「百年の孤独」は、ブエンディア家と架空の町マコンドの百年を描く物語です。それは南米の歴史そのものだと言われます。ただし、史実に基づく叙述ではなく、いわば精神における南米史であり、それも南米の人々にしか理解できないであろう感性に貫かれています。とりわけマジック・リアリズムと呼ばれる現実と幻想が渾然一体となった作風は、ガルシア・マルケス以降、南米文学を代表する特徴にまでなります。「百年の孤独」の映像化に関しては、著名な映画人によるオファーが殺到したにも関わらず、ガルシア・マルケスは全て拒否しています。この長い物語は、映画の枠内に収めることが難しく、またスペイン語以外の言語で映像化されることをガルシア・マルケスが嫌ったからだと言われます。それほどスペイン語は、重要な要素だったわけです。
寺山修司は、1984年、無許可で、舞台を日本に置換えた翻案版「さらば箱舟」を撮っています。寺山のテーマ性からして、「百年の孤独」に深く魅了されたことは理解できますが、舞台を日本に変えた時点で、まったくの別物になっています。今回のNetflix版が可能になった最大の理由は、配信シリーズという新たな映像表現によって長尺さがクリアできたことだと思います。また、監督のアレックス・ガルシア・ロペスは主に配信シリーズで活躍してきたアルゼンチン人ですが、他のキャストもスタッフも全てコロンビア人であり、ロケ地も全てコロンビア、言語は当然スペイン語となっています。まさに、ガルシア・マルケスの意向に沿ったものとなっているわけです。ガルシア・マルケスは、10年前に亡くなっていますが、版権を持つ息子たちが映像化を許可しました。
文学作品の映像化は限界があるものです。原作にインスパイアされた別物と考えるべきなのでしょう。しかし、本作は、かなり高いレベルで原作を映像化できていると思います。映像化にあたり、再現すべきものと捨てるべきものとの峻別が潔く出来ていると思います。美しい映像が伝える濃厚な空気感、キャストが醸し出すリアルさ、ナレーションの使い方の見事さ等もありますが、最も感心したのはテンポです。原作の持つ独特なテンポが再現されているように思います。そのテンポが、他の要素と相まって、独特な没入感を生んでいます。ガルシア・マルケスが、マジック・リアリズムを用いて表現したかった精神性を忠実に映像化することは難しいとしても、この南米的とも言える独特なテンポこそがシリーズの成功の鍵を握っているように思います。
「百年の孤独」は、アントニ・ガウディのサグラダ・ファミリアを思わせるものがあります。人、物、出来事の意味するところを読み解いていく楽しみにあふれていますが、それを簡単に許すような作品でもありません。恐らく”孤独”の意味するところを深く感じることこそ、作品の理解につながるのだと思います。ブエンディア家の人々の孤独、マコンドの孤独、そして南米の孤独。ガルシア・マルケスは、南米の悲しい歴史は、孤独の成せる業だと言っているように思えます。孤独が、いかにして持ち込まれ、いかにして人々を蝕み、いかにして社会を崩壊させていったのか。原作では、かすかではありますが、南米の再生への道が示されます。そこまで行かないとこの名作の映像化は意味を成さないと思います。シーズン2が待ち遠しいところです。(写真出典:cinemacafe.net)