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2026年11月6日金曜日

Tokyo Film 2026(3)

「お通しください、ご先祖さま」 ラヴ・ディアス監督 2026年フィリピン ☆☆☆☆ー

巨匠ラブ・ディアス監督は、前作「マゼラン」で、欧州がフィリピンにもたらしたものに疑問を投げかけましたが、本作では、さらに進んで民族主義的な歴史認識を強く打ち出しています。1617年、フィリピンのさる島で、布教の名のもとに強権統治を行う神父と苦しめられる地元民が描かれています。本作も、ディアス監督のお決まり、白黒、固定カメラ、タガログ語、劇伴なしというセッティングになっています。いかにもスロー・ムーヴィーの代表的作家らしい映画ではありますが、上映時間が150分と、前作同様、ディアス監督としては短めになっています。また、シーンの展開も、以前に比べ早くなっているように感じました。民族主義的スタンスを強めていることと関係しているのかもしれません。主人公が、神父と地元の女性の間に生まれたハーフであることも象徴的です。ちなみに、1617年は、マニラ湾沖でスペインとオランダによる 第二次プラヤ・ホンダの戦いが行われています。結果はスペインの勝利となり、フィリピンの植民地時代が長く続くことになりました。

 「DAU」 イリヤ・フルジャノフスキー監督 2026年ドイツ・フランス・スウェーデン ☆☆☆

上映時間は、休憩15分を含む217分。強烈な映像、早いテンポ、すざまじい音響で押しまくる前半には圧倒されました。しかし、映像へのこだわりの割にはプロットの詰めがが甘いように思いました。後半になり、テンポと映像のキレが落ちると、プロットの弱さが歴然となり、テンションがかないり落ちてしまいます。DAUシリーズの映画3作目として集大成的な位置づけと聞きます。2006年にスタートしたDAUプロジェクトは、クレイジーな巨大アート・プロジェクトとして知られます。ほぼ素人が演じた出演者は膨大な数に上り、ロケ地も多く、ウクライナのハルキウに作られた巨大なセットではスタッフ・キャストが数年間生活しながら撮影したとも聞きます。撮影された膨大な記録は、シリーズ以外に13本の映画、TVシリーズ、250冊の書籍、150万の写真データ等々に展開されました。主人公のモデルは、ノーベル賞受賞者にして原爆の父とも言われるソヴィエトの物理学者レフ・ランダウです。ギリシャの指揮者が演じていますが、これは見事なキャスティングだったと思います。ソヴィエトの全体主義と兵器製造を強制された物理学者の良心の葛藤がテーマとなっています。ソヴィエト時代の映像的再現、ランダウの自由恋愛主義といった個性が映画のウリなのでしょうが、どうも映像面に注力しすぎて、テーマの深掘りが疎かになる、あるいはうまく伝わらない結果になっているように思います。繰り返しになりますが、映像の作り込みの凄さは映画史に残るほどのものだと思います。

「サバイバル」 ロルフ・デ・ヒーア監督 2022年オーストラリア ☆

セリフのない映画、言い換えればセリフに頼らない映画は、当然、チャレンジングな映画になります。そういう意味で楽しみにしていたのですが、ピンと来ませんでした。砂漠に置き去りにされた女性がサバイバルをかけて行動していきます。彼女がそこで出会う光景や状況は、人類の歴史を象徴しています。特定の地域の歴史ではなく人類の歴史であることを強調するために特定の言語を使わない、つまりセリフなしが選択されたものと思います。矮小化、ステレオタイプ化された人類の歴史には何の思想も感じられません。すべては彼女の夢だったという落ちも感心しません。総じて言えば、小賢しいだけの映画でした。ロルフ・デ・ヒーアは、かつてマイルス・デイビスが唯一出演した映画「ディンゴ 」(1991)を監督しています。マイルスが、演奏し、セリフも言っている、ということだけが印象に残るヒドく退屈な映画でした。

今年の東京国際映画祭のグランプリは、北マケドニア出身のミルチョ・マンチェフスキー監督の「妹兄とマンホールの蓋」でした。見たかった映画の一つですが、タイミングが合いませんでした。ちなみに今回の審査委員長はロルフ・デ・ヒーア監督でした。

2026年11月5日木曜日

Tokyo Film 2026(2)

「オキナワ・サウダージ」 松林要樹監督 2026年日本 ☆☆☆+


南米移民は、沖縄の歴史と文化の一部です。沖縄の一部自治体は、海外移住した地元民の3世、4世を招待して研修を行うというプログラムを持っています。本作は、ブラジルから参加した二人の研修生を追ったドキュメンタリーです。ブラジルに渡った沖縄県民は、ブラジル人だけでなく、本州系移民者からも差別を受けてきました。ゆいマールの伝統もありますが、団結して生きていくしかなかったわけです。かつてほどではないにしても、若い人たちも厳しい環境にあることは同じです。研修生二人は、沖縄に来て、血縁者に会い、文化に触れ、アイデンティティを強く意識して帰国します。ブラジルからの若い研修生の物語は、実は沖縄の歴史と文化の中核にある血縁の濃さとゆいマールの団結の物語でもありました。監督は、前作「オキナワ サントス」で、日系人のサントス強制退去事件を題材としました。同作は、ブラジル政府による日系人に対する公式謝罪を実現するきっかけの一つにもなりました。ところで、サウダージは世界で最も翻訳が難しい言葉とも言われますが、本作にはピッタリ合っていると思いました。

「ハエ」 フェルナンド・エムケ監督 2026年メキシコ ☆☆☆+

訳あって世捨て人のような生活を送る中年女性が、部屋を貸したことで少年との交流が始まり、再び活き活きとした生活を取り戻すというストーリーです。白黒画面で熟達の映画文法をもって丁寧に作られています。まさに佳作と呼ぶに相応しい作品です。ハエを忌み嫌っていた女性が、ラストではハエにも優しさを見せるようになります。人は人との絆のなかで生きるべきということなのでしょう。フェルナンド・エムケ監督の作品は、高い評価を得ているようですが、地味な作品が多く、日本ではあまり公開されていません。映画界の良心とでも呼びたくなるような監督です。もっと日本でも公開すべきだとは思いますが、セールスは期待できないでしょう。シネスィッチ銀座が閉館した今となっては、日本での上映は、ますます困難になると思います。

「今日が終わるまで」 イェレナ・マクシモヴィッチ監督セルビア・ブルガリア・スロベニア・モンテネグロ・クロアチア・ドイツ 2026年 ☆☆☆☆ー

10月25日、セルビアの議会選挙において、民主化を求めて2年間続いた学生運動の結果として、与党が敗れ、ロシア・中国寄りの独裁者アレクサンダル・ヴチッチ大統領も退任を余儀なくされました。同じタイミングで、セルビアでの学生運動を描いた本作が公開されるという奇跡が起こりました。本作のラストシーンは、学生運動が大衆を巻き込んで国が変わっていくことを示唆するものでした。まさに映画が現実になったわけです。本作は、極めて政治的な映画ではありますが、よく計算されたカメラワークも高く評価されるべきだと思います。カメラの動かし方も見事ですが、特に明暗や光の扱い方が繊細で象徴的です。上映後、監督へのQAがありましたが、映像や照明は、スタッフと議論を重ね、シナリオ段階で細かく計算されていたようです。結果として、新鮮で独特なムードを持った表現主義的とも言える映画になっています。どこか「さすらいの青春(モーヌの大将)」を思い起こさせる青春映画っぽさがあるのは、自伝的な要素を持つ映画だからなのでしょう。

「ワイルド・ホース・ナイン」 マーティン・マクドナー監督 2026年イギリス・アメリカ・チリ ☆☆☆☆ー

「スリー・ビルボード」(2017)、「イニシェリン島の精霊」(2022)のマーティン・マクドナー監督の新作は、ブラック・コメディです。1973年、チリ軍事クーデター直前、休暇でイースター島へ向かったCIAのベテラン工作員2人の物語です。ノスタルジックなセッティングのなかで、舞台出身のマーティン・マクドナーの脚本、特に会話の痛快さがパワフルに炸裂しています。主演のジョン・マルコヴィッチの演技は、ドはまりの一言に尽きます。相棒役のサム・ロックウェルも手堅くマルコヴィッチをサポートします。彼らの上司を演じたのは、コーエン兄弟の映画でお馴染みのスティーブ・ブシェミですが、役柄を楽しんでいるとしか思えませんでした。テーマとしては、CIA とアメリカの民主主義を余命幾ばくかのマルコヴィッチに被せて、揶揄しているのでしょう。これまでのマーティン・マクドナーとは大いに異なる映画ですが、実に良く出来たコメディだと思います。そして、それ以上に大好きなタイプの映画です。ところでナインはどんな意味なのか、まったく不明でした。例によって、監督は何も語っていないようです。アメリカを、奔放な野生馬で構成された野球チームに擬しているようにも思いました。

2026年11月4日水曜日

Tokyo Film 2026(1)

 

東京国際映画祭は39回目となります。昨年は8日間で18本観ましたが、今年は10本に抑えました。体力的な限界もありますが、強烈に観たいと思う作品が少なかったようにも思います。とは言え、アジアを中心に欧米以外の興味深い作品を観ることができる数少ない機会ではあります。(写真出典:2026.tiff-jp)


「夜明け前の赤」 ガリン・ヌグロホ監督 2026年インドネシア ☆

第二次大戦後のインドネシア独立戦争が舞台となっています。戦乱のなかスマトラからジョグジャカルタを目指す鉱山技師のロード・ムービーになっています。日本が去り、再びオランダが植民地化をねらい、国内勢力も分断されているという混乱のなかで、独立を目指した時代が描かれています。モノローグの多い舞台のような演出、多くの関係者の思いでごった煮状態となったモティーフ、熱意は感じるものの映画として成立しているようには思えませんでした。世界第4位の2億9千万人という人口を抱えるインドネシアでは、GDPの高まりと共に、映画産業が急成長しているようです。国内で製作された娯楽映画が圧倒的な人気を持っているようです。そうした背景も、本作には反映されているように思います。ボリウッド、ノリウッドに続いてジャリウッド(ジャカルタのハリウッド)と呼ばれる時代が来るのかもしれません。

