2020年12月29日火曜日

ゆく年くる年

紅白歌合戦の映像がパッと消えると、しんしんと降る雪のなかに寺院が浮かび上がり、一呼吸おいて、ゴォ~ンと除夜の鐘が響く。私のなかのNHK「ゆく年くる年」のイメージです。その歴史は、前身のラジオ番組「除夜の鐘」から数えれば、百年になんなんとします。現タイトルでのTV放送は55年からで、平均視聴率は20%を越えています。歴代最高視聴率81.4%を記録した1963年の紅白歌合戦直後の放送は、57.4%を記録しています。やはり紅白歌合戦から続けて見るというのが定番なのでしょう。私は、もう何十年も紅白歌合戦を見ていませんが、習い性で「ゆく年くる年」だけは見ます。

除夜の鐘は、通常、108回突きます。108は煩悩の数であり、1回突くごとに、それを消し去っていくとされます。煩悩が108種類もあると聞けば、まったくうんざりしますが、実は五感プラス心の六根をベースに、そのヴァリエーションで構成されていました。つまり、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が、好・悪・平という3つの感情のあり方を生み、それぞれに浄・染という不浄か否かの区分が加わり、さらに個々に過去・現在・未来という時勢が存在します。これで、6×3×2×3=108となるわけです。ただ、これも一つの説に過ぎず、108の構成については諸説あるようです。

さらに、煩悩の数は108に限ったものでもないようですが、いずれの説も根本には三毒があるとされます。必要以上に求める「貪欲(とんよく)」、思い通りにならない怒り恨みの「瞋恚(しんに)」、妄想、混乱、鈍さを指す「愚痴(ぐち)」です。言われてみれば、確かに思い当たるものばかりです。さらに、それらの根本にあるのが「無明」だとされます。真理に対して無知である状態のことです。この世が無常、無我であること、つまり「空」を理解していないことから煩悩が生まれるというわけです。

深夜、遠くに近くに寺の鐘が聞こえ、港が近ければ、0時に一斉に鳴らされる霧笛も聞こえ、年が改まることを、しみじみと実感することができます。昨日が今日になるだけのことではありますが、何か厳かな気持ちになれます。そこは、厳粛さに漫然と浸るのではなく、煩悩に思いを致し、己が無明を恥じて、空を思うべきなのでしょう。ま、それができるくらいなら、高僧にでもなっていたのでしょうが、現実は、108でも足りないくらいの煩悩を抱えて悪戦苦闘する年々なわけです。

せめて「ゆく年くる年」で名山の梵鐘の音を聞きながら、清々しく新年を迎えたいものだと思います。これが欧米だと、カウントダウン、花火、シャンパン、蛍の光と、随分にぎやかな煩悩の世界になります。昔、スペインに旅行した際、コスタ・デル・ソルのトレモリーノスで年越しをしたことがあります。地元の人たちが大きな宴会場で年越パーティをしていました。随分賑やかなので覗きに行くと、入れ、入れ、と言われ、結果、参加させてもらいました。自分の歳の数だけぶどうを食べ、0時になると蛍の光合唱に続き、ジェンカのような大きな踊りの輪ができました。長老のような人の前に連れていかれ、ご挨拶すると、胸ポケットから大きな葉巻を出して、私にくれました。とてもおいしい上質な葉巻でした。(写真出典:fanblogs.jp)

2020年12月28日月曜日

梁盤秘抄 #11 Four & More

 アルバム名:Four & More (1964)  アーティスト名:マイルス・デイビス

私の神様であるマイルス・デイビスには、歴史的名盤が数多くあります。ジョン・コルトレーンはじめ第一期クインテットを率いハードバップを確立した「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」(1956)、モード奏法によるモダン・ジャズの夜明けとなった「カインド・オブ・ブルー」(1959)、フュージョンという新たなジャズを切り開いた大ヒット作「ビッチェズ・ブリュー」(1970)等は、単なる名演ではなく、ジャズの歴史を変えた名盤です。しかし、私が最も好きなアルバムは、1964年、リンカーン・センターのフィルハーモニック・ホールでライブ録音された「フォア&モア」です。

ゴールデン・クインテットと呼ばれた最強メンバーを従え、マイルスが気持ちよく吹きまくります。既にモダン・ジャズの帝王として君臨していたマイルスは、63年、若い才能をリズム・セクションに招集します。クラシック出身のロン・カーターは26歳、音楽的センスのかたまりハービー・ハンコックは23歳、そして天才中の天才トニー・ウィリアムスは弱冠17歳で招集されています。ハービー・ハンコックの場合、突然、電話がなり、出てみると、しゃがれ声が「明日の1時に俺の家に来い」とだけ言って切ったそうです。名乗りもしなければ、家の住所も言わなかったと言います。もちろん、ハービー・ハンコックは、それが誰からの電話か、すぐ分かります。なにせ帝王ですから。

60年代前半のマイルスは、ライブ・レコーディングが中心でした。「カインド・オブ・ブルー」で、マイルスが確立したモード奏法は、従来のコード進行からアドリブを解き放ちました。この時期、ライブ録音が多いのは、ある意味、当然だと思います。言ってみれば、檻から解き放たれた鳥が、自由に空を飛ぶことを満喫してわけですから。当時、リハーサルは、ほぼ行われなかったようです。まさに才能と才能のインタープレイです。ボクシングに例えるなら、モハメッド・アリが、モハメッド・アリを相手に、蝶のように舞い、蜂のように刺し合う戦いのようなものです。そういう意味では、若く才能豊かなリズム・セクションの存在無しに、マイルスの名演もなかったと言えるのでしょう。特にマイルスとトニー・ウィリアムスという二人の天才による化学反応は絶品であり、モダン・ジャズの醍醐味です。

一カ所に留まることを知らないマイルスは、60年代末から、8ビート、電気楽器を多用する、いわゆるエレクトリック・マイルスの時代に入り、また新たな次元を切り開きます。75年以降、マイルスの来日ライブには、全て行きました。NYにいた5年間は、毎年、リンカーン・センターのライブにも行きました。エレクトリック・マイルスも常に変化していました。ただ、音楽性は大きな変化を見せてきたものの、マイルスのトランペットは、常に変わっていないと思います。むしろ、マイルスは、自分の演奏スタイルをより活かすために音楽性を変えていったのではないか、とさえ思います。

帝王マイルスは、エピソードにも事欠かない人です。私の一番のお気に入りがあります。50年代後半、当時、ハリウッドの人気女優だったキム・ノヴァクが、マイルスの新車に寄りかかり、「マイルス、いい車じゃない」と言ったそうです。マイルスは「俺の車から離れろ。車が汚れる」と言ってのけます。マイルスの自意識の高さを雄弁に語るエピソードです。(写真出典:amazon.co.jp)

2020年12月27日日曜日

シャングリ・ラ

 シャングリ・ラは、ジェームス・ヒルトンの「失われた地平線」(1933)に登場する理想郷です。崑崙山脈あたりの谷間に建つ僧院の名前として登場します。ヒルトンは、「チップス先生さようなら」等でも知られる小説家ですが、「ミニヴァー夫人」(1942)でアカデミー脚本賞も獲っています。「失われた地平線」はペーパーバックで出版され、ベストセラーになります。製紙と印刷機械の技術革新により、19世紀に登場したペーパーバックは、 1930年代に至り、一般化します。「失われた地平線」のヒットが果たした役割も大きいわけです。かつて本を読める、本を買えるのは、一部の階級だけだったわけですが、産業革命は、本や新聞の大衆化をもたらしたわけです。

19~20世紀初めは、秘境探検ブームの時代でもありました。背景には、産業革命による植民地獲得競争、交通手段の拡充等があります。また、大衆の目を海外に向けるということに関しては、出版の影響も大きかったはずです。1888年には、ナショナル・ジオグラフィック誌も発刊され、探検小説や冒険小説も人気を博します。ジェームス・ヒルトンも、ナショナル・ジオグラフィック誌の記事に触発されて「失われた地平線」を書いたとされます。ちなみに、この時代の秘境探検ブームの姿をよく伝えるのがインディアナ・ジョーンズ・シリーズだと思います。

シャングリラ県松賛林寺
シャングリ・ラは、理想郷を表す一般名詞となっていますが、固有名詞として、一番有名なのは、シャングリ・ラ・ホテルでしょう。1971年、シンガポールに開業。今やペニンシュラ、マンダリン・オリエンタルと並ぶアジア三大ホテルの一つとして、アジアを中心に世界中でホテルを展開しています。もう一つの固有名詞は、2002年に中国雲南省に誕生したシャングリラ(香格里拉)県とシャングリラ市です。崑崙山脈とは、まったくの方向違い。何のゆかりもありません。まったく信じがたい改称です。それを許可した中国政府にも驚きです。まるで、東京が、ゴッサム・シティと改称するようなものです。

シャングリ・ラは、理想郷と言われますが、桃源郷とは異なります。また、理想郷や桃源郷は、ユートピアとも異なります。桃源郷は、陶淵明の「桃花源記」(4~5世紀) が出処とされます。武陵の漁師が桃の林に迷い込み、奥の洞窟を抜けると、戦乱を避け隠れ住んだ人々が、数百年にわたって平和な生活を営んでいた、と書かれています。桃源郷は、より詩的な存在であり、より個人的な観念世界だと思います。理想郷は、限られた集団を前提にSF的な理想を求めています。ユートピアは、理想的な社会を、包括的、かつ社会科学的アプローチで設計します。ただ、管理という側面は不可避で、皮肉なことにそれがディストピアにつながります。

桃源郷も、シャングリ・ラも、ユートピアも、いつまでも人気が衰えることはなく、陶淵明、ジェームス・ヒルトン、トマス・モアの後に続く者たちも絶えることがありません。その最大の理由にして、三つの共通点でもあるのが、それがこの世には絶対存在しない、ということです。(写真出典:treking1179.seesaa.net)

2020年12月26日土曜日

悪い男

 「罪なき者、石もて打て」は、ヨハネによる福音書に出てくる話だそうです。学者たちが、姦淫の現場で捉えられた女を、イエスのもとに連れてきます。モーゼは律法のなかで、こういう女を石で打ち殺せ、と言っているが、あなたならどうするか、と問います。学者たちは、赦しを説くイエスがモーゼの律法に反するか否か、を試しにきたわけです。イエスは「汝らのなかで罪なき者が、石もて打て」と答えます。学者たちは退散し、イエスは女を赦します。

キリスト教徒の多い韓国ですが、しばしば罪ある者を「全国民、石もて打て」状態になります。李朝が国を治める際に活用した儒教の極端な影響の一つなのでしょう。韓国映画界ではじめて、ヴェネチア・カンヌ・ベルリン三大映画祭全てで受賞した鬼才キム・ギドクが、ラトヴィアで新型コロナのために客死しました。実に惜しい人を亡くしたと思いますが、韓国では、その死を追悼すらできないと聞きました。キム・ギドクは、2017年に女優への暴力で、2018年には女優へのセクハラ問題で敗訴し、韓国映画界から追放状態にありました。彼の映画のタイトルではありませんが「悪い男」に認定されたわけです。

キム・ギドクは、1960年に生まれ、貧しく暴力的な父親に育てられます。無認可の農業学校中退後、様々な工場で働き、海兵隊に入隊、5年間を過ごします。その後、フランスへ美術留学し、そこで映画に目覚めます。帰国後、脚本家として活動を開始し、1996年には初監督作品「鰐」を発表し、注目を浴びます。絵に描いたようなアウトサイダーだったわけですが、韓国社会の底辺で生きる人々を代表していたとも言えます。その後、話題作を次々発表し、海外での評価も高まります。ただ、その作風から大手製作会社からの出資は望めず、常に低予算での映画製作を余儀なくされます。

