2022年6月14日火曜日

終末論

アメリカは新興宗教の多い国としても有名です。日本にも多くの新興宗教があるのでしょうが、その比ではないと思います。キリスト教系が多いので、終末論が教義の中心となるのは当然でしょうが、特徴として終末の日を明示する団体が多いという記事を読みました。分かるような気がします。将来のどこかで、というよりも何年何月と言った方が、より恐怖を煽りやすいわけです。とは言っても、終末の日は来なかったわけで、さすがにしらけます。そういった時、教祖は、まだ皆の修行が足りないので、神が猶予を与えてくれたのだ、と言うのだそうです。従って、より一層、私の言うことを守りなさい、ということになるわけです。

終末論は、一神教における基本思想です。現世の終末が訪れ、人は天国か地獄に行くというわけです。終末論とは、単なる終わりではなく、そこで起こる選択的な救済を意味します。救済論と言うべきところですが、そこは、やはり恐怖から入るわけです。恐怖と救済は、一神教の基本フレームと言えます。唯一神への絶対的な帰依は、中途半端な信心などでは成立しません。一度信じると、抜け出せないほど強烈な教義が必要となります。終末論は、メソポタミアで生まれ、ゾロアスター教に集約されます。その影響を受けたユダヤ教が、終末論をより明確にしたと言えます。ユダヤ教は、バビロン捕囚のおりに、形を成したと言われます。紀元前6世紀、新バビロニアに滅ぼされたユダ王国の住民たち数十万人は、バビロンへと強制移住させられます。帰国が許されたのは40~50年後のことでした。

過酷な運命に絶望したユダヤ人には、尋常ならざる救済への望みが必要だったわけです。地上の悪が絶頂に達すると、メシア(救世主)が現われ、ユダヤ人を迫害するサタンの勢力を駆逐し、悪の終焉、つまり終末が訪れます。そして、新イスラエル王国が誕生し、ユダヤ人は永遠に栄える、というのがユダヤ教終末論のあらましです。いわゆる選民思想であり、その排他性が迫害を受けることにもなります。そして迫害される都度、メシア待望論が高まることになります。また、歴史的には、自称・他称問わずメシアが何人も登場しています。最も有名なのがイエスであり、ローマとの第二次ユダヤ戦争を率いたバル・コクバ、17世紀に大ムーブメントを巻き起こしたサバタイ・ツヴィもよく知られています。しかし、本当のメシアがなかなか現われないことから、神の真意を探ろうとする神秘思想「カバラ」も生まれます。

イエスをメシアとした一派、いわばユダヤ教の新興宗教がキリスト教ということになります。ちなみに、キリストはメシアのギリシャ語訳です。キリスト教において、終末論は、より洗練されたものとなっていきます。イエスが再臨し、最後の審判を行って、信仰厚い者が神の国に迎え入れられる、といった基本構図になります。イエスは、終末の予兆について、戦争、民族対立、偽予言者の登場などを語っています。また、ヨハネが受けた啓示による黙示録は、終末に起こることが詳細に記載されています。キリスト教の終末論は、黙示録も含めて、様々な解釈・議論があり、門外漢には分かりにくい面があります。ただ、ユダヤ人が選民思想を心の拠り所にしてきたように、キリスト教徒にとっての終末論は、とかく生きにくい人生を支えてきた思想なのでしょう。宗教の持つ意義ということになります。

イスラム教も、ほぼ同じ終末論の構図を持ちます。ただ、イエスは、メシアでは無く預言者の一人とされています。キリスト教の天国は、あくまでも抽象的ですが、イスラムになると、新興なだけに、より具体的に描かれています。また、仏教においても、閻魔大王、極楽と地獄、末法といった概念はあります。末法は、終末論に近い面もありますが、一神教の終末論とは、全く異なります。そもそもヒンドゥーや仏教の時間認識は、輪廻転生に代表されるとおり循環的なものです。この世の終わりを問われた釈迦は、意味の無い議論だとして答えなかったとされています。日本では、武家の世になると争いが絶えず、末法思想が広がります。仏教のなかでは、一神教的な佇まいを見せる日蓮宗は末法思想を背景に成立した新興宗派です。ただ、同時期に成立し、原理主義的な面を持つ曹洞宗の開祖道元は、末法思想を方便として否定しています。(写真:ミケランジェロ「最後の審判」部分 出典:artmuseum.jpn.org)

マクア渓谷