2020年12月29日火曜日

ゆく年くる年

紅白歌合戦の映像がパッと消えると、しんしんと降る雪のなかに寺院が浮かび上がり、一呼吸おいて、ゴォ~ンと除夜の鐘が響く。私のなかのNHK「ゆく年くる年」のイメージです。その歴史は、前身のラジオ番組「除夜の鐘」から数えれば、百年になんなんとします。現タイトルでのTV放送は55年からで、平均視聴率は20%を越えています。歴代最高視聴率81.4%を記録した1963年の紅白歌合戦直後の放送は、57.4%を記録しています。やはり紅白歌合戦から続けて見るというのが定番なのでしょう。私は、もう何十年も紅白歌合戦を見ていませんが、習い性で「ゆく年くる年」だけは見ます。

除夜の鐘は、通常、108回突きます。108は煩悩の数であり、1回突くごとに、それを消し去っていくとされます。煩悩が108種類もあると聞けば、まったくうんざりしますが、実は五感プラス心の六根をベースに、そのヴァリエーションで構成されていました。つまり、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が、好・悪・平という3つの感情のあり方を生み、それぞれに浄・染という不浄か否かの区分が加わり、さらに個々に過去・現在・未来という時勢が存在します。これで、6×3×2×3=108となるわけです。ただ、これも一つの説に過ぎず、108の構成については諸説あるようです。

さらに、煩悩の数は108に限ったものでもないようですが、いずれの説も根本には三毒があるとされます。必要以上に求める「貪欲(とんよく)」、思い通りにならない怒り恨みの「瞋恚(しんに)」、妄想、混乱、鈍さを指す「愚痴(ぐち)」です。言われてみれば、確かに思い当たるものばかりです。さらに、それらの根本にあるのが「無明」だとされます。真理に対して無知である状態のことです。この世が無常、無我であること、つまり「空」を理解していないことから煩悩が生まれるというわけです。

深夜、遠くに近くに寺の鐘が聞こえ、港が近ければ、0時に一斉に鳴らされる霧笛も聞こえ、年が改まることを、しみじみと実感することができます。昨日が今日になるだけのことではありますが、何か厳かな気持ちになれます。そこは、厳粛さに漫然と浸るのではなく、煩悩に思いを致し、己が無明を恥じて、空を思うべきなのでしょう。ま、それができるくらいなら、高僧にでもなっていたのでしょうが、現実は、108でも足りないくらいの煩悩を抱えて悪戦苦闘する年々なわけです。

せめて「ゆく年くる年」で名山の梵鐘の音を聞きながら、清々しく新年を迎えたいものだと思います。これが欧米だと、カウントダウン、花火、シャンパン、蛍の光と、随分にぎやかな煩悩の世界になります。昔、スペインに旅行した際、コスタ・デル・ソルのトレモリーノスで年越しをしたことがあります。地元の人たちが大きな宴会場で年越パーティをしていました。随分賑やかなので覗きに行くと、入れ、入れ、と言われ、結果、参加させてもらいました。自分の歳の数だけぶどうを食べ、0時になると蛍の光合唱に続き、ジェンカのような大きな踊りの輪ができました。長老のような人の前に連れていかれ、ご挨拶すると、胸ポケットから大きな葉巻を出して、私にくれました。とてもおいしい上質な葉巻でした。(写真出典:fanblogs.jp)

マクア渓谷