そのなかでも、2001年の「悪い男」がヒットし、2003年の「春夏秋冬そして春」は韓国の大鐘賞と青龍賞を受賞、米国でも高く評価されます。「サマリア」(2004)でベルリン銀熊賞、「うつせみ」(2004)がヴェネチアで銀獅子賞、ドキュメンタリー「アリラン」(2011)はカンヌである視点部門作品賞、そして「嘆きのピエタ」(2012)でヴェネツィアの金獅子賞を獲得と、まさに世界の映画祭を席捲しました。キム・ギドクの映画は、優れて観念的であり、寓話として表現されます。それが図式的に振れたり、ドラマ的に振れたりします。後者の代表が「悪い男」や「嘆きのピエタ」だと思います。

キム・ギドクが描く、人間の絶望的なまでに深い執着や欲望、底辺に暮らす人々から見た韓国社会のひずみは、彼のコンプレックスの強さを反映しているのでしょう。ひょっとすると、韓国の人たちは、あまりにも直截に韓国と韓国人を描く彼の映画を直視できなかったのではないでしょうか。韓国社会が、不世出の鬼才を追悼できない理由は、彼の暴力やセクハラ事件だけではないのかも知れません。ただ、わずかながら、あるいはかなり変わった形で、救いの兆し、あるいは赦しを入れるのも、キム・ギドクの作風だったようにと思います。(写真出典:cinematody.jp)

2020年12月25日金曜日

ビーフン東

 今年一年間で、一番多く食べたランチは何だったのか、考えてみました。神保町の揚子江飯店の上海焼きそば、新橋のビーフン東の焼きビーフンとバーツアン、そして渋谷の澤乃井の釜揚げうどん、恐らくこの3つに絞られると思います。澤乃井は、宮崎名物の釜揚げうどんが食べられる貴重な店でしたが、コロナに勝てず、この12月14日をもって閉店となりました。他にも宮崎の釜揚げうどんの店はありますが、宮益坂という立地の良さもあり、よく行く映画館の近くでもあったので、実に重宝しました。

ビーフン東は、新橋駅前ビル2階にあります。皇族や池波正太郎にも愛された名店。もともと石川県で日本料理店を営み、台湾が日本に割譲されると、台湾へ進出、海軍御用達の料亭として繁盛します。マニラにも支店があったそうです。戦後、日本に引き揚げ、大阪は天満橋で「台湾料理 東」を開き、ほぼ同時に、新橋に「ビーフン東」を開店しました。大阪の店は、現在、昼のみ「ビーフン東」として営業しているようです。新橋店では、夜、台湾料理を出しますが、昼のメニューはビーフンとバーツアン(中華ちまき)のみです。

ビーフンを知らない人はいないでしょう。ケンミン焼ビーフンも、よく知られています。ただ、さほど食べる機会はありません。ケンミンは、神戸に本社を置くビーフン専門会社です。味付きのケンミン焼ビーフンは、1960年に発売され、関西では、CM効果もあり、結構メジャーな食べ物のようです。ちなみにケンミンとは、どこの県民かと思っていましたが、台湾出身の創業者高村健民にちなむとのこと。恐らくケンミンは、ビーフンを関西人が好む味と食感に調整したのでしょう。それが、日本のビーフンのスタンダードになったと思われます。

ビーフン東のビーフンは、まったく異なる固めの触感と独特な風味を感じさせます。ビーフン東のビーフンを食べた人は、おしなべて「初めてビーフンの美味しさを知った」と言います。私もそうでした。使うビーフンは、台湾の有名な新竹米粉なのだろうと思っていました。ところが、厨房にケンミンと書かれた段ボールを見つけました。業務用かも知れませんが、いずれにしてもケンミン焼ビーフンとは全く異なります。ということは戻し方や炒め方でうまさを引き出しているということになります。食べるときには、にんにく醤油をかけて食べます。これが、台湾らしくあっさりした味で風味を増してくれます。バーツアンもそうですが、日本に媚びずに、台湾の味をしっかり守っているように思えます。

新橋駅の東側は、闇市時代から続く狸小路という飲み屋街でした。明治初期、鉄道建設のおり、子狸三匹が見つかり、作業員が小屋を建ててあげたことから名前がついたそうです。1966年に再開発され、新橋駅前ビルが建ちました。今もビルの正面玄関には狸が鎮座し、地下の飲食店街は、当時の風情を残します。ビーフン東と同様、昭和の歴史を背負っています。残念ながら、2022年に解体、再開発が決まっています。昭和が、また一つ消えるわけです。(写真出典:ehills.co.jp)

2020年12月24日木曜日

邯鄲の夢

勧進能は、寺院建立や改築のための資金を集めるために行う能楽の公演です。華々しく開催されていたようです。江戸期に入ると、幕府の許可のもと、能楽一座の収益のために開催されるようになります。観世家は、一代一度限り勧進能を行う特権を得ていました。将軍が後押しする一世一代能は、数日間行われ、江戸庶民には入場券の割り当てまであったようです。寛延3年(1750)、神田筋違橋外で、観世元章が15日間に渡って公演した勧進能は、その規模も含め、特に有名だと聞きます。その際の演目の一つが「邯鄲」であり、今回、国立能楽堂の寛延勧進能特集として、シテ観世銕之丞で見ることができました。

「邯鄲」は、唐代の「枕中記」という小説に出てくる実によく知られた話です。邯鄲の枕、邯鄲の夢、一炊の夢等、様々に呼ばれるほどポピュラーな話です。人生に不満をいだく農夫盧生は、趙の都の邯鄲で、仙人に出会います。仙人は、夢が叶うという枕を与えます。すると、紆余曲折はあるものの、盧生は大出世を遂げ、家族にも恵まれ、惜しまれつつ亡くなります。そこで盧生は目が覚めます。居眠りする前に火にかけた粟粥が、まだ炊き上がってもいない短い間に見た夢でした。盧生は、栄枯盛衰の虚しさを知り、煩悩から解き放たれます。

能楽「邯鄲」は、勧進能で上演されたくらい、昔から人気の演目だったわけです。「邯鄲」は、原典の枕中記とは異なる点もありますが、基本的なプロットは同じです。分かりやすいのですが、話としては単純すぎる面もあり、演劇には向かないように思っていました。ですから、人気演目だということが理解できませんでした。今回、初めて見て、その魅力に納得しました。現実と夢の二重構造あるいはその落差、夢の中の宮廷の華やかさ、作り物(舞台装置)の二重の見せ方、盧生のさとりのあり様、テンポの緩急など演劇的な見せ場の多い演目でした。奥深さもありますが、能楽の魅力を分かりやすく伝える演目だと思います。

「邯鄲の夢」は、人生の儚さ、無常観を伝える話と理解されます。日本人の心情によく合う話ではありますが、これほどまでに人気が高いのは、より俗っぽい下世話な構図もあるからではないかと思います。俗世の栄達など一炊の夢に過ぎない、と言われても、より現実的には、一瞬であっても出世したい、と考える人も多いはず。恐らく、出世などすることもない多くの人々が、出世など一炊の夢だよ、と自らを納得させている面もあるのではないでしょうか。実に華やかな演出を見ていると、そうした大衆の共感を訴求しているようにも見えてきます。

能楽「邯鄲」の盧生は、もともと楚の羊飛山の賢者のもとを目指していました。途中の邯鄲で悟り、故郷へ帰ります。不思議な枕の力を借りたとしても、見た夢は、自らの欲望そのものであり、それが儚いものだったわけです。つまり、わざわざ賢者の訓えを請わなくても、自らの欲望と向き合うことで悟ることができる、と言っているようにも思えます。(写真出典:tomoeda-kai.com)

2020年12月23日水曜日

しゃべくり漫才

マヂカルラブリー
2020年M-1グランプリ優勝は”マヂカルラブリー”でした。決勝ネタの”つり革”には、大笑いしました。間違いなく、一番ウケていたと思います。ただ、この優勝が議論を呼んでいます。終始、身振り手振りで笑いをとるスタイルは、漫才とは呼べないという声があります。正直、私も大笑いはしましたが、マヂカルラブリーの優勝には違和感を覚えました。総じて、レベルの低かった今回のM-1にあって、決勝3組のなかでは、”見取り図”が腕の良さを感じさせました。”おいでやすこが”は、伝統的な漫才のパロディといった印象です。寄席では色物とされる漫才ですが、決勝に残った見取り図以外の2組は、漫才のなかの色物と言ってもいいようなものだったと思います。それが漫才の現状なのかも知れません。

マヂカルラブリー優勝を巡る議論は、彼らの問題ではありません。M-1グランプリの不明瞭な定義に起因します。多くの人が、漫才とは伝統的な「しゃべくり漫才」のことだと認識していると思われます。マヂカルは、しゃべくり漫才ではありません。一番ウケた組が優勝というなら、ジャンルを問わず、また審査員も不要です。番組のコンセプトがあいまいであることが混乱を招いているとも言えます。そもそも漫才の定義もあいまいで、また定義する必要があるのか、という意見もあるでしょう。

漫才の起源は、奈良時代、新年のめでたい門付芸であった「踏歌」だと言われます。雅楽の長寿を寿ぐ”千秋楽”と”萬歳楽”という曲にちなんで「千秋萬歳」と呼ばれるようになります。それが、大和萬歳、尾張萬歳、三河萬歳等、各地へ広がり、個人宅への門付としては昭和初期まで残っていたようです。江戸中期には、上方で二人組の掛け合いによる萬歳が小屋掛けで演じられるようになります。一端、廃れた萬歳は、幕末から三河萬歳等の影響を受けた「三曲萬歳」として復活します。明治末期には、玉子屋円辰が、音曲の合間に滑稽なしゃべりを入れるスタイルで人気を博し、従来の萬歳と差別化するために「万才」と称します。

1930年、吉本興業から横山エンタツ・花菱アチャコが登場します。背広を着て、音曲無しでしゃべりだけを演じるスタイルが大人気となり、現代に続く「しゃべくり漫才」が誕生しました。ちなみに、「漫才」という表記も、従来の万才との違いを強調すべく吉本が打ち出したものでした。ラジオ放送が普及した時代でもあり、しゃべくり漫才はうってつけのコンテンツでもありました。最近人気のある漫才師であっても、そのはネタは音だけで楽しめますし、話芸としては、昭和の名人たちに通じるものがあることがよく分かります。

大阪弁の研究者として有名な前田勇は、漫才を四種類と定義しています。しゃべくり漫才、音曲漫才、踊り漫才、しぐさ漫才です。しぐさ漫才はコントにつながり、しゃべくりもコントの影響を受け、今の主流とも言えるコント漫才が生まれます。TV時代の反映なのでしょう。シチュエーション型漫才を巧みに使い、コント漫才への扉を開けたのはダウンタウンだったと思います。実に才能あふれる漫才師にして、新たな笑いの世界を切り開いたダウンタウンですが、以降、話芸としてのしゃべくり漫才は過去のものになっていったように思えます。コント漫才の極限のようなマヂカルラブリーのM-1優勝は、その象徴なのでしょう。もっとも、演芸の移り変わりは自然なことではありますが。(写真出典:crank-in.net)

