2023年7月30日日曜日

「マッド・ハイジ」

監督:ヨハネス・ハートマン/サンドロ・クロプフシュタイン  2022年スイス

☆☆+

低予算で撮られたB級映画のファンは少なからずおり、かつ熱烈なファンが多いように思います。そのファンの代表格がクエンティン・タランティーノであり、B級映画へのオマージュの最高作を撮ったのもタランティーノだと思います。コアなファンが、途切れることなく存在するということは、B級映画が、ある意味、映画の本質を体現しているからだと思われます。B級映画の世界は実に幅広く、かつ熱心なファンたちによって、かなり細かく分類されています。”マッド・ハイジ””は、エクスプロイテーション映画であり、スプラッター映画であり、ハイマットのパロディ映画であり、と様々なラベルがつくようです。一言で言うなら、低俗パロディ映画です。とは言え、決して馬鹿にはできません。

本作は、クラウド・ファンディングで世界中から資金を集め、制作されました。いかにコアなB級映画ファンが多いかという証左です。近年、クラウド・ファンディング映画も増えていますが、多くは社会派、文芸系です。B級映画としては、ナチスとSFを合体させた「アイアン・スカイ」(2012)が思い出されますが、集めた金額は約1億円でした。対して”マッド・ハイジ”は3億円を集めています。よく知られた児童文学とスプラッターという組み合わせ、スイスいじりというパロディ等がウケたということなのでしょう。B級映画は、常識を越えるゴア表現も大事ですが、いかに人目を引くプロットを発想できるかも勝負になります。例えば、月の裏側で反攻を準備しているナチスとか。

チーズ工場の社長が独裁者としてナチス的にスイスを支配します。その工場以外のチーズの生産・流通は禁止されますが、ハイジの恋人で山羊飼いのペーターは、ゴート・チーズを作っていることがバレ、殺害されます。ハイジは復讐を誓います。ハイジのおじいさんも、家を焼かれ、殺されかけます。反政府運動の闘士だったおじいさんは、昔の仲間に声をかけ、再び立ち上がります。ハイジは、スイスを象徴する女神に武術を鍛えられ、刑務所で知り合ったクララ・ゼーゼマンとともに、独裁者を倒します。18禁指定だけにゴア表現満載ですが、スイスの自虐ネタ、お決まりのB級映画へのオマージュも満載です。ただ、盛り込みすぎて、ややテンポを落としている面もあります。

実は、映画の主題歌として日本のアニメ「アルプスの少女ハイジ」の曲を使おうとしていたようです。結果的には使用許可が得られなかったとのことです。どうやら欧州では、この日本のアニメがよく知られているようです。日本での放送は、1974年ですが、何度も再放送され、海外にも輸出され、特に欧州では、定番アニメの一つになったと聞きます。原作は、19世紀後半に出版されたヨハンナ・シュピリの児童文学ですが、スイスですら原作よりもアニメの方が有名なのだそうです。その制作には、総監督として高畑勲、キャラクター・デザインには宮崎駿も名を連ねています。アニメ版へのリスペクトなのかも知れませんが、クララ役には日系の女優が起用されています。

欧州で、スイス人は嫌われていると言えば言い過ぎなのでしょうが、ウザいと思われがちだと聞きます。永世中立国としての立場、金融大国としての姿勢等が、身勝手と言った印象を与えるのでしょう。また、気質として四角四面といった印象も持たれているようです。そのスイスで、国を代表する児童文学を題材に、こんな馬鹿げた映画が作られたことが一番の驚きかも知れません。実際、制作にあたっては、企業や団体から協力を断られ、制作に参加したスタッフも職場を解雇されたりと、なかなかの圧力があったようです。我々も、日本文化を茶化した映像を見れば気分が悪くなりますから、理解できる面もあります。ま、低俗B級映画ですから、全てのスィッチをオフにして、ただ笑い、ただ驚いていればいいのだと思います。それがB級映画の本質でもあります。(写真出典:news.yahoo.co.jp)

2023年7月28日金曜日

Tシャツ

クルー・ネックの白いTシャツを着始めたのは高校生の頃でした。当時は、アイビー・ルックにおける定番の下着でした。その後、プリントTシャツが当たり前の時代を迎えますが、私は、それを着ることはありませんでした。というのも、永い間、かつ一年中、下着として着ていたので、アウター・ウェアとして着ることには抵抗感があったわけです。そもそもTシャツは、下着として、19世紀後半のアメリカで生まれています。当時、一般的だった男性の下着と言えば、西部劇などでよく見かける上下一体型のユニオン・スーツでした。それを、鉱山など暑い環境で働く労働者のために、上下を別にしたことでTシャツが誕生します。 

1913年には、アメリカ海軍が下着としてTシャツを採用します。安くて、着心地が良く、洗濯も容易だったことが評価されたようです。兵隊たちは、作業時に、制服を脱いでTシャツ姿で働くようになります。ほどなくTシャツは、全米の労働者たちの間に広がっていきます。1932年には、アメリカン・フットボール選手の下着として、クルー・ネックTシャツが開発され、海軍がこれを採用したことから、以降、クルー(船員)・ネックと呼ばれます。現在のように、Tシャツがアウター・ウェアとして認識されるようになったきっかけは、1951年公開の映画「欲望という名の電車」だと言われます。マーロン・ブランドのTシャツ姿が評判となり、若者たちがこぞって真似をしたからです。

1960年代になると、プリントTシャツの時代が始まります。プリントTシャツ自体は、40年代からあったようです。ただ、旧体制を批判するカウンター・カルチャーの時代にあって、Tシャツは、単なるファッションから、主義主張を表明するコミュニケーション・ツールへと変化を遂げました。その動きが、アウターとしてのTシャツの一般化を決定づけたと思われます。いまやTシャツは、アパレル産業の大きな部分を占め、1着数十万円という超高級ブランド品まで存在します。私も、ここ10年ばかり、Tシャツを着るようになりました。ただ、購入する際には、いまだに着心地以外の判断基準がよく分かりません。

下着だったものが、時代とともに表に出てきてアウター化するという変化は興味深いと思います。その機能性の高さゆえ、ということは理解できますが、もう少し異なる背景もあるように思います。日本でも、着物の標準である小袖は、そもそも下着でした。平安期の貴族の下着として着用されていたものが、平民の日常着となり、鎌倉時代には一般的なアウターへと変化したようです。つまり、下着のアウター化という傾向は、権力構造の変化、あるいは民主化の動きと深く関わっているということなのでしょう。権力を持つ階層がタブーと規定したものが、タブーではなくなっていく構図と言えます。

家族でハワイへ行ったときのことです。カラカウア通りを散歩している時、小学校へ入りたてだった長女は、自分が通うフォックスメドー小学校のTシャツを着ていました。すると、通りを歩いてきた3人組の若者たちが大騒ぎを始めます。ワオ、俺たちもフォックスメドーの卒業生だぜ、フォックスメドー、イェー、スカースデール、イェー、というわけです。アメリカ人が、観光地で、わざわざ地元や母校のTシャツを着ている姿をよく見かけたものです。単なる地元愛だけではなく、プライドやアイデンティティを失わないように着ていたのかも知れません。Tシャツが持つことになった多様な意味合いに驚きました。(写真:「欲望という名の電車」のマーロン・ブランド 出典:rollingstone.com)

2023年7月27日木曜日

南部鉄器

東北の豪族の多くは、前九年の役、後三年の役に従軍した源氏勢、あるいは鎌倉幕府や北条家の御家人たちです。甲斐源氏の南部氏は、北条家の御家人として奥州合戦に従軍し、その功が認められ、奥州北部を拝領します。現在の青森県三戸町に居城を構えた南部氏は、南北朝時代から、急速に勢力を拡大していきます。過日、初めて三戸城跡を見てきました。大きくはありませんが、急峻で独立した台地に建つ城は、落とすことが難しかったと思われます。小田原征伐での活躍が、秀吉に認められた南部氏は、青森県東部から岩手県北部まで所領を拡大し、その中央にあたる不来方(盛岡)へと居城を移します。同じ土地を700年以上治めた領主としては、他に薩摩の島津氏がいますが、世界的にも珍しい存在と聞きます。