「フィリッピニャーナ」 ラファエル・マヌエル監督 2026年シンガポール・イギリス・フィリピン・フランス・オランダ ☆☆☆+

面白い監督が出てきたな、と思いました。テンポと映像の作り込みは、フィリピン版ウェス・アンダーソンといったところですが、より政治的でダークなブラック・コメディになっています。舞台となる高級カントリー・クラブでは、富裕層のために徹底的にコントロールされた多くの下層の人々が働いています。クラブは格差社会であるフィリピンを象徴しているのでしょう。イロコス出身の経営者はマルコスをイメージさせます。映画は、富裕層と下層の人々の対比を主軸にしていますが、イロコス出身の主人公が最下層からの目線を象徴しています。厳しい統制下にある主人公ですが、経営者が忘れたゴルフ・クラブを届けるという名目で、比較的自由にクラブ内を巡り、格差の実相を目にしていくことになります。しかし、希望のようなものは、一切、提示されていません。格差の実態を知ることが大事な段階なのかもしれません。作中、ロス・インディオス・タバハラスの”Always in My Heart”が流れます。明らかにウォン・カーウァイへのオマージュだと思いました。ただ、何度も使っていました。好きなのは分かりますが、1回でいいでしょう。監督はCM界出身で、ジャ・ジャンクーの指導を受けた人のようです。ただ、師のドラマ性の高さは受け継いでいないように思います。

「地獄が来たとしても」 サムエレ・ロッシ監督 2026年イタリア ☆☆☆+

舞台は第2次大戦末期のイタリア。シチリアに上陸した連合軍は、順調に北上を続けましたが、ナチが北部に築いた防衛戦ゴシック・ラインに至ると停滞します。連合軍が、ノルマンディー上陸作戦の準備に注力したためとも言われます。山中で活動していたパルチザンは、支援と補給を絶たれて苦境に陥ります。映画は、指令を受けて、単独で山中に潜んだパルチザンが1944年の厳冬を越す姿を描いています。タイトルは、“地獄が来たとしても、パルチザンは山に残る”という歌からとられています。奇をてらうことなく、正攻法で描かれた映画だと思います。イタリアのパルチザンは、ファシストとナチを倒した実績を持ち、現在もパルチザン協会が存在しています。パルチザンによる反ファシズムの伝統を誇るイタリアですが、現在の首相はポスト・ファシズムの政治家メロー二です。そうした政治状況に対して、パルチザンの物語を静かに語ることの凄みを感じました。映画は、イタリア語だけでなく、西アルプスで使われているロマンス語系とおぼしき言語も使われ、イタリア語のスーパー・インポーズも出ていました。ヨーロッパの複雑さを垣間見る思いでした。

2026年11月2日月曜日

「ヒンド・ラジャブの声」

監督:カウテール・ベン・ハニア       2025年チュニジア・フランス 

☆☆☆

衝撃的な事実に驚かされます。録音された実際の通話を中心に映画を構成するという手法に驚かされます。イスラエルによるジェノサイドの悲惨な現実に、あらためて驚かされます。そして、ネタニヤフに対する怒りがこみ上げてきます。2024年1月29日、戦闘が激化するガザ北部から車で避難しようとしていた6歳の少女ヒンド・ラジャブとその親族は、イスラエル軍の戦車から襲撃されます。親族6人が死亡し、ヒンド・ラジャブだけが生き残り、車に閉じ込められます。ドイツにいる親族との電話をきっかけに、少女とパレスチナ赤新月社との通話が始まります。赤新月社は、救急車を派遣するためのイスラエルとの複雑な手続きに入りますが、遅々として進みません。3時間後、ようやく救急車は現場に到着します。しかし、救出直前、イスラエル軍戦車の攻撃によって、少女も救急隊員2人も虐殺されます。

実際の通話音声をそのまま使い、パレスチナ赤新月社の緊急センター内の動きが、役者たちによってドキュメンタリー・ドラマ化されています。限られたスペース、限られた役者だけでドラマは展開します。90分の映画ですが、緊張感が高い状態で保たれています。演出と演技もさることながら、そこで起きた悲惨な出来事とリアルな少女との通話記録がテンションを高め、維持しているのだと思います。そのことをどう評価すべきか、難しいところだと思います。さらに言えば、これは映画なのか、とさえ思います。もちろん、イスラエルへの批判、戦争の悲惨さは伝わります。ただ、それを訴求するようなプロットではなく、事実を伝えることに徹しています。客観性の高さで事の重大さを訴えるねらいなのでしょうが、ドラマというよりは報道といった印象を受けます。

イスラエルによるガザでのジェノサイドは、2023年パレスティナ・イスラエル戦争と呼ばれます。直接的な端緒は、10月7日、ガザを支配するハマスが、イスラエルに越境攻撃し、1,200人を殺害し、250人を人質として拉致したことだとされます。しかし、事は第一世界大戦後から続くパレスティナ紛争の一部です。ユダヤ人のパレスティナ入植を推進したシオニストは、世界、特にアメリカにおけるユダヤ人の資金と影響力、そして欧州においてはホロコーストへの同情を背景に、1947年、国連のパレスティナ分割決議を得て、翌年にはイスラエルを建国します。しかし、イスラエルは国連決議を無視して、パレスティナへの入植拡大、武力圧迫を続けてきました。ガザも戦闘が絶えることなく、事実上の封鎖状態にありました。ハマスの越境攻撃も、イスラエルがハマスへの圧迫を急速に激化させた結果と言えます。イスラエルの意図が透けて見えます。

ネタニヤフは、大統領を降りれば、汚職裁判によって収監されることは確実とされます。戦争が続く限り、特例措置によってネタニヤフは大統領の座に居座り続けることができます。ネタニヤフは、ハマスの攻撃を誘導し、当座、国際社会に対しては被害者として報復攻撃を認めさせ、扱い易いトランプの大統領就任を見越して地上兵力を投入し、ジェノサイドを始めたようにしか見えません。さらに、世界一優秀なモサドが、事前にハマスの越境攻撃を知らなかったはずはありません。むしろ、それを行わせるための工作をしていたのではないか、とさえ思います。つまり、ネタニヤフは、自国民の犠牲を前提に戦争状態を作り出し、ジェノサイドによって国民を納得させるねらいがあったのではないでしょうか。もはや、ユダヤ人にホロコーストを語る資格はありません。

本作は、ヴェネツイア国際映画祭で、銀獅子賞(審査員大賞)を受賞するなど、高い評価を得ています。監督のカウテール・ベン・ハニアはチュニジア出身です。彼女は、アカデミー賞でも、国際長編賞、ドキュメンタリー部門でノミネートされた経験を持ちます。本作で驚かされたことの一つは、製作総指揮に、著名映画人が名前を連ねていることです。ブラッド・ピット、ホアキン・フェニックス、ルーニー・マーラ、ジョナサン・グレイザー、アルフォンソ・キュアロン、スパイク・リー、そしてマイケル・ムーアという面々です。経緯は、よく分かりませんが、イスラエルのジェノサイドに抗議する人々であることは間違いないと思います。ヒンド・ラジャブ事件によって、世界中からイスラエル批判が巻き起こりました。しかし、ネタニヤフは歯牙にもかけません。なぜならトランプをコントロールできるからです。そして、今年2月、ネタニヤフとトランプは、突如、イラン攻撃を開始するわけです。ちなみに、10月27日に行われたイスラエルの総選挙で与党は過半数を獲得できませんでした。(写真出典:eiga.com)

2026年9月21日月曜日

「オデュッセイア」

監督:クリストファー・ノーラン    2026年イギリス・アメリカ

☆☆☆☆ー

ここまでのところ、今年、最も期待され、最も評価され、最も稼いだ映画ということになります。クリストファー・ノーランの最高傑作という声もあります。原作の「オデュッセイア」は、「イーリアス」と並ぶ古代ギリシャの二大叙事詩であり、ホメロス作とされます。もちろん、原作のすべてのエピソードを取り込んでいるわけではありせんが、ストーリーのフレームは原作に忠実なものになっています。そのうえで、現代的解釈が大胆に加えられています。映像、演出の巧みさも含めて、さすがクリストファー・ノーランだと思います。ただ、原作のモティーフの多さが禍したのか、監督がテーマとしたところへの収束がやや乱れているように思います。 

クリストファー・ノーランがテーマとしたのは、大雑把に言えば、互いを尊重することによって、世界は平和を取り戻せる、ということなのでしょう。トロイの木馬は、有名な話ですが、物証も文献もないため、事実とは確認されていません。ただ、シュリーマンが遺跡を発掘したことから、トロイの存在だけは、ほぼ証明されています。クリストファー・ノーランは、トロイの木馬を欺瞞の始まりとし、以降、人類は互いにリスペクトすることを忘れ、今に続く混乱が生み出されたと言っているのでしょう。ゆえにオデュッセイアはじめギリシャ軍は帰国に苦労し、帰国しても苦難が待ち受けていたというわけです。映画のなかで、オデュッセイアは記憶が回復するとともに、そのことに気付き、無意識に帰国することを避けているのかもしれないことが暗示されています。

そのテーマを訴求するための重要なモティーフとしているが、”ゼウスの掟”です。一般的にはクセ二アと呼ばれますが、古代ギリシャ社会におけるおもてなしの概念です。客人や旅人はゼウスに守られている、あるいは姿を変えたゼウスであると信じられており、おもてなしをすることはゼウスに従うのと同じとされたわけです。オデュッセイアの妻・ペネロペに求婚するために集まった数十人は、主のいない城で数年間にわたり饗応を受けます。オデュッセイアの息子テレマコスは、父の情報を求めてスパルタに行き、王に歓待されます。クセニアを現代的に理解すれば、他者の存在を認めることであり、他者をリスペクトすることなのだろうと思います。オデュッセイアは、それを悪用して、トロイの木馬を作り、トロイの神殿と街と人々を壊滅させたわけです。

オデュッセイアが帰国できないのは、息子を殺されたポセイドンのせいだとされます。しかし、ポセイドンの怒りとは、とりもなおさず人間の欺瞞であり、人間は自ら自分の首を絞めていたわけです。映画のなかで、ゼウスやポセイドンといった神々は、直接的に姿を現わしていません。これこそ、まさにクリストファー・ノーランが、テーマを訴求するためにねらった演出なのでしょう。また、ギリシャの人々が、その来襲を恐れる「海の民」も、ギリシャ人自身の欺瞞を意味しているのでしょう。映画の中で、しばしばオデュッセイアが見る幻影としてゼンデイヤ演じるアテナが登場しますが、オデュッセイア自身の葛藤を象徴しているのでしょう。また、シャーリーズ・セロン演じるニンフ・カリュプソは、オデュッセイアの犯した罪から逃れたいという欲求を現します。