2020年12月22日火曜日

屯田兵

屯田兵の住居
私の母方の祖母は、室蘭輪西兵村の屯田兵の娘でした。祖母の父は、佐賀鍋島藩の下級武士の家に生まれ、明治中期、屯田兵に志願して北海道に渡りました。この頃までの屯田兵は、士族出身者に限定されていました。屯田兵総計7.337名の出身地を多い順に見ると、石川、山形、宮城、鳥取、福岡に続き佐賀は第6位となっています。佐賀県が多い背景には、初代北海道開拓使が佐賀藩主の鍋島直正であり、”北海道開拓の父”と呼ばれる島義勇が佐賀藩士であったことが関係しているのかもしれません。

屯田兵制度は、北海道開拓と北方警護を目的に、明治政府が1874年から1904年まで運用した兵農制度です。屯田兵には、困窮した士族救済というねらいもありました。兵農分離を行ったのは江戸幕府ですから、そもそも戦国時代までの日本の武士は兵農が基本でした。屯田兵を提唱したのは西郷隆盛とされます。北海道は人口が少なく、徴兵が困難であったことから発想したとされますが、困窮士族救済も念頭にあったのでしょう。ただ、実現する前に西郷が野に下ったため、黒田清隆が引き継ぎ、実現しています。

皮肉なことに、西郷の西南の役に際し、屯田兵は、北海道から熊本へ派兵され、大活躍しています。当時の屯田兵は、奥州各藩出身者が多く、戊辰戦争の仇とばかりに奮戦したようです。屯田兵は、農民に銃を持たせるのではなく、兵に鍬を持たせるものでした。あくまでも軍組織であり、開墾も組織的に行われてます。強制労働なみの厳しい労務、粗末な住居とはいえ、他の開拓民よりは恵まれていたようです。当初の制度は、3年間現役兵、その後は予備役となり、農業を主とし、戦時と演習時に招集されます。平民屯田兵も受け入れた後期では、3年現役、4年予備役、後備役13年となりました。

屯田兵は、西南の役以降も、日清、日露戦争でも出兵しています。ただし、日清戦争時には、東京に集結して待機中に講和条約が結ばれ、戦場にでることはありませんでした。日清戦争後、屯田兵を母体に第七師団が旭川に編成されています。日露戦争が勃発すると、第七師団は、乃木希典の第三軍に編入され、旅順攻囲戦、奉天会戦に参戦しています。その後、第七師団は、満州、南太平洋、アリューシャン列島で戦いますが、1940年以降は、北海道から動かず、ソヴィエトへの備えに徹しています。北海道は植民政策によって、人口が増え、十分な徴兵が可能と判断した政府は、1904年、屯田兵制度を廃止しました。

屯田兵本部長だった永山武四郎は、ロシアでコサック兵団を調査し、平民も含めた後期屯田兵制度の参考にしています。そもそも屯田兵設立の際も、黒田清輝が、コサックを参考にしたという話もあります。コサックは、ドン川流域の半農半軍の独立性の高い民であり、ロシアに敗れた後、一部は屯田兵として、シベリアに送り込まれています。実は、日露戦争のおり、朝鮮北部において、屯田兵は、その本家コサック騎兵と戦っています。激戦の末、コサックが敗走したとされています。(写真出典:suido-ishizue.jp)

2020年12月21日月曜日

カサノヴァの脱獄

ヴェネチア共和国の政庁であり、ドージェ(総督)の公邸でもあったドゥカーレ宮殿の裏側を見学するシークレット・ツアーに参加したことがあります。執務室や資料室もありますが、牢獄や拷問室、あるいは宮殿と新しい牢獄を結ぶ”ため息の橋”等が見所です。ツアーのハイライトは、ジャコモ・カサノヴァが投獄され、そして脱獄した”ピオンビ” と呼ばれる鉛天井の牢獄です。宮殿の最上階にあり、上は鉛張の屋根という、最も堅牢な牢獄だったそうです。ここを脱獄したのは、後にも先にもカサノヴァただ一人と言われます。

カサノヴァは、1755年、妖術を使った罪で投獄されます。娘を誘惑された貴族が、カサノヴァに激怒して訴え、捕縛されていますが、実は冤罪であったことが記録に残っているそうです。5年間を牢獄で過ごした後、カサノヴァは、隣室の司祭と結託し、天井に穴を開けて脱獄します。実際に見た印象からすれば、削れる天井ではなく、しかも看守に気づかれずに長期間削ることも難しいと思いました。また、屋根裏を使って宮殿内に入り逃走したとされますが、看守を欺き、各部屋の鍵を開けさせた下りも、あまりにもラッキーに過ぎます。脱獄の顛末は、カサノヴァ自身が執筆し、出版していますが、どうも眉唾っぽい印象です。

共和国政府が、カサノヴァをスパイに仕立てるために、冤罪を承知のうえで投獄し、スパイになることを条件に脱獄させたという説があります。本人に承諾させるために5年を要したということになりますが、やや長すぎる気はします。ただ、カサノヴァが各国の機密情報をヴェネチア政府に送った書面も残っており、スパイ説は信憑性が高いと思われます。文学、哲学、政治等幅広い分野で認められた著名人として各国宮廷に入りやすく、稀代の色男として閨房から各国の機密情報にアクセスしやすく、かつヴェネチア政府から”追われる”男という設定は、スパイとしては、史上稀にみるほど適任で、かつ理想的な偽装だったのでしょう。

カサノヴァが生きた時代、欧州では、重商主義をとる絶対王権国家の三角貿易や植民地争奪がピークにありました。一方、足元では、産業革命が進行しつつあり、フランス革命はすぐそこという時代の変わり目でもありました。大航海時代到来とともに、東方貿易のメイン・ルートは、地中海からアフリカ西岸へと移り、海の女王と呼ばれたヴェネチアは没落しつつありました。商業は情報の勝負とも言え、ヴェネチアはそれに長けていました。生き残りを模索するヴェネチアは、ありとあらゆる手段を用いて情報収集する必要があったのでしょう。

カサノヴァは、実に多くの分野で才能を発揮します。才気煥発な人物であり、IQは極めて高かったと想像できます。ただ、魚色家としての名声の方が、圧倒的に高い人です。生涯で千人以上の女性と関係を持ったとされますが、本人は「私は女性のために生まれてきた」と書き残しています。カサノヴァは、常に女性の快楽を優先したと言います。それは、当時としては極めて稀なことであり、それがために「世界一モテた男」が誕生したのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2020年12月20日日曜日

援助依存

数年前、アンコールワットを見たくてシェムリアップに行きました。いつも海外旅行は個人旅行で行くのですが、食事、治安、効率等を勘案し、ツアーに参加しました。結果、大正解だったと思います。現地ガイドの女性は、プノンペンで日本語を勉強し、ガイドになったという方でした。明るく元気なガイドでしたが、ポル・ポト時代を語るときには涙し、フン・セン体制を強く批判していました。近隣諸国が経済発展を続けるなか、広大な平野部を持つカンボジアがなぜ遅れているのか。問題は地雷だけは説明できません。彼女と話すことで、多少ですが、カンボジアを理解できたように思えました。

プレアヴィヒアからの眺望
北部のプレアヴィヒア遺跡へ向かう際、荒れた灌木地帯が続きました。ガイドに聞けば、それが畑でした。これほど未整備な耕作地は見たことがありません。粗末な家には電気もなく、子供たちは、皆、裸足でした。誰かが、日本で不要になった運動靴を集めて送ったらいい、と言いました。すかさずガイドが「皆さん、そうおっしゃいます。だいぶ前、実際に沢山の運動靴を送ってくれた人たちがいました。子供たちに配ってみると、7割がいらないと言うのです。靴が壊れても、次の靴を買えない。靴に慣れたら裸足の生活には戻れない、と言うのです。」と語っていました。援助なるものの難しさを端的に伝える話だと思いました。

カトリック吉祥寺教会の後藤文雄司祭のインタビューをTVで見ました。後藤司祭は、カンボジアの子供たちの里親として14人を育て、20年をかけて、カンボジアに19の学校を建てた人です。司祭は、最初に建てた学校の開校式典で「教育は未来である。校舎は建てたが、それをどう運営するかは皆さんの問題だ。」と語ります。印象に残る言葉です。ところが、数年前、断腸の思いを持って、学校建設の支援に終止符を打ちました。「依存という問題が生じるのです。ここからは、彼らの独立を見守る必要があると考えました。」と語っていました。

戦火や貧困で苦しむ子供たちを援助することは必要なことだと思います。一方、援助では、紛争の解決も、貧困の解消も実現できません。最も恐ろしいことは、援助に依存することで、自主独立への強い思いが失われることです。カンボジアでは、強引に政権を奪取したフン・センによる強権政治が、既に20年以上続いています。2017年の選挙では、野党に対し、党首逮捕、解散命令等、露骨な選挙妨害も行っています。政権奪取時から、世界的批判を集めるフン・センを支えてきたのは中国でした。中国の援助は、一帯一路で加速し、プノンペンは、中国の地方都市と見まごうばかりと聞きます。

かつてクメールは、インドシナ半島最強を誇り、ほぼ全域を支配していました。クメール王国は、12世紀に最盛期を迎えますが、以降、衰退がはじまり、現在に至るまで、他国に翻弄される歴史を繰り返しています。多くの巨大寺院建設、王の後継者争い、宗教的混乱等によって衰退し、ヴェトナムのチャンパ王国はじめ、南下してきたタイ族やラオ族に侵略されてきました。近世以降は、フランスの保護国となり、独立後はヴェトナム戦争に巻き込まれ、その後は内戦が続きました。平野の広がるカンボジアは、本来、豊かな国であるはずです。カンボジアに必要なことは、中国の援助ではなく、国民がひとつになって自主的に再生を図ることだと思います。(写真出典:veltra.com)

2020年12月19日土曜日

垂直都市

 長崎の軍艦島、かつて香港に存在した九龍城砦、まったく性格を異にする人口密集地ですが、何故か人を惹きつけるものがあります。炭鉱掘削拠点として建造された軍艦島に対して、九龍城砦は無法化したスラム街です。構造的には、両者とも狭い土地に密集したビル群に都市機能が凝縮された、いわば垂直的に発展した都市です。垂直的に展開した住宅ならば、NYでもパリでも香港でも、多く存在します。しかし、都市としての機能のすべてが垂直的に存在する街は、あまり例がありません。

長崎市の端島、通称軍艦島は、海底炭鉱の拠点であり、炭鉱労働者の住居でした。江戸末期から採炭されていたようですが、明治中期、三菱が採掘権を獲得すると、本格的な炭鉱開発が行われ、瀬や岩礁を埋め立て、周囲を護岸で囲い、現在の軍艦島の姿になります。出炭量の増加とともに、鉱員も増加し、日本初の鉄筋コンクリート製集合住宅が作られます。最盛期の1960年、人口は約5,300人、人口密度は東京23区の9倍に達し、世界一と言われました。所狭しと立ち並ぶビル群には、住宅、学校、商店、映画館、喫茶店等があり、生活のほぼすべてが島で完結するほどの都市化が進みます。また、当時、三種の神器と呼ばれたテレビ・洗濯機・冷蔵庫が各家庭にあるほど生活水準は高かったそうです。

九龍城砦は、香港島と九龍半島が英国に租借された後も、中国領土として残った200m×150mの狭い土地です。事実上、どこの国の管理も及ばない無法地帯と化した九龍城砦には、国共内戦以降、本土からの難民が流入し続けます。1990年の人口は約5万人、細いビルが隙間なく乱立し、ありとあらゆる違法行為が行われていました。違法な食品工場や化学工場までありました。三合会と呼ばれる暴力団の巣窟でもあり、一度入ったら、二度と出てこれないとまで言われました。香港政庁は、幾度か排除に乗り出しますが、中国からの妨害、住民による抵抗により失敗します。かつては、カイタック(啓徳)空港への着陸時、その異様な姿を空から間近に見ることができました。