盛岡藩は、広大な領地を持つものの、土地は山がちであり、表高は10万石、内高20万石と言われます。かつ寒冷な気候は稲作には適しておらず、多くの飢饉と一揆が発生します。特に沿岸部では、夏場に”やませ”という冷たい東風が吹き、大飢饉が頻発しています。国内では、最も遅くまで、粟・稗といった雑穀を主食にしていたとも聞きます。一方、北部は、古来、駿馬の産地として知られ、平安期には一戸から九戸までの牧場体制が整備されています。また、奈良時代に掘削が始まったとされる尾去沢鉱山をはじめ、金・銀・銅・砂鉄等の鉱物資源にも恵まれていました。ちなみに尾去沢は、現在、秋田県内にありますが、もともとは盛岡藩領でした。戊辰戦争の際、新政府側の秋田藩が奥州越列藩同盟側の盛岡藩を破り、入手しています。

その鉱物資源を使って生まれたのが南部鉄器です。安土桃山時代の末期、第2代藩主となった南部重直は茶の湯に造詣が深く、京都から釜師、甲州から鋳物師を呼び寄せ、地元の砂鉄を使った茶釜を作り始めます。実は、岩手県名産の南部鉄器の生産拠点は2カ所あります。南部氏の城下町である盛岡とその近郊、そして旧仙台藩領であった県南の水沢です。水沢の鉄器の歴史は盛岡よりも古く、平安末期、藤原清衡が、近江から鋳物師を招いて製造が始まったようです。豊富な砂鉄、そして北上川がもたらす砂や泥が良質な鉄器を生みました。室町期には、京都から移住した鋳物師たちが産業化したとされます。江戸期には、仙台藩の庇護を受け、幕末には大砲も製造していたようです。

不思議なのは、もともと水沢鋳物と呼ばれていた水沢の鉄器が、今は南部鉄器と呼ばれていることです。幕藩体制の解体を目的とする廃藩置県のおり、盛岡藩北部は青森県に編入され、水沢のある仙台藩北部は岩手県に編入されました。奇しくも、陸奥の2大鉄器である南部鉄器と水沢鋳物が一つの県に存在することになったわけです。両者とも、明治・大正期に隆盛を極めますが、戦時中は製造が制限され、戦後はアルミ製品に押され、苦しい時期が続きます。1974年、南部鉄器と水沢鋳物は、まとめて南部鉄器として経済産業大臣指定の日本の伝統工芸品に選ばれます。どうやら1950年代中期頃から、両者とも南部鉄器と呼ばれるようになっていたようです。

今でも、水沢の人たちは、藩も言葉も異なる盛岡に違和感を持っていると聞きます。とは言え、鉄器冬の時代を乗り切るために、あえてブランドを統一し、共にがんばろうということになったのでしょう。ただ、現在でも、盛岡には南部鉄器協同組合、水沢には水沢鋳物工業協同組合が独立的に存在します。ブランド統一後も、南部鉄器より古い歴史を誇る水沢鋳物は、そのプライドを失っていないわけです。東北新幹線の水沢江刺駅前には、巨大な鉄瓶のモニュメントが設置されています。日本一のサイズを誇ると聞きます。南部鉄器は、いまや伝統工芸品として世界に知られるようになりましたが、かつて大砲まで鋳造した水沢鋳物の伝統を残そうとしているのでしょう。余談ですが、私は、風鈴と言えば、南部鉄器に限ると思っています。余韻が長く澄んだ高い音色は、禅にも通じる奥深さがあると思っています。(写真出典:amazon.co.jp)

2023年7月25日火曜日

「サントメール」

監督: アリス・ディオップ   原題:Saint Omer   2022年フランス

☆☆☆+

2022年のヴェネツィア国際映画祭で、銀獅子賞および新人監督賞を受賞した話題作です。セネガル移民2世のフランス人であるアリス・ディオップ監督は、ドキュメンタリー作家として注目を集めていたようですが、長編ドラマとしては本作が初監督作品となります。実際に起きた若い母親による乳幼児殺害事件の裁判がモティーフになっています。法廷シーンの台詞は、法廷記録をほぼ忠実に再現しているとのこと。監督も、実際に裁判を傍聴したようです。事件は、2013年、フランス北部で起きました。高齢のフランス人彫刻家と同棲するセネガル人留学生が、人知れず出産して育てた1歳半の子供を砂浜に放置し、殺害したという事件です。留学生は、法廷で、なぜこうなったのか分からないと証言します。

アプローチは、セミ・ドキュメンタリー的ですが、緊張感は優れたドラマのそれだと思えます。その理由は三つあると思います。一つは、監督自身が反映された傍聴者というサブ・フレームの設定です。セネガル移民2世の大学教授は、妊娠4ヶ月で、母になることへの不安、そして母親への複雑な思いを抱えています。二つ目は、見事なキャスティングと存在感ある演技です。特に、裁かれる留学生を演じたガスラジー・マランダの存在感、そして困惑に正対する姿が印象的でした。また、傍聴する大学教授役のカイジ・カガメが演じる漠然たる不安感が、本作を見事なドラマに仕立てている面があります。他の出演者もほとんど女性ですが、抑え気味の演技が実存感を高めています。

三つ目は、よく練られた脚本です。裁判記録に基づく台詞もさることながら、あえて結論めいた展開を避け、判断を観客個々に委ねるというシナリオは、テーマの訴求に極めて有効だったと思います。特に、法廷映画にも関わらず判決を一切伝えていないことが、本作のテーマを象徴しています。実際の裁判では、精神科医が妄想症との診断を下しながらも、判断能力ありとし、懲役20年と精神病の治療を命じる判決が下されています。法の世界では裁かれて当然としても、果たして、封建的な家庭に育ち、差別的環境のなかで孤独を募らせた被告の母性を裁くことはできるのか、ということなのでしょう。しかも、それは単なる同情や差別批判ではなく、母性の複雑性そのものを問うていると考えます。

弁護人による印象的な最終弁論は、実際の裁判記録とは異なるようですが、本作のテーマに関する解題とも言える内容になっています。やや語りすぎているようにも思えますが、テーマの複雑性からしてやむを得なかったのかも知れません。母性の複雑性を伝えるキマイラの例えは興味深いものがあります。キマイラは、ギリシャ神話に登場します。頭はライオン、胴は山羊で頭部まで備え、尻尾は蛇、そして口から火を吹くという怪物です。中世のキリスト教では、悪魔や淫乱の象徴とされ、また、その複合性ゆえ女性の象徴と捉えることもあったようです。生物学のキメラ、つまり同一個体のなかに遺伝子型の異なる組織が存在する現象の語源でもあります。母と子は、臍帯を通じてキメラを生じるともされます。

事件は、日本なら育児ノイローゼという言葉で括られることになるのでしょう。育児ノイローゼは、ストレスやホルモンの乱れが原因とされます。ただ、本作が語る母性と孤独を思えば、それほど単純なものではなく、より奥深いものがあるように思えます。母子の一体感が存在する一方で、途切れることのない人類のリンクのなかに置かれる不安や孤独感、またそれゆえに生じる自分の母親への複雑な思い等々、単純には言い表せないものがあるのでしょう。その感覚は、男性には理解不能なのかもしれません。ただ、監督のシャープな演出が問いかけるものは深いとは思いました。セリーヌ・シアマ監督が、本作を「ジャンヌ・ディエルマン」に匹敵するとまで評価していますが、分かるような気がします。(写真出典:cinemarche.net)

2023年7月23日日曜日

カリオカの夜

Marcos Valle
ブルー・ノートで、マルコス・ヴァーリのライブを楽しみました。フュージョン・バンドのアジムスを従えての演奏でした。ブラジルのポップス界を代表するマルコス・ヴァーリも80歳。演奏も見た目も若々しく、年齢を感じさせません。シンガー・ソング・ライターですが、ギター、キー・ボードの腕前もなかなかのものです。音楽も幅広く、ボッサ・ノヴァからキャリアを始めましたが、ジャズ、ロック、ソウルの要素も取り入れたポップ・ミュージックを展開します。マルコス・ヴァーリの演奏は、強いリズム、都会的センスを感じさせるメロディ、アレンジが特徴で、とても心地良い上質な音楽と言えます。いわばリオ・デ・ジャネイロの風を感じさせる音楽と言えます。ま、残念ながらリオには行ったことがないのですが・・・。