クリストファー・ノーランの映画では、いつも音楽が重要な要素となっています。今回も同様です。通常の古代劇ならば、荘厳なオーケストラの劇伴で盛り上げるところですが、本作では、あえて電子音楽に古楽器を乗せた音楽が使われています。ホメロスの現代的解釈、あるいはクリストファー・ノーラン的理解であることを強調しているのでしょう。あるいはホメロスの原作への敬意なのかもしれません。いずれにしても、今回の音楽は饒舌に過ぎるように思いました。むしろ、叙事詩としては、劇伴を抑え、無音と効果音を巧みに使うべきだったのではないかと思います。ハリウッドの俳優を使っていることにも、多少、疑問を感じました。また、世界一の美女ヘレネー役にルピタ・ニョンゴを起用していることには、やや驚かされました。監督の意図が伝わる攻めたキャスティングです。(写真出典:eiga.com)

2026年9月17日木曜日

「シーモア・ハーシュ: 権力の闇に挑む男」

監督:ローラ・ポイトラス、マーク・オーベンハウス 原題:Cover UP 2025年アメリカ

☆☆☆+

ピュリツァー賞も受賞したアメリカのジャーナリスト、シーモア・ハーシュに関するドキュメンタリーです。ハーシュは、アメリカを、そして世界を動かすことになる多くのスクープをものにしたことで知られます。1970年のピュリツァー賞(国際報道部門)を受賞したソンミ村虐殺事件、1974年にはCIAの国内スパイ活動ケイオス作戦、同じ年、チリのアジェンデ政権転覆に関するCIAの関与、2004年にはイラン戦争時のアブグレイブ刑務所における捕虜虐待等の報道が有名です。また、ウォーターゲイト事件の報道においても重要な役割を果たしています。さらに、多国籍企業に関する調査報道は、後に日本を揺るがしたロッキード事件の発端になったことでも知られます。

監督のローラ・ポイトラスは、ドキュメンタリー「美と殺戮のすべて」(2022)で、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を獲得した人です。写真家ナン・ゴールディンの生涯を通じて、オピオイドとその製造会社を追及した作品でした。ポイトラスは、2004年にハーシュにドキュメンタリー映画の企画を打診しますが、情報提供者を危険に晒す恐れがあることから断られます。ただ、情報提供者の多くが亡くなったことから、今般、映画化の許可が出たようです。企画から、実に20年越しの映画化ということになります。ハーシュは、秘蔵していたメモ、写真、映像、音声の一部の公開も認めています。ハーシュは、相当の覚悟をもって20年越しの映画化に臨んだのだと思います。インタビューの中で、一部の報道に誤りがあったことを認めている点も覚悟の現れなのでしょう。

ハーシュの調査報道の大きな特徴は、情報提供者の存在です。政府、CIA、軍、コングロマリット等が隠蔽しているものを、情報提供者を使って曝くことがハーシュのスタイルです。例えば、デイヴィッド・ハルバースタムは、事実の奥に潜む普遍的な真実を探求していきます。ハーシュの場合には、あくまでも事実を晒すことによって権力を監視することが目的になっています。いずれもジャーナリズムそのものなのでしょう。ドキュメンタリー映画も、ジャーナリスティックな性格を持っています。ハーシュがソンミ村虐殺事件を曝く過程を描き、権力、あるいは軍の本質に迫るならば、良いドキュメンタリー映画ができると思います。しかし、暴露型ジャーナリストの仕事をトレースするだけなら、映画としては実に平板なものになってしまいます。

あるいは、シーモア・ハーシュという希代の暴露型ジャーナリストを通じて、ジャーナリズムの本質を問いかけるという映画なら、随分と見応えのあるものになったいたはずです。そのためには、ハーシュの業績、あるいは事実を曝いていく過程だけではなく、記事がリリースされるまでのNYタイムス、ニューヨーカー誌内部、そして権力側の動きをより丁寧に映像化すべきだったのではないかと思います。そもそも監督の企図も、そこにあったのかもしれません。しかし、ハーシュのスクープの多さ、ハーシュが公開した資料の多さゆえに、過去の事実をトレースすることに汲々としてしまったのかもしれません。いずれにしても、本作は興味深いドキュメンタリーではありますが、前作「美と殺戮のすべて」を超える映画ではないように思えました。

映画を見ながら、気になったことの一つは、アメリカにおける内部通報者の多さです。日本でもコンプライアンス強化が叫ばれてから増加傾向にあるとは思いますが、アメリカの比ではないように思います。その違いはどこにあるのか気になりました。宗教に裏打ちされた道徳観の違いなのかもしれません。しかし、アメリカの歴史を築いてきた開拓民たちと権力=連邦政府=東部エスタブリッシュメントとの戦いの歴史が背景にあるように思います。それは制度的には、憲法や自治の伝統に反映され、合衆国という国の形となり、銃を持つ権利にもなっています。現象面では、今も福音派、ミリシア、MAGA派といった形で脈々と生きています。内部通報というアメリカの伝統にも、民主主義という壮大な実験に挑み続けるアメリカ社会が反映されているということなのでしょう。(写真出典:en.wikipaedia.org)

2026年9月13日日曜日

「反逆のサウンドトラック」

監督:ヨハン・グリモンプレ 原題:Soundtrack to a Coup d'Etat 2024年ベルギー・フランス・オランダ

☆☆☆

1960~65年に起きたコンゴ動乱が、過去の映像のみで描かれています。コンゴ共和国は、1960年、ベルギーの植民地から独立します。当時、アジア・アフリカでは、かつて植民地だった国々の独立が相次ぎ、それに伴う旧宗主国との利権争いも起こります。また、米国とソ連の東西冷戦が激化し、核兵器の開発競争や陣営の拡大競争が行われるという国際情勢下にありました。非白人勢力の拡大という意味では、米国内でも黒人の市民権運動が激化していました。映画は、そうした世界の動きを丁寧に拾っています。ちなみに、戦争は国家間の全面的武力衝突、内乱は国内勢力同士の全面的武力衝突を指します。動乱とは、暴力は伴うとしても、基本的には政治的混乱を指します。

コンゴ動乱を描く本作で違和感を感じた最大のポイントはジャズの扱い方です。ルムンバ首相殺害に抗議して国連に殴り込みをかけたアビー・リンカーンとマックス・ローチの逸話を挿入することは理解できます。ルイ・アームストロングがアフリカを音楽親善大使として巡回したことはよく知られています。ただ、それはCIAの隠れ蓑として利用されていました。これも有名な話です。サッチモの親善大使の描き方はやや冗漫だと思いました。要は、アメリカの黒人たちの状況とアフリカの植民地の状況をリンクさせて伝えたかったのでしょう。ただ、そのために、他のジャズ・ミュージシャンやマルコムXを登場させる必要があったとは思えません。過去のフィルムだけで構成される本作に、リズムやダイナミズムを与えるための方策のようにしか見えません。

コンゴ動乱の展開は実に複雑です。まずは、ルムンバ率いる民族主義者が独立を勝ち取ります。アジア・アフリカで過熱する脱植民地の動きに呼応していました。コンゴの独立は認めたものの、旧宗主国ベルギーは、利権の温存を図ります。南部カタンガでは、ベルギーに支援されたチャンベが分離独立を宣言します。国際的批判をかわすべくベルギーは、自国兵ではなく傭兵を投入します。ルムンバの要請を受けた国連も、国連軍を投入します。しかし、事態は打開されず、ルムンバはソ連に接近します。アメリカは、ウラン等の豊富な地下資源がソ連に渡ることを恐れ、モブツ参謀長を支援しクーデターを起こさせます。逮捕されたルムンバは、カタンガに送られ、殺害されます。事態を収めるべく現地に飛んだ国連事務総長ハマーショルドも謎の死を遂げます。

他にも、親米派の大統領カサブブと首相ルムンバとの対立、多様な民族間の対立、毛沢東主義者の登場等もあり、事態は混迷を極めます。映画は、複雑な状況のトレースに挑戦し、かなりうまく整理していると思います。ただ、事態の展開を追うことに汲々として、事の本質を見失いがちのように思えます。監督の手腕にかかわる問題ではなく、それほどコンゴ動乱は複雑だったということなのでしょう。基本線は、民族主義とベルギー・アメリカの横暴ということだと思います。さらに言えば、傭兵も大きな問題だと思います。このあたりにフォーカスしないと、ドキュメンタリー映画としての思想や主張は見えにくくなってしまうわけです。プロットの展開に苦慮した監督がたどり着いた結論がジャズを使うことだったのでしょうが、うまくいっていません。

1965年、モブツが二度目のクーデターに成功し、コンゴ動乱は収束、独裁の時代を迎えます。反対勢力を武力で抑えたモブツの独裁は1997年まで続きます。この間、モブツは民族主義を掲げ、国名をザイール、首都のレオポルドビルをキンシャサに改名しています。なお、現在の国名はコンゴ民主共和国になっています。さて、キンシャサと言えば、”キンシャサの奇跡”と呼ばれた1974年の世界ヘビー級タイトルマッチ、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの一戦が思い起こされます。マルコムXの影響を受けて兵役を拒否した世界王者アリは、タイトルを剥奪されていました。一方のフォアマンは無敗の絶対王者でした、結果は、アリの8ラウンドKO勝ち。蝶のように舞い、蜂のように刺す、と言われたかつてのアリではありませんでしたが、クレバーなボクシングが世界中を沸かせました。また、この時、ザイールの人々がアリを応援して連呼した“Ali Bombaye(リンガラ語で、アリ、やっちまえ)”は、アントニオ猪木がアリから贈られた入場曲としても知られることになります。(写真出典:bunkamura.co.jp)

2026年9月3日木曜日

マグノリア

春に咲く木蓮は大好きな花です。大ぶりな花の形がハスに似ていることから木蓮と名付けられたと聞きます。白木蓮、紫木蓮が多いのでしょうが、私は緋木蓮が好きです。木蓮は、英語でMagnolia(マグノリア)と言います。フランスの植物学者の名前に由来すると聞きます。ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)監督の初期の作品にも「マグノリア」と題された映画があります。PTAの映画で観たことがなかった唯一の作品です。今般、ネットで初めて観ることができました。ロバート・アルトマン的な群像劇は、3時間8分という長尺な映画になっています。PTAの故郷でもあるLA北西部のサンフェルナンド・ヴァレーを舞台に、木蓮の花弁の数に合わせた6人の物語が同時進行していきます。

