルースとかなり広いジャンルの音楽が登場しますが、やはり一番はジャズ、それもウェスト・コースト系がお好みです。コナリー自身の音楽の趣味が反映されているのでしょう。また、コナリーは私と同年代であり、聞いてきた音楽がほぼ同じです。知っている音楽が多く登場することは、なかなか心地良いと言えます。最も多く登場しているのは、フランク・モーガン、アート・ペッパーあたりではないかと思います。二人の共通点は、ビバップ、バラード、薬物中毒と復活。どうもコナリーの好みは、知的で、室内楽的、ややメランコリックなジャズのように思えます。

フランク・モーガンは、かなり変わった経歴を持っています。幼少期、チャーリー・パーカーから楽器を勧められ、以降も付き合いがありました。若くして才能を認められたモーガンは、1955年にファースト・アルバムをリリースしますが、薬物依存と薬物欲しさの犯罪で拘留され、以降の30年間、音楽シーンから離れます。1985年に出獄すると、活動を再開します。かつてチャーリー・パーカーの後継者と目された才能は健在でした。長い眠りから覚めたモーガンのビバップは、人気を博し、亡くなるまでの20年間、精力的にライブやレコーディングを行いました。”Mood Indigo”(1989)等は傑作と言われます。コナリーは、ハリー・ボッシュのオーディ・ブックでモーガンを起用し、また、モーガンを追悼するドキュメンタリー映画を共同制作しています。

ハリー・ボッシュは、かつて映画制作に協力して得た金で、街を見下ろすしゃれた片持ちの家を購入し、住んでいます。Amzon Primeのシリーズでは、原作のイメージどおりの家が登場します。ハリーのモダンな家で、LAの夜景を背景に、ヴィンテージもののオーディオから流れるフランク・モーガンは、ちょっとしたものです。ジャズの好みは多少異なりますが、コナリーの好きなものは、私の好きなものとかなり重なっています。国は違っても、やはり過ごしてきた時代が同じだからかも知れません。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年6月25日土曜日

実盛

白髪を染める実盛像
斎藤実盛は、源平合戦の初期を代表する平家方の武将です。武蔵国の幡羅郡長井庄を治めていたことから長井別当とも呼ばれます。当初、斎藤実盛は、南関東で急速に勢力を拡大した源義朝の傘下にありました。義朝は、頼朝・義経の父です。その後、信濃国から上野国に進出してきた義朝の異母弟である源義賢に圧迫され、その麾下に入ります。1155年、義賢は、大蔵合戦で義朝軍に敗れ、斎藤実盛は、再び、義朝軍に合流します。その際、実盛は、敗れた義賢の遺児・駒王丸を助け出し、信濃国へ送り届けます。駒王丸とは、後の木曽義仲です。義朝は、東国での勢力を背景に上洛し、実盛も同行します。鳥羽法皇の後ろ盾で、影響力を増した義朝でしたが、保元・平治の乱に敗れ、逃走中、美浜の湯殿で家臣に襲撃され、命を落とします。

命からがら、東国に逃げ帰った実盛ですが、今度は、平家方につき、実戦経験豊富な老将として重用されます。当時の東国侍は、領地を守るためには、何でもありだったわけです。1180年、以仁王の平氏追討の令旨に応じて挙兵した頼朝は、甲斐源氏とともに、富士川で、平維盛率いる追討軍と対峙します。実盛も追討軍のなかにいました。夜半、水鳥の羽音を敵襲と勘違いした追討軍は、我先にと逃げ出し、総崩れとなります。一説に寄れば、実盛が、東国侍の強さを追討軍内に喧伝していたためともされます。いずれにしても権力の座を謳歌する平家の無様な姿として知られます。同じ年、木曽では、頼朝の従兄弟である源義仲も挙兵します。越後から北陸へと勝ち進んだ義仲に、平家は、維盛を大将とする10万の大追討軍を出します。再び、実盛も同行します。

一進一退の攻防の後、追討軍主力7万は、倶利伽羅峠に布陣します。義仲軍は、見かけの小競合いの後、麓へ兵を引き上げ、7方から峠を囲みます。夜も更けて、追討軍が寝静まった頃合いを見計らって、義仲は夜襲をかけます。7方から攻められた追討軍は大混乱となり、唯一敵のいない方角へと雪崩を打ちます。そこは断崖絶壁が待ち受け、半数以上の兵が落下します。義仲の作戦勝ちです。敗走した追討軍は、加賀の篠原で陣形を整えますが、追撃してきた義仲軍に壊滅させられます。その際、齢70歳を超える斎藤実盛は、髪を染め、大将の陣羽織を借り、単騎、義仲軍に立ち向かいます。実盛は、奮戦の後、討ち取られます。首実検が行われるも、髪の黒さから実盛とは確認できませんでした。義仲は、首を池で洗うよう指示します。すると黒髪は、白髪へと変わります。

討ち取ったのが、命の恩人である実盛と知った義仲は号泣したと言われます。実は、この話には、後日談があります。250年後、時宗の高僧が、篠原の古戦場近くで、信者を集めて法要を行っていると、白髪の老人が現われ、十念を授かり消えたと言います。これは斎藤実盛の霊に違いないと評判になり、高僧は、懇ろに供養します。この騒ぎを題材としたのが、世阿弥作とされる能楽「実盛」です。私は、まだ観たことがありません。三修羅の一つとされる難曲であり、上演されることは希だと聞きます。老人は高僧にしか見えない幽霊という設定をはじめ、他の修羅ものにはない演出があり、腕の確かなシテ方にしか演じられないとも言われます。実盛の話は、義仲との因果話、老将の心意気、幽霊話など、いかにも狂言向きの題材ですが、その人生は、乱世のはじまり、東国侍の悲哀のはじまりを象徴するものだったようにも思えます。

今時分から夏にかけて、地方の農村部では、伝統行事の虫送りが行われます。目的は害虫駆除ですが、昔から死霊が虫になって稲を害するとされ、死霊退散という体裁を取ります。実盛が篠原の戦いで討ち取られた際、馬が稲の切り株につまずき、落馬したとされます。以来、稲を恨んだ実盛の霊が害虫となり、稲を荒らすようになったと言われます。西日本では、稲の害虫は実盛虫、虫送りは実盛送りと呼ばれるそうです。源平合戦には、名だたる武将たちが登場し、多くのエピソードが伝えられています。ただ、ここまで話の広がりを持つ武将も少ないのではないか、と思います。(写真出典:ranhaku.com)

2022年6月24日金曜日

サルサ・ソース

メキシコ料理は、何を食べてもサルサ・ソースの味がするように思え、やや飽きてしまいます。もちろん、実際には、様々な味があるのですが、イメージとしては、やはりサルサ・ワールドです。ところが、妙な中毒性があり、たまに、無性に食べたくなります。近所に、テックス・メックス料理の店もありますが、発作が起きた時には、手っ取り早くサルサ・ソース、もちろん辛いホット・タイプを買ってきて、中毒症状を緩和させます。サルサとは、スペイン語でソースのことです。代表的なサルサ・ロハ(赤いサルサ)は、トマト、ハラペーニョ、にんにくで作られます。また、サルサ・ヴェルデ(緑のサルサ)は、トマトに替えてほおずきの一種トマティーヨを使います。

メキシコは、大きな国ですから、地方によって、味付けも料理も異なり、名物料理も様々あるようです。また、古い歴史のなかで、祭礼や儀礼に結びついた料理が多い点も特徴と言われます。こうした点から、メキシコ料理は、ユネスコ無形文化遺産に登録されています。とは言っても、メキシコの味の基本は、トマト、タマネギ、にんにく、ハラペーニョであり、サルサにはすべて入っています。あとは、もうヴァリエーションの世界です。日本で言えば、昆布と鰹節の出汁に相当しそうです。従って、サルサ系ソースを使えば、なんでもメキシコ料理風になるとも言えます。アボガドを入れるとワカモーレになり、ライムを搾り入れると魚料理のセビチェになり、肉類とともにトルティーヤに挟めばタコスになるわけです。

トルティーヤは、トウモロコシや小麦を粉にして、練って薄く焼いたパンの一種であり、メキシコ料理を代表する食品です。メキシコでは、大昔から、とうもろこしをアルカリ水に通すことでグルテンを得ていたようです。そのままパンとしても食べますが、様々な具材を挟めばタコス、ラップすればブリトーになります。タコスと言えば、パルパリの皮を思い描く人も多いと思いますが、あれはアメリカ発祥のテックス・メックス(テキサス風メキシコ料理)です。同じように、ナチョスもテックス・メックスであり、本格的なメキシコ料理店にはありません。他にもトルティーヤ料理は多くあり、具材を巻いてトマト・ソースをかけたエンチラーダ、マサ(生地)でチーズを包んで焼くケサディーヤ等が代表的です。

メキシコと言えば、テキーラも欠かせません。竜舌蘭から作られる蒸留酒は、メスカルと呼ばれ、特定の竜舌蘭を使った高級品がテキーラです。古代から飲まれていたブルケとスペインの蒸留技術が出会って誕生したがメスカルだと言われます。カクテル・ベースとして有名です。コアントローやライム・ジュースで作るマルガリータが最も有名ですが、これはLA発祥です。また、オレンジ・ジュース、ザクロ・シロップで作るのがテキーラ・サンライズです。このカクテルを有名にしたのは、ミック・ジャガーとイーグルスだとされます。しかし、うまいテキーラを楽しむなら、ストレートに限ります。ライムを口に搾り、一気に飲んで、塩をなめます。ただし、高いアルコール度数は要注意です。テキーラ2杯で、皆、メキシコ人になれます。

千駄谷小学校近くの「フォンダ・デ・ラ・マドゥルガーダ」は、大好きなメキシコ料理店です。地下1階と2階に広がる世界は、メキシコそのものです。料理は、東京では珍しいほど本格的なメキシコ料理です。マリアッチのギター・トリオがメキシコ感をさらに醸します。テキーラの品揃えもなかなかです。マリアッチのおじさんたちに”シェリト・リンド”をリクエストして、テキーラをあおれば、気分はすっかりアミーゴです。メキシコは”重ねていく”文化の国だと思います。絵画や壁画の色、マリアッチの音、料理の食材と色、そういえばアステカ文明の遺跡も装飾で埋め尽くされています。日本のシンプルさを良しとする方向感とは真逆なようにも思います。(写真出典:livejapan.com)

2022年6月23日木曜日

柳川

柳川には、一度行ったことがあります。40年前、熊本で行う後輩の結婚式の司会を頼まれ、初めて九州に行きました。タイトな日程だったのですが、柳川だけは寄りたいと思い、福岡空港に降り、西鉄で柳川に入りました。柳川にこだわった理由は思い出せません。特段、北原白秋ファンということもなく、柳川の歴史に興味があったとも思えません。恐らく、TVの紀行番組等で見た柳川の風情に惹かれたのだと思います。水の都とも呼ばれる福岡県柳川は、干満差の激しい有明海を利用し、掘割を縦横に巡らせた城下町です。 掘割をどんこ船で巡る川下り、あるいはうなぎのせいろ蒸しでも有名な街です。

柳川は、福岡市のベッドタウンとなっています。西鉄の車内は、帰宅する高校生たちであふれ、福岡の言葉を十分に堪能することができました。柳川に着いたのは、もう夕暮れ時のことでした。遊覧船の事務所に飛び込むと、今日は終わりだと言われましたが、なんとかねばって、船を出してもらいました。結果、たった一人の乗客という贅沢な川下りになりました。どんこ船は、夕餉の準備に入った家々の裏庭を通り、部活帰りの高校生たちが通る橋の下をくぐります。穏やかな日本の原風景を楽しむ川下りでした。船頭さんが吟じる北原白秋の詩も、心に染み入るようでした。船着き場に戻ると、近所の鰻屋に入り、名物のせいろ蒸しを頂きました。

筑後地方のせいろ蒸しは、タレをつけて直焼きしたうなぎを、ご飯のうえに乗せ、錦糸玉子ものせて、せいろ蒸しにします。言ってみれば、関東の蒸し焼きと関西の直焼きのいいとこ取りのような料理です。ふっくら仕上がったうなぎも美味しいのですが、うま味が染みこんだご飯が絶品です。柳川は城下町であり、うなぎのさばき方は、背開きになります。これが余分な油を落とす効果もあるだそうです。タレが甘めなところが、九州らしい味とも言えます。柳川は、どじょうの柳川鍋発祥の地でもあります。柳川藩江戸屋敷が、将軍家に献上し、どじょうまで食べなければならない藩の窮状を訴えたことが始まりだとされます。面白い策を考えたものです。