マルコス・ヴァーリが、その名を世界に知らしめたのが「サマー・サンバ(原題:Samba de Verão 英題:So Nice)」(1964)のヒットです。1966年に、ジャズ・オルガンのワルター・ワンダレーがレコーディングして、世界的な大ヒットになりました。ボッサ・ノヴァを代表する曲の一つと言ってもいいのでしょう。マルコス・ヴァーリは。1943年、コパカバーナ界隈の裕福な家に生まれています。ボッサ・ノヴァが生まれたその時、その場所で、思春期を迎えていたわけです。まさにボッサの申し子です。その後、ブラジルと米国で、幅広いポップを演奏するものの、その音楽にはブラジルの伝統が息づいています。私は、勝手に、マルコス・ヴァーリの音楽はショーロのモダン・ヴァージョンではないか、と思っています。

ショーロは、19世紀のリオ・デ・ジャネイロで生まれた音楽です。西アフリカと西洋の音楽が融合して生まれ、即興演奏を楽しむ都会的なスタイルから、ブラジルのジャズとも呼ばれます。私は、サンバにハマって20年以上経ちますが、きっかけはショーロの名曲「カリオカの夜(Noites Cariocas)」を耳にしたことでした。カリオカの夜は、ショーロの立役者にしてバンドリンの天才ジャコー・ド・バンドリンの作曲で、1957年に録音されています。バンドリンという楽器は、フラット・バックのマンドリンであり、ショーロでは中心的な楽器です。また、カリオカとは、リオっ子を意味し、”白人の家”という先住民の言葉が語源とされます。ジャコー・ド・バンドリンも、リオで生まれ育ったカリオカです。

ブラジル音楽の特徴としては、重層的なリズム、7thはじめ多様で複雑なコード進行、アンティシペーションなどが挙げられます。ただ、それらを使って表現されているのは”サウダージ”につきるとも言えます。サウダージは、一般的に、郷愁、憧憬、思慕、切なさ等と訳されますが、とても正確な翻訳などできないとも言われます。確かに、十分に共感できるにも関わらず言葉にすることは難しい感情だと思います。例えば、切々と歌い上げるポルトガルのファドは、サウダージの音楽とされますが、ブラジルのサウダージは、多少、ニュアンスが異なり、人の連帯といった温かみも加わっているように思います。カリオカの夜も、典型的にサウダージを感じさせます。言葉ではうまく表現できないからこそ音楽で共感しあうのだ、とも言えそうです。

リオの下町には、サンバのライブを聴かせるサンバ・バーが多く存在すると聞きます。一度出かけて、長逗留し、サンバづけの日々を過ごしてみたいと思っていました。しかし、リオへのフライトはアメリカ経由で24時間以上かかり、かつ、治安も悪く、言葉も通じません。昔、単身で、サンパウロへ一ヶ月間出張したという人の話を聞きました。ポルトガル語は話せたのか、と聞くと、全然話せない、でも英語の語尾にAかOを付ければ雰囲気は出る、と言っていました。ガソリン・スタンドで「ガソリーナ、マンターノ!」と言ったら通じたと自慢していました。決して言葉が通じたわけではありません。スタンドへ車で行って野菜を買う人はいませんからね。”マンターノ”にいたっては英語ですらありません。いずれにしても、リオはあまりにも遠いので、CDや配信でサンバを楽しみ、たまには来日するミュージシャンのライブへでかけて、カリオカたちの夜に思いを馳せたいと思います。(写真出典:en.wikipedia.org)

2023年7月21日金曜日

奈良漬け

いただき物をして、久々に奈良漬けを食べました。とても美味しくて、あらためて奈良漬けの奥深さを感じました。味や食感の良さ、美しい鼈甲色、これに歴史を加えれば、奈良漬けは、まさに漬物界の国宝だと思います。奈良漬けの文献上の初出は、長屋王木簡だとされます。1988年に奈良市で発掘された奈良時代の木簡ですが、進物としての粕漬けの瓜と茄子、という記載があるようです。当時の酒はどぶろくなので、酒粕といっても、搾った粕ではなく、底に溜まった沈殿物だったようです。酒粕は、酒の歴史とともにあるとも言われます。清酒の登場は天平の頃と言われますが、どぶろくの歴史はあまりにも古すぎて判然としないようです。いずれにしても、奈良漬けは、とてつもなく長い歴史を持っているわけです。

奈良漬けは、空気に触れない限りは、何十年も何百年も保つと言います。実際、奈良の老舗には江戸期に漬けた奈良漬けが存在し、色は真っ黒ながら、味はとてもマイルドなものなのだそうです。売ってもくれるそうですが、べらぼうな値段になるのでしょう。なれずしの発祥地とされる中国南部の山村には、数百年ものの川魚のなれずしが存在するようです。やはり空気に触れさせないことが長期保存のポイントだと言います。琵琶湖の鮒ずしも、数十年ものがあると聞きます。奈良漬けは、塩漬けした野菜や果物を漬けますが、魚や肉は聞いたことがありません。恐らく魚や肉は水分を完全に抜くことが難しく、いかに空気を遮断したとしても、漬け換えの際に腐敗菌を防ぎきれないということだと思われます。

ちなみに、奈良漬けについている粕を拭き取り、魚や肉にまぶすと、簡単な粕漬けができます。奈良漬けは、基本的に粕漬けですが、他の粕漬けと異なるのは、複数回の漬け換えを行い、長期間漬け込むという点です。それによって深い味と色が出るわけです。奈良県は、大昔から酒造が盛んな土地柄です。酒粕は十分にあったわけです。奈良漬けという名称は、江戸初期、奈良に住む漢方医が白瓜の粕漬けを「奈良漬け」と称して売り始めたことから広まったようです。奈良漬けと言えば白瓜と思いがちですが、どうもここが原点となっているようです。実際のところ、奈良漬けは、様々な野菜、あるいは果実でも漬けることができます。商品としては、胡瓜、大根、生姜、さらには西瓜、柿等々もあるようです。

米から酒を造れば、粕や沈殿物が出るわけですから、アジア各地にも、古くから粕漬けの類いは存在するのだろうと思っていました。ネットで調べた限り、近代になってから登場した、あるいは日本の粕漬けを模して作られたものはあるようですが、大昔から存在していたものは確認できませんでした。もしあったとしても、実にマイナーな存在だということなのでしょう。いささか不思議な気がします。黄酒(ホアンチュウ)は、米から作る中国の酒です。紹興酒が有名ですが、長期熟成すれば老酒になります。黄酒の酒粕は、調味料の材料として使われることがあるようです。特に紹興酒の酒粕に塩やスパイスを加えて熟成したものは香糟(シャンザオ)と呼ばれ、各種料理や漬物にも使うことがあるようです。

国宝級の奈良漬けがあるにも関わらず、関西の人はよく「奈良にうまいものなし」と言います。大阪の朝のTV番組で、アナウンサーが堂々と言っているのを聞いて、たまげたことがあります。実際には、奈良漬け、柿の葉寿司、日本酒、吉野葛、三輪素麺、茶粥、柿、お城の口取り餅、きみごろも等々の名物があります。滋賀県も同様ですが、美味いものがないのではなく、外食の文化が乏しいのだと思います。奈良も滋賀も節約文化が根付いているのでしょう。事実、両県とも貯蓄性向の高い地域です。余談になりますが、宴席等で、奈良県の名物グルメを聞くと、奈良漬け、柿の葉寿司まではスンナリ出てきます。それから、とたたみかけると、多くの人は、決まって鹿せんべいと答えます。鹿せんべいは、人間の食べ物ではありません。(写真出典:km-plumselect.com)