エネルギーの石油化が進んだ1974年、端島炭鉱は閉山となります。その後は、無人島となり、廃墟化が進みます。軍艦島への上陸は、許可を受けたツアーに参加するしかありません。上陸しても、歩ける範囲は狭く、むしろ海から見る島の姿の方がツアーのハイライトです。2015年には、明治の産業遺構の一部として世界文化遺産に指定されました。九龍城砦は、皮肉なことに、香港の中国返還が決まってから、取り壊されています。中国政府としては、かつて支援した悪の巣窟を、英国に片付けさせたというわけです。1995年、跡地は公園として整備されました。

軍艦島も、九龍城砦も、どこかSF的で、あるいはディストピア的なところが、人々の興味を強く刺激するのでしょう。ユートピアとディストピアは、表裏一体というよりも、同じものであり、見方によって、いずれにでもなるという傾向があります。管理されたユートピアに見えるのが軍艦島、自由なディストピアに見えるのが九龍城砦といったところでしょうか。(軍艦島 出典:nagasaki.np.co.jp   九龍城砦 出典: businessinsider.jp)

2020年12月18日金曜日

祈りと沈黙

宗教によって、出家信者の有無に違いがあることは、興味深い点だと思います。仏教やヒンドゥー教には出家信者が存在し、キリスト教では東方教会やカソリックには存在しても、プロテスタント系にはほぼ存在しません。ユダヤ教にも出家信者は存在していたようです。イスラム教では出家信者は認められていません。出家信者が共同生活を送る僧院は、仏教やキリスト教には存在しますが、他はあまり知られていません。キリスト教の僧院は、修道院として知られます。

最も戒律が厳しい修道院の一つと言われるのが、フレンチ・アルプスの山中に位置するグランド・シャルトルーズ修道院。フィリップ・グレーニング監督「大いなる沈黙へ」(2004)は、グランド・シャルトルーズ修道院を、半年間にわたって一人で撮影した伝説的ドキュメンタリー映画です。撮影を申し込んでから。16年間待たされたうえで、多くの制約を条件に撮影が許可されたと言います。上映時間160分、ナレーション無し、インタビュー無し、照明無し、BGM無し、社会と隔絶された祈りと沈黙の館のドキュメンタリーは、気絶することなく観ること自体も、まるで修行のようでした。

グランド・シャルトルーズ修道院は、1084年、カルトジオ会創設者である聖ブルーノと6人の弟子によって開かれたとされます。外界と遮断され、ほぼ自給自足の祈りの生活が営まれています。修道士は、独居室で祈り、学び、食べ、眠ります。一日のうち9時間が祈り、7時間が労働、8時間が休息という毎日。一週間に一度、数時間だけ、散歩や会話が許されますが、基本的には沈黙と労働の日々です。グランド・シャルトルーズ修道院は、その名を冠したリキュールでも有名です。130種類の薬草を独自に配合したリキュールを製造販売し、現金収入を得ています。

修道院は、3~4世紀頃、エジプトあたりで世俗を離れ、一人で苦行する修道士が現れたことから始まるとされます。修道士を表すMonkの語源は、ラテン語の一人孤独に暮すことだと言います。共同生活が始まっても、独居室が基本である理由なのでしょう。6世紀には、ベネディクト派創始者ベネディクトゥスが、モンテ・カッシーノ修道院を開き、これが西欧における修道院の始まりであり、修道院制の基礎になりました。第二次大戦の激戦地ともなったイタリア中部のモンテ・カッシーノ修道院は、孤立した急斜面の山の頂に立つ別世界です。アルプスに深く抱かれたグランド・シャルトルーズと対を成すようにも思われます。

なぜ人は修道院を目指すのでしょうか。心の平穏を得たいから、魂を洗い清めたいから、そんな程度の動機では、とても勤まるものではないと思います。「一切を退け私に従わない者は弟子にはなれぬ」という言葉が、何度か映し出されます。一切のなかに、自らの命も含まれると考えるべきなのでしょう。本作中、一カ所だけ、修道士が自らの声で話しています。盲目の年老いた修道士は「死は幸せだ。神に近づけるのだから」と語ります。修道院とは、死も生も超越した、神の領域に最も近い場所なのかもしれません。(写真出典:gendai.ismedia.jp)

2020年12月17日木曜日

杜氏

日本酒は、本当に美味しくなったと思います。すべての銘柄を飲んだわけではありませんが、全国、どこで飲んでも美味しくなったと思います。47都道府県の日本酒を揃えてある神楽坂の店で、何度か分けてではありますが、一応全県制覇しました。結果、鹿児島と沖縄を例外として、すべて一定レベル以上でした。南の両県は、芋焼酎と泡盛の国ですから、やむなしでしょう。かつて、日本酒は、ベタ甘かったり、ひどい二日酔いになったりという印象がありましたが、今は、まったく異なる高いレベルにあると思います。

酒類全体の出荷量は、1999年をピークに、最近では1割程度減っています。若い人たちの酒離れが主因と言われます。日本酒に限って見れば、1973年の出荷量が最高でしたが、近年は1/3にまで落ち込んでいます。確かに、酒類は多様化が進み、日本酒は、ビール、ワイン、焼酎に押される一方でした。日本酒業界にとっては、実に不幸な歴史ですが、皮肉なことに、それが日本酒のレベルを上げたとも言えるのではないでしょうか。厳しい言い方をすれば、酒と言えば日本酒だった時代、地元の需要にあぐらをかいていた商売が、競争の時代を迎えたもと言えます。

かつての日本酒は、生産量が重視され、混ぜ物が多く、それが悪酔いの原因でもありました。全体の出荷量が減り、淘汰される時代になったことで、品質管理も高度化されました。品質とともに、追及されたのが味でした。山形の十四代、福島の飛露喜といった地酒の人気が高まり、なかなか入手できない状態になったことも、味の競争に拍車をかけました。中小の蔵元だからこそ、杜氏の腕が活かされ、かつ問われる時代になったわけです。背景としては、情報と流通が進化したことも無視できないと思います。

酒造りには、多くの専門職が関与しますが、杜氏は、その統括責任者です。かつては、農閑期に、農家の出稼ぎとして行われてきました。越後杜氏、南部杜氏、丹波杜氏等々、各地の杜氏が伝統の技を継いできました。近年は、杜氏の常勤社員化が進んでいるようです。皮肉なことに、社員化したことで後継者問題や技術の伝承が難しくなりつつあるようです。そこで各蔵元は、勘に頼らない数値管理手法等を試みているようです。その最先端が、杜氏を使わない山口の獺祭ということになります。獺祭は人気ですが、杜氏が関与しない酒は、いささか気持ちが悪いところがあります。

杜氏は、常温で酒のうま味や個性が際立つように仕込むものだと聞いたことがあります。ですから、飲み方としては、常温、ないしは、味はそのままに香りを発たせる”ぬる燗”がベストということになります。新潟のなかなか良い店で、日本酒通の方とご一緒した際、ぬる燗が熱すぎる、こんなもの飲めるか、と突っ返す場面がありました。私は、ほど良いぬる燗に思えたのですが、通は違うものだと感心しました。(本利き猪口 写真出典:rakuten.co.jp)

2020年12月16日水曜日

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ

「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」は、1974年に発表されたジョン・ル・カレの代表作です。ル・カレの作品は全て読んでいますが、最も熱中したのが、本作に始まるスマイリー三部作です。シリーズは、本作以降、「スクールボーイ閣下」(1977)、「スマイリーと仲間たち」(1979)と続きます。これに処女作「死者にかかってきた電話」(1961)と「高貴なる殺人」(1962)を加え、スマイリー五部作と呼ぶこともあるようです。イアン・フレミングのジェームズ・ボンドが、荒唐無稽系スパイもののキングであるように、さえない中年のイギリス情報部員ジョージ・スマイリーは、シリアス系エスピオナージュ界のまごうことなきキングです。

この風変りなタイトルは、マザー・グースに収録された子供たちの遊び唄「Tinker Tailor Soldier  Sailor 」からつけられ、作中、コードネームとして使われています。歌は、Rich Man Poor Man Beggar Man Thief と続きます。一種の占い唄のようなものだそうですが、なかなか意味深なタイトルでもあります。ル・カレの小説は、緻密に構成されたプロットもさることながら、丁寧な人物描写が特徴であり、エスピオナージュの世界を変えた、あるいは文学の領域にまで高めたとも言われます。憂鬱で皮肉な業界における愛や友情が、抑えた表現のなかから浮かびあがります。極めて上質なエンターテイメントであり、ル・カレを読んでいる時間は、実に幸せな時間です。

ジョン・ル・カレは、オックスフォード大卒業後、イートン校で教鞭をとり、その後、国内情報機関のMI5、そして国際情報機関MI6に勤務します。時は、まさに東西冷戦が危機的状況にまで進み、スパイたちが暗躍した時代です。ル・カレは、1961年、29歳のおり、「死者にかかってきた電話」でデビューします。そして、63年に発表した3作目「寒い国から帰ってきたスパイ」が高い評価を得て、映画化もされます。非情な政治の世界に翻弄される個人という構図、複雑に構成されるプロット、精緻な人物描写といったル・カレ作品の特徴が出そろっていました。その後、「鏡の国の戦争」、「ドイツの小さな町」が出版され、スマイリー三部作へと続きます。

三部作の後も質の高い作品が続きますが、85年、ソ連のゴルバチョフがペレストロイカを打ち出し、89年、ベルリンの壁が崩壊すると、エスピオナージュの世界は、リアリティを失っていきます。情報ビジネスの舞台は、東西冷戦から、イスラム系のテロ、あるいは南米の麻薬へと移っていきます。ル・カレの作品は、既に「リトル・ドラマー・ガール」(1983)から、多様な舞台や表現へと展開し、冷戦は回想的に扱われます。最もヒットしたのは、映画でも成功した「ナイロビの蜂」なのでしょう。ル・カレの作品は、多く映画化されていますが、ほとんどが原作の持つ味わいを再現できていません。数少ない成功例が、「ナイロビの蜂」、ティンカー、テイラー…を原作とする「裏切りのサーカス」、「誰よりも狙われた男」あたりではないでしょうか。

ル・カレの作品は、冒頭から独特の憂鬱な空気感に満たされ、それがブレることはありません。それを支える重要な要素の一つは、全てを心得ているプロ同志の会話や心の読み方です。そこに知識階級に属するル・カレが背負う英国の文化的蓄積の厚みを感じます。2020年12月12日、ジョン・ル・カレは、89歳で亡くなりました。上質な読書の楽しみを与えてくれたことに感謝しつつ、合掌。(写真出典:sankei.com)

2020年12月15日火曜日

フィヨルドの憂鬱

私が、海外旅行先として選ぶのは、基本的に、歴史があって、食べ物も美味しいところです。自然を愛でる旅は、ほぼ行いません。ただ、氷河が削りだした雄大な光景は、日本に無いだけに興味を惹かれます。そういう意味では、フィヨルド、特にノルウェイのフィヨルドは見てみたいと思います。とはいうものの、寒いところへは行きたくないので、きっと行くこともないでしょう。

フィヨルドは、海に達する氷河が削りだした深い渓谷が、海進、つまり海水面の上昇によって入り江になったものです。幅がほぼ一定で、水深は深く、両側は断崖絶壁となることが特徴です。入り江なので、海面は静かで、切り立った山々を映し、まさに雄大な絶景を作り出します。世界第2位の規模を誇るのノルウェイのソグネ・フィヨルドの場合、水深1,000mで、断崖の高さも1,000m。それが200kmも続くと言います。水深が深いので、大型クルーズ船による観光のメッカでもあります。