マグノリアは、PTAの長編3作目、29歳の時の作品です。前作「ブギー・ナイツ」の大ヒットを受けて、制作会社から好きに撮っていいと言われて制作したとされます。そのせいか、思いが溢れすぎて、やや粗削りな出来になっている面もありますが、その画面からは才能と勢いがほとばしっています。点数をつけるなら、☆☆☆☆ーといったところでしょうが、印象に残る好きな映画です。そもそも群像劇は好むところです。群像劇成功のポイントは、それぞれのエピソードがエッジの効いたスケッチになっていること、そしてエピソードの切替えをスピーディに展開することだと思います。そして、ラストで全てのエピソードが一つにつながりカタルシスが生まれるところが群像劇の醍醐味です。マグノリアでは、そのあたりのツボがしっかりと押さえられています。

 PTAの映画は、複雑な家庭環境を題材とする傾向があります。マグノリアも同じなのですが、本作は父親がクローズアップされているように思います。ガンの妻と看病する息子を捨てた父親、クイズ番組の天才少年を搾取する父親、娘に不適切な行為をした父親、そしてその犠牲者である子供たちが描かれます。彼らにからむのは、金目当てで結婚したことを今さら恥じる女、クイズ番組の天才少年としてもてはやされて自分を見失った男、そして愚直がゆえに生きにくい人生を送る警察官です。信心深く愚鈍な警察官はアメリカの良心であり、彼以外は家族崩壊と孤独というアメリカの病を体現しているのでしょう。アルトマンの「ナッシュビル」は崩壊するアメリカの社会を描きました。PTAのマグノリアは、苦悩する現代のアメリカ人にフォーカスしています。

マグノリアにおけるPTAの最も秀逸な着想は、天から降ってくる大量のカエルだと思います。映画冒頭の不思議な3つのエピソードがここで生きてきます。不思議な事は起こるものだ、それが人生だというわけです。PTAは、異常現象作家のチャールズ・フォートの本から着想を得たようです。空から異物が降ってくる現象は、ファフロツキーズと呼ばれますが、古くから世界中で目撃されてきたようです。かつては神の御業とされたのでしょうが、現代では竜巻や強風が原因とも、鳥が餌を落とす現象とも言われます。PTAは、これをドラマを収束させるきっかけとして使います。その着想力には驚かされます。全ての人々が、ある意味、平等に、不思議な現象に見舞われ、それを機に明日への希望のようなものを見出していきます。”life goes on”というわけです。

PTAの映画は、一定のテンションとスピード感が見事に持続されることも特徴の一つです。ダレることがないので、観客は長い映画も苦になりません。才能やセンスの成せる技なのだと思います。それを支えているのが音楽です。マグノリアの音楽は、ジョン・ブリオンが担当しています。加えて、シンガー・ソング・ライターのエイミー・マンの楽曲が効果的に使われています。マグノリアは、PTAが彼女の曲にインスパイアされて生まれたとも聞きます。マグノリアには、主人公たちが、それぞれに彼女の楽曲「Wise Up」を歌うという愛らしいシーンまであります。これも実に秀逸なアイデアだったと思います。エイミー・マンは、文学的に、皮肉っぽくアメリカの現実を歌う人です。最適な音楽を見つけるのも、PTAの優れた才能の一つなのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年8月6日木曜日

酷暑

エジプトのアブシンベル神殿へ行った際、50度超えという気温を経験しました。そのレベルになると、直射日光で肌が軽い火傷になる恐れもあるので、露出は禁物です。ただ湿度がゼロに近いので、日陰は涼しいくらいでした。あらためて、日光と砂を避けるベドウィン族の衣装の合理性に感心しました。一方、パキスタンのカラチでは、気温40度超え、かつ湿度ほぼ100%という気候も経験しました。冷房の効いた室内から外に出ると、コンクリートの塊が両肩に被さるような印象を受けました。海辺はマシだろうと思いましたが、アラビア海からはもっと重苦しい熱風が吹きつけていました。気象庁は、今年から、40度超えの日を「酷暑日」と定めました。 その途端、過去に例がないほど40度超えが続出しています。

フィリップ・K・ディックの小説に、気温100度になった未来が描かれたものがありました。人が外へ出る時には、携帯クーラーを背負います。ほぼ宇宙服ということなのでしょう。近年、屋外で作業する人たちが、電動ファンの付いた作業服を着用しています。酷暑日といい、ファン付作業着といい、どんどんフィリップ・K・ディックの小説に近づいているように思えます。地震に襲われた熊本が酷暑日を記録した日、他の九州各地でも酷暑日が発生しました。そのなかに佐賀市も含まれていました。佐賀市の夏と言えば、松本清張原作・野村芳太郎監督・橋本忍脚本の傑作「張込み」(1958)を思い出します。高温多湿な日本の夏を最も強く感じさせる映画だったと思います。日本の白黒映画は、雨の描き方がうまいと思うのですが、夏の暑さも同様に見事です。

もちろん、アフリカや東南アジアで撮った映画は暑さが伝わります。アメリカであっても「狼たちの午後」などは印象に残っています。原題は”Dog Day Afternoon”であり、Dog Dayは暑い日を指します。しかし、そこで描かれている暑さは、高温多湿な日本の夏とは大いに異なります。「張込み」は、日本的な夏が見事に描かれています。東京・深川で発生した強盗殺人事の犯人が逃走し、佐賀に住む元恋人を訪ねると踏んだ刑事二人が張込みに入ります。原作は、30ページほどの短編ですが、脚本の橋本忍が緊張感あふれるドラマに仕立てています。映画は、刑事たちが横浜駅から佐賀へ向かう夜行列車の旅から始まります。横浜・佐賀間1,200km、蒸気機関車では、一昼夜以上かかる旅です。暑くて混み合う車内の描写だけで、いきなり暑苦しさが伝わります。

ロケは、佐賀市を中心に行われています。戦時中、佐賀市も空襲を受けています。ただ、徹底的な灯火管制が奏功し、目標を見失った米軍は爆弾を田んぼのなかに投下します。結果、ほぼ被害のなかった佐賀市は、撮影が行われた昭和30年代でも城下町の風情をよく残しています。佐賀市の最高気温は、当時でも35~36度まで達していたようです。演技、演出、カメラワークもうだるような暑さを見事に伝えます。旅館での張込みという動きの少ないプロットが、暑さをより際立たせている面もあります。それどころか、短く動きの少ない原作を、緊張感あふれる映画に仕立てあげるために、暑い夏が効果的に使われているとも言えそうです。夕立やお祭も含めて、暑い夏は映画としてのテンションと奥行を出すためのサブ・プロットだったと言ってもいいのでしょう。

サスペンスながら、テーマがしっかりしていることも特徴的です。高度成長に突入した都市と寂れていく地方という構図、農村から上京した労働者の悲惨な就労環境、といった当時の社会現象が端的に表現されています。また、時代とともに変化しつつあった女性の社会的地位や女性の幸せに関する目線も大きな要素になっています。短編とは言え、さすが社会派松本清張だと思います。被疑者の元恋人は、相当年上の銀行員と結婚し、ほぼ女中と変わらぬ日々を送っています。被疑者と温泉地で待ち合わせた元恋人は、まるで別人かのように感情を露わにします。しかし、数時間後、被疑者は張り込みを続けてきた刑事たちに逮捕されます。刑事のモノローグ「この女は数時間の命を燃やしたに過ぎなかった」は名セリフとされているようです。暑い夏はここにもあったわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年8月2日日曜日

「急に具合が悪くなる」

監督:濱口竜介      2026年日本・フランス・ベルギー・ドイツ

☆☆☆☆ー

いまや日本を代表する映画監督となった濱口竜介の新作です。介護の現場を変えようと奮闘する施設長のフランス人女性とガンで余命宣告を受けた舞台演出家の日本人女性の交流が描かれます。映画は、一部が日本、大半はパリを舞台とし、フランス語と日本語で進行されます。畳みかけるようにドラマが展開するのではなく、スケッチを編んでいくような構成になっています。それが196分続くわけですからダレて当然だと思うのですが、決して観客を飽きさせることはありません。前の作品でも同じ印象を持ちましたが、これが濱口監督の独特な才能、あるいは感性なのだと思います。主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒は、カンヌ国際映画祭で女優賞を共同受賞していますが、作品へのリスペクトあってのことなのでしょう。

原作は、ガンで亡くなった哲学者の宮野真生子が、文化人類学者の磯野真穂と交わした往復書簡集「急に具合が悪くなる」(2019)です。二人の書簡に感銘を受けた監督は、映画に仕立てるために大胆な翻案を行ったわけです。恐らく書簡で語られている内容はそのままに、映画としてのプロットやフレーム建てを考案したのでしょうが、創作と言っていい作業であり、その才能には感心させられます。ことにパリと日本、フランス人と日本人という着想が、書簡集を映画として成立させるうえで、キーとなるフレームだったと思われます。介護施設内での出来事、介護手法であるユマニチュード、劇中劇、重度の自閉症児といったモティーフも映画を成立させるために組み込まれています。原作が書簡集だけに、会話だけの映画になることを回避するための工夫だと思います。

決してダレることはないものの、それらのモティーフと会話の重層的な展開、そしてテーマへの収斂が起きないことが、映画にやや冗漫な印象を与えています。テーマへの収斂は、意図的に回避されていると思います。テーマは、生と死、希望と絶望、必然と偶然、それらに基づく人生観ということになるのだろうと思います。しかし、押しつけがましい結論のようなものは提示されません。原作も映画も、判断は読者と観客に委ねられているのでしょう。長尺の映画がダレない理由は、ここにもあります。主人公二人の葛藤が、観客一人ひとりの答えを求めてくるからです。ゆえに演技や演出は、適度な自然主義を保つ必要があり、おのずと映画は長尺なものにならざるを得ません。こうした観客の巻き込み方こそ濱口映画の特徴なのだろうと思います。