2023年7月19日水曜日

税関吏の夢

アンリ・ルソー「夢」
アンリ・ルソーの絵をはじめて見たのは小学校高学年の頃だったと思います。それ以降、アンリ・ルソー的なジャングルが、しばしば夢にでてきます。ルソーの絵が持つ不思議なパワーだと思っています。アンリ・ルソーは、19世紀末から20世紀初頭のナイーフ派の画家です。ナイーフ派とは、絵画に関する正式な教育も受けず、画家を職業ともしない素人画家を指します。アンリ・ルソーの職業は税関吏でした。他にも園芸業だったアンドレ・ボーシャン、農民だったグランマ・モーゼス、家政婦だったセルフィーヌ・ルイ、魚屋の妻だったモード・ルイス等々が知られます。身近な画題を独学の素朴なタッチで描くことからナイーフ派と呼ばれますが、流派や運動が存在するわけではありません。 

素人画家という意味では、いつの時代にも、人知れず多く存在していたのでしょうが、一つのジャンルとして認識されるきっかけとなったのは、アンリ・ルソーが”発見”されたことだったようです。1908年、ピカソがモンマルトルの古物屋で、アンリ・ルソーの「女性の肖像」を見つけ、わずか5フラン(200円弱)で購入します。これが、いわゆる”洗濯船”に集う画家や詩人に驚きを与え、ルソーを招いて盛大な夜会まで開かれます。アンリ・ルソー64歳の時のことです。ルソーは、既に税関を辞め、年金暮らしをしながら絵に専念していました。新しい芸術を指向していたボヘミアンたちに”発見”されたルソーですが、その2年後には亡くなっています。ピカソは、ルソーの絵を数点購入し、終生、手元においていたと言われます。

ピカソは、ルソーを発見する前年、アフリカ彫刻に触発された「アビニヨンの娘たち」を発表し、キュビズムの世界へと入っています。また、マティスやブラマンク等はフォービズムを展開していた頃です。つまり、美術界の気鋭たちは、プリミティヴィスムの大きな流れのなかにあり、ルソーも、その文脈のなかで認識されたと言えるのでしょう。プリミティヴィスムは、文明の進化に批判的で、自然であることを重視するという意味において、古代から絶え間なく存在した思想です。ストラヴィンスキー、ポール・ゴーギャン等が象徴とされる近代のプリミティヴィスムでは、反植民地主義、エキゾチシズム、反産業革命、ユートピア論なども含まれる傾向にあります。では、アンリ・ルソーは、プリミティヴィズムの画家だったのでしょうか?

ジャングルやアフリカの動物といった画題からすれば、確かにプリミティヴィスムの作家とも思えます。ただ、ルソーは、ナイーフ派の画家らしく、人物、風景、静物等と身近な画題を多く描いています。ルソーが、他のナイーフ派と大きく異なるのは、夢や幻想の世界へ足を踏み入れたことだと思います。しかも、それは主義主張とは無縁のごくシンプルな夢想の世界だったのでしょう。絵画の基本とは無縁な描き方は、確かにプリミティブとも言えますが、プリミティヴィスムとは異なります。夢想したことを絵に落とし込む執念、対象をごく細密に描きあげる執念。そこには、観るものの目線など一切気にしない自己完結の世界があります。そのスタンスこそ、プリミティヴィスムなど吹き飛ばすほどプリミティブだと言えます。

そもそも絵を描きたいという欲求、あるいは表現したいという衝動自体がプリミティブなものだと思います。そこに、鑑賞者の視線を意識する、伝えたいという欲求が強まるなど、他者への意識が加わると画家が生まれるということなのでしょう。そういう意味で、アンリ・ルソーは、アウトサイダー・アートの嚆矢なのかも知れません。タヒチへ移住したポール・ゴーギャンは、プリミティヴィスムの象徴となりました。ただ、タヒチで複数の少女を妻としたことから、移住の動機は文明批判ではなく、性的欲求だったという批判があります。もしそうだったとすれば、そのこと自体が、最もプリミティブだと思えます。ちなみに、かつて高熱を発した時に、よく見た夢があります。コロンビアのフェルナンド・ボテロが描くぼってりとした人物が、さらに膨張していく夢です。何故ボテロなのかは不明ですが、実に強烈な夢ではあります。(写真出典:amazon.co.jp)

2023年7月17日月曜日

「インディー・ジョーンズと運命のダイアル」

監督:ジェームズ・マンゴールド      2023年アメリカ 

☆☆☆

マンゴールド監督は、「3時10分、決断のとき」、ウルヴァリンもの、「フォードvsフェラーリ」等を撮ったヒット・メーカーです。とは言え、よくこの仕事を引き受けたな、と感心します。シリーズの前4作はスピルバーグの偉業であり、ファンと制作会社の期待も大きなものがあります。さらには80歳になったハリソン・フォードを主演とすることも含め、尋常ならざるプレッシャーがのしかかる仕事です。結果としては、なかなかうまいことこなしたな、という印象です。たたみかけるアクション、スピード感、長尺といった近年のアクション映画の傾向を盛り込み、今風の娯楽映画に仕立てています。それは、同時に、前4作が持っていた完成度の高い風合を失うことでもあります。ただ、それはそれでやむを得ない選択だったのだろうとは思います。

監督は、いかにもインディアナ・ジョーンズという設定を盛り込み、前4作の楽屋落ちを散りばめ、懐かしい役者も登場させる等、シリーズのファンをニヤリとさせることも忘れていません。ファンの期待にしっかり応えるというヒット・メーカーらしい見事な職人技です。山田洋次監督の寅さんシリーズがあれだけ長く続いた理由の一つも、まさにここにあります。予定調和と言えばそれまでですが、ファンにはそれがたまらないわけです。ただ、ノスタルジックなモティーフを多く盛り込みすぎて、長尺になった面もあると思います。また、高齢のハリソン・フォードをアクション映画の主役として使うための各種アイデアも、実によく考えられており、あるいは老人の自虐ネタで笑いをとることも忘れていません。

私にとっては、久々のポップ・コーン映画でした。インディアナ・ジョーンズほど、ポップ・コーンが似合う映画もありません。ただ、一方では、アクションの連続と長尺さに、正直なところ、ぐったり疲れてしました。前4作におけるスピルバーグの巧みさは、緊張と緩和というヒッチコック以来の伝統的なツボを押さえている点です。緩和パートでは笑いの要素を入れることもポイントです。マンゴールド監督も、それは心得ているのでしょうが、最近の緊張感の持続という傾向の方が勝っています。それは、コンピューター・ゲームで育った20~30歳代の観客の感性には、ピタリと合っているということなのでしょう。せいぜいがボード・ゲームという我々の世代にとっては、ちとヘヴィーなテイストです。

シリーズ第1作となった「レイダース 失われたアーク《聖櫃》」は、1981年に公開されています。前作から9年振りとなった4作目の「クリスタル・スカルの王国」は2008年の公開。それから、すでに15年が経過しています。ルーカス・フィルムが、ディズニーに身売りしたからこそ実現した映画と言えるのでしょう。そもそも3部作で終わるべき映画だったようにも思います。近年は、かつてのヒット作やヒット・シリーズのリメイクや続編作りがブームのように見えます。誰もインディアナ・ジョーンズは本作が最後とは言っていません。興業成績如何で次作もあり得るということなのでしょう。そこへいくと、前提が異なるとは言え、42年間9作で完結した「スター・ウォーズ」が潔く見えてきます。

今回、マクガフィンとして使われたのは、アンティキティラ島の機械です。1901年に発見されています。永らくオーパーツ(時代と場所にそぐわない人工物)とされてきました。近年では研究が進み、天体運行を計算するための精巧な機械であることがほぼ判明しています。数々の機械を発明したアルキメデスの作ではないかという説も確かにあります。いずれにしても、古代ギリシャの文明の高さは驚くべきものだと思います。現在、アンティキティラ島の機械はアテネ国立考古学博物館に展示されているようです。私は、NYで複製模型を見たことがありますが、とても2千年以上前に作られたものとは思えませんでした。(写真出典:eiga.com)