2016年にノルウェイで制作された「The Wave」という映画を見ました。簡単に言えば、ありきたりなパニック映画です。ただ、フィヨルドの断崖が崩壊することで起きる津波がテーマであり、そのことが興味を惹きました。日本で津波と言えば、地震、特にプレート型地震によって起こされるものと思いがちです。ただ、考えてみれば、巨大なものが水面に落ちれば、巨大な波紋な起きることは当然であり、火山の噴火、斜面崩壊、氷河崩落はもとより、隕石落下や海底の崩落によっても津波は発生します。これは海に限ったことではなく湖でも起きるわけです。

フィヨルドの場合、幅が狭く水深の深い入り江に、山の一部が崩落するわけですから、波は巨大化します。ただ、被害は、一つの入り江に限定されるので、局地的となります。ノルウェイでは、たまに発生するようですが、人的被害が限定的なので世界的ニュースにはなりにくい面があります。とは言え、自然災害としては、その波高は記録的なものになります。1958年、アラスカ湾の北東部に位置するフィヨルド、リツヤ湾で地震が斜面崩壊を引き起こします。津波の高さは、なんと524mと記録され、観測史上最高とされます。湾に集落はなく、居合わせた船が転覆し、2名が犠牲となったそうです。ちなみに東京スカイツリーの第二展望台が450mですから、実に恐ろしい波です。

「The Wave」は、ノルウェイで大ヒットして、2019年には続編「The Quake」も公開されたようです。続編は、オスロを襲う地震がテーマとなっているようです。第一作が大ヒットした理由は、恐らく映画の出来以上に、あらためてノルウェイの人々に防災意識を喚起することになったからなのでしょう。「The Wave」の主人公は、地震観測所員でした。ノルウェイでは、フィヨルドを囲む山の状態を子細にモニターする体制ができているようです。美しい景観を見せるフィヨルドの潜在的リスクの大きさに驚きました。(写真出典:his.euro.co.uk)

2020年12月14日月曜日

ブルーなキーウェスト

"Rough and Rowdy Days"
今年、一番多く聴いたアルバムは、サンタナの最高傑作「Super Natural」(1999)です。理由は、よく分かりませんが、夏から秋にかけて、やたら聴いていました。コロナで活動が制約されるなか、サンタナのラテン・サウンドはいい気晴らしだったのかな、とも思います。今年、一番多く聞いた曲はと言えば、ボブ・デュランの「Key West」です。2020年リリースの「Rough and Rowdy Ways」 の一曲です。いわゆるトロピカルさは、かけらもありません。湿潤な空気感と濃い熱帯樹を思わせるブルーなアンニュイさが、とても心地よく、よく聴きました。これまた、別な意味でコロナのムードを反映しているのかも知れません。

ボブ・デュランは、好きなシンガーではありません。ただ、ソング・ライターとしては、大いに尊敬しています。デュランの特徴の一つは、カバーされた曲が大ヒットすることです。ジミ・ヘンドリックスは、歌にまったく自信がなかったらしいのですが、デュランの歌を聞き、自分にもできるかも、と思ったそうです。ユニークな歌い方とも言えますが、要は下手なんだと思います。デュランの歌い方は、シャンソンの方が合うようにも思います。セクシーさをきれいに洗い流したセルジュ・ゲンズブールというところでしょうか。

ボブ・デュランは、ミネソタ出身のユダヤ人です。20歳で、NYのフォーク・シーンに飛び込み、注目されます。63年には2枚目のアルバム「The Freewheelin' Bob Dyran」が絶大な支持を得、「風に吹かれて」は、ピーター・ポール&マリーがカバーして大ヒットします。ここで既にデュランは、フォークのカリスマとなり、歌詞の内容に加え、公民権運動への参加等から、反逆のカリスマとなります。ただ、本人は、それを良しとせず、60年代後半は、ロックへと傾き、フォーク・ファンから大ブーイングを受けています。音楽的な自由を確保しておきたかったのでしょう。

その後、一時期ですが、キリスト教福音派に改宗した時にも、大ブーイングを受け、変節男とも言われました。しかし、とりわけファンでもない者から言わせると、いつの時代も、デュランの音楽はさほど変わっていないように思えます。また、盗作男という批判もあります。インスパイアされたものを素直に取り込むことと、意図的な盗作は異なると思います。デュランは前者なのでしょう。盗作と言われるものも、デュランの本質が失われているわけではありません。愚直に自らの音楽を貫いている人のように思えます。

あらゆる賛辞と賞を獲得してきたデュランは、2016年、ノーベル文学賞を受賞します。デュランの歌詞の文学性の高さは皆が認めるものです。しかし、文学的であることと、文学賞受賞は異なると思います。デュランの作品は、音符と文字で構成されます。文学賞受賞は、文字だけで戦う文学者の皆さんに失礼な話だと思います。もちろん、デュランの問題ではなく、ノーベル文学賞を選考するスウェーデン・アカデミーの問題です。受賞決定後、しばらくの間、デュランは沈黙します。本人は、あまりのことに言葉が出なかった、と語っていますが、上述のような観点、あるいはダイナマイトが生み出した賞といった面も含め、それなりに葛藤があったのではないかと想像します。(写真出典:hmv.co,jp)

2020年12月13日日曜日

「魔女がいっぱい」

ロバート・ゼメキス監督  ロアルド・ダール原作 2020年アメリカ 

☆☆☆

ロアルド・ダール原作、ロバート・ゼメキス監督、アン・ハサウェイ主演、原題が”The Witches”とくれば、ハリウッド伝統の上質でほんわかとしたコメディだと思い込みました。勝手にイメージしたのは、ジョン・アップダイク原作、”マッド・マックス”のジョージ・ミラーが監督した「イーストウィックの魔女たち」。ジャック・ニコルソン、スーザン・サランドン、ミシェル・ファイファー主演の上質なコメディ映画でした。事前によく調べることもなく、そのイメージを持って勇んで見に行きました。ところが、見事にやられました。上出来ではありますが、子供向けだったのです。

原作者で、ピンとくるべきでした。私にとってロアルド・ダールは「あなたに似た人」など奇妙な味の短編を書く作家ですが、一般的には、グレムリンやチョコレート工場で有名な児童文学者だったわけです。実は、予告編も見ましたが、まったく子供向けとは思えないものでした。ポスターも、とても子供向けとは思えない構図。ただ、はじっこに小さく写っているネズミ達に気づくべきでした。コロナ禍のなか、子供たちの需要は期待できないので、配給会社は、実に微妙なところへボールを放ったのではないか、と思います。1/3ほど埋まった客席に、子供はまったくいませんでした。やられた感があるので、子供向けと言っていますが、正確には家族向けと言うべきなのでしょう。

米国では、もともと10月末にリリース予定だったものの、コロナで状況が見通せず、HBOでの配信に切り替えたとのこと。日本では劇場公開となりました。シンプルなストーリー、テンポの良い展開、出来の良いCG、さすがゼメキス監督、そつのない仕上がりです。アン・ハサウェイは、よくこの役を引き受けたなとも思いますが、結構楽しんで演技している感じです。設定を60年代のアラバマとしている関係か、フォー・トップスの「Reach Out I'll Be There」やオーティス・レディングの「The Dock of the Bay」が流れていました。ちなみに、魔女たちの手が三本指である点が、障害を持つ人美とへの配慮が足りないと批判され、製作のワーナーが陳謝したようです。

ロバート・ゼメキス監督は、バック・トゥ・ザ・フューチャーで名をあげ、フォレスト・ガンプでアカデミー賞も獲得しました。特徴的にはCGの巧みな使い手であることです。「永遠に美しく」といったコメディも手堅く、CGを使っていない「マリアンヌ」等のシリアスな映画もそつなくこなします。製作会社からすれば、貴重な職人的監督なのだと思います。ジョージ・ルーカス以降、映画界の名門となった南カリフォルニア大学出身。若いころ、スピルバーグの不評映画「1941」の脚本も担当しています。33歳で、バック・トゥ・ザ・フューチャーをヒットさせていますので、映画界のエリートと言ってもいいのでしょう。

魔女という概念は、おそらくシャーマニズムに起源を持つものなのでしょうが、15~17世紀の魔女狩りの時代、悪魔の手下というキリスト教的存在になります。天災等による社会不安を背景にマス・ヒステリアが爆発したものなのでしょうが、実に多くの人々が処刑されたわけです。多くは、地域社会のなかで変わり者とされた人々だと想像できます。思想や宗教というよりも、性格的なものや外見、あるいは精神疾患等によって異端視されたのでしょう。例えば日本の鬼は山奥や孤島に住みますが、魔女は人々の生活のなかに潜んでいるところが特徴的です。より宗教的な印象、つまり人の二面性を象徴しているように思えます。(写真出典:eiga.com)

2020年12月12日土曜日

切腹最中

驚いたことに、今時の若い人は忠臣蔵をよく知らないようです。かつて12月と言えば、舞台もTVも忠臣蔵で溢れていたように思いますが、近年は、ほとんど聞きません。歴史の教科書で学ぶことでもないので、若い人が知らないとしても不思議はないわけです。かつて、初めて来日した米国人と四十七士の話になりました。"47Ronin" の話は聞いたことがあるが、それが史実とは知らなかった、と大興奮し、後日、二人で泉岳寺へお参りしました。米国では映画化もされています。ただ、戦後の占領下、仇討ちを恐れたGHQは、忠臣蔵の上演を禁止していました。

赤穂浪士が吉良邸に討ち入った”赤穂事件”は1701年12月14日に起きました。それから約50年後、浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」が初演されています。事件直後から、それを題材とした芝居はあったようですが、事実に即した脚本化はされていません。それらの集大成が「仮名手本忠臣蔵」と言われますが、やはり実名は避け、フィクション部分の多い内容となっています。幕府が事実の喧伝を禁じたからです。その理由は、討ち入りの動機が、 仇討ちよりも、公平性に欠ける幕府の処分に対する抗議だったからだと言われます。浅野内匠頭は切腹、吉良上野介はお構いなし、という処分は将軍綱吉自身による裁定でした。

武家社会の慣行だった敵討ちは、江戸期、尊属の敵討ちについてのみ法制化されます。敵討ちは事前登録制でした。赤穂浪士の討ち入りは、法律上、敵討ちとは認定できません。また、処分の公平性を問う背景には、喧嘩両成敗の原則があります。ただ、殿中松の廊下において、内匠頭が刃傷に及んだ際、上野介が無抵抗だったため、これは適用されなかったようです。事件の背景とされる上野介によるハラスメントについても、確認が行われたようですが、なにせ加害者の内匠頭が、即日切腹となり、十分な事情聴取はできていません。

幕府が禁じたため、事実が詳細に語られることは無く、フィクションである忠臣蔵の方が定着していきました。赤穂事件が、国民的人気を集めるようになったのは、明治以降のことです。天皇主権の中央集権化を進める薩長政府が、自らを犠牲にした忠義のあり方を国民に浸透させるために、赤穂事件を活用したからです。明治天皇は、公儀への反逆者である赤穂浪士を、あらためて忠義の士として認め、顕彰します。以降、赤穂浪士は教科書にも載り、美化が進められました。薩長の緻密な洗脳政策の一例と言えます。

新橋の和菓子屋である新正堂の「切腹最中」は、同店が、内匠頭が切腹させられた一関藩の藩邸跡地に立地することから売り出されました。その名称から、営業マンが客先に謝罪する際の手土産の定番となっています。特に証券会社の営業が多用したことで有名になりました。求肥の入った最中は、なかなか美味しい逸品です。ただ、あんこが多く、最中の皮が開いているところが、ややグロではありますが。(写真出典:shinshodoh.co.jp)