筑紫平野南部に位置する柳川は、弥生時代から栄えたようです。戦国時代になると、蒲池氏が柳川城を築きます。以降、豊かな地を巡る争いは絶えず、領主は目まぐるしく変わっています。江戸期には立花氏が柳川藩10万石を所領しました。初代立花宗茂は、実に興味深い武将です。大友氏の家臣の出ですが、武勲・忠義で知られ、秀吉の九州平定での活躍が認められて柳川13万石の大名となります。関ヶ原では西軍として戦いますが、敗れて野に下ります。ただ、その人物を見込んだ徳川家康によって取り立てられ、大坂の陣では徳川方として活躍し、結果、柳川10万石を回復しました。なんでもありの戦国時代ですが、さすがに旧領を回復した大名は、立花宗茂ただ一人と言われます。

北原白秋の出身地として知られる柳川ですが、実は、江戸相撲第10代横綱である雲龍久吉の生地でもあります。当然とも言えますが、柳川藩のお抱え力士でした。この雲龍、そして第11代横綱である熊本出身の不知火の土俵入りは、実に美しいと評判になります。現在も、横綱土俵入りと言えば、左手を腹に当ててせり上がる雲龍型、両手を広げてせり上がる不知火型、いずれかで行われます。ただ、面白いことに、雲龍が行った土俵入りは、現在、不知火型と呼ばれ、不知火が行ったものは雲龍型と呼ばれています。どこかの時点で、うっかり入れ替わり、そのままになったようです。実にお粗末な話ですが、結構、相撲ファンお気に入りの雑学でもあります。(写真出典:4travel.jp)

2022年6月22日水曜日

JB

NBAのスーパー・スターだったラリー・バードには、マイケル・ジョーダンを評した名言があります。 「彼は、マイケル・ジョーダンの姿をした神だ」。今も語り継がれる名言です。これを借りてジェームス・ブラウンを表現すれば「彼は、ジェームス・ブラウンの姿をした最も原始的なパワーそのものだ」と言えると思います。ジェームス・ブラウンへの賛辞、数々の実績、数多の賞、それらの全てを持ってしても、JBの凄さは語り尽くせないと思います。現代なら許されないほどのひどい暴力、セクハラ、パワハラ、麻薬といった面も含め、JBの存在自体が、ギラギラとした人間本来のパワーのむき出しだと思います。それがゆえに、皆、JBの魅力に取り憑かれ、あるいは直視に耐えられず嫌いなのだと思います。

「JB自身が一つの音楽ジャンルだ」と言ったのはジミー・ペイジでした。ソウル・ブラザーNo.1、ファンクの帝王として、多くのミュージシャンに影響を与えましたが、彼の音楽は誰にも真似できないものでした。バックバンドJB'Sの音楽は、コピーできたとしても、あのキレのあるダイナマイト・ヴォイスがなければ、JBの音楽は成立しません。ファンキーなドラム、強烈なカッティング・ギター、リズム・セクションのようなホーン、JBのダイナマイト・シャウトすらリズム楽器のようです。JBは、1956年、21歳の時、「Please, Please, Please」でデビューします。JBの代名詞ともなったファンクは、1964年の「Out of Sight」に始まるとされますが、確立されたのは、1967年の「Cold Sweat」です。日本で一番有名のは、”ゲロンパ”で知られる「Get Up(I Feel Like Being a)SexMachine 」(1970)なのでしょう。

JBのファンクは、ニューオリンズの葬送で演奏されるセカンド・ラインが起源だとも言われますが、よく分かりません。個人的には、1959年にリリースされたインストゥルメンタル・ナンバー「 (Do the)Mashed Potatoes 」が、JBのファンクのオリジンではないかと思っています。当時、流行していたダンス”マッシュポテト”のブームに乗った曲です。後のブレイク・ダンスに大きな影響を与えたJBのダンスは有名ですが、マッシュポテトがベースになっていると思います。JBのファンクを生んだのは、マッシュポテトではないかと思います。強烈なリフで、ダンサブルなJBのファンクですが、皮肉な事に、1970年代後半にディスコ・ブームが始まると、JBの人気は衰え、低迷期に入ります。恐らく、エッジの効き過ぎたJBのリズムは、黒人以外が踊るにはハードルが高かったのではないかと思います。1980年代に入ると、大御所としての映画出演や「Living in America」(1985)のヒットなどで、見事に復活しています。

ジェームス・ブラウンは、1933年、サウスキャロライナ州の掘っ立て小屋で、極貧の両親のもとに生まれます。父親にはネイティブ・アメリカン、母親にはアジア系の血が混ざっているようです。JBの生い立ちには、アメリカ黒人の苦難の歴史が全て詰まっているかのようです。一家は、ジョージア州オーガスタに越しますが、あまりにも貧しく、叔母が経営する売春宿に居候し、家庭内暴力に絶えかねた母親は逃げ出しています。幼いJBは、綿花摘みや靴磨きをしながらも、音楽への興味を募らせていたようです。15歳のおり、車の窃盗で差別的判決を受け、3年間、少年院に収監されています。仮釈放後、JBは、ゴスペル・グループに参加し、音楽活動を始めています。

JBは、希代のトラブル・メーカーでもありした。バンド・メンバー、プロデューサー、レコード会社、IRS、警察、妻たち等とのトラブルが絶えることがありませんでした。ニクソン再選を支持して、総スカンをくったこともあります。DV、銃器保持、警官への暴行等で、何度か収監もされています。貧困に奪われた少年時代が、成功した後に現われているようでもあります。あるいは、ステージ同様エネルギッシュな私生活は、天才らしい天衣無縫さだったのかも知れません。いずれにしても、JBのエキセントリックな音楽と私生活の原動力は、母親に捨てられ、極貧の生活にあえいだ幼少期の孤独感だったのではないかと思います。(写真出典:ticro.com)

2022年6月21日火曜日

甲州印傳

大阪の男性がセカンドバッグを好むことが話題となり、ダサいと言われた時期がありました。クラッチバッグは、取っ手のないバッグであり、女性の正装にポケットの少ないことから、冠婚葬祭やパーティ等で女性が小物を入れておくために普及したものです。バッグの中に入れることから、セカンドバッグとも呼ばれます。バブル期には、男性ビジネスマンの間で流行し、バブル崩壊とともに廃れたようです。バブル期には、大型化した財布はじめ、男性も各種ブランド小物を持つことが増え、ブランドもののセカンドバッグが普及したのでしょう。

ブームが去った後も、大阪で多用されていたことが、ダサいというイメージにつながったのかも知れません。バブル期、日本にいなかった私は、セカンドバッグの流行そのものを知りません。その私から見ると、セカンドバッグを持つ大阪男性は、闇金業者にしか見えませんでした。男性も、出かけるときには、様々な小物を携帯しますので、一度セカンドバッグを使うと止められないことは理解できます。近年、肩から斜めにかけるメッセンジャー・バッグを多く見かけます。今は、若い人だけでなく、老人たちもおしゃれなメッセンジャー・バッグを使っています。便利なのでしょうが、私は、どうも好きになれません。

私は、最小限の小物をポケットに分散させ、できるだけ手ぶらで出かけたい方です。そうは言っても、夏服になると、ポケットが減り、大弱りです。そこで思いついたのが、甲州印傳の信玄袋でした。以前に頂いたものを保管してありました。もちろん、和装用であることは百も承知ですが、なかなか便利なので、夏場の定番にしています。印傳は、鹿革に漆で紋様を付けたものです。もともと馬具、武具等に使われてきました。江戸初期、インドの皮革製品が将軍に献上され、その美しさが評判となり、皮に漆で装飾した製品全般が、印度傳来、略して印傳に呼ばれるようになりました。江戸期には、巾着、煙草入れ等の小物にも使われました。

かつては各地にあった技術だったようですが、今は、主に甲州が生産地となり、甲州印傳として知られています。信玄袋も、あたかも甲州伝統の品のように思えますが、こちらは、明治中期に、女性用の小物入れとして開発されたものだそうです。昔からあった合切袋を大型化し、マチを無くし、組紐を外付けにしたものです。武田信玄の肖像に合切袋が描かれていたことから、信玄袋と名付けられました。明治後期に流行し、その後は和装が廃れるとともに、姿を消していったようです。印傳の信玄袋は、邪魔にならず、そこそこものが入ること、形状がしっかり保たれること、コキと呼ばれる紐通しで開閉がスムーズであること等がお気に入りのポイントです。

最近の持ち物の中で、最も煩わしいものがスマホです。画面が大型化する傾向があり、一層持ちにくくなっています。女性はバッグを持ち歩くので問題ないのでしょうが、身軽にしたい男性にはやっかいな代物です。かといって、持ち歩かないという選択肢もありません。冬場やスーツを着ている時には、さほど問題にはなりませんが、やはり夏場対策が入り用だと思います、今のところ、信玄袋で十分なのですが、メーカーの皆さんには、もっと軽く、もっと薄く、もっと小型で、ポケットに入れて携帯できるようなスマホを開発願いたいものです。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年6月20日月曜日

マタギ

阿仁マタギ
部落差別に関しては、西日本と東日本で温度差があり、東北では差別意識が薄いと言われます。 皮革職人等に対する偏見は、古くから存在し、江戸幕府が身分制を導入すると、士農工商の下に位置づけられ、身分差別が固定化されます。北海道や琉球は別として、全国一律だったわけですが、何故か東北には被差別部落もほとんどなく、差別意識は希薄だったようです。私も、子供の頃から、アイヌ差別問題は知っていましたが、部落差別問題を知ったのは高校に入ってからです。東北の部落差別に関する状況のなかで、マタギの存在は特徴的だと思います。

マタギは、簡単に言えば、猟師として生計をたてる人です。かつて、北関東から東北・北海道の山間部に分布し、マタギ集落もあったようです。平安時代から、独特の文化を育んできたと言われます。職業の性格からすれば、江戸期の最下層身分となりそうです。ところが、そうではありませんでした。寒冷な地域では、獣を狩ることは、衣服としても、たんぱく源としても、生きるうえで欠かせなかったものと想像できます。マタギに限らず、農民たちも、狩猟を行っていたのでしょう。そこでは、畿内のような偏見は生まれず、江戸期の職業に基づく身分差別も非現実的だったのでしょう。さに言えば、縄文対弥生という構図も気になるところです。

弥生文化は、さして大きな争いもなく縄文文化に置き換わったと想定されています。日本人のDNAは、弥生人をベースに、縄文人のDNAが1~2割入っていると言われます。要は混血が進んだわけです。縄文人も、栗などを栽培する文化は持っていたので、生産性の高い稲作はウェルカムだったのでしょう。ただ、寒冷地では、多少、事情が異なります。西日本がいち早く弥生化したのに対して、東北は縄文の生活が残っていたのだと想像できます。なかでも、マタギは、最後まで縄文文化を維持し続けた人々なのではないでしょうか。弥生人の稲作文化が完全に浸透した畿内では、縄文の色濃い皮革職人等へのさげすみが生まれたのでないかと思われます。いわば、原始的な先住民である縄文人を、先進的な弥生人が見下したというわけです。

マタギは、独自の宗教観や言葉を持っていたと言われます。猟場である山は、里とはまったく異なり、山の神が支配する別世界であるという認識が基本となっています。獲物は、山の神からの授かり物であり、仕留めた時や解体する時などには、特別な呪文が唱えられたと言います。逆説的ではありますが、マタギには、命を尊重する独特な文化があったとも言えます。山の神は、女性であり、しかも醜女とされています。山の神の嫉妬を避けるために、女性は入山禁止とされていたようです。マタギの宗教観には、安全に猟を行うための知恵という側面もあるのでしょう。さらに言えば、迫り来る弥生文化に対して、縄文文化を守るという意味合いもあったのではないでしょうか。