2023年7月15日土曜日

ティー・パーティ

ボストンでの楽しみと言えば、ユニオン・オイスター・ハウスでの食事です。1826年開店というアメリカ最古のレストランの一つです。長い歴史のなかで多くの著名人が訪れていますが、なかでもケネディ家は常連として知られています。ケネディ家が好んだ席は、ケネディ・ブースと呼ばれ、名物となっています。ユニオン・オイスター・ハウスで食べるべきは、生のオイスターやチェリーストーン・クラム、伝統的なニュー・イングランド・クラム・チャウダー、そして新鮮なロブスターです。食事も美味しいのですが、最大の売りは、独立戦争の70年前となる1704年に建造された建物です。独立戦争を見てきたその歴史と植民地時代そのままといった店内の風情は、ユニオン・オイスター・ハウスを唯一無二の存在にしています。

アメリカでは「American Revolutionary War(アメリカ革命戦争)」と呼ばれる独立戦争は、1775年、ボストン近郊のレキシントンとコンコードの戦いに始まります。4月19日早朝、レキシントンで民兵と英国兵が対峙するなか、偶発的な発砲によって小競合いが発生します。数時間後、コンコードのノース・ブリッジを挟んで両軍主力が交戦を開始します。再現されたノース・ブリッジを見たことがありますが、決して大きな川でも大きな橋でもありません。本格的な戦闘は、ここに開始されたわけですが、植民地と英国との衝突は、1770年の「Boston Massacre(ボストン大虐殺)」に始まります。事件は、ユニオン・オイスター・ハウス近くの旧州議会場の前で起こっています。

事の端緒は、少年が英国兵をからかったことでした。英国兵8名は、集まってきた数百人の市民に取り囲まれます。恐怖にかられた英国兵が、命令なしに発砲し、結果、5名の市民が亡くなりました。大虐殺とは、当時、急進派が扇情的に使った言葉ですが、現在まで使われています。背景には、ダウンゼンド諸法による英国の植民地支配の強化、それに対する植民地側の猛反発がありました。植民地の抵抗によって、同法は概ね撤廃されますが、1773年には東インド会社による紅茶の独占販売を目論む茶法が定められます。増税ではないものの、紅茶業者は大打撃を受けます。植民地の権利を無視する英国政府への反撥が強まり、"No taxation without representation(代表なくして課税なし)"というスローガンが広まります。

1773年12月、茶法に反対する集会が、これまたユニオン・オイスター・ハウスにほど近いオールド・サウス集会場で行われます。激高した参加者の一部が近くの港に停泊していた英国船を襲撃、積み荷の茶箱を海に捨てるという挙に出ます。いわゆる「The Boston Tea Party(ボストン茶会事件)」です。これに態度を硬化させた英国は植民地政府に介入する法律を制定し、植民地側も13の植民地州が大同団結して対抗します。そしてレキシントン・コンコードの戦いへとつながるわけです。独立戦争と言えば、武力で制圧された国や民族が主権を回復するための闘争というイメージがあります。アメリカ独立戦争は、十分な経済力を持つにいたった植民地とあくまでも植民地支配にこだわった宗主国との戦いです。つまり、植民地の市民が、自らの権利を獲得した戦いであり、革命と呼ぶに相応しいのでしょう。

今年は、茶会事件から、250周年に当たります。様々なイベントも予定されているようです。そして2026年、アメリカは建国250年という節目を迎えます。それを先頭に立って祝うのは、次期大統領ということになります。次期大統領には、建国の精神を忘れない人物に就任いただきたいものだと思います。余談ですが、アメリカには、議会に文句がある場合、国民が紅茶を議事堂に送りつける慣習があります。今も続いているかどうかは分かりませんが、私のNY勤務中には、議員報酬の引き上げが議論されると、全米からティー・バッグが山ほど送られていました。また、小さな政府を求めて起こった「ティー・パーティ運動」は、2010年の中間選挙における共和党の躍進を実現しました。言うまでもなく、これは茶会事件にちなんで命名されています。ちなみに、英国領だったアメリカが、紅茶ではなく、コーヒー好きの国になったきっかけも茶会事件にあるとされます。(写真:Union Oyster House 出典:inbounddestinations.com)

2023年7月13日木曜日

「遺灰は語る」

監督:パオロ・タヴィアーニ  原題:Leonora Addio  2022年イタリア

☆☆☆☆ー

これは、もう映画ではなく、映像化された辞世の句と理解すべきだと思います。映画の冒頭、イタリアの劇作家ルイジ・ピランデッロのノーベル賞授賞式の映像が映し出され、名誉あるノーベル賞も、寂寥感を和らげることはない、というピランデッロの独白が重なります。人生の末日における寂寥感は、誰もが避けられない地獄なのでしょう。兄弟で映画を撮ってきたパオロ・タヴィアーニは、92歳となり、兄ヴィットリオを失いました。タヴィアーニにとって、ピランデッロの独白は自身の声なのでしょう。通常の映画とは大いに異なる本作は、評価が分かれると思います。残日の頃を迎えた私にとっては、とても印象的に残る作品でした。

映画のプロットは、ルイジ・ピランデッロの遺灰を故郷シチリアに移送するというものです。ピランデッロは、ノーベル賞を受賞した2年後の1936年、ローマで亡くなっています。故郷シチリアへの埋葬を望んだピランデッロでしたが、その遺灰はローマに留め置かれます。遺灰がシチリアに戻ったのは戦争が終わってからだったようです。それは事実ですが、移送に関わるエピソードは、パオロ・タヴィアーニの創作です。この映画には、多くのメタファーが埋め込まれています。死の床にあるピランデッロと子供たちのシーンは、キューブリックの「2001年宇宙の旅」へのオマージュと思われ、遺灰が通るアッピア街道、シチリアまでの鉄路、そして制作に15年を要した墓石等は、時の永遠と人生の儚さを語ります。

また、ファシズムの時代、進駐してきたアメリカ軍、混乱する戦後政治、イタリア式官僚主義、民衆の無知と貧しさ、といった20世紀イタリアの実相が語られています。それは、パオロ・タヴィアーニの生きてきた時代そのものであり、人生を振り返っているのでしょう。シチリアまでの長い貨物列車の旅は、戦後の混乱と人生の旅路を象徴しています。そのなかで登場する新婚のシチリア青年とアルザス娘だけは、変わらぬ人間の営みの素晴らしさと欧州の将来への希望を思わせます。白黒で展開される映像は、遺灰の一部がシチリアの海にまかれる瞬間、美しいカラー映像に切り替わります。死を自然への回帰として賛美しているかのようです。これがパオロ・タヴィアーニが行き着いた死の受け入れ方なのでしょう。

なんとも不思議なのは、巻末に登場する映像です。ピランデッロが死の20日前に書いたという短編を映像化したものです。NYのブルックリンを舞台に、シチリア移民の少年が少女を殺害する話です。父に無理やり移民させられた少年のやるせなさが爆発した事件のように思えますが、動機を問われた少年は”Purpose”としか答えません。目的という意味ではなく、天啓という意味なのでしょう。確かに、犯行に使われた釘は、偶然、トラックから落ちたものでした。少年は、老境に至るまで、少女の墓にお参りを続けます。一神教徒以外には、”Purpose”は分かりにくい考え方です。人生の終わりにピランデッロが書き、同じく末日にあるパオロ・タヴィアーニが映像化する意味は、天啓の受容ということなのでしょうか。

映画は、美しい白黒映像、端正な映画文法、そしてニコラ・ピオヴァーニの印象的な音楽で構成されます。それでも、なお、この作品を映画として評価することは難しいと思います。もっと言えば、日の陰りを意識し始めた老人でなければ、この映画を理解することは難しいとも言えます。原題は「Leonora Addio(さよならレオノーラ)」です。ピランデッロが、1910年に発表した短編のタイトルだそうです。奔放な娘時代を過ごした女性が、束縛の多い結婚生活に入ります。ある日、子供たちの前で、昔を懐かしんでジャコモ・マイアベーアのオペラ「ユグノー教徒」のアリア"Leonora, addio!"を熱唱し、そのまま息絶えます。パオロ・タヴィアーニにとっては、映画を撮り続けて死ぬ、ということの比喩なのかも知れません。(写真:イタリア公開時のポスター 出典:imdb.com)