ユマニチュードは、テーマに深く関わるモティーフです。良いところに目を付けたものです。ユマニチュードは、人間らしさを尊重する認知症ケアの技法です。1979年、フランスで開発されています。日本では、2012年に導入され、現在はかなり普及しているようです。ユマニチュードのねらいとするところもさることながら、それを半ば強要される看護師たちの反応がドラマを作っています。主人公が展開する資本主義論とも重なってきます。結論に関しては観客に委ねられていると書きましたが、ユマニチュードの施設への導入に関しては、ポジティブにシナリオが展開します。これがテーマの全てではないものの、結果としては映画の縦糸として機能しているように思います。これも書簡集を映画化する際の大事な要素になっているわけです。

濱口竜介監督は、アカデミー賞と世界三大国際映画祭のすべてで主要な賞を獲得しています。日本の映画監督も、ついにここまで来たな、という印象があります。もちろん、黒澤明はじめ多くの監督の作品が海外で評価されてきました。また、是枝裕和など、海外でメガホンを取った監督もいます。ただ、濱口竜介は、諸先輩たちと異なり、初めから国際的な舞台のメインストリームで、そのディレクティングのレベルの高さが評価されています。明らかに次元が変わったのだと思います。ただ、その評価は、諸先輩たちが刻んできた歴史の上にあることも事実だと思います。スポーツの世界でも同じですが、世界で活躍する選手は突然変異ではなく、これまでの積み上げの上に咲いた花なのだと思います。(写真出典:eiga.com)

2026年7月25日土曜日

「大統領のケーキ」

監督: ハサン・ハディ      2025年イラク・カタール・アメリカ

☆☆☆+

1990年、サッダーム・フセイン率いるイラクがクウェートに侵攻すると、アメリカ主導の多国籍軍がイラク空爆を開始します。湾岸戦争の始まりです。映画の舞台となったイラク南東部の湿地帯アフワールも、のどかな農村風景に米軍機が飛ぶ日が続きます。祖母と暮らす9歳の少女ラミアは、学校でフセイン大統領の誕生日を祝うケーキを焼く係になります。持病を抱え、経済的にも行き詰った祖母は、ラミアを手放すことにします。それを知ったラミアは逃亡し、友人とケーキの材料集めに奔走します。ラフながら勢いのある映像、子役も含めていい味を出しているキャスト、全編に流れる民族音楽が見事だと思います。演出は自然主義的ですが、それを超える監督の熱意と勢いを感じました。

しかし、政治性という観点から見れば、ややフォーカスが甘いように感じました。ヨシで作った浮島の上で、ヨシで作った家に暮らすアフワールの人々の暮らしは、古代から何一つ変わっていないように見えます。貧困にあえぎ、フセインの独裁にさいなまれ、欧米からの軍事攻撃を受けながらも、宗教を支えに日々の生活を続けています。アフワールの人々がイラク国民に擬せられているのでしょう。大変な時代だったとは思いますが、それだけを描くのであれば、映画としてはあまりにも稚拙です。他人に預けられることになったラミアは逃げ出します。これは理解できます。しかし、いかに厳しい罰という脅しがあるにしても、自らの状況を顧みずにフセインの誕生日を祝うケーキの材料集めに奔走するというプロットが分かりにくい面があります。

それは、ファシズムの恐ろしさ、とりわけ洗脳の恐ろしさの象徴なのかもしれません。あるいは体制に従順な国民性を嘆いているのかもしれません。ただ、いずれにしてもプロットとしては、鋭さに欠けています。むしろ印象的には”ラミアの大冒険”的な描き方になっています。また、シーア派とスンニー派、バアス党と国民の対立の描き込みが弱いように思います。イランに隣接するアフワールの人々は、間違いなくシーア派だと思います。ひょっとすると偉そうにしている学校教師はバアス党の象徴なのかもしれませんが、我々には分かりにくいと思います。イラク社会を描くにあたり、この対立構図が取り込まれていないことは、いささか妙だと思います。意図的に回避されているのかもしれません。もっとも見る人が見れば、気付くのかもしれませんが。

なお、プロットの時期の設定は、必ずしも現実とは一致していません。イラク国内、あるいはアメリカへの政治的配慮があるのかもしれません。ラスト・シーンも、伝えようとしていることが、希望なのか、絶望なのか、分かりにくいように思いました。そうした甘さはあるものの、映画としての勢いは見事なものだと思います。本作は、昨年のカンヌ国際映画祭で、新人監督賞に相当するカメラ・ドールを獲得しています。全編がイラクで撮影され、キャストはほぼ素人だったようです。それが、かえって映画に勢いを与えているように思います。カメラ・ワークは、やや荒っぽいのですが、やはり勢いを感じさせます。全編に流れる民族音楽が素晴らしい効果を生んでいます。プロデューサーに、アメリカの映画人たちが名を連ねていることも興味を引きました。(写真出典:eiga.com)

2026年6月29日月曜日

「シラ-ト」

監督: オリベル・ラシェ       2025年スペイン・フランス

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

これは、現代版イージー・ライダーなのだと思いました。イージー・ライダーは、1960年代アメリカの価値観の揺らぎを映像化したわけですが、本作は、現代社会の揺らぎをテーマとしているように見えます。実に政治的なロード・ムービーですが、レイブやEDM、あるいは砂漠と大型車といった要素を、違和感なく一体的に表現している点が新しいと思います。本作は、カンヌ国際映画祭で監督賞を獲得するなど高い評価を得ています。監督のオリベル・ラシェは、パリで生まれたガリシア人です。ガリシアは、スペインで最も西に位置する自治州であり、ガリシア語はじめ独自の文化を持つことで知られます。それは、監督の世界を見る冷静な目や感性に影響しているように思えます。

レイブは、1980年代のイギリスから始まっています。遠隔地や廃墟など非日常的な場所に、レイヴァーと呼ばれる人々が自主的に集まり、朝まで熱狂的に踊り続けます。管理されたビジネスそのものであるフェスやディスコを否定し、人里離れた場所でトランス状態に入るということは、どこか宗教的な印象すら受けます。ただ、実態は単なる現実逃避であり、60年代のカウンター・カルチャーに比べれば、思想性に欠ける単なるドロップアウトのようにも思えます。映画では、レイヴァーになるべく家を出た娘を探す父親と息子が、モロッコのレイブに現れます。父子は、伝統的な価値観、あるいは家族という人間が持つ本性の象徴なのでしょう。父子は、次のレイブ・ポイントへと向かうレイヴァーのグループに同行することになります。

ドロップアウトした人間とは言え、レイヴァーのグループも一つの家族です。二つの家族は、厳しい砂漠の道を共に進んでいきます。さらに悲劇に襲われることによって、二つの家族は一体化します。見た目は違えども、同じく連帯を求める人間性が表現されているのでしょう。そして、ここに異質な要素が登場することになります。国家や戦争の象徴としての地雷原です。レイヴァー二人が犠牲になります。父親だけが無事に地雷原を渡りきります。どうやって渡れたのかと聞かれた父親は「無心に歩いただけだ」と答えます。これが、この映画のキー・ポイントなのでしょう。政治システムに対する人間性の勝利というわけです。ラスト・シーンで貨車に乗って沈んだ顔をしているのは、失ったものゆえか、システムに依存する自分を嘆いているのか、判然としません。

という風に図式的に見ることもできるわけですが、この映画の最大の魅力は、鳴り響くEDMと自然主義的な演出が相まって生み出される今日性やリアリティなのだと思います。ロードムービーの伝統を踏まえつつも、新たな表現を実現したとも言えそうです。キャストのほとんどは、レイブでスカウトされた素人だと聞きます。実に見事なスカウトだったと思います。皆、いい味を出しています。主役の一人とも言える音楽は、ベルリンを拠点に活動するDJカンディン・レイのオリジナルであり、いくつかの賞も獲得しています。砂漠の風景も主役の一人だと言えます。撮影はモロッコとスペインで行われたようです。モーリタニアのレイブ・ポイントを目指す一行は西サハラを進んでいきますが、そこは、いまだに西サハラ紛争が継続されている地域でもあります。

西サハラ紛争は、西サハラの領有を巡るモロッコ、モーリタニア、そしてサハラ・アラブ民主共和国を建国したポリサリオ戦線の争いです。19世紀からスペインの植民地となっていた西サハラですが、20世紀半ば、モロッコとモーリタニアが領有を主張します。スペインが手を引くと、両国が分割統治しますが、アルジェリアやリビアの支援を受けたポリサリオ戦線が、独立を目指す戦闘を1976年から開始します。国連や周辺国家等によって、幾度も停戦や紛争終結が図られてきましたが、いまだに解決しておらず、戦闘も散発しています。近年では、イスラエルを承認したモロッコに対して、トランプが西サハラ領有を認めたことで、混乱は深まっています。西サハラ紛争は、植民地主義が引き起こした問題の一つですが、現代の国際政治が直面する課題を象徴している面もあります。そこを映画の舞台に据えた本作の意図の濃さを感じます。(写真出典:eiga.com)

2026年6月11日木曜日

シェトランド

スコットランドのシェトランド諸島は、イギリスの最北端、北緯60度に位置する亜寒帯の島々です。総面積は沖縄本島よりやや大きい程度です。その名前は、シェトランド・セーターやフェア・アイル・セーターでよく知られています。シェトランド・セーターは、ざっくりとした風合が特徴です。フェア・アイルは、色とりどりな幾何学模様が特徴です。人口2万3千人に対して羊は29万頭。羊だらけの島だと言えます。もちろん、漁業の島でもありますし、1978年以降は石油の島でもあります。また、アン・クリーヴスのジミー・ペレス警部シリーズを原作とするドラマ「シェトランド」の舞台でもあります。

小説は2006年から9作、ドラマは2013年から10シーズンがリリースされています。刑事小説の魅力の半分は舞台設定にあります。極北の島、風が強く曇りがちな島、樹木がほとんどない島、しかも島の人間は皆知り合いというシェトランドは、刑事小説にとって魅力あふれる舞台です。また、刑事物ではお決まりの刑事本人の複雑な家庭もしっかり組み込まれています。ドラマとしては、英国伝統のフーダニット系謎解きミステリーに、ノルディック・ノワールのテイストも加えられていることが特徴なのでしょう。シーズン1~2は、アン・クリーヴスの原作に基づく1ストーリー2話構成でしたが、シーズン3以降は、オリジナル脚本で1シーズン1ストーリー6話構成になります。このじっくりとドラマを展開させるスタイルがシェトランドの独特な世界を形作っています。

