4世紀に勃興したとみられるヤマト王権は、武力や饗応をもって、各地の豪族を支配下に取り込んでいきます。支配地域の拡大は、前方後円墳の分布によって確認できると言われます。仙台平野には5世紀前後に作られたと推定される前方後円墳が複数存在します。仙台平野以北では、6世紀前後の築造と推定される胆沢平野の角塚古墳があるのみであり、最北端の前方後円墳とされます。つまり、朝廷による東北への進出は、この時期から足踏みを始めたとも言えます。稲作が始まると、社会の組織化が進み、豪族が支配する”国”が各地に成立します。倭国が、国の連合体であったことは知られていますが、ヤマト王権の覇権も、各地の国を支配下におくことで成立します。
稲作は、2,500年前、津軽平野でも行われていました。ただ、広い平野が少なく、かつ寒冷な東北での稲作には限界があり、結果、地域を統括する国も未熟・未成立だったのでしょう。朝廷の支配地拡大の手法は、それまでと同じというわけにはいかなくなります。実害が無い限り、朝廷による支配地の拡大は、ここで、一旦、収束しても良かったはずです。ところが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した朝廷には、唐の侵略に備えるために、中央集権化を進め、税収の拡大を図る必要がありました。さらに、東北では、金山が相次いで発見されていたこと、半島の利権を失い新たな砂鉄の供給先を東北に求めたという説もあります。いずれにしても、蝦夷の征討は、朝廷にとって急務となったわけです。
蝦夷征討の拠点とされた多賀城でしたが、そう簡単に征討は進まず、802年、朝廷の切り札とも言える坂上田村麻呂が、10万とも言われる軍勢を率いて着任します。同年、アテルイを降伏させ、胆沢平野に進出した田村麻呂は胆沢城を築造します。翌年には、盛岡市近郊にまで進出し、志波城を建てます。ここで、朝廷の蝦夷征討は、一段落を迎えたわけです。一説によれば、手勢が千人に満たなかったアテルイは、田村麻呂の軍勢の多さ、そして建築途上だった胆沢城の規模の大きさを目の当たりにして降伏を決意したともされます。軍事拠点としての城柵ですが、政庁は、蝦夷の饗応にも活用されていたようです。まさに、朝廷の力を見せつける効果も、十分に考慮されていたということなのでしょう。
そもそも蝦夷とは、語源も、人種も、諸説あって判然としません。ただ、現在の関東以北に住んでいた人々を指していたことだけは間違いなさそうです。そして、稲作を主としない東北北部の人々は、特に”まつろわぬ民”と呼ばれることになります。”まつろわぬ”とは、言うことを聞かない、服従しない、といった意味です。気候・風土が異なれば、文化も異なります。文化の異なる東北北部と大和の間には、交流もあり、交易も行われていました。蝦夷が、朝廷側と争ったのは、朝廷が彼らの生活基盤を脅かした時だけです。異文化を蛮族と断じるのは、中国から移入された中華思想が背景にあったからなのでしょう。歴史は、常に勝者の歴史です。安全を脅かす蛮族だから征討するのではなく、彼らの恵みを手に入れたいからこそ、まつろわぬ民と呼び、征討するわけです。(写真:再現された多賀城南門 出典:kahoku.news)