2020年12月11日金曜日

身欠きにしん

寒い冬ほど、にしん漬はよく漬かる、と母が言っていました。理屈は分かりませんが、確かにそういう気がしました。今時は、家庭で漬けることも少なくなったと思いますが、にしん漬は、北海道・東北の冬の味覚です。北海道では、身欠きにしん、なた割の大根、キャベツ、ニンジンなどを漬けます。東北では、身欠きにしんと大根だけ漬けます。いずれにしても、にしん独特の風味がおいしい漬物です。私は、札幌大球と呼ばれる巨大なキャベツを使った北海道のにしん漬が大好物。冬の楽しみの一つです。

にしんの内臓を取って干し、保存用としたものが身欠きにしんです。江戸から明治にかけて、北海道ではにしんが大量に獲れました。別名「春告魚」とも言われ、春の魚です。一時期に大量に獲れるので、保存食品として身欠きにしんが作られたわけです。ちなみに、当時のにしんの主な用途は、いわしと同様、肥料でした。江戸期、農作物の生産量が飛躍的に向上した背景に、いわしやにしんの肥料の存在があったと聞きます。身欠きにしんは、米のとぎ汁などで戻してから料理に使います。煮物や甘露煮、東北では昆布巻にも使います。

京名物のにしんそばも、身欠きにしんを柔らかく甘く炊いたものが使われます。京都のにしんそばと言えば、「総本家にしんそば」を名乗る京都南座の松葉が発祥の店とされます。福井県小浜市から京都の出町につながる若狭街道は、別名「鯖街道」とも呼ばれます。海のない京都では、鯖街道から運び込まれる塩鯖はじめ若狭の海産物が貴重な動物性たんぱく源だったわけです。鯖街道の起源は、平城京までさかのぼるとも言われます。北前船で運び込まれた身欠きにしんも同様に、鯖街道を通って京都に入ったのでしょう。松葉のにしんそばも美味しいのですが、実は、北海道江差町の名物でもあります。ことに横山家の濃い出汁のにしんそばは絶品だと思います。

にしんの味は、結構自己主張が強く、身欠きにしんにしても、その味が失われないところが特徴だと思います。にしんそばは京名物ですが、一方、にしんうどんもあるにはあるのですが、あまり聞きません。おそらく身欠きにしんの自己主張が強すぎて、うどん出汁では負けてしまうからではないかと思います。なにせ京都のうどんは出汁が命ですから。長期保存が可能で、風味も失なわれない身欠きにしんは、貴重な存在ですが、その個性ゆえに、さほど料理のバリエーションは広くないのだと思います。

昔、身欠きにしんは、価格が安く、箱売りしかありませんでした。にしん漬に大量に使うということもありますが、各家庭には必ず身欠きにしんの箱があったものです。京都ならずとも、北国でも、冬場の貴重なたんぱく源だったわけです。(写真出典:ec.line.me)

2020年12月10日木曜日

騒がしい客席

 NYへ赴任して、最初に見た映画は、ジョー・ダンテ監督の「インナー・スペース」だったと記憶します。二つ、驚いたことがあります。一つは料金の安さ。日本では、既に1,500円程度まで上がっていましたが、マンハッタンで見れば4ドル程度、郊外なら2ドル程度でした。もう一つ驚いたのが、えらく騒々しい客席でした。「インナー・スペース」は、デニス・クエイドとメグ・ライアン主演のSFコメディ。当時、TVのサタデー・ナイト・ライブで人気だったマーティン・ショートが準主役でした。タイトル・バックにマーティン・ショートの名前がクレジットされた瞬間、バカでかいコーラとポップコーンを抱えた観客たちから、声がかかり、大拍手と笑い声が起きます。その後も、終始、その調子で、実に騒がしい客席でした。

最も印象的だったのが、翌年、郊外の家の近くで見たブルース・ウィリスの「ダイ・ハード」。ほぼ遊園地状態でした。ブルース・ウィリスがピンチになると、観客はいちいち「キャー!」と悲鳴をあげ、がんばれと声を掛けます。ブルース・ウィリスがやられるわけがないと分かっているのに、この大騒ぎ。声を出して、大騒ぎで見れば、映画は倍楽しめるな、と思いました。当時、ビデオが浸透し、巨大なブロック・バスターズといったビデオ・レンタル・ショップが活況を呈していました。映画は、劇場からビデオ主流に変わるのではないかと思っていました。しかし、騒がしい客席を見て、アメリカ人が映画館から離れることはないな、と確信しました。

かつて日本の映画館も、声がかかり、拍手が起きていました。典型的には東映の任侠映画です。高倉健が長ドスを抜けば「待ってました、健さん!」と声がかかり、拍手の渦となっていたものです。さらに映画館を出る観客は、皆、肩を怒らせ、健さんになり切っていました。本来、大衆芸能の客席とは、そういうものだったのだろうと思います。浮世絵等を見ると、江戸期の歌舞伎では、観客が弁当を食べ、酒を飲み、大騒ぎで楽しんでいる様子が見えます。今、歌舞伎座でかかる声は、いわゆる通がかける役者の屋号だけ。いつ頃からか、歌舞伎が大衆芸能であることをやめた時から変わったのでしょう。

現在も、江戸期の客席の風情を残すのは、大相撲と吉本のなんば花月劇場くらいのものでしょう。国技館に至っては、いまだにマス席のままで、弁当を食べ、やきとりをつまみに酒が酌み交わされます。歓声も野次も飛び交い、座布団まで飛びます。茶屋の若い衆が、たっつき袴で場内を行き来し、酒を運ぶ様は、まさに江戸そのものとも言えます。もちろん、取組を観戦することが目的ですが、滅多に来場できない客が大層を占めることもあり、場内はお祭りに近い状態となります。それも含めて本場所の魅力だと思います。今年は、コロナ禍で、観客数も制限され、飲食も禁止、声も出せず、茶屋も店を閉めてる状態が続きます。取組に集中できるとも言えますが、華やいだムードに欠け、結構、さみしいものです。

クラシック以外の音楽のライブは、おおむね賑やかにやっています。面白いと思うのは、AKB48以降の秋葉系アイドルのライブです。行ったことはありませんが、音楽と舞台の中間的な存在であり、結構、江戸の大衆芸能のムードを持っているようにも思えます。ひょっとすると江戸の大衆芸能の唯一正当な後継かも知れません。才能豊かな秋元康という人は、ライブの何たるかをよく心得た人だと思います。(三代歌川豊国「踊形容江戸絵栄」部分 写真出典:eonet.co.jp)

2020年12月9日水曜日

ハンサム・ハーリー・レイス

 

WWE時代のハーリー・レイス
一番好きなプロレスラーは誰かと問われれば、間違いなくハンサム・ハーリー・レイスと答えます。殴る、蹴る、そして頭突きと、荒っぽいイメージの強いレスラーですが、テクニックも一流、また倒れっぷりの良さも見事なものでした。老獪ともショーマンとも言われますが、ラフで、真っすぐなファイト・スタイルは、強くアメリカを感じさせます。当時世界最高峰だったNWAタイトルの防衛記録からも、ザ・プロレスラーと呼ぶにふさわしく、また古き良きプロレス界を代表するレスラーでした。残念ながら、2019年8月、76歳で亡くなりました。

アメリカにおけるプロレスをビッグ・ビジネスに変えたのはWWEです。70年代までは、各地の各団体に分散していたプロレス界を、ケーブルTVの力を持って統一し、かつ各レスラーにストーリーを持たせ、ショーとしての要素を思いっきり高めたことが、ビジネスとしての成功につながりました。80~90年代、WWEの看板レスラーは、ハルク・ホーガンでした。レスリングもしっかり行われていましたが、放送時間は、試合よりもパターン化された因縁話のプレゼンの方が多いという状態になっていきました。

87年、WWEの本拠地NYのマディソン・スクウェア・ガーデンで、ハーリー・レイスの試合を見ました。WWE では、「キング・ハーリー・レイス」として、王様風の格好をさせられ、ヒールの親玉をやっていました。いささか悲しくなりました。試合が始まると、随所にザ・プロレスラーの片りんを見せたものの、ヒールの王様という役柄には終始忠実でした。90年前後だったと記憶しますが、ニュージャージー州の公的施設の利用を巡って、WWEのプロレスは、スポーツなのか、ショーなのかということを争点に裁判が行われました。WWEは、法廷で自らショーであると認めています。

伝統的なプロレスであっても、ショーとしての側面は否定できません。ただ、鍛え上げた体と技が大前提であり、そして何よりもファイティング・スピリットがなければ、とてもリングの上に立てるものではありません。ハーリー・レイスは、1943年ミズーリ州の生まれ。15歳のとき、腕自慢の観客と戦うサーカスのカーニバル・レスラーとしてデビューします。17歳でNWAへ参戦し、ストリート・ファイトで鍛えたタフさに、ドリー・ファンク・シニアに師事して得たテクニックを武器に頭角を現わしていきました。実は、ハーリー・レイス最大の強みは、アメリカ人がプロレスに望むものをよく心得ていたことだとも思えます。

アメリカの中西部で、何度か一緒に仕事をした大手保険会社のセールス・レップが、プロレス・ファンでした。どこで聞きつけたか、私がハーリー・レイス・ファンだと知り、仕事そっちのけで、怒涛の如くプロレス話を繰り出してきました。彼が、日本のレスラーにも詳しかったことには驚かされました。聞けば、マニアックなプロレス同人誌の定期購読者で、世界中のレスラーに精通していたようです。プロレスは、こういう熱狂的なファンに支えられているということを、あらためて、中西部で知らされました。(写真出典:thesportster.com)

2020年12月8日火曜日

還元率

西銀座チャンスセンター
スゥイングしなきゃ打てないのが野球、買わなきゃ当たらないのが宝くじ、買っても当たらないのも宝くじ。これまでどれだけ宝くじを買ったことか。当選した最高額は1万円どまり。といっても、毎回30枚以上買うこともありません。そんな枚数じゃ当たらないのかも知れませんが、当たるときには1枚でも当たるわけです。グループ買いは、確かに当選確率を上げます。ただ、参加者が多いほど確率が上がり、分配金は下がるわけで、意味不明とも言えます。宝くじは、夢を買うもんだよ、と言う人もいますが、とんでもない。高額当選をねらって買うに決まっています。宝くじは、強欲の塊ですよ。

宝くじの還元率は約46%です。パチンコの85%に比べれば、実に割に合わないギャンブルです。競馬、競輪等の75%に比べても低すぎます。もっとも宝くじ系以外は一時所得として課税されるので、手取は60%を下回ります。還元率が低くても、数億円という高額当選金につられて買ってしまうわけです。毎回、一等が当たるかもしれないと思って買うあたりは、実に悲しい話でもあります。さて、売上の5割以上はどこに行くのか、ということですが、約15%は運営費に充てられます。この程度は必要かな、とも思いますが、いわゆる天下り先に配賦され、広告に随分使われているのは気になります。残り4割は、自治体へ配賦されます。

江戸期の富くじ等は別として、公営ギャンブルとしての宝くじは、1944年に制定された「臨時資金調達法」に基づき発売されたのが始まりです。つまり、創設趣旨からして、政府・自治体の資金調達であり、第二の税収だったわけです。各種税金を納めたうえに、宝くじでも納税しているのかと思えば、やや腹立たしく思えます。300円のくじ券に、内税120円と印刷すれば、売り上げは確実に落ちるでしょうね。ちなみに、19年度の総売上は8,000億円弱。売上のピークは、2005年の1兆1千億円だったそうです。なかなかの金額です。近年は、1等当選金額を引き上げ、売上維持を図っているわけです。