シーズン7までは、ダグラス・ヘンシャルがジミー・ペレスを演じていました。その寡黙で内省的な個性がシェトランドというドラマを性格づけていました。ところが、シーズン8からは、主要な脇役はそのままに、ヘンシャルは降板し、代わってアシュリー・ジェンセンが主役になります。なんとも大胆な交替です。高い人気があるからこそ、できた主役交代であり、以降もシリーズは継続され、シーズン11まで予定されています。ヘンシャルの最後の出演となったシーズン7は、明らかにシリーズの終わりとして制作されているように思います。シーズン6で最高視聴率をヒットし、以降、多少低下したとは言え、高い数字を稼いでいたシリーズを、継続するか否か、継続するとすればいかに、といった議論が製作陣のなかでなされたのでしょう。

シーズン8から変わったことは、主演だけではありません。ジェンセン演じるルース・コールダー警部補は、ロンドン警視庁から派遣されますが、もともと島の出身であり、なにやら複雑な過去も背負っています。シェトランドの魅力の一つであるテーマ曲も、フォークロア感を抑えた曲調になっています。シェトランドは、荒涼とした風景を美しく映像化している点も魅力の一つです。シーズン7までの映像は曇天で暗めで寂寥感を漂わせていましたが、シーズン8からは、日差しが多くやや明るい色調に変わっています。登場人物たちは、相変わらず一癖も二癖もありそうな人々ですが、ローカル感が薄れ、いかにも役者がエッジを効かせたキャラクターを演じているという印象です。つまり、ドラマの本質を構成していたシェトランド諸島のリアルな暗さが薄れ、ドラマは一層プロット重視に変わり、島は単なる舞台へと変化したように思います。

同じアン・クリーヴス原作の人気刑事ドラマに「ヴェラ」があります。2011年から14年間、14シーズンが放送されました。スコットランド北部を舞台に、肥えて偏屈で優秀なおばさん刑事ヴェラが活躍するシリーズです。ヴェラもシェトランドも、ミステリー・チャンネルの看板ドラマです。ミステリー・チャンネルは、一挙放送スタイルを採っています。つまり、シェトランドの1シーズン約6時間が連続して放送されるわけです。録画して観ることを前提としたスタイルなのでしょう。私は録画機を持っていません。必要を感じないからです。見逃した番組に関しては、NHK ONEやNHKオンデマンドがあれば十分です。そういう人に一挙放送スタイルは不都合極まりないものです。結局、Amazonで有料で視聴することになります。シェトランドは、お金を払ってでも観る価値がありました。ただし、シーズン7までですけど。(写真出典:filmarks.com)

2026年6月9日火曜日

「木挽町のあだ討ち」

 監督:源 孝志  原作:永井紗耶子  2026年日本

☆☆☆ー

永井紗耶子の同名原作は、2019年から小説新潮に連載され、2023年に単行本が出版されています。その年の直木賞、山本周五郎賞を受賞し、各種ミステリー・ランキングでトップ10入りしたベストセラーです。江戸末期の仇討ちを巡る物語が、芝居小屋を舞台に展開するというミステリーです。2025年には、松本幸四郎・市川染五郎親子によって歌舞伎化されています。芝居小屋が舞台ですから、相性が良かったのでしょう。そして、今年、NHK「京都人の秘やかな愉しみ」の源孝志の監督・脚本で映画化されました。”京都人”で源孝志のセンスの良さに惚れ込んでいたので楽しみにしておりました。ただ、パリに行っている間に公開され、終了していました。今般、ようやくAmazon Primeで観ることができました。

レベル以上の娯楽映画だとは思いますが、映画的な広がりや深さには欠けるところがあります。原作は、ミステリー仕立てながら、登場人物たちがもっと深掘りされているようです。恐らく、仇討ちを通して武家社会の硬直性、あるいは芝居小屋の世界を通して江戸の社会の矛盾が表現され、作品に深みを与えているのでしょう。映画は、プロットを追うことに注力したきらいがあり、やや趣きに欠けるところがあります。源孝志のそつのない演出はなかなかのものだと思いますし、センスの良さも感じさます。ただ、プロットに追われたせいなのかも知れませんが、やはりTVの人だな、と思ってしまいます。その最大の理由は、思想性の薄さなのでしょう。管理社会に対する批判はあるのですが、通り一遍で表面的なところがあり、登場人物の陰影も薄くなっています。

仇討ちは、制度化されていました。家や一族の結束、そして武力が武家の本質だと思います。仇討ちは、幕府が主導する管理社会と武家の本来的特性とのギリギリの妥協点なのだと思います。妥協ですから、そこには矛盾も生じます。江戸期であっても、殺人は幕府か藩が処罰することになっていました。殺人犯が逃亡した場合、直系卑属にその処罰を委託する形で仇討ちが許されました。ただし、仇討ちは公的に承認・管理された場合に限ります。仇討ちを認められた者は、敵を討ち取るまで国に戻ることも、家督相続することも許されませんでした。なかには数十年を要する例もあったようです。また、仇討ちされる側にも正当防衛が認められ、返り討ちは無罪とされました。制度としての仇討ちは、1873年(明治6年)になって、ようやく禁止されています。

映画の舞台となった木挽町の森田座は、実在した芝居小屋です。中村座、市村座と並び、幕府に公認された江戸三座の一つでした。歌舞伎座などでよく見かける黒・柿色・萌葱色の三色の幕、いわゆる定式幕は、森田座の幕から始まっています。また、劇中に登場する立作者・篠田金治も、実在する武家出身の狂言作者ですが、その名を借りているだけです。木挽町は、江戸期、現在の歌舞伎座あたりに存在した地名です。とは言え、ストーリーは、まったくのフィクションです。悪所と呼ばれた芝居小屋、身分制度の外で河原乞食と呼ばれた歌舞伎役者、いずれも管理社会の外側の存在です。本作は、管理社会の外にはじき出された者たちが、管理社会に一泡吹かせるという構図を持っているわけですが、残念ながら、そこの掘り下げが浅くなっています。

娯楽作品としては、まずまずの出来だとは思うのですが、興行的には振るわなかったようです。印象的には、東映のマーケティングに限界があったように思います。これが東映の現状と言えるのかもしれません。東映は、五社の一角を占め、任侠映画、実録ヤクザ等々、TVと一線を画すアウトロー路線で1970年代までは興業成績トップを続けました。高度成長のひずみ、カウンター・カルチャー等を背景に大衆を惹きつけていたわけですが、1980年代以降は低迷します。健全娯楽路線をとることで東映の後塵を拝してきた東宝が、今や一人勝ち状態になっています。本作を、アウトロー路線全盛の頃の東映が撮れば、随分とエッジの効いた作品になったのではないか、などと夢想しながら観ました。(写真出典:eiga.com)

2026年6月5日金曜日

「シンプル・アクシデント」

監督:  ジャファール・パナヒ  2025年イラン・フランス・ルクセンブルク

☆☆☆☆

映画は政治的なものです。政治をテーマにしているか否かを問わず、不特定多数が観ることを前提としている以上、映画は政治的なものです。本作は、イラン国内の政治的状況を背景として成立しています。ただし、政治力学を描くものではなく、権力の腐敗を描くものでもなく、政治に翻弄される民衆のジレンマを描いています。本作は、政治的圧迫を受け続けるパナヒ監督が秘密裏に製作した作品です。制約の多い制作ゆえ会話劇的な面もありますが、映画としてのパースペクティブも十分に確保されてます。2025年のカンヌ映画祭で上映され、パルムドールを受賞しています。また、カンヌには釈放された監督が14年分ぶりに姿を見せ、8分間のスタンディング・オーベーションに応えたことも世界に報道されました。

政治的理由で服役したことのある人々が、受刑者たちを虐待していた看守とおぼしき人物を街で確保します。元受刑者たちの復讐心が、宗教や常識、あるいは恐怖との間で葛藤を起す状況が、時にコミカルに描かれています。イスラム全体主義下にあるイラン民衆の閉塞的な現状が端的に伝えられています。かつて世界の半分を支配するとまで言われたペルシャですが、近世になると列強、特にイギリスとロシア、後にアメリカの介入を受け続けることになります。1921年、クーデターを起こした軍人レザー・ハーンが皇帝となりパフラヴィー朝を開きます。近代化を目指したパフラヴィー朝は、第二次大戦に際し、英ソの影響を退けるために枢軸国に近づきます。しかし、これが逆効果となり、再び英ソが進駐します。20世紀初頭に発見された石油の利権は英国が握ります。

石油が生み出す巨大な利益は、英国と一部イラン人が独占し、国民は重労働と貧困のなかに置かれます。1951年に首相になった民族主義者モハンマド・モサッデクは、石油事業の国営化とソヴィエト寄りの路線を進めます。しかし、1953年には、アメリカとイギリスに担がれたモハンマド・レザー・シャーのクーデターが起こり、イラン国民は、再び、搾取される構図へと戻ります。しかし、1979年、ホメイニ師が先導したイラン革命によって状況は一変します。イラン・イスラム共和国の誕生です。国民は、欧米支配からの脱却を大歓迎しますが、一方で宗教的全体主義体制のもとで、徹底的な統制を受けることになります。本作は、まさにその体制下での大衆を描いており、監督自身も、逮捕拘禁、映画製作の禁止といった厳しい弾圧を受けることになります。

監督のスタンスは宗教全体主義への批判ですが、本作に込められたメッセージは、全体主義に抑圧されつつも行動を起こさない民衆へ苛立ちのようにも思えます。本作が、イランで秘密裏に撮影された直後、大規模な反政府デモが勃発しています。もちろん、本作はイラン国内で上映されていませんが、まるで監督のメッセージに応えるかのようなデモでした。きっかけは物価高でしたが、政府は武力弾圧、ネット遮断で応じ、数千人の死者が出たともされます。今般のイスラエル・アメリカによるイラン攻撃は、最高指導者ハメネイ師と政府指導部を殺害すれば、民衆が蜂起して政府を倒すという甘い想定のもとに決行されたように思います。しかし、結果的には、かえって国内を反米で団結させたように思います。アメリカが反政府運動を葬り去ったとも言えそうです。