2023年7月11日火曜日

ブランド牛

仕事でよく盛岡に出かけるという知人が、盛岡には、わんこそば・冷麺・じゃじゃ麺といういわゆる3大麺くらいしか食べるものがないと言っていました。とんでもない。岩手県は、肉の国です。岩手県へ行ったら、三陸の海鮮、そして肉を楽しむべきです。岩手県には、前沢牛、いわて短角和牛、奥州牛、白金豚、佐助豚、南部どり、奥州いわいどり等々、ブランド肉が目白押しです。岩手県は、四国に匹敵する広い土地を有する日本の酪農の発祥地です。過日、水沢で、最も評価が高い焼肉屋の予約を取ろうとしましたが、2週間も前なのに満席でした。聞けば、全国から肉好きが集まるのだそうです。やむなく2番手の店に行きました。ごくごく普通の町の焼肉屋ですが、奥州牛の赤身を美味しくいただけました。

日本におけるブランド牛肉の始まりは、神戸ビーフということになります。日本海に面した但馬で育てられた牛です。肉食が限られていた江戸期、但馬の牛は役牛でした。神戸が開港されると、外国人のニーズに応えるべく、但馬の役牛が食用として提供されます。これが美味いと評判になり、世界に知られることになりました。神戸の人から、美味い牛肉を食べるなら東京だよと、40年程前に教わりました。神戸の牛肉は、ブランドに胡坐をかいて、いい加減なものが多いというのです。その後、神戸ビーフは厳格に定義されることになり、但馬牛の一定肉質以上の特定部位を使っています。ただ、但馬牛とせず、神戸ビーフと称しているあたりは、やはり世界的になったブランド力を活かしているわけです。

ブランドとして神戸ビーフに並ぶのが松坂牛です。もともと但馬の牛を育てて役牛としていようですが、文明開化とともに、神戸に運ばれ、神戸ビーフになっていたようです。それを日本を代表するブランドに育てたのは、松田金兵衛です。深川の料亭”和田平”で修行した後、1878年、故郷で精肉店「和田金」を創業しています。松坂牛は、900日牛舎で飼育する、ビールを飲ませる、マッサージをするなど、手間を掛けた育成で、見事なサシの入った牛肉となります。サシの入った牛肉が、日本のブランド牛の標準となり、現在では近江牛、飛騨牛、佐賀牛、宮崎牛、米沢牛、前沢牛等々、多くのブランドが競い合っています。最高級A5ランクの牛肉は、味わい深く、柔らかく、至福の逸品と言えますが、一方で、脂の塊を食べているようなものでもあります。

近年は、健康志向の高まりもあって、赤身の人気が高くなりました。サシの入りやすい黒毛和牛ではなく、短角和牛やあかうしと呼ばれる褐色和牛が主となります。すき焼きやしゃぶしゃぶはA5ランク、ステーキなら赤身が適していると思います。年齢とともにサシの入ったA5ランクを避けるようになった私にとって、赤身ブームは好都合です。正直なところ、私は、ブランド牛の違いがよく分かりません。さすがに、美味いかどうか、柔らかいかどうかは自分なりに判断できますが、ブランド牛の肉質の違いはまったく分かりません。牛肉の味は、個体差や熟成の仕方、あるいは熱の入れ方で大きな違いが生まれるものだと思います。いずれにしても、肉のブランドよりも店を選ぶことの方が大事だと思います。

私が一番美味しいと思っている牛肉料理は、キアナ牛を焼くフィレンツェのビスティッカ・アラ・フィオレンティーナです。二番目は、那覇の「牛や」の炭火焼きです。いずれもサシが入っていない牛肉です。A5ランクのブランド牛は、牛肉というよりも牛脂の芸術品といった風情であり、美味ではありますが、かなり特殊な存在だと思います。ふるさと納税のお礼品では、依然としてカニと牛肉が人気を二分しているようですが、A5ランクを家庭で美味しく調理することは、かなり難しいと思います。芸術品の調理は、やはり芸術家に任せるべきだと思います。職人による肉の見極め、あるいは熟成といった技は、素人に真似できるものではありません。(写真出典:wadakin-bestbeef.jp)

2023年7月9日日曜日

蝦夷征討

蝦夷征討のために、大和朝廷が築いた城柵は30数カ所と聞きます。なかでも、多賀城、胆沢城、志波城は、規模や重要度からして、その代表格と言っていいのでしょう。今般、その3大城柵を一気に見てきました。城柵と言っても、今は、ただの原っぱが広がるばかりです。いずれも国の史跡となっていますが、中心にあった政庁の跡地だけが保存されており、広大な城柵内の大部分は、田畑や住宅になっています。多賀城は塩釜港と川が近く、胆沢城と志波城は川の合流地点に築かれています。水運が重視されていたことがよく分かります。 多賀城は、奈良時代末期の724年に創建されました。仙台郡山にあった国府が多賀城に移され、鎮守府も併設されました。蝦夷征討の最前線とされたわけです。

4世紀に勃興したとみられるヤマト王権は、武力や饗応をもって、各地の豪族を支配下に取り込んでいきます。支配地域の拡大は、前方後円墳の分布によって確認できると言われます。仙台平野には5世紀前後に作られたと推定される前方後円墳が複数存在します。仙台平野以北では、6世紀前後の築造と推定される胆沢平野の角塚古墳があるのみであり、最北端の前方後円墳とされます。つまり、朝廷による東北への進出は、この時期から足踏みを始めたとも言えます。稲作が始まると、社会の組織化が進み、豪族が支配する”国”が各地に成立します。倭国が、国の連合体であったことは知られていますが、ヤマト王権の覇権も、各地の国を支配下におくことで成立します。

稲作は、2,500年前、津軽平野でも行われていました。ただ、広い平野が少なく、かつ寒冷な東北での稲作には限界があり、結果、地域を統括する国も未熟・未成立だったのでしょう。朝廷の支配地拡大の手法は、それまでと同じというわけにはいかなくなります。実害が無い限り、朝廷による支配地の拡大は、ここで、一旦、収束しても良かったはずです。ところが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した朝廷には、唐の侵略に備えるために、中央集権化を進め、税収の拡大を図る必要がありました。さらに、東北では、金山が相次いで発見されていたこと、半島の利権を失い新たな砂鉄の供給先を東北に求めたという説もあります。いずれにしても、蝦夷の征討は、朝廷にとって急務となったわけです。

蝦夷征討の拠点とされた多賀城でしたが、そう簡単に征討は進まず、802年、朝廷の切り札とも言える坂上田村麻呂が、10万とも言われる軍勢を率いて着任します。同年、アテルイを降伏させ、胆沢平野に進出した田村麻呂は胆沢城を築造します。翌年には、盛岡市近郊にまで進出し、志波城を建てます。ここで、朝廷の蝦夷征討は、一段落を迎えたわけです。一説によれば、手勢が千人に満たなかったアテルイは、田村麻呂の軍勢の多さ、そして建築途上だった胆沢城の規模の大きさを目の当たりにして降伏を決意したともされます。軍事拠点としての城柵ですが、政庁は、蝦夷の饗応にも活用されていたようです。まさに、朝廷の力を見せつける効果も、十分に考慮されていたということなのでしょう。

そもそも蝦夷とは、語源も、人種も、諸説あって判然としません。ただ、現在の関東以北に住んでいた人々を指していたことだけは間違いなさそうです。そして、稲作を主としない東北北部の人々は、特に”まつろわぬ民”と呼ばれることになります。”まつろわぬ”とは、言うことを聞かない、服従しない、といった意味です。気候・風土が異なれば、文化も異なります。文化の異なる東北北部と大和の間には、交流もあり、交易も行われていました。蝦夷が、朝廷側と争ったのは、朝廷が彼らの生活基盤を脅かした時だけです。異文化を蛮族と断じるのは、中国から移入された中華思想が背景にあったからなのでしょう。歴史は、常に勝者の歴史です。安全を脅かす蛮族だから征討するのではなく、彼らの恵みを手に入れたいからこそ、まつろわぬ民と呼び、征討するわけです。(写真:再現された多賀城南門 出典:kahoku.news)