海外の宝くじの還元率は、ドバイが最も高いとされ、72%。超高額当選で有名なアメリカのミリオン・ボールの還元率は67%となっています。アメリカのミリオン・ボールやパワー・ボールの最高当選額は、1,700億円、1,800億円と桁違いです。ただ、アメリカの場合、賞金は課税されるので、手取ベースの還元率は、課税されない日本と同じくらいの率になります。アメリカで超高額当選が出るのは、ナンバーズ方式でキャリー・オーバーが発生すること、そして売上が大きく、日本の8倍近くあるためです。

ちなみに、ドバイは賞品を現金1億円、車、バイクに限定していることもあり、当選確率は日本の4,000倍と聞きます。日本でも、当選金額高額化に伴い当選確率が下がるため、当選額を抑え当選確率を上げたジャンボ・ミニを発売しています。まぁ、いずれにしても、日本の宝くじに文句があるなら、買わなきゃいいだけのことです。ところが、1等何億円と言われると、今回は当たりそうな気がするなどと言って、また買ってしまう日本人のなんと多いことか、ってところです。(写真出典:nisiginzacc.com)

2020年12月7日月曜日

蟷螂の斧

もう20年近く前のことですが、カマキリの産卵場所の高さで、その年の積雪量が予測できる、という話を聞きました。もともとは新潟県の中越地方で語り継がれる民間伝承だったようです。長岡市で電気工事会社を経営する酒井輿喜男氏は、40年以上にわたり、その科学的証明に取り組み、その成果を出版しました。また、酒井氏の研究に基づき、さる公的機関が、その年の積雪予測をパンフレットにして配布までしていました。過去の予測と実績を比較したデータも見たことがあります。様々な補正が加えられたデータは、もはや比較とも言いにくく、やや微妙なものでした。

酒井氏の説は、概略、以下のようなものでした。カマキリは木の枝に産卵し、卵は越冬する。雪の上なら鳥の餌になり、雪の下なら生きられない。よってカマキリは、その年の積雪量を予測して、ちょうど雪面の高さギリギリに産卵する。大気圏内の水分量は一定であり、空気中の水分量が多いときには積雪が増える。樹木は、乾湿差に応じて、枝葉への水分の供給量を変える。幹を通る水分の動きは、乾湿の境界線、つまり予測される雪面付近で最も多くなる。カマキリは、水分移動に伴う微弱な振動に応じて、卵を産む場所を判断する。

門外漢の私が思った素朴な疑問は、樹木は、どうして秋のうちに、冬の湿度を予測できるのか、ということです。秋のうちに湿度が高くなる傾向があるのであれば、人間も科学の力で予測できそうなものだと思います。さらに、乾湿の境界線で、水分移動がもっとも活発になるメカニズムも証明されていません。そして、昆虫学の権威である弘前大学の安藤喜一名誉教授が、自ら実験までして、雪に埋まってもカマキリの卵が孵化することを証明します。残念ながら、酒井氏の説の前提が崩れたことになります。

安藤名誉教授の反論が出されると、カマキリによる積雪予測を配布していた公的機関は、予算不足を理由に配布を中止しました。その後、酒井氏は、大災害と昆虫の生態という研究をし、大発見をした、と話していたそうですが、詳細は明らかではありません。ネット上には、酒井氏の説を似非科学とする批判が多く見られました。確かにそうかもしれませんが、そもそもの民間伝承が、科学的に否定されたわけではありません。”非科学的”と言う言葉は、批判的に使われる言葉ですが、科学が証明できていないもの、という理解もできます。

かつて、大学で物理学を専攻した人に、宇宙は膨張しているというが、宇宙の境界線の向こうには何があるのか?と聞いたことがあります。答えは、分かっていない、とのことでした。そもそも物理学は、分からないことだらけで、科学と言っているのは、再現性が証明された極々一部の事柄を指すにすぎない、とのことでした。”分からない”ということを認めたところから科学は生まれた、とも言います。大きなものにも立ち向かうカマキリの習性から、無駄な試みを「蟷螂の斧」と言いますが、科学者の皆さんには、是非、カマキリのようであってほしいと思います。(写真出典:tenki.jp)

2020年12月6日日曜日

「Mank/マンク」

 監督:デヴィッド・フィンチャー   2020年アメリカ  Netflix配信

☆☆☆☆+

またまたNetflixがアカデミー賞に標準を合わせてきました。コロナ禍で、劇場公開作品が少ないなか、「ローマ」、「アイリッシュマン」、「マリッジ・ストーリー」に続いて、完全に本気モードで狙っています。本作は、正直なところ、今年一番の作品だと思います。「市民ケーン」でアカデミー脚本賞を獲得したハーマン・J・マンキーウィッツを通して、そのモデルとなった新聞王ハースト、そして黄金期のハリウッドが描かれます。

オーソン・ウェルズの初監督作品「市民ケーン」は、いまだに映画史上最高の傑作と言われます。新聞王ハースト をモデルとしたことで、物議を醸し、多くの妨害を受けました。本作は、その構図を完全に裏返し、「市民ケーン」誕生までの経緯を、ハーストやその愛人マリオン・デイヴィス、そして当時のハリウッドという現実サイドから描いています。マンキーウィッツが編み出したとされるウィットあふれる会話で映画を進めるスタイル、当時の表現主義を再現した白黒映像と音楽、フラッシュバック・シーンの多用など、「市民ケーン」を彷彿とさせる作り込みとなっています。それが、「市民ケーン」と表裏を成す姉妹作であるような存在感を生み出しています。ちなみに、今は不要となったフィルム交換マークまで入れる徹底ぶりです。

映画史上最も有名な言葉の一つが「ローズバッド」です。”全てを手に入れ、全てを失った男”である市民ケーンが、望み続けて手にできなかった、たった一つのものが愛であり、その象徴がローズバッドと書かれたソリでした。謎の言葉ローズバッドを映画の縦糸に置き、ミステリ仕立てにストーリーを展開するというアイデアには、マンキーウィッツの文学性を感じます。一方、「市民ケーン」というタイトルは、マンキーウィッツのシニカルで短気な俗っぽさが反映されています。クビライ・カン並みの財力と権力を持ちながら、クビライ・カンには及びもつかないハーストを、あえて”市民”と呼び、直接的に皮肉っているのでしょう。本作では、マンキーウィッツのそうした二面性も描かれていて、興味深いところです。

デヴィッド・フィンチャーは、常に質の高い話題作を撮ってきました。アカデミー賞は獲っていませんが、明らかに現代アメリカを代表する監督の一人です。「ソーシャル・ネットワーク」は、現代版「市民ケーン」とも言われ、数々の賞を獲得しましたが、アカデミー賞は監督賞ノミネートに留まります。本作の脚本は、ライフ誌のジャーナリストであった監督の父親が1990年代に書き上げ、映画化が試行されてきたようです。「市民ケーン」を彷彿とさせる現代アメリカの政治状況、そして潤沢な資金を持ちアカデミー賞をねらうNetflixの存在が、フィンチャー親子の執念を実現させたとも言えます。

脚本家という裏方を主人公にしたこと、ハリウッドが積み上げてきた制作技術へのリスペクト、政治的なスタジオに翻弄される制作スタッフへの目線、ハリウッドが生んだ最高傑作へのオマージュ、コロナ禍で進んだネット配信という映画の未来、デヴィッド・フィンチャーの執念、アメリカの政治状況のメタファーであること、そしてハーストに重なるトランプの敗北等々、ハリウッドで映画製作の現場に携わるアカデミー会員たちが票を投じざるを得ない要素ばかり。Netflixとデヴィッド・フィンチャーの意気込みを強く感じさせます。(写真出典:eiga.com)

2020年12月5日土曜日

ガマの油

富士山登山の訓練のために、いくつか山に登ったことがあります。ただ、富士山登山当日、台風が直撃し、登山は中止。以降、怪我や病気もあり、実現していません。訓練のために、まず登ったのが筑波山でした。下山後、筑波山神社の境内を通ると、ガマの油売りの実演が行われていました。実際に見るのは初めてだったので、しばらく足を止めました。実演していたのは、的屋(てきや)ではなく、筑波山ガマ口上保存会の方々でした。

ガマの油は、傷によく効く軟膏として知られ、その歴史は大阪冬の陣に始まります。徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職、光誉上人が持参した軟膏が、刀傷によく効くと評判をとりました。ガマの油という名称は、上人の顔がガマガエルに似ていたからも、ガマガエルから抽出される薬効のある成分が入っていたからとも言われます。江戸時代に売られていたガマの油の成分は、よく分かっていないようですが、戦前に売られていたものには、センソというガマガエル由来の成分が入っていたようです。

18世紀中葉、筑波山麓の新治村永井に在する兵助という青年が、ガマの油を江戸で売り始め、大成功します。それを真似た的屋たちが大道で口上販売し、全国に広まったようです。四六のガマが、鏡に映る己の醜い姿を見て、ダラーリ、ダラリと脂汗を出す。それを集めて作ったのがガマの油。ここで取りいだしたるは、当家に伝わる天下の名刀。一枚が二枚、二枚が四枚と紙を切り、切れ味を見せたうえで、自らの腕を切り、血を流します。その刀傷にガマの油を塗れば、タバコ一服吸わぬま間にピタリと止まる、血止めの薬にござりまする、とくるわけです。

筑波山だけに生息するという前足の指が四本、後ろ足の指が六本という四六のガマは存在しません。天下の名刀は、切先だけ刃物で、中間で切れば赤い液が出るという仕掛け物。的屋の見事な工夫です。的屋も様々あり、これは香具師(やし)の仕事なのでしょう。香具師は、曲芸等で客寄せをして、薬や香具を売っていました。的屋の歴史は古く、平安以前から寺院が修繕等のために広く寄付を求める普請の手段として活用されてきたようです。つまり縁日等のおり、的屋が物販や見世物であげた売上の一部を寺が寄付として受け取る仕組みです。場所の使用料を寺銭とも言いますが、その語源です。

江戸期、博徒と的屋は、無宿人とされ、やくざと見なされていました。ご法度の賭博を生業とする博徒と、怪しげな一面はあるにしても稼業を営む的屋が同じ扱いとはやや意外な印象があります。ただ、戦後の闇市を仕切ったのが、博徒、的屋、愚連隊の一家であり、しばしば抗争も起きます。これらが暴力団と総称され、今に至るわけです。日本で、最も有名な的屋は、通称フーテンの寅こと車寅次郎ということになります。映画「男はつらいよ」の主題歌に挿入される口上は、各地の親分衆に一宿一飯の恩義にあずかる際の口上です。これがいわば身分証明であり、間違えると叩き出されたものだそうです。(写真出典:ganref.jp)

2020年12月4日金曜日

「バクラウ 地図から消された村」

監督:クレベール・メンドンサ・フィリョ、ジュリアーノ・ドルネレス       2019年フランス・ブラジル

☆☆☆

本作は、手練れの監督が、技を駆使して、わざわざB級仕立ての映画を撮ったという印象です。面白いことは面白いわけです。特に映画好きの観客は大きな拍手を贈るのでしょう。ただ、一番楽しんでいるは、間違いなく監督本人です。本作は、監督のB級映画へのオマージュであり、別の言い方をすれば、フェイクB級映画です。観客は、監督の趣味に付き合あわされている、とも言えます。カンヌで審査員賞を獲得するなど、各映画祭で高く評価されていますが、こういう映画をどう評価すべきなのかと考えさせられます。ま、面白ければ、それでよい、という結論になるのでしょうが。

