2026年9月1日火曜日

神祇官

伊勢神宮
神祇官は、律令体制下の官庁組織である”二官八省”のトップとして、太政官の上に置かれました。ただ、神祇官トップの官位が太政官より下だったことからして、祭政一致の象徴としての存在であったことがうかがえます。律令制は、中国の隋唐に倣って作られますが、興味深いことに神祇官は日本独自の官制です。もっとも、中国で祭政一致が行われてたとされるのは殷代であり、隋唐時代からすれば、古代、ないしは神話時代の話となります。神祇官は、朝廷の祭祀を司るとともに各地の神社を総轄していました。宮中で行われる祭祀を担当するところまでは分かりますが、なぜ全国の神社を管理する必要があったのかについては、やや分かりにくい面もあります。

律令制は、天皇を中心とした中央集権化を図る取組でした。645年の大化の改新に始まり、701年の大宝律令によって完成しました。逆に言えば、それまでの日本は部族連合国家としての性格が強かったということです。律令体制の構築とは、単に法的整備を行うということではなく、ヤマト王権が各地の豪族を支配下に置き、従わせたということでもあります。天孫家は、支配拡大のために、武力一辺倒ではなく、策略、謀略、懐柔策なども繰り出します。その視野の広さが天孫家成功の大きな要因だったと考えます。支配した各豪族の神々を、天孫家の神である天照大神を頂点とするヒエラルキーに組み込むことも重要な取組と認識していたのでしょう。祭政一致の朝廷が、神を畏れることは当然と言えますが、人心掌握の術だったとも理解できます。

現在の神社の数は、宗教法人化されているものだけで8万を超え、小さな祠まで入れると20万を超すと言われます。神祇官が管理したのは、全ての神社ではなく、天孫家に関わりの深い神社、あるいは他の有力な神社に限られます。10世紀に書かれた律令の施行細則である「延喜式」には、神祇官が管理する神社名が掲げられています。延喜式神名帳と呼ばれるリストに記載されている神社は2,861社あります。後に、これらの神社は“式内社”と呼ばれることになります。さらに式内社には、神祇官から奉幣を受ける官幣社と国司から受ける国幣社があり、さらに、それぞれが大小に区分されています。エヒラルキーは組織化の基本です。この区分が、日本の神社の社格の基準となります。なお、式外社でも、石清水八幡宮などは国史見在社として重視されたようです。

律令制が崩壊すると、神祇官も姿を消します。以降、しばらくの間、神社は国家の管理から離れることになります。その間にも、二十二社、一宮、総社など、神社を巡る慣例が生まれ、社格の再整理も行われていきます。そして、明治期、王政復古が唱えられると、千年の時を経て、再び神祇官が設けられ、神社は国家の管理下に置かれることになりました。復活した神祇官ですが、幾度も組織変更がなされます。1940年には、内務省外局の神祇院という小規模な組織となり、敗戦を迎えます。神祇官には、国学者たちの祭政一致への回帰という夢が託されていました。しかし、薩長政府は、速やかな中央集権化のために天皇を利用したのであって、富国強兵、不平等条約改正を目指した近代化路線を邁進します。時代錯誤的な祭政一致など相容れるわけもありません。

敗戦後、GHQのいわゆる神道指令によって、国家神道が否定され、神祇院も廃止されます。ただ、GHQは、神社を破壊することはありませんでした。残った全国の神社の管轄は神社本庁に移ることになります。神社本庁は、国の組織と誤解されがちですが、完全な民間の宗教法人です。伊勢神宮を頂点として、主要な神社7万8千社を傘下に収めます。ただ、靖国神社、富岡八幡宮、鶴岡八幡宮、日光東照宮、伏見稲荷大社、出雲大神宮、金刀比羅宮等は、方向性の違いなどから神社本庁に参加していません。社格に関しては、明治期、律令制に倣った近代社格制度が作られましたが、神社本庁には社格に関する規定はありません。ただ、特別な取り扱いが必要とされる別表神社という規定があり、旧官国弊社を中心に350社余りが掲げられています。(写真出典:isejingu.or.jp)

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