監督は、「チャドルと生きる」(2000)でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞、「人生タクシー」(2015)でベルリン国際映画祭の金熊賞を獲得しています。今回、カンヌでパルムドールを受賞したことで、世界三大映画祭すべてで最高賞を獲得した4人目の監督となりました。他の3人は、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ミケランジェロ・アントニオーニ、ロバート・アルトマンです。かつて、シベリアで収容所生活を送ったソルジェニーツインが「収容所群島」でノーベル文学賞を受賞した際、作品ではなく政治的理由で受賞したと批判されたものです。ジャファール・パナヒ監督の受賞作にも、同じ批判があるのでしょう。しかし、繰り返しになりますが、映画は政治的なものです。作品の政治性が評価されることは当然だと思います。(写真出典:eiga.com)

2026年5月26日火曜日

「マンダロリアン・アンド・グローグー」

監督:ジョン・ファヴロー          2026年アメリカ

☆☆☆

なぜ、この映画を観に行ったのかと聞かれると、なかなか答えにくいところがあります。恐らく、50年来のスター・ウォーズ・ファンだからということになるのでしょう。また、ストリーミングで観ていた「マンダロリアン」が、結構、お気に入りだったからでもあるのでしょう。いずれにしても、スター・ウォーズのスピンアウトながら、さしたる期待も持たずに観た映画です。その最大の理由は、グローグーをクローズアップしたファミリー映画だろうと想像できたからです。やはり、ほぼファミリー映画でした。近年のゲーム感覚のアクション映画らしく、スピード感があり、バトル・シーンも連続するのですが、比較的マイルドに仕上げられていました。つまり、凡庸だったということです。

マンダロリアンは、2019~2023年にDisney+でシーズン3まで配信されました。また、2021年には、そのスピンアウトである「ボバ・フェット/The Book of Boba Fett」も配信されています。シリーズは、マンダロリアンの抱える孤独感を下敷きとした独特な世界観が印象的でした。グローグーは、連帯への渇望や家族への回帰の象徴でした。マンダロリアンは、アメリカの現状を反映した作品です。本作は、マンダロリアンの孤独は語られず、シリーズの外見だけを利用しています。配信時には、グローグーがベイビー・ヨーダとして人気が出たので、映画化に際しては、当然グローグーがクローズアップされるだろうとは思っていました。しかし、マンダロリアンの孤独を前提としなければ、マンダロリアンはただの強いおじさんであり、グローグーの魅力も失われます。

マーケティング上も、ターゲティングが実に中途半端であり、タイトルにもそれが現れています。これでは、スター・ウォーズ人気を利用しつつ、大ヒットした「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の柳の下を狙った作品としか思えません。グローグー推しならば、いっそのこと、「グローグーと仲間たち」てなタイトルで子供向けのアニメにでもしたほうが良かったのではないかと思います。シーズン4相当というセッティングも、マンダロリアンの世界観が伝わらない理由の一つです。むしろ、シーズン1~3を再構築して映画化すべきだったように思います。もちろん、それではファミリー映画に仕立てることが難しくなるのでしょうが。いずれにしても、中途半端な映画になっていますが、さすがディズニー、一定以上のレベルには達していると思います。

スター・ウォーズは、SFアクション映画ですが、哲学的とも言えるテーマをしっかり持っているからこそ永く愛されてきたのだと思います。それはスピンオフであっても同じです。配信シリーズで一番の変わり種は、少年少女の冒険譚である「スケルトン・クルー」ということになります。少年少女冒険譚は、ハリウッドの伝統芸とも言えます。豊富な経験に基づく安定感あふれるプロットとスター・ウォーズの世界観が見事にマッチした作品でした。スケルトン・クルーも、しっかりとしたテーマを持っていました。それは、ありふれているとは言え、少年少女の成長です。本作は、分かりやすいテーマに欠けます。マンダロリアンの孤独、父子の絆といった要素はあるのですが、それらは、全くフォーカスされていませんでした。

スター・ウォーズ・シリーズのなかで、マンダロリアンは拡張性のある系統だと思っていました。既にボバ・フェットをスピンオフしているわけですが、他にもディン・ジャリンとグローグーの冒険、グローグーの成長、あるいはマンダロリアン族の起源など、様々な展開が考えられます。ジャバ・ザ・ハットの息子ロッタ・ザ・ハットにも可能性があります。しかし、本作がコケると、残念ながら、すべての可能性が潰えてしまう恐れもあります。なんとか、配信シリーズだけは残してほしいものだと思います。(写真出典:en.wikipedia.org)

2026年4月30日木曜日

「センチメンタル・バリュー」

監督:ヨアキム・トリアー  2025年ノルウェー・フランス・デンマーク・ドイツ・スウェーデン・イギリス

☆☆☆☆

深いテーマを、スタイリッシュに、繊細に、かつ鮮やかに描き出すヨアキム・トリアーのセンスが見事に発揮されています。前作「わたしは最悪。」以上に複雑で繊細なプロットが、完成度高く表現されています。トリアー監督は、映画表現の新しい次元を提示したとも言えそうです。家を出た自己中心的な映画監督の父親、舞台俳優として成功するも行き詰まりを抱える長女、我慢することを強いられてきた次女が紡ぐ家族の物語がメイン・プロットです。しかし、単に父と娘の不協和音と理解を描いているわけではなく、複雑なプロットが織り込まれています。芸術論という面もありますが、最深部に織り込まれているのはノルウェーという国の歴史に刻まれた悲しさ、そして希望の物語のように思えました。

家を出たアル中の父と、それを許せない娘たちという構図はシンプルなものです。ただ、自殺した祖母の存在とアメリカ人女優の登場が、プロットに深さと広さを与え、物語は陰影深いものになっていきます。祖母は、反ナチの闘士であり、捕まって拷問を受けています。彼女が記録したナチの拷問の詳細は公文書館に所蔵されています。そして解放から15年、祖母は7歳の子供を残して自殺します。その子が映画監督の父であり、娘たちと同様、親が不在という環境で育ちます。父は、長女のためにシナリオを書いて持参します。それは、自分の母の物語であり、母を理解し、許すために書いたものです。父は知らなかったものの、俳優の長女は自殺未遂の経験があります。父は、祖母と長女が重なり合うことに気付いていたわけです。自殺は、血の成せる技でした。

感受性豊かなアメリカ人女優は、本読みが進むと、この役は長女以外に演じられる俳優がいないことに気付き、降板します。家族も、外部からの目線が入ることで、自らの血の濃さに気付かされていきます。また、次女も公文書館で祖母の記録を目にすることで、父のシナリオが持つ意味に気付きます。また、芸術も重要な伏線になっているように思います。父は高名な映画監督、長女は名の知れた女優です。しかし、父は、15年間、映画を撮っていません。長女は舞台恐怖症に陥っています。つまり、二人は、現実から逃避するように創作の世界に入りますが、そこに答はありませんでした。二人が逃げた現実とは、自分自身であり、自分の生い立ちであり、自分を形作る血だったわけです。結局、二人は、現実と向き合わざるを得ないことになります。

映画のナレーションを務めるのは、3代に渡る家族の歴史を見守ってきた彼らの家です。家は、ノルウェーという国を、家族はノルウェーの人々を象徴しているのでしょう。そこには、北欧の風土病とも言える鬱病やアルコール中毒があり、妹の耐える姿にはルター派の信仰が反映されているように思えます。かつてノルウェーを支配したデンマークやナチスもモティーフとして登場します。これは、もうノルウェーという国を語っているとしか思えません。映画のラストシーンは、モダンに改装された彼らの家のセットが作られ、映画が撮影されています。モダンさは現代ノルウェーの成功を象徴し、セットであることがその危うさを表現しているように思えます。いずれにしても、家族の葛藤を描いた映画は、決してそれだけの映画ではなかったということです。

本作は、高い評価を受けており、カンヌで記録的スタンディング・オーベーションとともにグランプリを、アカデミー賞では8部門にノミネートされ国際長編映画賞を獲得しています。ヨアキム・トリアーの独特なタッチ、きめ細やかさ、スタイリッシュさは、繊細なタッチのピアノ曲、あるいは軽やかで鮮やかな水彩画を思わせます。音楽の使い方も見事だと思います。トリアー監督の前作「わたしは最悪。」でも主演を務め、カンヌで主演女優賞を獲得したレナーテ・レインスヴェが、再び主演しています。その豊かな表情と表現力には驚かされます。驚いたと言えばエル・ファニングです。ダコタの妹で、子役時代からの長いキャリアを持ちますが、いい味を出していました。今後が楽しみだと思います。(写真出典:bunkamura.co.jp)

2026年3月31日火曜日

「プロジェクト・ヘイル・メアリー」

監督:フィル・ロード、クリス・ミラー 原作:アンディ・ウィアー 2026年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

原作は、デビュー作「火星の人」(2011、映画化作品「オデッセイ」2015)がベストセラーになったアンディ・ウィアーの同名小説です。2021年に発表された本作も世界的ベストセラーになりました。娘に推薦されて私も読みましたが、ドハマりしました。原作のテイストを映画に仕立てることはハードルが高いように思っていました。案の定、原作の魅力を映画の尺で再現することは無理でしたが、レベル以上の娯楽作品には仕上がっていると思います。ただ、原作を読んだ人には物足りなく、読んでいない人には多少分かりにくい面もあったのではないかとは思います。ま、原作ものは、とかくそんなものでしょうが。

映画が娯楽作品としてレベル以上になっている要因は、プロットをエイリアンとのコラボと友情に絞り込んだこと、そして全体を軽めでテンポの良い展開に仕上げたことだと思います。大雑把に言えばE.T.系の映画ということになるのでしょう。とは言え、子供向けでも、ファミリー向けでもありません。モティーフはそこそこ以上に科学的であり、プロットにもスーサイド・ミッションという結構重い側面があります。映画は、そこをスルーしているわけではありませんが、決して深掘りすることなく、さらりとした軽さで描いています。もちろん、そのポップな仕上げが、原作の魅力を殺している面があるわけですが、映画化するうえでは正しい判断だったのかも知れません。

多くの人が原作にハマった理由の一つは、そのミステリー的なテイストにあるのだろうと思います。宇宙船で目覚めた主人公は、長期の強制睡眠によって記憶が一時失われています。船には主人公一人で、かつ地球から絶望的に遠い宇宙を旅しています。主人公は、科学の知識をもとに、疑問や問題を次々と解決していきます。その小気味よさは、痛快と言ってもいいと思います。一つひとつは、しっかりとした科学的根拠にもとづいているのですが、素人にも理解できる表現になっています。記憶も断片的によみがえることで、プロジェクトの全体像が徐々に見えてきます。このあたりのミステリー仕立ては見事なものだと思います。ただ、これを映画の枠内で再現することは、到底無理な話であり、切り捨てるしかなかったのでしょう。