まずはプロットが上出来だと思います。殺人ゲームに田舎政治家をからめ、癖のある村人たちの団結と、B級映画らしいプロットが見事に準備されています。監督のジョン・カーペンター好きは明らかですが、それに懐かしいマカロニ・ウェスタンの味付け、つまり、エログロ要素、安っぽい音楽、素人っぽい演技、シェークエンスのつなぎの下手さ、といったB級映画テイストが散りばめられています。そういう意味では、なつかしさ満載のフェイクB級映画に仕上がっています。ただ、計算づくかも知れませんが、所々、監督の腕の良さが見え隠れし、フェイクであることを印象付けています。

監督の前作「アクエリアス」は印象に残る映画でした。老朽化した海辺の高級マンションに住む女性と立ち退きを迫る不動産屋の戦いを描いた映画です。政治的でもあり、社会派テーマでもありますが、それ以上に監督のユニークな詩的表現が非凡さを感じさせる映画でした。丁寧に作り込んだ映画に監督の腕の良さを感じました。今回も、B級テイストの再現には、しつこいほどの丁寧さを感じさせます。監督は、ジャーナリストの出身。ドキュメンタリー作家として活躍した後、42歳で「O Som Ao Redor(隣の音)」を初監督。いきなりアカデミー外国語映画賞にノミネートされています。本作が3作目となります。丁寧な作り込みは、ドキュメンタリー作家時代に培ったものかも知れません。

「アクエリアス」で主演したブラジルの国際派女優ソニア・ブラガが、バクラウ村の女医として重要な役回りを担っています。「アクエリアス」でのきめ細かな情感を表現した演技とは打って変わり、変な老女医を楽しんで演じていました。彼女は、80年代には、ロバート・レッドフォードやクリント・イーストウッド、あるいはヴァン・ヘイレンのリード・ヴォーカルだったデイビット・リー・ロスと浮名を流した恋多き女でもありました。女優としては、実にいい歳の取り方をした人だと思います。長いキャリアを持つ俳優にとって、エキセントリックな役柄を楽しめるかどうかは、歳の取り方の一つの目安のように思えます。

本作は、コーエン兄弟の「ヘイル・シーザー」、あるいはタランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」といった監督たちの個人的映画愛に満ち溢れた映画につながるところがあります。大きな違いは、他の2作が、楽屋落ち的なアプローチだったのに対して、本作は、真っ向からフェイクを作りにいったことです。そういう意味では、ローレンス・カスダンの西部劇「シルバラード」に近いように思えます。(写真出典:eiga.com)

2020年12月3日木曜日

ふりかけ

かつて「カレンダーふりかけ」という商品がありました。昭和30年代の一時期、永谷園から発売されたものです。ボール紙の台紙に、味の異なる一食サイズのふりかけが、一週間分として7種類貼り付けてありました。谷啓のテレビCMも流されていました。ただ、同世代でも記憶のない人が多く、短命な商品、あるいは地域を限定した商品だったのかも知れません。7種類のなかにカレーふりかけがありました。当時、カレーふりかけという単体商品はなく、このカレンダーふりかけでしか食べられませんでした。私は、このカレーふりかけが食べたくて、いつもカレンダーふりかけをねだっていました。

今年、短期間ですが、入院しました。前年、別の病院に入院した際、食事のまずさに辟易したので、普段食べないふりかけと小さなボトルにいれた白出汁を密かに持参しました。結果的には、食事がまずまずだったので、ふりかけも白出汁も一切使いませんでした。病院食は、塩分を控えめにするから味気がなくなるわけです。ところが、今回の病院は賢いことに味噌汁をあきらめ、その塩分を他の料理に回していたのです。さて、今回、何十年ぶりかにふりかけを購入したわけですが、選択したのは、もちろんカレーふりかけです。退院後、家で食べてみましたが、結構、美味しくいただけました。

ごはんのうえに何かを乗せて食べる文化は、米を主食とする地域では、どこにでもありそうです。ただ、乾燥したふりかけは、日本独自の食文化だと聞きます。古くは、鎌倉時代から、魚肉を塩干し、細かくしたものが存在したようです。近代的なふりかけの元祖は、大正年間、熊本の薬剤師である吉丸末吉が開発した「御飯の友」とされます。カルシウム不足解消のために、魚粉に味付けしたものでした。栄養補助食品として、軍隊に採用され、広まったと言います。現在でも、吉丸末吉から引き継いだフタバ食品が製造販売しています。ふりかけは、いわばサプリメントとして誕生したわけです。類似品も多く発売されたようですが、あくまでも大人の食べ物だったようです。

ふりかけが、子供たちも含めた国民食となったきっかけは、1960年発売、丸美屋の「のりたま」です。画期的な商品として大ヒットし、60年を経た今でも定番ふりかけです。創業者が、旅館の朝食を家庭でも手軽に食べられるようにと開発したそうです。当時、海苔も卵も高級品だったということなのでしょう。画期的とされる理由は、卵を乾燥させる技術だったようです。しかし、大ヒットの要因は、ほんのりとした甘さだったのではないかと思います。戦後の食料難の時代が終わり、高度成長のとば口にあって、甘さも含めた嗜好の広がるタイミングを捉えた商品だったのでしょう。子供たちへの普及に関しては、エイトマン・シールの役割も大きかったと思います。

米食離れが進むと、ふりかけの売上は低迷しました。子供たちの朝食が、パン主流になったことが大きく影響したのでしょう。ただ、ターゲットを大人においた高級感ある商品が続々発売されると、勢いを盛り返したようです。原点に立ち返り、サプリメントとして出せば、さらに売れるようにも思います。例えばコラーゲン入りとか、糖質抑制ふりかけとか、結構いけそうな気がします。(初代のりたま 写真出典:youpouch.com)

2020年12月2日水曜日

松島の月

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。

松島の月
松尾芭蕉「おくのほそ道」(1702)冒頭の一説です。日本を代表する紀行文と言われ、芭蕉の名句が散りばめられています。東北から北陸にかけて、600里、2,400キロ、150日の旅でした。「おくのほそ道」が名作たりえているのは、芭蕉の名句が多く載せられているからではなく、旅そのものが、一つの文化が完成されていくストーリーになっているからだろうと思います。それは無常観を背景とした俳諧のわび・さびから、全てを認めたうえでの軽みに至るということなのでしょう。冒頭の一説が、それを端的に伝えています。

芭蕉は、なぜ旅に出たのか、ということが気になります。冒頭文は「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、」と続き、白河の関を越え、松島の月が見たい、と書かれます。芭蕉は、住まいを引き払い、旅に出ます。物見遊山の旅であれば、そこまでする必要もありません。では、芭蕉の真意は何だったのでしょうか。師と仰ぐ西行の死後500年にあたり、諸国を遍歴した西行に習い旅に出た、とも、みちのくに多く存在する歌枕を訪ね、古人に学び俳句を詠むため、とも言われます。

芭蕉は、1644年、伊賀国に生まれ、藤堂家の俳句好きの若殿に仕えたことから俳句の道に入ります。28歳で句集を出した芭蕉は、江戸へ出ます。神田上水の事務方を務めながら、腕を上げていき、33歳で宗匠となります。当時の江戸の俳諧は、言葉遊びに終始し、宗匠たちは弟子の数を競うという浮かれた状態にあったようです。芭蕉は、これを良しとせず、36歳で宗匠をやめ、深川に庵を結びます。俳句を和歌と並ぶ領域まで高めたされる芭蕉ですが、まさに革命家だったわけです。

深川芭蕉庵での暮らしは質素なものだったでしょうが、収入の無い芭蕉を、門弟や支持者が支えていたようです。芭蕉は、40歳ころから旅へ出始めます。故郷である伊賀を含め、関西方面へ2度、そして信州へと旅をしています。各地で支援者たちの世話になったようですが、芭蕉が目指す俳諧のあり方を広める旅でもあったのでしょう。そうした旅が準備でもあったかのように。46歳、庵を引き払い、弟子の曽良だけを伴い、支援者とていないみちのくへと旅立つわけです。まさに退路を断ち、古人が詠んだ名勝に向き合い、自らが目指す俳諧を完成させようとしたのでしょう。命を懸けても成し遂げるという覚悟の旅立ちだったとも言えます。芭蕉がたどり着いた俳諧の心は、不易流行、そして軽みだったと言われます。

ちなみに、旅の目的地でもあった松島では、その絶景に圧倒され、一句も読めなかったと言います。「松島や、ああ松島や、松島や」は有名ですが、実は、狂歌師の田原坊なる人の作とされます。江戸期の書物に、芭蕉が松島で一句も詠めなかった話と同時に掲載されたために、誤解が広がったようです。(写真出典:japan100moons.com)

2020年12月1日火曜日

なぜ山に登るのか

 スポーツの起源は、古すぎてはっきりしないわけですが、おそらく狩猟や戦いで必要とされる能力や技を、遊びとして競い合うことから始まったのだろうと想像できます。重要なポイントは、必要性や生産性がないことだと思います。日ごろの鍛錬という概念や古代オリンピアードのような神事という概念も後付けであり、単純に遊びや気晴らしだったのでしょう。暇がなければできないことであり、競い合うということがなければ成立しないとも言えます。

スポーツを、そのように考えた時、実に不思議な存在が登山だと思います。生産性はありませんが、競い合うという要素が薄いと思われます。もちろん、より高く、より早く、という競争がないわけではありませんが、一部に限っての話です。あるいは未踏峰の初制覇も競争と言えば競争と言えます。エヴェレスト初登頂は1953年のヒラリー卿とされますが、遭難したので確認できないものの1924年のジョージ・マロリーではないかとも言われます。なぜエヴェレストを目指すのか、と聞かれたマロリーが「そこに山があるから(Because it's there)」と答えた話は有名です。

名言とされますが、なにが名言なのかよく分からないところがあります。答えに窮した発言のようにも思えます。エヴェレスト登山は、ある意味、極地探検とも言えますが、科学的要素はほとんどないと思われます。ただ単に、世界一高い未踏峰ゆえ登りたい、ということだったのでしょう。ひょっとすると、それが登山の本質を語っているのかも知れません。先史時代から、狩猟のため、旅の経路として、あるいは宗教的意味合いなど、必要性のある登山は行われていたと思われます。山に登ることだけを目的とした登山は、いつ頃から始まったのでしょうか。

「登山の父」と呼ばれる人がいます。14世紀イタリアの詩人ペトラルカです。ペトラルカは、南仏プロヴァンスにある2,000m級のモン・ヴァントゥに登り、その次第を友人に手紙で伝えます。これが近代的な意味での登山の始まりだとされるようです。ヴァントゥは、ツール・ド・フランスの難所として有名です。現代の登山に通じる文献の初出がペトラルカだということは理解できますが、これが登山のための登山の始まりだと言われても、どうも釈然としません。そもそも人は高い所へ上りたがるものではないでしょうか。それが、文明の誕生、つまり農耕とともに余剰が生まれた頃から、可能になったのではないかと思えます。

近代化とともに、スポーツは運動と競技に二極化したように思えます。運動には、挑戦と達成という要素はありますが、競い合うものではありません。登山は、運動に分類すべきでしょうが、健康な心身を保つためだけに行われるものでもありません。結果的にはスポーツとしての側面もありますが、人間が登山をする理由は、なにか本能的なものなのではないか、という気がしてなりません。(モン・ヴァントゥ 写真出典:ja.wikipedia.org)

夜行バス