2023年7月7日金曜日

血液型と性格

ABO式血液型による性格分類のブームは、1970年代から始まりました。事の起こりは、能見正比古の一連の書籍でした。放送作家や編集者であった能見正比古は、独自にデータを収集して、血液型と気質や性格に一定の関係があることを唱えました。あくまでも傾向であって、科学的な因果関係に基づくものではありません。また、能見によれば、傾向が発現する確率は1/4程度とも言っていますが、データ収集に問題があるという批判もあります。とは言え、この話に飛びついたマスコミによって大ブームが起こり、ほぼ占いレベルの話として拡散していきます。当時は、誰もが血液型の話をしており、血液型を当てるというお遊びがごく一般的に行われていました。

ちなみに、これは日本に限ったブームであり、海外では自分の血液型すら知らない人が多いそうです。能見正比古による血液型別の気質の概要は以下のようなものです。       O型  生きる欲望やバイタリティが強く、目的指向型。                 A型  生き甲斐を求めるタイプで感情や欲求は抑制的。                B型  束縛されることを嫌い、自由な発想を好むマイペース型。            AB型  ドライな合理派で、二面性を持つ。                      人間の気質など複雑なものだと思いますが、四分類という大雑把な区分によって、何となく当てはまるような気がしてくるという面もあるのでしょう。

若い頃、人事部で人事情報データベースを作ることになり、私は、血液型も入力することを主張しました。従業員が緊急輸血を必要とする場合等に役立つというのが表向きの理由です。正直なところは、血液型と気性・性格との関係、そして、それが適正配置にどう影響するのかについて興味津々だったのです。まさに個人的趣味の世界です。議論の結果、私の主張は採用され、従業員の血液型は人事データベースに収録されました。記憶では、一度だけ、実際に、従業員の緊急輸血のために、データベースが役立ったことがありました。必要だったのはAB型の血液でしたが、病院に在庫がなく、会社に協力が求められたのです。ピンポイントでの献血要請が功を奏し、無事に輸血できました。私は、鼻高々でした。

適正配置という観点でも面白い結果が出ました。日本人の血液型分布は、A・O・B・ABの順に、4:3:2:1と言われます。本社の部署別に分布を見たところ、営業本部系はA型が突出し、企画系はB型が多くなっていました。当時は、まだ高度成長期の匂いが残る時代でした。営業系と言えば、目標貫徹のために、滅私奉公、24時間勤務、イケイケどんどんといった傾向が色濃くありました。まさにA型の規律を重んじるチームプレイヤーという気質が合っていました。対して、企画系は、ムードに流されず、ユニークなアイデアを出すという点で、まさにB型が適していました。頻繁に人事異動が行われる会社でしたが、結果的には、血液型タイプに応じた適正配置が行われているように思いました。

血液型による適正配置という考え方は、戦前にも存在しました。1927年、教育学者の古川竹二が発表した血液型による気質の研究は、広く注目を集めたようです。これに目をつけた帝国陸軍は、兵隊の適正配置によって軍を強化しようと組織的な研究を行います。ただ、有為な結果を得ることは出来ず、早々に中止されたようです。血液型による性格分類は、科学的根拠が乏しく、また、差別の温床にもなるということで、下火になりました。ただ、今でも、恋愛占いなどでは、結構、人気があるようです。いずれにしても疑似科学、似非科学とされた血液型性格分類ですが、当時、多くの人たちが当たっていると思ったことの方が、よほど面白い現象だったようにも思います。(写真:能見正比古「血液型でわかる相性」 出典:amazon.co.jp)

2023年7月5日水曜日

「ペパーミント・キャンディー」

 監督:イ・チャンドン         1999年韓国

☆☆☆☆

韓国映画界を代表するイ・チャンドン監督の出世作です。監督の映画は、2019年に公開された「バーニング」を見たことがあります。村上春樹原作で、やたら評価の高い映画でした。監督の力量の高さは理解しましたが、どうも映画としてはピンときませんでした。1997年のアジア通貨危機の際、韓国はIMF管理下に入り、外貨獲得のためのコンテンツ輸出政策の強化を求められます。昨今の韓国映画界、音楽界の世界的活躍は、その賜物と言えます。本作は、その初期にリリースされた作品あり、以降、国際映画祭の常連となる韓国映画の先鞭になったとも言えます。また、1998年に始まった日韓文化開放後、初の共同制作であり、NHKが制作に参加しています。

イ・チャンドンは、大邱の国立慶北大学の学生だった頃、民主化運動の一部を構成する文化人運動の立役者として名を馳せます。光州事件後は、教員として働いた後、小説家としてデビューしています。1993年、パク・クァンス監督の誘いに応じ、脚本家として映画の世界に入り、1997年には「グリーン・フィッシュ」で監督デビューしています。「ペパーミント・キャンディー」には、監督が、民主化運動の活動家であったこと、小説家であったことが色濃く反映されていると思います。光州事件の捉え方、暗喩や伏線の多用もさることながら、時間軸の逆転などは見事なものです。時間軸に関しては、クリストファー・ノーランの「メメント」(2000)を思い起こさせますが、実は、この2本、ほぼ同時期に制作されています。

映画は、全7章で構成され、主人公が「帰してくれ!」と叫びながら鉄道自殺する第1章から、時代を遡っていき、20年前の第7章で終わります。人間は死ぬとき、人生が走馬灯のようによみがえるとも聞きます。2~7章は、死の直前の回想なのでしょう。ラストシーンでは、若い主人公が、20年後に自殺することになる鉄橋の下で涙を流します。あたかも20年後を予見したかのような涙は、ストーリーが循環するような印象を与えています。主人公が回想した人生は、韓国社会の現代史そのものでもあります。主人公が恋を知り、”人生は美しい”と夢見ていた20年前は、独裁者パク・チョンヒが暗殺され、皆が民主化を期待した頃です。しかし、チョン・ドファンが粛軍クーデターを起こし、民主化運動は弾圧され、国軍が国民に銃を向けた光州事件へと至ります。

徴兵された主人公が、暴動鎮圧の際、誤って女子高生を殺害する章が、光州事件を表わします。退役後、刑事になった主人公は、冷酷に民主化運動を弾圧します。これがチョン・ドファン政権時代を表わし、人が変わった主人公は、素直に恋人に向き合うことができなくなっています。刑事を辞めた主人公は、家具店を共同経営し、金の亡者となり、浮気し、浮気され、宗教を毛嫌いします。これが民主化宣言後に誕生したキム・ヨンサム政権時代を象徴しています。そして、主人公は、1997年のアジア通貨危機で全てを失い、自殺へと追い込まれます。興味深い点が二つあります。まずは、光州事件後の民主化運動によって誕生した文民政権を単純な勝利と礼賛せず、むしろ拙速にすぎた経済の民営化に批判的である点です。

そして、主人公に、帰りたい、と叫ばせた時代や対象は何かという点です。純真だった若い頃、あるいはパク・チョンヒ暗殺後のわずかな期間だとすれば、映画は意味を失います。帰りたいと願ったのは、朝鮮のあるべき姿ではないでしょうか。それは、あまりに幻想的な民族主義のように思えます。朝鮮は、他国の侵略や思惑に翻弄されてきました。小中華思想を掲げ中国に隷属した李氏朝鮮、日本による植民地化、東西冷戦の先兵として民族同士が戦った朝鮮戦争、その余波でもある軍事独裁、あるいはIMFによる管理。皮肉にも朝鮮の民族主義は、日本の植民地化によって生まれます。朝鮮の民族主義は、他民族を否定することで成り立つエスノセントリズムだと批判されます。李氏朝鮮が支配思想とした儒教における上下区分の重視が影響しているのでしょう。イ・チャンドンは、民族主義に関する描写を一切していません。この映画を通じて、朝鮮の民族主義をのあり方を問うているのかも知れません。(写真出典:eiga.com)