一方、弥生人にとっても、マタギが狩る熊は、薬の原材料として重要でした。最も有名なのは、熊の胆(くまのい)です。熊の胆嚢を干したもので、万能薬とされ、今でも漢方薬の世界では珍重されています。他の部位も、薬として、あるいは厄除けとしても用いられていたようです。マタギが偏見や差別の対象とならなかったのは、高価な薬の提供者という面があったことも影響しているのかもしれません。ちなみに、マタギのなかで、最も有名なのが、秋田県の阿仁マタギです。阿仁は、901年に編纂された「日本三代実録」にも記載されるほど古い歴史を持ち、後年は、金銀銅の採掘でも栄えました。(写真出典:yado-sagashi.com)

2022年6月19日日曜日

「シン・ウルトラマン」

監督: 樋口真嗣   企画・脚本:庵野秀明   2022年日本

☆☆+

(ネタバレ注意)

TVシリーズの「ウルトラマン」は、1966年7月から放送されました。それに先立つ半年間放送された「ウルトラQ」の大人気を受けて、制作されたものです。ゴジラに始まる日本の怪獣は大人気でしたが、基本的には映画館でしか見ることがきませんでした。ウルトラQは、それを、TVで、かつ毎週見ることができるようにしたという画期的な番組でした。後続のウルトラマンは、子供たちに大人気となり、最高視聴率が40%を超えるという空前絶後の大ヒットTV番組になります。さらに、シリーズ化されたウルトラマンは、中断した時期はあるものの、現在に至るまで継続され、また、海外でも多く放送されてきました。

怪獣映画で育った私にとっては、安易で、チープなTV怪獣など、馬鹿馬鹿しくて見る気にもなりませんでした。既に小学校6年生になっていたこともあり、TVでウルトラマンを見た記憶もなく、何の思い入れもありません。ただ、庵野秀明の脚本、総監修だというので見たまでです。私より下の各世代は、ノスタルジーをかき立てられるはずです。その期待を裏切るわけにもいかないということが、本作の制約になっているのでしょう。まったく新たなに庵野流解釈によるウルトラマンではなく、そのチープな手触り感や世界観をしっかり継承しています。そのうえで、ウルトラマンのジレンマ、過度に劇的な展開の回避、物理学的世界観など、庵野流の味付けが加えられています。

大画面で見るウルトラマンは、ファンにとってうれしいものだと思います。庵野秀明ファンからすれば、好きにやらせろよ、と言うことになるのでしょう。一つ印象に残ったシーンがあります。映画が始まり、比較的退屈な展開が続く中、私は、長澤まさみが巨大化したら面白いのにな、と思っていました。それが、実際、出現したのです。ウルトラマンでも、怪獣でもなく、スーツ姿の長澤まさみが、そのまま巨大化して丸の内を歩くのです。思わず吹き出しそうになりました。制約の多さへの意趣返しなのか、ウルトラマン論なのか、いずれにしても庵野秀明の自己主張が感じられて、笑えました。庵野は、このシーンを中心にシナリオを書いたのではないか、とさえ思います。

円谷プロの創業者である円谷英二は、戦意高揚映画を作っていたとして公職追放にあっています。古巣東宝に戻ると、1954年、歴史的な大ヒット作「ゴジラ」の特撮を担当します。特撮の神様の誕生です。ウルトラマン等のヒット作もありつつも、円谷プロの経営は、決して順調ではありませんでした。着ぐるみスタイルの怪獣、精巧を極めたミニチュア・ワークなど、製作費がかさむ構造を持ち、一方で、特撮のニーズには波がありました。かつて、東宝やTBSと関係の深かった円谷プロは、現在、パチンコ・メーカーのフィールズの傘下にあり、バンダイナムコの出資も受けているようです。

世はCGの時代となりました。着ぐるみ、ミニチュアは、過去のものと言ってもいいのでしょう。久々に、その世界を見たわけですが、単なるノスタルジー以上に、味わい深いものがありました。シン・ウルトラマンは、さすがにCGも組み合わせています。近年は、CGを多用する映画が多く、マーベル映画などは、実写なのかアニメなのか、区別しにくいものまであります。このままCGの進化が止まらないとすれば、映像コンテンツの世界も大きく変わります。着ぐるみ・ミニチュアどころか、俳優も、必ずしも必要というわけではなくなります。ウルトラマン・サイズの長澤まさみが丸の内を歩くシーンなどは、歴史的映像として知られる日がくるかも知れません。(写真出典:animeanime.jp)

2022年6月18日土曜日

浪士組

学生時代、先輩から、ある意味、学者は馬鹿でなければ務まらない、と聞かされました。例えば、歴史の研究は、公平に、客観的に、全ての既知の事実と向き合い、そのうえで仮説を立て、検証を行うという科学的な作業です。気の遠くなるような作業です。よって、学術書は、退屈な部分が大層を占めます。歴史小説等も、しっかりとした調査に基づき書かれます。例えば司馬遼太郎は、学者顔負けの綿密な資料調査、フィールド・ワークで知られます。司馬が調査を始めると、神保町から関係する本が消えたとまで言われます。ただ、実際の執筆にあたっては、面白い話や自説に適合する部分だけをピックアップし、その上、加工も加えて小説に仕立てられます。司馬遼太郎の本は、フィクションながら、ノン・フィクション的でもあり、私は、ノン・ノン・フィクションと呼んでいます。この手法が誤解を生むこともあります。

司馬は、いくつかの歴史ブームを巻き起こしていますが、その一つが「燃えよ剣」(1964)による新撰組ブームでした。司馬は、同じジャーナリスト出身である子母沢寛の「新撰組始末記」(1928)に感動し、これを超えることはできないと思ったそうです。そこで、副長土方歳三にフォーカスして「燃えよ剣」を書き、成功します。子母沢寛は新聞記者時代、当時、まだ生き残っていた関係者を徹底取材して、「新撰組始末記」を書いています。育ての親でもある祖父が、函館戦争で敗れた元彰義隊の御家人だったことも、大きく影響しているのでしょう。明治期の薩長政権下、賊軍だった新撰組は、ならず者の人斬り集団というネガティブなイメージで捉えられていたようです。転機となったのは、1913年、小樽新聞に掲載された永倉新八の口述回顧録です。これも子母沢寛に影響を与えたのだと思います。

司馬の本がよく読まれたこと、ノン・フィクション的であること等から、司馬独自の史観が歴史的事実であるかように広まっていることは、いささか問題だとも思います。同様、勝者の論理とも言える薩長史観も問題ではあります。新撰組については、公儀に殉じた幕末の青春群像であることも、物騒な人斬り集団であったことも事実なのでしょう。いずれにしても、新撰組の人気が衰えないことは驚きです。もちろん、「燃えよ剣」のヒットに始まるわけですが、その後も書籍、映像、近年は少女漫画まで含めて、新撰組ネタが絶えることがありません。歴史的役割はほぼゼロ、当時の京都市中では嫌われ者、明治の元勲にはいじめられた者も少なからず、かつ薩長政権の影響もあってか資料も乏しい集団が、これほどの人気を勝ち得ていると知ったら、本人たちが一番驚くに違いありません。

司馬の好意的な文章の影響の他にも、滅びの美学、判官贔屓といった点も新撰組人気に寄与しているのでしょう。加えて、近藤勇、土方歳三はじめ新撰組の隊員の多くが、武士ではなく農民出身であったことが、人を惹きつけているのではないかと思えます。京都守護職預かりといっても、組織の外にあり、為政者たちの直接指示で動いたわけではありません。幕府方として将軍警護を目的としていたわけですが、その集団としての性格は、武士階級や武家組織のアンチテーゼとしての市民軍だったとも言えるのではないでしょうか。そういう意味では、高杉晋作の奇兵隊と同じく、変革の時代にあって、近代を予感させる組織だったと思います。さらに言えば、幕末の歴史を動かした下級武士たちにも通じるものがあると考えます。無頼の集団とは言え、封建の世に別れを告げた市民組織に、人は惹かれるのだと思えます。

新撰組が、江戸で徴募された時、名称は浪士組だったようです。京都到着後、清川八郎の朝廷方への寝返りが発覚し、浪士組は、江戸に帰還させられます。その際、居残った近藤一派と芹沢一派が壬生浪士組となります。この浪士組という呼称こそ、最も新撰組らしい名前のように思えます。その後、八月十八日の政変での活躍が評価され、宮中、ないしは会津藩の松平容保から、新撰組という名前を拝領したとされています。しかし、そんな大事なことすら記録がないとは驚きです。浪士の集まりゆえかもしれませんが、やはり敗残した賊軍の悲しさなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年6月17日金曜日

大門そうめん

大門素麺
よらず麺類は大好きですが、素麺、冷や麦は、あまり食べません。とは言っても、無性に食べたくなることもあります。私の場合、それは夏場に限ってのことではありません。温麺、にゅめん、あるいは吸い物の具材としても、結構、食べたくなります。冷やし素麺は、ワン・シーズンに、せいぜい2~3度食べる程度です。一般的に言えば、素麺は夏の風物詩です。もともと細くて食べやすい素麺は、夏場に冷やせば一層食べやすくなります。ただ、至って淡泊な代物ですから、冷やしたり、具材を豪華にしたり、場合によっては割竹に流したり、と工夫を凝らして食べることになります。

 素麺の起源は、唐から伝わったお菓子「索餅(さくべい)」だと言われます。索餅は、小麦粉と米粉を練って棒状にし、それを縄状にひねって乾燥させたものです。祭事や宮中行事など、祝いの席の神饌とされていたようです。また、病除けとして七夕にも食べられていたようです。それが、素麺に進化していったというわけです。ただ、北宋の文献に、小麦粉を練って油で伸ばし乾燥させる「索麺」の記載があるようです。素麺そのものです。恐らく、これが日宋貿易のなかで、日本に伝わったというところが真相ではないかと思います。いずれにしても、室町時代には、現在の形で作られ、食べられていたようです。

日本で最も古い素麺の産地は、奈良の三輪だとされます。やはり索餅起源かなと思わせる話です。生産量は少なく、かつては7割方は島原で作ったものであり、産地偽装問題にもなりました。三輪素麺は、綿実油で伸ばします。「神杉」と呼ばれる最高級品が有名ですが、究極の極細麺です。素麺は、細いものが上物とされます。確かに、神杉は別世界の観があります。播州揖保乃糸も有名です。揖保乃糸は黒帯が高級品となりますが、なかでも最高級品は「三神」という極細麺です。また、熟成も素麺の味には重要な要素であり、揖保乃糸にも熟成麺があります。熟成感を強く感じるのが、徳島の半田素麺です。半田素麺は、うどんに近い太めの麺が特徴です。

様々な素麺を食べてきましたが、最高の逸品だと思うのが、富山県砺波市の大門素麺です。江戸末期、輪島素麺の製法が砺波の大門地区に伝わり、かつては盛んに作られていたようです。残念ながら、本家の輪島素麺は、後継者が無く、絶えてしまったようです。大門素麺は、冬の時期、油を一切使わず、完全に手延べで作られます。手延べの作業には、あうんの呼吸が求められ、夜を徹して、夫婦で作っているとのこと。現在の生産者は、わずか11軒。希少価値が高まっています。大門素麺のもう一つの特徴は、長い麺を丸髷のように丸めた形です。それを生産者名が記載された紙に包みます。茹でる時には、それを二つに割ってから茹でます。

沖縄のソーミン・チャンプルーも好物の一つです。単純な料理なのですが、なかなか作るのが難しい代物でもあります。麺がフライパンにくっつき、うまいこといきません。素麺の食べ方で、最も解せないのは、鹿児島のそうめん流しです。指宿市の唐船峡名物です。流すのではなく、機械で水を回し、そこにそうめんを入れて食べます。子供だましの流しそうめんじゃないかと思ってしまいますが、わんさか人が集まるのだそうです。実は、唐船峡の水は美味しい水で、素麺との相性がいいとされます。そうめん流しは、そうめんと水を味わうための仕掛けなのだそうです。馬鹿らしいと思っていましたが、そう聞くと食べて見たくなります。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年6月16日木曜日