そこで、監督は、テンポの良い、ポップな展開で、これを補おうとしたのではないでしょうか。決して補い切れているわけではありませんが、なかなかにうまい手法だと思います。監督のフィル・ロードとクリス・ミラーのコンビは、スパイダーマン・シリーズの製作や脚本を担当し、ヒットを飛ばしてきた人たちです。このコンビを使うと決めたプロダクションの判断は、ビジネス的には正しかったのでしょう。ライアン・ゴスリングというキャスティングは、映画のねらいからすれば最適だったと言えます。プロジェクトのクールな責任者には、ドイツの名優ザンドラ・ヒュラーがキャストされています。原作を読んだ時には、映画化するならケイト・ブランシェットしかいないと思っていましたが、ヒュラーもなかなか良い選択だったように思います。

音楽を担当したのは売れっ子ダニエル・ペンバートンですが、ここでもいい仕事をしています。ビートルズはじめ、ポップな楽曲の使い方もうまく、監督の制作意図を十分以上にサポートしていると思いました。ところで、プロジェクト名とされている”ヘイル・メアリー(Hail Mary)”ですが、ラテン語で言えば”アヴェ・マリア”となります。聖母マリアを称える言葉ですが、アメリカでは”イチかバチか”、あるいは神頼み的ニュアンスでも使われます。ことにアメリカン・フットボールの世界では、試合終了間際にヤケクソ的に投げられるロング・パスを指します。地球を救うためのスーサイド・ミッションには、実に相応しい名前だと思います。(写真出典:en.wikipedia.org)

2026年2月6日金曜日

「ウォーフェア 戦地最前線」

監督:アレックス・ガーランド/レイ・メンドーサ  2025年イギリス・アメリカ

☆☆☆☆ー

イラク戦争時の一つの戦闘を、兵士の記憶に基づき、演出を一切加えず、タイム・フレームもそのままに再現したという実に希な映画です。音楽も一切排除し、銃声等にも加工を加えず、ひたすらにリアルさを追求しています。アレックス・ガーランドが「シヴィル・ウォー」を撮った際、軍事アドヴァイザーを務めたのがレイ・メンドーサでした。メンドーサは、この戦闘に通信兵として実際に参加していた海軍特殊部隊(ネイヴィー・シールズ)の隊員でした。脚本も監督もメンドーサを主に、ガーランドが補佐する形で行われています。撮影に際しては、一緒に戦った他の兵士たちも参加し、可能な限り忠実に戦闘を再現したようです。

2003年3月、アメリカを中心とする有志連合がイラクに侵攻し、イラク戦争が始まります。ハイテク兵器を大量に投入した有志連合は、わずか2ヶ月でイラク全土を制圧し、大規模戦闘終結宣言が出されます。しかし、イラクの正規軍は崩壊したものの、各地には抵抗勢力が残り、戦闘は継続されます。そんな中、2006年、西部アンバール県で県都ラマディの制圧を巡る戦いが勃発します。監視・支援任務に就いたシールズの小隊は、秘密裏に民家を占拠します。しかし、住民に気付かれ、アルカイダ系武装勢力に包囲・襲撃されます。負傷者が出たため、ブラッドレー歩兵戦闘車を呼んで搬送しようとしますが即席爆弾が爆発、小隊は、負傷者を抱えたまま籠城せざるを得ませんでした。最終的には、航空支援を受けながら、再度呼んだブラッドレーで脱出に成功します。

当初、有志連合は、湾岸戦争の半分という兵員数ながら、ハイテク兵器によるピンポイント攻撃でイラク正規軍を圧倒します。ただ、全国に残存する抵抗勢力との戦いでは、兵士の少なさが裏目に出ます。ラマディで米軍がとった作戦は、大規模な空爆ではなく、小隊や分隊を市内に分散浸透させ、制圧を図るというものでした。本作におけるシールズ小隊も、分隊単位で行動しています。兵士たちは、個々の任務に応じた銃やハイテク装備を装着しています。この頃から、米兵の通信のハイテク化が目立つようになりました。最も象徴的なのは、前線の兵士も、司令部と同じドローン映像を確認できるようになったことなのでしょう。一方、反抗勢力は、普段着にAKM自動小銃を持っているだけです。この違いが、破綻したアメリカによる統治を象徴しているように思えます。

これまでも、リアルな戦闘を描いた映画は、少なからずありました。ただ、リアルな戦闘シーンだけで構成される映画と言えば、リドリー・スコットの「ブラック・ホーク・ダウン」(2001)くらいしか思い出しません。実話に基づく作品でしたが、リアリティを高めるために相当脚色されていました。現実を忠実に伝える描写か 現実を的確に伝える描写か、実に微妙な問題です。製作サイドが、観客に伝えたいことを、より効果的に表現しようとすれば、一定の脚色は当然なのだと思います。ただ、本作は、一切の脚色を拒みつつ、なおかつ観客を惹きつける迫力を持っています。誠に希有な作品だと言えます。それを実現できたのは、レイ・メンドーサの細部へのこだわり、そして全体をコントロールしたアレックス・ガーランドの構想力なのだと思います。

本作は、米軍礼賛のヒーロー映画でもなければ、戦争の悲惨を伝える反戦映画でもありません。ただただ戦闘のリアリティを描き、それをどう判断するかは、観客に委ねてるとも言えます。イラク戦争自体は、開戦理由とされた大量破壊兵器が発見されなかったことから、批判されることの多い戦争です。まだ、見事に失敗したアメリカによるイラク統治は、イラク、ひいては中東全体に混乱を広げ、かつアメリカ軍兵士たちの死傷率を高め、PTSDに苦しむ多くの帰還兵を生みました。実際に起きた戦闘をリアルに再現しているとは言え、こうした問題を想起させる要素をも多く含む映画でもあります。(写真出典:imdb.com)

2026年1月31日土曜日

「京都人の秘やかな愉しみ」

「日本には2つの人種がいます。日本人と京都人です。」というフレーズで始まるTVシリーズ「京都人の秘やかな愉しみ」にハマりました。2015年からNHK・BSプレミアムで断続的に放送されています。シーズン2まで見ました。ドラマのような、ドキュメンタリーのような不思議な番組です。映像や音楽も含めて、とても丁寧、かつ上質に仕上げられています。私は京都好きではありますが、私が知っていたのは上っ面に留まり、京都人やその生活に関しては無知だったことを知らされました。1本2時間のなかに、ドラマ、寺院や街の紹介、京料理の作り方が織り込まれ、それらを通じて京都人の暮らしや心情が描かれています。決して深掘りしないスケッチ程度の描写が印象的であり、ほどほどの距離感も心地良い番組です。

京都の1年は、二十四節気、さらにそれを5日間に区分した七十二候に基づいて進みます。京都では、日によって食べるものが決まっているとも言われますが、食べるものだけでなく、行うべきことも、それぞれの日によって定められています。例えば、全国的に、節分は、豆まきか恵方巻の日といった認識が一般的だと思います。ところが、京都では旧暦の大晦日として、様々な迎春の行事が行われます。有職故事の塊のような街ですが、千年の都ゆえ、いにしえの日々が保たれてきたとも言えます。また、京都は、そうした生活を支える職人たちの街でもあります。和食文化の中心のような京都ですが、意外にもパン好きな街としても知られます。不思議なことだと思っていましたが、忙しい職人の手軽な朝食や昼食としてパン食が普及してきたのだそうです。

番組は、京都の街と人との関わりがにじみ出るよう構成されています。ドラマは、分かりやすいテーマがさりげなく描かれています。さらりと余韻を残すような演出が腕の良さを感じさせます。その演出スタイルは、他人との距離を上手に保つ京都人らしさに通じるものがあります。時にコミカルであることも、京都らしさの一つです。また、モダンで上質な生活や店も登場しますし、京都の国際性も織り込まれていますが、それらは千年の都が存続してきた理由の一つでもあります。寺院や街の紹介も、ありきたりな観光目線ではなく、京都人の生活という視点から紹介されています。料理のパートも、”手も口もよう動く京女”大原千鶴を通じて京都人が描かれています。時に京都人のインタビューも挿入されていますが、わざとらしさや唐突感のない仕上がりになっています。

人物や店のモデルが明確である点も面白いと思います。NHKという制約はあるものの、本物にこだわったということなのでしょう。シーズン2「Blue 修行中」の料亭萩坂のモデルは「高台寺和久傳」なのでしょう。シーズン1では、大原千鶴の幼少期からの友人として女将本人が登場しています。お茶屋が多い京都で料亭・和久傳は料理自慢の店として知られます。かつて若女将と呼ばれていた女将は、上品な美人ですが、気さくで機転も利くことから大人気でした。初めて和久傳に行った際、若女将が見送りに来なかったので、如何なものかと思いました。その後、皆で祇園町のバーへ繰り出しました。30分ほどすると、若女将が非礼を詫びながらバーに入ってきました。30分ばかり、お酌をして、愛想を振りまいて帰って行きました。その対応の見事さ、そして我々のいるバーが即座に分かるという京都のネットワークの凄さに感心したものです。

作・演出の源孝志は、CMやTVバラエティー制作の後、ドキュメンタリーやドラマを手がけ、芸術祭大賞はじめ数々の賞を獲得している才人です。実に斬新なアプローチで京都と京都人を描いた本作も、ATP(全日本テレビ番組製作社連盟)賞グランプリを獲得しています。京都出身だろうと思いましたが、実は岡山の人でした。ただ、大学が立命館なので、京都には慣れ親しんでいたわけです。また、音楽を担当しているのは阿部海太郎です。舞台の音楽を多く手がけている人のようですが、そのセンスの良さには感心させられます。シーズン1のエンディング・テーマには、ベンチャーズ作曲、渚ゆう子歌でヒットした「京都慕情」が使われています。武田カオリが歌うスロー・テンポなヴァージョンが、あの「京都慕情」だと気付くまでには多少時間がかかりました。半世紀以上も前のヒット曲が、これほどの名曲だったとは驚きです。(写真出典:nhk-ondemand.jp)

Tokyo Film 2026(3)