2023年7月3日月曜日

マイ・ファニー・ヴァレンタイン

若い頃の恋の高揚感を歌った曲は山ほどあります。そういう曲は、個人の甘酸っぱい思い出と重なり、忘れがたい一曲になるものです。「Somethin' Stupid(恋のひとこと)」も、そういった曲の一つだと思います。1967年、フランク・シナトラとナンシー・シナトラの親子デュエットで世界的なヒットとなりました。カーソン・パークスが作詞作曲し、妻とデュエットした曲のカヴァーです。人気者の彼女とデートできたら洒落たことを言おうと練習したのに、実際には、雰囲気を壊すようなバカなことを言ってしまう、例えば「I Love You」とか・・・。なんとも微笑ましい若い恋の歌です。今でも聞けば、ほのぼのとした幸せな気持ちになれる名曲です。この曲の色あせない魅力は、シナトラの声の心地良さにあると思います。 

フランク・シナトラと言えば、「ニューヨーク・ニューヨーク」、「夜のストレンジャー」、「マイ・ウェイ」などのヒット曲で知られる20世紀アメリカを代表するポップ・シンガーです。同時に、アカデミー賞を獲得した俳優でもあります。大統領やマフィアとも深く関係し、多くの女性と浮名を流し、若い女性のアイドルでもあり、実業家でもありました。たびたび訪れた低迷期から幾度も復活した奇跡のスターでもあります。太く、滑らかで、哀愁を含んだその声からして、”ザ・ヴォイス”とまで呼ばれました。声質だけでなく、あるいはそれ以上に歌唱力の見事さがシナトラの魅力です。低音でささやきかけるように歌うクルーナーと呼ばれる歌唱法は、歌に命を吹き込み、一つのドラマを作り上げます。

その歌唱力ゆえに、シナトラは、ジャズ・ヴォーカルの世界でも不世出のシンガーであり続けています。シナトラが歌えばスタンダード・ナンバーになるとも言われ、「枯葉」、「ニューヨークの秋」、「ナイト・アンド・デイ」、「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」、「パリの四月」等々、例をあげればキリがないほどです。なかでも「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は、その典型だと思います。もとは、1937年、リチャード・ロジャースとロレンツ・ハートがミュージカルのために書き下ろした曲です。その後、二人は、ジョン・オハラの短編小説「Pal Joey」をミュージカル化し、マイ・ファニー・ヴァレンタインを挿入歌とします。そして、「Pal Joey(邦題「夜の豹」)」は、1957年、シナトラ主演で映画化されます。

映画では、キム・ノヴァクが歌っています。もっともトゥルーディ・スティーブンスの吹き替えではありますが。その後、シナトラがレコーディングして、マイ・ファニー・ヴァレンタインは世界的にヒットします。短調なので、恋を失った女性が自嘲的にバレンタイン・デーを歌っているのだと誤解していました。しかし、実際には、器量は良くないけど最愛の恋人ヴァレンタインを、ヴァレンタイン・デーにかけて愛しく歌う曲でした。ヴァレンタインは男性名でも女性名でもあるので、男女いずれが歌う曲としても成立します。恋の歌をマイナーで書き上げるあたり、ロジャースとハートの天才を感じます。マイルス・デイビスやチェット・ベイカーの名演も有名ですが、両者とも訳ありのドラマを感じさせるブルーな演奏になっており、一層味わい深いものがあります。

ところで、ミュージカル映画「Pal Joey」は、ショー・ビジネスの世界を舞台に、シナトラ演じるいい加減だけど歌は抜群にうまいジョーイを巡る三角関係の話です。まさにシナトラそのものという設定です。NJ州ホーボーケンに育ったシナトラにとって、イタリアン・マフィアは環境そのものだったと言えます。最初の妻もマフィアの家族でした。フランシス・フォード・コッポラの名作「ゴッドファーザー」では、シナトラをモデルとした若い歌手が登場しますが、ほぼ実話だと言われます。酒まみれの放蕩三昧、懲りない女性遍歴、幾度も繰り返す凋落と復活、そうした様々な人生経験が、シナトラの声と歌い方を作ったということなのでしょう。二度と生まれることのないタイプの本当のスターだと思います。(写真出典:journalofmusic.com)

2023年7月1日土曜日

ばった屋

1980年代中盤、札幌でセールス・マネジャーをしておりました。その際のお客さまのなかに、ばった屋の社長がいました。気があったこと、営業所に近かったことから、よくお邪魔していました。ばった物を買うこともありましたが、ほとんどの場合、コーヒーをごちそうになりまがら、雑談していました。ばった物とは、正規品ながら正規のルートを通さずに仕入れた品物、あるいは偽物のことです。ばった屋は、それを安く販売するわけです。倒産したり、急に現金が必要になった小売店や卸業者が、ばった屋に商品を持ち込み、現金化します。取引価格は、もともとの仕入値を割ることが多くなります。小売店にとっては損を覚悟の話です。ただ、商売をしていると、背に腹はかえられない状況も起こるわけです。 

ばった屋には、缶詰の類いから、欧州ブランド品といった高級品まで、実に雑多な商品が持ち込まれます。当時、ブランド品は、結構、偽物も多く、お互いにそれを承知で取引されていました。値決めは、社長の目利き、販売・転売のしやすさが基本ですが、商品を持ち込む小売業の状況にも依ります。つまり、切羽詰まった状況では、買いたたかれるわけです。時には、ばった屋と商品を持ち込む人との信頼関係から、多少高めの買取価格もあり得ます。社長と雑談していると、よく小売業の方々が、いかにも訳ありといった風情で、裏口から入ってきたものです。私がいても、社長は、平気で商談をしていました。値決めの早さは見事なものです。早さが必要な状況でもありますが、経験と勘の成せるプロの技とも言えます。

商売の基本構図は、仕入値と売値の鞘を抜くことです。目の前で、根源的とも言えるシンプルな商取引が、至ってプリミティブに展開する様に、とても惹かれました。我が家は元々商家です。そのDNAが騒ぐのかも知れません。社長の巧みな交渉術にも感心しました。合理ベースながらも、巧みに脅しや同情を差し込み、有利な値決めを展開します。私が、面白がって交渉を聞いていると、社長は、よく値決めのコツ、流通業界の裏側、商品の見方などを話してくれました。ただ、社長の商売における基本スタンスは、人助け、持ちつ持たれつ、といったものでした。煎じ詰めれば”信用”ということにつきるのでしょう。いかに資金量が豊富なばった屋でも、暴利をむさぼるタイプの店には、いい品物は入ってこないのではないかと思います。

ブランドの模造品は、ばった物、あるいはパッチ物と呼ばれていました。社長も扱っていましたが、品質が高いものに限っていました。当時、中国からは粗悪な模造品、韓国からは精巧な偽物が入っていました。90年代に入ってから、ソウルへ行った際、イテウォン(梨泰院)のブティックに連れて行かれ、鍵のかかった奥の部屋に招き入れられました。紹介のあった客だけを入れる部屋だと聞きました。そこには良く出来た欧州ブランドの模造品が並んでいました。また、眠らない巨大卸売市場街であるトンデムンシジャン(東大門市場)では「本物の偽物あるよ」と声を掛けられ、大笑いしました。ブランドの模造品は、当時も違法でしたが、その後、著作権保護が強化され、少なくとも表面上は見かけなくなりました。

ところで、ばった屋という風変わりな言葉の由来ですが、様々な説があるようです。最もよく聞いた説は、倒産した店がバタバタと商品を処分する様から来ているというものです。他にも、行き当たりばったりの商売という意味、あるいは戦後の闇市で昆虫のバッタのように店を転々と移すことから生まれた言葉という説もあります。いずれにしても、ばった屋は、商売の世界で必要性が無くなることのない業態だと思います。近年でも、食品や日用品を扱うばった屋は見かけますが、小規模ながら何でも扱うばった屋は少なくなったように思います。代って目立つのは、大型のディスカウント・ストアです。天下のドンキホーテも、元はばった屋です。現在は、ばった物ばかりを扱っているわけではありませんが、ばった屋の役割も担っているように思えます。(写真:ドンキホーテの前身となるばった屋「泥棒市場」出典:ppih.co.jp)

夜行バス