海への進軍

シャーマン将軍
昔、戦争と言えば、野っ原で、兵団同士が激突するものでした。いわゆる会戦です。会戦での勝敗を積み重ね、一方が降伏して、戦争は終わるわけです。従って、兵士以外の民間人は、間接的な影響はあるとしても、戦闘そのものとは無関係でした。 フランス革命によって国民主権の国家が誕生すると、国を守るのも国民の義務となり、国民兵が登場します。ついに、民間人も戦争に巻き込まれることになったわけです。この新しい戦力、実態は素人軍団ですが、これを戦場で巧みに使ったのがナポレオンということになります。そして、産業革命が起こると、戦争のあり方も劇的な変化を遂げることになります。

いわゆる総力戦の時代の到来です。総力戦は、アメリカ南北戦争に始まると言われます。産業革命によって、殺傷能力を飛躍的に高めた最新武器が多く投入されます。円錐形のミニエー弾、ライフリングと呼ばれる銃砲身内の螺旋状の溝、さらには機関銃も登場します。海や川では、スクリューを備えた汽走戦艦、あるいは潜水艦も誕生します。職人が工房で作っていた武器は、工場で大量に生産されるようになり、人馬に頼ってきた武器の補給は、鉄道や蒸気船が使われることになりました。当然、武器工場や鉄道も攻略目標となり、戦場は兵団が対峙する平野から後方の都市部へと拡大します。南北戦争では、こうした変化を踏まえた新たな戦略論も登場することになりました。

北軍の西部総司令官だったウィリアム・シャーマン将軍による総力戦という考え方が、近代戦争の幕を開いたとされます。ことにアトランタからサバナまで破壊し尽くしたシャーマン将軍の「海への進軍(March to the sea)」は、総力戦の始まりを告げた戦いとも言われます。その距離400km、幅は50~100km、兵器工場や補給拠点のみならず全ての産業基盤、鉄道、住宅を焼き尽くします。これが南軍の物心両面に渡る戦闘能力を削いだと言われます。一層本格的な総力戦が戦われることになったのが、第一次世界大戦でした。戦車、飛行機、化学兵器等の革新的な兵器に加え、要塞、塹壕といった防御態勢の強化が持久戦を生み、兵員、兵器、弾薬が大量に消費されます。

各国は、持てる力の全てを注ぎ、総力戦を遂行し、結果、900万人の戦闘員、700万人の非戦闘員が犠牲になりました。しかし、第一大戦が生んだ最大の悲劇は、第二次世界大戦だと言えます。進化した航空戦力が戦域を拡大し、2,500万人の戦闘員、3,000数百万人の非戦闘員が犠牲となりました。総力戦の行き着く先は明確です。人類の滅亡です。その頂点に位置するのが核兵器であり、広島・長崎への原爆投下は、まさに総力戦の象徴です。また、総力戦ゆえ、交戦国が受ける社会的、経済的ダメージも増大し、敗戦国が負う賠償金も膨大な額になります。これが戦争を長引かせ、いずれかが決定的ダメージを受けるまで継続されるようになります。つまり、総力戦は戦争の終わり方まで変えたわけです。

いずれが攻撃を仕掛けたかは問わず、全ての交戦国の最高責任者は、国際司法裁判所で、戦争犯罪被疑者としての審査を受けるというルールを設定してはどうか、と思います。戦勝国による軍事裁判は、あまりにも一方的に過ぎます。勝てば官軍という常識を変える必要があります。また、国連も存在意義なしとまでは言いませんが、機能不全に陥っている面もあります。この方式を採れば、各国の最高責任者は、戦端を開く前に、その妥当性を証明するための準備を、相当しっかり行う必要が生じ、未然に戦争を防ぐ一助になるではないでしょうか。何が何でも総力戦は避けるべきです。悲惨な終わり方しかあり得ないのであれば、未然に防ぐ手立ては、いくらあってもいいと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年6月15日水曜日

「オフィサー・アンド・スパイ」

監督:ロマン・ポランスキー     2019年フランス・ イタリア

☆☆☆+

19世紀末、フランスで起こったドレフュス事件が、後の世に残したものは二つあります。一つはシオニズム運動であり、イスラエル建国へとつながります。ドレフュス事件を取材した新聞記者テオドール・ヘルツルは、根深い反ユダヤ主義に対抗すべく、ユダヤ国家建設を呼びかけました。今一つは、スパイ小説ブームです。ドレフュス事件を機に、世間は、初めて諜報活動なるものを知ることになりました。スパイ小説自体は、19世紀前半から存在していました。ただ、ドレフュス事件に世間の注目が集まったことで、次々とスパイ小説がリリースされ、一つのジャンルを形成するにいたります。

1894年、フランス陸軍省は、ドイツ大使館の廃棄物の中から、情報漏洩が懸念される手紙を発見します。情報が野戦砲に関するもので、かつ筆跡が似ていたことから、司令部唯一のユダヤ人で砲術大尉のアルフレド・ドレフュスが逮捕されます。ドレフュスは無罪を主張しますが、手紙以外の物証もないまま、非公開の軍事裁判で有罪となります。ドレフュスは軍籍を剥奪され、ギニア沖の悪魔島に幽閉されます。その後、陸軍情報局長に就任したジョルジュ・ピカール少佐は、情報漏洩の真犯人と思われる人物を特定するに至ります。しかし、上層部は、ピカールに圧力をかけ、隠蔽を図ります。あくまでも真相究明にこだわるピカールは解任され、左遷され、投獄されます。ここで、一部政治家や文化人がピカールの支援に入ります。率いたのは文豪エミール・ゾラでした。

陸軍上層部は、軍事機密を盾に取り、かつ証拠のねつ造まで行い、ゾラたちを退けます。裁判に敗れたゾラは、英国に亡命し、客死しています。しかし、陸軍の隠蔽工作は、政治家等の発言から綻びを生じ、1906年には、有罪判決の無効が確定しています。復帰したドレフュスは、少佐に昇進、砲兵隊司令官になっています。一方、ピカールは、陸軍大臣まで登り詰め、第一次世界大戦を勝利に導きました。本作は、ドレフュス事件の史実に基づき、御年88歳になるというロマン・ポランスキーが、監督しました。ポランスキーは、確かな腕前を見せ、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を獲得しています。ポランスキーの円熟された映画文法に加え、ミステリ仕立てにしたこと、そして、ユダヤ人差別ではなく、ピカールの勇気にフォーカスしたことが、この映画の成功につながったと思います。

ポーランド生まれのポランスキーは、デビュー作「水の中のナイフ」で成功を収め、英国で撮った「袋小路」はベルリンで金熊賞を獲得します。その後、ハリウッドの渡ったポランスキーは、「ローズマリーの赤ちゃん」で世界的ヒットを記録します。妻のシャロン・テートが、マンソン・ファミリーに惨殺されると、ポランスキーは憔悴し、かついわれない中傷にさらされ、欧州へ戻ります。その後、ハリウッドで撮った「チャイナタウン」も大成功しますが、少女へのレイプ疑惑で投獄され、結果、アメリカを捨てることになります。フランスに活動拠点を移した後も「テス」、「ナインスゲート」、「戦場のピアニスト」、「ゴーストライター」、「毛皮のヴィーナス」等で高い評価を得てきました。ただ、優れた監督であるという評価とともに、未成年者に対する性的指向は、現在に至るまで批判の対象となっています。

実は、ピカールもドレフュスも、アルザス出身です。フランス東部、ドイツとの国境に接するアルザス地方は、古くから栄え、かつ豊かな鉱物資源があり、フランスとドイツが、その領有を争ってきた地域です。かつて、日本では、小学校の教科書にドーデの「最後の授業」が掲載されていました。普仏戦争に敗れたフランスは、アルザスをドイツに割譲します。フランス語による最後の授業が描かれており、戦争の悲惨、あるいは国語の重要性を伝えたかったのでしょう。しかし、アルザスでは、ドイツ語の方言であるアルザス語が話されており、フランス語は学校で習う言葉でした。アルザスは、フランスからも、ドイツからも特殊な地域とされてきました。ドレフュス事件の中心人物が、二人とも、アルザス出身という点は、実に興味深いと思います。(写真出典:japanimafrance.com)

2022年6月14日火曜日

終末論

アメリカは新興宗教の多い国としても有名です。日本にも多くの新興宗教があるのでしょうが、その比ではないと思います。キリスト教系が多いので、終末論が教義の中心となるのは当然でしょうが、特徴として終末の日を明示する団体が多いという記事を読みました。分かるような気がします。将来のどこかで、というよりも何年何月と言った方が、より恐怖を煽りやすいわけです。とは言っても、終末の日は来なかったわけで、さすがにしらけます。そういった時、教祖は、まだ皆の修行が足りないので、神が猶予を与えてくれたのだ、と言うのだそうです。従って、より一層、私の言うことを守りなさい、ということになるわけです。

終末論は、一神教における基本思想です。現世の終末が訪れ、人は天国か地獄に行くというわけです。終末論とは、単なる終わりではなく、そこで起こる選択的な救済を意味します。救済論と言うべきところですが、そこは、やはり恐怖から入るわけです。恐怖と救済は、一神教の基本フレームと言えます。唯一神への絶対的な帰依は、中途半端な信心などでは成立しません。一度信じると、抜け出せないほど強烈な教義が必要となります。終末論は、メソポタミアで生まれ、ゾロアスター教に集約されます。その影響を受けたユダヤ教が、終末論をより明確にしたと言えます。ユダヤ教は、バビロン捕囚のおりに、形を成したと言われます。紀元前6世紀、新バビロニアに滅ぼされたユダ王国の住民たち数十万人は、バビロンへと強制移住させられます。帰国が許されたのは40~50年後のことでした。

過酷な運命に絶望したユダヤ人には、尋常ならざる救済への望みが必要だったわけです。地上の悪が絶頂に達すると、メシア(救世主)が現われ、ユダヤ人を迫害するサタンの勢力を駆逐し、悪の終焉、つまり終末が訪れます。そして、新イスラエル王国が誕生し、ユダヤ人は永遠に栄える、というのがユダヤ教終末論のあらましです。いわゆる選民思想であり、その排他性が迫害を受けることにもなります。そして迫害される都度、メシア待望論が高まることになります。また、歴史的には、自称・他称問わずメシアが何人も登場しています。最も有名なのがイエスであり、ローマとの第二次ユダヤ戦争を率いたバル・コクバ、17世紀に大ムーブメントを巻き起こしたサバタイ・ツヴィもよく知られています。しかし、本当のメシアがなかなか現われないことから、神の真意を探ろうとする神秘思想「カバラ」も生まれます。

イエスをメシアとした一派、いわばユダヤ教の新興宗教がキリスト教ということになります。ちなみに、キリストはメシアのギリシャ語訳です。キリスト教において、終末論は、より洗練されたものとなっていきます。イエスが再臨し、最後の審判を行って、信仰厚い者が神の国に迎え入れられる、といった基本構図になります。イエスは、終末の予兆について、戦争、民族対立、偽予言者の登場などを語っています。また、ヨハネが受けた啓示による黙示録は、終末に起こることが詳細に記載されています。キリスト教の終末論は、黙示録も含めて、様々な解釈・議論があり、門外漢には分かりにくい面があります。ただ、ユダヤ人が選民思想を心の拠り所にしてきたように、キリスト教徒にとっての終末論は、とかく生きにくい人生を支えてきた思想なのでしょう。宗教の持つ意義ということになります。

イスラム教も、ほぼ同じ終末論の構図を持ちます。ただ、イエスは、メシアでは無く預言者の一人とされています。キリスト教の天国は、あくまでも抽象的ですが、イスラムになると、新興なだけに、より具体的に描かれています。また、仏教においても、閻魔大王、極楽と地獄、末法といった概念はあります。末法は、終末論に近い面もありますが、一神教の終末論とは、全く異なります。そもそもヒンドゥーや仏教の時間認識は、輪廻転生に代表されるとおり循環的なものです。この世の終わりを問われた釈迦は、意味の無い議論だとして答えなかったとされています。日本では、武家の世になると争いが絶えず、末法思想が広がります。仏教のなかでは、一神教的な佇まいを見せる日蓮宗は末法思想を背景に成立した新興宗派です。ただ、同時期に成立し、原理主義的な面を持つ曹洞宗の開祖道元は、末法思想を方便として否定しています。(写真:ミケランジェロ「最後の審判」部分 出典:artmuseum.jpn.org)

2022年6月13日月曜日

女王トミュリス

ヌルスルタン
スターン6カ国という言い方があります。カザフスタン、ウズベキスタン、パキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、アフガニスタンのことです。スターン、ないしはスタンは、ペルシャ語で「~が多い土地」という意味だそうです。カザフ族が多い土地なので、カザフスタンというわけです。実は、キルギスも、かつてはキルギスタンが正式国名でした。また、ロシア連邦内には、バシコルトスタン共和国やタタールスタン共和国があります。他の地域呼称としては、例えば、インドにはラジャスターン州があり、インド全体はヒンドゥスタンと言われ、クルド人居住地域はクルディスタンとも呼ばれます。

スターン6カ国中、パキスタンとアフガニスタン以外の4カ国は、ソヴィエト崩壊とともに独立した国々であり、国名は知っていても、比較的馴染みの薄い国が多いと言えます。カザフスタンも同様、知っていることは限られます。カザフスタンは、アジアの中で、中国、インドに次ぐ大国であり、世界第9位の国土面積を持ちます。その大半が、定住には適さない乾燥したステップであり、人口は約18百万人、世界第63位となっています。石油とガスで潤う国でもあります。紀元前6世紀頃から、黒海北部、現在のウクライナ周辺に強大な国家を形成したスキタイ人は、もともとカザフ・ステップの遊牧民であり、同じ遊牧民族であったマッサゲタイに追われて、黒海へ進出したとされます。マッサゲタイは、紀元前6~1世紀に存在した遊牧民集団と言われます。

マッサゲタイに関する文献としては、紀元前5世紀に書かれたヘロドトスの「歴史」が、最も詳しいようです。なかでも、女王トミュリスに関する記述は有名であり、後世、多くの芸術家がテーマとして取り上げてもいます。マッサゲタイを征服せんとするペルシャのキュロス2世は、策略を用いて、トミュリスの息子を捕獲します。それを恥じた息子は隙を見て自害します。怒ったトミュリスは、全部族を率いて、大ペルシャに挑みます。結果、ペルシャは負け、キュロス2世も討ち取られます。トミュリスは、キュロス2世の首を切り落とし「私は生き永らえ戦いはそなたに勝ったが、所詮はわが子を謀略にかけて捕らえたそなたの勝ちであった。さあ約束通りそなたを血に飽かせてやろう」と語ったとされます。

2019年にカザフスタンで製作された国策映画「女王トミュリス 史上最強の戦士」を、Amazon Primeで観ました。随分とお金をかけた戦闘シーンは迫力がありましたが、映画としては退屈なものでした。衣装や言葉が歴史を無視しているとの批判も多かったようです。カザフスタンの独裁者として知られたヌルスルタン・ナザルバエフは、2019年、民主化デモによって退陣しましたが、その娘が大統領選に出馬すべく準備中であり、この映画は、そのための地ならしだと見られているようです。ナザルバエフは、特権を使って富の蓄積をし、娘もカザフスタンではトップ・クラスの実業家だそうです。特権の味を知った独裁者は、世襲に持ち込もうとします。世界最後の秘境と言えば、北朝鮮ですが、時代錯誤的な世襲独裁など、北朝鮮だけにしてもらいたいものです。

カザフスタンの首都は、アスタナと呼ばれてきました。2019年、独裁者ヌルスルタン・ナザルバエフの退任に際して、街はヌルスルタンに改称されています。ヌルスルタン・ナザルバエフの功績を称えて改称したとのことです。いささか呆れた話です。トミュリスに見立てた娘も、間違いなく独裁者になるのでしょう。ないしは、娘を使って、ナザルバエフが独裁を続ける可能性も高いと思います。民衆がだまっているのでしょうか。2024年に予定される大統領選は、血なまぐさいものになりそうです。(写真出典:gqjapan.jp)

2022年6月12日日曜日

さんさ踊り

初めて、盛岡さんさ踊りを見たのは、2016年、青森開催となった「東北六魂祭」でのことでした。六魂祭は、各県を代表する祭をパレード化したイベントであり、東日本大震災の鎮魂と復興を願って、2011~2016年、東北6県持ち回りで開催されました。その後も「東北絆まつり」として継続されています。青森はねぶた、岩手はさんさ、秋田は竿灯、山形は花笠、宮城は仙台七夕に代えて雀おどり、福島はわらじ祭が披露されていました。手前味噌にはなりますが、ねぶたに敵う祭など東北にはありません。ただ、盛岡さんさ踊りの勢いには圧倒されました。もちろん、さんさは知ってはいましたが、これほど魅力的な踊りとは知りませんでした。完全になめていました。

さんさは、アップテンポなリズムに乗せて踊られます。人数も含め、中心を成すのは太鼓踊りです。体の前につけた直径約50cm、重さ6~7kgという和太鼓を叩きながら軽快に踊ります。さらに、動きの速い手踊り、歌い手、笛と鉦で構成されます。最も多い数の和太鼓の演奏としてギネス世界記録も持っているようです。また、「サッコラ チョイワヤッセ」という独特な掛け声も、なかなかいい調子です。サッコラとは幸呼来であり、チョイワヤッセは囃子声。幸せを呼ぶよう皆で踊ろうといった意味だと言われているようですが、他の民謡や踊りの掛け声と同様、意味ははっきりしていません。そもそも「さんさ」も、掛け声が起源と言われます。”さァ、さァ、踊りましょう”といった感じなのでしょう。

さんさは、江戸期から盛岡近郊で踊られていた盆踊りを、1953年に統合して今の形になりました。歴史の浅さゆえ、私にまでなめられていたわけです。さんさの起源も不明なのですが、なかば公式的に言われているのが、三ツ石伝説との関係です。盛岡で最も古いとされる三ツ石神社には、岩手山噴火の際に飛んできたとされる三つの巨石があります。これは、なかなか迫力のある岩です。かつて羅刹という鬼が出て、これを三ツ石神社の神様が退治します。その際、二度と現われない証文として、岩に鬼の手形を残させます。これが岩手の語源となりました。人々は鬼退治を祝って三ツ石の周りを踊ります。これがさんさの起源となりました。なお、鬼の手形は風化したとされ、現在は残っていません。ねぶたの坂上田村麻呂起源説と同様、観光ビジネスの匂いがする話です。

盛岡は、昔から「不来方(こずかた)」とも呼ばれます。今も、様々な形で使われている呼称です。文献としては、南北朝時代までさかぼる地名と聞きます。この不来方は、”鬼が二度と来ない土地”という意味だとされます。鬼がらみかどうかは別としても、確かに風変わりな地名です。鬼は蝦夷を指すという説もあります。ただ、大和朝廷に下ったとは言え、蝦夷だらけの土地なわけですから、さすがにあり得ません。この地に進出した初代南部藩主が、不来方という地名を忌み嫌い、森が岡、転じて盛岡になったとされます。ちなみに、岩手という地名は、三ツ石の鬼の手形のことではなく、岩手山にちなんでいます。岩手山の語源は、”岩出(いわいで)”、つまり噴火を表わす言葉だとされています。

日本三大囃子と言われるのは、江戸の「神田囃子」、京都の「祇園囃子」、そして秋田県鹿角の「花輪囃子」です。花輪囃子は、他の二つに比べて意外な感じもしますが、実は平安時代末期から続くとされる古い囃子です。飛び跳ねるようなテンポが特徴的で、太鼓、笛、鉦に、江戸期からは三味線も加わり、賑やかなものです。鹿角は、北奥羽中央に位置し、8世紀初頭に開山したとされる尾去沢鉱山の銅や金で栄えた土地です。平安期から都との交流があったわけです。江戸期には、南部藩の領地となります。個人的には、さんさ踊りは、歴史ある鹿角の花輪囃子が起源なのではないかと思っています。(写真出典:morioka.keizai.biz)

2022年6月11日土曜日

「白いリボン」

 監督:ミヒャエル・ハネケ  2009年オーストリア・ドイツ・フランス・イタリア

☆☆☆☆+

(ネタバレ注意)

「白いリボン」を見ることができました。カンヌ国際映画祭のパルムドールはじめ、多くの賞を獲った映画です。1913~14年、ドイツ北部、男爵家が所領する田舎の小村での出来事が描かれます。ミステリーやホラーの仕掛けが、ほぼ皆無のホラー映画とも言えそうです。恐怖の源となっているは、近代化に遅れたドイツそのものです。男爵家と農奴、厳格なプロテスタント、激しい男尊女卑、村は近世から取り残されたかのようです。産業革命に遅れをとったドイツが、急速に帝国主義化していった時代ですが、地方は前近代的なままでした。そのひずみこそ近代ドイツの本質だったということなのでしょう。実は、日本も、全くドイツ同様だったと言えます。

一連の奇妙な出来事の犯人は、一切特定されることなく映画は終わります。ただし、厳格極まりない、ということは極めて独善的な牧師によって抑圧された彼の子供たちが犯人であろうことが示唆されています。ドイツ発祥のプロテスタントは、ある意味、原理主義的であり、ローマ教皇庁を頂点に組織化されたカトリックとは異なり、諸派に分裂しています。スイス発祥のカルヴィン派は、産業革命の担い手となりました。一方、本家本元とも言えるルター派は、ドイツや北欧に根付いた農民的宗派です。”白いリボン”は純真無垢の象徴であり、父である牧師が、戒めとして、懲罰的に、子供たちに結びつけます。子供が本来的に持っている無邪気さと、重苦しく強要された福音の世界が結びつくと、いまだ中世的とも言える村社会の諸矛盾が攻撃の対象となっていきます。

しかし、それは、封建的なものが近代によって否定されるという単純な構図でゃありません。前近代的な牧師の子供たちが象徴するのは、来るべきナチス、あるいは近代ドイツのいびつさではないかと思います。近代ドイツは、日本も同じですが、急速な産業革命と帝国主義化によって、ある意味、いびつさを内包したまま成長したようにも思えます。二度に渡る世界大戦は、起こるべくして起きた帝国主義の結末だったと思います。ことに第二次大戦では、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本の軍国主義が、世界を相手に戦いを起こしました。後発の帝国主義者に残された唯一の選択肢でもありましたが、同時に、急成長とともに国内で増幅した社会のいびつさを、外に向かって爆発させざるを得なかったのかも知れません。枢軸国は、強制的に白いリボンを巻き付けられた子供たちのようにも思えます。

美しい映像は、他の白黒映画とは異なる微妙な陰影を見せています。一度、全てをカラー・フィルムで撮影し、技術的に白黒に変換したそうです。それによって、かなり意図的な濃淡の付け方が可能になったということなのでしょう。実に、面倒な手法をとったものですが、イメージする空気感、あるいは白いリボンが象徴する宗教観を表わしたかったのかも知れません。ミヒャエル・ハネケ監督の作品は、他に「ファニー・ゲーム」(1997)と「ピアニスト」(2001)を観ました。異常な精神、異常な状況を通して、観客を揺さぶり、不快感を与え、そのうえで人間の本質を問うている監督のように思えます。2012年には「愛、アムール」をリリースし、「白リボン」に続いてパルムドールを受賞しています。ちなみにパルムドールの2回受賞者は9人いますが、今村昌平もその一人です。

サラエボ事件発生のニュースを家令が男爵に伝えるシーン、そして第一次世界大戦への展開が語られるナレーションで、映画は終わります。1914年6月28日、ボスニアのサラエボを訪問中だったオーストリア皇太子夫妻が凶弾に倒れます。当時、オーストリアに併合されていたボスニアにはセルビア人が多く、セルビア王国の支援のもと反オーストリア運動が盛んに行われていました。皇太子夫妻を暗殺したのは、セルビア人テロリストでした。紆余曲折あったものの、結果、オーストリアはセルビアに宣戦布告。セルビアを支援するロシアも総動員をかけます。オーストリアの同盟国ドイツは、ロシアに動員解除を要求しますが、断られ宣戦布告します。以降、同盟関係にあった国々が宣戦布告を出し合い、史上最大の死傷者を出し、4つの帝国が崩壊し、かつ第二次大戦を誘発した第一次世界大戦が勃発します。(写真出典:store.sky.ch)

2022年6月10日金曜日

奥武島

奥武島は、沖縄県南城市にある周囲200m強という小さな島です。本島とは、短い橋でつながっています。漁業の島ですが、西部はダイビング・スポットとしても知られます。何人かで沖縄に行った際、一部は早朝ゴルフにでかけ、他は観光などをした日の夜、皆でステーキ屋に集合しました。すると、琉球ゴルフ倶楽部へ行ったゴルフ組が、プレイ終了後、地元の人に奥武島に案内され、イカすみ汁に大感動したという話を聞かされました。イカすみ汁は食べたことがなかったのですが、聞けば聞くほど食べたくなりました。翌日は、皆で、サザン・リンクスでゴルフという予定でしたので、全員で奥武島へ行こうということになりました。

橋を渡ってすぐの”奥武島食堂”に着いたのは、昼食時を過ぎたあたりでした。お客さんは誰もいなくて、店の人たちがのんびり休憩中といった風情でした。もちろん、イカすみ汁がお目当てですが、空腹だったので、他にも注文しようとしました。ただ、方言がきつくて、なかなかしんどいやりとりになりました。また、奥武島と言えば、もずくやアーサの天ぷらが有名なのですが、天ぷらは、別の店へ行って買う必要がありました。持ち込みは自由です。一人が、人気の”中本てんぷら”に並んで買ってきてくれました。イカすみ汁も、天ぷらも絶品でした。以来、イカすみ汁は、沖縄へ行った際の私の定番になっています。

イカすみ汁は、アオリイカ、豚肉、にが菜を鰹だしで煮込み、最後に、墨袋のイカすみを絞り入れます。イカすみは、結構、油分が強いものですが、イカすみ汁は、しっかりとコクが出て、かつあっさりと仕上がります。このあっさり感が魅力だと思います。イカすみの料理と言えば、ヴェネツィアのイカすみスパゲッティが有名ですが、これもトマトやタマネギで、クドくなりすぎるのを防いでいます。恐らく、イカすみ汁では、鰹だしとにが菜が、その役割を果たしているのでしょう。沖縄の天ぷらも独特な食文化です。なにせ衣が厚いのが特徴です。沖縄の人は、おやつとして食べると聞きます。

小さな島ですが、島の中央部に、沖縄では珍しい観音堂があります。17世紀頃、遭難した唐船を、島の人たちが助けたところ、お礼にと渡された観音様を祀っているのだそうです。やや御嶽(ウタキ)っぽい風情もありますが、紛れもなく観音堂です。島では、5年に一度、奥武観音堂祭が開かれるそうです。スーチマと呼ばれる円陣を組んで奥武島伝統の棒術を演じたり、女性は揃いの絣姿でウシデークという踊りを舞って、観音様に奉納すると言います。沖縄では見かけない独特な祭だと思います。いかに本島に近い小島とは言え、奥武島独特の文化が400年も継承されているあたり、やはり島は島なのだなと思います。

ある時、奥武島に渡る橋のたもとに、黒い3階建ての家が建ちました。地元の噂では、かつて琉球王だった尚家に関係する建物ではないか、とのことでした。今は、また無くなっているようです。イカではありませんが、子供の弁当の定番、あるいは安い居酒屋の定番、タコさんウィンナーを発明したのが、尚家に嫁いだ料理研究家の尚道子だとされています。食が細かった息子の弁当に入れたのが始まりだそうです。1950年代のことでした。ちなみに、尚道子の妹が料理ジャーナリストの岸朝子です。TV番組”料理の鉄人”の審査員として「おいしゅうございます」というフレーズが人気となりました。(写真出典:freestyle-diving.okinawa)

2022年6月9日木曜日

恐怖による支配

「薔薇の名前」初版
2022年5月、テキサス州ユバルデのロブ小学校で銃乱射事件が発生し、21人が犠牲となりました。アメリカでの銃乱射事件は後を絶たず、特にスクール・シューティングと呼ばれる学校での事件が多い傾向があります。最初のスクール・シューティングは、恐らく1966年にテキサス大学オースティン校で発生した「テキサス・タワー乱射事件」だと思います。15人が犠牲となっています。最も犠牲者が多かったのは、2007年、ヴァージニア州のヴァージニア工科大学乱射事件の32名であり、今回の事件は、それに次ぐ犠牲者数となっています。また、1999年には、コロラド州のコロンバイン高校で15名が命を失い、当時としてはテキサス・タワーと並ぶ大事件でした。マイケル・ムーア監督は「ボウリング・フォー・コロンバイン」を制作し、アメリカにおける銃撃事件の背景を深掘りしています。

 アメリカにおける乱射事件の背景には、米国憲法修正第2条があります。独立戦争におけるミニットマン等の活躍からして、民兵を認め、個人が銃を持つ権利を奪ってはならない、とする条文です。アメリカで、簡単に銃が買え、銃があふれている所以です。しかし、国民一人あたりの銃保有数がアメリカを上回るカナダでは、銃撃事件は極端に少なく、犯人の多くはアメリカ人だとされます。この点を指摘したムーア監督は、アメリカ社会は、ネイティブ・アメリカンや黒人等の被差別人種からの仕返しを恐れる社会だとします。さらに、ブッシュ親子が、アメリカを恐怖で支配していると指摘しました。つまり、中東での戦争を正当化するために、テロの恐怖を喧伝し、社会は相互不信に陥ったわけです。慧眼だと思いますが、スクール・シューティングは、また少し異なる背景があるように思います。

スクール・シューティングの犯人の多くは少年たちです。自由の国アメリカは、激しい競争社会でもあります。学校では、競争に勝ち抜く教育が行われます。また、人種や貧富の差に対する激しい差別が存在します。落ちこぼれた子供、差別された子供の絶望感は、悲惨としか言いようがありません。アメリカ社会のもう一つの病である崩壊した家庭は、子供たちを救うことができず、むしろ追い詰めていきます。追い詰められた子供たちの手の届くところに銃があるわけです。こうした状況も、アメリカ社会の抱える恐怖なのかも知れません。社会とは統制システムでもあります。アメリカ型の社会統制システムは、自由の代償としての恐怖を生み出す仕組みになっているのかも知れません。そう考えた時、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を思い出しました。

イタリアの哲学者、記号学者であるウンベルト・エーコが、1980年に発表した小説「薔薇の名前」は、世界的ベストセラーになり、映画化もされました。1970年代イタリアの政治・社会状況を、宗教が支配する中世に擬して、警告を与えたとされます。14世紀、イタリア北部の修道院を舞台に、失われたとされるアリストテレスの著作「詩篇・第二部」を巡って、ミステリ仕立てのストーリーが展開されます。「詩篇・第二部」は、喜劇を論じているとされます。神は恐怖を前提に存在し、笑いは宗教を脅かす存在だとする論理がプロットを構成しています。古代ギリシャの笑いは、至って下世話で卑猥なものだとされます。そもそも笑いとはそういうものなのでしょう。笑いは、共感の産物であり、連帯感を生み出します。対して、恐怖は、人を孤独にしていきます。ゆえに人は、救いとして神、宗教という大きな連帯感にすがることになります。

いまやネット上は、言葉と記号であふれかえり、若者は、現実以上に、ネット空間でのつながりに依存しています。そこに恐怖を一滴たらせば、若者たちは孤立感に怯え、連帯を求めて一定方向に雪崩を打つことになります。すでにQアノン等が、その恐れを先取りしているように思えますし、かつての独裁者たちがもたらした現象の再現でもあります。その際、多様性こそが大きな歯止めの役割を果たすはずです。私たちは、多様性を阻むもの、そして多様性を潰す動きに敏感である必要があります。(写真出典:biblio.com)

2022年6月8日水曜日

冷たい肉そば

東日本大震災発生直後は、多忙な日々が続きました。ただ、ひと月もすると、現地支援態勢も、業務運営に関する諸対応も整い、日々の仕事にも落ち着きが出てきました。新年度の開始時期と言えば、通常、会議や研修が続き、あるいは現地出張にと忙しいのですが、さすがに、すべて中止となりました。その頃、仕事終わりに、仲間たちと、三日にあげず通った店があります。神田美土代町交差点そばの「河北や」です。朝と昼は、立ち食い蕎麦屋、夜は居酒屋という店です。山形の料理と酒が売りですが、とにかく肴がなんでも美味しいのです。とりわけ、冷たい肉そばは絶品で、これをシメに食べるために通っていたようなものでした。 

冷たい肉そばは、山形県河北町の名物です。河北町は、山形市の北に位置し、紅花で有名な最上川沿いの町です。そば王国の山形ですが、主な生産地は最上川沿いに集中しています。ただ、食べ方は、地域によって異なる特色があるようです。冷たい肉そばは、河北町だけで食べられています。鶏からとった出汁を冷たくしてそばにかけ、鶏肉、ネギをのせて食べます。鶏肉は、ひね鶏を使います。出汁は、コクがあるのに、さっぱりいただける絶品です。そばのレベルの高さは言うまでもありません。美味しい山形の日本酒を飲んだ後のシメには、最適の逸品です。さすがに、一人一杯は多いので、二人で一杯程度に小分けしてもらって食べていました。

正式名称である「冷たい肉そば」には、いつも違和感を感じていました。”冷やし肉そば”とでも言う方が普通なのではないかと思います。また、”温かい肉そば”は存在しません。温かいものを、あえて冷やして出す、ということでもありません。まるで本家がなくて分家だけがあるといった感じです。とにかく冷たい肉そばが気に入ったので、山形へ行った際、本場の河北町へ行き、人気の店で食べたことがあります。西神田の「河北や」では、冷やした出汁を使いますが、河北町で食べた時には、常温の出汁でした。つまり、冷やしていないのです。”冷たい”という表現は、常温を意味していたわけです。その呼び方は、冷たい肉そば誕生の経緯と関係しているようです。なお、個人的には、冷やした出汁の方が好みです。

冷たい肉そばが、いつ、どのような経緯で生まれたのかは、はっきりしていません。「かほく冷たい肉そば研究会」が唱える説が定番になっているようです。戦前の河北町で、一杯やろうとすれば、蕎麦屋しかなかったと言います。ほとんどの客が、馬肉の煮込みで一杯やって、シメには盛りそばというスタイルだったようです。ある時、客の一人が、すっかり冷めた馬肉の煮込みを、盛りそばにかけて食べたら美味しかったというので、評判となります。メニュー化される過程で、馬肉よりも入手しやすかった鶏肉を使うようになります。常温の出汁を使うのは、そばが伸びることを防ぐためでもあったようです。確かに、酒飲みにはありがたい配慮かも知れません。

盆地がゆえに、山形の夏はとても暑い、と聞きます。山形の夏の風物詩に「冷やしラーメン」があります。冷やし中華ではありません。まったく別ものです。冷やしたスープに冷やした麺、いわばラーメンをまるごと冷やした代物です。これは、さすがに意見が分かれます。私は、また食べたいとは思いませんでした。それにしても、山形の人たちは、面白いことを考えつくものです。ただ、冷たい肉そばも、冷やしラーメンも、固まった油分は浮いていません。丁寧に取り除いているのでしょう。いずれもコクがあって、かつあっさりしたスープなわけです。一度冷まして余分な油分を取り除いた出汁やスープこそ、山形の発明のポイントなのかも知れません。(写真出典:tabido.jp)

2022年6月7日火曜日

「ニュー・オーダー」

監督:ミシェル・フランコ    2020年メキシコ・フランス

☆☆+

(ネタバレ注意)

貧富の格差が激しいメキシコで、反政府デモの一部が暴徒化し、結婚パーティが開かれていた上流階級の邸宅を襲います。華やかなパーティは、殺戮と略奪の場へと変わります。フィクションですが、いつ起こってもおかしくない話です。パーティの華やいだにぎやかさから、一転して阿鼻叫喚の地獄と化した邸宅のシーンは、テンポ良く、さばきが見事で、監督の力量の高さを見せつけます。このシーンの高い評価が、ヴェネツィア国際映画祭での審査員特別賞につながったのでしょう。ただ、問題は、映画の後半です。暴動の鎮圧に出動した軍隊が、秘密裏に誘拐ビジネスを始めます。その悪辣なやり方が描かれます。

もちろん、軍による誘拐ビジネスは、衝撃的なプロットなのですが、あり得る話のようにも思え、あるいは既に起こっていたとしても、さほど驚きません。しかも、前半のパーティ・シーンが長尺だったために、誘拐プロットは、やや窮屈となり、効果的な演出もできていません。結果、前半の強烈さゆえに、後半は消化試合的な印象になっています。誘拐プロットがメインなのであれば、パーティ・シーンは、もっと短く効率的に提示されるべきでした。パーティ・シーンの見事さからすれば、そこをラストにして、前半は、そこに至るエピソードを積みあげた方が良かったようにも思います。簡単に言えば、欲張りすぎです。2本の映画として制作しても良かったくらいです。

ミシェル・フランコは、メキシコ映画界の貴公子といった印象です。若くしてカンヌ国際映画祭の常連となり、本作では、ヴェネツィアで銀獅子賞を獲得しています。1990年代に始まったとされるヌエーヴォ・シネ・メヒカーノは、メキシコ映画界から多くの才能を世界に送り出してきました。その代表格とも言えるのが、いまやアカデミー賞の常連となったアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥやアルフォンソ・キュアロン、あるいはカルロス・レイガダス等です。ミシェル・フランコは、彼らに続く第二世代なのでしょう。本作が長編5作目になりますが、腕の確かさは間違いありません。

銀獅子賞を獲得した本作が、興行的に一定の成果を挙げられれば、メキシコ映画の新しい流れが生まれるかも知れません。ミシェル・フランコは、もともとジャーナズムを学び、政治をテーマとした短編を撮っていたようです。これまでは、自然主義的な作風でしたが、本作では、政治エンターテイメントといった路線を狙っています。メキシコの政治的現状を考えれば、なかなか政治的な映画は制作し難いのかも知れません。ただ、そこに確かな手腕によるサスペンス性が加われば、かつて、コスタ=ガヴラスが見せてくれたような政治サスペンス映画が、また観られるかも知れません。

それにしても、中南米、南米の経済格差問題は、本当に根深いものがあります。ネオ・リベラリズム以降、世界各国でも、経済格差が拡大し、固定化していく傾向があります。日本も同様です。しかし、南米のそれは数百年続き、革命であろうと、社会主義政権であろうと、解決できていません。メキシコでは、格差問題が麻薬問題へとつながり、手の施しようがないところまで来ているようにも思えます。(写真出典:filmarks.com)

2022年6月6日月曜日

最後の東国武士

日本の敗戦とともに、中国では、再び国共内戦が本格化し、劣勢となった国民党軍は、1949年、台湾への脱出を始めます。国民党軍は、福建省厦門の沖、わずか2kmに浮かぶ金門島を防衛の最前線とします。1949年10月25日未明、人民解放軍は、大金門島の古寧頭等に9,000人の兵士を上陸させます。準備に怠りなかった国民党軍は、3日間に渡る激戦の末、人民解放軍を撤退させます。以降、中共の朝鮮戦争介入、アメリカによる台湾支援等の情勢変化もあり、砲撃戦等はあったものの、人民解放軍による上陸作戦は行われていません。厦門の目と鼻の先にある金門島は、依然、台湾の領土となっています。この古寧頭戦役で、事実上、国民党軍を指揮したのが、旧帝国陸軍中将根本博でした。

終戦時、根元中将は、駐蒙軍司令官でした。満州に侵入したソ連軍は、8月15日以降も戦闘を止めませんでした。根元中将は、4万人の日本人住民を守るために、命令を無視して戦い続けます。結果、全居留民を守り切り、日本へ送り出しています。また、終戦時、中国全土には、兵士・民間人あわせて600万人の日本人がいました。引き揚げには10年かかると言われていたそうです。北支那方面軍司令官を兼任するに至った中将は、それを、わずか10ヶ月で成し遂げます。その背景には、蒋介石国民党総裁の援助があったと言います。最後の引き揚げ船で帰国し、浪人生活を送っていた中将の耳に、国民党台湾へ逃避というニュースが入ってきます。

蒋介石に恩義を感じていた中将は、1949年6月、家族に「釣りに行っている」とだけ告げ、延岡から台湾へ密航します。到着した基隆では、密航者として投獄されますが、やがて軍の知るところとなり、中将は蒋介石と対面、顧問への就任を依頼されます。国民党軍中将、司令官顧問となった中将は、緊迫する金門島に赴き、迎撃態勢を整え、人民解放軍を待ち受けました。結果、地雷、トーチカ、軽戦車で防備し、兵力4万人を投入した国民党軍が、人民解放軍を退けます。人民解放軍は、上陸用舟艇等の装備で劣り、得意の人海戦術がとれなかった面もあります。いずれにしても、満蒙で八路軍とも戦ってきた中将の差配が大きな効果を挙げたと言うことなのでしょう。密航から3年で、中将は、日本へ帰国しています。

その後、蒋介石は、旧帝国陸軍の将兵80名強を集め、白団(パイダン)を組成し、国民党軍の教育・訓練にあたらせています。中将の金門島での活躍は、国内外で議論を呼びますが、世間の注目が中将に集中したことで、白団は、密やかに活動できたとも聞きます。白団は、1949~1969年まで活躍しますが、中将は、これに参加していません。なお、終戦直後の山西省では、2,600名の日本兵が、国民党軍に組み入れられ、4年間、人民解放軍と戦っています。残留日本人や将兵の帰国と引き換えだったとも言われます。また、人民解放軍のパイロット養成を支援した300名の日本兵も知られています。さらに、ヴェトナム、インドネシアでも、数百名の日本兵が、独立を目指す戦いに参加しています。

 根本中将は、福島県須賀川の出身。士官学校、陸大卒業で、石原莞爾の木曜会、永田鉄山ら統制派の一夕会にも名前を連ねています。大酒飲みで、寡黙な人だったと言われ、昼行灯とあだ名されたこともあるようです。占領下にあった日本を巡る国際情勢のなかでは、一個人の行動とは言え、旧帝国陸軍中将の行動は、賛否両論あって当然です。しかしながら、残留日本人の引き上げを支援した蒋介石への恩返しという意味において、あくまでも筋を通した東国武士の心意気は賞賛されるべきだと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年6月5日日曜日

白粥

30年ほど前、上海駅近くに開店したホテルが、まだ本格オープン前の、いわば試運転期間中に、格安で泊めてもらったことがあります。朝食は、毎朝、ホテル内のレストランで食べていました。ところが、毎朝、客は私一人という状態であり、かつ英語を話せるスタッフもいませんでした。私が注文する時には、ホール中のスタッフ4~5人に取り囲まれ、皆が知ってるわずかな英単語でやりとりをするという大騒ぎでした。彼らにとっては、訓練の一環だったのかも知れませんが、こっちにはえらい迷惑な話です。しかし、朝の騒ぎも、2~3日と続くと、双方ともちょっとした楽しみになりました。

スタッフの皆さんが、どうやら、上海の朝食は白粥だ、と言っているようだったので、試してみました。例えば、香港や横浜中華街などで食べる広東系の粥は、鶏やホタテのスープで炊く、味付きのものです。これに、様々な具材を組み合わせて食べると、とても美味しいものです。対して、白粥と言えば、病人食のイメージが強く、多少心配でした。ところが、これが絶品であり、やさしい美味しさに魅了されました。結局、土鍋一つを空けてしまいました。日本で粥といえば、炊いたご飯をお湯で柔らかくしたものが主流ですが、生米からじっくり炊きあげる中国粥は、まるで別物です。

上海の白粥は、米本来のやさしい味をしっかり楽しめます。とても消化に良いだけでなく、米の持つ滋味が健康を保つとも言われます。後年、さる上海人が、最も好きな料理として白粥を挙げていましたが、理解できる話です。とは言え、白粥だけでは心許ないので、何を付け合わせにすべきかと、スタッフの皆さんに聞きました。すると、一同、声を合わせて言ったものがありました。理解できないままに、それをオーダーしました。単なる大根の醤油漬けでした。ところが、これが、まさにベスト・マッチ。他には、何もいりません。聞けば、これが伝統的な上海の朝ご飯なのだそうです。

当時の上海の飲食店には、綺麗なチャイナ・ドレスを着た細身の看板娘がいたものです。数年前に上海を訪れた際には、さほど目につきませんでした。昔の風習だったのでしょう。ホテルのレストランにもいました。他のスタッフに比べて、いくらかは多くの英単語を知っていました。私が、何か英語で言うと、彼女が必死で理解しようとし、それを中国語にして他のスタッフに伝えます。すると、そこで中国語の議論が始まり、結論が出ると、彼女が単語を並べて、私に伝えるというパターンが多かったように思います。一人で食事する私を気を使って、彼女が話しかけてくれることもありました。残念ながら、ほぼ何を言っているのか、分かりませんでした。

思えば、30年前の上海は、まだまだ牧歌的な世界だったわけです。その後、急速に発展した現在の上海からは想像もできないくらいです。その年、私が、中国へ行ったのは、六四天安門事件から5周年となり、何か起きるのではないか、と思ってのことでした。6月4日、天安門広場に行きましたが、何も起きませんでした。30年以上も経てば、なおさら何も起きないのでしょう。社会主義市場経済という不思議な体制は、天安門事件を契機に打ち出され、今に続きます。設計上、多少無理のある構造物は、弱いところに力がかかり過ぎ、バランスを失うものです。香港やウイグルの問題はあるものの、いまだ堅牢に見える共産党政権は驚異的とも言えます。(写真出典:crea.bunshun.jp)

2022年6月4日土曜日

ナイアガラ

滝の大規模なものを瀑布と呼ぶのだと思っていました。正しくは、川の水が河床を離れて,高いところから直接落下するものが瀑布なのだそうです。大小は関係ないようです。また、勾配の急な河床を水が下るところは早瀬といい、二つを総称する言葉が、滝なのだそうです。世界三大瀑布と言われるのが、アルゼンチンとブラジルに跨がるイグアスの滝、ザンビアとジンバブエに跨がるビクトリアの滝、そしてカナダとアメリカに跨がるナイアガラの滝です。いずれも、日本の風情あふれる美しい滝とは大違いの迫力ある瀑布であり、まさに大自然の驚異といった感じです。

昔、ナイアガラまで家族で出かけたことがあります。宿泊したNY州のバッファローまで、6時間くらいのドライブです。長時間、車を運転することが苦手な私にとっては、なかなかの苦行でした。シラキュースやロチェスターで一休みしながら運転しました。シラキュースは大学で有名な街です。また、ロチェスターも学術都市として有名であり、ボシュロム、イーストマン・コダック、あるいはゼロックス発祥の街でもあります。バッファローは、エリー湖とハドソン川を経由してNYまでつながるエリー運河沿いの街であり、交通の要所として栄えてきました。また、豊富な水と電力は、製鉄や製粉を盛んにさせました。NY州では、NYシティに次ぐ規模の都市です。フットボールの強豪ビルズの本拠地でもあります。

バッファローという地名は、昔、バッファローが多く生息していたから命名されたと思っている人が多いと思います。私もそうでした。ところが、バッファローは、一頭もいなかったようです。バッファローの語源は、美しい川という仏語の”beau fleuve”だとされます。アメリカの居酒屋では定番となっているメニューの一つに”バッファロー・ウィング”があります。初めて聞いた時には”野牛の翼”とは何だと驚きましたが、実はバッファロー発祥の手羽料理のことです。素揚げした手羽元に、辛味と酸味を効かせたソースをからめた料理です。辛さの段階を選べる店も多くあります。1960年代に、市内のアンカー・バーで誕生したとされます。80年代には全米で知られるようになり、ビルズの活躍とともに定番化したと言われます。

ナイアガラの語源は諸説ありますが、いずれにしてもイロコイ族かモホーク族の言葉のようです。観光はカナダ側からが定番です。”霧の乙女号”で滝壺に近づいたり、滝を裏側から見たりといったアトラクションがあり、また周辺はカジノも含めて思いっきり観光化されています。南北戦争後から、鉄道会社が、観光と新婚旅行のメッカとして宣伝を始めたようです。実に長い歴史を持つ観光地なわけです。かつては日本人にとっても憧れの観光地であり、アメリカ観光の定番の一つでした。もちろん、日本にはないダイナミックな光景ですから、一度は見るべきとも思いますが、私にとっては、それ以上でも、それ以下でもない、といった印象でした。最も印象に残ったのは、滝を上から見ていると引きずり込まれそうになることです。実に不思議な感覚です。ま、これはどこの滝でも同じなのでしょうが。

昔、ヘンリー・ハサウェイ監督のミステリー映画「ナイアガラ」(1953)が、アメリカでも、日本でもヒットしました。ナイアガラの知名度アップ、観光促進の一助になったものと思われます。少し皮肉な言い方をすれば、ナイアガラが舞台だからヒットしたのかも知れません。この映画には、もう一つヒットした要因があります。当時、注目を集めつつあったマリリン・モンローの初主演作だったことです。腰を振って歩く、いわゆる”モンロー・ウォーク”は、彼女の名を世界中に知らしめました。モンロー・ウォークで歩く姿を後ろから撮った場面は、映画史上、最も長い歩行シーンとして有名です。マリリン・モンローの腰は、ナイアガラ級だったとも言えそうです。(写真出典:his-j.com)

2022年6月3日金曜日

瀬田橋の戦い

瀬田の唐橋
壬申の乱と太平記は、NHK大河ドラマにはできない、と言われていたそうです。天皇の正統性にかかわる微妙な問題を含むからという理由です。さらに太平記は、目まぐるしく下剋上が繰り返される複雑なストーリーも大きな障害でした。ただ、太平記は、足利尊氏の生涯にフォーカスする形で、1991年に大河ドラマ化されました。当時も、”時期尚早”との声が多くあったと聞きます。ただ、何をもって時節到来とするのか、いまひとつ分からない意見ではあります。 いずれにしても、壬申の乱は、いまだ大河ドラマ化されていません。

672年に起こった壬申の乱は、天智天皇の後継を争った古代最大の内乱と言われます。近江宮へ遷都した天智天皇は、弟の大海人皇子を皇太子に立てていました。これは、当時の慣例に従ったものでした。ただ、天智天皇は、息子の大友皇子を後継にする動きを見せ始めます。病の床についた天智天皇は、大海人皇子を呼び、皇位を譲ると伝えます。しかし、大海人皇子と後に持統天皇となる妻は、危険を感じ、これを固辞し、吉野で出家します。譲位を受けていれば、その場で殺されていたはずです。天智天皇が崩御すると、大友皇子が後継者となります。しかし、吉野にあった大海人皇子が、依然、大きなリスク・ファクターであったため、近江宮は、これを牽制、ないしは討ち取る動きを見せます。

出家していたとは言え、大海人皇子も座して死を待つというわけにいかず、わずか20人の臣下と女官のみを率いて吉野を出ます。大海人皇子は、この日のために、吉野に下り、爪を研いだという説もあるようですが、20人の部下では爪にもなっていません。大海人皇子は、伊賀、伊勢、美濃と動き、結果的には、東国の兵を味方につけます。一方、天智天皇による中央集権化指向に伴い近臣も少なくなっていた近江宮は、事実上の破綻に近い状態にあり、結果、瀬田橋の戦いに敗れた大友皇子は自害します。畿内から美濃一帯を戦場とした壬申の乱は、約1ヶ月間戦われています。勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位、都も近江から飛鳥に戻されます。

問題は、大友皇子が天皇に即位していたかどうか、という点です。定かな記録はありません。天智天皇が崩御したのが1月始め、壬申の乱は、7月末に起こりました。その間、6ヶ月間あります。もし、天皇に即位していたとすれば、壬申の乱は明らかな謀反であり、大海人皇子は朝敵です。天皇家の正統性に疑義が生じかねません。これを避けるために、勝利した大海人皇子側が、一切の記録を破棄したのではないか、とも言われます。歴史は勝者によって創られることは、今も昔も変わらぬ事実です。一方、当時、空位期間が生じることは、ままあったことでもあり、真相は判然としません。いずれにしても、藤原鎌足、中大兄皇子(天智天皇)とともに、大化の改新を断行した大海人皇子は、天皇即位後も、天皇を中心とした中央集権化を進めていきました。

天智天皇は、大化の改新を進めるにあたり、唐をモデルとした国造りを行っています。皇位継承についても、唐の嫡子相続制を移入しようとしたのではないか、と言われます。また、中央集権化を進めるために、藤原氏との専制体制を取り、他の貴族たちの恨みを買ったともされます。また、白村江の戦いで大敗した天智天皇は、唐が攻め込むことを恐れ、城や烽台を建設し、かつ近江への遷都も行っています。その費用や労役は膨大なものであり、豪族や庶民の間には、怨嗟の声が多かったとも言われます。部族国家に過ぎなかった日本を律令にもとづく中央集権国家に変えたのは、大化の改新と白村江の戦いだったと言われます。壬申の乱は、単なる跡目争いなどではなく、日本が国家を形成していく一過程だったということになるのでしょう。(写真出典:jalan.net)

2022年6月2日木曜日

ダルマワンサ

ジャカルタの印象と言えば、なにせかにせ渋滞ということになります。もっとも旅の途中で、わずか一泊しただけであり、関係する会社やお客さま企業を訪問し、若干、市内を見物しただけの訪問ですが。ジャカルタで、もう一つ印象に残ったことがあります。泊まったホテルの素晴らしさです。ダルマワンサ・ジャカルタ・ホテルは、1997年開業という歴史の浅いホテルですが、建物、内装、調度品等が、民族調で統一されています。ジャカルタ南部、緑の多い高級住宅街に隣接した静かな環境にあります。正直なところ、もう一度、ジャカルタに行きたいとは思いませんが、またダルマワンサに泊まりたいとは思います。

高温多湿なジャカルタの夜明けは、靄のかかったような空気に満たされます。そして、濃い緑を通して、市内各所のモスクで唱えられるアザーンが響き渡ります。イスラム教国で、朝の美しいアザーンを聞くと、とても清々しい気持ちになります。思わず、イスラムに帰依したくなります。アザーンは、一日5回の礼拝の時間を、モスクのミナレット(尖塔)から伝えます。今は、皆、スピーカーを使いますが、エコーがかかって一層エキゾチックになります。アザーンの節回しは、国や宗派によっても、あるいは人によっても多少異なりますが、「アッラーフ、アクバル(アラーは偉大なり))」に始まる言葉は、ほぼ同じです。ダルマワンサのベランダから聴くジャカルタのアザーンも美しいものでした。

私の回りでは、ヨーロッパであろうが、アジアであろうが、米系のホテルを選択する人が多い傾向があります。何故かと聞くと、レベル感が分かりやすく、なじみ深く、慣れており、セキュリティも安心できるから、との答えが返ってきます。よく理解できる話ではありますが、せっかく見知らぬ土地へ行ったら、その土地の文化を感じるべきだと思います。ホテルも、わざわざ世界共通の米系ではなく、その土地ならではのホテルを選ぶべきだと思います。旅行なら、なおさらですが、例え出張であっても、その国を理解するためにローカルなテイストのホテルがいいと思います。ジャカルタのホテルとして、ダルマワンサを選んだ理由でもあります。

ダルマワンサには、空港での無料出迎えサービスがあります。使いますか、と聞かれました。初めての街、大都会の空港、しかも夜の到着だったので、お願いしました。なんとなく見当はついていたのですが、愛想のいい、慣れた感じのおじさんが、ゲートのところまで出迎えてくれました。彼は、空港スタッフとは顔なじみらしく、心付けをばら撒きながら、入国手続き、関税手続きを、VIP待遇で通過させてくれました。無料サービスと聞いていましたが、当然、おじさんにはそれなりのチップを渡しました。見事なまでに発展途上の国らしい光景ですが、これも含めて土地の文化です。着陸直後ですが、即座にインドネシアの社会的現状を理解することができました。

企業訪問の合間に、市内のショッピング・モールを見学しました。当時、ジャカルタは、ショッピング・モールの建設ラッシュでした。モールに出ている店など、世界中、どこでも同じようなものです。ただ、そのモールのセンターには、アイススケート・リンクがありました。南国では珍しい贅沢な施設だったのでしょう。また、郊外にあるお客さまの工場も見学しました。中心部を離れると、未舗装の道路にはバイクがあふれ、沿道には泥と埃にまみれた貧しい家が軒を並べます。工場の近くには、スナック、果物、揚げ物等を商う屋台がたくさん出ていました。工員たちの胃袋を満たすためなのだそうです。貧しいながらも、活気にあふれた様子が、インドネシアの発展を象徴しているように思いました。(写真出典:the-dharmawangsa.com)

2022年6月1日水曜日

商標登録

美々卯のうどんすき
2020年、コロナ禍による業績悪化を原因に、東京の「美々卯」がすべて閉店しました。誠に残念。うどんすきも大好きですし、京橋の美々卯の建物も昭和の高級店のイメージがあって、大好きでした。大阪の美々卯は健在ですので、大阪に行けば、あの黄金の出汁を味わえます。ただ、大阪へ行った際、必ず寄りたい店が増えるのは、日程的に困りものでもあります。江戸末期から堺で続く料亭旅館の末っ子が、大阪に蕎麦屋「美々卯」を開き、考案したのがうどんすきです。1928年のことです。利尻昆布、土佐の宗田節、枕崎の本枯節で丁寧にとった黄金の出汁に、様々な具材とうどんを入れて食べます。「うどんすき」は、美々卯の登録商標ですが、同時に、裁判所で普通名称化したと判断されてもいます。

商品やサービスを商標として、特許庁に申請し、審査が通れば、登録商標として、商標権が認められます。独占的な商標使用が可能となりますので、類似した商品やサービスの提供を、法的に禁じることができます。「うどんすき」は、1960年に、美々卯が登録商標とし、以降、更新しています。しかし、1988年、杵屋が「杵屋うどんすき」を発売、91年には商標権が認められたことから、美々卯は、特許庁に無効審を請求します。当然とも言える行動です。登録商標が普通名称化することを防ぐために、企業は努力する必要があります。つまり、ある程度は、差し止め請求等を行い続けることが求められるわけです。1997年、東京地裁は、うどんすきは普通名称化されているとして美々卯の訴えを退けます。ただし、登録商標は無効になっていません。

門外漢には分かりにくい話です。判決を読むと、一層わけが分からなくなります。判決の法的構成は複雑です。ただ、単純化すれば、「うどんすき」は美々卯の登録商標だが、登録当時と異なり、”うどんすき”という言葉は既に一般化しているので、「杵屋うどんすき」と商品名の一部に使うことは問題ない、ということになると思います。いわば杵屋そばと言うのと同じレベルだということなのでしょう。思えば、美々卯の努力も足りなかった面があります。例えば、「味の素」は”うまみ調味料”というジャンル名を普及させたことで、商標権を守っています。”うどん鍋”という言葉でも普及させておけば、違う結果になったのでしょう。また、91年当時、役務商標は法制化されておらず、この点を悪用したという美々卯側の主張もありましたが、これも退けられています。

うどんすきの他にも、普通名称化したと判断された商標は、いくつかあります。正露丸、巨峰、サニーレタス、ポケベル等々です。最も長く争われていたのが正露丸だと思われます。もともとは、帝国陸軍が、日露戦争時に感染症対策として、クレオソート剤を征露丸として兵士に服用させていました。後に、大阪の中島佐一薬房(現在の大幸薬品)が「忠勇征露丸」として発売しています。第二次大戦後、大幸薬品が商標登録しますが、軍にクレオソートを納入していた和泉薬品等が反発、無効を申し立てます。1974年、最高裁は、正露丸を普通名称として、登録取り消しの判決を出します。その後も、パッケージのデザインを巡って争いは続きました。ただ、”正露丸”の登録商標は、そのままになているようです。うどんすきも同じですが、実効性を失っているので、面倒な登録抹消手続きは、あえて行わないということなのでしょうか。

美々卯は、杵屋との争いに負けたわけですが、うどんすきが一般化していることを高裁が認めたわけですから、言ってみれば、国がうどんすきを公認したようなものです。美々卯百年の歴史が認められたとも言え、法的には敗れたものの、社会的には勝ったとも言えそうです。美々卯の本店は、御堂筋近くの御霊神社裏にあります。良い風情を残す店構えですが、入り口横に「うずら蕎麦」の看板があります。もともと蕎麦屋だった美々卯は、このうずら蕎麦で有名だったようです。温盛りのざるそばを、うずらの卵を割り入れた出汁で食べます。今もメニューに載っています。不思議なことに、温盛りそばは、関西でしかお目にかかりません。(写真出典:mimiu.co.jp)

夜行バス